伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

 今按ずるに、安石の生年文政七年より推せば、志保は文政六年の頃綿貫が許にゐて、七年に安石を生み、中二年を隔てて、十年に榛軒に嫁したのであらう。安石入門の年は、其齢(よはひ)が十二であつたと云ふより考ふるに、天保六年、即柏(かえ)の生れた年であつたらしい。
 わたくしは曾能子刀自の安石に関して語る所を聞いた。其事は猥瑣(わいさ)にして言ふに足らぬが、幕末の風俗を察する一端ともなるべきが故に、姑(しばら)く下(しも)に録存する。榛※(しんこ)[#「木+苦」、8巻-151-下-16]翦(き)るなきの誚(そしり)は甘んじ受くる所である。

     その二百七十七

 榛軒の妻志保の連子たり、榛軒の門人たる飯田安石の逸事にして、曾能子刀自の記憶する所のものはかうである。
 森枳園は毎年友人及弟子を率(ゐ)て江戸の近郊へ採薬に往つた。大抵其方向は王子附近で、王子の茶を買つて帰り、又帰途に白山の砂場で蕎麦を喫するを例とした。渋江保さんなども同行したことがある。
 某年に飯田安石が此夥(くわ)に加はつた。安石は朝急いで塾を出る時、偶(たま/\)脇差が見えなかつた。
 其頃伊沢の家には屡茶番の催があつた。狩谷懐之(くわいし)の茶番に用ゐた木刀は、□※(きうしつ)[#「革+室」、8巻-152-上-12]金環、実に装飾の美を極めたもので、懐之はこれを伊沢氏にあづけて置いた。安石は倉皇これを佩びて馳せ去つた。
 此夕採薬の一行中に加はつた伊沢の塾生は皆還つたに、独り安石が帰らなかつた。榛軒は木刀の事を聞いて大いに痛心した。当時の制度は、木刀を佩びて途に死するものは、骸(かばね)を非人に交付することになつてゐたからである。
 榛軒は人を四方に派して捜索せしめた。そして終に板橋駅の妓楼に於て安石を獲た。
 坂上玄丈(さかのうへげんぢやう)も亦榛門の一人で、門人録中に載せてある。此人は弘化甲辰に渋江抽斎と共に躋寿館講師に任ぜられ又これと共に将軍家慶に謁した。武鑑には目見医師の下(もと)に其名が見えてゐて、扶持高住所等は未刻の儘になつてゐる。
 榛軒の門人の事は此に終る。
 次にわたくしは榛軒の資性に関して二三の追記を做さうとおもふ。榛軒は廉潔であつた。そして毎にかう云つた。「己は柏(かえ)のために金を遺して遣ることは出来ない。縦(よ)し出来るにしても、それは己の望む所では無い。金を貽(のこ)すのは兎角殃(わざはひ)を貽すと同じ事になる。その代に己は子孫のために陰徳を積んで置く」と云つた。朋友の窮を拯(すく)ひ、貧人の病を療したのは此意より出でたのである。
 或日榛軒は混外(こんげ)を金輪寺に訪うた帰途、道灌山に登つて月を観た。僕吉蔵と云ふものが随つてゐた。榛軒は吉蔵を顧みて云つた。「好い月ぢやないか。お前はどうおもふ。」吉蔵は答へて云つた。「へえ。さやうでございますね。ですが、檀那、此月で包か何かが道に落ちてゐるのが見附かつて、それを拾つて見ると、金の百両もはいつてゐたら、猶結構でございませう。」榛軒は聴いて不興気に黙つてゐた。さて翌日吉蔵に暇(いとま)を出した。家人が驚いて故を問うた時、榛軒は云つた。「月を観る間も利慾の念を忘れてゐられぬ男は、己の家には居かれない。」
 吉蔵のこれを聞いた時の驚は更に甚だしかつた。是より先吉蔵は榛軒の愛する所の青磁の大花瓶を破(わ)つたことがある。其時は吉蔵が暇の出る覚悟をしてゐた。しかし榛軒は殆ど知らざるものの如くであつた。今忽ち暇の出たのは吉蔵のためには不可思議であつたのである。
 榛軒は生涯著述することを欲せなかつた。是は父蘭軒の遺風を襲(つ)いだもので、弟柏軒も亦同じであつた。しかし蘭軒は猶詩文を嗜(たし)み、意を筆札に留めた。榛軒に至つては、偶(たま/\)詩を作つても稿を留めず、往々旧作を忘れて自ら踏襲した。書は榛柏の昆弟(こんてい)皆拙であつた。榛軒は少時少しく法帖を臨したが、幾(いくばく)ならぬに廃した。柏軒は未だ曾て臨書したことがなかつた。要するに二人は書を読んで中に養ふ所があつても、これを技に施して自ら足れりとし、敢て立言して後に貽さうとはしなかつたのである。

     その二百七十八

 わたくしは榛軒の資性を語つて、既に其寡欲と多く文事に意を用ゐざることとを挙げた。或は思ふに之(この)二者は並に皆求むる所少きに帰するもので、後者は声誉を求めざるの致す所であつたかも知れない。
 わたくしは尚曾能子刀自に数事を聞いた。それは榛軒の一種特殊なる心理状態より出でたものらしい。わたくしは微(すこ)しくこれに名づくる所以に惑ふ。俚言の無頓著は此事を指すに宜しきが如くである。しかし此語には稍指す所の事の形式を取つて、其内容を遺す憾がある。已むことなくば坦率(たんそつ)とでも云はうか。
 一日(あるひ)榛軒は阿部侯正寧(まさやす)に侍してゐた。正寧は卒然昵近の少年を顧みて云つた。「良安は大ぶ髪が伸びてゐるやうだ。あれを剃つて遣れ」と云つた。少年は□(はんざふ)、盥などを持ち出して、君前に於て剃刀を榛軒の頭(かうべ)に加へた。そして剃るに時を費すこと頗る多かつた。既にして剃り畢(をは)つたので、榛軒は退出した。
 家に帰ると、家人が榛軒の頭を見て、皆失笑した。頭上の剃痕(ていこん)は断続してゐて、残す所の毛が文様をなし、三条の線(すぢ)と蝙蝠(かはほり)の形とが明に認められたからである。
 家人は鏡を取り出して榛軒にわたした。榛軒は自ら照して又大いに笑つた。剃者の刀(たう)を行(や)るのが常に異なつてゐても、榛軒は毫も心附かずにゐたのである。是が一つである。
 榛軒は庚寅の年に侯に扈随して福山に往つた時、午後屡轎中に仮寐(かび)した。そして涎が流れて襟を※(うるほ)[#「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、8巻-154-下-11]した。榛軒は自ら白布を截つて涎衣(よだれかけ)を製し、轎(かご)に上(のぼ)る毎にこれを腮下(さいか)に懸けた。一日(あるひ)侯は急に榛軒を召した。榛軒は涎衣(ぜんい)を脱することを忘れて侯の前に進み出た。上下(しやうか)皆笑つた。榛軒纔(わづか)に悟つて徐(しづか)に涎衣を解いて懐にし、恬(てん)たる面目があつた。是が二つである。
 榛軒は晩餐後市中を漫歩するを例とした。其時往々骨董店の前に歩を駐め、器玩(きぐわん)の意に投ずるものあれば購うて還つた。
 榛軒は此の如き物を買ふに、その用に中(あた)ると否とを問はず、又物の大小を問はなかつた。さて或は携へ帰り、或は搬し至らしめた後、放置して顧みない。時に出して門人等に与へることがある。
 門人等は拝謝して受ける。しかし受けた後に用途に窮することが数(しば/″\)である。
 一日(あるひ)門人某は受けた物の処置に窮した。わたくしはその何の器(うつは)であつたかを知らぬが、定て甚だ大きかつただらうと推する。又某の名を知らぬが、定て率直な人であつただらうと推する。某は榛軒に問うたさうである。「此間先生に戴いた物は、どうも内ではどうにもいたしやうがございません。先生には済みませんが、あれは棄ててしまつても宜しうございませうか。」
 榛軒は恬として答へた。「さうか。いらなけりやあ棄てるが好い。」是が三つである。わたくしの以て坦率となす所のものは概(おほむね)此類である。

