伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

 詩。「宿片上駅買舟納涼。藻※[#「くさかんむり/俎」、7巻-77-下-2]魚羮侑杜□。買舟暫遶水村回。岡頭燈火人如市。道是星祠祈雨来。」
 第二十六日。「十五日卯時発す。長舟(をさふね)村を経吉井川を渡り四里藤井駅。豆腐屋又六の家に休す。いんべを経る。陶器をうる家あり。此辺みな瓶器破余(へいきはよ)をもつて石にかふ。或は堤を護す。二里岡山城下五里板倉駅。古手屋九兵衛の家に宿す。まさに此駅にいらんとして備前備中の国界碑あり。吉備神祠あり。此日暑尤甚し。行程八里半。」欄外に「陶器は伊部(いんべ)也、片上の少し西也、それより香登(かゞと)それより長船吉井川也」と註してある。
 第二十七日。「十六日卯時発す。三里川辺駅。三里矢掛駅。(三里の内七十二町一里、五十町一里ありといふ。)吉備寺あり。吉備公の墓あり。甲奴(かふど)屋兵右衛門の家に休す。時正に午後陰雲起て雷雨灑来(そゝぎきたり)数日にして乾渇を愈(いやす)がごとし。未後にいたりて霽(は)る。江原をすぐ。此地広遠にして見るところの山はなはだ不高。長堤数里砂川に傍(そ)ふ。牧童三人許り来て雨余の濁水を伺て魚を捕す。牛みな草を喰て遅々として水を渡り去る。牧童捕魚に耽て不知、忽然として大に驚き牛を尋ね去る。田野の一佳景といふべし。三里七日市。藤本作次郎の家に宿す。此家戸外に吉備宮(きびつみや)の神符を貼(てふ)す。符云。「寒言神尊利根陀見」と。熟察するに八卦なり。抱腹噴飯す。此日雨を得少しく涼し。夜尤清輝。初更菅茶山来訪歓晤徹暁して去る。行程九里許。」欄外に「七十二町の一里土人旅人の云ところなれども実はしからず」と註してある。
 詩。「江原。軽雷雨霽暑初微。数輩牧童行浅磯。昏暮捕魚猶未去。不知牛犢已先帰。宿七日市駅菅先生自神辺駅来訪有詩次韻賦呈。昔年自嘗賦分離。何料今宵有此期。尤喜詞壇一盟主。儼然不改旧霜髭。」次韻の絶句引首「訪」の字の傍に、茶山が「迎か要か」と註してゐる。茶山が境を越えて蘭軒を七日市に訪うたのは、蘭軒を神辺(かんなべ)の家に立ち寄らせようとして、案内のために来たのだといふことが、此推敲の跡に徴して知られる。当時茶山が蘭軒に贈つた原唱は集に載せない。

     その四十

 第二十八日は文化三年六月十七日で、蘭軒は此日に茶山を訪うた。「十七日卯時発す。一里十二町たかや駅。すでに備後なり。安那(やすな)郡に属す。(古昔(こせき)穴国(あなのくに)穴済(あなのわたり)穴海(あなのうみ)和武尊(やまとだけのみこと)悪神を殺戮するの地なり。日本紀景行紀によるに此辺みな海也。)一本榎上御領村下御領村平野村を経て一里廿七町神辺駅。菅茶山を訪。路(みちに)横井敬蔵に逢ひ駅長の家にして細井磯五郎に逢。みな撫院の応接にいづるとなり。茶山の廬駅に面して柴門あり。門に入て数歩流渠あり。□橋(いけう)を架て柳樹茂密その上を蔽ふ。茅屋瀟灑夕陽黄葉村舎の横額あり。堂上より望ときは駅を隔て黄葉山園中に来がごとし。園を渉(わたつ)て屋後の堤上に到れば茶臼山より西連山翠色淡濃村園寺観すべて一図画なり。堤下川あり。茶山春川釣魚の図に題する詩を天下の韻士にもとむ。即此川なり。屋傍に池あり。荷花盛に開く。渠を隔て塾あり。槐寮といふ。学生十数人案に対して書を読む。茶山堂上酒肴を具(そなふ)。その妻及男養助歓待恰も一親族の家のごとし。墨水詩巻対岳堂詩巻を展覧す。福山志を観る。三浦安藤岩野三大夫より酒肴を贈る。庄兵衛(茶山に従て東都にありし僕なり)来り見(まみ)ゆ。午前より来て未後にいたり大に撫院の駕に後る。辞してさる。横尾をすぐ。鶴橋あり。あした川の下流を渡り山手村かや村赤坂村神村をすぐ。此辺堤上より福山城を松山の間に望む。城楼は林標に突兀たり。四里今津駅なり。高洲をへて□示嶺(ばうしれい)にいたる。(一に坊寺(ばうじ)といひ一に牡牛といふ。)一本榎より此に至て我藩知に属す。土地清灑田野開闢溝渠相達して今年の旱(ひでり)に逢ふといへども田水乏きことなし。嶺を下て二里尾道駅なり。此駅海に浜して商賈富有諸州の船舸来て輻湊する地。人物家俗浪華の小なるもの也。今夜観音寺に詣拝するもの雑喧我本郷真光寺薬師詣拝の人のごとし。駅長の家は豊太閣薩摩をせむるとき留宿の家なりといふ。上段の画壁彩色金銀を用ふ綺麗にして古色なり。(細川幽斎九州道の記に備後の津公儀御座所に参上して十八日朝鞆(とも)までこし侍るとあり。すなはち此尾の道に太閣の留宿するをいふなるべし。)余升屋半兵衛の家に宿す。初更後茶山神辺より来り其門人油屋元助の家に迎へて歓飲す。家居頗大一豪富賈なり。主人名藉(なはせき)字(あざな)は元助(げんじよ)嘉樹堂といふ。好学(がくをこのみ)て雅致なり。品坐(ひんざ)劇談暁にいたりて二人に別る。此日甚暑(じんしよ)にあらず。行程九里許(きよ)。」
 此所にも亦欄外に三件の考証があるが、其一は文字を截り去られて読むべからざるに至つてゐる。余の二件は高屋駅と津との事に就いて誤を正したものである。本文には高屋駅を備後の地だとしてあるのに、欄外にはかう云つてある。「高屋駅は備中也。この西に一本榎あり。これ中後の界也。」本文には又備後の津の公儀御座所を豊公の宿だとしてあるのに、欄外にはかう云つてある。「備後の津公儀御座所といふは義昭将軍をいふ也。津といふは今の津の郷村也。」筆跡に依つて推するに、此考証は森枳園(きゑん)の手に出でたものらしい。
 穴海は景行紀二十七年十二月の条に出でてゐる。「到於熊襲国(中略)。既而従海路還倭。到吉備以渡穴海。」穴済(あなのわたり)は又其二十八年二月の条に出でてゐる。「日本武尊奏平熊襲之状曰。(中略)唯吉備穴済神及難波柏済神。(中略)並為禍害之藪。故悉殺其悪神。」穴国は国造本紀に「吉備穴国造」がある。亦景行帝の時置く所である。

