伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

 柏軒の治病法は概ね観聚方等に従つて方を処し、これに五六種の薬を配した。それゆゑ一方に十種以上の薬を調合するを例とした。是は明清医家の為す所に倣つたのである。観聚方は多紀桂山の著す所で、文化二年に刊行せられた。
 柏軒の技が大に售(う)れて、侯伯の治を請ふものが多かつたことは上(かみ)に云つた如くである。渋江保さんは嘗てわたくしに柏軒と津軽家との関係を語つた。津軽家は順承(ゆきつぐ)の世に柏軒を招請し、承昭(つぐあき)も亦其薬を服した。柏軒の歿後に其後を襲(つ)いだものは塩田楊庵であつた。当時津軽家の中小姓に板橋清左衛門と云ふものがあつた。金五両三人扶持の小禄を食(は)み、常に弊衣を着てゐるのに、君命を受けてお玉が池へ薬取に往く時は、津軽家の上下紋服を借りて着て、若党草履取をしたがへ、鋏箱を持たせて行つた。板橋は無邪気な漢(をとこ)で、薬取の任を帯る毎に、途次親戚朋友の家を歴訪して馬牛の襟裾(きんきよ)を誇つたさうである。松田氏の云ふを聞くに、細川家も亦柏軒の病家であつた。
 柏軒の相貌は生前に肖像を画かしめなかつたので、今これを審(つまびらか)にし難い。曾能子刀自の云ふには、榛柏の兄弟は兄が痩長で、弟が肥大であつた。父蘭軒に肖(に)たのは、兄ではなくて弟であつたと云ふ。
 松田氏はかう云つてゐる。「柏軒先生は十年前の信平君に似てゐた。あれを赭顔(あからがほ)にすると、先生そつくりであつたのだ。先年わたくしは磐(いはほ)の名義を以て、長谷寺に於て先生の法要を営んだことがある。其時門人等が先生に遺像の無いのを憾として、油画を作らせようとした。それには信平君を粉本として画かせ、わたくしにその殊異(しゆい)なる処を指□せしめ、屡改めて酷肖(こくせう)に至つて已むが好いと云ふことになつた。此画像は稍真に近いものとなつた。」渋江保さんの云ふには、此法要は恐くは明治三十二年柏軒三十七回忌に営まれたものであらうと云ふ。
 松田氏は又云つた。「柏軒先生の面貌には覇気があつた。これに反して渋江抽斎先生は丈高く色白く、余り瘠せてはゐなかつたが、仙人の如き風貌であつた。」

     その三百二十五

 柏軒が父蘭軒、兄榛軒と同じく近視であつたことは、既に上(かみ)の松田氏観劇談に見えてゐる。柏軒の子徳安磐にも此遺伝があつたさうである。最も奇とすべきは、柏軒近視の証として、彼蘭軒が一目小僧に逢つたと云ふに似た一話が伝へられてゐることである。それはかうである。
 浜町に山伏井戸と云ふ井があつた。某(それ)の年に此井の畔(ほとり)に夜々(よな/\)怪物(ばけもの)が出ると云ふ噂が立つた。或晩柏軒が多紀□庭(さいてい)の家から帰り掛かると、山伏井戸の畔で一人の男が道連になつた。そして柏軒に詞(ことば)を掛けた。
「檀那。今夜はなんだか薄気味の悪い晩ぢやあありませんか。」
 柏軒は「何故」と云つて其男を顧みて、又徐(しづか)に歩を移した。
 男は少焉(しばらく)して去つた。
 次の夜に同じ所を通ると、又道連の男が出て来て、前夜と同じ問を発した。然るに柏軒の言動は初に変らなかつた。
 三たび目の夜には男は出て来なかつた。是は来掛かる人に彼問を試みて、怖るべき面貌を見せたのであるが、柏軒は近視で其面貌を見なかつた。男は獺(かはをそ)の怪であつたと云ふのである。渋江保さんは此話を母五百に聞き、後又兄矢島優善(やすよし)にも聞いたさうである。
 柏軒は絶て辺幅を修めなかつた。渋江保さんの云ふを聞くに、柏軒は母五百を訪ふ時、跳躍して玄関より上り、案内を乞ふことなしに奥に通つた。幼(いとけな)き保の廊下に遊嬉(いうき)するを見る毎に、戯に其臂を執つてこれを噬(か)む勢をなした。保は遠く柏軒の来るを望んで逃げ躱(かく)れたさうである。
 柏軒は酒色を慎まなかつた。毎に門人に戯れて、「己も少(わか)い時は無頼漢であつた」と云つたのである。又門人平川良栄は柏軒の言(こと)として竊(ひそか)に人に語つて云ふに、「先生はいつか興に乗じて、己の一番好なものは女、次は酒、次は談(はなし)、次は飯だと仰つたことがある」と云つた。好色の誚(そしり)は榛柏の兄弟皆免れなかつたが、二人は其挙措に於て大に趣を殊にしてゐた。榛軒は酒肆妓館に入つて豪遊した。しかし家庭に居つては謹厳自ら持してゐた。これに反して柏軒は家にあつて痛飲豪語した。少かつた頃には時に仕女に私したことさへあつた。是は曾能子刀自の語つた所である。
 柏軒は家人を呼ぶに、好んで洋人の所謂ノン、ド、カレツスを以てした。息(むすこ)鉄三郎を鉄砲と云ひ、女(むすめ)安(やす)を「やちやんこ」と云ひ、琴を「おこちやん」と云つた類である。是は柏軒の直情径行礼法に拘らざる処より来てゐる。此癖(へき)は延(ひ)いて其子徳安に及び、徳安は矢島優善の妻鉄を呼んで「おてちやん」と云つた。これに反して渋江抽斎の如きは常に其子を呼ぶに、明に専六と云ひ、お陸と云つた。女(むすめ)棠(たう)に至つては、稍呼び難きが故に、特に棠嬢と称した。
 柏軒は江戸市中の祭礼を観ることを喜んだ。是は渋江抽斎と同嗜であつた。松田氏はかう云つてゐる。「柏軒先生や抽斎先生の祭礼好には、わたくし共青年は驚いた。柏軒先生の家が中橋にあつた頃は、最も山王祭を看るに宜しく、又狩谷翁の家は明神祭を看るに宜しかつた。山車(だし)の出る日には、両先生は前夜より泊り込んでゐて、斥候(ものみ)を派して報(しらせ)を待つた。距離が尚遠く、大鼓の響が未だ聞えぬに、斥候は帰つて、只今山車が出ましたと報ずる。両先生は直に福草履を穿いて馳せ出で、山車を迎へる。そして山車の背後に随つて歩くのである。車上の偶人、装飾等より囃の節奏に至るまで、両先生は仔細に観察する。そして前年との優劣、その何故に優り、何故に劣れるかを推窮する。わたくし共は毎に両先生の帰つて語るのを聞いて、所謂大人者不失其赤子之心者也とは、先生方の事だと思つた。」以上が松田氏の言(こと)である。わたくしは偶(たま/\)松崎慊堂文政甲申の日暦を閲して、「十五日(六月)晴、熱、都下祭山王、結綵六十余車、扮戯女舞数十百輩、満城奔波如湧」の文が目に留まつた。慊堂も亦祭礼好の一人ではなかつただらうか。

