伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

     その二百六十四

 わたくしは此に塩田氏の観劇談を書き続ぐ。それはわたくしの此年嘉永壬子の事だと以為(おも)ふ談(はなし)である。塩田氏は既に七代目団十郎の寿海老人が己に四代目団十郎の演じた勧進帳の正本を返す時、菓子折を添へて茶屋の二階に送り、同行の師榛軒がこれに報復する所以を問うたことを語つて、さてかう云つた。
「其時わたくしは別にどうしようと云ふ定見もなかつたので、榛軒先生に、さやうでございます、どういたしたものでございませうかと反問した。先生は云はれた。どうだ、其本を寿海に遣らんかと云はれた。わたくしはすぐに承諾した。そこで一行の先輩の間に、これを贈るにどう云ふ形式を以てするが好いかと云ふ評議があつて、結局折り返して使に本を持たせて還すのは面白くない、幸(さいはひ)同行清川安策の父玄道は寿海を療治してゐるから、これに託して寿海の宅へ送つて遣るが好いと云ふことになつた。そこで寿海の使をば、菓子折の礼を言つて帰した。」
「わたくしは其夜一行と別れる時、正本を安策に託した。数日の後、安策はわたくしに寿海の玄道に謂(い)つた詞(ことば)を伝へた。御本は有難く頂戴いたします。お若い方がわたくしの藝を古い本に引き較べて看て下さつた御心入に、わたくしは深く感激いたしました。今後は塩田様も折々宅へお遊にお出下さるやうにと云ふことであつた。」
「わたくしは或日渋江抽斎の次男優善(やすよし)と一しよに寿海の宅を訪うた。優善は前年以来矢島氏を称してゐた。二人が往つて見ると、寿海の宅では丁度大功記の稽古が始まつてゐた。俳優は春永坂東竹三郎、光秀四代目坂東彦三郎、蘭丸市川猿蔵であつた。竹三郎は四代目彦三郎の養子で、後の五代目彦三郎である。四代目彦三郎は後の亀蔵である。二人共明治の初までながらへてゐた人である。」
「わたくし共は暫く稽古を見てゐた。すると猿蔵の蘭丸が鉄扇で彦三(ひこさ)の光秀を打擲した後、其扇をぽんと投げた。寿海はそれを見て苦々しい顔をして云つた。猿。その投様はなんだ。まるで息抜がしてゐる。おれが遣つて見せうと云つた。そして扇を取つて起つて投げて見せた。なる程いかにも力が籠つてゐた。此時彦三が寿海に問うた。若し其鉄扇が離れた処に落ちてゐたら、どうして取り上げたものでせう。春永の引つ込んだ跡で、ゐざり寄つて取り上げたものでせうかと問うた。寿海の答はかうであつた。いや、それは見苦しくて行けない。春永の前に平伏する時、見物の気の附かぬ位鉄扇の方へゐざり寄つて、平伏ししなに素襖(すあう)の袖で鉄扇を掻き寄せればわけはない。さうして置いて頭を上げる時鉄扇を取り上げるが好いと云ふのであつた。」
「稽古が済んでから、わたくし共は寿海と話をした。其間にわたくしは寿海に問うた。舞台では随分長い間坐つてお出でせうが、□(しびれ)がきれるやうな事はありませんかと問うた。これは父楊庵が二十四貫八百目の体で、主君の前に伺侯してゐて、いつも□がきれて困ると云つてゐたからである。寿海は答へた。それは□のきれぬやうにしてゐます。足の拇指さへ動してゐれば、□はきれませぬと答へた。わたくしは帰つて父に伝授したが、其後父は□に悩まされることがなくなつた。」

     その二百六十五

 わたくしは塩田氏の観劇談を此年嘉永壬子の事とした。それは寿海の剃髪して演じた勧進帳が其名残狂言らしくおもはれ、名残狂言の勧進帳が壬子の年に演ぜられたと聞いてゐるからである。しかし今わたくしの手元には演劇史料となるべき書は殆ど一部も無い。寿海の名残狂言の年は果して壬子であつたか。壬子ならば其何月であつたか。名残狂言の中幕に勧進帳を出した後に、四世薪水(しんすゐ)が果して大功記を演じたか。凡そ此等の事は、極めて知り易かるべきものでありながら、わたくしはこれを検することを得ない。
 わたくしは姑(しばら)く此に二三の推測を附記して置く。其一は勧進帳の演ぜられた劇場である。彼勧進帳が若し寿海の名残狂言であつたなら、是は塩田氏の談を書き取つた渋江氏の云ふ如く、必ずや河原崎座であつただらう。
 其二は彼勧進帳が壬子の年の何(いづ)れの月に演ぜられたかと云ふことである。これを観た一行に榛軒が加はつてゐたことをおもへば、その九月以前なるべきことは勿論である。榛軒は十月に大病に罹つて、十一月に歿したからである。爰(こゝ)に寿海の榛軒に与へた一通の書牘があつて、是も亦文淵堂の花天月地(くわてんげつち)中に収められてゐる。其文はかうである。「新春の御祝儀万々歳御目出度、兼々御揃被遊御機嫌様宜しく入らせられ大寿至極恐悦奉申上候。誠に昨年の御蔭にて子も親もうち揃ひ、本の目出たき春に出勤仕候。有難々々御厚礼奉申上候。扨又父子へ御肴料として金五百疋御祝ひ被下、恐入々々頂戴仕候。坂の若先生昨日わざ/\御持参被成被下奉恐入候。十三日に初日出申候。ことに此度は悴事朝より出つづけにて、幕間(まくあひ)も取込居り候間、失礼ながら老筆にて御礼の御受申上候。且又先達(せんだつて)より悴が一寸申上置候よし、甚だ□末(そまつ)のささ折奉御覧入候。御笑味奉願上候。どうか此度は是非々々御見物願上候。甚子自慢も恐入候が、大役首尾能相勤居申候。乍恐御悦被遊可被下候。何とぞ/\御奥様へも山々よろしく願上候。可祝(かしく)。十五日。寿海老人白猿拝。井沢先生様。」文の首(はじめ)に「新春の御祝儀」と云ふより見れば、「十三日」は正月十三日である。榛軒が金を餽(おく)つて賀し、寿海が必ず来り観むことを請ふを見れば、此興行は廉(かど)ある興行でなくてはならない。「子も親もうち揃ひ本の目出たき春に出勤仕候」は富樫辨慶で、「甚子自慢も恐入候が、大役首尾能相勤居申候」は其富樫ではなからうか。若し然らば寿海の名残狂言の勧進帳は、壬子の年の春狂言で、其初日は正月十三日であつただらう。又寿海は辛亥の年に病んで榛軒の療治を受けたものとおもはれる。金を寿海の家に齎した「坂の若先生」とは誰か。若し柏軒ならば、何故に「坂」と云ふか。或は「若先生」は清川安策で、父玄道あるが故に云つたものか。
 以上記し畢(をは)つた後、近世日本演劇史と歌舞伎新報とを小島政二郎さんに借りて看た。七世団十郎は壬子の九月と十一月とに勧進帳を演じた。新報に拠るに、一世一代は前者であつた。然れば団十郎父子の正月に演じた狂言は別である。四世薪水の大功記の事は演劇史に見えない。是等は根本資料に泝(さかのぼ)つて検せなくてはならない。
 尋で小島氏は豊芥子の歌舞伎年代記続編嘉永五年の下(もと)に、四世薪水の大功記が「十一月七日より顔見世」になつたと云つてあることを報じた。しかし蘭丸は猿蔵でなくて市蔵になつてゐたさうである。是に於て壬子九月に榛軒が勧進帳を観、十月若くは十一月初に塩田、矢島が寿海の家を訪うたことが明なるに至つた。

