伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

 わたくしは果して能く此の如き余地遊隙(よちいうげき)を保留して筆を行ることを得たか。若し然りと云はゞ、わたくしは成功したのである。若し然らずして、わたくしが識らず知らずの間に、人に強(し)ふるに自家の私見を以てし、束縛し、阻礙し、誘引し、懐柔したならば、わたくしは失敗したのである。
 史筆の選択取舎せざること能はざるは勿論である。選択取舎は批評に須(ま)つことがある。しかし此不可避の批評は事実の批評である。価値の判断では無い。二者を限劃することは、果して操觚者の能く為す所であらうか、将為すこと能はざる所であらうか。わたくしはその為し得べきものなることを信ずる。
 わたくしは上(かみ)に体例と云つた。しかし是は僭越の語である。体例を創するは凡庸人の力の及ぶ所では無い。わたくしが体例と云つたのは、自家の出発点を明にせむがために、姑(しばら)く妄(みだり)に命名した所に過ぎない。わたくしは古今幾多の伝記を読んで慊(あきた)らざるものがあつた故に、竊(ひそか)に発起する所があつて、自ら揣(はか)らずしてこれに著手した。是はわたくしの試験である。
 わたくしは此試験を行ふに当つて、前(さき)に渋江抽斎より姶め、今又次ぐに伊沢蘭軒を以てした。抽斎はわたくしの偶(たま/\)邂逅した人物である。此人物は学界の等閑視する所でありながら、わたくしに感動を与ふることが頗(すこぶる)大であつた。蘭軒は抽斎の師である。抽斎よりして蘭軒に及んだのは、流に溯つて源を討(たづ)ねたのである。わたくしは学界の等閑視する所の人物を以て、幾多価値の判断に侵蝕せられざる好き対象となした。わたくしは自家の感動を受くること大なる人物を以て、著作上の耐忍を培(つちか)ふに宜(よろ)しき好き資料となした。
 以上はわたくしが此の如き著作を敢てした理由の一面である。

     その三百七十

 わたくしは渋江抽斎、伊沢蘭軒の二人を伝して、極力客観上に立脚せむことを欲した。是がわたくしの敢て試みた叙法の一面である。
 わたくしの叙法には猶一の稍人に殊なるものがあるとおもふ。是は何の誇尚(くわしやう)すべき事でもない。否、全く無用の労であつたかも知れない。しかしわたくしは抽斎を伝ふるに当つて始て此に著力し、蘭軒を伝ふるに至つてわたくしの筆は此方面に向つて前に倍する発展を遂げた。
 一人の事蹟を叙して其死に至つて足れりとせず、其人の裔孫のいかになりゆくかを追蹤して現今に及ぶことが即ち是である。
 前人の伝記若くは墓誌は子を説き孫を説くを例としてゐる。しかしそれは名字存没等を附記するに過ぎない。わたくしはこれに反して前代の父祖の事蹟に、早く既に其子孫の事蹟の織り交ぜられてゐるのを見、其糸を断つことをなさずして、組織(そしよく)の全体を保存せむと欲し、叙事を継続して同世の状態に及ぶのである。
 わたくしは此叙法が人に殊なつてゐると云つた。しかし此叙法と近似したるものは絶無では無い。昔魏収(ぎしう)は魏書を修むるに当つて、多く列伝中人物の末裔を載せ、後に趙翼(てうよく)の難ずる所となつた。しかし収は曲筆して同世の故旧に私(わたくし)したのである。一種陋劣なる目的を有してゐたのである。わたくしの無利害の述作とは違ふ。近ごろ今関天彭(いませきてんぱう)さんの先儒墓田録は物徂徠の裔を探り市野迷庵の胤を討(たづ)ねて、窮め得らるべき限を窮めてゐる。惟(たゞ)今関氏の文は短く、わたくしの文は長きを異なりとする。
 是は文の体例の然らしむる所である。彼は地誌に類する文を以て墳墓を記し、此は人の生涯を叙する伝記をなしてゐるからである。
 そして此にわたくしの自ら省みて認めざることを得ざる失錯が胚胎してゐる。即ち異例の長文が人を倦ましめたことである。
 わたくしの伝記が客観に立脚したと、系族を沿討(えんたう)したとの二方面は、必ずしも其成功不成功を問はず、又必ずしも其有用無用を問はない。わたくしの文が長きがために人の厭悪(えんを)を招いたことは、争ふべからざる事実である。そして此事実はわたくしをして自家の失錯を承認せしむるに余あるものである。
 人はわたくしの文の長きに倦んだ。しかし是は人の蘭軒伝を厭悪した唯一の理由では無い。蘭軒伝は初未だ篇を累(かさ)ねざるに当つて、早く既に人の嘲罵に遭つた。無名の書牘(しよどく)はわたくしを詰責して已まなかつたのである。
 書牘はわたくしの常識なきを責めた。その常識なしとするには二因がある。無用の文を作るとなすものが其一、新聞紙に載すべからざるものを載すとなすものが其二である。此二つのものは実は程度の差があるに過ぎない。新聞紙のために無用なりとすると、絶待に無用なりとするとの差である。
 わたくしは今自家の文の有用無用を論ずることを忌避する。わたくしは敢て嘲(あざけり)を解かうとはしない。しかし此書牘を作つた人々の心理状態はわたくしの一顧の値ありとなす所のものである。

