伊沢蘭軒
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:森鴎外 

 上(かみ)に記するが如く、庚午二月二十日に棠軒は東京本所石原の阿部家別邸に著き、丸山本邸へ届けに往き、先づ津山氏を訪うた。津山氏は三年の後に棠軒の女長の嫁すべき家である。
 津山氏当時の主人を英琢(えいたく)と云ふ。戊辰席順に「表御医師無足、十二人扶持、津山英琢、二十九」と云つてある。庚午には三十一歳になつてゐた。棠軒より少(わか)きこと六歳である。棠軒が遠く福山より来て、先づ其家を訪うたのを見れば、恐らくは親しき友であらう。是が後に棠軒の女婿となるべき碧山(へきざん)である。
 碧山英琢の家には、当時七十四歳の老父忠琢成器(ちゆうたくせいき)が猶堂にあつた。忠琢は本伊藤氏、寛政九年に上総国市原郡高根村に生れた。父を義勝(よしかつ)と云ふ。五十川□堂(いかがはじんだう)の撰んだ墓誌に、「諱義勝第二子、幼孤、長来江戸、従樗園杉本翁学医、業成、嗣福山侯侍医津山氏、既而名声大起、累得俸廿五口」と云つてある。忠琢は福山の津山氏の養子となつたのである。其師杉本氏樗園(ちよゑん)、名は良(りやう)、字(あざな)は仲温(ちゆうをん)、一字(じ)は子敬(しけい)である。池田錦橋と親しく交り、その歿するに及んで墓表を撰み、廃嫡の子京水を憐んで交を渝(か)へなかつたのは即此人である。わたくしは後に安積艮斎(あさかごんさい)の樗園の平生を記したのを見た。樗園と艮斎とは、少時同く柔術を松宮柳囿(りういう)に学び、昵(したし)むこと兄弟の如くであつた。艮斎は樗園の事を叙して、「君有膂力、技亦抜群、雖□顱依様、而髪五分、以示勇猛状、時或酔後夜行、途次往々顛□人以為快」と云つてゐる。後二人は相約して志を立て、節を折つて書を読んだのださうである。わたくしはこれを読んで、京水が否運に遭つた時、樗園の義侠に負ふ所のあつたことを想見する。又中根香亭の記する所を見るに、樗園は善く琴(きん)を鼓した。其伝統は僧心越、杉浦琴川、幸田親益(しんえき)、宿谷空々(しゆくだにくう/\)、新楽閑叟(しんがくかんそう)、杉本樗園である。今樗園が碧山の父の師たるを言ふに当つて、聊(いさゝか)前記の及ばざる所を補つて置く。
 さて碧山の父忠琢を養つて子とした所謂「福山侯侍医津山氏」とは誰か。福田氏はその長子刀自に聞く所のものを書して、特にわたくしに寄せてくれた。津山宗伯、名は義篤(よしあつ)、初厚伯(こうはく)と称した。宝暦五年の生である。幕府の医官山崎宗運に師事し、宗字を贈られて宗伯と改めたと云ふ。按ずるに宗運は宗円ではなからうか。明和武鑑に「寄合医師、二百俵、元誓願寺、山崎宗円」がある。宗伯は阿部正倫(まさとも)に仕へて、三たび駕に随つて福山に赴いた。菅茶山とは親善であつたと云ふ。茶山より少(わか)きこと七歳、蘭軒の父信階(のぶしな)より少きこと十一歳であつた。宗伯は相貌魁梧で、克(よ)く九十余歳の寿を保つたさうである。是が碧山の養祖父である。
 碧山の父忠琢は養父宗伯の後を承けて阿部家の侍医となつた。□堂が「歴事六公」と書してゐる。六公とは正精、正寧、正弘、正教、正方、正桓であらう。然らば忠琢は蚤(はや)く十五歳許(きよ)にして正精に仕へたものと見える。正精の死は文化九年忠琢十六歳の時に於てしたからである。
 忠琢は帰山(かへりやま)氏を娶(めと)つて四子六女を挙げた。長男伊之助の生れたのは、文政九年忠琢三十歳の時である。伊之助、名は義淳(よしあつ)、後義方(よしかた)と改めた。経を安積艮斎に学び、又筆札を善くし、章斎と号した。僧となつて越後国蒲原郡見附在小栗山村真言宗不動院に住し、明治二年二月十三日に父に先(さきだ)つて寂した。時に年四十四。棠軒の碧山を東京に訪うた前年である。是が碧山の長兄である。

     その三百五十

 わたくしは津山碧山の家世を略叙して、祖父宗伯義篤、父忠琢成器、長兄章斎義方の名を挙げた。章斎には安積艮斎の手批(しゆひ)を経た詩稿が家に蔵してある。わたくしは其詩を録せずに、中に見えてゐる応酬の人物を抄出する。先づ諸侯には柳川侯があつて、章斎は其如意亭に遊ぶこと数次であつた。柳川侯は立花鑑寛(あきひろ)である。士人には小島成斎、岡西玄亭、皆川順庵、今川某、児島某、杉本望雲、岡田徳夫(とくふ)、河添原泉(かはぞへげんせん)、中耕斎、玉置(たまき)季吉があり、僧侶には鳳誉、渓巌、綜雲がある。又師艮斎の家に往つて作つた詩、佐藤一斎の筆蹟の後に題した詩もある。
 章斎に次で生れた忠琢の次男宗琢は、十七歳にして早世した。碧山の仲兄である。
 次で天保十一年に碧山が生れた。小字(をさなな)は英三郎、中ごろ行三(かうざう)、後英琢と称した。忠琢四十四歳の時の子で、その生れた時章斎は十五歳であつた。宗琢は何歳であつたか不詳である。
 碧山は幼時句読を庄原文助に受けた。後経を安積艮斎、海保漁村に学び、説文を岡本况斎に学び、又筆札を小島成斎に学んだ。
 庚午二月二十日に三十七歳の棠軒が、七十四歳の忠琢と三十一歳の碧山とに会したことは既に云つた如くである。わたくしは此より棠軒日録を続抄する。
「廿一日。晴。大君初而拝診被仰付。」大君は不争斎正寧である。
「廿二日。晴。番入。以来隔日当番可相勤旨。養竹出府御免、支度出来次第帰藩被仰付。伊東大典医伺に罷出、初而面謁す。」枳園養竹は棠軒の来りしが故に福山に帰ることを許された。伊東大典医は冲斎玄樸であらう。名は淵(えん)、字(あざな)は伯寿、本御厩(みうまや)氏、肥前の人である。蘭医方をジイボルドに受けた。幕府は安政五年に冲斎等を挙げ用ゐるに及んで、前(さき)に阿部正弘が老中たる時に下した禁令を廃したさうである。事は松尾香草の近世名医伝に見えてゐる。冲斎は庚午の年に七十一歳になつてゐた。
「廿三日。晴。風。養竹当分之内御差留被仰付。同人同道団坂蕎店(だんはんけうてん)に而(て)飲(のむ)。」枳園は一旦福山に帰ることを許されたのに、又抑留せられた。団坂蕎店は団子坂の藪蕎麦である。
「五日。(三月。)雨。森同道狩谷へ行飲。当時弘前邸内屋敷住居なり。」狩谷矩之が当時既に本所横川邸に移つてゐたことが、此に由つて証せられる。
「十二日。陰。午後微晴(すこしはる)。森氏御用相済近日帰藩可致旨被仰付。」
「十六日。微雨。森氏午後当邸を出立帰藩之事。」枳園が方纔(はうざん)江戸を発したのである。
「晦日(つごもり)。雨。御扶持受取、五人半扶持、米八斗二升五合、代金九両三分銭一貫八百九十三匁、雑用代金一分二朱。」此文と前日の「御内々月給金五両受取」と云ふ文とを合せ考へて、阿部家の棠軒に対する待遇を知るべきである。前日の文は特に抄せずに置いた。
「六日。(四月。)陰。静岡分家より書状到来、去月三日井戸妙(ゐどたへ)女病死之旨申来。」蘭軒の女長の夫井戸応助に子勘一郎と女(むすめ)二人とがあつて、後者中姉は関根氏に嫁し、妹は徳安の許にゐたことが文久三年の徳安の親類書に見えてゐる。妙は此妹か。然らば当時徳安改磐安の一家は静岡に徙(うつ)つてゐたのであらう。是より先「駿州分家」の語は既に日録に見えてゐた。

