伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

「廿三日。晴。午後雨。午後八時青森港出帆、夜五時過箱館著船。」
「廿四日。微雨。朝上陸。大病院下宿和島屋某へ著。本藩兵隊東京府迄引揚可申旨。尤明朝十字乗船之事。斎藤勘兵衛、河野乾二(けんじ)、生口拡(いくちひろめ)病者為纏居残被仰付。」斎藤勘兵衛、二十七歳。席順に「撃小長」の肩書がある。鷹撃隊小隊長の略ださうである。河野乾二「軍事方」の肩書がある。
「廿五日。晴。後微雨。朝十字英船アラビアン乗船。夕四字箱館港出帆。」
「廿六日。雨。廿七日。午後晴。廿八日。晴。夜十一字横浜港迄著船。無程出帆。」
「廿九日。晴。朝四時頃品川著船。鮫津川崎屋へ上陸。夫々分散。病院は脇本陣広島屋太兵衛へ落著。御上(おんかみ)当時御在府に而、一統へ御意有之並に為陣服料(ぢんふくれうとして)金三両宛(づつ)被成下(なしくださる)。尤典式伊木市十郎御使者也。」席順には「典式伊木市左衛門、三十八」と云つてある。
「六月朔日。微雨。従天朝(てんてうより)一同へ御酒御肴被下置。午刻より長谷寺(ちやうこくじ)、祥雲寺参詣。」
「二日。雨。於丸山邸岡田総督始夫卒迄御酒御吸物被成下。於福山当二月紋次郎痘死之由。」棠軒は始て二子紋次郎の死を聞知したのである。紋次郎は二歳にして夭した。
「三日。四日。雨。五日。陰。夜又雨。大殿様より一同へ御酒御肴被成下。当所かまや川崎や両所に而開宴。」大殿は四代前の正寧(まさやす)である。
「六日。雨。七日。陰。夕雨。午後二字大坂艦乗組延引。」
「八日。雨。午後漸晴。朝五時過大坂艦乗組、十字品川浦出帆。岡田総督御用に而、堀副督修業被願、青木氏薄手負に付、斎木文礼御用有之逗留。」青木氏、勘右衛門。
「九日。晴。午後微雨。艦中。十日。晴。夕七時半過鞆津(とものつ)着船上陸。善行寺(ぜんぎやうじ)一泊。」
「十一日。晴。朝五半時鞆津出立。水呑(みのみ)村昼食。安石、吟平迎。地引(ぢびき)より総隊行列午後八半時着。鉄御門前へ一等官御出迎。夫より御宮拝礼、神酒頂戴之上引取。」安石は飯田安石である。吟平は辛未の日録に見えてゐる榎本吟平か。

     その三百四十四

 棠軒は戊辰九月二十一日に福山を発して北征の軍に従ひ、己巳六月十一日に還つた。わたくしは当時これを郷里に迎へた人々を検して見ようとおもふ。先づ飯田安石が中途に出迎へたことは既に言つた。次に家に帰つた日に来り賀したものは、「元民、玄昌、玄高、養竹、養真、養玄、泰安、菊庵、立造、玄察、金左衛門、洞谷、理安、策、恒三、雄之介、祐道、勘兵衛、桑名屋、豊七等」と書してある。翌日の客中より重出者を除けば、「東安、銑三郎、高山、」「孫太郎、顕太郎、安貞」がある。其次の日の客に「成安、全八郎」、「貞白」、「平蔵」がある。
 此中桑名屋、豊七の二人は、安石と倶に出迎へた吟平と同じく、出入商人若くは厠役(しえき)の類(たぐひ)であらう。今文書に就いて其他のものを挙げる。元民は「九人扶持、准、皆川元民、三十七、」玄昌は「八人扶持、准、成田玄昌、二十六、」玄高は門人「成田竜玄次男玄高、」養竹は「十人扶持、御足八人扶持、医、森養竹、六十四、」養真は「五十俵、森養真、三十五、」養玄は「十三人扶持、書教授試補、岡西養玄改待蔵、三十一、」泰安は「十人扶持、御足十人扶持、医、鼓泰安、五十九、」菊庵は「十人扶持、御足五人扶持、医、鼓菊庵、五十四、」立造(りふざう)は「十人扶持、御足三人扶持、執、松尾立造、三十九、」玄察は「十人扶持、御足三人扶持、補、谷本玄察、四十、」金左衛門は「百四十石八十俵、内、藤田金左衛門、三十五、」若くは「百三十石、御宮掛、大林金左衛門、四十七、」洞谷は「十三人扶持、吉田洞谷、四十二、」理安(りあん)は「八人扶持、准、村上理庵、四十三、」策(さく)は「九人扶持、御足三人扶持、准、市岡策、四十二、」恒三は「九人扶持、桑田恒庵改恒介、六十、」若くは其子、雄之介は「五十俵、市令、内田雄之介、四十五、」祐道は「医、横田祐道、」勘兵衛は「十八俵、渡辺勘兵衛、三十一、」東安は「十八人扶持、医、三好東安、四十九、」銑三郎は「五十俵、大森銑三郎、三十、」高山(たかやま)は「二百二十石、高山郷作、三十一、」孫太郎は「五十俵、三富孫太郎、二十八、」顕太郎は門人「町医師、柳井顕太郎、」安貞は「二十俵二人扶持、前田安貞、三十二、」成安は「十二石二人扶持、医、三好成安、二十三、」全八郎は「十四石三人扶持、御料理人頭、上原全八郎、五十七、」貞白は「十人扶持、御足四人扶持、補、石川貞白、五十九、」平蔵は「村片平蔵、二十七」であらう。此中疑ふべきものがあるが、煩を避けて細論しない。戊辰席順の年齢は一年を加へた。肩書の省文中にはわたくしが自ら解せずして、漫然抄写したものが二三ある。
 わたくしは最も注意すべき人物として、養竹立之、養真約之の森氏父子及岡西養玄を表出し、又伊沢分家に縁故最深き人物として、石川貞白及上原全八郎を指点し、此に賀客の記を終へようとおもふ。飯田安石の棠軒養母の所生なることは、重て註することを須(もち)ゐぬであらう。
 棠軒は凱旋の月十四日に藩の「医官」を拝した。是は早く三月二十五日に、同班のものと共に命ぜられたが、出征間であつたので、此に至つて始て命を領したのである。六月十四日には、棠軒が偶(たま/\)目を病んでゐたので、森枳園が代つて登衙した。事は棠軒公私略と函楯軍行日録とに重見してゐる。只前者が目疾の事を言はぬだけである。
 按ずるに此任命は制度の変更より生じた形式に過ぎなかつたであらう。何故と云ふに、事実に於て医官たることは既に久しかつたからである。
 中一日を隔てて六月十六日に、棠軒は世禄の命を拝した。是も亦早く前年戊辰の冬に命ぜられたのである。「伊沢春安。其方儀是迄被下置候禄高之内五十石世禄に被仰付、其余は御足高に被仰付候。」公私略と軍行日録とが同文である。

