伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

「福山の君につかへたまへる伊沢ぬし、くすしのわざにたけたまへれば、こたび医学館にて、其すぢのふみを講説すべきよし、おほやけのおほせごとかゞふりたまへるは、いと/\めでたきことになむありける。さるはおほぢの君福山の殿にめされ給ひてより、五十年を経ぬと※[#変体仮名ぞ、8巻-96-下-1]。ことし十一月廿八日はその日とて、人々をつどへていにしへをしのび、はた今もかく其わざのさかえ行ことをよろこぼひて、さかほがひせる時、おのれも祖父君よりして、父君今のあるじまで、心へだてぬおもふどちなればとて、かずまへられたれば、たゝへまゐらするうた。家のかぜふきつたへつゝ三代までも世に名高かるわざぞくすしき。定良。」
 徳さんの蔵する文書に徴するに、信階筮仕の日は十一月二十八日ではなくて、十月二十八日であつたらしい。其一。「以手紙致啓上候。然者懸御目度義有之候間、明廿八日四時留守居役方え御出可被成候。以上。十月廿七日。阿部伊勢守内海塩庄兵衛、関平次右衛門。伊沢玄庵様。」其二。「覚。伊沢玄庵。右百三十石被下置、表御医師本科被召出候。但物成渡方之儀、年々御家中並之通被成下候。右之通被申渡候、以上。十月廿七日。」記念会は或は榛軒が講師を命ぜられてから発意(ほつい)して催したものなるが故に、一箇月を繰り下げたのではなからうか。
 榛軒詩存を検するに、「天保十四癸卯歳晩偶成」の七絶、「天保十四癸卯除夜」の七律各(おの/\)一がある。今除夜の七律を此に抄する。「老駭年光容易疾。把觴翦燭又迎春。三世垂箴睦親族。一生守拙養天真。方今才士無非譎。自古達人多是貧。依旧増加書酒債。先生漫触内君嗔。」
 頼氏では此年山陽の母梅□(ばいし)が八十四歳で歿した。山陽に遅るること十一年であつた。関藤藤陰(せきとうとういん)の石川文兵衛が福山藩に仕へたのも、亦此年十一月五日である。
 わたくしは前(さき)に藤陰の身上に関する問題を提起した。藤陰は本(もと)関藤氏であつた。その石川氏を冒したのは、文化九年六歳の時である。藤陰の石川氏を称することは此より後明治の初に至つた。その山陽門人たる時に草した詩文にも、亦石川成章の自署を留めてゐる。成章は藤陰の名である。然るに山陽病歿の前後に頼氏に寓してゐて、山陽の命を受けて其著述を校訂し、山陽の易簀(えきさく)するに及んで、後事を経営した関五郎と云ふものがある。藤陰と此関五郎とは同一人であるらしい。只その同一人たる確証が無い。且藤陰と関五郎とが果して同一人ならば、殆六十年の久しき間石川氏を称してゐた藤陰が、何故に其中間に於て忽ち関氏を称し、忽ち又石川氏に復したか。一説に関五郎は関氏五郎に非ずして、石川氏関五郎であると云ふ。しかし士人たる関五郎が何故に自署に其氏を省いたか。是が問題の大要である。
 わたくしは今藤陰解褐(かいかつ)の事を記するに当つて、此問題を再検しようとおもふ。それは藤陰の孫国助さんが頃日(このごろ)其蔵儲の秘を発(ひら)いてわたくしに示したからである。

     その二百四十八

 文化の初より明治の初に至るまで、石川氏を称してゐた藤陰成章(とういんせいしやう)と、頼山陽の易簀前後に水西荘に寓してゐた関五郎とが、同一人であると云ふことには、初より大なるプロバビリテエがある。しかし証拠が無い。矧(まし)てや確証とすべきものは無い。又試みに石川成章は何故に、何時より何時に至るまで関五郎と称したかと問はむに、何人もこれに答ふることが出来ない。
 此時に当つて藤陰の孫国助さんが所蔵の文書を写してわたくしに寄示したのは、実に感謝すべき事である。文書は書牘(しよどく)二通で、其他に封筒一枚と書籍一巻とがある。わたくしは左に逐次にこれを録することとする。
 第一の書牘の全文は下(しも)の如くである。「一昨夜者(は)大酔、久々にて散鬱候(うつをさんじそろ)。偖(さて)三木三郎君事、昼後は日々あとくり有之候様、公より御加鞭被下候様奉希候。後室よりは被申候ても不聞者に御坐候。此義乍御面倒奉煩候。不一。三郎。五郎様。」
 此書はいかに看るべきであらうか。単に謄本のみに就いて判断し得らるべきものを此に註する。三郎は児玉旗山(きざん)、五郎は関五郎で、書は旗山の関五郎に与へたものである。「あとくり」は復習である。旗山は醇(じゆん)の午後に復習せざるを憂へて、関五郎にこれを督励せむことを請うた。何故に午前の受業を説かずして、午後の復習を説いてゐるか。午前は旗山が自ら授読してゐるからである。
 書には月日が無い。しかし右の判断にして誤らぬ限は、旗山のこれを裁した月日は略(ほゞ)知ることが出来る。山陽が歿して五十日を経た後、未亡人里恵は醇を旗山の家に通学せしめた。書は此日より後に作られた。即ち天保三年十一月十四日より後に作られた。次で里恵は同年閏(じゆん)十一月二十五日に書を広江秋水夫妻に与へて、「せつかく此せつ(児玉方へ)遣候(はむ)と存候」と云つた。里恵にして期の如く醇を旗山の家に託したとすると、書は閏十一月の末より前に作られた。
 此書の関藤氏に伝はつてゐるのは、明に関五郎の藤陰たるべきプロバビリテエを加ふるものである。
 わたくしは又特に旗山が「三郎」と自署して、藤陰を呼ぶに「五郎」を以てしたのに注目する。五郎は既に山陽の口にする所にして、又旗山の筆にする所である。五郎は恐くは二字の通称であらう。関五郎は関氏五郎であらう。縦(たと)ひ師が弟子を呼ぶとしても、又朋友が相呼ぶとしても、何五郎の称を省いて五郎となすことはなささうである。
 第二の書牘は頼杏坪(らいきやうへい)の関五郎に与へたもので、其文は極て短く、口上書と称すべき際(きは)のものである。「何ぞ御贐(おんはなむけ)に差上度候へ共有合不申、此鄙著二冊致呈上候。御粲留(ごさんりう)被成可被下候。八月十一日。杏坪。関五郎様。」
 此書には国助さんの考証がある。「此手紙は天保四年頼塾を去り帰省、九月江戸昌平黌に遊学する前、広島に赴ける時の事と推定す」と云ふのである。仮に関五郎を以て藤陰とするときは、わたくしは此考証に異議を挾むべき所以を見ない。
 わたくしは此書の関藤氏に伝はつてゐるを見て、藤陰の関五郎たるプロバビリテエが更に加はること一層なるを思ふ。
 書は猶わたくしに一の新事実を教へる。それは関五郎が若し藤陰ならば、藤陰は京都を離れた後にも暫く此称を持続してゐたと云ふことである。