     その三百五十一

 わたくしは棠軒日録を抄して既に庚午四月六日に至つてゐた。此より其稿を続ぐ。
「十五日。晴。今川橋大久保に行。」蘭軒の父信階(のぶしな)の養母にして信政の妻であつた伊佐の生家、菓子商大久保主水(もんど)は庚午の歳に猶店を今川橋に持続してゐて、棠軒は当時の主水と往来してゐたのである。是日棠軒は福山の家人の書を得た。書は「三月十九日出」であつた。福山の書信が東京に達したのは二十六日後であつた。わたくしはその余りに遅きに驚いたが、是は異例であつた。後には四月廿二日に福山を発した書が五月朔(さく)に達してゐる。即ち八日後である。
「十一日。(五月。)夕雨。知事様御事去(さんぬ)る五日福山表御発船被遊、昨夕丸山邸へ御著被遊候。」阿部正桓(まさたけ)の入京である。後三日、十四日に「御上大君為御機嫌御伺御出被遊候」の文がある。正寧(まさやす)を石原に省したのである。
「七日。(六月。)微晴。権少参事村上半蔵より申来(まうしきたる)如左(さのごとし)。然者(しかれば)貴様儀御隠居様御不快為御看病出府被仰付候処、更に在番被仰付候旨、創殿(はじむどの)被仰渡候間、御談(おんだんじ)申候、以上。六月七日。尚々御隠居様御看病之儀、三好東安同様申合御介抱申上候様被仰付候。」棠軒の逗留が在番の名義に改められたのである。村上半蔵は己巳席順に「百三十石」と註してある。創は岡田氏。
「十九日。晴。浅田宗伯伺出(うかゞひにいづ)。」正寧が浅田栗園を請じたのである。以下復(また)抄せない。
「廿三日。夕雨。玄道来。」棠軒は入京以来殆日ごとに清川氏と往来してゐる。しかし「玄道」の称は始て此に見えてゐる。故(もと)の安策が父の称を襲(つ)いだのである。
「廿九日。夕雨。雷鳴。今日より詰切被仰付。」正寧の病革(すみやか)なるが故である。
「七月朔日。晴。暮六時御絶脈被遊候。」正寧の捐館(えんくわん)である。年六十二。正精の子、正弘の兄、正教正方の父である。
「三日。雨。冷気甚。暮時御入棺。」正寧の斂(れん)である。
「五日。微雨。御隠居様昨卯上刻御逝去被遊候に付、為伺御機嫌(ごきげんうかゞひとして)今五日四時より九時迄之内、改服に而出仕可致旨。丸山御住居へ出御謁並手札差出。」正寧の発喪である。
「十日。晴。夜雨(やう)。今朝御出棺。西福寺(さいふくじ)自拝罷出(じはいまかりいづ)。」正寧の葬(はうむり)である。西福寺は浅草新堀端。
「十三日。晴。」是日棠軒は長谷寺(ちやうこくじ)に詣でた。其記に「鳥居坂へ寄、午飯」の文がある。宗家伊沢は幕政の時より居を徙(うつ)さずにゐるのであつた。当主信崇(しんそう)は三十一歳であつた。
「五日。(八月。)雨。常徳院様御三十五日御当日に付、御遺物頂戴被仰付。如左。金巾(かなきん)御紋付御小袖一つ、□(さらし)御紋付一つ、為別段(べつだんとして)唐桟御袴地一つ、唐更紗御布団地一つ、計四品、於御納戸頂戴。」常徳院は正寧の法諡(はふし)である。
「十二日。晴。」来客中に「矢島元碩」がある。「元碩」は玄碩に作るべきで、渋江抽斎の子優善(やすよし)が養父の称を襲いだのである。日録に優善の事を記する始である。優善は当時三十六歳であつた。
「十三日。晴。」是日阿部家に画幅の払下があつて、棠軒は数幅を買つた。明治初年の書画の価(あたひ)を知らむがために其一二を抄する。「探幽雲山一軸代金一両二分、常信花鳥一軸代金三分。」
「廿五日。晴。家書及飯田書状来る。本月三日男子出生之由。」公私略に「名、三郎」と云つてある。
「廿七日。晴。此日初而乗人力車。」東京に人力車の行はれた始であらう。

     その三百五十二

 庚午八月二十七日後の棠軒日録を続抄する。
「廿二日。(九月。)微雨。福山内田養三より申来(まうしきたる)左如(さのごとし)。自分事御家内医官、東安同補、先達而(せんだつて)被仰付候由。尤医官次席之事。権少村上氏より申来如左。自分事在番被仰付置候処、御免被仰付候旨。」棠軒は家内医官を拝し、三好東安は家内医官補を拝したのである。家内医官とは阿部家の家庭医師を謂ふか。内田養三は福山にある同僚である。棠軒は同時に在番を解かれた。三好は是より先、是月六日に在番を解かれ、次日二十三日に東京を発して福山に向ふこととなつてゐた。「権少村上」は権少参事村上半蔵の略である。此二事は棠軒公私略も亦これを載せてゐる。
「廿九日。晴。道中御手当金二十八両一分一朱と銭五百三十三匁受取。明後朔日(ついたち)出帆決定。」
「十月朔日。晴。朝六時石原御門前より川崎屋船に乗組、南新堀万屋(よろづや)正兵衛方へ一先(ひとまづ)落著、黄昏和歌山蒸汽明光丸へ乗組。船賃九両茶代金二百疋。」
「二日。晴。今朝五時前出帆。」
「四日。晴。暁七時浪華(なには)天保山沖へ著。天明より小舟一艘雇(やとひ)、土佐堀御蔵屋敷へ著。」
「五日。微晴。時雨(ときにあめ)。藩邸より伏見夜船賃受取。夕刻煙草屋藤助一六船利徳丸へ乗組、新堀迄出帆。」
「六日。晴。夜微雨。今朝新堀出帆。」
「八日。晴。夕七時福山木綿橋へ著船上陸。安石、洞谷、待蔵、徳児等迎来。」此旅行は公私略に只発著を記するのみである。
「十三日。雨。九月八日岡山奥小野崎姉君御病死之旨今日御達(おんとゞけ)差出(さしいだし)、一日之遠慮引いたし候。」公私略に同文がある。只小野崎を「斧崎」に作つてある。棠軒の姉は田中氏か。
「十五日。(閏(じゆん)十月。)晴。日暮雨。殿様昨夜鞆津(ともつ)へ御著船被遊、今九時御帰藩被遊候に付、平服に而御祝儀出勤。」阿部正桓(まさたけ)の帰藩である。
「十七日。晴。内願(ないぐわん)差出左之通。覚(おぼえ)。私拝領仕候御紋附類悴徳(めぐむ)へ著用為仕度奉内願候、以上。私拝領仕候木綿御紋附御羽織異父兄飯田安石へ相譲申度奉内願候。以上。両通共勝手次第之旨、御頭(おんかしら)乾三殿被申談候(まうしだんぜられそろ)。」乾三は己巳席順に「吉沢乾三」と記してある。
「十日。(十一月。)晴。午後雨。微雪。三児種痘。」三児は三郎、当歳。種痘は遂に伊沢氏に入つた。
「七日。(十二月。)晴。津山へ行飲(ゆきのむ)。行三(かうざう)挙家(きよか)一昨日引越著に付。」津山碧山は当時行三と称した。父忠琢も共に福山に来たのである。五十川□堂(いかがはじんだう)の文に「扈君夫人、移居福山、時君(忠琢)既致仕、而有此命、蓋特典也」と云ふは、此時の事であらう。是に由つて観れば、津山氏の移徙(いし)は忠琢が召された故である。君(くん)夫人は正弘の第六女にして正桓の初の室寿子(ひさこ)か。寿子は当時二十一歳であつた。