     その三百四十五

 棠軒は北征より還つて後、日記の筆を絶たなかつた。軍行日録の余紙ある限はこれを用ゐて稿を継ぎ、その尽くるに及んで別に「棠軒日録」二巻を作つた。棠軒の日記は軍行日録より以下凡三巻ある。わたくしは此より後、材を棠軒公私略と棠軒日録とに取ることとする。
 上文は己巳六月十四日に棠軒が藩の医官を拝するに終つた。わたくしは先づ其後の日記中より目に留まつた件々を抄出する。
「廿七日。(六月。)晴。江木老人来。」是は鰐水が戦後初度の来訪であつたらしい。日記に見えてゐる森枳園父子、岡西養玄の往来の如きは此に抄せない。其往来殆虚日なきが故である。養玄は嘗て一たび柏(かえ)の所生の女(ぢよ)梅を娶(めと)つて、後にこれを出したものである。然るに伊沢岡西二家の人々は殆細故(さいこ)意に介するに足らずとなすものの如くである。推するに是は人材を重んずる蘭軒の遺風に出づるものであつたらしい。養玄は後の岡寛斎である。
「廿九日。陰。去(さんぬる)十七日於東京府殿様福山藩知事被為蒙仰候(おほせをかうむらせられそろ)に付、右為御祝儀(ごしうぎとして)御帳可罷出之処、当病不参。」阿部正桓(まさたけ)が藩主より藩知事に更任せられたのである。後七夕(せき)の条に「当日御祝儀御帳出勤」と記してある。
 七月九日に棠軒は深津郡(ふかづごほり)吉津村に移住せむことを請うて允(ゆる)された。按ずるに棠軒は早く前年戊辰八月九日に吉津村に移つた。此に謂ふ「移住」は其地を永住の所とする意であらう。福山県には是より先甲子の歳に屋敷割の事があつたので、棠軒は同班と連署して下(しも)の願書を呈した。「元治元年甲子歳。屋敷拝領被仰付候様被仰出候に付、私共業柄之事故、町場近き屋敷拝領仕度奉内願候以上。五月廿九日。成田竜玄。伊沢春安。石川貞白。」棠軒は今此「拝領屋敷」として吉津村の地を乞ひ得たのであらう。日録に云く。「九日。(七月。)晴。午後驟雨。月番中に付、以養真内願差出如左。口上之覚。私儀御領分深津郡吉津村え在宅仕度奉内願候以上。七月九日。伊沢春安。右鼠半切相認中折半分上包。右即刻内願之通勝手次第被仰渡候旨、督事官吉左衛門殿、造酒之丞殿被申談候由、養真より申来る。」吉左衛門は三浦氏、三十歳。造酒之丞(みきのじよう)は渡辺氏、年齢不詳。
 同じ日(七月九日)の記に猶「岡より被招、洞谷同道行飲」の文があつてわたくしの目を惹いた。岡西養玄は蚤(はや)く此時岡氏に改めてゐたらしい。己巳席順に養玄の右傍(いうばう)に「待蔵」と註したのを見るに、啻(たゞ)に縦線を以て養玄の二字を抹してゐるのみならず、線は上(かみ)「西」字にも及んでゐる。按ずるに岡西養玄は己巳に一たび岡待蔵と称し、次で岡寛斎と改めたのである。洞谷は画師吉田氏で、上(かみ)にも見えてゐる。
「十一日。(七月。)晴。吉津へ行、家作大工に為積(つもらす)。飯島金五郎引請に而、銀札三貫目、月一歩二之利足を加へ、当暮迄借用、養竹証人也。」当時の銀相場金一両銀十八匁を以てすれば、三貫目は百六十六両余である。是が関西地方当時の家屋建築費である。しかしわたくしは此の如き計算に慣れぬから、此数字には誤なきを保し難い。

     その三百四十六

 棠軒日録己巳七月の条には、次に冢子(ちようし)平安の教育の事が見えてゐる。「十二日。(七月。)晴。馬場に行。平安誠之館稽古一件頼。」馬場保之助は此年の席順第五等席に載せてあつて、「教授」の肩書がある。平安は今の徳(めぐむ)さんで、当時十歳であつた。
 次に日録に始て意篤(いとく)と云ふものの来訪が書してある。「十五日。雨。意篤来。」按ずるに川村意得重善(しげよし)の子、長を重監(しげあき)と云ひ、仲を新助退(しんすけたい)と云ひ、季を敬蔵重文(けいざうしげぶみ)と云ふ。重文の妹天留(てる)の夫が意篤重貞(しげさだ)、重貞の子が重固(しげかた)である。退、字(あざな)は進之(しんし)、悔堂と号す。霞亭北条譲の養嗣子である。蘭軒と霞亭との親善であつたことは上(かみ)に見えてゐる。今此文に由つて、蘭軒の養孫棠軒と霞亭の養子悔堂の妹婿(いもうとむこ)との交際が証せられるのである。意篤は己巳六十二歳であつた。以下意篤との往来は省く。
「十七日。陰(くもる)。普請取掛延引、明日より相始。」深津郡吉津村の構築である。
「十八日。陰。平安誠之館へ今日より出す。尤手跡学問共。」嫡子の就学である。
「廿三日。午後雨。高束(たかつか)に行。お長縁談の一件御奥御都合承合(うけたまはりあはせ)。」棠軒の女長は当時十六歳であつた。此文より推せば、長は阿部家の奥に仕へてゐたのに、これを娶(めと)らむと欲するものがあつて、棠軒は長がために暇を乞はうとしてゐたのではなからうか。高束応助は己巳六十四歳であつた。阿部家奥向の事を管してゐたものか。
「廿五日。晴。馬屋原(まいばら)、上原、石川へ寄、吉津見廻り。」馬屋原玄益は席順に拠るに己巳三十八歳で、生年は天保三年である。蘭軒の詩を贈つた成美伯好(せいびはくかう)の子で、当時江戸にあつたものと推せられる。棠軒は其留守宅を訪うたのである。
「廿六日。雨。昨日箱館残り御人数帰著。岡田、斎藤、青木在其内。有祝行。家作料三貫目被成下、会計局より受取。」北征の時の総督岡田創以下が前日福山に還つたのである。吉津村構築の費用は阿部家より給せられて、棠軒は債を償ふことを得た。
「廿九日。晴。殿様於東京天杯御頂戴被為蒙仰候(おほせをかうむらせられそろ)御祝儀五時より四時迄之内出仕御帳有之。」阿部正桓(まさたけ)の朝恩を蒙つたのを賀するのである。
「九日。(八月。)晴。吉辰に付普請場へ引移。引越御達(おんとゞけ)月番へ差出す。」吉津村の新居に移つたのである。手伝人中に飯田安石夫妻、森養真、岡待蔵等の名がある。公私略の文は日録と同じである。
「十四日。雨。殿様御帰藩被遊候に付、朝五半時揃総出仕、午刻御著。馬屋原、内野御供。」阿部正桓が福山に還つたのである。馬屋原の事は上(かみ)に註した。内田亦医官である。席順に「八人扶持、補、内田養三、三十六」と云つてある。
「十九日。晴。当直。当春より殿直(でんちよく)に不及、宅心得に相成。尤他出無用。当朝拝診可罷出之事。」棠軒勤仕の状況を見るべきである。
「廿一日。晴。石川大夫へ行。過日帰著に付。」藤陰成章(とういんせいしやう)であらう。己巳席順に「二百石、御足百石、上議員、関藤文兵衛、六十三」と云つてある。藤陰舎遺稿に拠るに、藤陰は此年正月東京に往つた。又東京を発する前不争斎正寧(ふさうさいまさやす)が宴を本所石原邸に賜うた。家乗には「七月廿一日東京発、八月十八日福山著、廿四日執政を罷め、波平行安作刀一振を賜ふ」と云つてある。
「三日。(九月。)晴。渡辺省診。文兵衛殿へ寄一診。」棠軒は渡辺氏を往診する次(ついで)に、藤陰の病を診した。渡辺氏の事は是より先八月十日の条に、「渡辺母公不快之由申来、午後見舞行」と云つてある。その「母公」と云ふより見れば、病者は席順の「大監察、渡辺造酒丞、五十七」の母であらう。藤陰は東京より帰つた直後に病んだと見える。