     その二百六十六

 わたくしは此年嘉永壬子十一月十六日に榛軒の歿したことを叙し、次に編日の記を続いで歳暮に至り、最後に壬子年間の事にして月日を詳にせざる塩田氏の観劇談に及んだ。然るにわたくしの獲た所の資料中には、榛軒に関する事蹟にして年月日の下(もと)に繋くべからざるもの、若くは年月日不詳なるものが数多(すうた)有る。そして其大半は曾能子刀自の記憶する所である。榛軒は蘭軒の継嗣であるのに、同藩の人々と雖も、その平生を悉(つく)してゐるものが無い。是には後に記すべき弟柏軒に比するに、其生涯の波瀾に乏しかつたのも、一原因をなしてゐるだらう。又蘭軒は著述を喜ばなかつたとは云ひながら、猶若干の文字を後に貽(のこ)したのに、榛軒に至つては殆ど全く筆墨を弄せなかつたのも、一原因をなしてゐるだらう。榛軒の人となりの知り難いこと既に此の如くである。わたくしの獲た所の零砕の資料も、これを思へば軽々しく棄てられぬのである。
 しかし此資料はわたくしをして頗る整理に艱(なや)ましめる。わたくしは已むことを得ずして一種の序次なき序次を立てた。そして先づ年中行事より筆を著ける。
 榛軒の世には新年の発会が盛であつた。来り会するものは約百人であつた。時刻は午前より夜に及んだ。午は飯を饗し、夕は酒□(しゆかう)を饗した。少壮者は往々夜宴の開かるるを待ち兼ねて、未の下刻頃より「もう日が暮れた」と叫びつつ、板戸を鎖し蝋燭を燃やし、酒饌(しゆぜん)の出づるを促した。
 曾能子刀自は当時の献立を記憶してゐる。例之(たとへ)ば午、吸物摘入、小蕪菁(こかぶ)、椎茸、平昆布、大口魚(たら)、鱠(なます)、千六本貝の柱、猪口はり/\、焼物生鮭粕漬、夕、吸物牡蠣海苔、口取蒲鉾卵橘飩(きんとん)青海苔を塗(まぶ)したる牛蒡鯛の小串、刺身比目魚(ひらめ)黒鰻(まぐろ)、大平(おほひら)鯛麪(たひめん)、旨煮(うまに)烏賊牛蒡土当帰(うど)、概(おほむね)此類であつた。午は少壮者が健啖を競ふので、特に多く準備した。
 宴を撤するに先だつて総踊と云ふことがある。客が一斉に起舞するのである。床板は屡踏み破られた。
 三月上巳の節句は天保丙申の条に記した。
 五月十三日には関帝を祭つた。関帝は蜀の関羽で、明の万暦中に「協天護国忠義大帝」の号を贈られたのださうである。榛軒の書斎には三位(ゐ)の神像が安置してあつた。関羽、菅原道真、加藤清正である。
 像には皆来歴がある。関帝の原像は本所五百羅漢寺の門にあつた。榛軒は彫工運長と云ふものに命じて□刻せしめた。按ずるに文淵堂の花天月地(くわてんげつち)に、榛軒が七代目市川団十郎所蔵の関帝像を還した時の団十郎の文がある。或は榛軒はこれを借りて家蔵の像に補刀を加へしめたのではなからうか。文はかうである。「拝見仕候。如仰梅天不正之儀に御坐候。陳者関帝御返却被下、慥に謹領仕候。遠方御人遣奉恐入候。只今講釈中貴報耳早々申上候。後刻拝趨万々可申上候。頓首。即日。寿海。榛軒先生奉復。二陳。賤姪(せんてつ)へよろしき御品御恵投、大に難有御厚礼申上候。喜気満面御遠察可被下候。」
 関帝は厨子の裏(うち)に安置せられた。此厨子にも亦来歴があつて、像に比すれば更に奇である。

     その二百六十七

 わたくしは榛軒の毎歳五月十三日に祭つた関帝像の来歴を語つて、未だ其厨子の縁起に及ばなかつた。厨子には四具足が添へてある。香炉、花瓶、燭台、酒爵(しゆしやく)である。厨子と云ひ、什器と云ひ、皆川村伝右衛門と云ふ人の贈る所である。伝右衛門は今の第三十三銀行頭取川村伝(つたふ)さんの祖父である。
 什器は青銅で鋳たもので、酌源堂の文が鐫(せん)してある。其酒爵は聖堂に於て釈菜(せきさい)に用ゐるものを模したのである。川村氏は長崎の工人に命じて此什具を鋳造せしめた。然るにこれを載せて長崎より江戸に至る舟は覆没した。
 一年の後、川村氏は既に什器の事を忘れてゐると、或日品川へ一の匣(はこ)が漂着した。幸に封緘故(もと)の如くで、上に題した宛名も滅(き)えなかつたので、此エパアヴは川村氏の手に達した。川村氏は匣を携へて榛軒の所に至り、共に開いて検するに、四器一も毀損せずにゐた。関帝像、厨子、什器、皆現に徳(めぐむ)さんの家にある。
 関帝祭器の漂著は事既に奇である。しかし此に猶一奇事の附載すべきものがある。榛軒は関帝を祭る日に、先づ本所の五百羅漢寺に詣(いた)つて原像を拝し、次で家に還つて□像を祭るを例とした。某年に本所に往つて関帝の前に拝跪し、さて身を起さむとすると、手に一物が触れた。取り上げて見れば小柄(こづか)であつた。更に熟視すれば、□上(はじやう)の象嵌は関帝であつた。遺失者を訪ぬる道もないので、榛軒は持つて帰つた。此小柄は後請ふ人があつて譲り与へた。
 榛軒は関帝を祭る日に、客に卓子(しつぼく)料理を饗した。円卓の一脚に機関があつて回転するやうにしてあつた。中央に円い皿一枚、周匝(めぐり)に扇形の皿八枚を置いた。扇形の皿には各別種の□(さかな)を盛つてあつて、客は卓を旋廻して好む所の□を取ることが出来た。
 わたくしは前に榛軒の書斎に、関帝を除く他(た)、菅公と加藤肥州との像が安置してあつたと云つた。菅公像は太宰府天満宮の飛梅を材として刻したもの、又加藤肥州像は熊本より勧請(くわんじやう)し来つたものであつた。
 七月の盂蘭盆会には毎歳大燈籠を貼らせ、榛軒が自ら達磨を画いた。
 歳暮が近づけば屠蘇を調合する。其準備は十二月の半に始まる。調合の日は二十日である。是日には柏軒も来り、外弟子も来り、塾生と共に調合して、朝より夕に至る。其室には女子の入ることを許さない。幕府と阿部家とに献ずるものは、薬袋(やくたい)に題する屠字の右肩に朱点を施して糅雑(じうざつ)すること莫(な)からしめた。調合畢(をは)れば、柏軒が門人等を神田大横町の蕎麦店今宮へ率(ゐ)て往き、蕎麦を振舞つた。大抵其員数は三十人許であつた。此より一行は神田明神社に参詣し、各人三十二文の玩具(おもちや)を買つて丸山の家に持つて帰つた。翌朝闔家(かふか)のものが一斉に起き出で、諸弟子の遺(おく)る所の玩具を観て笑ひ興じた。

