伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

 十六日。母春、妹安は小田原に駐(とゞま)つて、磐等は藤沢に至り、相生屋(あひおひや)に宿した。

 十七日。磐等は藤沢を発し、東京鳥居坂の宗家に抵(いた)つた。
 二十二日。磐は全家(ぜんか)の塩田真の許に寄留せむことを、「第一大区十一小区扱所」に稟請した。
 二十四日。磐は「電信寮自費修行願」を作つて塩田真に託した。電信技手たらむと欲したのである。
 二十八日。「仙次郎小田原より母及妹を送り来る。」仙次郎は磐の曾て寓した相模国山下村農家の主人であらう。春、安の二女は塩田の家に著いたのであらう。
 四月一日。「平三郎鳥居坂本家信崇の養子となり、名を信平と改む。」磐の弟の宗家に入つたのは此時である。当時養父信崇三十四歳、養子信平十三歳であつた。
 三日。「全家麻布南日窪町町医伊沢信崇方へ寄留すとの届を小区役所に出す。」寄留籍が塩田氏より鳥居坂伊沢氏に移されたのである。
 三四月の間、棠軒日録には事の抄するに足るものが無い。強て求むれば、津山碧山(四月廿二日)岡寛斎(同二十九日)が棠軒を訪うた事がある。寛斎は四月二十七日に東京より福山に往つた。

     その三百五十八

 わたくしは此より明治癸酉五月以後の棠軒日録を抄する。
「五月一日。晴。長女河合へ遣(つかは)す。去(さんぬる)十七日友翁旅中病死之悔。」友翁は飯田安石の女婿銀二郎の生父であつたらしい。然らば銀二郎は前年壬申九月三日に生母を失ひ、今又生父を失つたのであらう。旅中とは何(いづ)れの地にあつたのか不詳である。
「六日。晴。河合友翁葬送に付、名代徳(めぐむ)遣す。」
「十四日。晴。津山忠琢病死之旨為知来。夕観音寺葬送見立行(みたてにゆく)。」棠軒の女長の婿となるべき碧山の生父である。五十川□堂(いかがはじんだう)撰の墓誌に、「年七十七、以疾卒、葬吉津村観音寺、寔明治六年五月十三日」と云つてある。按ずるに歿日は十三日、葬日は十四日であつただらう。墓誌に又かう云つてある。「君豪放。不肯為小廉曲謹。以投衆人耳目。而於医事則好古法。微密精到。不与今世医同流。謂苟為而止者非医也。傍好刀剣書画法帖。亦必以古。往々傾貲不顧云。(中略。)初良徳公之疾。衆医不以為意。独君憂之。屡上医案。不省。後果若其言。以是人皆服君卓見。」良徳公(りやうとくこう)は阿部正弘である。忠琢の歿後には妻帰山(かへりやま)氏が遺つた。忠琢は己が古法帖を好んだので、子碧山をして小島成斎の門に入らしめたのであらう。
「十五日。晴。津山へ悔行(くやみにゆく)。」
「廿二日。晴。真野(まの)より被招行飲(まねかれゆきのむ)。此日陶後十七回忌。」真野竹亭の子陶後頼寛(たうごよりひろ)は安政四年四月廿三日に歿したから、陽暦の忌日は五月十九日である。按ずるに改暦後、月を変へて日を変へずに五月二十三日とし、所謂□夜(たいや)に客を招いたのであらう。当時の主人は陶後の子にして幸作の父なる竹陶兵助(ちくたうひやうすけ)五十四歳である。
「廿七日。晴。慧観童女七回忌□夜。貞白来飲且飯(きたりいんかつはんす)。」慧観は棠軒の女鏐(かね)である。慶応三年五月二十八日に夭した。
「十三日。(六月。)晴。風。吉田へ行、同道飯田へ寄。同家へ過日河合同居也。」飯田安石は女婿河合銀二郎の家族を迎へて同居せしめた。吉田は画師洞谷(どうこく)である。
 八月には棠軒の妻柏(かえ)が大に病んだ。
「十四日。時々雨。夜大雨。四五日来お柏持病脳痛不出来之処、今暁尤甚。四肢厥冷(けつれい)、脈伏寒戦に至る。」此より医師石川貞白、飯田安石、三好東安、河村意篤、内田養三等が来り診し、又正覚院(しやうがくゐん)と云ふものが来て加持し、安石の女にして河合に嫁したお升(ます)、「吉田老母」等が夜伽のために来り宿した。吉田老母は洞谷の母であらう。「廿一日。陰雨(いんう)。柏子脳痛十八日来漸々(ぜん/\)緩和に赴く。」「三十一日。晴。吉田老母今日迄逗留之処、今夕より帰宅。」柏の病は愈(い)えたのである。
「六日。(九月。)洞谷来飲。同人悴直(なほし)今日より入学。」吉田洞谷の子直が棠軒の弟子となつた。棠軒弟子の入門は公私略にも日録にも多く見えてゐる。直の事は洞谷の子なるを以て特に抄出する。按ずるに所謂入門者は概(おほむね)皆医であらう。しかし直は必ず医となつたとも云ひ難い。同月十二日に「今日より外史講釈相始む」の文があるからである。外史の日本外史なることは勿論である。後に聞けば、直は幾(いくばく)ならずして吉田氏を去り、一たび甲斐氏を冒し、遂に本姓前原(まへばら)に復して終つた。前原氏は神辺(かんなべ)菅氏の隣で、是が直の生家であつた。

