伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

「晦日。微晴。」
「十二月朔日。微晴。」
「二日。同断。夜雪。」
「三日。微晴。」
「四日。晴。夜雨。雷鳴。月賜金二両受取。」
「五日。陰。」
「六日。雪。文礼子青森へ御用に而(て)罷越(まかりこし)、帰路一泊。」
「七日。晴。夕雪。会議所より為寒中慰労生牛一疋兵隊へ頂戴相成、今日屠肉配分。」
「八日。雪。」是日車駕東京を発す。
「九日。雪。午後止。」
「十日。晴。」
「十一日。晴。松軒子青森へ行。天富亮碩亦青森行に而立寄。」
「十二日。晴。午後陰。本陣大菊屋へ病院転寓。」
「十三日。晴。斎木石川新城より兵隊同道に而来。」
「十四日。晴。夜雪。」
「十五日。晴。」
「十六日。斎木石川来一宿。」

     その三百四十

 棠軒従軍日記の戊辰十二月十六日を以て前稿は終つてゐた。此より其後を抄出する。
「十七日。晴。弘前侯為御見廻当所御通行、総兵隊へ為御土産御酒御肴被成下。」弘前侯は津軽承昭(つぐあき)、二十八歳。
「十八日。風雪。」
「十九日。風飛雪(かぜゆきをとばす)。松平民部大輔様箱館討手被為蒙仰候旨廻状到来。」松平民部大輔、名は昭武、前月二十四日に箱館の賊を討つことを命ぜられ、二十五日兄慶篤(よしあつ)の後を襲(つ)いで水戸藩主となつた。
「廿日。微雪。」
「廿一日。晴。」
「廿二日。晴。節分。」
「廿三日。晴。当所病人多之処、松軒子四五日不快に付、当分之内為助(すけとして)斎木文礼御呼寄に相成、午後入来(じゆらい)。」
「廿四日。晴。」
「廿五日。晴。昨日総督より洋医可心掛之命有之。」蘭軒の養孫、榛軒の養子は遂に洋医方に従ふべき旨を喩(さと)された。
「廿六日。陰(くもる)。」
「廿七日。晴。会津仙台侯始御処置有之候由始而入耳(はじめてにふじ)。」松平容保(かたもり)、伊達慶邦(よしくに)の処分は是月七日に於てせられた。
「廿八日。晴。」
「廿九日。雪。来正月分雑用金二両受取。」
 此年所謂又分家の伊沢氏では、徳安が既に磐安と改称してゐた。又其全家が十二月中相模国「余綾郡山下村百姓仙次郎方」に寓してゐた。是は良子刀自所蔵の駿藩留守居より辨官に呈した文書に徴して知るべきである。
 此年棠軒三十五、妻柏三十四、子平安十、紋次郎二つ、女長十五、良十三、柏軒の子磐安二十、平三郎八つ、孫祐六つ、女国二十五、安十七、柏軒の妾春四十四であつた。
 明治二年は蘭軒歿後第四十年である。棠軒は歳を青森附近油川村の陣中に迎へた。
「正月元日。半晴。中林神明宮社参。」
「二日。陰。夜雨。成田氏弘前へ出立に付、書状認渋江小野両氏へ送る。」成田祥民に託して書を渋江氏、小野氏に寄せた。渋江氏には抽斎未亡人が子女と倶にゐた。
「三日。晴。風。」
「四日。陰。」
「五日。雨。」
「六日。陰。」
「七日。晴。午後陰。」
「八日。九日。十日。雪。風。」
「十一日。晴。」
「十二日。晴。昨日成田氏弘前より帰来、渋江小野返書来。当藩上原元英来。」上原は弘前藩医である。
「十三日。晴雪相半(せいせつあひなかばす)。金匱私講抄録(きんきしかうせうろく)卒業。」
「十四日。晴雪相半。」
「十五日。晴雪相半。昨冬箱館表俄之引揚に付、格別之以御仁恵総人数へらせいた洋服一枚づつ、天朝より恩賜被仰付。」
「十六日。雪。」
「十七日。十八日。晴。」
「十九日。晴。清水谷様爰許(こゝもと)御巡見有之総督御召に而、一統無怠慢在陣之段神妙之至、尚宜敷と御口上有之候由。今朝於青森大病院、罪人解体に付、斎木藤田昨夜より罷越、今夕又一宿。」官衙に於ける解剖は、或は此等を始とするのではなからうか。
「廿日。晴。斎木藤田青森より帰宿。石川厚安来一宿。今日病院大工棟梁越後屋新兵衛へ転陣。」
「廿一日。雨。」
「廿二日。微晴(すこしはる)。夜雪。」
「廿三日。廿四日。半晴。」
「廿五日。風雪。石亀村に於て大操練御覧有之。」
「廿六日。微晴。」
「廿七日。陰。夜雨。午刻より新城村病院へ行、日暮帰寓。」
「廿八日。風雨。」
「廿九日。晴。広江氏不快に付、昨日より病院に引取。」広江氏、通称繁三郎、三十八歳、席順に「建築」の肩書がある。
「晦日。晴雪相半。」
「二月朔日。晴。」
「二日。陰。夜雨。斎木子青森行一宿。広江病人相談也。」
「三日。雨。大病院深瀬祥春来。広江一診。石川厚安来一宿。」
「四日。雨。」
「五日。陰。斎木氏青森へ行。当日大病院に而御進撃之砌医局用意之薬種並道具等申合。」
「六日。微陰(すこしくもる)。」

     その三百四十一

 棠軒従軍日記は己巳二月六日に至つてゐた。その青森附近油川村に淹留すること既に百日に垂(なん/\)としてゐる。
「七日。晴。於青森岡田総督不快に付、為見舞可罷越趣堀副督被申渡候。朝より行。藤田子私用にて同行。黄昏帰寓。月賜金二両受取。」堀氏、通称兵左衛門、三十歳。
「八日。雨風(あめかぜ)。夜雪。」
「九日。雨風。」
「十日。晴雪相半(せいせつあひなかばす)。」
「十一日。微晴(すこしはる)。斎木氏青森行一宿。」
「十二日。晴。石川厚安来一宿。」
「十三日。晴。藤田氏新城へ行。」
「十四日。夜来雨。朝より半晴。」
「十五日。風。小雪。」
「十六日。微晴。深瀬祥春来。藤井重次郎来飲。亮碩子来、又飲。」藤井十次郎、軍事方、四十五歳。
「十七日。雪。午後雨。豊田鎌三郎より被招行飲。」豊田は席順に「簿」字の肩書がある。
「十八日。雨風。」
「十九日。晴。風。」
「二十日。微晴。此夕右脇下打撲、痛甚、加之(しかのみならず)咳痰に而平臥。此間文礼子弘前御用行に付、渋江小野両氏尋訪(じんばう)相頼、並に菓子折進物す。生口拡(いくちひろめ)青森行に而前後立寄。」
 二月二十一日より三月六日に至る病臥中の記が闕けてゐる。二月は大であつたから、十六日間である。「此間」以下は十六日間の事を約記したものである。
「三月七日。微晴。夜雨。半愈(はんゆ)に而(て)浴湯。亮碩子来一宿。」車駕の再び京都を発した日である。
「八日。漸晴。」
「九日。陰。夕晴。文礼子青森大病院へ行。広江病人相談也。然処途中面会同道引返。厚安来。夜広江に而飲。同人明日中野屯所へ帰陣。自分同道相達す。」
「十日。晴。夕雨。雷鳴。広江繁三郎附添、且又打撲為養生(やうじやうとして)温泉行御聞済、朝より出立。津軽坂にて午飯。夕七時中野村長谷川総右衛門へ著。終日乗輿。」津軽坂、一名鶴坂、外浜(そとがはま)と内郡(ないぐん)との界である。
「十一日。晴。中野村逗留。」
「十二日。晴。午刻より中野出立。黒石城下通りより浅瀬石村大病院へ立寄一宿。生口生対面。」
「十三日。晴。浅瀬石村より温湯(ぬるゆ)村温泉行。庄屋重次郎へ逗留。生口子より急報来る。左の如し。軍艦青森港へ到著候に付、即刻同所へ可罷越趣。」軍艦とは北征軍艦八隻の内であらう。
「十四日。雨。夕晴。爰許(こゝもと)今朝出馬、黒石通り、中野村迄帰程、様子相尋候処、五七日内には出艦手筈難及由に付、午刻より又々弘前行相催す。藤崎村に而継馬(つぎうま)、夕七半時過弘前城下下土手伊勢屋甚太郎方著、直小野氏尋訪行飲(たづねとぶらひゆきのむ)。」
「十五日。晴。渋江氏へ行飲。午刻より弘前出立、夕七時頃中野村へ著一泊。」渋江氏では抽斎未亡人が棠軒を饗したのである。
「十六日。晴。午刻より中野村発。帰程新城病院へ寄。暮時帰寓。」
「十七日。晴。昨夕より秋月辰三不快に付病院入。」席順に「秋月辰三、廿六」とあつて「箱」字の肩書がある。役後箱館に留まつた印である。
「十八日。雨風。」
「廿日。晴。」
「廿一日。晴。青森御薬用行、夕帰寓。」御薬用は薬物を補充する謂(いひ)であらう。
「廿二日。晴。」
「廿三日。夜来風雨。」
「廿四日。陰。」
「廿五日。晴。」東京より北航して宮古湾に入つた軍艦と武揚等の軍艦と衝突した日である。中根香亭は「朝延大発軍艦北征、我艦要撃之于宮古、敗而還、於是五稜廓為本営、列戦艦於函館港、分遣諸隊於松前江差室蘭、以備敵」と記してゐる。

