伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

 三月二十九日に森枳園の許より「いろは字原考」二冊が来た。「廿九日。(三月。)陰。東京森よりいろは字原考二冊到来。」いろは字原考は枳園の著す所で、其刊行の事は下(しも)に引く書牘(しよどく)に見えてゐる。此書は世間に多く存せぬらしく、わたくしは未だ寓目しない。又国書解題を検したが見えなかつた。
 五月八日に棠軒は「姫路鳥取行」の途に上つた。是は姫路に妹婿土方伴(ひぢかたはん)六正旗(せいき)を訪ひ、鳥取に顕忠寺中の兄田中悌庵が墓を展したのださうである。
「八日。(五月。)晴。今夜姫路鳥取行乗船。但安石同伴夜四つ時前四(よ)つ樋(ひ)より竹忠船(たけちゆうふね)へ乗込。直出帆。」
「九日。晴。昼九つ時頃讚州多度津湊(たどつみなと)へ著船。金刀比羅宮(ことひらのみや)参拝。夜五つ時頃人車に而(て)帰船。」
「十日。晴。多度津碇泊。」
「十一日。晴。暁出帆。暫時与島(よしま)へ碇休。夕出崎(でさき)碇泊。」
「十二日。晴。夜大風。暁出帆。小豆島へ碇泊。」
「十三日。風雨。同所碇泊。」
「十四日。晴。天明(てんめい)出帆。午刻頃播州伊津湊(いつみなと)へ著船。同所より姫路迄四里半。此より上陸。三所川あり。何(いづれ)も昨雨に而出水。暮時姫路城内桐の馬場土方に著。」土方伴六は酒井忠邦の倉奉行であつた。贈遺を記する文中に「お柳」、「お作」の名があり、又「お作婿山本又市、今名(きんめい)もちよし」と云つてある。棠軒の妹にして伴六の妻なる烈に柳、作、久の三女があつた。柳は坂本氏に適(ゆ)き、作は山本氏に適き、久は長野氏に適いた。
「十五日。晴。逗留。」
「十六日。晴。午刻より土方出立。手尾(てを)迄伴六亀児(かめじ)送来。夫より分袂(ぶんべい)。飾西(しきさい)、觜崎(はしざき)、千本(せんぼん)、三日月(みかづき)也。觜崎より人車に而暮過三日月駅石川吉兵衛へ著。」亀児とは誰か。伴六の女久が長野氏に嫁して生んだ四子は、義雄、亀次郎、悦三郎、信吉である。亀次郎は今参謀本部陸地測量部技師である。亀児は此人であらう。
「十七日。晴。朝飯より出立。人車に而平福(ひらふく)迄、当駅より小原(おはら)迄、夫より坂根(さかね)迄人車行。此日駒帰(こまがへり)迄大難坂(だいなんばん)也。夫より知津(ちづ)駅迄下り坂。当駅桝屋善十郎へ著。」
「十八日。晴。朝飯より出立。用(よう)が瀬(せ)迄小坂五六あり。当駅より人車に而布袋(ほてい)村迄、夫より歩行、午後一時頃味野(あぢの)村へ著。」
「十九日。雨。信慶実家森本善次郎へ被招行飲(まねかれゆきのむ)。」信慶は田中悌庵の養子である。此より日々招宴遊宴等がある。
「廿七日。晴。朝微雨。夕陰(ゆふべくもる)。とめ女召連、天明味野出立。上之茶屋(かみのちやや)迄同人駕行(かごにてゆく)。当所迄信慶(中略)送来。夫より人車三乗、用が瀬より駕一挺、知津に而午支度。夫より歩行。野原駅松見屋某へ著。甚(はなはだ)□(そ)。」とめ女は田中悌庵の第七女で今の木下大尉通敏(みちとし)さんの母である。
「廿八日。夜来雨。午前九時頃出立。風雨。関本駅とめ乗輿(じようよ)。水島善四郎止宿。」
「廿九日。雨。午後より漸晴。早昼支度に而出立。とめ駕行。楢村(ならむら)より歩行。夕七つ時津山京町大笹屋に著。大家也。」
「三十日。晴。朝飯より人車三乗に而出立。亀の甲より歩行。又弓削(ゆげ)より人車。福渡(ふくわたり)より駕一挺。夕七時前間(あひ)の宿(しゆく)久保に而藤原沢次郎へ著。」
「三十一日。晴。朝飯より駕一挺為舁(かゝせ)出立。高田より歩行。足守(あしもり)より中原迄人車。又岡田より人車に而夕八半時頃矢掛(やかけ)駅小西屋善三郎へ著。」
「六月一日。晴。午前十時頃出立。駕一挺高屋(たかや)迄。同所より人車三乗。暮時帰宅。」