     その二百四十九

 わたくしは上(かみ)に関藤国助さんの所蔵の書牘二通を挙げた。それは児玉旗山と頼杏坪とが関五郎に与へたものであつた。そしてわたくしは此を以て関五郎の藤陰成章たるプロバビリテエの加はつたことを承認した。しかし此を以て関五郎の藤陰たる証拠とせむには、少しく物足らぬ心地がする。況や此を以て確証とすべきではあるまい。何故と云ふに、人の関五郎に与へた書が関藤氏の家に伝はつてゐると云ふだけの事実は明であるが、藤陰が同門の人の受けた簡牘を蔵してゐたと云ふことも考へられぬことは無いからである。わたくしは只関五郎が藤陰であるらしいと云ふプロバビリテエの、疇昔に比して分明に其大さを加へたことを認むるに過ぎない。
 わたくしは猶望を将来に属する。わたくしの求むる所の証拠は、縦(たと)ひ今藤陰の裔孫の手に無くとも、他日何処からか現れて来はすまいかと云ふのである。証拠とは奈何(いか)なるものであるか。関五郎の藤陰なることが、藤陰自己若くは其友人の口若くは筆に藉(よ)つて説かれてゐるものを謂ふ。わたくしは猶進んでかう云ふことが知りたい。当時の石川成章が何等かの故があつて、某(それ)の年某の月日に関氏を称し、又五郎と称し、次で某の年某の月日に元の石川氏に復したと云ふことが知りたい。
 国助さんのわたくしに示した所のものは猶二種ある。それは上の書牘二通に比すれば価値の少いものではあるが、わたくしはこれを下(しも)に記して置く。
 其一は一枚の空(くう)封筒である。「京寺町本能寺前大和や喜三郎様御内石川関五郎様。状ちん相済。秋山伊豆。」此秋山伊豆は藤陰に文章の添削を乞うたことのある人ださうである。
 わたくしは上(かみ)に児玉旗山の書を見て、重て関の氏にして、五郎の二字の通称なるべきことを言つた。今此封筒はこれが反証に充(あ)つべきが如くである。しかしわたくしは此の如き反証を認むることを得ない。わたくしはかう判断する。石川成章はある時忽ち関氏五郎と名告つた。秋山伊豆は相識の間ではあつたが、山陽旗山の如く親しくなかつたので、関の氏なるを知らず、錯つて「関五郎」と云ふ三字の通称となした。秋山は恐くは後に続出した三字通称説の元祖であらうと。
 今一つは頼山陽の「南北朝論」である。此書には篠崎小竹の跋があつて、「天保四年癸巳八月、小竹散人篠崎弼書」と署してある。そして此跋は愈(いよ/\)人をして藤陰の関五郎なるべきを想はしめる。「子成喀血。自知不起。昼夜※[#「てへん+參」、8巻-101-上-7]筆。綴記其政記十数巻。衆医沮不聴。君達侍奉。随綴随写。子成喜曰。此子助成吾業者矣。因授此稿。稿在君達。乃伝道之衣鉢。」此数句は、試に嘗て引いた山陽の未亡人里恵の書牘を取つて対比するに、殆ど人に迫つて成章君達(せいしやうくんたつ)の関五郎なるべきを認めざること能はざらしめむとする。里恵の書中に見えてゐる関五郎の所為と、小竹の跋文中に見えてゐる君達の所為とは、殆ど別人の事とは見做されぬのである。
 わたくしは前(さき)に云つた。政記校訂の事を以て関五郎と藤陰とを結び附くる糸とするは、余りに薄弱であると云つた。小竹の此跋は此糸をして太からしめ強からしむるもので、是も亦他の方面より関五郎が藤陰であるらしいと云ふプロバビリテエを加ふるものとせざることを得ない。其価値は固より彼空封筒の比では無い。
 以上記し畢(をは)つた時、浜野氏は江木鰐水(えぎがくすゐ)の日記を抄して寄示した。「天保四年客中日記。四月十六日、石川五郎伴頼三木三郎及高槻慶次郎来。午後余与五郎。訪後藤世張。不在。遂航遊天保山。及晩帰。又遊新町帰。」五郎は果して石川氏であつた、藤陰であつた。鰐水は此に新なる称と故(もと)の氏とを併せ用ゐたのである。わたくしは遂に一の証拠を得た。

     その二百五十

 わたくしは此年天保癸卯に関藤藤陰が解褐(かいかつ)したことを記して、藤陰と関五郎との同異の問題を覆検した。そして二人の同一人物なる証拠を江木鰐水の日記中に獲た。
 此年狩谷氏では懐之(くわいし)が四十歳になつて、後に其養嗣子となるべき三右衛門矩之(くし)が斎藤氏の家に生れた。
 此年榛軒は既に云つた如く四十歳になつた。歳晩偶成の絶句は「四十余年一場夢」を以て起つてゐるが、余の字は全く余つてゐる。妻志保は四十四、女(ぢよ)柏(かえ)は九つであつた。柏軒夫妻は共に三十四、女洲(しう)三つであつた。長は三十、正宗院は七十三になつた。
 弘化元年は蘭軒歿後十五年である。榛軒に「天保十五年甲辰元旦」の七律がある。「暁拝新年謁我公。帰来始見旭光紅。梅花千点玉皆琢。黄鳥一声簧未工。践事唯期伝世業。虚名却怕墜家風。坐賓尊酒両盈満。尽在君恩優渥中。」
 正月五日に榛軒兄弟は蘭門の人々と共に本庄村に遊んだ。榛軒詩存に五古一篇がある。「天保十五年甲辰正月五日、同渋江六柳、小野抱経、石川二陶曁家弟柏軒、遊本庄村、恒吉、道悦二童跟随焉、用靖節斜川韻。潜雨膏潤物。及晨俄爾休。幸有旧日約。相伴作春遊。童子疲遠道。買舟泝平流。風加堤上柳。水暖渚辺鴎。停棹拝関廟。散策歩草丘。傾尽瓢中酒。礼数罷献酬。酔歓良無極。山境亦同不。心交如我輩。四海皆良儔。縁是生太平。未知干戈憂。一生如此酔。名利又何求。」 本庄村とは何処か、又其地に関帝廟のありやなしやも、わたくしは未だ考へない。同遊者の渋江六柳(りくりう)は抽斎である。小野抱経(はうけい)は富穀(ふこく)である。抱経と号したには笑ふべき来歴があるが、事の褻(せつ)に亘るを忌んで此に記さない。石川二陶(たう)は貞白(ていはく)であらう。二童中恒吉は未詳であるが、道悦は富穀の子で、此時九歳であつた。陶淵明の遊斜川詩は「開歳□五日、吾生行帰休」云々を以て起る。晋安帝の隆安五年辛丑正月五日の作である。本荘村の遊が偶(たま/\)正月五日であつたので、榛軒は其韻を用ゐたのであらう。辛丑は淵明三十七歳の時であつた。
 九月十四日に榛軒は中川に遊んだ。「天保十五甲辰季秋十四日、与諸子同遊中川七首」の詩が詩存中にある。其体は七絶である。暖い小春日和であつた。「風光恰是小陽春。」お茶の水から舟に乗つて出た。「茗水渓頭買小船。」吾妻森(あづまのもり)で陸に上つて蓑笠を買つた。「吾妻祠畔境尤幽。出艇間行野塢頭。筍笠莎蓑村店買。先生将学釣魚流。」網を打たせ、獲(えもの)を□(さかな)にして飲んだ。「漁師撤網篁師割。」逆井(さかさゐ)で門人安分(あんふん)某の家に立ち寄つて、里芋の煮染を菜にして飯を食つた。恒吉等は庭の柿を取つて食つた。「過逆井安分生家」と註した一首に、「芋魁香飯当鶏黍」、「童子争把紅柿実」の句がある。以上わたくしは単に事実を徴すべき句を摘んだ。
 榛軒は此中川の遊に先つて、多摩川へ鮎漁に往つたらしい。又中川の遊の後に、病に臥したらしい。詩存に「病中偶成」の七古があつて、其初六句にかう云つてある。「玉川香魚中川鯉。罟風網雨得佳期。両日勝遊協素願。報酬併算酒千巵。如何天稟蒲柳質。風寒相襲似兵師。」推するに病は感冒であつただらう。
 此年柏軒の次女国(くに)が生れた。後に狩谷矩之に嫁する女(むすめ)である。
 池田氏では此年京水の五男直吉が歿した。二世全安さんの蔵する過去帳に「六月十一日、本源院真直居士、俗名直吉」と記してある。
 此年榛軒四十一、妻志保四十五、女柏十、柏軒及妻俊三十五、女洲四つ、国一つ、長三十一、正宗院七十四であつた。

