伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

 詩。「和田嶺。一渓渓尽復巌阿。路自白雲深処過。薬艸如春花幾種。黄萱最是満山多。諏訪湖。琉璃鏡面漾新晴。粉□浮沈高島城。遙樹如薺波欲浸。低田接渚緑方平。漁船数点分烟影。駅馬一行争晩程。繚繞湖辺千万嶺。芙蓉雪色独崢□。宿塩尻駅下条兄弟迎飲。嘗結茗渓社。今来塩里廬。山泉宜煮薬。岩洞可蔵書。爽籟涼生処。旧遊談熟初。暑氛与客恨。酔倒一時虚。」
 第八日。「廿六日卯時に発す。一里三十丁、洗馬駅。三十丁本山駅なり。此駅前月火災ありて荒穢(くわうくわい)なり。これより木曾路にかかる。此辺に喬木おほし。ゆく先も同じ。崖路を経堺橋をすぎて二里熱川駅。一里半奈良井駅。午後鳥居峠にいたる。御嶽山近く見ゆ。白雪巓(いたゞき)を覆ふ。轎夫(けうふ)いふ。御嶽山上に塩ありと。所謂(いはゆる)崖塩なるべし。一里半藪原駅。二里宮越駅。若松屋善兵衛の家に宿(やどる)。此日暑甚し。三更のとき雨降。眠中しらず。行程九里許(きよ)。」

     その三十三

 第九日は文化三年五月二十七日である。「廿七日卯時に発す。朝霧(てうむ)深し。郊辺小沢といふ所茶店(ちやてん)(泉屋善助)の傍(かたはら)に小樹籬(せうじゆり)を囲て石作士幹(いしづくりしかん)の墓あり。墓表隷字にて駒石石(くせきせき)先生之墓と題す。碑文紀平洲撰せり。一里半福島駅にいたる。関庁荘厳なり。桟道の旧跡を経て新茶屋といふに到る。屋後に行きて初て厠籌(しちう)を見たり。竹箆にはあらず。広一寸弱長四五寸の片木なり。二里半上松(あげまつ)駅にいたる。臨川(りんせん)寺は駅路蕎麦店間(けうばくてんかん)より二丁許(きよ)の坂を下りている。此書院に古画幅を掛たり。広一尺一二寸長(たけ)三尺許装□もふるし。一人物巾(きん)を頂き裘(きう)を衣(き)たり。舟に坐して柳下に釣る。□なし。筆迹松花堂様の少く重きもの也。寺僧浦島子(うらしまがこ)の象(かた)なりといふ。全く厳子陵(げんしりよう)の図なり。庭上に碑あり。碑表は石牀先生之墓と題す。三村三益、字季□(あざなはきこん)といふ木曾人の碑なり。熊耳余承裕(ゆうじよしようゆう)撰するところなり。小野滝看(をのたきみ)の茶屋に小休(こやすみ)して三里九丁須原の駅。大島屋唯右衛門家に投宿す。時已未後なり。此辺酸棗木(さんさうぼく)(小なつめ)蔓生の黄耆(わうぎ)(やはら草)多し。民家に藜蘆(りろ)(棕櫚草)を栽(うう)るもの数軒を見る。凡(おほよそ)信濃路水車おほし。此辺尤多し。又一種水杵(すゐしよ)あり。岩下或は渓間に一小屋(せうおく)を構臼を安(お)き長柄杵(ながえぎね)(大坂踏杵(ふみきね)也)を設け、人のふむべき処に凹(くぼみ)をなして屋外に出す。泉落て凹処降る故、忽(たちまち)水こぼる。こぼれて空しければ杵頭(しよとう)降りて米穀※(つ)[#「てへん+舂」、7巻-64-下-15]ける也。常勝寺にいたる。義清奉納の大鼓あり。(図後に出す。)此日暑甚し。行程八里半許(きよ)。」
 小沢に葬られた石作駒石は名を貞、字を士幹と云ふ。通称は貞一郎である。尾張家の附庸(ふよう)山村氏に仕へた。山村氏は福島を領して所謂(いはゆる)木曾の番所の関守であつた。駒石は明和の初に、伊勢国桑名で南宮大湫(なんぐうたいしう)に従学した。即ち蘭軒の師泉豊洲のあにでしである。寛政八年正月十四日に五十七歳で歿した。時に大湫の歿後十八年で、豊洲は三十九歳になつてゐた。駒石は晩年山村氏のために邑政(いふせい)を掌(つかさど)つて、頗る治績があつた。その二宮尊徳に似た手段は先哲叢談続編に見えてゐる。序に云ふ。叢談に此人の字(あざな)を子幹に作つたために、世に誤が伝へられてゐた。蘭軒は平洲の墓誌銘を目睹して、士幹と書してゐる。士幹を正となすべきであらう。
 三村三益、名は璞(ぼく)、字は季□(きこん)、一に道益と称した。山脇東洋の門人にして山村氏の医官である。木曾の薬草は始て此人によつて採集せられた。宝暦十一年に六十二歳で歿した。三益は採薬に土民を役したから、藜蘆を植うる俗の如きも、或は此人の時に始つたのではなからうか。
 臨川寺の僧が厳子陵の図を浦島が子となしたのは、木曾の寝覚の床に浦島が子の釣台(てうたい)があると云ふ伝説に拠つて言つたのであらう。
 紀行の此辺より下(しも)には往々欄外書がある。中には狩谷□斎森枳園(きゑん)等の考証もある。惜むらくは製本のために行首一二字を截り去られた所がある。枳園の筆迹と覚しき水杵の考証の如きも其一である。纔(わづか)に読み得らるゝ所に従へば、水杵は中国の方言にそうづからうすと云ふ、西渓(せいけい)叢語の泉舂(せんしよう)の類だと云ふのである。
 村上義清が常勝寺に寄附したと云ふ大鼓は、図後に出すと註してあつて、其図は闕けてゐる。前の蓮生寺の碑以下皆さうである。これに反して水杵の図が格上に貼つてあつて、方言どつたりと記してある。
 詩。「早発宮腰駅到須原駅宿。其一。朝来旅服染青嵐。山似重螺水似藍。途莫敢経※[#「石+干」、7巻-66-上-2]犬谷。底何可測斬蛇潭。関門厳粛松千鎖。岳脊昂低雪一担。忽捨肩輿誇勝具。※[#「工+卩」、7巻-66-上-4]莱叱馭且休談。其二。険路絶将懸桟通。灘深滝急激声雄。臨川古寺僧迎客。看瀑孤亭嫗喚童。家畜猪熊郷自異。樹遮日月影将空。偶与帰樵行相語。自是葛天淳朴風。其三。小憩茅檐問里程。吹烟管歛竹筒行。蚕簾斉□横斜架。泉杵時聞伊軋声。碧蘚開花岩脚遍。黄蓍作蔓石頭生。晩陰投宿山中駅。蠅子為群□菜羹。」