     その三百二十六

 柏軒の一大特色はその敬神家たるにあつた。兄榛軒の丸山の家には仏壇があり、又書斎に関帝、菅公、加藤肥州の三神位が設けてあつたに過ぎぬが、柏軒の中橋の家、後のお玉が池の家には、毎室に神棚があつた。
 棚は白木造で、所謂神体を安置せず、又一切の神符の類をも陳ぜなかつた。只神燈を燃し、毎旦塾生の一人をして神酒を供へしめた。松田道夫(だうふ)は塾頭たる間、常に此任に当つてゐた。神酒を供へ畢(をは)れば、主人は逐次に巡拝した。
 柏軒の神を拝する時間は頗(すこぶる)長かつた。塾生中には師を迷信なりとして腹誹(ふくひ)し、甚しきに至つては言(こと)に出し、其声の師の耳に達するをも厭はぬものがあつた。家の玄関には昧爽より轎丁(かごかき)が来て待つてゐて、主人の神を拝して久しく出でざるをもどかしがり、塾生を呼んで「もし/\、内の神主さんの高間が原はまだ済みませんかい」などと云つた。柏軒は此等の事を知つてゐて、毫も意に介せなかつた。
 柏軒は江戸の市街を行くにも、神社の前を過ぐる毎に必ず拝した。公事を帯びて行くのでないと、必ず鳥居を潜り広前(ひろまへ)に進んで拝した。又祭日等に、ことさらに参詣するときは、幣(みてぐら)を供ふることを懈(おこた)らなかつた。
 癸亥の年に西上した時には、柏軒は駅に神社あるに逢へば必ず幣を献り、神職に金を贈つた。「神道録」は断片に過ぎぬが、当時柏軒が所感を叙述したものである。京都に入つた後、公事に遑(いとま)ある毎に諸神社を歴訪したことは、上(かみ)に引く所の日記にも見えてゐる。
 柏軒が京都にゐて江戸の嗣子徳安並に門人等に与へた書に、「兼与大小神祇乍恐同心合意候間、一切災害不加正直忠信之人祈願仕候間、其地吾一家に不限、知識正真、忠心善意善行之者、被災害事者決無之、(中略)唯一途に正真忠信に奉神奉先接人憐物関要に候」と云つてある。その信念のいかに牢固であつたかを徴するに足るのである。此書は上(かみ)に其全文を引いて置いた。
 柏軒は屡神の託宣を受けたと称した。松田氏は其一例を記憶してゐて語つた。「柏軒先生は毎年八月二十五日に亀井戸の天満宮に詣でた。其日には門人数人をしたがへ、神田川より舟に乗つて往つた。小野富穀(ふこく)の如きは例として随従した。安政三年八月二十五日に門人数人が先生の終日家に帰らぬを予期して、相率(あひひきゐ)て仮宅に遊んだ。わたくしも此横著者の一人であつた。然るに此日には先生は亀井戸に往かずに、書斎に籠つて日を暮らした。是は天神の託宣に依つて門を出でなかつたのである。此日は二日前より雨が少しづつ降つてゐたが、夜に入つて暴風雨となつた。江戸の被害は前年の地震に譲らず、亀井戸辺では家が流れ人が溺れた。」
 柏軒は又人の病を治して薬方の適応を知るに苦み、神に祈祷して決することがあつた。

     その三百二十七

 わたくしは此より柏軒の門人の事を言はうとおもふ。しかし蘭軒門人録、榛軒門人録は良子刀自所蔵の文書中に存してゐて、独柏軒のもののみが無い。歴世略伝には只九人の名が載せてある。「門弟。松田道夫、塩田真、志村玄叔、平川良栄、清川安策、岡西養玄(後岡寛斎)、成田元章、斎木文礼、内田養三(岡西以下福山藩。)」
 此等の門人中主として師家のために内事に任じたものは清川、志村、塩田の三人で、外事に任じたものは松田であつたと云ふ。
 清川安策孫の事は既に榛門の一人として上(かみ)に載せてある。しかしわたくしは後に堀江督三さんを介し、孫の継嗣魁軒さんに就いて家乗を閲(けみ)することを得たから、此に其梗概を補叙する。
 蘭門の清川□(がい)は家世より言へば孫の祖父、実は孫の父であつた。是は既に云つた如く孫が所謂順養子となつたからである。
 □、字(あざな)は吉人(きつじん)、靄□(あいとん)、靄軒、梧陰等の号があつた。居る所に名けて誠求堂と云つた。本榎本氏、小字(をさなな)を武平と云つた。
 □の生父榎本玄昌も亦医を業とした。□は其次男として寛政四年に生れた。文化元年十三歳の時□の兄友春(いうしゆん)に汚行があつて、父玄昌はこれを恥ぢて自刃した。□は兄の許にあるを屑(いさぎよし)とせずして家を出で、経学の師嘉陵村尾源右衛門と云ふものに倚つた。村尾は□をして犬塚某の養子たらしめた。某の妻□を悪(にく)んで虐遇すること甚しかつた。□は犬塚氏を去り、鎌倉の寺院に寓し、写経して口を糊した。
 □は此時に至るまで家業を修めなかつたが、一日(あるひ)医とならむとする志を立て、始て蘭軒の門に入つた。
 蘭軒は□をして清川金馬の養子たらしめた。時に文化十三年、□は二十五歳にして昌蔵と改称し、後又玄策、玄道と称した。
 文政十年、□三十六歳の時嫡男徴(ちよう)が生れた。初の妻宝生氏の出である。此年□は中風のために右半身不随になり、且一目失明した。按ずるに後年蘭軒の姉正宗院の寿宴のとき、□の伊沢氏に寄せた書は此病の事を知つた後、始て十分に会得することが出来るのである。
 天保五年徴が八歳になつたので、□はこれをして佐藤一斎に従遊せしめた。九年徴は十二歳にして榛軒の門人となつた。是年又□の次男孫が生れた。継室柵子(さくこ)の出である。柵子、後道子と云ふ。柴田芸庵(うんあん)の妹である。按ずるに渋江氏の伝ふる所の□が窮時の逸事は、文政の初より天保の初に至る間の事であらう。
 十年七月二十八日□は四十八歳にして将軍家慶(いへよし)に謁した。行歩不自由の故を以て城内に竹杖を用ゐることを許された。
 十四年次男孫六歳にして長戸得斎の門に入つた。
 弘化二年嫡男徴十九歳にして豊後岡の城主中川修理大夫久昭(ひさあき)に仕へ、四年二十一歳にして侍医となつた。
 嘉永元年孫十一歳にして榛軒の門に入つた。五年榛軒が歿して、孫は十五歳にして柏軒の門に転じた。按ずるに徴と孫とは皆榛門にゐたのに、門人録は徴を佚して、独り孫を載せてゐる。又按ずるに孫は小字(をさなな)を昌蔵と云ひ、後安策と改めたが、此改称は早く榛軒在世の時に於てせられた。魁軒さんの蔵幅に榛軒の柏軒に与へた書がある。「昨日御相談昌蔵命名之儀、愈安策に仕候。安全之策急に出所見え不申候。賈誼伝に者治安策と見え申候。先認指上申候。(中略。)桑軒とも御相談可被下候。(中略。)燈市後一日。」桑軒は未だ考へない。或は徴の号棗軒(さうけん)を一に桑軒にも作つたものか。

     その三百二十八

 わたくしは柏軒門人清川安策孫の事を記して、清川氏の家乗を抄出し、嘉永五年に□の次男たる孫が師榛軒を失つて、転じて柏軒の門に入つたと云つた。当時父□は六十歳、嫡男にして岡藩に仕へた徴は二十六歳、次男孫は十五歳であつた。
 安政三年には孫が右脚の骨疽(こつそ)に罹つて、起行することの出来ぬ身となつた。此より孫は戸を閉ぢて書を読むこと数年であつた。
 四年徴が躋寿館に召されて医心方校刊の事に参与した。時に年三十一であつた。
 六年七月九日□が六十八歳にして歿した。是より先□は向島小梅村に隠れ棲んで吟詠を事としてゐた。現に梅村詩集一巻があつて家に蔵せられてゐる。□は再び娶つた。前妻宝生氏には子徴、女(むすめ)栄(えい)があつて、栄は鳥取の医官田中某に嫁した。継室柴田氏には息(むすこ)孫(そん)、女(むすめ)幹(みき)があつて、幹は新発田の医官宮崎某に嫁した。按ずるに栄の嫁する所の田中氏は棠軒の生家である。是に由つて観れば、木挽町の柴田氏と云ひ、鳥取の田中氏と云ひ、実は皆棠軒の姻戚である。
 十一月徴が父の称玄道を襲(つ)いだ。その受くる所の秩禄は二十五人扶持であつた。岡藩主久昭は夙(はや)く父□に所謂出入扶持十人扶持を給してゐたので、徴は弘化丁未に侍医を拝して受けた十五人扶持に加ふるに父の出入扶持を以てせられ、今の禄を得るに至つたのである。□の出入扶持には猶参河(みかは)吉田の松平伊豆守信古(のぶひさ)の給する五人扶持、上野(かうづけ)高崎の松平右京亮輝聡(てるとし)の給する二人扶持、播磨姫路の酒井雅楽頭忠顕(うたのかみたゞあき)の給する若干口があつた。
 徴が箕裘(ききう)を継ぐに当つて、孫は出でて多峰(たみね)氏を冒した。時に年二十二で、脚疽は既に癒えてゐた。是は熱海の澡浴が奇功を奏したのである。
 文久二年孫は日本橋南新右衛門町に開業した。是は当時幕府の十人衆たりし河村伝右衛門の出力に頼(よ)つたのだと云ふ。時に年二十五であつた。
 既にして次年癸亥に至り、柏軒が京都の旅寓に病んだ。孫は報を得て星馳(せいち)入洛し、師の病牀に侍したのであつた。当時江戸にある兄清川玄道徴は三十七歳、京都にある弟多峰安策孫は二十六歳であつた。
 松田氏の語る所に拠れば、松田氏より長ずること一歳の孫は、平生柏軒の最も愛する所で、嘗て女(ぢよ)国を以てこれに配せむとしたが、事に阻げられて果さず、国は遂に去つて狩谷矩之に適(ゆ)いたのだと云ふ。
 孫は京都にあつて喪に居ること数日であつたが、忽ち江戸の生母柴田氏が重患に罹つたことを聞いた。帰るに及んで、母の病は稍退いてゐた。次年元治紀元甲子四月五日に異母兄徴が歿し、尋(つい)で慶応紀元乙丑八月に母も亦歿した。徴は年を饗(う)くること僅に三十八であつた。
 徴、字は子溌(しはつ)、棗軒、杏※(きやうう)[#「こざとへん+烏」、8巻-246-上-3]、月海、済斎の諸号があつた。小字(をさなな)は釣(てう)八、長じて玄策と称し、後玄道を襲いだ。妻三村氏に子道栄、女鉄があつたが、徴の歿した時には皆尚幼(いとけな)かつた。是に於て孫は多峰氏を棄てゝ生家に復(かへ)り、所謂順養子となつた。甲子二十七歳の時の事である。

