伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

 わたくしは文久壬戌七月七日に柏軒の長女洲が流行の麻疹に罹つて死んだことを記し、葬(とぶらひ)を送つて帰つた塩田良三が紋服を脱ぎ更(か)ふるに及ばずして僵れ臥したと云つた。
 良三は人事を省せざること幾時なるを知らなかつた。ふと醒覚したときは、もう更闌(かうた)けてゐるらしかつた。隣室に人の語る声がする。諦聴すれば主人柏軒と父楊庵とである。
「何分難証(なんしよう)で困つたものです」と柏軒が云ふ。
「下剤を用ゐて見てはいかがでせう。」これは父が危(あやぶ)みつつ問ふのであつた。
「いや。下剤は好いが、たつた此間湿毒を下すと云つて用ゐた迹で、まだ体が回復してゐないから、此上用ゐるわけには行きますまい。」柏軒は父の議を納れなかつた。
 少焉(しばらく)して父は辞して帰つた。間もなく僕(しもべ)が煎薬を茶碗に注いで持つて来た。此時良三は苦悶に堪へぬので、危険を冒して下剤を服せむことを欲した。そこで僕に別に一碗の熱湯を持ち来れと命じ、自ら起つて調合所に往き、大黄(だいわう)一撮(ひとつまみ)を取り来つて熱湯中に投じ、頓服して臥した。既にして上□(しやうせい)両度であつた。再び上(のぼ)つた比(ころほひ)には、もはや起行することが出来ぬので、蒲伏(ほふく)して往反(わうへん)した。そして昏々として睡つた。
 再び覚めて見れば、燈火が滅してゐた。しかし良三は自ら双臂胸腹(さうひきようふく)を摩して、粟粒大(ぞくりふだい)の物が膚(はだへ)に満ちてゐるのを知つた。夜が明けた。良三は紅疹の簇(むらが)り発したのを見て喜に耐へず、大声に「先生」と叫んだ。
 柏軒は寝衣(ねまき)の儘で来て見た。そして良三の大黄を服したことを聞き、一面にはその奇功を奏したのを歓び、一面には将来のために軽挙を戒めた。
 十一月二十三日に、棠軒は全安の女梅を養女として、岡西養玄に嫁することを許された。翌月二十一日に上原全八郎が媒妁して梅を岡西氏に送つた。棠軒公私略にかう云つてある。「十一月廿三日、厄介女梅事、此度自分養女に致し、岡西養玄え縁談、願之通被仰付。」「同月(十二月)廿一日、梅女岡西へ嫁入整婚儀、上原全八郎媒人、里開舅入同日也。」
 梅は世に希(まれ)なる美人であつた。幼(いとけな)くして加賀中納言斉泰(なりやす)の奥に仕へたが程なく黜(しりぞ)けられた。某(それがし)と私通したからである。梅は暫くお玉が池の柏軒の許に潜んでゐて、此に至つて養玄に嫁した。年甫(はじめ)て十三であつた。
 養玄は後の岡寛斎である。才学はあつたが、痘痕(とうこん)のために容(かたち)を毀(やぶ)られ、婦を獲ることが難かつた。それゆゑ忍んで行(おこなひ)なき梅を娶(めと)つたのださうである。
 棠軒は此年福山に徙(うつ)ることを命ぜられ、次年に至つて徙つた。伊沢分家は丸山阿部邸内の蘭軒の旧宅を棄てて去ることになつたのである。公私略に「十二月四日、来春早々福山表引越被仰付」と云つてある。
 伊沢本家では此年閏(じゆん)八月十八日に信全が八十一歳で歿した。当主は二十八歳の道盛信崇(だうせいしんそう)であつた。

     その三百十三

 此年壬戌に福山藩の小島氏で成斎知足(せいさいちそく)が歿した。継嗣は第二子信之(しんし)である。成斎の墓表は二あつて、一は海保漁村が撰び、一は関藤藤陰(せきとうとういん)が撰んだ。駒籠長元寺中の石に刻まれてゐて、世人の普(あま)ねく知る所のものは前者である。歿日は十月十八日、年は六十七、病の「風□」であつたことは漁村の文に見えてゐる。二子三女があつて、長子は夭した。
 此年棠軒二十九、妻柏二十八、子棠助四つ、女長九つ、良七つ、全安の女梅十三、柏軒五十三、子鉄三郎十四、平三郎二つ、女国十九、安十一、琴八つ、妾春三十八、榛軒未亡人志保六十三であつた。
 文久三年は蘭軒歿後第三十四年である。正月二十日将軍徳川家茂は柏軒に上洛の供を命じた。家茂は前年壬戌八月の召に応じて往くのである。
 此時柏軒は端(はし)なく一の難関に逢著した。それは所謂柏軒の乗船問題である。松田氏は此間の消息を語つて下(しも)の如く云つてゐる。
「柏軒先生は多紀□庭(さいてい)、辻元冬嶺等の没後に幕府の擢用を蒙り、職は奥医師たり、位は法眼に叙せられ、又市中に病家千戸を有し、貴顕富豪の治を請ふもの多く、お玉が池明誠堂の門には車馬の跡が絶えなかつた。先生が蘭医方の漸く盛なる時に当つて、識らず知らずの間に身に漢医方存亡の責を負ふが如くなるに至つたのは、勢(いきほひ)已(や)むことを得なかつたのである。」
「徳川十四代将軍(家茂)が上洛の供を命じた奥医師は戸塚静寿院法印、竹内渭川院(ゐせんゐん)法印、本康宗達(もとやすそうたつ)法眼、三上(みかみ)快庵法眼と先生とで、これに奥外科見習村山伯元が副(そ)へてあつた。戸塚、竹内はジイボルト門下の蘭方医である。そして老中の有力者水野和泉守忠精(たゞきよ)は蘭方医を信用してゐた。」
「老中水野は奥医師に汽船咸臨丸に陪乗することを命じた。水野は先生が一切の西洋機巧に触接しないのを熟知してゐて此命を下した。先生は岐路に立つた。屈従して汽船に乗らむか又水路を行くことを辞せむかと云ふ岐路である。若し水路を行くことを辞するときは、職を褫(うば)はれる虞(おそれ)がある。先生は少くも水野が必ず職を褫ふだらうと惟(おも)つた。」
「先生は前(さき)に単独に阿部侯の治療に当つた時の如く、又門人中の重立つたものを会して意見を問うた。」
「門人は硬軟二派に分れた。竹内立賢(たけのうちりふけん)等は先生に忍んで汽船に乗らむことを勧めた。是は先生が若し職を失ふと、官医中には漢方医の有力者が無くなるからである。これに反してわたくし共は云つた。先生決して汽船にお乗なさるな。若し旨に忤(さか)つて職を免ぜられると云ふことになつたら、野に下つて漢医方の興隆をお謀(はかり)なさるが宜しいと云つた。先生は初より老中の言(こと)に従ふ意がなかつたので、わたくし共の言を聞いて大に喜んだ。」
「先生は意を決して上船を辞せむとした。しかしその抗命に類することを避けむがために、多紀安琢、津軽玄意の名を以て歎願書を呈することにした。」
 松田氏の此談話中に見えてゐる随行医官の名の中に、猶奥医師林洞海法眼が漏れてゐる。洞海、名は彊(きやう)、字(あざな)は健卿(けんけい)、万延元年幕府に召され、次年に侍医の班に列せられた。その上洛扈随の一員であつたことは志村良□(りやうがい)さんが記憶してゐる。是も亦洋方医である。
 其他此行には扈随の侯伯にして医官を率(ゐ)て行くものが多かつた。一橋中納言慶喜(よしのぶ)の下(もと)に清川安策孫の養嗣子温の生父水谷丹下のあつたなどが其一例である。

