伊沢蘭軒
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:森鴎外 

 わたくしは最後に柴田氏の事を附載して置きたい。其一柴田常庵は上(かみ)に榛門の一員として事蹟の概略を載せた。其二は柴田方庵である。方庵の事は歴世略伝に見えない。わたくしは塩田氏の語るを聞いて始て方庵の名を知つた。下(しも)に仁杉(にすぎ)氏の云ふ所と合せ考へて方庵の何人なるかを明にしよう。

     その三百三十五

 塩田氏と仁杉氏との談話を参照するに、柴田方庵の事蹟には矛盾する所が多い。是は塩田氏の記憶のおぼろけなりし故であつたらしい。故に清川魁軒に聴いて正した。
 方庵は柴田芸庵(うんあん)の末弟であつた。準柏門の人で、唖科を業とした。晩年采女町(うねめちやう)の清川邸内に住んで、浄瑠璃に耽つてゐた。妻は初なるものが品川の妓、後なるものが吉原の妓で子が無かつた。それゆゑ兄芸庵の第三子円庵を養つて子としたが早世した。明治十一年九月方庵は六十一歳にして歿し、其家は絶えた。芸庵の弟妹は修石、柵(しがらみ)、修庵、方庵の順序で、柵は清川□の妻である。是が方庵の清川邸に住んだ所以である。
 塩田氏は方庵と楊庵とを混同した。楊庵は芸庵の末子、小字(せうじ)八六、後の称忠平である。骨董店を海賊橋に開き、後箔屋町に移つて業務を拡張した。明治三十八年八月七日に友人某を訪ひて談話する際、卒然病を発して歿した。子は※太(しようた)[#「金+公」、8巻-257-上-13]で現に沼津にゐる。塩田氏は方庵が忠平と改称したと以為(おも)つてゐたのである。芸庵の子女は常庵、成庵、円庵、梅、多喜、国、千、忠平であつた。仁杉英(えい)さんは多喜の子で、其妻は常庵の女歌である。
 柏軒の歿した文久癸亥に妾春が末子孫祐(まごすけ)を生んだ。主人の京都にある間に、お玉が池の家に生れたのであらう。
 門田(もんでん)家で此年朴斎が再び出でて誠之館教官兼侍読となつた。
 此年棠軒三十、妻柏二十九、子棠助五つ、女長十、良八つ、乃夫二つ、全安の女梅十四、柏軒の子徳安十五、平三郎三つ、孫祐一つ、女国二十、安十二、琴九つ、柏軒の妾春三十九、榛軒未亡人志保六十四であつた。
 元治元年は蘭軒歿後第三十五年である。九月二十七日に榛軒未亡人飯田氏志保が歿した。年六十五である。棠軒公私略に、「九月廿七日朝五時母上御卒去、翌日発表、十月十二日忌引御免被仰付」と云つてある。
 十一月三日に棠軒は阿部正方の軍に従つて福山を発した。所謂長州征伐の第一次で、出兵三十六諸侯の一人たる正方は年甫(はじめ)て十六、発程に先(さきだ)つこと二日に始て元服の式を挙げたのである。公私略の文は下の如くである。「十一月朔日、御前髪被為執候為御祝、金二百疋被成下。十一月三日、征長御出馬御供被仰付、出立す。」毛利家が所謂俗党の言(こと)を用ゐて罪を謝し、此役は中途にして寝(や)んだ。
 十二月二十四日に棠軒は正方に扈随して福山を発し、江戸に向つた。公私略に、「十二月十四日御参府御供在番被仰付、同廿四日御発駕」と云つてある。
 慶応元年は蘭軒歿後第三十六年である。正月二十二日に棠軒は阿部正方に随つて江戸に著いた。二月十八日に棠軒の女乃夫(のぶ)が福山にあつて痘瘡に死した。年僅に四歳である。三月二十四日に女加禰(かね)が福山に生れた。五月十一日に棠軒は正方に随つて江戸を発し、閏(じゆん)五月八日に福山に著いた。六月七日に岡西養玄が妻梅を去つた。梅は柏の生んだ先夫全安の女で、時に十六歳であつた。十九日に棠軒は誠之館医学世話を命ぜられた。同僚は鼓菊庵(つゝみきくあん)、桑田恒三である。十一月二十四日に棠軒は再び正方の軍に従つて福山を発した。時に幕府の牙営は大坂にあつた。是より先将軍家茂は六月に上京し、次で大坂城に入つたのである。以上は公私略の記する所に拠る。今煩を厭うて本文を引くに及ばない。
 梅の末路はわたくしの詳にせぬ所であるが、後幾(いくばく)ならずして生父池田全安の許に歿したと云ふことである。
 鼓菊庵は明治二年の席順に「第六等席、十人扶持、御足五人扶持、鼓菊庵五十四」と云つてある。然らば文化十三年生で乙丑には五十歳になつてゐた。桑田恒三は同席順の「第六等席、九人扶持、書記頭取、桑田恒庵六十」ではなからうか。恒庵の庵字の右に「介」と細書してある。若し恒庵若くは恒介が即恒三ならば、恒三は文化七年生で、乙丑には五十六歳になつてゐた。或は謂(おも)ふに恒三は恒庵の子であつたかも知れない。
 正方の出兵は所謂長州征伐の第二次である。
 此年棠軒三十二、妻柏三十一、子棠助七つ、女長十二、良十、加禰一つ、全安の女梅十六、柏軒の子徳安十七、平三郎五つ、孫祐三つ、女国二十二、安十四、琴十一、柏軒の妾春四十一であつた。

     その三百三十六

 慶応二年は蘭軒歿後第三十七年である。棠軒は阿部正方の軍にあつて、進んで石見国邑智郡粕淵(おほちごほりかすぶち)に至つた。時に六月十三日であつた。正方は此より軍を旋(めぐら)し、七月二十三日に福山に還つた。将軍家茂の大坂城に薨じた後三日である。棠軒公私略にかう云つてある。「六月十三日粕淵駅迄御進相成、七月廿三日御帰陣相成候。」此役正方は軍中に病んだ。同書に「御出張先より御不例被為在候」と云つてある。九月二日に柏軒の女琴が十二歳にして早世した。法諡(はふし)して意楽院貞芳と云ふ。江戸で将軍家茂の遺骸を増上寺に葬つた月である。次で十二月五日に慶喜が将軍を拝した。良子刀自所蔵の「丙寅三次集」は棠軒が自ら此年の詩歌を編したものである。「芋二庵主人稿、棠軒三十四歳」と署してある。繕写が次年に於てせられた故に此の如く署したものであらう。
 慶応三年は蘭軒歿後第三十八年である。五月二十八日に棠軒の一女が夭した。公私略に「五月廿八日夜四時鏐女死去、翌日表発、六月朔遠慮引御免被仰付」と云つてある。「鏐」は即加禰であらう。然らば此女は三歳にして死したのである。十一月二十二日に正方が卒し、二十三日に棠軒は手島七兵衛と共に福山を発して江戸に急行した。将軍慶喜の政務を朝廷に奉還した翌月である。十二月朔(さく)に二人は丸山邸に著いた。次で五日に江戸を発し、二十六日に福山に帰著した。公私略の文はかうである。「十一月廿二日夕七半時御絶脈被遊。同夜四時御用有之出府被仰付。尤早打に而旅行可仕旨。翌暁六時手島七兵衛同道発足。十二月朔日暁七時丸山邸え著。十二月三日於江戸表御用相済候に付、勝手次第出立可致様、且又出府大儀に被思召、為御褒美金二百疋被成下候旨被仰渡。同五日江戸発足。同廿六日福山着船。」十二月廿一日に棠軒の子紋次郎が生れた。父の江戸より帰る途上にある時生れたのである。
 正方の死は藤陰舎遺稿丁卯の詩題にも「十一月廿二日公上不諱」と書してある。棠軒等の往反は、福山にあつた諸老臣が喪を秘して使を派し、継嗣の事を江戸邸の人々に謀つたのではなからうか。手島七兵衛は明治二年の席順に「第四等格、五十俵、御足四十俵、手島七兵衛、六十」と云つてある。丁卯には五十八歳であつた。
 池田分家で此年六月十一日に瑞長妻東氏金(あづまうぢきん)が歿した。此瑞長はその天渓なるか三矼(こう)なるかを詳にしない。姑(しばら)く録して後考に資する。
 此年棠軒三十四、妻柏三十三、子棠助九つ、紋次郎一つ、女長十四、良十二、柏軒の子徳安十九、平三郎七つ、孫祐五つ、女国二十四、安十六、柏軒の妾春四十三であつた。
 明治元年は蘭軒歿後第三十九年である。正月九日長州藩の兵が福山城を襲ひ、棠軒は入城した。是より先三日に伏見の戦が開かれ、七日に徳川慶喜を征討する令が発せられた。公私略にかう云つてある。「正月九日長藩二千人許御城下え推参、及発炮。即刻出勤。但妻子は手城村九丁目百姓延平方え為立退。」
 阪谷朗廬(さかたにらうろ)は関藤々陰(せきとうとういん)の此日の挙措を叙して下(しも)の如く云つてゐる。「明治元年正月。伏水之変発也。王師討徳川氏。長藩兵勤王。以阿部氏為徳川氏旧属。路次卒囲福山城。時正方君卒未葬。而変起□卒。先護柩。巨弾洞其室者二。銃声如雷霆。先生与諸老臣。制壮士不動。分出諸門。衣袴不甲。直衝飛丸。入敵軍。往復辯論。遂明名義。確立誓約。」
 藤陰の石川文兵衛が志士の間に知られたのは、此一挙があつたためである。わたくしは前に載せた藤陰の別称問題に関して此に一事を補つて置きたい。わたくしは藤陰が一時関氏五郎と云つた時、交の疎きものは誤つて三字の通称関五郎となしたと云つて、秋山伊豆を挙げた。しかし此錯誤は当時交の疎からざるものと雖も、これに陥つたらしい。木崎好尚さんは篠崎小竹の「不可忘」を抄して寄せ、安東忠次郎さんは頼聿庵(らいいつあん)の野本第二郎に与ふる書を写して贈つた。皆三字の通称として視てゐるのである。因に云ふ。秋山伊豆、名は惟恭、字(あざな)は仲礼、小字(せうじ)は浪江(なみえ)、長じて伊豆と称した。巌山、千別舎(ちわきのや)の号がある。讚岐国那珂郡櫛梨村の人、文久三年四月十日五十七歳にして歿した。わたくしは永田嘉一さんの手に藉(よ)つて秋山の墓誌銘を獲た。
 三月十七日に棠軒は福山を発して広島に往き、五月二十日に儲君正桓(まさたけ)を奉じて還つた。公私略の文はかうである。「同月(三月)十六日広島表御用有之、早々被差立候旨被仰渡。(中略。)翌十七日乗船。五月廿日新君御供著。」五月二十八日に正方の喪は発せられ、七月二十三日に正桓が家を継いだ。正桓、実は藝州藩主浅野茂長の弟(懋昭)の子で、当時年十八であつた。
 八月九日に棠軒は家を深津郡吉津村に移した。九月廿一日に正桓が津軽藩を応援せむがために兵を出し、棠軒も亦従軍した。時に改元の令出でゝ後十三日、車駕東幸の途上にあり、奥羽の戦は既に半(なかば)局を結んでゐた。