     その三百四十七

 わたくしは棠軒日録己巳九月の条を続抄する。
「廿二日。(九月。)晴。三沢順民(みさはじゆんみん)病死之由申来。養玄同道悔行(くやみにゆく)。」三沢は己巳席順に「十人扶持、准、三沢順民、廿九」と云つてある。その壮年にして歿したことを知るべきである。蘭軒と菅茶山との往復に見えた玄閑の後で、蘭医方に転じたと云ふは此人か。棠軒は寛斎と共に往いて弔した。
「廿五日。晴。去冬箱館戦争為御褒美、今般知事様へ永世六千石下賜趣、右為御祝儀御帳罷出候。」禄を阿部正桓に賜はつたのである。
「二日。(十月。)晴。文兵衛殿省診。」二たび関藤藤陰を往診したのである。
「十九日。徳児携手(とくじをたづさへて)城浦(しろうら)より釣舟遊行。」冢子(ちようし)平安の徳(めぐむ)と改称したことが始て此に見えてゐる。
「廿日。晴。関藤へ行。」此訪問は病を診せむがためなりや否やを知らない。関藤氏の家乗に拠れば、藤陰は戊辰十二月三日に本姓に復し、中岡才助に石川氏を譲つたのだと云ふ。才助は後の陸軍歩兵大尉石塚敬儀(よしのり)である。原来棠軒日録には殆日ごとに「石川へ行」、「石川へ寄」等の文がある。是は石川貞白である。そして事の藤陰に係るものは、初より必ず石川大夫若くは文兵衛殿と書してあつた。わたくしは読んで此に至つて始て関藤の文字に逢著したのである。
「廿一日。晴。徳児携へ角力見物。陣幕土俵入並五人掛り有之。」陣幕久五郎が技を福山に演じたのである。
「廿二日。晴。」是日棠軒の訪問した六家の中に、又関藤がある。第四次の往診である。
「廿七日。晴。御隠居様御不快被為入(ごふくわいにいらせられ)御容体書於御家従詰所拝見。養竹為御見舞(おんみまひとして)東京へ早打に而被遣候旨。右に付同家へ行。」阿部正寧(まさやす)が東京石原邸に於て病んだ。森枳園が問候のために東京へ急行した。棠軒はこれを聞いて家従詰所に往き、老侯の病況書を閲(けみ)し、後森氏を訪うたのである。下(しも)に枳園発程の記事のないのを見れば、枳園は此日に福山を発したものと見える。枳園は時に年六十四であつた。
「十三日。(十一月。)夜来雨。」棠軒の此日に訪うた三家の中に「真野」がある。己巳席順に「八十俵、真野兵助、五十」と云つてある。蘭軒に交つた竹亭頼恭(ちくていよりゆき)には孫、陶後頼寛(たうごよりひろ)には子で、名は頼直(よりなほ)、小字(をさなな)松三郎、竹陶と号した。今の幸作さんの父である。
「十八日。晴。三沢礼介家督被仰付。右祝行飲(いはひにゆきのむ)。」礼介は順民(じゆんみん)の後を襲(つ)いだのであらう。
「廿三日。晴。大殿様為御看病東京へ御発駕被遊候に付、為御機嫌伺朝六時出勤。五半時過早打に而御出被遊候。立造(りふざう)御供。」正寧の病を瞻(み)んがために、正桓が東京へ急行した。随行の医官は松尾立造であつた。
「廿四日。晴。」是日棠軒の歴訪した五家の中に又関藤がある。第五次の往診か。
「七日。(十二月。)晴。柏(かえ)他行(たぎやう)。」曾能子刀自の未だ名を更めてをらぬことが知られる。
「十一日。陰。三沢玄閑一周忌に付観音寺仏参。」此玄閑は恐くは順民の父、礼介の祖父であらう。戊辰十二月十一日に歿して、観音寺に葬られたと見える。
「十四日。晴。狩谷より書状到来。」当時□斎望之の養孫にして、懐之の養子なる矩之が二十七歳であつた。矩之は維新後明治五六年頃に至るまで津軽家の本所横川邸に□居してゐたさうである。書状は或は此家に移つた後に発したものか。
「廿八日。晴。屠蘇献上。」屠蘇を上(たてまつ)る家例は未だ廃せられずにゐる。
 此年棠軒三十六、妻柏三十五、子徳十一、女長十六、良十四、磐安二十一、平三郎九つ、孫祐七つ、姉国二十六、安十八、柏軒の妾春四十五であつた。

     その三百四十八

 明治三年は蘭軒歿後第四十一年である。棠軒は歳を福山に迎へた。藩主阿部正桓は四代前の不争斎正寧の病を瞻(み)むがために、東京に淹留してゐた。「正月元日。晴。夕微雨。御留守中に付、御祝儀御帳罷出。」
「二日。晴。江木老人、洞谷、養玄来飲。」江木鰐水は既に六十一歳になつてゐた。
「十日。晴。」来客四人中に「兵治(ひやうぢ)」がある。己巳席順一本に「真野兵治」がある。竹陶兵助が改称したのではなからうか。
「十七日。晴。御上(おんかみ)東京より御帰藩被遊候に付、四半時平服に而出仕。松尾へ寄。同人御供に而帰著に付。」正桓と医官松尾立造(りふざう)とが福山に還つたのである。
「廿三日。晴。月番意篤(いとく)より通用。御隠居様御不快為御看病東京府出府被仰付。尤養竹交代、支度出来次第之旨。」河村意篤が正桓の命を伝へ、棠軒をして森枳園と交代して東京に赴き、正寧に侍せしむることとなつたのである。公私略に同文の記がある。
「廿七日。微雨。午後晴。」是日棠軒の往訪した七家の中に関藤がある。想ふに藤陰の病は既に愈(い)えてゐたのであらう。以下関藤氏との往反は故あるにあらざる限は復抄せぬこととする。
「廿九日。晴。明日乗船に付、御暇乞に出。」将に福山を発して東京に向はむとするのである。「お長三夜之御暇被下下宿。」わたくしは前に棠軒の女長は阿部家の奥に勤めてゐるらしいと云つたが、果してさうであつた。是日の記に来客二十一人の名があつて、中に「藤陰翁」がある。関藤氏の号は日録には始て此に見えてゐる。
「二月朔日。晴。出帆之処船都合に而延引。」
「三日。晴。お長御広敷(おんひろしき)へ上る。」広敷は奥向、台所向を通じて称へた語である。三夜の暇は此に果てた。「明日愈乗船治定。」
「四日。晴。乗船の積に付、飯田に而相待。明日に延引に付、一先帰宅。」
「五日。晴。今夜鞆喜(ともき)一六船へ乗船に治定。夜四半時出宅。八時頃乗組出帆。御貸人中間(おんかしびとちゆうげん)治三郎召連、両掛(りやうがけ)一荷、主従夜具持込。此夜手城(てしろ)沖碇泊。」送つて埠頭に至つたものの名は省く。
「十日。晴。風。兵庫著、夜半入津(にふしん)。」
「十六日。晴。午前米国紐育船著津。明日右船へ乗組出帆之事。船賃二人分洋銀二十枚、此代金札二十二両、外に三歩手数料。」洋銀相場並に船賃を知らむがために抄したのである。
「十七日。陰。午後雨。夕七時乗組。」
「十八日。晴。暁七時過神戸港出帆。」
「十九日。晴。午時横浜港へ著船。夕七時前小舟一艘借切、品海(ひんかい)迄乗船。夜九時前品川石泉(いしせん)へ著、一宿す。」
「廿日。晴。朝五時石泉より乗船、永代橋迄、又同所より乗替、石原御屋敷へ四時過著船。森、三好在番部屋へ落着、御附御家従へ罷出。午後丸山邸へ御屈行、津山にて飲。」以上明治初年福山東京間の旅程を見るべきである。公私略は但発著を記して、途次の事を載せない。三好氏は通称東安、枳園と共に正寧に侍してゐたのである。津山氏の事は下(しも)に記す。