     その四十一

 蘭軒が黄葉夕陽村舎を訪うた記事は、山陽の文と併せ読んで興味がある。「後就其家東北河堤竹林下築村塾。帯流種樹。対面之山名黄葉。因曰黄葉夕陽村舎。舎背隔野望連阜。有茶臼山。因自号茶山。」此対面の山は初めもみぢやまと呼ばれてゐたが、茶山に由つて世に聞え、今はくわうえふざんと音読せられてゐる。茶山が号の本づく所の茶臼山は、原(もと)の名秋円山(あきまるやま)である。道之上(みちのうへ)城址の在るところで、形より茶臼の称を得た。
 茶山が当時の身分は、前(さき)に江戸に客たりし時より俸禄が倍加せられてゐる。茶山は寛政四年に五人扶持を給せられ、享和元年に儒官に準ぜられ、文化二年に五人扶持を増して十人扶持にせられた。即ち蘭軒の来訪した前年である。これより後茶山は十人扶持づつの増俸を二度受けて三十人扶持になり、大目附に準ぜられて終つた。
 蘭軒を□待した家族は紀行に「その妻及男養助」と記してある。妻は継室門田(もんでん)氏であらう。養助は要助の誤で、茶山の弟猶右衛門汝□(じよへん)の子要助、名は万年(ばんねん)、字(あざな)は公寿(こうじゆ)である。汝□の□は司馬相如(しばしやうじよ)の賦に□南予章(へんなんよしやう)とあつて、南国香木の名である。
 酒肴を贈つて来た「三大夫」の中、三浦は当時の家老に平十郎、勘解由、軍記などがあつて、どの人とも定め難い。安藤は内蔵(くら)であらう。岩野は与三右衛門であらう。
 茶山は既に蘭軒を七日市に迎へたやうに、又蘭軒を尾の道に送つた。即ち油屋元助(もとすけ)方の徹宵の宴飲である。
 尾の道観音寺の参詣人を見て、蘭軒がこれを江戸の真光寺のにぎはひに比してゐるのが面白い。これは本郷桜木天神の傍(かたはら)に住んだ蘭軒でなくては想ひ到らぬ事である。真光寺の縁日は、寺門が電車の交叉点に向つて開いてゐる今日も、猶相応に賑しい。しかし既に昔日の雑□(ざつたふ)の面影をば留めない。明治の初年にわたくしは桜木天神の神楽殿に並んだ裏二階に下宿してゐたが、当時の薬師の縁日は猶頗殷盛であつた。わたくしは大蛇の見せもの、河童(かつぱ)の見せものを覗いて見たことを記憶してゐる。彼の三尺帯三本を竿に懸けて孔雀だと云つて見せた類で、極て原始的な詐偽であつた。そしてそれに銭を捨てて入るものが踵(くびす)を接したものである。
 ※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-81-下-9]詩集に神辺(かんなべ)で蘭軒が茶山に贈つた一絶がある。「過神辺駅、訪菅先生夕陽黄葉村舎、柴門茅屋、茂園清流、入其室則窓明軒爽、対山望田、甚瀟灑矣、先生有詩、次韻賦呈。田稲池蓮美且都。柳陰風柝架頭書。鳥啼山客猶眠熟。便是□川摩詰廬。」原作は茶山の集に載せない。蘭軒の詩の転句は頼千秋の書した黄葉夕陽村舎の襖の文字ださうである。
 茶山は尾の道の油屋で蘭軒に詩を贈つた。即ち集中の「尾道贈伊沢澹父」の七絶である。「松間明月故人杯。此会他年能幾回。記取牡牛関下駅。遙輿脚疾送君来。」転句の牡牛関(ぼぎうくわん)は即ち□示嶺(ばうしれい)であらう。結句の言ふ所は蘭軒の脚疾ではなくて、東道主人の脚疾である。蘭軒のこれに酬いた詩が其集にある。「宿尾道駅、菅先生追送至此、迎飲于其門人油元助家、先生有詩、次韻賦呈。擲了郷心不擲杯。七分□甲逓千回。謝君迎送能扶疾。昨夜今宵越境来。」

     その四十二

 蘭軒が旅行の第二十九日は文化三年六月十八日である。「十八日卯時発す。駅を離るれば海辺なり。磯はたの路にして海上島々連続せり。海のかたち大川のごとし。源貞世(みなもとのさだよ)豊臣勝俊の紀行にも地形を賞したる文見ゆ。海辺に八幡の社あり。松数株ありて此地第一の眺望なり。三原城も見ゆ。三里三原駅一商家に休す。青木屋新四郎を訪。主人讚州へ行て不在(あらず)。その弟吉衛に逢うて去る。備後安藝の国界は駅路の山上にあり。二里半ぬた本郷駅。松下屋木曾右衛門の家に宿す。駅長の屋後に山あり。雀が嶽といふ。小早川隆景の城址なり。今の三原城こゝより遷移すと土人いへり。此日暑甚しからず。曇る。行程五里半許(きよ)。」
 貞世の道ゆきぶり、厳島詣(いつくしままうで)の記、勝俊の九州道の記、いづれも原文が引いてあるが、詞多きを以て此に載せない。
 第三十日。「十九日卯時発。沼田川を渡り入野山中を経小野篁(たかむら)の郷(きやう)なり。辰後一里半田万里市(たまりいち)。堀内庄兵衛の家に休す。主人みづから扇箱(せんさう)と号す。常に広島城市に入て骨董器を売る。頼兄弟及竹里みな識ところなり。山中を出て松原あり。未前二里半西条駅。(一名西条四日市。)小竹屋庄兵衛の家に次(やど)る。此駅小吏余輩を迎ふるに小紙幟上姓名を書して持来轎前(けうぜん)に在て先導す。駅東三四町国分寺あり。行尋ぬ。当光山金岳寺といふ。真言宗なり。旧年災(わざはひ)にかかりて古物存するものなし。茅葺仁王門あり。金剛力士は雲慶の作といふ。松五本ありて五輪塔存す。これ聖武の陵(みさゝぎ)なりといふ。此日暑甚し。晩間霎雨(せふう)あり。暑少減ず。夜三更青木新四郎使を来らしむ。僕林助といふ。行程四里許。其二里は五十町一里也。」
 小野篁の郷の条に、蘭軒は又貞世の道ゆきぶりを引いてゐる。「此ところはむかし小野の篁の故郷とぞ、やがてたかむらともをのとも申侍るとかや」の語がある。
 第三十一日は蘭軒が広島の頼氏を訪うた日である。「廿日卯時発。半里許ゆきて大山峠なり。上下二里許なり。山中をなほ行こと二里許、瀬の尾といふ里ありて上中下に分る。(瀬の尾又瀬野といふ。)山中松樹老古にして渓辺に海金砂(かいきんさ)おほし。(海金砂方言三線葛(さみせんくず)。)平地漸く近して砂川緩流広四五間なり。此に至て山尽く。勝景。貞世紀行妙を得たり。八里半海田(かいた)駅。根石屋十五郎の家に休す。午後なり。駅を出ればすなはち海浜なり。坂を上下して田間の路に就く。青稲漠々として海面の蒼々たるに連る。行こと遠して海いよ/\隔遠す。岩鼻といふ所にいたる。北の山延続し此に至て尽るなり。岩石屹立して古松千尋天を衝く。攀縁して登ときは上(かみ)稍平なり。方丈許席のごとき石あり。其上に坐して望めば南海に至り西広島城下に連(つらなる)。万里蒼波一鬨烟家(こうのえんか)みな掌中にあり。又本途に就き遂に二里広島城下藤屋一郎兵衛の家に次(やど)る。市に入て猿猴橋(ゑんこうばし)京橋を過来る。繁喧は三都に次ぐ。此日朝涼、午時より甚暑不堪(じんしよにたへず)。夜風あり。頼春水の松雨山房を訪。(国泰寺の側(かたはら)なり。)春水在家(いへにあり)て歓晤。男子賛亦助談。子賛名襄(のぼる)、俗称久太郎(ひさたらう)なり。次子竹原へ行て不遇(あはず)。談笑夜半にすぐ。月升(のぼり)てかへる。(春水年五十九、子賛二十六。)行程十里許。」
 瀬の尾の条には又貞世の道ゆきぶりが引いてある。中に「もみぢばのあけのまがきにしるきかなおほやまひめのあきのみやゐは」の歌がある。
 蘭軒と春水とは此日広島で初対面をしたのである。