     その三百十四

 癸亥の歳将軍徳川家茂が上洛した時、柏軒は随行を命ぜられた。そして汽船咸臨丸に乗らなくてはならなかつた。是は西洋の機巧を憎む柏軒の忍ぶこと能はざる所であつた。わたくしは上(かみ)に柏軒が奥医師の地位を賭(と)して上船を辞せむと欲したことを記した。此乗船問題は松田氏の語る所であるが、伊沢良子刀自は当時多紀安琢、津軽玄意の柏軒がために草した歎願書を蔵してゐるから、わたくしは此に抄出して松田氏の談を補はうとおもふ。
「磐安儀此度不奉存寄(ぞんじよりたてまつらず)、御上洛御供被仰付難有仕合奉存候。且御船にて御供仕候様被仰付、是亦重畳難有仕合奉存候。」
「然るに当人乗船致候得者、兼而眩暈之気味に而(て)難儀致候得共、乗船御供被仰付候と申候者、格別之儀と奉存候間、中々御断之願者難申出黙止(もだし)居候得共、先月末当月初両度之乗様(のりだめ)しに、御医師中に者(は)指而(さして)難儀之者も無御坐候得共、御小姓御納戸之中に者(は)、船中眩暈嘔逆(おうぎやく)に而難儀之人も有之候様承及候。当人格別病身と申に者無之候得共、平生船中は勿論総而(すべて)動揺致候事強候節嘔吐致、甚に至候而者嘔吐之上泄瀉(せつしや)致候持病御坐候。左候得者乗船仕候得者持病差起候者必然之儀と奉存候。当人病気に而者船中に而乗組之内に病気之者御坐候共、中々療治致候事難相成、将亦(はたまた)上陸之後も必疲労仕候而、御用有之候共相勤候儀無覚束奉存候。」
「当時御上(おかみ)に者(は)御一体御強健に被為在候而(あらせられそろて)、且蘭科御療治御薬差上候事故、漢科之者御供不仕候共、御用之御間(おんま)不欠儀(かけざるぎ)と奉存候得共、誠に万々一之御備に漢科之者御供被仰付候儀と奉存候。」
「然るに当人船中に而嘔吐且泄瀉等相煩候而者、船中病用相勤候儀難相成者勿論、又上陸致候而も万々一急速之御用御坐候共、相勤候儀不相成候而者乗船に而御供仕候も無詮儀(せんなきぎ)と奉存候。且当人御供被仰付難有奉存候本意も不相立、深奉恐入候間、右之段御憐察被下、可相成儀に御坐候得者、乗船御供御免被仰付、陸地に而御先(おんさき)に罷越、兼而被仰出候日限に、出立上京為致度奉存候。此段偏(ひとへ)に奉願候。二月日。多紀永春院。津軽良春院。」
 此草案には宛名は書してない。しかし医師は若年寄支配であつたから、若年寄用番に宛てゝ出す積であつたのだらう。
 歎願書はわたくしが松田氏の談を記するに当つて、其中間に插(さしはさ)んだものである。松田氏は乗船問題の談の末にかう云つた。「然るに柏軒先生の此心配は無用になつた。それは幕府の議が中途に変じて、舟を用ゐずに陸路を行くことになつたからである。今より回顧して見れば、奇異の感がするが、汽船に乗るは屈従である、寧(むしろ)地位を賭しても乗ることを辞するが好いと、先生も真面目に考へ、わたくし共も真面目にこれに賛同したのである。」
 柏軒が将軍に随つて江戸を発するに先(さきだ)つて、次に起つた一問題は、門人中誰が柏軒に随行すべきかと云ふ事であつた。
 是は柏軒が何人(なんぴと)を率(ゐ)て行かうとしたかの問題ではなくて、門人中主要なるものが師のために謀つて何人をして随従せしめようとしたかの問題である。わたくしは松田氏のこれに関して語る所を下(しも)に記さうとおもふ。

     その三百十五

 柏軒が癸亥の歳に将軍家茂に随つて上洛した時、高足弟子(かうそくていし)の間に誰を師に附けて京都へ遣らうかと云ふ問題が起つた。中にも松田氏は深く慮(おもんぱか)る所があつて、必ず志村玄叔を遣らうとおもつた。その語る所はかうである。
「わたくしは柏軒先生随行者の問題が起つた時、是非共志村玄叔を遣らうとおもつた。それは先生一身の安危に繋る事情より念(おも)ひ到つたのである。」
「前にも云つたやうに、将軍の一行には蘭方医と漢方医とが相半(あひなかば)してゐた。其人物の貫目より視ても、両者は輒(たやす)く軒輊(けんち)すべからざるものであつた。然るに老中の有力者たる水野和泉守忠精(たゞきよ)は蘭方を尊崇してゐた。若し旅中に事があつて、蘭方医と漢方医とが見る所を異にすると、柏軒先生は自ら危殆(きたい)の地位に立つて其衝に当らなくてはならぬのであつた。」
「平生江戸にあつては、先生には学殖ある友人もあり、声望ある病家もある。縦(たと)ひ事端の生ずることがあつても、救援することが難(かた)くはない。これに反して一旦京都に入つては、先生は孤立してしまふ。わたくしはこれを懼(おそ)れた。」
「わたくしの疑懼は、若し先生が小心の人であつたら、さ程ではなかつただらう。わたくしは先生の豪邁の気象を知つてゐたので、そのいかに此間に処すべきかを思ふ毎に、肌に粟を生じたのである。」
「わたくしの志村玄叔を簡(えら)んで随行せしめようとしたのは、志村をして此間に周旋せしめようとしたのである。志村は山形藩医である。水野泉州に謁して事を言ふことも容易であり、又泉州左右の人々をも識つてゐる。此人が先生の傍(かたはら)にゐたら、万一事端の生ずることがあつても、先生を救解することが出来ようとおもつたのである。」
「しかし先生は果して志村を率(ゐ)て行くであらうか。わたくしは頗これを危(あやぶ)んだ。何故と云ふに、剛強の人は柔順の人を喜ぶ。先生の門下には竹内立賢(たけのうちりふけん)の如き寵児がある。独り先生と先生の家人とがこれを愛するのみならず、丸山伊沢の眷族さへ一人として称讚せぬものはない。又粗豪の人は瑣事に手を下すことを嫌つて、敏捷の人を得てこれに任ぜしめようとする。同門の塩田良三(りやうさん)の如きは其適材である。塩田が侍してゐれば、先生は手を袖にして事を辨ずることが出来る。わたくしはそこへ遽(にはか)に志村を薦むることの難きを思つた。」
「さればとて先生に向つて、あからさまに泉州の威権を説き、蘭方医の信用を説くことは出来ない。若し此の如き言説を弄したら、先生は直にわたくしを叱して却(しりぞ)けたであらう。」
「わたくしは焦心苦慮して日を送つた。既にして先生出発の期は迫つた。わたくしは一日(あるひ)先生に伺候して、先生お供には誰をお連になりますかと問うた。」
「塩田を連れて往く。」
「さやうでございますか。成程、塩田が参るなら、先生の御不自由のないやうに、お世話をいたす事でございませう。しかしわたくしはお願がございます。それは外でもございませんが、今一人志村をお連下さいませんか。あの男は兼て一度京に上りたいと申してをりました。此度のやうな機会はなか/\得られませんから。」
「志村か。さうさなあ。まあ、今度は止にしてもらはう。」
「先生はかう云ふ時に窮追して捉へることの出来ぬ人だから、わたくしは黙つて退いた。」