     その二百七十九

 わたくしは榛軒の逸事を書き続ぐ。そして今此に榛軒の植物を愛した事を語らうとおもふ。
 榛軒が蘭軒遺愛の草木を保護するに意を用ゐたことは言ふまでもない。彼吉野桜を始として、梅があり、木犀があり、芭蕉があつた。某年の春阿部侯正寧(まさやす)は使を遣はして吉野桜の一枝を乞うた。榛軒は命を奉ぜなかつた。そして使者と共に主に謁し、叩頭(こうとう)して罪を謝した。
 榛軒の蓮(れん)を愛したことは、遺言を読んで知るべきである。丸山の地は池を穿ち水を貯ふるに宜しくないので、榛軒は大瓦盆(だいぐわぼん)数十に蓮を藝(う)ゑて愛翫した。平生用ゐた硯が蓮葉形のものであつたのも、又酒器に蓮を画かせて用ゐたのもこれがためである。
 榛軒は書斎と客間とに插花(いけばな)を絶やさなかつた。本郷の花総(はなそう)と云ふものが隔日に截花(きりばな)を持つて来たのである。
 榛軒は父の本草趣味を伝へ、森枳園等に勧奨せられて、多く薬草を栽培した。就中(なかんづく)人参は阿部侯の命を奉じて栽ゑたのである。
 榛軒も亦枳園等と同じく、子弟を率(ゐ)て近郊へ採薬に出た。曾能子刀自は当時の一笑話を記憶してゐる。或日採薬の途上に甘酒売が道を同じうして行くに会うた。随行の少年輩が一人飲み二人飲み、遂に先を争つて群り飲むに至つた。行き行きて岐路に逢ふこと数(しば/″\)であつたが、甘酒売は別れ去らない。甘酒の釜は此夥(むれ)の行厨(かうちゆう)の如くになつた。
 榛軒は酒を売る漢子(をとこ)に問うた。「貴様は一体何処へ往くのだ。」
「へえ。つい此先の方へ参ります。」
 榛軒は屡問うたが、漢子の答ふる所は旧に依つた。「へえ。つい此先の方へ参ります。」
 同行数里にして甘酒売の別れ去つたのは、板橋駅附近であつた。そして其釜は既に空虚であつた。
 次にわたくしは少しく榛軒の飲饌(いんぜん)の事を記さうとおもふ。採薬途上の甘酒は、恰も好し、トランシシヨンの用をなした。
 榛軒は病家を訪ふ時、家を出づるに臨んで妻志保をして薄茶一碗を点せしめた。
 榛軒は客を饗する時、毎(つね)に上原全八郎を呼んで調理せしめた。上原は阿部家の料理人である。膾(くわい)を作るにも箸を以てした人である。渋江保さんの語るを聞けば、抽斎は客を饗する時、毎に料理店百川(せん)の安と云ふ男を雇つたさうである。彼は貴族的で、此は平民的であつた。
 飲饌の事は未だ尽きない。わたくしは曾能子刀自に豚料理の話を聞き、又保さんに蒲焼の話を聞いた。それは下(しも)に略記するが如くである。

     その二百八十

 わたくしは榛軒軼事(いつじ)中飲饌の事を記して其半に至つた。剰す所は豚料理の話があり、又鰻飯の話がある。
 豚は当時食ふ人が少かつた。忌むものが多く、嗜(たし)むものが少いので、供給の乏しかつたことは想ひ遣られる。豚は珍羞(ちんしう)であつた。
 一日(あるひ)薩摩屋敷の訳官能勢甚十郎と云ふものが榛軒に豚を贈つた。榛軒は家にゐなかつた。妻志保は豚を忌む多数者の一人であつたので、直ちに飯田安石にこれを棄つることを命じた。安石は豚肉(とんにく)を持つて出た。
 榛軒は家に帰つてこれを聞き、珍羞を失つたことを惜んだ。榛軒は豚を嗜む少数者の一人であつたからである。
 志保は己の処置の太早計(たいさうけい)であつたのを悔いて、安石に何処へ棄てたかと問うた。
 安石は反問した。「若し先生が召し上がるのであつたのではございませんか。」
「さうなのですよ。それで何処へお棄なすつたかとお尋するのです。」
「さうですか。それなら御安心下さいまし。あなたが棄てろと仰やいましたから、あの榎の下の五味溜(みため)に棄てたには相違ございません。しかしあの綺麗な肉を五味の中に棄てるのが惜しかつたので、□冬(ふき)の葉を沢山取つて下に鋪いて、其上に肉をそつと置きました。そして肉の上にも□冬の葉を沢山載せて置きました。」
 榛軒は傍(かたはら)より聞いて大いに喜んだ。そして安石に取つて来ることを命じた。既に夜に入つてゐたので、安石は提燈を点けて往つて取つて来た。肉は毫も汚れてゐなかつた。
 榛軒は妻の忌むことを知つてゐたので、庭前に涼炉(こんろ)を焚いて肉を烹(に)た。そして塾生と共に飽くまで啖(くら)つた。
 榛軒は鰻の蒲焼を嗜んだ。渋江保さんは母山内氏五百(いほ)の語るを聞いた。榛軒は午餐若しくは晩餐のために抽斎の家に立ち寄ることがあつた。さう云ふ時には未だ五百の姿を見ざるに、早く大声(たいせい)に呼ぶを例とした。「又御厄介になります。鰻はあつらへて置きました。もう一軒往つて来ます。どうぞお粥は米から願ひます。」五百に炊かせた粥に蒲焼を添へて食ふのが、榛軒の適とする所であつた。酒は或は飲み或は飲まなかつた。
 此の如き時、榛軒は抽斎の読書を碍(さまた)ぐることを欲せなかつたので、五百をして傍(かたはら)にあらしめ、抽斎をして書斎に退かしめた。
 わたくしは此条を終るに臨んで、烟草の事を附記する。
 榛軒は喫烟した。そして常に真鍮の烟管十本許(きよ)を蔵してゐて、其一を携へて病家を訪うた。人が其故を問ふと、榛軒はかう云つた。「銀烟管などは失ふまいと思ふと気骨が折れる。真鍮にはそれが無い。縦(よ)し何処かに置き遺(わす)れて取りに往くにしても、無造作に問ふことが出来る。問はれたものも亦、無い時無いと云ふに気兼をしなくて済む。」
 榛軒の逸事は此に終る。

     その二百八十一

 わたくしは此に榛軒の記を終へて、借りてゐた所の榛軒詩存を富士川游さんに返さうとおもふ。此書は清川安策の自筆本で、序を併せて半紙二十五頁(けつ)より成つてゐる。収むる所の詩は五古一首、七古一首、五律十五首、七律十二首、七絶百十八首、計百四十七首である。
 序は編録者安策の撰む所で、巻初の一頁を填(うづ)めてゐる。わたくしは此書の刊行せらるべきシヤンスは、※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、8巻-159-上-3]詩集に比して更に小なるを知るが故に、今序の全文を抄出する。
「先師榛軒先生。刀圭之暇。毎遇心愉而意会。輒発之声詩。其所吟詠頗多。而未曾留稿也。孫在塾日。或得之侍坐之傾聴。或得之壁上之漫題。或得之扇頭紙尾。或得之同門諸子之伝誦。随得随録。無復次第。積年之久。得百有余首。今茲安政戊午十一月十六日。実当先生七回忌辰矣。追憶往事。宛然在目。殆不勝懐旧之歎也。乃浄写為一冊。私名曰榛軒詩存。雖未足為全豹。亦足以窺先生風騒之一斑也已。嗚呼先生不欲存。而孫存之。縦令得罪于地下。亦所不敢辞也。其巻末存余紙者。以備続得云。安政五年歳次戊午仲冬之月。清川孫誌。」
 文中に「孫」と称し、末に「清川孫誌」と署してある。清川安策、名は孫(そん)であつた。
「先生不欲存。而孫存之。」門人の師の書に序する文には、多くこれに類する語を見る。しかし其語は他書にあつては矯飾に過ぎぬが、此榛軒詩存にあつては真実である。
 所謂「巻末存余紙」の余紙(よし)は九頁(けつ)あつて、別に清川の序の後に空白六頁がある。恐くは諸友の題言を求めむと欲したものであらう。紙は医心方を写さむがために特製した烏糸欄紙(うしらんし)である。
「随得随録。無復次第。」是も亦往々他書の序跋中に見ることのある語である。しかし書を著すものは故(ことさら)に審美学者の所謂無秩序中の秩序を求め、参差(さんし)錯落の趣を成して置きながら、這般(しやはん)の語を以て人を欺くのである。惟(たゞ)清川の此八字は実録である。巻首の詩は嘉永四年辛亥元旦の作、巻尾の詩は天保元年庚寅三月晦(くわい)の作で、二者の中間にも亦絶て安排の痕を見ない。その年月を知るべきものは、百四十七首中六十二首あるのみである。
 此書には詩引に二十一人の名が見えてゐて、其過半は氏名を明にすることが出来る。多くは蘭門若くは榛門の子弟である。其他儒に渡辺樵山(せうざん)があり、歌人に木村定良(さだよし)がある。わたくしは上(かみ)に樵山の事を記した後、其父の誰なると其生誕の何年なるとを知ることを得た。慊堂(かうだう)日歴文政六年の下(もと)に渡辺□園(かうゑん)の二子を挙げて、「魯助三歳、百助一歳」と云つてある。樵山魯助は文政四年生で、榛軒の歿した壬子に三十二歳になつてゐたことは確である。父□園は慊堂の親友である。
 此書には二箇所に「森氏」の篆印がある。枳園の家の印記である。又第一頁(けつ)の欄外に「万延元庚申冬月一校了約之□遅」と書してある。「□遅」は養真約之(やうしんやくし)の字(あざな)か。わたくしは嘗て森氏旧蔵の揚子方言に、「嘉永壬子無射初四夜聿脩塾燈下書、句読一過了、源約之辛□志」と書したのを見たことがある。「□遅」又「辛□」にも作つたものか。猶考ふべきである。按ずるに約之が方言を校したのは偶(たま/\)此年壬子で、約之は十八歳であつた。
 わたくしは以上の記を留めて置いて、此書を富士川氏に返すこととする。
 此年嘉永壬子には未亡人志保五十三、棠軒良安十九、妻柏十八、柏軒並妻俊四十三、妾春二十八、鉄三郎四つ、女洲十二、国九つ、安一つ、蘭軒の遺女長三十九、全安の女梅三つであつた。