     その三百六十五

 棠軒は明治乙亥六月一日に鳥取から吉津村の家に帰つた。
 日録は此より下(しも)十一月九日に至つて絶えてゐる。其間記すべきものは棠軒の子三郎の死があるのみである。「四日。(十月。)晴。昨夜より三児不快不出来に付、安石同道水呑辺釣行約之処止。午後三時遂に死去。即夜十時出葬。」「九日。晴。純法童子初七日逮夜之処、挙家痢疾に付招客略す。」純法童子は三郎の法諡(はふし)である。庚午八月二十五日の生であつたから、六歳にして歿したのである。文中「挙家痢疾」の四字は注目に値する。按ずるに当時痢(り)が備後地方に行はれて、棠軒の家族は皆これに感染し、三郎が独り先づ殪(たふ)れたのではなからうか。
 棠軒が日録の筆を絶つた次の日、乙亥十一月十日に東京にある森枳園が書を棠軒に与へた。下にこれを節録する。「昨年来蘭軒医談遺板に付て補刊仕(ほかんつかまつり)、前の板下書候梶原平兵衛も既に歿後、不得已(やむをえず)拙筆にて補板仕候。(中略。)外に以呂波字源考一冊、詩史顰(ししひん)一冊、共に上木仕候。(中略。)市野光彦(くわうげん)の家、跡方もなく断絶の様子。町人の学者はわづか三右衛門といへる川柳点(せんりうてん)も、□斎翁は誰も知れど、迷庵は誰も知らず、因て之を刻し世に公にせば、少年、抽斎と同じく升堂(しようだう)したる報恩の一端にも可相成乎と、拙筆を以て刊行仕候。(中略。)巻首の四大字は東久世通禧(ひがしくぜみちよし)公、次は養素軒柳原大納言前光(さきみつ)公、愛古堂磐渓、秋月公、大給亀崖(おぎふきがい)公(即松平縫殿頭(ぬひのかみ)の事也)、跋は片桐玄理と申せし家塾に居りし御存之者(ごぞんじのもの)、今文部の督学寮に出仕いたし居申候。僕も壬申以来文部へ出仕、間もなく被免(めんぜられ)、医学校へ出、編書課に在、亦免官、朝野新聞に入、成島柳北と相交(あひまじはり)、夫より工学寮の本朝学課長となり、十月来又々被免、此節は閑無事(かんぶじ)、書肆の頼に付、真片仮名(しんかたかな)の雑書編成仕居候。(中略。)狩谷此節上野広小路へ御引越、是亦平安也。(中略。)喜多村安正類中を発す。関藤藤陰も亦発す。塩田良三(りやうさん)益盛なる勢、この驥尾に附て矢島玄碩、井口栄春の類(たぐひ)も官員様大出来也。阿部正学(まさたか)公も御出府之処、其節正桓(まさたけ)公に随従して、日光へ参詣いたし候故、遂に不得相見、残念至極に奉存候。(中略。)出府にても何も別段之事も無之、先旧習は追々脱し候様には候へども、とかく日本と唐(から)好きにて、中々不相易(あひかはらず)一寸も引けは取不申候。」(下略。)
 枳園は既に蘭軒医談を校刻して、又自著以呂波字源考、市野迷庵撰詩史顰を校刻した。蘭軒医談の筆工は梶原平兵衛で、其補筆は枳園の手に成つた。以呂波字源考がわたくしの未見の書なることは上(かみ)に云つた如くである。詩史顰も亦未だ読まぬが、渋江氏は曾てこれを蔵してゐたと云ふ。其序跋の事は本文に詳(つまびらか)である。
「市野光彦の家、跡方もなく断絶の様子。」迷庵光彦(くわうげん)の子は光寿(くわうじゆ)で天保十一年に歿し、光寿の子光徳(くわうとく)は父に先(さきだ)つて天保三年に歿し、光徳の子源三郎、後の称寅吉は当時亀島町に住してゐた。所謂断絶は書香(しよかう)の絶えた事を謂ふものと看るべきである。
 この書牘(しよどく)には猶注すべき事がある。