     その三百四十九

 上(かみ)に記するが如く、庚午二月二十日に棠軒は東京本所石原の阿部家別邸に著き、丸山本邸へ届けに往き、先づ津山氏を訪うた。津山氏は三年の後に棠軒の女長の嫁すべき家である。
 津山氏当時の主人を英琢(えいたく)と云ふ。戊辰席順に「表御医師無足、十二人扶持、津山英琢、二十九」と云つてある。庚午には三十一歳になつてゐた。棠軒より少(わか)きこと六歳である。棠軒が遠く福山より来て、先づ其家を訪うたのを見れば、恐らくは親しき友であらう。是が後に棠軒の女婿となるべき碧山(へきざん)である。
 碧山英琢の家には、当時七十四歳の老父忠琢成器(ちゆうたくせいき)が猶堂にあつた。忠琢は本伊藤氏、寛政九年に上総国市原郡高根村に生れた。父を義勝(よしかつ)と云ふ。五十川□堂(いかがはじんだう)の撰んだ墓誌に、「諱義勝第二子、幼孤、長来江戸、従樗園杉本翁学医、業成、嗣福山侯侍医津山氏、既而名声大起、累得俸廿五口」と云つてある。忠琢は福山の津山氏の養子となつたのである。其師杉本氏樗園(ちよゑん)、名は良(りやう)、字(あざな)は仲温(ちゆうをん)、一字(じ)は子敬(しけい)である。池田錦橋と親しく交り、その歿するに及んで墓表を撰み、廃嫡の子京水を憐んで交を渝(か)へなかつたのは即此人である。わたくしは後に安積艮斎(あさかごんさい)の樗園の平生を記したのを見た。樗園と艮斎とは、少時同く柔術を松宮柳囿(りういう)に学び、昵(したし)むこと兄弟の如くであつた。艮斎は樗園の事を叙して、「君有膂力、技亦抜群、雖□顱依様、而髪五分、以示勇猛状、時或酔後夜行、途次往々顛□人以為快」と云つてゐる。後二人は相約して志を立て、節を折つて書を読んだのださうである。わたくしはこれを読んで、京水が否運に遭つた時、樗園の義侠に負ふ所のあつたことを想見する。又中根香亭の記する所を見るに、樗園は善く琴(きん)を鼓した。其伝統は僧心越、杉浦琴川、幸田親益(しんえき)、宿谷空々(しゆくだにくう/\)、新楽閑叟(しんがくかんそう)、杉本樗園である。今樗園が碧山の父の師たるを言ふに当つて、聊(いさゝか)前記の及ばざる所を補つて置く。
 さて碧山の父忠琢を養つて子とした所謂「福山侯侍医津山氏」とは誰か。福田氏はその長子刀自に聞く所のものを書して、特にわたくしに寄せてくれた。津山宗伯、名は義篤(よしあつ)、初厚伯(こうはく)と称した。宝暦五年の生である。幕府の医官山崎宗運に師事し、宗字を贈られて宗伯と改めたと云ふ。按ずるに宗運は宗円ではなからうか。明和武鑑に「寄合医師、二百俵、元誓願寺、山崎宗円」がある。宗伯は阿部正倫(まさとも)に仕へて、三たび駕に随つて福山に赴いた。菅茶山とは親善であつたと云ふ。茶山より少(わか)きこと七歳、蘭軒の父信階(のぶしな)より少きこと十一歳であつた。宗伯は相貌魁梧で、克(よ)く九十余歳の寿を保つたさうである。是が碧山の養祖父である。
 碧山の父忠琢は養父宗伯の後を承けて阿部家の侍医となつた。□堂が「歴事六公」と書してゐる。六公とは正精、正寧、正弘、正教、正方、正桓であらう。然らば忠琢は蚤(はや)く十五歳許(きよ)にして正精に仕へたものと見える。正精の死は文化九年忠琢十六歳の時に於てしたからである。
 忠琢は帰山(かへりやま)氏を娶(めと)つて四子六女を挙げた。長男伊之助の生れたのは、文政九年忠琢三十歳の時である。伊之助、名は義淳(よしあつ)、後義方(よしかた)と改めた。経を安積艮斎に学び、又筆札を善くし、章斎と号した。僧となつて越後国蒲原郡見附在小栗山村真言宗不動院に住し、明治二年二月十三日に父に先(さきだ)つて寂した。時に年四十四。棠軒の碧山を東京に訪うた前年である。是が碧山の長兄である。

     その三百五十

 わたくしは津山碧山の家世を略叙して、祖父宗伯義篤、父忠琢成器、長兄章斎義方の名を挙げた。章斎には安積艮斎の手批(しゆひ)を経た詩稿が家に蔵してある。わたくしは其詩を録せずに、中に見えてゐる応酬の人物を抄出する。先づ諸侯には柳川侯があつて、章斎は其如意亭に遊ぶこと数次であつた。柳川侯は立花鑑寛(あきひろ)である。士人には小島成斎、岡西玄亭、皆川順庵、今川某、児島某、杉本望雲、岡田徳夫(とくふ)、河添原泉(かはぞへげんせん)、中耕斎、玉置(たまき)季吉があり、僧侶には鳳誉、渓巌、綜雲がある。又師艮斎の家に往つて作つた詩、佐藤一斎の筆蹟の後に題した詩もある。
 章斎に次で生れた忠琢の次男宗琢は、十七歳にして早世した。碧山の仲兄である。
 次で天保十一年に碧山が生れた。小字(をさなな)は英三郎、中ごろ行三(かうざう)、後英琢と称した。忠琢四十四歳の時の子で、その生れた時章斎は十五歳であつた。宗琢は何歳であつたか不詳である。
 碧山は幼時句読を庄原文助に受けた。後経を安積艮斎、海保漁村に学び、説文を岡本况斎に学び、又筆札を小島成斎に学んだ。
 庚午二月二十日に三十七歳の棠軒が、七十四歳の忠琢と三十一歳の碧山とに会したことは既に云つた如くである。わたくしは此より棠軒日録を続抄する。
「廿一日。晴。大君初而拝診被仰付。」大君は不争斎正寧である。
「廿二日。晴。番入。以来隔日当番可相勤旨。養竹出府御免、支度出来次第帰藩被仰付。伊東大典医伺に罷出、初而面謁す。」枳園養竹は棠軒の来りしが故に福山に帰ることを許された。伊東大典医は冲斎玄樸であらう。名は淵(えん)、字(あざな)は伯寿、本御厩(みうまや)氏、肥前の人である。蘭医方をジイボルドに受けた。幕府は安政五年に冲斎等を挙げ用ゐるに及んで、前(さき)に阿部正弘が老中たる時に下した禁令を廃したさうである。事は松尾香草の近世名医伝に見えてゐる。冲斎は庚午の年に七十一歳になつてゐた。
「廿三日。晴。風。養竹当分之内御差留被仰付。同人同道団坂蕎店(だんはんけうてん)に而(て)飲(のむ)。」枳園は一旦福山に帰ることを許されたのに、又抑留せられた。団坂蕎店は団子坂の藪蕎麦である。
「五日。(三月。)雨。森同道狩谷へ行飲。当時弘前邸内屋敷住居なり。」狩谷矩之が当時既に本所横川邸に移つてゐたことが、此に由つて証せられる。
「十二日。陰。午後微晴(すこしはる)。森氏御用相済近日帰藩可致旨被仰付。」
「十六日。微雨。森氏午後当邸を出立帰藩之事。」枳園が方纔(はうざん)江戸を発したのである。
「晦日(つごもり)。雨。御扶持受取、五人半扶持、米八斗二升五合、代金九両三分銭一貫八百九十三匁、雑用代金一分二朱。」此文と前日の「御内々月給金五両受取」と云ふ文とを合せ考へて、阿部家の棠軒に対する待遇を知るべきである。前日の文は特に抄せずに置いた。
「六日。(四月。)陰。静岡分家より書状到来、去月三日井戸妙(ゐどたへ)女病死之旨申来。」蘭軒の女長の夫井戸応助に子勘一郎と女(むすめ)二人とがあつて、後者中姉は関根氏に嫁し、妹は徳安の許にゐたことが文久三年の徳安の親類書に見えてゐる。妙は此妹か。然らば当時徳安改磐安の一家は静岡に徙(うつ)つてゐたのであらう。是より先「駿州分家」の語は既に日録に見えてゐた。

     その三百五十一

 わたくしは棠軒日録を抄して既に庚午四月六日に至つてゐた。此より其稿を続ぐ。
「十五日。晴。今川橋大久保に行。」蘭軒の父信階(のぶしな)の養母にして信政の妻であつた伊佐の生家、菓子商大久保主水(もんど)は庚午の歳に猶店を今川橋に持続してゐて、棠軒は当時の主水と往来してゐたのである。是日棠軒は福山の家人の書を得た。書は「三月十九日出」であつた。福山の書信が東京に達したのは二十六日後であつた。わたくしはその余りに遅きに驚いたが、是は異例であつた。後には四月廿二日に福山を発した書が五月朔(さく)に達してゐる。即ち八日後である。
「十一日。(五月。)夕雨。知事様御事去(さんぬ)る五日福山表御発船被遊、昨夕丸山邸へ御著被遊候。」阿部正桓(まさたけ)の入京である。後三日、十四日に「御上大君為御機嫌御伺御出被遊候」の文がある。正寧(まさやす)を石原に省したのである。
「七日。(六月。)微晴。権少参事村上半蔵より申来(まうしきたる)如左(さのごとし)。然者(しかれば)貴様儀御隠居様御不快為御看病出府被仰付候処、更に在番被仰付候旨、創殿(はじむどの)被仰渡候間、御談(おんだんじ)申候、以上。六月七日。尚々御隠居様御看病之儀、三好東安同様申合御介抱申上候様被仰付候。」棠軒の逗留が在番の名義に改められたのである。村上半蔵は己巳席順に「百三十石」と註してある。創は岡田氏。
「十九日。晴。浅田宗伯伺出(うかゞひにいづ)。」正寧が浅田栗園を請じたのである。以下復(また)抄せない。
「廿三日。夕雨。玄道来。」棠軒は入京以来殆日ごとに清川氏と往来してゐる。しかし「玄道」の称は始て此に見えてゐる。故(もと)の安策が父の称を襲(つ)いだのである。
「廿九日。夕雨。雷鳴。今日より詰切被仰付。」正寧の病革(すみやか)なるが故である。
「七月朔日。晴。暮六時御絶脈被遊候。」正寧の捐館(えんくわん)である。年六十二。正精の子、正弘の兄、正教正方の父である。
「三日。雨。冷気甚。暮時御入棺。」正寧の斂(れん)である。
「五日。微雨。御隠居様昨卯上刻御逝去被遊候に付、為伺御機嫌(ごきげんうかゞひとして)今五日四時より九時迄之内、改服に而出仕可致旨。丸山御住居へ出御謁並手札差出。」正寧の発喪である。
「十日。晴。夜雨(やう)。今朝御出棺。西福寺(さいふくじ)自拝罷出(じはいまかりいづ)。」正寧の葬(はうむり)である。西福寺は浅草新堀端。
「十三日。晴。」是日棠軒は長谷寺(ちやうこくじ)に詣でた。其記に「鳥居坂へ寄、午飯」の文がある。宗家伊沢は幕政の時より居を徙(うつ)さずにゐるのであつた。当主信崇(しんそう)は三十一歳であつた。
「五日。(八月。)雨。常徳院様御三十五日御当日に付、御遺物頂戴被仰付。如左。金巾(かなきん)御紋付御小袖一つ、□(さらし)御紋付一つ、為別段(べつだんとして)唐桟御袴地一つ、唐更紗御布団地一つ、計四品、於御納戸頂戴。」常徳院は正寧の法諡(はふし)である。
「十二日。晴。」来客中に「矢島元碩」がある。「元碩」は玄碩に作るべきで、渋江抽斎の子優善(やすよし)が養父の称を襲いだのである。日録に優善の事を記する始である。優善は当時三十六歳であつた。
「十三日。晴。」是日阿部家に画幅の払下があつて、棠軒は数幅を買つた。明治初年の書画の価(あたひ)を知らむがために其一二を抄する。「探幽雲山一軸代金一両二分、常信花鳥一軸代金三分。」
「廿五日。晴。家書及飯田書状来る。本月三日男子出生之由。」公私略に「名、三郎」と云つてある。
「廿七日。晴。此日初而乗人力車。」東京に人力車の行はれた始であらう。

