伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

 寿阿弥の入寂は八月二十九日であつた。其詳なることは別に著す所の「寿阿弥の手紙」に譲つて贅せない。わたくしは此に曾能子刀自の記憶一条を補記して置く。「寿阿弥さんは背の高い大坊主でございました。顔立は立派で、鼻が大そう高うございました。鼠木綿の著物を著て、お天気の日も雨の降る日も、足駄を穿いて歩きました。浅草で亡くなる前に、わたくしも病気見舞に連れて行かれました。」
 森枳園の阿部家に帰参したのは五月である。此帰参が主として伊沢氏の助を藉りて成就し、又渋江抽斎等も力を其間に尽したことは、既に抽斎伝に記した如くである。
 此年榛軒四十五、妻志保四十九、女柏十四、柏軒と妻俊とは三十九、女洲八つ、国五つ、蘭軒の女長三十五、蘭軒の姉正宗院七十八であつた。
 嘉永二年には榛軒に元旦の詩があるが、詩存中に載せられない。わたくしは良子刀自所蔵の掛幅(くわいふく)に於てこれを読むことを得た。「笑迎四十六年春。椒酒三杯気愈伸。弟有悌兮児有孝。奉斯懶病不材人。己酉元日口占。源信厚。」
 四月は丸山の榛軒が家にも、中橋の柏軒が家にも事のあつた月である。
 榛軒は十七日に女(ぢよ)柏(かえ)のために婿を迎へた。婿は池田京水の七男全安である。文政八年生の全安は二十五歳になつてゐた。渋江保さんが此時父抽斎の榛軒に物を贈つた書の下書を蔵してゐる。「一筆啓上仕候。今般全安様御事、伊沢家へ御養子御熟談相整重畳愛度奉存候。右御祝儀申納度、真綿一台進上仕候。聊表志之印迄に御座候。御祝受被下候ば、本懐之至奉存候。恐惶謹言。」
 柏軒の家では九日に妾(せふ)春が次男鉄三郎を生んだ。後徳安(とくあん)と改称し、立嫡(りつてき)せられて父の後を襲ぎ、磐安(ばんあん)と云ひ、維新の時に及んで磐(いはほ)と称した。
 穉(をさな)い鉄三郎は春を「春や」と呼び、春も亦鉄三郎を「若様」と呼んだが、維新後の磐は春を嫡母(てきぼ)として公に届け、これに孝養を尽した。

     その二百五十七

 榛軒詩存中に尚此年己酉四月の作と認べきものがある。それは「嘉永二己酉偶成、次高束子韻」の七絶三首である。わたくしは此にその四月の作たるを徴すべきもの一を節録する。「点滴声中送尽春。麦秋寒犯病酲身。矮屏孤枕昏昏臥。羨望多餐健歩人。」既に元日の詩に「懶病」と云ひ、今又此詩がある。榛軒は此頃心身の違和を覚えてゐたとおもはれる。
 五月には榛軒の女婿全安が離縁になつた。そして柏は不幸にして妊娠してゐた。全安の伊沢氏を去つたのは、医術分科の上に於て、養父榛軒と志す所を異にしたのだと伝へられてゐる。全安は此より自立して池田氏の「又分家」を成した。即ち宗家霧渓瑞仙晋(しん)、分家天渓瑞長、又分家全安である。
 小島氏では此年四月十五日に、春庵宝素の子春沂(しゆんき)抱沖が躋寿館(せいじゆくわん)の寄宿寮頭取になつた。尋で閏(じゆん)四月二十九日に宝素が歿し、七月三日に抱沖が家督相続をし、十月二十八日に奥医師になつた。
 此年榛軒四十六、妻志保五十、女柏十五、柏軒並妻俊四十、女洲九つ、国六つ、男鉄三郎一つ、蘭軒の女長三十六、蘭軒の姉正宗院七十九であつた。柏軒の妾春は二十五であつた。
 嘉永三年は蘭軒歿後第二十一年である。伊沢家には三事の記すべきものがあつた。其一は榛軒が日光山に遊んだこと、其二は正宗院が八十の賀をしたこと、其三は榛軒の女柏が全安の遺子梅を生んだことである。
 日光山の遊は榛軒詩存に七絶五首が見えてゐる。榛軒は是より先、既に此山に登つたことがあるらしい。「売酒老翁旧相知。竹欄沿例先把巵。」庚戌の此遊は夏の初で、途上四月八日に某寺を訪うた。「紫屋紅軒尽是花。禅房新造小龕家。媼翁各伴児孫去。競酌香湯灌釈迦。」途(みち)に藤の花の盛に開いてゐるのをも観た。「水奔渓石白如噴。風擺藤花紫欲篩。」五首の題は「嘉永三庚戌日光道中口占」である。
 阿部正弘事蹟を按ずるに、下(しも)の如き記事がある。「此年(嘉永二年)九月、日光東照宮其他の修繕工事総奉行を命ぜらる。翌年(三年)三月、勝手掛勉励の労を賞せられ、且つ東照宮修繕の為に日光に発向するを以て、葵章鞍覆を賜はる。四月、日光に赴き、十余日にして帰る。」是に由つて観れば、榛軒庚戌の遊は正弘に随行したものと見える。
 次に正宗院の八十の賀は、わたくしは今二物の存するあるに由つて知つた。徳(めぐむ)さんは小島成斎の書幅を蔵してゐる。全唐紙に「如南山寿、不騫不崩」の八字が二行に大書してある。末には「奉賀正宗院君八秩、知足」と署してある。禿筆(とくひつ)を用ゐて作つた草体が奔放を極めてゐる。引首印(いんしゆいん)と知足の下(しも)の印一顆とがある。是が一つである。今一つは清川安策の五古で、是は文淵堂の花天月地(くわてんげつち)中に収められてゐる。

     その二百五十八

 わたくしは此年庚戌の正宗院八十の賀に、清川安策の五古があつたと云つた。今これを下(しも)に写し出す。「賀正宗尼君八十初度、漫賦十韻以代戯話。天錫無疆寿。譬諸松栢栄。繁枝庇百草。心堅而操貞。昔日絶世累。晩節傲玄英。窮陰無衰態。足以慰物情。仙鶴棲其上。有雛揚家声。二字誰所命。称其宗之正。請看甘冽酒。与君同美名。老後最多福。奉養有両甥。松下聞鶴唳。筵間金尊盈。雲仍遶膝坐。交起挙賀□。梧陰廃叟拝具。」花天月地の同巻中に榛軒に此詩を寄せた時の添書(そへしよ)があつて、「口上茶番に代候(かへそろ)例の譫言(たはこと)」とことわつてある。此書状には□(がい)と署してあり、又詩箋にも「清川」と「□」との二印がある。日附は「□月(さげつ)十二日」である。徳(めぐむ)さんに質すに、清川玄策、名は□、号は梧陰又藹軒(あいけん)であつたと云ふ。蘭軒門人録に「清川玄道、初安索、江戸」(安は玄、索は策か)とあり、榛軒門人録に「清川安策、岡」とある。梧陰は前者であらうか。榛軒詩存に唱和の詩数首があつて、皆「清川安策」とのみ書してあるが、それは後者であらう。渋江保さんの言(こと)に従へば、清川□に二子があつて、兄を玄策徴(げんさくちよう)と云ひ、弟を安策孫(あんさくそん)と云つた。此孫が順養子となつたさうである。按ずるに梧陰は蘭門の玄道で榛門の安策の父ではなからうか。梧陰の齢(よはひ)は□(はるか)に榛軒より長じてゐたらしい。
 曾能子刀自の語る所に拠れば、正宗院の賀筵は十二月中三日間引き続いて開かれたさうである。果して然らば十一、十二、十三日であらう。梧陰の詩は其中の日に贈られたのである。又刀自の言(こと)を聞くに、榛軒は此賀筵を催すに当つて黒田家に請ひ、正宗院を丸山の家に遷らしめたさうである。丸山の家の図に正宗院の居室のあつたことは前に云つた如くである。
 わたくしは上(かみ)に此年三事の記すべきものがあつたと云つて、榛軒の日光山の遊、正宗院の八十の賀、梅の誕生を挙げた。梅は榛軒の初に迎へた女婿全安の柏(かえ)に生ませた女(むすめ)である。わたくしは其生日を知らぬが、全安の伊沢氏を冒してゐた期間より推すに、庚戌三月よりは遅れなかつただらう。
 最後にわたくしは榛軒詩存中より、「嘉永三庚戌冬夜直舎即事」の詩を抄出する。「酔醒人散三更後。独擁銅炉臥官楼。撃柝響時寒愈急。宿鴉鳴処月将浮。尋得残酒尋残夢。憶来旧詩憶旧遊。世事初知消気力。笑看半点暁燈油。」
 此年榛軒四十七、妻志保五十一、女柏十六、孫女梅一つ、柏軒並妻俊四十一、女洲十、国七つ、柏軒の妾春二十六、蘭軒の女長三十七、蘭軒の姉正宗院八十であつた。
 嘉永四年は蘭軒歿後第二十二年である。榛軒に元旦の詩がある。「嘉永四辛亥元旦、与塾中諸子同分韻得肴、近日諸子学術頗進、後句及之。団欒児女迎新歳。更献椒杯又進肴。恰恰山禽呼屋角。暉暉旭日上梅梢。青洲従事頻通好。白水真人久絶交。諸子精研尤可喜。先生自此酔東郊。」榛軒詩存巻首の詩である。尋で「嘉永四辛亥初春偶成」の詩がある。「飽食暖衣愧此身。又逢四十八青春。少年宿志渾灰燼。遂作尋常白首人。」此詩の転結は四年前杪冬(せうとう)の七律第七八と殆全く同じである。皆稿を留めざる矢口肆筆(しこうしひつ)の作である。「遠大思懐灰燼了。遂為売薬白頭人。」
 十月二十四日に榛軒は福山の執政高滝(たかたき)某を旅館に訪うた。「嘉永四辛亥十月廿四日、与立夫魯直酔梅家弟柏軒、同訪高滝大夫旅館、此日大夫遊篠池、有詩次韻。昔年今日訪君家。記得林泉清且嘉。亡友共算暁星没。問齢同歎夕陽斜。詩題檠上奇於壁。酒満尊中何当茶。酔渇頻思蜜柑子。二千里外福山※[#「「貝+(やね/示)」、8巻-118-上-5]。」高滝大夫の称は樸斎(ぼくさい)詩鈔、藤陰舎遺稿等に累見してゐる。武鑑に「年寄、高滝左仲」と云ふは此人か。樸斎に「弔高滝常明君墓」の詩がある。常明(つねあき)は左仲の名ではなからうか。同行者立夫(りつふ)は森枳園、魯直(ろちよく)は岡西玄亭である。酔梅(すゐばい)は未だ考へない。