     その二百八十二

 嘉永六年は蘭軒歿後第二十四年である。正月十三日に棠軒良安は家督相続をした。「跡式無相違大御目付触流被仰附」と、棠軒公私略に云つてある。
 二月二十二日棠軒は亡父の遺した阿部家の紋服を著ることを稟請した。公私略に載する「口上之覚」はかうである。「亡父一安拝領仕候御紋附類私著用仕度奉願上候以上。」稟請は二十七日に裁可せられた。
 三月二十六日に里開(さとびらき)をした。公私略に「里開、松川町実家へ行」と云つてある。田中淳昌(じゆんしやう)の未亡人杉田氏八百の許へ往つたのである。
 四月六日に棠軒の生母杉田氏が歿した。公私略にかう云つてある。「六日午後実母公得卒中風、昏睡不醒、吐濁唾煤色。夕刻遂に御卒去被遊候。」八日に喪が発せられた。「表発は八日差出す。」
 五月に棠軒は阿部正弘の侍医となつた。是は歴世略伝に拠るのである。想ふに棠軒当時の身分は表医師で、此時奥詰などの命を拝したものか。公私略には記載を闕いてゐる。
 当時阿部伊勢守正弘は老中に列せられてより既に十一年を経てゐた。勝手掛として幕府の財政を行ふこと十年、海岸防禦事務取扱、後の所謂海防掛として外交の衝に当ること九年にして、齢(よはひ)は三十五歳であつた。
 前年壬子の暮に正弘は封一万石を加へられ、此月備後及備中に於て込高(こみだか)共一万千七百六十六石一斗二合七勺九秒を給せられた。公私略に「五月三日御加増御祝金七両頂戴被仰附」と云ふものが即是である。
 米国の少将ペリの率た艦隊は前年壬子十月十三日(一八五二年十一月二十四日)に抜錨し、前月十九日(一八五三年五月二十六日)に琉球那覇港に著し、此月二十六日(七月二日)に那覇港を発して浦賀に向つた。その浦賀に入つたのは翌月三日(七月八日)である。棠軒が侍医の命を拝したのは、米艦隊の浦賀に入る前月である。
 此月五月十四日に棠軒は妻(さい)柏(かえ)、柏軒の妻俊(しゆん)、狩谷懐之(くわいし)、小野富穀(ふこく)等と向島に遊んだらしい。わたくしは良子刀自の蔵する狩谷氏俊の遺稿に拠つて言ふのである。遺稿は月日が書してあつて、年が書してない。しかし柏の妊娠の事が言つてあるので、此年なることが知られる。胎内の子は次年甲寅の初に生るべき棠軒の女(ぢよ)長(ちやう)である。狩谷懐之を「せうとの君」と書してある。次月六月十日には江戸湾に米艦の砲声が轟き、江戸市中は早鐘を打つとも知らずに、一行は向島に遊んだのである。
 九月十三日に棠軒は山田昌栄の門人となつた。公私略に「山田昌栄先生へ入門」と云つてある。昌栄は蘭門の椿庭業広(ちんていなりひろ)で、家塾は本郷壱岐坂上にあつた。
 棠軒は蘭学首唱者の家に育つた杉田氏八百の生む所でありながら、当時新に師を択ぶに洋医に就かずして椿庭に従つた。しかしその伊沢氏の養嗣子たるを思へば、是も亦怪むに足らない。叔父(しゆくふ)柏軒の洋医方に対する態度は下(しも)に見えてゐる。此条と参照すべきである。
 且棠軒の主正弘は四年前に洋医方に対する態度を明にしてゐる。「近来蘭医増加致し、世上之を信用する者多く之ある由相聞え候。右は風土も違候事に付、御医師中は蘭方相用候儀御制禁仰出され候間、其意を得、堅く相守るべき事。」是は己酉五月に令したものである。「横浜開港五十年史」はこれを引いて正弘を陋(ろう)としてゐるが、渡辺修次郎さんは「川路聖謨之生涯」を引いてこれを反駁した。「聖謨は西洋の科学術藝を歎賞したれども、此頃日本に行はれし西洋家の医師に未だ十分の信用を置かず、是れ洋式医師の未だ経験に乏しき輩多きのみならず、西洋に於ける斯学の真訣未だ全く伝らざるに由来せしなりとぞ、阿部勢州又其後小栗上州なども亦斯る説ありしと聞けり」の文である。小栗上州(をぐりじやうしう)は上野介忠順である。
 此年棠軒二十、妻柏十九、全安の女梅四つ、柏軒並妻俊四十四、妾春二十九、子鉄三郎五つ、女洲十三、国十、安二つであつた。

