伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

「是は素人狂言の常で、実は本職の役者の間にも動(やゝ)もすれば免れぬ事だが、都合好く運んで来た茶番の準備が役割の段に至つて頓挫した。新七の筋立から取つたものは、前に云つた通、天一坊と地雷也とであるが、其天一坊に殺されるお三婆は誰に持つて行つても引き受けぬ役であつた。初め一同は此役を上原元永(げんえい)に持つて行つた。それは上原が婆面(ばゞづら)をしてゐるからと云ふわけであつた。しかし元永は聴かない。次に上原全八郎に持つて行つた。是も聴かない。次に成川貞安(なりかはていあん)と云ふ男に持つて行つた。是は伊沢の当主良安の里と同じ町に住んで、外科で門戸を張つてゐる医者であつた。或年清川玄道の家の発会(ほつくわい)に往つた帰に、提灯の火が簔に移つて火傷(やけど)をして、ひどく醜い顔になつた。此男なら異議はあるまいと云ふので持つて行つたのである。然るに成川は云つた。己は勿論この顔で好い役をしようとは思はない。しかしお三婆だけは御免を蒙る。どうぞ山賊の子分にでもしてくれと云つた。お三婆の役がこんなに一同に嫌はれたのは、婆になるのがつらい上に、絞め殺されなくてはならぬからであつた。此時わたくしは決心してかう云つた。宜しい。そんなに皆が嫌ふなら、お三婆は己が引き受けよう。しかし己は条件を附ける。己は婆になる代に、跡の役は極好い役でなくては勤めないと云つた。わたくしはかう云つて、とう/\婆殺しの次の巡礼殺しの場に出る観音久次(くわんのんきうじ)実は大岡越前守を貰ひ、又忠臣蔵ではお軽を貰つた。さて茶番が原来小野のために催されるのだから、道悦に花を持たせて、天一坊と忠臣蔵の勘平とを割り当てた。上原元永は地雷太郎になつた。柏軒、全八郎などにもそれ/″\端役が附いた。次は振附の問題であつた。それは忠臣蔵三段目に清元の出語(でがたり)を出すから、是非入用なのである。幸(さいはひ)柏軒の病家に藤間しげと云ふ踊の師匠があつたので、それを頼んだ。これで稽古には取り掛かることが出来た。一同毎日丸山の伊沢の家に集つて熱心に稽古をした。そして旁(かたは)ら小野の家に舞台を急造し、小道具、衣裳などを借り出すことに尽力した。小野は工面が好くて、薬研堀(やげんぼり)の家は広かつたので、万事都合が好かつたが、只一つ難儀な事には、座敷の向が花道を向つて右に附けねばならぬやうになつてゐた。是はどうにも改めやうがないので、其儘で我慢することにした。残る所は小道具、衣裳の借出しだけである。」
 塩田氏の談話は未だ尽きない。談は此より小道具、衣裳借出しの手段、茶番当日の出来栄に入る。

     その二百八十五

 柏軒が此年甲寅に首唱して、矢島優善(やすよし)、塩田良三(りやうさん)の二人が計画し、小野令図(れいと)の家の祝のために催す茶番の事は、塩田氏の語る所が猶残つてゐる。それは小道具、衣裳の借出しと当日上場の効果とである。塩田氏はかう云つた。
「茶番は其頃随分度々したので、小道具、衣裳を借り出す経験もあつた。それはわたくし共が矢場辰(やばたつ)と云ふ男を識つてゐて、かう云ふ事は大抵此男に頼んで辨ずるのであつた。矢場辰は両国米沢町の鈴木亭と云ふ寄席の主人である。此寄席は昼場に松林伯円の講釈を出してゐた。わたくし共は昼場の定連であつたので、矢場辰と心安くなつた。矢場辰に一人の娘があつて、其頃年は十六であつた。それが女芝居の座頭をしてゐた。原来両国に小屋掛の芝居が二つあつて、てりばと称へられてゐた。其一つは女芝居で、後に市川を名告つた岩井久米八なども此芝居に出てゐた。矢場辰の娘が座頭をしてゐたのは此芝居である。わたくし共は茶番をする時、大抵矢場辰に頼んで此女芝居から小道具、衣裳などを借り出した。そこで今度の茶番にも此手段を用ゐた。舞台を設けた小野の家は薬研堀だから、借りた品物を夜運ぶには、道の近いのが好い都合であつた。薬研堀の小野の邸は、丁度今七色蕃椒屋(なゝいろたうがらしや)のある地所の真向であつた。借りた品物の中には切落の浅葱幕(あさぎまく)や下座の大大鼓などまで揃つてゐた。しかし中には手製をしなくてはならぬ品もあつた。譬へばお三婆を殺す時に用ゐるまるたなどである。是は細い竹に藁を被(き)せて、其上を紙貼にした。又衣裳にも女芝居から借りた品で間に合はぬものがあつた。譬へばお軽の長襦袢である。忠臣蔵に茶番の落を附けるのだから、お軽にも何か変つた長襦袢を著せたかつた。そこで所々(しよ/\)を問ひ合せて、とう/\緋縮緬の長襦袢の背中に大きな黄色い斑(しみ)の出来たのを手に入れた。さていよ/\当日になつた。最初の天一坊は頗る真面目に出来た。しかし其真面目のために茶番としての面白味が殺(そ)がれた。次にお軽勘平道行の場となつた。是は初より滑稽たつぷりに為組(しく)んだもので、役人替名も良三のおだる、道悦のわん平としてあつた。勿論滑稽は先づ隠して置いて後に顕した。落人も見るかやの歌の辺(あたり)は、真面目な著附で出た二人が真面目な科(しぐさ)をしてゐた。さて、詞(ことば)に色をや残すらむで、二人が抱き合ふと、そこへ山賊が大勢出る。うぬ等は猫間(ねこま)の落人だらう、ふざけた真似をしやがるなと云つて、二人の衣類を剥ぐ。わん平は剥身絞(むきみしぼり)の襦袢と鬱金(うこん)木綿の越中褌とになり、おだるは例の長襦袢一つになる。そしておだるはわざと後向になつて、黄色い斑を見せる。山賊はわん平を剥ぐ時、懐から出た白旗を取り上げ、こりやこれ猫間の白旗云々の白(せりふ)を言ふ。是が次の地雷太郎と弓之助とのだんまりの種になるのである。此場のおだるわん平が剥がれる処は大受であつた。」

     その二百八十六

 塩田氏は此年甲寅に小野令図(れいと)の家に催された茶番の事を語ること前記の如くであつた。茶番が此の如く当時の士人の家に行はれたのは、文明史上の事実である。何れの国何れの世にも、民間藝術はある。茶番と称する擬劇も亦其一である。わたくしはその由つて来る所が知りたい。
 わたくしは此に民間藝術史上より茶番を概説する余地を有せない。しかしわたくしは少くも茶番を小野の家に演じた人々が、いかにして其技を伝へたかと云ふことを問ひたい。
 わたくしは塩田氏に聞いた。当時吉原の幇間に鳥羽屋喜三次(きさんじ)と云ふものがあつて、滑稽踊と茶番とに長じてゐた。喜三次は其技を天野藤兵衛と云ふものに伝へた。天野は身分が幕府の同心で、常に狭斜に往来するものであつた。柏軒は屡々此藤兵衛を其家に招いて、酒間に技を演ぜしめた。「野呂松(のろま)の切破(きりやぶり)」、「山王祭」、「三人生酔(なまゑひ)」、「女湯覗(をんなゆのぞき)」等はその好んで演ずる所であつた。矢島優善(やすよし)、塩田良三(りやうさん)等の茶番は藤兵衛より出でたのださうである。柏軒の家とは中橋の家であらう。柏軒の丸山の家を離れて中橋に住んだ年月日は記載せられてゐぬが、わたくしは既に云つた如く、仮に天保丙申の歳としてゐるのである。
 茶番にも文献がある。その詳(つまびらか)なることはわたくしの知らざる所であるが、或は思ふに茶番の書の如きは、概して多く存してをらぬのではなからうか。わたくしは又塩田氏に聞いた。当時本所に谷川又斎(いうさい)と云ふ医者があつた。又斎の子が亦斎(えきさい)で、家業を嫌ひ、篆刻を学び、後には所謂戯作者の群に投じ、雑書を著して自ら紫軒道人(しけんだうじん)と署した。此紫軒の著す所に「茶番頓智論」二巻があつて刊行せられた。書中には塩田良三の作も収められてゐた。其一は豊臣秀頼が石清水八幡宮に詣でた時、明智光秀の女(ぢよ)がこれを刺さうとすると云ふ筋の作であつたさうである。
 わたくしは小野の家の茶番が、河原崎座の吾嬬下(あづまくだり)五十三次(つぎ)興行と同時であつたことを言つた。然らば茶番の時は即ち八月狂言の時で、八月狂言の時は即ちスタアリングの率ゐた英艦隊の長崎に来舶してゐた時である。人或はその佚楽戯嬉(いつらくきき)の時にあらざるを思つて、茶番の彼人々の間に催されたのを怪むであらう。しかしそれは民衆心理を解せざるものである。上(かみ)に病弱なる将軍家定を戴き、外(ほか)よりは列強の来り薄(せま)るに会しても、府城の下(もと)に遊廓劇場の賑つたことは平日の如く、士庶の家に飲讌等の行はれたことも亦平日の如くであつただらう。近く我国は支那と戦ひ露西亜と戦つたが、其間民衆は戯嬉を忘れなかつた。啻(たゞ)に然るのみならず、出征軍陣営中の演劇は到る処に盛であつた。わたくしは従征途上に暫く広島に駐(とゞ)まつたことがある。其時人々が争つて厳島に遊んだ。「生きて還るかどうか知れないから、厳島でも観て置かう」と云つたのである。わたくしは同行を辞して、「厳島を観て死ぬるも、観ずに死ぬるも、大した違は無いやうだ」と云つて、人々に嗤(わら)はれた。

