伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

 歳暮には幕府と阿部家とから金を賜はつた。幕府は躋寿館に書を講ずるがために賞するので、其賜(たまもの)は毎年銀五枚であつた。
 幕府の賞を受けた日には、榛軒は往々書を買つて人に贈つた。曾能子(そのこ)刀自は柏(かえ)と呼ばれた当時姫鏡(ひめかゞみ)、女大学、女孝経等をもらつたことを記してゐる。
 某(それ)の年榛軒は藩主の賞を受けて帰るとき、途に鳥屋の前を過(よぎ)つた。偶(たま/\)鳥屋の男の暹羅鶏(しやも)の頸を捩らうとしてゐるのを見て榛軒はそれを抑止し、受くる所の金を与へ、鶏を抱いて帰つた。黒縮緬の羽織が泥土に塗(まみ)れた。鶏は翌日浅草観音の境内に放つた。
 歳暮には受賞の祝宴と冬至の宴とがあつた。某年の歳暮の宴に、客の未だ到らざる前、榛軒は料理人上原全八郎と共に浴した。浴し畢(をは)つて榛軒は犢鼻褌(とくびこん)を著け、跳躍して病人溜(だまり)の間を過ぎ、書斎に入つた。上原も亦主人に倣つて、褌(こん)を著け、跳躍して溜の間に入つた。然るに榛軒の既に去つて、上原の未だ来らざるに当つて、治を請はむがために訪うた一夫人が盛妝(せいさう)して坐してゐた。上原は驚いて退いた。榛軒は衣を整へて出でて夫人を見て云つた。「只今は執事が失礼をいたしました。平生疎忽な男で。」
 年中行事は此に終る。わたくしはこれに継ぐに神仏の事を以てする。榛軒は神を敬し仏を礼した。詩中にも経を誦すと云つてゐる。又遺言に誦経の事のあつたのも上(かみ)に記した如くである。其居室に関帝、菅公、加藤肥州等を祀つてゐたことは、年中行事に載せた。此敬神の傾向が弟柏軒に至つて愈(いよ/\)著(いちじる)くなつたことは後に言ふこととする。
 榛軒は啻(たゞ)に関帝等の像を居室に安置したのみならず、又庭に小祠を建ててゐた。祠には八幡大菩薩と摩利支天とを祀り、礎下(そか)には冑が埋めてあつた。其名を甲蔵(かふざう)稲荷社と云つたのは、人家の祀る所の神が多くは稲荷であつて、甲冑の二字は古来転倒して用ゐられてゐたからである。祭日には白山神社の神職を招いた。神饌(しんぜん)は酒、餅、赤飯、竹麦魚(はうぼう)、蜜柑、水、塩の七種であつた。素(もと)此祠は阿部家に於て由緒あるものであつたので、祭日には阿部侯の代拝者が来た。
 猶此に附記すべき事がある。それは榛軒の家に白木の唐櫃に注連繩(しめなは)を結ひ廻したものが床の間に飾つてあつたことである。櫃の中には後小松帝の宸翰二種と同帝の供御(ぐご)に用ゐられた鶴亀の文ある土器とが蔵してあつた。宸翰は大字の掛幅(くわいふく)と色紙とであつた。是は素榛軒の祖父信階(のぶしな)の師武田長春院の家に伝へてゐた物であつたが、武田氏は家道漸く衰へて、これを商賈の手に委ねむとした。其時榛軒が金を武田氏に与へて請ひ受け、他日買戻を許すと云ふ条件を附して置いたのである。後榛軒の養子棠軒(たうけん)は家を福山に徙す時、此櫃を柏軒の家に託した。柏軒の嗣磐(いはほ)の世に至つて、世変に遭つて其所在を失つた。
 榛軒が常に追遠の念に厚い嗣子を養はむことを欲してゐたのも、此の如きピエテエの性より出でたものである。幸に養子良安は祖先を敬することを忘れなかつた。

     その二百六十九

 榛軒の軼事(いつじ)中わたくしは次に講学の事を書く。しかし其受業の師は前に載せたから今省く。
 榛軒は毎月一六の両日躋寿館に往いて書を講じた。塾生中午食の辨当を持つて随従したものは、柴田常庵、柴田修徳、高井元養、島村周庵、清川安策、雨宮良通(あめのみやりやうつう)、三好泰令等であつた。皆榛軒門人録に見えてゐる人々である。
 榛軒の家に医書を講ずる会を開いたのは、毎月九の日であつたと云ふ。天保壬辰三月の柏軒の日記に、九日に多紀□庭(たきさいてい)が傷寒論を講ずることを休み、榛軒が上直(じやうちよく)したと云つてある。□庭を丸山に迎へたのであらうか。又此三月には榛軒が十日十五日に外台秘要を講じてゐる。按ずるに講書の日は必ずしも年々同一ではなかつたかも知れない。
 榛軒の家には、月六斎に塾生のために開く講筵があつた。渡辺魯輔(ろすけ)を請じて経書を講ぜしめ、井口栄達を請じて本草を講ぜしめたのである。渡辺氏、名は魯、一の名は正風(せいふう)、樵山(せうざん)と号した。松崎慊堂(かうだう)の門人である。当時麻布六本木に住んでゐた。明治六年に五十三歳を以て歿したと云ふより推せば、榛軒の歿した嘉永壬子には三十二歳であつた。井口は扇橋(あふぎばし)岡部藩の医官であつたと云ふ。わたくしは此人の事を詳にせぬが、日本博物学年表嘉永二年の条に下(しも)の記事がある。「泉州岸和田侯小野蘭山の本草綱目啓蒙に図なきを慨し、侍医井口三楽に命じて図譜を編輯せしめ、本草綱目啓蒙図譜山草部四巻を刻す。」按ずるに栄達は此三楽であらう。然らば岡部藩とは武蔵岡部の安部氏の藩ではなくて、和泉岸和田の岡部氏の藩であらう。武鑑を検するに、岡部氏の上屋敷は山王隣、中屋敷は霞関、下屋敷は渋谷である。扇橋は恐くは葵橋(あふひばし)の誤であらう。扇橋は当時の町鑑(まちかゞみ)を検するに、現在の深川扇橋を除く外、一も載せてないからである。
 渡辺の経義は塾生等が喜んで聴いたが、井口の本草はさうでなかつた。井口は老人で、説く所の事も道理を推論するのでなく、物類を列叙するのであつたから、塾生等は倦んで坐睡することがあつた。或時井口は其不敬を難詰して、講を終へずして席を起つた。塾生等は驚き謝して纔(わづか)に井口の怒を解くことを得た。
 榛軒は毎旦女(ぢよ)柏(かえ)のために古今集を講じた。又柏に画を学ばせた。是は躋寿館に往く日毎に、柏をして轎(かご)に同乗せしめ、館に至つて轎を下る時、柏を轎の中に遺し、画師の家に舁き往かしめたのである。画師はなほ※[#変体仮名え、8巻-138-上-4]ぶんめいと云ふ人で、旗本の次男であつたと云ふ。わたくしは天保以後の画家中に就いて此名を討(たづ)ねたが見当らなかつた。又旗本中に就いて其氏を求めたが得なかつた。只古い分限帳に直井氏の二家がある。其邸は一は「御浜之内」、一は「湯島天神下」である。皆三四十俵取の家である。画家ぶんめいは或は直井氏ではなからうか。