     その四十三

 所謂(いはゆる)松雨山房は春水が寛政元年に浅野家から賜つた杉木小路の邸宅である。是より先春水は浅野家の世子(せいし)侍読として屡(しば/\)江戸に往来した。寛政十一年八月に至つて、世子は江戸に於て襲封した。世子とは安藝守斉賢(なりかた)である。備後守重晟(しげあきら)が致仕して斉賢が嗣いだのである。十二年に春水は又召されて江戸に入り、享和元年に主侯と共に国に返つた。次で二年にも亦江戸に扈随し、三年に帰国した。然るに文化元年の冬病を獲、二年に治してからは広島に家居してゐる。山陽の撰ぶ所の行状に「甲子冬獲疾、明年漸復、自是不復有東命」と書してある。蘭軒は江戸に於て春水と会見する機会を得なかつたので、此日に始て往訪したのである。即ち春水の病の治した翌年である。
 春水は天明元年の冬重晟に召し出された。状に「天明元年辛丑冬、本藩有司伝命、擢為儒員、食俸三十口」と云つてあるのが即是である。其後天明八年戊申と寛政十一年己未とに列次を進め俸禄を加へられた。状に「戊申進班近士(奥詰)、己未更賜禄百五十石、班侍臣列(側詰)」と云つてある。蘭軒が往訪した時の春水の身分は、百五十石の側詰であつた。其後文化四年丁卯と十年癸酉とに春水は又待遇を改められた。状に「丁卯加禄卅石、十年癸酉進徒士将領(歩行頭)之列、職禄百二十石、并旧禄為三百石」と云つてある。春水は三百石の歩行頭(かちがしら)を以て終つたのである。
 山陽の事が紀行に「子賛」と書し又其齢が「子賛二十六」と書してある。山陽の字は子成であつた。或は少時子賛と云ひ、後子成と改めたのであらうか。二十六は二十七の誤又春水の五十九は六十一の誤である。
 会見の日、六十一歳の春水は三十歳の蘭軒を座に延(ひ)いて□待し、二十七歳の山陽が出でて談を助けた。
 ※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-85-上-6]詩集に「宿広島、訪春水頼先生松雨山房、歓飲至夜半」として一絶がある。「抽身□隊叩間扉。雨後園松翠湿衣。月下問奇宵已半。艸玄亭上酔忘帰。」
 わたくしは此会見が春水蘭軒の初対面だと云ふ。これは確拠があつて言ふのである。客崎(かくき)詩稿に蘭軒が春水の弟春風に逢つた詩があつて、其引首と自註とを抄すれば下(しも)の如くである。「安藝頼千齢(名惟疆)西遊来長崎、訪余居、(以下自註、)其兄春水、余去年訪其家而初謁、其弟杏坪旧相識于東都、千齢今日方始面云」と云ふのである。是に由つて観れば、春水春風杏坪(きやうへい)の三兄弟の中で、蘭軒が旧く江戸に於て相識つたのは杏坪だけである。只其時日が山陽の伊沢氏に来り投じたのと孰(いづれ)か先孰か後なるを詳(つまびらか)にすることが出来ない。次で蘭軒は文化三年に春水を広島の邸宅に往訪し、最後に四年に春風を長崎の客舎に引見したのである。春風の九州行は春水が「嗟吾志未死、同遊与夢謀、到処能報道、頼生已白頭」の句を贈つた旅である。
 しかしこれは蘭軒と頼氏長仲季(ちやうちゆうき)との会見の時日である。その書信を通じた前後遅速は未だ審(つまびらか)にすることが出来ない。
 松雨山房の夜飲の時、蘭軒の春水に於けるは初見であるが、山陽は再会でなくてはならない。わたくしは初め卒(にはか)に紀行の此段を読んで、又微(すこ)しく伊沢氏が曾て山陽を舎(やど)したと云ふ説を疑はうとした。それは「男子賛亦助談、子賛名襄、俗称久太郎なり」の数句が、故人を叙する語に似ぬやうに覚えたからである。しかし更に虚心に思へば、必ずしもさうではなからう。春水との初見も、特に初見として叙出しては無い。春水も山陽も、此紀行にあつては始て出づる人物である。父は已に顕れた人物だから名字を録することを須(もち)ゐない。子は猶暗い人物だから名字を録せざることを得ない。此の如くに思惟すれば、此疑は釈(と)け得るのである。
 且山陽の伊沢氏と狩谷氏とに寄つたのは、山陽の経歴中暗黒面に属する。品坐の主客は各(おの/\)心中に昔年の事を憶ひつつも、一人としてこれを口に出さずにしまつたと云ふことも、亦想像し得られぬことは無い。
 わたくしは既に述べた諸事実と、後に引くべき茶山の手柬(しゆかん)とに徴して思ふ。伊沢氏と頼菅二氏とは、縦(たと)ひいかに旧く音信を通じてゐたとしても、山陽が本郷の伊沢氏に投じたのは、春水兄弟や茶山に委託せられたのでは無からう。山陽自己がイニチアチイヴを把握したのであらう。そして身を伊狩(いしう)の二家に寄せた山陽の、寓公となり筆生となつた生活は、よしや数月の久しきに亘つたにしても、後年に至るまで関係者の間に一種の秘密として取り扱はれてゐたのであらう。
 蘭軒が春水を訪うた日に、偶(たま/\)竹原に往つてゐて坐に列せなかつた「次子」は、春水の養子権次郎元鼎(げんてい)である。

     その四十四

 蘭軒が旅行の第三十二日は文化三年六月二十一日である。「廿一日五更発す。城下市街をすぐるに数橋を経たり。みな砂川の大なるに架す。田路(たみち)に至て海浜に出づ。一小山あり。轎夫脚を愛して海中潮斥(てうせき)の処を行く。又松樹千株の海浜山上を経て二里廿日市。宇佐川文好の家に休す。主人痛風截瘧(せつぎやく)の二方を伝ふ。駅に山あり。屈曲盤回(はんくわい)して上る。海上宮島を望こと至て近がごとし。此山を桜尾と名く。又篠尾山と名く。菅神祠(くわんじんし)あり。山伏正覚院といふもの居住す。文好云。寿永年間桜尾周防守(周防国桜尾城主)近実(ちかざね)といふ者天神七代を此山に祀(まつる)。年歴久(ひさしう)して天満天神の祠となすのみ。時正巳なり。上村源太夫鈴木順平藤林藤吉石川五郎治及余五人舟にて宮島にいたる。海上二里間風なく波面席のごとし。午後宮島にいたる。祭事後故に市商甚盛なり。千畳敷二畳に上(のぼつ)て酒肴を喫。勝景、源貞世、近来水府長赤水(ちやうせきすゐ)説こと甚詳(つまびらか)なり。已未後。船に乗じて海上一里久波駅。醸家沢本屋吉兵衛の家に次(やど)る。主人池田瑞仙と知己なりといふ。駅長の園臥竜松長延十三四間なるあり。此日暑甚し。夜海中の塩火を見る。行程六里許(きよ)。」
 宮島の事は蘭軒自ら記せずして、貞世の道ゆきぶりと赤水の長崎紀行とを引いてゐる。道ゆきぶりの文にはあたとと云ふ地名の下に歌がある。「島守にいざこととはむ誰がためになにのあたとと名にしおひけむ。」
 長赤水は長久保氏、名は玄珠、字(あざな)は子玄、通称は源五兵衛である。著書中に長崎紀行と長崎行役日記とがある。長崎紀行に日本の三大市といふことがある。六月十七日安藝宮島の市、三月二十四日下の関阿弥陀寺の市、八月十五日豊後浜の市である。「中にも此宮島第一なりとぞ」と云つてある。又童謡が載せてある。「安藝の宮島めぐれば七里浦が七浦七えびす。」七浦は杉野、腰細、青海苔、山白、洲屋(すや)、御床(みとこ)、網である。七えびすは昔佐伯部の祀つた神ださうである。
 池田瑞仙は初代錦橋であらう。此年七十二歳であつた。
 詩。「厳島。棹子占風告艤船。張帆数里忽飛然。廻廊曲院蒼波浸。尖塔危楼翠樹連。華表一※[#「隻+隻」、7巻-87-下-12]離岸立。燈籠百八繞簷懸。治承姦相修斯宇。土俗于今却説賢。又。厳島延回七里強。浦居蜑戸市居商。豈知波浪無辺地。別有人烟如此郷。□鹿馴童眠石岸。吟猿送客下松岡。昔年帝裂蓬莱半。封得霊姫鎮一方。」
 第三十三日。「廿二日卯時発。駅を出る所昔の黒河なり。一山路をさけて潮斥の処を行く。漁家両三軒ありて山下海岸に倚る。海面朝靄蒼茫として宮島あたたしま壁島隠見す。小瀬川を渡る。周防の国界なり。国史に大竹川を分て周防国とすとあるは此川をいふ歟。川を渡るところ木柱一株をたつ。書して云。「自小瀬至赤間三十六里」と。此国毎里に程を記することかくのごとし。関戸の山路に入り三里関戸駅。(山中の村なり。)中屋重五郎の家に休す。一山をすぐれば多田といふ所あり。少く坦道を経て御庄川を渡る。里人に岩国山をとへば此川南の松山にして今城山といふ所なりと答ふ。柱野をすぎ入山の山路にいる。渓谷相分れて坂梯甚嶮なり。すべて雑樹なし。老松多して鬱葱たり。谷間の道甚長し。土人一に馬鹿谷(ばかだに)といふ。城主より撫院迎接の為に山上に茶亭を作る。皆松枝(まつがえ)青葉を束(つかね)て樊籬屋店(はんりをくてん)を作る。欽明寺坂を下りて四里久賀本郷駅なり。駅の南に嵯峨として聳たる嶺見ゆ。夫木(ふぼく)集中に詠ずる冰室(ひむろ)ならんか。土人冰室が嶽といふ。(夫木集に、周防氷室池詠人不知、こほりにし氷室の山を冬ながらこちふく風に解きやしぬらむ。)半里高森駅。愛宕屋与三郎の家に宿す。此日午後驟雨微涼。晩間暑はなはだし。夜尤甚し。行程七里半許。」
 黒河、小瀬川及岩国山の下に貞世(さだよ)の道ゆきぶりが引いてある。岩国山の歌が三首ある。「とまるべき宿だになきを駒なづむいはくに山にけふやくらさむ。たちかへり見る世もあらば人ならぬ岩国山を我友にせむ。たらちねのおやにつげばやあらしてふいは国山をけふはこえぬと。」小瀬川一名大竹川の所に所謂国史は続日本紀である。