     その三百六十六

 明治乙亥十一月十日に森枳園が棠軒に与へた書は、既に注する所を除いて、猶枳園の壬申以後の内外生活を後に伝ふるものとして尊重しなくてはならない。内生活は末の「日本と唐好き」の一節に由つて忖度(そんたく)せられる。外生活は早く寿蔵碑に、「五月至東京、是月廿七日補文部省十等出仕、爾後或入医学校為編書、或入工学寮為講辯」の句があるが、これを此書の「壬申以来文部へ出仕」云々(しか/″\)の一節に較ぶれば、広略日を同じうして語るべからざるものがある。わたくし共は此書を見て、枳園が己卯に大蔵省に仕ふるに先(さきだ)つて、文部省出仕、医学校編修、朝野新聞記者、工学寮課長を順次に経歴したことを知つた。是は未だ嘗て公にせられなかつた新事実である。
 次に此書中より見出されたのは、狩谷□斎の養孫矩之が本所横川より上野広小路に徙(うつ)つた時期である。わたくしは上(かみ)に此移居が明治五六年の交(かう)であつたと云ふ一説を挙げた。枳園の「此節」は三年前若くは二年前を謂つたものではなささうである。矩之は或は乙亥に入つてより後に徙つたのではなからうか。曾能子刀自は此広小路の家を記憶してゐる。大抵今杉山勧工場のある辺の裏通にあつて、土蔵造の三階であつたと云ふ。
 わたくしは此に一の疑問を提起する。それは狩谷従之(じゆうし)の事である。□斎望之の後は其子懐之、懐之の養子矩之、矩之の子三市(いち)で、三市さんは現に小石川区宮下町に住んでゐる。然るに安政中より維新に至るまでの間に、狩谷従之と云ふものがあつて、文雅人名録の類に載せられてゐる。従之は字(あざな)を善卿(ぜんけい)と云ひ、通称を三右衛門と云ひ、融々(ゆう/\)又周(しう)二と号した。家は神田明神前にあつた。人名録の肩には「画」と記してある。その名に「之」字を用ひ、字に「卿」字を用ゐ、「三右衛門」とさへ称するを見れば、人をして望之の族たることを想はしめる。望之の家は三右衛門望之、三平懐之、三右衛門矩之、三市である。従之の氏名字号通称は相似たることも亦甚だしいではないか。
 試に其時代の同異を推すに、三右衛門従之は三平懐之が歿し、三右衛門矩之が嗣(つ)いだ頃から世に聞え始めた。しかし矩之は当時十四五歳の少年であつたから、従之は必ずこれより長じてゐたであらう。又矩之は本所の津軽邸内に蟄してゐたのに、従之は昔望之の住んだ湯島を距(さ)ること遠からぬ神田明神前に門戸を張つて画師をしてゐたのである。語を換へて言へば、安政以後には二人の狩谷三右衛門が並存してゐて、□斎の嫡孫(てきそん)に係るものは隠れて世に知られず、却て彼三右衛門従之が名を藝苑に列してゐた。
 わたくしは曩(さき)に従之の名を挙げて三市さんに問うた。しかし三市さんは夢にだに知らなかつたと云ふ。父と同世同氏同称の人があつたことは、三市さんの家に於ては曾(かつ)て話題にだに上らなかつたと見える。
 世上に若し従之の何者なるを知つた人があるならば、どうぞ事の真相を発表してわたくしの疑を釈(と)いてもらひたい。