     その三百二十九

 わたくしは柏軒門人の主なるものを列叙せむと欲して、先づ清川安策孫を挙げ、其家乗を抄して慶応紀元の歳に至つた。
 慶応紀元に列侯の采地に就くものがあつて、孫の主君中川久昭も亦豊後竹田に赴いた。当時孫は母柴田氏の猶世に在る故を以て扈随することを得なかつた。孫はこれがために一旦藩籍を除かれた。
 明治二年六月久昭の東京に移つた時、孫は復籍して三人扶持を受けた。尋(つい)で廃藩の日に至つて、禄十二石を給せられ、幾(いくばく)もなくこれを奉還した。
 六年二月孫の家が火(や)け、悉く資財を失ひ、塩田真に救はれて僅に口を糊した。
 九年五月孫行矣(かうい)館の副長となつた。館は柳橋にあつた。古川精一の経営する所の病院で、其長は浅田栗園(りつゑん)であつた。栗園、初の名は直民、字(あざな)は識二(しきじ)、後に名は惟常、字は識此(しきし)と改めた。祖先は源の頼光より出で、乙葉(おとは)氏を称したが、摂津国より信濃国に徙り、内蔵助長政と云ふ者が筑摩郡内田郷浅田荘に城を構へて浅田氏となつた。後石見守長時に至つて松本の西南栗林村に居り、東斎正喜(とうさいせいき)に至つて始て医を業とした。東斎の子を済庵惟諧(さいあんゐかい)と云ふ。文化十二年五月二十三日済庵の子に栗園惟常が生れた。栗園は少時京都に遊び、中西深斎の家に寓して東洞派の医学を修め、天保七年二十二歳にして江戸に開業し、文久元年四十七歳にして将軍家茂に謁し、慶応二年五十二歳にして家茂の侍医となつた。江戸にあつては初め本康(もとやす)宗円に識られ、宗円これを多紀□庭(さいてい)、小島宝素、喜多村栲窓(かうさう)等に紹介した。住所は初め通三丁目であつたが、晩年牛込横寺町に移つた。此年栗園六十二歳、孫三十九歳であつた。
 十年東京府が孫を医会の幹事に任じた。
 十一年八月孫博済(はくさい)病院の医員となつた。博済は両替町にあつた脚気病院の名で、院長は又栗園であつた。
 十二年三月孫温知舎副都講となつた。舎は漢医方の学校であつた。
 十四年八月孫栗園と倶に滋宮(しげのみや)尚薬(しやうやく)奉御となつた。滋宮は韶子(よしこ)内親王である。
 十六年三月孫の家が再び火(や)けた。四月新居が落せられた。是月孫本町温知医黌の医学教諭となり、これに属する温知病院の副長となつた。其長は例の如く栗園がこれに任じた。九月滋宮薨ぜさせ給ふ故を以て尚薬の職を解かれた。
 十九年孫左脛に疔(ちやう)を生じ、十月四日四十九歳にして歿した。孫、字は念祖(ねんそ)、菖軒又は六菖と号した。小字(をさなな)は昌蔵、長じて安策、後玄道と称した。孫は玄道の称を襲ぐに当つて、自ら戯れて犬玄道と云つた。継嗣は今の魁軒さんである。名は温、字は子良、通称は玄道、春雨、杏花の別号がある。実は水谷丹下高射(たんげかうしや)の子で、小字を舜三(しゆんさん)と云つた。文久三年正月に生れ、明治七年十二歳にして怙(ちゝ)を失ひ、九年十四歳にして孫の門に入り、孫の歿するに臨んで、遺命に依つて家を継いだ。時に年二十四であつた。妻は徴の女(ぢよ)鉄である。孫の室酒井氏には子が無かつた。
 菖軒孫の浅田栗園と親善であつたことは、孫の履歴に徴して知ることが出来る。孫は新都善售(ぜんしう)の漢方医として栗園と並称せられた。柏軒門人中或は孫が伊沢氏を去り浅田氏に就いたと云ふものゝあつたのは、恐くは此に胚胎してゐるのであらう。栗園詩存に、「次清川菖軒七月三日剃髪詩韻却寄」の七絶がある。「銀海聞君晦転明。南薫一夜掃雲軽。洋風難化心頭月。古鏡磨来旧影清。」玄道は剃髪前目疾に罹つてゐたと見える。
 松田氏の語るを聞くに、孫が疔を生じて重態に陥つた時、松田氏は名古屋の裁判所長になつてゐたが、書を寄せて治を洋方医に託せむことを慫慂した。しかし未だ報復を得ざるに、訃音が早く至つたさうである。
 わたくしは此に清川氏の家に伝ふる所の一事を附載したい。それは柏軒の妻狩谷氏俊の病の事である。俊は処女たりし時労咳を病んで□の治を受けた。当時日毎に容態書を寄せて薬を乞うたが、其文に諧謔の語が多かつた。中に「おゝせつな咳のみ出でて影薄く今や死ぬらん望之の子は」の狂歌があつた。「逢坂の関の清水に影見えて今や引くらむ望月の駒」のパロヂイである。後年致死の病はこれとは別で、崩漏症(ほうろうしやう)であつたらしい。今謂ふ子宮癌であらうか。其証は当時の歌の四五の句に、「花のしべ石なむる此身は」と云ふのがあつた。漢薬花蕊石(くわずゐせき)は崩漏の薬である。