     その三百三十七

 わたくしは蘭軒の養孫棠軒が明治紀元九月廿一日に、福山藩主阿部正桓(まさたけ)に随つて福山を発し、東北の戦地に向つたことを記した。棠軒の事蹟は此に至るまで棠軒公私略に見えてゐる。然るに公私略には此所に紙二枚が裂き棄ててあつて、其下(しも)は己巳六月の記に接してゐる。幸に別に「函楯軍行日録」があつて此闕を補ふことが出来る。亦棠軒の手記で、徳(めぐむ)さんの蔵する所である。
 按ずるに当時津軽承昭(つぐあき)を援ふ令は福山、宇和島、吉田、大野の四藩に下つた。福山の兵は此日鞆(とも)の港に次(やど)つた。「九月廿一日、晴、朝五時揃。(中略。)夕七時前鞆湊著。」
 棠軒は発するに臨んで、留別の詩を作つた。「示平安。数百精兵護錦旗。順風解纜到天涯。分襟今日吾何道。応記二翁垂示詩。」冢子(ちようし)棠助は既に平安と称してゐた。二翁垂示(すゐし)の詩とは蘭軒榛軒の作を謂ふ。「示二児。富貴功名不可論。只要児輩読書繁。能教文種長無絶。便是吾家好子孫。蘭軒。」「示良安。医家稽古在求真。千古而来苦乏人。万巻読書看破去。応知四診妙微神。榛軒。」
 わたくしは棠軒の行を送つた人々の名を録する。伊沢分家の交際の範囲を徴すべきがためである。「福山出立前見立人伊藤誠斎、安石、玄高、全八郎、洞谷、金八郎、乙平。(中略。)鞆著之上省吾来訪。柏原忠蔵、拡等来飲。」伊藤誠斎は己巳の席順に「第七等格、十石二人扶持、側茶、伊藤誠斎、五十二」と云つてある。茶道の家であらうか。因に云ふ。福山の伊藤氏には別に仁斎の末裔がある。仁斎維□(ゐてい)の子が東涯長胤(とうがいちやういん)、梅宇長英(ばいうちやうえい)、梅宇の子が蘭□懐祖(らんゑんくわいそ)、蘭□の子が竹坡弘亨(ちくはこうかう)、竹坡の子が蘆汀良炳(ろていりやうへい)、蘆岸良有(ろがんりやういう)、蘆岸の子が竹塘良之(ちくたうりやうし)である。同じ席順に「第六等席、十五人扶持、伊藤揚蔵、三十四」と云ふのが此竹塘で、其子琢弥(たくや)は京都の宗家を継いで歿し、琢弥の兄顧也(こなり)さんは現に幼姪(えうてつ)の後見(うしろみ)をしてゐる。安石は飯田安石である。玄高は公私略癸亥十一月七日の条に「成田竜玄次男玄高入門」と云つてある。全八郎は料理人上原全八郎である。洞谷(どうこく)は上(かみ)の席順に「第六等席、十三人扶持、吉田洞谷、四十二」と云つてある。画師である。乙平(おとへい)、省吾(せいご)は席順に、「第八等格、廿俵二人扶持、渡会乙平、廿六」、「第七等席、三両三人扶持、島省吾、廿五」があるが、果して其人なりや否を知らない。金八郎、柏原忠蔵は未だ考へない。拡の事は下(しも)に出す。
 棠軒と同行した医師は五人であつた。「御医師小子及天富良碩、斎木文礼、石川厚安、藤田松軒(同人一昨日三口表御医師見習)、其外鞆医師生口拡、合六人」と云つてある。上の席順に「第六等席、天富良碩、廿六」「第六等席、八人扶持、斎木文礼、廿七」「第七等席、十二石、石川厚安、廿六」「第七等格、准医補、藤田松軒」「第七等格、准医補、生口拡」と云つてある。此中生口拡(いくちひろめ)は文事を以て世に知られてゐる。拡、字(あざな)は充夫(じうふ)、酔仙と号した。文久元年に近世詩林一巻を刻し、末に七律一篇を載せてゐる。「抄近時諸家詩畢有作。選楼弄筆寄幽娯。一巻新詩収美腴。縦有蟹螯兼蛤柱。何曾燕石混※[#「虫+賓」、8巻-263-下-6]珠。雄篇河嶽英霊集。名句張為賓主図。多少世間同好士。為吾能諒苦心無。」第六の張為(ちやうゐ)が主客図の典故は唐詩紀事に見えてゐる。棠軒が同行の医師は皆鞆の善行寺に舎(やど)つた。
 二十二日に福山より来て、棠軒を善行寺に訪うたものは「貞白、養玄、安石、元民、全八郎、洞谷、雄蔵等」である。貞白は石川、養玄は岡西である。元民は席順に「第六等席、九人扶持、准、皆川元民、三十七」と云つてある。雄蔵は席順の「第七等席、十二石二人扶持、鵜川雄蔵、廿六」か。其他は前に註してある。
 十月二日に棠軒は英船モナ号に搭して鞆を発した。「廿九日(九月)晴、御軍艦著津、英船モナ。(中略。)二日(十月)晴。午後乗艦、同八半時出帆。」