     その四十五

 第三十四日は文化三年六月二十三日である。「廿三日卯時発す。二里今市駅。呼坂(よびざか)を経るに人家街衢をなす。撫院河内屋藤右衛門といふものの家に小休す。薬舗なり。蔵書数千巻を曝す。主人他に行故をもつて閲(けみ)することを不許(ゆるさず)。呼坂は蓋(けだ)し昔にいふところの海老坂なり。松山峠を経二里久保田駅(一名久保市)なり。二十八町花岡駅。山崎屋和兵衛の家に休す。主人手みづから比目魚(ひもくぎよ)を裁切して蓼葉酢(りくえふさく)に浸し食せしむ。味(あじはひ)最妙なり。山路を経るに田畝望尽(のぞみつき)て海漸く見(あらは)る。廿五町久米駅。廿四町遠石(とほいし)駅なり。右の岡上八幡の祠あり。又市中影向石(えいかういし)といふものあり。大石なり。上に馬蹄痕あり。土人の説に古昔宇佐八幡の神飛び来(きたつ)て此石上にとゞまるなりといへり。貞世紀行には此石海中にある文見ゆ。桑田碧海の歎おもふべし。人家の所尽て松原なり。青田瀰望また列松数千株めぐれり。松外は大海雲晴遠島飛帆その間に隠見す。半里野上駅。すなはち徳山城下なり。鶴屋新四郎の家に小休す。城此をはなるゝこと十町許(きよ)なり。浅井金蔵谷祐八(金蔵字(あざなは)子文祐八字子哲徳山の臣なり)のことを物色するに、みな安寧なりといへり。海面に佐島大山島を望。一里十二町富田駅にいたる。駅は山の半腹なり。山東南に面して海中に出るがごとし。海面は遠山延繚して中断し水天一色なり。海に傍(そ)ひたる坂をめぐりくだるとき、已夕陽紅を遠波にしきたり。やち川を渡り十九町福川駅。米屋七五郎の家に宿す。此駅より海面に島々見ゆる中に、せん島黒髪山島尤大なり。此日暑甚しけれども風あり。此日立秋なり。行程八里廿四町許。」
 貞世の道ゆきぶりを引くもの凡そ三箇所である。呼坂、遠石、富田が是である。呼坂は貞世が海老坂と書いてゐる。遠石の馬蹄を印した石は、貞世が過ぎた時まだ「浜の汐干のかた遙なる沖に」あつた。富田の浦から見える島々の中に、厳島といふ島もあつたと、貞世は記してゐる。
 詩。「宿福川駅、此日立秋。涼□水国早知秋。聒耳驚濤鳴枕頭。櫓響暗帰漁浦岸。燈光未寐酒家楼。短宵強半眠難熟。遠旅多般疾是憂。我已倦兮僕其※[#「やまいだれ+甫」、7巻-90-上-3]。経過十有二三州。」旅疲が詩の後半に見えてゐる。「疾是憂」とは云つても、猶幸に疾(や)むには至らなかつたらしい。
 第三十五日。「廿四日卯時発。一里矢地駅。一里半富海(とのみ)(一名戸(と)の海(み))駅なり。駅尽(つきて)山路にかかる。浮野嶢(うきのたうげ)といふ。すべる所、望む所、貞世紀行尽せり。山陽道中第一の勝景と覚ゆ。一里浮野駅。一里宮市駅。三倉屋甚兵衛の家に休す。佐南嶢(さなたうげ)といふ所をすぐ。山海園村の勝尤よし。富海山道に比するに路短しとす。金坂峠岩淵大とう村末村をへて四里半小郡(をごほり)駅。麻屋弥右衛門の家に宿す。居北に山を望南田畝平遠なり。庭前蓮池あり。荷葉傘(からかさ)のごとく花は径(わたり)八九寸許。白花多して玉のごとし。此日暑甚しからず。行程八里許。」
 浮野峠の下(もと)に又貞世の道ゆき振が引いてある。橘坂桑の山の歌各(おの/\)一首がある。「あら磯のみちよりもなほ足曳のやま立花の坂ぞくるしき。花すゝきますほの糸をみだすかな賤がかふこの桑の山風。」欄外に森枳園(きゑん)の筆と覚しき書入がある。「此あたりに佳境ありてむかしより詩歌にも人口にもあらはれざりしを、近比(ちかごろ)江戸人見出して絶景なりとし、はるかに大田南畝などに詩をつくらしむ。それより土人もしりて詩を諸方に乞ふ。此に引ところを見れば近世すでに賞せられしと見えたり。あるひは別に一嶺の佳処ありや。」此に引くところとは道ゆきぶりの語を謂ふのである。
 詩。「富海途中。天容海色望悠々。浮碧一桁豊後州。曲岸吾過東畔去。前人已在水西頭。小郡駅逆旅、池蓮盛開、花葉頗大、都下所未見、応主人需賦。芙※[#「くさかんむり/渠」、7巻-90-下-14]清沼遍。香気帯秋寒。葉是青羅傘。花為白玉盤。飜風声策々。経雨露溥々。剰有新肥藕。採来供晩餐。」

     その四十六

 第三十六日は文化三年六月二十五日である。「廿五日卯時発す。山路を経るに周防長門国界の碑あり。二里半山中駅なり。二又川を渡り二里半舟木駅。櫛屋太助の家に休す。売櫛家(くしをうるいへ)多し。土人説に上古此地に大なる樟木(くすのき)あり。神功皇后の三韓を征する時艨艟四十八艘を一木にて造れり。因て船木と名(なづ)く。其枝の延し所を涼木(すゞき)といひ(船木より四里)木末(こずゑ)の倒し所を木の末といふ。(船木より六里。)此近地より出る石炭は古樟の木片なるべし。木の末今は清末(きよすゑ)とあやまるといふ。船木川を渡り、くしめ坂を越え一里半浅市駅。福田より蓮台にいたる間美田長し。朝野弥太郎の千町田(ちまちだ)といふ。一里廿八町吉田駅。山城屋重兵衛の家に宿。此日暑不甚。行程八里許(きよ)。」船木の伝説は諸書に見えてゐる。宗祇の道の記にもある。
 第三十七日。「廿六日卯時発す。豊浦を経(豊浦は長府に神功皇后の廟ある故蓋(けだし)名くる也)海辺の松原をすぎ一里卯月駅なり。榎松原をすぐれば海上に干珠満珠島見ゆ。一里半長府。松屋養助の家に休す。蓮藕(れんぐう)を食せしむ。味(あぢはひ)尤妙なり。しかれども関東の柔滑と自異なり。神功皇后廟あり。頗荘麗なり。左に武内宿禰を祀り右に甲良玉垂神(かふらたまたれのかみ)を祀る。小祠甚多し。西に面し海を望て建つ。側に大樹松。囲(めぐり)三人抱余なり。皇后征韓の時手栽(てづからうゑ)て、もし凱陣ならば蒼栄すべし、しからずんば枯亡せよといへり。その松なりと土人の説なり。貞世の説と異なり。舞台もあり。(余童子のとき匠人金次といふもの長府侯江戸の邸第(ていてい)補修のとき長府二の宮舞台のはふのごとくなれと好のよし語れり。今目のあたり見ることを得たり。)此宮は長府の二の宮にて一の宮は此より一里北に住吉の神をまつると也。大内義隆(よしたか)造作の古宮(ふるみや)なりといへり。竜宮より奉る鐘ありといへり。又神功寺(真言宗)といふ寺二の宮の鳥居の側にあり。是亦義隆創立なりしが旧年火ありて今は一小寺なり。前田といへる山崖の海浜をすぐ。松樹万株連りて雑樹なし。図後に附す。壇の浦に至る。豊前の山々一眼にありて甚近がごとし。漁家千戸道路狭し。阿弥陀寺に詣(いた)る。寺僧先導して観しむ。安徳帝の陵上に廟を造て帝の木像を立。十年已前までは素質なるを近年彩色を加ふといふ。左右の障子に二位女公内侍より以下平戚(へいせき)の像を画く。古法眼元信の筆蹟なり。又廟廡金紙壁に平氏西敗の図あり。土佐光信の筆蹟なり。後山に入水平戚(じゆすゐへいせき)の塔あり。此寺古昔大内義隆の所造(つくるところ)なり。しかるを近年修補せり。寺を出て亀山八幡に詣る。一小岡にして海に臨(のぞみ)涼風灑(そゝぐ)がごとし。土人の説に聖武帝の貞観元年に宇佐より此地に移し祀といへり。是亦大内義隆の所造なり。舞台上より望ときは小倉内裏より長府の洋面に至まで一矚の中にあり。遂に二里下の関川崎屋久助の家に宿。地形は貞世の紀行尽せり。大坂より已来尾の道大輻湊の地なれども赤馬関は勝ること万々ならん。此日暑甚しからず。行程五里許。」
 神功皇后廟と馬関との下に又貞世の道ゆきぶりが引いてある。皇后手栽の松を記する本文に接して、「貞世の説と異なり」と云つてあるが、道ゆきぶりには松の事は言つて無い。貞世の文中皇后征韓の事に関するものは下(しも)の如くである。「壇のうらといふ事は皇后のひとの国うち給ひし御とき祈のために壇をたてさせ給ひたりけるよりかく名けけるとかや申也。其時の壇の石にて侍るとて御社(みやしろ)の前のみちの辺にしめ引まはしたる石あり。此御社はあなと豊浦の都の大内の跡にて侍とかや。」馬関の条(くだり)は貞世の文が長いから、此に省く。大要はかうである。昔馬関と門司が関との間には山があつて、其山に「潮の満干の道ばかり」の穴があつた。皇后が艤(ふなよそほひ)せさせ給うた後、一夜の程に山が裂けて速鞆(はやとも)のせととなつたと云ふのである。此伝説と穴門(あなと)の語とが後人の議論に上つたことは人の知る所である。
 詩。「赤馬関。瀕海商船会。既庶而且豊。寺存安徳廟。山古応神宮。蟹甲成奇鬼。硯材如紫銅。数家娼妓在。漫学浪華風。」