     その三百六十七

 森枳園乙亥十一月十日の書には、猶関藤藤陰が喜多村安正と同時に類中風(るゐちゆうふう)を発した事が言つてある。又塩田良三、矢島玄碩の仕宦を評した一句がある。良三、後の真(しん)と云ひ、渋江優善(やすよし)、当時の矢島と云ひ、並に皆枳園の平素甚だ敬重せざる所であつた。それゆゑに枳園は劇を評する語を藉(か)り来つて、「官員様大出来也」と云つたのである。
 書中には又阿部正学(まさたか)の東京に来た事がある。正学、通称は直之丞、これと日夕往来した棠軒は、其日記に「直吉」と書してゐる。是は維新後の称である。素(もと)福山侯の分家で、正学は前(さき)に棠軒を率(ゐ)て駿府加番に赴いた隼人正純(はいとまさずみ)の継嗣である。枳園は此人の入京した時、偶(たま/\)阿部宗家の正桓(まさたけ)に扈随して日光に往つてゐたので、相見るに及ばなかつた。以上は枳園尺牘(せきどく)の註脚である。
 上(かみ)に云つた如く、枳園の此書を裁した十一日は、棠軒の筆を日録に絶つた十日の翌日である。棠軒は何故に筆を絶つたか。
 按ずるに棠軒は病のために日録を罷めたのである。此事実は下(しも)に引く清川玄道の書牘(しよどく)に見えてゐる。十一月四日には幼児三郎が死んだ。九日には日記に「挙家痢疾」の語がある。そして棠軒は実に此月十六日を以て歿してゐる。日録を罷めた後僅に六日である。
 わたくしは此に於て想像する。三郎は痢を病んで死んだ。次で全家が痢を病んだ。棠軒も亦これに感染して死んだ。わたくしは此の如くに想像する。
 棠軒は乙亥の歳十一月十六日に四十二歳にして歿した。「病死御届。第二大区深津郡小二十一区吉津村三百二十七番地、士族、伊沢棠軒。右之者十一月十七日病死仕候。此段御届奉申上候、以上。明治八年十一月。右長男、伊沢徳。小田県参事益田包義殿。」喪は次日に発せられたのである。
 尋(つい)で棠軒未亡人柏(かえ)は徳(めぐむ)の家督相続を県庁に稟請した。「家督相続御願。第二大区深津郡小廿一区吉津村三百二十七番地、士族、伊沢棠軒亡長男、伊沢徳。右者先般御届仕居候通、棠軒病死仕候に付、跡相続之儀者書面之者に被仰付被成下度、此段奉願候、以上。明治八年十一月。伊沢徳母、かよ。小田県参事益田包義殿。」徳は時に十七歳であつた。
 棠軒生前に枳園の寄せた書は、果して棠軒の閲読を経たかどうか不詳である。棠軒歿後に清川玄道の徳に与へた書は、猶徳さんの蔵儲中にある。「尊大君事十一月十日夜半より御発病(中略)、同月十七日遂に御遠行之趣(中略)、御愁傷之程奉恐察候。三郎君にも十月四日痢症にて御遠行之由、重々の御愁傷紙上御悔難尽儀(おんくやみつきがたきぎ)に被存候。母堂君久々御不快之趣(中略)、折角御保摂奉祷候(ごはうせついのりたてまつりそろ)。(中略。)手前方にても、八月十七日長女とゑ病死、(中略)、虚労(きよらう)症にて遂に下泉殆当惑罷在候。(中略。)御従弟、横浜住居之おとし殿及旧門下之仁にも(中略)御為知(おんしらせ)申上候事に御坐候。(中略。)養母始宮崎姉共も宜敷申上候様申出候。(下略。)十二月五日認。清川玄道。伊沢徳様。」伊沢清川両家の親族の名は今一々注せない。
 此年徳十七、母柏四十一、姉長(津山碧山妻)二十二、良二十、弟季男一つ(以上福山)、磐二十七、母春五十一、弟信平(宗家養嗣子)十五、姉国(狩谷矩之妻)三十二、妹安廿四であつた。