     その三百三十

 柏軒門人中清川安策孫の事は既に記した。次に挙ぐべきは志村玄叔である。
 玄叔、名は良□である。その天保九年に生れ、安政四年に柏軒の門に入つたことは上(かみ)に見えてゐる。文久三年柏軒に随つて京都に赴き、その病を得るに及んで、同行の塩田、踵(つ)いで至つた清川即当蒔の多峰と倶に看護に力を竭し、易簀(えきさく)の日に至るまで牀辺を離れなかつたことも亦同じである。
 頃日(このごろ)渋江保さんはわたくしのために志村氏を原宿におとづれ、柏軒在世の時の事を問うた。渋江氏は初見の挨拶をしたが、主人は手を揮(ふ)つて云つた。「いや。あなたは初対面のお客ではない。わたくし(良□)は柏軒先生の門人ではあつたが、受業の恩は却つてお父上抽斎先生に謝せなくてはならない。柏軒先生は講書の日を定めてゐても、病家の歴訪すべきものが多かつたので、日歿後に至つて帰り、講説は縦(たと)ひ強て諸生の求に応じても、大抵粗枝大葉に過ぎなかつた。時としては座に就いて巻(まき)を攤(ひら)かずに、今日は疲れてゐるから書物よりは酒にしようと云つて、酒肴を饗した。清川安策の如きは午過に来て待つてゐて、酒を飲んで空しく帰るのを憾(うらみ)とした。そこでわたくし共は柏軒先生の許を請うて、抽斎先生の講筵に列した。抽斎先生は毎月六度乃至九度の講義日を定めて置いて、決して休まなかつた。わたくし共は寒暑を問はず、午食後に中橋の塾を出て、徒歩して本所へ往つた。夏の日にはわたくし共は往々聴講中に眠を催した。すると抽斎先生は、大分諸君は倦んで来たやうだ、少し休んで茶でも喫(の)むが好いと云つて、茶菓を供した。少焉(しばらく)して、さあ、睡魔が降伏したら、もう少し遣らうと云つて講説した。酒を饗することは稀であつた。当時わたくし共は萱堂(けんだう)のお世話になり、あなたをも抱いたり負(おぶ)つたりしたことがある。抽斎先生の亡くなつた後も、二三年は本所のお宅をお尋したから、わたくしはあなたの四五歳の頃までの事を知つてゐる。萱堂は近頃如何です。」渋江氏は母山内氏の死を告げた。志村氏は嗟歎すること良(やゝ)久しかつた。
 志村氏は語を継いで云つた。「柏軒先生を除いて、わたくしの恩を承けたのは抽斎先生と枳園先生とである。実地に就いて本草を研究しようとするに、柏軒先生は病家に忙殺せられて、容易に採薬に往かなかつた。そこでわたくし共は枳園先生の採薬に随行した。わたくし共は抽斎先生をば畏敬したが、枳園先生となると頗(すこぶる)狎近(かふきん)の態度に出でた。しかし此人はわたくし共青年を儕輩として遇し、毫もわたくし共の不遜を咎めなかつた。枳園先生の本草は紙上の学問ではなかつたから、わたくし共が草木の実物に就いて難詰するに、毎(つね)に応答流るる如くであつた。想ふに是は相州に流浪し、山野を跋履した時、知見を広くした故であつただらう。」
 渋江氏は進んで柏軒の事を問うた。志村氏の答は下(しも)の如くであつた。

     その三百三十一

 志村氏は渋江氏に語つた。「わたくし(志村良□)は十四歳で柏軒先生の門に入つた。丁度安政四年で、十月に先生が将軍に謁見し、十二月に夫人狩谷氏を失つた年である。夫人は字を識り、書を善くしたが、平生は裁縫を事としてゐた。只客に酒を供する毎に、献酬の間善く飲み善く談じた。夫人の亡くなつた時、先生がかう云つた。可哀さうにお俊は己がお目見をしたお蔭で、酒を飲み過ぎて死期を早めたのだと云つた。是は十月の半以来賀客が絡繹として絶えなかつたので、夫人が日夜酒杯に親んだことを謂つたのである。勿論先生の戯謔(けぎやく)ではあるが、夫人は酒量があつたから、多少これがために病を重くしたかも知れない。」
「柏軒先生の嗜好としてわたくしの記憶してゐるのは、照葉狂言である。先生はわたくし共を中橋の佐野松(さのまつ)へつれて往くこと度々であつた。しかし此癖好(へきかう)は恐くは源を抽斎先生に発したものであつたらしい。抽斎先生は佐野松の主な顧客であつた。」
「柏軒先生は金銭の事に疎かつた。豪邁の人であつた故であらう。秩禄二百俵、役料二百俵、合計四百俵の収入があつたのに、屡財政に艱(なや)むことがあつたらしい。此の如き時、先生は金を借りた。しかし期に至つて還すことをば怠らなかつた。夫人存命中は狩谷氏が貸主で、其後は側室お春さんの弟が貸主であつたやうである。お春さんの弟は浅草の穀屋であつた。」
「文久三年将軍家茂上洛の時、柏軒先生が随員の命を受けて、□船に乗ることを嫌つたのは、当時の人の皆知る所であつた。是議論が平生洋風を悪(にく)む処から発したことは勿論である。しかし先生は猶別に思ふ所があつたらしい。先生は将軍の□船に乗るのを策の得たるものでないと謂(おも)つたのである。わたくしは先生がかう云つたのを聞いた。将軍の御上洛は陸路よりするを例とする。発著の間二十日を費す。是は□外(こんぐわい)の任にあるものが軽(かろ/″\)しく動かざるを示すのだ。朝廷で事の易きに慣れられて、ちよいと将軍を呼べと仰る、畏つて直に馳せ参ずることとなるのは宜しくない。此の如きは啻(たゞ)に将軍の威信を墜すのみではなく、朝権も亦随つて軽くなるのだと云つたのである。先生は言(こと)を左右に託して水路扈随を免れむことを謀つた。そのうち大奥より陸行の議が出て、事が寝(や)むことを得た。」
「わたくしが柏軒先生の一行に加へられたのは、松田道夫(だうふ)がわたくしに水野閣老(忠精)と先生との間を調停せしめようと謀つたためであつた。先生は松田の言(こと)を納(い)れた。しかし先生はそれ程我藩主を畏れてはゐなかつた。或時先生は満を引いてかう云つた。なに、水野侯一人が政事をしてゐるのではないから、お前達は心配するな、それよりは酒でも飲めと云つたのである。」

     その三百三十二

 志村氏の渋江氏に語つた所の柏軒事蹟は未だ尽きない。「癸亥の年に将軍家茂に扈随して江戸を発した医官数人中、行伴(かうはん)の最多かつたのは柏軒先生である。大抵医官は一門人若くは一僮僕を有するに過ぎなかつたのに、独り先生の下には塩田良三とわたくし(志村良□)とがゐて、又若党一人、轎丁(けうてい)四人がゐた。それゆゑに途次に費す所も亦諸医官に倍□(ばいし)した。」
「途上にある間も、京都に留まつてゐる間も、わたくしは塩田と議して業務を分掌した。塩田は主に出納の事に当り、わたくしは主に診療の事に当つたのである。」
「病人には二種類があつた。一は同行の旗本家人等で、一は駅々の民庶、入京後は洛中の市人である。然るに柏軒先生は毎旦将軍に謁し、退出後も亦頗多事であつたので、多くはわたくしが代つて脈を候(うかゞ)ひ方を処した。又淹京間は請に応じて往診することが日に数次で、是は皆わたくしの負担であつた。」
「わたくしは特に某日の一往診を牢記して忘れない。それは柏軒先生が既に病に罹つて引き籠つてから後の事であつた。わたくしは某病家に往診した。其家は濠に沿うて迂回して纔(わづか)に達すべき街にあつた。往くこと未だ半ならざるに、大雷雨の至るに会した。わたくしは心にかうおもつた。此の如き日に遠路を行くは人情の難しとする所である。然るに自分は労を憚らずして往く。是は確に先生の一讚詞に値するとおもつた。さて事果てて後、還つて先生を見ると、先生は色懌(よろこ)ばざる如くであつた。そしてかう云つた。足下は無情な漢(をとこ)だ。己が雷を嫌ふことは知つてゐる筈ではないか。かうして病気で寝てゐるのに、あの大雷が鳴つたのだから、足下はどこにゐても急で帰つて来てくれさうなものだ。何をぐづ/″\してゐたと云つた。なる程先生が生得雷を嫌ふことは、わたくしは熟(よ)く知つてゐた。それに嘗て躋寿館にゐて落雷に逢つてからは、これを嫌ふことが益甚しくなつてゐたのである。しかしわたくしは往診の途上では少しもこれに想ひ及ばなかつたのである。わたくしは先生の言(こと)を聞いて、その平生の豪快なるに似ず、嫌悪が畏怖となつたことを思ひ、又わたくしの如きものに倚依することの深厚なことを思ひ、覚えず涙を堕した。」
「柏軒先生の亡くなつた後、わたくしは猶伊沢氏に留まつてゐて、後事を経営し、次年元治元年に至つて始て去つた。わたくしの先生に従遊したのは前後七年で、伊沢氏にゐたのは八年である。」
「伊沢氏を去つた後、わたくしは江戸にあつて医を業としてゐた。幾(いくばく)もなく王政維新の時が来た。わたくしは山形へ移住すべき命を受けたが、忽ち藩主水野の家が江州に移封せられ、わたくしの移住は沙汰止になつた。当時わたくしは青山の水野邸にゐたが、後土地家屋を買つて遷(うつ)つた。それが此家である。」
 志村良□さんの談話は此に終る。柏軒が躋寿館にあつて落雷に逢つたことは、わたくしは既に渋江抽斎伝に記した。水野忠精の邸第(ていだい)は武鑑に「上(かみ)、三田二丁目、下(しも)、青山長寿丸、同、本所菊川町、同青山窪町」と云つてある。今の志村氏の家は千駄谷村旧(もと)原宿町である。