     その三十四

 第十日は文化三年五月二十八日である。「廿八日卯時発。一里三十丁野尻駅。木曾川石岩(せきがん)に映山紅(えいざんこう)盛に開く。矮蟠(あいはん)すること栽(うゝ)るがごとし。和合酒(わがふしゆ)を買ふ。(酒店和合屋木工右衛門(もくゑもん)と名(なづ)く。)二里半三富野(との)駅。一里半妻籠駅。二里馬籠駅。扇屋兵次郎家に宿す。苦熱たへがたし。行程七里半許(きよ)。」映山紅はやまつつじである。花木考に「山躑躅一名映山紅」と云つてある。
 詩。「野尻駅至三富野途中。谷裏孤村雲裏荘。僻郷却是似仙郷。□摶粉蕨甘兼滑。酒醸流泉清且香。板屋畏風多鎮石。桑園防獣為囲墻。詩吟未満奚嚢底。已厭山程数日長。雌雄瀑布。瀑泉遙下翠嵐中。迸勢争分雌与雄。誰是工裁長素練。十尋双掛石屏風。」
 第十一日。「廿九日卯時に発す。十曲(とまがり)峠をすぐ。美濃信濃の国境なり。一里五丁落合駅。与坂(よさか)の府関(ふくわん)ありて一里五丁中津川駅なり。此駅に一老翁の石をうるあり。白黒石英の類なり。其いづる所を問へば、此国苗木城西二里許(きよ)水晶が根といふ山よりとり来るといふ。二里半大井駅。十三峠をのぼる。此嶺(れい)はなはだ険ならず、渓(けい)なく谷(こく)あり。石も少して赤埴土(あかきはにつち)なり。木曾路のごとく山腹の崖路にあらず、山頭の道なり。松至て多く幽鬱の山なり。三里半大湫(おほくて)駅。小松屋善七の家に宿す。午後風あり涼し。雷(かみ)なる。雨ふらず。行程八里半余。」
 詩。「巻金村。離信已来濃。行行少峻峰。望原莎径坦。臨谷稲田重。五瀬雲辺嶺。七株山畔松。炊烟人語近。半睡聴村舂。」五瀬(らい)はいせである。「此地遠望勢州之諸山、翠黛於雲辺」と註してある。
 第十二日。「六月朔日(ついたち)卯発。琵琶嶺をすぎ山を下れば松林あり。右方に入海のさまにて水滔々たり。諸山の影うつる。海の名を轎夫(けうふ)に問へば谷間の朝霧なりと答ふ。はじめて此時仙台政宗の歌を解得(ときえ)たり。(仙台政宗の歌に、山あひの霧はさながら海に似て波かときけば松風の声。)一里三十丁細久手(ほそくて)駅。此近村に一呑(のみ)の清水といふあり。由縁(いうえん)詳(つまびらか)ならず。然ども鬼の窟(いはや)、鬼の首塚等の名あれば、好事者鬼といふより伊勢もの語にひきあてゝつけし名ならんか。三里御嶽駅。一里五丁伏見駅。太田川を渡り二里太田駅。芳野屋庄左衛門の家に宿す。熱甚。しかれども風あり。此駅に到て蠅大に少し。蚊は多し。此夜□(かや)を設く。行程七里許(きよ)。」
 第十三日。「二日卯発し駅をいづれば、渓水浅流の太田川にながれ入る所あり。方一尺許の石塊をならべてその浅流を渡る。直にのぼる山乃(すなはち)勝山なり。一山みな岩石也。斫(きり)て坂となし坦路となしゝものあり。窟の観音に詣る。佳境絶妙なり。河幅至てひろく、水心に岩石秀聳(しうしよう)し、蟠松矯樹(はんしようあいじゆ)ううるがごとく生ず。水勢の石に激する所あり。淵をなして蒼々然たる所あり。浅流底砂を見る所あり。美濃山中の勝地ならん。二里鵜沼駅にいたる。犬山の城見ゆる。四里八丁加納駅。一里半河渡駅。塗師(ぬし)屋久左衛門の家に宿す。気候前日のごとし。行程七里半余。」
 詩。「観音阪。観音山畔望。渓水濶且奇。源自東西会。瀬因深浅移。小航工避石。壊岸却成逵。只見宜玄対。愧余未忘詩。」

     その三十五

 第十四日は文化三年六月三日である。「三日、此日は南宮山に詣(いた)らんとして未明撫院に先(さきだ)つて発せり。一貫川を経て一里六丁美江寺(みえでら)駅に到る。呂久(ろく)川を渡り大垣堤を過(よぎ)るとき、旭日初て明に養老山望前に見ゆ。二里八丁赤坂の駅に到る。青野原の傍(かたはら)を経て垂井(たるゐ)駅なり。駅中に南宮一の鳥居あり。七八丁入り社人若山八兵衛といふものを導(みちびき)として境内を歴覧す。空也上人建るところの石塔みかげ石字なし。図巻末に出す。仏師春日の造る狛犬は随身門(ずゐじんもん)の後にあり。古色朴実にして猛勢怖るべきがごとし。左方の狛犬玉眼一隻破たり。本社の内にも狛犬あれども新造のものにして観るに足らず。全く春日の作を摸するものと思はる。鐘あり。銅緑を一面に生じて古色なり。銘なし。社旁(しやはう)に五重の石塔婆あり。高さ三尺七八寸苔蘚厚重して銘かつてよめず。(籬島(りたう)よくも見たり。)図後に出す。鉄塔あり。古色実に五百年前のもの也。銘よみうれども鉄衣あつき故摺得ず、やうやく年号のみすりたり。往年は屋前も作らずありしを中川飛騨守(勘定奉行たりしとき)検巡のとき命じて作らしむといふ。好古の意見つべし。銘は板に書し屋上に掲たり。此より山中奥の院は十八丁ありといふ故不行(ゆかず)して駅へ帰りければ撫院已に駅長の家に来れり。一里半関が原の駅にいたる。駅長の家に神祖陣営の図を蔵(をさ)む。駅長図を披(ひらい)て行行(ゆく/\)委細にとけり。駅中に土神八幡の祠あり。これは昔年よりありしを慶長の乱に西軍これを焼けり。後元和中越前侯忠直(たゞなほ)(一白(はく))再脩せり。此所神祖御榻(ぎよたふ)の迹なり。土人の説に此より北国道へ少し入りて松間なりといふ。旧図に不合(あはず)。当時石田の意は青野原にて決戦と謀しを、神祖不意に此処に出て三方の山に軍陣を列し、関が原へ西軍を包がごとく謀りし故西軍大に敗せりといふ。首塚二堆(たい)あり。数里にして不破関の迹なり。今に土中より麻皺(ましう)の古瓦(こぐわ)いづるといへり。江濃(こうのう)両国境を経一里柏原駅。一里半醒井(さめがゐ)駅。虎屋藤兵衛の家に宿す。暑尤甚し。行程九里許(きよ)」
 空也上人の建てた石塔も、五重の石塔婆も、後に図を出だすと云つてあるが、其図は佚亡してしまつた。中川勘三郎忠英(たゞひで)、叙爵して飛騨守と云ふ。寛政九年二月十二日に長崎奉行より転じて勘定奉行となり、国用方(こくようかた)を命ぜられた。曲淵(まがりぶち)甲斐守景漸(けいぜん)の後を襲(つ)いだのである。尋で六月六日に忠英は関東の郡代を兼ねた。此年正月に至つて、大目附指物帳鉄砲改に転じた。南宮山古鐘のために屋舎を作らしめたのは此忠英である。
 詩。「関原駅。村長披来御陣図。平原指点説須臾。転知黎庶帰明主。遂是奸雄成独夫。首馘千年※[#「隻+隻」、7巻-69-上-14]塚在。□氛万里一塵無。行行今拝山河去。酒店茶亭満駅途。不破関古址。関門陳迹旧藤河。此境先賢佳句多。林裏荒簷三両戸。昇平今不復誰何。江濃界。落日村墟涼似秋。農人相伴過青疇。帰家仍隔疎籬語。便是江濃分二州。」
 第十五日。「四日卯時に発し一里番場駅。蓮華寺に詣り、午後磨針嶺(すりばりれい)望湖堂に小休す。数日木曾山道の幽邃に厭(あき)し故此に来(きたり)湖面滔漫を遠望して胸中の鬱穢(うつくわい)一時消尽せり。時に天曇り月出崎(つきのでさき)竹生島模糊として雨色を見れども、雨足過行て比良山を陰翳し竹生島実に画様なり。(人ありいはく。琵琶湖は沢(たく)といふべし。湖(こ)にあらず。余按(あんずるに)震沢を太湖と称するときは湖といふも妨なし。)一里六丁鳥居本(とりゐもと)駅。此辺に床の山あり。(往年朝妻舟の賛に床の山を詠ぜしは所ちかき故入れしなり。此に到て初てしる。)一里半高宮駅。二里愛智川(えちかは)駅なり。松原あり。片山といふ山を望む。二里半武佐(むさ)駅。仙台屋平六の家に宿す。此日午前後晴。晩密雲不雨(あめふらず)。雷(かみ)なる。暑甚し。行程八里許。」
 此日の記事中深艸元政を引いた一節があつたが、□斎が其誤を指□してゐるから削つた。□斎は又蘭軒が蓮花寺弘安年間の古鐘を見なかつたのを憾(うらみ)としてゐる。
 詩。「磨針嶺。磨嶺旗亭巌壑阿。望湖堂上観尤多。漁村浦遠疑無路。洲寺市通還有坡。一掃雲従仙島起。暫時雨逐布帆飛。西行瓊浦逢清客。欲問洞庭囲幾何。」