     その二百七十

 榛軒の逸事は此より医業に関する事に入る。榛軒は流行医で、四枚肩の轎(かご)を飛ばして病家を歴訪した。其轎が当時の流行歌(はやりうた)にさへ歌はれたことは既に上(かみ)に記した。
 榛軒は初め轎丁(かごかき)四人と草履取二人とを抱へてゐた。しかし阿部邸内の仲間等が屡(しば/″\)喧嘩して、累を主人に及ぼすことが多かつたので、榛軒は抱の数を減じてこれを避けようとした。そこで草履取のみを留めて、轎丁は総て駕籠屋忠兵衛と云ふものに請負はせることとした。
 曾能子刀自の記憶してゐる仲間の話がある。某(それ)の年の暮の事であつた。伊沢氏では餅搗をした翌日近火に遭つた。知人(しるひと)が多く駆け附けた中に、数日前に暇(いとま)を遣つた仲間が一人交つてゐた。火は幸に伊沢の家を延焼するに及ばなかつた。其次の日に仲間の請宿の主人(あるじ)が礼を言ひに来た。「昨日はお餅を沢山頂戴いたして難有うございます。手前共ではまだ手廻り兼ねて搗かずにゐましたので、大勢の子供が大喜をいたしました」と云つたのである。榛軒が餅を調べて見させると、まだ切らずに置いた熨餅(のしもち)が足らなかつた。逐はれた仲間が背中に入れて還つたのであつた。
 榛軒は病家を択んで治を施した。富貴の家は努めて避け、貧賤の家には好んで近づいた。毎(つね)に「大名と札差の療治はせぬ事だ」と云つた。しかし榛軒が避けむと欲して避くることを得ずに出入した大名の家は、彼の輓詩を寄せた棚倉侯の外に数多(すうた)あつたことは勿論である。又札差を嫌つたのは、札差に豪奢の家が多かつたからである。因(ちなみ)に云ふ。旗本伊沢氏の如きは榛軒がためには宗族であつた。所謂「総本家」であつた。しかし榛軒は絶て往訪せずにしまつた。
 俳優は当時病家として特別の地位を占めてゐた。俳優は河原者として賤者である。目見以上の官医は公にこれをみまふことを得ない。然れども医にして技を售(う)らむことを欲するものは皆俳優の家に趨つた。
 榛軒は例として俳優の請には応ぜなかつた。「立派な腕のある医者が幾らもあつて見に往つて遣るのだから、何も己が往くには及ばない」と云つてゐた。只市川団十郎父子の病んだ時だけは此例に依らなかつた。団十郎は即七代目と八代目とである。七代目団十郎は人格も卑しからず、多少文字をも識つてゐて、榛軒は友として遇してゐたので、其継嗣にも親近したのである。
 榛軒は市川の家を訪ふに、先づ轎(かご)に乗つて堀田原(ほつたはら)に住んでゐる門人坂上玄丈の家に往き、そこより徒歩して市川の家に至つた。徳(めぐむ)さんの云ふには、前に引いた七代目の書牘(しよどく)に「坂の若先生」と云ふのは、此玄丈の子玄真ではなからうかと云ふことである。市川の家では七代目も八代目も数(しば/\)榛軒の治を受けた。河原崎権之助の女ちかが佝僂病(くるびやう)に罹つた時も、此縁故あるがために榛軒が診療した。権之助は九代目団十郎の養父である。
 榛軒の貧人を療した事に就いては種々の話があるが、今一例を挙げる。福山藩士に稲生(いなふ)某と云ふものがあつた。其妻が難産をして榛軒が邀(むか)へられた。榛軒は忽ち遽(あわた)だしく家に還つて、妻志保に「柏(かえ)の著換を皆出せ」と命じ、これを大袱(おほぶろしき)に裹(つゝ)んで随ひ来つた僕にわたした。是は柏が生れて日を経ざる頃の事であつた。稲生氏は小禄ではなかつたが家が貧しかつた。それに三子(ご)が生れたのであつた。曾能子刀自は云ふ。「わたくしは赤子の時に著の身著の儘にせられたのですが、其後もさう云ふ事が度々あつたのでございます。」

     その二百七十一

 治を榛軒に請うた病家中、其名の偶(たま/\)曾能子刀自の記憶に存してゐるものが二三ある。それは榛軒が其家に往来した間に、特に記憶すべき事があつたからである。
 高束(たかつか)翁助は不眠を患(うれ)へた。榛軒はこれに薬を与へた時、翁助の妻を戒めて云つた。「是は強い薬ですから、どうぞ分量を間違へないやうにして下さい」と云つた。然るに或夜翁助は興奮不安の状が常より劇(はげ)しかつたので、妻は竊(ひそか)に薬を多服せしめた。翁助の興奮は増悪した。後には「己の著物には方々に鍼がある」と叫んで狂奔し、動(やゝ)もすれば戸外に跳り出でむとした。妻は榛軒の許に馳せ来つて救を乞うた。榛軒は熟々(つく/″\)聴いた後に、其顔を凝視して云つた。「薬の分量を間違へはしませんでせうね。」翁助の妻は吃りつつ答へた。「まことに済みませんが、今晩はいつもより病気がひどく起りましたので、少し余分に飲ませました。」榛軒は色を作(な)した。「大方そんな事だらうと思ひました。あなたはわたくしを信ぜないで、わたくしの言附を守らないのですから、此上は療治をお断申します。」云ひ畢(をは)つて榛軒は座を起つた。翁助の妻は泣いて罪を謝した。榛軒は将来を飭(いまし)めた後に往診した。榛軒は門人に薬量の重んぜざるべからざるを説くに、毎(つね)に高束の事を挙げて例とした。
 わたくしの福田氏に借りた文書に徴するに、「慶応四戊辰五月改東席順」中「御者頭格御附御小姓頭高束応助六十三」と云ふものがある。応助は即翁助であらう。是に由つて観れば、高束は文化三年生で、榛軒より少(わか)きこと二歳であつた。
 中井肥後は銀細工人で幕府の用達をしてゐた。家は湯島にあつた。中井は嘗て治を榛軒に請うて其病が□(い)えた。そして謝恩のために銀器数種を贈つた。榛軒は固辞して受けなかつた。中井が其故を問うた時、榛軒は云つた。「兎角さう云ふ物は下人に悪心を起させる本になります。」しかし榛軒は必ずしも病家の器物を贈ることを拒んだのではない。蒔絵師菱田寿作は病の癒えた時、蒔絵の杯を贈つたが、榛軒はこれを受けた。
 細木香以(ほそきかうい)が治を請うた時、榛軒は初め輒(たやす)く応ぜなかつた。しかし切に請うて已まぬので、遂に門人石川甫淳(ほじゆん)をして治療せしめた。石川は榛軒門人録に「棚倉」と註してある。陸奥国白川郡棚倉の城主松平周防守康爵(やすたか)の家来である。此人は榛門の最古参であつたさうである。或日細木は榛軒の妻志保を請じて観劇せしめた。榛軒が異議を挾(さしはさ)まなかつたので、志保は往いて観た。桟敷二間(ふたま)を打ち抜いて設けた席であつた。細木は接待の事を挙げて石川に委ね、自分は午の刻の比に桟敷に来て挨拶し、直に又去つた。因(ちなみ)に云ふ、当時富豪にして榛軒に治を請うたものには、鈴木十兵衛、三河屋権右衛門等があつたが、皆謹厚な人物で、細木の如く驕奢ではなかつた。
 笹屋千代も亦榛軒の病家であつた。榛軒の歿後に重患に罹り、棠軒良安の治を受けて歿した。徳(めぐむ)さんの蔵する所の「茶番忠臣蔵六段目役割台詞」と云ふ小冊子がある。是は千代の病が一時快方に向つた時、床揚の祝のために立案せられたものださうである。わたくしは此に一のキユリオジテエとして其役割を抄する。「母石川貞白、おかる飯田安石、勘平伊沢良安、一文字屋森養真、猟師井戸勘一郎、与一兵衛上原全八郎。」石川貞白、名は元亮(もとあきら)、本姓は磯野氏である。石川の通称は諸文書に或は貞白に作り、或は貞伯に作つてあつて一定しない。津山未亡人の説に従へば当(まさ)に貞白に作るべきである。又其名「元亮」は同じ人の云ふを聞くに「もとあきら」と訓ませたものらしい。上(かみ)に引いた東席順(とうせきじゆん)に「御広間番格奥御医師石川貞白五十八」と云つてある。然らば石川は文化八年生で、榛軒より少きこと七歳であつた。飯田安石は榛軒門人録に見えてゐる。東席順に「表御医師無足飯田安石四十五」と云つてある。然らば文政七年生であつた。此人の事は猶後に再記するであらう。森養真は枳園(きゑん)の子約之(やくし)である。東席順に「御広間番格奥御医師無足森養真三十四」と云つてある。その天保六年生であつたことは既に記した。井戸勘一郎は柏軒の嗣子磐(いはほ)の「親類書」に徴するに、蘭軒の女(ぢよ)長(ちやう)の夫井戸応助の子である。肩書に「御先手福田甲斐守組仮御抱入」と云つてある。上原全八郎は阿部家の料理人である。東席順に「総無足料頭上原全八郎五十六」と云つてある。然らば文化十年生で榛軒より少(わか)きこと九歳であつた。「料頭」は料理人頭歟。