     その三百四十二

 己巳三月二十五日後の棠軒従軍日記は下(しも)の如くである。
「二十六日。晴。近日梅花及桜桃李椿等漸綻(やうやくほころび)、時気稍覚暖(やゝだんをおぼゆ)。夕刻東京廻り軍艦六艘青森へ入港。」東京廻りとは東京から廻されたと云ふ義であらう。
「二十七日。陰雨。」
「二十八日。晴。厚安子来一宿。」車駕の再び東京に入つた日である。
「二十九日。晴。斎木石川同道青森御薬用行。」
「四月朔日。陰。」
「二日。晴。午後急雨。」
「三日。晴。午後雨。」
「四日。晴。明五日向地(むかひち)へ御進撃相成、御家兵隊三百人御繰出、松前口青木氏手厚安、厚沢辺(あつさはべ)口堀氏手亮碩、熊石村根陣岡田総督手文礼出張被仰付、拙者松軒其儘油川居残。」青木氏通称勘右衛門、後源蔵、二十三歳。堀氏通称兵左衛門、後精一、三十歳。岡田創は前に注してある。
「五日。晴。午後微雨。月給金受取。十二字揃、天富斎木石川出立す。尤(もつとも)青森迄。」
「六日。晴。午後雨。午刻許青森より進撃艦八艘出帆。」
「七日。八日。陰。」
「九日。晴。」此日江刺の戦があつた。下に註する。
「十日。陰。夜四時軍監より御談(おんはなし)左之通。昨九日向地より戦状申越、只今青森表より申来。九日八字官軍音辺(おとべ)へ著。小戦有之、夫より江差之賊徒追撃、厚浅部(あつあさべ)口迄進軍、尤大炮三、玉薬二十四五箱分捕、賊徒一人生捕有之候趣。右に付残兵御都合次第早速御差出に相成も難計(はかりがたく)、兼而(かねて)手筈いたし置候様。」軍監、斎藤甚右衛門、三十八歳。中根香亭は九日の戦を下の如く叙してゐる。「四月九日。敵艦九隻。舳艫相銜至乙部。江差兵来邀戦。敵分兵攻江差取之。我兵聞之。敗入松前。敵又分兵二股木古内。土方歳三拒二股。大鳥圭介拒木古内。戦尤烈。」一戸の記に拠れば江刺の兵は三木軍司の率る所であつた。
「十一日。晴。」一戸の記に拠れば、是日伊庭八郎秀頴(ひでさと)等は江刺を回復せむと欲して果さなかつた。香亭はかう云つてゐる。「先是秀頴率遊撃隊在松前。欲復江差。与諸隊合力。進撃敵根武田。散兵山野大破之。追北数里。敵焼茂草村而走。会本営之令至。二股木古内急矣。当退松前応機援之。乃収兵還松前。」秀頴は伊庭軍兵衛秀業(ひでなり)の長子である。後に星亨を刺した想太郎は秀頴の末弟である。
「十二日。晴。藤田子中野村行一宿。」
「十三日。陰。夕雨。明日残兵御繰出相成可申、尤拙者居残、病人手厚可致旨、松軒出張被仰付。同人中野村より夜半帰寓。」一戸の記に拠れば、官軍と大鳥圭介の兵と再び幾古内(きこない)に戦つた日である。
「十四日。雨。朝五時残兵青森迄出張。」一戸の記に拠れば、是日名古屋、津軽、松前の諸藩兵が土方歳三、古屋作左衛門等の兵と戦つた。伊庭も亦兵を出した。
「十五日。晴。諸藩出張之兵大半青森より乗船渡海之事。御薬用に而青森行。」
「十六日。晴。」一戸の記に拠れば、武揚等は此日再び江刺を復せむとして清部村に至り、春日艦の砲撃を受けて退いた。
「十七日。晴。」官軍の松前を占領した日である。一戸の記にかう云つてある。「官軍海陸より並び進んで松前城に迫る。榎本子の兵退き、折戸に拠る。官軍の別隊山道より折戸の後方に出でて夾撃す。榎本子の兵敗る。官艦は松前を砲撃す。榎本軍弾丸尽き、却いて福島一渡尻内幾古内等を保有す。」(節録。)香亭の云ふを聞くに、官兵の折戸を迂回した時、岡田斧吉、本山小太郎が戦死した。「秀頴聞小太郎死。歎曰。余今而始失一臂矣。」
「十八日。晴。昨十七日昼九時松前落城之吉報有之候由。」
「十九日。陰。」香亭の云ふを聞くに、是日官軍が伊庭の福島の営を襲つた。伊庭は肩と腹とを傷けられた。「遠近要害。概為敵有。我水陸兵力漸蹙。所保五稜廓及辨天千代岡二砲□而已。」
「廿日。晴。」
「廿一日。微雨。」
「廿二日。雨。」
「廿三日。陰。」一戸の記に、「春日東二艦矢不来富川の陣を砲撃し、別に二股をも攻」むと云つてある。
「廿四日。晴。」
「廿五日。微雨。」一戸の記にかう云つてある。「東春日長陽陽春丁卯の五艦函館港に向ふ。榎本子等回天蟠竜千代田三艦を以て迎へ戦ふ。榎本子等の艦佯り退く。官艦追撃す。辨天砲台の弾丸雨注す。官艦退く。」(節録。)
「廿六日。陰雨。」武揚等の兵の矢不来(やふらい)に敗れて、五稜廓に退いた日である。
「廿七日。陰。朝より青森御薬用行。」
「廿八日。陰。」
「廿九日。晴。」
「五月朔日。晴。入梅。」
「二日。晴。」一戸の記に云く。「官軍七重浜及大野邑に進む。榎本の軍夜七重浜を襲ふ。官軍追分に退く。」(節録。)
「三日。陰。夕雨。」一戸の記に拠るに、武揚等の兵が官軍を大野に夜襲して克(か)たなかつた日である。
「四日。雨。病院新兵衛方より菊重(きくぢゆう)方へ再移転。」両軍艦隊の箱館港に戦つた日である。夜森本弘策が千代田を坐礁せしめた。
「五日。雨。」両軍艦隊の大森浜に戦ひ、官兵の大川村を占領した日である。
「六日。雨。去廿九日木子内(きこない)及二股(ふたまた)之賊敗走、官軍大野有川迄進撃相成候由。」
「七日。漸晴。」武揚等の艦隊中蟠竜回天の二艦が機関を毀(そこな)つた。
「十一日。晴。午刻より中野村行。広江氏不快に付て也。一宿。途中津軽坂聴子規(ほとゝぎすをきく)。」是日武揚等は遂に自ら諸艦を焚(や)いた。
「十二日。陰。夕微雨。朝飯後中野村出立。途中落馬、左脇打撲。午後帰寓。」是日官軍が五稜廓を砲撃した。香亭の文に曰く。「甲鉄艦発大□。撃五稜廓。屋瓦尽振。将士多死。秀頴在蓐。毎聞砲声。欲起而仆。創滋劇。遂絶。年二十七。」
「十三日。晴。去十日より箱館府戦争有之、賊徒敗走、軍艦に而も戦争有之、是亦官軍大勝利。松軒子之書状安野呂(あのろ)より来る。」