     その三百五十二

 庚午八月二十七日後の棠軒日録を続抄する。
「廿二日。(九月。)微雨。福山内田養三より申来(まうしきたる)左如(さのごとし)。自分事御家内医官、東安同補、先達而(せんだつて)被仰付候由。尤医官次席之事。権少村上氏より申来如左。自分事在番被仰付置候処、御免被仰付候旨。」棠軒は家内医官を拝し、三好東安は家内医官補を拝したのである。家内医官とは阿部家の家庭医師を謂ふか。内田養三は福山にある同僚である。棠軒は同時に在番を解かれた。三好は是より先、是月六日に在番を解かれ、次日二十三日に東京を発して福山に向ふこととなつてゐた。「権少村上」は権少参事村上半蔵の略である。此二事は棠軒公私略も亦これを載せてゐる。
「廿九日。晴。道中御手当金二十八両一分一朱と銭五百三十三匁受取。明後朔日(ついたち)出帆決定。」
「十月朔日。晴。朝六時石原御門前より川崎屋船に乗組、南新堀万屋(よろづや)正兵衛方へ一先(ひとまづ)落著、黄昏和歌山蒸汽明光丸へ乗組。船賃九両茶代金二百疋。」
「二日。晴。今朝五時前出帆。」
「四日。晴。暁七時浪華(なには)天保山沖へ著。天明より小舟一艘雇(やとひ)、土佐堀御蔵屋敷へ著。」
「五日。微晴。時雨(ときにあめ)。藩邸より伏見夜船賃受取。夕刻煙草屋藤助一六船利徳丸へ乗組、新堀迄出帆。」
「六日。晴。夜微雨。今朝新堀出帆。」
「八日。晴。夕七時福山木綿橋へ著船上陸。安石、洞谷、待蔵、徳児等迎来。」此旅行は公私略に只発著を記するのみである。
「十三日。雨。九月八日岡山奥小野崎姉君御病死之旨今日御達(おんとゞけ)差出(さしいだし)、一日之遠慮引いたし候。」公私略に同文がある。只小野崎を「斧崎」に作つてある。棠軒の姉は田中氏か。
「十五日。(閏(じゆん)十月。)晴。日暮雨。殿様昨夜鞆津(ともつ)へ御著船被遊、今九時御帰藩被遊候に付、平服に而御祝儀出勤。」阿部正桓(まさたけ)の帰藩である。
「十七日。晴。内願(ないぐわん)差出左之通。覚(おぼえ)。私拝領仕候御紋附類悴徳(めぐむ)へ著用為仕度奉内願候、以上。私拝領仕候木綿御紋附御羽織異父兄飯田安石へ相譲申度奉内願候。以上。両通共勝手次第之旨、御頭(おんかしら)乾三殿被申談候(まうしだんぜられそろ)。」乾三は己巳席順に「吉沢乾三」と記してある。
「十日。(十一月。)晴。午後雨。微雪。三児種痘。」三児は三郎、当歳。種痘は遂に伊沢氏に入つた。
「七日。(十二月。)晴。津山へ行飲(ゆきのむ)。行三(かうざう)挙家(きよか)一昨日引越著に付。」津山碧山は当時行三と称した。父忠琢も共に福山に来たのである。五十川□堂(いかがはじんだう)の文に「扈君夫人、移居福山、時君(忠琢)既致仕、而有此命、蓋特典也」と云ふは、此時の事であらう。是に由つて観れば、津山氏の移徙(いし)は忠琢が召された故である。君(くん)夫人は正弘の第六女にして正桓の初の室寿子(ひさこ)か。寿子は当時二十一歳であつた。

     その三百五十三

 庚午十二月七日後の棠軒日録を続抄する。
「十八日。陰。藩庁御制度御変革諸官員御減省に付而者(ついては)、御家政向も右に准じ御減省、且御家禄之内御減数之儀も有之、依而免職被仰付。三好東安、自分、津山忠琢、右に付金三百疋づつ頂戴被仰付。」棠軒が三好、津山と共に所謂家内医官を罷められたのである。
「廿八日。晴。御奥御改革御人減(おんひとべらし)に付、長女御暇被下下宿。」棠軒の女長が阿部家の奥より下げられたのである。棠軒公私略は棠軒自己の事を載せて、其女の事を載せない。
 此年棠軒三十七、妻柏三十六、子平安十二、女長十七、良十五(以上福山)、磐安二十二、弟平三郎十、孫祐八つ、姉国二十七、安十九、柏軒の妾春四十六(以上静岡)であつた。
 明治四年は蘭軒歿後第四十二年である。棠軒一家は又年を福山に迎へた。
「正月元日。晴。」此日の記事中「春雄来」の句がある。春雄は森枳園の子約之の維新後の称なることが其墓表に由つて証せられる。時に約之は三十七歳であつた。「六日。晴。」「七日。晴。」此二日の間に、棠軒は四十二家を廻礼してゐる。其中酒を饗した家が八軒で、其一は関藤藤陰(せきとうとういん)の家である。
「十七日。(二月。)雨。夕晴。慧□童女(ゑりんどうによ)七回忌、得悟童子来廿八日三回忌之処取越、法事執行、今日□夜(たいや)也。大賢尼来読経。」按ずるに慧□は棠軒の女信(のぶ)の法諡(はふし)である。信は慶応紀元二月十八日に夭した。□夜は原(もと)荼毘(だび)前夜であるが、俗間には法要の前夜を謂ふ。此には後の義に用ゐてある。得悟は棠軒の子紋二郎の法諡である。紋二郎の夭折は、軍行日録に徴するに、戊辰の三月であつた。そして記事に其日を佚してゐた。今本文に由つてその戊辰二月二十八日に夭したことを知るべきである。
「七日。(四月。)晴。棠軒と改名願書差出す。尤(もつとも)当用内田養三取計。」所謂改名は道号を以て通称としようとしたのであらう。春安信淳(のぶきよ)には棠軒、小棠軒、谷軒(こくけん)、尚軒、芋二庵(うじあん)の諸号があつた。以上は歴世略伝の載する所である。又海紅(かいこう)の号があつたらしい。軍行日録に「海紅主人伊沢春安」と署してある。
「八日。陰。午後吉田へ会合。主人、貞白及小島金八郎並に尚(ひさし)同伴、山(やま)六船(ぶね)に而(て)讚岐金刀比羅宮(ことひらのみや)参詣。夜四時過乗船、夜半出船。尤同日安石より御届取計。」棠軒は福山を発して讚岐象頭山(ざうづさん)に向つたのである。一行凡五人であつた。吉田の主人(あるじ)は洞谷であらう。貞白は石川氏である。小島金八郎は戊辰席順に「料」の肩書がある。恐くは料理人であらう。年は辛未三十歳であつた。尚は小字(せうじ)誠之助、飯田氏の嗣子である。棠軒は発するに臨んで、飯田安石をして県庁に稟(まう)さしめた。
「九日。晴。暮六時多度津へ著船。夫より乗馬に而御山(みやま)迄行。時(ときに)三更前鞆屋(ともや)久右衛門に一泊。」
「十日。晴。朝登山。鞆久(ともきう)に而午飯之上乗船、初更頃出帆。」
「十一日。雨。午後八半時過著船。夜六半時頃帰宅。」公私略の記事は此に終る。此より下(しも)は日録を抄することを得るのみで、復(また)公私略を参照することを得ない。