     その三百三十八

 わたくしは棠軒が戊辰の年に従軍して、十月二日に備後国鞆(とも)を発したことを記した。日録には歴史上多少の興味がある故、稍詳に此に写し出さうとおもふ。しかし原文の瑣事を叙することの繁密なるに比すれば、僅に十の一を存するに過ぎない。
「三日。朝四時長州馬関へ下碇(かてい)。不上陸。八半時同所出帆。」
「四日。雨。風勁(つよく)、浪又高。」
「五日。漸晴。午時越前敦賀湊へ著船。夕上陸御免。買物ちよき金二分二朱、金巾(かなきん)筒じゆばん同一分、陣中胴乱同二分一朱、戎頭巾(えびすづきん)同一分、つり百文。」当時の軍需品の市価を知るべきを以て、特に数句を存録する。
「六日。晴。於同所大野侯御人数乗組。」越前国大野郡大野の城主土井利恒の兵が上船したのである。
「七日。晴。総隊上陸。船御普請相成。御医師円教寺へ一泊。」船に損所あるを発見して、修繕したのである。
「八日。晴。艦(ふね)造作御出来に付、朝四時乗船。八半時出帆。」
「九日。半晴。午後雨。」
「十日。風雨。夕初雪。村上領夏島沖へ碇泊。」
「十一日。晴。乍(たちまち)霰(あられ)。朝四時夏島出帆。夜九時頃羽州秋田近海へ碇泊。」
「十二日。晴。朝土崎湊へ著。秋田へ一里半。」
「十三日。晴。又雪。風頗急、浪尤高。舟川湊(相距(さ)る九里)へ退帆。総御人数上陸、漁家へ止宿。」車駕入京の日である。
「十四日。雪。逗留。」
「十五日。晴。夕雨。同断。」
「十六日。晴。後雨。船直(なほし)。」
「十七日。雨巳刻より止。陰(くもる)。逗留。箱館表出兵被為蒙仰(おほせをかうむらせらる)。」是は榎本武揚等が北海道に向つた故である。武揚は是より先幕府の軍艦奉行であつたので、八月十九日軍艦数隻を率(ひきゐ)て品川湾を脱出し、途次館山、寒沢(さむさは)に泊し、北海道を占領せむと欲して先づ室蘭附近に向つたのである。「世上誰知鉄石衷。乗□欲去引剛風。茫茫千古誰成匹。源九郎逃入海夷。」
「十八日。晴。はた/\魚(うを)漁猟甚盛。」
「十九日。晴。午後陰(くもる)。暮雨。昼九時より乗船。夕七半時出帆。」
「二十日。晴雪相半(せいせつあひなかばす)。午時(ひるどき)箱館府へ着船。暮時上陸。町宿銭屋与兵衛宅へ落著。」
「廿一日。雪。又晴。脱走船南部沖へ七艘相見候に付、斥候一小隊尻沢村(半里)へ御差出相成。御医師一人二日おき交代。斎木出張。伊藤屋佐治兵衛へ宿替。メリヤス繻絆股引金二両二朱。」箱館戦史及榎本武揚伝の詳細なるものはわたくしの手許にない。文淵堂所蔵の一戸(のへ)隆次郎著「榎本武揚子」に拠れば、武揚等の諸艦は「十一月二十日夜に乗じて函館を距る十里なる鷲木港に入る」と云つてある。「十一月」は「十月」の誤なること明である。
「廿二日。半陰。尻沢村出張之御人数大野村(五里)迄進発。」一戸の記に拠れば、武揚は「人見勝太郎、本多幸七郎の両人に命じ、(中略)五稜廓に」向はしめた。「二人命を聞いて茅部嶺を越え、大野まで至」ると、「津軽の兵二百人人見勝太郎等の大野村に在るを聞いて夜襲」した。福山藩兵の進発は此時の事か。
「廿三日。雨。賊徒上陸之由に付、二小隊七重(なゝへ)村(二里)迄御差出相成。石川厚安右へ出張。亀屋武兵衛(山市)宅へ病院移転。夜五時過大御目付山岡氏より、春安亮碩松軒亀田表御本営へ明日繰込相成候旨申来。」病院は初伊藤屋に置かれたものか。山岡、名は源左衛門、二十七歳。後運八と称す。亀田表は亀田村五稜廓である。一戸の記に、「土方歳三は一軍に将として、星恂太郎、春日左衛門等と(中略)川吸峠を踰えて函館に入り、大野に陣取りける時、彰義隊の残党等も来つて土方が隊に合し、七重村の官兵を襲」ふと云つてある。福山藩兵の七重村に入つたのは此時か。
「廿四日。晴雪相半。午後亀田へ出張之処。途中津軽迄引退之(ひきしりぞきの)事に相成。今朝より大野村及大川村戦争有之、兵隊十人許り即死、怪我人数人有之、官軍不利(りあらず)。」一戸の記に、「土方等直ちに七重村を占領しぬ、清水谷府知事は官軍の利あらざるを見て、五稜廓を逃れ出で、函館に赴き、普魯西の蒸汽船に乗つて津軽に赴」くと云つてある。箱館府知事清水谷公考(しみづだにきんなる)は武揚等の上陸に先だつて五稜廓に入つてゐた。当時公考二十四歳。
「廿五日。晴。暁七時頃土州軍艦へ乗込之処、行違ひにて又々異船へ乗替、暮時箱館湊より出帆。」
「廿六日。晴。昼八時津軽領青森湊着船。総御人数上陸。中村屋三郎宅へ宿(やどる)。」
「廿七日。半晴。夕微雨。」
「廿八日。雨。」一戸の記に拠れば、武揚等の五稜廓より松前に向つた日である。
「廿九日。陰(くもる)。」
「晦日(つごもり)。晴。」
「十一月朔日(ついたち)。晴。月賜金二両、外一両。天朝より御酒代恩賜配分金二分と銭百六十文。」当時の戦時給養である。一戸の記に拠れば、是日武揚等は松前藩兵を尻内(しりない)に破つた。
「二日。晴。午前より陰。油川村(相距る一里)へ五小隊御差出相成。自分並藤田子同所へ出張被仰付、午刻青森出立、夕七時油川村著、菊屋重助宅へ落著。」油川村、一名大浜、青森に次ぐ埠頭であつた。一戸の記に拠れば、武揚等の福島湾に迫つた日である。
「三日。半晴。夜雪。当所住居抽斎門人成田祥民面会。」
「四日。半晴。」
「五日。陰。」一戸の記に拠れば、武揚と事を倶にする大鳥圭介等が松前の城を陥れ、城将田村量吉の自殺した日である。城は嘉永二年徳川家慶(いへよし)の築かしめた所謂福山城である。
「六日。晴。」

     その三百三十九

 棠軒が戊辰従軍の日記は既に十一月六日に至つてゐた。福山の兵は箱館より退いて青森に至り、棠軒が属する所の一部隊は油川村に次(じ)してゐるのである。
「七日。陰。朝青森湊へ賊艦二艘来著、無程(ほどなく)退帆、夜六時頃津軽領平館(八里)へ右賊艦相廻、十四五人上陸いたし候由風聞有之。」
「八日。陰。冬至。」
「九日。晴。夜雨。」
「十日。雨。」
「十一日。陰。」
「十二日。晴。」一戸の記に拠れば、武揚等の雪中(せつちゆう)江刺(えざし)に入つた日である。松前の陥いつた時、藩主松前徳広(のりひろ)は江刺にゐて、敵兵の至る前に熊石に逃れた。
「十三日。陰。」
「十四日。半晴。夜雪。」
「十五日。雪。文礼子(ぶんれいし)御用にて新城宿より爰元(こゝもと)通行。」一戸の記に拠れば、武揚等の兵が館(たて)の寨(さい)を陥れた日である。
「十六日。雪。」
「十七日。雪。榛軒先生十七回忌に付、雑煮餅一統へ振舞。文礼子青森より帰途立寄一泊。」
「十八日。半晴。夕雪。」
「十九日。雪。」
「廿日。晴雪相半(せいせつあひなかばす)。弘前侯より岡田総督始、人夫迄之御祈祷、於当所上林中林下林三所被仰付。右に付中林神明社参詣。」岡田、名は創(はじむ)、後吉顕、旧称伊右衛門、二十七歳。
「廿一日。同断。」一戸の記に拠れば、武揚等の兵が熊石に至つて敵を見ず、五稜廓に引き返した日である。
「廿二日。同断。」
「廿三日。微晴(すこしはる)。寒入。松前侯同城戦争有之、引払之上、一昨夜平館著船、昨夕蟹田村御逗留之由。右に付為御見舞(おんみまひとして)御使者(天宇門、磯貫一郎)被遣候間、小子同行被差遣候旨、副長被申談(まをしだんぜらる)。暁八時過油川宿出立、朝五半時頃蟹田村著之処、松前侯昨夕御参著無之、今夕御来泊に相成、御見舞相勤。」天宇門(あめうもん)、二十二歳。磯貫一郎、四十歳。
「廿四日。微晴。夜雨。朝五時過蟹田村出立、馬上に而(て)昼九半時頃油川帰宿。」
「廿五日。雪。」
「廿六日。半晴半雪。」
「廿七日。同断。」
「廿八日。微晴。清水谷様より兵隊へ為慰労(ゐらうとして)御酒四合づつ、御肴代金一朱と三百五十四文づつ被成下(なしくださる)。石川厚安青森行に而前後立寄一泊。江木老人爰許(こゝもと)逗留中病院同宿。」箱館府知事清水谷公考、前日より青森口総督兼任。江木老人は鰐水繁太郎、五十九歳。
「廿九日。微晴。江木老人築城掛御免内願に付容体書差出す。老人云。好書家、旅中別而不知徒然(べつしてとぜんをしらず)、生涯妻子に勝る之徳ありと云。名話なり。」
「晦日。微晴。」
「十二月朔日。微晴。」
「二日。同断。夜雪。」
「三日。微晴。」
「四日。晴。夜雨。雷鳴。月賜金二両受取。」
「五日。陰。」
「六日。雪。文礼子青森へ御用に而(て)罷越(まかりこし)、帰路一泊。」
「七日。晴。夕雪。会議所より為寒中慰労生牛一疋兵隊へ頂戴相成、今日屠肉配分。」
「八日。雪。」是日車駕東京を発す。
「九日。雪。午後止。」
「十日。晴。」
「十一日。晴。松軒子青森へ行。天富亮碩亦青森行に而立寄。」
「十二日。晴。午後陰。本陣大菊屋へ病院転寓。」
「十三日。晴。斎木石川新城より兵隊同道に而来。」
「十四日。晴。夜雪。」
「十五日。晴。」
「十六日。斎木石川来一宿。」