     その三百十六

 わたくしは松田氏の談(はなし)を書き続ぐ。松田氏は癸亥の歳に柏軒が上洛する時、思ふ所あつて志村玄叔を率(ゐ)て往かしめようとしたが、一たび説いて却けられた。松田氏の談の続きはかうである。
「わたくしは柏軒先生に再説することの難いのを知つてゐた。しかし志村を一行中闕くべからざる人物だと以為(おも)つたから、日を隔てて又先生を訪うた。其日はまだ払暁であつたので、先生は褥中にゐた。わたくしは枕元に進んで云つた。」
「先生、此間も一寸申しましたが、志村を京都へお連下さるわけにはまゐりますまいか。」
「なに、志村は今度は連れて往かぬと云つたぢやないか。かう云つて先生は跳ね起きた。顔には怒の色が見(あらは)れてゐた。わたくしは又黙つて退いた。」
「しかし滞京中万一の事があつた時、先生と老中水野和泉守忠精(たゞきよ)との間を調停することの出来るものは、志村を除いては一人もない。わたくしは縦(よ)しや先生の怒に触れて破門の辱(はづかしめ)を受けようとも、今一度説いて見ようとおもつた。」
「わたくしは次の日に三たび先生を訪うて云つた。先生、まことにくどい事を申すやうでございますが、わたくしは是非先生に志村を連れて往つて戴きたうございますと云つたのである。」
「わたくしは先生の激怒を期待してゐた。然るに先生は暫くわたくしを凝視してゐて、さて云つた。ひどく熱心だな。まあ、どうにかなるだらう。わたくしは拝謝して席を起つた。」
「わたくしは先生の出立の直前にお玉が池の家に往つて、そつとお春さんに問うた。お供は誰に極まりましたかと問うた。お連なさるのは良三さんと玄叔さんださうでございますと、お春さんは答へた。」
「当時わたくしは推薦の功を奏したことを喜んだ。しかし世事(せいじ)は逆覩(げきと)すべからざるものである。柏軒先生は京都に客死して、わたくしの薦めた志村は僅に塩田と倶(とも)に病牀に侍し、又後事を営んだに過ぎなかつた。」
 柏軒が将軍徳川家茂に扈随して江戸を発し、東海道を西上したのは二月十三日であつた。此旅は頗(すこぶる)緩慢なる旅であつた。第一日は川崎泊、第二日は戸塚泊等で、日程六七里を例としたさうである。史家の手には定て正確なる記録があることであらう。わたくしは柏軒の遺す所の文書と松田氏等の記憶とに拠つて、此に旅程の梗概を写すこととする。
 松田氏の語るを聞くに、一行が吉原に宿つた時、客舎は医師を遇することが甚(はなはだ)薄かつたので、本康宗達(もとやすそうたつ)の門人が大に不平を鳴らした。柏軒の門人塩田良三は温言を以て慰めたが、容易(たやす)く聴かなかつた。其時塩田が狂歌を詠んだ。「不自(不二)由を辛抱するが(駿河)の旅なれば腹(原)立つことはよしはら(吉原)にせよ。」本康の門人も遂に笑つて復(また)言はなかつた。

     その三百十七

 わたくしは癸亥の歳に将軍家茂上洛の供に立つた柏軒の旅を叙して駿河路に至り、吉原に宿つた夕、柏門の塩田良三が狂歌を詠じて、本康宗達の門人を宥(なだ)め賺(すか)した事を言つた。しかし柏軒等の吉原に宿した日を詳(つまびらか)にしない。
 次にわたくしは柏軒が二月二十三日に藤枝を発し、大堰(おほゐ)川を渡り、遠江国掛川に宿したことを知つてゐる。それは良子刀自が下(しも)の如き書牘(しよどく)を蔵してゐるからである。「今廿三日藤枝宿立(ふぢえだじゆくをたち)、巳時頃大井川無滞(とゞこほりなく)一統相済候。目出度存候。斎主、立賢(りふけん)、敬順、安策、常庵様、塾中一統善御頼可被成候。尚於柏於国其外宜可申候。二月廿三日。磐安於掛川宿書(ばんあんかけがはじゆくにおいてしよす)。徳安え。」「斎主」はお玉が池明誠堂の塾頭か。立賢は竹内氏、敬順は松田氏道夫、安策は清川氏孫、常庵は柴田氏である。わたくしは此書に由つて、柏軒の冢子(ちようし)鉄三郎が癸亥の歳に既に「徳安」と称してゐたことを知る。
 次にわたくしは二十七日に柏軒が岡崎を発し、宮駅(みやえき)に宿し、二十八日に宮駅を発し、桑名に宿したことを知つてゐる。それは柏軒自筆の「神道録」の首(はじめ)に下(しも)の文があるからである。「二月廿七日。大樹公発岡崎。随行宿于宮駅。詣熱田大神宮八剣宮。廿八日。発宮駅。舟渡佐渡川。至桑名。入伊勢国也。」神道録も亦良子刀自の蔵する所である。
 次にわたくしは三月四日に柏軒が大津を発して入京したことを知つてゐる。是は柏軒自筆の日記に見えてゐる。日記も亦良子刀自の蔵儲中にある。わたくしは下にこれを抄出する。
「文久癸亥三月四日暁(あかつき)寅時(とらのとき)、大津御旅館御発駕、(中略)三条大橋御渡、三条通より室町通へ上り、二条通を西へ、御城大手御門より中御門へ御入(おんいり)、御玄関より御上り」云々。是は将軍家茂入京の道筋である。以下柏軒自己の動静に入る。「石之間より上り、御医師部屋へ通り、九つ時宗達と交代して、己旅宿(おのがりよしゆく)夷川通(えびすがはどほり)堀川東へ入る町玉屋伊兵衛持家へ著く。町役両人馳走す。先(まづ)展(のし)昆布を出す。浴後昼食畢(をはつ)て、先当地之産土神(うぶすながみ)下之御霊(しものごりやう)へ参詣、(中略)北野天満宮へ参詣、(中略)貝川橋を渡り、平野神社を拝む。境内桜花多く、遊看の輩(ともがら)男女雑閙(ざつたうす)。」志村玄叔、今の名良□さんの語る所に拠れば、旅寓は「夷川町染物屋の別宅」であつたと云ふ。按ずるに玉屋は染物屋か。
「五日。」是日は記事が無い。
「六日。快庵、宗達、伯元と出水(でみづ)中山津守(つもり)宅訪ふ。内室、子息豊後介に対面。」中山氏の事は未だ考へない。
「七日。今日卯上刻御供揃、巳中刻御出、先施薬院へ御入、御装束召換、巳時と申て午の時御参内あり、入夜(よにいりて)還御。」
「八日。比叡山へ登る。良三を伴うて宅を出。(中略。)亥時頃旅宿へ還る。」
「九日。(上略。)雨中松尾神社へ参る。(下略。)」
「十日。雨。内命ありて尾張大納言殿御見舞申す。(中略。)御医師に逢うて御容態を申し、御薬方を相談し、御菓子御茶二汁五菜の御膳を被下、白銀十枚を被賜(たまはる)。直に登城して御用掛伊豆殿まで其趣を申上る。今夜宿番。」「尾張大納言」は茂徳(もちのり)である。「伊豆殿」は側衆坪内伊豆守保之か。
「十一日。雨。賀茂下上之社(しもかみのやしろ)に行幸あり。将軍家供奉。」
「十二日。」是日は記事が無い。
「十三日。下賀茂御祖(みおや)神社へ参る。(中略。)上賀茂別雷(わきいかづち)大神宮へ参る。(中略。)門の前の堺屋にて酒を飲む。」
「十四日。当番。」

