伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

 元泰直為の後を襲いだものが元岱直賢(げんたいちよくけん)である。字(あざな)は英卿(えいけい)又可久(かきう)、竹渓と号した。鞠翁(きくをう)は其致仕後の称である。林復斎が其官歴を叙してゐる。「文化五年九月襲家秩。為西□侍医。別賜二百苞。十二月叙法眼。会文恭大君有榴房之福。群公子更不予。輒召君調。則多奏効。是以恩眷殊渥。天保十年十一月告老。奉職凡三十二年。仍賜二百苞為養老資。致仕之後。特旨時朝内廷。異数也。(中略。)弘化二年十月十四日即世。距生安永六年九月廿一日。享寿六十有九。」多子の将軍文恭公は徳川家斉である。鞠翁は致仕後には画を作つたことが墓誌に見えてゐる。復斎の家は元岱の病家であつた。
 元岱直賢の後を襲いだものが直養(ちよくやう)である。直賢に素(もと)直道(ちよくだう)、直温(ちよくをん)の二子があつて、其次の第三子が直養である。長直道は早世し、仲直温は「蔭仕西□侍医、叙法眼、又先歿」と云つてある。直養の嗣は、仁杉氏の言(こと)に拠るに、又元泰と称したらしい。以上が麹町の柴田系である。
 元泰直為の弟元徳に孫芸庵(うんあん)があつた。是を木挽町の柴田とする。芸庵の妹が清川玄道に適(ゆ)いた。
 芸庵の後を襲いだものが榛門の常庵である。常庵に養子長川(ちやうせん)があつたが、不幸にして早世したので、芸庵の第二子、常庵の弟陽庵が長川の後を承けた。維新の後忠平と改称して骨董店を開いたのは此陽庵である。忠平の子は鉛太(えんた)である。以上が木挽町の柴田系である。
 元岱直賢の弟に元春正雄(げんしゆんまさを)があつて分家した。正雄、字(あざな)は君偉(くんゐ)、号は洛南である。大槻磐渓の墓誌にかう云つてある。「寛政十年四月十五日生于江戸銀座街。幼而学於井四明翁。文政二年卜居於卅間濠。天保十四年六月擢為医員。賜俸三十口。七月進侍医。并官禄四百苞。十二月陞法眼。歴仕二朝十三年。安政二年十一月九日終於家。享年五十八。(節録。)」磐渓は此人と同じく井門(せいもん)より出でた。元春は嘗て傷寒論排簡を著し、又詩を賦し、墨竹を作つた。
 元春正雄の後を襲いだものが元美正美(げんびせいび)である。正美、字は子済(しせい)、後元春の称を襲いだ。正美の養嗣子元春は、実は正美の弟道順の子である。以上が卅間堀の柴田系である。
 此年棠軒二十二、妻柏二十一、女長二つ、全安の女梅六つ、柏軒並妻俊四十六、妾春三十一、男鉄三郎七つ、女洲十五、国十二、安四つ、琴一つであつた。蘭軒の女長は四十二、榛軒の未亡人志保は五十六になつた。琴は慶応二年九月二日に夭折した。

     その二百九十三

 安政三年は蘭軒歿後第二十七年である。二月二日に蘭軒の女長が四十三歳で歿した。蘭軒の女は天津(てつ)、智貌(ちばう)、長(ちやう)、順(じゆん)、万知(まち)の五人で、長は第三女であつた。長の夫は棠軒の親類書に「御先手井手内蔵組与力井戸応助」と云つてある。長の一子勘一郎は同じ親類書に「御先手福田甲斐守組仮御抱入」と云つてある。長の二女は同書に「陸軍奉行並組別手組出役井戸源三郎支配関根鉄助妻」と云ひ、又「娘一人父応助手前罷在候」と云つてある。
 長は谷中正運寺に葬られた。先霊名録に「究竟室妙等大姉、葬于谷中正運寺」と云つてある。按ずるに正運寺は井戸氏の菩提所であつたのだらう。
 柏軒が阿部侯の医官となつたのは此年であるらしい。歴世略伝に「安政丙辰阿部公侍医」と云つてある。伊勢守正弘三十八歳の時である。しかし任命を徴すべき文書等は一も存してゐない。
 只良子刀自所蔵の文書中に柏軒が阿部家に於ける「初番入(はつばんいり)」の記及当直日割があつた。わたくしはこれを抄して置いたが、今其冊子を人に借した。初番入の記には年次もなく干支もなかつたことを記憶する。しかし少くも月日は知ることを得られようとおもふ。
 伊沢氏よりは既に棠軒が入つて阿部家の医官となつてゐる。然るに今又柏軒を徴(め)すに至つたのは、正弘が治療の老手を得むと欲したものか。
 柏軒の妻俊の遺文を検するに、此年五月十八日に富岡(とみがをか)永代寺に詣でた記がある。永代寺には成田山不動尊の開帳があつた。武江年表に拠るに開帳は三月二十日より五月二十日に至る間であつたらしい。「同(三月)廿日より六十日の間、下総国成田山不動尊、深川永代寺に於て開帳」と云つてある。丙辰は三月小、四月大、五月小であつた。俊の詣でたのは閉帳二日前であつた。記中に棠軒の妻柏の妊娠の事が見えてゐて、俊等が開帳の初より参詣を志してゐながら、次第に遅れた事が言つてある。
 八月九日に棠軒の二女良(よし)が生れた。現存してゐる良子刀自である。棠軒公私略に「八月九日朝、女子出生、名良」と云つてある。
 此八月は大風雨のあつた月である。公私略に「同月(八月)廿五日、東都大風雨、且暴潮、損処甚多」と云つてある。武江年表に云く。「八月廿三日微雨、廿四日廿五日続て微雨、廿五日暮て次第に降しきり、南風烈しく、戌の下刻より殊に甚しく、近来稀なる大風雨にて、喬木を折り家屋塀墻を損ふ。又海嘯により逆浪漲りて大小の船を覆し或は岸に打上、石垣を損じ、洪波陸へ溢漲して家屋を傷ふ。」半蔵門渡櫓(わたりやぐら)、築地西本願寺本堂、浅草蔵前閻魔堂、本所霊山寺(りやうせんじ)本堂が壊(くづ)れ、永代橋、大川橋が損じた。
 蘭軒医談の始て刻せられたのは此月である。森枳園の序にかう云つてある。「余以天保間。遊于相陽。(中略。)偶探書笈。得幼時侍蘭軒先生所筆記医談若干条。遂録成冊子。未遑校字。抛在架中。近日有頻請伝写者。因訂訛芟複。活字刷印以貽之。併示同人云。安政丙辰仲秋。書於江戸城北駒米里華佗巷之温知薬室。福山森立之。」署名の傍(かたはら)に「立之」「竹窓主人」の二印がある。枳園は一に竹窓とも号したと見える。駒米里(くべいり)は駒込、華佗巷(くわだこう)は片町であらう。時に枳園五十歳であつた。蘭軒医談一巻は「伊沢氏酌源堂図書記」の印ある刊本と、「森氏開万冊府之記」の印ある稿本と、並に皆富士川氏が蔵してゐる。