     その二百八十三

 安政元年は蘭軒歿後第二十五年である。前年癸丑十一月十三日に徳川家定に将軍宣下があつて、阿部正弘は将軍宣下用掛を勤めた。外交はペリの米艦隊の去つた後、プウチヤチイヌの露艦隊が癸丑七月十八日を以て長崎に入り、次でペリの艦隊が此年甲寅正月十日を以て再び浦賀沖に来た。正弘等の浦賀に派した応接掛の中には、蘭軒等の総本家の当主、此稿の首(はじめ)に載せた伊沢美作守政義(みまさかのかみまさよし)が加はつてゐた。一行の首席は復斎林□(ふくさいりんゐ)で、随員には柳浪松崎純倹(りうらうまつざきじゆんけん)があつた。此折衝の結果は日米間に締結せられた下田条約で、尋で日英、日露の条約も亦此甲寅の年に成つたのである。
 棠軒の家には正月に長女長(ちやう)が生れた。公私略に「甲寅正月廿四日朝卯中刻女子出産、名長」と云つてある。後に津山碧山に嫁した長子刀自である。
 其他には棠軒の分家にも、柏軒の又分家にも特に記すべき事が無い。しかし塩田真さんの語る所に拠れば、当時の此二家の平和なる生活を窺ふに足るものがある。
 塩田氏はかう云つた。「いつの事であつたか、小野の家に子供の祝事があつて、茶番の催をしたことがある。狂言名題は其頃河原崎座で興行してゐたものに依つた。河原崎座は天地人に象(かたど)つて、天は天一坊、地は地雷太郎、人は人麿お六であつた。天一坊は当時の河竹新七が小団次のために書卸したものであつた。こちらは其天地だけを取つて、人麿お六の代に忠臣蔵三段目の道行を出すことにした。此催の発起人は柏軒で、狂言為組(しくみ)は矢島とわたくしとの受持であつた。平生から矢島は河竹の差図を受け、わたくしは桜田治助の差図を受けてゐたので、此時矢島が河竹へ正本(しやうほん)を借りに往つた。然るに河竹は、いかに心安い間でも、興行中の正本を貸すことは出来ぬと云つてことわつた。是は尤の事なので、わたくし共は諦めた。河原崎座の狂言は二人共度々見たが、なか/\白(せりふ)を諳(そらん)じ尽すわけには行かぬので、それから毎日二人で立見に往つた。さて仕組に掛かつて、天一坊はお三婆殺しと横田川巡礼殺しとを出し、地雷也は妙高山と地獄谷とを出し、それにお軽勘平の道行を出して、此道行に落(おち)を附けることにした。本はどうやら出来上つて、それから役割をすることになつた。稽古の場所は始から極まつてゐて、丸山の伊沢である。これは榛軒在世の時からの慣例で、榛軒は役を引き受けたことはないが、柏軒は其頃からわたくし共の夥(なかま)にはいつた。」
 塩田氏の談話は未だ尽きぬが、わたくしは此に註を插(さしはさ)みたい。此茶番が此年甲寅に催されたと云ふことは、天一坊書卸の年と云ふより推すことが出来る。作者河竹新七は後の黙阿弥で、所謂天地人に象つた作は「吾嬬下(あづまくだり)五十三次」である。此年新七は、三月に中村座から転じて来て、忍(しのぶ)の総太を演じた四代目市川小団次に接近した。所謂「都鳥廓白浪(みやこどりながれのしらなみ)」である。次が八月狂言の「吾嬬下五十三次」で、天一坊は小団次、地雷也は嵐璃寛(りくわん)、お六は坂東しうかであつた。
 小野氏は渋江氏の親戚である。当時道瑛令図(だうえいれいと)が猶健(すこやか)であつた。抽斎の祖父本皓(ほんかう)の実子で、甲寅には七十二歳になつてゐた。令図の嫡子道秀富穀(だうしうふこく)は四十八歳、富穀の子道悦は十九歳であつた。「子供の祝事」とは恐くは道悦の子女の七五三などであつただらう。
 茶番の為組をした矢島は抽斎の次男優善(やすよし)で、三年前辛亥に矢島玄碩の末期養子となつたのである。甲寅には二十歳、当時良三(りやうさん)と称してゐた談話者塩田氏より長ずること二歳であつた。

     その二百八十四

 わたくしは塩田氏の語る所の茶番の事を此年甲寅の下(もと)に繋(か)けた。茶番は小野令図一家のために催されたもので、恐くは令図の曾孫の七五三などの祝であつただらう。狂言の種は河竹新七作の吾嬬下五十三次より取つて、これに忠臣蔵を接続し、矢島優善と塩田氏とが筆を把つた。稽古の場所は棠軒の家であつた。塩田氏は下(しも)の如くに語を続いだ。
「是は素人狂言の常で、実は本職の役者の間にも動(やゝ)もすれば免れぬ事だが、都合好く運んで来た茶番の準備が役割の段に至つて頓挫した。新七の筋立から取つたものは、前に云つた通、天一坊と地雷也とであるが、其天一坊に殺されるお三婆は誰に持つて行つても引き受けぬ役であつた。初め一同は此役を上原元永(げんえい)に持つて行つた。それは上原が婆面(ばゞづら)をしてゐるからと云ふわけであつた。しかし元永は聴かない。次に上原全八郎に持つて行つた。是も聴かない。次に成川貞安(なりかはていあん)と云ふ男に持つて行つた。是は伊沢の当主良安の里と同じ町に住んで、外科で門戸を張つてゐる医者であつた。或年清川玄道の家の発会(ほつくわい)に往つた帰に、提灯の火が簔に移つて火傷(やけど)をして、ひどく醜い顔になつた。此男なら異議はあるまいと云ふので持つて行つたのである。然るに成川は云つた。己は勿論この顔で好い役をしようとは思はない。しかしお三婆だけは御免を蒙る。どうぞ山賊の子分にでもしてくれと云つた。お三婆の役がこんなに一同に嫌はれたのは、婆になるのがつらい上に、絞め殺されなくてはならぬからであつた。此時わたくしは決心してかう云つた。宜しい。そんなに皆が嫌ふなら、お三婆は己が引き受けよう。しかし己は条件を附ける。己は婆になる代に、跡の役は極好い役でなくては勤めないと云つた。わたくしはかう云つて、とう/\婆殺しの次の巡礼殺しの場に出る観音久次(くわんのんきうじ)実は大岡越前守を貰ひ、又忠臣蔵ではお軽を貰つた。さて茶番が原来小野のために催されるのだから、道悦に花を持たせて、天一坊と忠臣蔵の勘平とを割り当てた。上原元永は地雷太郎になつた。柏軒、全八郎などにもそれ/″\端役が附いた。次は振附の問題であつた。それは忠臣蔵三段目に清元の出語(でがたり)を出すから、是非入用なのである。幸(さいはひ)柏軒の病家に藤間しげと云ふ踊の師匠があつたので、それを頼んだ。これで稽古には取り掛かることが出来た。一同毎日丸山の伊沢の家に集つて熱心に稽古をした。そして旁(かたは)ら小野の家に舞台を急造し、小道具、衣裳などを借り出すことに尽力した。小野は工面が好くて、薬研堀(やげんぼり)の家は広かつたので、万事都合が好かつたが、只一つ難儀な事には、座敷の向が花道を向つて右に附けねばならぬやうになつてゐた。是はどうにも改めやうがないので、其儘で我慢することにした。残る所は小道具、衣裳の借出しだけである。」
 塩田氏の談話は未だ尽きない。談は此より小道具、衣裳借出しの手段、茶番当日の出来栄に入る。

     その二百八十五

 柏軒が此年甲寅に首唱して、矢島優善(やすよし)、塩田良三(りやうさん)の二人が計画し、小野令図(れいと)の家の祝のために催す茶番の事は、塩田氏の語る所が猶残つてゐる。それは小道具、衣裳の借出しと当日上場の効果とである。塩田氏はかう云つた。
「茶番は其頃随分度々したので、小道具、衣裳を借り出す経験もあつた。それはわたくし共が矢場辰(やばたつ)と云ふ男を識つてゐて、かう云ふ事は大抵此男に頼んで辨ずるのであつた。矢場辰は両国米沢町の鈴木亭と云ふ寄席の主人である。此寄席は昼場に松林伯円の講釈を出してゐた。わたくし共は昼場の定連であつたので、矢場辰と心安くなつた。矢場辰に一人の娘があつて、其頃年は十六であつた。それが女芝居の座頭をしてゐた。原来両国に小屋掛の芝居が二つあつて、てりばと称へられてゐた。其一つは女芝居で、後に市川を名告つた岩井久米八なども此芝居に出てゐた。矢場辰の娘が座頭をしてゐたのは此芝居である。わたくし共は茶番をする時、大抵矢場辰に頼んで此女芝居から小道具、衣裳などを借り出した。そこで今度の茶番にも此手段を用ゐた。舞台を設けた小野の家は薬研堀だから、借りた品物を夜運ぶには、道の近いのが好い都合であつた。薬研堀の小野の邸は、丁度今七色蕃椒屋(なゝいろたうがらしや)のある地所の真向であつた。借りた品物の中には切落の浅葱幕(あさぎまく)や下座の大大鼓などまで揃つてゐた。しかし中には手製をしなくてはならぬ品もあつた。譬へばお三婆を殺す時に用ゐるまるたなどである。是は細い竹に藁を被(き)せて、其上を紙貼にした。又衣裳にも女芝居から借りた品で間に合はぬものがあつた。譬へばお軽の長襦袢である。忠臣蔵に茶番の落を附けるのだから、お軽にも何か変つた長襦袢を著せたかつた。そこで所々(しよ/\)を問ひ合せて、とう/\緋縮緬の長襦袢の背中に大きな黄色い斑(しみ)の出来たのを手に入れた。さていよ/\当日になつた。最初の天一坊は頗る真面目に出来た。しかし其真面目のために茶番としての面白味が殺(そ)がれた。次にお軽勘平道行の場となつた。是は初より滑稽たつぷりに為組(しく)んだもので、役人替名も良三のおだる、道悦のわん平としてあつた。勿論滑稽は先づ隠して置いて後に顕した。落人も見るかやの歌の辺(あたり)は、真面目な著附で出た二人が真面目な科(しぐさ)をしてゐた。さて、詞(ことば)に色をや残すらむで、二人が抱き合ふと、そこへ山賊が大勢出る。うぬ等は猫間(ねこま)の落人だらう、ふざけた真似をしやがるなと云つて、二人の衣類を剥ぐ。わん平は剥身絞(むきみしぼり)の襦袢と鬱金(うこん)木綿の越中褌とになり、おだるは例の長襦袢一つになる。そしておだるはわざと後向になつて、黄色い斑を見せる。山賊はわん平を剥ぐ時、懐から出た白旗を取り上げ、こりやこれ猫間の白旗云々の白(せりふ)を言ふ。是が次の地雷太郎と弓之助とのだんまりの種になるのである。此場のおだるわん平が剥がれる処は大受であつた。」