     その四十七

 第三十八日は文化三年六月二十七日である。「廿七日暁より雨大に降る。風亦甚し。因てなほ川崎屋にあり。一商人平家蟹を携て余にかはんことをすゝむ。乃(すなはち)□子亮蟹譜(ゆしりやうかいふ)に載する蟹殻如人面(じんめんのごと)きものありと称するものなり。午後風収(をさまり)雨霽(はる)。すなはち撫院の船に陪乗す。船大さ十四間幅五六間。柁工(たこう)三十余人。一堂に坐するごとし。少も動揺をおぼえず。撃鼓唱歌して船を出す。巌竜島を経て内裏の岸につき撫院舟より上(のぼつ)て公事あり。畢来(をはりきたつ)て船を出す。日久島をすぐ。石上に与次兵衛といふものの碑あり。豊臣太閤征韓のとき船此洲に膠(かう)して甚危かりし故船頭与次兵衛自殺せしとなり。北方は玄海灘渺々然として飛帆鳥のごとく後島(うしろのしま)はみな盃のごとし。壮雄限なし。日已申時。また大雨遽(にはかに)来り海面暗々たり。しかれども風なし。遂三里豊前小倉の三門(みかど)に著船す。余船主に乞て唱歌を書せしむ。黄帝といふ曲なり。小倉伊賀屋平兵衛の家に宿す。主人一書巻を展覧せしむ。黄檗(わうばく)福巌鉄文(ふくがんてつぶん)といふ元禄年中の僧の書なり。遒勁(いうけい)運動看るに足れり。此地亦一湊会なれども遠く赤馬関に不及。此日雨によりて涼し。海上三里許(きよ)。」
 註に所謂黄帝(くわうてい)の曲が載せてある。貨狄(くわてき)と云ふものが蜘蛛の木葉に乗るを見て舟を造り、黄帝に献じたと云ふ伝説を叙したものである。詞の初に三叉(みつまた)、駒形、待乳山の地名を挙げ、「見れば心もすみ田川流に浮ぶ一葉の舟の昔は」と云つて、舟の由来に入る。末に「此外に数曲ありといへり、撫院の云、文中に東都の地名あれば東都御舟歌ならんと、定て然らん」と云つてある。
 詩。「赤馬渡海、海雨驟至。長州絶海是豊州。撃鼓揚帆進鷁頭。玄海北連千万里。宝珠東現一※[#「隻+隻」、7巻-94-上-5]洲。風迎驟雨瀟々至。潮浸低雲闇々流。縦得呉児能踏浪。駆来許怒水神不。」※洲(さうしう)[#「隻+隻」、7巻-94-上-7]は干珠満珠の二島である。
 第三十九日。「廿八日卯時発す。豊筑の界及純素の城墟を経て海の入る処あり。くきの浦といふ。二里卅一丁黒崎駅。植松屋三郎兵衛の家に休す。二里卅四丁木屋(こや)の瀬。三輪屋久兵衛の家に宿す。此日午後風ありて小雨降。大に涼し。行程六里許。」純素の城墟は未だ考へない。
 第四十日。「廿九日卯時発す。能方(のうかた)川を渡り岩はな堤を経て小竹堤を行く。望ところ連山垣墻(ゑんしやう)のごとく東南に突兀(とつこつ)たる山あり。香春山(かはらやま)といふ。(春はらと訓(よむ)又同国に原田(はるた)といふ所あり、原をはると訓す、ゆゑ未詳(いまだつまびらかならず)。)一山みな黄楊(つげ)のみといへり。五里飯塚駅。伊勢屋藤次郎の家に休す。此駅天満宮及納祖八幡の祠あり。此日祇園祭事ありて大幟をたつ。「神道以祈祷為先、冥加以正直為本」の十四字を大書せり。亦一奇なり。未時雨大来。泥濘を衝て三里半内野駅。青山元貞(げんてい)の家に宿。此日涼し。行程八里許。」
 詩。「内野駅田家。茅茨半破竹扉斜。雨滴籬笆豌豆花。野犢随童過曲径。村□驚客去隣家。」

     その四十八

 第四十一日は文化三年七月朔(ついたち)である。「七月朔日(ついたち)四更に発す。冷水(ひやみづ)峠を越るに風雨甚し。轎中唯脚夫の□(つゑ)を石道に鳴すを聞のみ。夜明て雨やむ。顧望(こばうする)に木曾の碓冰(うすひ)にも劣らぬ山形なり。六里山家(やまが)駅。一商家(米家五兵衛)に休。日午なり。駅中に石を刻して蛭子神(ひるこのかみ)を造りて街頭に立つるあり。(宰府辺にいたるまで往々有り。)駅を離れて六本松の捷径を取り小礫川(せうれきせん)に傍(そう)て行く。右の方に巍然たるものは法満山(はふまんざん)なり。古歌に詠ずる所筑前第一の高山なり。古名竈山(かまどやま)といふ。寺院廿五房ありともいへり。天正年間には高橋某城を築けり。細川幽斎の紀行に見ゆ。芝山の際(きは)の狭路をすぎて二里大宰府にいたる。染川をすぎて境内に入る。染川まことに小流なり。天正年間すらすでにしかり。況や今にいたりてをや。境内に入るときは石鳥居、石橋、二王門、別殿、東西法華堂、薬師堂、浮堂(うきだう)、中門、回廊、本社、神楽堂、鐘楼、文庫等及末社おほし。此祠は延喜五年八月十九日安行僧都(あんぎやうそうづ)に勅定ありて造営あり。数百年を経て兵火のために炎失す。今の神殿は天正年中小早川隆景(たかかげ)筑前国主たるとき境内東西五十三間南北百七十間に定め、本殿は長九間横七間にして南面せり。後年黒田長政此国主たるによりて中門回廊諸堂末社の廃絶を継興す。(信恬(のぶさだ)按ずるに兵火のために炎失せしは天正八年に当れり。)飛梅社前の右にあり。博多画瓢坊(ぐわへうばう)の説に、明応七年兵燹(へいせん)にかかりて枯しを社僧祠官等歌よみて奉りたれば再び栄生せりといへり。其後天正の兵燹にも焚(やけ)しこと幽斎紀行に見ゆ。左に一株の松あり。みな柵を以て囲む。池は心の字の形なり。雁(がん)鴨(かも)□※(けいせき)[#「勅+鳥」、7巻-95-下-7]群集し鯉鮒游泳して人の足声を聞て浮み出づ。島ありて雁の巣ありといふ。三橋を架す。社地は古の安楽寺の地なり。延寿王院(神宮寺といふ)に入りて菅公真蹟を拝観す。双竪幅(さうじゆふく)。「離家三四年。落涙百千行。万事皆如夢。得々仰彼蒼。」〔此詩は杜子美(としび)の詩にして、誤て文草に入れたる論林羅山文集に見えたり。此等は公の古人の詩をかかせ給へるを見て、後人しらずして編集せしなり。賈至(かし)の詩を山谷(さんこく)集に入れし類ならんか。〕毎幅二行字三四寸大にして遵勁瀟灑(いうけいせうしや)たる行書なり。又小楷普門品(せうかいふもんぼん)毎行十七字にして字大(じのおほきさ)五分許(ばかり)楷法厳正なり。日已未後にして寺を出で五里原田駅なり。筑肥界をすぎ二里田代駅。難波屋喜平次の家に宿す。夜已初更なり。駅吏竹秉炬(ちくへいきよ)を持て迎ること里余。俗尤野陋とす。此日午後快晴。大に秋風あり。行程十二里許(きよ)。」
 竈山の条(くだり)に清原元輔の連歌と細川幽斎の九州道の記とが引いてある。元輔連歌。「春はもえ秋はこがるゝかまど山霞も霧も烟とぞなる。」幽斎は此山の沿革を説いてゐる。初め山に竈門山宝重寺(さうもんざんはうぢゆうじ)と云ふ寺があつて、山伏が住んでゐた。そこへ高橋某が城を築いた。後島津氏が岩屋の城を陥れた時、高橋も城を棄てて去り、山伏が又帰り来つたと云ふのである。「立つづく雲を千里(ちさと)のけぶりにてにぎはふ民のかまど山かな。」
 染川の条には歌が四首引いてある。古歌。「染川を渡らむ人のいかでかは色になるてふことのなからむ。」又「染川に宿かる波の早ければなき名立つとも今は恨みじ。」家隆。「山風のおろすもみぢの紅をまたいくしほか染川の浪。」藤孝。「老の波むかしにかへれ染川や色になるてふ心ばかりも。」幽斎の記にも「思ひしにはかはりたる小河のあさき流なり」と云ひ、長嘯子の記にも「水さへかれはてて昔のあとといふばかりなり」と云つてあるを引いて、其末に蘭軒は記した。「信恬按ずるに、此両記幽斎紀行は天正十五年勝俊は天正末つ方也。」
 菅廟の条には蘭軒が幽斎の文を引いて炎上の年を考へてゐる。「幽斎九州紀行は天正十五年豊太閣島津義久を討伐せしときしたがひて九州に下りし紀行なり。其文中に宰府は天神の住給ひし所と聞及しまま見物のためまかりける。彼寺は七とせばかりさき炎上してかたばかりなる仮殿(かりとの)なりと書きたり。すなはち炎上は天正八年に当れり。」
 飛梅の条にも亦幽斎の文が引いてある。「幽斎九州道の記、飛梅も古木は焼てきりけるに若ばえの生出て有を見て、鶯のはねをやとひて飛梅のかごにはいかでのらで来にけむ。」
 詩。「太宰府菅廟。行々筑紫旧山河。更向菅公祠廟過。一樹飛梅遺愛古。数般享祭歴年多。官途事業兼編史。謫地風光入詠歌。天道是非無奈得。聖賢従昔易蹉□。」