     その三百五十三

 庚午十二月七日後の棠軒日録を続抄する。
「十八日。陰。藩庁御制度御変革諸官員御減省に付而者(ついては)、御家政向も右に准じ御減省、且御家禄之内御減数之儀も有之、依而免職被仰付。三好東安、自分、津山忠琢、右に付金三百疋づつ頂戴被仰付。」棠軒が三好、津山と共に所謂家内医官を罷められたのである。
「廿八日。晴。御奥御改革御人減(おんひとべらし)に付、長女御暇被下下宿。」棠軒の女長が阿部家の奥より下げられたのである。棠軒公私略は棠軒自己の事を載せて、其女の事を載せない。
 此年棠軒三十七、妻柏三十六、子平安十二、女長十七、良十五(以上福山)、磐安二十二、弟平三郎十、孫祐八つ、姉国二十七、安十九、柏軒の妾春四十六(以上静岡)であつた。
 明治四年は蘭軒歿後第四十二年である。棠軒一家は又年を福山に迎へた。
「正月元日。晴。」此日の記事中「春雄来」の句がある。春雄は森枳園の子約之の維新後の称なることが其墓表に由つて証せられる。時に約之は三十七歳であつた。「六日。晴。」「七日。晴。」此二日の間に、棠軒は四十二家を廻礼してゐる。其中酒を饗した家が八軒で、其一は関藤藤陰(せきとうとういん)の家である。
「十七日。(二月。)雨。夕晴。慧□童女(ゑりんどうによ)七回忌、得悟童子来廿八日三回忌之処取越、法事執行、今日□夜(たいや)也。大賢尼来読経。」按ずるに慧□は棠軒の女信(のぶ)の法諡(はふし)である。信は慶応紀元二月十八日に夭した。□夜は原(もと)荼毘(だび)前夜であるが、俗間には法要の前夜を謂ふ。此には後の義に用ゐてある。得悟は棠軒の子紋二郎の法諡である。紋二郎の夭折は、軍行日録に徴するに、戊辰の三月であつた。そして記事に其日を佚してゐた。今本文に由つてその戊辰二月二十八日に夭したことを知るべきである。
「七日。(四月。)晴。棠軒と改名願書差出す。尤(もつとも)当用内田養三取計。」所謂改名は道号を以て通称としようとしたのであらう。春安信淳(のぶきよ)には棠軒、小棠軒、谷軒(こくけん)、尚軒、芋二庵(うじあん)の諸号があつた。以上は歴世略伝の載する所である。又海紅(かいこう)の号があつたらしい。軍行日録に「海紅主人伊沢春安」と署してある。
「八日。陰。午後吉田へ会合。主人、貞白及小島金八郎並に尚(ひさし)同伴、山(やま)六船(ぶね)に而(て)讚岐金刀比羅宮(ことひらのみや)参詣。夜四時過乗船、夜半出船。尤同日安石より御届取計。」棠軒は福山を発して讚岐象頭山(ざうづさん)に向つたのである。一行凡五人であつた。吉田の主人(あるじ)は洞谷であらう。貞白は石川氏である。小島金八郎は戊辰席順に「料」の肩書がある。恐くは料理人であらう。年は辛未三十歳であつた。尚は小字(せうじ)誠之助、飯田氏の嗣子である。棠軒は発するに臨んで、飯田安石をして県庁に稟(まう)さしめた。
「九日。晴。暮六時多度津へ著船。夫より乗馬に而御山(みやま)迄行。時(ときに)三更前鞆屋(ともや)久右衛門に一泊。」
「十日。晴。朝登山。鞆久(ともきう)に而午飯之上乗船、初更頃出帆。」
「十一日。雨。午後八半時過著船。夜六半時頃帰宅。」公私略の記事は此に終る。此より下(しも)は日録を抄することを得るのみで、復(また)公私略を参照することを得ない。

     その三百五十四

 明治辛未四月十一日後の棠軒日録を続抄する。
「廿六日。晴。関藤(せきとう)へ行。政太郎病死之悔。」わたくしは関藤藤陰の詳伝を知らない。しかし其長子政太郎は、文化四年生れの藤陰が蜷川(になかは)氏を娶(めと)つて、弘化三年四十歳の時にまうけたものである。明治二年の席順には「二百石、御足百石、関藤文兵衛、六十三」と云ひ、「十二石、関藤政太郎、廿三」と云つてある。辛未に政太郎が早世したとすると、其齢(よはひ)は二十五歳で、父の六十五歳の時に終つたのである。阪谷朗廬(さかたにらうろ)撰の墓誌には、「配蜷川氏、先歿、有二男、長曰政太郎、成立受譲継家、不幸早世、次子亦先夭」と云つてある。然らば藤陰は当時既に致仕して、政太郎は戸主となつてゐたのである。
「十三日。(五月。)晴。午後微雨。関帝祭祀。安石夫婦来割烹(かつぱうす)。」関帝を祭ることは、維新後にも未だ廃せられずにゐた。飯田安石と其妻とが来て庖厨の事を掌(つかさど)つた。
「晦日。晴。柏(かえ)飯田へ行。」曾能子刀自は猶柏と称してゐた。飯田は安石の家である。
「三日。(六月。)土用入。晴。午後微雨。森春雄今暁病死之由申来る。」森枳園立之の子約之である。年は三十七になつてゐた。浜野氏は頃日(このごろ)福山賢忠寺の墓を訪うた。「文定院斉穆元信居士、明治四年未六月三日、森春雄約之墓」と刻してあるさうである。
「六日。晴。夕森へ悔行(くやみにゆく)。」子を喪つた枳園夫妻を訪うたのである。
「三日。(七月。)岡山より姉君遺物到来。」前年九月八日に歿した棠軒の姉があつた事は上(かみ)に見えてゐる。
「四日。晴。驟雨雷鳴。於会計六箇月分扶持銀受取。札三貫四百十六匁四分也。」当時棠軒の受けた俸銭である。
「十五日。雨。朝より晴。盆踊瞥見。」猶盆踊の俗が廃(すた)れずにゐた。
「十九日。雨。此日祖母一週忌□夜(たいや)也。」祖母とは誰か。文政十二年二月五日に歿した蘭軒の妻飯田氏益(ます)にあらざることは明である。儻(もし)くは生家の祖母か。前年の日録は記載を闕いてゐる。
「廿日。陰。示幻童女(しげんどうによ)三十三回忌。」天保己亥に歿した榛軒の女(ぢよ)久利(くり)である。
「廿三日。晴。知事様御免職。」阿部正桓(まさたけ)が福山藩知事を罷められたのである。
「廿九日。晴。午後驟雨。夜又雨。午前より森へ行。此日平野亀三郎同家へ養子願済引移、夕又平野へ里開(さとびらき)。」森枳園は平野氏亀三郎を養つて子とした。亀三郎の生父は杉右衛門と称した。己巳席順に「五十五俵、平野杉右衛門、四十八」と云つてある。是より先七月七日の条に「森、平野、再森へ行、養子一件」の文があり、又八日の条に「杉右衛門来、森へ行、森養子一件」の文があつた。是に由つて観れば、媒妁者は棠軒であつた。按ずるに亀三郎は春雄の長女くわうに迎へられた婿である。
「廿一日。(八月。)雨。夕晴。飯田ます女河合銀二郎へ縁談。今日吉辰に付引移、右に付飯田へ行飲。」ます女は安石の女であらう歟。河合氏の事は未だ考へない。或は下(しも)に見えてゐる友翁(いうをう)の子か。