     その三百六十八

 わたくしは蘭軒歿後の事を叙して養孫棠軒の歿した明治乙亥の年に至つた。所謂伊沢分家は今の主人(あるじ)徳(めぐむ)さんの世となつたのである。以下今に□(いた)るまでの家族の婚嫁生歿を列記して以て此稿を畢(をは)らうとおもふ。
 明治九年三月七日、徳の幼弟季男が生れて二歳にして夭した。
 十一年徳が東京に入つた。時に年二十。
 十二年徳が母柏を東京に迎へた。
 十三年四月四日徳の姉良(よし)が所謂又分家の磐(いはほ)に嫁した。磐三十二、良二十五の時である。
 十四年九月三十日磐の長子信一(のぶかず)が生れた。
 十七年十二月二十日磐の長女曾能(その)が生れた。磐が陸軍士官学校御用掛となつて仏語を士官学生に授くることとなつたのは此年である。時に磐年三十六。わたくしは前に磐が電信術を修めたことを記した。しかし終にこれを業とするには至らなかつたらしい。既にして磐は力を仏語を学習することに専(もつぱら)にした。上(かみ)に引いた枳園乙亥の書中、「御分家磐様にも日々の様に御出、洋学勉強之事感心仕候、近々何れへ歟任官相成可申なれど、何分数齟齬いたし、未だ間暇に御坐候」の一節は、磐が干禄(かんろく)の端緒を窺ふに足るものである。
 二十年徳が羽野(はの)氏かねを娶(めと)つた。磐の第二子善芳(ぜんはう)が十月二十八日に生れて三十日に夭した。
 二十一年磐が下総国佐倉に徙(うつ)つた。東京今川小路の家より佐倉新町芝本久兵衛方に移つたのである。是は佐倉にある陸軍将校に仏語を授けむがためであつた。時に年四十。
 二十二年徳の長女たかよが生れた。磐の第二女かつが十月に生れて十二月十三日に夭した。
 二十三年八月磐が佐倉の寓を撤して赤羽に舎(やど)つた。当時狩谷矩之が赤羽にゐて東道主人をなしたのである。在桜(ざいあう)日記、在羽(ざいう)日記が良子刀自の許にある。「桜」はさくら、「羽」はあかばねである。時に磐四十二、矩之四十八、国四十七。信平はボストンに遊学してゐた。年三十。
 二十八年徳の長子精(せい)が三月二十二日に生れ、二十六日に夭した。
 三十年徳の第二女ちよが九月三十日に巣鴨の監獄役宅に生れた。徳は監獄の吏となつてゐたのである。磐の三女ふみが一月二十九日に、第二子信治(のぶはる)が十月三十日に生れた。
 三十三年二月四日磐の第三子玄隆(げんりう)が生れて夭した。尋(つい)で五月十一日に長子信一が二十歳にして世を早うした。「灯に独り書を読む寒さ哉。空阿(くうあ)。」空阿は磐である。
 三十五年二月二十二日徳の第二子信匡(のぶたゞ)が生れた。磐の母春が十一月二十四日に七十八歳にして歿した。「折もよし母のみとりを冬籠。磐五十四歳。」此年六月十九日宗家を継いだ信平が宮内省医局御用掛を拝した。
 三十八年十一月二十四日磐が五十七歳にして歿した。
 四十年二月二十五日徳の第三子信道(のぶみち)が生れた。
 四十一年八月三十日徳の妻かねが四十一歳にして牛込区富久町の家に歿した。
 四十三年八月二十三日徳の第三子信道が四歳にして夭した。
 大正四年七月十三日信治の叔母(しゆくぼ)、狩谷矩之の未亡人国が七十二歳にして歿した。是より先三十三年一月五日に矩之は歿したのである。
 五年信治の叔母安が六十五歳にして歿した。安は下野国の茶商須藤辨吉の妻であつた。
 此間明治十年に池田氏で京水の三男生田玄俊(いくたげんしゆん)、小字(せうじ)桓三郎が摂津国伊丹に歿し、十三年に小島氏で春澳瞻淇(しゆんいくせんき)が歿し、十四年に池田氏で初代全安が歿し、十八年に森氏で枳園が歿し、又石川氏で貞白が歿し、三十一年に小島氏で春沂(しゆんき)未亡人が歿し、三十三年に狩谷氏で既記の如く矩之が歿した。
 今茲(こんじ)大正六年に東大久保にある伊沢分家では徳五十九、母柏改曾能八十三、姉長(在福山津山碧山未亡人)六十四、子信匡十六、女(ぢよ)たかよ二十九、ちよ二十一、赤坂区氷川町清水氏寓伊沢又分家では信治二十一、母良六十二、姉その(清水夏雲妻)三十四、ふみ二十一、麻布鳥居坂町の宗家を継いだ叔父信平五十七である。以上が蘭軒末葉の現存者である。