     その四十九

 第四十二日は文化三年七月二日である。「二日五更発す。一里轟(とゞろき)駅。一里半中原(なかはる)駅。二里神崎駅。小淵清右衛門の家に休す。駅中櫛田大明神祠あり。頗大なり。一里堺原(さかひはら)駅にいたる。無量寿山浄覚寺といへる一向宗の境内に高麗烏(かうらいがらす)あり。常の烏より小にして羽翼端半白し。声鶉に似たり。一に徒烏(いたづらがらす)と名づく。此辺往々ありといへり。形状全く喜鵲(きじやく)と覚。一里半佐賀城下。古河(こが)新内の家に宿す。晩餐の肴にあげまきといふ貝を供す。長さ一寸五分許(きよ)横五六分。味(あぢはひ)烏賊魚(いか)に似たり。佐賀侯より金三方を賜ふ。此日暑不甚。行程六里半許。」わたくしは九州に居ること三年、又其前後に北支那に従征して、高麗烏の鵲(じやく)たること蘭軒の説の如くなるを知つた。
 第四十三日。「三日卯時発す。田間を過るに西南に多羅嶽(たらがたけ)、南に温泉嶽(又雲仙と書)東南に柳川の諸山、東に久留米の山、西南間川上山、北に阿弥嶽、筑前の千振山(ちふりやま)等四面に崔嵬繚繞(さいくわいれうぜう)して雲間に秀突せり。二里牛津駅。二里小田駅なり。駅中道北に巨大の樟木(くすのき)あり。活木(くわつぼく)なり。就て馬頭観音を彫刻せり。半幹(はんかん)也。堂を構て梢葉(せうえふ)その上を蔽庇す。堂の大さ二間余にして観音の像中に満るの大さなり。樹の大なることしるべし。二里成瀬駅。(五十丁一里。)二里塚崎駅。一商家に休す。駅長の家の温泉に浴す。清潔にして味(あぢはひ)淡し。脚気、疝気を愈(いやす)といへり。三里(五十丁一里)嬉野(うれしの)駅。茶屋正兵衛に宿す。此駅毎戸茶商なり。温泉あり。此日秋暑尤甚し。行程九里許。」
 詩。「嬉野。□輿何趨歩。駅程将晩時。山痩多見骨。松老尽蟠枝。芳茗連家売。温泉一洞奇。村人秉竹火。迎我立荒岐。」
 第四十四日。「四日卯時発す。三の瀬村の□(こう)に十囲許(ゐきよの)樟木あり。中空朽(くうきう)の処六七畳席を布(し)くべし。九州地方大樟(たいしやう)尤多しといへども此(かくの)ごときは未見(いまだみず)。江戸を発して已来道中第一の大木なり。三里薗木(そのき)駅(一に彼杵(そのき)と書)なり。駅に出んとする路甚勝景なり。図巻末に附。鶴屋又兵衛の家に休す。三里松原駅。海辺路を経て桜の馬場といふ処あり。桜樹三四丁の列樹なり。花時おもふべし。又松林平にして海を環る二里大村城下。荒物屋三郎兵衛の家に宿す。鏑木雲潭(かぶらきうんたん)(名祥胤、字三吉(あざなはさんきつ)、河西野(かせいや)の次子)大村侯の命によりて今春よりこゝに家居して此夜来訪す。歓晤及暁(あかつきにおよび)てかへる。此日暑甚し。行程八里許。」
 欄外に森枳園(きゑん)の樟の大木の考証がある。樟の木の最大なるものは伊予国越智郡大三島にあると云ふのである。「樟の大樹いよの大三島にあるもの大さ廿八人囲(めぐり)を第一とす。次は廿一人囲、次は十八人囲、この類は極て多し。第一のものは今枯たりと云。」薗木駅の図も例の如く闕けてゐる。
 鏑木雲潭、名字は本文自註に見えてゐる。「河西野の次子」と云つてある。
 河西野は市河寛斎で、其長子が米庵(べいあん)三亥(がい)、次子が雲潭祥胤である。出でて鏑木梅渓の養子となつた。梅渓、名は世胤(せいいん)、字は君冑(くんちう)である。長崎の人で江戸に居つた。梅渓は享和三年二月四日に五十五歳を以て終つた。当時雲潭を肥前国に召致してゐたのは大村上総介純昌(すみよし)である。
 詩。「大村駅舎逢鏑雲潭。松原連古駅。残日照汀洲。忽値同郷客。却添思国愁。図成真海嶽。趣合旧風流。何把東都酒。共談此遠遊。」

