伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

「文久癸亥三月四日暁(あかつき)寅時(とらのとき)、大津御旅館御発駕、(中略)三条大橋御渡、三条通より室町通へ上り、二条通を西へ、御城大手御門より中御門へ御入(おんいり)、御玄関より御上り」云々。是は将軍家茂入京の道筋である。以下柏軒自己の動静に入る。「石之間より上り、御医師部屋へ通り、九つ時宗達と交代して、己旅宿(おのがりよしゆく)夷川通(えびすがはどほり)堀川東へ入る町玉屋伊兵衛持家へ著く。町役両人馳走す。先(まづ)展(のし)昆布を出す。浴後昼食畢(をはつ)て、先当地之産土神(うぶすながみ)下之御霊(しものごりやう)へ参詣、(中略)北野天満宮へ参詣、(中略)貝川橋を渡り、平野神社を拝む。境内桜花多く、遊看の輩(ともがら)男女雑閙(ざつたうす)。」志村玄叔、今の名良□さんの語る所に拠れば、旅寓は「夷川町染物屋の別宅」であつたと云ふ。按ずるに玉屋は染物屋か。
「五日。」是日は記事が無い。
「六日。快庵、宗達、伯元と出水(でみづ)中山津守(つもり)宅訪ふ。内室、子息豊後介に対面。」中山氏の事は未だ考へない。
「七日。今日卯上刻御供揃、巳中刻御出、先施薬院へ御入、御装束召換、巳時と申て午の時御参内あり、入夜(よにいりて)還御。」
「八日。比叡山へ登る。良三を伴うて宅を出。(中略。)亥時頃旅宿へ還る。」
「九日。(上略。)雨中松尾神社へ参る。(下略。)」
「十日。雨。内命ありて尾張大納言殿御見舞申す。(中略。)御医師に逢うて御容態を申し、御薬方を相談し、御菓子御茶二汁五菜の御膳を被下、白銀十枚を被賜(たまはる)。直に登城して御用掛伊豆殿まで其趣を申上る。今夜宿番。」「尾張大納言」は茂徳(もちのり)である。「伊豆殿」は側衆坪内伊豆守保之か。
「十一日。雨。賀茂下上之社(しもかみのやしろ)に行幸あり。将軍家供奉。」
「十二日。」是日は記事が無い。
「十三日。下賀茂御祖(みおや)神社へ参る。(中略。)上賀茂別雷(わきいかづち)大神宮へ参る。(中略。)門の前の堺屋にて酒を飲む。」
「十四日。当番。」

     その三百十八

 わたくしは京都に在る柏軒の日記を抄して、文久癸亥三月十四日に至つた。此より其後を書き続ぐ。
「十五日。玄叔を率(ゐ)て先大仏を観、(中略)稲荷社に参詣、(中略)社の門の前石川屋にて酒を飲。」
「十六日。愛宕参。(下略。)」
「十七日。先考正忌日精進。終日旅宿に居る。」
 柏軒の日記は十八日より二十八日に至る十一日間の闕文がある。此間に江戸丸山の伊沢棠軒は家を挙げて途に上つた。棠軒は前年壬戌十二月四日に福山に移ることを命ぜられ、癸亥三月二十二日に発□(はつじん)したのである。棠軒公私略に「三月廿二日、妻子及飯田安石家内之者召連、福山え発足」と云つてある。
 此頃京都に於ては、一旦将軍帰東の沙汰があつて、其事が又寝(や)んだと見える。良子刀自所蔵の柏軒の書牘(しよどく)がある。「御発駕も廿一日之処御延引、廿三日も御延引、未だ日限被仰出無之候。何れ当月内には御発駕と存候。(下略。)三月廿四日。磐安。徳安郎へ。」本文末段は柏軒が徳安に出迎の事を指図したものゆゑ省略した。
 わたくしは此より復(また)柏軒の日記に還る。
「廿九日。石清水八幡宮に参り拝む。(下略。)」
「卅日。雨。」
「卯月朔日(ついたち)。雨。新日吉(しんひえ)神社、佐女牛(さめうし)八幡宮両所へ参る。(下略。)」
「二日、寅日。朝雨、昼より晴る。大樹公巳刻御参内なり。御供揃五つ半時、其少しく前伯元等と御先に施薬院へ御入にて、午の半刻頃二た綾の御直衣(おんなほし)にて御参内、引続き一橋中納言殿も御参内あり。御饗応ありて、主上、時宮、前関白殿、関白殿、大樹公、近衛殿へは吸物五種、御肴七種、配膳の公卿は吸物三種、肴五種なりとぞ。大樹公へは天盃を賜り御馬を賜る。御盃台は柳箱(やないばこ)、松を著け、松に鬚籠(ひげこ)を挂(か)く。夜戌の半刻頃御退出にて、亥刻前施薬院を御立ち、伯元等と亥刻に旅宿へ帰る。(下略。)」「主上」は孝明天皇、「時宮」は皇太子、「前関白」は近衛前左大臣忠□(たゞひろ)、「関白」は鷹司前右大臣輔□(すけひろ)、「近衛」は近衛大納言忠房である。
「三日、卯日。天晴れ熱し。廬山寺の元三大師御堂へ参る。」是日柏軒が塩田良三を伏見へ遣つて、竹内立賢に会談せしめ、江戸の近況を知つたことは、次に引くべき書牘に見えてゐる。
 柏軒の日記は此に終る。
 四日には柏軒が郷に寄する書を作つた。此書は富士川氏の蔵する所である。「公方様益御安泰に被為在(あらせられ)、難有事に御坐候。次に手前壮健平安に候。其地も静謐に相成様承知候。何分公方様御事禁庭様御首尾大に宜(よろしく)被為在に付、御発駕も御延に相成候御容子、来る十一日石清水八幡宮に行幸有之、公方様御供奉被遊候。右相済候はゞ中旬頃御発駕も可有之哉、聢(しか)と不存候。手前事者(ことは)身健(みすこやかに)、心中平安喜楽、其地之事者常敬策三子被相守、毫も案思(あんじ)不申、但其地に而怖畏致居候と案思候。乍併兼与大小神祇、乍恐同心合意候間、一切災害不加正直忠信之人祈願仕候間、其地吾一家に不限、知識正真忠心善意善行之者被災害事者決無之、一統莫有怖畏存候。吾一家之外者(ほかは)、狩谷、川村、清川、其外え御伝示可被給候。唯一途に正真忠信に奉神奉先接人憐物関要に候。尚後便可申候。去(さんぬ)る先月廿九日石清水参詣致、別而難有感信致、別而家内之事大安心(こゝろをやすんじ)候。尚後便可申候。目出度以上。卯月四日。磐安。常庵殿。敬順殿。安策殿。徳安殿。昨三日良三往伏見、立賢に逢、悉其地容子(そのちのようすをつくし)、承知候。以上。」