     その三百十八

 わたくしは京都に在る柏軒の日記を抄して、文久癸亥三月十四日に至つた。此より其後を書き続ぐ。
「十五日。玄叔を率(ゐ)て先大仏を観、(中略)稲荷社に参詣、(中略)社の門の前石川屋にて酒を飲。」
「十六日。愛宕参。(下略。)」
「十七日。先考正忌日精進。終日旅宿に居る。」
 柏軒の日記は十八日より二十八日に至る十一日間の闕文がある。此間に江戸丸山の伊沢棠軒は家を挙げて途に上つた。棠軒は前年壬戌十二月四日に福山に移ることを命ぜられ、癸亥三月二十二日に発□(はつじん)したのである。棠軒公私略に「三月廿二日、妻子及飯田安石家内之者召連、福山え発足」と云つてある。
 此頃京都に於ては、一旦将軍帰東の沙汰があつて、其事が又寝(や)んだと見える。良子刀自所蔵の柏軒の書牘(しよどく)がある。「御発駕も廿一日之処御延引、廿三日も御延引、未だ日限被仰出無之候。何れ当月内には御発駕と存候。(下略。)三月廿四日。磐安。徳安郎へ。」本文末段は柏軒が徳安に出迎の事を指図したものゆゑ省略した。
 わたくしは此より復(また)柏軒の日記に還る。
「廿九日。石清水八幡宮に参り拝む。(下略。)」
「卅日。雨。」
「卯月朔日(ついたち)。雨。新日吉(しんひえ)神社、佐女牛(さめうし)八幡宮両所へ参る。(下略。)」
「二日、寅日。朝雨、昼より晴る。大樹公巳刻御参内なり。御供揃五つ半時、其少しく前伯元等と御先に施薬院へ御入にて、午の半刻頃二た綾の御直衣(おんなほし)にて御参内、引続き一橋中納言殿も御参内あり。御饗応ありて、主上、時宮、前関白殿、関白殿、大樹公、近衛殿へは吸物五種、御肴七種、配膳の公卿は吸物三種、肴五種なりとぞ。大樹公へは天盃を賜り御馬を賜る。御盃台は柳箱(やないばこ)、松を著け、松に鬚籠(ひげこ)を挂(か)く。夜戌の半刻頃御退出にて、亥刻前施薬院を御立ち、伯元等と亥刻に旅宿へ帰る。(下略。)」「主上」は孝明天皇、「時宮」は皇太子、「前関白」は近衛前左大臣忠□(たゞひろ)、「関白」は鷹司前右大臣輔□(すけひろ)、「近衛」は近衛大納言忠房である。
「三日、卯日。天晴れ熱し。廬山寺の元三大師御堂へ参る。」是日柏軒が塩田良三を伏見へ遣つて、竹内立賢に会談せしめ、江戸の近況を知つたことは、次に引くべき書牘に見えてゐる。
 柏軒の日記は此に終る。
 四日には柏軒が郷に寄する書を作つた。此書は富士川氏の蔵する所である。「公方様益御安泰に被為在(あらせられ)、難有事に御坐候。次に手前壮健平安に候。其地も静謐に相成様承知候。何分公方様御事禁庭様御首尾大に宜(よろしく)被為在に付、御発駕も御延に相成候御容子、来る十一日石清水八幡宮に行幸有之、公方様御供奉被遊候。右相済候はゞ中旬頃御発駕も可有之哉、聢(しか)と不存候。手前事者(ことは)身健(みすこやかに)、心中平安喜楽、其地之事者常敬策三子被相守、毫も案思(あんじ)不申、但其地に而怖畏致居候と案思候。乍併兼与大小神祇、乍恐同心合意候間、一切災害不加正直忠信之人祈願仕候間、其地吾一家に不限、知識正真忠心善意善行之者被災害事者決無之、一統莫有怖畏存候。吾一家之外者(ほかは)、狩谷、川村、清川、其外え御伝示可被給候。唯一途に正真忠信に奉神奉先接人憐物関要に候。尚後便可申候。去(さんぬ)る先月廿九日石清水参詣致、別而難有感信致、別而家内之事大安心(こゝろをやすんじ)候。尚後便可申候。目出度以上。卯月四日。磐安。常庵殿。敬順殿。安策殿。徳安殿。昨三日良三往伏見、立賢に逢、悉其地容子(そのちのようすをつくし)、承知候。以上。」

     その三百十九

 わたくしは日記尺牘(せきどく)等に拠つて柏軒の癸亥淹京(えんけい)中の事を叙し、四月四日に至つた。
 中一日を隔てゝ五日は柏軒が二条の城に宿直した。日割は六日であつたのを、繰り上げてもらつた。
 是は前月二十二日に江戸を発して福山に向ふ棠軒と会見せむがために、六日に伏見に赴く地をなしたのである。
 六日には柏軒が暇を乞うて伏見に往き、棠軒を見たらしい。此二日間の事は下(しも)の書牘がこれを証する。書牘は良子刀自の蔵する所である。「手紙披見、不勝大悦候(たいえつにたへずそろ)。去月十八日出立と承知、其後廿二日出立と承知、其日数より長頸相遅(ちやうけいあひまち)、必欲一長見候(いつちやうけんせむとほつしそろ)。数(しば/\)大津迄人遣候。必一見、既に今日当番、繰合昨夜相勤置程に相見渇望。従是僕直に伏見迄参候。路費乏少困入察候得共、何如様共可致、誰か少病気と称し、枉(まげ)て今夜者伏見に滞留可被致存候。いろ/\書たきことあれども、心中動気致、筆まわらず、いづれ面上目出度可申、以上。四月七日。磐安。春安殿。」棠軒良安は六年前より春安と称してゐたのである。
 中三日を隔てて十一日には、孝明天皇が石清水八幡宮に行幸せさせ給ひ、将軍家茂は供奉しまゐらする筈であつた。わたくしの手許には当時の史料とすべき文書が無い。しかし聞く所に従へば、此行幸は天皇が家茂に節刀を賜ひ攘夷を誓はしめようと思召したのであつた。それゆゑ家茂は病と称して供奉せず、一橋中納言慶喜(よしのぶ)をして代らしめ、慶喜も亦半途より病と称して還つたさうである。此日柏軒の鹵簿中にありしや否を知らない。
 十九日に棠軒が福山に著き、船町竹原屋六右衛門の家に□居した。事は棠軒公私略に見えてゐる。
 二十一日に将軍家茂が大坂に往き、柏軒は扈随した。
 五月十一日に家茂が京都に還り、柏軒は又随ひ帰つた。大坂往復の事は良子刀自所蔵の柏軒が書牘に見えてゐる。「去(さんぬる)四月廿一日に大坂表に被為入(いらせられ)、右御供致、当五月十一日に還御に相成、御供に而帰京致候。昨十三日御参内可有之筈之所、些(ちと)御時候中(ごじこうあたり)に而御延引に相成候。此御参内に而多分御暇出、近々還御に可相成と存候。(中略)乍去御出勤迄は五六日も間可有之。乍然多分御暇出候事と存候。(下略)五月十四日。」自署もなく宛名もない。しかし恐くは柏軒が徳安に与へたものであらう。家茂帰東の望はそらだのめであつた。
 六月十八日に福山にある棠軒が神島町下市(かしままちしもいち)須磨屋安四郎の家に徙(うつ)つた。
 柏軒の病に罹つたのは、恐くは是月の事であらう。何故と云ふに、次月の初には其病が既に重くなつて、遺書をさへ作るに至つてゐるからである。
 七月七日に柏軒は京都の旅宿に病み臥し、自ら起たざることを揣(はか)つて身後の事を書き遺した。此書は現に良子刀自が蔵してゐる。わたくしは下(しも)に其全文を写し出すこととする。

     その三百二十

 柏軒は癸亥の歳に将軍家茂に扈随して京都に往き、淹留(えんりう)中病に罹り、七月七日に自ら不起を知つて遺書を作つた。其文はかうである。「文久三年癸亥七月七日の、病中乍臥書す。吾は御国魂(みくにだましひ)を主とす。若吾身終ば、真に吾を祭る時は、先第一古事記を読め。次に孝経論語を読誦せよ。是は真に吾を祭る時の事也。其余は今の俗に随て、七七日、月忌、年忌に僧を請、仏典を読は不可廃。次に忌日吾を祭る時は孝経第一、次に論語、忌日広く吾を祭らむと思はば、内経素問、内経霊枢、次に甲乙経、第三は通俗に随て、請僧誦仏経。是は大過なるべからず。但(たゞ)所好(このむところ)は普門品也。是は吾平生所知。千巻の経を読誦するも、生前に不知は馬の耳に風也。普門品の次は仏祖三経也。」文中古事記、孝経、論語、素問、霊枢、法華経普門品は註することを須(もち)ゐぬであらう。甲乙経は医統正脈中に収められてゐる鍼灸(しんきう)甲乙経十二巻である。仏祖三経は第一四十二章経、第二遺教経、第三□山(きざん)警策である。
 十五日より病は革(すみやか)になつた。当時治療に任じた医家五人が連署して江戸に送つた報告書を此に抄出する。十五日後。「小腹御硬満、時々滴々と二勺不足位之御便通有之、尤竹筒相用候程之は通じ無之、始終袱紗にてしめし取申候。御食気更に不被為在、氷餅之湯少々づつ強て差上候而已。」
 十七日朝。「翌暁迄二勺不足之は通じ十一度有之、其間多分御昏睡。」
 十八日。「御疲労相募、始終御昏睡、御小水は通じ日之内六度、夜に入り七度被為在。」
 十九日。「七つ半時頃より御呼吸御短促に被為成、卯之上刻御差重被遊候。」柏軒は遂に五十四歳にして歿したのである。
 此記事はわたくしをして柏軒が萎縮腎より来た尿閉に死したことを推測せしめる。
「明日迄御病牀之儘に仕置。御召は官服。御袴御寸法通り、御帯共晒布にて仕立。御肌著御帷子は新き御有合為召。御沐浴明晩仕。(中略。)一と先高倉五条下る処曹洞派禅院宗仙寺へ御棺御移申上。(中略。)御棺二重に仕立、駕籠にて宗仙寺へ御送申上候。(中略。)徳安様御著之上御火葬可仕心得に御坐候。御剃髪は藤四郎へ申付候。七月十九日。多峰安策。湖南正路。西田玄同。塩田良三。志村玄叔。柴田定庵様。松田敬順様。」「明日」は二十日、「明晩」は二十日夕である。連署の初三人中安策は本の清川氏孫で、柏軒の病を聞いて上京したのである。他の二人は未だ考へない。報告書は良子刀自の蔵する所である。
 宗仙寺に於ける秉炬(ひんこ)の語と覚しきものが、同じ刀自[#「刀自」は底本では「刀目」]の蔵儲中にある。「文質彬々行亦全。有忠有信好称賢。官晋法眼能医業。洛奉君台無等肩。茲惟新捐館文行院忠信居士。真機卓爾。本体如然。生也依因。五十四年前在武陵。体得医家道。薬与病者。命延愈客。死也任縁。五十四年後在洛陽。帰入如来禅。形蔵宗仙。影顕長谷。直得。其文行也。文彩縦横。行触相応。其忠信也。忠勇発達。信厚確焉。或時看読仏祖三経等。具無修無証仏祖行李之眼。或時諳誦観音普門品。得耳根円通観音妙智之玄。到這裏非真非仮。木人夜半拍手舞。非凡非聖。石女天明和曲喧。正与麼時。帰家穏坐底作麼生。露。普陀山上真如月。影浴清流長谷鮮。」「形蔵宗仙、影顕長谷」は柏軒の墓が京都の宗仙寺と江戸の長谷寺とにあるを謂つたものである。