     その二百七十二

 わたくしは既に榛軒の逸事中医治に関する事を録した。そして其末に口碑の伝ふる所の病家を列挙した。此よりは榛軒の友及榛軒時代に伊沢氏に出入した人々の事を言はうとおもふ。
 森枳園は榛軒のためには父の遺弟子である。蘭門の諸子は蘭軒の在世中若先生を以て榛軒を呼び、その歿するに至つて、先生と改め呼んだことは既に云つた如くである。そして青年者(せいねんしや)は真に榛門に移つた。しかし年歯の榛軒と相若(あひし)くものは、前(さき)より友として相交つてゐたので、其関係は旧に依つた。枳園の如きは其一人である。枳園は榛軒より少(わか)きこと僅に三歳であつた。
 曾能子刀自は二人の間の一事を記憶してゐる。或日榛軒は本所の阿部邸に宿直した。其翌日は枳園の来り代るべき日であつた。交代時刻は辰の刻であつた。然るに枳園は来なかつた。榛軒は退出することを得ずに、午餐を喫した。枳園は申の刻に至つて纔(わづか)に至り、深く稽緩(けいくわん)の罪を謝した。
 榛軒は帰途に上つて、始めて此日徳川将軍の「お成(なり)」のために交通を遮断せられたことを聞き知つた。枳園は罪を謝するに当つて、絶てこれを口に上せなかつた。
 榛軒は後に人に謂つた。「森は実に才子だ。若しあの時お成で道が塞がつて遅れたと云つたら、己はきつとなぜお成の前に出掛けなかつたと云つたに違ない。森は分疏(いひわけ)にならぬ分疏などはしない。実に才子だ」と云つた。
 枳園が禄を失つて相模に居た時、榛軒が渋江抽斎等と共に助力し、遂に江戸に還ることを得しめたことは上(かみ)に見えてゐる。
 渋江抽斎も亦榛軒が友として交つた一人である。そして榛軒より少きこと僅に一歳であつた。曾能子刀自はかう云ふことを記憶してゐる。或日柏軒、抽斎、枳園等が榛軒の所に集つて治療の経験談に□(ひかげ)の移るを忘れたことがある。此時終始緘黙してゐたのは抽斎一人であつた。それが穉(をさな)い柏(かえ)の注意を惹いた。客散ずる後に、柏は母に問うた。「渋江さんはなぜあんなに黙つてお出なさるのでせう。」母は答へた。「さうさね。あの方は静な方なのだよ。それに今日はお医者の話ばかし出たのに、あの方はどつちかと云ふと儒者の方でお出なさるからね。」
 金輪寺混外(こんりんじこんげ)は蘭軒の友で、蘭軒歿後には榛軒と交つた。榛軒は数(しば/\)王子の金輪寺を訪うた。曾能子刀自はかう云ふことを記憶してゐる。某年に榛軒は王子権現の祭に招かれて金輪寺に往つた。祭に田楽舞があつた。混外は王子権現の別当であつたので、祭果てて後に、舞の花笠一蓋(かい)を榛軒に贈つた。
 榛軒は花笠を轎(かご)に懸けさせて寺を出た。さて丸山をさして帰ると、途上近村の百姓らしいものが大勢轎を囲んで随ひ来るのに心附いた。榛軒は初めその何の故なるを知らなかつた。
 行くこと数町にして轎丁(けうてい)が肩を換へた。其時衆人中より一人の男が進み出て榛軒に「お願がございます」と云つた。その言ふ所を聞けば花笠を請ふのであつた。当時此祭の花笠を得て帰れば、其村は疫癘を免れると伝へられてゐるのであつた。
 寿阿弥の事は上(かみ)に見えてゐるから省く。曾能子刀自の言(こと)に拠れば、長唄の「初子」は寿阿弥の作である。

     その二百七十三

 わたくしは上に榛軒の友人並知人の事を列叙した。然るに嘗て曾能子刀自に聞く所にして全く棄つるに忍びざるものが、尚二三ある。姑(しばら)く其要を摘んで此に附して置く。実は鶏肋(けいろく)である。
 村片相覧(むらかたあうみ)は福山藩の画師で、蘭軒の父信階(のぶしな)の像、蘭軒の像等を画いた。相覧が榛軒の世に於て伊沢氏に交ること極て親しかつたことは、榛軒が福山に往つてゐた間、毎日留守を巡検したと云ふ一事に徴しても明である。
 相覧の号を古□(こたう)と云つたことは、既に云つた如く、荏薇(じんび)問答に見えてゐる。世に行はれてゐる画人伝の類には此人の名を載せない。只海内偉帖(かいだいゐてふ)に「村片相覧、画、福山藩、丸山邸中」と云つてあるのみである。
 相覧の子を周覧(ちかみ)と云つた。父は子を教ふるに意を用ゐなかつた。周覧は狭斜に出入し、悪疾に染まつて聾(みゝしひ)になり、終に父に疎(うと)んぜられた。榛軒は為に師を択んで従学せしめ、家業を襲ぐことを得しめた。曾能子刀自は家に周覧の画いた屏風のあつたことを記憶してゐる。意匠を河東節の歌曲「小袖模様」に取つたものであつた。わたくしの福田氏に借りた明治二年の「席順」に「第五等格、村片市蔵、三十九」と「第七等席、村片平蔵、廿六」とがある。榛軒の歿した嘉永五年には、天保二年生の市蔵が二十二歳、弘化元年生の平蔵が九歳であつた。周覧の子ではなからうか。初に少時の失行を云云して、後に其人の後の誰なるを推窮するは憚るべきが如くであるが、周覧の能く過を改め身を立てた人なるを思へば、必ずしも忌むべきではなからうか。
 魚屋与助は伊沢氏に出入した魚商である。女(むすめ)が三人あつて、名を松(まつ)菊(きく)京(きやう)と云つた。与助の妻は酒を被(かうぶ)つて大言する癖があつて、「女が三人あるから、一人五百両と積つても千五百両がものはある」と云つた。松は榛軒の妻志保に事(つか)へて、柏(かえ)の師匠の許に通ふ供をした。後日本橋甚左衛門町の料理店百尺(せき)の女中になつて、金を貯へた。京は常磐津の上手で、後小料理屋を出した。此二人は美人であつた。菊は目疾のために容(かたち)を損ひ、京の家に厄介になつた。力士岩木川の京に生ませた子が、後の横綱小錦八十吉(やそきち)である。
 初代善好(ぜんかう)は榛軒に愛せられて、伊沢氏の宴席に招かれ、手品などを演じた。「日蓮の故迹に名ある石禾(いさは)ゆゑ出す薬さへ妙に利くなり」と云ふ狂歌を詠んだことがある。幇間を罷めて後、鍋屋横町に待合茶屋を出した。当時赤城横町は日蓮に賽するもののために賑ひ、鍋屋横町は人行が稀であつた。善好は客が少いので困窮し、榛軒の救助を得て存活したさうである。わたくしは幇間の歴史を詳にせぬが、初代善好とは所謂桜川善好であらうか。桜川善好は甚好の弟子、甚好は慈悲成(じひなり)の弟子だと云ふ。当時の狭斜の事蹟に精(くは)しい人の教を待つ。
 榛軒の友人知人の事は此に終る。次にわたくしは榛軒の門人の事を記さうとおもふ。榛軒門人録には四十五人の名が載せてある。しかし今其行状を詳にすべきものは甚だ少い。わたくしは已むことを得ずして、只偶(たま/\)曾能子刀自の話頭に上つたものを叙列することとする。
 榛軒は門人を待つこと頗(すこぶる)厚かつた。曾能子刀自はかう云ふことを記憶してゐる。或日榛軒は塾生の食器の汚れてゐたのを見て妻に謂つた。「女中に善く言つて聞せて、もつと膳椀を綺麗に滌(あら)はせるやうにせい。諸生も内へ帰れば、皆立派な檀那だからな。」