     その二百五十九

 此年嘉永辛亥の十一月に榛軒の女柏が長刀の伝授を受けた。当時長刀の師に呈した誓約書の副本は、今猶曾能子刀自が蔵してゐる。其文は今人(きんじん)の見て奇異とすべきものなるが故に、此に写し出すことゝする。「誓約之覚。巴流長刀目録御伝授之儀、聊他見他言仕間敷候事。御相伝被下候上は、御指南之条条堅相守、稽古半に而(て)相止申間敷、且他流と藝替不仕候。右於相背者(あひそむくにおいては)、秋葉大権現摩利支尊天、別而(べつして)鬼神之御罰相蒙可申候也。仍誓約如件(くだんのごとし)。嘉永四年歳次辛亥十一月。伊沢柏。喜多村増馬(ますま)殿。」
 昔妙齢にして長刀を錬習した柏が今曾能子刀自として健在せることは、わたくしの既に屡(しば/\)云つた如くである。啻(たゞ)に然るのみならず、毎(つね)に柏が長刀の対手をした少年も、今猶健在してゐる。それは当時の塩田良三(りやうさん)で、即今の塩田真(しん)さんである。辛亥の歳には柏が十七、良三が十五であつた。
 十二月十三日に蘭軒の姉幾勢(きせ)、黒田家の奥に仕へた時の名世代(せよ)、薙染(ちぜん)後の称正宗院が八十一歳を以て丸山の家に歿した。前年庚戌十二月の寿筵は此媼(おうな)をしていたく疲れしめた。正宗院は此より垂れ籠めてのみ日を送つてゐたが、遂に寿筵後満一年にして歿したのである。正宗院は遺言に依つて、黒田家の菩提所広尾祥雲寺境内霊泉寺の塋域に葬られた。昨年黒田伯爵家の家乗編纂に従事してゐる中島利一郎さんは、わたくしのために正宗院の墓に詣でて、墓石の刻文を写して贈つた。正面中央には「正宗院湛然妙総禅定尼、」右側面には「瑤津院殿侍女、俗名世代、福山伊沢長安信階女、嘉永四年辛亥十二月十三日死、」左側面には「福山伊沢長安信厚、筑前伊沢道盛信全」と刻してある。此文中道盛信全は蘭軒の生父信階(のぶしな)の養父信政より、信栄、一時中継(なかつぎ)たりし信階、信美(しんび)[#ルビの「しんび」は底本では「しんぴ」]を経て信全に至る、伊沢宗家の当主で、辛亥には六十九歳であつた。
 正宗院の歿した時、石川貞白の手向けた歌がある。「正宗院のみまかり給ひけるとき禅の心を。わきがたきをしへの外の道なれどけふぞまことに君はゆくらむ。元亮。」
 此年榛軒四十八、妻志保五十二、女柏十七、全安の女梅二つ、柏軒並妻俊四十二、女洲十一、国八つ、男鉄三郎二つ、蘭軒の女長三十八、柏軒の妾春二十七であつた。
 嘉永五年は蘭軒歿後第二十三年で、其嗣子榛軒の応(まさ)に世を去るべき年である。詩存に元旦の絶句がある。「嘉永五壬子元旦。喜鶴声々対旭飛。陶然酔美弄晴暉。頼依信友悌弟力。不待来年知了非。」此日榛軒は又門人黒川雲岱(うんたい)に次韻した。「嘉永五壬子元旦、和黒川生韻。三百六十第一辰。風声日影共新新。節遅今日尚冬季。人意酔中既識春。」門人録を検するに、黒川は「棚倉」と註してある。わたくしは榛軒詩存の或は永遠に印刷せられざるべきを思ふが故に、作者の世を去る年の詩は悉く存録することとした。上(かみ)の二首の如きも、其巧拙を問ふことなく、遺蹟に乏しい榛軒の所作として、わたくしはこれを尊重するのである。

     その二百六十

 此年嘉永壬子の冬は伊沢氏に於て事多き季節であつた。初に中橋又分家の慶事があつた。柏軒は十月七日に躋寿館の講師を命ぜられたのである。
 同月下旬に榛軒が病に罹つた。或は是より先に病を発して、此旬(じゆん)に入つて増悪したのかも知れない。徳(めぐむ)さんの蔵する所の病牀の日記は、「十月廿一日、熱、嘔、脈数、椿庭診、柏軒診」を以て筆を起してある。椿庭(ちんてい)は山田昌栄業広(しやうえいげふくわう)である。弟柏軒も亦中橋から来り診した。
「廿二日。乾嘔甚。夜信重診。」弟が夜に入つて来た。
「廿三日。薬下。嘔少止。」
「廿四日。嘔少止。壮熱。午後□庭診。晩清吉老診。」多紀□庭(たきさいてい)が来診した。「清吉老」は未だ考へない。
「廿五日。壮熱如前。□庵診。晩汗微出。」辻元□庵(つじもとすうあん)が来診した。此年の武鑑に「辻元□庵、奥御医師、二百俵高、御役料三十人扶持、下谷長者町」と記してある。
「廿六日。嘔止。熱少衰。夜与立夫議転方。」転方(てんはう)は榛軒が自らこれを森枳園に諮(はか)つたのであらう。
「廿七日。招請椿庭議方。」薬方は原本に註してあるが、今総て省略する。
「廿八日。清吉老診。」
「廿九日。煩熱。心下鞭満甚。」
「十一月三日。良安と信重に刀を贈る。信重のものは後鉄三郎に与へしむ。」良安は榛軒が女柏に配せむとしてゐる青年田中鏐造(りうざう)である。田中氏は当時松川町に住んでゐた。良安は六歳にして父を失つた孤(みなしご)であつたと云ふから、父淳昌(じゆんしやう)は天保十年に歿したであらう。榛軒詩存に「嘉永五壬子冬月示良安」と云ふ詩がある。「医家稽古在求真。千古而来苦乏人。万巻読書看破去。応知四診妙微神。」或は此日の作ではなからうか。此年十月は小であつたから、二十九日の後記事の無い日は、十一月朔(さく)と二日とである。
「四日。御食進。夜中も一度御食事有之。此夜養子婚儀。」合※[#「丞/巳」、8巻-121-上-6]の日は榛軒の心を安んぜむがために急にせられたのであらう。此日に良安は十九歳にして伊沢良安となつた。即ち後の棠軒である。媒(なかうど)は梧陰清川安策であつた。「棠軒公私略」には「嘉永五年壬子十一月四日、養家に引移、整婚儀、名改良安、時府君在蓐」と記してある。是に由つて観れば、良安は榛軒の命じた名である。
「五日。楽真院来診。養子来り、忝しと挨拶あり。」楽真院は□庭である。此年の武鑑を検するに、向柳原(むかうやなぎはら)の多紀宗家は「多紀安常、父安良、御医師方子息」と記してある。安良(あんりやう)は暁湖元□(げうこげんきん)、其子安常は棠辺元佶(たうへんげんきつ)である。元佶は実は暁湖の季弟である。矢の倉の多紀分家は「多紀楽真院法印、父安長、奥御医師、二百俵高、御役料二百俵、両国元矢の倉」、「多紀安琢、父楽真院、御医師方子息」と記してある。安長は桂山元簡(けいざんげんかん)、楽真院は□庭元堅(げんけん)、安琢は雲従元□(うんじゆうげんえん)である。「養子来り、忝しと挨拶あり」と云ふより推すに、榛軒が田中淳昌の遺子を迎へて女婿とした時、□庭は其間に周旋したと見える。
「六日。昨夜発熱。汗出。□□有之。但小水快利。椿庭来診。」
「七日。夜安眠。」
「八日。清吉老来診。言談過る故、終夜不眠。」
「九日。□老診。夜快眠。四時熱退。」
「十日。椿庭診。□庭診。清吉老診。岡西、成田来。」岡西は蘭軒門人録に「岡西玄亭、藩、」榛軒門人録に「岡西玄庵、福山」があり、成田は彼に「成田元倩、藩、」此に「成田竜玄、九鬼」がある。「藩」は福山藩である。岡西玄亭は渋江抽斎の妻(さい)徳(とく)の兄で、当時尚存命してゐた。玄庵は玄亭の長男、岡寛斎の兄で、此年十八歳であつた。問安のために来たのは、父子孰(いづ)れなるを知らない。成田の事は不明である。