     その三百五十九

 此より明治癸酉九月十二日後の棠軒日録を続抄する。
「廿二日。晴。真野竹陶(兵助事)病死之趣為知来(しらせきたる)。即葬送寺へ行。」「廿三日。晴。真野へ悔行(くやみにゆく)。」「廿六日。陰。微雨。夕微晴。真野へ被招行飲。当日初日□夜(たいや)也。」真野竹陶は竹亭には孫、陶後には子で、今の幸作さんには父である。歿日は九月廿一日、寿は五十六である。
「五日。(十月。)晴。三沢へ行。お長縁談の返事。」「廿一日。晴。吉辰に付、長女津山碧山方へ結納取替。三沢老母周旋。」「十七日。(十一月。)長女津山へ縁談之願戸長へ差出す。」「十八日。晴。三沢へ行。」「二十日。時晴時雨(ときにはれときにあめ)。長女鉄漿染(かねつけ)。三沢老母賓(ひん)たり。吉田老母、お糸を招く。」「廿三日。晴。長女縁談願過日戸長迄申出置。願面如左(さのごとき)よし。縁談願。私長女長。当酉二十歳。第二大区小十五区三百五十八番屋敷士族津山碧山妻に縁談申合度(まうしあはせたく)此段奉願候也。年月日。第二大区小何区何番士族、伊沢某、印。右に付昨日送籍証(そうせきしよう)一紙受取、今日野村方迄差遣す。」「廿五日。晴。津山氏へ長女道具送り遣す。房助卯三郎両人にて三度に舁送(よそう)す。」「廿六日。晴。長女津山碧山へ暮時出宅に而(て)嫁(か)す。引続自分及徳(めぐむ)同家へ舅入行(しうといりにゆく)。夜四時前開く。安石、お糸、三沢老母、吉田老母、石川おきく等来。寛斎来。」「廿八日。晴。午後陰。夜半雨。杉山津山へ寄、吉田へ行。」「十日。(十二月。)晴。夜半雨。長女里開き。碧山、文女(ふみぢよ)、喜代女及三沢老母、其外貞白、洞谷、寛斎、吉田老母、お糸、旧婢(きうひ)たけ、卯三郎等来大飲。」「十五日。晴。内祝之赤飯配る。」「廿日。晴。長女来宿。」是が棠軒の女長の津山碧山に嫁した顛末である。わたくしは明治初年婚礼の一例として、特に詳にこれを抄した。
 媒人(なかうど)は三沢順民(じゆんみん)であらうか。少くも三沢氏が所謂橋渡をしたことは明である。三沢老母は順民の母、吉田老母は洞谷の養母、糸は飯田安石の妻、きくは石川貞白の妻、野村徳太郎は碧山の姉ちかの夫である。戊辰東役高(とうえきだか)に「御通掛新番組、野村徳太郎、廿一」と云つてある。文、喜代は津山氏の家族であらう。卯三郎、房助、たけは奴婢である。
 此婚嫁は棠軒がその愛する所の女を出して、親む所の友に嫁したのである。只俗に随ひ礼を具へたに過ぎなかつたであらう。
 長子刀自の福田氏に語るを聞くに、碧山には先妻武藤(ぶとう)氏があつて、一女を遺して歿した。津山直次郎は此女のために迎へられた婿で、大正五年十二月十五日に歿し、其長子は図按家になつてゐるさうである。
 十月以後、棠軒の女長が于帰(うき)の事のあつた旁(かたはら)に、尚二事の記すべきものがある。棠軒が冢子(ちようし)徳(めぐむ)のために算術の師を択んだのが其一である。十月六日の下(もと)に云く。「徳今夕より中村某へ遣す、算術。」阿部正弘の継室謐子(しづこ)の死が其二である。十月十八日の下に云く。「去五日清心院様御逝去被遊候由。」十一月六日の下に云く。「小鼓へ行。過日清心院様御逝去之御機嫌伺取計之一礼。」十一月廿二日の下に云く。「清心院様御四十九日御相当に付兼而勤仕之者申合於定福寺少分之御供養申上。」十二月二十六日の下に云く。「清心院様為御遺物金二百疋被成下候趣、三富氏より貞白受取持参。」謐子は糸魚川の松平日向守直春の女、越前の松平越前守慶永(よしなが)の養女で、正桓(まさたけ)の夫人寿子(ひさこ)は其出である。小鼓(こつゞみ)は己巳席順の「十人扶持、御足五人扶持、鼓菊庵、五十四」で、同席順の「十人扶持、御足十人扶持、鼓泰安、五十九」の大鼓(おほつゞみ)に対(むか)へて言ふのであらうか。猶「鼓兆安、鼓定」と云ふものも同席順に見えてゐる。三富氏は己巳席順に「百廿石、御附奥家老、御家従、三富甚左衛門、五十八」と云つてある。

     その三百六十

 わたくしは棠軒日録を抄して明治癸酉の歳暮に至つた。
 此年は伊沢氏と旧好ある人々の中で、門田(もんでん)朴斎と渡辺樵山(せうざん)との歿した年である。朴斎の死は行状に拠るに一月十一日戌牌(じゆつはい)で、年を饗(う)くること七十七であつた。墓表は小野湖山が撰んだ。其末に銘に代へて絶命の詞(ことば)が刻してある。「父母教吾学仲尼。滔々天下変為夷。病而不死亦良苦。待尽青山埋骨時。」朴斎の生涯は西洋嫌を以て終始してゐる。棠軒が此人の死を録せなかつたのを見れば、棠軒と門田氏との間には親交が成り立つてゐなかつたかも知れない。
 渡辺樵山は十二月十八日に東京渋谷村に歿した。年五十三であつた。わたくしは上(かみ)に榛軒が此人を請じて経を講ぜしめたことを記し、後に慊堂(かうだう)日暦中より、其父の□園(かうゑん)と号したことを検出して補つた。しかし安井息軒が樵山の墓に銘したことを知らずにゐた。それは息軒遺稿が偶(たま/\)これを載せてをらぬ故である。
 頃日(このごろ)事実文編を繙閲して、図(はか)らずも息軒撰の墓碑銘を発見した。樵山の系は源融(みなもとのとほる)の曾孫渡辺綱から出でてゐる。「父諱昶。字奎輔。以医仕膳所侯。娶才戸氏。生君于江戸鱸坊之僑居。」按ずるに慊堂日暦の□園は此昶(ちやう)である。昶は或は「とほる」と訓ませたものではなからうか。膳所(ぜぜ)侯は本多隠岐守康融(やすとほ)である。「鱸坊」は今の京橋区鈴木町である。本多家の上屋敷が南八丁堀にあつたから、□園は鈴木町に住んでゐたのである。
「年甫十一。奎輔得疾。自知不起。托君及弟璞輔於慊堂松崎先生。輿疾帰近江。未幾歿。二孤皆有才。先生愛之。視猶子。嘗贈之詩曰。吾園梅百樹。汝独可超凡。及慊堂先生歿。以遺命守羽沢草廬三年。既而卜居青山。生徒漸進。万延庚申九月。釈褐於紀藩。(中略。)元治甲子。幕府有召見之命。三月謁二条城。(中略。)慶応乙丑。参枢機。(中略。)明年十一月遷小姓頭。明治戊辰。拝奥祐筆組頭。累遷参政。三年五月。免参政。」□園が樵山と其弟とを松崎慊堂の石経(せきけい)山房に託して近江に帰つたのは、天保二年である。弟璞輔(はくすけ)は慊堂日暦の百助である。慊堂の歿した弘化元年より三年間石経山房を守つてゐたとすると、樵山は二十四歳より二十七歳に至る間羽沢(はねざわ)にゐたのである。さて弘化四年中に樵山は青山に徙(うつ)つたであらう。万延元年紀州藩に仕へた時は、樵山は四十歳であつた。紀州藩は猶中納言茂承(もちつぐ)の世であつた。元治元年に将軍家茂に謁した時は、樵山は四十四歳であつた。
 若し此年立(としだて)にして誤らぬならば、樵山が経を伊沢氏に講じた月日は、羽沢時代より青山時代に及んでゐる筈である。
 わたくしは此に狩谷氏移居の事を附記したい。一説に狩谷矩之(くし)が本所横川の津軽邸より上野広小路に移つたのは、明治五六年であつたと云ふ。しかし是は稍後の事であつたらしい。猶下(しも)にこれに言及しようとおもふ。
 此年棠軒四十、妻柏三十九、子徳十五、三郎四つ、女長二十、良十八(以上福山)、磐二十五、弟平三郎十三、姉国三十、妹安二十二、柏軒の継室春四十九(以上東京)であつた。