     その二百九十四

 わたくしは安政丙辰に蘭軒医談の校刻せられたことを記した。此書は所謂随筆の体を成してゐて、所載の物類の範囲は頗る博大である。わたくしは読過の際に一事の目を惹くに会した。それは楸(しう)は何の木なるかと云ふ問題である。
 楸は詩人慣用の字である。「松楸」の語の如きは、彼「松栢」の語と同じく、諸家の集に累見してゐる。然るにわたくしは楸の何の木なるかを審(つまびらか)にしない。
 蘭軒医談に楸字の異説がある。しかしそれがわたくしの目を惹いたには自ら来由がある。
 数年前にわたくしは亀田鵬斎(ぼうさい)の書幅を獲た。鵬斎は韓昌黎の詩を書してゐる。「幾歳生成為大樹。一朝纏繞困長藤。誰人与脱青蘿□。看吐高花万万層。」わたくしはこれを壁上に掲ぐること数日間であつた。此詩はわたくしの未知の詩であつた。大樹の何の木なるかも亦わたくしの未だ知らざる所であつた。
 しかし此詩はわたくしに奇なる感を作(おこ)さしめた。それは大樹は唐朝にして長藤は宦官だと謂(おも)つたのである。平生わたくしは詩を読んで強ひて寓意を尋窮することを好まない。それゆゑ三百篇の註を始として、杜詩の註等に至つても、註家の言(こと)に附会の痕あるに逢ふ毎に、わたくしは数(しば/″\)巻を抛つて読むことを廃めた。独り韓の此詩はわたくしをして唐代宦官の禍を思はしめて已まなかつた。
 わたくしは終に此詩を諳記した。しかし未だ謂ふ所の何の木なるを知らなかつた。一日(あるひ)わたくしは、ふとこれを知らむことを欲して、二三の類書を閲(けみ)した。そして五車韻瑞(しやゐんずゐ)中に於て此詩を見た。憾むらくは引く所は題に及ばぬので、わたくしは遂に大樹の何の木なるを知ることが出来なかつた。
 わたくしは人に昌黎集を借りて閲した。巻九(けんのく)に「楸樹」の詩三首があつて、鵬斎の書する所は其一であつた。わたくしは進んで楸の何の木なるかを討(たづ)ねた。
 此問題は頗(すこぶる)困難である。説文に拠れば楸は梓(し)である。爾雅を検すれば、※(たう)[#「稻」の「禾」に代えて「木」、8巻-184-下-2]、※(ゆ)[#「木+臾」、8巻-184-下-2]、※(くわい)[#「木+懷のつくり」、8巻-184-下-2]、槐(くわい)、榎(か)、楸(しう)、椅(い)、梓(し)等が皆相類したものらしく、此数者は専門家でなくては辨識し難い。
 今蘭軒医談を閲するに、「楸はあかめがしはなり」と云つてある。そして辞書には古のあづさが即今のあかめがしはだと云つてゐる。わたくしは此に至つて稍答解の端緒を得たるが如き思をなした。それは「楸、古言あづさ、今言あかめがしは」となるからである。
 しかし自然の植物が果して此の如くであらうか。又若し此の如くならば、梓は何の木であらうか。わたくしは植物学の書に就いて捜索した。一、楸はカタルパ、ブンゲイである。二、あづさはカタルパ、ケンプフエリ、きささげである。(以上紫□科。)三、あかめがしははマルロツス、ヤポニクスである。(大戟科。)是に於て切角の発明が四花八裂をなしてしまつた。そして梓の何の木なるかは容易に検出せられなかつた。畢竟自然学上の問題は机上に於て解決せらるべきものではない。
 是に於てわたくしは去つて牧野富太郎さんを敲いた。

     その二百九十五

 わたくしは蘭軒医談楸字の説より発足してラビリントスの裏(うち)に入り、身を脱することを得ざるに至り、救を牧野氏に求めた。幸に牧野氏はわたくしを教ふる労を慳(をし)まなかつた。
「一、楸は本草家が尋常きささげとしてゐる。カタルパ属の木である。博物館内にある。」わたくしは賢所(けんしよ)参集所の東南にも一株あつたかと記憶する。
「二、あかめがしはは普通に梓としてある。上野公園入口の左側土堤の前、人力車の集る処に列植してある。マルロツス属の木である。」
「三、あづさは今名(きんめい)よぐそみねばり又みづめ、学名ベツラ、ウルミフオリアで、樺木属(くわぼくぞく)の木である。西は九州より東北地方までも広く散布せる深山の落葉木で、皮を傷くれば一種の臭気がある。是が昔弓を作つた材で、今も秩父ではあづさと称してゐる。漢名は無い。」
 問題は茲に渙釈(くわんしやく)したらしい。わたくしは牧野氏の書牘(しよどく)を抄するに当つて、植学名の末の人名を省略した。原文は横文で一々人名が附してあつたのである。
 わたくしは事の次(ついで)に言つて置く。昔の漢医方時代には詩や離騒(りさう)の動植を研究した書が多く出でた。我万葉集の動植の考証の如きも亦同じである。然るに西学が東漸して文化の大に開けた今の世に、絶て此種の書の出づるを見ぬのは憾むべきである。仄に聞けば今の博物学の諸大家は所謂漢名和名の詮議は無用だと云つてゐるさうである。漢名和名の詮議が博物学に貢献する所の少いことは勿論であらう。しかし詩を読み、離騒を読み、万葉集を読むものは、その詠ずる所の何の草、何の木、何の禽(とり)、何の獣であつたかを思はずにはゐられない。今より究め知ることの出来る限は究め知りたいものである。漢名和名の詮議が無用だとする説は、これを推し拡めて行くと、古典は無用だとする説に帰着するであらう。今の博物学の諸大家の説に慊(あきたら)ざる所以である。
 わたくしは右の詩、離騒、万葉等の物名を考究するに先(さきだ)つて、広く動植金石の和漢名を網羅した辞書を編纂することの必要を思ふ。其体裁は略(ほゞ)松村氏の植物名彙、小藤(ことう)氏等の鉱物字彙の如くにして、これに索引の完全なるものを附すべきであらう。物名はその学名あるものはこれを取ること、植物名彙の例の如きを便とする。否(しからざ)るものは英独名を取ること鉱物字彙の如くすべしや否や、此には商量の余地がある。索引は二書皆羅馬字の国語を以てしてあるが、彼は純(もつぱ)ら今言(きんげん)の和名に従ひ、此は所謂漢語が過半を占めてゐる。是は通用語の然らしむる所である。わたくしは此よりして外、漢字の索引を以て闕くべからざるものとする。

     その二百九十六

 此年丙辰に狩谷氏では三平懐之(ぺいくわいし)が歿した。七月二十日に五十三歳で歿したのである。継嗣は三右衛門矩之(くし)である。矩之は本斎藤氏で、父を権右衛門と云つた。其質店三河屋は当時谷中善光寺坂下にあつたが、今猶本郷一丁目に存続してゐる。権右衛門に三子があつた。長は源之助、仲は三右衛門矩之、季は家を嗣いだ権右衛門である。
 矩之の兄源之助は、清元延寿太夫である。延寿太夫は初代が文政八年中村座よりの帰途(かへりみち)に、乗物町和国橋で人に殺された岡本吉五郎、二代が吉五郎の子巳三次郎(みさじらう)、後に所謂名人太兵衛、三代が安政四年に地震に遭つて死んだ町田繁次郎、四代が矩之の兄源之助である。「舌切心中」の為損じをしたので名高く、明治三十七年に至るまで生存し、七十二歳の寿を享けた。今の延寿太夫は五代目である。丙辰には源之助二十四歳、矩之十四歳であつた。
 岡西氏では七月に玄亭の父栄玄が歿し、十一月に玄亭が歿した。継嗣は十八歳の養玄であつた。後に伊沢氏の初の女婿(ぢよせい)全安と柏(かえ)との間に生れた女(むすめ)梅を娶(めと)るのは此養玄である。
 此年棠軒二十三、妻柏二十二、女長三つ、良(よし)一つ、全安の女梅七つ、柏軒並妻俊四十七、妾春三十二、男鉄三郎八つ、女洲十六、国十三、安五つ、琴二つ、榛軒未亡人志保五十七であつた。
 安政四年は蘭軒歿後第二十八年である。此年伊沢氏の主家に代替があつた。
 阿部伊勢守正弘は三四月の交(かう)病に罹り、五月以後には時々(じゞ)登城せぬ日があり、閏(じゆん)五月九日より竜口(たつのくち)用邸に引き籠り、六月十七日午下刻に瞑した。享年三十九歳である。正弘は盛年にして老中の首席に居り、独り外交の難局に当り、後年勝安芳をして、「開国首唱の功も亦此人に帰せざるを得ず」と云はしめた。攘夷論の猶盛であつた当時、毀誉の区々(まち/\)であつたのは怪むに足らない。
 正弘の病は終始柏軒が単独にこれが治療に任じた。正弘は柏軒に信頼して疑はず、柏軒も亦身命を賭して其責(せめ)を竭(つく)したのである。
 越前国福井の城主松平越前守慶永(よしなが)は匙医半井(なからゐ)仲庵をして正弘の病を問はしめ、蘭医方を用ゐしめようとした。福井藩用人中根靱負(ゆきえ)の記にかう云つてある。「蘭家の御薬勧めまゐらすべきよし(中略)伊勢殿へ勧め給ひしかど、とやかくといひのがれ給ひて、遂にうけひき給はざりけり。後に聞けば、近年蘭法の医流大に開け来にける折、此侯までも信用し給ひなば、天下一般に蘭家にもなりなん勢なれば、さては又其弊害あらむことを深く遠く慮(おもんぱか)り給ひて、蘭家の長処は心得給ひにけれ共、余はよしあしにはよらず、天下のために蘭家の薬は服し難しとのたまひけるとなん。」
 当時政治が鎖国開国の岐(ちまた)に臨んでゐた如くに、医方も亦漢方洋方の岐に臨んでゐた。正弘は彼に於て概ね開国論に左袒し、伊沢美作守政義(みまさかのかみまさよし)の洋行の議をさへ容れた。それは幕政の局に当つて財況其他の実情を知悉し、夷の攘(はら)ふべからず、戦の交ふべからざることを知つてゐたからである。しかし此に於ては漢方より洋方に遷ることを肯(がへん)ぜなかつた。それは洋方を取らざるべからざる境界に身を居くに及ばなかつたからである。正弘は固より保守の人であつた。勢に駆らるるにあらでは、故(ふる)きを棄てて新しきに就かなかつたのである。
 しかしわたくしの見る所を以てすれば、正弘の病は洋医方の能く治する所ではなかつたらしい。正弘の病は癌であつたらしい。上(かみ)に引いた中根の記に「痞※(ひかく)[#「やまいだれ+鬲」、8巻-188-下-2]の症」と云つてあるのが其証の一である。又病を発してより未だ幾(いくばく)ならぬに、全身痩削(そうさく)して相貌が変じたと伝へられてゐるのが其証の二である。