     その二百八十七

 此年甲寅に森枳園が躋寿館の講師にせられた。枳園は是より先嘉永紀元戊申に阿部侯に召還せられ、其年館の校正方になつてゐた。館にあること七年にして講師の命を拝したのである。
 枳園の妻勝は夫の受けた沙汰書を持つて丸山の伊沢氏を訪ひ、これを榛軒の位牌の前に置いて泣いた。夫の今日あるは亡き榛軒の賜(たまもの)だとおもつたからである。榛軒の歿した時、棠軒は父の遺物として、両掛入薬籠(りやうがけいれやくろう)と雨具一式とを枳園に贈つたさうである。
 此年渋江氏では抽斎の長男恒善(つねよし)が歿した。榛軒の門人録には「渋江道陸」として載せてある。矢島優善(やすよし)の兄である。
 門田朴斎(もんでんぼくさい)の江戸より福山に帰つたのも亦此年である。四月に丸山の阿部邸を発して五月に福山に著いた。
 此年棠軒二十一、妻柏二十、女長一つ、全安の女梅五つ、柏軒並妻俊四十五、妾春三十、鉄三郎六つ、洲十四、国十一、安三つであつた。蘭軒の遺女にして井戸氏に嫁した長は四十一、榛軒の未亡人志保は五十五であつた。
 安政二年は蘭軒歿後第二十六年である。二月十七日に中橋の家に柏軒の第五女琴(こと)が生れた。佐藤氏春の出である。柏軒の女(ぢよ)は洲、国、北、安、琴の順序に生れて、北に至るまでは正室狩谷氏俊の出、安より以下が春の出である。
 十月二日は江戸の大地震の日である。棠軒公私略に「十月二日夜、東都大地震、四面火起」と記してある。「四面火起」とは丸山の阿部邸にあつて記したものである。阿部正弘は竜口(たつのくち)用邸にゐた。屋舎が倒れて正弘の夫人松平氏謐子(しづこ)の侍女七人はこれに死した。正弘夫妻は幸に恙なきことを得て、正弘は直に登城した。当夜第一の登城者であつた。是は正弘が平素紋附の寝衣(しんい)を用ゐてゐたので、重臣某の曾て正弘より賜つた継上下(つぎかみしも)を捧げたのを著て、迅速に支度を整ふることを得たからである。正弘は用邸より丸山邸内の誠之館に遷つた。此誠之館は二年前癸丑の歳に落成した学校である。福山にある同名の藩学は江戸に遅るゝこと一年、甲寅の歳に落成した。
 中橋の柏軒が家では前月より妻俊が病み臥してゐた。二日は講書のために人々の集(つど)ふべき夜であつた。女(むすめ)安の風邪に侵されてゐたのを、早く寝させむために、「森の祖母君」を附けて二階へ遣つた。地震は此時起つたのである。森の祖母君(おほばぎみ)は俊の病を看護しに来てゐた人だと云ふ。森全応恭忠(もりぜんおうきようちゆう)の妻、枳園の母ではなからうか。
 地震の起つた時「丸山の姉君」が傍にゐたと俊は云ふ。按ずるに志保は夫を喪つた後、柏軒の家に寓してゐたと見える。
 俊は「童一人」を率(ゐ)て轎(かご)に乗り、湯島の狩谷懐之(くわいし)方へ避難したさうである。按ずるに柏軒と妾(せふ)春とは中橋に留まり、春は安、琴の二女を保護してゐたであらう。童(わらは)は鉄三郎である。森の祖母君は徒歩して俊の轎の後(しりへ)に従つた。

     その二百八十八

 わたくしは安政乙卯の歳の地震を叙して、当時の柏軒が中橋の家の事に及んだ。此条は柏軒の妻狩谷氏俊の記に拠つたものである。良子刀自所蔵の俊が遺文中首尾略(ほゞ)全(まつた)きものは、此記を除く外、遊記二篇、小説二篇があるのみである。わたくしは今地震の記の全文を此に写すこととする。是は□斎が家女に生ませた才女のかたみである。
「長月の半よりいたう悩みて、生くべうもあらぬ程なりしに、神無月になりては、しばしおこたりざまになりぬ。されど枕擡(もた)ぐることも懶くて、湯なども吸呑(すひのみ)てふ物より臥しながら飲みて、厠に往かむにも、人の肩に掛かりて、一人には背を押さへられつつ、虫などのはふさまして行きぬ。」
「夕(ゆふ)つかた娘の風の心地に、いと寒しと云へば、楼(たかどの)へ往きて衾(ふすま)被(かづ)きて寝よと云ひしかど、一人往かむはさうざうし、誰にまれ共に往きてよと云ふ。森の祖母君(おほばぎみ)此頃わが悩(なやみ)みとらむとて、しばし留まりゐ給ひしが、今宵講釈のあれば、夜も更けなむ、われこそ共に往きて寝めとて、楼に登り給ひぬ。」
「亥(ゐ)過る比(ころ)、天地(あめつち)も砕けぬばかりのおどろ/\しき音して地震(ふる)ふに、枕上(まくらがみ)の燈火(ともしび)倒れやせむと心許なく、臥したるままにやをら手を伸べつつ押さへぬ。されど油皿はとくゆり落されて、押さへたる我手に当り、畳の上に落ち、あたりへ油散りたり。」
「此時女子一人走り来て、心たしかに持ち給へ、まざいらく/\と云ひつつ我上に倒れ臥しぬれば、あな苦し、そこ退きね、疾く/\と云へど、えも起き上らでゐたり。そこへ又一人肥えふとりたる女の走り来て、阿弥陀仏(あみだほとけ)の御名を唱へつつ、又倒れかかりぬれば、いよゝ重りて苦しさ言はむかたなし。されど戸障子(とさうじ)のはづるる音にや、あまりにおそろしき音すれば、物も覚えず。今の間に家も崩れ、有限の人こゝにて死ぬらむかと、目を閉ぢつつ、大慈大悲の観世音菩薩(ぼさち)と声高う唱へぬ。今を限の命なめり、かくて世も尽きぬらむとおもひゐたり。」
「そこへ誰にかあらむ火点(とも)して来ぬるに、あたりを見やれば、おのれは落ちたる行燈(あんどう)の油皿を何のためにか、しかと握りたり。その上に若き女どものいみじう肥えたるが二人まで倒れかゝりてゐたり。さて人ごゝち附きて見れば、家のしりへの方に、紺屋の物干す料なる広く明きたる地のあれば、そこをさして我先にと往くなり。我にも疾く往きね、揺返(ゆりかへ)しと云ふこともあれば危し、疾く/\とそゝのかせど、風いたう吹きて寒げなれば、悩める身の風に当りて悩まさりて死なむも、こゝにて押し潰されむも同じ命なり、動くことも懶ければ、此儘にてあらせてよと打詫ぶ。」
「そがうちに火出来ぬと聞きて、そはいづくのあたりならむと問へば、かしここゝ三十六所(ところ)もあらむと云ふに胸つぶれぬ。とてもかくても命の尽る期なるべしと覚悟してぞゐたりける。」
「家あるじ、病者(ばうざ)の心地や悪しからむ、振出(ふりだ)してふ薬飲ませばやと、常に薬(くすり)合(あは)するかたに往くに、こはいかに棚落ちて箱どもの薬ちり/″\になり、百味箪笥といふものさへ倒れぬれば、常に病者のもとへ持行く薬箱とうでて合するもめづらし。」
「童子(わらべこ)どもも人に負はれて、しりへなる広き方へ往きぬ。火はいよゝ烈しくなりもてゆきて、東も西も一つらに空赤くなりて、火の子のちりぼふさま梨地といふもののやうにぞ見ゆる。いよゝ身動さむともえ思はずなりて、衾(ふすま)かづきて臥しゐたり。傍(かたはら)には森氏の祖母君、丸山の姉君います。家(や)のうちには猶老いたるもの穉(をさな)きものあまたあり。火近うなりて物の焼くる音おそろしきに、大路も人多くなりて所狭(ところせ)く、ようせずば過(あやまち)もありぬべし、疾く逃ぐるこそよかなれと人々云ふ。」
「さらばとてやう/\床の内よりはひ出でて駕籠に乗る。童(わらは)一人共に乗りぬ。先づ門(かど)を出づるに、物の燃ゆる音のおそろしければ、あたりをばよくも見やらず。広小路に出でぬ。ふと駕籠の窓より見出だすに、赤き火黒き烟入り乱れて、物音すさまじければ、心もそらになりて物も覚えでぞ行く。」