     その二百六十八

 わたくしは榛軒の世に於ける伊沢氏の年中行事を叙して歳暮に至つた。
 歳暮には幕府と阿部家とから金を賜はつた。幕府は躋寿館に書を講ずるがために賞するので、其賜(たまもの)は毎年銀五枚であつた。
 幕府の賞を受けた日には、榛軒は往々書を買つて人に贈つた。曾能子(そのこ)刀自は柏(かえ)と呼ばれた当時姫鏡(ひめかゞみ)、女大学、女孝経等をもらつたことを記してゐる。
 某(それ)の年榛軒は藩主の賞を受けて帰るとき、途に鳥屋の前を過(よぎ)つた。偶(たま/\)鳥屋の男の暹羅鶏(しやも)の頸を捩らうとしてゐるのを見て榛軒はそれを抑止し、受くる所の金を与へ、鶏を抱いて帰つた。黒縮緬の羽織が泥土に塗(まみ)れた。鶏は翌日浅草観音の境内に放つた。
 歳暮には受賞の祝宴と冬至の宴とがあつた。某年の歳暮の宴に、客の未だ到らざる前、榛軒は料理人上原全八郎と共に浴した。浴し畢(をは)つて榛軒は犢鼻褌(とくびこん)を著け、跳躍して病人溜(だまり)の間を過ぎ、書斎に入つた。上原も亦主人に倣つて、褌(こん)を著け、跳躍して溜の間に入つた。然るに榛軒の既に去つて、上原の未だ来らざるに当つて、治を請はむがために訪うた一夫人が盛妝(せいさう)して坐してゐた。上原は驚いて退いた。榛軒は衣を整へて出でて夫人を見て云つた。「只今は執事が失礼をいたしました。平生疎忽な男で。」
 年中行事は此に終る。わたくしはこれに継ぐに神仏の事を以てする。榛軒は神を敬し仏を礼した。詩中にも経を誦すと云つてゐる。又遺言に誦経の事のあつたのも上(かみ)に記した如くである。其居室に関帝、菅公、加藤肥州等を祀つてゐたことは、年中行事に載せた。此敬神の傾向が弟柏軒に至つて愈(いよ/\)著(いちじる)くなつたことは後に言ふこととする。
 榛軒は啻(たゞ)に関帝等の像を居室に安置したのみならず、又庭に小祠を建ててゐた。祠には八幡大菩薩と摩利支天とを祀り、礎下(そか)には冑が埋めてあつた。其名を甲蔵(かふざう)稲荷社と云つたのは、人家の祀る所の神が多くは稲荷であつて、甲冑の二字は古来転倒して用ゐられてゐたからである。祭日には白山神社の神職を招いた。神饌(しんぜん)は酒、餅、赤飯、竹麦魚(はうぼう)、蜜柑、水、塩の七種であつた。素(もと)此祠は阿部家に於て由緒あるものであつたので、祭日には阿部侯の代拝者が来た。
 猶此に附記すべき事がある。それは榛軒の家に白木の唐櫃に注連繩(しめなは)を結ひ廻したものが床の間に飾つてあつたことである。櫃の中には後小松帝の宸翰二種と同帝の供御(ぐご)に用ゐられた鶴亀の文ある土器とが蔵してあつた。宸翰は大字の掛幅(くわいふく)と色紙とであつた。是は素榛軒の祖父信階(のぶしな)の師武田長春院の家に伝へてゐた物であつたが、武田氏は家道漸く衰へて、これを商賈の手に委ねむとした。其時榛軒が金を武田氏に与へて請ひ受け、他日買戻を許すと云ふ条件を附して置いたのである。後榛軒の養子棠軒(たうけん)は家を福山に徙す時、此櫃を柏軒の家に託した。柏軒の嗣磐(いはほ)の世に至つて、世変に遭つて其所在を失つた。
 榛軒が常に追遠の念に厚い嗣子を養はむことを欲してゐたのも、此の如きピエテエの性より出でたものである。幸に養子良安は祖先を敬することを忘れなかつた。

     その二百六十九

 榛軒の軼事(いつじ)中わたくしは次に講学の事を書く。しかし其受業の師は前に載せたから今省く。
 榛軒は毎月一六の両日躋寿館に往いて書を講じた。塾生中午食の辨当を持つて随従したものは、柴田常庵、柴田修徳、高井元養、島村周庵、清川安策、雨宮良通(あめのみやりやうつう)、三好泰令等であつた。皆榛軒門人録に見えてゐる人々である。
 榛軒の家に医書を講ずる会を開いたのは、毎月九の日であつたと云ふ。天保壬辰三月の柏軒の日記に、九日に多紀□庭(たきさいてい)が傷寒論を講ずることを休み、榛軒が上直(じやうちよく)したと云つてある。□庭を丸山に迎へたのであらうか。又此三月には榛軒が十日十五日に外台秘要を講じてゐる。按ずるに講書の日は必ずしも年々同一ではなかつたかも知れない。
 榛軒の家には、月六斎に塾生のために開く講筵があつた。渡辺魯輔(ろすけ)を請じて経書を講ぜしめ、井口栄達を請じて本草を講ぜしめたのである。渡辺氏、名は魯、一の名は正風(せいふう)、樵山(せうざん)と号した。松崎慊堂(かうだう)の門人である。当時麻布六本木に住んでゐた。明治六年に五十三歳を以て歿したと云ふより推せば、榛軒の歿した嘉永壬子には三十二歳であつた。井口は扇橋(あふぎばし)岡部藩の医官であつたと云ふ。わたくしは此人の事を詳にせぬが、日本博物学年表嘉永二年の条に下(しも)の記事がある。「泉州岸和田侯小野蘭山の本草綱目啓蒙に図なきを慨し、侍医井口三楽に命じて図譜を編輯せしめ、本草綱目啓蒙図譜山草部四巻を刻す。」按ずるに栄達は此三楽であらう。然らば岡部藩とは武蔵岡部の安部氏の藩ではなくて、和泉岸和田の岡部氏の藩であらう。武鑑を検するに、岡部氏の上屋敷は山王隣、中屋敷は霞関、下屋敷は渋谷である。扇橋は恐くは葵橋(あふひばし)の誤であらう。扇橋は当時の町鑑(まちかゞみ)を検するに、現在の深川扇橋を除く外、一も載せてないからである。
 渡辺の経義は塾生等が喜んで聴いたが、井口の本草はさうでなかつた。井口は老人で、説く所の事も道理を推論するのでなく、物類を列叙するのであつたから、塾生等は倦んで坐睡することがあつた。或時井口は其不敬を難詰して、講を終へずして席を起つた。塾生等は驚き謝して纔(わづか)に井口の怒を解くことを得た。
 榛軒は毎旦女(ぢよ)柏(かえ)のために古今集を講じた。又柏に画を学ばせた。是は躋寿館に往く日毎に、柏をして轎(かご)に同乗せしめ、館に至つて轎を下る時、柏を轎の中に遺し、画師の家に舁き往かしめたのである。画師はなほ※[#変体仮名え、8巻-138-上-4]ぶんめいと云ふ人で、旗本の次男であつたと云ふ。わたくしは天保以後の画家中に就いて此名を討(たづ)ねたが見当らなかつた。又旗本中に就いて其氏を求めたが得なかつた。只古い分限帳に直井氏の二家がある。其邸は一は「御浜之内」、一は「湯島天神下」である。皆三四十俵取の家である。画家ぶんめいは或は直井氏ではなからうか。

     その二百七十

 榛軒の逸事は此より医業に関する事に入る。榛軒は流行医で、四枚肩の轎(かご)を飛ばして病家を歴訪した。其轎が当時の流行歌(はやりうた)にさへ歌はれたことは既に上(かみ)に記した。
 榛軒は初め轎丁(かごかき)四人と草履取二人とを抱へてゐた。しかし阿部邸内の仲間等が屡(しば/″\)喧嘩して、累を主人に及ぼすことが多かつたので、榛軒は抱の数を減じてこれを避けようとした。そこで草履取のみを留めて、轎丁は総て駕籠屋忠兵衛と云ふものに請負はせることとした。
 曾能子刀自の記憶してゐる仲間の話がある。某(それ)の年の暮の事であつた。伊沢氏では餅搗をした翌日近火に遭つた。知人(しるひと)が多く駆け附けた中に、数日前に暇(いとま)を遣つた仲間が一人交つてゐた。火は幸に伊沢の家を延焼するに及ばなかつた。其次の日に仲間の請宿の主人(あるじ)が礼を言ひに来た。「昨日はお餅を沢山頂戴いたして難有うございます。手前共ではまだ手廻り兼ねて搗かずにゐましたので、大勢の子供が大喜をいたしました」と云つたのである。榛軒が餅を調べて見させると、まだ切らずに置いた熨餅(のしもち)が足らなかつた。逐はれた仲間が背中に入れて還つたのであつた。
 榛軒は病家を択んで治を施した。富貴の家は努めて避け、貧賤の家には好んで近づいた。毎(つね)に「大名と札差の療治はせぬ事だ」と云つた。しかし榛軒が避けむと欲して避くることを得ずに出入した大名の家は、彼の輓詩を寄せた棚倉侯の外に数多(すうた)あつたことは勿論である。又札差を嫌つたのは、札差に豪奢の家が多かつたからである。因(ちなみ)に云ふ。旗本伊沢氏の如きは榛軒がためには宗族であつた。所謂「総本家」であつた。しかし榛軒は絶て往訪せずにしまつた。
 俳優は当時病家として特別の地位を占めてゐた。俳優は河原者として賤者である。目見以上の官医は公にこれをみまふことを得ない。然れども医にして技を售(う)らむことを欲するものは皆俳優の家に趨つた。
 榛軒は例として俳優の請には応ぜなかつた。「立派な腕のある医者が幾らもあつて見に往つて遣るのだから、何も己が往くには及ばない」と云つてゐた。只市川団十郎父子の病んだ時だけは此例に依らなかつた。団十郎は即七代目と八代目とである。七代目団十郎は人格も卑しからず、多少文字をも識つてゐて、榛軒は友として遇してゐたので、其継嗣にも親近したのである。
 榛軒は市川の家を訪ふに、先づ轎(かご)に乗つて堀田原(ほつたはら)に住んでゐる門人坂上玄丈の家に往き、そこより徒歩して市川の家に至つた。徳(めぐむ)さんの云ふには、前に引いた七代目の書牘(しよどく)に「坂の若先生」と云ふのは、此玄丈の子玄真ではなからうかと云ふことである。市川の家では七代目も八代目も数(しば/\)榛軒の治を受けた。河原崎権之助の女ちかが佝僂病(くるびやう)に罹つた時も、此縁故あるがために榛軒が診療した。権之助は九代目団十郎の養父である。
 榛軒の貧人を療した事に就いては種々の話があるが、今一例を挙げる。福山藩士に稲生(いなふ)某と云ふものがあつた。其妻が難産をして榛軒が邀(むか)へられた。榛軒は忽ち遽(あわた)だしく家に還つて、妻志保に「柏(かえ)の著換を皆出せ」と命じ、これを大袱(おほぶろしき)に裹(つゝ)んで随ひ来つた僕にわたした。是は柏が生れて日を経ざる頃の事であつた。稲生氏は小禄ではなかつたが家が貧しかつた。それに三子(ご)が生れたのであつた。曾能子刀自は云ふ。「わたくしは赤子の時に著の身著の儘にせられたのですが、其後もさう云ふ事が度々あつたのでございます。」