     その三百四十三

 棠軒従軍日記の己巳五月十三日後の文は下(しも)の如くである。
「十四日。朝陰(くもる)。午後晴。昨日当藩医師芳賀玄仲来。御旗向地(むかひち)へ御廻しに相成、江木軽部等近日渡海之事。」当藩は津軽である。旗を向地に廻すとは岡田総督の彼岸に航する謂(いひ)であらう。江木氏、繁太郎。軽部氏、半左衛門、四十五歳。
「十五日。陰。午後晴。御勝手方中野村引払、当所本陣へ転陣。」岡田航赴(かうふ)の準備である。一戸の記に拠れば、是日辨天砲台の戌兵降り、官軍の将校田島敬蔵、中山良三相次いで武揚に降を勧めた。武揚はこれを斥(しりぞ)け中山に託して「万国海律全書」二巻を官軍に贈つた。兵卒の逃れ去るもの踵(くびす)を接した。
「十六日。晴。月給金二両受取。」一戸の記に拠れば、是日来島(くるしま)頼三の隊が千代岡(ちよがをか)を攻撃し、大鳥圭介等退いて五稜廓に入つた。官軍の参謀黒田清隆(きよたか)は海律全書を受けて、酒五樽を武揚に贈つた。
「十七日。朝陰。午後晴。風。今夜四時御旗向地へ御渡海之事。」一戸の記に拠れば、田島敬三は是日再び往いて武揚を説いた。武揚は遂に黒田了介、中山良三と千代岡に会見して開城を約した。
「十八日。陰。風。小雨。近日軽寒、稍与二月気候相似(やゝにぐわつのきこうとあひにたり)。」一戸の記に拠れば、武揚は是日松平太郎、荒井郁之助、大鳥圭介等と与に出でて降つた。前田雅楽(うた)は兵二小隊を率(ひきゐ)て廓に入り、兵器軍糧の授受に任じた。砲二十門、銃千六百挺、米五百俵である。将卒の降るもの千余人であつた。武揚は天保七年八月二十五日に生れた。一戸が文久元年二十七歳にして和蘭に留学したと云ふを見れば、一年の違算がある。二十七歳は二十六歳の誤であらう。戊辰の年には武揚は三十三歳であつた。
「十九日。微雨。午後晴。廿日。廿一日。晴。向地敵軍去(さんぬる)十七日愈降伏、箱館府御平治相成候に付、残御人数及輜重一切渡海可致旨。尤病人三人(秋月辰三、小山忠三郎及人夫富五郎)戦事手負大病院へ御預に相成。為纏(まとめのため)磯貫一郎、藤田松軒御差越しに相成候。」十七日は武揚等の開城を約した日である。小山忠三郎は周旋方である。其他は上(かみ)に注してある。
「廿二日。陰。夜微雨。早朝油川菊重方出立。青森辰巳屋へ一旦著、大病院へ三人之病者頼行。其後往吉屋藤右衛門へ落着。風波悪敷(あしく)、船不出帆。」
「廿三日。晴。午後雨。午後八時青森港出帆、夜五時過箱館著船。」
「廿四日。微雨。朝上陸。大病院下宿和島屋某へ著。本藩兵隊東京府迄引揚可申旨。尤明朝十字乗船之事。斎藤勘兵衛、河野乾二(けんじ)、生口拡(いくちひろめ)病者為纏居残被仰付。」斎藤勘兵衛、二十七歳。席順に「撃小長」の肩書がある。鷹撃隊小隊長の略ださうである。河野乾二「軍事方」の肩書がある。
「廿五日。晴。後微雨。朝十字英船アラビアン乗船。夕四字箱館港出帆。」
「廿六日。雨。廿七日。午後晴。廿八日。晴。夜十一字横浜港迄著船。無程出帆。」
「廿九日。晴。朝四時頃品川著船。鮫津川崎屋へ上陸。夫々分散。病院は脇本陣広島屋太兵衛へ落著。御上(おんかみ)当時御在府に而、一統へ御意有之並に為陣服料(ぢんふくれうとして)金三両宛(づつ)被成下(なしくださる)。尤典式伊木市十郎御使者也。」席順には「典式伊木市左衛門、三十八」と云つてある。
「六月朔日。微雨。従天朝(てんてうより)一同へ御酒御肴被下置。午刻より長谷寺(ちやうこくじ)、祥雲寺参詣。」
「二日。雨。於丸山邸岡田総督始夫卒迄御酒御吸物被成下。於福山当二月紋次郎痘死之由。」棠軒は始て二子紋次郎の死を聞知したのである。紋次郎は二歳にして夭した。
「三日。四日。雨。五日。陰。夜又雨。大殿様より一同へ御酒御肴被成下。当所かまや川崎や両所に而開宴。」大殿は四代前の正寧(まさやす)である。
「六日。雨。七日。陰。夕雨。午後二字大坂艦乗組延引。」
「八日。雨。午後漸晴。朝五時過大坂艦乗組、十字品川浦出帆。岡田総督御用に而、堀副督修業被願、青木氏薄手負に付、斎木文礼御用有之逗留。」青木氏、勘右衛門。
「九日。晴。午後微雨。艦中。十日。晴。夕七時半過鞆津(とものつ)着船上陸。善行寺(ぜんぎやうじ)一泊。」
「十一日。晴。朝五半時鞆津出立。水呑(みのみ)村昼食。安石、吟平迎。地引(ぢびき)より総隊行列午後八半時着。鉄御門前へ一等官御出迎。夫より御宮拝礼、神酒頂戴之上引取。」安石は飯田安石である。吟平は辛未の日録に見えてゐる榎本吟平か。

     その三百四十四

 棠軒は戊辰九月二十一日に福山を発して北征の軍に従ひ、己巳六月十一日に還つた。わたくしは当時これを郷里に迎へた人々を検して見ようとおもふ。先づ飯田安石が中途に出迎へたことは既に言つた。次に家に帰つた日に来り賀したものは、「元民、玄昌、玄高、養竹、養真、養玄、泰安、菊庵、立造、玄察、金左衛門、洞谷、理安、策、恒三、雄之介、祐道、勘兵衛、桑名屋、豊七等」と書してある。翌日の客中より重出者を除けば、「東安、銑三郎、高山、」「孫太郎、顕太郎、安貞」がある。其次の日の客に「成安、全八郎」、「貞白」、「平蔵」がある。
 此中桑名屋、豊七の二人は、安石と倶に出迎へた吟平と同じく、出入商人若くは厠役(しえき)の類(たぐひ)であらう。今文書に就いて其他のものを挙げる。元民は「九人扶持、准、皆川元民、三十七、」玄昌は「八人扶持、准、成田玄昌、二十六、」玄高は門人「成田竜玄次男玄高、」養竹は「十人扶持、御足八人扶持、医、森養竹、六十四、」養真は「五十俵、森養真、三十五、」養玄は「十三人扶持、書教授試補、岡西養玄改待蔵、三十一、」泰安は「十人扶持、御足十人扶持、医、鼓泰安、五十九、」菊庵は「十人扶持、御足五人扶持、医、鼓菊庵、五十四、」立造(りふざう)は「十人扶持、御足三人扶持、執、松尾立造、三十九、」玄察は「十人扶持、御足三人扶持、補、谷本玄察、四十、」金左衛門は「百四十石八十俵、内、藤田金左衛門、三十五、」若くは「百三十石、御宮掛、大林金左衛門、四十七、」洞谷は「十三人扶持、吉田洞谷、四十二、」理安(りあん)は「八人扶持、准、村上理庵、四十三、」策(さく)は「九人扶持、御足三人扶持、准、市岡策、四十二、」恒三は「九人扶持、桑田恒庵改恒介、六十、」若くは其子、雄之介は「五十俵、市令、内田雄之介、四十五、」祐道は「医、横田祐道、」勘兵衛は「十八俵、渡辺勘兵衛、三十一、」東安は「十八人扶持、医、三好東安、四十九、」銑三郎は「五十俵、大森銑三郎、三十、」高山(たかやま)は「二百二十石、高山郷作、三十一、」孫太郎は「五十俵、三富孫太郎、二十八、」顕太郎は門人「町医師、柳井顕太郎、」安貞は「二十俵二人扶持、前田安貞、三十二、」成安は「十二石二人扶持、医、三好成安、二十三、」全八郎は「十四石三人扶持、御料理人頭、上原全八郎、五十七、」貞白は「十人扶持、御足四人扶持、補、石川貞白、五十九、」平蔵は「村片平蔵、二十七」であらう。此中疑ふべきものがあるが、煩を避けて細論しない。戊辰席順の年齢は一年を加へた。肩書の省文中にはわたくしが自ら解せずして、漫然抄写したものが二三ある。
 わたくしは最も注意すべき人物として、養竹立之、養真約之の森氏父子及岡西養玄を表出し、又伊沢分家に縁故最深き人物として、石川貞白及上原全八郎を指点し、此に賀客の記を終へようとおもふ。飯田安石の棠軒養母の所生なることは、重て註することを須(もち)ゐぬであらう。
 棠軒は凱旋の月十四日に藩の「医官」を拝した。是は早く三月二十五日に、同班のものと共に命ぜられたが、出征間であつたので、此に至つて始て命を領したのである。六月十四日には、棠軒が偶(たま/\)目を病んでゐたので、森枳園が代つて登衙した。事は棠軒公私略と函楯軍行日録とに重見してゐる。只前者が目疾の事を言はぬだけである。
 按ずるに此任命は制度の変更より生じた形式に過ぎなかつたであらう。何故と云ふに、事実に於て医官たることは既に久しかつたからである。
 中一日を隔てて六月十六日に、棠軒は世禄の命を拝した。是も亦早く前年戊辰の冬に命ぜられたのである。「伊沢春安。其方儀是迄被下置候禄高之内五十石世禄に被仰付、其余は御足高に被仰付候。」公私略と軍行日録とが同文である。