     その二百八十九

「大路(おほぢ)のさま静になりぬれば、例の窓より見やるに、こゝは道行く人はなくて、男(をとこ)女(をみな)おのれ/\が家居の前に畳敷きかさね、調度めくもの夜の物など見上ぐるまでに積みあげ、そが中にこぞりゐて、蝋燭など点(とも)したり。そが傍(かたはら)に同じさましたるが火桶に火などおこしつゝ、隣れる人酒の出来(いでき)たるにまゐらずやなど云ふ。今は走りありきて火消さむとはかるものなくて、おのれ/\がゐる所守りてのみあるなるべし。されば街(ちまた)いと静にて、穉(をさな)きもの老いたるものゝ歩むに、心もとなきことはあらじと、少しは心おちゐぬ。」
「暫くして大路にいみじき雨の降るらむやうに、さわ/\と水音立つるは何ならむと、例の窓より見やるに、家ごとに火の事の用にと湛へ置きたる水桶倒れ、水の溢るゝなり。」
「駕籠舁くものの云ふ。日比(ひごろ)悩み給へるに、かく揺りもて行けば、いかに苦しと思召すらむ。強ひてねりもて行かむとおもへど、しづ心なくて、いつしか足疾くなりぬと云ふ。いな、心地は此日比よりもさわやきぬ。心遣なせそ。疾く走り行きて、とみに帰りね。家の焼け失せなむも心もとなし。疾く帰りて調度持出してよとそゝのかし走らす。駕籠舁くもの心えて急ぎ行けば、身はいたう揺らるれども、日比には似ず、胸のいたきことさへに忘れゐたり。」
「又こゝはいかならむとさし覗き見るに、空は皆一つらに赤うなり、右左の小路(こうぢ)はいづこも/\火燃ゆるさま、目のあたりに見えておそろし。かかれば老いたる御方のいかに心もとなく歩み苦しうおぼすらむと見やるに、手拭被りつつ、脛(はぎ)あらはに端折りて、ささやかなるものを負ひつつ来給ふさま苦しげにもあらず、常の道歩み給ふさまなるがいと怜(うれ)し。」
「筋違(すぢかひ)の広き大路には、所狭(ところせ)きまで畳積みかさね、屏風戸障子(とさうじ)などもておのがじゝ囲ひたり。中に衾(ふすま)かづきて臥したるは、わがごとき病者(ばうざ)ならむとおもへば、あはれ湯などあらば飲ませまほしとぞおもふ。こゝはしも火の見ゆることなければ、少しは心落ちゐぬ。」
「湯島なる故(ふる)さとに来て見れば、表なる塗籠(ぬりごめ)はいたう揺り崩され、屋根なりし瓦落ちつもり、壁の土と共に山の姿なせり。されば常に駕籠舁き入るゝ玄関めく方へ往かむこと難く、さりとてこゝにあるべきならねば、先づ案内(あない)をぞこふ。」
「従者(ずさ)出来て、こはよくぞ来ましゝ、此日比悩み給ふと聞きつるに、み心地はいかになど問ひつつ、駕籠の戸引きあけつ。さてをさなきもの危し、誰(た)ぞ抱き取りてよと云ふに、又一人出来て童(わらは)を抱(いだ)き取りぬ。さきなるが我手を取りて云ふ。かしここゝの崩れ損(そこな)はれて、歩み行くこと難き道となりたれば、わびしうぞおぼすらむ。家あるじは疾く庭のあなたなる茶の湯ものする囲に移りてぞおはする。いざこなたへとて、手を取りて扶け起し、わが供なるものに、はきものの用意やあると問ふ。かゝるさわがしき中を逃げまどひ来ぬれば、心づかざりきと云ふ。さらばとてそこら捜しつつ、いたう古りたる、むづかしげなる福草履とかいふめる物捜し得て穿かす。」
「われは辛うして虫などのはふがごと行くに、常は平(たひらか)なる方も、壁崩れて土など高うなりて歩み苦し。しばしありて囲に来ぬ。せうとの君、娘など共にゐたり。かゝるあやしき中を逃れ来たまひしことのめでたさよなど云ふ。されど老たる人々の、待てど/\来給はねば、心おちゐで、などかくは遅き、心もとなきことかなと繰返し/\云へば、さおもひ給はば迎へに人遣らばやとて、人など呼ぶ程に、二人の老人(おいびと)娘と共に恙もあらで到り着きぬれば、怜(うれ)しさ譬へむに物なかりき。」

     その二百九十

「わづかに畳三枚(ひら)ばかり鋪ける、ささやかなる所に、九人押し合ひてゐたり。あかしさへ置きたれば、いよゝ狭(せば)きに、をさなきものねむたしとて、並みゐる正中(たゞなか)に足踏み伸して臥す。その思ふ事なげに心地よげに見ゆるを、人々羨むもをかし。」
「せうとの君、かかる折は酒飲みて心たしかにせでやはと、手うち叩き人呼びて、酒もてこと云ふ。従者(ずさ)の怪しげにさうぞきたるが、大坂漬といふ香の物のなま/\しきを添へて、酒一壺もて来ぬ。せうとの君、これなくてはと飲みて、丸山の姉君にまゐらす。姉君、こよなう怜(うれ)し、さきよりこれ欲しうおもひたるにとて、心地よげに飲み給ひ、常はえまゐらぬまだしき大根(おほね)まゐるもをかし。かれいひを結びたるをももて来ぬれば、童(わらは)らおのが頭(かしら)よりもおほきやかなるを取りて、顔もかくれぬばかりにして食ふ。こもまたをかし。」
「かくてある程に、小石川の火燃えひろごりぬれば、こゝまで焼て来もやせむとて、人々立ちさわぎ罵る。われそを聞くに胸つぶれ、わが住む中橋あたりはいかに、今は灰にやなりぬらむと、人々に問へど、こゝの危ければ、誰も往きて見ず、いかになりしか知らむやうなしと云ふ。心もとなさ言はむかたなし。」
「せめては目の及ばむ程のさま見ばやとて、後手(うしろて)のあかり障子(さうじ)あくれば、吉原下谷本所あたりの火一つらになりて、黒き烟のうちに焔立ちのぼるさま、地獄の絵見る心地す。あはれ、いつの程にか此火は消えなむと心もとなし。立ちつゐつ幾度(いくたび)となく障子あけて見るに、かなた薄くなりもてゆくと見れば、こなた又濃くなりて、さらに消ぬべき気色もなし。」
「後には頭(かしら)もいたく、何となう心地悪しければ、しばし休まむとするに、いと狭(せば)き所に人多くゐれば、足踏みのばさむやうもなし。壁に倚りゐて傍(かたはら)を見れば、森の祖母君(おほばぎみ)宵よりのいたつきにや疲れ給ひけむ、かかる騒がしき中にして、ゐながらに眠りて、物も知らでぞおはする。うらやましの祖母君や。」
 柏軒の妻狩谷氏俊の記は此に終る。わたくしは上(かみ)に「首尾略全きもの」と云つた。しかし此記の如きも、俊は猶書き続がむとして果さなかつたものであらう。前に引いた所の嘉永癸丑に向島に遊んだ記もこれに似て、真の終結に至らずして筆を閣(さしお)いたものである。次年丙辰に富岡(とみがをか)に遊んだ記も亦さうである。これに反して小説二篇は完璧である。其一は貧家の妻が夫の恋を遂げしめむがために金を儲へ、終に夫を吉原大店(おほみせ)のお職に逢はせたと云ふ物語である。是は当時のサンチマンタリスムに影響せられた作に過ぎない。布置に意を用ゐて、夫の死後に未亡人が遺物を持つてお職の許を訪ふさまが写されてゐる。しかし特色には乏しい。其二は某(それ)の大名屋敷の奥女中の部屋の怪異を記したものである。是は自叙体で、習作めいた叙法が用ゐてある。そして全くモラルが無い。反面より言へば、モオパツサンがトルストイに指□せられたやうな疵病(しびやう)がある。是がとかくモラルの石に躓き易い近人の快(こゝろよ)く此作を読過することを得る所以である。