     その五十

 第四十五日は文化三年七月五日である。「五日卯時発す。三里諫早(いさはや)。四里矢上(やかみ)駅。一商家に宿す。海浜の駅にして蟹尤多し。家に入り席(むしろ)に上る。此辺より婦人老にいたるまで眉あり。此日暑甚し。晩雨あり。行程七里許。」
 欄外に女子の眉を剃らざる風俗の事が追記してある。「二十年前長崎の徳見某の妻京にゆくとて神辺(かんなべ)駅に宿す。四十許(ばかり)の婦人眉あるを見んとて、四五人其宿にゆき窓に穴して見たるに、眉はなくして他国の人にことならず。後にきけば上方にゆくものはしばらく剃おとすと云。」蘭軒が菅茶山などの話を思ひ出でて枳園(きゑん)に命じて記せしめたものか。
 蘭軒の長崎に著いた旅行の第四十六日は、即ち文化三年七月六日である。「六日卯時発。一里日見(ひみ)峠なり。険路にして天下の跋渉家九州の箱根と名(なづ)く。山を下るとき撫院を迎ふるもの満路、余が輩にいたりても名刺を通じて迎(むかふる)もの百有余人なり。無縁堂一の瀬八幡をすぎ長崎村桜の馬場新大工町馬町勝山町八百屋町を経て立山庁邸にいたり、午後寓舎に入る。此日暑甚し。行程三里許(きよ)。」
 長崎奉行の役所は初め本博多町の寺沢志摩守広高が勤番屋敷址にあつた。これを森崎に移したのが寛永十年である。寛文十一年に至つて、岩原郷(いははらがう)立山に地を賜はり、延宝元年に新庁が造られた。これより立山を東役所、森崎を西役所と云ふ。曲淵(まがりぶち)は此立山庁邸に入つたのである。東役所址は今の諏訪公園の南麓県立女子師範学校の辺に当る。
 長崎紀行は此に終る。末に伊沢蘭軒の自署と印二顆とがある。白文は伊沢信恬(のぶさだ)朱文は字澹父(あざなはたんふ)で、澹は水に従ふ字を用ゐてある。
 詩集には長崎に到つた時の作として、長崎二絶、港営(こうえい)、清商館(しんしやうくわん)、蘭商舘各一絶がある。長崎の一首と清商館の作とを此に録する。「長崎。隔歳分知両鎮台。満郷人戸有余財。繁華不減三都会。都頼年々舶商来。清商館。入門如到一殊郷。比屋通街居舶商。西土休誇文物美。逸書多在我東方。」鎮台は奉行である。逸書の七字は蘭軒の手に成つて殊に妙を覚える。
 此より以下客崎(かくき)詩稿中に就いて月日を明にすべきものを拾つて行くことゝする。
 八月十四日に江戸御茶の水の料理店で、大田南畝が月を看て詩を作り、蘭軒に寄せ示した。南畝は長崎の出役を命ぜられたのが二年前であるから、丁度蘭軒と交代したやうなものである。書中には定めて前年の所見を説いて、少(わか)い友人のために便宜を謀つたことであらう。蘭軒が長崎にあつてこれに和した詩は、「風露清涼秋半天」云々の七律である。当時南畝が五十八歳、蘭軒が三十歳であつた。
 十五日には蘭軒が「中秋思郷」の七絶を作つた。「各処歓歌風裏伝。雲収幽岫月皎然。一千里外家山遠。応照団欒内集筵。」
 十七日には月前に詩を賦して江戸の友人に寄せた。「八月十七夜、対月寄懐木駿卿柴担人、去年此夜与両生同遊皇子村、駿卿有秋風一路稲花香句。村店浦笛夜清涼。窓竹翻風月満房。去歳今宵君記否。酔帰郊路稲花香。」駿卿(しゆんけい)は木村定良(さだよし)で前にも見えてゐる。担人(たんじん)は未だ考へない。
 九月の初に蘭軒は病のために酒を断つてゐたらしい。「九日。病余休酒怯秋風。佳節登高興政空。想得萱堂抱穉子。買花乱插小瓶中。」蘭軒の想像した家庭では、五十七歳の母曾能(その)が二歳の常三郎を抱いて菊を活けてゐた。しかし曾能は或は既に病褥にあつたかも知れない。後二月にして客遊中の子を見ること能はずして歿したからである。

     その五十一

 蘭軒が長崎に来た文化三年の九月十三日は後の月が好かつた。「十三夜偶成。瓊浦山環海似盤。参差帆外月輪寒。半宵偏倚南軒柱。抛却許多郷思看。」郷思は容易に抛ち得て尽きなかつたらしい。
 十三夜の詩の次に石崎鳳嶺に次韻した作がある。鳳嶺は千秋亭観月の詩を扇に題して、持つて来て見せた。月日は詳(つまびらか)にすることが出来ぬが、後の月よりは更に後の事であつただらう。「石崎士整与諸子同千秋亭賞月、題詩扇面、携来見示、即次韻。黄□秋醸熟盈瓶。乗月諸賢叩野□。恰好清談親対朗。更教妙画酔通霊。曲渓泉響添幽趣。叢桂花開送遠馨。扇面写来良夜興。新詩標格自亭亭。」士整(しせい)の下に「名融思(なはゆうし)、号鳳嶺(ほうれいとがうす)、観画吏(くわんぐわのり)、善詩画(しぐわをよくす)」と註し、又観画吏の傍(かたはら)に唐画目利(たうゑめきゝ)と朱書してある。
 鳳嶺の事は田能村竹田(たのむらちくでん)の竹田荘師友画録及竹田荘詩話に見えてゐる。画録に云く。「石融思。鎮之老画師也。予相識最旧。与渡辺鶴洲。為書画目利職。掌検閲清舶所齎古今書画。辨真贋定価直事。又鎮台有絵事。則必与焉。如中川侯之清俗紀聞、遠山侯之全象活眼此也。旁善西洋画。其子融済。亦善画。不墜家声矣。」詩話には士整が「士斉」に作つてある。そして「詩非其所長、故不録」と云つてある。竹田は鳳嶺の画を取つて其詩を取らなかつたものと見える。しかし猶これを待つに読書家を以てするを吝(をし)まなかつたことは、「贈瓊浦石崎君」の作に徴して知られる。「聞君踪跡不尋常。杜絶柴門読老荘。三尺枯桐焦有韻。千年古柏朽生香。松花院静落鋪径。※[#「題」の「頁」に代えて「鳥」、7巻-102-上-1]□簾低声入堂。相思魚箋題句了。已看簷隙満蟾光。」
 画録に載(の)する所の鳳嶺が同僚渡辺鶴洲は本(もと)小原氏、京都より長崎に徙(うつ)つた小原慶山の後だと、同じ画録に見えてゐる。しかし屠赤瑣々録(とせきさゝろく)には慶山の子は勘八、其裔(すゑ)は書物目利役某で、鶴洲は只長照寺の慶山の墓を祭つてゐるのだと云つてある。前者は天保四年に成り、後者は早く文政二年に集録したものだと云ふから、晩出の画録に従ふべきであらう。しかし長崎の人の記載に、「小原慶山、又渓山に作る、字は霞光、丹波の人、元禄中長崎絵師兼唐絵目利に任官、其子小原勘八、名は克紹、巴山と号す、聖堂書記役なり」と云つてある。屠赤瑣々録の文も遽に排斥すべきでは無い。竹田は小原、大原と二様に書してゐるが、小原が正しいらしい。
 これも九月中の事であらう。蘭軒は長川正長(ながかはせいちやう)の菊の詩に次韻した。正長、字(あざな)は補仁(ほじん)、観書の吏である。「六月拾遺菊於街上。植之園中。培養得功。遂至季秋。著花黄白両種。香満籬笆。」正長は七絶三首を作り、蘭軒はこれに和したのである。詩は略する。
 十月三日に蘭軒は文筆峰(ぶんひつほう)に登つた。「十月三日登文筆峰、帰路過茂樹六松蓼原諸村」として七絶三首がある。今其一を録する。「登臨文筆最高巓。勝景来供岩壑前。鏡様蒼溟拳様島。卸帆□浙数州船。」茶山の集に「次韻伊沢澹父登文筆峰」として二絶が見えてゐる。「尋石聴禽到絶巓。忽驚大観落尊前。雲濤北擁三韓地。帆席西来百粤船。」「酔対空洋踞絶巓。風帆直欲到尊前。傍人相指還相問。底是呉船是越船。」
 十一月二十二日に江戸で蘭軒の母が歿した。隆升軒信階の妻伊沢氏曾能で、所謂(いはゆる)家附の女(むすめ)である。年は五十七歳であつた。法諡(はふし)を快楽院是参貞如(けらくゐんぜさんていによ)大姉と云ふ。先霊名録には快楽院が快楽室に作つてある。伊沢分家の古い法諡に、軒と云ひ室と云つて、ことさらに院字を避けたらしい形迹のあるのは、伊藤東涯の「本天子脱□之後、居于其院、故崩後仍称之、臣下貴者亦或称、今斗□之人、父母既歿、必称曰某院、尤不可也、蓋所謂窃礼之不中者也、有志者忍以此称其親也哉」と云つた如く俗を匡(たゞ)すに意があつたのではなからうか。
 曾能は歴世略伝に拠るに、一子二女を生んだ。蘭軒と幾勢(きせ)、安佐(あさ)の二女とである。幾勢は蘭軒の姉であるが、安佐は其序次を詳にすることが出来ない。只安佐の生れたのが幾勢より後れてゐたことだけは明である。先霊名録に「知遊童女、隆升軒末女安佐、安永八年己亥十一月」として十日の条に載せてある。安永八年には幾勢は九歳、蘭軒は三歳であつた。末女とあるから幾勢より穉(をさな)かつたことは知られるが、蘭軒と孰(いづれ)か長孰か幼なるを知ることが出来ない。
 曾能の臨終には、定て三十六歳の幾勢が黒田家に暇を請うて来り侍してゐたであらう。これに反して三十歳の蘭軒は三百里外にあつて、母の死を夢にだに知らずにゐた。