     その三百六十一

 明治七年は蘭軒歿後第四十五年である。棠軒は又歳を福山に迎へた。一月中には事の記すべきものが無い。二月十一日に子徳(めぐむ)を算術の師村田某の許へ遣つた。「十三日。晴。一昨日より徳村田某へ数学稽古に行。」是月棠軒は書を東京にある関藤藤陰(せきとうとういん)に寄せた。「廿三日。(二月。)陰。午後晴。阿部近日東京出立に付、分家、清川、森、関藤(菓子料二百疋添)等へ書状出す。」藤陰は二年前の冬より東京に来てゐたのである。癸酉歳旦の詩の引に、「余自壬申冬、来在藩主阿部氏本所横網邸」と云つてある。阪谷朗廬(さかたにらうろ)はかう云つてゐる。「会廃藩命下。正桓君例以華族。移住東京。而家制不定。衆以為非招先生不可。強以賓師委重。先生弗得辞。曰骸骨竟有宿縁於東地歟。便復移家。経理画一。更選人授之。絶交閑居。賦詩自楽。」想ふに棠軒の書を寄せた時には、藤陰は既に閑散の身となつてゐたであらう。棠軒の書を託した阿部は阿部正貫(まさつら)である。己巳席順の「百八十石、家扶、阿部小重郎、四十三」と同人であらうか。分家磐(いはほ)、清川安策、森枳園との間には、此前後に雁魚(がんぎよ)の往復があつたが、省(はぶ)いて抄せなかつた。
 五月に棠軒が子徳を算術の師関某の許に遣つた。「九日。(五月。)徳今夕より関へ数学入門。」三たび師を更(か)へたのであらうか。是月の末に東京にある藤陰が書を棠軒に寄せた。其文はかうである。
「清和之時候と申内、稍薄暑も催候処、貴宅御揃愈御多祥被成御坐候条、拝賀之至。僕老耄相増候得共、先々頑健罷在候。乍憚御省慮可被下候。扨当春阿部正貫出京之節は、御懇切御文通被下、殊に無存掛(ぞんじかけなく)御肴料二方金(はうきん)御恵贈被遣(つかはされ)、辱拝受、乍去御過厚之事奉恐入候。先以御近況過日阿部より承候。爰元(こゝもと)之光景は此節同人より御承知と奉存候。同人爰元出立之節は、必御礼一書可差上存居候処、其出立間際種々多事取込、遂に不能其儀(そのぎをよくせず)、背本意(ほんいにそむき)恐縮之至に候。右便之節何角(なにかど)は差上度存候に、差向思付も無之、東京近来の模様、新版書冊之出来候事、次へ々々と中々承尽(うけたまはりつく)されも不申、右様多き内には、見るも無益と申品も多分有之、其内に思候に、医事関係之書なれば、自然可然ものも可有之哉共存候へども、当今之儀西洋家之品、時好に投候品而已(しなのみ)多く、勿論拙老宅に引込罷在候而已に而(て)は、外間(ぐわいかん)新版物を聞見(候事)も少なく、仍而(よつて)思ひ候に、東京繁昌記なる者は馬鹿々々しき、何之役にも不相立、子弟之教育には勿論不相成候へども、只々貴兄久々東京を御覧無之故、此文明開化やら何やら不相分、太平やら不太平の本(もと)やら不相分之実景を御慰に御目に掛度と存、折節阿部出立之頃は第二編之分出版未だ成就致切(いたしきり)不申、近日中に必売出し初り可申由承込(うけたまはりこみ)候故、幸便なれども何も得不差上(えさしあげず)候也。此度明後日出立に而河村大造立帰りに帰省致候由幸便を得候に付、不取敢此二冊呈上仕候。御笑納可被下候。呉々も東京現今之光景如此かと御覧御一笑に付し候迄之心得に候。呉々も馬鹿々々敷書に而は御坐候也。乍末行御家内皆様へ宜御伝声奉希上候(こひねがひあげたてまつりそろ)。時下御保重(ごはうちよう)黙祈(もくき)之至。先は幸便不取敢乍延引先般之御礼兼如此候。頓首。五月三十一日。関藤藤陰。伊沢棠軒様。」

     その三百六十二

 わたくしは明治甲戌五月三十一日に関藤藤陰が棠軒に与へた書を抄した。是は文淵堂の花天月地(くわてんげつち)中より討(もと)め来つた婪尾(らんび)の獲(えもの)である。藤陰の簡牘は語路が錯綜して、往々紛糾解くべからざるに至り、句読を施し難くなつてゐる。又歇後(けつご)の文が多い。しかし幅広く長(たけ)の促(つま)つた文字が、石を積むが如くに重畳してあつて、極て読み易い。文中「何角は差上度」は読んで「何か差上度」と作(な)すべきである。或は方言歟。
 此書が二月二十三日の棠軒の書に答へたものなることは、説明を須(ま)たずして明である。棠軒の書を齎した阿部正貫(まさつら)は、福山より東京に至り、直に又東京より福山に帰つた。藤陰はこれに復書を託せむとしたが、書牘(しよどく)に添ふべき新刊書が未だ市に上らなかつたので果さなかつた。次で河村大造が東京より福山に往くに会して、藤陰は此書を託した。河村は己巳席順に「十二石二人扶持、河村大造、二十三」と云つてある。後の重固(しげかた)である。
 藤陰の書牘に添へて棠軒に贈つた新刊書は東京繁昌記である。藤陰は初二両編を併せ贈らうとした。然るに阿部の帰藩は二編の出でむと欲して未だ出でざる間であつた。六月の初に河村が東京を発する前に、藤陰は方(まさ)に纔(わづか)に二篇を贖(あがな)ひ得たのである。
 東京繁昌記はわたくしの架上に無い。わたくしは其初編二編が何時(いつ)何(いづ)れの書肆より発行せられたかを知らむと欲して、文淵堂主を煩はして検してもらつた。「初編は紀元二千五百三十四年四月、二編は同年六月発兌(はつだ)と有之候。明治七年に候。書肆は銀座三丁目奎章閣(けいしやうかく)山城屋政吉に候。政吉は日本橋通二丁目稲田佐兵衛の分家にて、塩谷宕陰(しほのやたういん)の門人に候。維新後古本商頭取になり、後市会議員、市参事員、衆議院議員に選ばれ、鉄管事件に遭逢して引退し、月島に住んで古版本を蒐集するを楽とし、希覯(きこう)の書数千巻を蔵するに至候。其蔵儲は今悉皆(しつかい)久原(くはら)家の有に帰し居候。」按ずるに初編の「四月」は恐くは再三版であらう。藤陰は六月発兌の二編を、早くも五月末日に贖ひ得たのである。
 藤陰は東京繁昌記を評し、旁(かたはら)明治初年の社会に論及して、「文明開化やら何やら不相分、太平やら不太平の本(もと)やら不相分之実景」と云つた。罵り得て痛快である。
 わたくしは端(はし)なく藤沢東※(とうがい)[#「田+亥」、8巻-316-上-2]の江戸繁昌記評を憶ひ起した。東※[#「田+亥」、8巻-316-上-3]は初三編を読んで寺門静軒(てらかどせいけん)の才を愛した。「其辞不唯艶麗。亦能俊抜焉。其識不唯該博。亦能卓超焉。乃謂斯人実一世之雄。」既にして太平志を読み、又四編五編を読んで文品の低下に驚いた。「豈半塗而天奪之才乎。抑始有所倩。後失其人乎。」東京繁昌記は則(すなはち)初(はじめ)よりして疎拙であつた。「呉々も馬鹿馬鹿敷書に而は御坐候也。」
 藤陰の書牘と繁昌記とは六月七日に棠軒の手に到つた。「七日。(六月。)晴。三富甚左衛門来。東京関藤先生より書状及開化繁昌誌二冊到来、右持参之事。」藤陰の書と贈(おくりもの)とは河村大造より三富甚左衛門を経て棠軒に達したのである。阿部家の家従三富の事は既に上(かみ)に出でてゐる。