     その三百二十一

 此年文久癸亥の歳七月二十日、棠軒は福山にあつて柏軒の病を聞き、上京の許を阿部家に請ひ、直に裁可を得た。即京都に於て柏軒の遺骸を宗仙寺に送つた日である。
 二十一日に棠軒は福山を発した。
 二十六日の朝棠軒は入京した。推するに柏軒の遺骸は是日荼毘(だび)に付せられたことであらう。柏軒の墓は京都の宗仙寺に建てられ、後又江戸に建てられた。法語の「形蔵宗仙、影顕長谷」は既に云つた如く此事を指すのである。京都の墓には「伊沢磐安法眼源信道之墓」と題してあるさうである。按ずるに柏軒の名は初め信重(しんちよう)であつた。後信道(しんだう)と改めたのであらう。
 八月廿一日に公に稟(まう)して柏軒の喪を発した。
 九月十九日に棠軒は柏軒の後事を営み畢(をは)つて京都を発した。
 十月三日に棠軒は福山に帰り着いた。わたくしは棠軒公私略中此往反に関する文を此に引く。
「七月廿日夕、柏軒先生京師旅寓より、御同人御大病に付、繰合早々上京可致旨、安策より申越候に付、願書差出候処、即刻願之通勝手次第被仰付、翌朝発足、廿六日朝京著之処、去十九日御卒去之由、八月廿一日発喪相成、九月十九日京発、十月三日福山帰著。」
 柏軒易簀(えきさく)の処は夷川(えびすがは)の玉屋伊兵衛の家であつただらう。何故と云ふに、柏軒が淹京中宿舎を変更したことを聞かぬからである。柏軒は三月四日より七月十九日に至るまで京都に生活してゐた。三月大、四月大、五月小、六月大であつたから、百三十六日間であつた。此間貧窮は例に依つて柏軒に纏繞(てんげう)してゐたらしい。松田氏の語る所に従へば、塩田良三は師のために大坂の親戚に説いて金三百両を借り、僅に費用を辨ずることを得たと云ふことである。
 松田氏は又柏軒の死に関して下(しも)の如く語つた。「わたくしは癸亥の歳に柏軒先生の京都にあつて歿したのは、死所を得たものだと云ふことを憚らない。後年先生の嗣子磐(いはほ)君が困窮に陥つた時わたくしに、父がもつと長く生きてゐてくれたら、こんな目には逢ふまいと謂つたことがある。わたくしは答へて、いや、さうでない、先生はあの時に亡くなられておしあはせであつたと云つた。」
「竹内立賢も維新後にわたくしにかう云ふ事を言つた。それは柏軒先生が若し生きながらへて此聖代に遭はれたら差詰(さしづめ)神祇官の下(もと)で大少副の中を拝せられるのだつたにと云つたのである。わたくしは其時も答へて云つた。いや、さうでない。なる程先生は敬神の念の熱烈であつたことは比類あるまい。しかし官職の事は自ら別で、敬神者が神祇官に登庸せられると云ふわけには行かない。先生は矢張あの時亡くなられて好かつたのだと云つた。」
「わたくしの柏軒先生は死所を得たものだと云ふのは、抑(そも/\)理由のある事である。」

     その三百二十二

 わたくしは柏軒が死所を得たと云ふ松田氏の談話を記して、未だ本題に入らなかつた。松田氏は下(しも)の如くに語り続けた。
「柏軒先生が多紀□庭(さいてい)、辻元冬嶺の歿後に出でゝ、異数の抜擢を蒙つた幸運の人であつたことは、わたくしの前(さき)に云つた如くである。又その公衆に対する地位も、父蘭軒、兄榛軒の余沢を受けて、太(はなは)だ優れてゐた。先生がお玉が池時代に有してゐた千戸の病家は、先生をして当時江戸流行医の巨擘(こはく)たらしむるに足るものであつた。」
「しかし先生を幸運の人となすのは、偏に目を漢医方の上にのみ注いだ論である。若し広く時勢を観るときは、先生の地位は危殆(きたい)を極めてゐた。それは蘭医方が既に久しく伝来してゐて、次第に領域を拡張し、次第に世間に浸漸し、漢医方の基礎は到底撼揺(かんえう)を免るべからざるに至つたからである。」
「蘭医方、広く云へば洋医方は終局の勝者であつた。此時に当つて、敗残の将が孤塁に拠るやうに、稍久しく漢医方のために地盤の一隅を占有した人がある。彼浅田栗園(りつゑん)の如きは即是である。若し柏軒先生が此に至るまで生存してゐたら、能く身を保つこと栗園に等しきことを得たであらうか。わたくしは甚だこれを危む。」
「わたくしの見る所を以てすれば、豪邁なる柏軒先生は恐くは彼慧巧(けいかう)なる栗園を学ぶことを得なかつたであらう。又操守する所の牢固であつた柏軒先生が、彼時と推し移つて躊躇することなく、気脈を栗園に通じて能く自ら支持した清川玄道と大に趣を異にすべきは論を須(ま)たない。先生は玉砕すべき運命を有してゐた人である。わたくしが先生を以て死所を得たとなすのは、これがためである。」
「独り先生を然りとするのみではない。先生の門下には一人として新興の洋医方の前に項(うなじ)を屈したものは無い。塩田だつて、わたくしだつて、医としては最後に至るまで漢医方を棄てなかつた。わたくしは郷人に勧誘せられて、維新第二年(己巳)に岩村藩の権大参事になつて医を廃した。」
 以上は松田氏が柏軒の癸亥七月十九日淹京中の死を以て所を得たものとする論断である。わたくしは此より柏軒の学術を一顧しようとおもふ。是も亦主として松田氏と塩田氏との言(こと)に拠らざることを得ない。
 科学の迹は述作に由つて追尋するより外に道が無い。然るに伊沢氏は蘭軒以下書を著さなかつた。是は蘭軒の遺風であつた。それゆゑ柏軒所著の書と云ふものも亦絶無である。
 わたくしは此事に関する松田氏の言(こと)を下(しも)に記さうとおもふ。是は蘭軒の条に云つた所と多少重複することを免れぬが、柏軒の学を明にするには、勢(いきほひ)伊沢家学の源統より説き起さゞることを得ぬのである。