     その二百九十七

 わたくしは安政丁巳の歳老中阿部伊勢守正弘捐館(えんくわん)の事を記して、其病を療したものが終始柏軒一人であつたと云つた。柏軒門人にして現存してゐる松田道夫さんは当時の事を語つてかう云つた。
「柏軒先生は豪邁な人であつた。しかし良徳公(正弘)に仕へては謹慎であつた。其頃わたくしに云ふには、公方様にはまだ近づいたことがないから知らぬが、老中若年寄の人達の中には、己のこはいと思つた人は無い、こはいのは内の殿様ばかりだ、前に出ると自然と体が小くなるやうな気がすると云ふことであつた。」
「その良徳公が大患に罹られて、先生が一人で療治したのだから、先生の苦心は一通ではなかつた。しかも先生が一人で療治したと云ふのは、今謂ふ主治医であつたと云ふ意味ではない。実際匙を執るものが先生一人であつたのである。」
「公が病のために引き籠られてからは、将軍家を始、列侯諸役人の見舞が引きも切らぬので、毎日容態書を作つて置いて見せなくてはならなかつた。先生はそれをわたくしに命じた。わたくしは毎日一尋(ひろ)に余る容態書を作つた。」
「容態は次第に険悪に赴いた。かう云ふ時、医者を取り換へて見てはどうかと云ふ議の起るのは、上下共同じ事である。公の場合にも亦此議が起つた。水戸老公(斉昭)越前侯(慶永)がその主なるものであつた。水戸老公は攘夷家であつたから、蘭医を薦めようとはせられなかつた。しかし越前侯は蘭医に療治させようとしてあらゆる手段を竭された。」
「しかし良徳公は嘗て一たび蘭方を用ゐぬと云ふ法令を布(し)いて、終世其意見を変ぜずにしまはれた人である。縦(よ)しや蘭方に長の取るべきがあつても、世を挙げて漢方に背き蘭方に向はしむるは危険だと思惟し、自ら範を天下に示さうとせられたのである。」
「公は上(かみ)に居つて此の如くに思惟せられた。そして柏軒先生は下(しも)に居つて公の意を体し、自己の態度を確定して動かなかつた。先生はかう云つた。我医方は漢医方から出たものではあるが、和漢の風土性情の相異なるがために、今は日本の医方になつてゐるものである。老中が病んで日本医方がこれを治することが出来ずに、万一蘭医方の力を藉ることがあつたなら、それは日本医方を辱むるものである。日本医方を辱むるは国威を墜す所以である。公の病は仮令何人をして治せしめようとも、治すべきものではない。蘭方医と雖も同じである。更に思ふに蘭方に若しこれを治する薬があつても、公はこれを服せずして死なれた方が好い。公の一身は重しと雖も、国威には代へられない。わたくしは公と心を同(あは)せて蘭方医をして公の病牀に近づかしめぬやうにしようとおもふ。公にして諱(い)むべからざるあつて、わたくしが責(せめ)を問はれる日には、わたくしは割腹して謝する積である。天地神明も照覧あれ、わたくしの心事は公明正大であると、先生は云つた。」

     その二百九十八

 松田氏は語を続いだ。
「病中の主君良徳公(阿部正弘)とこれを療する柏軒先生とは、此の如く心を同じうして蘭方医の近づくを防いだ。しかし此主従が防ぎおほせたには、阿部家の用人藤田与一兵衛の応対折衝も与(あづ)かつて力があつた。藤田は心の利いた人で、能く公の意を体して列侯諸有司の慫慂(すゝめ)を拒んだ。」
「大抵新に医者を薦めようとするものは、細に病因病候を質(たゞ)して、従前療治してゐる医者の言(こと)に疑を挾(さしはさ)み、病者若くは其周囲のものに同一の疑を起さしめようとする。それゆゑに先生は特に意を容態書に留め、記載に遺漏なからしめむことを期した。病因に至つては初より別にこれを一紙に書して人に示した。其大要はかうであつた。米使渡来以還(このかた)政務の多端なることは古(いにしへ)より無き所である。其上乙卯の地震があり、丙辰の洪水があつた。此の如く内憂外患並び臻(いた)つた日に、公は局に当つて思を労した。公の病は此鬱懐の致す所である。此病因書の体裁は叙事と云はむよりは議論と云ふべきもので、多く素問が引いてあつた。わたくし(松田道夫)は此書の草本を蔵してゐたので、頃日(このごろ)捜索して見たが、未だ発見しない。」
「既にして公の病は革(すみやか)になつた。一日(あるひ)先生は高弟一同を集めて諭す所があつた。当時既に独立して家を成してゐた清川安策の如きも、此日には特に召喚せられた。」
「先生はかう云つた。此度の主君の大患は初より救治の見込が無い。然るに拙者は独りこれが治療に任じ、絶て人に諮(はか)らない。是は若し一人に諮るときは、二人三人が踵(つ)いで来り、蘭方医も亦与(あづか)り聞かむと欲するに至らむこと必然であつたからである。今や主君の病は革になつた。問責の拙者が身上に及ぶこと数日を出でぬであらう。拙者は日本医方を辱めざらむがため、国威を墜さざらむがために敢て此に出た。それゆゑに心中毫も疚(やま)しき所が無い。しかし諸子の見る所は奈何(いかゞ)であるか。諸子はかくても猶籍を拙者の門下に置くことを厭はないかと云つた。」
「わたくし共(松田等)は同音に、先生のお詞(ことば)は御尤と存ずる、先生を棄てて去らむことは思ひも寄らないと答へた。」
「先生はこれを聞いて、喜(よろこび)色に形(あらは)れて云つた。諸子の頼もしい詞を承つて安堵した。諸子は縦(たと)ひ奈何(いか)なる事に遭遇するとも、従容としてこれに処し、妄(みだり)に言動すること無く、天下をして柏軒門下の面目を知らしむる様に心掛けるが好い。且今日諸子に告ぐる所は決して婦女子をして知らしめざる様にして貰ひたいと云つた。」
「わたくし共は粛然として先生に拝辞した。実に此日の会合は悲壮言語に絶してゐて、今に迄(いた)るまで忘れることが出来ない。」

