伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

「五日卯時発す。三里諫早(いさはや)。四里矢上(やかみ)駅。一商家に宿す。海浜の駅にして蟹尤多し。家に入り席(むしろ)に上る。此辺より婦人老にいたるまで眉あり。此日暑甚し。晩雨あり。行程七里許。」
 欄外に女子の眉を剃らざる風俗の事が追記してある。「二十年前長崎の徳見某の妻京にゆくとて神辺(かんなべ)駅に宿す。四十許(ばかり)の婦人眉あるを見んとて、四五人其宿にゆき窓に穴して見たるに、眉はなくして他国の人にことならず。後にきけば上方にゆくものはしばらく剃おとすと云。」蘭軒が菅茶山などの話を思ひ出でて枳園(きゑん)に命じて記せしめたものか。
 蘭軒の長崎に著いた旅行の第四十六日は、即ち文化三年七月六日である。「六日卯時発。一里日見(ひみ)峠なり。険路にして天下の跋渉家九州の箱根と名(なづ)く。山を下るとき撫院を迎ふるもの満路、余が輩にいたりても名刺を通じて迎(むかふる)もの百有余人なり。無縁堂一の瀬八幡をすぎ長崎村桜の馬場新大工町馬町勝山町八百屋町を経て立山庁邸にいたり、午後寓舎に入る。此日暑甚し。行程三里許(きよ)。」
 長崎奉行の役所は初め本博多町の寺沢志摩守広高が勤番屋敷址にあつた。これを森崎に移したのが寛永十年である。寛文十一年に至つて、岩原郷(いははらがう)立山に地を賜はり、延宝元年に新庁が造られた。これより立山を東役所、森崎を西役所と云ふ。曲淵(まがりぶち)は此立山庁邸に入つたのである。東役所址は今の諏訪公園の南麓県立女子師範学校の辺に当る。
 長崎紀行は此に終る。末に伊沢蘭軒の自署と印二顆とがある。白文は伊沢信恬(のぶさだ)朱文は字澹父(あざなはたんふ)で、澹は水に従ふ字を用ゐてある。
 詩集には長崎に到つた時の作として、長崎二絶、港営(こうえい)、清商館(しんしやうくわん)、蘭商舘各一絶がある。長崎の一首と清商館の作とを此に録する。「長崎。隔歳分知両鎮台。満郷人戸有余財。繁華不減三都会。都頼年々舶商来。清商館。入門如到一殊郷。比屋通街居舶商。西土休誇文物美。逸書多在我東方。」鎮台は奉行である。逸書の七字は蘭軒の手に成つて殊に妙を覚える。
 此より以下客崎(かくき)詩稿中に就いて月日を明にすべきものを拾つて行くことゝする。
 八月十四日に江戸御茶の水の料理店で、大田南畝が月を看て詩を作り、蘭軒に寄せ示した。南畝は長崎の出役を命ぜられたのが二年前であるから、丁度蘭軒と交代したやうなものである。書中には定めて前年の所見を説いて、少(わか)い友人のために便宜を謀つたことであらう。蘭軒が長崎にあつてこれに和した詩は、「風露清涼秋半天」云々の七律である。当時南畝が五十八歳、蘭軒が三十歳であつた。
 十五日には蘭軒が「中秋思郷」の七絶を作つた。「各処歓歌風裏伝。雲収幽岫月皎然。一千里外家山遠。応照団欒内集筵。」
 十七日には月前に詩を賦して江戸の友人に寄せた。「八月十七夜、対月寄懐木駿卿柴担人、去年此夜与両生同遊皇子村、駿卿有秋風一路稲花香句。村店浦笛夜清涼。窓竹翻風月満房。去歳今宵君記否。酔帰郊路稲花香。」駿卿(しゆんけい)は木村定良(さだよし)で前にも見えてゐる。担人(たんじん)は未だ考へない。
 九月の初に蘭軒は病のために酒を断つてゐたらしい。「九日。病余休酒怯秋風。佳節登高興政空。想得萱堂抱穉子。買花乱插小瓶中。」蘭軒の想像した家庭では、五十七歳の母曾能(その)が二歳の常三郎を抱いて菊を活けてゐた。しかし曾能は或は既に病褥にあつたかも知れない。後二月にして客遊中の子を見ること能はずして歿したからである。

     その五十一

 蘭軒が長崎に来た文化三年の九月十三日は後の月が好かつた。「十三夜偶成。瓊浦山環海似盤。参差帆外月輪寒。半宵偏倚南軒柱。抛却許多郷思看。」郷思は容易に抛ち得て尽きなかつたらしい。
 十三夜の詩の次に石崎鳳嶺に次韻した作がある。鳳嶺は千秋亭観月の詩を扇に題して、持つて来て見せた。月日は詳(つまびらか)にすることが出来ぬが、後の月よりは更に後の事であつただらう。「石崎士整与諸子同千秋亭賞月、題詩扇面、携来見示、即次韻。黄□秋醸熟盈瓶。乗月諸賢叩野□。恰好清談親対朗。更教妙画酔通霊。曲渓泉響添幽趣。叢桂花開送遠馨。扇面写来良夜興。新詩標格自亭亭。」士整(しせい)の下に「名融思(なはゆうし)、号鳳嶺(ほうれいとがうす)、観画吏(くわんぐわのり)、善詩画(しぐわをよくす)」と註し、又観画吏の傍(かたはら)に唐画目利(たうゑめきゝ)と朱書してある。
 鳳嶺の事は田能村竹田(たのむらちくでん)の竹田荘師友画録及竹田荘詩話に見えてゐる。画録に云く。「石融思。鎮之老画師也。予相識最旧。与渡辺鶴洲。為書画目利職。掌検閲清舶所齎古今書画。辨真贋定価直事。又鎮台有絵事。則必与焉。如中川侯之清俗紀聞、遠山侯之全象活眼此也。旁善西洋画。其子融済。亦善画。不墜家声矣。」詩話には士整が「士斉」に作つてある。そして「詩非其所長、故不録」と云つてある。竹田は鳳嶺の画を取つて其詩を取らなかつたものと見える。しかし猶これを待つに読書家を以てするを吝(をし)まなかつたことは、「贈瓊浦石崎君」の作に徴して知られる。「聞君踪跡不尋常。杜絶柴門読老荘。三尺枯桐焦有韻。千年古柏朽生香。松花院静落鋪径。※[#「題」の「頁」に代えて「鳥」、7巻-102-上-1]□簾低声入堂。相思魚箋題句了。已看簷隙満蟾光。」
 画録に載(の)する所の鳳嶺が同僚渡辺鶴洲は本(もと)小原氏、京都より長崎に徙(うつ)つた小原慶山の後だと、同じ画録に見えてゐる。しかし屠赤瑣々録(とせきさゝろく)には慶山の子は勘八、其裔(すゑ)は書物目利役某で、鶴洲は只長照寺の慶山の墓を祭つてゐるのだと云つてある。前者は天保四年に成り、後者は早く文政二年に集録したものだと云ふから、晩出の画録に従ふべきであらう。しかし長崎の人の記載に、「小原慶山、又渓山に作る、字は霞光、丹波の人、元禄中長崎絵師兼唐絵目利に任官、其子小原勘八、名は克紹、巴山と号す、聖堂書記役なり」と云つてある。屠赤瑣々録の文も遽に排斥すべきでは無い。竹田は小原、大原と二様に書してゐるが、小原が正しいらしい。
 これも九月中の事であらう。蘭軒は長川正長(ながかはせいちやう)の菊の詩に次韻した。正長、字(あざな)は補仁(ほじん)、観書の吏である。「六月拾遺菊於街上。植之園中。培養得功。遂至季秋。著花黄白両種。香満籬笆。」正長は七絶三首を作り、蘭軒はこれに和したのである。詩は略する。
 十月三日に蘭軒は文筆峰(ぶんひつほう)に登つた。「十月三日登文筆峰、帰路過茂樹六松蓼原諸村」として七絶三首がある。今其一を録する。「登臨文筆最高巓。勝景来供岩壑前。鏡様蒼溟拳様島。卸帆□浙数州船。」茶山の集に「次韻伊沢澹父登文筆峰」として二絶が見えてゐる。「尋石聴禽到絶巓。忽驚大観落尊前。雲濤北擁三韓地。帆席西来百粤船。」「酔対空洋踞絶巓。風帆直欲到尊前。傍人相指還相問。底是呉船是越船。」
 十一月二十二日に江戸で蘭軒の母が歿した。隆升軒信階の妻伊沢氏曾能で、所謂(いはゆる)家附の女(むすめ)である。年は五十七歳であつた。法諡(はふし)を快楽院是参貞如(けらくゐんぜさんていによ)大姉と云ふ。先霊名録には快楽院が快楽室に作つてある。伊沢分家の古い法諡に、軒と云ひ室と云つて、ことさらに院字を避けたらしい形迹のあるのは、伊藤東涯の「本天子脱□之後、居于其院、故崩後仍称之、臣下貴者亦或称、今斗□之人、父母既歿、必称曰某院、尤不可也、蓋所謂窃礼之不中者也、有志者忍以此称其親也哉」と云つた如く俗を匡(たゞ)すに意があつたのではなからうか。
 曾能は歴世略伝に拠るに、一子二女を生んだ。蘭軒と幾勢(きせ)、安佐(あさ)の二女とである。幾勢は蘭軒の姉であるが、安佐は其序次を詳にすることが出来ない。只安佐の生れたのが幾勢より後れてゐたことだけは明である。先霊名録に「知遊童女、隆升軒末女安佐、安永八年己亥十一月」として十日の条に載せてある。安永八年には幾勢は九歳、蘭軒は三歳であつた。末女とあるから幾勢より穉(をさな)かつたことは知られるが、蘭軒と孰(いづれ)か長孰か幼なるを知ることが出来ない。
 曾能の臨終には、定て三十六歳の幾勢が黒田家に暇を請うて来り侍してゐたであらう。これに反して三十歳の蘭軒は三百里外にあつて、母の死を夢にだに知らずにゐた。