     その三百四十

 棠軒従軍日記の戊辰十二月十六日を以て前稿は終つてゐた。此より其後を抄出する。
「十七日。晴。弘前侯為御見廻当所御通行、総兵隊へ為御土産御酒御肴被成下。」弘前侯は津軽承昭(つぐあき)、二十八歳。
「十八日。風雪。」
「十九日。風飛雪(かぜゆきをとばす)。松平民部大輔様箱館討手被為蒙仰候旨廻状到来。」松平民部大輔、名は昭武、前月二十四日に箱館の賊を討つことを命ぜられ、二十五日兄慶篤(よしあつ)の後を襲(つ)いで水戸藩主となつた。
「廿日。微雪。」
「廿一日。晴。」
「廿二日。晴。節分。」
「廿三日。晴。当所病人多之処、松軒子四五日不快に付、当分之内為助(すけとして)斎木文礼御呼寄に相成、午後入来(じゆらい)。」
「廿四日。晴。」
「廿五日。晴。昨日総督より洋医可心掛之命有之。」蘭軒の養孫、榛軒の養子は遂に洋医方に従ふべき旨を喩(さと)された。
「廿六日。陰(くもる)。」
「廿七日。晴。会津仙台侯始御処置有之候由始而入耳(はじめてにふじ)。」松平容保(かたもり)、伊達慶邦(よしくに)の処分は是月七日に於てせられた。
「廿八日。晴。」
「廿九日。雪。来正月分雑用金二両受取。」
 此年所謂又分家の伊沢氏では、徳安が既に磐安と改称してゐた。又其全家が十二月中相模国「余綾郡山下村百姓仙次郎方」に寓してゐた。是は良子刀自所蔵の駿藩留守居より辨官に呈した文書に徴して知るべきである。
 此年棠軒三十五、妻柏三十四、子平安十、紋次郎二つ、女長十五、良十三、柏軒の子磐安二十、平三郎八つ、孫祐六つ、女国二十五、安十七、柏軒の妾春四十四であつた。
 明治二年は蘭軒歿後第四十年である。棠軒は歳を青森附近油川村の陣中に迎へた。
「正月元日。半晴。中林神明宮社参。」
「二日。陰。夜雨。成田氏弘前へ出立に付、書状認渋江小野両氏へ送る。」成田祥民に託して書を渋江氏、小野氏に寄せた。渋江氏には抽斎未亡人が子女と倶にゐた。
「三日。晴。風。」
「四日。陰。」
「五日。雨。」
「六日。陰。」
「七日。晴。午後陰。」
「八日。九日。十日。雪。風。」
「十一日。晴。」
「十二日。晴。昨日成田氏弘前より帰来、渋江小野返書来。当藩上原元英来。」上原は弘前藩医である。
「十三日。晴雪相半(せいせつあひなかばす)。金匱私講抄録(きんきしかうせうろく)卒業。」
「十四日。晴雪相半。」
「十五日。晴雪相半。昨冬箱館表俄之引揚に付、格別之以御仁恵総人数へらせいた洋服一枚づつ、天朝より恩賜被仰付。」
「十六日。雪。」
「十七日。十八日。晴。」
「十九日。晴。清水谷様爰許(こゝもと)御巡見有之総督御召に而、一統無怠慢在陣之段神妙之至、尚宜敷と御口上有之候由。今朝於青森大病院、罪人解体に付、斎木藤田昨夜より罷越、今夕又一宿。」官衙に於ける解剖は、或は此等を始とするのではなからうか。
「廿日。晴。斎木藤田青森より帰宿。石川厚安来一宿。今日病院大工棟梁越後屋新兵衛へ転陣。」
「廿一日。雨。」
「廿二日。微晴(すこしはる)。夜雪。」
「廿三日。廿四日。半晴。」
「廿五日。風雪。石亀村に於て大操練御覧有之。」
「廿六日。微晴。」
「廿七日。陰。夜雨。午刻より新城村病院へ行、日暮帰寓。」
「廿八日。風雨。」
「廿九日。晴。広江氏不快に付、昨日より病院に引取。」広江氏、通称繁三郎、三十八歳、席順に「建築」の肩書がある。
「晦日。晴雪相半。」
「二月朔日。晴。」
「二日。陰。夜雨。斎木子青森行一宿。広江病人相談也。」
「三日。雨。大病院深瀬祥春来。広江一診。石川厚安来一宿。」
「四日。雨。」
「五日。陰。斎木氏青森へ行。当日大病院に而御進撃之砌医局用意之薬種並道具等申合。」
「六日。微陰(すこしくもる)。」

     その三百四十一

 棠軒従軍日記は己巳二月六日に至つてゐた。その青森附近油川村に淹留すること既に百日に垂(なん/\)としてゐる。
「七日。晴。於青森岡田総督不快に付、為見舞可罷越趣堀副督被申渡候。朝より行。藤田子私用にて同行。黄昏帰寓。月賜金二両受取。」堀氏、通称兵左衛門、三十歳。
「八日。雨風(あめかぜ)。夜雪。」
「九日。雨風。」
「十日。晴雪相半(せいせつあひなかばす)。」
「十一日。微晴(すこしはる)。斎木氏青森行一宿。」
「十二日。晴。石川厚安来一宿。」
「十三日。晴。藤田氏新城へ行。」
「十四日。夜来雨。朝より半晴。」
「十五日。風。小雪。」
「十六日。微晴。深瀬祥春来。藤井重次郎来飲。亮碩子来、又飲。」藤井十次郎、軍事方、四十五歳。
「十七日。雪。午後雨。豊田鎌三郎より被招行飲。」豊田は席順に「簿」字の肩書がある。
「十八日。雨風。」
「十九日。晴。風。」
「二十日。微晴。此夕右脇下打撲、痛甚、加之(しかのみならず)咳痰に而平臥。此間文礼子弘前御用行に付、渋江小野両氏尋訪(じんばう)相頼、並に菓子折進物す。生口拡(いくちひろめ)青森行に而前後立寄。」
 二月二十一日より三月六日に至る病臥中の記が闕けてゐる。二月は大であつたから、十六日間である。「此間」以下は十六日間の事を約記したものである。
「三月七日。微晴。夜雨。半愈(はんゆ)に而(て)浴湯。亮碩子来一宿。」車駕の再び京都を発した日である。
「八日。漸晴。」
「九日。陰。夕晴。文礼子青森大病院へ行。広江病人相談也。然処途中面会同道引返。厚安来。夜広江に而飲。同人明日中野屯所へ帰陣。自分同道相達す。」
「十日。晴。夕雨。雷鳴。広江繁三郎附添、且又打撲為養生(やうじやうとして)温泉行御聞済、朝より出立。津軽坂にて午飯。夕七時中野村長谷川総右衛門へ著。終日乗輿。」津軽坂、一名鶴坂、外浜(そとがはま)と内郡(ないぐん)との界である。
「十一日。晴。中野村逗留。」
「十二日。晴。午刻より中野出立。黒石城下通りより浅瀬石村大病院へ立寄一宿。生口生対面。」
「十三日。晴。浅瀬石村より温湯(ぬるゆ)村温泉行。庄屋重次郎へ逗留。生口子より急報来る。左の如し。軍艦青森港へ到著候に付、即刻同所へ可罷越趣。」軍艦とは北征軍艦八隻の内であらう。
「十四日。雨。夕晴。爰許(こゝもと)今朝出馬、黒石通り、中野村迄帰程、様子相尋候処、五七日内には出艦手筈難及由に付、午刻より又々弘前行相催す。藤崎村に而継馬(つぎうま)、夕七半時過弘前城下下土手伊勢屋甚太郎方著、直小野氏尋訪行飲(たづねとぶらひゆきのむ)。」
「十五日。晴。渋江氏へ行飲。午刻より弘前出立、夕七時頃中野村へ著一泊。」渋江氏では抽斎未亡人が棠軒を饗したのである。
「十六日。晴。午刻より中野村発。帰程新城病院へ寄。暮時帰寓。」
「十七日。晴。昨夕より秋月辰三不快に付病院入。」席順に「秋月辰三、廿六」とあつて「箱」字の肩書がある。役後箱館に留まつた印である。
「十八日。雨風。」
「廿日。晴。」
「廿一日。晴。青森御薬用行、夕帰寓。」御薬用は薬物を補充する謂(いひ)であらう。
「廿二日。晴。」
「廿三日。夜来風雨。」
「廿四日。陰。」
「廿五日。晴。」東京より北航して宮古湾に入つた軍艦と武揚等の軍艦と衝突した日である。中根香亭は「朝延大発軍艦北征、我艦要撃之于宮古、敗而還、於是五稜廓為本営、列戦艦於函館港、分遣諸隊於松前江差室蘭、以備敵」と記してゐる。