     その二百七十四

 わたくしは榛軒の門人の事を書き続ぐ。門人中には往々十一二歳より十五六歳に至る少年があつた。清川安策、柴田常庵、三好泰令、雨宮良通(あめのみやりやうつう)、島村周庵、前田安貞(あんてい)、高井元養等が即是である。
 丸山の家の後園には梅林があつた。梅が子(み)を結ぶ毎に、少年等はこれを摘み取り、相擲(あひなげう)つて戯(たはむれ)とした。当時未だ曾て梅子(ばいし)の黄なるを見るに及ばなかつたのである。既にして榛軒が歿し、弟子が散じた。伊沢氏では年毎に後園の梅を□蔵(えんざう)して四斗樽二つを得た。
 榛軒は少年弟子のために明(あけ)卯の刻に書を講じた。冬に至ると、弟子中虚弱なるものは寒を怯れた。そしてこれを伊沢氏の寒稽古と謂つた。
 清川安策孫(そん)は豊後国岡の城主中川氏の医官清川玄道□(がい)の次男であつた。玄道は蘭門の一人で、其長男が徴(ちよう)、次男が孫である。
 伝ふる所に従へば、父玄道は人となつて後久しく志を得ずに、某街の裏店(うらだな)に住んでゐた。家に兄弟十八人があつて、貧困甚だしかつた。しかし玄道は高く自ら標置して、士人の家には門がなくてはならぬと云ひ、裏店の入口に小い門を建てた。又歳旦には礼服がなくてはならぬと云つて、柳原の古著屋で紋服を買つて著た。
 未だ幾(いくばく)ならぬに玄道は立身した。その目見医師の班に加はつたのは年月を詳にせぬが、躋寿館の講師に任ぜられたのは天保十四年十一月十六日である。即ち榛軒と年を同じうして登館したのである。武鑑を検するに、目見医師清川玄道の家は「木挽町」であつた。
 目見医師玄道の次男安策孫は医を榛軒に学び、後兄徴の死するに至つて玄道と称した。維新後其技大いに售(う)れて、一時多く浅田宗伯に譲らなかつた。徳(めぐむ)さんは少時医を此玄道に学んだ。清川氏の裔(すゑ)は今大津に居ると云ふ。
 柴田常庵は柴田芸庵(うんあん)の子だと云ふ。柴田氏は古く幕府に仕へて、林家の文集に東皐元泰(とうかうげんたい)、竹渓元岱(ちくけいげんたい)の墓誌があり、大槻磐渓の寧静閣集に洛南元春(らくなんげんしゆん)の墓誌がある。又武鑑を検するに、麹町の元泰、三十間堀の元春、木挽町の芸庵がある。皆同族なるが如くであるが、今遽(にはか)に其親属関係を詳にすることを得ない。
 常庵は少(わか)うして榛軒に従学し、其内弟子となつた。当時常庵は家に継母があつて、常庵を遇すること甚だ薄く、伊沢氏に寓するに及んでも、衾褥(きんじよく)を有せなかつた。榛軒は悉(こと/″\)くこれを仮給した。
 常庵は※巧(けんかう)[#「にんべん+環のつくり」、8巻-147-下-13]なる青年であつた。或時塾を出でて還らざること数日であつた。そして其衣箱(いさう)を披(ひら)けば、典(てん)し尽して復一物を留めず、伊沢氏の借す所の衾褥も亦無かつた。
 榛軒は人を派して捜索し、遂に常庵の蕨駅の娼家にあるを知つて率(ゐ)て帰つた。そして書斎の次の三畳の間に居らせた。数日の後、常庵は又逃げた。榛軒は再び率て帰り、三畳の間に居らせ、清川安策に其次の二畳の間にあつて監視することを命じ、纔(わづか)に其逃亡を阻ぐることを得た。時に常庵は年甫(はじめ)て十四であつた。
 常庵は長じて幕府の医官となつた。其叔母は清川玄道の妻である。
 常庵は医官となつた後も、筵席に□(のぞ)めば必ず踊つた。「綱は上意」が其おはこであつた。維新の後、常庵は狂言作者となつて竹柴寿作と称し、五代目坂東彦三郎に随従してゐた。妻は大坂の藝妓であつた。常庵改寿作の死んだ時、甲斐性のある妻は立派な葬儀を営んで人に称讚せられた。
 常庵の同族三十間堀柴田の裔(すゑ)は俳優となつて中村福寿と称し、後廃業して呉軍港に料理店を開いてゐると云ふ。

     その二百七十五

 石川貞白、本磯野氏、名は元亮(もとあきら)、通称は勝五郎であつた。文化八年生で、榛軒より少きこと七歳であつたことは上(かみ)に見えてゐる。父某が阿部家に仕へて武具を管してゐると、其同僚が官物を典して銭を私したので、連坐せられて禄を失つた。当時貞白は既に妻があつた。妻は公卿の女(むすめ)であつた。貞白は父母、妻、一弟二妹、一子と共に小島宝素の邸に寄寓した。
 貞白は素(もと)頗(すこぶる)医薬の事を識つてゐたので、表向榛軒の門人となり、剃髪して技を售(う)ることとなつた。その石川氏を冒し、貞白と称したのは此時である。
 貞白が開業の初に、榛軒は本郷界隈の病家数十軒を譲り与へて、其一時の急を救つた。一家八人は此に由つて饑渇を免れた。
 渋江保さんは当時の貞白の貧窶(ひんる)を聞知してゐる。貞白は嘗て人に謂つた。「己の内では子供が鰊□(かずのこ)を漬けた跡の醤油を飯に掛けて、饅飯だと云つて食つてゐる」と云つた。又或日貞白は柏軒の子鉄三郎を抱いて市に往き、玩具(おもちや)を買つて遣らうと云つた。貞白は五十文から百文まで位の物を買ふ積でゐた。すると鉄三郎が鍾馗の仮面(めん)を望んだ。其価は三両であつた。貞白は妻の頭飾(かみのもの)を典してこれを償うた。柏軒は後に聞き知つて気の毒がり、典物を受け出して遣つた。鉄三郎は榛軒の歿年に四歳になつてゐた。
 貞白は機敏であつた。その伊沢分家、同又分家、渋江氏等と交つて、往々諸家の内事を与(あづか)り聞いたことは、わたくしの既に屡(しば/″\)記した所である。
 貞白は学を好んで倦まなかつた。医学よりして外、国語学に精(くは)しく、歌文を作つた。榛軒の家に開かれた源氏物語の講筵には、寿阿弥と此人とが請ぜられた。又善書であつた。夜書を読んで褥に臥せず、疲るゝときは頭に羽織を被つて仮寐(かび)した。
 貞白は酒を嗜(たし)んだ。そして動(やゝ)もすれば酔うて事を誤つた。榛軒は屡□(いまし)めたが功が無かつた。終に「己が廃めるから一しよに廃めるが好い」と云つて、先づ自ら湯島の天満宮に祈誓して酒を断つた。貞白は大いに慙ぢてこれに倣つた。
 貞白の弟は或旗下の家の用人が養つて嗣とした。二妹は一は慧(けい)、一は痴(ち)であつた。
 渋江恒善(つねよし)は抽斎全善(かねよし)の長男である。榛軒門人録には「渋江道陸」として載せてある。塾生であつた。性謹厚にして、人の嬉笑するを見ては顰蹙して避けた。同窓の須川隆白は、同じ弘前藩の子弟であつたので、常に恒善を推重し、寝具の揚卸、室内の掃除は自らこれに任じ、恒善に手を下させなかつた。此人の事は抽斎伝に詳である。
 須川隆白は弘前の人で、伊沢氏塾生の一人であつた。美丈夫であつたが、首を掉(ふ)る癖があつた。榛軒歿後には渋江抽斎に従学した。
 隆白は後津軽家の表医師に任ぜられ、金十八両六人扶持を受けた。禄米に換算すれば約九十俵である。渋江恒善は同家に仕へ、三人扶持を受けてゐるうち、不幸にして早世したのである。