     その五十二

 文化四年の元旦は蘭軒が長崎の寓居で迎へた。此官舎は立山の邸内にあつて、井の水が長崎水品の第一と称せられてゐたと云ふことが、徳見□堂(とくみじんだう)を接待した時の詩の註に見えてゐる。
 此年の最初の出来事にして月日を明にすべきものは明倫堂の釈奠(さくてん)である。明倫堂と云ふ学校は金沢、名古屋、小諸、高鍋(たかなべ)等にもあるが、長崎にも此名の学校があつた。山口、倉敷の学校は同じく明倫と名けたが、堂と云はずして館と云つた。わたくしは※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-103-下-12]詩集に於て明倫堂の名を見て、萩野由之(はぎのよしゆき)さんに質(たゞ)し、始て諸国に同名の黌舎(くわうしや)があつたことを知つた。
 長崎の明倫堂は素(もと)立山にあつたが、正徳元年中島鋳銭座址(ちうせんざし)に移された。当時祭酒を向井元仲と云つて、此年に堂宇を重修(ちようしう)することになつてゐた。
 蘭軒は恰も好し春の釈奠の日に会して、向井祭酒を見、又高松南陵の講書を聴いた。
 蘭軒の釈奠の詩は二首あつて、丙寅の冬「聞雪」の作と、丁卯の春徳見□堂に訪はれた作との間に介(はさ)まつてゐる。そこでわたくしはこれを春の釈奠と定めた。釈奠は春二月と秋八月とに行ふもので、上丁(しやうてい)の日に於てする。萩野さんに質すに、朝廷の例が上丁であるゆゑ、武家はこれを避けて中丁とした。しかし往々上丁を以てしたこともあるさうである。わたくしは姑(しばら)く長崎明倫堂の丁卯春の釈奠は中丁を以てしたものと定める。
 さて暦を繰つて見れば、文化四年二月の丁日は五日、十五日、二十五日であつた。中丁は即ち二月十五日である。
 蘭軒は二月十五日に明倫堂に上つて釈奠の儀に列した。「明倫堂釈菜席上贈祭酒向井元仲。瓦屋石階祀聖堂。百年経歴鎮斯郷。遺言総是乾坤則。明徳長懸日月光。匏竹迎神声粛調。粢盛在器気馨香。更忻世業君能継。今歳重修数仞墻。」向井元仲の下に「名富(なはふ)、字大賚(あざなはたいらい)」と註し、又第八の下に「今年有堂宇重修之挙、故云」と註してある。
 向井元仲は霊蘭の裔(すゑ)である。霊蘭元升は肥前神崎郡酒村の人向井兼義の孫であつた。兼義の次男が由右衛門兼秀で、兼秀の次男が霊蘭であつた。霊蘭は薙髪(ちはつ)して医を業としてゐたが、万治元年に京都に徙(うつ)り、伊勢大神宮に詣でて髪を束ねた。霊蘭に五子四女があつた。長子仁焉子元端は一に雲軒と号し、医を以て朝に仕へ、益寿院と称した。長女春は早世した。二子義焉子元淵、名は兼時、小字(をさなな)は平二郎、後俳人落柿舎去来となつた。二女佐世は宇野氏に嫁した。三子礼焉子元成は一に魯町(ろてい)と号して儒となつた。通称は小源太であつた。四子智焉子利文、通称は七郎左衛門、出でて久米氏を嗣いだ。三女千代は清水氏に嫁した。田能村竹田の記に霊蘭の女千子(せんこ)が俳諧を善くしたと云ふのは此人か。五子信焉子兼之は通称城右衛門であつた。四女は八重と云つた。元成は延宝七年に長崎に還り、陸□軒(りくちんけん)南部草寿の後を襲いで、立山の学職に補せられた。元成より兼命元欽を経て兼般元仲に至り、元仲の後兼美、兼哲、兼通、兼雄を経て今の向井兼孝さんに至つたのださうである。
 蘭軒が元仲に贈つた詩の後に、又七律一首がある。「同前席上呈南陵高松先生、是日先生説書。久聞瓊浦旧儒宗。今日明倫堂上逢。霽月光風存徳望。霜鬚仙眼見奇容。詩書講義人函丈。音韻闡微誰比縦。桃李君門春定遍。此身覊絆奈難従。」南陵高松先生の下(しも)に「先生名文熈(なはぶんき)、字季績(あざなはきせき)、於音韻学尤精究、釈文雄(しやくぶんゆう)以来一人也」と註してある。
 竹田詩話に「余遊鎮、留僅一旬、所知唯四人、曰迂斎、東渓、南陵、石崎士斉、而南陵未及読其作」と云つてある。迂斎は吉村正隆、東渓は松浦陶である。南陵は此高松文熈であらうか。
 蘭軒は南陵を以て文雄以来の一人だとしてゐる。文雄の事は細説を須(ま)たぬであらう。磨光韻鏡等の著者で、京都の了蓮寺、大坂の伝光寺に住してゐた。字は豁然(くわつねん)、蓮社と号し、又了蓮寺が錦町にあつたので、尚絅堂(しやうけいだう)と号した。多く無相の名を以て行はれてゐる。