     その二百五十一

 弘化二年は蘭軒歿後第十六年である。榛軒に元旦の作があつて、詩存中に見えてゐる。「弘化二乙巳元旦偶成。随例今朝祭恵方。団欒尽酔幾巡觴。僕歓婢笑皆愚樸。此是儂家大吉祥。」
 三月十七日に蘭軒第十七回忌の法会が営まれた。真野陶後(まのたうご)の句がある。「蘭軒先生十七回忌。花の下に酔うて笑ふを手向哉。」陶後頼寛(よりひろ)は屡改称した人である。群蔵、仲介(なかすけ)、幸次郎、佐次兵衛と三たびまで改めたのである。其孫幸作さんの蔵する文書に徴するに、陶後は安永七年八月十三日に阿部伊勢守正倫(まさとも)の家臣竹亭頼恭(ちくていよりゆき)の嫡男として生れた。「寛政六年三月九日、非常之節御寄場に差出。七年二月九日、御供番不足之場に被召出、二人扶持被下置。九年十二月廿三日、御宛介十二石被成下。寛政十一年十二月十七日、御簾番下馬纏被仰付。享和元年六月廿八日、御広間番被仰付。文化元年七月十三日、罷出候而罷帰不申、行衛不相知。(以上正倫代。)文化六年八月十六日、帰住被差許。七年十月五日、御供番無足之場に御雇形被召出、二人扶持被成下。文化九年五月七日、佐竹右京大夫様御家来小倉亘妹縁談願之通被仰付。十年十二月十七日、十二石御直し被成下。十一年九月十三日、御簾番下馬纏兼被仰付。十四年四月十二日父群左衛門(頼恭)病死、六月五日、亡父跡式無相違被成下、御広間番被仰付。(以上正精代。)文政十年六月廿八日、大手勤番被仰付。七月十七日、大手御帳面調被仰付。(以上正寧代。)天保九年閏四月廿八日、大手勤番加番面番被仰付。六月十一日、大手勤番水之手被仰付。天保十三年六月廿七日、上下格大殿様(正寧)附奥勤被仰付。(以上正弘代。)」蘭軒第十七回忌の時は、陶後は六十八歳で、大殿(おほとの)正寧附上下格(まさやすづきかみしもかく)奥勤であつた。
 小島氏では此年十月十三日に、宝素の子春沂(しゆんき)が躋寿館の素読の師を命ぜられた。
 此年寿阿弥(じゆあみ)が七十七の寿宴を催した。蘭軒の歿後に、寿阿弥は毎月十七日に伊沢氏を訪うて読経した。それ故榛軒は寿宴の配物(くばりもの)として袱紗数百枚を寄附した。袱紗は村片相覧(むらかたあうみ)に亀を画かせ、寿阿弥をして歌を題せしめたものであつた。書画は白綸子に写させ、それに緋綸子の裏を著けた。
 頼氏では此年山陽の女(ぢよ)陽(やう)が十六歳で早世した。跡には復(ふく)と醇(じゆん)との二子が遺つたのである。
 此年榛軒四十二、妻志保四十六、女柏十一、柏軒及妻俊三十六、女洲五つ、国二つ、蘭軒の女長三十二、蘭軒の姉正宗院七十五であつた。
 弘化三年は蘭軒歿後第十七年である。此丙午の歳には伊沢氏に事の記すべきものが無い。只曾能子刀自がわたくしにかう云ふ事を語つた。「十一か十二になつた頃の事でございました。わたくしは丸山の宅の縁におもちやを出して遊んでゐて、どうかしてそれを置いたまゝ奥にはいりますと、跡へ内弟子の中の若い人達が出て来て、わたくしのおもちやを持つて遊びます。その賑やかな声を聞いて、わたくしが縁に出ますと、弟子達は皆逃げてしまひます。わたくしは本意(ほい)なく思つて、或時父に愬(うつた)へました。すると父はかう申しました。それは、お前、喜ばなくてはならない事だ、柏(かえ)ちやんのやうな小い子を、門人が師匠の子として敬つて、遠慮して引き下るのだ。お前はいつまでも今のやうに、門人に遠慮をさせて育たなくてはならないと申しました。」
 此年榛軒四十三、妻志保四十七、女柏十二、柏軒及妻俊三十七、女洲六つ、国三つ、其他長は三十三、正宗院は七十六であつた。

     その二百五十二

 弘化四年は蘭軒歿後第十八年である。榛軒詩存に「丁未早春途上詠所見」の七絶と、「丁未上元後一日、次豆日小集韻、兼似柏軒」の五律とがある。今其辞(ことば)を略す。
 六七月の交(かう)に榛軒は暇を賜つて函嶺(はこね)に遊んだ。徳(めぐむ)さんの蔵する所の「湘陽紀行」一巻がある。其書には年号もなく干支もないが、渋江保さんが此年の著だと云ふことを鑑定した。何故と云ふに、書中に須川隆白(すがはりうはく)の齢(よはひ)を二十歳としてある。須川は保の兄恒善(つねよし)よりは少(わか)きこと二歳であつた。其二十歳は丁未の歳となるのである。前(さき)にわたくしは蘭軒の長崎紀行の全文を載せたが、榛軒の此紀行は要を摘むに止める。彼は蘭軒の手定本であつたために割愛するに忍びなかつたが、此は草々筆を走らせて辞に詮次(せんじ)なく、且首尾全からぬために字句をいたはることを要せぬのである。
 六月「廿四日、晴、暑甚し。暁六時細君柏児(はくじ)を伴ひ、須川隆白二十歳、田中屋忠兵衛、僕吉蔵をしたがへ出立す。(中略。)中橋にて小憩し、(中略、)日野屋に立寄、(中略、)本芝にて肩輿を倩(やと)ひ、柏児と交互に乗る。(中略。)佐美津(さみづ)川崎屋にて昼食、酒旨魚鮮、風光朗敞、風涼最多。(中略。)鈴森(すゞがもり)にて少息す。炎熱可□(あぶるべし)。六郷を渡り、(中略、)生麦にて鮓を食し酒を飲む。家は左側(なり。)加奈川宿奈古屋に投宿す。妓四人来終夜喧噪す。婢徳の妓と同枕(せむこと)を抽斎に強ふる事(あり、)絶倒す。」括弧内の文字は読み易からしめむがために、わたくしが加へた。「中橋」は柏軒の家である。佐美津は鮫津である。曾能子刀自の言(こと)に従へば、奈古屋に舎(やど)つた此夜、妓を畏れて遁れ避けたものは、渋江抽斎、山田椿町(ちんてい)、須川隆白の三人であつた。此中須川は年甫(はじめ)て二十であつたから、羞恥のために独臥したのであらう。抽斎と椿庭とは平生謹厳を以て門人等に憚られてゐたのださうである。
「廿五日、陰晴相半(あひなかばす)。(中略。)柏軒、二陶、天宇(てんう)と別る。」弟柏軒、石川二陶、天宇の三人は送つて此に至り、始て別れ去つたのである。天宇は渋江保さんの言(こと)に拠るに、抽斎の別号ださうである。「程谷駅中より左に折れ、金沢道にかかる。肩輿二を倩ひ、三里半の山路屈曲高低を経歴す。左右瞿麦(なでしこ)百合の二花紅白粧点す。能見堂眺望不待言。樹陰涼爽可愛。立夫(りつふ)の教にて、町屋村入口にて初て柳を見る。相州中人家柳を栽るを忌む。自(おのづから)土地に少しと云ふ。」立夫は枳園の字(あざな)である。阿部家を逐はれて、当時尚相模国に住んでゐた。推するに微行して江戸に入り、榛軒の案内者として此に来てゐるのであらう。「瀬戸橋畔東屋(あづまや)酒楼にて飲す。(中略。)楼上風涼如水。微雨偶(たま/\)来り、風光頓(とんに)変り、水墨の画のごとし。隆白小柴の伯父を訪ふ。待つ間に一睡す。隆白帰。雨亦晴。又出て日荷(につか)上人を拝し、朝比奈切通の上にて憩ひ、崖間の清泉を掬し飲む。此辺野葛(のくず)多し。枝柄(えから)天神祠前を過ぐ。日欲暮、疲倦甚しく、(往いて詣ること能はざるが故に)遙拝す。雪下大沢専助旅店に投宿す。終夜濤声(たうせいあり)。不得眠。」一行は既に鎌倉に入つたのである。枝柄天神は荏柄天神に作るべきである。前日の記中よりわたくしの省略したのは、遠近種々の地まで送つて来た人名等であつたが、此日の記に至つては、駕籠賃がある。又酒店東屋の献立が頗る細かに書いてある。悉く写し出すことを欲せざる所以である。