     その三百五十四

 明治辛未四月十一日後の棠軒日録を続抄する。
「廿六日。晴。関藤(せきとう)へ行。政太郎病死之悔。」わたくしは関藤藤陰の詳伝を知らない。しかし其長子政太郎は、文化四年生れの藤陰が蜷川(になかは)氏を娶(めと)つて、弘化三年四十歳の時にまうけたものである。明治二年の席順には「二百石、御足百石、関藤文兵衛、六十三」と云ひ、「十二石、関藤政太郎、廿三」と云つてある。辛未に政太郎が早世したとすると、其齢(よはひ)は二十五歳で、父の六十五歳の時に終つたのである。阪谷朗廬(さかたにらうろ)撰の墓誌には、「配蜷川氏、先歿、有二男、長曰政太郎、成立受譲継家、不幸早世、次子亦先夭」と云つてある。然らば藤陰は当時既に致仕して、政太郎は戸主となつてゐたのである。
「十三日。(五月。)晴。午後微雨。関帝祭祀。安石夫婦来割烹(かつぱうす)。」関帝を祭ることは、維新後にも未だ廃せられずにゐた。飯田安石と其妻とが来て庖厨の事を掌(つかさど)つた。
「晦日。晴。柏(かえ)飯田へ行。」曾能子刀自は猶柏と称してゐた。飯田は安石の家である。
「三日。(六月。)土用入。晴。午後微雨。森春雄今暁病死之由申来る。」森枳園立之の子約之である。年は三十七になつてゐた。浜野氏は頃日(このごろ)福山賢忠寺の墓を訪うた。「文定院斉穆元信居士、明治四年未六月三日、森春雄約之墓」と刻してあるさうである。
「六日。晴。夕森へ悔行(くやみにゆく)。」子を喪つた枳園夫妻を訪うたのである。
「三日。(七月。)岡山より姉君遺物到来。」前年九月八日に歿した棠軒の姉があつた事は上(かみ)に見えてゐる。
「四日。晴。驟雨雷鳴。於会計六箇月分扶持銀受取。札三貫四百十六匁四分也。」当時棠軒の受けた俸銭である。
「十五日。雨。朝より晴。盆踊瞥見。」猶盆踊の俗が廃(すた)れずにゐた。
「十九日。雨。此日祖母一週忌□夜(たいや)也。」祖母とは誰か。文政十二年二月五日に歿した蘭軒の妻飯田氏益(ます)にあらざることは明である。儻(もし)くは生家の祖母か。前年の日録は記載を闕いてゐる。
「廿日。陰。示幻童女(しげんどうによ)三十三回忌。」天保己亥に歿した榛軒の女(ぢよ)久利(くり)である。
「廿三日。晴。知事様御免職。」阿部正桓(まさたけ)が福山藩知事を罷められたのである。
「廿九日。晴。午後驟雨。夜又雨。午前より森へ行。此日平野亀三郎同家へ養子願済引移、夕又平野へ里開(さとびらき)。」森枳園は平野氏亀三郎を養つて子とした。亀三郎の生父は杉右衛門と称した。己巳席順に「五十五俵、平野杉右衛門、四十八」と云つてある。是より先七月七日の条に「森、平野、再森へ行、養子一件」の文があり、又八日の条に「杉右衛門来、森へ行、森養子一件」の文があつた。是に由つて観れば、媒妁者は棠軒であつた。按ずるに亀三郎は春雄の長女くわうに迎へられた婿である。
「廿一日。(八月。)雨。夕晴。飯田ます女河合銀二郎へ縁談。今日吉辰に付引移、右に付飯田へ行飲。」ます女は安石の女であらう歟。河合氏の事は未だ考へない。或は下(しも)に見えてゐる友翁(いうをう)の子か。

     その三百五十五

 明治辛未八月二十一日後の棠軒日録を続抄する。
「十九日。(九月。)晴。明廿日前知事様方々様(かた/″\さま)東京御引越(おんひきこし)に而(て)御発駕被遊(あそばさる)。石川御供に而出立に付暇乞に行飲。」阿部正桓が福山より東京に遷り、石川貞白が随従するのである。
「廿日。晴。又微雨。御発駕御延引相成候。右者(みぎは)六郡の村民一揆強訴(がうそ)、市中乱暴、其上浜野両家及津川高島等焼立候に付。」浜野章吉、浜野徳蔵、津川徳太郎、高島鉄之助の家か。章吉、名は王臣(わうしん)、字(あざな)は以寧(いねい)、箕山(きざん)又猶賢(いうけん)と号した。災(わざはひ)に遭ふものは皆其族人であつたらしい。擾乱の由来等は不詳である。
「廿一日。晴。不得已(やむをえず)強訴之者打払之令出、近郷迄兵隊罷出警衛相成候。」
「廿四日。晴。未穏(いまだおだやかならず)。尤(もつとも)御城内相詰候非役之面々一旦引取に相成候。」
「十一日。(十月。)晴。風。午後止。河合友翁来。森亀三郎家督被仰付、悦行飲(よろこびにゆきのむ)。」按ずるに枳園養竹は早く致仕し、春雄が家督相続をしてゐたので、今亀三郎は春雄の後を襲(つ)いだのであらう。友翁は或は飯田安石の女婿銀二郎の生父か。
「二日。(十一月。)石川明日御供出立に付行飲。」阿部正桓東行の日が再び卜せられたのである。
「三日。晴。前知事様御初方々様方東京為御引越午後御乗船。右に付川場迄御見送出。」正桓は遂に家を挙げて福山を発した。
「四日。晴。養竹妻病死之由、以金沢源二郎為知来(しらせきたる)。即刻悔行(くやみにゆく)。」
「五日。晴。森葬送に付、早朝より行。」枳園の妻勝は三日に歿し、棠軒は四日に訃を得て往いて弔し、五日に送葬した。墓は福山東町賢忠寺にある。浜野氏は墓表を写した。「貞荘院敬徳明慧大姉、明治四年十一月三日、森立之妻。」
「七日。(十二月。)晴。風寒甚(かぜさむきことはなはだし)。石川貞三昨夜帰著に付、悦行飲。」貞蔵、初の称厚安(こうあん)、貞白の子である。
 此年八月十三日に静岡にある柏軒の子孫祐(まごすけ)が九歳にして夭し、翌十四日に大在家(だいざいけ)村天徳院に葬られた。法諡(はふし)白露清光禅童子である。良子刀自所蔵の文書中に、孫祐葬儀の時の「諸用留(しよようどめ)」一冊がある。孫祐の死は棠軒日録の辛未の部に見えない。或は訃音が至らなかつたものか。
 此年棠軒三十八、妻柏三十七、子平安十三、三郎二つ、女長十八、良十六(以上福山)、磐安二十三、弟平三郎十一、姉国二十八、安二十、柏軒の妾春四十七であつた。
 明治五年は蘭軒歿後第四十三年である。棠軒は又年を福山に迎へた。「正月元日。晴。御祝儀非役之面々無之(これなし)。已廃三朝古典刑。曾無賀客至山□。唯余一事猶依旧。独坐焚香読孝経。」
「二日。(二月。)陰。夕雨(ゆふべあめ)。貞蔵来。貞白午刻東京より帰着之由。右に付悦行飲。」
「二十二日。晴。断髪す。」按ずるに棠軒は剃髪せずにゐたので、今俗に随つて断髪したのであらう。
「二十三日。晴。養竹明日吉野発途之由申来。肴切手持行飲(さかなきつてもちゆきのむ)。」森枳園吉野の遊である。此事は藤陰舎(とういんしや)遺稿にも見えてゐるから、少しく下(しも)に補叙しようとおもふ。時に枳園は年六十六であつた。