     その二百七十一

 治を榛軒に請うた病家中、其名の偶(たま/\)曾能子刀自の記憶に存してゐるものが二三ある。それは榛軒が其家に往来した間に、特に記憶すべき事があつたからである。
 高束(たかつか)翁助は不眠を患(うれ)へた。榛軒はこれに薬を与へた時、翁助の妻を戒めて云つた。「是は強い薬ですから、どうぞ分量を間違へないやうにして下さい」と云つた。然るに或夜翁助は興奮不安の状が常より劇(はげ)しかつたので、妻は竊(ひそか)に薬を多服せしめた。翁助の興奮は増悪した。後には「己の著物には方々に鍼がある」と叫んで狂奔し、動(やゝ)もすれば戸外に跳り出でむとした。妻は榛軒の許に馳せ来つて救を乞うた。榛軒は熟々(つく/″\)聴いた後に、其顔を凝視して云つた。「薬の分量を間違へはしませんでせうね。」翁助の妻は吃りつつ答へた。「まことに済みませんが、今晩はいつもより病気がひどく起りましたので、少し余分に飲ませました。」榛軒は色を作(な)した。「大方そんな事だらうと思ひました。あなたはわたくしを信ぜないで、わたくしの言附を守らないのですから、此上は療治をお断申します。」云ひ畢(をは)つて榛軒は座を起つた。翁助の妻は泣いて罪を謝した。榛軒は将来を飭(いまし)めた後に往診した。榛軒は門人に薬量の重んぜざるべからざるを説くに、毎(つね)に高束の事を挙げて例とした。
 わたくしの福田氏に借りた文書に徴するに、「慶応四戊辰五月改東席順」中「御者頭格御附御小姓頭高束応助六十三」と云ふものがある。応助は即翁助であらう。是に由つて観れば、高束は文化三年生で、榛軒より少(わか)きこと二歳であつた。
 中井肥後は銀細工人で幕府の用達をしてゐた。家は湯島にあつた。中井は嘗て治を榛軒に請うて其病が□(い)えた。そして謝恩のために銀器数種を贈つた。榛軒は固辞して受けなかつた。中井が其故を問うた時、榛軒は云つた。「兎角さう云ふ物は下人に悪心を起させる本になります。」しかし榛軒は必ずしも病家の器物を贈ることを拒んだのではない。蒔絵師菱田寿作は病の癒えた時、蒔絵の杯を贈つたが、榛軒はこれを受けた。
 細木香以(ほそきかうい)が治を請うた時、榛軒は初め輒(たやす)く応ぜなかつた。しかし切に請うて已まぬので、遂に門人石川甫淳(ほじゆん)をして治療せしめた。石川は榛軒門人録に「棚倉」と註してある。陸奥国白川郡棚倉の城主松平周防守康爵(やすたか)の家来である。此人は榛門の最古参であつたさうである。或日細木は榛軒の妻志保を請じて観劇せしめた。榛軒が異議を挾(さしはさ)まなかつたので、志保は往いて観た。桟敷二間(ふたま)を打ち抜いて設けた席であつた。細木は接待の事を挙げて石川に委ね、自分は午の刻の比に桟敷に来て挨拶し、直に又去つた。因(ちなみ)に云ふ、当時富豪にして榛軒に治を請うたものには、鈴木十兵衛、三河屋権右衛門等があつたが、皆謹厚な人物で、細木の如く驕奢ではなかつた。
 笹屋千代も亦榛軒の病家であつた。榛軒の歿後に重患に罹り、棠軒良安の治を受けて歿した。徳(めぐむ)さんの蔵する所の「茶番忠臣蔵六段目役割台詞」と云ふ小冊子がある。是は千代の病が一時快方に向つた時、床揚の祝のために立案せられたものださうである。わたくしは此に一のキユリオジテエとして其役割を抄する。「母石川貞白、おかる飯田安石、勘平伊沢良安、一文字屋森養真、猟師井戸勘一郎、与一兵衛上原全八郎。」石川貞白、名は元亮(もとあきら)、本姓は磯野氏である。石川の通称は諸文書に或は貞白に作り、或は貞伯に作つてあつて一定しない。津山未亡人の説に従へば当(まさ)に貞白に作るべきである。又其名「元亮」は同じ人の云ふを聞くに「もとあきら」と訓ませたものらしい。上(かみ)に引いた東席順(とうせきじゆん)に「御広間番格奥御医師石川貞白五十八」と云つてある。然らば石川は文化八年生で、榛軒より少きこと七歳であつた。飯田安石は榛軒門人録に見えてゐる。東席順に「表御医師無足飯田安石四十五」と云つてある。然らば文政七年生であつた。此人の事は猶後に再記するであらう。森養真は枳園(きゑん)の子約之(やくし)である。東席順に「御広間番格奥御医師無足森養真三十四」と云つてある。その天保六年生であつたことは既に記した。井戸勘一郎は柏軒の嗣子磐(いはほ)の「親類書」に徴するに、蘭軒の女(ぢよ)長(ちやう)の夫井戸応助の子である。肩書に「御先手福田甲斐守組仮御抱入」と云つてある。上原全八郎は阿部家の料理人である。東席順に「総無足料頭上原全八郎五十六」と云つてある。然らば文化十年生で榛軒より少(わか)きこと九歳であつた。「料頭」は料理人頭歟。