     その二百八十六

 塩田氏は此年甲寅に小野令図(れいと)の家に催された茶番の事を語ること前記の如くであつた。茶番が此の如く当時の士人の家に行はれたのは、文明史上の事実である。何れの国何れの世にも、民間藝術はある。茶番と称する擬劇も亦其一である。わたくしはその由つて来る所が知りたい。
 わたくしは此に民間藝術史上より茶番を概説する余地を有せない。しかしわたくしは少くも茶番を小野の家に演じた人々が、いかにして其技を伝へたかと云ふことを問ひたい。
 わたくしは塩田氏に聞いた。当時吉原の幇間に鳥羽屋喜三次(きさんじ)と云ふものがあつて、滑稽踊と茶番とに長じてゐた。喜三次は其技を天野藤兵衛と云ふものに伝へた。天野は身分が幕府の同心で、常に狭斜に往来するものであつた。柏軒は屡々此藤兵衛を其家に招いて、酒間に技を演ぜしめた。「野呂松(のろま)の切破(きりやぶり)」、「山王祭」、「三人生酔(なまゑひ)」、「女湯覗(をんなゆのぞき)」等はその好んで演ずる所であつた。矢島優善(やすよし)、塩田良三(りやうさん)等の茶番は藤兵衛より出でたのださうである。柏軒の家とは中橋の家であらう。柏軒の丸山の家を離れて中橋に住んだ年月日は記載せられてゐぬが、わたくしは既に云つた如く、仮に天保丙申の歳としてゐるのである。
 茶番にも文献がある。その詳(つまびらか)なることはわたくしの知らざる所であるが、或は思ふに茶番の書の如きは、概して多く存してをらぬのではなからうか。わたくしは又塩田氏に聞いた。当時本所に谷川又斎(いうさい)と云ふ医者があつた。又斎の子が亦斎(えきさい)で、家業を嫌ひ、篆刻を学び、後には所謂戯作者の群に投じ、雑書を著して自ら紫軒道人(しけんだうじん)と署した。此紫軒の著す所に「茶番頓智論」二巻があつて刊行せられた。書中には塩田良三の作も収められてゐた。其一は豊臣秀頼が石清水八幡宮に詣でた時、明智光秀の女(ぢよ)がこれを刺さうとすると云ふ筋の作であつたさうである。
 わたくしは小野の家の茶番が、河原崎座の吾嬬下(あづまくだり)五十三次(つぎ)興行と同時であつたことを言つた。然らば茶番の時は即ち八月狂言の時で、八月狂言の時は即ちスタアリングの率ゐた英艦隊の長崎に来舶してゐた時である。人或はその佚楽戯嬉(いつらくきき)の時にあらざるを思つて、茶番の彼人々の間に催されたのを怪むであらう。しかしそれは民衆心理を解せざるものである。上(かみ)に病弱なる将軍家定を戴き、外(ほか)よりは列強の来り薄(せま)るに会しても、府城の下(もと)に遊廓劇場の賑つたことは平日の如く、士庶の家に飲讌等の行はれたことも亦平日の如くであつただらう。近く我国は支那と戦ひ露西亜と戦つたが、其間民衆は戯嬉を忘れなかつた。啻(たゞ)に然るのみならず、出征軍陣営中の演劇は到る処に盛であつた。わたくしは従征途上に暫く広島に駐(とゞ)まつたことがある。其時人々が争つて厳島に遊んだ。「生きて還るかどうか知れないから、厳島でも観て置かう」と云つたのである。わたくしは同行を辞して、「厳島を観て死ぬるも、観ずに死ぬるも、大した違は無いやうだ」と云つて、人々に嗤(わら)はれた。

     その二百八十七

 此年甲寅に森枳園が躋寿館の講師にせられた。枳園は是より先嘉永紀元戊申に阿部侯に召還せられ、其年館の校正方になつてゐた。館にあること七年にして講師の命を拝したのである。
 枳園の妻勝は夫の受けた沙汰書を持つて丸山の伊沢氏を訪ひ、これを榛軒の位牌の前に置いて泣いた。夫の今日あるは亡き榛軒の賜(たまもの)だとおもつたからである。榛軒の歿した時、棠軒は父の遺物として、両掛入薬籠(りやうがけいれやくろう)と雨具一式とを枳園に贈つたさうである。
 此年渋江氏では抽斎の長男恒善(つねよし)が歿した。榛軒の門人録には「渋江道陸」として載せてある。矢島優善(やすよし)の兄である。
 門田朴斎(もんでんぼくさい)の江戸より福山に帰つたのも亦此年である。四月に丸山の阿部邸を発して五月に福山に著いた。
 此年棠軒二十一、妻柏二十、女長一つ、全安の女梅五つ、柏軒並妻俊四十五、妾春三十、鉄三郎六つ、洲十四、国十一、安三つであつた。蘭軒の遺女にして井戸氏に嫁した長は四十一、榛軒の未亡人志保は五十五であつた。
 安政二年は蘭軒歿後第二十六年である。二月十七日に中橋の家に柏軒の第五女琴(こと)が生れた。佐藤氏春の出である。柏軒の女(ぢよ)は洲、国、北、安、琴の順序に生れて、北に至るまでは正室狩谷氏俊の出、安より以下が春の出である。
 十月二日は江戸の大地震の日である。棠軒公私略に「十月二日夜、東都大地震、四面火起」と記してある。「四面火起」とは丸山の阿部邸にあつて記したものである。阿部正弘は竜口(たつのくち)用邸にゐた。屋舎が倒れて正弘の夫人松平氏謐子(しづこ)の侍女七人はこれに死した。正弘夫妻は幸に恙なきことを得て、正弘は直に登城した。当夜第一の登城者であつた。是は正弘が平素紋附の寝衣(しんい)を用ゐてゐたので、重臣某の曾て正弘より賜つた継上下(つぎかみしも)を捧げたのを著て、迅速に支度を整ふることを得たからである。正弘は用邸より丸山邸内の誠之館に遷つた。此誠之館は二年前癸丑の歳に落成した学校である。福山にある同名の藩学は江戸に遅るゝこと一年、甲寅の歳に落成した。
 中橋の柏軒が家では前月より妻俊が病み臥してゐた。二日は講書のために人々の集(つど)ふべき夜であつた。女(むすめ)安の風邪に侵されてゐたのを、早く寝させむために、「森の祖母君」を附けて二階へ遣つた。地震は此時起つたのである。森の祖母君(おほばぎみ)は俊の病を看護しに来てゐた人だと云ふ。森全応恭忠(もりぜんおうきようちゆう)の妻、枳園の母ではなからうか。
 地震の起つた時「丸山の姉君」が傍にゐたと俊は云ふ。按ずるに志保は夫を喪つた後、柏軒の家に寓してゐたと見える。
 俊は「童一人」を率(ゐ)て轎(かご)に乗り、湯島の狩谷懐之(くわいし)方へ避難したさうである。按ずるに柏軒と妾(せふ)春とは中橋に留まり、春は安、琴の二女を保護してゐたであらう。童(わらは)は鉄三郎である。森の祖母君は徒歩して俊の轎の後(しりへ)に従つた。