     その三百四十二

 己巳三月二十五日後の棠軒従軍日記は下(しも)の如くである。
「二十六日。晴。近日梅花及桜桃李椿等漸綻(やうやくほころび)、時気稍覚暖(やゝだんをおぼゆ)。夕刻東京廻り軍艦六艘青森へ入港。」東京廻りとは東京から廻されたと云ふ義であらう。
「二十七日。陰雨。」
「二十八日。晴。厚安子来一宿。」車駕の再び東京に入つた日である。
「二十九日。晴。斎木石川同道青森御薬用行。」
「四月朔日。陰。」
「二日。晴。午後急雨。」
「三日。晴。午後雨。」
「四日。晴。明五日向地(むかひち)へ御進撃相成、御家兵隊三百人御繰出、松前口青木氏手厚安、厚沢辺(あつさはべ)口堀氏手亮碩、熊石村根陣岡田総督手文礼出張被仰付、拙者松軒其儘油川居残。」青木氏通称勘右衛門、後源蔵、二十三歳。堀氏通称兵左衛門、後精一、三十歳。岡田創は前に注してある。
「五日。晴。午後微雨。月給金受取。十二字揃、天富斎木石川出立す。尤(もつとも)青森迄。」
「六日。晴。午後雨。午刻許青森より進撃艦八艘出帆。」
「七日。八日。陰。」
「九日。晴。」此日江刺の戦があつた。下に註する。
「十日。陰。夜四時軍監より御談(おんはなし)左之通。昨九日向地より戦状申越、只今青森表より申来。九日八字官軍音辺(おとべ)へ著。小戦有之、夫より江差之賊徒追撃、厚浅部(あつあさべ)口迄進軍、尤大炮三、玉薬二十四五箱分捕、賊徒一人生捕有之候趣。右に付残兵御都合次第早速御差出に相成も難計(はかりがたく)、兼而(かねて)手筈いたし置候様。」軍監、斎藤甚右衛門、三十八歳。中根香亭は九日の戦を下の如く叙してゐる。「四月九日。敵艦九隻。舳艫相銜至乙部。江差兵来邀戦。敵分兵攻江差取之。我兵聞之。敗入松前。敵又分兵二股木古内。土方歳三拒二股。大鳥圭介拒木古内。戦尤烈。」一戸の記に拠れば江刺の兵は三木軍司の率る所であつた。
「十一日。晴。」一戸の記に拠れば、是日伊庭八郎秀頴(ひでさと)等は江刺を回復せむと欲して果さなかつた。香亭はかう云つてゐる。「先是秀頴率遊撃隊在松前。欲復江差。与諸隊合力。進撃敵根武田。散兵山野大破之。追北数里。敵焼茂草村而走。会本営之令至。二股木古内急矣。当退松前応機援之。乃収兵還松前。」秀頴は伊庭軍兵衛秀業(ひでなり)の長子である。後に星亨を刺した想太郎は秀頴の末弟である。
「十二日。晴。藤田子中野村行一宿。」
「十三日。陰。夕雨。明日残兵御繰出相成可申、尤拙者居残、病人手厚可致旨、松軒出張被仰付。同人中野村より夜半帰寓。」一戸の記に拠れば、官軍と大鳥圭介の兵と再び幾古内(きこない)に戦つた日である。
「十四日。雨。朝五時残兵青森迄出張。」一戸の記に拠れば、是日名古屋、津軽、松前の諸藩兵が土方歳三、古屋作左衛門等の兵と戦つた。伊庭も亦兵を出した。
「十五日。晴。諸藩出張之兵大半青森より乗船渡海之事。御薬用に而青森行。」
「十六日。晴。」一戸の記に拠れば、武揚等は此日再び江刺を復せむとして清部村に至り、春日艦の砲撃を受けて退いた。
「十七日。晴。」官軍の松前を占領した日である。一戸の記にかう云つてある。「官軍海陸より並び進んで松前城に迫る。榎本子の兵退き、折戸に拠る。官軍の別隊山道より折戸の後方に出でて夾撃す。榎本子の兵敗る。官艦は松前を砲撃す。榎本軍弾丸尽き、却いて福島一渡尻内幾古内等を保有す。」(節録。)香亭の云ふを聞くに、官兵の折戸を迂回した時、岡田斧吉、本山小太郎が戦死した。「秀頴聞小太郎死。歎曰。余今而始失一臂矣。」
「十八日。晴。昨十七日昼九時松前落城之吉報有之候由。」
「十九日。陰。」香亭の云ふを聞くに、是日官軍が伊庭の福島の営を襲つた。伊庭は肩と腹とを傷けられた。「遠近要害。概為敵有。我水陸兵力漸蹙。所保五稜廓及辨天千代岡二砲□而已。」
「廿日。晴。」
「廿一日。微雨。」
「廿二日。雨。」
「廿三日。陰。」一戸の記に、「春日東二艦矢不来富川の陣を砲撃し、別に二股をも攻」むと云つてある。
「廿四日。晴。」
「廿五日。微雨。」一戸の記にかう云つてある。「東春日長陽陽春丁卯の五艦函館港に向ふ。榎本子等回天蟠竜千代田三艦を以て迎へ戦ふ。榎本子等の艦佯り退く。官艦追撃す。辨天砲台の弾丸雨注す。官艦退く。」(節録。)
「廿六日。陰雨。」武揚等の兵の矢不来(やふらい)に敗れて、五稜廓に退いた日である。
「廿七日。陰。朝より青森御薬用行。」
「廿八日。陰。」
「廿九日。晴。」
「五月朔日。晴。入梅。」
「二日。晴。」一戸の記に云く。「官軍七重浜及大野邑に進む。榎本の軍夜七重浜を襲ふ。官軍追分に退く。」(節録。)
「三日。陰。夕雨。」一戸の記に拠るに、武揚等の兵が官軍を大野に夜襲して克(か)たなかつた日である。
「四日。雨。病院新兵衛方より菊重(きくぢゆう)方へ再移転。」両軍艦隊の箱館港に戦つた日である。夜森本弘策が千代田を坐礁せしめた。
「五日。雨。」両軍艦隊の大森浜に戦ひ、官兵の大川村を占領した日である。
「六日。雨。去廿九日木子内(きこない)及二股(ふたまた)之賊敗走、官軍大野有川迄進撃相成候由。」
「七日。漸晴。」武揚等の艦隊中蟠竜回天の二艦が機関を毀(そこな)つた。
「十一日。晴。午刻より中野村行。広江氏不快に付て也。一宿。途中津軽坂聴子規(ほとゝぎすをきく)。」是日武揚等は遂に自ら諸艦を焚(や)いた。
「十二日。陰。夕微雨。朝飯後中野村出立。途中落馬、左脇打撲。午後帰寓。」是日官軍が五稜廓を砲撃した。香亭の文に曰く。「甲鉄艦発大□。撃五稜廓。屋瓦尽振。将士多死。秀頴在蓐。毎聞砲声。欲起而仆。創滋劇。遂絶。年二十七。」
「十三日。晴。去十日より箱館府戦争有之、賊徒敗走、軍艦に而も戦争有之、是亦官軍大勝利。松軒子之書状安野呂(あのろ)より来る。」