     その三百十九

 わたくしは日記尺牘(せきどく)等に拠つて柏軒の癸亥淹京(えんけい)中の事を叙し、四月四日に至つた。
 中一日を隔てゝ五日は柏軒が二条の城に宿直した。日割は六日であつたのを、繰り上げてもらつた。
 是は前月二十二日に江戸を発して福山に向ふ棠軒と会見せむがために、六日に伏見に赴く地をなしたのである。
 六日には柏軒が暇を乞うて伏見に往き、棠軒を見たらしい。此二日間の事は下(しも)の書牘がこれを証する。書牘は良子刀自の蔵する所である。「手紙披見、不勝大悦候(たいえつにたへずそろ)。去月十八日出立と承知、其後廿二日出立と承知、其日数より長頸相遅(ちやうけいあひまち)、必欲一長見候(いつちやうけんせむとほつしそろ)。数(しば/\)大津迄人遣候。必一見、既に今日当番、繰合昨夜相勤置程に相見渇望。従是僕直に伏見迄参候。路費乏少困入察候得共、何如様共可致、誰か少病気と称し、枉(まげ)て今夜者伏見に滞留可被致存候。いろ/\書たきことあれども、心中動気致、筆まわらず、いづれ面上目出度可申、以上。四月七日。磐安。春安殿。」棠軒良安は六年前より春安と称してゐたのである。
 中三日を隔てて十一日には、孝明天皇が石清水八幡宮に行幸せさせ給ひ、将軍家茂は供奉しまゐらする筈であつた。わたくしの手許には当時の史料とすべき文書が無い。しかし聞く所に従へば、此行幸は天皇が家茂に節刀を賜ひ攘夷を誓はしめようと思召したのであつた。それゆゑ家茂は病と称して供奉せず、一橋中納言慶喜(よしのぶ)をして代らしめ、慶喜も亦半途より病と称して還つたさうである。此日柏軒の鹵簿中にありしや否を知らない。
 十九日に棠軒が福山に著き、船町竹原屋六右衛門の家に□居した。事は棠軒公私略に見えてゐる。
 二十一日に将軍家茂が大坂に往き、柏軒は扈随した。
 五月十一日に家茂が京都に還り、柏軒は又随ひ帰つた。大坂往復の事は良子刀自所蔵の柏軒が書牘に見えてゐる。「去(さんぬる)四月廿一日に大坂表に被為入(いらせられ)、右御供致、当五月十一日に還御に相成、御供に而帰京致候。昨十三日御参内可有之筈之所、些(ちと)御時候中(ごじこうあたり)に而御延引に相成候。此御参内に而多分御暇出、近々還御に可相成と存候。(中略)乍去御出勤迄は五六日も間可有之。乍然多分御暇出候事と存候。(下略)五月十四日。」自署もなく宛名もない。しかし恐くは柏軒が徳安に与へたものであらう。家茂帰東の望はそらだのめであつた。
 六月十八日に福山にある棠軒が神島町下市(かしままちしもいち)須磨屋安四郎の家に徙(うつ)つた。
 柏軒の病に罹つたのは、恐くは是月の事であらう。何故と云ふに、次月の初には其病が既に重くなつて、遺書をさへ作るに至つてゐるからである。
 七月七日に柏軒は京都の旅宿に病み臥し、自ら起たざることを揣(はか)つて身後の事を書き遺した。此書は現に良子刀自が蔵してゐる。わたくしは下(しも)に其全文を写し出すこととする。

     その三百二十

 柏軒は癸亥の歳に将軍家茂に扈随して京都に往き、淹留(えんりう)中病に罹り、七月七日に自ら不起を知つて遺書を作つた。其文はかうである。「文久三年癸亥七月七日の、病中乍臥書す。吾は御国魂(みくにだましひ)を主とす。若吾身終ば、真に吾を祭る時は、先第一古事記を読め。次に孝経論語を読誦せよ。是は真に吾を祭る時の事也。其余は今の俗に随て、七七日、月忌、年忌に僧を請、仏典を読は不可廃。次に忌日吾を祭る時は孝経第一、次に論語、忌日広く吾を祭らむと思はば、内経素問、内経霊枢、次に甲乙経、第三は通俗に随て、請僧誦仏経。是は大過なるべからず。但(たゞ)所好(このむところ)は普門品也。是は吾平生所知。千巻の経を読誦するも、生前に不知は馬の耳に風也。普門品の次は仏祖三経也。」文中古事記、孝経、論語、素問、霊枢、法華経普門品は註することを須(もち)ゐぬであらう。甲乙経は医統正脈中に収められてゐる鍼灸(しんきう)甲乙経十二巻である。仏祖三経は第一四十二章経、第二遺教経、第三□山(きざん)警策である。
 十五日より病は革(すみやか)になつた。当時治療に任じた医家五人が連署して江戸に送つた報告書を此に抄出する。十五日後。「小腹御硬満、時々滴々と二勺不足位之御便通有之、尤竹筒相用候程之は通じ無之、始終袱紗にてしめし取申候。御食気更に不被為在、氷餅之湯少々づつ強て差上候而已。」
 十七日朝。「翌暁迄二勺不足之は通じ十一度有之、其間多分御昏睡。」
 十八日。「御疲労相募、始終御昏睡、御小水は通じ日之内六度、夜に入り七度被為在。」
 十九日。「七つ半時頃より御呼吸御短促に被為成、卯之上刻御差重被遊候。」柏軒は遂に五十四歳にして歿したのである。
 此記事はわたくしをして柏軒が萎縮腎より来た尿閉に死したことを推測せしめる。
「明日迄御病牀之儘に仕置。御召は官服。御袴御寸法通り、御帯共晒布にて仕立。御肌著御帷子は新き御有合為召。御沐浴明晩仕。(中略。)一と先高倉五条下る処曹洞派禅院宗仙寺へ御棺御移申上。(中略。)御棺二重に仕立、駕籠にて宗仙寺へ御送申上候。(中略。)徳安様御著之上御火葬可仕心得に御坐候。御剃髪は藤四郎へ申付候。七月十九日。多峰安策。湖南正路。西田玄同。塩田良三。志村玄叔。柴田定庵様。松田敬順様。」「明日」は二十日、「明晩」は二十日夕である。連署の初三人中安策は本の清川氏孫で、柏軒の病を聞いて上京したのである。他の二人は未だ考へない。報告書は良子刀自の蔵する所である。
 宗仙寺に於ける秉炬(ひんこ)の語と覚しきものが、同じ刀自[#「刀自」は底本では「刀目」]の蔵儲中にある。「文質彬々行亦全。有忠有信好称賢。官晋法眼能医業。洛奉君台無等肩。茲惟新捐館文行院忠信居士。真機卓爾。本体如然。生也依因。五十四年前在武陵。体得医家道。薬与病者。命延愈客。死也任縁。五十四年後在洛陽。帰入如来禅。形蔵宗仙。影顕長谷。直得。其文行也。文彩縦横。行触相応。其忠信也。忠勇発達。信厚確焉。或時看読仏祖三経等。具無修無証仏祖行李之眼。或時諳誦観音普門品。得耳根円通観音妙智之玄。到這裏非真非仮。木人夜半拍手舞。非凡非聖。石女天明和曲喧。正与麼時。帰家穏坐底作麼生。露。普陀山上真如月。影浴清流長谷鮮。」「形蔵宗仙、影顕長谷」は柏軒の墓が京都の宗仙寺と江戸の長谷寺とにあるを謂つたものである。

     その三百二十一

 此年文久癸亥の歳七月二十日、棠軒は福山にあつて柏軒の病を聞き、上京の許を阿部家に請ひ、直に裁可を得た。即京都に於て柏軒の遺骸を宗仙寺に送つた日である。
 二十一日に棠軒は福山を発した。
 二十六日の朝棠軒は入京した。推するに柏軒の遺骸は是日荼毘(だび)に付せられたことであらう。柏軒の墓は京都の宗仙寺に建てられ、後又江戸に建てられた。法語の「形蔵宗仙、影顕長谷」は既に云つた如く此事を指すのである。京都の墓には「伊沢磐安法眼源信道之墓」と題してあるさうである。按ずるに柏軒の名は初め信重(しんちよう)であつた。後信道(しんだう)と改めたのであらう。
 八月廿一日に公に稟(まう)して柏軒の喪を発した。
 九月十九日に棠軒は柏軒の後事を営み畢(をは)つて京都を発した。
 十月三日に棠軒は福山に帰り着いた。わたくしは棠軒公私略中此往反に関する文を此に引く。
「七月廿日夕、柏軒先生京師旅寓より、御同人御大病に付、繰合早々上京可致旨、安策より申越候に付、願書差出候処、即刻願之通勝手次第被仰付、翌朝発足、廿六日朝京著之処、去十九日御卒去之由、八月廿一日発喪相成、九月十九日京発、十月三日福山帰著。」
 柏軒易簀(えきさく)の処は夷川(えびすがは)の玉屋伊兵衛の家であつただらう。何故と云ふに、柏軒が淹京中宿舎を変更したことを聞かぬからである。柏軒は三月四日より七月十九日に至るまで京都に生活してゐた。三月大、四月大、五月小、六月大であつたから、百三十六日間であつた。此間貧窮は例に依つて柏軒に纏繞(てんげう)してゐたらしい。松田氏の語る所に従へば、塩田良三は師のために大坂の親戚に説いて金三百両を借り、僅に費用を辨ずることを得たと云ふことである。
 松田氏は又柏軒の死に関して下(しも)の如く語つた。「わたくしは癸亥の歳に柏軒先生の京都にあつて歿したのは、死所を得たものだと云ふことを憚らない。後年先生の嗣子磐(いはほ)君が困窮に陥つた時わたくしに、父がもつと長く生きてゐてくれたら、こんな目には逢ふまいと謂つたことがある。わたくしは答へて、いや、さうでない、先生はあの時に亡くなられておしあはせであつたと云つた。」
「竹内立賢も維新後にわたくしにかう云ふ事を言つた。それは柏軒先生が若し生きながらへて此聖代に遭はれたら差詰(さしづめ)神祇官の下(もと)で大少副の中を拝せられるのだつたにと云つたのである。わたくしは其時も答へて云つた。いや、さうでない。なる程先生は敬神の念の熱烈であつたことは比類あるまい。しかし官職の事は自ら別で、敬神者が神祇官に登庸せられると云ふわけには行かない。先生は矢張あの時亡くなられて好かつたのだと云つた。」
「わたくしの柏軒先生は死所を得たものだと云ふのは、抑(そも/\)理由のある事である。」