     その五十三

 此年文化四年に蘭軒は長崎にあつて底事(なにごと)を做(な)したか、わたくしはこれを詳(つまびらか)にすることが出来ない。※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-105-下-13]詩集を検するに、その交つた人々には徳見□堂(じんだう)があり、劉夢沢(りうむたく)があり、長川某がある。又春風頼惟疆(しゆんぷうらいゐきやう)の来り訪ふに会した。清人(しんひと)にして蘭軒と遊んだものには、先づ伊沢信平さんの所蔵の蘭軒文集に見えてゐる張秋琴(ちやうしうきん)がある。次に程赤城(ていせきじやう)があり、胡兆新(こてうしん)があると、歴世略伝に見えてゐる。又わたくしが嘗て伊沢良子刀自を訪うて検し得た文書の中に、陸秋実(りくしうじつ)といふものの蘭軒に次韻した詩があり、柏軒門の松田道夫(だうふ)さんの話には江芸閣(こううんかく)も亦蘭軒と交つたさうである。
 徳見□堂、名は昌(しやう)である。「長崎宿老」と註してある。「春日徳見□堂来訪、手携都籃煮茶、賦謝」として七絶一首が集に載せてある。蘭軒の寓舎の井水(せいすゐ)が長崎水品の第一だと云ふことは、此詩の註に見えてゐる。
 劉夢沢は長崎崇福寺の墓に山陽の撰んだ碑陰の記がある。「諱大基。字君美。号夢沢。通称仁左衛門。家系出於彭城之劉。因氏彭城。世為訳吏。君独棄宦。下帷授徒。多従学者。文政三年庚辰十月廿九日病歿。享年四十三。友人藝国頼襄惜其有志而無年也。為識其墓如此。」蘭軒の集には、「劉君美春夜酔後過丸山花街、忽見一園中花盛開、遂攀樹折花、誤墜園中、有嫖子数人来叱、看之即熟人也、君美謝罪而去云、詩以調之」として七絶が二首ある。其一に「謾被誰何君莫怪、仙□旧自識劉郎」の句がある。
 長川某との応酬には、「賦蘭、寿長川翁」の五律がある。上(かみ)に見えた長川正長(せいちやう)と同人か異人かを詳にしない。
 張秋琴には二月に面晤した。蘭軒がこれに与ふる書にかう云つてある。「今年二月詣館中也。訳司陳惟賢引僕見先生。僕層々喜可知。当日戯曲設場。観者群喧。故不得尽其辞。(中略。)夫説書之業。漢儒専於訓詁。宋儒長於論説。而晋唐者漢之末流。元明者宋之余波也。至貴朝。則一大信古考拠之学。涌然振起。注一古書。必讐異於数本。考証於群籍。以僕寡見。且猶所閲。有山海経新校正。爾雅正義。明道板国語札記。大戴礼補註。古列女伝考証。呂覧墨子晏子春秋等校注。是皆不以臆次刪定一字。而讐異考証。所至尽也。不似朱明澆薄之世。妄加殺青。古書日益疵瑕也。只怪未見古医書之有考証者。近年有楓橋周錫□所刻華氏中蔵経。全拠宋本。而其脱文処。由呉氏本補入。毎下一按字以別之。不敢混淆。雖未得考拠之備。蓋信古者也。其他似斯者。亦無見矣。謹問貴邦当時医家者流。於信古考証之学。其人其書。有何等者歟。」わたくしは張の奈何(いか)に答へたかを知らない。蘭軒を張に紹介した陳惟賢(ちんゐけん)も或は清客か。
 程霞生赤城、一字(じ)は相塘(しやうたう)である。屡(しば/\)長崎に来去して国語を解し諺文(げんぶん)を識つてゐた。「こりずまに書くや此仮名文字まじり人は笑へど書くや此仮名」とか云ふ歌をさへ作つた。程の筆迹は今猶存してゐて、往々見ることがあるさうである。
 胡振、字は兆新、号は星池である。医にして書を善くした。江戸の人秦星池(はたせいち)は胡の書法を伝へて名を成したのだと云ふ。「星池秦其馨、書法遒逸、名声日興、旧嘗遊崎陽、私淑呉人胡兆新、遂能伝其訣、独喜使羊毫筆」と五山堂詩話に見えてゐる。山陽と陸如金(りくじよきん)と云ふものとの筆話に胡に言及し、「施薬市上」と云つてある。
 陸秋実の詩箋は、わたくしは一読過して鈔写するに及ばなかつた。
 江稼圃(こうかほ)、芸閣の兄弟は清商中善詩善画を以て聞えてゐたと云ふ。松田道夫さんの話に、蘭軒が筆話の序に、国自慢の詩を書して示すと、程であつたか江であつたか、「江戸つ子ちゆうつ腹」と連呼したと云ふことである。恐くは彼「西土休誇文物美、逸書多在我東方」の一絶であらう。以上の数人の長崎に来去した年月は、必ずや記載を経てゐるであらう。願はくはそれを見て伝聞の確なりや否やを知りたいものである。
 頼春風は蘭軒を立山の寓舎に訪うた。「安藝頼千齢西遊来長崎、訪余客居、喜賦。遊跡遙経千万峰。尋余客舎暫停□。対君今日称奇遇。兄弟三人三処逢。」長春水惟完(ゐくわん)を広島に見、仲春風惟疆を長崎に見、季杏坪惟柔(ゐじう)を江戸に見たのである。
 蘭軒は此年何月に至るまで長崎に淹留(えんりう)したか、今これを知ることが出来ない。その長崎を去つた日も、江戸に還つた日も、並に皆不明である。しかしわたくしは此年八月十九日に蘭軒がまだ江戸にゐなかつたことを知つてゐる。それは後に云ふ所の留守中の出来事が、分明に八月十九日の事たるを徴すべきであるからである。
 既に蘭軒が八月十九日に未だ家に還らなかつたことを知れば、其父信階(のぶしな)が留守中に死んだことも亦疑を容れない。
 蘭軒の父隆升軒信階は此年五月二十八日を以て本郷の家に歿した。其妻に後るゝこと半年であつた。寿を得ること六十四、法諡(はふし)して隆升軒興安信階居士と云つた。蘭軒は足掛二年の旅の間に、怙恃(こじ)併せ喪つたのである。
 信階の肖像は阿部家の画師村片相覧(むらかたあうみ)の作る所で、今富士川游さんの手に帰してゐる。わたくしは良子刀自の蔵する所の摸本を見た。広い□(ひたひ)の隆起した、峻厳な面貌であつたやうである。村片は古□(こたう)と号して、狂歌狂句をも善くしたことが、伊沢分家所蔵の荏薇(じんび)贈答に見えてゐる。
 わたくしは此に上(かみ)に云つた八月十九日の出来事を記すこととする。分家伊沢の人々は下(しも)の如くに語り伝へてゐる。蘭軒の長崎へ往つた留守中に深川八幡宮の祭礼があつて、榛軒(しんけん)の乳母の夫が近在から参詣に来た。蘭軒の妻益は乳母に、榛軒を背に負うて夫と倶に深川に往くことを許した。然るに榛軒は何故か急に泣き出して、いかに慰めても罷めなかつた。乳母はこれがために参詣を思ひ留まり、夫も昼四時(よつどき)前に本郷を出ることを得なかつた。これが永代橋の墜ちた時の事だと云ふのである。

     その五十四

 此年文化四年の深川の八幡宮の祭は八月十五日と定められてゐた。隔年に行はるべき祭が氏子の争論のために十二年間中絶してゐたので、此年の前景気は非常に盛であつた。然るに予定の日から雨が降り出して、祭が十九日に延びた。当日は「至つて快晴」と明和誌に云つてある。江戸の住民はいふもさらなり、近在の人も競つて祭の練物(ねりもの)を看に出た。「昼四時霊巌島の出し練物永代橋の東詰まで来りし時、橋上の往来駢□(へんてん)群集の頃、真中より深川の方へよりたる所三間許(ばかり)を踏崩したり。次第に崩れて、跡より来るものもいかにともする事ならず、いやが上に重りて落掛り水に溺る。」伊沢氏の乳母と夫とは、穉(をさな)い榛軒(しんけん)が泣いたために、此難を免れたのである。当時伊沢氏の子供は榛軒の棠助(たうすけ)が四歳、常三郎が三歳であつた。益は棠助を乳母に託して、自ら常三郎を養育してゐたのであらうか。
 蘭軒は長崎から還つた。其日は八月二十日より後であつた。此時に当つて蘭軒を薦めて幕府の医官たらしめようとしたものがあつた。しかし蘭軒は阿部家を辞するに忍びぬと云つて応ぜなかつた。
 ※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-109-下-10]詩集には客崎(かくき)詩稿の次に、森枳園(きゑん)の手迹と覚しき文字で文化四年丁卯以後と朱書してある。此処に秋冬の詩が三首あつて、此より春の詩に移る。春の詩の中には戊辰の干支を記したものがある。わたくしは姑(しばら)く右の秋冬の詩を此年文化四年帰府後の作として視る。
 蘭軒は八九月の交に病んで、次で病の痊(い)ゆるに及んで、どこか田舎へ養生に往つてゐたかと思はれる。「山園雑興」の七律に、「病余只苦此涼秋」の句がある。
 季冬には蘭軒が全く本復してゐた。十二月十六日は立春で、友人の来たのを引き留めて酒を供した。「此日源士明、木駿卿、頼子善来話。昨来凝雪尚堆蹊。不惜故人踏作泥。□酒交濃忘味薄。瓶梅春早見花斉。欲添炭火呼家婢。更□菜羮問野妻。品定吾徒詩格罷。也評痴態没昂低。」
 源士明(げんしめい)は植村氏、名は貞皎(ていかう)、通称は彦一、江戸の人である。駿卿(しゆんけい)は木村定良(さだよし)、子善(しぜん)は頼遷(らいせん)で、並に前に出てゐる。
 蘭軒雑記に士明の名が見えてゐる。それは或俚諺(りげん)の来歴を語つてゐるのである。「源士明いはく。俗に藪の中香々(かう/\)といふ事あり。人熱田之事をひけどもさにあらず。傭中之佼々(ようちゆうのかう/\)といふ語の転音ならむ」と云ふのである。やぶのなかのこうのものと云ふ語は、古来随筆家聚訟(しうしよう)の資となつてゐる。わたくしは今ことさらにこれを是非することを欲せない。しかし士明の説の如きは、要するに彼徂徠の南留倍志(なるべし)系に属する。此系は今猶連綿として絶えない。最近松村任三さんの語源類解の如きも、亦此源委(げんゐ)の一線上に占位すべき著述である。
 頼家では此年春水が禄三十石を増されて百五十石取になつた。
 文化五年には先づ「春遊翌日贈狩谷卿雲」の二絶がある。想ふに同行翌日の応酬であらう。近郊の花を看て、帰途柳橋辺で飲んだものかと推せられる。但近郊が向島でなかつたことは後に其証がある。「籬落春風黄鳥声。淡烟含雨未酣晴。日長踏遍千花海。晩向垂楊深巷行。」「解語新花奪酔魂。翠裳紅袖映芳尊。朝来総似春宵夢。贏得軽袗飜酒痕。」
 三月中に蘭軒は居を移した。伊沢分家の口碑には、此遷移の事が伝へられてゐない。集に載(の)する二律に「戊辰季春移居巷西」と題してあり、又「巷西□地忽移家」の句もある。新居は旧居の西に当つてゐたが、相距(さ)ること遠からず、或は町名だに変らなかつた位の事であらう。敷地は借地であつた。「借地開園方十歩」の句がこれを証する。家は前より広くなつたが、随つて相応に費用もかかつた。「今歳掃空強半禄、書斎薬室得微寛」の句がこれを証する。