     その二百九十九

 阿部正弘は丁巳の歳に病んで治を柏軒に託し、死に至るまで蘭方医をして診せしめなかつた。柏軒も亦正弘の意を体して蘭方医の来り近づくを防いだ。柏軒は蘭方医を延(ひ)くを以て、日本医方を辱むるものとなし、国威を墜すものとなしたのである。
 柏軒の蘭方を排したのは家学を奉じたのである。しかし正弘が既に講武所に於て洋式操兵の術を伝習せしめ、又人を海外に派遣して視察せしむることを議しながら、独り西洋の医方を排したのは何故であらうか。
 わたくしは正弘の蘭方を排したのは、榛軒に聴いたのではなからうかと以為(おも)ふ。徳(めぐむ)さんの蔵する所の榛軒の上書(じやうしよ)がある。是は献芹(けんきん)と題した一小冊子で、年月日を記せぬが、文中に嘉永辛亥に書いた証拠がある。「既に一昨年御医師中え被仰出候御書付之中風土之違候と申御文面尤緊要の御格言と奉存候」の語が即是である。所謂「一昨年」は禁令の出た己酉の歳で、「風土の違」は令中「風土も違候事に付、御医師中は蘭方相用候儀御制禁仰出され候」云々(しか/″\)の句である。上書は此の如く禁令の出た後に作られてはゐるが、榛軒の進言は恐くは此上書に始まつたのではなからう。或は榛軒は前に進言する所があつて、己酉の禁令は此に縁(よ)つて発せられたかも知れぬのである。
 若し正弘が榛軒に聴いたとすると、榛軒の説は禁令の前後に差異があるべきではないから、禁令後の上書に就いて正弘の前に聞いた所の奈何(いかん)を窺ふことが出来る筈である。
 わたくしは此に榛軒の蘭方を排する論を一顧しようとおもふ。人は或は昔日の漢方医の固陋の言は聞くに足らずとなすであらう。しかし漢医方の廃れ、洋医方の行はるるに至つたのは、一の文化の争で、其経過には必ずしも一顧の価がないことはなからう。
 榛軒は伊勢安斎と桂川桂嶼(けいしよ)とに依傍(いばう)して立言した。安斎は其随筆中に云つた。蘭医は五十年後に大に用ゐらるるであらう。それは快速と新奇とを好む人情に投ずるからであると云つた。桂嶼は嘗て榛軒に告げて云つた。西洋の学者及日本往時の洋学者は精細で、日本今時の洋学者は粗漏である。彼は真に西洋の書を読み、此は僅に飜訳書を読むが故である。真の蘭学者は和漢の学力を以て蘭書に臨まなくてはならぬと云つた。榛軒は蘭方の快速と新奇とに惑されむことを惧れ、又飜訳書を読んで自ら足れりとする粗漏なる学者に誤られむことを憂へた。
「川路聖謨之生涯」に正弘、小栗忠順(たゞゆき)、川路聖謨(かはぢとしあき)等の説として、洋医は経験乏しく、且西洋に於る此学の真訣(しんけつ)未だ伝はらざるが故に洋医方は信じ難しと云つてあるのは、榛軒が引く所の桂嶼の説と全く同じである。
 しかし榛軒は啻(たゞ)に一知半解の洋医方を排したのみではなく、又洋医方そのものをも排した。

     その三百

 わたくしは阿部正弘が蘭医方を排したのは榛軒に聴いたものらしいと謂つて、榛軒の上書を引いた。榛軒は先づ桂川桂嶼と所見を同じうして、晩出蘭学者の飜訳書に由つて彼邦医方の一隅を窺ひ、膚浅(ふせん)粗漏を免れざるを刺(そし)つた。しかし榛軒の言(こと)は此に止まらない。榛軒は蘭医方そのものをも排してゐる。
 榛軒は西洋諸国を以て「天度地気の中正を得ざる国」となし、随つて彼の「人情も中正を得」ざるものとなした。それゆゑ其医方を「中正を得たる皇国」に施すことを欲せなかつた。今言(きんげん)を以て言へば、天度地気(てんどちき)はクリマである。風土である。人情は民性である。医薬の風土民性に従つて相異なるべきは、実に榛軒の言(こと)の如くである。しかしそれは微細なるアンヂカシヨンの差である。適応の差である。憾むらくは榛軒は此がために彼の医学の全体を排せむとした。
 正弘の発した禁令に、「風土も違候事に付(中略)蘭方相用候儀御制禁仰出され候」と云つてあるのは、榛軒の此説と符合する。
 榛軒は進んで蘭医方の三弊事をあげてゐる。一は解剖、二は薬方の酷烈、三は種痘である。
 榛軒は内景を知ることを要せずとは云はなかつた。蘭方医は内景を知ることを過重すると謂(おも)つた。「原来人身と申者(中略)陰陽二気の神機と申者にて生活仕候。」故に「神機も無き死人の解体」は過重すべきではないと云ふのである。神機説はヰタリスムである。ヰタリスムは独り素問に有るのみではなく、西洋古代の医学にも亦有つた。自然科学の発展はヰタリスムを打破したのである。
 榛軒は解剖することを非としたのではなく、寧(むしろ)屡(しば/\)解剖することを非とした。「一度解体仕候而内景の理を究め候上、実物実地を得候而、書に述、図に伝候得者、其上にては度々解体にも及申間敷」と云つた。是は内景が一剖観の窮め尽すべきでないことを思はなかつたのである。又外科の屍(しかばね)に就いて錬習すべきをも思はなかつたのである。
 しかし榛軒の解剖を悪(にく)む情には尊敬すべきものがある。「夫刑は罪の大小に従て夫々に処せらるるなり。既に其刑に処せらるれば、屍は無罪同然なり。夫故非人に被命、屍を暴露せぬ様にせさせたまふならはしなり。其屍体を再割解して□粉の如くなせば、是刑を重ぬる道理にて、仁人君子の為ざる所なり。其の為に忍びざることを(なし、)魚鳥を屠候同様之心得にて、嬉々談笑、公然と人天を憚らざる所行(あるが故に、)其不仁の悪習自然と平日の所行にも推移り染著す」云々。屠者には忍人が多い。解剖家外科医の此弊に陥らざることを得るのは、別に修養する所があつて、始て能く然るのである。要するに医の解剖するは已むことを得ざるに出づる。榛軒の説の如きは、藹然(あいぜん)たる仁人の言(こと)である。決して目するに固陋を以てすべきではない。
 榛軒の蘭医薬方の酷烈を非難し、又種痘を非難したことは、下(しも)に抄する如くである。

     その三百一

 榛軒は蘭医方の三弊事を挙げた。其一は解剖で、榛軒が解剖重んずるに足らずとなし、屡(しば/\)解剖することを要せずとなしたのは過つてゐる。しかしその解剖を悪(にく)む情には尊敬すべき所がある。
 其二は蘭医方の酷烈を非難するのであつた。榛軒は蘭方医「天に逆ふる猛烈酷毒之薬を用」ゐると云つた。其意「天命は実に人工の得て奪ふべからざる理」にして、「越人能く死人を生すにあらず、此れ自ら生くべき者、越人能これを起たしむ」、独り蘭方医は敢て天に逆(さか)はむとすと云ふにあつた。然らばその天と云ひ、天命と云ふは、何を以て知るか。「脈理を以て予め死を知り、天命の及ばざるを知」ると云ふのであつた。
 しかし洋医方の診断学も亦心臓機能を等間視してはゐない。洋薬の漢薬に比して強烈なのは、彼は製煉物を用ゐ、此は天産物を用ゐる差にあつて、強烈なれば其量を微にする。榛軒の非難は洋医方を知らざるに坐するものであつた。
 其三は種痘を非難するのであつた。榛軒は痘瘡(とうさう)を以て先天の「胎毒」が天行の「時気」に感触して発するものとなした。胎毒とは性欲の結果である。胎毒は外発すべきものである。しかしその外発は時を得なくてはならない。若し「時をまたず、人工にて無理に発動」せしむるときは、毒は「旧に依て蟄伏」する。種痘は「一時苟且」の術に過ぎぬと云ふのであつた。
 榛軒痘瘡の説は、池田錦橋の「天行之※[#「さんずい+診のつくり」、8巻-195-下-14]気、与蘊蔵之遺毒、相触激而発」と云ふに近似してゐる。そしてその胎毒遺毒を視ることは重く、時気※気(てんき)[#「さんずい+診のつくり」、8巻-195-下-16]を視ることは軽かつた。痘瘡は主として外(ほか)より入るものでなく、主として内より発するものとして視られた。それゆゑに種痘の天然痘より微なるを見て、余毒の遺残せむことを惧(おそ)れた。