     その三百六十三

 わたくしは此より甲戌六月七日に棠軒が関藤藤陰の贈(おくりもの)を得た後の日録を抄する。
 棠軒は六月八日に家禄「十四石七斗」を奉還せむことを請うて、十五日に許された。「八日。(六月。)微雨。組頭熊田某へ行。終身禄奉還一件也。爰許戸長吉津へ右願書出す。」「十五日。雨。午後晴。終身禄奉還之儀御聞届相成候段戸長より申来。」熊田は己巳席順の「二十俵三人扶持、熊田保平、五十」若くは「二十俵三人扶持、物産役、熊田臨蔵、四十六」であらうか。吉津は小八郎と称した。
 七月に棠軒は子徳(めぐむ)を算術の師前川某の許に遣つた。「廿三日。(七月。)晴。風。徳数学前川へ入門。」四たび其師を更へたのであらうか。前川は未だ考へない。
 十月に棠軒は「公債証書買上願」を呈出した。「九日。(十月。)晴。去七日出願書戸長へ出。十日進呈。同十一日御聞届。」七日に戸長役場に出し、十日に県庁に達し、十一日に裁可せられたのである。日録には全文が載せてあるが、今略する。「高百円に付八十円に」買ひ上げてもらひたいと請うたのである。宛名は「小田県権令矢野光儀殿」と書してある。光儀(くわうぎ)は竜渓文雄(りゆうけいふみを)さんの父ださうである。是月棠軒は外史の講義を終つた。「廿八日。陰。夜雨。外史講義一了。」
 十一月十五日には棠軒が養父榛軒の二十三回祭を行つた。「十五日。(十一月。)晴。風。時々雨。当日府君二十三回祭。飯田夫婦、貞白、東安、半、全八郎招請飲。」その「祭」と云ふより推すに、此年より神祭の式に遵(したが)ふこととしたらしい。十五日は歿日の前日である。来客中「半」は服部氏、是より先七月中に「半来」(十五日)の文がある。
 二十八日に棠軒は県庁に赴いて家禄に換へた「金百二十四円二銭五厘」を要請した。「二十六日。(十一月。)陰。微雨。午後晴。来廿八日小田県に而家禄奉還金御渡しに付受取証書。」(文は略する。)「廿八日。晴。小田県へ奉還金為受取、未明より人力車に而行。」県庁が此日に金を交付しなかつたことは、後の記に徴して知るべきである。
 十二月の日録には抄すべき事が無い。此年棠軒は「明治甲戌集」と題した詠草一巻を遺してゐる。「父君の二十三回忌に。はたちあまり三とせ経ぬれど今も猶さながら見ゆる父の面影。」詠艸は良子刀自の蔵する所である。
 此年磐の一家は東京にあつて寄留の所を変へた。良子刀自所蔵の文書に、「明治七年八月十日第一大区十四小区小網町四丁目五番地借店に寄留替をなす」と云ふ文がある。
 此年東京にある森枳園が「蘭軒遺稿」一巻を刊行した。時に枳園は年六十八であつた。富士川氏は三種の本を蔵してゐる。第一は漢文に国文を交へた草稿二巻で、蘭軒が末に下(しも)の語を書してゐる。「右之通に先々かたづけ候へども、如何可有御坐や。御削正奉願上候。医籍考には御説も御坐候事にや。委細御教示奉願上候。信恬拝。□庭先生。」第二は旧稿中の国文を漢訳したもので、是も亦二巻を成してゐる。第三は枳園校刻の本一巻である。巻首に下の文がある。「伊沢信恬。字澹甫。号蘭軒又※[#「くさかんむり/姦」、8巻-318-上-9]斎。通称曰辞安。其著書有数十種。遺稿為其一。而二十年前刊行半成。適世事紛冗。西遷東移。舟車運漕。桜槧多亡失。今所拾摘二十条。僅々存九□之余香爾。明治甲戌第十月。枳園森立之。(印二。曰立之。曰壬申進士。)」全巻凡(おほよそ)四十九頁(けつ)である。「伊沢氏酌源堂図書記」の印記がある。
 此年棠軒四十一、妻柏四十、子徳十六、三郎五つ、女長(津山碧山妻)二十一、良十九(以上福山)、磐二十六、弟信平(宗家養子)十四、姉国(狩谷矩之妻)三十一、妹安二十三、柏軒の継室春五十であつた。

     その三百六十四

 明治八年は蘭軒歿後第四十六年である。棠軒は旧に依つて歳を吉津村の家に迎へた。「家家臘尽時。内感歳華移。安識郷人羨。全依祖考慈。」戯(たはむれ)に「家内安全」の字を句首に用ゐて作つたものである。
 一月二十四日に棠軒は家禄に換へた金を受けた。「二十四日。(一月。)晴。於小田県公債証書買上代御渡相成に付、受取に出頭可致之処、差合に付為名代尚差出、金百二十五円、二分引に而金百円受取候事。」(節録。)名代「尚(ひさし)」は上(かみ)にも見えた飯田安石の子である。
 二月十五日に棠軒の子季男(すゑを)が生れた。「十五日。(二月。)陰。午後雨。夜九字安産、男子出生。」「廿一日。晴。出生七夜季男と名く。出産之届出す。」
 三月二十九日に森枳園の許より「いろは字原考」二冊が来た。「廿九日。(三月。)陰。東京森よりいろは字原考二冊到来。」いろは字原考は枳園の著す所で、其刊行の事は下(しも)に引く書牘(しよどく)に見えてゐる。此書は世間に多く存せぬらしく、わたくしは未だ寓目しない。又国書解題を検したが見えなかつた。
 五月八日に棠軒は「姫路鳥取行」の途に上つた。是は姫路に妹婿土方伴(ひぢかたはん)六正旗(せいき)を訪ひ、鳥取に顕忠寺中の兄田中悌庵が墓を展したのださうである。
「八日。(五月。)晴。今夜姫路鳥取行乗船。但安石同伴夜四つ時前四(よ)つ樋(ひ)より竹忠船(たけちゆうふね)へ乗込。直出帆。」
「九日。晴。昼九つ時頃讚州多度津湊(たどつみなと)へ著船。金刀比羅宮(ことひらのみや)参拝。夜五つ時頃人車に而(て)帰船。」
「十日。晴。多度津碇泊。」
「十一日。晴。暁出帆。暫時与島(よしま)へ碇休。夕出崎(でさき)碇泊。」
「十二日。晴。夜大風。暁出帆。小豆島へ碇泊。」
「十三日。風雨。同所碇泊。」
「十四日。晴。天明(てんめい)出帆。午刻頃播州伊津湊(いつみなと)へ著船。同所より姫路迄四里半。此より上陸。三所川あり。何(いづれ)も昨雨に而出水。暮時姫路城内桐の馬場土方に著。」土方伴六は酒井忠邦の倉奉行であつた。贈遺を記する文中に「お柳」、「お作」の名があり、又「お作婿山本又市、今名(きんめい)もちよし」と云つてある。棠軒の妹にして伴六の妻なる烈に柳、作、久の三女があつた。柳は坂本氏に適(ゆ)き、作は山本氏に適き、久は長野氏に適いた。
「十五日。晴。逗留。」
「十六日。晴。午刻より土方出立。手尾(てを)迄伴六亀児(かめじ)送来。夫より分袂(ぶんべい)。飾西(しきさい)、觜崎(はしざき)、千本(せんぼん)、三日月(みかづき)也。觜崎より人車に而暮過三日月駅石川吉兵衛へ著。」亀児とは誰か。伴六の女久が長野氏に嫁して生んだ四子は、義雄、亀次郎、悦三郎、信吉である。亀次郎は今参謀本部陸地測量部技師である。亀児は此人であらう。
「十七日。晴。朝飯より出立。人車に而平福(ひらふく)迄、当駅より小原(おはら)迄、夫より坂根(さかね)迄人車行。此日駒帰(こまがへり)迄大難坂(だいなんばん)也。夫より知津(ちづ)駅迄下り坂。当駅桝屋善十郎へ著。」
「十八日。晴。朝飯より出立。用(よう)が瀬(せ)迄小坂五六あり。当駅より人車に而布袋(ほてい)村迄、夫より歩行、午後一時頃味野(あぢの)村へ著。」
「十九日。雨。信慶実家森本善次郎へ被招行飲(まねかれゆきのむ)。」信慶は田中悌庵の養子である。此より日々招宴遊宴等がある。
「廿七日。晴。朝微雨。夕陰(ゆふべくもる)。とめ女召連、天明味野出立。上之茶屋(かみのちやや)迄同人駕行(かごにてゆく)。当所迄信慶(中略)送来。夫より人車三乗、用が瀬より駕一挺、知津に而午支度。夫より歩行。野原駅松見屋某へ著。甚(はなはだ)□(そ)。」とめ女は田中悌庵の第七女で今の木下大尉通敏(みちとし)さんの母である。
「廿八日。夜来雨。午前九時頃出立。風雨。関本駅とめ乗輿(じようよ)。水島善四郎止宿。」
「廿九日。雨。午後より漸晴。早昼支度に而出立。とめ駕行。楢村(ならむら)より歩行。夕七つ時津山京町大笹屋に著。大家也。」
「三十日。晴。朝飯より人車三乗に而出立。亀の甲より歩行。又弓削(ゆげ)より人車。福渡(ふくわたり)より駕一挺。夕七時前間(あひ)の宿(しゆく)久保に而藤原沢次郎へ著。」
「三十一日。晴。朝飯より駕一挺為舁(かゝせ)出立。高田より歩行。足守(あしもり)より中原迄人車。又岡田より人車に而夕八半時頃矢掛(やかけ)駅小西屋善三郎へ著。」
「六月一日。晴。午前十時頃出立。駕一挺高屋(たかや)迄。同所より人車三乗。暮時帰宅。」