     その二百七十二

 わたくしは既に榛軒の逸事中医治に関する事を録した。そして其末に口碑の伝ふる所の病家を列挙した。此よりは榛軒の友及榛軒時代に伊沢氏に出入した人々の事を言はうとおもふ。
 森枳園は榛軒のためには父の遺弟子である。蘭門の諸子は蘭軒の在世中若先生を以て榛軒を呼び、その歿するに至つて、先生と改め呼んだことは既に云つた如くである。そして青年者(せいねんしや)は真に榛門に移つた。しかし年歯の榛軒と相若(あひし)くものは、前(さき)より友として相交つてゐたので、其関係は旧に依つた。枳園の如きは其一人である。枳園は榛軒より少(わか)きこと僅に三歳であつた。
 曾能子刀自は二人の間の一事を記憶してゐる。或日榛軒は本所の阿部邸に宿直した。其翌日は枳園の来り代るべき日であつた。交代時刻は辰の刻であつた。然るに枳園は来なかつた。榛軒は退出することを得ずに、午餐を喫した。枳園は申の刻に至つて纔(わづか)に至り、深く稽緩(けいくわん)の罪を謝した。
 榛軒は帰途に上つて、始めて此日徳川将軍の「お成(なり)」のために交通を遮断せられたことを聞き知つた。枳園は罪を謝するに当つて、絶てこれを口に上せなかつた。
 榛軒は後に人に謂つた。「森は実に才子だ。若しあの時お成で道が塞がつて遅れたと云つたら、己はきつとなぜお成の前に出掛けなかつたと云つたに違ない。森は分疏(いひわけ)にならぬ分疏などはしない。実に才子だ」と云つた。
 枳園が禄を失つて相模に居た時、榛軒が渋江抽斎等と共に助力し、遂に江戸に還ることを得しめたことは上(かみ)に見えてゐる。
 渋江抽斎も亦榛軒が友として交つた一人である。そして榛軒より少きこと僅に一歳であつた。曾能子刀自はかう云ふことを記憶してゐる。或日柏軒、抽斎、枳園等が榛軒の所に集つて治療の経験談に□(ひかげ)の移るを忘れたことがある。此時終始緘黙してゐたのは抽斎一人であつた。それが穉(をさな)い柏(かえ)の注意を惹いた。客散ずる後に、柏は母に問うた。「渋江さんはなぜあんなに黙つてお出なさるのでせう。」母は答へた。「さうさね。あの方は静な方なのだよ。それに今日はお医者の話ばかし出たのに、あの方はどつちかと云ふと儒者の方でお出なさるからね。」
 金輪寺混外(こんりんじこんげ)は蘭軒の友で、蘭軒歿後には榛軒と交つた。榛軒は数(しば/\)王子の金輪寺を訪うた。曾能子刀自はかう云ふことを記憶してゐる。某年に榛軒は王子権現の祭に招かれて金輪寺に往つた。祭に田楽舞があつた。混外は王子権現の別当であつたので、祭果てて後に、舞の花笠一蓋(かい)を榛軒に贈つた。
 榛軒は花笠を轎(かご)に懸けさせて寺を出た。さて丸山をさして帰ると、途上近村の百姓らしいものが大勢轎を囲んで随ひ来るのに心附いた。榛軒は初めその何の故なるを知らなかつた。
 行くこと数町にして轎丁(けうてい)が肩を換へた。其時衆人中より一人の男が進み出て榛軒に「お願がございます」と云つた。その言ふ所を聞けば花笠を請ふのであつた。当時此祭の花笠を得て帰れば、其村は疫癘を免れると伝へられてゐるのであつた。
 寿阿弥の事は上(かみ)に見えてゐるから省く。曾能子刀自の言(こと)に拠れば、長唄の「初子」は寿阿弥の作である。

     その二百七十三

 わたくしは上に榛軒の友人並知人の事を列叙した。然るに嘗て曾能子刀自に聞く所にして全く棄つるに忍びざるものが、尚二三ある。姑(しばら)く其要を摘んで此に附して置く。実は鶏肋(けいろく)である。
 村片相覧(むらかたあうみ)は福山藩の画師で、蘭軒の父信階(のぶしな)の像、蘭軒の像等を画いた。相覧が榛軒の世に於て伊沢氏に交ること極て親しかつたことは、榛軒が福山に往つてゐた間、毎日留守を巡検したと云ふ一事に徴しても明である。
 相覧の号を古□(こたう)と云つたことは、既に云つた如く、荏薇(じんび)問答に見えてゐる。世に行はれてゐる画人伝の類には此人の名を載せない。只海内偉帖(かいだいゐてふ)に「村片相覧、画、福山藩、丸山邸中」と云つてあるのみである。
 相覧の子を周覧(ちかみ)と云つた。父は子を教ふるに意を用ゐなかつた。周覧は狭斜に出入し、悪疾に染まつて聾(みゝしひ)になり、終に父に疎(うと)んぜられた。榛軒は為に師を択んで従学せしめ、家業を襲ぐことを得しめた。曾能子刀自は家に周覧の画いた屏風のあつたことを記憶してゐる。意匠を河東節の歌曲「小袖模様」に取つたものであつた。わたくしの福田氏に借りた明治二年の「席順」に「第五等格、村片市蔵、三十九」と「第七等席、村片平蔵、廿六」とがある。榛軒の歿した嘉永五年には、天保二年生の市蔵が二十二歳、弘化元年生の平蔵が九歳であつた。周覧の子ではなからうか。初に少時の失行を云云して、後に其人の後の誰なるを推窮するは憚るべきが如くであるが、周覧の能く過を改め身を立てた人なるを思へば、必ずしも忌むべきではなからうか。
 魚屋与助は伊沢氏に出入した魚商である。女(むすめ)が三人あつて、名を松(まつ)菊(きく)京(きやう)と云つた。与助の妻は酒を被(かうぶ)つて大言する癖があつて、「女が三人あるから、一人五百両と積つても千五百両がものはある」と云つた。松は榛軒の妻志保に事(つか)へて、柏(かえ)の師匠の許に通ふ供をした。後日本橋甚左衛門町の料理店百尺(せき)の女中になつて、金を貯へた。京は常磐津の上手で、後小料理屋を出した。此二人は美人であつた。菊は目疾のために容(かたち)を損ひ、京の家に厄介になつた。力士岩木川の京に生ませた子が、後の横綱小錦八十吉(やそきち)である。
 初代善好(ぜんかう)は榛軒に愛せられて、伊沢氏の宴席に招かれ、手品などを演じた。「日蓮の故迹に名ある石禾(いさは)ゆゑ出す薬さへ妙に利くなり」と云ふ狂歌を詠んだことがある。幇間を罷めて後、鍋屋横町に待合茶屋を出した。当時赤城横町は日蓮に賽するもののために賑ひ、鍋屋横町は人行が稀であつた。善好は客が少いので困窮し、榛軒の救助を得て存活したさうである。わたくしは幇間の歴史を詳にせぬが、初代善好とは所謂桜川善好であらうか。桜川善好は甚好の弟子、甚好は慈悲成(じひなり)の弟子だと云ふ。当時の狭斜の事蹟に精(くは)しい人の教を待つ。
 榛軒の友人知人の事は此に終る。次にわたくしは榛軒の門人の事を記さうとおもふ。榛軒門人録には四十五人の名が載せてある。しかし今其行状を詳にすべきものは甚だ少い。わたくしは已むことを得ずして、只偶(たま/\)曾能子刀自の話頭に上つたものを叙列することとする。
 榛軒は門人を待つこと頗(すこぶる)厚かつた。曾能子刀自はかう云ふことを記憶してゐる。或日榛軒は塾生の食器の汚れてゐたのを見て妻に謂つた。「女中に善く言つて聞せて、もつと膳椀を綺麗に滌(あら)はせるやうにせい。諸生も内へ帰れば、皆立派な檀那だからな。」