     その二百六十一

 わたくしは嘉永壬子の冬榛軒が致死の病に染まつたことを語つて、当時の病牀日記を抄し、十一月十日の条に至つた。今其後を書き続ぐ。
「十一日夜不寐。推枕軒安安信厚居士。先生自命。竜穏寺主許可。古き帳を大川に沈めしむ。」榛軒は自ら不起を知つたので、法諡(はふし)を撰んで識る所の僧に請うて閲(けみ)せしめた。又文書中後に貽(のこ)さざらむことを欲するものがあつたので、遺言して処分せしめた。人の秘事を与り知ることは、懺悔を聴くカトリツク教の僧を除いては、医師状師が最も多いであらう。殊に医を以て主に事(つか)へ、又幾多の貴人を診した榛軒の記録中に、人のために諱むべき事のあつたのは怪むに足らない。榛軒が簿冊を河に沈めさせたのは、恐くは諫草(かんさう)を焚(や)く意に外ならなかつたであらう。
「十二日。不眠。晩心胸下満痛。□。」
「十三日。上より岡西玄亭を以て慰問せられ、又飯菜を賜ふ。上原全八郎の調理なり。」「上」は阿部侯正弘である。
「十四日。天地は我心なり、又草木の花は我心なり、桜花蓮花の開くごとに我を祭れと云ふ。」亦榛軒遺言の一部である。
「十五日。晩誦曰。繁華四十九年夢。化作寒天一夜霜。」榛軒辞世の句である。「天」は原(もと)「風」に作つてあるが、恐くは誤であらう。
 病牀日記は十六日の記を闕いてゐる。しかし此日の巳刻に榛軒は絶息した筈である。棠軒公私略に「同(十一月)十六日朝四時過遂に御卒去被遊候、尤発表は翌十七日差出」と記してある。
 此日榛軒門人の一人であつた塩田良三が躋寿館に於て医学出精の賞詞を受けた。良三は榛軒に師事し、其歿後に柏軒の門下に転じた人である。
 当時の良三、今の真(しん)さんは渋江保さんに下(しも)の如く語つた。「わたくしの十六歳の時であつた。十一月十五日に、旧主人宗対馬守の重役から、御用有之、明十六日朝四時出頭するやうにと云つて来た。十六日に邸へ往くと、医学館へ往けと云ふことであつた。医学館に出て見ると、多紀安良、安琢が列座してゐて、安良の申渡があつた。其口上は講書聴聞久々出精一段之事に候と云ふ文言であつた。わたくしはそれを承つて、それから宗家の留守居役同道で所々へ礼廻に往つた。老中、若年寄、医学館世話役五人、手伝四人、俗事役三人の邸宅を廻つたのである。官医だけの氏名を言へば、世話役は多紀楽真院、野間寿昌院、多紀安良、辻元□庵、喜多村安正、手伝は谷辺(たにべ)道玄、船橋宗禎、坂尚安(さかしやうあん)、多紀安琢であつた。礼廻が済んでから、わたくしは榛軒先生の宅へ往つた。わたくしは切角先生に喜んで貰はうと思つて往つたのに、先生はもう亡くなつてをられた。丁度わたくしが宗の邸へ出頭した時瞑目せられたのであつた。」
 当時の宗対馬守は義和(よしより)であつた。多紀の三人は宗家の安良が暁湖元□(げうこげんきん)、分家の楽真院が□庭元堅(さいていげんけん)、安琢が雲従元□(うんじゆうげんえん)である。
 渋江保さんの云ふには、此賞詞は其仲兄優善(やすよし)が共に受けて、礼廻をも共に済ませたのださうである。真さんは渋江抽斎と其長子六堂恒善(つねよし)との教をも受けてゐたので、優善とは親善であつた。

     その二百六十二

 榛軒の喪は此年嘉永壬子十一月十七日に発せられた。遺骸は麻布長谷寺(ちやうこくじ)に葬られた。墓は上(かみ)に記した如く、父蘭軒の墓と比(なら)んで立つてゐる。
 葬(とぶらひ)の日は伝はらない。会葬者は甚だ衆く過半は医師で総髪又は剃髪であつた。途(みち)に此行列に逢つた市人等は、「あれは御大名の御隠居のお葬だらう」と云つたさうである。
 此日長谷寺には阿部家の命に依つて黒白の幕が張られた。大目附以上のものゝ葬に準ぜられたのである。会葬者には赤飯(あかめし)に奈良漬、味噌漬を副へた辨当が供せられた。初め伊沢氏で千人前を準備したが、剰す所は幾(いくばく)もなかつたさうである。
 輓詩(ばんし)は只一首のみ伝はつてゐる。誠園(せいゑん)と署した作である。「余多病、託治於福山侍医伊沢一安久矣、今聞其訃音、不堪痛惜之至、悵然有詠。天地空留医国名。何図一夜玉山傾。魂帰冥漠茫無跡。耳底猶聞笑語声。」「誠園稿」と書して、「爵」「守真」の二印がある。引首(いんしゆ)は「天楽」である。初めわたくしはその何人なるを知らなかつたが、偶(たま/\)寧静閣集を読んで誠園の陸奥国白川郡棚倉の城主松平周防守康爵(やすたか)であることを知つた。一安は榛軒の晩年の称である。和歌は石川貞白の作一首がある。「あひおもふ君が木葉と散りしより物寂しくもなりまさりけり。元亮。」
 曾能子刀自の語るを聞けば、此日俳優市川海老蔵と其子市川三升とが、縮緬羽二重を以て白蓮花(はくれんげ)を造らせて贈つたさうである。海老蔵は七代目、三升は八代目団十郎である。然るに文淵堂所蔵の花天月地(くわてんげつち)を閲(けみ)するに、榛軒の病死前後の書牘三通がある。其一は榛軒の病中に父子連署して榛軒の妻志保に寄せたもので、「御見舞のしるし迄に」菓子を贈ると云つてある。末に「霜月九日、白猿拝、三升拝、井沢御新造様」と書してある。其二は八代目一人が※(ばう)[#「貝+冒」、8巻-125-上-2]を送る文で、「此品いかが敷候へども御霊前へ奉呈上度如斯御座候」と云ひ、末に「廿二日、団栗(どんぐり)、伊沢様」と書してある。其三は又父子連署して造花を贈る文で、榛軒を葬つた日を徴するに足るものかと推せられるから、此に全文を録する。「舌代。蒙御免書中を以伺上仕候。向寒之砌に御座候得共、益御機嫌宜敷御住居被為在(あらせられ)、大慶至極奉存候。扨旦那様御病中不奉御伺うち、御養生不相叶御死去被遊候との御事承り驚入候。野子(やし)ども朝暮之歎き難尽罷在候。別而尊君様御方々御愁傷之程如何計歟御察し奉申上候。随而甚恐入候得共御□末(おそまつ)なる造花御霊前様へ御備被下置候はゞ、親子共本望之至に御座候。只御悔之印(おんくやみのしるし)迄に奉献之度(これをけんじたてまつりたく)如此に御座候以上。霜月廿二日。市川白猿。市川三升。伊沢様御新造さま。」八代目の一人で※[#「貝+冒」、8巻-125-上-16]を送つたのと同日である。しかし造花が二十二日に送られたとすると、此二十二日が即葬の日ではないかとおもはれるのである。
 二十三日に榛軒が生前にあつらへて置いた小刀の拵が出来て来た。鞘の蒔絵が蓮花、縁頭鍔共(ふちかしらつばとも)蓮葉(れんえふ)の一本指であつた。榛軒は早晩致仕して、貴顕の交を断ち、此小刀を佩び、小若党一人を具して貧人の病を問はうと云つてゐたさうである。是は曾能子刀自の語る所である。