     その三百六十五

 棠軒は明治乙亥六月一日に鳥取から吉津村の家に帰つた。
 日録は此より下(しも)十一月九日に至つて絶えてゐる。其間記すべきものは棠軒の子三郎の死があるのみである。「四日。(十月。)晴。昨夜より三児不快不出来に付、安石同道水呑辺釣行約之処止。午後三時遂に死去。即夜十時出葬。」「九日。晴。純法童子初七日逮夜之処、挙家痢疾に付招客略す。」純法童子は三郎の法諡(はふし)である。庚午八月二十五日の生であつたから、六歳にして歿したのである。文中「挙家痢疾」の四字は注目に値する。按ずるに当時痢(り)が備後地方に行はれて、棠軒の家族は皆これに感染し、三郎が独り先づ殪(たふ)れたのではなからうか。
 棠軒が日録の筆を絶つた次の日、乙亥十一月十日に東京にある森枳園が書を棠軒に与へた。下にこれを節録する。「昨年来蘭軒医談遺板に付て補刊仕(ほかんつかまつり)、前の板下書候梶原平兵衛も既に歿後、不得已(やむをえず)拙筆にて補板仕候。(中略。)外に以呂波字源考一冊、詩史顰(ししひん)一冊、共に上木仕候。(中略。)市野光彦(くわうげん)の家、跡方もなく断絶の様子。町人の学者はわづか三右衛門といへる川柳点(せんりうてん)も、□斎翁は誰も知れど、迷庵は誰も知らず、因て之を刻し世に公にせば、少年、抽斎と同じく升堂(しようだう)したる報恩の一端にも可相成乎と、拙筆を以て刊行仕候。(中略。)巻首の四大字は東久世通禧(ひがしくぜみちよし)公、次は養素軒柳原大納言前光(さきみつ)公、愛古堂磐渓、秋月公、大給亀崖(おぎふきがい)公(即松平縫殿頭(ぬひのかみ)の事也)、跋は片桐玄理と申せし家塾に居りし御存之者(ごぞんじのもの)、今文部の督学寮に出仕いたし居申候。僕も壬申以来文部へ出仕、間もなく被免(めんぜられ)、医学校へ出、編書課に在、亦免官、朝野新聞に入、成島柳北と相交(あひまじはり)、夫より工学寮の本朝学課長となり、十月来又々被免、此節は閑無事(かんぶじ)、書肆の頼に付、真片仮名(しんかたかな)の雑書編成仕居候。(中略。)狩谷此節上野広小路へ御引越、是亦平安也。(中略。)喜多村安正類中を発す。関藤藤陰も亦発す。塩田良三(りやうさん)益盛なる勢、この驥尾に附て矢島玄碩、井口栄春の類(たぐひ)も官員様大出来也。阿部正学(まさたか)公も御出府之処、其節正桓(まさたけ)公に随従して、日光へ参詣いたし候故、遂に不得相見、残念至極に奉存候。(中略。)出府にても何も別段之事も無之、先旧習は追々脱し候様には候へども、とかく日本と唐(から)好きにて、中々不相易(あひかはらず)一寸も引けは取不申候。」(下略。)
 枳園は既に蘭軒医談を校刻して、又自著以呂波字源考、市野迷庵撰詩史顰を校刻した。蘭軒医談の筆工は梶原平兵衛で、其補筆は枳園の手に成つた。以呂波字源考がわたくしの未見の書なることは上(かみ)に云つた如くである。詩史顰も亦未だ読まぬが、渋江氏は曾てこれを蔵してゐたと云ふ。其序跋の事は本文に詳(つまびらか)である。
「市野光彦の家、跡方もなく断絶の様子。」迷庵光彦(くわうげん)の子は光寿(くわうじゆ)で天保十一年に歿し、光寿の子光徳(くわうとく)は父に先(さきだ)つて天保三年に歿し、光徳の子源三郎、後の称寅吉は当時亀島町に住してゐた。所謂断絶は書香(しよかう)の絶えた事を謂ふものと看るべきである。
 この書牘(しよどく)には猶注すべき事がある。