     その三百二十二

 わたくしは柏軒が死所を得たと云ふ松田氏の談話を記して、未だ本題に入らなかつた。松田氏は下(しも)の如くに語り続けた。
「柏軒先生が多紀□庭(さいてい)、辻元冬嶺の歿後に出でゝ、異数の抜擢を蒙つた幸運の人であつたことは、わたくしの前(さき)に云つた如くである。又その公衆に対する地位も、父蘭軒、兄榛軒の余沢を受けて、太(はなは)だ優れてゐた。先生がお玉が池時代に有してゐた千戸の病家は、先生をして当時江戸流行医の巨擘(こはく)たらしむるに足るものであつた。」
「しかし先生を幸運の人となすのは、偏に目を漢医方の上にのみ注いだ論である。若し広く時勢を観るときは、先生の地位は危殆(きたい)を極めてゐた。それは蘭医方が既に久しく伝来してゐて、次第に領域を拡張し、次第に世間に浸漸し、漢医方の基礎は到底撼揺(かんえう)を免るべからざるに至つたからである。」
「蘭医方、広く云へば洋医方は終局の勝者であつた。此時に当つて、敗残の将が孤塁に拠るやうに、稍久しく漢医方のために地盤の一隅を占有した人がある。彼浅田栗園(りつゑん)の如きは即是である。若し柏軒先生が此に至るまで生存してゐたら、能く身を保つこと栗園に等しきことを得たであらうか。わたくしは甚だこれを危む。」
「わたくしの見る所を以てすれば、豪邁なる柏軒先生は恐くは彼慧巧(けいかう)なる栗園を学ぶことを得なかつたであらう。又操守する所の牢固であつた柏軒先生が、彼時と推し移つて躊躇することなく、気脈を栗園に通じて能く自ら支持した清川玄道と大に趣を異にすべきは論を須(ま)たない。先生は玉砕すべき運命を有してゐた人である。わたくしが先生を以て死所を得たとなすのは、これがためである。」
「独り先生を然りとするのみではない。先生の門下には一人として新興の洋医方の前に項(うなじ)を屈したものは無い。塩田だつて、わたくしだつて、医としては最後に至るまで漢医方を棄てなかつた。わたくしは郷人に勧誘せられて、維新第二年(己巳)に岩村藩の権大参事になつて医を廃した。」
 以上は松田氏が柏軒の癸亥七月十九日淹京中の死を以て所を得たものとする論断である。わたくしは此より柏軒の学術を一顧しようとおもふ。是も亦主として松田氏と塩田氏との言(こと)に拠らざることを得ない。
 科学の迹は述作に由つて追尋するより外に道が無い。然るに伊沢氏は蘭軒以下書を著さなかつた。是は蘭軒の遺風であつた。それゆゑ柏軒所著の書と云ふものも亦絶無である。
 わたくしは此事に関する松田氏の言(こと)を下(しも)に記さうとおもふ。是は蘭軒の条に云つた所と多少重複することを免れぬが、柏軒の学を明にするには、勢(いきほひ)伊沢家学の源統より説き起さゞることを得ぬのである。

     その三百二十三

 松田氏は柏軒医学の伝統を説くこと下(しも)の如くである。「支那の医学は唐代以後萎靡して振はなかつた。唐宋元明清の医家には真に大家と称するに足るものが莫い。それゆゑに我国の多紀氏に、桂山(けいざん)□庭(さいてい)の父子が相踵(あひつ)いで出でたのは、漢医方の後勁とすべきである。肥後に村井氏があつて、見朴(けんぼく)琴山(きんざん)の橋梓(けうし)相承けて関西に鳴つたが、多紀氏の該博に視れば、尚一籌を輸してゐた。」
「伊沢蘭軒は多紀父子と世を同うして出で、父子が等身の書を著すを見て、これと長を争ふことを欲せなかつた。且述作の事たる、功あれば又過(あやまち)がある。言(こと)一たび口より発し、文一たび筆に上るときは、いかなる博聞達識を以てしても、醇中(じゆんちゆう)に疵(し)を交ふることを免れない。蘭軒は多紀氏の書を読んで、善書も亦往々人を誤ることあるを悟つた。是が伊沢氏の不立文字(ふりふもんじ)の由つて来る所である。」
「蘭軒は此の如くに思惟して意を述作に絶ち、全力を竭して古書の研鑽に従事した。そしてその体得する所はこれを治療に応用した。古書中蘭軒の最も思を潜めたのは内経である。それゆゑに彼素問識霊枢識に編録せられた多紀氏の考証の如きも、蘭軒がためには一の階梯たるに過ぎなかつた。是が伊沢氏の家学で、榛軒柏軒の二子はこれを沿襲した。」
 以上は松田氏の言(こと)である。わたくしはこれに参するに塩田氏の言を以てして、榛軒柏軒兄弟の研鑽の迹を尋ねる。塩田氏はかう云つてゐる。「榛軒柏軒の兄弟は、渋江抽斎、小島抱沖、森枳園の三人と共に、狩谷□斎の家に集つて古書を校読した。其書は多紀□庭を介して紅葉山文庫より借り来つたものである。当時一書の至る毎に、諸子は副本六部を製した。それは善書の人を倩(やと)つて原本を影写せしめたのである。此六部は伊沢氏兄弟一部、渋江、小島、森、狩谷各一部であつた。」
「わたくしは当時の抄写に係る素問を蔵してゐた。是本は伊沢氏の遺物で、朱墨の書入があつた。墨書は榛軒、朱書は柏軒である。同時に写された書中其発落(なりゆき)を詳にすべきものは、狩谷氏の本が市に鬻(ひさ)がれ、渋江氏の本が海底に沈んだと云ふのみである。小島氏、森氏の本はどうなつたか、一も聞く所が無い。」
「頃日(このごろ)三輪善兵衛と云ふ人が書籍館を起して、わたくしに古医書を寄附せむことを求めた。わたくしは旧蔵の書籍を出して整理した。其時宍戸某と云ふ人が来て見て、中の素問を抽き出し、金三十円に換へて持ち去つた。即ち榛軒柏軒の手入本である。後に聞けば、宍戸某をしてこれを購ひ求めしめたものは富士川游君であつたさうである。」以上が塩田氏の言である。
 わたくしは上(かみ)に榛軒が蘭軒手沢本の素問霊枢を柏軒に与へたことを記した。按ずるに伊沢氏には蘭軒手沢本と榛柏手沢本との二種の内経が遺つてゐた筈である。若し後者が果して富士川氏の有に帰したなら、其本は必ずや現に京都大学図書館に預託せられてゐるであらう。他日富士川氏を見たら質(たゞ)して見よう。