     その二百九十一

 わたくしは上(かみ)に柏軒の妻狩谷氏俊が、安政乙卯の地震の時、中橋の家より湯島なる兄懐之(くわいし)の家へ避難した記を抄し、因(ちなみ)に俊が遺文数種の事を言つた。
 此地震には又既に記した榛軒門人渡辺昌盈(しやうえい)が死んだ。渡辺は陸奥国弘前の城主津軽越中守順承(ゆきつぐ)に仕へて表医師となり、三十人扶持を受けてゐた。此日津軽家隠居附たるを以て柳島の下屋敷に直(ちよく)してゐて遭難したのである。隠居は出羽守信順(のぶゆき)である。渡辺は弘前人の江戸にあつて此地震に死した三人中の一人であつたと云ふ。他の二人は本所三目(みつめ)の上屋敷にゐた井上栄三(えいさん)の母と穉子(をさなご)とであつた。栄三の母は子を抱いて死んでゐた。其他同じ上屋敷の平井東堂の家では婢が一人死んだ。平井の事は前に渋江抽斎伝中に記した。後に大沼枕山の同人集を閲(けみ)するに、東堂の名が同人中に見えてゐる。是は当時知るに及ばなかつたから、今補記して置く。
 柏軒門下に松田道夫さんの来り投じたのは、恐くは此年であらう。松田氏は十七歳の時入門したと云ふからである。柏軒の門人は初め中橋に移り住んだ時、僅に三四人であつた。既にして松田氏の入門した頃は、諸藩の子弟にして来り学ぶものが頗(すこぶる)多かつた。塾生中の主なるものは掛川の宮崎健斎、上田の小島順貞(じゆんてい)、対馬の塩田良三(りやうさん)、弘前の小野道悦、福山の内田養三、斎木文礼、岡西養玄、家守某(いへもりぼう)、備中国松山の柳井柳仙、久留米の平川良衛(りやうゑい)、棚倉の石川良宅、上野国高林の松本文粋、新発田(しばた)の寺崎某、山形の志村玄叔等で、其他猶津山、忍(をし)、庄内等の子弟があつた。此中既に一たび本篇に出でたものは塩田、小野、岡西の三人である。塩田良三は蘭門の楊庵が子、今の真(しん)さんである。小野道悦は蘭門の道秀富穀が子、岡西養玄は蘭門の玄亭徳瑛が子である。榛軒門人録に岡西玄庵があるが、是は玄亭の子、養玄の兄で、後癲癇のために業を廃した人である。柏門の養玄は後の岡氏寛斎である。
 松田氏の云ふには、柏軒に従遊した諸藩の子弟中、特に柏軒に学ぶことを藩主に命ぜられたものと、自ら択んで柏軒を師としたものとがあつた。松田氏は其母が福山の士太田兵三郎の姉であつたので、名望ある柏軒に見(まみ)えて贄(にへ)を執るに至つたのださうである。
 松田氏は現存せる柏門の一人で、わたくしは柏軒の事蹟を叙するに、多く此人の語る所に拠らうとおもふ。それゆゑわたくしは此にその未だ柏門に入らざる前の経歴を略記する。
 松田道夫の父は美濃国恵那郡岩村の城主松平(大給(おぎふ))能登守乗薀(のりもり)の医官で、江戸定府になつてゐた。道夫に姉があつて、父は此女(むすめ)を医に妻(めあは)し、家業を継がしめようとしてゐた。それゆゑ道夫は儒たらむことを志して、同藩の佐藤一斎に師事し、旁(かたは)ら林述斎の講筵に列した。既にして一斎は幕府に召され、高足若山勿堂(ふつだう)が藩文学の後を襲(つ)いだ。勿堂は阿波の農家の子で学を好み、一斎の門下にあつては顔淵の目(もく)があつた。勿堂は一斎が「勿視勿聴勿言勿動」に取つて命じたのである。此より後一斎は唯月に一たび松平邸に来つて経を講ずるのみであつた。道夫は既に学庸を一斎に聴いてゐたので、論孟はこれを勿堂に聴いた。当時道夫は父と共に本所三目の松平家中屋敷に住み、勿堂は鍛冶橋内の上屋敷にゐたので、道夫は本所より神田へ通つて学んだ。道夫は又同時に横網町の朝川善庵、薬研堀の萩原緑野(りよくや)、引舟通の大橋訥庵(とつあん)にも従遊した。此の如くにして十七歳に至つた時、父は道夫に家業を継ぐことを命じたのである。道夫の母の弟太田兵三郎は小此木伴七、鵜川庄三と共に江戸の阿部邸にあつて勘定奉行を勤めてゐた。