     その三百五十六

 わたくしは棠軒日録を抄して明治壬申に至り、二月二十三日が森枳園の吉野へ立つ前日だと云つた。藤陰舎遺稿に七絶一首がある。「送人遊芳野、此詩送高田聾翁、森養竹者、二人非同行、前後一二日、相継発程。欲看芳山万樹桜。旅装纔挈一瓢行。宛然先輩尋花去。栢笠飄飄菅笠軽。自註、芭蕉、宣長。」高田氏の名は遺稿丙子の巻(まき)に重見(ちようけん)してゐる。「寄高田聾翁」と題するものが是である。己巳席順の「廿二俵三人扶持、高田段兵衛、六十六」である。段兵衛、後段右衛門と称した。号は杏塢(きやうう)、晩に聾翁(ろうをう)と云ふ。一時藤井松林、吉田東里と倶に福山の三画史と呼ばれた。
 枳園は前年辛未の夏実子約之(やくし)を失ひ、冬妻(さい)勝(かつ)を失ひ、家を養嗣子亀三郎に託して此遊の途に上つたのである。枳園の此遊には必ず詩文があつたであらう。しかし一として世に伝はつたものが無い。
「廿五日。(三月。)晴。花影(くわえい)童女五十回忌に付、柏(かえ)賢忠寺参詣。」花影は文政六年三月二十五日に夭した蘭軒庶出の女(ぢよ)順(じゆん)である。
「十一日。(五月。)雨。徳(めぐむ)今日より岡へ遣す。十八史略講義聴聞也。」徳のために十八史略を講じた岡氏は岡待蔵、後の寛斎であらう。徳時に年十四であつた。
「廿四日。雨。昨日安石隠居願済。」飯田安石は壬申五月二十三日に致仕したのである。時に年四十九であつた。
「廿二日。(七月。)晴。待蔵事寛斎来。」岡待蔵が新に寛斎と改称したのは此時である。時に年三十四。
「廿九日。(八月。)雨。成田竜玄昨夜物故、今日葬送、徳代参遣す。」成田竜玄が壬申八月二十八日の夜に歿したのである。
「三日。(九月。)陰。河合へ行。去晦日(きよつごもり)友翁妻病死之悔。」河合友翁の妻が壬申八月三十日に歿した。飯田安石の女婿銀二郎の生母であらう。
「廿四日。晴。岡寛斎近日東京出府に付、於飯田宅別杯相催す。」寛斎の祖筵が飯田安石の家に於て開かれたのである。
「廿五日。晴。森へ行飲。同家年内東京転移に付、一切相談也。」枳園の家族が将に東京に移り住まむとするのである。
「廿六日。晴。今暁岡寛斎出府乗船之処、夜汐(よしほ)に延引之由、再行飲。」寛斎は壬申九月二十六日の夜福山を発して東上したのである。
「廿八日。晴。徳(めぐむ)啓蒙所(けいもうしよ)夜会に出す。」啓蒙所は学校の名か。
「十六日。(十一月。)晴。夜雨。柏断髪す。」曾能子刀自が三十八歳にして断髪した。恐くは病の故であつただらう。
「廿一日。晴。冬至。東京森養竹より書状到来。」是より先是月五日の下(もと)に「森へ行、同家引越一条に付、大黒屋直右衛門方へ行」の文があり、次年一月に至るまで屡「森へ行」の文がある。按ずるに枳園は吉野に遊んでより後、復福山に帰らずして、東京に入り、今家族を迎へ取らうとするのである。寿蔵碑に「明治五年壬申二月辞福山、漫遊諸州、五月至東京、是月廿七日補文部省十等出仕」と云つてある。時に枳園は六十六歳になつてゐた。
「二日。(十二月。)晴。夜雨。今般大陰暦御廃し、太陽暦御採用に付、明三日より一月第一日と御改正被仰出。」
 静岡の伊沢氏では、此年四月に磐安が磐(いはほ)と改称し、又七月に東京に遊学し、塩田氏に寓した。良子刀自所蔵の文書に、「明治五年七月東京第一大区十一小区東松下町三十七番地工部省七等出仕塩田真方寄留」の文がある。塩田良三(りやうさん)は既に真(まさし)と改称して、工部省に仕へてゐた。
 此年棠軒三十九、妻柏三十八、子徳十四、三郎三つ、女長十九、良十七(以上福山)、磐二十四、弟平三郎十二、姉国二十九、安二十一、柏軒の妾春四十八(以上静岡)であつた。

     その三百五十七

 明治六年は蘭軒歿後第四十四年である。棠軒は又年を福山に迎へた。一月より二月に至る間には、只棠軒の妻柏が一たび病んで後愈(い)えたこと(一月二十六日)、江木鰐水が棠軒を訪ひ(一月五日)、又棠軒が江木氏を過(よぎ)つたこと(一月十日)、棠軒が屡森枳園の留守を顧みたこと(一月五日、七日、八日)等がわたくしの目に留(とま)つたのみである。
 三月以下には良子刀自所蔵の文書中に、磐安改磐の日記の断簡があつて、棠軒日録と両存してゐる。わたくしは二者を併せ抄することとする。
 三月二日。磐が東京を発して静岡に向つた。家族を迎へ取らむがためである。当時磐の身分は「静岡県貫属士族」で、其戸籍は「静岡第五大区百姓安右衛門方同居」であつた。俸禄は「現米十八斗」であつた。家族は「母春、妹安、弟平三郎」と云つてある。姉国は狩谷矩之(くし)の妻である故、家族中に算してない。亡父柏軒の妾春は既に磐の母として事(つか)ふる所となつてゐる。磐は東京を発するに至るまで、「南紺屋町佐藤勘兵衛方」に寄寓してゐた。
 五日。磐は静岡に著いた。
 九日。磐は全家の東京に寄留せむことを静岡県庁に稟請(りんせい)し、兼て静岡に於ける「留守心得」を指定した。東京に於ける寄留先は「第二大区十五小区麻布南日窪町医師伊沢信崇方」即所謂鳥居坂の宗家である。当時信崇(しんそう)は年三十四であつた。
 静岡に於ける留守心得は「呉服町一丁目多喜後家ひさ方比留正方」である。
 十三日。磐は家族を率(ゐ)て静岡を発し、「富士郡前田村加藤要蔵方」に宿した。
 十四日。磐一行は前田村を発し、「三島駅世古六大夫方」に宿した。
 十五日。一行は三島を発し、「小田原駅三河屋」に宿した。
 十六日。母春、妹安は小田原に駐(とゞま)つて、磐等は藤沢に至り、相生屋(あひおひや)に宿した。

 十七日。磐等は藤沢を発し、東京鳥居坂の宗家に抵(いた)つた。
 二十二日。磐は全家(ぜんか)の塩田真の許に寄留せむことを、「第一大区十一小区扱所」に稟請した。
 二十四日。磐は「電信寮自費修行願」を作つて塩田真に託した。電信技手たらむと欲したのである。
 二十八日。「仙次郎小田原より母及妹を送り来る。」仙次郎は磐の曾て寓した相模国山下村農家の主人であらう。春、安の二女は塩田の家に著いたのであらう。
 四月一日。「平三郎鳥居坂本家信崇の養子となり、名を信平と改む。」磐の弟の宗家に入つたのは此時である。当時養父信崇三十四歳、養子信平十三歳であつた。
 三日。「全家麻布南日窪町町医伊沢信崇方へ寄留すとの届を小区役所に出す。」寄留籍が塩田氏より鳥居坂伊沢氏に移されたのである。
 三四月の間、棠軒日録には事の抄するに足るものが無い。強て求むれば、津山碧山(四月廿二日)岡寛斎(同二十九日)が棠軒を訪うた事がある。寛斎は四月二十七日に東京より福山に往つた。