     その二百六十三

 此年嘉永壬子の十二月十三日は蘭軒の姉、榛軒柏軒の伯母(はくぼ)正宗院の一週年忌であつた。伊沢氏は尚榛軒の喪に居つたから、親戚と極て親しかつた人々とが集つて法要を営んだに過ぎなかつたであらう。「あらがねの土あたたかし冬籠、七十五歳陶後(たうご)」と書した懐紙が徳(めぐむ)さんの蔵儲中にある。
 此年森枳園が屠蘇の方(はう)を印刷して知友に頒つた。亦十二月中の事である。枳園の考証する所に従へば、屠蘇は本唐代の俗間方(ぞくかんはう)である。其配合の最古なるものは宋板外台秘要に出でてゐる。枳園は紀州藩の医官竹田某の蔵する所の宋板外台中屠蘇の方を載する一頁(けつ)を影刻したのである。新年に屠蘇酒を飲むことは、今猶広く世間に行はれてゐるから、此に古方の薬品、分量、製法を略抄して置く。「歳旦屠蘇酒方。大黄十五銖。白朮十銖。桔梗十五銖、蜀椒十五銖汗。烏頭三銖炮。□□六銖。桂心十五銖。右七味□咀。絳嚢盛。以十二月晦日。日中懸沈井中。令至□。正月朔日平暁。出薬置酒中。」
 此年には今一つの記すべき事がある。それは塩田真(しん)さんの語る所で、榛軒等が七代目団十郎の勧進帳を観たと云ふ一事である。塩田氏の語るを聞くに、此勧進帳は七代目団十郎の所謂一世一代名残狂言であつたらしい。これを此年に繋(か)くる所以である。
 塩田氏はかう云つた。「わたくしは伊沢榛軒、同柏軒、渋江抽斎、森枳園、小島成斎、石塚豊芥子(ほうかいし)の人々と寿海老人の勧進帳を観たことを記憶してゐる。此人々は所謂眼鏡連(めがねれん)で、毎(つね)に土間の三四を打ち抜いて見物した。是は本近眼から起つた事である。榛軒柏軒の兄弟は父蘭軒の如く近眼であつた。抽斎は伊沢兄弟程甚しくはなかつたが、是も亦近眼であつた。此日には抽斎の倅優善、清川安策、わたくしなどの青年も仲間入をして往つた。」
「勧進帳は中幕であつた。そしてわたくし共の最も看んと欲したのも亦此中幕であつた。幕の開く前に、寿海老人の口上があつた。例の如くまさかりいてふに柿色の上下(かみしも)で出て、一通口上を述べ、さて仮髪(かづら)を脱いで坊主頭になつて、此度此通頭を円めましたから、此頭に兜巾(ときん)を戴いて辨慶を勤めて御覧に入れますと云つた。」
「さていよ/\勧進帳の幕が開いた。三升の富樫、猿蔵(さるざう)の義経で、寿海が辨慶に扮したのである。猿蔵と云つたのは三升の弟で、後の九代目団十郎の兄である。」
「眼鏡連はいづれも見巧者(みがうしや)の事だから、熱心に看てゐた。わたくしは偶(たま/\)彼木場の隠居となつた四代目団十郎の勧進帳の正本(しやうほん)を持つてゐたので、それを持つて往つてゐた。そこで土間で其本を攤(ひら)いて、舞台と見較べてゐた。」
「幕を引くと直に、眼鏡連の土間へ、寿海老人の使が来た。其口上は、只今舞台から拝見いたしましたが、大そう古い本をお持になつて入らつしやるやうでございます。暫時あの本を借して戴くことは出来ますまいかと云ふことであつた。わたくしは喜んで借して遣つた。」
「芝居がはねて、一同茶屋の二階へ帰つてゐると、そこへ又寿海の使が来て本を還した。口上は、結構な御本をお貸下さつて難有うございます、お蔭を以ちまして、藝の上に種々心附きました事がございます、自身参上いたしてお返申すべきでございますが、打出し早々多用でございますので、使を以てお返申しますと云ふことであつた。そして使は大きい菓子折を出した。」
「わたくしも少し驚いたが、先輩の人々も顔を見合せて、何事か思案せられるらしかつた。さて榛軒先生がわたくしに、塩田、此返事はどうすると問はれた。」

     その二百六十四

 わたくしは此に塩田氏の観劇談を書き続ぐ。それはわたくしの此年嘉永壬子の事だと以為(おも)ふ談(はなし)である。塩田氏は既に七代目団十郎の寿海老人が己に四代目団十郎の演じた勧進帳の正本を返す時、菓子折を添へて茶屋の二階に送り、同行の師榛軒がこれに報復する所以を問うたことを語つて、さてかう云つた。
「其時わたくしは別にどうしようと云ふ定見もなかつたので、榛軒先生に、さやうでございます、どういたしたものでございませうかと反問した。先生は云はれた。どうだ、其本を寿海に遣らんかと云はれた。わたくしはすぐに承諾した。そこで一行の先輩の間に、これを贈るにどう云ふ形式を以てするが好いかと云ふ評議があつて、結局折り返して使に本を持たせて還すのは面白くない、幸(さいはひ)同行清川安策の父玄道は寿海を療治してゐるから、これに託して寿海の宅へ送つて遣るが好いと云ふことになつた。そこで寿海の使をば、菓子折の礼を言つて帰した。」
「わたくしは其夜一行と別れる時、正本を安策に託した。数日の後、安策はわたくしに寿海の玄道に謂(い)つた詞(ことば)を伝へた。御本は有難く頂戴いたします。お若い方がわたくしの藝を古い本に引き較べて看て下さつた御心入に、わたくしは深く感激いたしました。今後は塩田様も折々宅へお遊にお出下さるやうにと云ふことであつた。」
「わたくしは或日渋江抽斎の次男優善(やすよし)と一しよに寿海の宅を訪うた。優善は前年以来矢島氏を称してゐた。二人が往つて見ると、寿海の宅では丁度大功記の稽古が始まつてゐた。俳優は春永坂東竹三郎、光秀四代目坂東彦三郎、蘭丸市川猿蔵であつた。竹三郎は四代目彦三郎の養子で、後の五代目彦三郎である。四代目彦三郎は後の亀蔵である。二人共明治の初までながらへてゐた人である。」
「わたくし共は暫く稽古を見てゐた。すると猿蔵の蘭丸が鉄扇で彦三(ひこさ)の光秀を打擲した後、其扇をぽんと投げた。寿海はそれを見て苦々しい顔をして云つた。猿。その投様はなんだ。まるで息抜がしてゐる。おれが遣つて見せうと云つた。そして扇を取つて起つて投げて見せた。なる程いかにも力が籠つてゐた。此時彦三が寿海に問うた。若し其鉄扇が離れた処に落ちてゐたら、どうして取り上げたものでせう。春永の引つ込んだ跡で、ゐざり寄つて取り上げたものでせうかと問うた。寿海の答はかうであつた。いや、それは見苦しくて行けない。春永の前に平伏する時、見物の気の附かぬ位鉄扇の方へゐざり寄つて、平伏ししなに素襖(すあう)の袖で鉄扇を掻き寄せればわけはない。さうして置いて頭を上げる時鉄扇を取り上げるが好いと云ふのであつた。」
「稽古が済んでから、わたくし共は寿海と話をした。其間にわたくしは寿海に問うた。舞台では随分長い間坐つてお出でせうが、□(しびれ)がきれるやうな事はありませんかと問うた。これは父楊庵が二十四貫八百目の体で、主君の前に伺侯してゐて、いつも□がきれて困ると云つてゐたからである。寿海は答へた。それは□のきれぬやうにしてゐます。足の拇指さへ動してゐれば、□はきれませぬと答へた。わたくしは帰つて父に伝授したが、其後父は□に悩まされることがなくなつた。」