     その五十五

 此年文化五年の夏蘭軒は墨田川に納涼(すゞみ)舟を泛べた。「夏日墨水舟中。抽身忙裏恰逢晴。潮満長江舟脚軽。西土帰来猶健在。復尋鴎鷺旧時盟。又。回風小艇自横斜。夏月遊宜在水涯。蘆岸柳堤行欲尽。一村開遍合歓花。」自註に云く。「余在西崎二年。帰後已一年。此日始来此地。顧思前遊。有如隔世。故云。」蘭軒の長崎行は往つた時が記してあつて、反つた時が記してない。蘭軒は文化三年五月十九日に江戸を発し、七月六日に長崎に著いた。そしてその江戸に帰つたのは四年八月二十日後であつたらしい。さうして見れば蘭軒は十五箇月以上江戸を離れてゐた。十二箇月以上長崎に留まつてゐた。此期間が余り延びなかつたことは、帰府後の秋の詩があるのを見て知られる。今「在西崎二年」と云つてあるのは、所謂(いはゆる)足掛の算法である。又「帰後已一年」と云つてあるのも、十二箇月に満ちた一年とは看做(みな)されない。したがつて切角の自註が考拠上に大(おほい)なる用をばなさぬのである。只前(さき)に狩谷□斎に贈つた此年の春遊の詩が、向島の遊を謂ふのでなかつたことのみは、此に拠つて証せられる。
 夏の詩の後、秋の詩の前に、植村貞皎(ていかう)の大坂に之(ゆ)くを送る詩がある。「源士明将之浪華、臨別詩以為贈。瀕海浪華卑湿郷。為君将道避痾方。酒宜微飲魚無飽。食飼案頭不撤姜。」医家の手に成つた摂生の詩である。
 秋に詩が四首ある。「秋晴」の五律の自註を見るに、此秋は雨のために酒の舟が入らなかつた。「今歳夏秋之際、霖雨数月、酒舸不漕港、以故都下酒価頗貴」と云ふのである。武江年表を検するに、閏(うるふ)六月より八月に至るまで雨が多く、七月二十五日の下に「酒船入津絶えて市中酒なし」と書してある。
「秋園詠所見」の詩の中に藤袴(ふぢばかま)の一絶がある。「蘭草。世上栽蘭各自誇。蜂英菖葉映窓紗。要知楚□真香物。請看簇生浅紫花。」蘭軒は後文政四年に長子榛軒(しんけん)と倶に再び蘭草を詠じた。「蘭花。元是清高楚□芳。細花尖葉露□々。奈何幽致黄山谷。不賞真香賞贋香。」此詩の下(しも)に自註がある。「世以幽蘭。誤為真蘭。西土已然。真蘭俗名布知波加末者是也。白楽天詩。蘭衰花始白。孟蜀韓保昇云。生下湿地。葉似沢蘭。尖長有岐。花紅白色而香。即是合所謂布知波加末者。而山谷云。一幹一花為蘭。是今所謂幽蘭也。世人襲誤。真蘭遂晦。但朱子楚辞辨証云。古之香草。必花葉倶香。而燥湿不変。故可刈佩。今之蘭□。但花香。而葉乃無気。質弱易萎。不可刈佩。必非古人所指。陳間斎亦云。今人所種如麦門冬者。名幽蘭。非真蘭也。朱陳二説。可謂為真蘭禦侮矣。今余詩聊寓復古之意云。」蘭軒と同じく此復古を謀つたものには狩谷□斎がある。「楚辞にいふらには今云ふ藤ばかま今いふ蘭(らに)は何といふらむ」の三十一字は、その嘗て人に答へた作である。しかし此の如く古の蘭草のために冤を洗ふことは、蘭軒□斎等に始まつたのでは無い。単にわたくしの記憶する所を以てしても、貝原益軒の如きは夙(はや)く蘭の藤袴なることを言つてゐた。
 蘭軒は道号に蘭□等の字を用ゐたので、特に蘭草のために多く詞を費すことを厭はなかつたのである。村片相覧(むらかたあうみ)の作つた蘭軒の画像には、背後の磁瓶(じへい)にふぢばかまの花が插してある。村片は信階(のぶしな)信恬(のぶさだ)二世の像を作つた。蘭軒の像の事は重て後に言ふこととする。
 わたくしは※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-113-上-2]詩集に阿部侯棕軒(そうけん)の評語批圏のあることを言つたが、侯の閲を経た迹は此年の秋の詩に至るまで追尋することが出来る。是より以下には菅茶山の評点が多い。
 冬の詩は五首ある、十月には蘭軒が病に臥してゐた。「病中雑詠。空負看楓約。抱痾過小春。酒罌誰発蓋。薬鼎自吹薪。業是兼旬廃。家方一段貧。南窓炙背坐。独有野禽親。」業を廃し□(しよ)を失つたと云ふを見れば、病は稍重かつたであらう。
 蘭軒の病は十一月後に□(い)えてゐた。冬の詩の中には「雪中探梅」の作もある。
 此年蘭軒の家庭は主人三十二歳、妻益二十六歳、嫡子棠助(たうすけ)五歳、次子常三郎四歳の四人から成つてゐた。