     その三百六十九

 わたくしは伊沢蘭軒の事蹟を叙して其子孫に及び、最後に今茲(こんじ)丁巳に現存せる後裔を数へた。わたくしは前(さき)に蘭軒を叙し畢(をは)つた時、これに論賛を附せなかつた如くに、今叙述全く終つた後も、復総評のために辞(ことば)を費さぬであらう。是はわたくしの自ら擇んだ所の伝記の体例が、然ることを期せずして自ら然らしむるのである。
 わたくしは筆を行(や)るに当つて事実を伝ふることを専(もつぱら)にし、努(つとめ)て叙事の想像に渉(わた)ることを避けた。客観の上に立脚することを欲して、復主観を縦(ほしい)まゝにすることを欲せなかつた。その或は体例に背(そむ)きたるが如き迹あるものは、事実に欠陥あるが故に想像を藉りて補填し、客観の及ばざる所あるが故に主観を倩(やと)つて充足したに過ぎない。若し今事の伝ふべきを伝へ畢つて、言(こと)讚評に亘ることを敢てしたならば、是は想像の馳騁、主観の放肆を免れざる事となるであらう。わたくしは断乎としてこれを斥ける。
 蘭軒は何者であつたか。榛軒柏軒将(はた)何者であつたか。是は各人がわたくしの伝ふる所の事実の上に、随意に建設することを得べき空中の楼閣である。善悪智愚醇□(じゆんり)功過、あらゆる美刺褒貶(びしはうへん)は人々の見る所に従つて自由に下すことを得る判断である。
 わたくしは果して能く此の如き余地遊隙(よちいうげき)を保留して筆を行ることを得たか。若し然りと云はゞ、わたくしは成功したのである。若し然らずして、わたくしが識らず知らずの間に、人に強(し)ふるに自家の私見を以てし、束縛し、阻礙し、誘引し、懐柔したならば、わたくしは失敗したのである。
 史筆の選択取舎せざること能はざるは勿論である。選択取舎は批評に須(ま)つことがある。しかし此不可避の批評は事実の批評である。価値の判断では無い。二者を限劃することは、果して操觚者の能く為す所であらうか、将為すこと能はざる所であらうか。わたくしはその為し得べきものなることを信ずる。
 わたくしは上(かみ)に体例と云つた。しかし是は僭越の語である。体例を創するは凡庸人の力の及ぶ所では無い。わたくしが体例と云つたのは、自家の出発点を明にせむがために、姑(しばら)く妄(みだり)に命名した所に過ぎない。わたくしは古今幾多の伝記を読んで慊(あきた)らざるものがあつた故に、竊(ひそか)に発起する所があつて、自ら揣(はか)らずしてこれに著手した。是はわたくしの試験である。
 わたくしは此試験を行ふに当つて、前(さき)に渋江抽斎より姶め、今又次ぐに伊沢蘭軒を以てした。抽斎はわたくしの偶(たま/\)邂逅した人物である。此人物は学界の等閑視する所でありながら、わたくしに感動を与ふることが頗(すこぶる)大であつた。蘭軒は抽斎の師である。抽斎よりして蘭軒に及んだのは、流に溯つて源を討(たづ)ねたのである。わたくしは学界の等閑視する所の人物を以て、幾多価値の判断に侵蝕せられざる好き対象となした。わたくしは自家の感動を受くること大なる人物を以て、著作上の耐忍を培(つちか)ふに宜(よろ)しき好き資料となした。
 以上はわたくしが此の如き著作を敢てした理由の一面である。