     その二百六十五

 わたくしは塩田氏の観劇談を此年嘉永壬子の事とした。それは寿海の剃髪して演じた勧進帳が其名残狂言らしくおもはれ、名残狂言の勧進帳が壬子の年に演ぜられたと聞いてゐるからである。しかし今わたくしの手元には演劇史料となるべき書は殆ど一部も無い。寿海の名残狂言の年は果して壬子であつたか。壬子ならば其何月であつたか。名残狂言の中幕に勧進帳を出した後に、四世薪水(しんすゐ)が果して大功記を演じたか。凡そ此等の事は、極めて知り易かるべきものでありながら、わたくしはこれを検することを得ない。
 わたくしは姑(しばら)く此に二三の推測を附記して置く。其一は勧進帳の演ぜられた劇場である。彼勧進帳が若し寿海の名残狂言であつたなら、是は塩田氏の談を書き取つた渋江氏の云ふ如く、必ずや河原崎座であつただらう。
 其二は彼勧進帳が壬子の年の何(いづ)れの月に演ぜられたかと云ふことである。これを観た一行に榛軒が加はつてゐたことをおもへば、その九月以前なるべきことは勿論である。榛軒は十月に大病に罹つて、十一月に歿したからである。爰(こゝ)に寿海の榛軒に与へた一通の書牘があつて、是も亦文淵堂の花天月地(くわてんげつち)中に収められてゐる。其文はかうである。「新春の御祝儀万々歳御目出度、兼々御揃被遊御機嫌様宜しく入らせられ大寿至極恐悦奉申上候。誠に昨年の御蔭にて子も親もうち揃ひ、本の目出たき春に出勤仕候。有難々々御厚礼奉申上候。扨又父子へ御肴料として金五百疋御祝ひ被下、恐入々々頂戴仕候。坂の若先生昨日わざ/\御持参被成被下奉恐入候。十三日に初日出申候。ことに此度は悴事朝より出つづけにて、幕間(まくあひ)も取込居り候間、失礼ながら老筆にて御礼の御受申上候。且又先達(せんだつて)より悴が一寸申上置候よし、甚だ□末(そまつ)のささ折奉御覧入候。御笑味奉願上候。どうか此度は是非々々御見物願上候。甚子自慢も恐入候が、大役首尾能相勤居申候。乍恐御悦被遊可被下候。何とぞ/\御奥様へも山々よろしく願上候。可祝(かしく)。十五日。寿海老人白猿拝。井沢先生様。」文の首(はじめ)に「新春の御祝儀」と云ふより見れば、「十三日」は正月十三日である。榛軒が金を餽(おく)つて賀し、寿海が必ず来り観むことを請ふを見れば、此興行は廉(かど)ある興行でなくてはならない。「子も親もうち揃ひ本の目出たき春に出勤仕候」は富樫辨慶で、「甚子自慢も恐入候が、大役首尾能相勤居申候」は其富樫ではなからうか。若し然らば寿海の名残狂言の勧進帳は、壬子の年の春狂言で、其初日は正月十三日であつただらう。又寿海は辛亥の年に病んで榛軒の療治を受けたものとおもはれる。金を寿海の家に齎した「坂の若先生」とは誰か。若し柏軒ならば、何故に「坂」と云ふか。或は「若先生」は清川安策で、父玄道あるが故に云つたものか。
 以上記し畢(をは)つた後、近世日本演劇史と歌舞伎新報とを小島政二郎さんに借りて看た。七世団十郎は壬子の九月と十一月とに勧進帳を演じた。新報に拠るに、一世一代は前者であつた。然れば団十郎父子の正月に演じた狂言は別である。四世薪水の大功記の事は演劇史に見えない。是等は根本資料に泝(さかのぼ)つて検せなくてはならない。
 尋で小島氏は豊芥子の歌舞伎年代記続編嘉永五年の下(もと)に、四世薪水の大功記が「十一月七日より顔見世」になつたと云つてあることを報じた。しかし蘭丸は猿蔵でなくて市蔵になつてゐたさうである。是に於て壬子九月に榛軒が勧進帳を観、十月若くは十一月初に塩田、矢島が寿海の家を訪うたことが明なるに至つた。

     その二百六十六

 わたくしは此年嘉永壬子十一月十六日に榛軒の歿したことを叙し、次に編日の記を続いで歳暮に至り、最後に壬子年間の事にして月日を詳にせざる塩田氏の観劇談に及んだ。然るにわたくしの獲た所の資料中には、榛軒に関する事蹟にして年月日の下(もと)に繋くべからざるもの、若くは年月日不詳なるものが数多(すうた)有る。そして其大半は曾能子刀自の記憶する所である。榛軒は蘭軒の継嗣であるのに、同藩の人々と雖も、その平生を悉(つく)してゐるものが無い。是には後に記すべき弟柏軒に比するに、其生涯の波瀾に乏しかつたのも、一原因をなしてゐるだらう。又蘭軒は著述を喜ばなかつたとは云ひながら、猶若干の文字を後に貽(のこ)したのに、榛軒に至つては殆ど全く筆墨を弄せなかつたのも、一原因をなしてゐるだらう。榛軒の人となりの知り難いこと既に此の如くである。わたくしの獲た所の零砕の資料も、これを思へば軽々しく棄てられぬのである。
 しかし此資料はわたくしをして頗る整理に艱(なや)ましめる。わたくしは已むことを得ずして一種の序次なき序次を立てた。そして先づ年中行事より筆を著ける。
 榛軒の世には新年の発会が盛であつた。来り会するものは約百人であつた。時刻は午前より夜に及んだ。午は飯を饗し、夕は酒□(しゆかう)を饗した。少壮者は往々夜宴の開かるるを待ち兼ねて、未の下刻頃より「もう日が暮れた」と叫びつつ、板戸を鎖し蝋燭を燃やし、酒饌(しゆぜん)の出づるを促した。
 曾能子刀自は当時の献立を記憶してゐる。例之(たとへ)ば午、吸物摘入、小蕪菁(こかぶ)、椎茸、平昆布、大口魚(たら)、鱠(なます)、千六本貝の柱、猪口はり/\、焼物生鮭粕漬、夕、吸物牡蠣海苔、口取蒲鉾卵橘飩(きんとん)青海苔を塗(まぶ)したる牛蒡鯛の小串、刺身比目魚(ひらめ)黒鰻(まぐろ)、大平(おほひら)鯛麪(たひめん)、旨煮(うまに)烏賊牛蒡土当帰(うど)、概(おほむね)此類であつた。午は少壮者が健啖を競ふので、特に多く準備した。
 宴を撤するに先だつて総踊と云ふことがある。客が一斉に起舞するのである。床板は屡踏み破られた。
 三月上巳の節句は天保丙申の条に記した。
 五月十三日には関帝を祭つた。関帝は蜀の関羽で、明の万暦中に「協天護国忠義大帝」の号を贈られたのださうである。榛軒の書斎には三位(ゐ)の神像が安置してあつた。関羽、菅原道真、加藤清正である。
 像には皆来歴がある。関帝の原像は本所五百羅漢寺の門にあつた。榛軒は彫工運長と云ふものに命じて□刻せしめた。按ずるに文淵堂の花天月地(くわてんげつち)に、榛軒が七代目市川団十郎所蔵の関帝像を還した時の団十郎の文がある。或は榛軒はこれを借りて家蔵の像に補刀を加へしめたのではなからうか。文はかうである。「拝見仕候。如仰梅天不正之儀に御坐候。陳者関帝御返却被下、慥に謹領仕候。遠方御人遣奉恐入候。只今講釈中貴報耳早々申上候。後刻拝趨万々可申上候。頓首。即日。寿海。榛軒先生奉復。二陳。賤姪(せんてつ)へよろしき御品御恵投、大に難有御厚礼申上候。喜気満面御遠察可被下候。」
 関帝は厨子の裏(うち)に安置せられた。此厨子にも亦来歴があつて、像に比すれば更に奇である。