     その三百二十三

 松田氏は柏軒医学の伝統を説くこと下(しも)の如くである。「支那の医学は唐代以後萎靡して振はなかつた。唐宋元明清の医家には真に大家と称するに足るものが莫い。それゆゑに我国の多紀氏に、桂山(けいざん)□庭(さいてい)の父子が相踵(あひつ)いで出でたのは、漢医方の後勁とすべきである。肥後に村井氏があつて、見朴(けんぼく)琴山(きんざん)の橋梓(けうし)相承けて関西に鳴つたが、多紀氏の該博に視れば、尚一籌を輸してゐた。」
「伊沢蘭軒は多紀父子と世を同うして出で、父子が等身の書を著すを見て、これと長を争ふことを欲せなかつた。且述作の事たる、功あれば又過(あやまち)がある。言(こと)一たび口より発し、文一たび筆に上るときは、いかなる博聞達識を以てしても、醇中(じゆんちゆう)に疵(し)を交ふることを免れない。蘭軒は多紀氏の書を読んで、善書も亦往々人を誤ることあるを悟つた。是が伊沢氏の不立文字(ふりふもんじ)の由つて来る所である。」
「蘭軒は此の如くに思惟して意を述作に絶ち、全力を竭して古書の研鑽に従事した。そしてその体得する所はこれを治療に応用した。古書中蘭軒の最も思を潜めたのは内経である。それゆゑに彼素問識霊枢識に編録せられた多紀氏の考証の如きも、蘭軒がためには一の階梯たるに過ぎなかつた。是が伊沢氏の家学で、榛軒柏軒の二子はこれを沿襲した。」
 以上は松田氏の言(こと)である。わたくしはこれに参するに塩田氏の言を以てして、榛軒柏軒兄弟の研鑽の迹を尋ねる。塩田氏はかう云つてゐる。「榛軒柏軒の兄弟は、渋江抽斎、小島抱沖、森枳園の三人と共に、狩谷□斎の家に集つて古書を校読した。其書は多紀□庭を介して紅葉山文庫より借り来つたものである。当時一書の至る毎に、諸子は副本六部を製した。それは善書の人を倩(やと)つて原本を影写せしめたのである。此六部は伊沢氏兄弟一部、渋江、小島、森、狩谷各一部であつた。」
「わたくしは当時の抄写に係る素問を蔵してゐた。是本は伊沢氏の遺物で、朱墨の書入があつた。墨書は榛軒、朱書は柏軒である。同時に写された書中其発落(なりゆき)を詳にすべきものは、狩谷氏の本が市に鬻(ひさ)がれ、渋江氏の本が海底に沈んだと云ふのみである。小島氏、森氏の本はどうなつたか、一も聞く所が無い。」
「頃日(このごろ)三輪善兵衛と云ふ人が書籍館を起して、わたくしに古医書を寄附せむことを求めた。わたくしは旧蔵の書籍を出して整理した。其時宍戸某と云ふ人が来て見て、中の素問を抽き出し、金三十円に換へて持ち去つた。即ち榛軒柏軒の手入本である。後に聞けば、宍戸某をしてこれを購ひ求めしめたものは富士川游君であつたさうである。」以上が塩田氏の言である。
 わたくしは上(かみ)に榛軒が蘭軒手沢本の素問霊枢を柏軒に与へたことを記した。按ずるに伊沢氏には蘭軒手沢本と榛柏手沢本との二種の内経が遺つてゐた筈である。若し後者が果して富士川氏の有に帰したなら、其本は必ずや現に京都大学図書館に預託せられてゐるであらう。他日富士川氏を見たら質(たゞ)して見よう。

     その三百二十四

 わたくしは柏軒の学術を語つて、其家学に関する松田塩田二氏の言を挙げた。松田氏の蔵する所に柏軒の筆蹟があるが、亦その内経を崇尚(しゆうしやう)する学風を見るべきである。「文久辛酉。嘗読健斎医学入門。至其陰隲中説。有大所感。今亦至大有所得。其説云。吾之未受中気以生之前。則心在於天。而為五行之運行。吾之既受中気以生之後。則天在吾心。而為五事之主宰。嘗自号曰天心居士。」医学入門は明の李挺(りてい)の著す所で、古今の医説を集録し、二百八門を立てたものである。そして其陰陽五行説の本づく所は素問霊枢である。此書が明の虞博(ぐはく)の著した医学正伝と共に舶載せられた時、今大路(いまおほぢ)一渓(けい)は正伝を取り、古林見宜(ふるばやしけんぎ)は入門を取つた。所謂李朱医学は此よりして盛に行はれた。李とは東垣李杲(とうゑんりかう)、朱とは丹渓朱震亨(たんけいしゆしんかう)である。入門には内傷に東垣、雑病に丹渓が採つてある。昌平学校は古林の東辟後に起した所の医黌の址ださうである。健斎は李挺の号であらうか。医学入門自序の印文に此二字が見えてゐる。
 伊沢氏の学風は李朱医学の補血益気(ほけつえきき)に偏したものではなかつた。惟(たゞ)井上金峨の所謂「廃陰陽、排五行、去素霊諸家、直講張仲景書者」たることを欲せなかつたのである。
 わたくしは此に一言せざるべからざる事がある。それは我家の医学である。吾王父白仙綱浄(はくせんつなきよ)は嘗て藩学の医風に反抗して論争した。当時の津和野藩医官は上下悉く素問学者であつた。綱浄は独り五行配当の物理に背き、同僚の学風の実際に切実ならざるを論じ、張仲景の一書を以て立論の根拠とし、自ら「疾医某」と称して自家の立脚地を明にした。しかし綱浄は古典素問を排したのではなく、素問学の流弊を排したのであつた。尋(つい)で吾父は蘭医方に転じ、わたくしは輓近医学を修めたのである。
 柏軒の治病法は概ね観聚方等に従つて方を処し、これに五六種の薬を配した。それゆゑ一方に十種以上の薬を調合するを例とした。是は明清医家の為す所に倣つたのである。観聚方は多紀桂山の著す所で、文化二年に刊行せられた。
 柏軒の技が大に售(う)れて、侯伯の治を請ふものが多かつたことは上(かみ)に云つた如くである。渋江保さんは嘗てわたくしに柏軒と津軽家との関係を語つた。津軽家は順承(ゆきつぐ)の世に柏軒を招請し、承昭(つぐあき)も亦其薬を服した。柏軒の歿後に其後を襲(つ)いだものは塩田楊庵であつた。当時津軽家の中小姓に板橋清左衛門と云ふものがあつた。金五両三人扶持の小禄を食(は)み、常に弊衣を着てゐるのに、君命を受けてお玉が池へ薬取に往く時は、津軽家の上下紋服を借りて着て、若党草履取をしたがへ、鋏箱を持たせて行つた。板橋は無邪気な漢(をとこ)で、薬取の任を帯る毎に、途次親戚朋友の家を歴訪して馬牛の襟裾(きんきよ)を誇つたさうである。松田氏の云ふを聞くに、細川家も亦柏軒の病家であつた。
 柏軒の相貌は生前に肖像を画かしめなかつたので、今これを審(つまびらか)にし難い。曾能子刀自の云ふには、榛柏の兄弟は兄が痩長で、弟が肥大であつた。父蘭軒に肖(に)たのは、兄ではなくて弟であつたと云ふ。
 松田氏はかう云つてゐる。「柏軒先生は十年前の信平君に似てゐた。あれを赭顔(あからがほ)にすると、先生そつくりであつたのだ。先年わたくしは磐(いはほ)の名義を以て、長谷寺に於て先生の法要を営んだことがある。其時門人等が先生に遺像の無いのを憾として、油画を作らせようとした。それには信平君を粉本として画かせ、わたくしにその殊異(しゆい)なる処を指□せしめ、屡改めて酷肖(こくせう)に至つて已むが好いと云ふことになつた。此画像は稍真に近いものとなつた。」渋江保さんの云ふには、此法要は恐くは明治三十二年柏軒三十七回忌に営まれたものであらうと云ふ。
 松田氏は又云つた。「柏軒先生の面貌には覇気があつた。これに反して渋江抽斎先生は丈高く色白く、余り瘠せてはゐなかつたが、仙人の如き風貌であつた。」