     その三百六十六

 明治乙亥十一月十日に森枳園が棠軒に与へた書は、既に注する所を除いて、猶枳園の壬申以後の内外生活を後に伝ふるものとして尊重しなくてはならない。内生活は末の「日本と唐好き」の一節に由つて忖度(そんたく)せられる。外生活は早く寿蔵碑に、「五月至東京、是月廿七日補文部省十等出仕、爾後或入医学校為編書、或入工学寮為講辯」の句があるが、これを此書の「壬申以来文部へ出仕」云々(しか/″\)の一節に較ぶれば、広略日を同じうして語るべからざるものがある。わたくし共は此書を見て、枳園が己卯に大蔵省に仕ふるに先(さきだ)つて、文部省出仕、医学校編修、朝野新聞記者、工学寮課長を順次に経歴したことを知つた。是は未だ嘗て公にせられなかつた新事実である。
 次に此書中より見出されたのは、狩谷□斎の養孫矩之が本所横川より上野広小路に徙(うつ)つた時期である。わたくしは上(かみ)に此移居が明治五六年の交(かう)であつたと云ふ一説を挙げた。枳園の「此節」は三年前若くは二年前を謂つたものではなささうである。矩之は或は乙亥に入つてより後に徙つたのではなからうか。曾能子刀自は此広小路の家を記憶してゐる。大抵今杉山勧工場のある辺の裏通にあつて、土蔵造の三階であつたと云ふ。
 わたくしは此に一の疑問を提起する。それは狩谷従之(じゆうし)の事である。□斎望之の後は其子懐之、懐之の養子矩之、矩之の子三市(いち)で、三市さんは現に小石川区宮下町に住んでゐる。然るに安政中より維新に至るまでの間に、狩谷従之と云ふものがあつて、文雅人名録の類に載せられてゐる。従之は字(あざな)を善卿(ぜんけい)と云ひ、通称を三右衛門と云ひ、融々(ゆう/\)又周(しう)二と号した。家は神田明神前にあつた。人名録の肩には「画」と記してある。その名に「之」字を用ひ、字に「卿」字を用ゐ、「三右衛門」とさへ称するを見れば、人をして望之の族たることを想はしめる。望之の家は三右衛門望之、三平懐之、三右衛門矩之、三市である。従之の氏名字号通称は相似たることも亦甚だしいではないか。
 試に其時代の同異を推すに、三右衛門従之は三平懐之が歿し、三右衛門矩之が嗣(つ)いだ頃から世に聞え始めた。しかし矩之は当時十四五歳の少年であつたから、従之は必ずこれより長じてゐたであらう。又矩之は本所の津軽邸内に蟄してゐたのに、従之は昔望之の住んだ湯島を距(さ)ること遠からぬ神田明神前に門戸を張つて画師をしてゐたのである。語を換へて言へば、安政以後には二人の狩谷三右衛門が並存してゐて、□斎の嫡孫(てきそん)に係るものは隠れて世に知られず、却て彼三右衛門従之が名を藝苑に列してゐた。
 わたくしは曩(さき)に従之の名を挙げて三市さんに問うた。しかし三市さんは夢にだに知らなかつたと云ふ。父と同世同氏同称の人があつたことは、三市さんの家に於ては曾(かつ)て話題にだに上らなかつたと見える。
 世上に若し従之の何者なるを知つた人があるならば、どうぞ事の真相を発表してわたくしの疑を釈(と)いてもらひたい。

     その三百六十七

 森枳園乙亥十一月十日の書には、猶関藤藤陰が喜多村安正と同時に類中風(るゐちゆうふう)を発した事が言つてある。又塩田良三、矢島玄碩の仕宦を評した一句がある。良三、後の真(しん)と云ひ、渋江優善(やすよし)、当時の矢島と云ひ、並に皆枳園の平素甚だ敬重せざる所であつた。それゆゑに枳園は劇を評する語を藉(か)り来つて、「官員様大出来也」と云つたのである。
 書中には又阿部正学(まさたか)の東京に来た事がある。正学、通称は直之丞、これと日夕往来した棠軒は、其日記に「直吉」と書してゐる。是は維新後の称である。素(もと)福山侯の分家で、正学は前(さき)に棠軒を率(ゐ)て駿府加番に赴いた隼人正純(はいとまさずみ)の継嗣である。枳園は此人の入京した時、偶(たま/\)阿部宗家の正桓(まさたけ)に扈随して日光に往つてゐたので、相見るに及ばなかつた。以上は枳園尺牘(せきどく)の註脚である。
 上(かみ)に云つた如く、枳園の此書を裁した十一日は、棠軒の筆を日録に絶つた十日の翌日である。棠軒は何故に筆を絶つたか。
 按ずるに棠軒は病のために日録を罷めたのである。此事実は下(しも)に引く清川玄道の書牘(しよどく)に見えてゐる。十一月四日には幼児三郎が死んだ。九日には日記に「挙家痢疾」の語がある。そして棠軒は実に此月十六日を以て歿してゐる。日録を罷めた後僅に六日である。
 わたくしは此に於て想像する。三郎は痢を病んで死んだ。次で全家が痢を病んだ。棠軒も亦これに感染して死んだ。わたくしは此の如くに想像する。
 棠軒は乙亥の歳十一月十六日に四十二歳にして歿した。「病死御届。第二大区深津郡小二十一区吉津村三百二十七番地、士族、伊沢棠軒。右之者十一月十七日病死仕候。此段御届奉申上候、以上。明治八年十一月。右長男、伊沢徳。小田県参事益田包義殿。」喪は次日に発せられたのである。
 尋(つい)で棠軒未亡人柏(かえ)は徳(めぐむ)の家督相続を県庁に稟請した。「家督相続御願。第二大区深津郡小廿一区吉津村三百二十七番地、士族、伊沢棠軒亡長男、伊沢徳。右者先般御届仕居候通、棠軒病死仕候に付、跡相続之儀者書面之者に被仰付被成下度、此段奉願候、以上。明治八年十一月。伊沢徳母、かよ。小田県参事益田包義殿。」徳は時に十七歳であつた。
 棠軒生前に枳園の寄せた書は、果して棠軒の閲読を経たかどうか不詳である。棠軒歿後に清川玄道の徳に与へた書は、猶徳さんの蔵儲中にある。「尊大君事十一月十日夜半より御発病(中略)、同月十七日遂に御遠行之趣(中略)、御愁傷之程奉恐察候。三郎君にも十月四日痢症にて御遠行之由、重々の御愁傷紙上御悔難尽儀(おんくやみつきがたきぎ)に被存候。母堂君久々御不快之趣(中略)、折角御保摂奉祷候(ごはうせついのりたてまつりそろ)。(中略。)手前方にても、八月十七日長女とゑ病死、(中略)、虚労(きよらう)症にて遂に下泉殆当惑罷在候。(中略。)御従弟、横浜住居之おとし殿及旧門下之仁にも(中略)御為知(おんしらせ)申上候事に御坐候。(中略。)養母始宮崎姉共も宜敷申上候様申出候。(下略。)十二月五日認。清川玄道。伊沢徳様。」伊沢清川両家の親族の名は今一々注せない。
 此年徳十七、母柏四十一、姉長(津山碧山妻)二十二、良二十、弟季男一つ(以上福山)、磐二十七、母春五十一、弟信平(宗家養嗣子)十五、姉国(狩谷矩之妻)三十二、妹安廿四であつた。