     その二百八十八

 わたくしは安政乙卯の歳の地震を叙して、当時の柏軒が中橋の家の事に及んだ。此条は柏軒の妻狩谷氏俊の記に拠つたものである。良子刀自所蔵の俊が遺文中首尾略(ほゞ)全(まつた)きものは、此記を除く外、遊記二篇、小説二篇があるのみである。わたくしは今地震の記の全文を此に写すこととする。是は□斎が家女に生ませた才女のかたみである。
「長月の半よりいたう悩みて、生くべうもあらぬ程なりしに、神無月になりては、しばしおこたりざまになりぬ。されど枕擡(もた)ぐることも懶くて、湯なども吸呑(すひのみ)てふ物より臥しながら飲みて、厠に往かむにも、人の肩に掛かりて、一人には背を押さへられつつ、虫などのはふさまして行きぬ。」
「夕(ゆふ)つかた娘の風の心地に、いと寒しと云へば、楼(たかどの)へ往きて衾(ふすま)被(かづ)きて寝よと云ひしかど、一人往かむはさうざうし、誰にまれ共に往きてよと云ふ。森の祖母君(おほばぎみ)此頃わが悩(なやみ)みとらむとて、しばし留まりゐ給ひしが、今宵講釈のあれば、夜も更けなむ、われこそ共に往きて寝めとて、楼に登り給ひぬ。」
「亥(ゐ)過る比(ころ)、天地(あめつち)も砕けぬばかりのおどろ/\しき音して地震(ふる)ふに、枕上(まくらがみ)の燈火(ともしび)倒れやせむと心許なく、臥したるままにやをら手を伸べつつ押さへぬ。されど油皿はとくゆり落されて、押さへたる我手に当り、畳の上に落ち、あたりへ油散りたり。」
「此時女子一人走り来て、心たしかに持ち給へ、まざいらく/\と云ひつつ我上に倒れ臥しぬれば、あな苦し、そこ退きね、疾く/\と云へど、えも起き上らでゐたり。そこへ又一人肥えふとりたる女の走り来て、阿弥陀仏(あみだほとけ)の御名を唱へつつ、又倒れかかりぬれば、いよゝ重りて苦しさ言はむかたなし。されど戸障子(とさうじ)のはづるる音にや、あまりにおそろしき音すれば、物も覚えず。今の間に家も崩れ、有限の人こゝにて死ぬらむかと、目を閉ぢつつ、大慈大悲の観世音菩薩(ぼさち)と声高う唱へぬ。今を限の命なめり、かくて世も尽きぬらむとおもひゐたり。」
「そこへ誰にかあらむ火点(とも)して来ぬるに、あたりを見やれば、おのれは落ちたる行燈(あんどう)の油皿を何のためにか、しかと握りたり。その上に若き女どものいみじう肥えたるが二人まで倒れかゝりてゐたり。さて人ごゝち附きて見れば、家のしりへの方に、紺屋の物干す料なる広く明きたる地のあれば、そこをさして我先にと往くなり。我にも疾く往きね、揺返(ゆりかへ)しと云ふこともあれば危し、疾く/\とそゝのかせど、風いたう吹きて寒げなれば、悩める身の風に当りて悩まさりて死なむも、こゝにて押し潰されむも同じ命なり、動くことも懶ければ、此儘にてあらせてよと打詫ぶ。」
「そがうちに火出来ぬと聞きて、そはいづくのあたりならむと問へば、かしここゝ三十六所(ところ)もあらむと云ふに胸つぶれぬ。とてもかくても命の尽る期なるべしと覚悟してぞゐたりける。」
「家あるじ、病者(ばうざ)の心地や悪しからむ、振出(ふりだ)してふ薬飲ませばやと、常に薬(くすり)合(あは)するかたに往くに、こはいかに棚落ちて箱どもの薬ちり/″\になり、百味箪笥といふものさへ倒れぬれば、常に病者のもとへ持行く薬箱とうでて合するもめづらし。」
「童子(わらべこ)どもも人に負はれて、しりへなる広き方へ往きぬ。火はいよゝ烈しくなりもてゆきて、東も西も一つらに空赤くなりて、火の子のちりぼふさま梨地といふもののやうにぞ見ゆる。いよゝ身動さむともえ思はずなりて、衾(ふすま)かづきて臥しゐたり。傍(かたはら)には森氏の祖母君、丸山の姉君います。家(や)のうちには猶老いたるもの穉(をさな)きものあまたあり。火近うなりて物の焼くる音おそろしきに、大路も人多くなりて所狭(ところせ)く、ようせずば過(あやまち)もありぬべし、疾く逃ぐるこそよかなれと人々云ふ。」
「さらばとてやう/\床の内よりはひ出でて駕籠に乗る。童(わらは)一人共に乗りぬ。先づ門(かど)を出づるに、物の燃ゆる音のおそろしければ、あたりをばよくも見やらず。広小路に出でぬ。ふと駕籠の窓より見出だすに、赤き火黒き烟入り乱れて、物音すさまじければ、心もそらになりて物も覚えでぞ行く。」

     その二百八十九

「大路(おほぢ)のさま静になりぬれば、例の窓より見やるに、こゝは道行く人はなくて、男(をとこ)女(をみな)おのれ/\が家居の前に畳敷きかさね、調度めくもの夜の物など見上ぐるまでに積みあげ、そが中にこぞりゐて、蝋燭など点(とも)したり。そが傍(かたはら)に同じさましたるが火桶に火などおこしつゝ、隣れる人酒の出来(いでき)たるにまゐらずやなど云ふ。今は走りありきて火消さむとはかるものなくて、おのれ/\がゐる所守りてのみあるなるべし。されば街(ちまた)いと静にて、穉(をさな)きもの老いたるものゝ歩むに、心もとなきことはあらじと、少しは心おちゐぬ。」
「暫くして大路にいみじき雨の降るらむやうに、さわ/\と水音立つるは何ならむと、例の窓より見やるに、家ごとに火の事の用にと湛へ置きたる水桶倒れ、水の溢るゝなり。」
「駕籠舁くものの云ふ。日比(ひごろ)悩み給へるに、かく揺りもて行けば、いかに苦しと思召すらむ。強ひてねりもて行かむとおもへど、しづ心なくて、いつしか足疾くなりぬと云ふ。いな、心地は此日比よりもさわやきぬ。心遣なせそ。疾く走り行きて、とみに帰りね。家の焼け失せなむも心もとなし。疾く帰りて調度持出してよとそゝのかし走らす。駕籠舁くもの心えて急ぎ行けば、身はいたう揺らるれども、日比には似ず、胸のいたきことさへに忘れゐたり。」
「又こゝはいかならむとさし覗き見るに、空は皆一つらに赤うなり、右左の小路(こうぢ)はいづこも/\火燃ゆるさま、目のあたりに見えておそろし。かかれば老いたる御方のいかに心もとなく歩み苦しうおぼすらむと見やるに、手拭被りつつ、脛(はぎ)あらはに端折りて、ささやかなるものを負ひつつ来給ふさま苦しげにもあらず、常の道歩み給ふさまなるがいと怜(うれ)し。」
「筋違(すぢかひ)の広き大路には、所狭(ところせ)きまで畳積みかさね、屏風戸障子(とさうじ)などもておのがじゝ囲ひたり。中に衾(ふすま)かづきて臥したるは、わがごとき病者(ばうざ)ならむとおもへば、あはれ湯などあらば飲ませまほしとぞおもふ。こゝはしも火の見ゆることなければ、少しは心落ちゐぬ。」
「湯島なる故(ふる)さとに来て見れば、表なる塗籠(ぬりごめ)はいたう揺り崩され、屋根なりし瓦落ちつもり、壁の土と共に山の姿なせり。されば常に駕籠舁き入るゝ玄関めく方へ往かむこと難く、さりとてこゝにあるべきならねば、先づ案内(あない)をぞこふ。」
「従者(ずさ)出来て、こはよくぞ来ましゝ、此日比悩み給ふと聞きつるに、み心地はいかになど問ひつつ、駕籠の戸引きあけつ。さてをさなきもの危し、誰(た)ぞ抱き取りてよと云ふに、又一人出来て童(わらは)を抱(いだ)き取りぬ。さきなるが我手を取りて云ふ。かしここゝの崩れ損(そこな)はれて、歩み行くこと難き道となりたれば、わびしうぞおぼすらむ。家あるじは疾く庭のあなたなる茶の湯ものする囲に移りてぞおはする。いざこなたへとて、手を取りて扶け起し、わが供なるものに、はきものの用意やあると問ふ。かゝるさわがしき中を逃げまどひ来ぬれば、心づかざりきと云ふ。さらばとてそこら捜しつつ、いたう古りたる、むづかしげなる福草履とかいふめる物捜し得て穿かす。」
「われは辛うして虫などのはふがごと行くに、常は平(たひらか)なる方も、壁崩れて土など高うなりて歩み苦し。しばしありて囲に来ぬ。せうとの君、娘など共にゐたり。かゝるあやしき中を逃れ来たまひしことのめでたさよなど云ふ。されど老たる人々の、待てど/\来給はねば、心おちゐで、などかくは遅き、心もとなきことかなと繰返し/\云へば、さおもひ給はば迎へに人遣らばやとて、人など呼ぶ程に、二人の老人(おいびと)娘と共に恙もあらで到り着きぬれば、怜(うれ)しさ譬へむに物なかりき。」