     その三百四十五

 棠軒は北征より還つて後、日記の筆を絶たなかつた。軍行日録の余紙ある限はこれを用ゐて稿を継ぎ、その尽くるに及んで別に「棠軒日録」二巻を作つた。棠軒の日記は軍行日録より以下凡三巻ある。わたくしは此より後、材を棠軒公私略と棠軒日録とに取ることとする。
 上文は己巳六月十四日に棠軒が藩の医官を拝するに終つた。わたくしは先づ其後の日記中より目に留まつた件々を抄出する。
「廿七日。(六月。)晴。江木老人来。」是は鰐水が戦後初度の来訪であつたらしい。日記に見えてゐる森枳園父子、岡西養玄の往来の如きは此に抄せない。其往来殆虚日なきが故である。養玄は嘗て一たび柏(かえ)の所生の女(ぢよ)梅を娶(めと)つて、後にこれを出したものである。然るに伊沢岡西二家の人々は殆細故(さいこ)意に介するに足らずとなすものの如くである。推するに是は人材を重んずる蘭軒の遺風に出づるものであつたらしい。養玄は後の岡寛斎である。
「廿九日。陰。去(さんぬる)十七日於東京府殿様福山藩知事被為蒙仰候(おほせをかうむらせられそろ)に付、右為御祝儀(ごしうぎとして)御帳可罷出之処、当病不参。」阿部正桓(まさたけ)が藩主より藩知事に更任せられたのである。後七夕(せき)の条に「当日御祝儀御帳出勤」と記してある。
 七月九日に棠軒は深津郡(ふかづごほり)吉津村に移住せむことを請うて允(ゆる)された。按ずるに棠軒は早く前年戊辰八月九日に吉津村に移つた。此に謂ふ「移住」は其地を永住の所とする意であらう。福山県には是より先甲子の歳に屋敷割の事があつたので、棠軒は同班と連署して下(しも)の願書を呈した。「元治元年甲子歳。屋敷拝領被仰付候様被仰出候に付、私共業柄之事故、町場近き屋敷拝領仕度奉内願候以上。五月廿九日。成田竜玄。伊沢春安。石川貞白。」棠軒は今此「拝領屋敷」として吉津村の地を乞ひ得たのであらう。日録に云く。「九日。(七月。)晴。午後驟雨。月番中に付、以養真内願差出如左。口上之覚。私儀御領分深津郡吉津村え在宅仕度奉内願候以上。七月九日。伊沢春安。右鼠半切相認中折半分上包。右即刻内願之通勝手次第被仰渡候旨、督事官吉左衛門殿、造酒之丞殿被申談候由、養真より申来る。」吉左衛門は三浦氏、三十歳。造酒之丞(みきのじよう)は渡辺氏、年齢不詳。
 同じ日(七月九日)の記に猶「岡より被招、洞谷同道行飲」の文があつてわたくしの目を惹いた。岡西養玄は蚤(はや)く此時岡氏に改めてゐたらしい。己巳席順に養玄の右傍(いうばう)に「待蔵」と註したのを見るに、啻(たゞ)に縦線を以て養玄の二字を抹してゐるのみならず、線は上(かみ)「西」字にも及んでゐる。按ずるに岡西養玄は己巳に一たび岡待蔵と称し、次で岡寛斎と改めたのである。洞谷は画師吉田氏で、上(かみ)にも見えてゐる。
「十一日。(七月。)晴。吉津へ行、家作大工に為積(つもらす)。飯島金五郎引請に而、銀札三貫目、月一歩二之利足を加へ、当暮迄借用、養竹証人也。」当時の銀相場金一両銀十八匁を以てすれば、三貫目は百六十六両余である。是が関西地方当時の家屋建築費である。しかしわたくしは此の如き計算に慣れぬから、此数字には誤なきを保し難い。

     その三百四十六

 棠軒日録己巳七月の条には、次に冢子(ちようし)平安の教育の事が見えてゐる。「十二日。(七月。)晴。馬場に行。平安誠之館稽古一件頼。」馬場保之助は此年の席順第五等席に載せてあつて、「教授」の肩書がある。平安は今の徳(めぐむ)さんで、当時十歳であつた。
 次に日録に始て意篤(いとく)と云ふものの来訪が書してある。「十五日。雨。意篤来。」按ずるに川村意得重善(しげよし)の子、長を重監(しげあき)と云ひ、仲を新助退(しんすけたい)と云ひ、季を敬蔵重文(けいざうしげぶみ)と云ふ。重文の妹天留(てる)の夫が意篤重貞(しげさだ)、重貞の子が重固(しげかた)である。退、字(あざな)は進之(しんし)、悔堂と号す。霞亭北条譲の養嗣子である。蘭軒と霞亭との親善であつたことは上(かみ)に見えてゐる。今此文に由つて、蘭軒の養孫棠軒と霞亭の養子悔堂の妹婿(いもうとむこ)との交際が証せられるのである。意篤は己巳六十二歳であつた。以下意篤との往来は省く。
「十七日。陰(くもる)。普請取掛延引、明日より相始。」深津郡吉津村の構築である。
「十八日。陰。平安誠之館へ今日より出す。尤手跡学問共。」嫡子の就学である。
「廿三日。午後雨。高束(たかつか)に行。お長縁談の一件御奥御都合承合(うけたまはりあはせ)。」棠軒の女長は当時十六歳であつた。此文より推せば、長は阿部家の奥に仕へてゐたのに、これを娶(めと)らむと欲するものがあつて、棠軒は長がために暇を乞はうとしてゐたのではなからうか。高束応助は己巳六十四歳であつた。阿部家奥向の事を管してゐたものか。
「廿五日。晴。馬屋原(まいばら)、上原、石川へ寄、吉津見廻り。」馬屋原玄益は席順に拠るに己巳三十八歳で、生年は天保三年である。蘭軒の詩を贈つた成美伯好(せいびはくかう)の子で、当時江戸にあつたものと推せられる。棠軒は其留守宅を訪うたのである。
「廿六日。雨。昨日箱館残り御人数帰著。岡田、斎藤、青木在其内。有祝行。家作料三貫目被成下、会計局より受取。」北征の時の総督岡田創以下が前日福山に還つたのである。吉津村構築の費用は阿部家より給せられて、棠軒は債を償ふことを得た。
「廿九日。晴。殿様於東京天杯御頂戴被為蒙仰候(おほせをかうむらせられそろ)御祝儀五時より四時迄之内出仕御帳有之。」阿部正桓(まさたけ)の朝恩を蒙つたのを賀するのである。
「九日。(八月。)晴。吉辰に付普請場へ引移。引越御達(おんとゞけ)月番へ差出す。」吉津村の新居に移つたのである。手伝人中に飯田安石夫妻、森養真、岡待蔵等の名がある。公私略の文は日録と同じである。
「十四日。雨。殿様御帰藩被遊候に付、朝五半時揃総出仕、午刻御著。馬屋原、内野御供。」阿部正桓が福山に還つたのである。馬屋原の事は上(かみ)に註した。内田亦医官である。席順に「八人扶持、補、内田養三、三十六」と云つてある。
「十九日。晴。当直。当春より殿直(でんちよく)に不及、宅心得に相成。尤他出無用。当朝拝診可罷出之事。」棠軒勤仕の状況を見るべきである。
「廿一日。晴。石川大夫へ行。過日帰著に付。」藤陰成章(とういんせいしやう)であらう。己巳席順に「二百石、御足百石、上議員、関藤文兵衛、六十三」と云つてある。藤陰舎遺稿に拠るに、藤陰は此年正月東京に往つた。又東京を発する前不争斎正寧(ふさうさいまさやす)が宴を本所石原邸に賜うた。家乗には「七月廿一日東京発、八月十八日福山著、廿四日執政を罷め、波平行安作刀一振を賜ふ」と云つてある。
「三日。(九月。)晴。渡辺省診。文兵衛殿へ寄一診。」棠軒は渡辺氏を往診する次(ついで)に、藤陰の病を診した。渡辺氏の事は是より先八月十日の条に、「渡辺母公不快之由申来、午後見舞行」と云つてある。その「母公」と云ふより見れば、病者は席順の「大監察、渡辺造酒丞、五十七」の母であらう。藤陰は東京より帰つた直後に病んだと見える。