     その三百二十五

 柏軒が父蘭軒、兄榛軒と同じく近視であつたことは、既に上(かみ)の松田氏観劇談に見えてゐる。柏軒の子徳安磐にも此遺伝があつたさうである。最も奇とすべきは、柏軒近視の証として、彼蘭軒が一目小僧に逢つたと云ふに似た一話が伝へられてゐることである。それはかうである。
 浜町に山伏井戸と云ふ井があつた。某(それ)の年に此井の畔(ほとり)に夜々(よな/\)怪物(ばけもの)が出ると云ふ噂が立つた。或晩柏軒が多紀□庭(さいてい)の家から帰り掛かると、山伏井戸の畔で一人の男が道連になつた。そして柏軒に詞(ことば)を掛けた。
「檀那。今夜はなんだか薄気味の悪い晩ぢやあありませんか。」
 柏軒は「何故」と云つて其男を顧みて、又徐(しづか)に歩を移した。
 男は少焉(しばらく)して去つた。
 次の夜に同じ所を通ると、又道連の男が出て来て、前夜と同じ問を発した。然るに柏軒の言動は初に変らなかつた。
 三たび目の夜には男は出て来なかつた。是は来掛かる人に彼問を試みて、怖るべき面貌を見せたのであるが、柏軒は近視で其面貌を見なかつた。男は獺(かはをそ)の怪であつたと云ふのである。渋江保さんは此話を母五百に聞き、後又兄矢島優善(やすよし)にも聞いたさうである。
 柏軒は絶て辺幅を修めなかつた。渋江保さんの云ふを聞くに、柏軒は母五百を訪ふ時、跳躍して玄関より上り、案内を乞ふことなしに奥に通つた。幼(いとけな)き保の廊下に遊嬉(いうき)するを見る毎に、戯に其臂を執つてこれを噬(か)む勢をなした。保は遠く柏軒の来るを望んで逃げ躱(かく)れたさうである。
 柏軒は酒色を慎まなかつた。毎に門人に戯れて、「己も少(わか)い時は無頼漢であつた」と云つたのである。又門人平川良栄は柏軒の言(こと)として竊(ひそか)に人に語つて云ふに、「先生はいつか興に乗じて、己の一番好なものは女、次は酒、次は談(はなし)、次は飯だと仰つたことがある」と云つた。好色の誚(そしり)は榛柏の兄弟皆免れなかつたが、二人は其挙措に於て大に趣を殊にしてゐた。榛軒は酒肆妓館に入つて豪遊した。しかし家庭に居つては謹厳自ら持してゐた。これに反して柏軒は家にあつて痛飲豪語した。少かつた頃には時に仕女に私したことさへあつた。是は曾能子刀自の語つた所である。
 柏軒は家人を呼ぶに、好んで洋人の所謂ノン、ド、カレツスを以てした。息(むすこ)鉄三郎を鉄砲と云ひ、女(むすめ)安(やす)を「やちやんこ」と云ひ、琴を「おこちやん」と云つた類である。是は柏軒の直情径行礼法に拘らざる処より来てゐる。此癖(へき)は延(ひ)いて其子徳安に及び、徳安は矢島優善の妻鉄を呼んで「おてちやん」と云つた。これに反して渋江抽斎の如きは常に其子を呼ぶに、明に専六と云ひ、お陸と云つた。女(むすめ)棠(たう)に至つては、稍呼び難きが故に、特に棠嬢と称した。
 柏軒は江戸市中の祭礼を観ることを喜んだ。是は渋江抽斎と同嗜であつた。松田氏はかう云つてゐる。「柏軒先生や抽斎先生の祭礼好には、わたくし共青年は驚いた。柏軒先生の家が中橋にあつた頃は、最も山王祭を看るに宜しく、又狩谷翁の家は明神祭を看るに宜しかつた。山車(だし)の出る日には、両先生は前夜より泊り込んでゐて、斥候(ものみ)を派して報(しらせ)を待つた。距離が尚遠く、大鼓の響が未だ聞えぬに、斥候は帰つて、只今山車が出ましたと報ずる。両先生は直に福草履を穿いて馳せ出で、山車を迎へる。そして山車の背後に随つて歩くのである。車上の偶人、装飾等より囃の節奏に至るまで、両先生は仔細に観察する。そして前年との優劣、その何故に優り、何故に劣れるかを推窮する。わたくし共は毎に両先生の帰つて語るのを聞いて、所謂大人者不失其赤子之心者也とは、先生方の事だと思つた。」以上が松田氏の言(こと)である。わたくしは偶(たま/\)松崎慊堂文政甲申の日暦を閲して、「十五日(六月)晴、熱、都下祭山王、結綵六十余車、扮戯女舞数十百輩、満城奔波如湧」の文が目に留まつた。慊堂も亦祭礼好の一人ではなかつただらうか。

     その三百二十六

 柏軒の一大特色はその敬神家たるにあつた。兄榛軒の丸山の家には仏壇があり、又書斎に関帝、菅公、加藤肥州の三神位が設けてあつたに過ぎぬが、柏軒の中橋の家、後のお玉が池の家には、毎室に神棚があつた。
 棚は白木造で、所謂神体を安置せず、又一切の神符の類をも陳ぜなかつた。只神燈を燃し、毎旦塾生の一人をして神酒を供へしめた。松田道夫(だうふ)は塾頭たる間、常に此任に当つてゐた。神酒を供へ畢(をは)れば、主人は逐次に巡拝した。
 柏軒の神を拝する時間は頗(すこぶる)長かつた。塾生中には師を迷信なりとして腹誹(ふくひ)し、甚しきに至つては言(こと)に出し、其声の師の耳に達するをも厭はぬものがあつた。家の玄関には昧爽より轎丁(かごかき)が来て待つてゐて、主人の神を拝して久しく出でざるをもどかしがり、塾生を呼んで「もし/\、内の神主さんの高間が原はまだ済みませんかい」などと云つた。柏軒は此等の事を知つてゐて、毫も意に介せなかつた。
 柏軒は江戸の市街を行くにも、神社の前を過ぐる毎に必ず拝した。公事を帯びて行くのでないと、必ず鳥居を潜り広前(ひろまへ)に進んで拝した。又祭日等に、ことさらに参詣するときは、幣(みてぐら)を供ふることを懈(おこた)らなかつた。
 癸亥の年に西上した時には、柏軒は駅に神社あるに逢へば必ず幣を献り、神職に金を贈つた。「神道録」は断片に過ぎぬが、当時柏軒が所感を叙述したものである。京都に入つた後、公事に遑(いとま)ある毎に諸神社を歴訪したことは、上(かみ)に引く所の日記にも見えてゐる。
 柏軒が京都にゐて江戸の嗣子徳安並に門人等に与へた書に、「兼与大小神祇乍恐同心合意候間、一切災害不加正直忠信之人祈願仕候間、其地吾一家に不限、知識正真、忠心善意善行之者、被災害事者決無之、(中略)唯一途に正真忠信に奉神奉先接人憐物関要に候」と云つてある。その信念のいかに牢固であつたかを徴するに足るのである。此書は上(かみ)に其全文を引いて置いた。
 柏軒は屡神の託宣を受けたと称した。松田氏は其一例を記憶してゐて語つた。「柏軒先生は毎年八月二十五日に亀井戸の天満宮に詣でた。其日には門人数人をしたがへ、神田川より舟に乗つて往つた。小野富穀(ふこく)の如きは例として随従した。安政三年八月二十五日に門人数人が先生の終日家に帰らぬを予期して、相率(あひひきゐ)て仮宅に遊んだ。わたくしも此横著者の一人であつた。然るに此日には先生は亀井戸に往かずに、書斎に籠つて日を暮らした。是は天神の託宣に依つて門を出でなかつたのである。此日は二日前より雨が少しづつ降つてゐたが、夜に入つて暴風雨となつた。江戸の被害は前年の地震に譲らず、亀井戸辺では家が流れ人が溺れた。」
 柏軒は又人の病を治して薬方の適応を知るに苦み、神に祈祷して決することがあつた。