     その二百七十六

 渡辺昌盈(しやうえい)も亦、渋江恒善、須川隆白と同じく、弘前藩の子弟で、伊沢氏の塾に寓してゐた。榛軒門人録には此人の名が「昌栄」に作つてある。わたくしは今同藩出身の渋江保さんの書する所に従ふ。
 昌盈は其本姓を知らない。渡辺氏に養はるるとき、川村屋金次郎といふものが仮親となつた。是は津軽家用達たる舂屋(つきや)で、所謂川金(かはきん)である。
 榛軒は頗る昌盈を優待した。そしてこれをして久しく塾頭たらしめた。門人録には福岡の森隆仙の下(もと)に塾頭と註してある。渡辺と森との塾頭は孰(いづれ)か先、孰か後なるを知らない。
 或時小島宝素と辻元□庵(すうあん)とが榛軒に告げて云つた。頃日(このごろ)坊間に酌源堂の印のある書籍を見ることがある。文庫の出納を厳にするが好いと云つた。榛軒は蔵書を検して数部の喪失を知つた。そしてその何人の所為(しよゐ)なるを探るに及んで、これを沽(う)つたものの昌盈なるを知つた。
 昌盈は懼れて救を川金に請うた。川金は書籍の猶書估の手にあるものを買ひ戻して伊沢氏に還した。
 昌盈は後津軽家の表医師となつて禄三十人扶持を食(は)んだ。安政乙卯の地震の日に、津軽家の本所上屋敷の当直は須川隆白に割り当てられてゐた。偶(たま/\)須川は事に阻げられて、昌盈をして己に代らしめた。直舎(ちよくしや)潰(つひ)えて、昌盈はこれに死した。
 飯田安石も亦門人録に見えてゐる。わたくしは前(さき)に榛軒が病(やまひ)革(すみやか)であつた時、物を安石に貽(おく)つたことを記した。そして当時未だ此人の身上を詳にしなかつたのである。
 わたくしは後に徳(めぐむ)さんに聞いた所を以て此に補記しようとおもふ。しかしその応(まさ)に補ふべき所のものは、啻(たゞ)に安石の上のみではない。わたくしは先づ榛軒の妻志保の経歴を補つて、而る後に安石に及ばなくてはならない。
 飯田氏志保の未だ榛軒に嫁せざるに当つて、曾て一たび藝妓たりしことは前記に見えてゐる。しかし此記には漏挂(ろうくわい)の憾があつた。志保は妓を罷めた後、榛軒に嫁した前に、既に一たび従良したことがある。
 志保の初の夫を綿貫権左衛門と云つた。綿貫は長門国萩藩の留守居であつた。志保は一子を挙げた後、故あつて綿貫と別れた。そして其子を練馬村内田久右衛門の家へ里子に遣つた。
 数年の後、志保は此子をして母方の飯田氏を冒さしめた。此子が即飯田安石である。
 安石は十二歳にして榛軒の門に入つた。是故に安石は名は門人であつたが、実は志保の連子であつた。榛軒が臨終に物を貽つた所以である。
 今按ずるに、安石の生年文政七年より推せば、志保は文政六年の頃綿貫が許にゐて、七年に安石を生み、中二年を隔てて、十年に榛軒に嫁したのであらう。安石入門の年は、其齢(よはひ)が十二であつたと云ふより考ふるに、天保六年、即柏(かえ)の生れた年であつたらしい。
 わたくしは曾能子刀自の安石に関して語る所を聞いた。其事は猥瑣(わいさ)にして言ふに足らぬが、幕末の風俗を察する一端ともなるべきが故に、姑(しばら)く下(しも)に録存する。榛※(しんこ)[#「木+苦」、8巻-151-下-16]翦(き)るなきの誚(そしり)は甘んじ受くる所である。

     その二百七十七

 榛軒の妻志保の連子たり、榛軒の門人たる飯田安石の逸事にして、曾能子刀自の記憶する所のものはかうである。
 森枳園は毎年友人及弟子を率(ゐ)て江戸の近郊へ採薬に往つた。大抵其方向は王子附近で、王子の茶を買つて帰り、又帰途に白山の砂場で蕎麦を喫するを例とした。渋江保さんなども同行したことがある。
 某年に飯田安石が此夥(くわ)に加はつた。安石は朝急いで塾を出る時、偶(たま/\)脇差が見えなかつた。
 其頃伊沢の家には屡茶番の催があつた。狩谷懐之(くわいし)の茶番に用ゐた木刀は、□※(きうしつ)[#「革+室」、8巻-152-上-12]金環、実に装飾の美を極めたもので、懐之はこれを伊沢氏にあづけて置いた。安石は倉皇これを佩びて馳せ去つた。
 此夕採薬の一行中に加はつた伊沢の塾生は皆還つたに、独り安石が帰らなかつた。榛軒は木刀の事を聞いて大いに痛心した。当時の制度は、木刀を佩びて途に死するものは、骸(かばね)を非人に交付することになつてゐたからである。
 榛軒は人を四方に派して捜索せしめた。そして終に板橋駅の妓楼に於て安石を獲た。
 坂上玄丈(さかのうへげんぢやう)も亦榛門の一人で、門人録中に載せてある。此人は弘化甲辰に渋江抽斎と共に躋寿館講師に任ぜられ又これと共に将軍家慶に謁した。武鑑には目見医師の下(もと)に其名が見えてゐて、扶持高住所等は未刻の儘になつてゐる。
 榛軒の門人の事は此に終る。
 次にわたくしは榛軒の資性に関して二三の追記を做さうとおもふ。榛軒は廉潔であつた。そして毎にかう云つた。「己は柏(かえ)のために金を遺して遣ることは出来ない。縦(よ)し出来るにしても、それは己の望む所では無い。金を貽(のこ)すのは兎角殃(わざはひ)を貽すと同じ事になる。その代に己は子孫のために陰徳を積んで置く」と云つた。朋友の窮を拯(すく)ひ、貧人の病を療したのは此意より出でたのである。
 或日榛軒は混外(こんげ)を金輪寺に訪うた帰途、道灌山に登つて月を観た。僕吉蔵と云ふものが随つてゐた。榛軒は吉蔵を顧みて云つた。「好い月ぢやないか。お前はどうおもふ。」吉蔵は答へて云つた。「へえ。さやうでございますね。ですが、檀那、此月で包か何かが道に落ちてゐるのが見附かつて、それを拾つて見ると、金の百両もはいつてゐたら、猶結構でございませう。」榛軒は聴いて不興気に黙つてゐた。さて翌日吉蔵に暇(いとま)を出した。家人が驚いて故を問うた時、榛軒は云つた。「月を観る間も利慾の念を忘れてゐられぬ男は、己の家には居かれない。」
 吉蔵のこれを聞いた時の驚は更に甚だしかつた。是より先吉蔵は榛軒の愛する所の青磁の大花瓶を破(わ)つたことがある。其時は吉蔵が暇の出る覚悟をしてゐた。しかし榛軒は殆ど知らざるものの如くであつた。今忽ち暇の出たのは吉蔵のためには不可思議であつたのである。
 榛軒は生涯著述することを欲せなかつた。是は父蘭軒の遺風を襲(つ)いだもので、弟柏軒も亦同じであつた。しかし蘭軒は猶詩文を嗜(たし)み、意を筆札に留めた。榛軒に至つては、偶(たま/\)詩を作つても稿を留めず、往々旧作を忘れて自ら踏襲した。書は榛柏の昆弟(こんてい)皆拙であつた。榛軒は少時少しく法帖を臨したが、幾(いくばく)ならぬに廃した。柏軒は未だ曾て臨書したことがなかつた。要するに二人は書を読んで中に養ふ所があつても、これを技に施して自ら足れりとし、敢て立言して後に貽さうとはしなかつたのである。