     その五十六

 文化六年の春の初には、前年の暮に又病んでゐた蘭軒が回復したらしい。「早春登楼」の詩に「蘇暄身漸健、楼上試攀躋」と云つてある。蘭軒は此(かく)の如く忽ち病み忽ち□(い)ゆるを常としてゐたが、その病める間も大抵学業を廃せず往々公事をも執行してゐた。次年以下の勤向覚書を検すれば、此間の消息を知ることが出来る。
 二三月の交であらう。蘭軒の外舅(ぐわいきう)飯田休庵が七十の賀をした。「歌詠学成仙府調、薬丹伝得杏林方」は蘭軒が贈つた詩の頷聯である。わたくしは休庵が事迹の徴すべきものがあるために、故(ことさら)に此二句を録する。歌詠の句の下に蘭軒は「翁嘗学国歌于亜相冷泉公」と註してゐる。休庵信方(のぶかた)の師は恐くは冷泉為泰(れいぜいためやす)であらう。祝髪後等覚(しゆくはつごとうがく)と云つた人である。
 三月十三日に蘭軒は詩会を家に催した。「三月十三日草堂小集」の七律がある。「会者七人。犬塚印南、頼杏坪、石田梧堂、鈴木暘谷、諸葛某、木村文河、頼竹里也。」
 印南(いんなん)、杏坪(きやうへい)、文河(ぶんか)、竹里(ちくり)は既に上(かみ)に見えてゐる。文河は定良(さだよし)、竹里は遷(せん)である。
 石田梧堂、名は道(だう)、字(あざな)は士道と註してある。秋田の人であらう。茶山集甲子の詩に「題文晁画山為石子道」の七律、丁丑の詩に「次梧堂見寄詩韻兼呈混外上人」の七絶、庚辰の詩に「題石子道蔵松島図」の七古がある。家は不忍池の畔(ほとり)にあつたらしい。
 鈴木暘谷(やうこく)は名は文、字は良知と註してある。皇国名医伝には名は素行と云つてある。博学の人で、殊に本草に精しかつた。読書のために目疾を獲たと伝へられてゐる。
 諸葛(もろくず)某は或は琴台(きんたい)ではなからうか。手近にある二三の書を検するに、琴台の歿年は文化四年、七年、十年等と記してある。七年を正とすべきが如くである。果して然りとすると、此筵に列する後一年にして終つたのである。
 此春蘭軒が柴山謙斎の家の詩会に□(のぞ)んで作つた詩がある。謙斎は其人を詳(つまびらか)にしない。蘭軒の交る所に前に柴担人(さいたんじん)がある。人物の同異未詳である。
 夏の初と覚しき頃、蘭軒は又家を移した。しかし此わたましの事も亦伊沢分家の口碑には伝はつてゐない。「移家湖上。択勝構成湖上家。雨奇晴好向人誇。緑田々是新荷葉。白□々為嫩柳花。烟艇載歌帰遠浦。暮禽連影落平沙。童孫采得※[#「くさかんむり/純」、7巻-114-下-10]糸滑。菜品盤中一雋加。」時は蓮葉の開いて水面に浮び初むる比、所は其蓮の生ずる湖の辺(ほとり)である。或は此家は所謂「湯島天神下薬湯」の家かとも疑はれる。しかし蘭軒の語に分明に「移家」と云ひ、「構成湖上家」と云ふを見れば、どうも薬湯の家とは認め難い。わたくしは姑(しばら)く蘭軒が一時不忍の池の辺に移住したものと看做(みな)して置きたい。但蘭軒は久しく此に居らずに、又本郷に還つたらしい。
 五月七日に蘭軒の師泉豊洲が歿した。年は五十二歳、身分は幕府先手与力(さきてよりき)の隠居であつた。先妻紀(き)平洲の女(ぢよ)は夫に先(さきだ)つて歿し、跡には継室麻田氏が遺つた。紀氏は一男一女を生んで、男は夭し、麻田氏は子がなかつた。
 豊洲は浅草新光明寺に葬られた。伊沢総宗家の墓のある寺である。豊洲の墓は墓地の中央本堂に近い処にある。同門の友人樺島石梁(かばしませきりやう)がこれに銘し、阿部侯椶軒(そうけん)が其面に題した。碑陰に書したものは黒川敬之である。豊洲の墓は幸にして猶存じてゐるが、既に久しく無縁と看做されてゐる。久しく此寺に居る老僕の言ふ所によれば、従来豊洲の墓に香華(かうげ)を供したものはわたくし一人ださうである。
 樺島石梁、名は公礼、字(あざな)は世儀(せいぎ)、通称は勇七である。豊洲が墓には「友人久留米府学明善堂教授樺島公礼銘」と署してゐる。

     その五十七

 此夏、文化六年の夏、蘭軒は石坂白卿(はくけい)と石田士道との家に会して詩を賦した。士道は上(かみ)に見えた梧堂であるが、白卿は未だ考へない。梧堂の居る所は小西湖亭と名づけ、蘭軒の詩にも「門蹊欲転小天台、窓歛湖光三面開」と云つてあるから、不忍池の上(ほとり)であつただらう。若し蘭軒の新に移り来つた湖上の家が同じく不忍池の畔(ほとり)であつたなら、両家は相距(さ)ること遠くなかつたかも知れない。蘭軒が詩の一には「酔歩重来君許否、観蓮時節趁馨香」の句もある。梧堂は恐くは蘭軒と同嗜の人であつただらう。わたくしは「箇裏何唯佳景富、茶香酒美貯書堆」と云ふより此(かく)の如く推するのである。
 茶山の集には此秋に成つた「寄蘭軒」と題した作がある。「一輪明月万家楼。此夜誰辺作半秋。茗水茶山二千里。無人相看説曾遊。」
 秋冬の蘭軒が詩には立伝の資料に供すべきものが絶て無い。しかし次年二月に筆を起してある勤向覚書に徴するに、蘭軒は此年十二月下旬より痼疾の足痛を患(うれ)へて、医師谷村玄□(げんみん)の治療を受けた。谷村は伊予国大洲の城主加藤遠江守泰済(やすずみ)の家来であつた。或はおもふに谷村は蘭軒が名義上の主治医として願届に書した人名に過ぎぬかも知れない。
 頼菅二家に於て、山陽に神辺(かんなべ)の塾を襲がせようとする計画が、漸く萌し漸く熟したのは、此年の秋以来の事である。頼氏の願書が浅野家に呈せられたのが十二月八日、浅野家がこれを許可したのが二十一日、山陽が広島を立つたのが二十七日である。「回頭故国白雲下。寄跡夕陽黄葉村。」
 此年蘭軒は年三十三、妻益(ます)は二十七、嫡子榛軒信厚(しんけんのぶあつ)は六つ、次子常三郎は五つであつた。
 文化七年は蘭軒がために詩の収穫の乏しかつた年である。集に僅に七絶三首が載せてあつて、其二は春、其一は夏である。皆考拠に資するには物足らぬ作である。これに反して所謂(いはゆる)勤向覚書が此年の二月に起藁せられてゐて、蘭軒の公生涯を知るべきギイドとなる。
 正月十日に蘭軒の三男柏軒が生れた。母は嫡室(てきしつ)飯田氏益である。小字(をさなな)は鉄三郎と云つた。
 二月七日に蘭軒は湯島天神下薬湯へ湯治に往つた。「私儀去十二月下旬より足痛相煩引込罷在候而、加藤遠江守様御医師谷村玄□薬服用仕、段々快方には候得共、未聢と不仕、此上薬湯え罷越候はゞ可然旨玄□申聞候、依之月代仕、湯島天神下薬湯え三廻り罷越申度段奉願上候所、即刻願之通山岡衛士殿被仰渡候。」これが二月七日附の文書である。
 蘭軒は二十三日に至つて病愈(い)え事を視ることを得た。「私儀足痛全快仕候に付、薬湯中には御座候得共、明廿三日より出勤仕候段御達申上候。」これが二十二日附である。下(しも)に「翌廿三日出勤番入仕候」と書き足してある。今届と云ふ代に、当時達(たつし)と云つたものと見える。
 夏は蘭軒が健(すこやか)に過したことだけが知れてゐる。「夏日過両国橋。涼歩其如熱閙何。満川強半妓船多。関東第一絃歌海。吾亦昔年漫踏過。」素直に聞けば、余りに早く老いたのを怪みたくなる。しかし素直に聞かずには置きにくい詩である。三十四歳の蘭軒をして此語をなさしめたものは、恐くは其足疾であらうか。
 秋になつて八月の末に、菅茶山が蘭軒に長い手紙を寄せた。此簡牘(かんどく)は伊沢信平さんがわたくしに借してくれた二通の中の一つで、他の一つは此より後十四年、文政八年十二月十一日に裁せられたものである。わたくしは此二通を借り受けた時、些(ちと)の遅疑することもなく其年次を考ふることを得て、大いにこれを快とし、直に記して信平さんに報じて置いた。今先づ此年八月二十八日の書を下に写し出すこととしよう。