     その三百七十

 わたくしは渋江抽斎、伊沢蘭軒の二人を伝して、極力客観上に立脚せむことを欲した。是がわたくしの敢て試みた叙法の一面である。
 わたくしの叙法には猶一の稍人に殊なるものがあるとおもふ。是は何の誇尚(くわしやう)すべき事でもない。否、全く無用の労であつたかも知れない。しかしわたくしは抽斎を伝ふるに当つて始て此に著力し、蘭軒を伝ふるに至つてわたくしの筆は此方面に向つて前に倍する発展を遂げた。
 一人の事蹟を叙して其死に至つて足れりとせず、其人の裔孫のいかになりゆくかを追蹤して現今に及ぶことが即ち是である。
 前人の伝記若くは墓誌は子を説き孫を説くを例としてゐる。しかしそれは名字存没等を附記するに過ぎない。わたくしはこれに反して前代の父祖の事蹟に、早く既に其子孫の事蹟の織り交ぜられてゐるのを見、其糸を断つことをなさずして、組織(そしよく)の全体を保存せむと欲し、叙事を継続して同世の状態に及ぶのである。
 わたくしは此叙法が人に殊なつてゐると云つた。しかし此叙法と近似したるものは絶無では無い。昔魏収(ぎしう)は魏書を修むるに当つて、多く列伝中人物の末裔を載せ、後に趙翼(てうよく)の難ずる所となつた。しかし収は曲筆して同世の故旧に私(わたくし)したのである。一種陋劣なる目的を有してゐたのである。わたくしの無利害の述作とは違ふ。近ごろ今関天彭(いませきてんぱう)さんの先儒墓田録は物徂徠の裔を探り市野迷庵の胤を討(たづ)ねて、窮め得らるべき限を窮めてゐる。惟(たゞ)今関氏の文は短く、わたくしの文は長きを異なりとする。
 是は文の体例の然らしむる所である。彼は地誌に類する文を以て墳墓を記し、此は人の生涯を叙する伝記をなしてゐるからである。
 そして此にわたくしの自ら省みて認めざることを得ざる失錯が胚胎してゐる。即ち異例の長文が人を倦ましめたことである。
 わたくしの伝記が客観に立脚したと、系族を沿討(えんたう)したとの二方面は、必ずしも其成功不成功を問はず、又必ずしも其有用無用を問はない。わたくしの文が長きがために人の厭悪(えんを)を招いたことは、争ふべからざる事実である。そして此事実はわたくしをして自家の失錯を承認せしむるに余あるものである。
 人はわたくしの文の長きに倦んだ。しかし是は人の蘭軒伝を厭悪した唯一の理由では無い。蘭軒伝は初未だ篇を累(かさ)ねざるに当つて、早く既に人の嘲罵に遭つた。無名の書牘(しよどく)はわたくしを詰責して已まなかつたのである。
 書牘はわたくしの常識なきを責めた。その常識なしとするには二因がある。無用の文を作るとなすものが其一、新聞紙に載すべからざるものを載すとなすものが其二である。此二つのものは実は程度の差があるに過ぎない。新聞紙のために無用なりとすると、絶待に無用なりとするとの差である。
 わたくしは今自家の文の有用無用を論ずることを忌避する。わたくしは敢て嘲(あざけり)を解かうとはしない。しかし此書牘を作つた人々の心理状態はわたくしの一顧の値ありとなす所のものである。