     その二百七十八

 わたくしは榛軒の資性を語つて、既に其寡欲と多く文事に意を用ゐざることとを挙げた。或は思ふに之(この)二者は並に皆求むる所少きに帰するもので、後者は声誉を求めざるの致す所であつたかも知れない。
 わたくしは尚曾能子刀自に数事を聞いた。それは榛軒の一種特殊なる心理状態より出でたものらしい。わたくしは微(すこ)しくこれに名づくる所以に惑ふ。俚言の無頓著は此事を指すに宜しきが如くである。しかし此語には稍指す所の事の形式を取つて、其内容を遺す憾がある。已むことなくば坦率(たんそつ)とでも云はうか。
 一日(あるひ)榛軒は阿部侯正寧(まさやす)に侍してゐた。正寧は卒然昵近の少年を顧みて云つた。「良安は大ぶ髪が伸びてゐるやうだ。あれを剃つて遣れ」と云つた。少年は□(はんざふ)、盥などを持ち出して、君前に於て剃刀を榛軒の頭(かうべ)に加へた。そして剃るに時を費すこと頗る多かつた。既にして剃り畢(をは)つたので、榛軒は退出した。
 家に帰ると、家人が榛軒の頭を見て、皆失笑した。頭上の剃痕(ていこん)は断続してゐて、残す所の毛が文様をなし、三条の線(すぢ)と蝙蝠(かはほり)の形とが明に認められたからである。
 家人は鏡を取り出して榛軒にわたした。榛軒は自ら照して又大いに笑つた。剃者の刀(たう)を行(や)るのが常に異なつてゐても、榛軒は毫も心附かずにゐたのである。是が一つである。
 榛軒は庚寅の年に侯に扈随して福山に往つた時、午後屡轎中に仮寐(かび)した。そして涎が流れて襟を※(うるほ)[#「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、8巻-154-下-11]した。榛軒は自ら白布を截つて涎衣(よだれかけ)を製し、轎(かご)に上(のぼ)る毎にこれを腮下(さいか)に懸けた。一日(あるひ)侯は急に榛軒を召した。榛軒は涎衣(ぜんい)を脱することを忘れて侯の前に進み出た。上下(しやうか)皆笑つた。榛軒纔(わづか)に悟つて徐(しづか)に涎衣を解いて懐にし、恬(てん)たる面目があつた。是が二つである。
 榛軒は晩餐後市中を漫歩するを例とした。其時往々骨董店の前に歩を駐め、器玩(きぐわん)の意に投ずるものあれば購うて還つた。
 榛軒は此の如き物を買ふに、その用に中(あた)ると否とを問はず、又物の大小を問はなかつた。さて或は携へ帰り、或は搬し至らしめた後、放置して顧みない。時に出して門人等に与へることがある。
 門人等は拝謝して受ける。しかし受けた後に用途に窮することが数(しば/″\)である。
 一日(あるひ)門人某は受けた物の処置に窮した。わたくしはその何の器(うつは)であつたかを知らぬが、定て甚だ大きかつただらうと推する。又某の名を知らぬが、定て率直な人であつただらうと推する。某は榛軒に問うたさうである。「此間先生に戴いた物は、どうも内ではどうにもいたしやうがございません。先生には済みませんが、あれは棄ててしまつても宜しうございませうか。」
 榛軒は恬として答へた。「さうか。いらなけりやあ棄てるが好い。」是が三つである。わたくしの以て坦率となす所のものは概(おほむね)此類である。

     その二百七十九

 わたくしは榛軒の逸事を書き続ぐ。そして今此に榛軒の植物を愛した事を語らうとおもふ。
 榛軒が蘭軒遺愛の草木を保護するに意を用ゐたことは言ふまでもない。彼吉野桜を始として、梅があり、木犀があり、芭蕉があつた。某年の春阿部侯正寧(まさやす)は使を遣はして吉野桜の一枝を乞うた。榛軒は命を奉ぜなかつた。そして使者と共に主に謁し、叩頭(こうとう)して罪を謝した。
 榛軒の蓮(れん)を愛したことは、遺言を読んで知るべきである。丸山の地は池を穿ち水を貯ふるに宜しくないので、榛軒は大瓦盆(だいぐわぼん)数十に蓮を藝(う)ゑて愛翫した。平生用ゐた硯が蓮葉形のものであつたのも、又酒器に蓮を画かせて用ゐたのもこれがためである。
 榛軒は書斎と客間とに插花(いけばな)を絶やさなかつた。本郷の花総(はなそう)と云ふものが隔日に截花(きりばな)を持つて来たのである。
 榛軒は父の本草趣味を伝へ、森枳園等に勧奨せられて、多く薬草を栽培した。就中(なかんづく)人参は阿部侯の命を奉じて栽ゑたのである。
 榛軒も亦枳園等と同じく、子弟を率(ゐ)て近郊へ採薬に出た。曾能子刀自は当時の一笑話を記憶してゐる。或日採薬の途上に甘酒売が道を同じうして行くに会うた。随行の少年輩が一人飲み二人飲み、遂に先を争つて群り飲むに至つた。行き行きて岐路に逢ふこと数(しば/″\)であつたが、甘酒売は別れ去らない。甘酒の釜は此夥(むれ)の行厨(かうちゆう)の如くになつた。
 榛軒は酒を売る漢子(をとこ)に問うた。「貴様は一体何処へ往くのだ。」
「へえ。つい此先の方へ参ります。」
 榛軒は屡問うたが、漢子の答ふる所は旧に依つた。「へえ。つい此先の方へ参ります。」
 同行数里にして甘酒売の別れ去つたのは、板橋駅附近であつた。そして其釜は既に空虚であつた。
 次にわたくしは少しく榛軒の飲饌(いんぜん)の事を記さうとおもふ。採薬途上の甘酒は、恰も好し、トランシシヨンの用をなした。
 榛軒は病家を訪ふ時、家を出づるに臨んで妻志保をして薄茶一碗を点せしめた。
 榛軒は客を饗する時、毎(つね)に上原全八郎を呼んで調理せしめた。上原は阿部家の料理人である。膾(くわい)を作るにも箸を以てした人である。渋江保さんの語るを聞けば、抽斎は客を饗する時、毎に料理店百川(せん)の安と云ふ男を雇つたさうである。彼は貴族的で、此は平民的であつた。
 飲饌の事は未だ尽きない。わたくしは曾能子刀自に豚料理の話を聞き、又保さんに蒲焼の話を聞いた。それは下(しも)に略記するが如くである。

     その二百八十

 わたくしは榛軒軼事(いつじ)中飲饌の事を記して其半に至つた。剰す所は豚料理の話があり、又鰻飯の話がある。
 豚は当時食ふ人が少かつた。忌むものが多く、嗜(たし)むものが少いので、供給の乏しかつたことは想ひ遣られる。豚は珍羞(ちんしう)であつた。
 一日(あるひ)薩摩屋敷の訳官能勢甚十郎と云ふものが榛軒に豚を贈つた。榛軒は家にゐなかつた。妻志保は豚を忌む多数者の一人であつたので、直ちに飯田安石にこれを棄つることを命じた。安石は豚肉(とんにく)を持つて出た。
 榛軒は家に帰つてこれを聞き、珍羞を失つたことを惜んだ。榛軒は豚を嗜む少数者の一人であつたからである。
 志保は己の処置の太早計(たいさうけい)であつたのを悔いて、安石に何処へ棄てたかと問うた。
 安石は反問した。「若し先生が召し上がるのであつたのではございませんか。」
「さうなのですよ。それで何処へお棄なすつたかとお尋するのです。」
「さうですか。それなら御安心下さいまし。あなたが棄てろと仰やいましたから、あの榎の下の五味溜(みため)に棄てたには相違ございません。しかしあの綺麗な肉を五味の中に棄てるのが惜しかつたので、□冬(ふき)の葉を沢山取つて下に鋪いて、其上に肉をそつと置きました。そして肉の上にも□冬の葉を沢山載せて置きました。」
 榛軒は傍(かたはら)より聞いて大いに喜んだ。そして安石に取つて来ることを命じた。既に夜に入つてゐたので、安石は提燈を点けて往つて取つて来た。肉は毫も汚れてゐなかつた。
 榛軒は妻の忌むことを知つてゐたので、庭前に涼炉(こんろ)を焚いて肉を烹(に)た。そして塾生と共に飽くまで啖(くら)つた。
 榛軒は鰻の蒲焼を嗜んだ。渋江保さんは母山内氏五百(いほ)の語るを聞いた。榛軒は午餐若しくは晩餐のために抽斎の家に立ち寄ることがあつた。さう云ふ時には未だ五百の姿を見ざるに、早く大声(たいせい)に呼ぶを例とした。「又御厄介になります。鰻はあつらへて置きました。もう一軒往つて来ます。どうぞお粥は米から願ひます。」五百に炊かせた粥に蒲焼を添へて食ふのが、榛軒の適とする所であつた。酒は或は飲み或は飲まなかつた。
 此の如き時、榛軒は抽斎の読書を碍(さまた)ぐることを欲せなかつたので、五百をして傍(かたはら)にあらしめ、抽斎をして書斎に退かしめた。
 わたくしは此条を終るに臨んで、烟草の事を附記する。
 榛軒は喫烟した。そして常に真鍮の烟管十本許(きよ)を蔵してゐて、其一を携へて病家を訪うた。人が其故を問ふと、榛軒はかう云つた。「銀烟管などは失ふまいと思ふと気骨が折れる。真鍮にはそれが無い。縦(よ)し何処かに置き遺(わす)れて取りに往くにしても、無造作に問ふことが出来る。問はれたものも亦、無い時無いと云ふに気兼をしなくて済む。」
 榛軒の逸事は此に終る。