     その二百六十七

 わたくしは榛軒の毎歳五月十三日に祭つた関帝像の来歴を語つて、未だ其厨子の縁起に及ばなかつた。厨子には四具足が添へてある。香炉、花瓶、燭台、酒爵(しゆしやく)である。厨子と云ひ、什器と云ひ、皆川村伝右衛門と云ふ人の贈る所である。伝右衛門は今の第三十三銀行頭取川村伝(つたふ)さんの祖父である。
 什器は青銅で鋳たもので、酌源堂の文が鐫(せん)してある。其酒爵は聖堂に於て釈菜(せきさい)に用ゐるものを模したのである。川村氏は長崎の工人に命じて此什具を鋳造せしめた。然るにこれを載せて長崎より江戸に至る舟は覆没した。
 一年の後、川村氏は既に什器の事を忘れてゐると、或日品川へ一の匣(はこ)が漂着した。幸に封緘故(もと)の如くで、上に題した宛名も滅(き)えなかつたので、此エパアヴは川村氏の手に達した。川村氏は匣を携へて榛軒の所に至り、共に開いて検するに、四器一も毀損せずにゐた。関帝像、厨子、什器、皆現に徳(めぐむ)さんの家にある。
 関帝祭器の漂著は事既に奇である。しかし此に猶一奇事の附載すべきものがある。榛軒は関帝を祭る日に、先づ本所の五百羅漢寺に詣(いた)つて原像を拝し、次で家に還つて□像を祭るを例とした。某年に本所に往つて関帝の前に拝跪し、さて身を起さむとすると、手に一物が触れた。取り上げて見れば小柄(こづか)であつた。更に熟視すれば、□上(はじやう)の象嵌は関帝であつた。遺失者を訪ぬる道もないので、榛軒は持つて帰つた。此小柄は後請ふ人があつて譲り与へた。
 榛軒は関帝を祭る日に、客に卓子(しつぼく)料理を饗した。円卓の一脚に機関があつて回転するやうにしてあつた。中央に円い皿一枚、周匝(めぐり)に扇形の皿八枚を置いた。扇形の皿には各別種の□(さかな)を盛つてあつて、客は卓を旋廻して好む所の□を取ることが出来た。
 わたくしは前に榛軒の書斎に、関帝を除く他(た)、菅公と加藤肥州との像が安置してあつたと云つた。菅公像は太宰府天満宮の飛梅を材として刻したもの、又加藤肥州像は熊本より勧請(くわんじやう)し来つたものであつた。
 七月の盂蘭盆会には毎歳大燈籠を貼らせ、榛軒が自ら達磨を画いた。
 歳暮が近づけば屠蘇を調合する。其準備は十二月の半に始まる。調合の日は二十日である。是日には柏軒も来り、外弟子も来り、塾生と共に調合して、朝より夕に至る。其室には女子の入ることを許さない。幕府と阿部家とに献ずるものは、薬袋(やくたい)に題する屠字の右肩に朱点を施して糅雑(じうざつ)すること莫(な)からしめた。調合畢(をは)れば、柏軒が門人等を神田大横町の蕎麦店今宮へ率(ゐ)て往き、蕎麦を振舞つた。大抵其員数は三十人許であつた。此より一行は神田明神社に参詣し、各人三十二文の玩具(おもちや)を買つて丸山の家に持つて帰つた。翌朝闔家(かふか)のものが一斉に起き出で、諸弟子の遺(おく)る所の玩具を観て笑ひ興じた。

     その二百六十八

 わたくしは榛軒の世に於ける伊沢氏の年中行事を叙して歳暮に至つた。
 歳暮には幕府と阿部家とから金を賜はつた。幕府は躋寿館に書を講ずるがために賞するので、其賜(たまもの)は毎年銀五枚であつた。
 幕府の賞を受けた日には、榛軒は往々書を買つて人に贈つた。曾能子(そのこ)刀自は柏(かえ)と呼ばれた当時姫鏡(ひめかゞみ)、女大学、女孝経等をもらつたことを記してゐる。
 某(それ)の年榛軒は藩主の賞を受けて帰るとき、途に鳥屋の前を過(よぎ)つた。偶(たま/\)鳥屋の男の暹羅鶏(しやも)の頸を捩らうとしてゐるのを見て榛軒はそれを抑止し、受くる所の金を与へ、鶏を抱いて帰つた。黒縮緬の羽織が泥土に塗(まみ)れた。鶏は翌日浅草観音の境内に放つた。
 歳暮には受賞の祝宴と冬至の宴とがあつた。某年の歳暮の宴に、客の未だ到らざる前、榛軒は料理人上原全八郎と共に浴した。浴し畢(をは)つて榛軒は犢鼻褌(とくびこん)を著け、跳躍して病人溜(だまり)の間を過ぎ、書斎に入つた。上原も亦主人に倣つて、褌(こん)を著け、跳躍して溜の間に入つた。然るに榛軒の既に去つて、上原の未だ来らざるに当つて、治を請はむがために訪うた一夫人が盛妝(せいさう)して坐してゐた。上原は驚いて退いた。榛軒は衣を整へて出でて夫人を見て云つた。「只今は執事が失礼をいたしました。平生疎忽な男で。」
 年中行事は此に終る。わたくしはこれに継ぐに神仏の事を以てする。榛軒は神を敬し仏を礼した。詩中にも経を誦すと云つてゐる。又遺言に誦経の事のあつたのも上(かみ)に記した如くである。其居室に関帝、菅公、加藤肥州等を祀つてゐたことは、年中行事に載せた。此敬神の傾向が弟柏軒に至つて愈(いよ/\)著(いちじる)くなつたことは後に言ふこととする。
 榛軒は啻(たゞ)に関帝等の像を居室に安置したのみならず、又庭に小祠を建ててゐた。祠には八幡大菩薩と摩利支天とを祀り、礎下(そか)には冑が埋めてあつた。其名を甲蔵(かふざう)稲荷社と云つたのは、人家の祀る所の神が多くは稲荷であつて、甲冑の二字は古来転倒して用ゐられてゐたからである。祭日には白山神社の神職を招いた。神饌(しんぜん)は酒、餅、赤飯、竹麦魚(はうぼう)、蜜柑、水、塩の七種であつた。素(もと)此祠は阿部家に於て由緒あるものであつたので、祭日には阿部侯の代拝者が来た。
 猶此に附記すべき事がある。それは榛軒の家に白木の唐櫃に注連繩(しめなは)を結ひ廻したものが床の間に飾つてあつたことである。櫃の中には後小松帝の宸翰二種と同帝の供御(ぐご)に用ゐられた鶴亀の文ある土器とが蔵してあつた。宸翰は大字の掛幅(くわいふく)と色紙とであつた。是は素榛軒の祖父信階(のぶしな)の師武田長春院の家に伝へてゐた物であつたが、武田氏は家道漸く衰へて、これを商賈の手に委ねむとした。其時榛軒が金を武田氏に与へて請ひ受け、他日買戻を許すと云ふ条件を附して置いたのである。後榛軒の養子棠軒(たうけん)は家を福山に徙す時、此櫃を柏軒の家に託した。柏軒の嗣磐(いはほ)の世に至つて、世変に遭つて其所在を失つた。
 榛軒が常に追遠の念に厚い嗣子を養はむことを欲してゐたのも、此の如きピエテエの性より出でたものである。幸に養子良安は祖先を敬することを忘れなかつた。