     その三十六

 第十六日は文化三年六月五日である。「五日五更に発す。三里半守山駅。守山寺を尋ぬ。一里半草津駅。□母餅茶店(うばがもちちやてん)に小休す。勢田橋西茶店にて吉田大夫に逢ふ。三里半六丁大津駅。牧野屋熊吉の家に宿す。駅長の家にして淀侯の侍医留川周伯といふ者に逢ふ。森養竹の所識(しよしき)なりといふ。此日熱甚し。行程八里半許(きよ)。」
 詩。「粟津原。戦場陳迹望湖山。荒冢碑存田稲間。十里松原途曲直。柳箱布□旅人還。」松原と云ひ、柳箱と云ふ、用ゐ来つて必ずしも眼を礙(がい)せず。
 第十七日。「六日寅時に発し四の宮川橋十禅寺橋を経過す。みな小橋なり。十禅寺門前を過ぎ追分に到る。(柳緑花紅碑を尋(たづぬ)。夜いまだあけざる故尋不得。)矢弓茶店(奴茶屋といふ、片岡流射術の祖家なり)に小休す。数里行て夜正(まさに)あけたり。姥(うば)が懐(ふところ)より日の岡峠にいたる。崗(かう)高からず。□揚茶店(けあげちやや)に休す。白川橋三条大橋三条小橋を経て押小路柳馬場島本三郎九郎の家に至る。(長崎宿というて江戸の長崎屋源右衛門大阪の為川辰吉みな同じ。)日正辰時なり。撫院は朝(てう)せり。余は寺町御池下る町銭屋総四郎を訪ふ。(姓鷦鷯(ささき)、名春行(しゆんかう)、号竹苞楼(ちくはうろうとがうす)。)主人家に在て応対歓晤はなはだ□(かなへ)り。古物数種を出して観しむ。所蔵の大般若第五十三巻零本巻子なり。神亀五年の古鈔跋文中に長王の二字あり。又古鈔零本玉篇一本辺格上短下長、(延喜式図書令の度なり)その裏を装修せしも古鈔本の仏経なり。「治安元年八月廿八日 以石泉御本写之已了 康平六年七月 於平等院 奉受此経 仏子快算」とあり。右件(くだん)の年号にて玉篇の古鈔知べし。古鈔孝経七八種あり。みな古文なり。一部後宇多帝の花押あり。尤珍貴とすべし。又類編群書画一元亀丁部巻之二十一の古鈔零本金沢文庫の印あるものあり。唐代所著のものと見ゆ。又白氏文集巻子零本三巻会昌□年鈔僧慧萼(えがく)将来によりて書する本あり。亦金沢文庫の印あり。又太子伝全本「永万元年六月十九日書 借住円舜」とあり。又今出川内大臣晴季(はるすゑ)公(秀頼同代人)帯する所の木魚刀一あり。皆古香馥郁たるものなり。且語次にいふ所の書数種なり。新撰六旬集占病占夢の書なり。跋文に「斯依滋兵川人貞観十三年奉勅撰進爾甲撰進之」とあり。又三帰翁十巻といふものあり。其書ありといへども百味作字の一巻無(なき)ときは薬名考べからずといへり。又弘法大師将来の五嶽真形図あり。普通の図と異なり。又篁公書する所の仏書あり。無仏斎藤貞幹(とうていかん)の蔵するもの也。其古物珍貴しるべし。又日本国現在書目ありといふ。又医書一巻元亀の古鈔本にて末云(すゑにいはく)「耆婆宮内大輔施薬大医正五位上国撰」とあり。日已未時。さりて智恩院に行き祇園の茶店中村屋に至て休す。(豆腐味(あぢはひ)尤よし。他雑肴(ざつかう)箸を下(くだす)べからず。)樹陰清涼大に佳なり。此日祭神日の前一日なり。しかれども甚雑喧ならず。八坂に行(ゆき)塔下を経て三年坂を上る。坂側(はんそく)みな窯戸(えうこ)なり。烟影紛※(ふんでう)[#「褒」の「保」に代えて「馬」、7巻-71-下-10]せり。嫗堂(うばだう)経書堂の前をすぎ清水寺門前の町に至る。酒店多し。みな提燈に酒肴の名を書して竿上に掲ぐ。清水寺中を歴観し台上に休してかへる。蓮花王院方広寺に行く。大仏殿災後いまだ経営なし。只洪鐘のみ存ぜり。耳塚を経て寺門前茶店に至て撫院を待。正(まさに)申後なり。薄暮撫院来る。遂に従て行く。伏見街道に至れば已に夜なり。三峰稲荷藤杜(ふぢのもり)の前をすぎ墨染深草の里を経、初更後伏見布屋七兵衛の家に宿す。伏見の境は東都江戸橋四日市の地と家居地勢頗同じ。此日暑甚しからず。旅家女商来る。煩喧(はんけん)蠅のごとし。行程九里許。」

     その三十七

 是日に蘭軒は京(けい)に入り京を出でた。一行は敢て淹留(えんりう)することをなさなかつたのである。奴茶屋の条に、片岡流射術の祖と云つてあるのは、片岡平右衛門家次の一族を謂つたものであらうか。その詳(つまびらか)なることはわたくしの知らざる所である。
 蘭軒が京都銭屋総四郎の許で閲(けみ)した古書の中に、治安中の鈔本玉篇がある。蘭軒は其裏を装修するに古鈔仏経を以てしてあると云つた。然るに狩谷□斎が欄外に下の如くに書してゐる。「望之(ばうし)云。背面の仏経は玉篇の零本を料紙にして写したるものなり。巻子儒書の背に仏書あるもの皆これ也。仏書の故紙を以て装修せしにはあらず。」
 同じ銭屋の蔵本の中に又画一元亀の零本があつた。蘭軒はそれを「唐代所著のものと見ゆ」と云つた。□斎は此にも筆を加へて、「画一元亀は趙宋の書にして唐代のものにはあらず」と云つてゐる。画一元亀は多く舶載せられなかつた書である。徳川家康が嘗て僧某のこれを引いたのを聞いて林羅山に質(たゞ)した。羅山はそんな書は無いと云つたさうである。いかに博識でも、そんな書は無いなどと云ふことは、うかと云はれぬものである。
 今出川内大臣晴季は左大臣公彦(きんひこ)の子で、豊臣秀吉の密友になつた。秀吉をして関白を奏請せしめたのは此人である。永禄四年女婿秀次の事に坐して北国に謫(たく)せられ、慶長元年赦されて還り、元和三年七十九歳で薨じた。
 詩は七律一、五律二、七絶一が集に載せてある。今其七律を録する。「入京。家々櫛比且豊饒。千載皇京属聖朝。仙署客鳴珠履過。青雲路向紫宸遙。東西※[#「隻+隻」、7巻-73-上-3]寺金銀閣。上下長橋三五条。観得都人風化好。陌頭来往不相驕。」
 第十八日は文化三年六月七日である。「七日卯時伏見舟場より乗船、撫院に侍す。淀の小橋をすぐ。朝霧(てうむ)いまだはれず。水車の処に舟をよせて観たり。行々(ゆき/\)て右淀の大橋を見、左に桂川の落口を見て宮の渡の辺に到て、霧(きり)霽(はれ)日光あきらかに八幡の山平瀉(ひらかた)の民家一覧に入て画がけるがごとし。淀川十里の間あし茅(かや)の深き処、浅瀬の船底石に摩(す)る処、深淵の蒼みたるところ、堤に柳ありて直曲なる処、野渡(やと)のせばき処、遠き山見るところ、近き村ある処、彼此観望する間、未後大坂城を前に望て、遂に過所町(くわしよまち)の河岸に著く。撫院は為川辰吉の家に入る。余は伏見屋庄兵衛の楼上に寓す。此楼下は大河に臨み、舟に乗来し処、天満(てんま)橋天神橋難波橋より西は淀屋橋辺を望て、遊船商※(しやうくわう)[#「舟+皇」、7巻-73-下-2]日夜喧嘩なり。夜に入ば烟火戯光映照波絃歌相和。ことに涼風満楼蚊蠅(ぶんよう)絶てなし。数日旅程の暑炎鬱蒸盪瀉し尽せり。此日天晴。」
 詩。「暁下淀河。其一。舟舷置棹順流行。離岸茫々傷客情。数叫杜鵑何処去。暁雲深籠淀河城。其二。疎鐘渡水報清晨。山翠雲晴濃淡新。□犬声聞蘆荻外。先知村市近河浜。其三。波光泛日霧初消。次第行過大小橋。猶有篷舟泊洲渚。折来枯柳作薪焼。浪華。其一。豊公旧築浪華城。都会繁華勝帝京。民俗猶余雄壮気。路傍攘臂動相争。其二。縦横廛市夾河流。商舸来従数十州。大賈因能処奇貨。驕奢時有擬公侯。」
 第十九二十の両日は、蘭軒が大阪に留まつてゐた。「八日土佐堀の藩邸に到る。中根五右衛門を訪。帰路に心斎橋街に行き書肆を閲す。凡三四町書肆櫛比(しつぴ)す。塩屋平助、秋田屋太右衛門の店にて購数種書。伏見宇兵衛来て秋田屋に家居せり。両本願寺へ行き道頓堀を経過して日暮かへる。此日晴。」
「九日田沼玄仙雲林院玄仲を訪不遇。日薄暮玄仲来。年六十二。謙遜野ならず。此日暑甚し。」