     その二百五十三

 わたくしは弘化丁未の榛軒の旅を叙して、湘陽紀行六月二十五日の条に至つた。榛軒は此日鎌倉雪下に投宿したのであつた。
「廿六日、晴、風(かぜあり)、午時微過雨(びにくわうあり)。(中略)江島に到り、橘屋武兵衛酒店にて午餐を辨じ(中略)藤沢の宿に到る。」
「廿七日、晴。駅の出口にて立夫(りつふ)に別る。(中略。)小田原入口にて午餐す。(中略。)夕方宮下奈良屋に投宿す。」枳園は別れて僑居に帰つたのであらう。寿蔵碑に拠れば津久井県であらうか。函嶺の第一日である。
「廿八日、晴。塩(しほ)柏(かえ)を伴ひ、隆白吉蔵をしたがへ、木賀松坂屋寿平治寓宿の於久(おひさ)の病を診し、(中略、)一宿す。(中略。)隆白二僕は宮下に留守す。」榛軒は宮下に行李を置いて、木賀の病家を訪ひ、松坂屋に舎(やど)つた。函嶺の第二日である。
「廿九日、晴。午後木賀より帰る。」宮下に復(かへ)つたのである。函嶺の第三日である。
「晦日(つごもり)、晴。暑甚。隆白を伴ひ、底倉堂島(だうがしま)等遊行す。」函嶺の第四日である。
「七月朔日(ついたち)、晴。(中略。)蘆湯に行く。」函嶺の第五日である。
「二日、雨。(中略。)木賀古島久婦(こたうきうふ)の病を訪ふ。宿主松坂屋寿平治より蕎麦麪条(さうめん)を贈。」「宿主」と云ふより推すに、再び木賀に舎つたのであらう。「古島久婦」の四字は解し難い。前の「松坂屋寿平治寓宿の於久」と同じ人なることは明である。揣摩(しま)して言へば、画師村片相覧(むらかたあうみ)は古島と号した。其妻を久と云つた。久が病んで函嶺に来り浴してゐた。木賀の松坂屋は其旅寓である。しかし此推測の当れりや否やは、わたくしの能く保(はう)する限でない。函嶺の第六日である。
「三日、雨。(中略。)終日聴雨(あめをきく)、無聊頼(れうらいなし)。」木賀に留まつてゐたものか。函嶺の第七日である。
「四日、晴。山花(さんくわ)(山あぢさゐ)を折り、渓水にて茶を煮(霜の花)、墨形落雁(古□所贈(こたうのおくるところ))、並に香華燈燭を以て□翁を祭る。夕方盃を酌む。日野両老人、浦安二女、主人平治等也。」上(かみ)の両括弧は自註である。「霜の花」は茶の銘であらう。「古□」は、若し上(かみ)の推測の如くだとすると、病婦久の夫であらう。是日は□斎の第十三回忌であつた。浦と安とは二女の名である。初め江戸を発した日に、「日野屋に立寄る」の文があつた。「日野屋両老人、浦安二女」は江戸の尾張町の日野屋の家族であらう。「主人平治」は松坂屋寿平治である。その「主人」と云ふを見れば、榛軒の松坂屋に舎(やど)つてゐたことが知られる。函嶺の第八日である。
「五日、晴、残炎甚。(中略。)宮城野より明神嶽へ上り、最上寺(さいじやうじ)に参詣。上路屈曲、深谷危径、一人も逢ふ人なし。途中桃を里に運ぶ老人に逢ふ。数顆を買ひ、水漿(すゐしやう)に代て渇を医す。山上に小田原在の民馬を牽来り草を苅る。満山あせび、ぶな、うつ木にて大木はなし。最上寺下り口に石長生(せきちやうせい)多し。一丁程大石の挾路(みちをさしはさむ)所あり。右の方に聊の寒泉あり。氷寒沁骨(こつにしんす)。最上寺にて茶を乞、行厨(かうちゆう)を開く。近辺細辛(さいしん)多し。帰路山上にて冷酒一杯を飲む。(中略。)此日塩柏葦湯に行。木賀の辺にて逢伴帰。」わたくしは榛軒の父蘭軒と同じく本草に通じてゐたことを示さむがために、多く上文を刪(けづ)らなかつた。榛軒の妻子を伴ひ帰つた家は、木賀の松坂屋ではなくて、宮下の奈良屋である。函嶺の第九日である。

     その二百五十四

 わたくしの抄する所の弘化丁未の湘陽紀行は、既に七月五日榛軒が函嶺宮下奈良屋に舎(やど)つた日に至つてゐた。榛軒は山中にあること既に九日であつた。
「六日、晴。奈良屋出立。(中略。)湯元の福住九蔵の家に投宿す。」宮下より湯元に遷つたのが、函嶺の第十日であつた。
「七夕、晴。渓石を拾ひ、新筆墨にて五彩箋に書し、二星に供す。塩柏隆白忠兵衛を送り三枚橋に到り別る。(中略。)暮合(くれあひ)福住を出で、風祭(かざまつり)より松明(たいまつ)にて(道を照し、)小田原大清水家に投宿す。元小清水泊の所、指合(さしあひ)にて、隣家にて食事を辨じ、一宿す。」山中にあること十日の後、此日先づ妻子をして帰途に就かしめ、尋(つい)で山を下つて小田原に舎(やど)つたのである。榛軒詩存に「山水自画賛」の七絶がある。「分松寸石雲烟冷。政是山渓欲暁時。記来当日函関路。三枚橋辺別女児。」転結は此日の朝の事を用ゐたものである。
「八日、晴。松万(まつまん)と共に磯浜に行、鰺網を見る。(舟に乗らむとするに、)波高(して)はたさず。」松万は榛軒を福住に訪うた知人である。紀行は此に終る。わたくしは榛軒と其家族との江戸に還つた日を知らない。
 九月十六日に榛軒は菊を岡西氏に贈つた。詩存に「弘化四丁未九月十六日、贈菊花於岡西玄亭及次子貞次郎」の七絶がある。「分贈君家同癖童」の結句より推すに、貞次郎は玄亭の次男で、中ごろ岡西養玄と云ひ、後に岡寛斎と云つた人である。わたくしは此詩を読んで、始て寛斎の小字(をさなゝ)を貞次郎と云つたことを知つた。天保十年生の貞次郎は此時僅に九歳であつた。「同癖」の二字は人をして其夙慧を想見せしめる。
 詩存には尚此頃の作と覚しき七絶一首が載せてある。其題「途上口占」の下(しも)に「弘化四丁未」と註してある。「鎮在綿衾梧枕中。孤□試歩出城東。金剛寺畔幽渓路。頼有残楓一樹紅。」
 十月にも亦一絶がある。「同年(丁未)初冬偶成」が即是で、瓶(へい)に菊花を插して茶に烹(に)ると云つてある。
 十二月朔(ついたち)に榛軒は初て徳川家慶に謁した。伊沢氏では此時阿部正弘が家臣の恩を受けたのを謝するために、老中以下の諸職を歴訪したと伝へてゐる。此より後の武鑑には「御目見医師、本郷阿部内、伊沢長安」の名が載せられてゐる。
 尋で阿部家では榛軒を目附格に進め、禄卅石を加増した。従来百二十石であつたので、此より百五十石になつた。医官に禄を与ふることが多きに過ぎて、其技術の低下を見るは、当時武家の通患であつた。それゆゑ阿部家の如きは特に医官の禄を微にしてゐた。榛軒の百五十石は最高の給額であつたさうである。因(ちなみ)に云ふ。岡西玄亭の家は百石、森枳園の家は三十人扶持であつた。
 榛軒は既に目見医師の班に加はつたので、登城することとなつた。其供廻の費(つひえ)は阿部家が供給したさうである。
 榛軒詩存には尚此月に「丁未杪冬病中述懐」の七律がある。是は頗る榛軒当時の境界を窺ふに足る作で、此詩と曾能子(そのこ)刀自の記憶する一話とを対照するときは、人をして坐(そゞろ)に榛軒の畏敬すべきを覚えしむるのである。