     その三百五十八

 わたくしは此より明治癸酉五月以後の棠軒日録を抄する。
「五月一日。晴。長女河合へ遣(つかは)す。去(さんぬる)十七日友翁旅中病死之悔。」友翁は飯田安石の女婿銀二郎の生父であつたらしい。然らば銀二郎は前年壬申九月三日に生母を失ひ、今又生父を失つたのであらう。旅中とは何(いづ)れの地にあつたのか不詳である。
「六日。晴。河合友翁葬送に付、名代徳(めぐむ)遣す。」
「十四日。晴。津山忠琢病死之旨為知来。夕観音寺葬送見立行(みたてにゆく)。」棠軒の女長の婿となるべき碧山の生父である。五十川□堂(いかがはじんだう)撰の墓誌に、「年七十七、以疾卒、葬吉津村観音寺、寔明治六年五月十三日」と云つてある。按ずるに歿日は十三日、葬日は十四日であつただらう。墓誌に又かう云つてある。「君豪放。不肯為小廉曲謹。以投衆人耳目。而於医事則好古法。微密精到。不与今世医同流。謂苟為而止者非医也。傍好刀剣書画法帖。亦必以古。往々傾貲不顧云。(中略。)初良徳公之疾。衆医不以為意。独君憂之。屡上医案。不省。後果若其言。以是人皆服君卓見。」良徳公(りやうとくこう)は阿部正弘である。忠琢の歿後には妻帰山(かへりやま)氏が遺つた。忠琢は己が古法帖を好んだので、子碧山をして小島成斎の門に入らしめたのであらう。
「十五日。晴。津山へ悔行(くやみにゆく)。」
「廿二日。晴。真野(まの)より被招行飲(まねかれゆきのむ)。此日陶後十七回忌。」真野竹亭の子陶後頼寛(たうごよりひろ)は安政四年四月廿三日に歿したから、陽暦の忌日は五月十九日である。按ずるに改暦後、月を変へて日を変へずに五月二十三日とし、所謂□夜(たいや)に客を招いたのであらう。当時の主人は陶後の子にして幸作の父なる竹陶兵助(ちくたうひやうすけ)五十四歳である。
「廿七日。晴。慧観童女七回忌□夜。貞白来飲且飯(きたりいんかつはんす)。」慧観は棠軒の女鏐(かね)である。慶応三年五月二十八日に夭した。
「十三日。(六月。)晴。風。吉田へ行、同道飯田へ寄。同家へ過日河合同居也。」飯田安石は女婿河合銀二郎の家族を迎へて同居せしめた。吉田は画師洞谷(どうこく)である。
 八月には棠軒の妻柏(かえ)が大に病んだ。
「十四日。時々雨。夜大雨。四五日来お柏持病脳痛不出来之処、今暁尤甚。四肢厥冷(けつれい)、脈伏寒戦に至る。」此より医師石川貞白、飯田安石、三好東安、河村意篤、内田養三等が来り診し、又正覚院(しやうがくゐん)と云ふものが来て加持し、安石の女にして河合に嫁したお升(ます)、「吉田老母」等が夜伽のために来り宿した。吉田老母は洞谷の母であらう。「廿一日。陰雨(いんう)。柏子脳痛十八日来漸々(ぜん/\)緩和に赴く。」「三十一日。晴。吉田老母今日迄逗留之処、今夕より帰宅。」柏の病は愈(い)えたのである。
「六日。(九月。)洞谷来飲。同人悴直(なほし)今日より入学。」吉田洞谷の子直が棠軒の弟子となつた。棠軒弟子の入門は公私略にも日録にも多く見えてゐる。直の事は洞谷の子なるを以て特に抄出する。按ずるに所謂入門者は概(おほむね)皆医であらう。しかし直は必ず医となつたとも云ひ難い。同月十二日に「今日より外史講釈相始む」の文があるからである。外史の日本外史なることは勿論である。後に聞けば、直は幾(いくばく)ならずして吉田氏を去り、一たび甲斐氏を冒し、遂に本姓前原(まへばら)に復して終つた。前原氏は神辺(かんなべ)菅氏の隣で、是が直の生家であつた。

     その三百五十九

 此より明治癸酉九月十二日後の棠軒日録を続抄する。
「廿二日。晴。真野竹陶(兵助事)病死之趣為知来(しらせきたる)。即葬送寺へ行。」「廿三日。晴。真野へ悔行(くやみにゆく)。」「廿六日。陰。微雨。夕微晴。真野へ被招行飲。当日初日□夜(たいや)也。」真野竹陶は竹亭には孫、陶後には子で、今の幸作さんには父である。歿日は九月廿一日、寿は五十六である。
「五日。(十月。)晴。三沢へ行。お長縁談の返事。」「廿一日。晴。吉辰に付、長女津山碧山方へ結納取替。三沢老母周旋。」「十七日。(十一月。)長女津山へ縁談之願戸長へ差出す。」「十八日。晴。三沢へ行。」「二十日。時晴時雨(ときにはれときにあめ)。長女鉄漿染(かねつけ)。三沢老母賓(ひん)たり。吉田老母、お糸を招く。」「廿三日。晴。長女縁談願過日戸長迄申出置。願面如左(さのごとき)よし。縁談願。私長女長。当酉二十歳。第二大区小十五区三百五十八番屋敷士族津山碧山妻に縁談申合度(まうしあはせたく)此段奉願候也。年月日。第二大区小何区何番士族、伊沢某、印。右に付昨日送籍証(そうせきしよう)一紙受取、今日野村方迄差遣す。」「廿五日。晴。津山氏へ長女道具送り遣す。房助卯三郎両人にて三度に舁送(よそう)す。」「廿六日。晴。長女津山碧山へ暮時出宅に而(て)嫁(か)す。引続自分及徳(めぐむ)同家へ舅入行(しうといりにゆく)。夜四時前開く。安石、お糸、三沢老母、吉田老母、石川おきく等来。寛斎来。」「廿八日。晴。午後陰。夜半雨。杉山津山へ寄、吉田へ行。」「十日。(十二月。)晴。夜半雨。長女里開き。碧山、文女(ふみぢよ)、喜代女及三沢老母、其外貞白、洞谷、寛斎、吉田老母、お糸、旧婢(きうひ)たけ、卯三郎等来大飲。」「十五日。晴。内祝之赤飯配る。」「廿日。晴。長女来宿。」是が棠軒の女長の津山碧山に嫁した顛末である。わたくしは明治初年婚礼の一例として、特に詳にこれを抄した。
 媒人(なかうど)は三沢順民(じゆんみん)であらうか。少くも三沢氏が所謂橋渡をしたことは明である。三沢老母は順民の母、吉田老母は洞谷の養母、糸は飯田安石の妻、きくは石川貞白の妻、野村徳太郎は碧山の姉ちかの夫である。戊辰東役高(とうえきだか)に「御通掛新番組、野村徳太郎、廿一」と云つてある。文、喜代は津山氏の家族であらう。卯三郎、房助、たけは奴婢である。
 此婚嫁は棠軒がその愛する所の女を出して、親む所の友に嫁したのである。只俗に随ひ礼を具へたに過ぎなかつたであらう。
 長子刀自の福田氏に語るを聞くに、碧山には先妻武藤(ぶとう)氏があつて、一女を遺して歿した。津山直次郎は此女のために迎へられた婿で、大正五年十二月十五日に歿し、其長子は図按家になつてゐるさうである。
 十月以後、棠軒の女長が于帰(うき)の事のあつた旁(かたはら)に、尚二事の記すべきものがある。棠軒が冢子(ちようし)徳(めぐむ)のために算術の師を択んだのが其一である。十月六日の下(もと)に云く。「徳今夕より中村某へ遣す、算術。」阿部正弘の継室謐子(しづこ)の死が其二である。十月十八日の下に云く。「去五日清心院様御逝去被遊候由。」十一月六日の下に云く。「小鼓へ行。過日清心院様御逝去之御機嫌伺取計之一礼。」十一月廿二日の下に云く。「清心院様御四十九日御相当に付兼而勤仕之者申合於定福寺少分之御供養申上。」十二月二十六日の下に云く。「清心院様為御遺物金二百疋被成下候趣、三富氏より貞白受取持参。」謐子は糸魚川の松平日向守直春の女、越前の松平越前守慶永(よしなが)の養女で、正桓(まさたけ)の夫人寿子(ひさこ)は其出である。小鼓(こつゞみ)は己巳席順の「十人扶持、御足五人扶持、鼓菊庵、五十四」で、同席順の「十人扶持、御足十人扶持、鼓泰安、五十九」の大鼓(おほつゞみ)に対(むか)へて言ふのであらうか。猶「鼓兆安、鼓定」と云ふものも同席順に見えてゐる。三富氏は己巳席順に「百廿石、御附奥家老、御家従、三富甚左衛門、五十八」と云つてある。

     その三百六十

 わたくしは棠軒日録を抄して明治癸酉の歳暮に至つた。
 此年は伊沢氏と旧好ある人々の中で、門田(もんでん)朴斎と渡辺樵山(せうざん)との歿した年である。朴斎の死は行状に拠るに一月十一日戌牌(じゆつはい)で、年を饗(う)くること七十七であつた。
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