     その三百二十四

 わたくしは柏軒の学術を語つて、其家学に関する松田塩田二氏の言を挙げた。松田氏の蔵する所に柏軒の筆蹟があるが、亦その内経を崇尚(しゆうしやう)する学風を見るべきである。「文久辛酉。嘗読健斎医学入門。至其陰隲中説。有大所感。今亦至大有所得。其説云。吾之未受中気以生之前。則心在於天。而為五行之運行。吾之既受中気以生之後。則天在吾心。而為五事之主宰。嘗自号曰天心居士。」医学入門は明の李挺(りてい)の著す所で、古今の医説を集録し、二百八門を立てたものである。そして其陰陽五行説の本づく所は素問霊枢である。此書が明の虞博(ぐはく)の著した医学正伝と共に舶載せられた時、今大路(いまおほぢ)一渓(けい)は正伝を取り、古林見宜(ふるばやしけんぎ)は入門を取つた。所謂李朱医学は此よりして盛に行はれた。李とは東垣李杲(とうゑんりかう)、朱とは丹渓朱震亨(たんけいしゆしんかう)である。入門には内傷に東垣、雑病に丹渓が採つてある。昌平学校は古林の東辟後に起した所の医黌の址ださうである。健斎は李挺の号であらうか。医学入門自序の印文に此二字が見えてゐる。
 伊沢氏の学風は李朱医学の補血益気(ほけつえきき)に偏したものではなかつた。惟(たゞ)井上金峨の所謂「廃陰陽、排五行、去素霊諸家、直講張仲景書者」たることを欲せなかつたのである。
 わたくしは此に一言せざるべからざる事がある。それは我家の医学である。吾王父白仙綱浄(はくせんつなきよ)は嘗て藩学の医風に反抗して論争した。当時の津和野藩医官は上下悉く素問学者であつた。綱浄は独り五行配当の物理に背き、同僚の学風の実際に切実ならざるを論じ、張仲景の一書を以て立論の根拠とし、自ら「疾医某」と称して自家の立脚地を明にした。しかし綱浄は古典素問を排したのではなく、素問学の流弊を排したのであつた。尋(つい)で吾父は蘭医方に転じ、わたくしは輓近医学を修めたのである。
 柏軒の治病法は概ね観聚方等に従つて方を処し、これに五六種の薬を配した。それゆゑ一方に十種以上の薬を調合するを例とした。是は明清医家の為す所に倣つたのである。観聚方は多紀桂山の著す所で、文化二年に刊行せられた。
 柏軒の技が大に售(う)れて、侯伯の治を請ふものが多かつたことは上(かみ)に云つた如くである。渋江保さんは嘗てわたくしに柏軒と津軽家との関係を語つた。津軽家は順承(ゆきつぐ)の世に柏軒を招請し、承昭(つぐあき)も亦其薬を服した。柏軒の歿後に其後を襲(つ)いだものは塩田楊庵であつた。当時津軽家の中小姓に板橋清左衛門と云ふものがあつた。金五両三人扶持の小禄を食(は)み、常に弊衣を着てゐるのに、君命を受けてお玉が池へ薬取に往く時は、津軽家の上下紋服を借りて着て、若党草履取をしたがへ、鋏箱を持たせて行つた。板橋は無邪気な漢(をとこ)で、薬取の任を帯る毎に、途次親戚朋友の家を歴訪して馬牛の襟裾(きんきよ)を誇つたさうである。松田氏の云ふを聞くに、細川家も亦柏軒の病家であつた。
 柏軒の相貌は生前に肖像を画かしめなかつたので、今これを審(つまびらか)にし難い。曾能子刀自の云ふには、榛柏の兄弟は兄が痩長で、弟が肥大であつた。父蘭軒に肖(に)たのは、兄ではなくて弟であつたと云ふ。
 松田氏はかう云つてゐる。「柏軒先生は十年前の信平君に似てゐた。あれを赭顔(あからがほ)にすると、先生そつくりであつたのだ。先年わたくしは磐(いはほ)の名義を以て、長谷寺に於て先生の法要を営んだことがある。其時門人等が先生に遺像の無いのを憾として、油画を作らせようとした。それには信平君を粉本として画かせ、わたくしにその殊異(しゆい)なる処を指□せしめ、屡改めて酷肖(こくせう)に至つて已むが好いと云ふことになつた。此画像は稍真に近いものとなつた。」渋江保さんの云ふには、此法要は恐くは明治三十二年柏軒三十七回忌に営まれたものであらうと云ふ。
 松田氏は又云つた。「柏軒先生の面貌には覇気があつた。これに反して渋江抽斎先生は丈高く色白く、余り瘠せてはゐなかつたが、仙人の如き風貌であつた。」

     その三百二十五

 柏軒が父蘭軒、兄榛軒と同じく近視であつたことは、既に上(かみ)の松田氏観劇談に見えてゐる。柏軒の子徳安磐にも此遺伝があつたさうである。最も奇とすべきは、柏軒近視の証として、彼蘭軒が一目小僧に逢つたと云ふに似た一話が伝へられてゐることである。それはかうである。
 浜町に山伏井戸と云ふ井があつた。某(それ)の年に此井の畔(ほとり)に夜々(よな/\)怪物(ばけもの)が出ると云ふ噂が立つた。或晩柏軒が多紀□庭(さいてい)の家から帰り掛かると、山伏井戸の畔で一人の男が道連になつた。そして柏軒に詞(ことば)を掛けた。
「檀那。今夜はなんだか薄気味の悪い晩ぢやあありませんか。」
 柏軒は「何故」と云つて其男を顧みて、又徐(しづか)に歩を移した。
 男は少焉(しばらく)して去つた。
 次の夜に同じ所を通ると、又道連の男が出て来て、前夜と同じ問を発した。然るに柏軒の言動は初に変らなかつた。
 三たび目の夜には男は出て来なかつた。是は来掛かる人に彼問を試みて、怖るべき面貌を見せたのであるが、柏軒は近視で其面貌を見なかつた。男は獺(かはをそ)の怪であつたと云ふのである。渋江保さんは此話を母五百に聞き、後又兄矢島優善(やすよし)にも聞いたさうである。
 柏軒は絶て辺幅を修めなかつた。渋江保さんの云ふを聞くに、柏軒は母五百を訪ふ時、跳躍して玄関より上り、案内を乞ふことなしに奥に通つた。幼(いとけな)き保の廊下に遊嬉(いうき)するを見る毎に、戯に其臂を執つてこれを噬(か)む勢をなした。保は遠く柏軒の来るを望んで逃げ躱(かく)れたさうである。
 柏軒は酒色を慎まなかつた。毎に門人に戯れて、「己も少(わか)い時は無頼漢であつた」と云つたのである。又門人平川良栄は柏軒の言(こと)として竊(ひそか)に人に語つて云ふに、「先生はいつか興に乗じて、己の一番好なものは女、次は酒、次は談(はなし)、次は飯だと仰つたことがある」と云つた。好色の誚(そしり)は榛柏の兄弟皆免れなかつたが、二人は其挙措に於て大に趣を殊にしてゐた。榛軒は酒肆妓館に入つて豪遊した。しかし家庭に居つては謹厳自ら持してゐた。これに反して柏軒は家にあつて痛飲豪語した。少かつた頃には時に仕女に私したことさへあつた。是は曾能子刀自の語つた所である。
 柏軒は家人を呼ぶに、好んで洋人の所謂ノン、ド、カレツスを以てした。息(むすこ)鉄三郎を鉄砲と云ひ、女(むすめ)安(やす)を「やちやんこ」と云ひ、琴を「おこちやん」と云つた類である。是は柏軒の直情径行礼法に拘らざる処より来てゐる。此癖(へき)は延(ひ)いて其子徳安に及び、徳安は矢島優善の妻鉄を呼んで「おてちやん」と云つた。これに反して渋江抽斎の如きは常に其子を呼ぶに、明に専六と云ひ、お陸と云つた。女(むすめ)棠(たう)に至つては、稍呼び難きが故に、特に棠嬢と称した。
 柏軒は江戸市中の祭礼を観ることを喜んだ。是は渋江抽斎と同嗜であつた。松田氏はかう云つてゐる。「柏軒先生や抽斎先生の祭礼好には、わたくし共青年は驚いた。柏軒先生の家が中橋にあつた頃は、最も山王祭を看るに宜しく、又狩谷翁の家は明神祭を看るに宜しかつた。山車(だし)の出る日には、両先生は前夜より泊り込んでゐて、斥候(ものみ)を派して報(しらせ)を待つた。距離が尚遠く、大鼓の響が未だ聞えぬに、斥候は帰つて、只今山車が出ましたと報ずる。両先生は直に福草履を穿いて馳せ出で、山車を迎へる。そして山車の背後に随つて歩くのである。車上の偶人、装飾等より囃の節奏に至るまで、両先生は仔細に観察する。そして前年との優劣、その何故に優り、何故に劣れるかを推窮する。わたくし共は毎に両先生の帰つて語るのを聞いて、所謂大人者不失其赤子之心者也とは、先生方の事だと思つた。」以上が松田氏の言(こと)である。わたくしは偶(たま/\)松崎慊堂文政甲申の日暦を閲して、「十五日(六月)晴、熱、都下祭山王、結綵六十余車、扮戯女舞数十百輩、満城奔波如湧」の文が目に留まつた。慊堂も亦祭礼好の一人ではなかつただらうか。