     その二百五十五

 わたくしは榛軒弘化丁未杪冬(せうとう)の詩と、曾能子刀自の記憶する一話とを此に併せ録する。詩に云く。「邇来量減病酲頻。孤枕小屏日相親。嚢物常無半文儲。盆梅頼報一分春。家中長短宜封口。世上嘲戯足省身。遠大思懐灰燼了。遂為売薬白頭人。」
 次に刀自の語る所はかうである。刀自が十三歳の時の事であつた。父榛軒は数日来感冒のために引き籠つてゐて、大晦(おほつごもり)を寝て暮した。そこへ石川貞白が訪ねて来たが、其云為(うんゐ)には周章の状(さま)が著かつた。そして榛軒に窮を救はむことを請うた。榛軒は輒(すなは)ち応へずして、貞白をして一組の歌がるたを書せしめた。貞白は已むことを得ずして筆を把つたが、此時上下(かみしも)の句二百枚を書くのは、言ふべからざる苦痛であつた。しかし書き畢(をは)つた比は、貞白が稍落著いた。榛軒は方纔篋(はうざんけふ)を探つて、金三十両を出してわたした。貞白は驚喜してこれを懐にして去つたと云ふのである。
 推するに榛軒は貞白の神(しん)定まるを候(ま)つて金を授けたのであらう。自ら「嚢物常無半文儲」を歎じつゝも、友を救ふがためには、三十金を投じて惜む色がなかつた。此三十金は必ずや事ある日のために蔵してゐて、敢て自家のために徒費しなかつたものであらう。榛軒の生涯は順境を以て終始したので、その人と為(なり)を知るべき事実が少い。わたくしが刀自の此一話に重きを置く所以である。
 此年猶榛軒詩存中に「賀関氏子」の七絶がある。関某の誰なるかは未詳であるが、榛軒は其子の「廟堂器」たらむことを期してゐる。
 北条霞亭の養嗣子進之(しんし)が始て仕籍に列し、舎を福山に賜つたのも亦此年である。会々(たま/\)進之の妻山路氏由嘉(ゆか)が病んで歿した。跡には十歳の子念祖(ねんそ)が遺つた。
 此年榛軒四十四、妻志保四十八、女柏十三、柏軒と妻俊とは三十八、女洲七つ、国四つであつた。蘭軒の女長は三十四、蘭軒の姉正宗院は七十七であつた。
 嘉永元年には榛軒詩存に、「弘化五戊申初春偶成」の七絶がある。「去歳漫蒙債鬼窘。嚢中払尽半文無。先生私有遊春料。柑子一双酒一壺。」丁未杪冬の頷聯(がんれん)と併せ読んで伊沢氏の清貧を想ふ。
 次に詩中月日の徴すべきものは、「嘉永元戊申十二月朔夜作」の七絶である。「畏縮去年今日栄。野人浪上玉京城。酔濃客散三更後。一枕水声睡味清。」詩は何(いづ)れの地にあつて作られたかを知らぬが、末句の水声には山中に宿したらしい趣がある。
 柏軒身上には此年種々の事があつたらしい。先づ事の重大にして蹟(あと)の明確なるものより言はむに、柏軒は十月十六日に「医学館医書彫刻取扱手伝」を命ぜられた。次にわたくしは側室佐藤氏春の柏軒に仕へたのが此年よりせられたであらうと推測する。次年己酉の四月には春が嗣子磐(いはほ)を生んでゐるからである。

     その二百五十六

 わたくしは柏軒が妾(せふ)佐藤氏春を納れたのが、此年戊申の事であらうと言つた。正妻狩谷氏俊は丙申に来り嫁してより、此に至るまで十三年を経てゐて、其間に長男棠助、長女洲、次女国、三女北の一子三女を生んだ。此四人の中能く長育したものは、只国一人のみなるが故に、余の三人の生歿は家乗に詳密なる記載を闕いてゐる。
 柏軒が春を納れたのは、俊の請(こひ)に従つたのだと伝へられてゐる。推するに女丈夫にして妬忌(とき)の念のなかつた俊は、四人の子を生んだ後、身の漸く疲□(ひすゐ)するを憂へて此請をなしたのであらう。
 春は明治六年に其子磐(いはほ)の公(おほやけ)に呈した書類に、「文政八年六月十九日生、東京府平民狩谷三右衛門叔母」と記してある。当時の三右衛門は矩之(くし)であるが、其親族関係の詳(つまびらか)なるを知らない。始て柏軒に事(つか)へた時の春の歯(よはひ)は二十四歳である。
 此年伊沢氏の親交ある人々の中、寿阿弥が死に、森枳園が阿部家に帰参することを許された。
 寿阿弥の入寂は八月二十九日であつた。其詳なることは別に著す所の「寿阿弥の手紙」に譲つて贅せない。わたくしは此に曾能子刀自の記憶一条を補記して置く。「寿阿弥さんは背の高い大坊主でございました。顔立は立派で、鼻が大そう高うございました。鼠木綿の著物を著て、お天気の日も雨の降る日も、足駄を穿いて歩きました。浅草で亡くなる前に、わたくしも病気見舞に連れて行かれました。」
 森枳園の阿部家に帰参したのは五月である。此帰参が主として伊沢氏の助を藉りて成就し、又渋江抽斎等も力を其間に尽したことは、既に抽斎伝に記した如くである。
 此年榛軒四十五、妻志保四十九、女柏十四、柏軒と妻俊とは三十九、女洲八つ、国五つ、蘭軒の女長三十五、蘭軒の姉正宗院七十八であつた。
 嘉永二年には榛軒に元旦の詩があるが、詩存中に載せられない。わたくしは良子刀自所蔵の掛幅(くわいふく)に於てこれを読むことを得た。「笑迎四十六年春。椒酒三杯気愈伸。弟有悌兮児有孝。奉斯懶病不材人。己酉元日口占。源信厚。」
 四月は丸山の榛軒が家にも、中橋の柏軒が家にも事のあつた月である。
 榛軒は十七日に女(ぢよ)柏(かえ)のために婿を迎へた。婿は池田京水の七男全安である。文政八年生の全安は二十五歳になつてゐた。渋江保さんが此時父抽斎の榛軒に物を贈つた書の下書を蔵してゐる。「一筆啓上仕候。今般全安様御事、伊沢家へ御養子御熟談相整重畳愛度奉存候。右御祝儀申納度、真綿一台進上仕候。聊表志之印迄に御座候。御祝受被下候ば、本懐之至奉存候。恐惶謹言。」
 柏軒の家では九日に妾(せふ)春が次男鉄三郎を生んだ。後徳安(とくあん)と改称し、立嫡(りつてき)せられて父の後を襲ぎ、磐安(ばんあん)と云ひ、維新の時に及んで磐(いはほ)と称した。
 穉(をさな)い鉄三郎は春を「春や」と呼び、春も亦鉄三郎を「若様」と呼んだが、維新後の磐は春を嫡母(てきぼ)として公に届け、これに孝養を尽した。

     その二百五十七

 榛軒詩存中に尚此年己酉四月の作と認べきものがある。それは「嘉永二己酉偶成、次高束子韻」の七絶三首である。わたくしは此にその四月の作たるを徴すべきもの一を節録する。「点滴声中送尽春。麦秋寒犯病酲身。矮屏孤枕昏昏臥。羨望多餐健歩人。」既に元日の詩に「懶病」と云ひ、今又此詩がある。榛軒は此頃心身の違和を覚えてゐたとおもはれる。
 五月には榛軒の女婿全安が離縁になつた。そして柏は不幸にして妊娠してゐた。全安の伊沢氏を去つたのは、医術分科の上に於て、養父榛軒と志す所を異にしたのだと伝へられてゐる。全安は此より自立して池田氏の「又分家」を成した。即ち宗家霧渓瑞仙晋(しん)、分家天渓瑞長、又分家全安である。
 小島氏では此年四月十五日に、春庵宝素の子春沂(しゆんき)抱沖が躋寿館(せいじゆくわん)の寄宿寮頭取になつた。尋で閏(じゆん)四月二十九日に宝素が歿し、七月三日に抱沖が家督相続をし、十月二十八日に奥医師になつた。
 此年榛軒四十六、妻志保五十、女柏十五、柏軒並妻俊四十、女洲九つ、国六つ、男鉄三郎一つ、蘭軒の女長三十六、蘭軒の姉正宗院七十九であつた。柏軒の妾春は二十五であつた。
 嘉永三年は蘭軒歿後第二十一年である。伊沢家には三事の記すべきものがあつた。其一は榛軒が日光山に遊んだこと、其二は正宗院が八十の賀をしたこと、其三は榛軒の女柏が全安の遺子梅を生んだことである。
 日光山の遊は榛軒詩存に七絶五首が見えてゐる。榛軒は是より先、既に此山に登つたことがあるらしい。「売酒老翁旧相知。竹欄沿例先把巵。」庚戌の此遊は夏の初で、途上四月八日に某寺を訪うた。「紫屋紅軒尽是花。禅房新造小龕家。媼翁各伴児孫去。競酌香湯灌釈迦。」途(みち)に藤の花の盛に開いてゐるのをも観た。「水奔渓石白如噴。風擺藤花紫欲篩。」五首の題は「嘉永三庚戌日光道中口占」である。
 阿部正弘事蹟を按ずるに、下(しも)の如き記事がある。「此年(嘉永二年)九月、日光東照宮其他の修繕工事総奉行を命ぜらる。翌年(三年)三月、勝手掛勉励の労を賞せられ、且つ東照宮修繕の為に日光に発向するを以て、葵章鞍覆を賜はる。四月、日光に赴き、十余日にして帰る。」是に由つて観れば、榛軒庚戌の遊は正弘に随行したものと見える。
 次に正宗院の八十の賀は、わたくしは今二物の存するあるに由つて知つた。徳(めぐむ)さんは小島成斎の書幅を蔵してゐる。全唐紙に「如南山寿、不騫不崩」の八字が二行に大書してある。末には「奉賀正宗院君八秩、知足」と署してある。禿筆(とくひつ)を用ゐて作つた草体が奔放を極めてゐる。引首印(いんしゆいん)と知足の下(しも)の印一顆とがある。是が一つである。今一つは清川安策の五古で、是は文淵堂の花天月地(くわてんげつち)中に収められてゐる。