     その三百四十三

 棠軒従軍日記の己巳五月十三日後の文は下(しも)の如くである。
「十四日。朝陰(くもる)。午後晴。昨日当藩医師芳賀玄仲来。御旗向地(むかひち)へ御廻しに相成、江木軽部等近日渡海之事。」当藩は津軽である。旗を向地に廻すとは岡田総督の彼岸に航する謂(いひ)であらう。江木氏、繁太郎。軽部氏、半左衛門、四十五歳。
「十五日。陰。午後晴。御勝手方中野村引払、当所本陣へ転陣。」岡田航赴(かうふ)の準備である。一戸の記に拠れば、是日辨天砲台の戌兵降り、官軍の将校田島敬蔵、中山良三相次いで武揚に降を勧めた。武揚はこれを斥(しりぞ)け中山に託して「万国海律全書」二巻を官軍に贈つた。兵卒の逃れ去るもの踵(くびす)を接した。
「十六日。晴。月給金二両受取。」一戸の記に拠れば、是日来島(くるしま)頼三の隊が千代岡(ちよがをか)を攻撃し、大鳥圭介等退いて五稜廓に入つた。官軍の参謀黒田清隆(きよたか)は海律全書を受けて、酒五樽を武揚に贈つた。
「十七日。朝陰。午後晴。風。今夜四時御旗向地へ御渡海之事。」一戸の記に拠れば、田島敬三は是日再び往いて武揚を説いた。武揚は遂に黒田了介、中山良三と千代岡に会見して開城を約した。
「十八日。陰。風。小雨。近日軽寒、稍与二月気候相似(やゝにぐわつのきこうとあひにたり)。」一戸の記に拠れば、武揚は是日松平太郎、荒井郁之助、大鳥圭介等と与に出でて降つた。前田雅楽(うた)は兵二小隊を率(ひきゐ)て廓に入り、兵器軍糧の授受に任じた。砲二十門、銃千六百挺、米五百俵である。将卒の降るもの千余人であつた。武揚は天保七年八月二十五日に生れた。一戸が文久元年二十七歳にして和蘭に留学したと云ふを見れば、一年の違算がある。二十七歳は二十六歳の誤であらう。戊辰の年には武揚は三十三歳であつた。
「十九日。微雨。午後晴。廿日。廿一日。晴。向地敵軍去(さんぬる)十七日愈降伏、箱館府御平治相成候に付、残御人数及輜重一切渡海可致旨。尤病人三人(秋月辰三、小山忠三郎及人夫富五郎)戦事手負大病院へ御預に相成。為纏(まとめのため)磯貫一郎、藤田松軒御差越しに相成候。」十七日は武揚等の開城を約した日である。小山忠三郎は周旋方である。其他は上(かみ)に注してある。
「廿二日。陰。夜微雨。早朝油川菊重方出立。青森辰巳屋へ一旦著、大病院へ三人之病者頼行。其後往吉屋藤右衛門へ落着。風波悪敷(あしく)、船不出帆。」
「廿三日。晴。午後雨。午後八時青森港出帆、夜五時過箱館著船。」
「廿四日。微雨。朝上陸。大病院下宿和島屋某へ著。本藩兵隊東京府迄引揚可申旨。尤明朝十字乗船之事。斎藤勘兵衛、河野乾二(けんじ)、生口拡(いくちひろめ)病者為纏居残被仰付。」斎藤勘兵衛、二十七歳。席順に「撃小長」の肩書がある。鷹撃隊小隊長の略ださうである。河野乾二「軍事方」の肩書がある。
「廿五日。晴。後微雨。朝十字英船アラビアン乗船。夕四字箱館港出帆。」
「廿六日。雨。廿七日。午後晴。廿八日。晴。夜十一字横浜港迄著船。無程出帆。」
「廿九日。晴。朝四時頃品川著船。鮫津川崎屋へ上陸。夫々分散。病院は脇本陣広島屋太兵衛へ落著。御上(おんかみ)当時御在府に而、一統へ御意有之並に為陣服料(ぢんふくれうとして)金三両宛(づつ)被成下(なしくださる)。尤典式伊木市十郎御使者也。」席順には「典式伊木市左衛門、三十八」と云つてある。
「六月朔日。微雨。従天朝(てんてうより)一同へ御酒御肴被下置。午刻より長谷寺(ちやうこくじ)、祥雲寺参詣。」
「二日。雨。於丸山邸岡田総督始夫卒迄御酒御吸物被成下。於福山当二月紋次郎痘死之由。」棠軒は始て二子紋次郎の死を聞知したのである。紋次郎は二歳にして夭した。
「三日。四日。雨。五日。陰。夜又雨。大殿様より一同へ御酒御肴被成下。当所かまや川崎や両所に而開宴。」大殿は四代前の正寧(まさやす)である。
「六日。雨。七日。陰。夕雨。午後二字大坂艦乗組延引。」
「八日。雨。午後漸晴。朝五時過大坂艦乗組、十字品川浦出帆。岡田総督御用に而、堀副督修業被願、青木氏薄手負に付、斎木文礼御用有之逗留。」青木氏、勘右衛門。
「九日。晴。午後微雨。艦中。十日。晴。夕七時半過鞆津(とものつ)着船上陸。善行寺(ぜんぎやうじ)一泊。」
「十一日。晴。朝五半時鞆津出立。水呑(みのみ)村昼食。安石、吟平迎。地引(ぢびき)より総隊行列午後八半時着。鉄御門前へ一等官御出迎。夫より御宮拝礼、神酒頂戴之上引取。」安石は飯田安石である。吟平は辛未の日録に見えてゐる榎本吟平か。

     その三百四十四

 棠軒は戊辰九月二十一日に福山を発して北征の軍に従ひ、己巳六月十一日に還つた。わたくしは当時これを郷里に迎へた人々を検して見ようとおもふ。先づ飯田安石が中途に出迎へたことは既に言つた。次に家に帰つた日に来り賀したものは、「元民、玄昌、玄高、養竹、養真、養玄、泰安、菊庵、立造、玄察、金左衛門、洞谷、理安、策、恒三、雄之介、祐道、勘兵衛、桑名屋、豊七等」と書してある。翌日の客中より重出者を除けば、「東安、銑三郎、高山、」「孫太郎、顕太郎、安貞」がある。其次の日の客に「成安、全八郎」、「貞白」、「平蔵」がある。
 此中桑名屋、豊七の二人は、安石と倶に出迎へた吟平と同じく、出入商人若くは厠役(しえき)の類(たぐひ)であらう。今文書に就いて其他のものを挙げる。元民は「九人扶持、准、皆川元民、三十七、」玄昌は「八人扶持、准、成田玄昌、二十六、」玄高は門人「成田竜玄次男玄高、」養竹は「十人扶持、御足八人扶持、医、森養竹、六十四、」養真は「五十俵、森養真、三十五、」養玄は「十三人扶持、書教授試補、岡西養玄改待蔵、三十一、」泰安は「十人扶持、御足十人扶持、医、鼓泰安、五十九、」菊庵は「十人扶持、御足五人扶持、医、鼓菊庵、五十四、」立造(りふざう)は「十人扶持、御足三人扶持、執、松尾立造、三十九、」玄察は「十人扶持、御足三人扶持、補、谷本玄察、四十、」金左衛門は「百四十石八十俵、内、藤田金左衛門、三十五、」若くは「百三十石、御宮掛、大林金左衛門、四十七、」洞谷は「十三人扶持、吉田洞谷、四十二、」理安(りあん)は「八人扶持、准、村上理庵、四十三、」策(さく)は「九人扶持、御足三人扶持、准、市岡策、四十二、」恒三は「九人扶持、桑田恒庵改恒介、六十、」若くは其子、雄之介は「五十俵、市令、内田雄之介、四十五、」祐道は「医、横田祐道、」勘兵衛は「十八俵、渡辺勘兵衛、三十一、」東安は「十八人扶持、医、三好東安、四十九、」銑三郎は「五十俵、大森銑三郎、三十、」高山(たかやま)は「二百二十石、高山郷作、三十一、」孫太郎は「五十俵、三富孫太郎、二十八、」顕太郎は門人「町医師、柳井顕太郎、」安貞は「二十俵二人扶持、前田安貞、三十二、」成安は「十二石二人扶持、医、三好成安、二十三、」全八郎は「十四石三人扶持、御料理人頭、上原全八郎、五十七、」貞白は「十人扶持、御足四人扶持、補、石川貞白、五十九、」平蔵は「村片平蔵、二十七」であらう。此中疑ふべきものがあるが、煩を避けて細論しない。戊辰席順の年齢は一年を加へた。肩書の省文中にはわたくしが自ら解せずして、漫然抄写したものが二三ある。
 わたくしは最も注意すべき人物として、養竹立之、養真約之の森氏父子及岡西養玄を表出し、又伊沢分家に縁故最深き人物として、石川貞白及上原全八郎を指点し、此に賀客の記を終へようとおもふ。飯田安石の棠軒養母の所生なることは、重て註することを須(もち)ゐぬであらう。
 棠軒は凱旋の月十四日に藩の「医官」を拝した。是は早く三月二十五日に、同班のものと共に命ぜられたが、出征間であつたので、此に至つて始て命を領したのである。六月十四日には、棠軒が偶(たま/\)目を病んでゐたので、森枳園が代つて登衙した。事は棠軒公私略と函楯軍行日録とに重見してゐる。只前者が目疾の事を言はぬだけである。
 按ずるに此任命は制度の変更より生じた形式に過ぎなかつたであらう。何故と云ふに、事実に於て医官たることは既に久しかつたからである。
 中一日を隔てて六月十六日に、棠軒は世禄の命を拝した。是も亦早く前年戊辰の冬に命ぜられたのである。「伊沢春安。其方儀是迄被下置候禄高之内五十石世禄に被仰付、其余は御足高に被仰付候。」公私略と軍行日録とが同文である。