     その二百九十二

 此年安政乙卯に、頼氏では山陽の未亡人里恵(りゑ)が歿した。年五十九である。後藤松陰の墓表に、里恵が修して梨影(りえい)に作つてある。初めわたくしは松陰が文を撰ぶに当つて、文字を雅馴(がじゆん)ならしめむとして改めたものかと疑つた。後山陽の書牘を見るに、梨影の二字は山陽が早く用ゐてゐた。
 此年乙卯に榛門の柴田常庵の同族、三十間堀の洛南柴田元春が歿した。わたくしは今仁杉英(にすぎえい)さんの教を受けて、稍幕医柴田氏の事蹟を詳にすることを得たから、此に其概略を補叙しようとおもふ。
 江戸の唖科(あくわ)柴田氏は麹町の柴田を以て宗家とする。曩祖(なうそ)、名は直教(ちよくけう)と云つた。直教の子が直儀(ちよくぎ)、直儀の子が賢(けん)、賢の二子が元泰(げんたい)元徳(げんとく)である。
 元泰、名は直為(ちよくゐ)、字(あざな)は子温(しをん)、東皐(とうかう)と号した。曾祖父直教が早く寛永貞享間に名を成し、直為に至つて幕府に仕へた。林述斎の墓誌に、「遂以天明四年、賜謁大廷、尋而執技出入城中者数年、至享和元年、擢入西城医院、叙法眼位」と云つてある。述斎の家は此人の病家であつた。元泰直為は文化六年十一月二十四日七十二歳で歿した。
 元泰直為の後を襲いだものが元岱直賢(げんたいちよくけん)である。字(あざな)は英卿(えいけい)又可久(かきう)、竹渓と号した。鞠翁(きくをう)は其致仕後の称である。林復斎が其官歴を叙してゐる。「文化五年九月襲家秩。為西□侍医。別賜二百苞。十二月叙法眼。会文恭大君有榴房之福。群公子更不予。輒召君調。則多奏効。是以恩眷殊渥。天保十年十一月告老。奉職凡三十二年。仍賜二百苞為養老資。致仕之後。特旨時朝内廷。異数也。(中略。)弘化二年十月十四日即世。距生安永六年九月廿一日。享寿六十有九。」多子の将軍文恭公は徳川家斉である。鞠翁は致仕後には画を作つたことが墓誌に見えてゐる。復斎の家は元岱の病家であつた。
 元岱直賢の後を襲いだものが直養(ちよくやう)である。直賢に素(もと)直道(ちよくだう)、直温(ちよくをん)の二子があつて、其次の第三子が直養である。長直道は早世し、仲直温は「蔭仕西□侍医、叙法眼、又先歿」と云つてある。直養の嗣は、仁杉氏の言(こと)に拠るに、又元泰と称したらしい。以上が麹町の柴田系である。
 元泰直為の弟元徳に孫芸庵(うんあん)があつた。是を木挽町の柴田とする。芸庵の妹が清川玄道に適(ゆ)いた。
 芸庵の後を襲いだものが榛門の常庵である。常庵に養子長川(ちやうせん)があつたが、不幸にして早世したので、芸庵の第二子、常庵の弟陽庵が長川の後を承けた。維新の後忠平と改称して骨董店を開いたのは此陽庵である。忠平の子は鉛太(えんた)である。以上が木挽町の柴田系である。
 元岱直賢の弟に元春正雄(げんしゆんまさを)があつて分家した。正雄、字(あざな)は君偉(くんゐ)、号は洛南である。大槻磐渓の墓誌にかう云つてある。「寛政十年四月十五日生于江戸銀座街。幼而学於井四明翁。文政二年卜居於卅間濠。天保十四年六月擢為医員。賜俸三十口。七月進侍医。并官禄四百苞。十二月陞法眼。歴仕二朝十三年。安政二年十一月九日終於家。享年五十八。(節録。)」磐渓は此人と同じく井門(せいもん)より出でた。元春は嘗て傷寒論排簡を著し、又詩を賦し、墨竹を作つた。
 元春正雄の後を襲いだものが元美正美(げんびせいび)である。正美、字は子済(しせい)、後元春の称を襲いだ。正美の養嗣子元春は、実は正美の弟道順の子である。以上が卅間堀の柴田系である。
 此年棠軒二十二、妻柏二十一、女長二つ、全安の女梅六つ、柏軒並妻俊四十六、妾春三十一、男鉄三郎七つ、女洲十五、国十二、安四つ、琴一つであつた。蘭軒の女長は四十二、榛軒の未亡人志保は五十六になつた。琴は慶応二年九月二日に夭折した。

     その二百九十三

 安政三年は蘭軒歿後第二十七年である。二月二日に蘭軒の女長が四十三歳で歿した。蘭軒の女は天津(てつ)、智貌(ちばう)、長(ちやう)、順(じゆん)、万知(まち)の五人で、長は第三女であつた。長の夫は棠軒の親類書に「御先手井手内蔵組与力井戸応助」と云つてある。長の一子勘一郎は同じ親類書に「御先手福田甲斐守組仮御抱入」と云つてある。長の二女は同書に「陸軍奉行並組別手組出役井戸源三郎支配関根鉄助妻」と云ひ、又「娘一人父応助手前罷在候」と云つてある。
 長は谷中正運寺に葬られた。先霊名録に「究竟室妙等大姉、葬于谷中正運寺」と云つてある。按ずるに正運寺は井戸氏の菩提所であつたのだらう。
 柏軒が阿部侯の医官となつたのは此年であるらしい。歴世略伝に「安政丙辰阿部公侍医」と云つてある。伊勢守正弘三十八歳の時である。しかし任命を徴すべき文書等は一も存してゐない。
 只良子刀自所蔵の文書中に柏軒が阿部家に於ける「初番入(はつばんいり)」の記及当直日割があつた。わたくしはこれを抄して置いたが、今其冊子を人に借した。初番入の記には年次もなく干支もなかつたことを記憶する。しかし少くも月日は知ることを得られようとおもふ。
 伊沢氏よりは既に棠軒が入つて阿部家の医官となつてゐる。然るに今又柏軒を徴(め)すに至つたのは、正弘が治療の老手を得むと欲したものか。
 柏軒の妻俊の遺文を検するに、此年五月十八日に富岡(とみがをか)永代寺に詣でた記がある。永代寺には成田山不動尊の開帳があつた。武江年表に拠るに開帳は三月二十日より五月二十日に至る間であつたらしい。「同(三月)廿日より六十日の間、下総国成田山不動尊、深川永代寺に於て開帳」と云つてある。丙辰は三月小、四月大、五月小であつた。俊の詣でたのは閉帳二日前であつた。記中に棠軒の妻柏の妊娠の事が見えてゐて、俊等が開帳の初より参詣を志してゐながら、次第に遅れた事が言つてある。
 八月九日に棠軒の二女良(よし)が生れた。現存してゐる良子刀自である。棠軒公私略に「八月九日朝、女子出生、名良」と云つてある。
 此八月は大風雨のあつた月である。公私略に「同月(八月)廿五日、東都大風雨、且暴潮、損処甚多」と云つてある。武江年表に云く。「八月廿三日微雨、廿四日廿五日続て微雨、廿五日暮て次第に降しきり、南風烈しく、戌の下刻より殊に甚しく、近来稀なる大風雨にて、喬木を折り家屋塀墻を損ふ。又海嘯により逆浪漲りて大小の船を覆し或は岸に打上、石垣を損じ、洪波陸へ溢漲して家屋を傷ふ。」半蔵門渡櫓(わたりやぐら)、築地西本願寺本堂、浅草蔵前閻魔堂、本所霊山寺(りやうせんじ)本堂が壊(くづ)れ、永代橋、大川橋が損じた。
 蘭軒医談の始て刻せられたのは此月である。森枳園の序にかう云つてある。「余以天保間。遊于相陽。(中略。)偶探書笈。得幼時侍蘭軒先生所筆記医談若干条。遂録成冊子。未遑校字。抛在架中。近日有頻請伝写者。因訂訛芟複。活字刷印以貽之。併示同人云。安政丙辰仲秋。書於江戸城北駒米里華佗巷之温知薬室。福山森立之。」署名の傍(かたはら)に「立之」「竹窓主人」の二印がある。枳園は一に竹窓とも号したと見える。駒米里(くべいり)は駒込、華佗巷(くわだこう)は片町であらう。時に枳園五十歳であつた。蘭軒医談一巻は「伊沢氏酌源堂図書記」の印ある刊本と、「森氏開万冊府之記」の印ある稿本と、並に皆富士川氏が蔵してゐる。