     その三百六十八

 わたくしは蘭軒歿後の事を叙して養孫棠軒の歿した明治乙亥の年に至つた。所謂伊沢分家は今の主人(あるじ)徳(めぐむ)さんの世となつたのである。以下今に□(いた)るまでの家族の婚嫁生歿を列記して以て此稿を畢(をは)らうとおもふ。
 明治九年三月七日、徳の幼弟季男が生れて二歳にして夭した。
 十一年徳が東京に入つた。時に年二十。
 十二年徳が母柏を東京に迎へた。
 十三年四月四日徳の姉良(よし)が所謂又分家の磐(いはほ)に嫁した。磐三十二、良二十五の時である。
 十四年九月三十日磐の長子信一(のぶかず)が生れた。
 十七年十二月二十日磐の長女曾能(その)が生れた。磐が陸軍士官学校御用掛となつて仏語を士官学生に授くることとなつたのは此年である。時に磐年三十六。わたくしは前に磐が電信術を修めたことを記した。しかし終にこれを業とするには至らなかつたらしい。既にして磐は力を仏語を学習することに専(もつぱら)にした。上(かみ)に引いた枳園乙亥の書中、「御分家磐様にも日々の様に御出、洋学勉強之事感心仕候、近々何れへ歟任官相成可申なれど、何分数齟齬いたし、未だ間暇に御坐候」の一節は、磐が干禄(かんろく)の端緒を窺ふに足るものである。
 二十年徳が羽野(はの)氏かねを娶(めと)つた。磐の第二子善芳(ぜんはう)が十月二十八日に生れて三十日に夭した。
 二十一年磐が下総国佐倉に徙(うつ)つた。東京今川小路の家より佐倉新町芝本久兵衛方に移つたのである。是は佐倉にある陸軍将校に仏語を授けむがためであつた。時に年四十。
 二十二年徳の長女たかよが生れた。磐の第二女かつが十月に生れて十二月十三日に夭した。
 二十三年八月磐が佐倉の寓を撤して赤羽に舎(やど)つた。当時狩谷矩之が赤羽にゐて東道主人をなしたのである。在桜(ざいあう)日記、在羽(ざいう)日記が良子刀自の許にある。「桜」はさくら、「羽」はあかばねである。時に磐四十二、矩之四十八、国四十七。信平はボストンに遊学してゐた。年三十。
 二十八年徳の長子精(せい)が三月二十二日に生れ、二十六日に夭した。
 三十年徳の第二女ちよが九月三十日に巣鴨の監獄役宅に生れた。徳は監獄の吏となつてゐたのである。磐の三女ふみが一月二十九日に、第二子信治(のぶはる)が十月三十日に生れた。
 三十三年二月四日磐の第三子玄隆(げんりう)が生れて夭した。尋(つい)で五月十一日に長子信一が二十歳にして世を早うした。「灯に独り書を読む寒さ哉。空阿(くうあ)。」空阿は磐である。
 三十五年二月二十二日徳の第二子信匡(のぶたゞ)が生れた。磐の母春が十一月二十四日に七十八歳にして歿した。「折もよし母のみとりを冬籠。磐五十四歳。」此年六月十九日宗家を継いだ信平が宮内省医局御用掛を拝した。
 三十八年十一月二十四日磐が五十七歳にして歿した。
 四十年二月二十五日徳の第三子信道(のぶみち)が生れた。
 四十一年八月三十日徳の妻かねが四十一歳にして牛込区富久町の家に歿した。
 四十三年八月二十三日徳の第三子信道が四歳にして夭した。
 大正四年七月十三日信治の叔母(しゆくぼ)、狩谷矩之の未亡人国が七十二歳にして歿した。是より先三十三年一月五日に矩之は歿したのである。
 五年信治の叔母安が六十五歳にして歿した。安は下野国の茶商須藤辨吉の妻であつた。
 此間明治十年に池田氏で京水の三男生田玄俊(いくたげんしゆん)、小字(せうじ)桓三郎が摂津国伊丹に歿し、十三年に小島氏で春澳瞻淇(しゆんいくせんき)が歿し、十四年に池田氏で初代全安が歿し、十八年に森氏で枳園が歿し、又石川氏で貞白が歿し、三十一年に小島氏で春沂(しゆんき)未亡人が歿し、三十三年に狩谷氏で既記の如く矩之が歿した。
 今茲(こんじ)大正六年に東大久保にある伊沢分家では徳五十九、母柏改曾能八十三、姉長(在福山津山碧山未亡人)六十四、子信匡十六、女(ぢよ)たかよ二十九、ちよ二十一、赤坂区氷川町清水氏寓伊沢又分家では信治二十一、母良六十二、姉その(清水夏雲妻)三十四、ふみ二十一、麻布鳥居坂町の宗家を継いだ叔父信平五十七である。以上が蘭軒末葉の現存者である。

     その三百六十九

 わたくしは伊沢蘭軒の事蹟を叙して其子孫に及び、最後に今茲(こんじ)丁巳に現存せる後裔を数へた。わたくしは前(さき)に蘭軒を叙し畢(をは)つた時、これに論賛を附せなかつた如くに、今叙述全く終つた後も、復総評のために辞(ことば)を費さぬであらう。是はわたくしの自ら擇んだ所の伝記の体例が、然ることを期せずして自ら然らしむるのである。
 わたくしは筆を行(や)るに当つて事実を伝ふることを専(もつぱら)にし、努(つとめ)て叙事の想像に渉(わた)ることを避けた。客観の上に立脚することを欲して、復主観を縦(ほしい)まゝにすることを欲せなかつた。その或は体例に背(そむ)きたるが如き迹あるものは、事実に欠陥あるが故に想像を藉りて補填し、客観の及ばざる所あるが故に主観を倩(やと)つて充足したに過ぎない。若し今事の伝ふべきを伝へ畢つて、言(こと)讚評に亘ることを敢てしたならば、是は想像の馳騁、主観の放肆を免れざる事となるであらう。わたくしは断乎としてこれを斥ける。
 蘭軒は何者であつたか。榛軒柏軒将(はた)何者であつたか。是は各人がわたくしの伝ふる所の事実の上に、随意に建設することを得べき空中の楼閣である。善悪智愚醇□(じゆんり)功過、あらゆる美刺褒貶(びしはうへん)は人々の見る所に従つて自由に下すことを得る判断である。
 わたくしは果して能く此の如き余地遊隙(よちいうげき)を保留して筆を行ることを得たか。若し然りと云はゞ、わたくしは成功したのである。若し然らずして、わたくしが識らず知らずの間に、人に強(し)ふるに自家の私見を以てし、束縛し、阻礙し、誘引し、懐柔したならば、わたくしは失敗したのである。
 史筆の選択取舎せざること能はざるは勿論である。選択取舎は批評に須(ま)つことがある。しかし此不可避の批評は事実の批評である。価値の判断では無い。二者を限劃することは、果して操觚者の能く為す所であらうか、将為すこと能はざる所であらうか。わたくしはその為し得べきものなることを信ずる。
 わたくしは上(かみ)に体例と云つた。しかし是は僭越の語である。体例を創するは凡庸人の力の及ぶ所では無い。わたくしが体例と云つたのは、自家の出発点を明にせむがために、姑(しばら)く妄(みだり)に命名した所に過ぎない。わたくしは古今幾多の伝記を読んで慊(あきた)らざるものがあつた故に、竊(ひそか)に発起する所があつて、自ら揣(はか)らずしてこれに著手した。是はわたくしの試験である。
 わたくしは此試験を行ふに当つて、前(さき)に渋江抽斎より姶め、今又次ぐに伊沢蘭軒を以てした。抽斎はわたくしの偶(たま/\)邂逅した人物である。此人物は学界の等閑視する所でありながら、わたくしに感動を与ふることが頗(すこぶる)大であつた。蘭軒は抽斎の師である。抽斎よりして蘭軒に及んだのは、流に溯つて源を討(たづ)ねたのである。わたくしは学界の等閑視する所の人物を以て、幾多価値の判断に侵蝕せられざる好き対象となした。わたくしは自家の感動を受くること大なる人物を以て、著作上の耐忍を培(つちか)ふに宜(よろ)しき好き資料となした。
 以上はわたくしが此の如き著作を敢てした理由の一面である。