     その三百三十三

 わたくしは柏軒の門人中より既に清川、志村二家の事を抽(ぬ)いて略叙した。次は塩田良三である。良三、後の名は真(まさし)である。わたくしが蘭軒の稿を起した時は猶世にあつたが、今は亡くなつた。
 塩田真(しん)は既に屡此伝記に出でた人物である。祖父は小林玄端(げんたん)、父は玄瑞(げんずゐ)であつた。玄瑞は出羽国山形より江戸に来て蘭門に入り、塩田秀三(しうさん)の家を継ぎ、楊庵と改称した。その塩田氏に養はるゝに当つて、これが仮親となつたものは清川玄道□であつた。
 塩田氏の家系より言へば、高祖文隣軒自敬、曾祖楊庵、祖父秀三、父楊庵である。遠祖は平の宗盛の臣塩田陸奥守惟賢(これかた)で、八島の戦が敗れた時、宗盛の子を抱いて奥州に逃れたと伝へられてゐる。其裔自敬が始て三春に於て医を業とし、其子初代楊庵が江戸本石町に開業し、後お玉が池に移つた。楊庵の女婿を秀三と云ふ。三春の番匠佐藤某の子で、郷にあつては自敬に学び、江戸にあつては経を太田錦城に受け、医を初代楊庵に問うた。秀三は諸家の出入扶持を享けたが、就中(なかんづく)宗家の十五人扶持が最多かつた。小林玄瑞は此秀三の女婿となつて二世楊庵と称したのである。
 良三真は天保八年に生れた。師柏軒を失つた時二十七歳であつた。
 次は松田敬順道夫(けいじゆんみちを)である。その出自、その入門等は既に記した。此には先づ一事の補叙すべきものがある。それは松田の渋江抽斎に於ける関係である。松田は籍を柏門に置きながら、抽斎の講筵に列せむことを願ひ、人を介して往いて聴いた。柏軒は聞いて大に怒(いか)つた。「抽斎の講を聴くは至極好い、しかし己の門人であつて己の友人に交を求めるのに、他人を介するとは何事だ」と云つたのである。松田は過を謝して師の怒を解くことを得た。抽斎の書を講ずるは、友と談ずるが如くであつた。難句に遭ふ毎に、起つて架上より数巻の書を抽き出し、対照して徒に示し、疑義は強て決することなく、研鑽の余地を留めて置いた。来聴者の悦服した所以である。
 安政戊午に抽斎が歿し、万延庚辰に立石選銘の議が起つた。時に友人弟子中に二説があつた。一は津軽人をして銘せしめむと云ひ、一は故人の親友をして銘せしめむと云つたのである。柏軒等は後説を持して、遂に勝つた。既にして海保漁村の志銘は成つた。友人弟子等は是を読んで其大要の宜しきを得たるを認めた。就中柏軒は起首の「嗚呼問其名則医也」以下四十九字を激称して、漁村の肺腑中より出でたものとした。しかし諸人の間には異議も亦頗多かつた。遂に漁村に改刪を請ふべきもの数条を記した。さて此を誰に持たせて漁村の許へ遣らうかと云ふことになると、衆皆□□(しそ)した。当時漁村は文章を以て一世に雄視してゐたからである。幸に松田は漁村に親んでゐたので、此を持つて伝経廬(でんけいろ)を訪ひ、遂に定稿を獲て帰つた。

     その三百三十四

 わたくしは柏軒の門人を列叙して松田敬順道夫に至つた。柏軒の世は今を距(さ)ること遠からぬために、わたくしは柏軒の事を記するに臨んで、門人の生存者三人を得た。志村、塩田、松田の三氏が是である。就中松田氏の談話はわたくしをして柏軒の人となりを知らしめた主なる資料であつた。松田氏の精確なる記性と明快なる論断とが微(なか)つたなら、わたくしは或は一堆の故紙に性命を嘘(ふ)き入るゝことを得なかつたかも知れない。
 医を罷めた後の松田氏は法官として猶世人の記憶に存してゐるであらう。しかし此人の生涯は余りに隔絶したる前後両半截をなすがために、殆どその同名異人なるかを疑ふ人のなきを保し難い。わたくしは下(しも)に姻戚荒木三雄さんの書牘を節録して、彼「洋医の軍門に降らなかつた」柏軒門人松田氏がいかに豹変したるかを示す。「貴著伊沢蘭軒中松田道夫君の事を記載有之、始て同君の前生活を知ることを得、一驚を喫候。判事松田道夫君は昔年津山の昌谷千里(しやうたにせんり)、先考荒木博臣等と同じく名を法曹界に馳せし者にして、某探偵談には松田君を擬するに今大岡を以てしたるを見しこと有之候。同君最後の職は東京控訴院部長と記憶いたし候。昌谷逝き、先考も亦逝き、今や存するものは唯松田君あるのみに候。昌谷の遺子は現に樺太庁長官たる昌谷彰君に有之候。松田君は令息道一君と共に湯島三組町の家に住し居られ候。道一君は久しく外務書記官にして、政務局第二課長たりしが、頃日(このごろ)駐外の職に転ぜられ候。」
 次は岡西、成田、斎木、内田の諸人である。此数者中岡西氏は既に渋江抽斎伝に見え、又上文にも見えてゐる。今新に考へ得たる所二三を補ふに止める。
 岡西養玄は明治二年の席順に「第六等席、十三人扶持、書教授試補、岡西養玄、三十一」と云つてある。然らば天保十年生であらう。「養玄」の右に「待蔵」と細書してある。然らば維新後一たび岡西待蔵と称し、後更に岡寛斎と称したものか。寛斎の死は明治十七年十月十九日に於てしたと云ふ。然らば享年四十六であつた。
 成田成章は同席順の「第六等席、八人扶持、成田玄昌、三十七」か。然らば天保四年生である。
 斎木文礼は同席順に「第六等席、八人扶持、斎木文礼、二十七」と云つてある。然らば天保十四年生である。
 内田養三(やうさん)は戊辰の東席順に「奥御医師、内田養三、三十五」と云つてある。然らば天保五年生である。
 わたくしは最後に柴田氏の事を附載して置きたい。其一柴田常庵は上(かみ)に榛門の一員として事蹟の概略を載せた。其二は柴田方庵である。方庵の事は歴世略伝に見えない。わたくしは塩田氏の語るを聞いて始て方庵の名を知つた。下(しも)に仁杉(にすぎ)氏の云ふ所と合せ考へて方庵の何人なるかを明にしよう。