 此の如き見解は固より近時闡明せられた染疫(せんえき)免疫の事実と相容れない。しかし榛軒は種痘を悪むべしとなすよりは、寧種痘の新奇を畏(おそ)るべしとなしたのである。そして上(かみ)に引いた伊勢安斎の所見と同じく、西洋人の此新奇を以て衒鬻(げんいく)し、邦人を欺瞞せむことを慮(おもんぱか)つたのである。
 榛軒は云つた。「人間界上下賢愚一同に、子孫を愛惜せざるはなく、痘疹を憂懼せざるはなし。其の愛惜憂懼の心を、後患はしらず、一時苟且の種痘にて、掃ふがごとく忘れたるがごとくせしめば、愈(中略)蛮夷の法を慕ふに至らむ。(中略)禍乱は凡愚の下民より生ずる理にて、既に清朝下民の阿片を嗜み、一統心酔仕候より、道光の変乱を招き生じ申候。(中略。)下民の異教を信じ乱を生じ候事は、和漢の歴史に昭々明々と之あり。」「蛮夷は僻遠の地に在て(中略)産物具全せず(中略)、天下融通交易と号し、外国を伺ふなど、飽かざれば止まずとも申候。」「往古耶蘇の天主教を以て愚民を誘引仕候首初は、先づ婦人小児よりなづけ、世に希なる沙糖を嘗させ、目に見なれざる彩帛を与え、婦人小児の歓心を得て、扨其夫其親の意を迎へ(中略)、千百人の心をして煽動変乱せしむ。是蛮夷の他の邦を伺ひ奪ふ第一義の計策と仕候由(中略)、大害の成るに至りては、何如ともせむ方なき理に御座候。」「二百年来諸蛮を禁止したまひし神智、今日に至り実に申もおろかなる事にて、敬服仕候事に奉存候。」榛軒はその鎖国攘夷論者たる立脚地よりして、これを小にしては種痘を排し、これを大にして洋医方を排した。
 若し阿部正弘が榛軒に聴いたとすると、それは榛軒の説が保守主義者たる正弘の旨に称(かな)つたのであらう。正弘が政治に於て既に已むことを得ずして鎖国説を棄てつつも、医方に於て猶榛軒に聴いたのは、其思想の根柢が保守にあつたからであらう。

     その三百二

 阿部正弘が丁巳の歳に病んだ時、柏軒は死を決して単独にこれが治療に任じた。既にして正弘は逝(ゆ)いた。そして柏軒は何の咎(とがめ)をも受くることなく、只奥医師より表医師に貶(へん)せられたのみであつた。此貶黜(へんちつ)は阿部家の医官が其主の病を治して、主の館(くわん)を捐(す)つるに会ふごとに、例として行はれたものださうである。果して然らば柏軒は真に何の咎をも受けなかつたのである。
 正弘の病は当時の社会にあつては一大事件であつた。是は正弘が外交の難局に当つて、天下の目を属(ぞく)する所となつてゐたからである。水戸老公斉昭(なりあき)は側用人(そばようにん)安島(あじま)弥次郎に与ふる書に、「何を申も夷狄は迫り居り候へば、勢州は大切の人」と云ひ、福井侯慶永(よしなが)も亦、「唯今彼人世を早ふせば、天下の勢も如何に変り行ならむか、公私につき憂はしき事の限にぞある」と云つたことが、用人中根靱負(ゆきえ)の記に見えてゐる。
 それゆゑ世上に正弘の病に関して、種々の流言蜚語が行はれたのは怪むに足らない。諸書の伝ふる所は渡辺氏の「阿部正弘事蹟」に列記してあるが、要は正弘が政局に艱(なや)み、酒色を縦(ほしい)ままにして自ら遣(や)つたと云ふにある。わたくしは此に一例として徳川斉昭の言(こと)を引く。「中納言咄にては、御城坊主抔は十五の新妾出来候故云云、酒も登城前より二升位づゝ用候よし云々、(中略、)沙汰には妾も数人有之抔と承り候、(中略、)全右等は人の悪口と存候へ共、衰へ候儀は無相違相聞え申候。」是は上(かみ)に引いた安島に与ふる書に見えてゐる。中納言は当主慶篤(よしあつ)である。
 しかし正弘が酒色を縦まゝにしたと云ふは、斉昭の云つた如く「人の悪口」であつた。渋江保さんの話に、其父抽斎は阿部侯惑溺の説は訛伝(くわでん)だと云つたさうである。保さんは母に聞いたのである。渡辺氏の如きは反証を挙げて辯駁してゐる。
 わたくしは既に云つた如く、正弘の病を癌であつたと看てゐる。癌はエクスセスに因するものではない。
 当時の流言は啻(たゞ)に正弘の病を云云(うんぬん)したのみならず、又其死を云云した。わたくしは其一例として「嘉永明治年間録」の文を引く。「巷説阿部正弘遺体西福寺門内に入る、此時暴に大雷雨、雷震の為に西福寺焼失せり、此人亜船航海の時に当りて死を極め、北条氏が元使を斬るの志を継がば、執政の功且主家征夷の職と共に中興の大行立つべし、今疾病に死す、是れ天後人懲悪のため正弘が命を断す云云。」渡辺氏はこれを引いて、雷雨のみの事実なることを言つてゐる。正弘の浅草新堀端(しんぼりばた)西福寺に葬られたのは、丁巳七月三日であつた。
 以上略記する所は正弘の病と死とに関する当時の流言である。此等は同世の人が既に其非を知つてゐた。矧(まして)や渡辺氏の史筆の如きものがあつて、遺憾なく辯駁してある。これに反して正弘の病を療した伊沢氏に関する流言は、今に至るまで猶これを信じてゐるものがある。わたくしはこれを辯じて置かなくてはならない。

     その三百三

 安政丁巳の歳に阿部正弘が病死した時、流言は其病を以て嗜酒好色の致す所となし、又天その攘夷を敢てせざるを悪(にく)み、送葬の日に雷火を降して寺院を□(や)くと云つた。此等の説の事実に乖(そむ)いてゐることは、渡辺氏の辨正するが如くである。流言は又正弘を療した伊沢氏に被及(ひきふ)して僻遠の地には今猶これを信ずるものがあるらしい。
 わたくしは朽木(くちき)三助と云ふ人の書牘(しよどく)を得た。朽木氏は備後国深安郡(ふかやすごほり)加茂村粟根(あはね)の人で、書は今年丁巳一月十三日の裁する所であつた。朽木氏は今は亡き人であるから、わたくしは其遺文を下(しも)に全録する。
「謹啓。厳寒之候筆硯益御多祥奉賀候。陳者(のぶれば)頃日(このごろ)伊沢辞安の事蹟新聞紙に御連載相成候由伝承、辞安の篤学世に知られざりしに、御考証に依つて儒林に列するに至候段、闡幽(せんいう)の美挙と可申、感佩(かんぱい)仕候事に御座候。」
「然処(しかるところ)私兼て聞及居候一事有之、辞安の人と為(なり)に疑を懐居(いだきをり)候。其辺の事既に御考証御論評相成居候哉不存候へ共、左に概略致記載入御覧候。」
「米使渡来以降外交の難局に当られ候阿部伊勢守正弘は、不得已(やむをえざる)事情の下に外国と条約を締結するに至られ候へ共、其素志は攘夷に在りし由に有之候。然るに井伊掃部頭直弼(かもんのかみなほすけ)は早くより開国の意見を持せられ、正弘の措置はかばかしからざるを慨し、侍医伊沢良安をして置毒(ちどく)せしめられ候。良安の父辞安、良安の弟磐安、皆此機密を与(あづ)かり知り、辞安は事成るの後、井伊家の保護の下に、良安、磐安兄弟を彦根に潜伏せしめ候。」
「右の伝説は真偽不明に候へ共、私の聞及候儘を記載候者に有之候。若し此事真実に候はゞ、辞安仮令(たとひ)学問に長(た)け候とも、其心術は憎むべき極(きはみ)に可有之(これあるべく)候。何卒詳細御調査之上、直筆無諱(いむことなく)御発表相成度奉存候。私に於ても御研究に依り、多年の疑惑を散ずることを得候はゞ、幸不過之候。頓首。」
 わたくしはこれを読んで大に驚いた。或は狂人の所為(しよゐ)かと疑ひ、或は何人かの悪謔に出でたらしくも思つた。しかし筆跡は老人なるが如く、文章に真率なる処がある。それゆゑわたくしは直(たゞち)に書を作つて答へた。大要は阿部正弘の病死は蘭軒辞安の歿後十八年、榛軒長安の歿後五年の事であつて、正弘の病を療したのは榛軒にあらずして柏軒磐安である、父子三人皆彦根に居つたことがない、此説の虚伝なることは論を須(ま)たぬと云ふのであつた。わたくしは朽木氏の存在を疑つて、答書の或は送還せられむことを期してゐた。
 何ぞ料(はか)らむ、数週の後に朽木氏の訃音が至つた。朽木氏は生前(しやうぜん)にわたくしの答書を読んだ。そして遺言して友人をしてわたくしに書を寄せしめた。「御蔭を以て伝説に時代相違のあることを承知した。大阪毎日新聞を購読して、記事の進陟(しんちよく)を待つてゐるうち、病気が重体に陥つた。柏軒の阿部侯を療する段を読まずして死するのが遺憾だ」と云ふのであつた。
 按ずるに朽木氏の聞き伝へた所は、丁巳の流言が余波(なごり)を僻陬(へきすう)に留めたものであらう。