     その三百二十六

 柏軒の一大特色はその敬神家たるにあつた。兄榛軒の丸山の家には仏壇があり、又書斎に関帝、菅公、加藤肥州の三神位が設けてあつたに過ぎぬが、柏軒の中橋の家、後のお玉が池の家には、毎室に神棚があつた。
 棚は白木造で、所謂神体を安置せず、又一切の神符の類をも陳ぜなかつた。只神燈を燃し、毎旦塾生の一人をして神酒を供へしめた。松田道夫(だうふ)は塾頭たる間、常に此任に当つてゐた。神酒を供へ畢(をは)れば、主人は逐次に巡拝した。
 柏軒の神を拝する時間は頗(すこぶる)長かつた。塾生中には師を迷信なりとして腹誹(ふくひ)し、甚しきに至つては言(こと)に出し、其声の師の耳に達するをも厭はぬものがあつた。家の玄関には昧爽より轎丁(かごかき)が来て待つてゐて、主人の神を拝して久しく出でざるをもどかしがり、塾生を呼んで「もし/\、内の神主さんの高間が原はまだ済みませんかい」などと云つた。柏軒は此等の事を知つてゐて、毫も意に介せなかつた。
 柏軒は江戸の市街を行くにも、神社の前を過ぐる毎に必ず拝した。公事を帯びて行くのでないと、必ず鳥居を潜り広前(ひろまへ)に進んで拝した。又祭日等に、ことさらに参詣するときは、幣(みてぐら)を供ふることを懈(おこた)らなかつた。
 癸亥の年に西上した時には、柏軒は駅に神社あるに逢へば必ず幣を献り、神職に金を贈つた。「神道録」は断片に過ぎぬが、当時柏軒が所感を叙述したものである。京都に入つた後、公事に遑(いとま)ある毎に諸神社を歴訪したことは、上(かみ)に引く所の日記にも見えてゐる。
 柏軒が京都にゐて江戸の嗣子徳安並に門人等に与へた書に、「兼与大小神祇乍恐同心合意候間、一切災害不加正直忠信之人祈願仕候間、其地吾一家に不限、知識正真、忠心善意善行之者、被災害事者決無之、(中略)唯一途に正真忠信に奉神奉先接人憐物関要に候」と云つてある。その信念のいかに牢固であつたかを徴するに足るのである。此書は上(かみ)に其全文を引いて置いた。
 柏軒は屡神の託宣を受けたと称した。松田氏は其一例を記憶してゐて語つた。「柏軒先生は毎年八月二十五日に亀井戸の天満宮に詣でた。其日には門人数人をしたがへ、神田川より舟に乗つて往つた。小野富穀(ふこく)の如きは例として随従した。安政三年八月二十五日に門人数人が先生の終日家に帰らぬを予期して、相率(あひひきゐ)て仮宅に遊んだ。わたくしも此横著者の一人であつた。然るに此日には先生は亀井戸に往かずに、書斎に籠つて日を暮らした。是は天神の託宣に依つて門を出でなかつたのである。此日は二日前より雨が少しづつ降つてゐたが、夜に入つて暴風雨となつた。江戸の被害は前年の地震に譲らず、亀井戸辺では家が流れ人が溺れた。」
 柏軒は又人の病を治して薬方の適応を知るに苦み、神に祈祷して決することがあつた。

     その三百二十七

 わたくしは此より柏軒の門人の事を言はうとおもふ。しかし蘭軒門人録、榛軒門人録は良子刀自所蔵の文書中に存してゐて、独柏軒のもののみが無い。歴世略伝には只九人の名が載せてある。「門弟。松田道夫、塩田真、志村玄叔、平川良栄、清川安策、岡西養玄(後岡寛斎)、成田元章、斎木文礼、内田養三(岡西以下福山藩。)」
 此等の門人中主として師家のために内事に任じたものは清川、志村、塩田の三人で、外事に任じたものは松田であつたと云ふ。
 清川安策孫の事は既に榛門の一人として上(かみ)に載せてある。しかしわたくしは後に堀江督三さんを介し、孫の継嗣魁軒さんに就いて家乗を閲(けみ)することを得たから、此に其梗概を補叙する。
 蘭門の清川□(がい)は家世より言へば孫の祖父、実は孫の父であつた。是は既に云つた如く孫が所謂順養子となつたからである。
 □、字(あざな)は吉人(きつじん)、靄□(あいとん)、靄軒、梧陰等の号があつた。居る所に名けて誠求堂と云つた。本榎本氏、小字(をさなな)を武平と云つた。
 □の生父榎本玄昌も亦医を業とした。□は其次男として寛政四年に生れた。文化元年十三歳の時□の兄友春(いうしゆん)に汚行があつて、父玄昌はこれを恥ぢて自刃した。□は兄の許にあるを屑(いさぎよし)とせずして家を出で、経学の師嘉陵村尾源右衛門と云ふものに倚つた。村尾は□をして犬塚某の養子たらしめた。某の妻□を悪(にく)んで虐遇すること甚しかつた。□は犬塚氏を去り、鎌倉の寺院に寓し、写経して口を糊した。
 □は此時に至るまで家業を修めなかつたが、一日(あるひ)医とならむとする志を立て、始て蘭軒の門に入つた。
 蘭軒は□をして清川金馬の養子たらしめた。時に文化十三年、□は二十五歳にして昌蔵と改称し、後又玄策、玄道と称した。
 文政十年、□三十六歳の時嫡男徴(ちよう)が生れた。初の妻宝生氏の出である。此年□は中風のために右半身不随になり、且一目失明した。按ずるに後年蘭軒の姉正宗院の寿宴のとき、□の伊沢氏に寄せた書は此病の事を知つた後、始て十分に会得することが出来るのである。
 天保五年徴が八歳になつたので、□はこれをして佐藤一斎に従遊せしめた。九年徴は十二歳にして榛軒の門人となつた。是年又□の次男孫が生れた。継室柵子(さくこ)の出である。柵子、後道子と云ふ。柴田芸庵(うんあん)の妹である。按ずるに渋江氏の伝ふる所の□が窮時の逸事は、文政の初より天保の初に至る間の事であらう。
 十年七月二十八日□は四十八歳にして将軍家慶(いへよし)に謁した。行歩不自由の故を以て城内に竹杖を用ゐることを許された。
 十四年次男孫六歳にして長戸得斎の門に入つた。
 弘化二年嫡男徴十九歳にして豊後岡の城主中川修理大夫久昭(ひさあき)に仕へ、四年二十一歳にして侍医となつた。
 嘉永元年孫十一歳にして榛軒の門に入つた。五年榛軒が歿して、孫は十五歳にして柏軒の門に転じた。按ずるに徴と孫とは皆榛門にゐたのに、門人録は徴を佚して、独り孫を載せてゐる。又按ずるに孫は小字(をさなな)を昌蔵と云ひ、後安策と改めたが、此改称は早く榛軒在世の時に於てせられた。魁軒さんの蔵幅に榛軒の柏軒に与へた書がある。「昨日御相談昌蔵命名之儀、愈安策に仕候。安全之策急に出所見え不申候。賈誼伝に者治安策と見え申候。先認指上申候。(中略。)桑軒とも御相談可被下候。(中略。)燈市後一日。」桑軒は未だ考へない。或は徴の号棗軒(さうけん)を一に桑軒にも作つたものか。