     その三百二十七

 わたくしは此より柏軒の門人の事を言はうとおもふ。しかし蘭軒門人録、榛軒門人録は良子刀自所蔵の文書中に存してゐて、独柏軒のもののみが無い。歴世略伝には只九人の名が載せてある。「門弟。松田道夫、塩田真、志村玄叔、平川良栄、清川安策、岡西養玄(後岡寛斎)、成田元章、斎木文礼、内田養三(岡西以下福山藩。)」
 此等の門人中主として師家のために内事に任じたものは清川、志村、塩田の三人で、外事に任じたものは松田であつたと云ふ。
 清川安策孫の事は既に榛門の一人として上(かみ)に載せてある。しかしわたくしは後に堀江督三さんを介し、孫の継嗣魁軒さんに就いて家乗を閲(けみ)することを得たから、此に其梗概を補叙する。
 蘭門の清川□(がい)は家世より言へば孫の祖父、実は孫の父であつた。是は既に云つた如く孫が所謂順養子となつたからである。
 □、字(あざな)は吉人(きつじん)、靄□(あいとん)、靄軒、梧陰等の号があつた。居る所に名けて誠求堂と云つた。本榎本氏、小字(をさなな)を武平と云つた。
 □の生父榎本玄昌も亦医を業とした。□は其次男として寛政四年に生れた。文化元年十三歳の時□の兄友春(いうしゆん)に汚行があつて、父玄昌はこれを恥ぢて自刃した。□は兄の許にあるを屑(いさぎよし)とせずして家を出で、経学の師嘉陵村尾源右衛門と云ふものに倚つた。村尾は□をして犬塚某の養子たらしめた。某の妻□を悪(にく)んで虐遇すること甚しかつた。□は犬塚氏を去り、鎌倉の寺院に寓し、写経して口を糊した。
 □は此時に至るまで家業を修めなかつたが、一日(あるひ)医とならむとする志を立て、始て蘭軒の門に入つた。
 蘭軒は□をして清川金馬の養子たらしめた。時に文化十三年、□は二十五歳にして昌蔵と改称し、後又玄策、玄道と称した。
 文政十年、□三十六歳の時嫡男徴(ちよう)が生れた。初の妻宝生氏の出である。此年□は中風のために右半身不随になり、且一目失明した。按ずるに後年蘭軒の姉正宗院の寿宴のとき、□の伊沢氏に寄せた書は此病の事を知つた後、始て十分に会得することが出来るのである。
 天保五年徴が八歳になつたので、□はこれをして佐藤一斎に従遊せしめた。九年徴は十二歳にして榛軒の門人となつた。是年又□の次男孫が生れた。継室柵子(さくこ)の出である。柵子、後道子と云ふ。柴田芸庵(うんあん)の妹である。按ずるに渋江氏の伝ふる所の□が窮時の逸事は、文政の初より天保の初に至る間の事であらう。
 十年七月二十八日□は四十八歳にして将軍家慶(いへよし)に謁した。行歩不自由の故を以て城内に竹杖を用ゐることを許された。
 十四年次男孫六歳にして長戸得斎の門に入つた。
 弘化二年嫡男徴十九歳にして豊後岡の城主中川修理大夫久昭(ひさあき)に仕へ、四年二十一歳にして侍医となつた。
 嘉永元年孫十一歳にして榛軒の門に入つた。五年榛軒が歿して、孫は十五歳にして柏軒の門に転じた。按ずるに徴と孫とは皆榛門にゐたのに、門人録は徴を佚して、独り孫を載せてゐる。又按ずるに孫は小字(をさなな)を昌蔵と云ひ、後安策と改めたが、此改称は早く榛軒在世の時に於てせられた。魁軒さんの蔵幅に榛軒の柏軒に与へた書がある。「昨日御相談昌蔵命名之儀、愈安策に仕候。安全之策急に出所見え不申候。賈誼伝に者治安策と見え申候。先認指上申候。(中略。)桑軒とも御相談可被下候。(中略。)燈市後一日。」桑軒は未だ考へない。或は徴の号棗軒(さうけん)を一に桑軒にも作つたものか。

     その三百二十八

 わたくしは柏軒門人清川安策孫の事を記して、清川氏の家乗を抄出し、嘉永五年に□の次男たる孫が師榛軒を失つて、転じて柏軒の門に入つたと云つた。当時父□は六十歳、嫡男にして岡藩に仕へた徴は二十六歳、次男孫は十五歳であつた。
 安政三年には孫が右脚の骨疽(こつそ)に罹つて、起行することの出来ぬ身となつた。此より孫は戸を閉ぢて書を読むこと数年であつた。
 四年徴が躋寿館に召されて医心方校刊の事に参与した。時に年三十一であつた。
 六年七月九日□が六十八歳にして歿した。是より先□は向島小梅村に隠れ棲んで吟詠を事としてゐた。現に梅村詩集一巻があつて家に蔵せられてゐる。□は再び娶つた。前妻宝生氏には子徴、女(むすめ)栄(えい)があつて、栄は鳥取の医官田中某に嫁した。継室柴田氏には息(むすこ)孫(そん)、女(むすめ)幹(みき)があつて、幹は新発田の医官宮崎某に嫁した。按ずるに栄の嫁する所の田中氏は棠軒の生家である。是に由つて観れば、木挽町の柴田氏と云ひ、鳥取の田中氏と云ひ、実は皆棠軒の姻戚である。
 十一月徴が父の称玄道を襲(つ)いだ。その受くる所の秩禄は二十五人扶持であつた。岡藩主久昭は夙(はや)く父□に所謂出入扶持十人扶持を給してゐたので、徴は弘化丁未に侍医を拝して受けた十五人扶持に加ふるに父の出入扶持を以てせられ、今の禄を得るに至つたのである。□の出入扶持には猶参河(みかは)吉田の松平伊豆守信古(のぶひさ)の給する五人扶持、上野(かうづけ)高崎の松平右京亮輝聡(てるとし)の給する二人扶持、播磨姫路の酒井雅楽頭忠顕(うたのかみたゞあき)の給する若干口があつた。
 徴が箕裘(ききう)を継ぐに当つて、孫は出でて多峰(たみね)氏を冒した。時に年二十二で、脚疽は既に癒えてゐた。是は熱海の澡浴が奇功を奏したのである。
 文久二年孫は日本橋南新右衛門町に開業した。是は当時幕府の十人衆たりし河村伝右衛門の出力に頼(よ)つたのだと云ふ。時に年二十五であつた。
 既にして次年癸亥に至り、柏軒が京都の旅寓に病んだ。孫は報を得て星馳(せいち)入洛し、師の病牀に侍したのであつた。当時江戸にある兄清川玄道徴は三十七歳、京都にある弟多峰安策孫は二十六歳であつた。
 松田氏の語る所に拠れば、松田氏より長ずること一歳の孫は、平生柏軒の最も愛する所で、嘗て女(ぢよ)国を以てこれに配せむとしたが、事に阻げられて果さず、国は遂に去つて狩谷矩之に適(ゆ)いたのだと云ふ。
 孫は京都にあつて喪に居ること数日であつたが、忽ち江戸の生母柴田氏が重患に罹つたことを聞いた。帰るに及んで、母の病は稍退いてゐた。次年元治紀元甲子四月五日に異母兄徴が歿し、尋(つい)で慶応紀元乙丑八月に母も亦歿した。徴は年を饗(う)くること僅に三十八であつた。
 徴、字は子溌(しはつ)、棗軒、杏※(きやうう)[#「こざとへん+烏」、8巻-246-上-3]、月海、済斎の諸号があつた。小字(をさなな)は釣(てう)八、長じて玄策と称し、後玄道を襲いだ。妻三村氏に子道栄、女鉄があつたが、徴の歿した時には皆尚幼(いとけな)かつた。是に於て孫は多峰氏を棄てゝ生家に復(かへ)り、所謂順養子となつた。甲子二十七歳の時の事である。

     その三百二十九

 わたくしは柏軒門人の主なるものを列叙せむと欲して、先づ清川安策孫を挙げ、其家乗を抄して慶応紀元の歳に至つた。
 慶応紀元に列侯の采地に就くものがあつて、孫の主君中川久昭も亦豊後竹田に赴いた。当時孫は母柴田氏の猶世に在る故を以て扈随することを得なかつた。孫はこれがために一旦藩籍を除かれた。
 明治二年六月久昭の東京に移つた時、孫は復籍して三人扶持を受けた。尋(つい)で廃藩の日に至つて、禄十二石を給せられ、幾(いくばく)もなくこれを奉還した。
 六年二月孫の家が火(や)け、悉く資財を失ひ、塩田真に救はれて僅に口を糊した。
 九年五月孫行矣(かうい)館の副長となつた。館は柳橋にあつた。古川精一の経営する所の病院で、其長は浅田栗園(りつゑん)であつた。栗園、初の名は直民、字(あざな)は識二(しきじ)、後に名は惟常、字は識此(しきし)と改めた。祖先は源の頼光より出で、乙葉(おとは)氏を称したが、摂津国より信濃国に徙り、内蔵助長政と云ふ者が筑摩郡内田郷浅田荘に城を構へて浅田氏となつた。後石見守長時に至つて松本の西南栗林村に居り、東斎正喜(とうさいせいき)に至つて始て医を業とした。東斎の子を済庵惟諧(さいあんゐかい)と云ふ。文化十二年五月二十三日済庵の子に栗園惟常が生れた。
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