     その三百四

 わたくしは丁巳の歳六月十七日に阿部正弘が柏軒の治療を受けて世を去つたことを記した。中一日を隔てて、未だ喪を発せられざるに、棠軒が駿府に赴く命を拝した。正弘の喪は二十七日に至つて始めて発せられたのである。
 棠軒公私略にかう云つてある。「丁巳六月十九日隼人様駿府御加番御供在番被仰付。」隼人(はいと)とは誰か。わたくしは浜野氏に請うて旧記を検してもらつた。
 正弘六世の祖備中守正邦(まさくに)の季(すゑ)の子に小字(せうじ)を百之助と云ふ人があつた。後の隼人正容(まさかた)である。正徳五年正月に父正邦がみまかり、三月に兄伊勢守正福(まさよし)が所領の内五千俵を割いて正容に与へた。是が福山阿部の分家である。分家二世は靱負正依(ゆきえまさより)、三世は長門守正利(まさとし)、四世は靱負正溥(まさひろ)、五世は隼人正純(まさずみ)である。丁巳六月に駿府加番の命を受けたのは、此正純である。
 七月二十五日に棠軒良安は春安と改称した。公私略に「七月廿五日、春安と改名、願之通被仰付」と云つてある。
 八月十三日に阿部本家に於て賢之助が家督相続をした。賢之助は致仕正寧(まさやす)の長男で、即伊予守正教(まさのり)である。先代正弘は棕軒正精(まさきよ)の六男で、正寧の弟であつたから、正教は叔父(しゆくふ)の後(のち)を承けたのである。
 九月二十一日に棠軒は阿部正純に扈随(こずゐ)して江戸を発した。公私略に「九月廿一日御発駕御供いたし候」と云つてある。
 十月十五日に中橋伊沢分家に慶事があつた。柏軒が将軍家定に謁したのである。此年の武鑑には目見(めみえ)医師の下(もと)に「まき丁伊沢磐安」と載せてある。槇町(まきちやう)は即中橋の居を斥(さ)して言つたのである。
 謁見の日の服装従者の事が、良子刀自所蔵の雑記に「芸庵君口授」と題して載せてある。わたくしは当時の幕府医官の風俗を徴証せむがために此に抄出する。「御目見当日。帯無地黒琥珀、織出截棄。手巾白□布。懐中刀紫覆紗。侍麻上下。両箱持背後へ寄せ一本差。」芸庵(うんあん)とは誰であらうか。奥医師木挽町の柴田芸庵は安政元年に至るまで武鑑に見えてゐて、二年以後刪(けづ)られてゐる。或は致仕してゐたものか。其他原氏にして世(よゝ)芸庵と称したものがあるが、恐くは別人であらう。猶考ふべきである。
 松田氏に聞けば、柏軒をして幕府の医官たらしめむとするは、兄榛軒の極力籌画(ちうくわく)する所であつた。榛軒は父蘭軒の柏軒を愛したことを知つてゐて、柏軒を幕府に薦むるは父に報ゆる所以だと謂(おも)つたのである。壬子の歳に榛軒は弟の躋寿館(せいじゆくわん)の講師を拝するを見て死んだ。尋(つい)で榛軒歿後四年丙辰の歳に、柏軒は福山の医官となつた。しかし是は柏軒の願ふ所でもなく、又榛軒の弟のために謀(はか)つた所でもなかつた。賦性豪邁なる柏軒は福山に奉職することを欲せず、兄も亦これを弟に強ふることを欲せなかつたのである。丙辰の筮仕(ぜいし)は柏軒が数多(すうた)の小事情に絆(ほだ)されて、忍んで命を奉じたのであつた。既にして此年に至り、柏軒は将軍に謁した。是は亡兄画策の功程(こうてい)が一歩を進むることを得たのだと云ふことである。

     その三百五

 此年丁巳十二月十三日に、柏軒の妻俊(しゆん)が四十八歳で歿した。俊の病は今これを詳(つまびらか)にすることが出来ぬが、此冬疾(やまひ)の作(おこ)つた初に、俊は自ら起つべからざるを知つて、辞世の詩歌を草し、これを渋江抽斎の妻五百(いほ)に似(しめ)した。五百は歌を詠じて慰藉した。抽斎は屡(しば/\)俊の病を問うたが、或日帰つて五百に謂(い)つた。「お俊さんはもう長くは持つまい。昨日までは死ぬる死ぬると云つてゐたのに、今日は病気が直つたらどうするのかうするのと云つた。あれは悪い兆候だ」と云つた。俊は二三日の後に死んださうである。
 俊は既に記した如く狩谷□斎の女(ぢよ)で、才名一時に高かつた。其性行は概ね上(かみ)の婚嫁の条に云ふ所に尽きてゐる。わたくしは此に俊の一奇癖を補記する。それは俊が森枳園と同じく蛞蝓(なめくぢ)を嫌つて、闇中に蛞蝓を識つたと言ふことである。
 此年池田氏の宗家で二世瑞仙晋(ずゐせんしん)が七十七歳で歿した。武鑑に「寄合御医師、二百表、下谷新屋敷、池田瑞仙」と記するものが是である。新屋敷とは柳原岩井町代地であらう。武鑑は同時に「御目見医師、下谷三枚ばし、池田瑞長」を載せてゐる。是が京水の嫡男天渓直頼(てんけいなほより)であらう。三枚橋の家は京水の旧居である。
 小島氏では春沂抱沖(しゆんきはうちゆう)が此年閏(じゆん)五月八日に歿して、弟春澳瞻淇(しゆんいくせんき)が順養子となつた。瞻淇の日記を閲(けみ)するに、柏軒は五月二十八日、森枳園は閏五月二日に往訪した。彼は死前十日、此は六日であつた。春沂は此年の武鑑に「寄合御医師、百表、日本橋榑正町」と記してある。瞻淇の家督相続は次年戊午三月に至つて許された。
 多紀氏宗家では暁湖元□(げうこげんきん)が此年十月二十七日に歿して、弟棠辺元佶(たうへんげんきつ)が順養子として後(のち)を襲(つ)いだ。元□は此年の武鑑奥医師の下(もと)に「多紀安良法眼、父安元、二百表、向柳原」と記してある。安元は柳□元胤(りうはんげんいん)である。元佶は医師子息の下に「多紀安常、父安良」と記してある。分家では□庭元堅(さいていげんけん)が此年二月十三日に歿して、子雲従元□(うんじゆうげんえん)が嗣いだ。浅田栗園(りつゑん)の輓詩がある。「杏林領袖漸塵糸。想見先生崛起時。学禁異端攘醜虜。術開正路泝軒岐。人帰黄土書徒貴。春満青郊鳥自悲。従是滔々天下者。中流砥柱更依誰。」わたくしの所蔵の丁巳の武鑑は、元堅の歿した二月の後に成つたもので、唯奥医師の下に「多紀安琢、父楽春院、二百表、元矢のくら」を載するのみである。安琢は元□で、其父楽春院は元堅である。
 松田氏に聞くに、柏軒が後に重用せられたのは、多紀□庭と辻元冬嶺(つじもととうれい)との歿後に出でたためであつたと云ふ。冬嶺の事蹟は、わたくしは未だ詳(つまびらか)なるを知らない。しかしわたくしは冬嶺が安政三年八十歳、若くは四年八十一歳で歿したかと推測する。
 何を以て謂(い)ふか。武鑑は安政三年に「辻元為春院法印、奥御医師、三十人扶持、下谷長者町」と書してゐるのが、最後の記載である。四年以後の武鑑には為春院(ゐしゆんゐん)の名を見ない。大沼枕山の同人集は辻元の詩二首を収めてゐる。第二編上に「自述」の詩がある。「懸車乞骨尋常事。百歳致身吾所期。欲与梅花立氷雪。鉄肝吾自耐支持。」第三編上に「今茲乙卯余年七十九、新正生※[#「齒+兒」、8巻-203-下-12]乃賦」の詩がある。「□々初日満天霞。梅柳渡江迎歳華。別有春風仙老至。耳毛添緑※[#「齒+兒」、8巻-203-下-13]生芽。」乙卯は安政二年で、冬嶺が七十九歳であつた。わたくしは此に拠つて其年歯を算した。同人集に従へば、冬嶺、名は□(すう)、字(あざな)は山松(さんしよう)であつた。□庵は其通称、後に為春院の号を賜はつた。