     その三百四十七

 わたくしは棠軒日録己巳九月の条を続抄する。
「廿二日。(九月。)晴。三沢順民(みさはじゆんみん)病死之由申来。養玄同道悔行(くやみにゆく)。」三沢は己巳席順に「十人扶持、准、三沢順民、廿九」と云つてある。その壮年にして歿したことを知るべきである。蘭軒と菅茶山との往復に見えた玄閑の後で、蘭医方に転じたと云ふは此人か。棠軒は寛斎と共に往いて弔した。
「廿五日。晴。去冬箱館戦争為御褒美、今般知事様へ永世六千石下賜趣、右為御祝儀御帳罷出候。」禄を阿部正桓に賜はつたのである。
「二日。(十月。)晴。文兵衛殿省診。」二たび関藤藤陰を往診したのである。
「十九日。徳児携手(とくじをたづさへて)城浦(しろうら)より釣舟遊行。」冢子(ちようし)平安の徳(めぐむ)と改称したことが始て此に見えてゐる。
「廿日。晴。関藤へ行。」此訪問は病を診せむがためなりや否やを知らない。関藤氏の家乗に拠れば、藤陰は戊辰十二月三日に本姓に復し、中岡才助に石川氏を譲つたのだと云ふ。才助は後の陸軍歩兵大尉石塚敬儀(よしのり)である。原来棠軒日録には殆日ごとに「石川へ行」、「石川へ寄」等の文がある。是は石川貞白である。そして事の藤陰に係るものは、初より必ず石川大夫若くは文兵衛殿と書してあつた。わたくしは読んで此に至つて始て関藤の文字に逢著したのである。
「廿一日。晴。徳児携へ角力見物。陣幕土俵入並五人掛り有之。」陣幕久五郎が技を福山に演じたのである。
「廿二日。晴。」是日棠軒の訪問した六家の中に、又関藤がある。第四次の往診である。
「廿七日。晴。御隠居様御不快被為入(ごふくわいにいらせられ)御容体書於御家従詰所拝見。養竹為御見舞(おんみまひとして)東京へ早打に而被遣候旨。右に付同家へ行。」阿部正寧(まさやす)が東京石原邸に於て病んだ。森枳園が問候のために東京へ急行した。棠軒はこれを聞いて家従詰所に往き、老侯の病況書を閲(けみ)し、後森氏を訪うたのである。下(しも)に枳園発程の記事のないのを見れば、枳園は此日に福山を発したものと見える。枳園は時に年六十四であつた。
「十三日。(十一月。)夜来雨。」棠軒の此日に訪うた三家の中に「真野」がある。己巳席順に「八十俵、真野兵助、五十」と云つてある。蘭軒に交つた竹亭頼恭(ちくていよりゆき)には孫、陶後頼寛(たうごよりひろ)には子で、名は頼直(よりなほ)、小字(をさなな)松三郎、竹陶と号した。今の幸作さんの父である。
「十八日。晴。三沢礼介家督被仰付。右祝行飲(いはひにゆきのむ)。」礼介は順民(じゆんみん)の後を襲(つ)いだのであらう。
「廿三日。晴。大殿様為御看病東京へ御発駕被遊候に付、為御機嫌伺朝六時出勤。五半時過早打に而御出被遊候。立造(りふざう)御供。」正寧の病を瞻(み)んがために、正桓が東京へ急行した。随行の医官は松尾立造であつた。
「廿四日。晴。」是日棠軒の歴訪した五家の中に又関藤がある。第五次の往診か。
「七日。(十二月。)晴。柏(かえ)他行(たぎやう)。」曾能子刀自の未だ名を更めてをらぬことが知られる。
「十一日。陰。三沢玄閑一周忌に付観音寺仏参。」此玄閑は恐くは順民の父、礼介の祖父であらう。戊辰十二月十一日に歿して、観音寺に葬られたと見える。
「十四日。晴。狩谷より書状到来。」当時□斎望之の養孫にして、懐之の養子なる矩之が二十七歳であつた。矩之は維新後明治五六年頃に至るまで津軽家の本所横川邸に□居してゐたさうである。書状は或は此家に移つた後に発したものか。
「廿八日。晴。屠蘇献上。」屠蘇を上(たてまつ)る家例は未だ廃せられずにゐる。
 此年棠軒三十六、妻柏三十五、子徳十一、女長十六、良十四、磐安二十一、平三郎九つ、孫祐七つ、姉国二十六、安十八、柏軒の妾春四十五であつた。

     その三百四十八

 明治三年は蘭軒歿後第四十一年である。棠軒は歳を福山に迎へた。藩主阿部正桓は四代前の不争斎正寧の病を瞻(み)むがために、東京に淹留してゐた。「正月元日。晴。夕微雨。御留守中に付、御祝儀御帳罷出。」
「二日。晴。江木老人、洞谷、養玄来飲。」江木鰐水は既に六十一歳になつてゐた。
「十日。晴。」来客四人中に「兵治(ひやうぢ)」がある。己巳席順一本に「真野兵治」がある。竹陶兵助が改称したのではなからうか。
「十七日。晴。御上(おんかみ)東京より御帰藩被遊候に付、四半時平服に而出仕。松尾へ寄。同人御供に而帰著に付。」正桓と医官松尾立造(りふざう)とが福山に還つたのである。
「廿三日。晴。月番意篤(いとく)より通用。御隠居様御不快為御看病東京府出府被仰付。尤養竹交代、支度出来次第之旨。」河村意篤が正桓の命を伝へ、棠軒をして森枳園と交代して東京に赴き、正寧に侍せしむることとなつたのである。公私略に同文の記がある。
「廿七日。微雨。午後晴。」是日棠軒の往訪した七家の中に関藤がある。想ふに藤陰の病は既に愈(い)えてゐたのであらう。以下関藤氏との往反は故あるにあらざる限は復抄せぬこととする。
「廿九日。晴。明日乗船に付、御暇乞に出。」将に福山を発して東京に向はむとするのである。「お長三夜之御暇被下下宿。」わたくしは前に棠軒の女長は阿部家の奥に勤めてゐるらしいと云つたが、果してさうであつた。是日の記に来客二十一人の名があつて、中に「藤陰翁」がある。関藤氏の号は日録には始て此に見えてゐる。
「二月朔日。晴。出帆之処船都合に而延引。」
「三日。晴。お長御広敷(おんひろしき)へ上る。」広敷は奥向、台所向を通じて称へた語である。三夜の暇は此に果てた。「明日愈乗船治定。」
「四日。晴。乗船の積に付、飯田に而相待。明日に延引に付、一先帰宅。」
「五日。晴。今夜鞆喜(ともき)一六船へ乗船に治定。夜四半時出宅。八時頃乗組出帆。御貸人中間(おんかしびとちゆうげん)治三郎召連、両掛(りやうがけ)一荷、主従夜具持込。此夜手城(てしろ)沖碇泊。」送つて埠頭に至つたものの名は省く。
「十日。晴。風。兵庫著、夜半入津(にふしん)。」
「十六日。晴。午前米国紐育船著津。明日右船へ乗組出帆之事。船賃二人分洋銀二十枚、此代金札二十二両、外に三歩手数料。」洋銀相場並に船賃を知らむがために抄したのである。
「十七日。陰。午後雨。夕七時乗組。」
「十八日。晴。暁七時過神戸港出帆。」
「十九日。晴。午時横浜港へ著船。夕七時前小舟一艘借切、品海(ひんかい)迄乗船。夜九時前品川石泉(いしせん)へ著、一宿す。」
「廿日。晴。朝五時石泉より乗船、永代橋迄、又同所より乗替、石原御屋敷へ四時過著船。森、三好在番部屋へ落着、御附御家従へ罷出。午後丸山邸へ御屈行、津山にて飲。」以上明治初年福山東京間の旅程を見るべきである。公私略は但発著を記して、途次の事を載せない。三好氏は通称東安、枳園と共に正寧に侍してゐたのである。津山氏の事は下(しも)に記す。