     その二百七十四

 わたくしは榛軒の門人の事を書き続ぐ。門人中には往々十一二歳より十五六歳に至る少年があつた。清川安策、柴田常庵、三好泰令、雨宮良通(あめのみやりやうつう)、島村周庵、前田安貞(あんてい)、高井元養等が即是である。
 丸山の家の後園には梅林があつた。梅が子(み)を結ぶ毎に、少年等はこれを摘み取り、相擲(あひなげう)つて戯(たはむれ)とした。当時未だ曾て梅子(ばいし)の黄なるを見るに及ばなかつたのである。既にして榛軒が歿し、弟子が散じた。伊沢氏では年毎に後園の梅を□蔵(えんざう)して四斗樽二つを得た。
 榛軒は少年弟子のために明(あけ)卯の刻に書を講じた。冬に至ると、弟子中虚弱なるものは寒を怯れた。そしてこれを伊沢氏の寒稽古と謂つた。
 清川安策孫(そん)は豊後国岡の城主中川氏の医官清川玄道□(がい)の次男であつた。玄道は蘭門の一人で、其長男が徴(ちよう)、次男が孫である。
 伝ふる所に従へば、父玄道は人となつて後久しく志を得ずに、某街の裏店(うらだな)に住んでゐた。家に兄弟十八人があつて、貧困甚だしかつた。しかし玄道は高く自ら標置して、士人の家には門がなくてはならぬと云ひ、裏店の入口に小い門を建てた。又歳旦には礼服がなくてはならぬと云つて、柳原の古著屋で紋服を買つて著た。
 未だ幾(いくばく)ならぬに玄道は立身した。その目見医師の班に加はつたのは年月を詳にせぬが、躋寿館の講師に任ぜられたのは天保十四年十一月十六日である。即ち榛軒と年を同じうして登館したのである。武鑑を検するに、目見医師清川玄道の家は「木挽町」であつた。
 目見医師玄道の次男安策孫は医を榛軒に学び、後兄徴の死するに至つて玄道と称した。維新後其技大いに售(う)れて、一時多く浅田宗伯に譲らなかつた。徳(めぐむ)さんは少時医を此玄道に学んだ。清川氏の裔(すゑ)は今大津に居ると云ふ。
 柴田常庵は柴田芸庵(うんあん)の子だと云ふ。柴田氏は古く幕府に仕へて、林家の文集に東皐元泰(とうかうげんたい)、竹渓元岱(ちくけいげんたい)の墓誌があり、大槻磐渓の寧静閣集に洛南元春(らくなんげんしゆん)の墓誌がある。又武鑑を検するに、麹町の元泰、三十間堀の元春、木挽町の芸庵がある。皆同族なるが如くであるが、今遽(にはか)に其親属関係を詳にすることを得ない。
 常庵は少(わか)うして榛軒に従学し、其内弟子となつた。当時常庵は家に継母があつて、常庵を遇すること甚だ薄く、伊沢氏に寓するに及んでも、衾褥(きんじよく)を有せなかつた。榛軒は悉(こと/″\)くこれを仮給した。
 常庵は※巧(けんかう)[#「にんべん+環のつくり」、8巻-147-下-13]なる青年であつた。或時塾を出でて還らざること数日であつた。そして其衣箱(いさう)を披(ひら)けば、典(てん)し尽して復一物を留めず、伊沢氏の借す所の衾褥も亦無かつた。
 榛軒は人を派して捜索し、遂に常庵の蕨駅の娼家にあるを知つて率(ゐ)て帰つた。そして書斎の次の三畳の間に居らせた。数日の後、常庵は又逃げた。榛軒は再び率て帰り、三畳の間に居らせ、清川安策に其次の二畳の間にあつて監視することを命じ、纔(わづか)に其逃亡を阻ぐることを得た。時に常庵は年甫(はじめ)て十四であつた。
 常庵は長じて幕府の医官となつた。其叔母は清川玄道の妻である。
 常庵は医官となつた後も、筵席に□(のぞ)めば必ず踊つた。「綱は上意」が其おはこであつた。維新の後、常庵は狂言作者となつて竹柴寿作と称し、五代目坂東彦三郎に随従してゐた。妻は大坂の藝妓であつた。常庵改寿作の死んだ時、甲斐性のある妻は立派な葬儀を営んで人に称讚せられた。
 常庵の同族三十間堀柴田の裔(すゑ)は俳優となつて中村福寿と称し、後廃業して呉軍港に料理店を開いてゐると云ふ。

     その二百七十五

 石川貞白、本磯野氏、名は元亮(もとあきら)、通称は勝五郎であつた。文化八年生で、榛軒より少きこと七歳であつたことは上(かみ)に見えてゐる。父某が阿部家に仕へて武具を管してゐると、其同僚が官物を典して銭を私したので、連坐せられて禄を失つた。当時貞白は既に妻があつた。妻は公卿の女(むすめ)であつた。貞白は父母、妻、一弟二妹、一子と共に小島宝素の邸に寄寓した。
 貞白は素(もと)頗(すこぶる)医薬の事を識つてゐたので、表向榛軒の門人となり、剃髪して技を售(う)ることとなつた。その石川氏を冒し、貞白と称したのは此時である。
 貞白が開業の初に、榛軒は本郷界隈の病家数十軒を譲り与へて、其一時の急を救つた。一家八人は此に由つて饑渇を免れた。
 渋江保さんは当時の貞白の貧窶(ひんる)を聞知してゐる。貞白は嘗て人に謂つた。「己の内では子供が鰊□(かずのこ)を漬けた跡の醤油を飯に掛けて、饅飯だと云つて食つてゐる」と云つた。又或日貞白は柏軒の子鉄三郎を抱いて市に往き、玩具(おもちや)を買つて遣らうと云つた。貞白は五十文から百文まで位の物を買ふ積でゐた。すると鉄三郎が鍾馗の仮面(めん)を望んだ。其価は三両であつた。貞白は妻の頭飾(かみのもの)を典してこれを償うた。柏軒は後に聞き知つて気の毒がり、典物を受け出して遣つた。鉄三郎は榛軒の歿年に四歳になつてゐた。
 貞白は機敏であつた。その伊沢分家、同又分家、渋江氏等と交つて、往々諸家の内事を与(あづか)り聞いたことは、わたくしの既に屡(しば/″\)記した所である。
 貞白は学を好んで倦まなかつた。医学よりして外、国語学に精(くは)しく、歌文を作つた。榛軒の家に開かれた源氏物語の講筵には、寿阿弥と此人とが請ぜられた。又善書であつた。夜書を読んで褥に臥せず、疲るゝときは頭に羽織を被つて仮寐(かび)した。
 貞白は酒を嗜(たし)んだ。そして動(やゝ)もすれば酔うて事を誤つた。榛軒は屡□(いまし)めたが功が無かつた。終に「己が廃めるから一しよに廃めるが好い」と云つて、先づ自ら湯島の天満宮に祈誓して酒を断つた。貞白は大いに慙ぢてこれに倣つた。
 貞白の弟は或旗下の家の用人が養つて嗣とした。二妹は一は慧(けい)、一は痴(ち)であつた。
 渋江恒善(つねよし)は抽斎全善(かねよし)の長男である。榛軒門人録には「渋江道陸」として載せてある。塾生であつた。性謹厚にして、人の嬉笑するを見ては顰蹙して避けた。同窓の須川隆白は、同じ弘前藩の子弟であつたので、常に恒善を推重し、寝具の揚卸、室内の掃除は自らこれに任じ、恒善に手を下させなかつた。此人の事は抽斎伝に詳である。
 須川隆白は弘前の人で、伊沢氏塾生の一人であつた。美丈夫であつたが、首を掉(ふ)る癖があつた。榛軒歿後には渋江抽斎に従学した。
 隆白は後津軽家の表医師に任ぜられ、金十八両六人扶持を受けた。禄米に換算すれば約九十俵である。渋江恒善は同家に仕へ、三人扶持を受けてゐるうち、不幸にして早世したのである。

     その二百七十六

 渡辺昌盈(しやうえい)も亦、渋江恒善、須川隆白と同じく、弘前藩の子弟で、伊沢氏の塾に寓してゐた。榛軒門人録には此人の名が「昌栄」に作つてある。わたくしは今同藩出身の渋江保さんの書する所に従ふ。
 昌盈は其本姓を知らない。渡辺氏に養はるるとき、川村屋金次郎といふものが仮親となつた。是は津軽家用達たる舂屋(つきや)で、所謂川金(かはきん)である。
 榛軒は頗る昌盈を優待した。そしてこれをして久しく塾頭たらしめた。門人録には福岡の森隆仙の下(もと)に塾頭と註してある。渡辺と森との塾頭は孰(いづれ)か先、孰か後なるを知らない。
 或時小島宝素と辻元□庵(すうあん)とが榛軒に告げて云つた。頃日(このごろ)坊間に酌源堂の印のある書籍を見ることがある。文庫の出納を厳にするが好いと云つた。榛軒は蔵書を検して数部の喪失を知つた。そしてその何人の所為(しよゐ)なるを探るに及んで、これを沽(う)つたものの昌盈なるを知つた。
 昌盈は懼れて救を川金に請うた。川金は書籍の猶書估の手にあるものを買ひ戻して伊沢氏に還した。
 昌盈は後津軽家の表医師となつて禄三十人扶持を食(は)んだ。安政乙卯の地震の日に、津軽家の本所上屋敷の当直は須川隆白に割り当てられてゐた。偶(たま/\)須川は事に阻げられて、昌盈をして己に代らしめた。直舎(ちよくしや)潰(つひ)えて、昌盈はこれに死した。
 飯田安石も亦門人録に見えてゐる。わたくしは前(さき)に榛軒が病(やまひ)革(すみやか)であつた時、物を安石に貽(おく)つたことを記した。そして当時未だ此人の身上を詳にしなかつたのである。
 わたくしは後に徳(めぐむ)さんに聞いた所を以て此に補記しようとおもふ。しかしその応(まさ)に補ふべき所のものは、啻(たゞ)に安石の上のみではない。わたくしは先づ榛軒の妻志保の経歴を補つて、而る後に安石に及ばなくてはならない。
 飯田氏志保の未だ榛軒に嫁せざるに当つて、曾て一たび藝妓たりしことは前記に見えてゐる。しかし此記には漏挂(ろうくわい)の憾があつた。志保は妓を罷めた後、榛軒に嫁した前に、既に一たび従良したことがある。
 志保の初の夫を綿貫権左衛門と云つた。綿貫は長門国萩藩の留守居であつた。志保は一子を挙げた後、故あつて綿貫と別れた。そして其子を練馬村内田久右衛門の家へ里子に遣つた。
 数年の後、志保は此子をして母方の飯田氏を冒さしめた。此子が即飯田安石である。
 安石は十二歳にして榛軒の門に入つた。是故に安石は名は門人であつたが、実は志保の連子であつた。榛軒が臨終に物を貽つた所以である。
 今按ずるに、安石の生年文政七年より推せば、志保は文政六年の頃綿貫が許にゐて、七年に安石を生み、中二年を隔てて、十年に榛軒に嫁したのであらう。安石入門の年は、其齢(よはひ)が十二であつたと云ふより考ふるに、天保六年、即柏(かえ)の生れた年であつたらしい。
 わたくしは曾能子刀自の安石に関して語る所を聞いた。其事は猥瑣(わいさ)にして言ふに足らぬが、幕末の風俗を察する一端ともなるべきが故に、姑(しばら)く下(しも)に録存する。榛※(しんこ)[#「木+苦」、8巻-151-下-16]翦(き)るなきの誚(そしり)は甘んじ受くる所である。