     その三百六

 わたくしは此年丁巳に両多紀氏に代替(だいがはり)のあつた事を言つた。宗家は暁湖を失ひ、分家は□庭を失つたのである。松田氏の談に拠れば、後に柏軒の幕府に重用せられたのは、□庭と辻元冬嶺との歿後に筮仕(ぜいし)したからださうである。わたくしは武鑑と大沼枕山の同人集とを引いて、冬嶺の歿年を推測し、安政丙辰八十歳若しくは丁巳八十一歳であらうと言つた。
 香亭(かうてい)雅談に拠るに、冬嶺は山本北山の門人で、奚疑塾(けいぎじゆく)にあつた頃は貧窶(ひんる)甚しかつた。その始て幕府に仕へたのは嘉永中の事で、此より弟子大に進み、病客も亦蝟集(ゐしふ)したさうである。
 是に由つて観れば、冬嶺の名を顕したのは七十歳後の事である。丁巳以後の武鑑には、寄合医師の下(もと)に「辻元復庵」の名が見えてゐる。恐くは是が冬嶺の後(のち)であらう。
 真野氏では此年丁巳に陶後頼寛(たうごよりひろ)が八十歳で歿した。継嗣は竹陶頼直(ちくたうよりなほ)で、怙(ちゝ)を失つた時三十八歳であつた。頼直は弘化四年より阿部正弘の近習を勤めてゐた。一載の間に父を失ひ又主を喪つたのである。
 志村玄叔良□(げんしゆくりやうがい)が柏軒の門に入つたのは此年丁巳であつた。出羽国山形の藩士で、当時の主君は水野左近将監忠精(たゞきよ)であつた。良□は天保九年生で二十歳になつてゐたのである。是は良□さんの渋江氏に語つた所である。
 此年棠軒二十四、妻柏(かえ)二十三、女(ぢよ)長(ちやう)四つ、良(よし)二つ、全安の女梅八つ、柏軒四十八、子鉄三郎九つ、女洲十七、国十四、安六つ、琴三つ、妾(せふ)春三十三、榛軒未亡人志保五十八であつた。
 安政五年は蘭軒歿後第二十九年である。棠軒が九月二十四日に駿府より江戸に帰著した。事は棠軒公私略に見えてゐる。
 小島氏で此年春澳(しゆんいく)が家督相続をしたことは前に云つた如くである。
 渋江氏で此年蘭門の高足であつた抽斎全善(かねよし)が五十四歳で歿した。流行の暴瀉(ばうしや)に罹つて、八月二十九日に瞑したのである。柏軒は抽斎の病み臥してより牀(とこ)の傍(かたはら)を離れなかつた。後抽斎の未亡人五百は、当時柏軒が「目を泣き腫らし、額に青筋を出してゐた」状を記憶してゐて、屡(しば/\)人に語つたさうである。
 森氏で此年枳園が将軍家茂に謁見した。其日は十二月五日であつた。
 徳川家で此年の初に将軍家定が渋江抽斎と同じ病に罹り、抽斎に先(さきだ)つて薨じたのは、世の知る所である。故に年の末に森枳園を引見した将軍は家定ではなくて家茂である。枳園の寿蔵碑に誤つて家定に作つてあることは、嘗て抽斎伝に辯じて置いた。
 阿部家では新主伊予守正教(まさのり)が八月に入国した。わたくしは其供廻(ともまはり)の誰々であつたかを知らぬが、医官中に伊沢氏の無かつたことは明である。正教の福山に著したのは八月二十九日であつたに、柏軒は二十二日に抽斎の臨終を見届け、棠軒は九月二十四日に纔(わづか)に駿府より帰つたからである。
 此年棠軒二十五、妻柏二十四、女長五つ、良三つ、全安の女梅九つ、柏軒四十九、子鉄三郎十、女洲十八、国十五、安七つ、琴四つ、妾春三十四、榛軒未亡人志保五十九であつた。
 安政六年は蘭軒歿後第三十年である。八月二十二日に柏軒が幕府の奥詰医師を拝し、二百俵三十人扶持を給せられた。己未の武鑑を検すれば「奥詰御医師、三十人扶持、まき丁、伊沢磐安」と記してある。亡兄榛軒の柏軒を幕府に薦めた志は此に始て酬いられたのである。

     その三百七

 柏軒は上(かみ)に記するが如く、安政己未に幕府の奥詰医師を拝した。躋寿館(せいじゆくわん)の講師となつてより既に八年、前将軍に謁見してより既に三年であつた。柏軒をして幕府の医官たらしめむとすることが、亡兄榛軒の素望(そばう)であつたことも、わたくしは又上(かみ)に記した。
 これに反して丙辰に始て阿部侯正弘に仕へたのは、榛軒の遺志でもなく、又柏軒自己の願ふ所でもなかつたさうである。しかし正弘は柏軒を獲た次年丁巳に、偶(たま/\)篤疾(とくしつ)に罹つて、遂に柏軒の治を受けて世を去つた。そして阿部家は伊予守正教(まさのり)の世となつた。
 渋江保さんは母にかう云ふ事を聞いた。正教の世となつてから、阿部家の一女が病んで柏軒の治を受けた。一日(あるひ)柏軒はこれを診して退き、「今日の御容態は大分宜しい」と云つた。然るに女(ぢよ)の病は程なく増悪(ぞうあく)して死に至つた。是より正教は柏軒を疎(うと)んじ、柏軒の立場は頗(すこぶる)危殆(きたい)に赴いた。恰も好し、幕府の任命が下つて、柏軒は幸にして苦境を脱することを得たと云ふのである。
 此談の伝ふる所は頗(すこぶる)明確を闕いてゐる。阿部家の一女はその誰なるを詳(つまびらか)にしない。正弘の世を去つた丁巳六月十七日より柏軒の奥詰を拝した己未八月廿二日に至る間に夭した人は戊午六月五日に亡くなつた正寧の女操子(さうこ)四歳、法諡(はふし)麗樹院があるのみである。
 わたくしの此談を記するのは、柏軒の気質を証するが如きを覚ゆるからである。此談は柏軒が予後(よご)を誤つたことを伝へてゐる。予後を誤ることは豪邁なる医の免れ難い所である。気象豪邁なるときは、技術に諳錬(あんれん)してゐても、予後を説くに臨んで用意の周全を闕く。誤(あやまり)に陥り易い所以である。
 柏軒は幕府に仕へて頭初より奥詰を拝した。松田氏が柏軒の多紀□庭(さいてい)、辻元冬嶺の歿後に出たのを、其重用せらるゝ一因としてゐることは既に云つた。しかし松田氏は又かう云つてゐる。幕府は医家中に於て多紀氏を重視してゐた。柏軒は幼より多紀□庭の講筵に列してゐて、多紀氏の準門人である。それゆゑその任用せられたのは、多紀氏の余沢である。柏軒は一面多紀氏累世の余沢を被り、一面□庭歿後多紀両家の当主が皆弱冠であつたために群を抜いて立身する便を得たのだと云つてゐる。是は首肯すべき論である。
 柏軒は奥詰医師に任ぜられた頃、中橋よりお玉が池に居を移したらしい。文淵堂所蔵の花天月地(くわてんげつち)に、小島成斎の柏軒に与へた書があつて、日附は九月二十二日である。そして書中には柏軒の仕宦と移居との事が併せ記してある。わたくしは此新居を以てお玉が池二六横町の家となすのである。