     その二百九十

「わづかに畳三枚(ひら)ばかり鋪ける、ささやかなる所に、九人押し合ひてゐたり。あかしさへ置きたれば、いよゝ狭(せば)きに、をさなきものねむたしとて、並みゐる正中(たゞなか)に足踏み伸して臥す。その思ふ事なげに心地よげに見ゆるを、人々羨むもをかし。」
「せうとの君、かかる折は酒飲みて心たしかにせでやはと、手うち叩き人呼びて、酒もてこと云ふ。従者(ずさ)の怪しげにさうぞきたるが、大坂漬といふ香の物のなま/\しきを添へて、酒一壺もて来ぬ。せうとの君、これなくてはと飲みて、丸山の姉君にまゐらす。姉君、こよなう怜(うれ)し、さきよりこれ欲しうおもひたるにとて、心地よげに飲み給ひ、常はえまゐらぬまだしき大根(おほね)まゐるもをかし。かれいひを結びたるをももて来ぬれば、童(わらは)らおのが頭(かしら)よりもおほきやかなるを取りて、顔もかくれぬばかりにして食ふ。こもまたをかし。」
「かくてある程に、小石川の火燃えひろごりぬれば、こゝまで焼て来もやせむとて、人々立ちさわぎ罵る。われそを聞くに胸つぶれ、わが住む中橋あたりはいかに、今は灰にやなりぬらむと、人々に問へど、こゝの危ければ、誰も往きて見ず、いかになりしか知らむやうなしと云ふ。心もとなさ言はむかたなし。」
「せめては目の及ばむ程のさま見ばやとて、後手(うしろて)のあかり障子(さうじ)あくれば、吉原下谷本所あたりの火一つらになりて、黒き烟のうちに焔立ちのぼるさま、地獄の絵見る心地す。あはれ、いつの程にか此火は消えなむと心もとなし。立ちつゐつ幾度(いくたび)となく障子あけて見るに、かなた薄くなりもてゆくと見れば、こなた又濃くなりて、さらに消ぬべき気色もなし。」
「後には頭(かしら)もいたく、何となう心地悪しければ、しばし休まむとするに、いと狭(せば)き所に人多くゐれば、足踏みのばさむやうもなし。壁に倚りゐて傍(かたはら)を見れば、森の祖母君(おほばぎみ)宵よりのいたつきにや疲れ給ひけむ、かかる騒がしき中にして、ゐながらに眠りて、物も知らでぞおはする。うらやましの祖母君や。」
 柏軒の妻狩谷氏俊の記は此に終る。わたくしは上(かみ)に「首尾略全きもの」と云つた。しかし此記の如きも、俊は猶書き続がむとして果さなかつたものであらう。前に引いた所の嘉永癸丑に向島に遊んだ記もこれに似て、真の終結に至らずして筆を閣(さしお)いたものである。次年丙辰に富岡(とみがをか)に遊んだ記も亦さうである。これに反して小説二篇は完璧である。其一は貧家の妻が夫の恋を遂げしめむがために金を儲へ、終に夫を吉原大店(おほみせ)のお職に逢はせたと云ふ物語である。是は当時のサンチマンタリスムに影響せられた作に過ぎない。布置に意を用ゐて、夫の死後に未亡人が遺物を持つてお職の許を訪ふさまが写されてゐる。しかし特色には乏しい。其二は某(それ)の大名屋敷の奥女中の部屋の怪異を記したものである。是は自叙体で、習作めいた叙法が用ゐてある。そして全くモラルが無い。反面より言へば、モオパツサンがトルストイに指□せられたやうな疵病(しびやう)がある。是がとかくモラルの石に躓き易い近人の快(こゝろよ)く此作を読過することを得る所以である。

     その二百九十一

 わたくしは上(かみ)に柏軒の妻狩谷氏俊が、安政乙卯の地震の時、中橋の家より湯島なる兄懐之(くわいし)の家へ避難した記を抄し、因(ちなみ)に俊が遺文数種の事を言つた。
 此地震には又既に記した榛軒門人渡辺昌盈(しやうえい)が死んだ。渡辺は陸奥国弘前の城主津軽越中守順承(ゆきつぐ)に仕へて表医師となり、三十人扶持を受けてゐた。此日津軽家隠居附たるを以て柳島の下屋敷に直(ちよく)してゐて遭難したのである。隠居は出羽守信順(のぶゆき)である。渡辺は弘前人の江戸にあつて此地震に死した三人中の一人であつたと云ふ。他の二人は本所三目(みつめ)の上屋敷にゐた井上栄三(えいさん)の母と穉子(をさなご)とであつた。栄三の母は子を抱いて死んでゐた。其他同じ上屋敷の平井東堂の家では婢が一人死んだ。平井の事は前に渋江抽斎伝中に記した。後に大沼枕山の同人集を閲(けみ)するに、東堂の名が同人中に見えてゐる。是は当時知るに及ばなかつたから、今補記して置く。
 柏軒門下に松田道夫さんの来り投じたのは、恐くは此年であらう。松田氏は十七歳の時入門したと云ふからである。柏軒の門人は初め中橋に移り住んだ時、僅に三四人であつた。既にして松田氏の入門した頃は、諸藩の子弟にして来り学ぶものが頗(すこぶる)多かつた。塾生中の主なるものは掛川の宮崎健斎、上田の小島順貞(じゆんてい)、対馬の塩田良三(りやうさん)、弘前の小野道悦、福山の内田養三、斎木文礼、岡西養玄、家守某(いへもりぼう)、備中国松山の柳井柳仙、久留米の平川良衛(りやうゑい)、棚倉の石川良宅、上野国高林の松本文粋、新発田(しばた)の寺崎某、山形の志村玄叔等で、其他猶津山、忍(をし)、庄内等の子弟があつた。此中既に一たび本篇に出でたものは塩田、小野、岡西の三人である。塩田良三は蘭門の楊庵が子、今の真(しん)さんである。小野道悦は蘭門の道秀富穀が子、岡西養玄は蘭門の玄亭徳瑛が子である。榛軒門人録に岡西玄庵があるが、是は玄亭の子、養玄の兄で、後癲癇のために業を廃した人である。柏門の養玄は後の岡氏寛斎である。
 松田氏の云ふには、柏軒に従遊した諸藩の子弟中、特に柏軒に学ぶことを藩主に命ぜられたものと、自ら択んで柏軒を師としたものとがあつた。松田氏は其母が福山の士太田兵三郎の姉であつたので、名望ある柏軒に見(まみ)えて贄(にへ)を執るに至つたのださうである。
 松田氏は現存せる柏門の一人で、わたくしは柏軒の事蹟を叙するに、多く此人の語る所に拠らうとおもふ。それゆゑわたくしは此にその未だ柏門に入らざる前の経歴を略記する。
 松田道夫の父は美濃国恵那郡岩村の城主松平(大給(おぎふ))能登守乗薀(のりもり)の医官で、江戸定府になつてゐた。道夫に姉があつて、父は此女(むすめ)を医に妻(めあは)し、家業を継がしめようとしてゐた。それゆゑ道夫は儒たらむことを志して、同藩の佐藤一斎に師事し、旁(かたは)ら林述斎の講筵に列した。既にして一斎は幕府に召され、高足若山勿堂(ふつだう)が藩文学の後を襲(つ)いだ。勿堂は阿波の農家の子で学を好み、一斎の門下にあつては顔淵の目(もく)があつた。勿堂は一斎が「勿視勿聴勿言勿動」に取つて命じたのである。此より後一斎は唯月に一たび松平邸に来つて経を講ずるのみであつた。道夫は既に学庸を一斎に聴いてゐたので、論孟はこれを勿堂に聴いた。当時道夫は父と共に本所三目の松平家中屋敷に住み、勿堂は鍛冶橋内の上屋敷にゐたので、道夫は本所より神田へ通つて学んだ。道夫は又同時に横網町の朝川善庵、薬研堀の萩原緑野(りよくや)、引舟通の大橋訥庵(とつあん)にも従遊した。此の如くにして十七歳に至つた時、父は道夫に家業を継ぐことを命じたのである。道夫の母の弟太田兵三郎は小此木伴七、鵜川庄三と共に江戸の阿部邸にあつて勘定奉行を勤めてゐた。