     その五十八

 茶山が文化七年八月二十八日に蘭軒に与へた書は下(しも)の如くである。
「御病気いかが。死なぬ病と承候故、念慮にも不掛(かけず)と申程に御座候ひき。今比は御全快奉察候。」
「中秋は十四日より雨ふり、十五日夜九つ過には雨やみ候へども、月の顔は見えず、十六日は快晴也。然るに中秋半夜の後松永尾道は清光無翳と申程に候よし。松永は纔(わづか)四里許の所也。さほどの違はいかなる事にや。蘇子由(そしいう)は中秋万里同陰晴など申候。むかしより試もいたさぬ物に候。此中秋(承候処周防長門清光)松永四里之処にては余り之違に御座候。(其後承候に半夜より清光には違なし。奇と云べし。)海東二千里定而(さだめて)又かはり候事と奉存候。御賞詠いかゞ、高作等承度候。」
「木王園(もくわうゑん)主人時々御陪遊被成候哉。石田巳之介蠣崎(かきざき)君などいかが、御出会被成候はば宜奉願上候。」
「特筆。」
「津軽屋如何(いかゞ)。春来は不快とやら承候。これも死なぬ疾(やまひ)にもや候覧(さふらふらむ)。何様宜奉願上候。市野翁いかが。」
「去年申上候塙書之事(はなはしよのこと)大事之事也。ねがはくは御帰城之便に二三巻宛(づゝ)四五人へ御託し被下候慥に届可申候。必々奉願上候。」
「長崎徳見茂四郎西湖之柳を約束いたし候。必々無間違贈候様、それよりも御声がかり奉願上候。」
「此辺なにもかはりなく候。あぶらや本介(もとすけ)も同様也。久しく逢不申候。福山辺(へんより)長崎へ参候輩も皆々無事也。其うち保平(やすへい)と申は悼亡のいたみ御座候。玄間は御医者になり威焔赫々。私方養介も二年煩ひ、去年漸(やうやく)起立、豊後へ入湯道中にて落馬、やうやく生て還候。かくては志も不遂(とげず)、医になると申候。」
「私方へ頼久太郎と申を、寺の後住(ごぢゆう)と申やうなるもの、養子にてもなしに引うけ候。文章は無※[#「隻+隻」、7巻-118-下-3]也。為人(ひととなり)は千蔵よく存ゐ申候。年すでに三十一、すこし流行におくれたをのこ、廿前後の人の様に候。はやく年よれかしと奉存候事に候。」
「庄兵衛も店を出し油かみなどうり候。妻をむかへ子も出来申候。此中(このちゆう)も逢候へば辞安様はいかがと申ゐ候。」
「詩を板にさせぬかと書物屋乞候故、亡※弟(ばうへいてい)[#「敝/犬」、7巻-118-下-10]が集一巻あまりあり、これをそへてほらばほらせんと申候所、いかにもそへてほらんと申候故、ほらせ候積に御座候。幽霊はくらがりにおかねばならぬもの、あかりへ出したらば醜態呈露一笑の資と存候。銭一文もいらず本仕立は望次第と申候故許し候。さても可申上こと多し。これにて書とどめ申候。恐惶謹言。八月廿八日菅太中晋帥(くわんたいちゆうしんすゐ)。伊沢辞安様。」
「まちまちし秋の半も杉の門(かど)をぐらきそらに山風ぞふく。これは旧作也。此比(ころ)の事ゆゑ書候。」
 以上が長さ三尺許(ばかり)の黄色を帯びた半紙の巻紙に書いた手紙の全文である。此手紙の内容は頗豊富である。そしてそれが種々の方面に光明を投射する。わたくしはその全文を公にすることの徒為(とゐ)にあらざるを信ずる。
 最初に茶山は地の相距(さ)ること遠からずして、気象の相殊なる例を挙げてゐる。此年の中秋には、神辺は初(はじめ)雨後陰であつた。松永尾の道は半夜後晴であつた。周防長門も晴であつた。松永は神辺を距ること四里に過ぎぬに、早く既に陰晴を殊にしてゐた。茶山は宋人(そうひと)の中秋の月四海陰晴を同じくすと云ふ説を反駁したのである。茶山は後六年文化十三年丙子に至つて、此庚午の観察を反復し、その得たる所を「筆のすさび」に記した。丙子の中秋は備中神辺は晴であつた。備前の中で尻海(しりうみ)は陰であつた。岡山は初晴後陰、北方は初陰後晴であつた。讃岐は陰、筑前は晴であつた。播磨は陰、摂津(須磨)は晴、山城(京都)は陰、大和(吉野)は大風、伊勢は風雨、参河(みかは)(岡崎)は雨であつた。観察の範囲は一層拡大せられて、旧説の妄は愈(いよ/\)明になつた。「常年もかかるべけれども、今年はじめて心づきてしるすなり」と、茶山は書してゐる。しかし茶山は丙子の年に始て心づいたのではない。五六年間心に掛けてゐて反復観察し、丙子の年に至つて始てこれを書に筆したのである。わたくしは少時井沢長秀の俗説辨(ぞくせつべん)を愛して、九州にゐた時其墓を訪うたことがある。茶山の此説の如きも、亦俗説辨を補ふべきものである。

     その五十九

 庚午旺秋(わうしう)の茶山の尺牘(せきどく)には種々の人の名が見えてゐる。皆蘭軒の識る所にして又茶山の識る所である。
 其一は木王園(もくわうゑん)主人である。上(かみ)に云つた犬塚印南(いんなん)で、此年六十一歳、蘭軒は長者として遇してゐた。茶山もこれを詳(つまびらか)にしてゐて、一陪字(ばいじ)を下してゐる。頃日(このごろ)市河三陽さんが印南の事は「雲室随筆」を参照するが好いと教へてくれた。
 釈雲室(しやくうんしつ)の記する所を見れば、印南がいかなる時に籍を昌平黌に置いたかと云ふことがわかる。祭酒林家は羅山より鵞峰、鳳岡(ほうかう)、快堂、鳳谷、竜潭、鳳潭の七世にして血脈が絶えた。八世錦峰信敬は富田能登守の二男で、始て林家へ養子にはいつた。市河寛斎は林家の旧学頭関松□(せきしようそう)の門人にして、又新祭酒錦峰の師であつたので、学頭に挙げられた。聖堂は寛斎、八代巣河岸(やよすがし)は松□を学頭とすることとなつたのである。印南は此時代に酒井雅楽頭忠以(うたのかみたゞざね)浪人結城唯助として入塾した。これが田沼主殿頭意知(とのものかみおきとも)執政の間の聖堂である。松□は意知に信任せられて聖堂の実権を握つてゐた。錦峰の実家富田氏は柳原松井町に住んでゐた七千石の旗下であつた。
 尋で田沼意知が死んで、楽翁公松平越中守定信の執政の世となつた。柴野栗山(りつざん)、岡田寒泉が擢用せられ、松□は免職離門の上虎の門外に住み、寛斎も亦罷官の上浅草に住んだ。聖堂は安原三吾、八代巣河岸は平沢旭山が預つた。然るに未だ幾(いくばく)ならずして祭酒錦峰が歿し、美濃国岩村の城主松平能登守乗保の子熊蔵が養子にせられた。所謂(いはゆる)蕉隠公子(せういんこうし)で、これが林家九世述斎乗衡(のりひら)となつた。安原平沢両学頭は罷められて、安原は向柳原の藤堂佐渡守高矗(たかのぶ)が屋敷に移り、平沢はお玉が池に移つた。聖堂は平井澹所と印南とに預けられ、八代巣河岸は鈴木作右衛門に預けられた。後聖堂八代巣河岸、皆学頭を置くことを廃められて新に簡抜せられた尾藤二洲、古賀精里が聖堂にあつて事を視たと云ふのである。
 安原三吾と鈴木作右衛門とは稍(やゝ)晦(くら)い人物である。市河三陽さんは寛斎漫稿の安原希曾(きそう)、安原省叔(せいしゆく)及上(かみ)に見えた三吾を同一人とすると、名は希曾、字(あざな)は省叔、通称は三吾となる筈だと云つてゐる。又同書の鈴木徳輔(とくほ)は或は即作右衛門ではなからうかと云つてゐる。鈴木が後に片瀬氏に更めたことは雲室随筆に註してある。
 此に由つて観れば印南は犬塚、青木、結城、犬塚と四たび其氏を更めたと見える。又昌平黌に於ける進退出処も略(ほゞ)窺ひ知ることが出来る。官を罷めた後の生活は前に云つたとほりである。
 其二は石田巳之助である。茶山蘭軒二家の集に石田道(だう)、字は士道、別号は梧堂と云つてあるのは、或は此人ではなからうか。
 其三は蠣崎(かきざき)氏で、所謂(いはゆる)源波響(げんはきやう)である。此年四十一歳であつた。
 其四の津軽屋は狩谷□斎である。「春来不快とやら」と云つてある。此年三十六歳であつた。
 其五の市野翁は迷庵である。此年四十六歳であつた。
 其六の塙(はなは)は保己(ほき)一である。此年六十五歳であつた。茶山は群書類従の配附を受けてゐたと見える。阿部侯「御帰城の便に二三巻宛四五人へ御託し被下候はば慥に届可申候」と云つてゐる。
 其七の徳見茂四郎は或は□堂(じんだう)若くは其族人ではなからうか。長崎にある津田繁二さんは徳見氏の塋域(えいゐき)二箇所を歴訪したが、名字号等を彫(ゑ)らず、皆単に宗淳、伝助等の称を彫つてあるので、これを詳にすることが出来なかつた。只天保十二年に歿した昌八郎光芳と云ふものがあつて、偶(たま/\)□堂の諱(いみな)を通称としてゐたのみである。徳見茂四郎は長崎から西湖の柳を茶山に送ることを約して置きながら、久しく約を果さなかつた。そこで蘭軒に、長崎へ文通するとき催促してくれいと頼んだのである。
 其八の「あぶらや本介」は即ち油元助(ゆげんじよ)である。其九其十の保平、玄間は未だ考へない。保平はことさらに「やすへい」と傍訓が施してある。妻などを喪つたものか。未だ其人を考へない。玄間は三沢氏で阿部家の医官であつた。「御医者」になつて息張(いば)ると云ふのは、町医から阿部家に召し抱へられたものか。
 其十一の「養介」は茶山の行状に所謂要助万年であらう。わたくしは蘭軒が紀行に養助と書したのを見て、誤であらうと云つた。しかし茶山も自ら養に作つてゐる。既に油屋の元助を本介に作つてゐる如く、拘せざるの致す所である。容易に是非を説くべきでは無い。果して伯父茶山の言ふ所の如くならば、万年の否運は笑止千万であつた。
 茶山の書牘(しよどく)は此より山陽の噂に入るのである。