     その三百四十五

 棠軒は北征より還つて後、日記の筆を絶たなかつた。軍行日録の余紙ある限はこれを用ゐて稿を継ぎ、その尽くるに及んで別に「棠軒日録」二巻を作つた。棠軒の日記は軍行日録より以下凡三巻ある。わたくしは此より後、材を棠軒公私略と棠軒日録とに取ることとする。
 上文は己巳六月十四日に棠軒が藩の医官を拝するに終つた。わたくしは先づ其後の日記中より目に留まつた件々を抄出する。
「廿七日。(六月。)晴。江木老人来。」是は鰐水が戦後初度の来訪であつたらしい。日記に見えてゐる森枳園父子、岡西養玄の往来の如きは此に抄せない。其往来殆虚日なきが故である。養玄は嘗て一たび柏(かえ)の所生の女(ぢよ)梅を娶(めと)つて、後にこれを出したものである。然るに伊沢岡西二家の人々は殆細故(さいこ)意に介するに足らずとなすものの如くである。推するに是は人材を重んずる蘭軒の遺風に出づるものであつたらしい。養玄は後の岡寛斎である。
「廿九日。陰。去(さんぬる)十七日於東京府殿様福山藩知事被為蒙仰候(おほせをかうむらせられそろ)に付、右為御祝儀(ごしうぎとして)御帳可罷出之処、当病不参。」阿部正桓(まさたけ)が藩主より藩知事に更任せられたのである。後七夕(せき)の条に「当日御祝儀御帳出勤」と記してある。
 七月九日に棠軒は深津郡(ふかづごほり)吉津村に移住せむことを請うて允(ゆる)された。按ずるに棠軒は早く前年戊辰八月九日に吉津村に移つた。此に謂ふ「移住」は其地を永住の所とする意であらう。福山県には是より先甲子の歳に屋敷割の事があつたので、棠軒は同班と連署して下(しも)の願書を呈した。「元治元年甲子歳。屋敷拝領被仰付候様被仰出候に付、私共業柄之事故、町場近き屋敷拝領仕度奉内願候以上。五月廿九日。成田竜玄。伊沢春安。石川貞白。」棠軒は今此「拝領屋敷」として吉津村の地を乞ひ得たのであらう。日録に云く。「九日。(七月。)晴。午後驟雨。月番中に付、以養真内願差出如左。口上之覚。私儀御領分深津郡吉津村え在宅仕度奉内願候以上。七月九日。伊沢春安。右鼠半切相認中折半分上包。右即刻内願之通勝手次第被仰渡候旨、督事官吉左衛門殿、造酒之丞殿被申談候由、養真より申来る。」吉左衛門は三浦氏、三十歳。造酒之丞(みきのじよう)は渡辺氏、年齢不詳。
 同じ日(七月九日)の記に猶「岡より被招、洞谷同道行飲」の文があつてわたくしの目を惹いた。岡西養玄は蚤(はや)く此時岡氏に改めてゐたらしい。己巳席順に養玄の右傍(いうばう)に「待蔵」と註したのを見るに、啻(たゞ)に縦線を以て養玄の二字を抹してゐるのみならず、線は上(かみ)「西」字にも及んでゐる。按ずるに岡西養玄は己巳に一たび岡待蔵と称し、次で岡寛斎と改めたのである。洞谷は画師吉田氏で、上(かみ)にも見えてゐる。
「十一日。(七月。)晴。吉津へ行、家作大工に為積(つもらす)。飯島金五郎引請に而、銀札三貫目、月一歩二之利足を加へ、当暮迄借用、養竹証人也。」当時の銀相場金一両銀十八匁を以てすれば、三貫目は百六十六両余である。是が関西地方当時の家屋建築費である。しかしわたくしは此の如き計算に慣れぬから、此数字には誤なきを保し難い。

     その三百四十六

 棠軒日録己巳七月の条には、次に冢子(ちようし)平安の教育の事が見えてゐる。「十二日。(七月。)晴。馬場に行。平安誠之館稽古一件頼。」馬場保之助は此年の席順第五等席に載せてあつて、「教授」の肩書がある。平安は今の徳(めぐむ)さんで、当時十歳であつた。
 次に日録に始て意篤(いとく)と云ふものの来訪が書してある。「十五日。雨。意篤来。」按ずるに川村意得重善(しげよし)の子、長を重監(しげあき)と云ひ、仲を新助退(しんすけたい)と云ひ、季を敬蔵重文(けいざうしげぶみ)と云ふ。重文の妹天留(てる)の夫が意篤重貞(しげさだ)、重貞の子が重固(しげかた)である。退、字(あざな)は進之(しんし)、悔堂と号す。霞亭北条譲の養嗣子である。蘭軒と霞亭との親善であつたことは上(かみ)に見えてゐる。今此文に由つて、蘭軒の養孫棠軒と霞亭の養子悔堂の妹婿(いもうとむこ)との交際が証せられるのである。意篤は己巳六十二歳であつた。以下意篤との往来は省く。
「十七日。陰(くもる)。普請取掛延引、明日より相始。」深津郡吉津村の構築である。
「十八日。陰。平安誠之館へ今日より出す。尤手跡学問共。」嫡子の就学である。
「廿三日。午後雨。高束(たかつか)に行。お長縁談の一件御奥御都合承合(うけたまはりあはせ)。」棠軒の女長は当時十六歳であつた。此文より推せば、長は阿部家の奥に仕へてゐたのに、これを娶(めと)らむと欲するものがあつて、棠軒は長がために暇を乞はうとしてゐたのではなからうか。高束応助は己巳六十四歳であつた。阿部家奥向の事を管してゐたものか。
「廿五日。晴。馬屋原(まいばら)、上原、石川へ寄、吉津見廻り。」馬屋原玄益は席順に拠るに己巳三十八歳で、生年は天保三年である。蘭軒の詩を贈つた成美伯好(せいびはくかう)の子で、当時江戸にあつたものと推せられる。棠軒は其留守宅を訪うたのである。
「廿六日。雨。昨日箱館残り御人数帰著。岡田、斎藤、青木在其内。有祝行。家作料三貫目被成下、会計局より受取。」北征の時の総督岡田創以下が前日福山に還つたのである。吉津村構築の費用は阿部家より給せられて、棠軒は債を償ふことを得た。
「廿九日。晴。殿様於東京天杯御頂戴被為蒙仰候(おほせをかうむらせられそろ)御祝儀五時より四時迄之内出仕御帳有之。」阿部正桓(まさたけ)の朝恩を蒙つたのを賀するのである。
「九日。(八月。)晴。吉辰に付普請場へ引移。引越御達(おんとゞけ)月番へ差出す。」吉津村の新居に移つたのである。手伝人中に飯田安石夫妻、森養真、岡待蔵等の名がある。公私略の文は日録と同じである。
「十四日。雨。殿様御帰藩被遊候に付、朝五半時揃総出仕、午刻御著。馬屋原、内野御供。」阿部正桓が福山に還つたのである。馬屋原の事は上(かみ)に註した。内田亦医官である。席順に「八人扶持、補、内田養三、三十六」と云つてある。
「十九日。晴。当直。当春より殿直(でんちよく)に不及、宅心得に相成。尤他出無用。当朝拝診可罷出之事。」棠軒勤仕の状況を見るべきである。
「廿一日。晴。石川大夫へ行。過日帰著に付。」藤陰成章(とういんせいしやう)であらう。己巳席順に「二百石、御足百石、上議員、関藤文兵衛、六十三」と云つてある。藤陰舎遺稿に拠るに、藤陰は此年正月東京に往つた。又東京を発する前不争斎正寧(ふさうさいまさやす)が宴を本所石原邸に賜うた。家乗には「七月廿一日東京発、八月十八日福山著、廿四日執政を罷め、波平行安作刀一振を賜ふ」と云つてある。
「三日。(九月。)晴。渡辺省診。文兵衛殿へ寄一診。」棠軒は渡辺氏を往診する次(ついで)に、藤陰の病を診した。渡辺氏の事は是より先八月十日の条に、「渡辺母公不快之由申来、午後見舞行」と云つてある。その「母公」と云ふより見れば、病者は席順の「大監察、渡辺造酒丞、五十七」の母であらう。藤陰は東京より帰つた直後に病んだと見える。