     その三百五十五

 明治辛未八月二十一日後の棠軒日録を続抄する。
「十九日。(九月。)晴。明廿日前知事様方々様(かた/″\さま)東京御引越(おんひきこし)に而(て)御発駕被遊(あそばさる)。石川御供に而出立に付暇乞に行飲。」阿部正桓が福山より東京に遷り、石川貞白が随従するのである。
「廿日。晴。又微雨。御発駕御延引相成候。右者(みぎは)六郡の村民一揆強訴(がうそ)、市中乱暴、其上浜野両家及津川高島等焼立候に付。」浜野章吉、浜野徳蔵、津川徳太郎、高島鉄之助の家か。章吉、名は王臣(わうしん)、字(あざな)は以寧(いねい)、箕山(きざん)又猶賢(いうけん)と号した。災(わざはひ)に遭ふものは皆其族人であつたらしい。擾乱の由来等は不詳である。
「廿一日。晴。不得已(やむをえず)強訴之者打払之令出、近郷迄兵隊罷出警衛相成候。」
「廿四日。晴。未穏(いまだおだやかならず)。尤(もつとも)御城内相詰候非役之面々一旦引取に相成候。」
「十一日。(十月。)晴。風。午後止。河合友翁来。森亀三郎家督被仰付、悦行飲(よろこびにゆきのむ)。」按ずるに枳園養竹は早く致仕し、春雄が家督相続をしてゐたので、今亀三郎は春雄の後を襲(つ)いだのであらう。友翁は或は飯田安石の女婿銀二郎の生父か。
「二日。(十一月。)石川明日御供出立に付行飲。」阿部正桓東行の日が再び卜せられたのである。
「三日。晴。前知事様御初方々様方東京為御引越午後御乗船。右に付川場迄御見送出。」正桓は遂に家を挙げて福山を発した。
「四日。晴。養竹妻病死之由、以金沢源二郎為知来(しらせきたる)。即刻悔行(くやみにゆく)。」
「五日。晴。森葬送に付、早朝より行。」枳園の妻勝は三日に歿し、棠軒は四日に訃を得て往いて弔し、五日に送葬した。墓は福山東町賢忠寺にある。浜野氏は墓表を写した。「貞荘院敬徳明慧大姉、明治四年十一月三日、森立之妻。」
「七日。(十二月。)晴。風寒甚(かぜさむきことはなはだし)。石川貞三昨夜帰著に付、悦行飲。」貞蔵、初の称厚安(こうあん)、貞白の子である。
 此年八月十三日に静岡にある柏軒の子孫祐(まごすけ)が九歳にして夭し、翌十四日に大在家(だいざいけ)村天徳院に葬られた。法諡(はふし)白露清光禅童子である。良子刀自所蔵の文書中に、孫祐葬儀の時の「諸用留(しよようどめ)」一冊がある。孫祐の死は棠軒日録の辛未の部に見えない。或は訃音が至らなかつたものか。
 此年棠軒三十八、妻柏三十七、子平安十三、三郎二つ、女長十八、良十六(以上福山)、磐安二十三、弟平三郎十一、姉国二十八、安二十、柏軒の妾春四十七であつた。
 明治五年は蘭軒歿後第四十三年である。棠軒は又年を福山に迎へた。「正月元日。晴。御祝儀非役之面々無之(これなし)。已廃三朝古典刑。曾無賀客至山□。唯余一事猶依旧。独坐焚香読孝経。」
「二日。(二月。)陰。夕雨(ゆふべあめ)。貞蔵来。貞白午刻東京より帰着之由。右に付悦行飲。」
「二十二日。晴。断髪す。」按ずるに棠軒は剃髪せずにゐたので、今俗に随つて断髪したのであらう。
「二十三日。晴。養竹明日吉野発途之由申来。肴切手持行飲(さかなきつてもちゆきのむ)。」森枳園吉野の遊である。此事は藤陰舎(とういんしや)遺稿にも見えてゐるから、少しく下(しも)に補叙しようとおもふ。時に枳園は年六十六であつた。

     その三百五十六

 わたくしは棠軒日録を抄して明治壬申に至り、二月二十三日が森枳園の吉野へ立つ前日だと云つた。藤陰舎遺稿に七絶一首がある。「送人遊芳野、此詩送高田聾翁、森養竹者、二人非同行、前後一二日、相継発程。欲看芳山万樹桜。旅装纔挈一瓢行。宛然先輩尋花去。栢笠飄飄菅笠軽。自註、芭蕉、宣長。」高田氏の名は遺稿丙子の巻(まき)に重見(ちようけん)してゐる。「寄高田聾翁」と題するものが是である。己巳席順の「廿二俵三人扶持、高田段兵衛、六十六」である。段兵衛、後段右衛門と称した。号は杏塢(きやうう)、晩に聾翁(ろうをう)と云ふ。一時藤井松林、吉田東里と倶に福山の三画史と呼ばれた。
 枳園は前年辛未の夏実子約之(やくし)を失ひ、冬妻(さい)勝(かつ)を失ひ、家を養嗣子亀三郎に託して此遊の途に上つたのである。枳園の此遊には必ず詩文があつたであらう。しかし一として世に伝はつたものが無い。
「廿五日。(三月。)晴。花影(くわえい)童女五十回忌に付、柏(かえ)賢忠寺参詣。」花影は文政六年三月二十五日に夭した蘭軒庶出の女(ぢよ)順(じゆん)である。
「十一日。(五月。)雨。徳(めぐむ)今日より岡へ遣す。十八史略講義聴聞也。」徳のために十八史略を講じた岡氏は岡待蔵、後の寛斎であらう。徳時に年十四であつた。
「廿四日。雨。昨日安石隠居願済。」飯田安石は壬申五月二十三日に致仕したのである。時に年四十九であつた。
「廿二日。(七月。)晴。待蔵事寛斎来。」岡待蔵が新に寛斎と改称したのは此時である。時に年三十四。
「廿九日。(八月。)雨。成田竜玄昨夜物故、今日葬送、徳代参遣す。」成田竜玄が壬申八月二十八日の夜に歿したのである。
「三日。(九月。)陰。河合へ行。去晦日(きよつごもり)友翁妻病死之悔。」河合友翁の妻が壬申八月三十日に歿した。飯田安石の女婿銀二郎の生母であらう。
「廿四日。晴。岡寛斎近日東京出府に付、於飯田宅別杯相催す。」寛斎の祖筵が飯田安石の家に於て開かれたのである。
「廿五日。晴。森へ行飲。同家年内東京転移に付、一切相談也。」枳園の家族が将に東京に移り住まむとするのである。
「廿六日。晴。今暁岡寛斎出府乗船之処、夜汐(よしほ)に延引之由、再行飲。」寛斎は壬申九月二十六日の夜福山を発して東上したのである。
「廿八日。晴。徳(めぐむ)啓蒙所(けいもうしよ)夜会に出す。」啓蒙所は学校の名か。
「十六日。(十一月。)晴。夜雨。柏断髪す。」曾能子刀自が三十八歳にして断髪した。恐くは病の故であつただらう。
「廿一日。晴。冬至。東京森養竹より書状到来。」是より先是月五日の下(もと)に「森へ行、同家引越一条に付、大黒屋直右衛門方へ行」の文があり、次年一月に至るまで屡「森へ行」の文がある。按ずるに枳園は吉野に遊んでより後、復福山に帰らずして、東京に入り、今家族を迎へ取らうとするのである。寿蔵碑に「明治五年壬申二月辞福山、漫遊諸州、五月至東京、是月廿七日補文部省十等出仕」と云つてある。時に枳園は六十六歳になつてゐた。
「二日。(十二月。)晴。夜雨。今般大陰暦御廃し、太陽暦御採用に付、明三日より一月第一日と御改正被仰出。」
 静岡の伊沢氏では、此年四月に磐安が磐(いはほ)と改称し、又七月に東京に遊学し、塩田氏に寓した。良子刀自所蔵の文書に、「明治五年七月東京第一大区十一小区東松下町三十七番地工部省七等出仕塩田真方寄留」の文がある。塩田良三(りやうさん)は既に真(まさし)と改称して、工部省に仕へてゐた。
 此年棠軒三十九、妻柏三十八、子徳十四、三郎三つ、女長十九、良十七(以上福山)、磐二十四、弟平三郎十二、姉国二十九、安二十一、柏軒の妾春四十八(以上静岡)であつた。

     その三百五十七

 明治六年は蘭軒歿後第四十四年である。棠軒は又年を福山に迎へた。一月より二月に至る間には、只棠軒の妻柏が一たび病んで後愈(い)えたこと(一月二十六日)、江木鰐水が棠軒を訪ひ(一月五日)、又棠軒が江木氏を過(よぎ)つたこと(一月十日)、棠軒が屡森枳園の留守を顧みたこと(一月五日、七日、八日)等がわたくしの目に留(とま)つたのみである。
 三月以下には良子刀自所蔵の文書中に、磐安改磐の日記の断簡があつて、棠軒日録と両存してゐる。わたくしは二者を併せ抄することとする。
 三月二日。磐が東京を発して静岡に向つた。家族を迎へ取らむがためである。当時磐の身分は「静岡県貫属士族」で、其戸籍は「静岡第五大区百姓安右衛門方同居」であつた。俸禄は「現米十八斗」であつた。家族は「母春、妹安、弟平三郎」と云つてある。姉国は狩谷矩之(くし)の妻である故、家族中に算してない。亡父柏軒の妾春は既に磐の母として事(つか)ふる所となつてゐる。磐は東京を発するに至るまで、「南紺屋町佐藤勘兵衛方」に寄寓してゐた。
 五日。磐は静岡に著いた。
 九日。磐は全家の東京に寄留せむことを静岡県庁に稟請(りんせい)し、兼て静岡に於ける「留守心得」を指定した。東京に於ける寄留先は「第二大区十五小区麻布南日窪町医師伊沢信崇方」即所謂鳥居坂の宗家である。当時信崇(しんそう)は年三十四であつた。
 静岡に於ける留守心得は「呉服町一丁目多喜後家ひさ方比留正方」である。
 十三日。磐は家族を率(ゐ)て静岡を発し、「富士郡前田村加藤要蔵方」に宿した。
 十四日。磐一行は前田村を発し、「三島駅世古六大夫方」に宿した。
 十五日。一行は三島を発し、「小田原駅三河屋」に宿した。
 十六日。母春、妹安は小田原に駐(とゞま)つて、磐等は藤沢に至り、相生屋(あひおひや)に宿した。