     その三十八

 第二十一日は文化三年六月十日である。「十日辰後に客舎を発し、難波橋を渡り天満(てんま)の天神へ詣(いた)り、巳時十※(じふさう)[#「隻+隻」、7巻-74-上-9]村に到る。此地平遠にして青田広濶なり。隴畝(ろうほ)の中数処に桔槹井(けつかうせい)を施て灌漑の用をなす。十※[#「隻+隻」、7巻-74-上-10]川を渡り尼崎城下をすぐ。此地市街城をめぐり二十余町人家みな瓦屋(ぐわをく)にして商賈多く万器乏しき事なし。人喧都下の郭外に似たり。五里西宮駅。上田屋平兵衛の家に宿す。時いまだ未(ひつじ)ならず。西宮に到りて拝神(かみをはいす)。世人蛭児尊(ひるこのみこと)を称すれども祭神中央は天照太神宮にして左素盞嗚尊、右蛭児尊なり。拾玉集慈鎮の歌にて只蛭児を称するのみ。下馬碑あり。関東みな牌なり。此碑となす亦奇也。宝多山六湛寺を尋ぬ。康永中虎関禅師の開基なり。古鐘あり。銘曰。「摂津国西成郡舳淵荘盛福寺鐘文永十一年甲戌四月九日鋳。」いづれの頃此寺に移ししか寺僧に問ども不知。あまり大鐘にあらず。径(わたり)一尺八寸七分許(きよ)厚二寸許緑衣生ぜり。此日寺中書画を曝す日にて蔵画を見たり。大横幅著色寿老人一掛(くわい)寺僧兆殿司(てうでんす)の画(ゑがく)ところなりといへども新様にして疑ふべし。しかれども図式は頗奇異なり。全(まつたく)摸写のものならん。名識印章並になし。竪幅(じゆふく)二掛一対墨画十六羅漢明兆画とありて印なし。飛動気韻ありて且古香可掬(きくすべし)。殿司の真迹疑べからず。駅長の家烏山侯霞崖の書せる安穏二字を榜(ばう)す。此日暑甚し。行程五里許。」
 詩。「已発浪華将就山陽道到十※[#「隻+隻」、7巻-74-下-15]村作。其一。朝嵐欲霽半蒼茫。村市人声未散場。菜畝千※[#「勝」の「力」に代えて「土」、7巻-74-下-16]青似海。桔槹数十賽帆檣。其二。六月凌霄花政開。暑炎如燬起塵埃。行程未半西遊道。已是離郷廿日来。」
 第廿二日。「十一日卯時に発す。駅を離れて郊路なり。菟原(うはら)住吉祠に詣り海辺の田圃を経(ふ)る。村中醸家おほし。木筧(もくけん)曲直(きよくちよく)して水を引こと遠きよりす。一望の中武庫摩耶の諸山近し。生田祠に詣(いた)る。此日祠堂落成遷神(せんしん)す。社前の小流生田川と名く。(古今六帖に出。)荷花盛に開く。門を出桜の馬場の半より左曲す。坂本村田圃を過。楠公碑を拝し湊川をすぐ。水なし。五里兵庫駅。六軒屋定兵衛の家に休す。日正(まさに)午(ご)なり。尻池村をすぎ平知章墓(たひらのともあきらのはか)監物頼賢墓(けんもつよりかたのはか)平通盛墓を看る。苅藻(かるも)川の小流を経て東須磨に到る。いなば薬師に詣り西須磨をすぐ。西須磨の家毎軒竹簾を垂る。平家内裏を遷しし時の遺風なりといへり。此近村大手村、桂尾(けいび)山勝福寺といふ寺に文翰詞林三巻零本ありと鷦鷯春行(さゝきしゆんかう)かたりたり。此日尋ることを不得遺憾といふべし。須磨寺にいたる。上野山(しやうやさん)福祥寺といふ。此亦下馬碑あり。蔵物を観る。辨慶の書は、双鉤填墨(さうこうてんぼく)のものゝごとし。源空の書は東都屋代輪池蔵する選択集(せんぢやくしふ)の筆跡に似(にた)るがごとし。敦盛の像及甲冑古色可掬。大小二笛高麗笛古色なり。寺の後山一二三谷(のたに)をすぎ海浜に出て敦盛塔を看。(一説平軍戦死合墓なりといふ。)五輪石塔半(なかば)埋(うづもれ)たるなり。此海浜山上蔓荊子(まんけいし)多し。花盛にひらく。界川に到る。是摂播二国の界なり。垂水(たるみ)の神祠を拝し遊女冢をすぎ千壺岡(ちつぼのをか)に上つて看る。烏崎舞子浜山田をすぎ五里大蔵谷駅。樽屋四郎兵衛の家に宿す。此日暑尤も甚し。此夜月明にして一点の雲なし。兼松弥次と荒木一次とを拉して人麿祠の岡に上る。路に忠度墓(たゞのりのはか)あり。上(かみ)に一大松あり。田間の小路より上るときは大海千里如銀岡上の松間清月光を砕く。石階を下ること三四町にして数町の松堤あり。堤に上りて下れば即海辺の石砂平遠なり。都(すべ)て是赤石(あかし)の浦といふ。石上に坐するに都て土塵なし。波濤来りて人を追がごとし。海面一仮山のごときものは淡路島なり。夜帆往来して島陰より出るものは微火揺々たり。島前をすぐるは掌中に見るがごとし。数十日炎暑旅情風月に奪ひ去らる。夜半に及で帰る。行程十里許。」
 此日の詩には楠公墓の七律一、須磨の五律二、舞子の五律一、赤石の五律一がある。今須磨舞子赤石の五律各(おの/\)一を録する。「須磨浦。石磯迂曲路。行避怒濤涵。嶺続東西北。谷分一二三。古書尋寺看。往事向僧談。恃険知非策。平軍遂不戡。舞子浜。数里千松翠。奇枝歴幾年。雨過藍島霽。濤洗雪砂旋。□網張斜日。飛帆没遠天。不妨村酒苦。一酌即醺然。宿大蔵谷駅溽暑至夜猶甚納涼海磯乃赤石浦也。駅廬炎暑甚。乗月到長湾。銀界明天末。竜鱗動浪間。連檣遮漢影。一島犯星班。涼歩多舟子。斉歌欸乃還。」

     その三十九

 第二十三日は文化三年六月十二日である。「十二日卯時に発す。赤石(あかし)総門を出て赤石川を渡り皇子(くわうじ)村を経て一里半大久保駅、三里半加古川駅にいたる。一商家に小休す。駅吏中谷三助(名清(なはせい)字惟寅(あざなはゐいん)、号詠帰(えいきとがうす)、頼春水の門人なり)来訪、頼杏坪(きやうへい)の書を達す。此駅□魚(いぎよ)味(あじはひ)美(び)なり。方言牛の舌といひ又略して舌といふ。加古川を渡り阿弥陀宿(あみだじゆく)村をすぎ六騎武者塚(里俗喧嘩塚)といふを経て三里御著(ごちやく)駅に至り一里姫路城下本町表屋九兵衛の家に宿す。庭中より城楼直起するがごとし。人(ひと)喧(かまびすしく)器用甚備。町数八十ありといふ。此日暑甚し。夜微風あり。行程九里許(きよ)。」所謂(いはゆる)□魚はリノプラグシアであらうか。
 第二十四日。「十三日早朝発す。斑鳩(いかるが)に到て休。斑鳩(はんきう)寺あり不尋。三里半正条。半里片島駅。藤城屋六兵衛の家に休。日正午也。鶴亀村をすぎ宇根川を渡り二里宇根駅、紙屋林蔵の家に宿す。此日暑甚からず。行程六里許。」
 第二十五日。「十四日卯時に発す。大山峠を経て三里三石(みついし)駅。中屋弥二郎兵衛の家に休す。是より備前なり。二里片上駅。京屋庄右衛門の家に宿し、夜兼松弥次助と海浜蛭子祠(ひるこのし)に納涼す。此地山廻て海入る。而(しかして)山みな草卉にして木なし。形円にして複重す。山際をすぎて洋に出れば三里ありといふ。真の入り海なり。都(すべ)てこれ仮山水のごとし。延袤(えんぼう)二里許あり。土人小舟にて竜鬚菜(りゆうしゆさい)をとるもの多し。又海船の来り泊するあり。忽舟に乗じて来るものあり。歌謡東都様なり。之をみれば山村九右衛門樋口小兵衛なり。因て四人同舟して山腹の日国寺に詣る。寺北斗を祭て□(う)す。燈火昼のごとし。村人群来す。雑喧不堪(たへず)また舟にのぼり逍遙漕してかへる。時正に二更後なり。此日苦熱不可忍。この納涼に因て除掃す。行程五里許。」
 詩。「宿片上駅買舟納涼。藻※[#「くさかんむり/俎」、7巻-77-下-2]魚羮侑杜□。買舟暫遶水村回。岡頭燈火人如市。道是星祠祈雨来。」
 第二十六日。「十五日卯時発す。長舟(をさふね)村を経吉井川を渡り四里藤井駅。豆腐屋又六の家に休す。いんべを経る。陶器をうる家あり。此辺みな瓶器破余(へいきはよ)をもつて石にかふ。或は堤を護す。二里岡山城下五里板倉駅。古手屋九兵衛の家に宿す。まさに此駅にいらんとして備前備中の国界碑あり。吉備神祠あり。此日暑尤甚し。行程八里半。」欄外に「陶器は伊部(いんべ)也、片上の少し西也、それより香登(かゞと)それより長船吉井川也」と註してある。
 第二十七日。「十六日卯時発す。三里川辺駅。三里矢掛駅。(三里の内七十二町一里、五十町一里ありといふ。)吉備寺あり。吉備公の墓あり。甲奴(かふど)屋兵右衛門の家に休す。時正に午後陰雲起て雷雨灑来(そゝぎきたり)数日にして乾渇を愈(いやす)がごとし。未後にいたりて霽(は)る。江原をすぐ。此地広遠にして見るところの山はなはだ不高。長堤数里砂川に傍(そ)ふ。牧童三人許り来て雨余の濁水を伺て魚を捕す。牛みな草を喰て遅々として水を渡り去る。牧童捕魚に耽て不知、忽然として大に驚き牛を尋ね去る。田野の一佳景といふべし。三里七日市。藤本作次郎の家に宿す。此家戸外に吉備宮(きびつみや)の神符を貼(てふ)す。符云。「寒言神尊利根陀見」と。熟察するに八卦なり。抱腹噴飯す。此日雨を得少しく涼し。夜尤清輝。初更菅茶山来訪歓晤徹暁して去る。行程九里許。」欄外に「七十二町の一里土人旅人の云ところなれども実はしからず」と註してある。
 詩。「江原。軽雷雨霽暑初微。数輩牧童行浅磯。昏暮捕魚猶未去。不知牛犢已先帰。宿七日市駅菅先生自神辺駅来訪有詩次韻賦呈。昔年自嘗賦分離。何料今宵有此期。尤喜詞壇一盟主。儼然不改旧霜髭。」次韻の絶句引首「訪」の字の傍に、茶山が「迎か要か」と註してゐる。茶山が境を越えて蘭軒を七日市に訪うたのは、蘭軒を神辺(かんなべ)の家に立ち寄らせようとして、案内のために来たのだといふことが、此推敲の跡に徴して知られる。当時茶山が蘭軒に贈つた原唱は集に載せない。