     その三百二十八

 わたくしは柏軒門人清川安策孫の事を記して、清川氏の家乗を抄出し、嘉永五年に□の次男たる孫が師榛軒を失つて、転じて柏軒の門に入つたと云つた。当時父□は六十歳、嫡男にして岡藩に仕へた徴は二十六歳、次男孫は十五歳であつた。
 安政三年には孫が右脚の骨疽(こつそ)に罹つて、起行することの出来ぬ身となつた。此より孫は戸を閉ぢて書を読むこと数年であつた。
 四年徴が躋寿館に召されて医心方校刊の事に参与した。時に年三十一であつた。
 六年七月九日□が六十八歳にして歿した。是より先□は向島小梅村に隠れ棲んで吟詠を事としてゐた。現に梅村詩集一巻があつて家に蔵せられてゐる。□は再び娶つた。前妻宝生氏には子徴、女(むすめ)栄(えい)があつて、栄は鳥取の医官田中某に嫁した。継室柴田氏には息(むすこ)孫(そん)、女(むすめ)幹(みき)があつて、幹は新発田の医官宮崎某に嫁した。按ずるに栄の嫁する所の田中氏は棠軒の生家である。是に由つて観れば、木挽町の柴田氏と云ひ、鳥取の田中氏と云ひ、実は皆棠軒の姻戚である。
 十一月徴が父の称玄道を襲(つ)いだ。その受くる所の秩禄は二十五人扶持であつた。岡藩主久昭は夙(はや)く父□に所謂出入扶持十人扶持を給してゐたので、徴は弘化丁未に侍医を拝して受けた十五人扶持に加ふるに父の出入扶持を以てせられ、今の禄を得るに至つたのである。□の出入扶持には猶参河(みかは)吉田の松平伊豆守信古(のぶひさ)の給する五人扶持、上野(かうづけ)高崎の松平右京亮輝聡(てるとし)の給する二人扶持、播磨姫路の酒井雅楽頭忠顕(うたのかみたゞあき)の給する若干口があつた。
 徴が箕裘(ききう)を継ぐに当つて、孫は出でて多峰(たみね)氏を冒した。時に年二十二で、脚疽は既に癒えてゐた。是は熱海の澡浴が奇功を奏したのである。
 文久二年孫は日本橋南新右衛門町に開業した。是は当時幕府の十人衆たりし河村伝右衛門の出力に頼(よ)つたのだと云ふ。時に年二十五であつた。
 既にして次年癸亥に至り、柏軒が京都の旅寓に病んだ。孫は報を得て星馳(せいち)入洛し、師の病牀に侍したのであつた。当時江戸にある兄清川玄道徴は三十七歳、京都にある弟多峰安策孫は二十六歳であつた。
 松田氏の語る所に拠れば、松田氏より長ずること一歳の孫は、平生柏軒の最も愛する所で、嘗て女(ぢよ)国を以てこれに配せむとしたが、事に阻げられて果さず、国は遂に去つて狩谷矩之に適(ゆ)いたのだと云ふ。
 孫は京都にあつて喪に居ること数日であつたが、忽ち江戸の生母柴田氏が重患に罹つたことを聞いた。帰るに及んで、母の病は稍退いてゐた。次年元治紀元甲子四月五日に異母兄徴が歿し、尋(つい)で慶応紀元乙丑八月に母も亦歿した。徴は年を饗(う)くること僅に三十八であつた。
 徴、字は子溌(しはつ)、棗軒、杏※(きやうう)[#「こざとへん+烏」、8巻-246-上-3]、月海、済斎の諸号があつた。小字(をさなな)は釣(てう)八、長じて玄策と称し、後玄道を襲いだ。妻三村氏に子道栄、女鉄があつたが、徴の歿した時には皆尚幼(いとけな)かつた。是に於て孫は多峰氏を棄てゝ生家に復(かへ)り、所謂順養子となつた。甲子二十七歳の時の事である。

     その三百二十九

 わたくしは柏軒門人の主なるものを列叙せむと欲して、先づ清川安策孫を挙げ、其家乗を抄して慶応紀元の歳に至つた。
 慶応紀元に列侯の采地に就くものがあつて、孫の主君中川久昭も亦豊後竹田に赴いた。当時孫は母柴田氏の猶世に在る故を以て扈随することを得なかつた。孫はこれがために一旦藩籍を除かれた。
 明治二年六月久昭の東京に移つた時、孫は復籍して三人扶持を受けた。尋(つい)で廃藩の日に至つて、禄十二石を給せられ、幾(いくばく)もなくこれを奉還した。
 六年二月孫の家が火(や)け、悉く資財を失ひ、塩田真に救はれて僅に口を糊した。
 九年五月孫行矣(かうい)館の副長となつた。館は柳橋にあつた。古川精一の経営する所の病院で、其長は浅田栗園(りつゑん)であつた。栗園、初の名は直民、字(あざな)は識二(しきじ)、後に名は惟常、字は識此(しきし)と改めた。祖先は源の頼光より出で、乙葉(おとは)氏を称したが、摂津国より信濃国に徙り、内蔵助長政と云ふ者が筑摩郡内田郷浅田荘に城を構へて浅田氏となつた。後石見守長時に至つて松本の西南栗林村に居り、東斎正喜(とうさいせいき)に至つて始て医を業とした。東斎の子を済庵惟諧(さいあんゐかい)と云ふ。文化十二年五月二十三日済庵の子に栗園惟常が生れた。栗園は少時京都に遊び、中西深斎の家に寓して東洞派の医学を修め、天保七年二十二歳にして江戸に開業し、文久元年四十七歳にして将軍家茂に謁し、慶応二年五十二歳にして家茂の侍医となつた。江戸にあつては初め本康(もとやす)宗円に識られ、宗円これを多紀□庭(さいてい)、小島宝素、喜多村栲窓(かうさう)等に紹介した。住所は初め通三丁目であつたが、晩年牛込横寺町に移つた。此年栗園六十二歳、孫三十九歳であつた。
 十年東京府が孫を医会の幹事に任じた。
 十一年八月孫博済(はくさい)病院の医員となつた。博済は両替町にあつた脚気病院の名で、院長は又栗園であつた。
 十二年三月孫温知舎副都講となつた。舎は漢医方の学校であつた。
 十四年八月孫栗園と倶に滋宮(しげのみや)尚薬(しやうやく)奉御となつた。滋宮は韶子(よしこ)内親王である。
 十六年三月孫の家が再び火(や)けた。四月新居が落せられた。是月孫本町温知医黌の医学教諭となり、これに属する温知病院の副長となつた。其長は例の如く栗園がこれに任じた。九月滋宮薨ぜさせ給ふ故を以て尚薬の職を解かれた。
 十九年孫左脛に疔(ちやう)を生じ、十月四日四十九歳にして歿した。孫、字は念祖(ねんそ)、菖軒又は六菖と号した。小字(をさなな)は昌蔵、長じて安策、後玄道と称した。孫は玄道の称を襲ぐに当つて、自ら戯れて犬玄道と云つた。継嗣は今の魁軒さんである。名は温、字は子良、通称は玄道、春雨、杏花の別号がある。実は水谷丹下高射(たんげかうしや)の子で、小字を舜三(しゆんさん)と云つた。文久三年正月に生れ、明治七年十二歳にして怙(ちゝ)を失ひ、九年十四歳にして孫の門に入り、孫の歿するに臨んで、遺命に依つて家を継いだ。時に年二十四であつた。妻は徴の女(ぢよ)鉄である。孫の室酒井氏には子が無かつた。
 菖軒孫の浅田栗園と親善であつたことは、孫の履歴に徴して知ることが出来る。孫は新都善售(ぜんしう)の漢方医として栗園と並称せられた。柏軒門人中或は孫が伊沢氏を去り浅田氏に就いたと云ふものゝあつたのは、恐くは此に胚胎してゐるのであらう。栗園詩存に、「次清川菖軒七月三日剃髪詩韻却寄」の七絶がある。「銀海聞君晦転明。南薫一夜掃雲軽。洋風難化心頭月。古鏡磨来旧影清。」玄道は剃髪前目疾に罹つてゐたと見える。
 松田氏の語るを聞くに、孫が疔を生じて重態に陥つた時、松田氏は名古屋の裁判所長になつてゐたが、書を寄せて治を洋方医に託せむことを慫慂した。しかし未だ報復を得ざるに、訃音が早く至つたさうである。
 わたくしは此に清川氏の家に伝ふる所の一事を附載したい。それは柏軒の妻狩谷氏俊の病の事である。俊は処女たりし時労咳を病んで□の治を受けた。当時日毎に容態書を寄せて薬を乞うたが、其文に諧謔の語が多かつた。中に「おゝせつな咳のみ出でて影薄く今や死ぬらん望之の子は」の狂歌があつた。「逢坂の関の清水に影見えて今や引くらむ望月の駒」のパロヂイである。後年致死の病はこれとは別で、崩漏症(ほうろうしやう)であつたらしい。今謂ふ子宮癌であらうか。其証は当時の歌の四五の句に、「花のしべ石なむる此身は」と云ふのがあつた。漢薬花蕊石(くわずゐせき)は崩漏の薬である。