     その三百四十九

 上(かみ)に記するが如く、庚午二月二十日に棠軒は東京本所石原の阿部家別邸に著き、丸山本邸へ届けに往き、先づ津山氏を訪うた。津山氏は三年の後に棠軒の女長の嫁すべき家である。
 津山氏当時の主人を英琢(えいたく)と云ふ。戊辰席順に「表御医師無足、十二人扶持、津山英琢、二十九」と云つてある。庚午には三十一歳になつてゐた。棠軒より少(わか)きこと六歳である。棠軒が遠く福山より来て、先づ其家を訪うたのを見れば、恐らくは親しき友であらう。是が後に棠軒の女婿となるべき碧山(へきざん)である。
 碧山英琢の家には、当時七十四歳の老父忠琢成器(ちゆうたくせいき)が猶堂にあつた。忠琢は本伊藤氏、寛政九年に上総国市原郡高根村に生れた。父を義勝(よしかつ)と云ふ。五十川□堂(いかがはじんだう)の撰んだ墓誌に、「諱義勝第二子、幼孤、長来江戸、従樗園杉本翁学医、業成、嗣福山侯侍医津山氏、既而名声大起、累得俸廿五口」と云つてある。忠琢は福山の津山氏の養子となつたのである。其師杉本氏樗園(ちよゑん)、名は良(りやう)、字(あざな)は仲温(ちゆうをん)、一字(じ)は子敬(しけい)である。池田錦橋と親しく交り、その歿するに及んで墓表を撰み、廃嫡の子京水を憐んで交を渝(か)へなかつたのは即此人である。わたくしは後に安積艮斎(あさかごんさい)の樗園の平生を記したのを見た。樗園と艮斎とは、少時同く柔術を松宮柳囿(りういう)に学び、昵(したし)むこと兄弟の如くであつた。艮斎は樗園の事を叙して、「君有膂力、技亦抜群、雖□顱依様、而髪五分、以示勇猛状、時或酔後夜行、途次往々顛□人以為快」と云つてゐる。後二人は相約して志を立て、節を折つて書を読んだのださうである。わたくしはこれを読んで、京水が否運に遭つた時、樗園の義侠に負ふ所のあつたことを想見する。又中根香亭の記する所を見るに、樗園は善く琴(きん)を鼓した。其伝統は僧心越、杉浦琴川、幸田親益(しんえき)、宿谷空々(しゆくだにくう/\)、新楽閑叟(しんがくかんそう)、杉本樗園である。今樗園が碧山の父の師たるを言ふに当つて、聊(いさゝか)前記の及ばざる所を補つて置く。
 さて碧山の父忠琢を養つて子とした所謂「福山侯侍医津山氏」とは誰か。福田氏はその長子刀自に聞く所のものを書して、特にわたくしに寄せてくれた。津山宗伯、名は義篤(よしあつ)、初厚伯(こうはく)と称した。宝暦五年の生である。幕府の医官山崎宗運に師事し、宗字を贈られて宗伯と改めたと云ふ。按ずるに宗運は宗円ではなからうか。明和武鑑に「寄合医師、二百俵、元誓願寺、山崎宗円」がある。宗伯は阿部正倫(まさとも)に仕へて、三たび駕に随つて福山に赴いた。菅茶山とは親善であつたと云ふ。茶山より少(わか)きこと七歳、蘭軒の父信階(のぶしな)より少きこと十一歳であつた。宗伯は相貌魁梧で、克(よ)く九十余歳の寿を保つたさうである。是が碧山の養祖父である。
 碧山の父忠琢は養父宗伯の後を承けて阿部家の侍医となつた。□堂が「歴事六公」と書してゐる。六公とは正精、正寧、正弘、正教、正方、正桓であらう。然らば忠琢は蚤(はや)く十五歳許(きよ)にして正精に仕へたものと見える。正精の死は文化九年忠琢十六歳の時に於てしたからである。
 忠琢は帰山(かへりやま)氏を娶(めと)つて四子六女を挙げた。長男伊之助の生れたのは、文政九年忠琢三十歳の時である。伊之助、名は義淳(よしあつ)、後義方(よしかた)と改めた。経を安積艮斎に学び、又筆札を善くし、章斎と号した。僧となつて越後国蒲原郡見附在小栗山村真言宗不動院に住し、明治二年二月十三日に父に先(さきだ)つて寂した。時に年四十四。棠軒の碧山を東京に訪うた前年である。是が碧山の長兄である。

     その三百五十

 わたくしは津山碧山の家世を略叙して、祖父宗伯義篤、父忠琢成器、長兄章斎義方の名を挙げた。章斎には安積艮斎の手批(しゆひ)を経た詩稿が家に蔵してある。わたくしは其詩を録せずに、中に見えてゐる応酬の人物を抄出する。先づ諸侯には柳川侯があつて、章斎は其如意亭に遊ぶこと数次であつた。柳川侯は立花鑑寛(あきひろ)である。士人には小島成斎、岡西玄亭、皆川順庵、今川某、児島某、杉本望雲、岡田徳夫(とくふ)、河添原泉(かはぞへげんせん)、中耕斎、玉置(たまき)季吉があり、僧侶には鳳誉、渓巌、綜雲がある。又師艮斎の家に往つて作つた詩、佐藤一斎の筆蹟の後に題した詩もある。
 章斎に次で生れた忠琢の次男宗琢は、十七歳にして早世した。碧山の仲兄である。
 次で天保十一年に碧山が生れた。小字(をさなな)は英三郎、中ごろ行三(かうざう)、後英琢と称した。忠琢四十四歳の時の子で、その生れた時章斎は十五歳であつた。宗琢は何歳であつたか不詳である。
 碧山は幼時句読を庄原文助に受けた。後経を安積艮斎、海保漁村に学び、説文を岡本况斎に学び、又筆札を小島成斎に学んだ。
 庚午二月二十日に三十七歳の棠軒が、七十四歳の忠琢と三十一歳の碧山とに会したことは既に云つた如くである。わたくしは此より棠軒日録を続抄する。
「廿一日。晴。大君初而拝診被仰付。」大君は不争斎正寧である。
「廿二日。晴。番入。以来隔日当番可相勤旨。養竹出府御免、支度出来次第帰藩被仰付。伊東大典医伺に罷出、初而面謁す。」枳園養竹は棠軒の来りしが故に福山に帰ることを許された。伊東大典医は冲斎玄樸であらう。名は淵(えん)、字(あざな)は伯寿、本御厩(みうまや)氏、肥前の人である。蘭医方をジイボルドに受けた。幕府は安政五年に冲斎等を挙げ用ゐるに及んで、前(さき)に阿部正弘が老中たる時に下した禁令を廃したさうである。事は松尾香草の近世名医伝に見えてゐる。冲斎は庚午の年に七十一歳になつてゐた。
「廿三日。晴。風。養竹当分之内御差留被仰付。同人同道団坂蕎店(だんはんけうてん)に而(て)飲(のむ)。」枳園は一旦福山に帰ることを許されたのに、又抑留せられた。団坂蕎店は団子坂の藪蕎麦である。
「五日。(三月。)雨。森同道狩谷へ行飲。当時弘前邸内屋敷住居なり。」狩谷矩之が当時既に本所横川邸に移つてゐたことが、此に由つて証せられる。
「十二日。陰。午後微晴(すこしはる)。森氏御用相済近日帰藩可致旨被仰付。」
「十六日。微雨。森氏午後当邸を出立帰藩之事。」枳園が方纔(はうざん)江戸を発したのである。
「晦日(つごもり)。雨。御扶持受取、五人半扶持、米八斗二升五合、代金九両三分銭一貫八百九十三匁、雑用代金一分二朱。」此文と前日の「御内々月給金五両受取」と云ふ文とを合せ考へて、阿部家の棠軒に対する待遇を知るべきである。前日の文は特に抄せずに置いた。
「六日。(四月。)陰。静岡分家より書状到来、去月三日井戸妙(ゐどたへ)女病死之旨申来。」蘭軒の女長の夫井戸応助に子勘一郎と女(むすめ)二人とがあつて、後者中姉は関根氏に嫁し、妹は徳安の許にゐたことが文久三年の徳安の親類書に見えてゐる。妙は此妹か。然らば当時徳安改磐安の一家は静岡に徙(うつ)つてゐたのであらう。是より先「駿州分家」の語は既に日録に見えてゐた。