     その三百四十七

 わたくしは棠軒日録己巳九月の条を続抄する。
「廿二日。(九月。)晴。三沢順民(みさはじゆんみん)病死之由申来。養玄同道悔行(くやみにゆく)。」三沢は己巳席順に「十人扶持、准、三沢順民、廿九」と云つてある。その壮年にして歿したことを知るべきである。蘭軒と菅茶山との往復に見えた玄閑の後で、蘭医方に転じたと云ふは此人か。棠軒は寛斎と共に往いて弔した。
「廿五日。晴。去冬箱館戦争為御褒美、今般知事様へ永世六千石下賜趣、右為御祝儀御帳罷出候。」禄を阿部正桓に賜はつたのである。
「二日。(十月。)晴。文兵衛殿省診。」二たび関藤藤陰を往診したのである。
「十九日。徳児携手(とくじをたづさへて)城浦(しろうら)より釣舟遊行。」冢子(ちようし)平安の徳(めぐむ)と改称したことが始て此に見えてゐる。
「廿日。晴。関藤へ行。」此訪問は病を診せむがためなりや否やを知らない。関藤氏の家乗に拠れば、藤陰は戊辰十二月三日に本姓に復し、中岡才助に石川氏を譲つたのだと云ふ。才助は後の陸軍歩兵大尉石塚敬儀(よしのり)である。原来棠軒日録には殆日ごとに「石川へ行」、「石川へ寄」等の文がある。是は石川貞白である。そして事の藤陰に係るものは、初より必ず石川大夫若くは文兵衛殿と書してあつた。わたくしは読んで此に至つて始て関藤の文字に逢著したのである。
「廿一日。晴。徳児携へ角力見物。陣幕土俵入並五人掛り有之。」陣幕久五郎が技を福山に演じたのである。
「廿二日。晴。」是日棠軒の訪問した六家の中に、又関藤がある。第四次の往診である。
「廿七日。晴。御隠居様御不快被為入(ごふくわいにいらせられ)御容体書於御家従詰所拝見。養竹為御見舞(おんみまひとして)東京へ早打に而被遣候旨。右に付同家へ行。」阿部正寧(まさやす)が東京石原邸に於て病んだ。森枳園が問候のために東京へ急行した。棠軒はこれを聞いて家従詰所に往き、老侯の病況書を閲(けみ)し、後森氏を訪うたのである。下(しも)に枳園発程の記事のないのを見れば、枳園は此日に福山を発したものと見える。枳園は時に年六十四であつた。
「十三日。(十一月。)夜来雨。」棠軒の此日に訪うた三家の中に「真野」がある。己巳席順に「八十俵、真野兵助、五十」と云つてある。蘭軒に交つた竹亭頼恭(ちくていよりゆき)には孫、陶後頼寛(たうごよりひろ)には子で、名は頼直(よりなほ)、小字(をさなな)松三郎、竹陶と号した。今の幸作さんの父である。
「十八日。晴。三沢礼介家督被仰付。右祝行飲(いはひにゆきのむ)。」礼介は順民(じゆんみん)の後を襲(つ)いだのであらう。
「廿三日。晴。大殿様為御看病東京へ御発駕被遊候に付、為御機嫌伺朝六時出勤。五半時過早打に而御出被遊候。立造(りふざう)御供。」正寧の病を瞻(み)んがために、正桓が東京へ急行した。随行の医官は松尾立造であつた。
「廿四日。晴。」是日棠軒の歴訪した五家の中に又関藤がある。第五次の往診か。
「七日。(十二月。)晴。柏(かえ)他行(たぎやう)。」曾能子刀自の未だ名を更めてをらぬことが知られる。
「十一日。陰。三沢玄閑一周忌に付観音寺仏参。」此玄閑は恐くは順民の父、礼介の祖父であらう。戊辰十二月十一日に歿して、観音寺に葬られたと見える。
「十四日。晴。狩谷より書状到来。」当時□斎望之の養孫にして、懐之の養子なる矩之が二十七歳であつた。矩之は維新後明治五六年頃に至るまで津軽家の本所横川邸に□居してゐたさうである。書状は或は此家に移つた後に発したものか。
「廿八日。晴。屠蘇献上。」屠蘇を上(たてまつ)る家例は未だ廃せられずにゐる。
 此年棠軒三十六、妻柏三十五、子徳十一、女長十六、良十四、磐安二十一、平三郎九つ、孫祐七つ、姉国二十六、安十八、柏軒の妾春四十五であつた。

     その三百四十八

 明治三年は蘭軒歿後第四十一年である。棠軒は歳を福山に迎へた。藩主阿部正桓は四代前の不争斎正寧の病を瞻(み)むがために、東京に淹留してゐた。「正月元日。晴。夕微雨。御留守中に付、御祝儀御帳罷出。」
「二日。晴。江木老人、洞谷、養玄来飲。」江木鰐水は既に六十一歳になつてゐた。
「十日。晴。」来客四人中に「兵治(ひやうぢ)」がある。己巳席順一本に「真野兵治」がある。竹陶兵助が改称したのではなからうか。
「十七日。晴。御上(おんかみ)東京より御帰藩被遊候に付、四半時平服に而出仕。松尾へ寄。同人御供に而帰著に付。」正桓と医官松尾立造(りふざう)とが福山に還つたのである。
「廿三日。晴。月番意篤(いとく)より通用。御隠居様御不快為御看病東京府出府被仰付。尤養竹交代、支度出来次第之旨。」河村意篤が正桓の命を伝へ、棠軒をして森枳園と交代して東京に赴き、正寧に侍せしむることとなつたのである。公私略に同文の記がある。
「廿七日。微雨。午後晴。」是日棠軒の往訪した七家の中に関藤がある。想ふに藤陰の病は既に愈(い)えてゐたのであらう。以下関藤氏との往反は故あるにあらざる限は復抄せぬこととする。
「廿九日。晴。明日乗船に付、御暇乞に出。」将に福山を発して東京に向はむとするのである。「お長三夜之御暇被下下宿。」わたくしは前に棠軒の女長は阿部家の奥に勤めてゐるらしいと云つたが、果してさうであつた。是日の記に来客二十一人の名があつて、中に「藤陰翁」がある。関藤氏の号は日録には始て此に見えてゐる。
「二月朔日。晴。出帆之処船都合に而延引。」
「三日。晴。お長御広敷(おんひろしき)へ上る。」広敷は奥向、台所向を通じて称へた語である。三夜の暇は此に果てた。「明日愈乗船治定。」
「四日。晴。乗船の積に付、飯田に而相待。明日に延引に付、一先帰宅。」
「五日。晴。今夜鞆喜(ともき)一六船へ乗船に治定。夜四半時出宅。八時頃乗組出帆。御貸人中間(おんかしびとちゆうげん)治三郎召連、両掛(りやうがけ)一荷、主従夜具持込。此夜手城(てしろ)沖碇泊。」送つて埠頭に至つたものの名は省く。
「十日。晴。風。兵庫著、夜半入津(にふしん)。」
「十六日。晴。午前米国紐育船著津。明日右船へ乗組出帆之事。船賃二人分洋銀二十枚、此代金札二十二両、外に三歩手数料。」洋銀相場並に船賃を知らむがために抄したのである。
「十七日。陰。午後雨。夕七時乗組。」
「十八日。晴。暁七時過神戸港出帆。」
「十九日。晴。午時横浜港へ著船。
次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:1078 KB

担当:undef