     その三百三十五

 塩田氏と仁杉氏との談話を参照するに、柴田方庵の事蹟には矛盾する所が多い。是は塩田氏の記憶のおぼろけなりし故であつたらしい。故に清川魁軒に聴いて正した。
 方庵は柴田芸庵(うんあん)の末弟であつた。準柏門の人で、唖科を業とした。晩年采女町(うねめちやう)の清川邸内に住んで、浄瑠璃に耽つてゐた。妻は初なるものが品川の妓、後なるものが吉原の妓で子が無かつた。それゆゑ兄芸庵の第三子円庵を養つて子としたが早世した。明治十一年九月方庵は六十一歳にして歿し、其家は絶えた。芸庵の弟妹は修石、柵(しがらみ)、修庵、方庵の順序で、柵は清川□の妻である。是が方庵の清川邸に住んだ所以である。
 塩田氏は方庵と楊庵とを混同した。楊庵は芸庵の末子、小字(せうじ)八六、後の称忠平である。骨董店を海賊橋に開き、後箔屋町に移つて業務を拡張した。明治三十八年八月七日に友人某を訪ひて談話する際、卒然病を発して歿した。子は※太(しようた)[#「金+公」、8巻-257-上-13]で現に沼津にゐる。塩田氏は方庵が忠平と改称したと以為(おも)つてゐたのである。芸庵の子女は常庵、成庵、円庵、梅、多喜、国、千、忠平であつた。仁杉英(えい)さんは多喜の子で、其妻は常庵の女歌である。
 柏軒の歿した文久癸亥に妾春が末子孫祐(まごすけ)を生んだ。主人の京都にある間に、お玉が池の家に生れたのであらう。
 門田(もんでん)家で此年朴斎が再び出でて誠之館教官兼侍読となつた。
 此年棠軒三十、妻柏二十九、子棠助五つ、女長十、良八つ、乃夫二つ、全安の女梅十四、柏軒の子徳安十五、平三郎三つ、孫祐一つ、女国二十、安十二、琴九つ、柏軒の妾春三十九、榛軒未亡人志保六十四であつた。
 元治元年は蘭軒歿後第三十五年である。九月二十七日に榛軒未亡人飯田氏志保が歿した。年六十五である。棠軒公私略に、「九月廿七日朝五時母上御卒去、翌日発表、十月十二日忌引御免被仰付」と云つてある。
 十一月三日に棠軒は阿部正方の軍に従つて福山を発した。所謂長州征伐の第一次で、出兵三十六諸侯の一人たる正方は年甫(はじめ)て十六、発程に先(さきだ)つこと二日に始て元服の式を挙げたのである。公私略の文は下の如くである。「十一月朔日、御前髪被為執候為御祝、金二百疋被成下。十一月三日、征長御出馬御供被仰付、出立す。」毛利家が所謂俗党の言(こと)を用ゐて罪を謝し、此役は中途にして寝(や)んだ。
 十二月二十四日に棠軒は正方に扈随して福山を発し、江戸に向つた。公私略に、「十二月十四日御参府御供在番被仰付、同廿四日御発駕」と云つてある。
 慶応元年は蘭軒歿後第三十六年である。正月二十二日に棠軒は阿部正方に随つて江戸に著いた。二月十八日に棠軒の女乃夫(のぶ)が福山にあつて痘瘡に死した。年僅に四歳である。三月二十四日に女加禰(かね)が福山に生れた。五月十一日に棠軒は正方に随つて江戸を発し、閏(じゆん)五月八日に福山に著いた。六月七日に岡西養玄が妻梅を去つた。梅は柏の生んだ先夫全安の女で、時に十六歳であつた。十九日に棠軒は誠之館医学世話を命ぜられた。同僚は鼓菊庵(つゝみきくあん)、桑田恒三である。十一月二十四日に棠軒は再び正方の軍に従つて福山を発した。時に幕府の牙営は大坂にあつた。是より先将軍家茂は六月に上京し、次で大坂城に入つたのである。以上は公私略の記する所に拠る。今煩を厭うて本文を引くに及ばない。
 梅の末路はわたくしの詳にせぬ所であるが、後幾(いくばく)ならずして生父池田全安の許に歿したと云ふことである。
 鼓菊庵は明治二年の席順に「第六等席、十人扶持、御足五人扶持、鼓菊庵五十四」と云つてある。然らば文化十三年生で乙丑には五十歳になつてゐた。桑田恒三は同席順の「第六等席、九人扶持、書記頭取、桑田恒庵六十」ではなからうか。恒庵の庵字の右に「介」と細書してある。若し恒庵若くは恒介が即恒三ならば、恒三は文化七年生で、乙丑には五十六歳になつてゐた。或は謂(おも)ふに恒三は恒庵の子であつたかも知れない。
 正方の出兵は所謂長州征伐の第二次である。
 此年棠軒三十二、妻柏三十一、子棠助七つ、女長十二、良十、加禰一つ、全安の女梅十六、柏軒の子徳安十七、平三郎五つ、孫祐三つ、女国二十二、安十四、琴十一、柏軒の妾春四十一であつた。

     その三百三十六

 慶応二年は蘭軒歿後第三十七年である。棠軒は阿部正方の軍にあつて、進んで石見国邑智郡粕淵(おほちごほりかすぶち)に至つた。時に六月十三日であつた。正方は此より軍を旋(めぐら)し、七月二十三日に福山に還つた。将軍家茂の大坂城に薨じた後三日である。棠軒公私略にかう云つてある。「六月十三日粕淵駅迄御進相成、七月廿三日御帰陣相成候。」此役正方は軍中に病んだ。同書に「御出張先より御不例被為在候」と云つてある。九月二日に柏軒の女琴が十二歳にして早世した。法諡(はふし)して意楽院貞芳と云ふ。江戸で将軍家茂の遺骸を増上寺に葬つた月である。次で十二月五日に慶喜が将軍を拝した。良子刀自所蔵の「丙寅三次集」は棠軒が自ら此年の詩歌を編したものである。「芋二庵主人稿、棠軒三十四歳」と署してある。繕写が次年に於てせられた故に此の如く署したものであらう。
 慶応三年は蘭軒歿後第三十八年である。五月二十八日に棠軒の一女が夭した。公私略に「五月廿八日夜四時鏐女死去、翌日表発、六月朔遠慮引御免被仰付」と云つてある。「鏐」は即加禰であらう。然らば此女は三歳にして死したのである。十一月二十二日に正方が卒し、二十三日に棠軒は手島七兵衛と共に福山を発して江戸に急行した。将軍慶喜の政務を朝廷に奉還した翌月である。十二月朔(さく)に二人は丸山邸に著いた。次で五日に江戸を発し、二十六日に福山に帰著した。公私略の文はかうである。「十一月廿二日夕七半時御絶脈被遊。同夜四時御用有之出府被仰付。尤早打に而旅行可仕旨。翌暁六時手島七兵衛同道発足。十二月朔日暁七時丸山邸え著。十二月三日於江戸表御用相済候に付、勝手次第出立可致様、且又出府大儀に被思召、為御褒美金二百疋被成下候旨被仰渡。同五日江戸発足。同廿六日福山着船。」十二月廿一日に棠軒の子紋次郎が生れた。父の江戸より帰る途上にある時生れたのである。
 正方の死は藤陰舎遺稿丁卯の詩題にも「十一月廿二日公上不諱」と書してある。棠軒等の往反は、福山にあつた諸老臣が喪を秘して使を派し、継嗣の事を江戸邸の人々に謀つたのではなからうか。手島七兵衛は明治二年の席順に「第四等格、五十俵、御足四十俵、手島七兵衛、六十」と云つてある。丁卯には五十八歳であつた。
 池田分家で此年六月十一日に瑞長妻東氏金(あづまうぢきん)が歿した。此瑞長はその天渓なるか三矼(こう)なるかを詳にしない。姑(しばら)く録して後考に資する。
 此年棠軒三十四、妻柏三十三、子棠助九つ、紋次郎一つ、女長十四、良十二、柏軒の子徳安十九、平三郎七つ、孫祐五つ、女国二十四、安十六、柏軒の妾春四十三であつた。
 明治元年は蘭軒歿後第三十九年である。正月九日長州藩の兵が福山城を襲ひ、棠軒は入城した。是より先三日に伏見の戦が開かれ、七日に徳川慶喜を征討する令が発せられた。公私略にかう云つてある。「正月九日長藩二千人許御城下え推参、及発炮。即刻出勤。但妻子は手城村九丁目百姓延平方え為立退。」
 阪谷朗廬(さかたにらうろ)は関藤々陰(せきとうとういん)の此日の挙措を叙して下(しも)の如く云つてゐる。「明治元年正月。伏水之変発也。王師討徳川氏。長藩兵勤王。以阿部氏為徳川氏旧属。路次卒囲福山城。時正方君卒未葬。而変起□卒。先護柩。巨弾洞其室者二。銃声如雷霆。先生与諸老臣。制壮士不動。分出諸門。衣袴不甲。直衝飛丸。入敵軍。往復辯論。遂明名義。確立誓約。」
 藤陰の石川文兵衛が志士の間に知られたのは、此一挙があつたためである。わたくしは前に載せた藤陰の別称問題に関して此に一事を補つて置きたい。わたくしは藤陰が一時関氏五郎と云つた時、交の疎きものは誤つて三字の通称関五郎となしたと云つて、秋山伊豆を挙げた。しかし此錯誤は当時交の疎からざるものと雖も、これに陥つたらしい。木崎好尚さんは篠崎小竹の「不可忘」を抄して寄せ、安東忠次郎さんは頼聿庵(らいいつあん)の野本第二郎に与ふる書を写して贈つた。皆三字の通称として視てゐるのである。因に云ふ。秋山伊豆、名は惟恭、字(あざな)は仲礼、小字(せうじ)は浪江(なみえ)、長じて伊豆と称した。巌山、千別舎(ちわきのや)の号がある。讚岐国那珂郡櫛梨村の人、文久三年四月十日五十七歳にして歿した。わたくしは永田嘉一さんの手に藉(よ)つて秋山の墓誌銘を獲た。
 三月十七日に棠軒は福山を発して広島に往き、五月二十日に儲君正桓(まさたけ)を奉じて還つた。公私略の文はかうである。「同月(三月)十六日広島表御用有之、早々被差立候旨被仰渡。(中略。)翌十七日乗船。五月廿日新君御供著。」五月二十八日に正方の喪は発せられ、七月二十三日に正桓が家を継いだ。正桓、実は藝州藩主浅野茂長の弟(懋昭)の子で、当時年十八であつた。
 八月九日に棠軒は家を深津郡吉津村に移した。九月廿一日に正桓が津軽藩を応援せむがために兵を出し、棠軒も亦従軍した。時に改元の令出でゝ後十三日、車駕東幸の途上にあり、奥羽の戦は既に半(なかば)局を結んでゐた。