     その二百八十一

 わたくしは此に榛軒の記を終へて、借りてゐた所の榛軒詩存を富士川游さんに返さうとおもふ。此書は清川安策の自筆本で、序を併せて半紙二十五頁(けつ)より成つてゐる。収むる所の詩は五古一首、七古一首、五律十五首、七律十二首、七絶百十八首、計百四十七首である。
 序は編録者安策の撰む所で、巻初の一頁を填(うづ)めてゐる。わたくしは此書の刊行せらるべきシヤンスは、※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、8巻-159-上-3]詩集に比して更に小なるを知るが故に、今序の全文を抄出する。
「先師榛軒先生。刀圭之暇。毎遇心愉而意会。輒発之声詩。其所吟詠頗多。而未曾留稿也。孫在塾日。或得之侍坐之傾聴。或得之壁上之漫題。或得之扇頭紙尾。或得之同門諸子之伝誦。随得随録。無復次第。積年之久。得百有余首。今茲安政戊午十一月十六日。実当先生七回忌辰矣。追憶往事。宛然在目。殆不勝懐旧之歎也。乃浄写為一冊。私名曰榛軒詩存。雖未足為全豹。亦足以窺先生風騒之一斑也已。嗚呼先生不欲存。而孫存之。縦令得罪于地下。亦所不敢辞也。其巻末存余紙者。以備続得云。安政五年歳次戊午仲冬之月。清川孫誌。」
 文中に「孫」と称し、末に「清川孫誌」と署してある。清川安策、名は孫(そん)であつた。
「先生不欲存。而孫存之。」門人の師の書に序する文には、多くこれに類する語を見る。しかし其語は他書にあつては矯飾に過ぎぬが、此榛軒詩存にあつては真実である。
 所謂「巻末存余紙」の余紙(よし)は九頁(けつ)あつて、別に清川の序の後に空白六頁がある。恐くは諸友の題言を求めむと欲したものであらう。紙は医心方を写さむがために特製した烏糸欄紙(うしらんし)である。
「随得随録。無復次第。」是も亦往々他書の序跋中に見ることのある語である。しかし書を著すものは故(ことさら)に審美学者の所謂無秩序中の秩序を求め、参差(さんし)錯落の趣を成して置きながら、這般(しやはん)の語を以て人を欺くのである。惟(たゞ)清川の此八字は実録である。巻首の詩は嘉永四年辛亥元旦の作、巻尾の詩は天保元年庚寅三月晦(くわい)の作で、二者の中間にも亦絶て安排の痕を見ない。その年月を知るべきものは、百四十七首中六十二首あるのみである。
 此書には詩引に二十一人の名が見えてゐて、其過半は氏名を明にすることが出来る。多くは蘭門若くは榛門の子弟である。其他儒に渡辺樵山(せうざん)があり、歌人に木村定良(さだよし)がある。わたくしは上(かみ)に樵山の事を記した後、其父の誰なると其生誕の何年なるとを知ることを得た。慊堂(かうだう)日歴文政六年の下(もと)に渡辺□園(かうゑん)の二子を挙げて、「魯助三歳、百助一歳」と云つてある。樵山魯助は文政四年生で、榛軒の歿した壬子に三十二歳になつてゐたことは確である。父□園は慊堂の親友である。
 此書には二箇所に「森氏」の篆印がある。枳園の家の印記である。又第一頁(けつ)の欄外に「万延元庚申冬月一校了約之□遅」と書してある。「□遅」は養真約之(やうしんやくし)の字(あざな)か。わたくしは嘗て森氏旧蔵の揚子方言に、「嘉永壬子無射初四夜聿脩塾燈下書、句読一過了、源約之辛□志」と書したのを見たことがある。「□遅」又「辛□」にも作つたものか。猶考ふべきである。按ずるに約之が方言を校したのは偶(たま/\)此年壬子で、約之は十八歳であつた。
 わたくしは以上の記を留めて置いて、此書を富士川氏に返すこととする。
 此年嘉永壬子には未亡人志保五十三、棠軒良安十九、妻柏十八、柏軒並妻俊四十三、妾春二十八、鉄三郎四つ、女洲十二、国九つ、安一つ、蘭軒の遺女長三十九、全安の女梅三つであつた。

     その二百八十二

 嘉永六年は蘭軒歿後第二十四年である。正月十三日に棠軒良安は家督相続をした。「跡式無相違大御目付触流被仰附」と、棠軒公私略に云つてある。
 二月二十二日棠軒は亡父の遺した阿部家の紋服を著ることを稟請した。公私略に載する「口上之覚」はかうである。「亡父一安拝領仕候御紋附類私著用仕度奉願上候以上。」稟請は二十七日に裁可せられた。
 三月二十六日に里開(さとびらき)をした。公私略に「里開、松川町実家へ行」と云つてある。田中淳昌(じゆんしやう)の未亡人杉田氏八百の許へ往つたのである。
 四月六日に棠軒の生母杉田氏が歿した。公私略にかう云つてある。「六日午後実母公得卒中風、昏睡不醒、吐濁唾煤色。夕刻遂に御卒去被遊候。」八日に喪が発せられた。「表発は八日差出す。」
 五月に棠軒は阿部正弘の侍医となつた。是は歴世略伝に拠るのである。想ふに棠軒当時の身分は表医師で、此時奥詰などの命を拝したものか。公私略には記載を闕いてゐる。
 当時阿部伊勢守正弘は老中に列せられてより既に十一年を経てゐた。勝手掛として幕府の財政を行ふこと十年、海岸防禦事務取扱、後の所謂海防掛として外交の衝に当ること九年にして、齢(よはひ)は三十五歳であつた。
 前年壬子の暮に正弘は封一万石を加へられ、此月備後及備中に於て込高(こみだか)共一万千七百六十六石一斗二合七勺九秒を給せられた。公私略に「五月三日御加増御祝金七両頂戴被仰附」と云ふものが即是である。
 米国の少将ペリの率た艦隊は前年壬子十月十三日(一八五二年十一月二十四日)に抜錨し、前月十九日(一八五三年五月二十六日)に琉球那覇港に著し、此月二十六日(七月二日)に那覇港を発して浦賀に向つた。その浦賀に入つたのは翌月三日(七月八日)である。棠軒が侍医の命を拝したのは、米艦隊の浦賀に入る前月である。
 此月五月十四日に棠軒は妻(さい)柏(かえ)、柏軒の妻俊(しゆん)、狩谷懐之(くわいし)、小野富穀(ふこく)等と向島に遊んだらしい。わたくしは良子刀自の蔵する狩谷氏俊の遺稿に拠つて言ふのである。遺稿は月日が書してあつて、年が書してない。しかし柏の妊娠の事が言つてあるので、此年なることが知られる。胎内の子は次年甲寅の初に生るべき棠軒の女(ぢよ)長(ちやう)である。狩谷懐之を「せうとの君」と書してある。次月六月十日には江戸湾に米艦の砲声が轟き、江戸市中は早鐘を打つとも知らずに、一行は向島に遊んだのである。
 九月十三日に棠軒は山田昌栄の門人となつた。公私略に「山田昌栄先生へ入門」と云つてある。昌栄は蘭門の椿庭業広(ちんていなりひろ)で、家塾は本郷壱岐坂上にあつた。
 棠軒は蘭学首唱者の家に育つた杉田氏八百の生む所でありながら、当時新に師を択ぶに洋医に就かずして椿庭に従つた。しかしその伊沢氏の養嗣子たるを思へば、是も亦怪むに足らない。叔父(しゆくふ)柏軒の洋医方に対する態度は下(しも)に見えてゐる。此条と参照すべきである。
 且棠軒の主正弘は四年前に洋医方に対する態度を明にしてゐる。「近来蘭医増加致し、世上之を信用する者多く之ある由相聞え候。右は風土も違候事に付、御医師中は蘭方相用候儀御制禁仰出され候間、其意を得、堅く相守るべき事。」是は己酉五月に令したものである。「横浜開港五十年史」はこれを引いて正弘を陋(ろう)としてゐるが、渡辺修次郎さんは「川路聖謨之生涯」を引いてこれを反駁した。「聖謨は西洋の科学術藝を歎賞したれども、此頃日本に行はれし西洋家の医師に未だ十分の信用を置かず、是れ洋式医師の未だ経験に乏しき輩多きのみならず、西洋に於ける斯学の真訣未だ全く伝らざるに由来せしなりとぞ、阿部勢州又其後小栗上州なども亦斯る説ありしと聞けり」の文である。小栗上州(をぐりじやうしう)は上野介忠順である。
 此年棠軒二十、妻柏十九、全安の女梅四つ、柏軒並妻俊四十四、妾春二十九、子鉄三郎五つ、女洲十三、国十、安二つであつた。