 十七日。磐等は藤沢を発し、東京鳥居坂の宗家に抵(いた)つた。
 二十二日。磐は全家(ぜんか)の塩田真の許に寄留せむことを、「第一大区十一小区扱所」に稟請した。
 二十四日。磐は「電信寮自費修行願」を作つて塩田真に託した。電信技手たらむと欲したのである。
 二十八日。「仙次郎小田原より母及妹を送り来る。」仙次郎は磐の曾て寓した相模国山下村農家の主人であらう。春、安の二女は塩田の家に著いたのであらう。
 四月一日。「平三郎鳥居坂本家信崇の養子となり、名を信平と改む。」磐の弟の宗家に入つたのは此時である。当時養父信崇三十四歳、養子信平十三歳であつた。
 三日。「全家麻布南日窪町町医伊沢信崇方へ寄留すとの届を小区役所に出す。」寄留籍が塩田氏より鳥居坂伊沢氏に移されたのである。
 三四月の間、棠軒日録には事の抄するに足るものが無い。強て求むれば、津山碧山(四月廿二日)岡寛斎(同二十九日)が棠軒を訪うた事がある。寛斎は四月二十七日に東京より福山に往つた。

     その三百五十八

 わたくしは此より明治癸酉五月以後の棠軒日録を抄する。
「五月一日。晴。長女河合へ遣(つかは)す。去(さんぬる)十七日友翁旅中病死之悔。」友翁は飯田安石の女婿銀二郎の生父であつたらしい。然らば銀二郎は前年壬申九月三日に生母を失ひ、今又生父を失つたのであらう。旅中とは何(いづ)れの地にあつたのか不詳である。
「六日。晴。河合友翁葬送に付、名代徳(めぐむ)遣す。」
「十四日。晴。津山忠琢病死之旨為知来。夕観音寺葬送見立行(みたてにゆく)。」棠軒の女長の婿となるべき碧山の生父である。五十川□堂(いかがはじんだう)撰の墓誌に、「年七十七、以疾卒、葬吉津村観音寺、寔明治六年五月十三日」と云つてある。按ずるに歿日は十三日、葬日は十四日であつただらう。墓誌に又かう云つてある。「君豪放。不肯為小廉曲謹。以投衆人耳目。而於医事則好古法。微密精到。不与今世医同流。謂苟為而止者非医也。傍好刀剣書画法帖。亦必以古。往々傾貲不顧云。(中略。)初良徳公之疾。衆医不以為意。独君憂之。屡上医案。不省。後果若其言。以是人皆服君卓見。」良徳公(りやうとくこう)は阿部正弘である。忠琢の歿後には妻帰山(かへりやま)氏が遺つた。忠琢は己が古法帖を好んだので、子碧山をして小島成斎の門に入らしめたのであらう。
「十五日。晴。津山へ悔行(くやみにゆく)。」
「廿二日。晴。真野(まの)より被招行飲(まねかれゆきのむ)。此日陶後十七回忌。」真野竹亭の子陶後頼寛(たうごよりひろ)は安政四年四月廿三日に歿したから、陽暦の忌日は五月十九日である。按ずるに改暦後、月を変へて日を変へずに五月二十三日とし、所謂□夜(たいや)に客を招いたのであらう。当時の主人は陶後の子にして幸作の父なる竹陶兵助(ちくたうひやうすけ)五十四歳である。
「廿七日。晴。慧観童女七回忌□夜。貞白来飲且飯(きたりいんかつはんす)。」慧観は棠軒の女鏐(かね)である。慶応三年五月二十八日に夭した。
「十三日。(六月。)晴。風。吉田へ行、同道飯田へ寄。同家へ過日河合同居也。」飯田安石は女婿河合銀二郎の家族を迎へて同居せしめた。吉田は画師洞谷(どうこく)である。
 八月には棠軒の妻柏(かえ)が大に病んだ。
「十四日。時々雨。夜大雨。四五日来お柏持病脳痛不出来之処、今暁尤甚。四肢厥冷(けつれい)、脈伏寒戦に至る。」此より医師石川貞白、飯田安石、三好東安、河村意篤、内田養三等が来り診し、又正覚院(しやうがくゐん)と云ふものが来て加持し、安石の女にして河合に嫁したお升(ます)、「吉田老母」等が夜伽のために来り宿した。吉田老母は洞谷の母であらう。「廿一日。陰雨(いんう)。柏子脳痛十八日来漸々(ぜん/\)緩和に赴く。」「三十一日。晴。吉田老母今日迄逗留之処、今夕より帰宅。」柏の病は愈(い)えたのである。
「六日。(九月。)洞谷来飲。同人悴直(なほし)今日より入学。」吉田洞谷の子直が棠軒の弟子となつた。棠軒弟子の入門は公私略にも日録にも多く見えてゐる。直の事は洞谷の子なるを以て特に抄出する。按ずるに所謂入門者は概(おほむね)皆医であらう。しかし直は必ず医となつたとも云ひ難い。同月十二日に「今日より外史講釈相始む」の文があるからである。外史の日本外史なることは勿論である。後に聞けば、直は幾(いくばく)ならずして吉田氏を去り、一たび甲斐氏を冒し、遂に本姓前原(まへばら)に復して終つた。前原氏は神辺(かんなべ)菅氏の隣で、是が直の生家であつた。

     その三百五十九

 此より明治癸酉九月十二日後の棠軒日録を続抄する。
「廿二日。晴。真野竹陶(兵助事)病死之趣為知来(しらせきたる)。即葬送寺へ行。」「廿三日。晴。真野へ悔行(くやみにゆく)。」「廿六日。陰。微雨。夕微晴。真野へ被招行飲。当日初日□夜(たいや)也。」真野竹陶は竹亭には孫、陶後には子で、今の幸作さんには父である。歿日は九月廿一日、寿は五十六である。
「五日。(十月。)晴。三沢へ行。お長縁談の返事。」「廿一日。晴。吉辰に付、長女津山碧山方へ結納取替。三沢老母周旋。」「十七日。(十一月。)長女津山へ縁談之願戸長へ差出す。」「十八日。晴。三沢へ行。」「二十日。時晴時雨(ときにはれときにあめ)。長女鉄漿染(かねつけ)。三沢老母賓(ひん)たり。吉田老母、お糸を招く。」「廿三日。晴。長女縁談願過日戸長迄申出置。願面如左(さのごとき)よし。縁談願。私長女長。当酉二十歳。第二大区小十五区三百五十八番屋敷士族津山碧山妻に縁談申合度(まうしあはせたく)此段奉願候也。年月日。第二大区小何区何番士族、伊沢某、印。右に付昨日送籍証(そうせきしよう)一紙受取、今日野村方迄差遣す。」「廿五日。晴。津山氏へ長女道具送り遣す。房助卯三郎両人にて三度に舁送(よそう)す。」「廿六日。晴。長女津山碧山へ暮時出宅に而(て)嫁(か)す。引続自分及徳(めぐむ)同家へ舅入行(しうといりにゆく)。夜四時前開く。安石、お糸、三沢老母、吉田老母、石川おきく等来。寛斎来。」「廿八日。晴。午後陰。夜半雨。杉山津山へ寄、吉田へ行。」「十日。(十二月。)晴。夜半雨。長女里開き。碧山、文女(ふみぢよ)、喜代女及三沢老母、其外貞白、洞谷、寛斎、吉田老母、お糸、旧婢(きうひ)たけ、卯三郎等来大飲。」「十五日。晴。内祝之赤飯配る。」「廿日。晴。長女来宿。」是が棠軒の女長の津山碧山に嫁した顛末である。わたくしは明治初年婚礼の一例として、特に詳にこれを抄した。
 媒人(なかうど)は三沢順民(じゆんみん)であらうか。少くも三沢氏が所謂橋渡をしたことは明である。三沢老母は順民の母、吉田老母は洞谷の養母、糸は飯田安石の妻、きくは石川貞白の妻、野村徳太郎は碧山の姉ちかの夫である。戊辰東役高(とうえきだか)に「御通掛新番組、野村徳太郎、廿一」と云つてある。文、喜代は津山氏の家族であらう。卯三郎、房助、たけは奴婢である。
 此婚嫁は棠軒がその愛する所の女を出して、親む所の友に嫁したのである。只俗に随ひ礼を具へたに過ぎなかつたであらう。
 長子刀自の福田氏に語るを聞くに、碧山には先妻武藤(ぶとう)氏があつて、一女を遺して歿した。津山直次郎は此女のために迎へられた婿で、大正五年十二月十五日に歿し、其長子は図按家になつてゐるさうである。
 十月以後、棠軒の女長が于帰(うき)の事のあつた旁(かたはら)に、尚二事の記すべきものがある。棠軒が冢子(ちようし)徳(めぐむ)のために算術の師を択んだのが其一である。十月六日の下(もと)に云く。「徳今夕より中村某へ遣す、算術。」阿部正弘の継室謐子(しづこ)の死が其二である。十月十八日の下に云く。「去五日清心院様御逝去被遊候由。」十一月六日の下に云く。「小鼓へ行。過日清心院様御逝去之御機嫌伺取計之一礼。」十一月廿二日の下に云く。「清心院様御四十九日御相当に付兼而勤仕之者申合於定福寺少分之御供養申上。」十二月二十六日の下に云く。「清心院様為御遺物金二百疋被成下候趣、三富氏より貞白受取持参。」謐子は糸魚川の松平日向守直春の女、越前の松平越前守慶永(よしなが)の養女で、正桓(まさたけ)の夫人寿子(ひさこ)は其出である。小鼓(こつゞみ)は己巳席順の「十人扶持、御足五人扶持、鼓菊庵、五十四」で、同席順の「十人扶持、御足十人扶持、鼓泰安、五十九」の大鼓(おほつゞみ)に対(むか)へて言ふのであらうか。猶「鼓兆安、鼓定」と云ふものも同席順に見えてゐる。三富氏は己巳席順に「百廿石、御附奥家老、御家従、三富甚左衛門、五十八」と云つてある。