     その三百三十七

 わたくしは蘭軒の養孫棠軒が明治紀元九月廿一日に、福山藩主阿部正桓(まさたけ)に随つて福山を発し、東北の戦地に向つたことを記した。棠軒の事蹟は此に至るまで棠軒公私略に見えてゐる。然るに公私略には此所に紙二枚が裂き棄ててあつて、其下(しも)は己巳六月の記に接してゐる。幸に別に「函楯軍行日録」があつて此闕を補ふことが出来る。亦棠軒の手記で、徳(めぐむ)さんの蔵する所である。
 按ずるに当時津軽承昭(つぐあき)を援ふ令は福山、宇和島、吉田、大野の四藩に下つた。福山の兵は此日鞆(とも)の港に次(やど)つた。「九月廿一日、晴、朝五時揃。(中略。)夕七時前鞆湊著。」
 棠軒は発するに臨んで、留別の詩を作つた。「示平安。数百精兵護錦旗。順風解纜到天涯。分襟今日吾何道。応記二翁垂示詩。」冢子(ちようし)棠助は既に平安と称してゐた。二翁垂示(すゐし)の詩とは蘭軒榛軒の作を謂ふ。「示二児。富貴功名不可論。只要児輩読書繁。能教文種長無絶。便是吾家好子孫。蘭軒。」「示良安。医家稽古在求真。千古而来苦乏人。万巻読書看破去。応知四診妙微神。榛軒。」
 わたくしは棠軒の行を送つた人々の名を録する。伊沢分家の交際の範囲を徴すべきがためである。「福山出立前見立人伊藤誠斎、安石、玄高、全八郎、洞谷、金八郎、乙平。(中略。)鞆著之上省吾来訪。柏原忠蔵、拡等来飲。」伊藤誠斎は己巳の席順に「第七等格、十石二人扶持、側茶、伊藤誠斎、五十二」と云つてある。茶道の家であらうか。因に云ふ。福山の伊藤氏には別に仁斎の末裔がある。仁斎維□(ゐてい)の子が東涯長胤(とうがいちやういん)、梅宇長英(ばいうちやうえい)、梅宇の子が蘭□懐祖(らんゑんくわいそ)、蘭□の子が竹坡弘亨(ちくはこうかう)、竹坡の子が蘆汀良炳(ろていりやうへい)、蘆岸良有(ろがんりやういう)、蘆岸の子が竹塘良之(ちくたうりやうし)である。同じ席順に「第六等席、十五人扶持、伊藤揚蔵、三十四」と云ふのが此竹塘で、其子琢弥(たくや)は京都の宗家を継いで歿し、琢弥の兄顧也(こなり)さんは現に幼姪(えうてつ)の後見(うしろみ)をしてゐる。安石は飯田安石である。玄高は公私略癸亥十一月七日の条に「成田竜玄次男玄高入門」と云つてある。全八郎は料理人上原全八郎である。洞谷(どうこく)は上(かみ)の席順に「第六等席、十三人扶持、吉田洞谷、四十二」と云つてある。画師である。乙平(おとへい)、省吾(せいご)は席順に、「第八等格、廿俵二人扶持、渡会乙平、廿六」、「第七等席、三両三人扶持、島省吾、廿五」があるが、果して其人なりや否を知らない。金八郎、柏原忠蔵は未だ考へない。拡の事は下(しも)に出す。
 棠軒と同行した医師は五人であつた。「御医師小子及天富良碩、斎木文礼、石川厚安、藤田松軒(同人一昨日三口表御医師見習)、其外鞆医師生口拡、合六人」と云つてある。上の席順に「第六等席、天富良碩、廿六」「第六等席、八人扶持、斎木文礼、廿七」「第七等席、十二石、石川厚安、廿六」「第七等格、准医補、藤田松軒」「第七等格、准医補、生口拡」と云つてある。此中生口拡(いくちひろめ)は文事を以て世に知られてゐる。拡、字(あざな)は充夫(じうふ)、酔仙と号した。文久元年に近世詩林一巻を刻し、末に七律一篇を載せてゐる。「抄近時諸家詩畢有作。選楼弄筆寄幽娯。一巻新詩収美腴。縦有蟹螯兼蛤柱。何曾燕石混※[#「虫+賓」、8巻-263-下-6]珠。雄篇河嶽英霊集。名句張為賓主図。多少世間同好士。為吾能諒苦心無。」第六の張為(ちやうゐ)が主客図の典故は唐詩紀事に見えてゐる。棠軒が同行の医師は皆鞆の善行寺に舎(やど)つた。
 二十二日に福山より来て、棠軒を善行寺に訪うたものは「貞白、養玄、安石、元民、全八郎、洞谷、雄蔵等」である。貞白は石川、養玄は岡西である。元民は席順に「第六等席、九人扶持、准、皆川元民、三十七」と云つてある。雄蔵は席順の「第七等席、十二石二人扶持、鵜川雄蔵、廿六」か。其他は前に註してある。
 十月二日に棠軒は英船モナ号に搭して鞆を発した。「廿九日(九月)晴、御軍艦著津、英船モナ。(中略。)二日(十月)晴。午後乗艦、同八半時出帆。」