     その四十

 第二十八日は文化三年六月十七日で、蘭軒は此日に茶山を訪うた。「十七日卯時発す。一里十二町たかや駅。すでに備後なり。安那(やすな)郡に属す。(古昔(こせき)穴国(あなのくに)穴済(あなのわたり)穴海(あなのうみ)和武尊(やまとだけのみこと)悪神を殺戮するの地なり。日本紀景行紀によるに此辺みな海也。)一本榎上御領村下御領村平野村を経て一里廿七町神辺駅。菅茶山を訪。路(みちに)横井敬蔵に逢ひ駅長の家にして細井磯五郎に逢。みな撫院の応接にいづるとなり。茶山の廬駅に面して柴門あり。門に入て数歩流渠あり。□橋(いけう)を架て柳樹茂密その上を蔽ふ。茅屋瀟灑夕陽黄葉村舎の横額あり。堂上より望ときは駅を隔て黄葉山園中に来がごとし。園を渉(わたつ)て屋後の堤上に到れば茶臼山より西連山翠色淡濃村園寺観すべて一図画なり。堤下川あり。茶山春川釣魚の図に題する詩を天下の韻士にもとむ。即此川なり。屋傍に池あり。荷花盛に開く。渠を隔て塾あり。槐寮といふ。学生十数人案に対して書を読む。茶山堂上酒肴を具(そなふ)。その妻及男養助歓待恰も一親族の家のごとし。墨水詩巻対岳堂詩巻を展覧す。福山志を観る。三浦安藤岩野三大夫より酒肴を贈る。庄兵衛(茶山に従て東都にありし僕なり)来り見(まみ)ゆ。午前より来て未後にいたり大に撫院の駕に後る。辞してさる。横尾をすぐ。鶴橋あり。あした川の下流を渡り山手村かや村赤坂村神村をすぐ。此辺堤上より福山城を松山の間に望む。城楼は林標に突兀たり。四里今津駅なり。高洲をへて□示嶺(ばうしれい)にいたる。(一に坊寺(ばうじ)といひ一に牡牛といふ。)一本榎より此に至て我藩知に属す。土地清灑田野開闢溝渠相達して今年の旱(ひでり)に逢ふといへども田水乏きことなし。嶺を下て二里尾道駅なり。此駅海に浜して商賈富有諸州の船舸来て輻湊する地。人物家俗浪華の小なるもの也。今夜観音寺に詣拝するもの雑喧我本郷真光寺薬師詣拝の人のごとし。駅長の家は豊太閣薩摩をせむるとき留宿の家なりといふ。上段の画壁彩色金銀を用ふ綺麗にして古色なり。(細川幽斎九州道の記に備後の津公儀御座所に参上して十八日朝鞆(とも)までこし侍るとあり。すなはち此尾の道に太閣の留宿するをいふなるべし。)余升屋半兵衛の家に宿す。初更後茶山神辺より来り其門人油屋元助の家に迎へて歓飲す。家居頗大一豪富賈なり。主人名藉(なはせき)字(あざな)は元助(げんじよ)嘉樹堂といふ。好学(がくをこのみ)て雅致なり。品坐(ひんざ)劇談暁にいたりて二人に別る。此日甚暑(じんしよ)にあらず。行程九里許(きよ)。」
 此所にも亦欄外に三件の考証があるが、其一は文字を截り去られて読むべからざるに至つてゐる。余の二件は高屋駅と津との事に就いて誤を正したものである。本文には高屋駅を備後の地だとしてあるのに、欄外にはかう云つてある。「高屋駅は備中也。この西に一本榎あり。これ中後の界也。」本文には又備後の津の公儀御座所を豊公の宿だとしてあるのに、欄外にはかう云つてある。「備後の津公儀御座所といふは義昭将軍をいふ也。津といふは今の津の郷村也。」筆跡に依つて推するに、此考証は森枳園(きゑん)の手に出でたものらしい。
 穴海は景行紀二十七年十二月の条に出でてゐる。「到於熊襲国(中略)。既而従海路還倭。到吉備以渡穴海。」穴済(あなのわたり)は又其二十八年二月の条に出でてゐる。「日本武尊奏平熊襲之状曰。(中略)唯吉備穴済神及難波柏済神。(中略)並為禍害之藪。故悉殺其悪神。」穴国は国造本紀に「吉備穴国造」がある。亦景行帝の時置く所である。

     その四十一

 蘭軒が黄葉夕陽村舎を訪うた記事は、山陽の文と併せ読んで興味がある。「後就其家東北河堤竹林下築村塾。帯流種樹。対面之山名黄葉。因曰黄葉夕陽村舎。舎背隔野望連阜。有茶臼山。因自号茶山。」此対面の山は初めもみぢやまと呼ばれてゐたが、茶山に由つて世に聞え、今はくわうえふざんと音読せられてゐる。茶山が号の本づく所の茶臼山は、原(もと)の名秋円山(あきまるやま)である。道之上(みちのうへ)城址の在るところで、形より茶臼の称を得た。
 茶山が当時の身分は、前(さき)に江戸に客たりし時より俸禄が倍加せられてゐる。茶山は寛政四年に五人扶持を給せられ、享和元年に儒官に準ぜられ、文化二年に五人扶持を増して十人扶持にせられた。即ち蘭軒の来訪した前年である。これより後茶山は十人扶持づつの増俸を二度受けて三十人扶持になり、大目附に準ぜられて終つた。
 蘭軒を□待した家族は紀行に「その妻及男養助」と記してある。妻は継室門田(もんでん)氏であらう。養助は要助の誤で、茶山の弟猶右衛門汝□(じよへん)の子要助、名は万年(ばんねん)、字(あざな)は公寿(こうじゆ)である。汝□の□は司馬相如(しばしやうじよ)の賦に□南予章(へんなんよしやう)とあつて、南国香木の名である。
 酒肴を贈つて来た「三大夫」の中、三浦は当時の家老に平十郎、勘解由、軍記などがあつて、どの人とも定め難い。安藤は内蔵(くら)であらう。岩野は与三右衛門であらう。
 茶山は既に蘭軒を七日市に迎へたやうに、又蘭軒を尾の道に送つた。即ち油屋元助(もとすけ)方の徹宵の宴飲である。
 尾の道観音寺の参詣人を見て、蘭軒がこれを江戸の真光寺のにぎはひに比してゐるのが面白い。これは本郷桜木天神の傍(かたはら)に住んだ蘭軒でなくては想ひ到らぬ事である。真光寺の縁日は、寺門が電車の交叉点に向つて開いてゐる今日も、猶相応に賑しい。しかし既に昔日の雑□(ざつたふ)の面影をば留めない。明治の初年にわたくしは桜木天神の神楽殿に並んだ裏二階に下宿してゐたが、当時の薬師の縁日は猶頗殷盛であつた。わたくしは大蛇の見せもの、河童(かつぱ)の見せものを覗いて見たことを記憶してゐる。彼の三尺帯三本を竿に懸けて孔雀だと云つて見せた類で、極て原始的な詐偽であつた。そしてそれに銭を捨てて入るものが踵(くびす)を接したものである。
 ※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-81-下-9]詩集に神辺(かんなべ)で蘭軒が茶山に贈つた一絶がある。「過神辺駅、訪菅先生夕陽黄葉村舎、柴門茅屋、茂園清流、入其室則窓明軒爽、対山望田、甚瀟灑矣、先生有詩、次韻賦呈。田稲池蓮美且都。柳陰風柝架頭書。鳥啼山客猶眠熟。便是□川摩詰廬。」原作は茶山の集に載せない。蘭軒の詩の転句は頼千秋の書した黄葉夕陽村舎の襖の文字ださうである。
 茶山は尾の道の油屋で蘭軒に詩を贈つた。即ち集中の「尾道贈伊沢澹父」の七絶である。「松間明月故人杯。此会他年能幾回。記取牡牛関下駅。遙輿脚疾送君来。」転句の牡牛関(ぼぎうくわん)は即ち□示嶺(ばうしれい)であらう。結句の言ふ所は蘭軒の脚疾ではなくて、東道主人の脚疾である。蘭軒のこれに酬いた詩が其集にある。「宿尾道駅、菅先生追送至此、迎飲于其門人油元助家、先生有詩、次韻賦呈。擲了郷心不擲杯。七分□甲逓千回。謝君迎送能扶疾。昨夜今宵越境来。」