     その三百三十

 柏軒門人中清川安策孫の事は既に記した。次に挙ぐべきは志村玄叔である。
 玄叔、名は良□である。その天保九年に生れ、安政四年に柏軒の門に入つたことは上(かみ)に見えてゐる。文久三年柏軒に随つて京都に赴き、その病を得るに及んで、同行の塩田、踵(つ)いで至つた清川即当蒔の多峰と倶に看護に力を竭し、易簀(えきさく)の日に至るまで牀辺を離れなかつたことも亦同じである。
 頃日(このごろ)渋江保さんはわたくしのために志村氏を原宿におとづれ、柏軒在世の時の事を問うた。渋江氏は初見の挨拶をしたが、主人は手を揮(ふ)つて云つた。「いや。あなたは初対面のお客ではない。わたくし(良□)は柏軒先生の門人ではあつたが、受業の恩は却つてお父上抽斎先生に謝せなくてはならない。柏軒先生は講書の日を定めてゐても、病家の歴訪すべきものが多かつたので、日歿後に至つて帰り、講説は縦(たと)ひ強て諸生の求に応じても、大抵粗枝大葉に過ぎなかつた。時としては座に就いて巻(まき)を攤(ひら)かずに、今日は疲れてゐるから書物よりは酒にしようと云つて、酒肴を饗した。清川安策の如きは午過に来て待つてゐて、酒を飲んで空しく帰るのを憾(うらみ)とした。そこでわたくし共は柏軒先生の許を請うて、抽斎先生の講筵に列した。抽斎先生は毎月六度乃至九度の講義日を定めて置いて、決して休まなかつた。わたくし共は寒暑を問はず、午食後に中橋の塾を出て、徒歩して本所へ往つた。夏の日にはわたくし共は往々聴講中に眠を催した。すると抽斎先生は、大分諸君は倦んで来たやうだ、少し休んで茶でも喫(の)むが好いと云つて、茶菓を供した。少焉(しばらく)して、さあ、睡魔が降伏したら、もう少し遣らうと云つて講説した。酒を饗することは稀であつた。当時わたくし共は萱堂(けんだう)のお世話になり、あなたをも抱いたり負(おぶ)つたりしたことがある。抽斎先生の亡くなつた後も、二三年は本所のお宅をお尋したから、わたくしはあなたの四五歳の頃までの事を知つてゐる。萱堂は近頃如何です。」渋江氏は母山内氏の死を告げた。志村氏は嗟歎すること良(やゝ)久しかつた。
 志村氏は語を継いで云つた。「柏軒先生を除いて、わたくしの恩を承けたのは抽斎先生と枳園先生とである。実地に就いて本草を研究しようとするに、柏軒先生は病家に忙殺せられて、容易に採薬に往かなかつた。そこでわたくし共は枳園先生の採薬に随行した。わたくし共は抽斎先生をば畏敬したが、枳園先生となると頗(すこぶる)狎近(かふきん)の態度に出でた。しかし此人はわたくし共青年を儕輩として遇し、毫もわたくし共の不遜を咎めなかつた。枳園先生の本草は紙上の学問ではなかつたから、わたくし共が草木の実物に就いて難詰するに、毎(つね)に応答流るる如くであつた。想ふに是は相州に流浪し、山野を跋履した時、知見を広くした故であつただらう。」
 渋江氏は進んで柏軒の事を問うた。志村氏の答は下(しも)の如くであつた。

     その三百三十一

 志村氏は渋江氏に語つた。「わたくし(志村良□)は十四歳で柏軒先生の門に入つた。丁度安政四年で、十月に先生が将軍に謁見し、十二月に夫人狩谷氏を失つた年である。夫人は字を識り、書を善くしたが、平生は裁縫を事としてゐた。只客に酒を供する毎に、献酬の間善く飲み善く談じた。夫人の亡くなつた時、先生がかう云つた。可哀さうにお俊は己がお目見をしたお蔭で、酒を飲み過ぎて死期を早めたのだと云つた。是は十月の半以来賀客が絡繹として絶えなかつたので、夫人が日夜酒杯に親んだことを謂つたのである。勿論先生の戯謔(けぎやく)ではあるが、夫人は酒量があつたから、多少これがために病を重くしたかも知れない。」
「柏軒先生の嗜好としてわたくしの記憶してゐるのは、照葉狂言である。先生はわたくし共を中橋の佐野松(さのまつ)へつれて往くこと度々であつた。しかし此癖好(へきかう)は恐くは源を抽斎先生に発したものであつたらしい。抽斎先生は佐野松の主な顧客であつた。」
「柏軒先生は金銭の事に疎かつた。豪邁の人であつた故であらう。秩禄二百俵、役料二百俵、合計四百俵の収入があつたのに、屡財政に艱(なや)むことがあつたらしい。此の如き時、先生は金を借りた。しかし期に至つて還すことをば怠らなかつた。夫人存命中は狩谷氏が貸主で、其後は側室お春さんの弟が貸主であつたやうである。お春さんの弟は浅草の穀屋であつた。」
「文久三年将軍家茂上洛の時、柏軒先生が随員の命を受けて、□船に乗ることを嫌つたのは、当時の人の皆知る所であつた。是議論が平生洋風を悪(にく)む処から発したことは勿論である。しかし先生は猶別に思ふ所があつたらしい。先生は将軍の□船に乗るのを策の得たるものでないと謂(おも)つたのである。わたくしは先生がかう云つたのを聞いた。将軍の御上洛は陸路よりするを例とする。発著の間二十日を費す。是は□外(こんぐわい)の任にあるものが軽(かろ/″\)しく動かざるを示すのだ。朝廷で事の易きに慣れられて、ちよいと将軍を呼べと仰る、畏つて直に馳せ参ずることとなるのは宜しくない。此の如きは啻(たゞ)に将軍の威信を墜すのみではなく、朝権も亦随つて軽くなるのだと云つたのである。先生は言(こと)を左右に託して水路扈随を免れむことを謀つた。そのうち大奥より陸行の議が出て、事が寝(や)むことを得た。」
「わたくしが柏軒先生の一行に加へられたのは、松田道夫(だうふ)がわたくしに水野閣老(忠精)と先生との間を調停せしめようと謀つたためであつた。先生は松田の言(こと)を納(い)れた。しかし先生はそれ程我藩主を畏れてはゐなかつた。或時先生は満を引いてかう云つた。なに、水野侯一人が政事をしてゐるのではないから、お前達は心配するな、それよりは酒でも飲めと云つたのである。」

     その三百三十二

 志村氏の渋江氏に語つた所の柏軒事蹟は未だ尽きない。「癸亥の年に将軍家茂に扈随して江戸を発した医官数人中、行伴(かうはん)の最多かつたのは柏軒先生である。大抵医官は一門人若くは一僮僕を有するに過ぎなかつたのに、独り先生の下には塩田良三とわたくし(志村良□)とがゐて、又若党一人、轎丁(けうてい)四人がゐた。それゆゑに途次に費す所も亦諸医官に倍□(ばいし)した。」
「途上にある間も、京都に留まつてゐる間も、わたくしは塩田と議して業務を分掌した。塩田は主に出納の事に当り、わたくしは主に診療の事に当つたのである。」
「病人には二種類があつた。一は同行の旗本家人等で、一は駅々の民庶、入京後は洛中の市人である。然るに柏軒先生は毎旦将軍に謁し、退出後も亦頗多事であつたので、多くはわたくしが代つて脈を候(うかゞ)ひ方を処した。又淹京間は請に応じて往診することが日に数次で、是は皆わたくしの負担であつた。」
「わたくしは特に某日の一往診を牢記して忘れない。それは柏軒先生が既に病に罹つて引き籠つてから後の事であつた。わたくしは某病家に往診した。其家は濠に沿うて迂回して纔(わづか)に達すべき街にあつた。往くこと未だ半ならざるに、大雷雨の至るに会した。わたくしは心にかうおもつた。此の如き日に遠路を行くは人情の難しとする所である。然るに自分は労を憚らずして往く。是は確に先生の一讚詞に値するとおもつた。さて事果てて後、還つて先生を見ると、先生は色懌(よろこ)ばざる如くであつた。そしてかう云つた。足下は無情な漢(をとこ)だ。己が雷を嫌ふことは知つてゐる筈ではないか。かうして病気で寝てゐるのに、あの大雷が鳴つたのだから、足下はどこにゐても急で帰つて来てくれさうなものだ。何をぐづ/″\してゐたと云つた。なる程先生が生得雷を嫌ふことは、わたくしは熟(よ)く知つてゐた。それに嘗て躋寿館にゐて落雷に逢つてからは、これを嫌ふことが益甚しくなつてゐたのである。しかしわたくしは往診の途上では少しもこれに想ひ及ばなかつたのである。わたくしは先生の言(こと)を聞いて、その平生の豪快なるに似ず、嫌悪が畏怖となつたことを思ひ、又わたくしの如きものに倚依することの深厚なことを思ひ、覚えず涙を堕した。」
「柏軒先生の亡くなつた後、わたくしは猶伊沢氏に留まつてゐて、後事を経営し、次年元治元年に至つて始て去つた。わたくしの先生に従遊したのは前後七年で、伊沢氏にゐたのは八年である。」
「伊沢氏を去つた後、わたくしは江戸にあつて医を業としてゐた。幾(いくばく)もなく王政維新の時が来た。わたくしは山形へ移住すべき命を受けたが、忽ち藩主水野の家が江州に移封せられ、わたくしの移住は沙汰止になつた。当時わたくしは青山の水野邸にゐたが、後土地家屋を買つて遷(うつ)つた。それが此家である。」
 志村良□さんの談話は此に終る。柏軒が躋寿館にあつて落雷に逢つたことは、わたくしは既に渋江抽斎伝に記した。水野忠精の邸第(ていだい)は武鑑に「上(かみ)、三田二丁目、下(しも)、青山長寿丸、同、本所菊川町、同青山窪町」と云つてある。今の志村氏の家は千駄谷村旧(もと)原宿町である。