     その三百六十

 わたくしは棠軒日録を抄して明治癸酉の歳暮に至つた。
 此年は伊沢氏と旧好ある人々の中で、門田(もんでん)朴斎と渡辺樵山(せうざん)との歿した年である。朴斎の死は行状に拠るに一月十一日戌牌(じゆつはい)で、年を饗(う)くること七十七であつた。墓表は小野湖山が撰んだ。其末に銘に代へて絶命の詞(ことば)が刻してある。「父母教吾学仲尼。滔々天下変為夷。病而不死亦良苦。待尽青山埋骨時。」朴斎の生涯は西洋嫌を以て終始してゐる。棠軒が此人の死を録せなかつたのを見れば、棠軒と門田氏との間には親交が成り立つてゐなかつたかも知れない。
 渡辺樵山は十二月十八日に東京渋谷村に歿した。年五十三であつた。わたくしは上(かみ)に榛軒が此人を請じて経を講ぜしめたことを記し、後に慊堂(かうだう)日暦中より、其父の□園(かうゑん)と号したことを検出して補つた。しかし安井息軒が樵山の墓に銘したことを知らずにゐた。それは息軒遺稿が偶(たま/\)これを載せてをらぬ故である。
 頃日(このごろ)事実文編を繙閲して、図(はか)らずも息軒撰の墓碑銘を発見した。樵山の系は源融(みなもとのとほる)の曾孫渡辺綱から出でてゐる。「父諱昶。字奎輔。以医仕膳所侯。娶才戸氏。生君于江戸鱸坊之僑居。」按ずるに慊堂日暦の□園は此昶(ちやう)である。昶は或は「とほる」と訓ませたものではなからうか。膳所(ぜぜ)侯は本多隠岐守康融(やすとほ)である。「鱸坊」は今の京橋区鈴木町である。本多家の上屋敷が南八丁堀にあつたから、□園は鈴木町に住んでゐたのである。
「年甫十一。奎輔得疾。自知不起。托君及弟璞輔於慊堂松崎先生。輿疾帰近江。未幾歿。二孤皆有才。先生愛之。視猶子。嘗贈之詩曰。吾園梅百樹。汝独可超凡。及慊堂先生歿。以遺命守羽沢草廬三年。既而卜居青山。生徒漸進。万延庚申九月。釈褐於紀藩。(中略。)元治甲子。幕府有召見之命。三月謁二条城。(中略。)慶応乙丑。参枢機。(中略。)明年十一月遷小姓頭。明治戊辰。拝奥祐筆組頭。累遷参政。三年五月。免参政。」□園が樵山と其弟とを松崎慊堂の石経(せきけい)山房に託して近江に帰つたのは、天保二年である。弟璞輔(はくすけ)は慊堂日暦の百助である。慊堂の歿した弘化元年より三年間石経山房を守つてゐたとすると、樵山は二十四歳より二十七歳に至る間羽沢(はねざわ)にゐたのである。さて弘化四年中に樵山は青山に徙(うつ)つたであらう。万延元年紀州藩に仕へた時は、樵山は四十歳であつた。紀州藩は猶中納言茂承(もちつぐ)の世であつた。元治元年に将軍家茂に謁した時は、樵山は四十四歳であつた。
 若し此年立(としだて)にして誤らぬならば、樵山が経を伊沢氏に講じた月日は、羽沢時代より青山時代に及んでゐる筈である。
 わたくしは此に狩谷氏移居の事を附記したい。一説に狩谷矩之(くし)が本所横川の津軽邸より上野広小路に移つたのは、明治五六年であつたと云ふ。しかし是は稍後の事であつたらしい。猶下(しも)にこれに言及しようとおもふ。
 此年棠軒四十、妻柏三十九、子徳十五、三郎四つ、女長二十、良十八(以上福山)、磐二十五、弟平三郎十三、姉国三十、妹安二十二、柏軒の継室春四十九(以上東京)であつた。

     その三百六十一

 明治七年は蘭軒歿後第四十五年である。棠軒は又歳を福山に迎へた。一月中には事の記すべきものが無い。二月十一日に子徳(めぐむ)を算術の師村田某の許へ遣つた。「十三日。晴。一昨日より徳村田某へ数学稽古に行。」是月棠軒は書を東京にある関藤藤陰(せきとうとういん)に寄せた。「廿三日。(二月。)陰。午後晴。阿部近日東京出立に付、分家、清川、森、関藤(菓子料二百疋添)等へ書状出す。」藤陰は二年前の冬より東京に来てゐたのである。癸酉歳旦の詩の引に、「余自壬申冬、来在藩主阿部氏本所横網邸」と云つてある。阪谷朗廬(さかたにらうろ)はかう云つてゐる。「会廃藩命下。正桓君例以華族。移住東京。而家制不定。衆以為非招先生不可。強以賓師委重。先生弗得辞。曰骸骨竟有宿縁於東地歟。便復移家。経理画一。更選人授之。絶交閑居。賦詩自楽。」想ふに棠軒の書を寄せた時には、藤陰は既に閑散の身となつてゐたであらう。棠軒の書を託した阿部は阿部正貫(まさつら)である。己巳席順の「百八十石、家扶、阿部小重郎、四十三」と同人であらうか。分家磐(いはほ)、清川安策、森枳園との間には、此前後に雁魚(がんぎよ)の往復があつたが、省(はぶ)いて抄せなかつた。
 五月に棠軒が子徳を算術の師関某の許に遣つた。「九日。(五月。)徳今夕より関へ数学入門。」三たび師を更(か)へたのであらうか。是月の末に東京にある藤陰が書を棠軒に寄せた。其文はかうである。
「清和之時候と申内、稍薄暑も催候処、貴宅御揃愈御多祥被成御坐候条、拝賀之至。僕老耄相増候得共、先々頑健罷在候。乍憚御省慮可被下候。扨当春阿部正貫出京之節は、御懇切御文通被下、殊に無存掛(ぞんじかけなく)御肴料二方金(はうきん)御恵贈被遣(つかはされ)、辱拝受、乍去御過厚之事奉恐入候。先以御近況過日阿部より承候。爰元(こゝもと)之光景は此節同人より御承知と奉存候。同人爰元出立之節は、必御礼一書可差上存居候処、其出立間際種々多事取込、遂に不能其儀(そのぎをよくせず)、背本意(ほんいにそむき)恐縮之至に候。右便之節何角(なにかど)は差上度存候に、差向思付も無之、東京近来の模様、新版書冊之出来候事、次へ々々と中々承尽(うけたまはりつく)されも不申、右様多き内には、見るも無益と申品も多分有之、其内に思候に、医事関係之書なれば、自然可然ものも可有之哉共存候へども、当今之儀西洋家之品、時好に投候品而已(しなのみ)多く、勿論拙老宅に引込罷在候而已に而(て)は、外間(ぐわいかん)新版物を聞見(候事)も少なく、仍而(よつて)思ひ候に、東京繁昌記なる者は馬鹿々々しき、何之役にも不相立、子弟之教育には勿論不相成候へども、只々貴兄久々東京を御覧無之故、此文明開化やら何やら不相分、太平やら不太平の本(もと)やら不相分之実景を御慰に御目に掛度と存、折節阿部出立之頃は第二編之分出版未だ成就致切(いたしきり)不申、近日中に必売出し初り可申由承込(うけたまはりこみ)候故、幸便なれども何も得不差上(えさしあげず)候也。此度明後日出立に而河村大造立帰りに帰省致候由幸便を得候に付、不取敢此二冊呈上仕候。御笑納可被下候。呉々も東京現今之光景如此かと御覧御一笑に付し候迄之心得に候。呉々も馬鹿々々敷書に而は御坐候也。乍末行御家内皆様へ宜御伝声奉希上候(こひねがひあげたてまつりそろ)。時下御保重(ごはうちよう)黙祈(もくき)之至。先は幸便不取敢乍延引先般之御礼兼如此候。頓首。五月三十一日。関藤藤陰。伊沢棠軒様。」