     その二百七十七

 榛軒の妻志保の連子たり、榛軒の門人たる飯田安石の逸事にして、曾能子刀自の記憶する所のものはかうである。
 森枳園は毎年友人及弟子を率(ゐ)て江戸の近郊へ採薬に往つた。大抵其方向は王子附近で、王子の茶を買つて帰り、又帰途に白山の砂場で蕎麦を喫するを例とした。渋江保さんなども同行したことがある。
 某年に飯田安石が此夥(くわ)に加はつた。安石は朝急いで塾を出る時、偶(たま/\)脇差が見えなかつた。
 其頃伊沢の家には屡茶番の催があつた。狩谷懐之(くわいし)の茶番に用ゐた木刀は、□※(きうしつ)[#「革+室」、8巻-152-上-12]金環、実に装飾の美を極めたもので、懐之はこれを伊沢氏にあづけて置いた。安石は倉皇これを佩びて馳せ去つた。
 此夕採薬の一行中に加はつた伊沢の塾生は皆還つたに、独り安石が帰らなかつた。榛軒は木刀の事を聞いて大いに痛心した。当時の制度は、木刀を佩びて途に死するものは、骸(かばね)を非人に交付することになつてゐたからである。
 榛軒は人を四方に派して捜索せしめた。そして終に板橋駅の妓楼に於て安石を獲た。
 坂上玄丈(さかのうへげんぢやう)も亦榛門の一人で、門人録中に載せてある。此人は弘化甲辰に渋江抽斎と共に躋寿館講師に任ぜられ又これと共に将軍家慶に謁した。武鑑には目見医師の下(もと)に其名が見えてゐて、扶持高住所等は未刻の儘になつてゐる。
 榛軒の門人の事は此に終る。
 次にわたくしは榛軒の資性に関して二三の追記を做さうとおもふ。榛軒は廉潔であつた。そして毎にかう云つた。「己は柏(かえ)のために金を遺して遣ることは出来ない。縦(よ)し出来るにしても、それは己の望む所では無い。金を貽(のこ)すのは兎角殃(わざはひ)を貽すと同じ事になる。その代に己は子孫のために陰徳を積んで置く」と云つた。朋友の窮を拯(すく)ひ、貧人の病を療したのは此意より出でたのである。
 或日榛軒は混外(こんげ)を金輪寺に訪うた帰途、道灌山に登つて月を観た。僕吉蔵と云ふものが随つてゐた。榛軒は吉蔵を顧みて云つた。「好い月ぢやないか。お前はどうおもふ。」吉蔵は答へて云つた。「へえ。さやうでございますね。ですが、檀那、此月で包か何かが道に落ちてゐるのが見附かつて、それを拾つて見ると、金の百両もはいつてゐたら、猶結構でございませう。」榛軒は聴いて不興気に黙つてゐた。さて翌日吉蔵に暇(いとま)を出した。家人が驚いて故を問うた時、榛軒は云つた。「月を観る間も利慾の念を忘れてゐられぬ男は、己の家には居かれない。」
 吉蔵のこれを聞いた時の驚は更に甚だしかつた。是より先吉蔵は榛軒の愛する所の青磁の大花瓶を破(わ)つたことがある。其時は吉蔵が暇の出る覚悟をしてゐた。しかし榛軒は殆ど知らざるものの如くであつた。今忽ち暇の出たのは吉蔵のためには不可思議であつたのである。
 榛軒は生涯著述することを欲せなかつた。是は父蘭軒の遺風を襲(つ)いだもので、弟柏軒も亦同じであつた。しかし蘭軒は猶詩文を嗜(たし)み、意を筆札に留めた。榛軒に至つては、偶(たま/\)詩を作つても稿を留めず、往々旧作を忘れて自ら踏襲した。書は榛柏の昆弟(こんてい)皆拙であつた。榛軒は少時少しく法帖を臨したが、幾(いくばく)ならぬに廃した。柏軒は未だ曾て臨書したことがなかつた。要するに二人は書を読んで中に養ふ所があつても、これを技に施して自ら足れりとし、敢て立言して後に貽さうとはしなかつたのである。

     その二百七十八

 わたくしは榛軒の資性を語つて、既に其寡欲と多く文事に意を用ゐざることとを挙げた。或は思ふに之(この)二者は並に皆求むる所少きに帰するもので、後者は声誉を求めざるの致す所であつたかも知れない。
 わたくしは尚曾能子刀自に数事を聞いた。それは榛軒の一種特殊なる心理状態より出でたものらしい。わたくしは微(すこ)しくこれに名づくる所以に惑ふ。俚言の無頓著は此事を指すに宜しきが如くである。しかし此語には稍指す所の事の形式を取つて、其内容を遺す憾がある。已むことなくば坦率(たんそつ)とでも云はうか。
 一日(あるひ)榛軒は阿部侯正寧(まさやす)に侍してゐた。正寧は卒然昵近の少年を顧みて云つた。「良安は大ぶ髪が伸びてゐるやうだ。あれを剃つて遣れ」と云つた。少年は□(はんざふ)、盥などを持ち出して、君前に於て剃刀を榛軒の頭(かうべ)に加へた。そして剃るに時を費すこと頗る多かつた。既にして剃り畢(をは)つたので、榛軒は退出した。
 家に帰ると、家人が榛軒の頭を見て、皆失笑した。頭上の剃痕(ていこん)は断続してゐて、残す所の毛が文様をなし、三条の線(すぢ)と蝙蝠(かはほり)の形とが明に認められたからである。
 家人は鏡を取り出して榛軒にわたした。榛軒は自ら照して又大いに笑つた。剃者の刀(たう)を行(や)るのが常に異なつてゐても、榛軒は毫も心附かずにゐたのである。是が一つである。
 榛軒は庚寅の年に侯に扈随して福山に往つた時、午後屡轎中に仮寐(かび)した。そして涎が流れて襟を※(うるほ)[#「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、8巻-154-下-11]した。榛軒は自ら白布を截つて涎衣(よだれかけ)を製し、轎(かご)に上(のぼ)る毎にこれを腮下(さいか)に懸けた。一日(あるひ)侯は急に榛軒を召した。榛軒は涎衣(ぜんい)を脱することを忘れて侯の前に進み出た。上下(しやうか)皆笑つた。榛軒纔(わづか)に悟つて徐(しづか)に涎衣を解いて懐にし、恬(てん)たる面目があつた。是が二つである。
 榛軒は晩餐後市中を漫歩するを例とした。其時往々骨董店の前に歩を駐め、器玩(きぐわん)の意に投ずるものあれば購うて還つた。
 榛軒は此の如き物を買ふに、その用に中(あた)ると否とを問はず、又物の大小を問はなかつた。さて或は携へ帰り、或は搬し至らしめた後、放置して顧みない。時に出して門人等に与へることがある。
 門人等は拝謝して受ける。しかし受けた後に用途に窮することが数(しば/″\)である。
 一日(あるひ)門人某は受けた物の処置に窮した。わたくしはその何の器(うつは)であつたかを知らぬが、定て甚だ大きかつただらうと推する。又某の名を知らぬが、定て率直な人であつただらうと推する。某は榛軒に問うたさうである。「此間先生に戴いた物は、どうも内ではどうにもいたしやうがございません。先生には済みませんが、あれは棄ててしまつても宜しうございませうか。」
 榛軒は恬として答へた。「さうか。いらなけりやあ棄てるが好い。」是が三つである。わたくしの以て坦率となす所のものは概(おほむね)此類である。