     その二百五十八

 わたくしは此年庚戌の正宗院八十の賀に、清川安策の五古があつたと云つた。今これを下(しも)に写し出す。「賀正宗尼君八十初度、漫賦十韻以代戯話。天錫無疆寿。譬諸松栢栄。繁枝庇百草。心堅而操貞。昔日絶世累。晩節傲玄英。窮陰無衰態。足以慰物情。仙鶴棲其上。有雛揚家声。二字誰所命。称其宗之正。請看甘冽酒。与君同美名。老後最多福。奉養有両甥。松下聞鶴唳。筵間金尊盈。雲仍遶膝坐。交起挙賀□。梧陰廃叟拝具。」花天月地の同巻中に榛軒に此詩を寄せた時の添書(そへしよ)があつて、「口上茶番に代候(かへそろ)例の譫言(たはこと)」とことわつてある。此書状には□(がい)と署してあり、又詩箋にも「清川」と「□」との二印がある。日附は「□月(さげつ)十二日」である。徳(めぐむ)さんに質すに、清川玄策、名は□、号は梧陰又藹軒(あいけん)であつたと云ふ。蘭軒門人録に「清川玄道、初安索、江戸」(安は玄、索は策か)とあり、榛軒門人録に「清川安策、岡」とある。梧陰は前者であらうか。榛軒詩存に唱和の詩数首があつて、皆「清川安策」とのみ書してあるが、それは後者であらう。渋江保さんの言(こと)に従へば、清川□に二子があつて、兄を玄策徴(げんさくちよう)と云ひ、弟を安策孫(あんさくそん)と云つた。此孫が順養子となつたさうである。按ずるに梧陰は蘭門の玄道で榛門の安策の父ではなからうか。梧陰の齢(よはひ)は□(はるか)に榛軒より長じてゐたらしい。
 曾能子刀自の語る所に拠れば、正宗院の賀筵は十二月中三日間引き続いて開かれたさうである。果して然らば十一、十二、十三日であらう。梧陰の詩は其中の日に贈られたのである。又刀自の言(こと)を聞くに、榛軒は此賀筵を催すに当つて黒田家に請ひ、正宗院を丸山の家に遷らしめたさうである。丸山の家の図に正宗院の居室のあつたことは前に云つた如くである。
 わたくしは上(かみ)に此年三事の記すべきものがあつたと云つて、榛軒の日光山の遊、正宗院の八十の賀、梅の誕生を挙げた。梅は榛軒の初に迎へた女婿全安の柏(かえ)に生ませた女(むすめ)である。わたくしは其生日を知らぬが、全安の伊沢氏を冒してゐた期間より推すに、庚戌三月よりは遅れなかつただらう。
 最後にわたくしは榛軒詩存中より、「嘉永三庚戌冬夜直舎即事」の詩を抄出する。「酔醒人散三更後。独擁銅炉臥官楼。撃柝響時寒愈急。宿鴉鳴処月将浮。尋得残酒尋残夢。憶来旧詩憶旧遊。世事初知消気力。笑看半点暁燈油。」
 此年榛軒四十七、妻志保五十一、女柏十六、孫女梅一つ、柏軒並妻俊四十一、女洲十、国七つ、柏軒の妾春二十六、蘭軒の女長三十七、蘭軒の姉正宗院八十であつた。
 嘉永四年は蘭軒歿後第二十二年である。榛軒に元旦の詩がある。「嘉永四辛亥元旦、与塾中諸子同分韻得肴、近日諸子学術頗進、後句及之。団欒児女迎新歳。更献椒杯又進肴。恰恰山禽呼屋角。暉暉旭日上梅梢。青洲従事頻通好。白水真人久絶交。諸子精研尤可喜。先生自此酔東郊。」榛軒詩存巻首の詩である。尋で「嘉永四辛亥初春偶成」の詩がある。「飽食暖衣愧此身。又逢四十八青春。少年宿志渾灰燼。遂作尋常白首人。」此詩の転結は四年前杪冬(せうとう)の七律第七八と殆全く同じである。皆稿を留めざる矢口肆筆(しこうしひつ)の作である。「遠大思懐灰燼了。遂為売薬白頭人。」
 十月二十四日に榛軒は福山の執政高滝(たかたき)某を旅館に訪うた。「嘉永四辛亥十月廿四日、与立夫魯直酔梅家弟柏軒、同訪高滝大夫旅館、此日大夫遊篠池、有詩次韻。昔年今日訪君家。記得林泉清且嘉。亡友共算暁星没。問齢同歎夕陽斜。詩題檠上奇於壁。酒満尊中何当茶。酔渇頻思蜜柑子。二千里外福山※[#「「貝+(やね/示)」、8巻-118-上-5]。」高滝大夫の称は樸斎(ぼくさい)詩鈔、藤陰舎遺稿等に累見してゐる。武鑑に「年寄、高滝左仲」と云ふは此人か。樸斎に「弔高滝常明君墓」の詩がある。常明(つねあき)は左仲の名ではなからうか。同行者立夫(りつふ)は森枳園、魯直(ろちよく)は岡西玄亭である。酔梅(すゐばい)は未だ考へない。

     その二百五十九

 此年嘉永辛亥の十一月に榛軒の女柏が長刀の伝授を受けた。当時長刀の師に呈した誓約書の副本は、今猶曾能子刀自が蔵してゐる。其文は今人(きんじん)の見て奇異とすべきものなるが故に、此に写し出すことゝする。「誓約之覚。巴流長刀目録御伝授之儀、聊他見他言仕間敷候事。御相伝被下候上は、御指南之条条堅相守、稽古半に而(て)相止申間敷、且他流と藝替不仕候。右於相背者(あひそむくにおいては)、秋葉大権現摩利支尊天、別而(べつして)鬼神之御罰相蒙可申候也。仍誓約如件(くだんのごとし)。嘉永四年歳次辛亥十一月。伊沢柏。喜多村増馬(ますま)殿。」
 昔妙齢にして長刀を錬習した柏が今曾能子刀自として健在せることは、わたくしの既に屡(しば/\)云つた如くである。啻(たゞ)に然るのみならず、毎(つね)に柏が長刀の対手をした少年も、今猶健在してゐる。それは当時の塩田良三(りやうさん)で、即今の塩田真(しん)さんである。辛亥の歳には柏が十七、良三が十五であつた。
 十二月十三日に蘭軒の姉幾勢(きせ)、黒田家の奥に仕へた時の名世代(せよ)、薙染(ちぜん)後の称正宗院が八十一歳を以て丸山の家に歿した。前年庚戌十二月の寿筵は此媼(おうな)をしていたく疲れしめた。正宗院は此より垂れ籠めてのみ日を送つてゐたが、遂に寿筵後満一年にして歿したのである。正宗院は遺言に依つて、黒田家の菩提所広尾祥雲寺境内霊泉寺の塋域に葬られた。昨年黒田伯爵家の家乗編纂に従事してゐる中島利一郎さんは、わたくしのために正宗院の墓に詣でて、墓石の刻文を写して贈つた。正面中央には「正宗院湛然妙総禅定尼、」右側面には「瑤津院殿侍女、俗名世代、福山伊沢長安信階女、嘉永四年辛亥十二月十三日死、」左側面には「福山伊沢長安信厚、筑前伊沢道盛信全」と刻してある。此文中道盛信全は蘭軒の生父信階(のぶしな)の養父信政より、信栄、一時中継(なかつぎ)たりし信階、信美(しんび)[#ルビの「しんび」は底本では「しんぴ」]を経て信全に至る、伊沢宗家の当主で、辛亥には六十九歳であつた。
 正宗院の歿した時、石川貞白の手向けた歌がある。「正宗院のみまかり給ひけるとき禅の心を。わきがたきをしへの外の道なれどけふぞまことに君はゆくらむ。元亮。」
 此年榛軒四十八、妻志保五十二、女柏十七、全安の女梅二つ、柏軒並妻俊四十二、女洲十一、国八つ、男鉄三郎二つ、蘭軒の女長三十八、柏軒の妾春二十七であつた。
 嘉永五年は蘭軒歿後第二十三年で、其嗣子榛軒の応(まさ)に世を去るべき年である。詩存に元旦の絶句がある。「嘉永五壬子元旦。喜鶴声々対旭飛。陶然酔美弄晴暉。頼依信友悌弟力。不待来年知了非。」此日榛軒は又門人黒川雲岱(うんたい)に次韻した。「嘉永五壬子元旦、和黒川生韻。三百六十第一辰。風声日影共新新。節遅今日尚冬季。人意酔中既識春。」門人録を検するに、黒川は「棚倉」と註してある。わたくしは榛軒詩存の或は永遠に印刷せられざるべきを思ふが故に、作者の世を去る年の詩は悉く存録することとした。上(かみ)の二首の如きも、其巧拙を問ふことなく、遺蹟に乏しい榛軒の所作として、わたくしはこれを尊重するのである。