     その五十二

 文化四年の元旦は蘭軒が長崎の寓居で迎へた。此官舎は立山の邸内にあつて、井の水が長崎水品の第一と称せられてゐたと云ふことが、徳見□堂(とくみじんだう)を接待した時の詩の註に見えてゐる。
 此年の最初の出来事にして月日を明にすべきものは明倫堂の釈奠(さくてん)である。明倫堂と云ふ学校は金沢、名古屋、小諸、高鍋(たかなべ)等にもあるが、長崎にも此名の学校があつた。山口、倉敷の学校は同じく明倫と名けたが、堂と云はずして館と云つた。わたくしは※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-103-下-12]詩集に於て明倫堂の名を見て、萩野由之(はぎのよしゆき)さんに質(たゞ)し、始て諸国に同名の黌舎(くわうしや)があつたことを知つた。
 長崎の明倫堂は素(もと)立山にあつたが、正徳元年中島鋳銭座址(ちうせんざし)に移された。当時祭酒を向井元仲と云つて、此年に堂宇を重修(ちようしう)することになつてゐた。
 蘭軒は恰も好し春の釈奠の日に会して、向井祭酒を見、又高松南陵の講書を聴いた。
 蘭軒の釈奠の詩は二首あつて、丙寅の冬「聞雪」の作と、丁卯の春徳見□堂に訪はれた作との間に介(はさ)まつてゐる。そこでわたくしはこれを春の釈奠と定めた。釈奠は春二月と秋八月とに行ふもので、上丁(しやうてい)の日に於てする。萩野さんに質すに、朝廷の例が上丁であるゆゑ、武家はこれを避けて中丁とした。しかし往々上丁を以てしたこともあるさうである。わたくしは姑(しばら)く長崎明倫堂の丁卯春の釈奠は中丁を以てしたものと定める。
 さて暦を繰つて見れば、文化四年二月の丁日は五日、十五日、二十五日であつた。中丁は即ち二月十五日である。
 蘭軒は二月十五日に明倫堂に上つて釈奠の儀に列した。「明倫堂釈菜席上贈祭酒向井元仲。瓦屋石階祀聖堂。百年経歴鎮斯郷。遺言総是乾坤則。明徳長懸日月光。匏竹迎神声粛調。粢盛在器気馨香。更忻世業君能継。今歳重修数仞墻。」向井元仲の下に「名富(なはふ)、字大賚(あざなはたいらい)」と註し、又第八の下に「今年有堂宇重修之挙、故云」と註してある。
 向井元仲は霊蘭の裔(すゑ)である。霊蘭元升は肥前神崎郡酒村の人向井兼義の孫であつた。兼義の次男が由右衛門兼秀で、兼秀の次男が霊蘭であつた。霊蘭は薙髪(ちはつ)して医を業としてゐたが、万治元年に京都に徙(うつ)り、伊勢大神宮に詣でて髪を束ねた。霊蘭に五子四女があつた。長子仁焉子元端は一に雲軒と号し、医を以て朝に仕へ、益寿院と称した。長女春は早世した。二子義焉子元淵、名は兼時、小字(をさなな)は平二郎、後俳人落柿舎去来となつた。二女佐世は宇野氏に嫁した。三子礼焉子元成は一に魯町(ろてい)と号して儒となつた。通称は小源太であつた。四子智焉子利文、通称は七郎左衛門、出でて久米氏を嗣いだ。三女千代は清水氏に嫁した。田能村竹田の記に霊蘭の女千子(せんこ)が俳諧を善くしたと云ふのは此人か。五子信焉子兼之は通称城右衛門であつた。四女は八重と云つた。元成は延宝七年に長崎に還り、陸□軒(りくちんけん)南部草寿の後を襲いで、立山の学職に補せられた。元成より兼命元欽を経て兼般元仲に至り、元仲の後兼美、兼哲、兼通、兼雄を経て今の向井兼孝さんに至つたのださうである。
 蘭軒が元仲に贈つた詩の後に、又七律一首がある。「同前席上呈南陵高松先生、是日先生説書。久聞瓊浦旧儒宗。今日明倫堂上逢。霽月光風存徳望。霜鬚仙眼見奇容。詩書講義人函丈。音韻闡微誰比縦。桃李君門春定遍。此身覊絆奈難従。」南陵高松先生の下(しも)に「先生名文熈(なはぶんき)、字季績(あざなはきせき)、於音韻学尤精究、釈文雄(しやくぶんゆう)以来一人也」と註してある。
 竹田詩話に「余遊鎮、留僅一旬、所知唯四人、曰迂斎、東渓、南陵、石崎士斉、而南陵未及読其作」と云つてある。迂斎は吉村正隆、東渓は松浦陶である。南陵は此高松文熈であらうか。
 蘭軒は南陵を以て文雄以来の一人だとしてゐる。文雄の事は細説を須(ま)たぬであらう。磨光韻鏡等の著者で、京都の了蓮寺、大坂の伝光寺に住してゐた。字は豁然(くわつねん)、蓮社と号し、又了蓮寺が錦町にあつたので、尚絅堂(しやうけいだう)と号した。多く無相の名を以て行はれてゐる。

     その五十三

 此年文化四年に蘭軒は長崎にあつて底事(なにごと)を做(な)したか、わたくしはこれを詳(つまびらか)にすることが出来ない。※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-105-下-13]詩集を検するに、その交つた人々には徳見□堂(じんだう)があり、劉夢沢(りうむたく)があり、長川某がある。又春風頼惟疆(しゆんぷうらいゐきやう)の来り訪ふに会した。清人(しんひと)にして蘭軒と遊んだものには、先づ伊沢信平さんの所蔵の蘭軒文集に見えてゐる張秋琴(ちやうしうきん)がある。次に程赤城(ていせきじやう)があり、胡兆新(こてうしん)があると、歴世略伝に見えてゐる。又わたくしが嘗て伊沢良子刀自を訪うて検し得た文書の中に、陸秋実(りくしうじつ)といふものの蘭軒に次韻した詩があり、柏軒門の松田道夫(だうふ)さんの話には江芸閣(こううんかく)も亦蘭軒と交つたさうである。
 徳見□堂、名は昌(しやう)である。「長崎宿老」と註してある。「春日徳見□堂来訪、手携都籃煮茶、賦謝」として七絶一首が集に載せてある。蘭軒の寓舎の井水(せいすゐ)が長崎水品の第一だと云ふことは、此詩の註に見えてゐる。
 劉夢沢は長崎崇福寺の墓に山陽の撰んだ碑陰の記がある。「諱大基。字君美。号夢沢。通称仁左衛門。家系出於彭城之劉。因氏彭城。世為訳吏。君独棄宦。下帷授徒。多従学者。文政三年庚辰十月廿九日病歿。享年四十三。友人藝国頼襄惜其有志而無年也。為識其墓如此。」蘭軒の集には、「劉君美春夜酔後過丸山花街、忽見一園中花盛開、遂攀樹折花、誤墜園中、有嫖子数人来叱、看之即熟人也、君美謝罪而去云、詩以調之」として七絶が二首ある。其一に「謾被誰何君莫怪、仙□旧自識劉郎」の句がある。
 長川某との応酬には、「賦蘭、寿長川翁」の五律がある。上(かみ)に見えた長川正長(せいちやう)と同人か異人かを詳にしない。
 張秋琴には二月に面晤した。蘭軒がこれに与ふる書にかう云つてある。「今年二月詣館中也。訳司陳惟賢引僕見先生。僕層々喜可知。当日戯曲設場。観者群喧。故不得尽其辞。(中略。)夫説書之業。漢儒専於訓詁。宋儒長於論説。而晋唐者漢之末流。元明者宋之余波也。至貴朝。則一大信古考拠之学。涌然振起。注一古書。必讐異於数本。考証於群籍。以僕寡見。且猶所閲。有山海経新校正。爾雅正義。明道板国語札記。大戴礼補註。古列女伝考証。呂覧墨子晏子春秋等校注。是皆不以臆次刪定一字。而讐異考証。所至尽也。不似朱明澆薄之世。妄加殺青。古書日益疵瑕也。只怪未見古医書之有考証者。近年有楓橋周錫□所刻華氏中蔵経。全拠宋本。而其脱文処。由呉氏本補入。毎下一按字以別之。不敢混淆。雖未得考拠之備。蓋信古者也。其他似斯者。亦無見矣。謹問貴邦当時医家者流。於信古考証之学。其人其書。有何等者歟。」わたくしは張の奈何(いか)に答へたかを知らない。蘭軒を張に紹介した陳惟賢(ちんゐけん)も或は清客か。
 程霞生赤城、一字(じ)は相塘(しやうたう)である。屡(しば/\)長崎に来去して国語を解し諺文(げんぶん)を識つてゐた。「こりずまに書くや此仮名文字まじり人は笑へど書くや此仮名」とか云ふ歌をさへ作つた。程の筆迹は今猶存してゐて、往々見ることがあるさうである。
 胡振、字は兆新、号は星池である。医にして書を善くした。江戸の人秦星池(はたせいち)は胡の書法を伝へて名を成したのだと云ふ。「星池秦其馨、書法遒逸、名声日興、旧嘗遊崎陽、私淑呉人胡兆新、遂能伝其訣、独喜使羊毫筆」と五山堂詩話に見えてゐる。山陽と陸如金(りくじよきん)と云ふものとの筆話に胡に言及し、「施薬市上」と云つてある。

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