     その二百七十九

 わたくしは榛軒の逸事を書き続ぐ。そして今此に榛軒の植物を愛した事を語らうとおもふ。
 榛軒が蘭軒遺愛の草木を保護するに意を用ゐたことは言ふまでもない。彼吉野桜を始として、梅があり、木犀があり、芭蕉があつた。某年の春阿部侯正寧(まさやす)は使を遣はして吉野桜の一枝を乞うた。榛軒は命を奉ぜなかつた。そして使者と共に主に謁し、叩頭(こうとう)して罪を謝した。
 榛軒の蓮(れん)を愛したことは、遺言を読んで知るべきである。丸山の地は池を穿ち水を貯ふるに宜しくないので、榛軒は大瓦盆(だいぐわぼん)数十に蓮を藝(う)ゑて愛翫した。平生用ゐた硯が蓮葉形のものであつたのも、又酒器に蓮を画かせて用ゐたのもこれがためである。
 榛軒は書斎と客間とに插花(いけばな)を絶やさなかつた。本郷の花総(はなそう)と云ふものが隔日に截花(きりばな)を持つて来たのである。
 榛軒は父の本草趣味を伝へ、森枳園等に勧奨せられて、多く薬草を栽培した。就中(なかんづく)人参は阿部侯の命を奉じて栽ゑたのである。
 榛軒も亦枳園等と同じく、子弟を率(ゐ)て近郊へ採薬に出た。曾能子刀自は当時の一笑話を記憶してゐる。或日採薬の途上に甘酒売が道を同じうして行くに会うた。随行の少年輩が一人飲み二人飲み、遂に先を争つて群り飲むに至つた。行き行きて岐路に逢ふこと数(しば/″\)であつたが、甘酒売は別れ去らない。甘酒の釜は此夥(むれ)の行厨(かうちゆう)の如くになつた。
 榛軒は酒を売る漢子(をとこ)に問うた。「貴様は一体何処へ往くのだ。」
「へえ。つい此先の方へ参ります。」
 榛軒は屡問うたが、漢子の答ふる所は旧に依つた。「へえ。つい此先の方へ参ります。」
 同行数里にして甘酒売の別れ去つたのは、板橋駅附近であつた。そして其釜は既に空虚であつた。
 次にわたくしは少しく榛軒の飲饌(いんぜん)の事を記さうとおもふ。採薬途上の甘酒は、恰も好し、トランシシヨンの用をなした。
 榛軒は病家を訪ふ時、家を出づるに臨んで妻志保をして薄茶一碗を点せしめた。
 榛軒は客を饗する時、毎(つね)に上原全八郎を呼んで調理せしめた。上原は阿部家の料理人である。膾(くわい)を作るにも箸を以てした人である。渋江保さんの語るを聞けば、抽斎は客を饗する時、毎に料理店百川(せん)の安と云ふ男を雇つたさうである。彼は貴族的で、此は平民的であつた。
 飲饌の事は未だ尽きない。わたくしは曾能子刀自に豚料理の話を聞き、又保さんに蒲焼の話を聞いた。それは下(しも)に略記するが如くである。

     その二百八十

 わたくしは榛軒軼事(いつじ)中飲饌の事を記して其半に至つた。剰す所は豚料理の話があり、又鰻飯の話がある。
 豚は当時食ふ人が少かつた。忌むものが多く、嗜(たし)むものが少いので、供給の乏しかつたことは想ひ遣られる。豚は珍羞(ちんしう)であつた。
 一日(あるひ)薩摩屋敷の訳官能勢甚十郎と云ふものが榛軒に豚を贈つた。榛軒は家にゐなかつた。妻志保は豚を忌む多数者の一人であつたので、直ちに飯田安石にこれを棄つることを命じた。安石は豚肉(とんにく)を持つて出た。
 榛軒は家に帰つてこれを聞き、珍羞を失つたことを惜んだ。榛軒は豚を嗜む少数者の一人であつたからである。
 志保は己の処置の太早計(たいさうけい)であつたのを悔いて、安石に何処へ棄てたかと問うた。
 安石は反問した。「若し先生が召し上がるのであつたのではございませんか。」
「さうなのですよ。それで何処へお棄なすつたかとお尋するのです。」
「さうですか。それなら御安心下さいまし。あなたが棄てろと仰やいましたから、あの榎の下の五味溜(みため)に棄てたには相違ございません。しかしあの綺麗な肉を五味の中に棄てるのが惜しかつたので、□冬(ふき)の葉を沢山取つて下に鋪いて、其上に肉をそつと置きました。そして肉の上にも□冬の葉を沢山載せて置きました。」
 榛軒は傍(かたはら)より聞いて大いに喜んだ。そして安石に取つて来ることを命じた。既に夜に入つてゐたので、安石は提燈を点けて往つて取つて来た。肉は毫も汚れてゐなかつた。
 榛軒は妻の忌むことを知つてゐたので、庭前に涼炉(こんろ)を焚いて肉を烹(に)た。そして塾生と共に飽くまで啖(くら)つた。
 榛軒は鰻の蒲焼を嗜んだ。渋江保さんは母山内氏五百(いほ)の語るを聞いた。榛軒は午餐若しくは晩餐のために抽斎の家に立ち寄ることがあつた。さう云ふ時には未だ五百の姿を見ざるに、早く大声(たいせい)に呼ぶを例とした。「又御厄介になります。鰻はあつらへて置きました。もう一軒往つて来ます。どうぞお粥は米から願ひます。」五百に炊かせた粥に蒲焼を添へて食ふのが、榛軒の適とする所であつた。酒は或は飲み或は飲まなかつた。
 此の如き時、榛軒は抽斎の読書を碍(さまた)ぐることを欲せなかつたので、五百をして傍(かたはら)にあらしめ、抽斎をして書斎に退かしめた。
 わたくしは此条を終るに臨んで、烟草の事を附記する。
 榛軒は喫烟した。そして常に真鍮の烟管十本許(きよ)を蔵してゐて、其一を携へて病家を訪うた。人が其故を問ふと、榛軒はかう云つた。「銀烟管などは失ふまいと思ふと気骨が折れる。真鍮にはそれが無い。縦(よ)し何処かに置き遺(わす)れて取りに往くにしても、無造作に問ふことが出来る。問はれたものも亦、無い時無いと云ふに気兼をしなくて済む。」
 榛軒の逸事は此に終る。

     その二百八十一

 わたくしは此に榛軒の記を終へて、借りてゐた所の榛軒詩存を富士川游さんに返さうとおもふ。此書は清川安策の自筆本で、序を併せて半紙二十五頁(けつ)より成つてゐる。収むる所の詩は五古一首、七古一首、五律十五首、七律十二首、七絶百十八首、計百四十七首である。
 序は編録者安策の撰む所で、巻初の一頁を填(うづ)めてゐる。わたくしは此書の刊行せらるべきシヤンスは、※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、8巻-159-上-3]詩集に比して更に小なるを知るが故に、今序の全文を抄出する。
「先師榛軒先生。刀圭之暇。毎遇心愉而意会。輒発之声詩。其所吟詠頗多。而未曾留稿也。孫在塾日。或得之侍坐之傾聴。或得之壁上之漫題。或得之扇頭紙尾。或得之同門諸子之伝誦。随得随録。無復次第。積年之久。得百有余首。今茲安政戊午十一月十六日。実当先生七回忌辰矣。追憶往事。宛然在目。殆不勝懐旧之歎也。乃浄写為一冊。私名曰榛軒詩存。雖未足為全豹。亦足以窺先生風騒之一斑也已。嗚呼先生不欲存。而孫存之。縦令得罪于地下。亦所不敢辞也。其巻末存余紙者。以備続得云。安政五年歳次戊午仲冬之月。清川孫誌。」
 文中に「孫」と称し、末に「清川孫誌」と署してある。清川安策、名は孫(そん)であつた。
「先生不欲存。而孫存之。」門人の師の書に序する文には、多くこれに類する語を見る。
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