     その四十二

 蘭軒が旅行の第二十九日は文化三年六月十八日である。「十八日卯時発す。駅を離るれば海辺なり。磯はたの路にして海上島々連続せり。海のかたち大川のごとし。源貞世(みなもとのさだよ)豊臣勝俊の紀行にも地形を賞したる文見ゆ。海辺に八幡の社あり。松数株ありて此地第一の眺望なり。三原城も見ゆ。三里三原駅一商家に休す。青木屋新四郎を訪。主人讚州へ行て不在(あらず)。その弟吉衛に逢うて去る。備後安藝の国界は駅路の山上にあり。二里半ぬた本郷駅。松下屋木曾右衛門の家に宿す。駅長の屋後に山あり。雀が嶽といふ。小早川隆景の城址なり。今の三原城こゝより遷移すと土人いへり。此日暑甚しからず。曇る。行程五里半許(きよ)。」
 貞世の道ゆきぶり、厳島詣(いつくしままうで)の記、勝俊の九州道の記、いづれも原文が引いてあるが、詞多きを以て此に載せない。
 第三十日。「十九日卯時発。沼田川を渡り入野山中を経小野篁(たかむら)の郷(きやう)なり。辰後一里半田万里市(たまりいち)。堀内庄兵衛の家に休す。主人みづから扇箱(せんさう)と号す。常に広島城市に入て骨董器を売る。頼兄弟及竹里みな識ところなり。山中を出て松原あり。未前二里半西条駅。(一名西条四日市。)小竹屋庄兵衛の家に次(やど)る。此駅小吏余輩を迎ふるに小紙幟上姓名を書して持来轎前(けうぜん)に在て先導す。駅東三四町国分寺あり。行尋ぬ。当光山金岳寺といふ。真言宗なり。旧年災(わざはひ)にかかりて古物存するものなし。茅葺仁王門あり。金剛力士は雲慶の作といふ。松五本ありて五輪塔存す。これ聖武の陵(みさゝぎ)なりといふ。此日暑甚し。晩間霎雨(せふう)あり。暑少減ず。夜三更青木新四郎使を来らしむ。僕林助といふ。行程四里許。其二里は五十町一里也。」
 小野篁の郷の条に、蘭軒は又貞世の道ゆきぶりを引いてゐる。「此ところはむかし小野の篁の故郷とぞ、やがてたかむらともをのとも申侍るとかや」の語がある。
 第三十一日は蘭軒が広島の頼氏を訪うた日である。「廿日卯時発。半里許ゆきて大山峠なり。上下二里許なり。山中をなほ行こと二里許、瀬の尾といふ里ありて上中下に分る。(瀬の尾又瀬野といふ。)山中松樹老古にして渓辺に海金砂(かいきんさ)おほし。(海金砂方言三線葛(さみせんくず)。)平地漸く近して砂川緩流広四五間なり。此に至て山尽く。勝景。貞世紀行妙を得たり。八里半海田(かいた)駅。根石屋十五郎の家に休す。午後なり。駅を出ればすなはち海浜なり。坂を上下して田間の路に就く。青稲漠々として海面の蒼々たるに連る。行こと遠して海いよ/\隔遠す。岩鼻といふ所にいたる。北の山延続し此に至て尽るなり。岩石屹立して古松千尋天を衝く。攀縁して登ときは上(かみ)稍平なり。方丈許席のごとき石あり。其上に坐して望めば南海に至り西広島城下に連(つらなる)。万里蒼波一鬨烟家(こうのえんか)みな掌中にあり。又本途に就き遂に二里広島城下藤屋一郎兵衛の家に次(やど)る。市に入て猿猴橋(ゑんこうばし)京橋を過来る。繁喧は三都に次ぐ。此日朝涼、午時より甚暑不堪(じんしよにたへず)。夜風あり。頼春水の松雨山房を訪。(国泰寺の側(かたはら)なり。)春水在家(いへにあり)て歓晤。男子賛亦助談。子賛名襄(のぼる)、俗称久太郎(ひさたらう)なり。次子竹原へ行て不遇(あはず)。談笑夜半にすぐ。月升(のぼり)てかへる。(春水年五十九、子賛二十六。)行程十里許。」
 瀬の尾の条には又貞世の道ゆきぶりが引いてある。中に「もみぢばのあけのまがきにしるきかなおほやまひめのあきのみやゐは」の歌がある。
 蘭軒と春水とは此日広島で初対面をしたのである。

     その四十三

 所謂(いはゆる)松雨山房は春水が寛政元年に浅野家から賜つた杉木小路の邸宅である。是より先春水は浅野家の世子(せいし)侍読として屡(しば/\)江戸に往来した。寛政十一年八月に至つて、世子は江戸に於て襲封した。世子とは安藝守斉賢(なりかた)である。備後守重晟(しげあきら)が致仕して斉賢が嗣いだのである。十二年に春水は又召されて江戸に入り、享和元年に主侯と共に国に返つた。次で二年にも亦江戸に扈随し、三年に帰国した。然るに文化元年の冬病を獲、二年に治してからは広島に家居してゐる。山陽の撰ぶ所の行状に「甲子冬獲疾、明年漸復、自是不復有東命」と書してある。蘭軒は江戸に於て春水と会見する機会を得なかつたので、此日に始て往訪したのである。即ち春水の病の治した翌年である。
 春水は天明元年の冬重晟に召し出された。状に「天明元年辛丑冬、本藩有司伝命、擢為儒員、食俸三十口」と云つてあるのが即是である。其後天明八年戊申と寛政十一年己未とに列次を進め俸禄を加へられた。状に「戊申進班近士(奥詰)、己未更賜禄百五十石、班侍臣列(側詰)」と云つてある。蘭軒が往訪した時の春水の身分は、百五十石の側詰であつた。其後文化四年丁卯と十年癸酉とに春水は又待遇を改められた。状に「丁卯加禄卅石、十年癸酉進徒士将領(歩行頭)之列、職禄百二十石、并旧禄為三百石」と云つてある。春水は三百石の歩行頭(かちがしら)を以て終つたのである。
 山陽の事が紀行に「子賛」と書し又其齢が「子賛二十六」と書してある。山陽の字は子成であつた。或は少時子賛と云ひ、後子成と改めたのであらうか。二十六は二十七の誤又春水の五十九は六十一の誤である。
 会見の日、六十一歳の春水は三十歳の蘭軒を座に延(ひ)いて□待し、二十七歳の山陽が出でて談を助けた。
 ※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-85-上-6]詩集に「宿広島、訪春水頼先生松雨山房、歓飲至夜半」として一絶がある。「抽身□隊叩間扉。雨後園松翠湿衣。月下問奇宵已半。艸玄亭上酔忘帰。」
 わたくしは此会見が春水蘭軒の初対面だと云ふ。これは確拠があつて言ふのである。客崎(かくき)詩稿に蘭軒が春水の弟春風に逢つた詩があつて、其引首と自註とを抄すれば下(しも)の如くである。「安藝頼千齢(名惟疆)西遊来長崎、訪余居、(以下自註、)其兄春水、余去年訪其家而初謁、其弟杏坪旧相識于東都、千齢今日方始面云」と云ふのである。是に由つて観れば、春水春風杏坪(きやうへい)の三兄弟の中で、蘭軒が旧く江戸に於て相識つたのは杏坪だけである。只其時日が山陽の伊沢氏に来り投じたのと孰(いづれ)か先孰か後なるを詳(つまびらか)にすることが出来ない。次で蘭軒は文化三年に春水を広島の邸宅に往訪し、最後に四年に春風を長崎の客舎に引見したのである。春風の九州行は春水が「嗟吾志未死、同遊与夢謀、到処能報道、頼生已白頭」の句を贈つた旅である。
 しかしこれは蘭軒と頼氏長仲季(ちやうちゆうき)との会見の時日である。その書信を通じた前後遅速は未だ審(つまびらか)にすることが出来ない。
 松雨山房の夜飲の時、蘭軒の春水に於けるは初見であるが、山陽は再会でなくてはならない。わたくしは初め卒(にはか)に紀行の此段を読んで、又微(すこ)しく伊沢氏が曾て山陽を舎(やど)したと云ふ説を疑はうとした。それは「男子賛亦助談、子賛名襄、俗称久太郎なり」の数句が、故人を叙する語に似ぬやうに覚えたからである。しかし更に虚心に思へば、必ずしもさうではなからう。春水との初見も、特に初見として叙出しては無い。春水も山陽も、此紀行にあつては始て出づる人物である。父は已に顕れた人物だから名字を録することを須(もち)ゐない。子は猶暗い人物だから名字を録せざることを得ない。此の如くに思惟すれば、此疑は釈(と)け得るのである。
 且山陽の伊沢氏と狩谷氏とに寄つたのは、山陽の経歴中暗黒面に属する。品坐の主客は各(おの/\)心中に昔年の事を憶ひつつも、一人としてこれを口に出さずにしまつたと云ふことも、亦想像し得られぬことは無い。
 わたくしは既に述べた諸事実と、後に引くべき茶山の手柬(しゆかん)とに徴して思ふ。伊沢氏と頼菅二氏とは、縦(たと)ひいかに旧く音信を通じてゐたとしても、山陽が本郷の伊沢氏に投じたのは、春水兄弟や茶山に委託せられたのでは無からう。山陽自己がイニチアチイヴを把握したのであらう。そして身を伊狩(いしう)の二家に寄せた山陽の、寓公となり筆生となつた生活は、よしや数月の久しきに亘つたにしても、後年に至るまで関係者の間に一種の秘密として取り扱はれてゐたのであらう。
 蘭軒が春水を訪うた日に、偶(たま/\)竹原に往つてゐて坐に列せなかつた「次子」は、春水の養子権次郎元鼎(げんてい)である。