     その三百八

 柏軒は己未の歳八月二十二日に幕府の奥詰医師となつた。わたくしはその中橋よりお玉が池に移居したのを、任官と略(ほゞ)同じ頃の事と以為(おも)ふ。それは小島成斎の九月二十二日の尺牘(せきどく)に拠つて言ふのである。
「倍(ます/\)御壮健奉敬賀候。然者(しかれば)無申訳御無音戦栗(せんりつ)之至奉存候。御引移(おんひきうつり)並御召出の御祝儀参上可仕候処、公私※忙(そうばう)[#「聰のつくり」、8巻-207-下-8]、甚以(はなはだもつて)御疎濶罷過(まかりすぎ)、不本懐(ふほんくわい)奉存候。此節参上可仕候所、引越(ひきこし)公私のさわぎ又々延引、重々恐悚(きようしよう)之至奉存候。御祝物進呈仕候。不日拝謁万々賀儀可申陳候。且又机永々恩借奉感謝候。是亦面上可申上候。乍憚令閨君えも御致声奉願候。草々頓首。九月廿二日。小島五一。伊沢磐安様侍史。」
 わたくしは移居と任官とが略(ほゞ)時を同じうする如く謂(おも)ふと云つた。文中「御引移並御召出」と云ふより観れば、或は移居が任官に先(さきだ)つてゐたかとも推せられる。しかし己未の武鑑に「まき丁」と記してあるのは、猶中橋の槇町を斥(さ)して言ふものの如くである。姑(しばら)く疑を存して置く。
 又「引越公私のさわぎ」と云ふより観れば、成斎も亦此書を作る直前に移徙(いし)したかと推せられる。渋江保さんは当時成斎に就いて筆札を学んでゐて、成斎が柏軒の子鉄三郎を待つに、其父の仕宦前後厚薄(こうはく)を異にしたことを記憶してゐる。成斎は幕府医官の子を遇するに、疇昔に殊なる礼を以てしたのである。渋江氏は此事を語つて、成斎は「今の神田淡路町にあつた阿部侯上屋敷内自宅の二階三室を教場として」ゐたと云ふ。是は武鑑「阿部伊予守正教」の条に「上、昌平橋内、大手より十六町」と記する屋敷である。成斎は何処へ徙(うつ)つたのであらうか。或は同じ屋敷の内の移転などであらうか。是も亦猶考ふべきである。
 成斎が柏軒の机を借りて久しく還さなかつたと云ふも、故ありげな事である。恐くは尋常の什具ではなからう。長子(ちやうこ)刀自の話に、狩谷□斎が京都加茂神社の供物台(そなへものだい)を得て蘭軒に贈り、伝へて榛軒、柏軒、磐、津山碧山、長門の人矢島屯(じゆん)に至つたものがあると云ふ。恐くは是であらう。
 柏軒はお玉が池の新居を営むに当つて、頗る其工費を辨ずるに苦んだ。塩田真(しん)さんの語る所は下(しも)の如くである。
「柏軒先生の家計は常に裕でなかつた。先生自己が理財に疎かつたことは勿論であるが、夫人狩谷氏も亦決して細事に意を用ゐて周到なることを得る人ではなかつた。先生は貧ならざることを欲すと雖も、奈何(いかん)ともすることが出来なかつたのである。わたくし(塩田氏)の見た所を以てすれば、家政の按排は主に側室お春さんの手裏にあつて、此女は先生をして貧甚しきに至ることを免れしめたやうである。お玉が池の新宅は、わたくしの親戚の所有の空地(くうち)を借りて建築したものであつた。其費用は種々の工夫に由つて辨じたものである。わたくしは或日先生の使に海賊橋辺の商家に往つて、金六十五両を借りた。海賊橋は今謂ふ海運橋である。わたくしは金を懐にして四日市を過ぎた。偶(たま/\)絵草紙屋の店に新板の役者絵が懸けてあつた。わたくしは好劇癖(かうげきへき)があつたので、歩を駐(とゞ)めて視た。さて二三町行つて懐を探ると、金が無かつた。わたくしは遺失したかと疑つて、踵(くびす)を旋(めぐら)して捜し索めた。しかし金は遂に見えなかつた。前(さき)に絵草紙を看た時、掏摸(すり)に奪ひ去られたのである。わたくしは已むことを得ずして家に還り、救を父楊庵に求めた。父はわたくしのために金を償(つぐの)うてくれた。金は柏軒先生が番匠某に与ふる手附金であつた。」

     その三百九

 わたくしは安政丁巳に柏軒がお玉が池の新居を営んだことを記して、塩田良三(りやうさん)の途に工費を失つた話に及んだ。
 此家は今川越にある安部大蔵さんが目撃して記憶してゐる。安部氏の園田宗義(むねよし)さんに寄せた書牘(しよどく)にかう云つてある。「伊沢磐安の宅は迂生(うせい)二十歳の頃に見し所を記憶す。神田お玉が池市橋邸の東横町にて、俗に二六横町と称へし処なり。門長屋(もんながや)ありて、小身の旗本の屋敷かと覚ゆる構へなり。医師の家としては当時の風俗より視て可なり立派なるものなりし。」
 わたくしは渋江抽斎伝に柏軒がお玉が池に移つて、新宅開きの宴を張つたことを記した。彼保さんの姉水木(みき)と柏軒の女(ぢよ)安(やす)とが長歌の老松を歌ひ、幕医柴田常庵が衣を脱して「棚の達磨」を踊つた夕の事である。
 今按ずるに、此宴は柏軒が始てお玉が池に移つた年に張られたものではない。何故と云ふに、移転を丁巳の歳であつたとする限は、渋江氏の記憶にアナクロニスムを生ずるからである。渋江氏は宴を辞して帰る途上に力士小柳の横死(わうじ)を聞いた。小柳の横死は文久壬戌の四月であつた。即丁巳よりして五年の後、柏軒の京都に往つた前年である。推するに柏軒は壬戌に至つてお玉が池の家に座敷の建増などをしたであらう。さうして座敷開きの宴などを催したであらう。只其事が偶(たま/\)伊沢氏の文書に載せられてをらぬだけである。
 丸山の棠軒が家には、此年九月二十一日に嫡男棠助(たうすけ)が生れた。棠軒公私略に「己未九月廿一日夕男子出生、名棠助」と云つてある。即今の徳(めぐむ)さんである。是は小島成斎が書をお玉が池の柏軒に寄せた前日の出来事である。
 九月二十八日に棠軒は福山藩の医学助教にせられた。公私略に前条の記事に接して、「同月廿八日医学助教被仰付」と云つてある。按ずるに丸山邸内の誠之館に於て医書を講じたのであらう。
 十月九日に棠軒は又阿部正教(まさのり)の奥医師にせられた。公私略に「十月九日奥御医師被仰付」と云つてある。
 二十三日に棠軒は先侯正弘の遺子某を療することを命ぜられた。公私略に「同月(十月)廿三日清心院様御子様御用相心得候様被仰付」と云つてある。清心院は糸魚川藩主松平日向守直春の女(ぢよ)、福井藩主松平越前守慶永(よしなが)の養女、正弘の後妻謐子(しづこ)で、此夫人には男四人、女七人の子があつた。そして後に正桓(まさたけ)に配せられた第六女寿子(ひさこ)を除く外、皆早世した。「御子様」は未だその誰であつたかを考へない。
 池田氏では此年四月朔(さく)に分家京水の継嗣天渓瑞長(てんけいずゐちやう)が歿した。法諡(はふし)養源軒天渓瑞長居士である。其後を襲(つ)いだものは恐くは三矼(こう)二世瑞長であらう。武鑑は二年前丁巳に至るまで宗家の「御寄合医師、池田瑞仙」と共に、分家の「御目見医師、下谷三枚橋、池田瑞長」を載せてゐて、前年戊午以後には復(また)分家を載せない。戊午以後宗家の主瑞仙は三世直温(ちよくをん)である。

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