     その三百六十二

 わたくしは明治甲戌五月三十一日に関藤藤陰が棠軒に与へた書を抄した。是は文淵堂の花天月地(くわてんげつち)中より討(もと)め来つた婪尾(らんび)の獲(えもの)である。藤陰の簡牘は語路が錯綜して、往々紛糾解くべからざるに至り、句読を施し難くなつてゐる。又歇後(けつご)の文が多い。しかし幅広く長(たけ)の促(つま)つた文字が、石を積むが如くに重畳してあつて、極て読み易い。文中「何角は差上度」は読んで「何か差上度」と作(な)すべきである。或は方言歟。
 此書が二月二十三日の棠軒の書に答へたものなることは、説明を須(ま)たずして明である。棠軒の書を齎した阿部正貫(まさつら)は、福山より東京に至り、直に又東京より福山に帰つた。藤陰はこれに復書を託せむとしたが、書牘(しよどく)に添ふべき新刊書が未だ市に上らなかつたので果さなかつた。次で河村大造が東京より福山に往くに会して、藤陰は此書を託した。河村は己巳席順に「十二石二人扶持、河村大造、二十三」と云つてある。後の重固(しげかた)である。
 藤陰の書牘に添へて棠軒に贈つた新刊書は東京繁昌記である。藤陰は初二両編を併せ贈らうとした。然るに阿部の帰藩は二編の出でむと欲して未だ出でざる間であつた。六月の初に河村が東京を発する前に、藤陰は方(まさ)に纔(わづか)に二篇を贖(あがな)ひ得たのである。
 東京繁昌記はわたくしの架上に無い。わたくしは其初編二編が何時(いつ)何(いづ)れの書肆より発行せられたかを知らむと欲して、文淵堂主を煩はして検してもらつた。「初編は紀元二千五百三十四年四月、二編は同年六月発兌(はつだ)と有之候。明治七年に候。書肆は銀座三丁目奎章閣(けいしやうかく)山城屋政吉に候。政吉は日本橋通二丁目稲田佐兵衛の分家にて、塩谷宕陰(しほのやたういん)の門人に候。維新後古本商頭取になり、後市会議員、市参事員、衆議院議員に選ばれ、鉄管事件に遭逢して引退し、月島に住んで古版本を蒐集するを楽とし、希覯(きこう)の書数千巻を蔵するに至候。其蔵儲は今悉皆(しつかい)久原(くはら)家の有に帰し居候。」按ずるに初編の「四月」は恐くは再三版であらう。藤陰は六月発兌の二編を、早くも五月末日に贖ひ得たのである。
 藤陰は東京繁昌記を評し、旁(かたはら)明治初年の社会に論及して、「文明開化やら何やら不相分、太平やら不太平の本(もと)やら不相分之実景」と云つた。罵り得て痛快である。
 わたくしは端(はし)なく藤沢東※(とうがい)[#「田+亥」、8巻-316-上-2]の江戸繁昌記評を憶ひ起した。東※[#「田+亥」、8巻-316-上-3]は初三編を読んで寺門静軒(てらかどせいけん)の才を愛した。「其辞不唯艶麗。亦能俊抜焉。其識不唯該博。亦能卓超焉。乃謂斯人実一世之雄。」既にして太平志を読み、又四編五編を読んで文品の低下に驚いた。「豈半塗而天奪之才乎。抑始有所倩。後失其人乎。」東京繁昌記は則(すなはち)初(はじめ)よりして疎拙であつた。「呉々も馬鹿馬鹿敷書に而は御坐候也。」
 藤陰の書牘と繁昌記とは六月七日に棠軒の手に到つた。「七日。(六月。)晴。三富甚左衛門来。東京関藤先生より書状及開化繁昌誌二冊到来、右持参之事。」藤陰の書と贈(おくりもの)とは河村大造より三富甚左衛門を経て棠軒に達したのである。阿部家の家従三富の事は既に上(かみ)に出でてゐる。

     その三百六十三

 わたくしは此より甲戌六月七日に棠軒が関藤藤陰の贈(おくりもの)を得た後の日録を抄する。
 棠軒は六月八日に家禄「十四石七斗」を奉還せむことを請うて、十五日に許された。「八日。(六月。)微雨。組頭熊田某へ行。終身禄奉還一件也。爰許戸長吉津へ右願書出す。」「十五日。雨。午後晴。終身禄奉還之儀御聞届相成候段戸長より申来。」熊田は己巳席順の「二十俵三人扶持、熊田保平、五十」若くは「二十俵三人扶持、物産役、熊田臨蔵、四十六」であらうか。吉津は小八郎と称した。
 七月に棠軒は子徳(めぐむ)を算術の師前川某の許に遣つた。「廿三日。(七月。)晴。風。徳数学前川へ入門。」四たび其師を更へたのであらうか。前川は未だ考へない。
 十月に棠軒は「公債証書買上願」を呈出した。「九日。(十月。)晴。去七日出願書戸長へ出。十日進呈。同十一日御聞届。」七日に戸長役場に出し、十日に県庁に達し、十一日に裁可せられたのである。日録には全文が載せてあるが、今略する。「高百円に付八十円に」買ひ上げてもらひたいと請うたのである。宛名は「小田県権令矢野光儀殿」と書してある。光儀(くわうぎ)は竜渓文雄(りゆうけいふみを)さんの父ださうである。是月棠軒は外史の講義を終つた。「廿八日。陰。夜雨。外史講義一了。」
 十一月十五日には棠軒が養父榛軒の二十三回祭を行つた。「十五日。(十一月。)晴。風。時々雨。当日府君二十三回祭。飯田夫婦、貞白、東安、半、全八郎招請飲。」その「祭」と云ふより推すに、此年より神祭の式に遵(したが)ふこととしたらしい。十五日は歿日の前日である。来客中「半」は服部氏、是より先七月中に「半来」(十五日)の文がある。
 二十八日に棠軒は県庁に赴いて家禄に換へた「金百二十四円二銭五厘」を要請した。「二十六日。(十一月。)陰。微雨。午後晴。来廿八日小田県に而家禄奉還金御渡しに付受取証書。」(文は略する。)「廿八日。晴。小田県へ奉還金為受取、未明より人力車に而行。」県庁が此日に金を交付しなかつたことは、後の記に徴して知るべきである。
 十二月の日録には抄すべき事が無い。此年棠軒は「明治甲戌集」と題した詠草一巻を遺してゐる。「父君の二十三回忌に。はたちあまり三とせ経ぬれど今も猶さながら見ゆる父の面影。」詠艸は良子刀自の蔵する所である。
 此年磐の一家は東京にあつて寄留の所を変へた。良子刀自所蔵の文書に、「明治七年八月十日第一大区十四小区小網町四丁目五番地借店に寄留替をなす」と云ふ文がある。
 此年東京にある森枳園が「蘭軒遺稿」一巻を刊行した。時に枳園は年六十八であつた。富士川氏は三種の本を蔵してゐる。第一は漢文に国文を交へた草稿二巻で、蘭軒が末に下(しも)の語を書してゐる。「右之通に先々かたづけ候へども、如何可有御坐や。御削正奉願上候。医籍考には御説も御坐候事にや。委細御教示奉願上候。信恬拝。□庭先生。」第二は旧稿中の国文を漢訳したもので、是も亦二巻を成してゐる。第三は枳園校刻の本一巻である。巻首に下の文がある。「伊沢信恬。字澹甫。号蘭軒又※[#「くさかんむり/姦」、8巻-318-上-9]斎。通称曰辞安。其著書有数十種。遺稿為其一。而二十年前刊行半成。適世事紛冗。西遷東移。舟車運漕。桜槧多亡失。今所拾摘二十条。僅々存九□之余香爾。明治甲戌第十月。枳園森立之。(印二。曰立之。曰壬申進士。)」全巻凡(おほよそ)四十九頁(けつ)である。「伊沢氏酌源堂図書記」の印記がある。
 此年棠軒四十一、妻柏四十、子徳十六、三郎五つ、女長(津山碧山妻)二十一、良十九(以上福山)、磐二十六、弟信平(宗家養子)十四、姉国(狩谷矩之妻)三十一、妹安二十三、柏軒の継室春五十であつた。