     その二百八十三

 安政元年は蘭軒歿後第二十五年である。前年癸丑十一月十三日に徳川家定に将軍宣下があつて、阿部正弘は将軍宣下用掛を勤めた。外交はペリの米艦隊の去つた後、プウチヤチイヌの露艦隊が癸丑七月十八日を以て長崎に入り、次でペリの艦隊が此年甲寅正月十日を以て再び浦賀沖に来た。正弘等の浦賀に派した応接掛の中には、蘭軒等の総本家の当主、此稿の首(はじめ)に載せた伊沢美作守政義(みまさかのかみまさよし)が加はつてゐた。一行の首席は復斎林□(ふくさいりんゐ)で、随員には柳浪松崎純倹(りうらうまつざきじゆんけん)があつた。此折衝の結果は日米間に締結せられた下田条約で、尋で日英、日露の条約も亦此甲寅の年に成つたのである。
 棠軒の家には正月に長女長(ちやう)が生れた。公私略に「甲寅正月廿四日朝卯中刻女子出産、名長」と云つてある。後に津山碧山に嫁した長子刀自である。
 其他には棠軒の分家にも、柏軒の又分家にも特に記すべき事が無い。しかし塩田真さんの語る所に拠れば、当時の此二家の平和なる生活を窺ふに足るものがある。
 塩田氏はかう云つた。「いつの事であつたか、小野の家に子供の祝事があつて、茶番の催をしたことがある。狂言名題は其頃河原崎座で興行してゐたものに依つた。河原崎座は天地人に象(かたど)つて、天は天一坊、地は地雷太郎、人は人麿お六であつた。天一坊は当時の河竹新七が小団次のために書卸したものであつた。こちらは其天地だけを取つて、人麿お六の代に忠臣蔵三段目の道行を出すことにした。此催の発起人は柏軒で、狂言為組(しくみ)は矢島とわたくしとの受持であつた。平生から矢島は河竹の差図を受け、わたくしは桜田治助の差図を受けてゐたので、此時矢島が河竹へ正本(しやうほん)を借りに往つた。然るに河竹は、いかに心安い間でも、興行中の正本を貸すことは出来ぬと云つてことわつた。是は尤の事なので、わたくし共は諦めた。河原崎座の狂言は二人共度々見たが、なか/\白(せりふ)を諳(そらん)じ尽すわけには行かぬので、それから毎日二人で立見に往つた。さて仕組に掛かつて、天一坊はお三婆殺しと横田川巡礼殺しとを出し、地雷也は妙高山と地獄谷とを出し、それにお軽勘平の道行を出して、此道行に落(おち)を附けることにした。本はどうやら出来上つて、それから役割をすることになつた。稽古の場所は始から極まつてゐて、丸山の伊沢である。これは榛軒在世の時からの慣例で、榛軒は役を引き受けたことはないが、柏軒は其頃からわたくし共の夥(なかま)にはいつた。」
 塩田氏の談話は未だ尽きぬが、わたくしは此に註を插(さしはさ)みたい。此茶番が此年甲寅に催されたと云ふことは、天一坊書卸の年と云ふより推すことが出来る。作者河竹新七は後の黙阿弥で、所謂天地人に象つた作は「吾嬬下(あづまくだり)五十三次」である。此年新七は、三月に中村座から転じて来て、忍(しのぶ)の総太を演じた四代目市川小団次に接近した。所謂「都鳥廓白浪(みやこどりながれのしらなみ)」である。次が八月狂言の「吾嬬下五十三次」で、天一坊は小団次、地雷也は嵐璃寛(りくわん)、お六は坂東しうかであつた。
 小野氏は渋江氏の親戚である。当時道瑛令図(だうえいれいと)が猶健(すこやか)であつた。抽斎の祖父本皓(ほんかう)の実子で、甲寅には七十二歳になつてゐた。令図の嫡子道秀富穀(だうしうふこく)は四十八歳、富穀の子道悦は十九歳であつた。「子供の祝事」とは恐くは道悦の子女の七五三などであつただらう。
 茶番の為組をした矢島は抽斎の次男優善(やすよし)で、三年前辛亥に矢島玄碩の末期養子となつたのである。甲寅には二十歳、当時良三(りやうさん)と称してゐた談話者塩田氏より長ずること二歳であつた。

     その二百八十四

 わたくしは塩田氏の語る所の茶番の事を此年甲寅の下(もと)に繋(か)けた。茶番は小野令図一家のために催されたもので、恐くは令図の曾孫の七五三などの祝であつただらう。狂言の種は河竹新七作の吾嬬下五十三次より取つて、これに忠臣蔵を接続し、矢島優善と塩田氏とが筆を把つた。稽古の場所は棠軒の家であつた。塩田氏は下(しも)の如くに語を続いだ。
「是は素人狂言の常で、実は本職の役者の間にも動(やゝ)もすれば免れぬ事だが、都合好く運んで来た茶番の準備が役割の段に至つて頓挫した。新七の筋立から取つたものは、前に云つた通、天一坊と地雷也とであるが、其天一坊に殺されるお三婆は誰に持つて行つても引き受けぬ役であつた。初め一同は此役を上原元永(げんえい)に持つて行つた。それは上原が婆面(ばゞづら)をしてゐるからと云ふわけであつた。しかし元永は聴かない。次に上原全八郎に持つて行つた。是も聴かない。次に成川貞安(なりかはていあん)と云ふ男に持つて行つた。是は伊沢の当主良安の里と同じ町に住んで、外科で門戸を張つてゐる医者であつた。或年清川玄道の家の発会(ほつくわい)に往つた帰に、提灯の火が簔に移つて火傷(やけど)をして、ひどく醜い顔になつた。此男なら異議はあるまいと云ふので持つて行つたのである。然るに成川は云つた。己は勿論この顔で好い役をしようとは思はない。しかしお三婆だけは御免を蒙る。どうぞ山賊の子分にでもしてくれと云つた。お三婆の役がこんなに一同に嫌はれたのは、婆になるのがつらい上に、絞め殺されなくてはならぬからであつた。此時わたくしは決心してかう云つた。宜しい。そんなに皆が嫌ふなら、お三婆は己が引き受けよう。しかし己は条件を附ける。己は婆になる代に、跡の役は極好い役でなくては勤めないと云つた。わたくしはかう云つて、とう/\婆殺しの次の巡礼殺しの場に出る観音久次(くわんのんきうじ)実は大岡越前守を貰ひ、又忠臣蔵ではお軽を貰つた。さて茶番が原来小野のために催されるのだから、道悦に花を持たせて、天一坊と忠臣蔵の勘平とを割り当てた。上原元永は地雷太郎になつた。柏軒、全八郎などにもそれ/″\端役が附いた。次は振附の問題であつた。それは忠臣蔵三段目に清元の出語(でがたり)を出すから、是非入用なのである。幸(さいはひ)柏軒の病家に藤間しげと云ふ踊の師匠があつたので、それを頼んだ。これで稽古には取り掛かることが出来た。一同毎日丸山の伊沢の家に集つて熱心に稽古をした。そして旁(かたは)ら小野の家に舞台を急造し、小道具、衣裳などを借り出すことに尽力した。小野は工面が好くて、薬研堀(やげんぼり)の家は広かつたので、万事都合が好かつたが、只一つ難儀な事には、座敷の向が花道を向つて右に附けねばならぬやうになつてゐた。是はどうにも改めやうがないので、其儘で我慢することにした。残る所は小道具、衣裳の借出しだけである。」
 塩田氏の談話は未だ尽きない。談は此より小道具、衣裳借出しの手段、茶番当日の出来栄に入る。

     その二百八十五


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