     その三百五十一

 わたくしは棠軒日録を抄して既に庚午四月六日に至つてゐた。此より其稿を続ぐ。
「十五日。晴。今川橋大久保に行。」蘭軒の父信階(のぶしな)の養母にして信政の妻であつた伊佐の生家、菓子商大久保主水(もんど)は庚午の歳に猶店を今川橋に持続してゐて、棠軒は当時の主水と往来してゐたのである。是日棠軒は福山の家人の書を得た。書は「三月十九日出」であつた。福山の書信が東京に達したのは二十六日後であつた。わたくしはその余りに遅きに驚いたが、是は異例であつた。後には四月廿二日に福山を発した書が五月朔(さく)に達してゐる。即ち八日後である。
「十一日。(五月。)夕雨。知事様御事去(さんぬ)る五日福山表御発船被遊、昨夕丸山邸へ御著被遊候。」阿部正桓(まさたけ)の入京である。後三日、十四日に「御上大君為御機嫌御伺御出被遊候」の文がある。正寧(まさやす)を石原に省したのである。
「七日。(六月。)微晴。権少参事村上半蔵より申来(まうしきたる)如左(さのごとし)。然者(しかれば)貴様儀御隠居様御不快為御看病出府被仰付候処、更に在番被仰付候旨、創殿(はじむどの)被仰渡候間、御談(おんだんじ)申候、以上。六月七日。尚々御隠居様御看病之儀、三好東安同様申合御介抱申上候様被仰付候。」棠軒の逗留が在番の名義に改められたのである。村上半蔵は己巳席順に「百三十石」と註してある。創は岡田氏。
「十九日。晴。浅田宗伯伺出(うかゞひにいづ)。」正寧が浅田栗園を請じたのである。以下復(また)抄せない。
「廿三日。夕雨。玄道来。」棠軒は入京以来殆日ごとに清川氏と往来してゐる。しかし「玄道」の称は始て此に見えてゐる。故(もと)の安策が父の称を襲(つ)いだのである。
「廿九日。夕雨。雷鳴。今日より詰切被仰付。」正寧の病革(すみやか)なるが故である。
「七月朔日。晴。暮六時御絶脈被遊候。」正寧の捐館(えんくわん)である。年六十二。正精の子、正弘の兄、正教正方の父である。
「三日。雨。冷気甚。暮時御入棺。」正寧の斂(れん)である。
「五日。微雨。御隠居様昨卯上刻御逝去被遊候に付、為伺御機嫌(ごきげんうかゞひとして)今五日四時より九時迄之内、改服に而出仕可致旨。丸山御住居へ出御謁並手札差出。」正寧の発喪である。
「十日。晴。夜雨(やう)。今朝御出棺。西福寺(さいふくじ)自拝罷出(じはいまかりいづ)。」正寧の葬(はうむり)である。西福寺は浅草新堀端。
「十三日。晴。」是日棠軒は長谷寺(ちやうこくじ)に詣でた。其記に「鳥居坂へ寄、午飯」の文がある。宗家伊沢は幕政の時より居を徙(うつ)さずにゐるのであつた。当主信崇(しんそう)は三十一歳であつた。
「五日。(八月。)雨。常徳院様御三十五日御当日に付、御遺物頂戴被仰付。如左。金巾(かなきん)御紋付御小袖一つ、□(さらし)御紋付一つ、為別段(べつだんとして)唐桟御袴地一つ、唐更紗御布団地一つ、計四品、於御納戸頂戴。」常徳院は正寧の法諡(はふし)である。
「十二日。晴。」来客中に「矢島元碩」がある。「元碩」は玄碩に作るべきで、渋江抽斎の子優善(やすよし)が養父の称を襲いだのである。日録に優善の事を記する始である。優善は当時三十六歳であつた。
「十三日。晴。」是日阿部家に画幅の払下があつて、棠軒は数幅を買つた。明治初年の書画の価(あたひ)を知らむがために其一二を抄する。「探幽雲山一軸代金一両二分、常信花鳥一軸代金三分。」
「廿五日。晴。家書及飯田書状来る。本月三日男子出生之由。」公私略に「名、三郎」と云つてある。
「廿七日。晴。此日初而乗人力車。」東京に人力車の行はれた始であらう。

     その三百五十二

 庚午八月二十七日後の棠軒日録を続抄する。
「廿二日。(九月。)微雨。福山内田養三より申来(まうしきたる)左如(さのごとし)。自分事御家内医官、東安同補、先達而(せんだつて)被仰付候由。尤医官次席之事。権少村上氏より申来如左。自分事在番被仰付置候処、御免被仰付候旨。」棠軒は家内医官を拝し、三好東安は家内医官補を拝したのである。家内医官とは阿部家の家庭医師を謂ふか。内田養三は福山にある同僚である。棠軒は同時に在番を解かれた。三好は是より先、是月六日に在番を解かれ、次日二十三日に東京を発して福山に向ふこととなつてゐた。「権少村上」は権少参事村上半蔵の略である。此二事は棠軒公私略も亦これを載せてゐる。
「廿九日。晴。道中御手当金二十八両一分一朱と銭五百三十三匁受取。明後朔日(ついたち)出帆決定。」
「十月朔日。晴。朝六時石原御門前より川崎屋船に乗組、南新堀万屋(よろづや)正兵衛方へ一先(ひとまづ)落著、黄昏和歌山蒸汽明光丸へ乗組。船賃九両茶代金二百疋。」
「二日。晴。今朝五時前出帆。」
「四日。晴。暁七時浪華(なには)天保山沖へ著。天明より小舟一艘雇(やとひ)、土佐堀御蔵屋敷へ著。」
「五日。微晴。時雨(ときにあめ)。藩邸より伏見夜船賃受取。夕刻煙草屋藤助一六船利徳丸へ乗組、新堀迄出帆。」
「六日。晴。夜微雨。今朝新堀出帆。」
「八日。晴。夕七時福山木綿橋へ著船上陸。安石、洞谷、待蔵、徳児等迎来。」此旅行は公私略に只発著を記するのみである。
「十三日。雨。九月八日岡山奥小野崎姉君御病死之旨今日御達(おんとゞけ)差出(さしいだし)、一日之遠慮引いたし候。」公私略に同文がある。只小野崎を「斧崎」に作つてある。棠軒の姉は田中氏か。
「十五日。(閏(じゆん)十月。)晴。日暮雨。殿様昨夜鞆津(ともつ)へ御著船被遊、今九時御帰藩被遊候に付、平服に而御祝儀出勤。」阿部正桓(まさたけ)の帰藩である。
「十七日。晴。内願(ないぐわん)差出左之通。覚(おぼえ)。私拝領仕候御紋附類悴徳(めぐむ)へ著用為仕度奉内願候、以上。私拝領仕候木綿御紋附御羽織異父兄飯田安石へ相譲申度奉内願候。以上。両通共勝手次第之旨、御頭(おんかしら)乾三殿被申談候(まうしだんぜられそろ)。」乾三は己巳席順に「吉沢乾三」と記してある。
「十日。(十一月。)晴。午後雨。微雪。三児種痘。」三児は三郎、当歳。種痘は遂に伊沢氏に入つた。
「七日。(十二月。)晴。津山へ行飲(ゆきのむ)。行三(かうざう)挙家(きよか)一昨日引越著に付。」津山碧山は当時行三と称した。父忠琢も共に福山に来たのである。五十川□堂(いかがはじんだう)の文に「扈君夫人、移居福山、時君(忠琢)既致仕、而有此命、蓋特典也」と云ふは、此時の事であらう。是に由つて観れば、津山氏の移徙(いし)は忠琢が召された故である。君(くん)夫人は正弘の第六女にして正桓の初の室寿子(ひさこ)か。寿子は当時二十一歳であつた。