     その六十

 菅茶山が蘭軒に与へた庚午の書には、人物の其十二として山陽が出てゐる。
 茶山は此書に於て神辺に来た山陽を説いてゐる。彼の神辺を去つた山陽を説いた同じ人の書は、嘗て森田思軒の引用する所となつて、今所在を知らぬのである。二書は皆蘭軒に向つて説いたものであるが、初の書は猶伊沢氏宗家の筐中に留まり、後の書は曾て高橋太華の手を経て一たび思軒の有に帰したのである。
 此書に於ける茶山の口気は、恰も蘭軒に未知の人を紹介するものゝ如くである。「頼久太郎と申を」の句は、人をして曾て山陽の名が茶山蘭軒二家の話頭に上らなかつたことを想はしむるのである。蘭軒は屡(しば/″\)茶山に逢ひながら、何故に一語の夙縁(しゆくえん)ある山陽に及ぶものが無かつただらうか。これは前にも云つた如く、蘭軒が未だ山陽に重きを置かなかつた故だとも考へられ、又江戸に於ける山陽の淪落的生活が、好意を以て隠蔽せられた故だとも考へられる。
 神辺に於ける山陽の資格は「寺の後住と申やうなるもの」と云つてある。茶山が春水に交渉した書には「閭塾(りよじゆく)附属」と云ひ、春水が浅野家に呈した覚書には「稽古場教授相譲申度趣」と云つてあるが、後住の語は当時數(しば/\)茶山の口にし筆にした所であつて、山陽自己も慥にこれを聞いてゐた。それは山陽が築山捧盈(つきやまほうえい)に与へた書に、「学統相続と申て寺の後住の様のものと申事」と云つてあるのに徴して知られる。
 又「養子にてもなしに」の句も等間看過すべからざる句である。前に云つた春水の覚書にも「尤先方家続養子に相成、他姓名乗様の儀には無之」とことわつてある。
 要するに家塾を譲ると云ふことと、菅氏を名乗らせて阿部家に仕へさせると云ふこととの間には、初より劃然とした差別(しやべつ)がしであつた。後に至つて山陽の「上菅茶山先生書」に見えたやうな問題の起つたのは、福山側の望蜀の念に本づく。
 茶山が山陽を如何に観てゐたかと云ふことは、事新しく言ふことを須(もち)ゐない。此書は既に提供せられた許多(きよた)の証の上に、更に一の証を添へたに過ぎない。「文章は無※[#「隻+隻」、7巻-123-下-6]也」の一句は茶山が傾倒の情を言ひ尽してゐる。傾倒の情愈(いよ/\)深くして、其疵病(しびやう)に慊(あきたら)ぬ感も愈切ならざるを得ない。「年すでに三十一、すこし流行におくれたるをのこ、廿前後の人の様に候、はやく年よれかしと奉存候事に候。」其才には牽引せられ、其迹には反撥せられてゐる茶山の心理状態が遺憾なく数句の中に籠められてゐて、人をして親しく老茶山の言(こと)を聴くが如き念を作(な)さしむるのである。
 わたくしは此書を細検して、疑問の人物頼遷が稍明に姿を現し来つたかと思ふ。それは「為人は千蔵よく存ゐ申候」の句を獲たるが故である。千蔵は山陽を熟知してゐる人でなくてはならず、又江戸にゐて蘭軒の問に応じ得る人でなくてはならない。わたくしは其人を求めて、直に遷に想ひ到つた。即ち※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-124-上-3]詩集及長崎紀行に所謂頼遷、字は子善、別号は竹里である。
 然るに載籍に考ふるに、千蔵は頼公遷の通称である。公遷、通称は千蔵別号は養堂として記載せられてゐる。
 是に於て遷即公遷であらうと云ふ木崎好尚さんの説の正しいことが、略(ほゞ)決定したやうに思惟せられる。わたくしは必ずしも頼氏の裔孫の答を待たなくても好ささうである。
 わたくしは姑(しばら)く下(しも)の如くに湊合して見る。「頼公遷、省いて遷とも云ふ、字(あざな)は子善、通称は千蔵、別号は竹里、又養堂。」

     その六十一

 菅茶山の書中には猶其十三庄兵衛と云ふ人物が出てゐる。庄兵衛は茶山の旧僕である。茶山の供をして江戸に往つて蘭軒に識られ、蘭軒が神辺に立ち寄つた日にも、主人に呼ばれて挨拶に出た。書牘(しよどく)は、殆ど作物語の瑣細な人物の落著をも忘れぬ如くに、此庄兵衛の家を成し業を営むに至つたさまをも記してゐる。
 其十四として茶山の言(こと)は所謂(いはゆる)「亡弊弟」に及んでゐる。即ち茶山の季弟恥庵晋宝信卿(ちあんしんぱうしんけい)、通称は圭二(けいじ)である。茶山の行状等には晋宝が「晋葆」に作つてある。
 茶山は書肆に詩を刻することを許すとき、恥庵の遺稿を附録とすることを条件とした。小原業夫(こはらげふふ)の序にも同じ事が言つてある。「先生曰。我欲刻亡弟信卿遺稿。因循未果。彼若成我之志。則我亦従彼之乞。書肆喜而諾。乃斯集遂上木。附以信卿遺稿。」大抵詩を刻するものは自ら貲(し)を投ずるを例とする。古今東西皆さうである。然るに茶山は条件を附けて刻せしめた。「銭一文もいらず、本仕立御望次第と申候故許し候」と云つてある。其喜は「京師書肆河南儀平損金刊余詩、戯贈」の詩にも見えてゐる。「曾聞書賈黠無比。怪見南翁特地痴。伝奇出像人争購。却損家貲刻悪詩。」小説の善く售(う)れるに比してあるのは妙である。小原も亦云つてゐる。「余嘗聞袁中郎自刻其集。幾売却柳湖荘。衒技求售。誰昔然矣。先生之撰則異之。不自欲而書肆乞之。乞之不已。則知世望斯集。不翅余輩。」誰昔然矣(すゐせきよりしかり)は陳風墓門(ちんぷうぼもん)の章からそつくり取つた句である。爾雅(じが)に「誰昔昔也」と云つてある。
 黄葉夕陽村舎詩が附録恥庵詩文草と共に刻成せられたのは文化九年三月である。此手紙は「ほらせ候積に御座候」と云つてあるとほり、上木(しやうぼく)に決意した当時書かれたもので、小原の序もまだ出来てはゐなかつたのである。
 狩谷氏では此年文化七年に□斎の女(ぢよ)俊(しゆん)が生れた。後に同齢の柏軒に嫁する女である。伊沢分家の人々は、此女(ぢよ)の名は初めたかと云つて、後しゆんと更めたと云つてゐる。俊は峻と相通ずる字で、初めたかと訓ませたが、人は音読するので、終に人の呼ぶに任せたのかも知れない。
 多紀氏では此年十二月二日に桂山が歿した。二子の中柳□(りうはん)は宗家を継ぎ、□庭(さいてい)は分家を創した。後に伊沢氏と親交あるに至つたのは此□庭である。
 此年蘭軒は年三十四、妻益は二十八、三子榛軒棠助(しんけんたうすけ)、常三郎、柏軒鉄三郎は長が七つ、仲が六つ、季が当歳であつた。
 文化八年は蘭軒にやすらかな春を齎した。「辛未早春。除却旧痾身健強。窓風軽暖送梅香。日長添得讐書課。亦奈尋紅拾翠忙。」斗柄(とへい)転じ風物改まつても、蘭軒は依然として校讐(かうしう)の業を続けてゐる。
 此年には※[#「くさかんむり/姦」、7巻-125-下-15]斎詩集に、前の早春の作を併せて、只二首の詩が存してゐるのみである。わたくしは余の一首の詩を見て、堀江允(いん)と云ふものが江戸から二本松へ赴任したことを知る。允、字は周輔で、蘭軒は餞するに七律一篇を以てした。頷聯に「駅馬行駄□布帙、書堂新下絳紗帷」と云ふより推せば、堀江は聘せられて学校に往つたのであらう。七八は「祖席詞章尽神品、一天竜雨灑途時」と云ふのである。茶山が「一結難解」と批してゐる。此句はわたくしにもよくは解せられぬが、雨は恐くは夏の雨であらうか。果して然らば堀江の江戸を発したのも夏であつただらう。
 わたくしは又詩集の文化十三年丙子の作を見て、蘭軒が釈混外(しやくこんげ)と交を訂したのは此年であらうと推する。丙子の作は始て混外を見た時の詩で、其引にかう云つてある。「余与混外上人相知五六年於茲。而以病脚在家。未嘗面謁。丙子秋与石田士道、成田成章、太田農人、皆川叔茂同詣寺。得初謁。乃賦一律。」此によつて逆算するに、若し二人が此年に相識つたとすると、辛未より丙子まで数へて、丙子は第六年となるのである。
 混外、名は宥欣(いうきん)、王子金輪寺の住職である。「上人詩素湛深、称今寥可」と、五山堂詩話に云つてある。