     その二百六十

 此年嘉永壬子の冬は伊沢氏に於て事多き季節であつた。初に中橋又分家の慶事があつた。柏軒は十月七日に躋寿館の講師を命ぜられたのである。
 同月下旬に榛軒が病に罹つた。或は是より先に病を発して、此旬(じゆん)に入つて増悪したのかも知れない。徳(めぐむ)さんの蔵する所の病牀の日記は、「十月廿一日、熱、嘔、脈数、椿庭診、柏軒診」を以て筆を起してある。椿庭(ちんてい)は山田昌栄業広(しやうえいげふくわう)である。弟柏軒も亦中橋から来り診した。
「廿二日。乾嘔甚。夜信重診。」弟が夜に入つて来た。
「廿三日。薬下。嘔少止。」
「廿四日。嘔少止。壮熱。午後□庭診。晩清吉老診。」多紀□庭(たきさいてい)が来診した。「清吉老」は未だ考へない。
「廿五日。壮熱如前。□庵診。晩汗微出。」辻元□庵(つじもとすうあん)が来診した。此年の武鑑に「辻元□庵、奥御医師、二百俵高、御役料三十人扶持、下谷長者町」と記してある。
「廿六日。嘔止。熱少衰。夜与立夫議転方。」転方(てんはう)は榛軒が自らこれを森枳園に諮(はか)つたのであらう。
「廿七日。招請椿庭議方。」薬方は原本に註してあるが、今総て省略する。
「廿八日。清吉老診。」
「廿九日。煩熱。心下鞭満甚。」
「十一月三日。良安と信重に刀を贈る。信重のものは後鉄三郎に与へしむ。」良安は榛軒が女柏に配せむとしてゐる青年田中鏐造(りうざう)である。田中氏は当時松川町に住んでゐた。良安は六歳にして父を失つた孤(みなしご)であつたと云ふから、父淳昌(じゆんしやう)は天保十年に歿したであらう。榛軒詩存に「嘉永五壬子冬月示良安」と云ふ詩がある。「医家稽古在求真。千古而来苦乏人。万巻読書看破去。応知四診妙微神。」或は此日の作ではなからうか。此年十月は小であつたから、二十九日の後記事の無い日は、十一月朔(さく)と二日とである。
「四日。御食進。夜中も一度御食事有之。此夜養子婚儀。」合※[#「丞/巳」、8巻-121-上-6]の日は榛軒の心を安んぜむがために急にせられたのであらう。此日に良安は十九歳にして伊沢良安となつた。即ち後の棠軒である。媒(なかうど)は梧陰清川安策であつた。「棠軒公私略」には「嘉永五年壬子十一月四日、養家に引移、整婚儀、名改良安、時府君在蓐」と記してある。是に由つて観れば、良安は榛軒の命じた名である。
「五日。楽真院来診。養子来り、忝しと挨拶あり。」楽真院は□庭である。此年の武鑑を検するに、向柳原(むかうやなぎはら)の多紀宗家は「多紀安常、父安良、御医師方子息」と記してある。安良(あんりやう)は暁湖元□(げうこげんきん)、其子安常は棠辺元佶(たうへんげんきつ)である。元佶は実は暁湖の季弟である。矢の倉の多紀分家は「多紀楽真院法印、父安長、奥御医師、二百俵高、御役料二百俵、両国元矢の倉」、「多紀安琢、父楽真院、御医師方子息」と記してある。安長は桂山元簡(けいざんげんかん)、楽真院は□庭元堅(げんけん)、安琢は雲従元□(うんじゆうげんえん)である。「養子来り、忝しと挨拶あり」と云ふより推すに、榛軒が田中淳昌の遺子を迎へて女婿とした時、□庭は其間に周旋したと見える。
「六日。昨夜発熱。汗出。□□有之。但小水快利。椿庭来診。」
「七日。夜安眠。」
「八日。清吉老来診。言談過る故、終夜不眠。」
「九日。□老診。夜快眠。四時熱退。」
「十日。椿庭診。□庭診。清吉老診。岡西、成田来。」岡西は蘭軒門人録に「岡西玄亭、藩、」榛軒門人録に「岡西玄庵、福山」があり、成田は彼に「成田元倩、藩、」此に「成田竜玄、九鬼」がある。「藩」は福山藩である。岡西玄亭は渋江抽斎の妻(さい)徳(とく)の兄で、当時尚存命してゐた。玄庵は玄亭の長男、岡寛斎の兄で、此年十八歳であつた。問安のために来たのは、父子孰(いづ)れなるを知らない。成田の事は不明である。

     その二百六十一

 わたくしは嘉永壬子の冬榛軒が致死の病に染まつたことを語つて、当時の病牀日記を抄し、十一月十日の条に至つた。今其後を書き続ぐ。
「十一日夜不寐。推枕軒安安信厚居士。先生自命。竜穏寺主許可。古き帳を大川に沈めしむ。」榛軒は自ら不起を知つたので、法諡(はふし)を撰んで識る所の僧に請うて閲(けみ)せしめた。又文書中後に貽(のこ)さざらむことを欲するものがあつたので、遺言して処分せしめた。人の秘事を与り知ることは、懺悔を聴くカトリツク教の僧を除いては、医師状師が最も多いであらう。殊に医を以て主に事(つか)へ、又幾多の貴人を診した榛軒の記録中に、人のために諱むべき事のあつたのは怪むに足らない。榛軒が簿冊を河に沈めさせたのは、恐くは諫草(かんさう)を焚(や)く意に外ならなかつたであらう。
「十二日。不眠。晩心胸下満痛。□。」
「十三日。上より岡西玄亭を以て慰問せられ、又飯菜を賜ふ。上原全八郎の調理なり。」「上」は阿部侯正弘である。
「十四日。天地は我心なり、又草木の花は我心なり、桜花蓮花の開くごとに我を祭れと云ふ。」亦榛軒遺言の一部である。
「十五日。晩誦曰。繁華四十九年夢。化作寒天一夜霜。」榛軒辞世の句である。「天」は原(もと)「風」に作つてあるが、恐くは誤であらう。
 病牀日記は十六日の記を闕いてゐる。しかし此日の巳刻に榛軒は絶息した筈である。棠軒公私略に「同(十一月)十六日朝四時過遂に御卒去被遊候、尤発表は翌十七日差出」と記してある。
 此日榛軒門人の一人であつた塩田良三が躋寿館に於て医学出精の賞詞を受けた。良三は榛軒に師事し、其歿後に柏軒の門下に転じた人である。
 当時の良三、今の真(しん)さんは渋江保さんに下(しも)の如く語つた。「わたくしの十六歳の時であつた。十一月十五日に、旧主人宗対馬守の重役から、御用有之、明十六日朝四時出頭するやうにと云つて来た。十六日に邸へ往くと、医学館へ往けと云ふことであつた。医学館に出て見ると、多紀安良、安琢が列座してゐて、安良の申渡があつた。其口上は講書聴聞久々出精一段之事に候と云ふ文言であつた。わたくしはそれを承つて、それから宗家の留守居役同道で所々へ礼廻に往つた。老中、若年寄、医学館世話役五人、手伝四人、俗事役三人の邸宅を廻つたのである。官医だけの氏名を言へば、世話役は多紀楽真院、野間寿昌院、多紀安良、辻元□庵、喜多村安正、手伝は谷辺(たにべ)道玄、船橋宗禎、坂尚安(さかしやうあん)、多紀安琢であつた。礼廻が済んでから、わたくしは榛軒先生の宅へ往つた。わたくしは切角先生に喜んで貰はうと思つて往つたのに、先生はもう亡くなつてをられた。丁度わたくしが宗の邸へ出頭した時瞑目せられたのであつた。」
 当時の宗対馬守は義和(よしより)であつた。多紀の三人は宗家の安良が暁湖元□(げうこげんきん)、分家の楽真院が□庭元堅(さいていげんけん)、安琢が雲従元□(うんじゆうげんえん)である。
 渋江保さんの云ふには、此賞詞は其仲兄優善(やすよし)が共に受けて、礼廻をも共に済ませたのださうである。真さんは渋江抽斎と其長子六堂恒善(つねよし)との教をも受けてゐたので、優善とは親善であつた。