     その三百三十三

 わたくしは柏軒の門人中より既に清川、志村二家の事を抽(ぬ)いて略叙した。次は塩田良三である。良三、後の名は真(まさし)である。わたくしが蘭軒の稿を起した時は猶世にあつたが、今は亡くなつた。
 塩田真(しん)は既に屡此伝記に出でた人物である。祖父は小林玄端(げんたん)、父は玄瑞(げんずゐ)であつた。玄瑞は出羽国山形より江戸に来て蘭門に入り、塩田秀三(しうさん)の家を継ぎ、楊庵と改称した。その塩田氏に養はるゝに当つて、これが仮親となつたものは清川玄道□であつた。
 塩田氏の家系より言へば、高祖文隣軒自敬、曾祖楊庵、祖父秀三、父楊庵である。遠祖は平の宗盛の臣塩田陸奥守惟賢(これかた)で、八島の戦が敗れた時、宗盛の子を抱いて奥州に逃れたと伝へられてゐる。其裔自敬が始て三春に於て医を業とし、其子初代楊庵が江戸本石町に開業し、後お玉が池に移つた。楊庵の女婿を秀三と云ふ。三春の番匠佐藤某の子で、郷にあつては自敬に学び、江戸にあつては経を太田錦城に受け、医を初代楊庵に問うた。秀三は諸家の出入扶持を享けたが、就中(なかんづく)宗家の十五人扶持が最多かつた。小林玄瑞は此秀三の女婿となつて二世楊庵と称したのである。
 良三真は天保八年に生れた。師柏軒を失つた時二十七歳であつた。
 次は松田敬順道夫(けいじゆんみちを)である。その出自、その入門等は既に記した。此には先づ一事の補叙すべきものがある。それは松田の渋江抽斎に於ける関係である。松田は籍を柏門に置きながら、抽斎の講筵に列せむことを願ひ、人を介して往いて聴いた。柏軒は聞いて大に怒(いか)つた。「抽斎の講を聴くは至極好い、しかし己の門人であつて己の友人に交を求めるのに、他人を介するとは何事だ」と云つたのである。松田は過を謝して師の怒を解くことを得た。抽斎の書を講ずるは、友と談ずるが如くであつた。難句に遭ふ毎に、起つて架上より数巻の書を抽き出し、対照して徒に示し、疑義は強て決することなく、研鑽の余地を留めて置いた。来聴者の悦服した所以である。
 安政戊午に抽斎が歿し、万延庚辰に立石選銘の議が起つた。時に友人弟子中に二説があつた。一は津軽人をして銘せしめむと云ひ、一は故人の親友をして銘せしめむと云つたのである。柏軒等は後説を持して、遂に勝つた。既にして海保漁村の志銘は成つた。友人弟子等は是を読んで其大要の宜しきを得たるを認めた。就中柏軒は起首の「嗚呼問其名則医也」以下四十九字を激称して、漁村の肺腑中より出でたものとした。しかし諸人の間には異議も亦頗多かつた。遂に漁村に改刪を請ふべきもの数条を記した。さて此を誰に持たせて漁村の許へ遣らうかと云ふことになると、衆皆□□(しそ)した。当時漁村は文章を以て一世に雄視してゐたからである。幸に松田は漁村に親んでゐたので、此を持つて伝経廬(でんけいろ)を訪ひ、遂に定稿を獲て帰つた。

     その三百三十四

 わたくしは柏軒の門人を列叙して松田敬順道夫に至つた。柏軒の世は今を距(さ)ること遠からぬために、わたくしは柏軒の事を記するに臨んで、門人の生存者三人を得た。志村、塩田、松田の三氏が是である。就中松田氏の談話はわたくしをして柏軒の人となりを知らしめた主なる資料であつた。松田氏の精確なる記性と明快なる論断とが微(なか)つたなら、わたくしは或は一堆の故紙に性命を嘘(ふ)き入るゝことを得なかつたかも知れない。
 医を罷めた後の松田氏は法官として猶世人の記憶に存してゐるであらう。しかし此人の生涯は余りに隔絶したる前後両半截をなすがために、殆どその同名異人なるかを疑ふ人のなきを保し難い。わたくしは下(しも)に姻戚荒木三雄さんの書牘を節録して、彼「洋医の軍門に降らなかつた」柏軒門人松田氏がいかに豹変したるかを示す。「貴著伊沢蘭軒中松田道夫君の事を記載有之、始て同君の前生活を知ることを得、一驚を喫候。判事松田道夫君は昔年津山の昌谷千里(しやうたにせんり)、先考荒木博臣等と同じく名を法曹界に馳せし者にして、某探偵談には松田君を擬するに今大岡を以てしたるを見しこと有之候。同君最後の職は東京控訴院部長と記憶いたし候。昌谷逝き、先考も亦逝き、今や存するものは唯松田君あるのみに候。昌谷の遺子は現に樺太庁長官たる昌谷彰君に有之候。松田君は令息道一君と共に湯島三組町の家に住し居られ候。道一君は久しく外務書記官にして、政務局第二課長たりしが、頃日(このごろ)駐外の職に転ぜられ候。」
 次は岡西、成田、斎木、内田の諸人である。此数者中岡西氏は既に渋江抽斎伝に見え、又上文にも見えてゐる。今新に考へ得たる所二三を補ふに止める。
 岡西養玄は明治二年の席順に「第六等席、十三人扶持、書教授試補、岡西養玄、三十一」と云つてある。然らば天保十年生であらう。「養玄」の右に「待蔵」と細書してある。然らば維新後一たび岡西待蔵と称し、後更に岡寛斎と称したものか。寛斎の死は明治十七年十月十九日に於てしたと云ふ。然らば享年四十六であつた。
 成田成章は同席順の「第六等席、八人扶持、成田玄昌、三十七」か。然らば天保四年生である。
 斎木文礼は同席順に「第六等席、八人扶持、斎木文礼、二十七」と云つてある。然らば天保十四年生である。
 内田養三(やうさん)は戊辰の東席順に「奥御医師、内田養三、三十五」と云つてある。然らば天保五年生である。
 わたくしは最後に柴田氏の事を附載して置きたい。其一柴田常庵は上(かみ)に榛門の一員として事蹟の概略を載せた。其二は柴田方庵である。方庵の事は歴世略伝に見えない。わたくしは塩田氏の語るを聞いて始て方庵の名を知つた。下(しも)に仁杉(にすぎ)氏の云ふ所と合せ考へて方庵の何人なるかを明にしよう。

     その三百三十五

 塩田氏と仁杉氏との談話を参照するに、柴田方庵の事蹟には矛盾する所が多い。是は塩田氏の記憶のおぼろけなりし故であつたらしい。故に清川魁軒に聴いて正した。
 方庵は柴田芸庵(うんあん)の末弟であつた。
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