     その四十四

 蘭軒が旅行の第三十二日は文化三年六月二十一日である。「廿一日五更発す。城下市街をすぐるに数橋を経たり。みな砂川の大なるに架す。田路(たみち)に至て海浜に出づ。一小山あり。轎夫脚を愛して海中潮斥(てうせき)の処を行く。又松樹千株の海浜山上を経て二里廿日市。宇佐川文好の家に休す。主人痛風截瘧(せつぎやく)の二方を伝ふ。駅に山あり。屈曲盤回(はんくわい)して上る。海上宮島を望こと至て近がごとし。此山を桜尾と名く。又篠尾山と名く。菅神祠(くわんじんし)あり。山伏正覚院といふもの居住す。文好云。寿永年間桜尾周防守(周防国桜尾城主)近実(ちかざね)といふ者天神七代を此山に祀(まつる)。年歴久(ひさしう)して天満天神の祠となすのみ。時正巳なり。上村源太夫鈴木順平藤林藤吉石川五郎治及余五人舟にて宮島にいたる。海上二里間風なく波面席のごとし。午後宮島にいたる。祭事後故に市商甚盛なり。千畳敷二畳に上(のぼつ)て酒肴を喫。勝景、源貞世、近来水府長赤水(ちやうせきすゐ)説こと甚詳(つまびらか)なり。已未後。船に乗じて海上一里久波駅。醸家沢本屋吉兵衛の家に次(やど)る。主人池田瑞仙と知己なりといふ。駅長の園臥竜松長延十三四間なるあり。此日暑甚し。夜海中の塩火を見る。行程六里許(きよ)。」
 宮島の事は蘭軒自ら記せずして、貞世の道ゆきぶりと赤水の長崎紀行とを引いてゐる。道ゆきぶりの文にはあたとと云ふ地名の下に歌がある。「島守にいざこととはむ誰がためになにのあたとと名にしおひけむ。」
 長赤水は長久保氏、名は玄珠、字(あざな)は子玄、通称は源五兵衛である。著書中に長崎紀行と長崎行役日記とがある。長崎紀行に日本の三大市といふことがある。六月十七日安藝宮島の市、三月二十四日下の関阿弥陀寺の市、八月十五日豊後浜の市である。「中にも此宮島第一なりとぞ」と云つてある。又童謡が載せてある。「安藝の宮島めぐれば七里浦が七浦七えびす。」七浦は杉野、腰細、青海苔、山白、洲屋(すや)、御床(みとこ)、網である。七えびすは昔佐伯部の祀つた神ださうである。
 池田瑞仙は初代錦橋であらう。此年七十二歳であつた。
 詩。「厳島。棹子占風告艤船。張帆数里忽飛然。廻廊曲院蒼波浸。尖塔危楼翠樹連。華表一※[#「隻+隻」、7巻-87-下-12]離岸立。燈籠百八繞簷懸。治承姦相修斯宇。土俗于今却説賢。又。厳島延回七里強。浦居蜑戸市居商。豈知波浪無辺地。別有人烟如此郷。□鹿馴童眠石岸。吟猿送客下松岡。昔年帝裂蓬莱半。封得霊姫鎮一方。」
 第三十三日。「廿二日卯時発。駅を出る所昔の黒河なり。一山路をさけて潮斥の処を行く。漁家両三軒ありて山下海岸に倚る。海面朝靄蒼茫として宮島あたたしま壁島隠見す。小瀬川を渡る。周防の国界なり。国史に大竹川を分て周防国とすとあるは此川をいふ歟。川を渡るところ木柱一株をたつ。書して云。「自小瀬至赤間三十六里」と。此国毎里に程を記することかくのごとし。関戸の山路に入り三里関戸駅。(山中の村なり。)中屋重五郎の家に休す。一山をすぐれば多田といふ所あり。少く坦道を経て御庄川を渡る。里人に岩国山をとへば此川南の松山にして今城山といふ所なりと答ふ。柱野をすぎ入山の山路にいる。渓谷相分れて坂梯甚嶮なり。すべて雑樹なし。老松多して鬱葱たり。谷間の道甚長し。土人一に馬鹿谷(ばかだに)といふ。城主より撫院迎接の為に山上に茶亭を作る。皆松枝(まつがえ)青葉を束(つかね)て樊籬屋店(はんりをくてん)を作る。欽明寺坂を下りて四里久賀本郷駅なり。駅の南に嵯峨として聳たる嶺見ゆ。夫木(ふぼく)集中に詠ずる冰室(ひむろ)ならんか。土人冰室が嶽といふ。(夫木集に、周防氷室池詠人不知、こほりにし氷室の山を冬ながらこちふく風に解きやしぬらむ。)半里高森駅。愛宕屋与三郎の家に宿す。此日午後驟雨微涼。晩間暑はなはだし。夜尤甚し。行程七里半許。」
 黒河、小瀬川及岩国山の下に貞世(さだよ)の道ゆきぶりが引いてある。岩国山の歌が三首ある。「とまるべき宿だになきを駒なづむいはくに山にけふやくらさむ。たちかへり見る世もあらば人ならぬ岩国山を我友にせむ。たらちねのおやにつげばやあらしてふいは国山をけふはこえぬと。」小瀬川一名大竹川の所に所謂国史は続日本紀である。