     その三百三十八

 わたくしは棠軒が戊辰の年に従軍して、十月二日に備後国鞆(とも)を発したことを記した。日録には歴史上多少の興味がある故、稍詳に此に写し出さうとおもふ。しかし原文の瑣事を叙することの繁密なるに比すれば、僅に十の一を存するに過ぎない。
「三日。朝四時長州馬関へ下碇(かてい)。不上陸。八半時同所出帆。」
「四日。雨。風勁(つよく)、浪又高。」
「五日。漸晴。午時越前敦賀湊へ著船。夕上陸御免。買物ちよき金二分二朱、金巾(かなきん)筒じゆばん同一分、陣中胴乱同二分一朱、戎頭巾(えびすづきん)同一分、つり百文。」当時の軍需品の市価を知るべきを以て、特に数句を存録する。
「六日。晴。於同所大野侯御人数乗組。」越前国大野郡大野の城主土井利恒の兵が上船したのである。
「七日。晴。総隊上陸。船御普請相成。御医師円教寺へ一泊。」船に損所あるを発見して、修繕したのである。
「八日。晴。艦(ふね)造作御出来に付、朝四時乗船。八半時出帆。」
「九日。半晴。午後雨。」
「十日。風雨。夕初雪。村上領夏島沖へ碇泊。」
「十一日。晴。乍(たちまち)霰(あられ)。朝四時夏島出帆。夜九時頃羽州秋田近海へ碇泊。」
「十二日。晴。朝土崎湊へ著。秋田へ一里半。」
「十三日。晴。又雪。風頗急、浪尤高。舟川湊(相距(さ)る九里)へ退帆。総御人数上陸、漁家へ止宿。」車駕入京の日である。
「十四日。雪。逗留。」
「十五日。晴。夕雨。同断。」
「十六日。晴。後雨。船直(なほし)。」
「十七日。雨巳刻より止。陰(くもる)。逗留。箱館表出兵被為蒙仰(おほせをかうむらせらる)。」是は榎本武揚等が北海道に向つた故である。武揚は是より先幕府の軍艦奉行であつたので、八月十九日軍艦数隻を率(ひきゐ)て品川湾を脱出し、途次館山、寒沢(さむさは)に泊し、北海道を占領せむと欲して先づ室蘭附近に向つたのである。「世上誰知鉄石衷。乗□欲去引剛風。茫茫千古誰成匹。源九郎逃入海夷。」
「十八日。晴。はた/\魚(うを)漁猟甚盛。」
「十九日。晴。午後陰(くもる)。暮雨。昼九時より乗船。夕七半時出帆。」
「二十日。晴雪相半(せいせつあひなかばす)。午時(ひるどき)箱館府へ着船。暮時上陸。町宿銭屋与兵衛宅へ落著。」
「廿一日。雪。又晴。脱走船南部沖へ七艘相見候に付、斥候一小隊尻沢村(半里)へ御差出相成。御医師一人二日おき交代。斎木出張。伊藤屋佐治兵衛へ宿替。メリヤス繻絆股引金二両二朱。」箱館戦史及榎本武揚伝の詳細なるものはわたくしの手許にない。文淵堂所蔵の一戸(のへ)隆次郎著「榎本武揚子」に拠れば、武揚等の諸艦は「十一月二十日夜に乗じて函館を距る十里なる鷲木港に入る」と云つてある。「十一月」は「十月」の誤なること明である。
「廿二日。半陰。尻沢村出張之御人数大野村(五里)迄進発。」一戸の記に拠れば、武揚は「人見勝太郎、本多幸七郎の両人に命じ、(中略)五稜廓に」向はしめた。「二人命を聞いて茅部嶺を越え、大野まで至」ると、「津軽の兵二百人人見勝太郎等の大野村に在るを聞いて夜襲」した。福山藩兵の進発は此時の事か。
「廿三日。雨。賊徒上陸之由に付、二小隊七重(なゝへ)村(二里)迄御差出相成。石川厚安右へ出張。亀屋武兵衛(山市)宅へ病院移転。夜五時過大御目付山岡氏より、春安亮碩松軒亀田表御本営へ明日繰込相成候旨申来。」病院は初伊藤屋に置かれたものか。山岡、名は源左衛門、二十七歳。後運八と称す。亀田表は亀田村五稜廓である。一戸の記に、「土方歳三は一軍に将として、星恂太郎、春日左衛門等と(中略)川吸峠を踰えて函館に入り、大野に陣取りける時、彰義隊の残党等も来つて土方が隊に合し、七重村の官兵を襲」ふと云つてある。福山藩兵の七重村に入つたのは此時か。
「廿四日。晴雪相半。午後亀田へ出張之処。途中津軽迄引退之(ひきしりぞきの)事に相成。今朝より大野村及大川村戦争有之、兵隊十人許り即死、怪我人数人有之、官軍不利(りあらず)。」一戸の記に、「土方等直ちに七重村を占領しぬ、清水谷府知事は官軍の利あらざるを見て、五稜廓を逃れ出で、函館に赴き、普魯西の蒸汽船に乗つて津軽に赴」くと云つてある。箱館府知事清水谷公考(しみづだにきんなる)は武揚等の上陸に先だつて五稜廓に入つてゐた。当時公考二十四歳。
「廿五日。晴。暁七時頃土州軍艦へ乗込之処、行違ひにて又々異船へ乗替、暮時箱館湊より出帆。」
「廿六日。晴。昼八時津軽領青森湊着船。総御人数上陸。中村屋三郎宅へ宿(やどる)。」
「廿七日。半晴。夕微雨。」
「廿八日。雨。」一戸の記に拠れば、武揚等の五稜廓より松前に向つた日である。
「廿九日。陰(くもる)。」
「晦日(つごもり)。晴。」
「十一月朔日(ついたち)。晴。月賜金二両、外一両。天朝より御酒代恩賜配分金二分と銭百六十文。」当時の戦時給養である。一戸の記に拠れば、是日武揚等は松前藩兵を尻内(しりない)に破つた。
「二日。晴。午前より陰。油川村(相距る一里)へ五小隊御差出相成。自分並藤田子同所へ出張被仰付、午刻青森出立、夕七時油川村著、菊屋重助宅へ落著。」油川村、一名大浜、青森に次ぐ埠頭であつた。一戸の記に拠れば、武揚等の福島湾に迫つた日である。
「三日。半晴。夜雪。当所住居抽斎門人成田祥民面会。」
「四日。半晴。」
「五日。陰。」一戸の記に拠れば、武揚と事を倶にする大鳥圭介等が松前の城を陥れ、城将田村量吉の自殺した日である。城は嘉永二年徳川家慶(いへよし)の築かしめた所謂福山城である。
「六日。晴。」

     その三百三十九

 棠軒が戊辰従軍の日記は既に十一月六日に至つてゐた。福山の兵は箱館より退いて青森に至り、棠軒が属する所の一部隊は油川村に次(じ)してゐるのである。
「七日。陰。朝青森湊へ賊艦二艘来著、無程(ほどなく)退帆、夜六時頃津軽領平館(八里)へ右賊艦相廻、十四五人上陸いたし候由風聞有之。」
「八日。陰。冬至。」
「九日。晴。夜雨。」
「十日。雨。」
「十一日。陰。」
「十二日。晴。」一戸の記に拠れば、武揚等の雪中(せつちゆう)江刺(えざし)に入つた日である。松前の陥いつた時、藩主松前徳広(のりひろ)は江刺にゐて、敵兵の至る前に熊石に逃れた。
「十三日。陰。」
「十四日。半晴。夜雪。」
「十五日。雪。文礼子(ぶんれいし)御用にて新城宿より爰元(こゝもと)通行。」一戸の記に拠れば、武揚等の兵が館(たて)の寨(さい)を陥れた日である。
「十六日。雪。」
「十七日。雪。榛軒先生十七回忌に付、雑煮餅一統へ振舞。文礼子青森より帰途立寄一泊。」
「十八日。半晴。夕雪。」
「十九日。雪。」
「廿日。晴雪相半(せいせつあひなかばす)。弘前侯より岡田総督始、人夫迄之御祈祷、於当所上林中林下林三所被仰付。右に付中林神明社参詣。」岡田、名は創(はじむ)、後吉顕、旧称伊右衛門、二十七歳。
「廿一日。同断。」一戸の記に拠れば、武揚等の兵が熊石に至つて敵を見ず、五稜廓に引き返した日である。
「廿二日。同断。」
「廿三日。微晴(すこしはる)。寒入。松前侯同城戦争有之、引払之上、一昨夜平館著船、昨夕蟹田村御逗留之由。右に付為御見舞(おんみまひとして)御使者(天宇門、磯貫一郎)被遣候間、小子同行被差遣候旨、副長被申談(まをしだんぜらる)。暁八時過油川宿出立、朝五半時頃蟹田村著之処、松前侯昨夕御参著無之、今夕御来泊に相成、御見舞相勤。」天宇門(あめうもん)、二十二歳。磯貫一郎、四十歳。
「廿四日。微晴。夜雨。朝五時過蟹田村出立、馬上に而(て)昼九半時頃油川帰宿。」
「廿五日。雪。」
「廿六日。半晴半雪。」
「廿七日。同断。」
「廿八日。微晴。清水谷様より兵隊へ為慰労(ゐらうとして)御酒四合づつ、御肴代金一朱と三百五十四文づつ被成下(なしくださる)。石川厚安青森行に而前後立寄一泊。江木老人爰許(こゝもと)逗留中病院同宿。」箱館府知事清水谷公考、前日より青森口総督兼任。江木老人は鰐水繁太郎、五十九歳。
「廿九日。微晴。江木老人築城掛御免内願に付容体書差出す。老人云。好書家、旅中別而不知徒然(べつしてとぜんをしらず)、生涯妻子に勝る之徳ありと云。名話なり。」
「晦日。微晴。」
「十二月朔日。微晴。」
「二日。同断。夜雪。」
「三日。微晴。」
「四日。晴。夜雨。雷鳴。月賜金二両受取。」
「五日。陰。」
「六日。雪。文礼子青森へ御用に而(て)罷越(まかりこし)、帰路一泊。」
「七日。晴。夕雪。会議所より為寒中慰労生牛一疋兵隊へ頂戴相成、今日屠肉配分。」
「八日。雪。」是日車駕東京を発す。
「九日。雪。午後止。」
「十日。晴。」
「十一日。晴。松軒子青森へ行。天富亮碩亦青森行に而立寄。」
「十二日。晴。午後陰。本陣大菊屋へ病院転寓。」
「十三日。晴。斎木石川新城より兵隊同道に而来。」
「十四日。晴。夜雪。」
「十五日。晴。」
「十六日。斎木石川来一宿。」

     その三百四十

 棠軒従軍日記の戊辰十二月十六日を以て前稿は終つてゐた。此より其後を抄出する。
「十七日。晴。弘前侯為御見廻当所御通行、総兵隊へ為御土産御酒御肴被成下。」弘前侯は津軽承昭(つぐあき)、二十八歳。
「十八日。風雪。」
「十九日。風飛雪(かぜゆきをとばす)。松平民部大輔様箱館討手被為蒙仰候旨廻状到来。
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