     その二百九十四

 わたくしは安政丙辰に蘭軒医談の校刻せられたことを記した。此書は所謂随筆の体を成してゐて、所載の物類の範囲は頗る博大である。わたくしは読過の際に一事の目を惹くに会した。それは楸(しう)は何の木なるかと云ふ問題である。
 楸は詩人慣用の字である。「松楸」の語の如きは、彼「松栢」の語と同じく、諸家の集に累見してゐる。然るにわたくしは楸の何の木なるかを審(つまびらか)にしない。
 蘭軒医談に楸字の異説がある。しかしそれがわたくしの目を惹いたには自ら来由がある。
 数年前にわたくしは亀田鵬斎(ぼうさい)の書幅を獲た。鵬斎は韓昌黎の詩を書してゐる。「幾歳生成為大樹。一朝纏繞困長藤。誰人与脱青蘿□。看吐高花万万層。」わたくしはこれを壁上に掲ぐること数日間であつた。此詩はわたくしの未知の詩であつた。大樹の何の木なるかも亦わたくしの未だ知らざる所であつた。
 しかし此詩はわたくしに奇なる感を作(おこ)さしめた。それは大樹は唐朝にして長藤は宦官だと謂(おも)つたのである。平生わたくしは詩を読んで強ひて寓意を尋窮することを好まない。それゆゑ三百篇の註を始として、杜詩の註等に至つても、註家の言(こと)に附会の痕あるに逢ふ毎に、わたくしは数(しば/″\)巻を抛つて読むことを廃めた。独り韓の此詩はわたくしをして唐代宦官の禍を思はしめて已まなかつた。
 わたくしは終に此詩を諳記した。しかし未だ謂ふ所の何の木なるを知らなかつた。一日(あるひ)わたくしは、ふとこれを知らむことを欲して、二三の類書を閲(けみ)した。そして五車韻瑞(しやゐんずゐ)中に於て此詩を見た。憾むらくは引く所は題に及ばぬので、わたくしは遂に大樹の何の木なるを知ることが出来なかつた。
 わたくしは人に昌黎集を借りて閲した。巻九(けんのく)に「楸樹」の詩三首があつて、鵬斎の書する所は其一であつた。わたくしは進んで楸の何の木なるかを討(たづ)ねた。
 此問題は頗(すこぶる)困難である。説文に拠れば楸は梓(し)である。爾雅を検すれば、※(たう)[#「稻」の「禾」に代えて「木」、8巻-184-下-2]、※(ゆ)[#「木+臾」、8巻-184-下-2]、※(くわい)[#「木+懷のつくり」、8巻-184-下-2]、槐(くわい)、榎(か)、楸(しう)、椅(い)、梓(し)等が皆相類したものらしく、此数者は専門家でなくては辨識し難い。
 今蘭軒医談を閲するに、「楸はあかめがしはなり」と云つてある。そして辞書には古のあづさが即今のあかめがしはだと云つてゐる。わたくしは此に至つて稍答解の端緒を得たるが如き思をなした。それは「楸、古言あづさ、今言あかめがしは」となるからである。
 しかし自然の植物が果して此の如くであらうか。又若し此の如くならば、梓は何の木であらうか。わたくしは植物学の書に就いて捜索した。一、楸はカタルパ、ブンゲイである。二、あづさはカタルパ、ケンプフエリ、きささげである。(以上紫□科。)三、あかめがしははマルロツス、ヤポニクスである。(大戟科。)是に於て切角の発明が四花八裂をなしてしまつた。そして梓の何の木なるかは容易に検出せられなかつた。畢竟自然学上の問題は机上に於て解決せらるべきものではない。
 是に於てわたくしは去つて牧野富太郎さんを敲いた。

     その二百九十五

 わたくしは蘭軒医談楸字の説より発足してラビリントスの裏(うち)に入り、身を脱することを得ざるに至り、救を牧野氏に求めた。幸に牧野氏はわたくしを教ふる労を慳(をし)まなかつた。
「一、楸は本草家が尋常きささげとしてゐる。カタルパ属の木である。博物館内にある。」わたくしは賢所(けんしよ)参集所の東南にも一株あつたかと記憶する。
「二、あかめがしはは普通に梓としてある。上野公園入口の左側土堤の前、人力車の集る処に列植してある。マルロツス属の木である。」
「三、あづさは今名(きんめい)よぐそみねばり又みづめ、学名ベツラ、ウルミフオリアで、樺木属(くわぼくぞく)の木である。西は九州より東北地方までも広く散布せる深山の落葉木で、皮を傷くれば一種の臭気がある。是が昔弓を作つた材で、今も秩父ではあづさと称してゐる。漢名は無い。」
 問題は茲に渙釈(くわんしやく)したらしい。わたくしは牧野氏の書牘(しよどく)を抄するに当つて、植学名の末の人名を省略した。原文は横文で一々人名が附してあつたのである。
 わたくしは事の次(ついで)に言つて置く。昔の漢医方時代には詩や離騒(りさう)の動植を研究した書が多く出でた。我万葉集の動植の考証の如きも亦同じである。然るに西学が東漸して文化の大に開けた今の世に、絶て此種の書の出づるを見ぬのは憾むべきである。仄に聞けば今の博物学の諸大家は所謂漢名和名の詮議は無用だと云つてゐるさうである。漢名和名の詮議が博物学に貢献する所の少いことは勿論であらう。しかし詩を読み、離騒を読み、万葉集を読むものは、その詠ずる所の何の草、何の木、何の禽(とり)、何の獣であつたかを思はずにはゐられない。今より究め知ることの出来る限は究め知りたいものである。漢名和名の詮議が無用だとする説は、これを推し拡めて行くと、古典は無用だとする説に帰着するであらう。今の博物学の諸大家の説に慊(あきたら)ざる所以である。
 わたくしは右の詩、離騒、万葉等の物名を考究するに先(さきだ)つて、広く動植金石の和漢名を網羅した辞書を編纂することの必要を思ふ。其体裁は略(ほゞ)松村氏の植物名彙、小藤(ことう)氏等の鉱物字彙の如くにして、これに索引の完全なるものを附すべきであらう。物名はその学名あるものはこれを取ること、植物名彙の例の如きを便とする。否(しからざ)るものは英独名を取ること鉱物字彙の如くすべしや否や、此には商量の余地がある。索引は二書皆羅馬字の国語を以てしてあるが、彼は純(もつぱ)ら今言(きんげん)の和名に従ひ、此は所謂漢語が過半を占めてゐる。是は通用語の然らしむる所である。わたくしは此よりして外、漢字の索引を以て闕くべからざるものとする。

     その二百九十六

 此年丙辰に狩谷氏では三平懐之(ぺいくわいし)が歿した。七月二十日に五十三歳で歿したのである。継嗣は三右衛門矩之(くし)である。矩之は本斎藤氏で、父を権右衛門と云つた。其質店三河屋は当時谷中善光寺坂下にあつたが、今猶本郷一丁目に存続してゐる。権右衛門に三子があつた。長は源之助、仲は三右衛門矩之、季は家を嗣いだ権右衛門である。
 矩之の兄源之助は、清元延寿太夫である。延寿太夫は初代が文政八年中村座よりの帰途(かへりみち)に、乗物町和国橋で人に殺された岡本吉五郎、二代が吉五郎の子巳三次郎(みさじらう)、後に所謂名人太兵衛、三代が安政四年に地震に遭つて死んだ町田繁次郎、四代が矩之の兄源之助である。「舌切心中」の為損じをしたので名高く、明治三十七年に至るまで生存し、七十二歳の寿を享けた。今の延寿太夫は五代目である。丙辰には源之助二十四歳、矩之十四歳であつた。
 岡西氏では七月に玄亭の父栄玄が歿し、十一月に玄亭が歿した。継嗣は十八歳の養玄であつた。後に伊沢氏の初の女婿(ぢよせい)全安と柏(かえ)との間に生れた女(むすめ)梅を娶(めと)るのは此養玄である。
 此年棠軒二十三、妻柏二十二、女長三つ、良(よし)一つ、全安の女梅七つ、柏軒並妻俊四十七、妾春三十二、男鉄三郎八つ、女洲十六、国十三、安五つ、琴二つ、榛軒未亡人志保五十七であつた。
 安政四年は蘭軒歿後第二十八年である。此年伊沢氏の主家に代替があつた。
 阿部伊勢守正弘は三四月の交(かう)病に罹り、五月以後には時々(じゞ)登城せぬ日があり、閏(じゆん)五月九日より竜口(たつのくち)用邸に引き籠り、六月十七日午下刻に瞑した。享年三十九歳である。正弘は盛年にして老中の首席に居り、独り外交の難局に当り、後年勝安芳をして、「開国首唱の功も亦此人に帰せざるを得ず」と云はしめた。攘夷論の猶盛であつた当時、毀誉の区々(まち/\)であつたのは怪むに足らない。
 正弘の病は終始柏軒が単独にこれが治療に任じた。正弘は柏軒に信頼して疑はず、柏軒も亦身命を賭して其責(せめ)を竭(つく)したのである。
 越前国福井の城主松平越前守慶永(よしなが)は匙医半井(なからゐ)仲庵をして正弘の病を問はしめ、蘭医方を用ゐしめようとした。福井藩用人中根靱負(ゆきえ)の記にかう云つてある。「蘭家の御薬勧めまゐらすべきよし(中略)伊勢殿へ勧め給ひしかど、とやかくといひのがれ給ひて、遂にうけひき給はざりけり。後に聞けば、近年蘭法の医流大に開け来にける折、此侯までも信用し給ひなば、天下一般に蘭家にもなりなん勢なれば、さては又其弊害あらむことを深く遠く慮(おもんぱか)り給ひて、蘭家の長処は心得給ひにけれ共、余はよしあしにはよらず、天下のために蘭家の薬は服し難しとのたまひけるとなん。」
 当時政治が鎖国開国の岐(ちまた)に臨んでゐた如くに、医方も亦漢方洋方の岐に臨んでゐた。正弘は彼に於て概ね開国論に左袒し、伊沢美作守政義(みまさかのかみまさよし)の洋行の議をさへ容れた。それは幕政の局に当つて財況其他の実情を知悉し、夷の攘(はら)ふべからず、戦の交ふべからざることを知つてゐたからである。しかし此に於ては漢方より洋方に遷ることを肯(がへん)ぜなかつた。それは洋方を取らざるべからざる境界に身を居くに及ばなかつたからである。正弘は固より保守の人であつた。勢に駆らるるにあらでは、故(ふる)きを棄てて新しきに就かなかつたのである。
 しかしわたくしの見る所を以てすれば、正弘の病は洋医方の能く治する所ではなかつたらしい。正弘の病は癌であつたらしい。上(かみ)に引いた中根の記に「痞※(ひかく)[#「やまいだれ+鬲」、8巻-188-下-2]の症」と云つてあるのが其証の一である。又病を発してより未だ幾(いくばく)ならぬに、全身痩削(そうさく)して相貌が変じたと伝へられてゐるのが其証の二である。