     その二百六十九

 榛軒の軼事(いつじ)中わたくしは次に講学の事を書く。しかし其受業の師は前に載せたから今省く。
 榛軒は毎月一六の両日躋寿館に往いて書を講じた。塾生中午食の辨当を持つて随従したものは、柴田常庵、柴田修徳、高井元養、島村周庵、清川安策、雨宮良通(あめのみやりやうつう)、三好泰令等であつた。皆榛軒門人録に見えてゐる人々である。
 榛軒の家に医書を講ずる会を開いたのは、毎月九の日であつたと云ふ。天保壬辰三月の柏軒の日記に、九日に多紀□庭(たきさいてい)が傷寒論を講ずることを休み、榛軒が上直(じやうちよく)したと云つてある。□庭を丸山に迎へたのであらうか。又此三月には榛軒が十日十五日に外台秘要を講じてゐる。按ずるに講書の日は必ずしも年々同一ではなかつたかも知れない。
 榛軒の家には、月六斎に塾生のために開く講筵があつた。渡辺魯輔(ろすけ)を請じて経書を講ぜしめ、井口栄達を請じて本草を講ぜしめたのである。渡辺氏、名は魯、一の名は正風(せいふう)、樵山(せうざん)と号した。松崎慊堂(かうだう)の門人である。当時麻布六本木に住んでゐた。明治六年に五十三歳を以て歿したと云ふより推せば、榛軒の歿した嘉永壬子には三十二歳であつた。井口は扇橋(あふぎばし)岡部藩の医官であつたと云ふ。わたくしは此人の事を詳にせぬが、日本博物学年表嘉永二年の条に下(しも)の記事がある。「泉州岸和田侯小野蘭山の本草綱目啓蒙に図なきを慨し、侍医井口三楽に命じて図譜を編輯せしめ、本草綱目啓蒙図譜山草部四巻を刻す。」按ずるに栄達は此三楽であらう。然らば岡部藩とは武蔵岡部の安部氏の藩ではなくて、和泉岸和田の岡部氏の藩であらう。武鑑を検するに、岡部氏の上屋敷は山王隣、中屋敷は霞関、下屋敷は渋谷である。扇橋は恐くは葵橋(あふひばし)の誤であらう。扇橋は当時の町鑑(まちかゞみ)を検するに、現在の深川扇橋を除く外、一も載せてないからである。
 渡辺の経義は塾生等が喜んで聴いたが、井口の本草はさうでなかつた。井口は老人で、説く所の事も道理を推論するのでなく、物類を列叙するのであつたから、塾生等は倦んで坐睡することがあつた。或時井口は其不敬を難詰して、講を終へずして席を起つた。塾生等は驚き謝して纔(わづか)に井口の怒を解くことを得た。
 榛軒は毎旦女(ぢよ)柏(かえ)のために古今集を講じた。又柏に画を学ばせた。是は躋寿館に往く日毎に、柏をして轎(かご)に同乗せしめ、館に至つて轎を下る時、柏を轎の中に遺し、画師の家に舁き往かしめたのである。画師はなほ※[#変体仮名え、8巻-138-上-4]ぶんめいと云ふ人で、旗本の次男であつたと云ふ。わたくしは天保以後の画家中に就いて此名を討(たづ)ねたが見当らなかつた。又旗本中に就いて其氏を求めたが得なかつた。只古い分限帳に直井氏の二家がある。其邸は一は「御浜之内」、一は「湯島天神下」である。皆三四十俵取の家である。画家ぶんめいは或は直井氏ではなからうか。

     その二百七十

 榛軒の逸事は此より医業に関する事に入る。榛軒は流行医で、四枚肩の轎(かご)を飛ばして病家を歴訪した。其轎が当時の流行歌(はやりうた)にさへ歌はれたことは既に上(かみ)に記した。
 榛軒は初め轎丁(かごかき)四人と草履取二人とを抱へてゐた。しかし阿部邸内の仲間等が屡(しば/″\)喧嘩して、累を主人に及ぼすことが多かつたので、榛軒は抱の数を減じてこれを避けようとした。そこで草履取のみを留めて、轎丁は総て駕籠屋忠兵衛と云ふものに請負はせることとした。
 曾能子刀自の記憶してゐる仲間の話がある。某(それ)の年の暮の事であつた。伊沢氏では餅搗をした翌日近火に遭つた。知人(しるひと)が多く駆け附けた中に、数日前に暇(いとま)を遣つた仲間が一人交つてゐた。火は幸に伊沢の家を延焼するに及ばなかつた。其次の日に仲間の請宿の主人(あるじ)が礼を言ひに来た。「昨日はお餅を沢山頂戴いたして難有うございます。手前共ではまだ手廻り兼ねて搗かずにゐましたので、大勢の子供が大喜をいたしました」と云つたのである。榛軒が餅を調べて見させると、まだ切らずに置いた熨餅(のしもち)が足らなかつた。逐はれた仲間が背中に入れて還つたのであつた。
 榛軒は病家を択んで治を施した。富貴の家は努めて避け、貧賤の家には好んで近づいた。毎(つね)に「大名と札差の療治はせぬ事だ」と云つた。しかし榛軒が避けむと欲して避くることを得ずに出入した大名の家は、彼の輓詩を寄せた棚倉侯の外に数多(すうた)あつたことは勿論である。又札差を嫌つたのは、札差に豪奢の家が多かつたからである。因(ちなみ)に云ふ。旗本伊沢氏の如きは榛軒がためには宗族であつた。所謂「総本家」であつた。しかし榛軒は絶て往訪せずにしまつた。
 俳優は当時病家として特別の地位を占めてゐた。俳優は河原者として賤者である。目見以上の官医は公にこれをみまふことを得ない。然れども医にして技を售(う)らむことを欲するものは皆俳優の家に趨つた。
 榛軒は例として俳優の請には応ぜなかつた。「立派な腕のある医者が幾らもあつて見に往つて遣るのだから、何も己が往くには及ばない」と云つてゐた。只市川団十郎父子の病んだ時だけは此例に依らなかつた。団十郎は即七代目と八代目とである。七代目団十郎は人格も卑しからず、多少文字をも識つてゐて、榛軒は友として遇してゐたので、其継嗣にも親近したのである。
 榛軒は市川の家を訪ふに、先づ轎(かご)に乗つて堀田原(ほつたはら)に住んでゐる門人坂上玄丈の家に往き、そこより徒歩して市川の家に至つた。徳(めぐむ)さんの云ふには、前に引いた七代目の書牘(しよどく)に「坂の若先生」と云ふのは、此玄丈の子玄真ではなからうかと云ふことである。市川の家では七代目も八代目も数(しば/\)榛軒の治を受けた。河原崎権之助の女ちかが佝僂病(くるびやう)に罹つた時も、此縁故あるがために榛軒が診療した。権之助は九代目団十郎の養父である。
 榛軒の貧人を療した事に就いては種々の話があるが、今一例を挙げる。福山藩士に稲生(いなふ)某と云ふものがあつた。其妻が難産をして榛軒が邀(むか)へられた。榛軒は忽ち遽(あわた)だしく家に還つて、妻志保に「柏(かえ)の著換を皆出せ」と命じ、これを大袱(おほぶろしき)に裹(つゝ)んで随ひ来つた僕にわたした。是は柏が生れて日を経ざる頃の事であつた。稲生氏は小禄ではなかつたが家が貧しかつた。それに三子(ご)が生れたのであつた。曾能子刀自は云ふ。「わたくしは赤子の時に著の身著の儘にせられたのですが、其後もさう云ふ事が度々あつたのでございます。」