     その三百五十三

 庚午十二月七日後の棠軒日録を続抄する。
「十八日。陰。藩庁御制度御変革諸官員御減省に付而者(ついては)、御家政向も右に准じ御減省、且御家禄之内御減数之儀も有之、依而免職被仰付。三好東安、自分、津山忠琢、右に付金三百疋づつ頂戴被仰付。」棠軒が三好、津山と共に所謂家内医官を罷められたのである。
「廿八日。晴。御奥御改革御人減(おんひとべらし)に付、長女御暇被下下宿。」棠軒の女長が阿部家の奥より下げられたのである。棠軒公私略は棠軒自己の事を載せて、其女の事を載せない。
 此年棠軒三十七、妻柏三十六、子平安十二、女長十七、良十五(以上福山)、磐安二十二、弟平三郎十、孫祐八つ、姉国二十七、安十九、柏軒の妾春四十六(以上静岡)であつた。
 明治四年は蘭軒歿後第四十二年である。棠軒一家は又年を福山に迎へた。
「正月元日。晴。」此日の記事中「春雄来」の句がある。春雄は森枳園の子約之の維新後の称なることが其墓表に由つて証せられる。時に約之は三十七歳であつた。「六日。晴。」「七日。晴。」此二日の間に、棠軒は四十二家を廻礼してゐる。其中酒を饗した家が八軒で、其一は関藤藤陰(せきとうとういん)の家である。
「十七日。(二月。)雨。夕晴。慧□童女(ゑりんどうによ)七回忌、得悟童子来廿八日三回忌之処取越、法事執行、今日□夜(たいや)也。大賢尼来読経。」按ずるに慧□は棠軒の女信(のぶ)の法諡(はふし)である。信は慶応紀元二月十八日に夭した。□夜は原(もと)荼毘(だび)前夜であるが、俗間には法要の前夜を謂ふ。此には後の義に用ゐてある。得悟は棠軒の子紋二郎の法諡である。紋二郎の夭折は、軍行日録に徴するに、戊辰の三月であつた。そして記事に其日を佚してゐた。今本文に由つてその戊辰二月二十八日に夭したことを知るべきである。
「七日。(四月。)晴。棠軒と改名願書差出す。尤(もつとも)当用内田養三取計。」所謂改名は道号を以て通称としようとしたのであらう。春安信淳(のぶきよ)には棠軒、小棠軒、谷軒(こくけん)、尚軒、芋二庵(うじあん)の諸号があつた。以上は歴世略伝の載する所である。又海紅(かいこう)の号があつたらしい。軍行日録に「海紅主人伊沢春安」と署してある。
「八日。陰。午後吉田へ会合。主人、貞白及小島金八郎並に尚(ひさし)同伴、山(やま)六船(ぶね)に而(て)讚岐金刀比羅宮(ことひらのみや)参詣。夜四時過乗船、夜半出船。尤同日安石より御届取計。」棠軒は福山を発して讚岐象頭山(ざうづさん)に向つたのである。一行凡五人であつた。吉田の主人(あるじ)は洞谷であらう。貞白は石川氏である。小島金八郎は戊辰席順に「料」の肩書がある。恐くは料理人であらう。年は辛未三十歳であつた。尚は小字(せうじ)誠之助、飯田氏の嗣子である。棠軒は発するに臨んで、飯田安石をして県庁に稟(まう)さしめた。
「九日。晴。暮六時多度津へ著船。夫より乗馬に而御山(みやま)迄行。時(ときに)三更前鞆屋(ともや)久右衛門に一泊。」
「十日。晴。朝登山。鞆久(ともきう)に而午飯之上乗船、初更頃出帆。」
「十一日。雨。午後八半時過著船。夜六半時頃帰宅。」公私略の記事は此に終る。此より下(しも)は日録を抄することを得るのみで、復(また)公私略を参照することを得ない。

     その三百五十四

 明治辛未四月十一日後の棠軒日録を続抄する。
「廿六日。晴。関藤(せきとう)へ行。政太郎病死之悔。」わたくしは関藤藤陰の詳伝を知らない。しかし其長子政太郎は、文化四年生れの藤陰が蜷川(になかは)氏を娶(めと)つて、弘化三年四十歳の時にまうけたものである。明治二年の席順には「二百石、御足百石、関藤文兵衛、六十三」と云ひ、「十二石、関藤政太郎、廿三」と云つてある。辛未に政太郎が早世したとすると、其齢(よはひ)は二十五歳で、父の六十五歳の時に終つたのである。阪谷朗廬(さかたにらうろ)撰の墓誌には、「配蜷川氏、先歿、有二男、長曰政太郎、成立受譲継家、不幸早世、次子亦先夭」と云つてある。然らば藤陰は当時既に致仕して、政太郎は戸主となつてゐたのである。
「十三日。(五月。)晴。午後微雨。関帝祭祀。安石夫婦来割烹(かつぱうす)。」関帝を祭ることは、維新後にも未だ廃せられずにゐた。飯田安石と其妻とが来て庖厨の事を掌(つかさど)つた。
「晦日。晴。柏(かえ)飯田へ行。」曾能子刀自は猶柏と称してゐた。飯田は安石の家である。
「三日。(六月。)土用入。晴。午後微雨。森春雄今暁病死之由申来る。」森枳園立之の子約之である。年は三十七になつてゐた。浜野氏は頃日(このごろ)福山賢忠寺の墓を訪うた。「文定院斉穆元信居士、明治四年未六月三日、森春雄約之墓」と刻してあるさうである。
「六日。晴。夕森へ悔行(くやみにゆく)。」子を喪つた枳園夫妻を訪うたのである。
「三日。(七月。)岡山より姉君遺物到来。」前年九月八日に歿した棠軒の姉があつた事は上(かみ)に見えてゐる。
「四日。晴。驟雨雷鳴。於会計六箇月分扶持銀受取。札三貫四百十六匁四分也。」当時棠軒の受けた俸銭である。
「十五日。雨。朝より晴。盆踊瞥見。」猶盆踊の俗が廃(すた)れずにゐた。
「十九日。雨。此日祖母一週忌□夜(たいや)也。」祖母とは誰か。文政十二年二月五日に歿した蘭軒の妻飯田氏益(ます)にあらざることは明である。儻(もし)くは生家の祖母か。前年の日録は記載を闕いてゐる。
「廿日。陰。示幻童女(しげんどうによ)三十三回忌。」天保己亥に歿した榛軒の女(ぢよ)久利(くり)である。
「廿三日。晴。知事様御免職。」阿部正桓(まさたけ)が福山藩知事を罷められたのである。
「廿九日。晴。午後驟雨。夜又雨。午前より森へ行。此日平野亀三郎同家へ養子願済引移、夕又平野へ里開(さとびらき)。」森枳園は平野氏亀三郎を養つて子とした。亀三郎の生父は杉右衛門と称した。己巳席順に「五十五俵、平野杉右衛門、四十八」と云つてある。是より先七月七日の条に「森、平野、再森へ行、養子一件」の文があり、又八日の条に「杉右衛門来、森へ行、森養子一件」の文があつた。是に由つて観れば、媒妁者は棠軒であつた。按ずるに亀三郎は春雄の長女くわうに迎へられた婿である。
「廿一日。(八月。)雨。夕晴。飯田ます女河合銀二郎へ縁談。今日吉辰に付引移、右に付飯田へ行飲。」ます女は安石の女であらう歟。河合氏の事は未だ考へない。或は下(しも)に見えてゐる友翁(いうをう)の子か。

     その三百五十五

 明治辛未八月二十一日後の棠軒日録を続抄する。
「十九日。(九月。)晴。明廿日前知事様方々様(かた/″\さま)東京御引越(おんひきこし)に而(て)御発駕被遊(あそばさる)。石川御供に而出立に付暇乞に行飲。」阿部正桓が福山より東京に遷り、石川貞白が随従するのである。
「廿日。晴。又微雨。御発駕御延引相成候。右者(みぎは)六郡の村民一揆強訴(がうそ)、市中乱暴、其上浜野両家及津川高島等焼立候に付。」浜野章吉、浜野徳蔵、津川徳太郎、高島鉄之助の家か。章吉、名は王臣(わうしん)、字(あざな)は以寧(いねい)、箕山(きざん)又猶賢(いうけん)と号した。災(わざはひ)に遭ふものは皆其族人であつたらしい。擾乱の由来等は不詳である。
「廿一日。晴。不得已(やむをえず)強訴之者打払之令出、近郷迄兵隊罷出警衛相成候。」
「廿四日。晴。未穏(いまだおだやかならず)。尤(もつとも)御城内相詰候非役之面々一旦引取に相成候。」
「十一日。(十月。)晴。風。午後止。河合友翁来。森亀三郎家督被仰付、悦行飲(よろこびにゆきのむ)。」按ずるに枳園養竹は早く致仕し、春雄が家督相続をしてゐたので、今亀三郎は春雄の後を襲(つ)いだのであらう。
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