     その四十五

 第三十四日は文化三年六月二十三日である。「廿三日卯時発す。二里今市駅。呼坂(よびざか)を経るに人家街衢をなす。撫院河内屋藤右衛門といふものの家に小休す。薬舗なり。蔵書数千巻を曝す。主人他に行故をもつて閲(けみ)することを不許(ゆるさず)。呼坂は蓋(けだ)し昔にいふところの海老坂なり。松山峠を経二里久保田駅(一名久保市)なり。二十八町花岡駅。山崎屋和兵衛の家に休す。主人手みづから比目魚(ひもくぎよ)を裁切して蓼葉酢(りくえふさく)に浸し食せしむ。味(あじはひ)最妙なり。山路を経るに田畝望尽(のぞみつき)て海漸く見(あらは)る。廿五町久米駅。廿四町遠石(とほいし)駅なり。右の岡上八幡の祠あり。又市中影向石(えいかういし)といふものあり。大石なり。上に馬蹄痕あり。土人の説に古昔宇佐八幡の神飛び来(きたつ)て此石上にとゞまるなりといへり。貞世紀行には此石海中にある文見ゆ。桑田碧海の歎おもふべし。人家の所尽て松原なり。青田瀰望また列松数千株めぐれり。松外は大海雲晴遠島飛帆その間に隠見す。半里野上駅。すなはち徳山城下なり。鶴屋新四郎の家に小休す。城此をはなるゝこと十町許(きよ)なり。浅井金蔵谷祐八(金蔵字(あざなは)子文祐八字子哲徳山の臣なり)のことを物色するに、みな安寧なりといへり。海面に佐島大山島を望。一里十二町富田駅にいたる。駅は山の半腹なり。山東南に面して海中に出るがごとし。海面は遠山延繚して中断し水天一色なり。海に傍(そ)ひたる坂をめぐりくだるとき、已夕陽紅を遠波にしきたり。やち川を渡り十九町福川駅。米屋七五郎の家に宿す。此駅より海面に島々見ゆる中に、せん島黒髪山島尤大なり。此日暑甚しけれども風あり。此日立秋なり。行程八里廿四町許。」
 貞世の道ゆきぶりを引くもの凡そ三箇所である。呼坂、遠石、富田が是である。呼坂は貞世が海老坂と書いてゐる。遠石の馬蹄を印した石は、貞世が過ぎた時まだ「浜の汐干のかた遙なる沖に」あつた。富田の浦から見える島々の中に、厳島といふ島もあつたと、貞世は記してゐる。
 詩。「宿福川駅、此日立秋。涼□水国早知秋。聒耳驚濤鳴枕頭。櫓響暗帰漁浦岸。燈光未寐酒家楼。短宵強半眠難熟。遠旅多般疾是憂。我已倦兮僕其※[#「やまいだれ+甫」、7巻-90-上-3]。経過十有二三州。」旅疲が詩の後半に見えてゐる。「疾是憂」とは云つても、猶幸に疾(や)むには至らなかつたらしい。
 第三十五日。「廿四日卯時発。一里矢地駅。一里半富海(とのみ)(一名戸(と)の海(み))駅なり。駅尽(つきて)山路にかかる。浮野嶢(うきのたうげ)といふ。すべる所、望む所、貞世紀行尽せり。山陽道中第一の勝景と覚ゆ。一里浮野駅。一里宮市駅。三倉屋甚兵衛の家に休す。佐南嶢(さなたうげ)といふ所をすぐ。山海園村の勝尤よし。富海山道に比するに路短しとす。金坂峠岩淵大とう村末村をへて四里半小郡(をごほり)駅。麻屋弥右衛門の家に宿す。居北に山を望南田畝平遠なり。庭前蓮池あり。荷葉傘(からかさ)のごとく花は径(わたり)八九寸許。白花多して玉のごとし。此日暑甚しからず。行程八里許。」
 浮野峠の下(もと)に又貞世の道ゆき振が引いてある。橘坂桑の山の歌各(おの/\)一首がある。「あら磯のみちよりもなほ足曳のやま立花の坂ぞくるしき。花すゝきますほの糸をみだすかな賤がかふこの桑の山風。」欄外に森枳園(きゑん)の筆と覚しき書入がある。「此あたりに佳境ありてむかしより詩歌にも人口にもあらはれざりしを、近比(ちかごろ)江戸人見出して絶景なりとし、はるかに大田南畝などに詩をつくらしむ。それより土人もしりて詩を諸方に乞ふ。此に引ところを見れば近世すでに賞せられしと見えたり。あるひは別に一嶺の佳処ありや。」此に引くところとは道ゆきぶりの語を謂ふのである。
 詩。「富海途中。天容海色望悠々。浮碧一桁豊後州。曲岸吾過東畔去。前人已在水西頭。小郡駅逆旅、池蓮盛開、花葉頗大、都下所未見、応主人需賦。芙※[#「くさかんむり/渠」、7巻-90-下-14]清沼遍。香気帯秋寒。葉是青羅傘。花為白玉盤。飜風声策々。経雨露溥々。剰有新肥藕。採来供晩餐。」

     その四十六

 第三十六日は文化三年六月二十五日である。「廿五日卯時発す。山路を経るに周防長門国界の碑あり。二里半山中駅なり。二又川を渡り二里半舟木駅。櫛屋太助の家に休す。売櫛家(くしをうるいへ)多し。土人説に上古此地に大なる樟木(くすのき)あり。神功皇后の三韓を征する時艨艟四十八艘を一木にて造れり。因て船木と名(なづ)く。其枝の延し所を涼木(すゞき)といひ(船木より四里)木末(こずゑ)の倒し所を木の末といふ。(船木より六里。)此近地より出る石炭は古樟の木片なるべし。木の末今は清末(きよすゑ)とあやまるといふ。船木川を渡り、くしめ坂を越え一里半浅市駅。福田より蓮台にいたる間美田長し。朝野弥太郎の千町田(ちまちだ)といふ。一里廿八町吉田駅。山城屋重兵衛の家に宿。此日暑不甚。行程八里許(きよ)。」船木の伝説は諸書に見えてゐる。宗祇の道の記にもある。
 第三十七日。「廿六日卯時発す。豊浦を経(豊浦は長府に神功皇后の廟ある故蓋(けだし)名くる也)海辺の松原をすぎ一里卯月駅なり。榎松原をすぐれば海上に干珠満珠島見ゆ。一里半長府。松屋養助の家に休す。蓮藕(れんぐう)を食せしむ。味(あぢはひ)尤妙なり。しかれども関東の柔滑と自異なり。神功皇后廟あり。頗荘麗なり。左に武内宿禰を祀り右に甲良玉垂神(かふらたまたれのかみ)を祀る。小祠甚多し。西に面し海を望て建つ。側に大樹松。囲(めぐり)三人抱余なり。皇后征韓の時手栽(てづからうゑ)て、もし凱陣ならば蒼栄すべし、しからずんば枯亡せよといへり。その松なりと土人の説なり。貞世の説と異なり。舞台もあり。(余童子のとき匠人金次といふもの長府侯江戸の邸第(ていてい)補修のとき長府二の宮舞台のはふのごとくなれと好のよし語れり。今目のあたり見ることを得たり。)此宮は長府の二の宮にて一の宮は此より一里北に住吉の神をまつると也。大内義隆(よしたか)造作の古宮(ふるみや)なりといへり。竜宮より奉る鐘ありといへり。又神功寺(真言宗)といふ寺二の宮の鳥居の側にあり。是亦義隆創立なりしが旧年火ありて今は一小寺なり。前田といへる山崖の海浜をすぐ。松樹万株連りて雑樹なし。図後に附す。壇の浦に至る。豊前の山々一眼にありて甚近がごとし。漁家千戸道路狭し。阿弥陀寺に詣(いた)る。寺僧先導して観しむ。安徳帝の陵上に廟を造て帝の木像を立。十年已前までは素質なるを近年彩色を加ふといふ。左右の障子に二位女公内侍より以下平戚(へいせき)の像を画く。古法眼元信の筆蹟なり。又廟廡金紙壁に平氏西敗の図あり。土佐光信の筆蹟なり。後山に入水平戚(じゆすゐへいせき)の塔あり。此寺古昔大内義隆の所造(つくるところ)なり。しかるを近年修補せり。寺を出て亀山八幡に詣る。一小岡にして海に臨(のぞみ)涼風灑(そゝぐ)がごとし。土人の説に聖武帝の貞観元年に宇佐より此地に移し祀といへり。是亦大内義隆の所造なり。舞台上より望ときは小倉内裏より長府の洋面に至まで一矚の中にあり。遂に二里下の関川崎屋久助の家に宿。地形は貞世の紀行尽せり。大坂より已来尾の道大輻湊の地なれども赤馬関は勝ること万々ならん。此日暑甚しからず。行程五里許。」
 神功皇后廟と馬関との下に又貞世の道ゆきぶりが引いてある。皇后手栽の松を記する本文に接して、「貞世の説と異なり」と云つてあるが、道ゆきぶりには松の事は言つて無い。貞世の文中皇后征韓の事に関するものは下(しも)の如くである。「壇のうらといふ事は皇后のひとの国うち給ひし御とき祈のために壇をたてさせ給ひたりけるよりかく名けけるとかや申也。其時の壇の石にて侍るとて御社(みやしろ)の前のみちの辺にしめ引まはしたる石あり。此御社はあなと豊浦の都の大内の跡にて侍とかや。」馬関の条(くだり)は貞世の文が長いから、此に省く。大要はかうである。昔馬関と門司が関との間には山があつて、其山に「潮の満干の道ばかり」の穴があつた。皇后が艤(ふなよそほひ)せさせ給うた後、一夜の程に山が裂けて速鞆(はやとも)のせととなつたと云ふのである。此伝説と穴門(あなと)の語とが後人の議論に上つたことは人の知る所である。
 詩。「赤馬関。瀕海商船会。既庶而且豊。寺存安徳廟。山古応神宮。蟹甲成奇鬼。硯材如紫銅。数家娼妓在。漫学浪華風。」

     その四十七

 第三十八日は文化三年六月二十七日である。「廿七日暁より雨大に降る。風亦甚し。因てなほ川崎屋にあり。一商人平家蟹を携て余にかはんことをすゝむ。
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