     その六十二

 頼氏では此年文化八年の春、山陽が三十二歳で神辺(かんなべ)の塾を逃げ、上方へ奔つた。閏(うるふ)二月十五日に大坂篠崎小竹の家に著き、其紹介状を貰つて小石元瑞を京都に訪うた。次で山陽は帷(ゐ)を新町に下して、京都に土著した。嘗て森田思軒の引いた菅茶山の蘭軒に与ふる書は、此比裁せられたものであらう。当時の状況を察すれば、書に怨□(ゑんたい)の語多きは怪むことを須(もち)ゐない。しかし山陽の諸友は逃亡の善後策を講じて、略(ほゞ)遺算なきことを得た。五月には叔父春風が京都の新居を見に往つた。山陽が歳暮の詩に「一出郷国歳再除」と云つたのは、庚午の除夜を神辺で、辛未の除夜を京都で過すと云ふ意である。「一出郷国歳再除。慈親消息定何如。京城風雪無人伴。独剔寒燈夜読書。」
 わたくしは此年十二月十日に尾藤二洲が病を以て昌平黌の職を罷めたことを記して置きたい。当時頼春水の寄せた詩に、「移住林泉新賜第、擬成猿鶴旧棲山」の一聯がある。賜第(してい)は壱岐坂にあつた。これは次年の菅茶山の手紙の考証に資せむがために記して置くのである。
 此年蘭軒は三十五歳、妻益は二十九歳、榛軒は八歳、常三郎は七歳、柏軒は二歳であつた。
 文化九年は蘭軒がために何か例に違(たが)つた事のあつたらしい年である。何故かと云ふに、※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-127-上-13]詩集に壬申の詩が一首だに載せて無い。
 わたくしは先づ蘭軒が病んだのではないかと疑つた。しかし勤向覚書を見るに、春より夏に至るまで、阿部家に於ける職務をば闕いてゐなかつたらしい。わたくしは姑(しばら)く未解決のままに此疑問を保留して置く。
 正月二日に蘭軒の二女が生れて、八日に夭した。先霊名録に第二女として智貌童子の戒名が書してある。童子が童女の誤であるべきことは既に云つた。頃日(このごろ)聞く所に拠れば、夭折した長女は天津(てつ)で、次が此女であつたさうである。
 勤向覚書に此一件の記事がある。「正月二日卯上刻妻出産仕、女子出生仕候間、御定式之通、血忌引仕候段御達申上候。同月四日血忌引御免被仰付候旨、山岡治左衛門殿被仰渡候。翌五日御番入仕候。同月八日此間出生仕候娘病気之処、養生不相叶申上刻死去仕候、七歳未満に付、御定式之通、三日之遠慮引仕候段御達申上候。同月十一日御番入仕候。」
 五月に蘭軒が阿部家の職に服してゐた証に充つべき覚書の文は下(しも)の如くである。「五月九日永井栄安、成田玄良、岡西栄玄、私、右四人丸山御殿え夜分一人づゝ泊り被仰付候段、御用番町野平助殿被仰渡候。」蘭軒の門人録に成田良純、後竜玄がある。玄良は其父か。岡西栄玄は蘭軒の門人玄亭と渋江抽斎の妻徳との父である。
 秋に入つて七月十一日に飯田休庵信方が歿した。先霊名録に「寂照軒勇機鉄心居士、(中略)墓在西窪青竜寺」と記してある。即ち蘭軒の外舅(ぐわいきう)である。家は杏庵が襲いだ。伊勢国薦野(こもの)の人、黒沢退蔵の子で、休庵の長女の婿となつた。蘭軒の妻益は休庵の二女であつた。
 休庵は豊後国大野郡岡の城主中川修理大夫久貴(ひさたか)の侍医であつた。平生歌道を好んで、教を冷泉家に受けた。上にも云つた如く、恐くは為泰入道等覚(ためやすにふだうとうがく)の門人であつたのだらう。伊沢分家所蔵の源氏物語に下(しも)の如き奥書がある。「右源氏物語三十冊、外祖父寂照軒翁之冷泉家之御伝授受、書入れ給之本也、伊沢氏。」
 頼氏では此年春水が六十七歳になつた。「明君能憐我、※[#「月+無」、7巻-128-下-2]養上仙班、(中略)如此二十載、光陰指一弾」の二十は恐くは三十ではなからうか。安永九年に浅野家に召し出されてから三十三年、広島の邸を賜つてから二十四年になつてゐる筈である。
 此年蘭軒は年三十六、妻益は三十、長子榛軒は九つ、常三郎は八つ、柏軒は三つであつた。

     その六十三

 文化十年には蘭軒が正月に頭風(づふう)を患(うれ)へたことが勤向覚書に見えてゐる。「正月十日私儀頭風相煩候に付、引込保養仕候段御達申上候」と云つてある。
 しかし病は甚だ重くはなかつたらしい。詩集に「癸酉早春、飜刻宋本国策、新帰架蔵、喜賦」として二絶が載せてある。奇書を獲た喜が楮表(ちよへう)に溢れてゐて、其意気の旺なること病褥中の人の如くでは無い。「宏格濶欄箋潔白。学顔字画勢遒超。呉門好事黄蕘圃。一様影摸紹興雕。」「世間謾道善蔵書。纔入市門得五車。我輩架頭半奇籍。窃思秘閣近何如。」茶山の評に「寇準事々欲抗朕」と云つてある。句々蘭軒にあらでは言ふこと能はざる所で、茶山の一謔も亦頗る妙である。
 経籍訪古志に「戦国策三十三巻、清刊覆宋本、漢高誘註、清嘉慶中黄丕烈依宋木重刊、末附考異」としてある。或は此本であらうか。しかし酌源堂蔵の註を闕いでゐる。
 二月に入つても、蘭軒は猶病後の人であつたと見える。覚書にかう云つてある。「二月二十五日頭風追々全快仕候に付、月代仕、薬湯え三廻り罷越度段奉願上候処、即刻願之通被仰付候段、山岡治左衛門殿被仰渡候。」月代(さかやき)はしても猶湯治中で、職には服してをらぬのである。
 然るに詩集には春游の七律があつて、其起には「東風送歩到江塘、翠浪白砂花亦香」と云つてある。又「上巳与余語觚庵犬冢吉人、有泛舟之約、雨不果、賦贈」の七絶さへある。「雨不果」と云つて、「病不果」とは云はない。春游の詩は実を記したので無いとも見られようが、舟を泛ぶる約は必ずあつたのであらう。或は想ふに、当時養痾中の外游などは甚しく忌まなかつたものであらうか。
 余語(よご)氏は世(よゝ)古庵の号を襲(つ)いだものである。古庵一に觚庵にも作つたか。当時の武鑑には、「五百石、奥詰御医師、余語良仙、本郷弓町」として載せてある。
 犬冢吉人(いぬづかきつじん)は印南(いんなん)か、又は其族人か。印南は此年文化十年十一月十二日に歿したと、老樗軒(らうちよけん)の墓所一覧に云つてある。若し舟遊の約をしたのが印南だとすると、それは冬死ぬべき年の春の事であつた。序に云ふ。老樗軒はわたくしは「らうちよけん」と訓んでゐたが、今これを筆にするに当つて疑を生じ、手近な字典を見、更に説文(せつもん)をも出して見た。説文に樗(くわ)は「从木□声、読若華」、※(ちよ)[#「木+罅のつくり」、7巻-130-上-2]は「从木□声」と云つてある。
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