     その二百六十二

 榛軒の喪は此年嘉永壬子十一月十七日に発せられた。遺骸は麻布長谷寺(ちやうこくじ)に葬られた。墓は上(かみ)に記した如く、父蘭軒の墓と比(なら)んで立つてゐる。
 葬(とぶらひ)の日は伝はらない。会葬者は甚だ衆く過半は医師で総髪又は剃髪であつた。途(みち)に此行列に逢つた市人等は、「あれは御大名の御隠居のお葬だらう」と云つたさうである。
 此日長谷寺には阿部家の命に依つて黒白の幕が張られた。大目附以上のものゝ葬に準ぜられたのである。会葬者には赤飯(あかめし)に奈良漬、味噌漬を副へた辨当が供せられた。初め伊沢氏で千人前を準備したが、剰す所は幾(いくばく)もなかつたさうである。
 輓詩(ばんし)は只一首のみ伝はつてゐる。誠園(せいゑん)と署した作である。「余多病、託治於福山侍医伊沢一安久矣、今聞其訃音、不堪痛惜之至、悵然有詠。天地空留医国名。何図一夜玉山傾。魂帰冥漠茫無跡。耳底猶聞笑語声。」「誠園稿」と書して、「爵」「守真」の二印がある。引首(いんしゆ)は「天楽」である。初めわたくしはその何人なるを知らなかつたが、偶(たま/\)寧静閣集を読んで誠園の陸奥国白川郡棚倉の城主松平周防守康爵(やすたか)であることを知つた。一安は榛軒の晩年の称である。和歌は石川貞白の作一首がある。「あひおもふ君が木葉と散りしより物寂しくもなりまさりけり。元亮。」
 曾能子刀自の語るを聞けば、此日俳優市川海老蔵と其子市川三升とが、縮緬羽二重を以て白蓮花(はくれんげ)を造らせて贈つたさうである。海老蔵は七代目、三升は八代目団十郎である。然るに文淵堂所蔵の花天月地(くわてんげつち)を閲(けみ)するに、榛軒の病死前後の書牘三通がある。其一は榛軒の病中に父子連署して榛軒の妻志保に寄せたもので、「御見舞のしるし迄に」菓子を贈ると云つてある。末に「霜月九日、白猿拝、三升拝、井沢御新造様」と書してある。其二は八代目一人が※(ばう)[#「貝+冒」、8巻-125-上-2]を送る文で、「此品いかが敷候へども御霊前へ奉呈上度如斯御座候」と云ひ、末に「廿二日、団栗(どんぐり)、伊沢様」と書してある。其三は又父子連署して造花を贈る文で、榛軒を葬つた日を徴するに足るものかと推せられるから、此に全文を録する。「舌代。蒙御免書中を以伺上仕候。向寒之砌に御座候得共、益御機嫌宜敷御住居被為在(あらせられ)、大慶至極奉存候。扨旦那様御病中不奉御伺うち、御養生不相叶御死去被遊候との御事承り驚入候。野子(やし)ども朝暮之歎き難尽罷在候。別而尊君様御方々御愁傷之程如何計歟御察し奉申上候。随而甚恐入候得共御□末(おそまつ)なる造花御霊前様へ御備被下置候はゞ、親子共本望之至に御座候。只御悔之印(おんくやみのしるし)迄に奉献之度(これをけんじたてまつりたく)如此に御座候以上。霜月廿二日。市川白猿。市川三升。伊沢様御新造さま。」八代目の一人で※[#「貝+冒」、8巻-125-上-16]を送つたのと同日である。しかし造花が二十二日に送られたとすると、此二十二日が即葬の日ではないかとおもはれるのである。
 二十三日に榛軒が生前にあつらへて置いた小刀の拵が出来て来た。鞘の蒔絵が蓮花、縁頭鍔共(ふちかしらつばとも)蓮葉(れんえふ)の一本指であつた。榛軒は早晩致仕して、貴顕の交を断ち、此小刀を佩び、小若党一人を具して貧人の病を問はうと云つてゐたさうである。是は曾能子刀自の語る所である。

     その二百六十三

 此年嘉永壬子の十二月十三日は蘭軒の姉、榛軒柏軒の伯母(はくぼ)正宗院の一週年忌であつた。伊沢氏は尚榛軒の喪に居つたから、親戚と極て親しかつた人々とが集つて法要を営んだに過ぎなかつたであらう。「あらがねの土あたたかし冬籠、七十五歳陶後(たうご)」と書した懐紙が徳(めぐむ)さんの蔵儲中にある。
 此年森枳園が屠蘇の方(はう)を印刷して知友に頒つた。亦十二月中の事である。枳園の考証する所に従へば、屠蘇は本唐代の俗間方(ぞくかんはう)である。其配合の最古なるものは宋板外台秘要に出でてゐる。枳園は紀州藩の医官竹田某の蔵する所の宋板外台中屠蘇の方を載する一頁(けつ)を影刻したのである。新年に屠蘇酒を飲むことは、今猶広く世間に行はれてゐるから、此に古方の薬品、分量、製法を略抄して置く。「歳旦屠蘇酒方。大黄十五銖。白朮十銖。桔梗十五銖、蜀椒十五銖汗。烏頭三銖炮。□□六銖。桂心十五銖。右七味□咀。絳嚢盛。以十二月晦日。日中懸沈井中。令至□。正月朔日平暁。出薬置酒中。」
 此年には今一つの記すべき事がある。それは塩田真(しん)さんの語る所で、榛軒等が七代目団十郎の勧進帳を観たと云ふ一事である。塩田氏の語るを聞くに、此勧進帳は七代目団十郎の所謂一世一代名残狂言であつたらしい。これを此年に繋(か)くる所以である。
 塩田氏はかう云つた。「わたくしは伊沢榛軒、同柏軒、渋江抽斎、森枳園、小島成斎、石塚豊芥子(ほうかいし)の人々と寿海老人の勧進帳を観たことを記憶してゐる。此人々は所謂眼鏡連(めがねれん)で、毎(つね)に土間の三四を打ち抜いて見物した。是は本近眼から起つた事である。榛軒柏軒の兄弟は父蘭軒の如く近眼であつた。抽斎は伊沢兄弟程甚しくはなかつたが、是も亦近眼であつた。此日には抽斎の倅優善、清川安策、わたくしなどの青年も仲間入をして往つた。」
「勧進帳は中幕であつた。そしてわたくし共の最も看んと欲したのも亦此中幕であつた。幕の開く前に、寿海老人の口上があつた。例の如くまさかりいてふに柿色の上下(かみしも)で出て、一通口上を述べ、さて仮髪(かづら)を脱いで坊主頭になつて、此度此通頭を円めましたから、此頭に兜巾(ときん)を戴いて辨慶を勤めて御覧に入れますと云つた。」
「さていよ/\勧進帳の幕が開いた。三升の富樫、猿蔵(さるざう)の義経で、寿海が辨慶に扮したのである。猿蔵と云つたのは三升の弟で、後の九代目団十郎の兄である。」
「眼鏡連はいづれも見巧者(みがうしや)の事だから、熱心に看てゐた。わたくしは偶(たま/\)彼木場の隠居となつた四代目団十郎の勧進帳の正本(しやうほん)を持つてゐたので、それを持つて往つてゐた。そこで土間で其本を攤(ひら)いて、舞台と見較べてゐた。」
「幕を引くと直に、眼鏡連の土間へ、寿海老人の使が来た。其口上は、只今舞台から拝見いたしましたが、大そう古い本をお持になつて入らつしやるやうでございます。暫時あの本を借して戴くことは出来ますまいかと云ふことであつた。わたくしは喜んで借して遣つた。」
「芝居がはねて、一同茶屋の二階へ帰つてゐると、そこへ又寿海の使が来て本を還した。口上は、結構な御本をお貸下さつて難有うございます、お蔭を以ちまして、藝の上に種々心附きました事がございます、自身参上いたしてお返申すべきでございますが、打出し早々多用でございますので、使を以てお返申しますと云ふことであつた。そして使は大きい菓子折を出した。」
「わたくしも少し驚いたが、先輩の人々も顔を見合せて、何事か思案せられるらしかつた。さて榛軒先生がわたくしに、塩田、此返事はどうすると問はれた。」

     その二百六十四

 わたくしは此に塩田氏の観劇談を書き続ぐ。
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