     その二百九十七

 わたくしは安政丁巳の歳老中阿部伊勢守正弘捐館(えんくわん)の事を記して、其病を療したものが終始柏軒一人であつたと云つた。柏軒門人にして現存してゐる松田道夫さんは当時の事を語つてかう云つた。
「柏軒先生は豪邁な人であつた。しかし良徳公(正弘)に仕へては謹慎であつた。其頃わたくしに云ふには、公方様にはまだ近づいたことがないから知らぬが、老中若年寄の人達の中には、己のこはいと思つた人は無い、こはいのは内の殿様ばかりだ、前に出ると自然と体が小くなるやうな気がすると云ふことであつた。」
「その良徳公が大患に罹られて、先生が一人で療治したのだから、先生の苦心は一通ではなかつた。しかも先生が一人で療治したと云ふのは、今謂ふ主治医であつたと云ふ意味ではない。実際匙を執るものが先生一人であつたのである。」
「公が病のために引き籠られてからは、将軍家を始、列侯諸役人の見舞が引きも切らぬので、毎日容態書を作つて置いて見せなくてはならなかつた。先生はそれをわたくしに命じた。わたくしは毎日一尋(ひろ)に余る容態書を作つた。」
「容態は次第に険悪に赴いた。かう云ふ時、医者を取り換へて見てはどうかと云ふ議の起るのは、上下共同じ事である。公の場合にも亦此議が起つた。水戸老公(斉昭)越前侯(慶永)がその主なるものであつた。水戸老公は攘夷家であつたから、蘭医を薦めようとはせられなかつた。しかし越前侯は蘭医に療治させようとしてあらゆる手段を竭された。」
「しかし良徳公は嘗て一たび蘭方を用ゐぬと云ふ法令を布(し)いて、終世其意見を変ぜずにしまはれた人である。縦(よ)しや蘭方に長の取るべきがあつても、世を挙げて漢方に背き蘭方に向はしむるは危険だと思惟し、自ら範を天下に示さうとせられたのである。」
「公は上(かみ)に居つて此の如くに思惟せられた。そして柏軒先生は下(しも)に居つて公の意を体し、自己の態度を確定して動かなかつた。先生はかう云つた。我医方は漢医方から出たものではあるが、和漢の風土性情の相異なるがために、今は日本の医方になつてゐるものである。老中が病んで日本医方がこれを治することが出来ずに、万一蘭医方の力を藉ることがあつたなら、それは日本医方を辱むるものである。日本医方を辱むるは国威を墜す所以である。公の病は仮令何人をして治せしめようとも、治すべきものではない。蘭方医と雖も同じである。更に思ふに蘭方に若しこれを治する薬があつても、公はこれを服せずして死なれた方が好い。公の一身は重しと雖も、国威には代へられない。わたくしは公と心を同(あは)せて蘭方医をして公の病牀に近づかしめぬやうにしようとおもふ。公にして諱(い)むべからざるあつて、わたくしが責(せめ)を問はれる日には、わたくしは割腹して謝する積である。天地神明も照覧あれ、わたくしの心事は公明正大であると、先生は云つた。」

     その二百九十八

 松田氏は語を続いだ。
「病中の主君良徳公(阿部正弘)とこれを療する柏軒先生とは、此の如く心を同じうして蘭方医の近づくを防いだ。しかし此主従が防ぎおほせたには、阿部家の用人藤田与一兵衛の応対折衝も与(あづ)かつて力があつた。藤田は心の利いた人で、能く公の意を体して列侯諸有司の慫慂(すゝめ)を拒んだ。」
「大抵新に医者を薦めようとするものは、細に病因病候を質(たゞ)して、従前療治してゐる医者の言(こと)に疑を挾(さしはさ)み、病者若くは其周囲のものに同一の疑を起さしめようとする。それゆゑに先生は特に意を容態書に留め、記載に遺漏なからしめむことを期した。病因に至つては初より別にこれを一紙に書して人に示した。其大要はかうであつた。米使渡来以還(このかた)政務の多端なることは古(いにしへ)より無き所である。其上乙卯の地震があり、丙辰の洪水があつた。此の如く内憂外患並び臻(いた)つた日に、公は局に当つて思を労した。公の病は此鬱懐の致す所である。此病因書の体裁は叙事と云はむよりは議論と云ふべきもので、多く素問が引いてあつた。わたくし(松田道夫)は此書の草本を蔵してゐたので、頃日(このごろ)捜索して見たが、未だ発見しない。」
「既にして公の病は革(すみやか)になつた。一日(あるひ)先生は高弟一同を集めて諭す所があつた。当時既に独立して家を成してゐた清川安策の如きも、此日には特に召喚せられた。」
「先生はかう云つた。此度の主君の大患は初より救治の見込が無い。然るに拙者は独りこれが治療に任じ、絶て人に諮(はか)らない。是は若し一人に諮るときは、二人三人が踵(つ)いで来り、蘭方医も亦与(あづか)り聞かむと欲するに至らむこと必然であつたからである。今や主君の病は革になつた。問責の拙者が身上に及ぶこと数日を出でぬであらう。拙者は日本医方を辱めざらむがため、国威を墜さざらむがために敢て此に出た。それゆゑに心中毫も疚(やま)しき所が無い。しかし諸子の見る所は奈何(いかゞ)であるか。諸子はかくても猶籍を拙者の門下に置くことを厭はないかと云つた。」
「わたくし共(松田等)は同音に、先生のお詞(ことば)は御尤と存ずる、先生を棄てて去らむことは思ひも寄らないと答へた。」
「先生はこれを聞いて、喜(よろこび)色に形(あらは)れて云つた。諸子の頼もしい詞を承つて安堵した。諸子は縦(たと)ひ奈何(いか)なる事に遭遇するとも、従容としてこれに処し、妄(みだり)に言動すること無く、天下をして柏軒門下の面目を知らしむる様に心掛けるが好い。且今日諸子に告ぐる所は決して婦女子をして知らしめざる様にして貰ひたいと云つた。」
「わたくし共は粛然として先生に拝辞した。実に此日の会合は悲壮言語に絶してゐて、今に迄(いた)るまで忘れることが出来ない。」