     その三百七十一

 大抵新聞紙を読むには、読んで首(はじめ)より尾(をはり)に至るものでは無い。一二面を読んで三面を読まぬ人がある。三面を読んで一二面を読まぬ人がある。新作小説を読むものは講談を読まない。講談を読むものは新作小説を読まない。読まざる所のものは其人の無用とする所である。しかし其人は己に無用なるものが或は人に有用なるものたるべきを容認することを吝(をし)まない。此故に縦令(たとひ)おしろいの広告が全紙面を填(うづ)むとも、粉白(ふんはく)を傅(つ)くるに意なきものがこれを咎めようとはせぬのである。
 事情此(かく)の如くなれば、人の蘭軒伝を無用とするは、果して啻(たゞ)に自己のこれを無用とするのみではなく、これを有用とするものの或は世上に有るべきをだに想像することが出来ぬが故であらうか。
 彼蘭軒伝を無用とするものの書牘(しよどく)を見るに、問題は全く別所に存するやうである。書牘は皆詬□毒罵(こうしどくば)の語をなしてゐる。是は此篇を藐視(ばくし)する消極の言(こと)ではなくて、此篇を嫉視する積極の言である。
 此嫉悪(しつを)は果して何(いづ)れの処より来るか。わたくしは其情を推することの甚難(かた)からざるべきを思ふ。凡そ更新を欲するものは因襲を悪(にく)む。因襲を悪むこと甚しければ、歴史を観ることを厭ふこととなる。此の如き人は更新を以て歴史を顧慮して行ふべきものとはなさない。今の新聞紙には殆ど記事の歴史に渉(わた)るものが無い。その偶(たま/\)これあるは多く售(う)れざる新聞紙である。
 蘭軒伝の世に容れられぬは、独り文が長くして人を倦ましめた故では無い。実はその往事を語るが故である。歴史なるが故である。人は或は此篇の考証を事としたのを、人に厭はれた所以だと謂つてゐる。しかし若し考証の煩を厭ふならば、其人はこれを藐視して已むべきで、これを嫉視するに至るべきでは無い。
 以上の推窮は略(ほゞ)反対者の心理状態を悉(つく)したものであらうとおもふ。わたくしは猶進んで反対者が蘭軒伝を読まぬ人で無くて、これを読む人であつたことを推する。読まぬものは怒(いか)る筈がない。怒は彼虚舟(きよしう)にも比すべき空白の能く激し成す所ではないからである。
 わたくしの渋江抽斎、伊沢蘭軒等を伝したのが、常識なきの致す所だと云ふことは、必ずや彼書牘の言(こと)の如くであらう。そしてわたくしは常識なきがために、初より読者の心理状態を閑却したのであらう。しかしわたくしは学殖なきを憂ふる。常識なきを憂へない。天下は常識に富める人の多きに堪へない。
 わたくしは筆を擱(さしお)くに臨んで、先づ此等の篇を載せて年を累(かさ)ね、謗書旁午(ばうしよばうご)の間にわたくしをして稿を畢(を)ふることを得しめた新聞社に感謝する。次にわたくしは彼笥(あのし)を傾けて文書を借し、柬(かん)を裁して事実を報じ、編述を助成した諸友と、此等の稿を読んで著者の痴頑(ちぐわん)を責めなかつた少数の未見の友とに感謝する。
 最後にわたくしは渋江伊沢等諸名家の現存せる末裔の健康を祝する。(終。)




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