     その三百六十四

 明治八年は蘭軒歿後第四十六年である。棠軒は旧に依つて歳を吉津村の家に迎へた。「家家臘尽時。内感歳華移。安識郷人羨。全依祖考慈。」戯(たはむれ)に「家内安全」の字を句首に用ゐて作つたものである。
 一月二十四日に棠軒は家禄に換へた金を受けた。「二十四日。(一月。)晴。於小田県公債証書買上代御渡相成に付、受取に出頭可致之処、差合に付為名代尚差出、金百二十五円、二分引に而金百円受取候事。」(節録。)名代「尚(ひさし)」は上(かみ)にも見えた飯田安石の子である。
 二月十五日に棠軒の子季男(すゑを)が生れた。「十五日。(二月。)陰。午後雨。夜九字安産、男子出生。」「廿一日。晴。出生七夜季男と名く。出産之届出す。」
 三月二十九日に森枳園の許より「いろは字原考」二冊が来た。「廿九日。(三月。)陰。東京森よりいろは字原考二冊到来。」いろは字原考は枳園の著す所で、其刊行の事は下(しも)に引く書牘(しよどく)に見えてゐる。此書は世間に多く存せぬらしく、わたくしは未だ寓目しない。又国書解題を検したが見えなかつた。
 五月八日に棠軒は「姫路鳥取行」の途に上つた。是は姫路に妹婿土方伴(ひぢかたはん)六正旗(せいき)を訪ひ、鳥取に顕忠寺中の兄田中悌庵が墓を展したのださうである。
「八日。(五月。)晴。今夜姫路鳥取行乗船。但安石同伴夜四つ時前四(よ)つ樋(ひ)より竹忠船(たけちゆうふね)へ乗込。直出帆。」
「九日。晴。昼九つ時頃讚州多度津湊(たどつみなと)へ著船。金刀比羅宮(ことひらのみや)参拝。夜五つ時頃人車に而(て)帰船。」
「十日。晴。多度津碇泊。」
「十一日。晴。暁出帆。暫時与島(よしま)へ碇休。夕出崎(でさき)碇泊。」
「十二日。晴。夜大風。暁出帆。小豆島へ碇泊。」
「十三日。風雨。同所碇泊。」
「十四日。晴。天明(てんめい)出帆。午刻頃播州伊津湊(いつみなと)へ著船。同所より姫路迄四里半。此より上陸。三所川あり。何(いづれ)も昨雨に而出水。暮時姫路城内桐の馬場土方に著。」土方伴六は酒井忠邦の倉奉行であつた。贈遺を記する文中に「お柳」、「お作」の名があり、又「お作婿山本又市、今名(きんめい)もちよし」と云つてある。棠軒の妹にして伴六の妻なる烈に柳、作、久の三女があつた。柳は坂本氏に適(ゆ)き、作は山本氏に適き、久は長野氏に適いた。
「十五日。晴。逗留。」
「十六日。晴。午刻より土方出立。手尾(てを)迄伴六亀児(かめじ)送来。夫より分袂(ぶんべい)。飾西(しきさい)、觜崎(はしざき)、千本(せんぼん)、三日月(みかづき)也。觜崎より人車に而暮過三日月駅石川吉兵衛へ著。」亀児とは誰か。伴六の女久が長野氏に嫁して生んだ四子は、義雄、亀次郎、悦三郎、信吉である。亀次郎は今参謀本部陸地測量部技師である。亀児は此人であらう。
「十七日。晴。朝飯より出立。人車に而平福(ひらふく)迄、当駅より小原(おはら)迄、夫より坂根(さかね)迄人車行。此日駒帰(こまがへり)迄大難坂(だいなんばん)也。夫より知津(ちづ)駅迄下り坂。当駅桝屋善十郎へ著。」
「十八日。晴。朝飯より出立。用(よう)が瀬(せ)迄小坂五六あり。当駅より人車に而布袋(ほてい)村迄、夫より歩行、午後一時頃味野(あぢの)村へ著。」
「十九日。雨。信慶実家森本善次郎へ被招行飲(まねかれゆきのむ)。」信慶は田中悌庵の養子である。此より日々招宴遊宴等がある。
「廿七日。晴。朝微雨。夕陰(ゆふべくもる)。とめ女召連、天明味野出立。上之茶屋(かみのちやや)迄同人駕行(かごにてゆく)。当所迄信慶(中略)送来。夫より人車三乗、用が瀬より駕一挺、知津に而午支度。夫より歩行。野原駅松見屋某へ著。甚(はなはだ)□(そ)。」とめ女は田中悌庵の第七女で今の木下大尉通敏(みちとし)さんの母である。
「廿八日。夜来雨。午前九時頃出立。風雨。関本駅とめ乗輿(じようよ)。水島善四郎止宿。」
「廿九日。雨。午後より漸晴。早昼支度に而出立。とめ駕行。楢村(ならむら)より歩行。夕七つ時津山京町大笹屋に著。大家也。」
「三十日。晴。朝飯より人車三乗に而出立。亀の甲より歩行。又弓削(ゆげ)より人車。福渡(ふくわたり)より駕一挺。夕七時前間(あひ)の宿(しゆく)久保に而藤原沢次郎へ著。」
「三十一日。晴。朝飯より駕一挺為舁(かゝせ)出立。高田より歩行。足守(あしもり)より中原迄人車。又岡田より人車に而夕八半時頃矢掛(やかけ)駅小西屋善三郎へ著。」
「六月一日。晴。午前十時頃出立。駕一挺高屋(たかや)迄。同所より人車三乗。暮時帰宅。」

     その三百六十五

 棠軒は明治乙亥六月一日に鳥取から吉津村の家に帰つた。
 日録は此より下(しも)十一月九日に至つて絶えてゐる。其間記すべきものは棠軒の子三郎の死があるのみである。「四日。(十月。)晴。昨夜より三児不快不出来に付、安石同道水呑辺釣行約之処止。午後三時遂に死去。即夜十時出葬。」「九日。晴。純法童子初七日逮夜之処、挙家痢疾に付招客略す。」純法童子は三郎の法諡(はふし)である。庚午八月二十五日の生であつたから、六歳にして歿したのである。文中「挙家痢疾」の四字は注目に値する。按ずるに当時痢(り)が備後地方に行はれて、棠軒の家族は皆これに感染し、三郎が独り先づ殪(たふ)れたのではなからうか。
 棠軒が日録の筆を絶つた次の日、乙亥十一月十日に東京にある森枳園が書を棠軒に与へた。下にこれを節録する。「昨年来蘭軒医談遺板に付て補刊仕(ほかんつかまつり)、前の板下書候梶原平兵衛も既に歿後、不得已(やむをえず)拙筆にて補板仕候。(中略。)外に以呂波字源考一冊、詩史顰(ししひん)一冊、共に上木仕候。(中略。)市野光彦(くわうげん)の家、跡方もなく断絶の様子。町人の学者はわづか三右衛門といへる川柳点(せんりうてん)も、□斎翁は誰も知れど、迷庵は誰も知らず、因て之を刻し世に公にせば、少年、抽斎と同じく升堂(しようだう)したる報恩の一端にも可相成乎と、拙筆を以て刊行仕候。(中略。)巻首の四大字は東久世通禧(ひがしくぜみちよし)公、次は養素軒柳原大納言前光(さきみつ)公、愛古堂磐渓、秋月公、大給亀崖(おぎふきがい)公(即松平縫殿頭(ぬひのかみ)の事也)、跋は片桐玄理と申せし家塾に居りし御存之者(ごぞんじのもの)、今文部の督学寮に出仕いたし居申候。
次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:1078 KB

担当:undef