     その二百九十二

 此年安政乙卯に、頼氏では山陽の未亡人里恵(りゑ)が歿した。年五十九である。後藤松陰の墓表に、里恵が修して梨影(りえい)に作つてある。初めわたくしは松陰が文を撰ぶに当つて、文字を雅馴(がじゆん)ならしめむとして改めたものかと疑つた。後山陽の書牘を見るに、梨影の二字は山陽が早く用ゐてゐた。
 此年乙卯に榛門の柴田常庵の同族、三十間堀の洛南柴田元春が歿した。わたくしは今仁杉英(にすぎえい)さんの教を受けて、稍幕医柴田氏の事蹟を詳にすることを得たから、此に其概略を補叙しようとおもふ。
 江戸の唖科(あくわ)柴田氏は麹町の柴田を以て宗家とする。曩祖(なうそ)、名は直教(ちよくけう)と云つた。直教の子が直儀(ちよくぎ)、直儀の子が賢(けん)、賢の二子が元泰(げんたい)元徳(げんとく)である。
 元泰、名は直為(ちよくゐ)、字(あざな)は子温(しをん)、東皐(とうかう)と号した。曾祖父直教が早く寛永貞享間に名を成し、直為に至つて幕府に仕へた。林述斎の墓誌に、「遂以天明四年、賜謁大廷、尋而執技出入城中者数年、至享和元年、擢入西城医院、叙法眼位」と云つてある。述斎の家は此人の病家であつた。元泰直為は文化六年十一月二十四日七十二歳で歿した。
 元泰直為の後を襲いだものが元岱直賢(げんたいちよくけん)である。字(あざな)は英卿(えいけい)又可久(かきう)、竹渓と号した。鞠翁(きくをう)は其致仕後の称である。林復斎が其官歴を叙してゐる。「文化五年九月襲家秩。為西□侍医。別賜二百苞。十二月叙法眼。会文恭大君有榴房之福。群公子更不予。輒召君調。則多奏効。是以恩眷殊渥。天保十年十一月告老。奉職凡三十二年。仍賜二百苞為養老資。致仕之後。特旨時朝内廷。異数也。(中略。)弘化二年十月十四日即世。距生安永六年九月廿一日。享寿六十有九。」多子の将軍文恭公は徳川家斉である。鞠翁は致仕後には画を作つたことが墓誌に見えてゐる。復斎の家は元岱の病家であつた。
 元岱直賢の後を襲いだものが直養(ちよくやう)である。直賢に素(もと)直道(ちよくだう)、直温(ちよくをん)の二子があつて、其次の第三子が直養である。長直道は早世し、仲直温は「蔭仕西□侍医、叙法眼、又先歿」と云つてある。直養の嗣は、仁杉氏の言(こと)に拠るに、又元泰と称したらしい。以上が麹町の柴田系である。
 元泰直為の弟元徳に孫芸庵(うんあん)があつた。是を木挽町の柴田とする。芸庵の妹が清川玄道に適(ゆ)いた。
 芸庵の後を襲いだものが榛門の常庵である。常庵に養子長川(ちやうせん)があつたが、不幸にして早世したので、芸庵の第二子、常庵の弟陽庵が長川の後を承けた。維新の後忠平と改称して骨董店を開いたのは此陽庵である。忠平の子は鉛太(えんた)である。以上が木挽町の柴田系である。
 元岱直賢の弟に元春正雄(げんしゆんまさを)があつて分家した。正雄、字(あざな)は君偉(くんゐ)、号は洛南である。大槻磐渓の墓誌にかう云つてある。「寛政十年四月十五日生于江戸銀座街。幼而学於井四明翁。文政二年卜居於卅間濠。天保十四年六月擢為医員。賜俸三十口。七月進侍医。并官禄四百苞。十二月陞法眼。歴仕二朝十三年。安政二年十一月九日終於家。享年五十八。(節録。)」磐渓は此人と同じく井門(せいもん)より出でた。元春は嘗て傷寒論排簡を著し、又詩を賦し、墨竹を作つた。
 元春正雄の後を襲いだものが元美正美(げんびせいび)である。正美、字は子済(しせい)、後元春の称を襲いだ。正美の養嗣子元春は、実は正美の弟道順の子である。以上が卅間堀の柴田系である。
 此年棠軒二十二、妻柏二十一、女長二つ、全安の女梅六つ、柏軒並妻俊四十六、妾春三十一、男鉄三郎七つ、女洲十五、国十二、安四つ、琴一つであつた。蘭軒の女長は四十二、榛軒の未亡人志保は五十六になつた。琴は慶応二年九月二日に夭折した。

     その二百九十三

 安政三年は蘭軒歿後第二十七年である。二月二日に蘭軒の女長が四十三歳で歿した。蘭軒の女は天津(てつ)、智貌(ちばう)、長(ちやう)、順(じゆん)、万知(まち)の五人で、長は第三女であつた。長の夫は棠軒の親類書に「御先手井手内蔵組与力井戸応助」と云つてある。長の一子勘一郎は同じ親類書に「御先手福田甲斐守組仮御抱入」と云つてある。長の二女は同書に「陸軍奉行並組別手組出役井戸源三郎支配関根鉄助妻」と云ひ、又「娘一人父応助手前罷在候」と云つてある。
 長は谷中正運寺に葬られた。先霊名録に「究竟室妙等大姉、葬于谷中正運寺」と云つてある。按ずるに正運寺は井戸氏の菩提所であつたのだらう。
 柏軒が阿部侯の医官となつたのは此年であるらしい。歴世略伝に「安政丙辰阿部公侍医」と云つてある。伊勢守正弘三十八歳の時である。しかし任命を徴すべき文書等は一も存してゐない。
 只良子刀自所蔵の文書中に柏軒が阿部家に於ける「初番入(はつばんいり)」の記及当直日割があつた。わたくしはこれを抄して置いたが、今其冊子を人に借した。初番入の記には年次もなく干支もなかつたことを記憶する。しかし少くも月日は知ることを得られようとおもふ。
 伊沢氏よりは既に棠軒が入つて阿部家の医官となつてゐる。然るに今又柏軒を徴(め)すに至つたのは、正弘が治療の老手を得むと欲したものか。
 柏軒の妻俊の遺文を検するに、此年五月十八日に富岡(とみがをか)永代寺に詣でた記がある。永代寺には成田山不動尊の開帳があつた。武江年表に拠るに開帳は三月二十日より五月二十日に至る間であつたらしい。「同(三月)廿日より六十日の間、下総国成田山不動尊、深川永代寺に於て開帳」と云つてある。丙辰は三月小、四月大、五月小であつた。俊の詣でたのは閉帳二日前であつた。記中に棠軒の妻柏の妊娠の事が見えてゐて、俊等が開帳の初より参詣を志してゐながら、次第に遅れた事が言つてある。
 八月九日に棠軒の二女良(よし)が生れた。現存してゐる良子刀自である。棠軒公私略に「八月九日朝、女子出生、名良」と云つてある。
 此八月は大風雨のあつた月である。公私略に「同月(八月)廿五日、東都大風雨、且暴潮、損処甚多」と云つてある。武江年表に云く。「八月廿三日微雨、廿四日廿五日続て微雨、廿五日暮て次第に降しきり、南風烈しく、戌の下刻より殊に甚しく、近来稀なる大風雨にて、喬木を折り家屋塀墻を損ふ。又海嘯により逆浪漲りて大小の船を覆し或は岸に打上、石垣を損じ、洪波陸へ溢漲して家屋を傷ふ。
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