     その三百七十一

 大抵新聞紙を読むには、読んで首(はじめ)より尾(をはり)に至るものでは無い。一二面を読んで三面を読まぬ人がある。三面を読んで一二面を読まぬ人がある。新作小説を読むものは講談を読まない。講談を読むものは新作小説を読まない。読まざる所のものは其人の無用とする所である。しかし其人は己に無用なるものが或は人に有用なるものたるべきを容認することを吝(をし)まない。此故に縦令(たとひ)おしろいの広告が全紙面を填(うづ)むとも、粉白(ふんはく)を傅(つ)くるに意なきものがこれを咎めようとはせぬのである。
 事情此(かく)の如くなれば、人の蘭軒伝を無用とするは、果して啻(たゞ)に自己のこれを無用とするのみではなく、これを有用とするものの或は世上に有るべきをだに想像することが出来ぬが故であらうか。
 彼蘭軒伝を無用とするものの書牘(しよどく)を見るに、問題は全く別所に存するやうである。書牘は皆詬□毒罵(こうしどくば)の語をなしてゐる。是は此篇を藐視(ばくし)する消極の言(こと)ではなくて、此篇を嫉視する積極の言である。
 此嫉悪(しつを)は果して何(いづ)れの処より来るか。わたくしは其情を推することの甚難(かた)からざるべきを思ふ。凡そ更新を欲するものは因襲を悪(にく)む。因襲を悪むこと甚しければ、歴史を観ることを厭ふこととなる。此の如き人は更新を以て歴史を顧慮して行ふべきものとはなさない。今の新聞紙には殆ど記事の歴史に渉(わた)るものが無い。その偶(たま/\)これあるは多く售(う)れざる新聞紙である。
 蘭軒伝の世に容れられぬは、独り文が長くして人を倦ましめた故では無い。実はその往事を語るが故である。歴史なるが故である。人は或は此篇の考証を事としたのを、人に厭はれた所以だと謂つてゐる。しかし若し考証の煩を厭ふならば、其人はこれを藐視して已むべきで、これを嫉視するに至るべきでは無い。
 以上の推窮は略(ほゞ)反対者の心理状態を悉(つく)したものであらうとおもふ。わたくしは猶進んで反対者が蘭軒伝を読まぬ人で無くて、これを読む人であつたことを推する。読まぬものは怒(いか)る筈がない。怒は彼虚舟(きよしう)にも比すべき空白の能く激し成す所ではないからである。
 わたくしの渋江抽斎、伊沢蘭軒等を伝したのが、常識なきの致す所だと云ふことは、必ずや彼書牘の言(こと)の如くであらう。そしてわたくしは常識なきがために、初より読者の心理状態を閑却したのであらう。しかしわたくしは学殖なきを憂ふる。常識なきを憂へない。天下は常識に富める人の多きに堪へない。
 わたくしは筆を擱(さしお)くに臨んで、先づ此等の篇を載せて年を累(かさ)ね、謗書旁午(ばうしよばうご)の間にわたくしをして稿を畢(を)ふることを得しめた新聞社に感謝する。次にわたくしは彼笥(あのし)を傾けて文書を借し、柬(かん)を裁して事実を報じ、編述を助成した諸友と、此等の稿を読んで著者の痴頑(ちぐわん)を責めなかつた少数の未見の友とに感謝する。
 最後にわたくしは渋江伊沢等諸名家の現存せる末裔の健康を祝する。(終。)




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