     その三百七十

 わたくしは渋江抽斎、伊沢蘭軒の二人を伝して、極力客観上に立脚せむことを欲した。是がわたくしの敢て試みた叙法の一面である。
 わたくしの叙法には猶一の稍人に殊なるものがあるとおもふ。是は何の誇尚(くわしやう)すべき事でもない。否、全く無用の労であつたかも知れない。しかしわたくしは抽斎を伝ふるに当つて始て此に著力し、蘭軒を伝ふるに至つてわたくしの筆は此方面に向つて前に倍する発展を遂げた。
 一人の事蹟を叙して其死に至つて足れりとせず、其人の裔孫のいかになりゆくかを追蹤して現今に及ぶことが即ち是である。
 前人の伝記若くは墓誌は子を説き孫を説くを例としてゐる。しかしそれは名字存没等を附記するに過ぎない。わたくしはこれに反して前代の父祖の事蹟に、早く既に其子孫の事蹟の織り交ぜられてゐるのを見、其糸を断つことをなさずして、組織(そしよく)の全体を保存せむと欲し、叙事を継続して同世の状態に及ぶのである。
 わたくしは此叙法が人に殊なつてゐると云つた。しかし此叙法と近似したるものは絶無では無い。昔魏収(ぎしう)は魏書を修むるに当つて、多く列伝中人物の末裔を載せ、後に趙翼(てうよく)の難ずる所となつた。しかし収は曲筆して同世の故旧に私(わたくし)したのである。一種陋劣なる目的を有してゐたのである。わたくしの無利害の述作とは違ふ。近ごろ今関天彭(いませきてんぱう)さんの先儒墓田録は物徂徠の裔を探り市野迷庵の胤を討(たづ)ねて、窮め得らるべき限を窮めてゐる。惟(たゞ)今関氏の文は短く、わたくしの文は長きを異なりとする。
 是は文の体例の然らしむる所である。彼は地誌に類する文を以て墳墓を記し、此は人の生涯を叙する伝記をなしてゐるからである。
 そして此にわたくしの自ら省みて認めざることを得ざる失錯が胚胎してゐる。即ち異例の長文が人を倦ましめたことである。
 わたくしの伝記が客観に立脚したと、系族を沿討(えんたう)したとの二方面は、必ずしも其成功不成功を問はず、又必ずしも其有用無用を問はない。わたくしの文が長きがために人の厭悪(えんを)を招いたことは、争ふべからざる事実である。そして此事実はわたくしをして自家の失錯を承認せしむるに余あるものである。
 人はわたくしの文の長きに倦んだ。しかし是は人の蘭軒伝を厭悪した唯一の理由では無い。蘭軒伝は初未だ篇を累(かさ)ねざるに当つて、早く既に人の嘲罵に遭つた。無名の書牘(しよどく)はわたくしを詰責して已まなかつたのである。
 書牘はわたくしの常識なきを責めた。その常識なしとするには二因がある。無用の文を作るとなすものが其一、新聞紙に載すべからざるものを載すとなすものが其二である。此二つのものは実は程度の差があるに過ぎない。新聞紙のために無用なりとすると、絶待に無用なりとするとの差である。
 わたくしは今自家の文の有用無用を論ずることを忌避する。わたくしは敢て嘲(あざけり)を解かうとはしない。しかし此書牘を作つた人々の心理状態はわたくしの一顧の値ありとなす所のものである。

     その三百七十一

 大抵新聞紙を読むには、読んで首(はじめ)より尾(をはり)に至るものでは無い。一二面を読んで三面を読まぬ人がある。三面を読んで一二面を読まぬ人がある。新作小説を読むものは講談を読まない。講談を読むものは新作小説を読まない。読まざる所のものは其人の無用とする所である。しかし其人は己に無用なるものが或は人に有用なるものたるべきを容認することを吝(をし)まない。此故に縦令(たとひ)おしろいの広告が全紙面を填(うづ)むとも、粉白(ふんはく)を傅(つ)くるに意なきものがこれを咎めようとはせぬのである。
 事情此(かく)の如くなれば、人の蘭軒伝を無用とするは、果して啻(たゞ)に自己のこれを無用とするのみではなく、これを有用とするものの或は世上に有るべきをだに想像することが出来ぬが故であらうか。
 彼蘭軒伝を無用とするものの書牘(しよどく)を見るに、問題は全く別所に存するやうである。書牘は皆詬□毒罵(こうしどくば)の語をなしてゐる。是は此篇を藐視(ばくし)する消極の言(こと)ではなくて、此篇を嫉視する積極の言である。
 此嫉悪(しつを)は果して何(いづ)れの処より来るか。わたくしは其情を推することの甚難(かた)からざるべきを思ふ。凡そ更新を欲するものは因襲を悪(にく)む。因襲を悪むこと甚しければ、歴史を観ることを厭ふこととなる。此の如き人は更新を以て歴史を顧慮して行ふべきものとはなさない。今の新聞紙には殆ど記事の歴史に渉(わた)るものが無い。その偶(たま/\)これあるは多く售(う)れざる新聞紙である。
 蘭軒伝の世に容れられぬは、独り文が長くして人を倦ましめた故では無い。実はその往事を語るが故である。歴史なるが故である。人は或は此篇の考証を事としたのを、人に厭はれた所以だと謂つてゐる。しかし若し考証の煩を厭ふならば、其人はこれを藐視して已むべきで、これを嫉視するに至るべきでは無い。
 以上の推窮は略(ほゞ)反対者の心理状態を悉(つく)したものであらうとおもふ。わたくしは猶進んで反対者が蘭軒伝を読まぬ人で無くて、これを読む人であつたことを推する。読まぬものは怒(いか)る筈がない。怒は彼虚舟(きよしう)にも比すべき空白の能く激し成す所ではないからである。
 わたくしの渋江抽斎、伊沢蘭軒等を伝したのが、常識なきの致す所だと云ふことは、必ずや彼書牘の言(こと)の如くであらう。そしてわたくしは常識なきがために、初より読者の心理状態を閑却したのであらう。しかしわたくしは学殖なきを憂ふる。常識なきを憂へない。天下は常識に富める人の多きに堪へない。
 わたくしは筆を擱(さしお)くに臨んで、先づ此等の篇を載せて年を累(かさ)ね、謗書旁午(ばうしよばうご)の間にわたくしをして稿を畢(を)ふることを得しめた新聞社に感謝する。次にわたくしは彼笥(あのし)を傾けて文書を借し、柬(かん)を裁して事実を報じ、編述を助成した諸友と、此等の稿を読んで著者の痴頑(ちぐわん)を責めなかつた少数の未見の友とに感謝する。
 最後にわたくしは渋江伊沢等諸名家の現存せる末裔の健康を祝する。(終。)




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