     その二百九十九

 阿部正弘は丁巳の歳に病んで治を柏軒に託し、死に至るまで蘭方医をして診せしめなかつた。柏軒も亦正弘の意を体して蘭方医の来り近づくを防いだ。柏軒は蘭方医を延(ひ)くを以て、日本医方を辱むるものとなし、国威を墜すものとなしたのである。
 柏軒の蘭方を排したのは家学を奉じたのである。しかし正弘が既に講武所に於て洋式操兵の術を伝習せしめ、又人を海外に派遣して視察せしむることを議しながら、独り西洋の医方を排したのは何故であらうか。
 わたくしは正弘の蘭方を排したのは、榛軒に聴いたのではなからうかと以為(おも)ふ。徳(めぐむ)さんの蔵する所の榛軒の上書(じやうしよ)がある。是は献芹(けんきん)と題した一小冊子で、年月日を記せぬが、文中に嘉永辛亥に書いた証拠がある。「既に一昨年御医師中え被仰出候御書付之中風土之違候と申御文面尤緊要の御格言と奉存候」の語が即是である。所謂「一昨年」は禁令の出た己酉の歳で、「風土の違」は令中「風土も違候事に付、御医師中は蘭方相用候儀御制禁仰出され候」云々(しか/″\)の句である。上書は此の如く禁令の出た後に作られてはゐるが、榛軒の進言は恐くは此上書に始まつたのではなからう。或は榛軒は前に進言する所があつて、己酉の禁令は此に縁(よ)つて発せられたかも知れぬのである。
 若し正弘が榛軒に聴いたとすると、榛軒の説は禁令の前後に差異があるべきではないから、禁令後の上書に就いて正弘の前に聞いた所の奈何(いかん)を窺ふことが出来る筈である。
 わたくしは此に榛軒の蘭方を排する論を一顧しようとおもふ。人は或は昔日の漢方医の固陋の言は聞くに足らずとなすであらう。しかし漢医方の廃れ、洋医方の行はるるに至つたのは、一の文化の争で、其経過には必ずしも一顧の価がないことはなからう。
 榛軒は伊勢安斎と桂川桂嶼(けいしよ)とに依傍(いばう)して立言した。安斎は其随筆中に云つた。蘭医は五十年後に大に用ゐらるるであらう。それは快速と新奇とを好む人情に投ずるからであると云つた。桂嶼は嘗て榛軒に告げて云つた。西洋の学者及日本往時の洋学者は精細で、日本今時の洋学者は粗漏である。彼は真に西洋の書を読み、此は僅に飜訳書を読むが故である。真の蘭学者は和漢の学力を以て蘭書に臨まなくてはならぬと云つた。榛軒は蘭方の快速と新奇とに惑されむことを惧れ、又飜訳書を読んで自ら足れりとする粗漏なる学者に誤られむことを憂へた。
「川路聖謨之生涯」に正弘、小栗忠順(たゞゆき)、川路聖謨(かはぢとしあき)等の説として、洋医は経験乏しく、且西洋に於る此学の真訣(しんけつ)未だ伝はらざるが故に洋医方は信じ難しと云つてあるのは、榛軒が引く所の桂嶼の説と全く同じである。
 しかし榛軒は啻(たゞ)に一知半解の洋医方を排したのみではなく、又洋医方そのものをも排した。

     その三百

 わたくしは阿部正弘が蘭医方を排したのは榛軒に聴いたものらしいと謂つて、榛軒の上書を引いた。榛軒は先づ桂川桂嶼と所見を同じうして、晩出蘭学者の飜訳書に由つて彼邦医方の一隅を窺ひ、膚浅(ふせん)粗漏を免れざるを刺(そし)つた。しかし榛軒の言(こと)は此に止まらない。榛軒は蘭医方そのものをも排してゐる。
 榛軒は西洋諸国を以て「天度地気の中正を得ざる国」となし、随つて彼の「人情も中正を得」ざるものとなした。それゆゑ其医方を「中正を得たる皇国」に施すことを欲せなかつた。今言(きんげん)を以て言へば、天度地気(てんどちき)はクリマである。風土である。人情は民性である。医薬の風土民性に従つて相異なるべきは、実に榛軒の言(こと)の如くである。しかしそれは微細なるアンヂカシヨンの差である。適応の差である。憾むらくは榛軒は此がために彼の医学の全体を排せむとした。
 正弘の発した禁令に、「風土も違候事に付(中略)蘭方相用候儀御制禁仰出され候」と云つてあるのは、榛軒の此説と符合する。
 榛軒は進んで蘭医方の三弊事をあげてゐる。一は解剖、二は薬方の酷烈、三は種痘である。
 榛軒は内景を知ることを要せずとは云はなかつた。蘭方医は内景を知ることを過重すると謂(おも)つた。「原来人身と申者(中略)陰陽二気の神機と申者にて生活仕候。」故に「神機も無き死人の解体」は過重すべきではないと云ふのである。神機説はヰタリスムである。ヰタリスムは独り素問に有るのみではなく、西洋古代の医学にも亦有つた。自然科学の発展はヰタリスムを打破したのである。
 榛軒は解剖することを非としたのではなく、寧(むしろ)屡(しば/\)解剖することを非とした。「一度解体仕候而内景の理を究め候上、実物実地を得候而、書に述、図に伝候得者、其上にては度々解体にも及申間敷」と云つた。是は内景が一剖観の窮め尽すべきでないことを思はなかつたのである。又外科の屍(しかばね)に就いて錬習すべきをも思はなかつたのである。
 しかし榛軒の解剖を悪(にく)む情には尊敬すべきものがある。「夫刑は罪の大小に従て夫々に処せらるるなり。既に其刑に処せらるれば、屍は無罪同然なり。夫故非人に被命、屍を暴露せぬ様にせさせたまふならはしなり。其屍体を再割解して□粉の如くなせば、是刑を重ぬる道理にて、仁人君子の為ざる所なり。其の為に忍びざることを(なし、)魚鳥を屠候同様之心得にて、嬉々談笑、公然と人天を憚らざる所行(あるが故に、)其不仁の悪習自然と平日の所行にも推移り染著す」云々。屠者には忍人が多い。解剖家外科医の此弊に陥らざることを得るのは、別に修養する所があつて、始て能く然るのである。要するに医の解剖するは已むことを得ざるに出づる。榛軒の説の如きは、藹然(あいぜん)たる仁人の言(こと)である。決して目するに固陋を以てすべきではない。
 榛軒の蘭医薬方の酷烈を非難し、又種痘を非難したことは、下(しも)に抄する如くである。

     その三百一

 榛軒は蘭医方の三弊事を挙げた。其一は解剖で、榛軒が解剖重んずるに足らずとなし、屡(しば/\)解剖することを要せずとなしたのは過つてゐる。しかしその解剖を悪(にく)む情には尊敬すべき所がある。
 其二は蘭医方の酷烈を非難するのであつた。榛軒は蘭方医「天に逆ふる猛烈酷毒之薬を用」ゐると云つた。其意「天命は実に人工の得て奪ふべからざる理」にして、「越人能く死人を生すにあらず、此れ自ら生くべき者、越人能これを起たしむ」、独り蘭方医は敢て天に逆(さか)はむとすと云ふにあつた。然らばその天と云ひ、天命と云ふは、何を以て知るか。「脈理を以て予め死を知り、天命の及ばざるを知」ると云ふのであつた。
 しかし洋医方の診断学も亦心臓機能を等間視してはゐない。洋薬の漢薬に比して強烈なのは、彼は製煉物を用ゐ、此は天産物を用ゐる差にあつて、強烈なれば其量を微にする。榛軒の非難は洋医方を知らざるに坐するものであつた。
 其三は種痘を非難するのであつた。榛軒は痘瘡(とうさう)を以て先天の「胎毒」が天行の「時気」に感触して発するものとなした。胎毒とは性欲の結果である。胎毒は外発すべきものである。しかしその外発は時を得なくてはならない。若し「時をまたず、人工にて無理に発動」せしむるときは、毒は「旧に依て蟄伏」する。種痘は「一時苟且」の術に過ぎぬと云ふのであつた。
 榛軒痘瘡の説は、池田錦橋の「天行之※[#「さんずい+診のつくり」、8巻-195-下-14]気、与蘊蔵之遺毒、相触激而発」と云ふに近似してゐる。そしてその胎毒遺毒を視ることは重く、時気※気(てんき)[#「さんずい+診のつくり」、8巻-195-下-16]を視ることは軽かつた。痘瘡は主として外(ほか)より入るものでなく、主として内より発するものとして視られた。それゆゑに種痘の天然痘より微なるを見て、余毒の遺残せむことを惧(おそ)れた。

 此の如き見解は固より近時闡明せられた染疫(せんえき)免疫の事実と相容れない。しかし榛軒は種痘を悪むべしとなすよりは、寧種痘の新奇を畏(おそ)るべしとなしたのである。そして上(かみ)に引いた伊勢安斎の所見と同じく、西洋人の此新奇を以て衒鬻(げんいく)し、邦人を欺瞞せむことを慮(おもんぱか)つたのである。
 榛軒は云つた。「人間界上下賢愚一同に、子孫を愛惜せざるはなく、痘疹を憂懼せざるはなし。
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