     その二百七十一

 治を榛軒に請うた病家中、其名の偶(たま/\)曾能子刀自の記憶に存してゐるものが二三ある。それは榛軒が其家に往来した間に、特に記憶すべき事があつたからである。
 高束(たかつか)翁助は不眠を患(うれ)へた。榛軒はこれに薬を与へた時、翁助の妻を戒めて云つた。「是は強い薬ですから、どうぞ分量を間違へないやうにして下さい」と云つた。然るに或夜翁助は興奮不安の状が常より劇(はげ)しかつたので、妻は竊(ひそか)に薬を多服せしめた。翁助の興奮は増悪した。後には「己の著物には方々に鍼がある」と叫んで狂奔し、動(やゝ)もすれば戸外に跳り出でむとした。妻は榛軒の許に馳せ来つて救を乞うた。榛軒は熟々(つく/″\)聴いた後に、其顔を凝視して云つた。「薬の分量を間違へはしませんでせうね。」翁助の妻は吃りつつ答へた。「まことに済みませんが、今晩はいつもより病気がひどく起りましたので、少し余分に飲ませました。」榛軒は色を作(な)した。「大方そんな事だらうと思ひました。あなたはわたくしを信ぜないで、わたくしの言附を守らないのですから、此上は療治をお断申します。」云ひ畢(をは)つて榛軒は座を起つた。翁助の妻は泣いて罪を謝した。榛軒は将来を飭(いまし)めた後に往診した。榛軒は門人に薬量の重んぜざるべからざるを説くに、毎(つね)に高束の事を挙げて例とした。
 わたくしの福田氏に借りた文書に徴するに、「慶応四戊辰五月改東席順」中「御者頭格御附御小姓頭高束応助六十三」と云ふものがある。応助は即翁助であらう。是に由つて観れば、高束は文化三年生で、榛軒より少(わか)きこと二歳であつた。
 中井肥後は銀細工人で幕府の用達をしてゐた。家は湯島にあつた。中井は嘗て治を榛軒に請うて其病が□(い)えた。そして謝恩のために銀器数種を贈つた。榛軒は固辞して受けなかつた。中井が其故を問うた時、榛軒は云つた。「兎角さう云ふ物は下人に悪心を起させる本になります。」しかし榛軒は必ずしも病家の器物を贈ることを拒んだのではない。蒔絵師菱田寿作は病の癒えた時、蒔絵の杯を贈つたが、榛軒はこれを受けた。
 細木香以(ほそきかうい)が治を請うた時、榛軒は初め輒(たやす)く応ぜなかつた。しかし切に請うて已まぬので、遂に門人石川甫淳(ほじゆん)をして治療せしめた。石川は榛軒門人録に「棚倉」と註してある。陸奥国白川郡棚倉の城主松平周防守康爵(やすたか)の家来である。此人は榛門の最古参であつたさうである。或日細木は榛軒の妻志保を請じて観劇せしめた。榛軒が異議を挾(さしはさ)まなかつたので、志保は往いて観た。桟敷二間(ふたま)を打ち抜いて設けた席であつた。細木は接待の事を挙げて石川に委ね、自分は午の刻の比に桟敷に来て挨拶し、直に又去つた。因(ちなみ)に云ふ、当時富豪にして榛軒に治を請うたものには、鈴木十兵衛、三河屋権右衛門等があつたが、皆謹厚な人物で、細木の如く驕奢ではなかつた。
 笹屋千代も亦榛軒の病家であつた。榛軒の歿後に重患に罹り、棠軒良安の治を受けて歿した。徳(めぐむ)さんの蔵する所の「茶番忠臣蔵六段目役割台詞」と云ふ小冊子がある。是は千代の病が一時快方に向つた時、床揚の祝のために立案せられたものださうである。わたくしは此に一のキユリオジテエとして其役割を抄する。「母石川貞白、おかる飯田安石、勘平伊沢良安、一文字屋森養真、猟師井戸勘一郎、与一兵衛上原全八郎。」石川貞白、名は元亮(もとあきら)、本姓は磯野氏である。石川の通称は諸文書に或は貞白に作り、或は貞伯に作つてあつて一定しない。津山未亡人の説に従へば当(まさ)に貞白に作るべきである。又其名「元亮」は同じ人の云ふを聞くに「もとあきら」と訓ませたものらしい。上(かみ)に引いた東席順(とうせきじゆん)に「御広間番格奥御医師石川貞白五十八」と云つてある。然らば石川は文化八年生で、榛軒より少きこと七歳であつた。飯田安石は榛軒門人録に見えてゐる。東席順に「表御医師無足飯田安石四十五」と云つてある。然らば文政七年生であつた。此人の事は猶後に再記するであらう。森養真は枳園(きゑん)の子約之(やくし)である。東席順に「御広間番格奥御医師無足森養真三十四」と云つてある。その天保六年生であつたことは既に記した。井戸勘一郎は柏軒の嗣子磐(いはほ)の「親類書」に徴するに、蘭軒の女(ぢよ)長(ちやう)の夫井戸応助の子である。肩書に「御先手福田甲斐守組仮御抱入」と云つてある。上原全八郎は阿部家の料理人である。東席順に「総無足料頭上原全八郎五十六」と云つてある。然らば文化十年生で榛軒より少(わか)きこと九歳であつた。「料頭」は料理人頭歟。

     その二百七十二

 わたくしは既に榛軒の逸事中医治に関する事を録した。そして其末に口碑の伝ふる所の病家を列挙した。此よりは榛軒の友及榛軒時代に伊沢氏に出入した人々の事を言はうとおもふ。
 森枳園は榛軒のためには父の遺弟子である。蘭門の諸子は蘭軒の在世中若先生を以て榛軒を呼び、その歿するに至つて、先生と改め呼んだことは既に云つた如くである。そして青年者(せいねんしや)は真に榛門に移つた。しかし年歯の榛軒と相若(あひし)くものは、前(さき)より友として相交つてゐたので、其関係は旧に依つた。枳園の如きは其一人である。枳園は榛軒より少(わか)きこと僅に三歳であつた。
 曾能子刀自は二人の間の一事を記憶してゐる。或日榛軒は本所の阿部邸に宿直した。其翌日は枳園の来り代るべき日であつた。交代時刻は辰の刻であつた。然るに枳園は来なかつた。榛軒は退出することを得ずに、午餐を喫した。枳園は申の刻に至つて纔(わづか)に至り、深く稽緩(けいくわん)の罪を謝した。
 榛軒は帰途に上つて、始めて此日徳川将軍の「お成(なり)」のために交通を遮断せられたことを聞き知つた。枳園は罪を謝するに当つて、絶てこれを口に上せなかつた。
 榛軒は後に人に謂つた。「森は実に才子だ。若しあの時お成で道が塞がつて遅れたと云つたら、己はきつとなぜお成の前に出掛けなかつたと云つたに違ない。森は分疏(いひわけ)にならぬ分疏などはしない。実に才子だ」と云つた。
 枳園が禄を失つて相模に居た時、榛軒が渋江抽斎等と共に助力し、遂に江戸に還ることを得しめたことは上(かみ)に見えてゐる。
 渋江抽斎も亦榛軒が友として交つた一人である。そして榛軒より少きこと僅に一歳であつた。曾能子刀自はかう云ふことを記憶してゐる。或日柏軒、抽斎、枳園等が榛軒の所に集つて治療の経験談に□(ひかげ)の移るを忘れたことがある。此時終始緘黙してゐたのは抽斎一人であつた。それが穉(をさな)い柏(かえ)の注意を惹いた。客散ずる後に、柏は母に問うた。「渋江さんはなぜあんなに黙つてお出なさるのでせう。」母は答へた。「さうさね。あの方は静な方なのだよ。それに今日はお医者の話ばかし出たのに、あの方はどつちかと云ふと儒者の方でお出なさるからね。」
 金輪寺混外(こんりんじこんげ)は蘭軒の友で、蘭軒歿後には榛軒と交つた。榛軒は数(しば/\)王子の金輪寺を訪うた。曾能子刀自はかう云ふことを記憶してゐる。某年に榛軒は王子権現の祭に招かれて金輪寺に往つた。祭に田楽舞があつた。混外は王子権現の別当であつたので、祭果てて後に、舞の花笠一蓋(かい)を榛軒に贈つた。
 榛軒は花笠を轎(かご)に懸けさせて寺を出た。さて丸山をさして帰ると、途上近村の百姓らしいものが大勢轎を囲んで随ひ来るのに心附いた。榛軒は初めその何の故なるを知らなかつた。
 行くこと数町にして轎丁(けうてい)が肩を換へた。其時衆人中より一人の男が進み出て榛軒に「お願がございます」と云つた。その言ふ所を聞けば花笠を請ふのであつた。当時此祭の花笠を得て帰れば、其村は疫癘を免れると伝へられてゐるのであつた。
 寿阿弥の事は上(かみ)に見えてゐるから省く。曾能子刀自の言(こと)に拠れば、長唄の「初子」は寿阿弥の作である。

     その二百七十三

 わたくしは上に榛軒の友人並知人の事を列叙した。然るに嘗て曾能子刀自に聞く所にして全く棄つるに忍びざるものが、尚二三ある。姑(しばら)く其要を摘んで此に附して置く。実は鶏肋(けいろく)である。
 村片相覧(むらかたあうみ)は福山藩の画師で、蘭軒の父信階(のぶしな)の像、蘭軒の像等を画いた。相覧が榛軒の世に於て伊沢氏に交ること極て親しかつたことは、榛軒が福山に往つてゐた間、毎日留守を巡検したと云ふ一事に徴しても明である。
 相覧の号を古□(こたう)と云つたことは、既に云つた如く、荏薇(じんび)問答に見えてゐる。世に行はれてゐる画人伝の類には此人の名を載せない。只海内偉帖(かいだいゐてふ)に「村片相覧、画、福山藩、丸山邸中」と云つてあるのみである。
 相覧の子を周覧(ちかみ)と云つた。父は子を教ふるに意を用ゐなかつた。周覧は狭斜に出入し、悪疾に染まつて聾(みゝしひ)になり、終に父に疎(うと)んぜられた。榛軒は為に師を択んで従学せしめ、家業を襲ぐことを得しめた。曾能子刀自は家に周覧の画いた屏風のあつたことを記憶してゐる。
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