伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

 錦橋は江戸駿河台の家に歿して向島嶺松寺に葬られた。然るに嶺松寺の廃絶した時、錦橋の墓はこれに雕(ゑ)つてあつた杉本仲温撰の墓表と共に湮滅(いんめつ)し、錦橋は惟(たゞ)法諡(はふし)を谷中共同墓地にある一基の合墓上に留め、杉本の文は偶(たま/\)江戸黄檗禅刹記中に存してゐること、既に云つた如くである。
 しかし錦橋のために立てられた石は、独り嶺松寺の墓碣(ぼけつ)のみではなかつた。わたくしは黄檗山に別に錦橋の碑のあることを聞いた。そして其石面に何事が刻してあるかを知らむと欲した。
 一日(あるひ)京都より一枚の葉書と一封の書状とが来た。先づ葉書を読めば、並河(なみかは)総次郎さんがわたくしに黄檗の錦橋碑の事を報ずる文であつた。「先日檗山に参り候節、錦橋先生の墓にも詣候。墓は檗山竜興院の墓地、独立(どくりふ)の墓の側(かたはら)に立居候。前面には錦橋池田先生墓、(此一字不明)弟子近藤玄之、佐井聞庵、竹中文輔奉祀、右側には文化十三年丙子九月六日と有之候。其他何も刻し無之候。竜興院には位牌も有之候へども、何事も承知不致居候。同院主は拙家続合(つゞきあひ)にて、錦橋先生の伝記等一見致度様申居候。」
 次にわたくしは封書を披いた。是は弟潤三郎が同じ錦橋碑の事を報じた書であつた。「好天気にて休館(京都図書館の休業)なるを幸(さいはひ)十時頃より黄檗なる錦橋の墓を探りに出掛候。若し碑文にてもあらば、手拓して御送申度、其用意も致候。先づ寺務所を訪ひ、墓の所在を問はむと、刺を通じ候処、僧俗二人玄関に出候。僧は名を聞きしことある学僧にて、倉光治文(くらみつちぶん)師に候。俗の方は昔日兄上に江戸黄檗禅刹記の事を報ぜし吉永卯三郎君に候。吉永は恰も好し昨日門司より来りたる由にて、奇遇を喜候。さて二人に案内を請ひて墓の所に至るに、墓は尋常の棹石(さをいし)にて、高さ二尺七寸、横一尺、趺(ふ)は二重に候。」弟は此に刻文を写してゐるが、上(かみ)の並河氏の報ずる所と同じ事故略する。年月日を刻してある右側は「向つて右」ださうである。「墓前に幅一尺二寸、高さ七寸の水盤を安んじ、其前面には横に「錦橋先生墓前置」と刻し、左側面に「玄之猶子南都仲元益拝」と刻し有之候。誌銘なきに失望致候へども、墓の模様大概記して差上候。寺務所に帰りて暫く談話し、吉永君には兄上の研究を援助せられ候様頼置候。」
 黄檗山の錦橋碑の事は、此並河氏と弟との報に由つて詳にすることを得た。墓碣と水盤とに名を列してゐる四人の弟子は、皆京都奈良等の人で、中にも佐井聞庵は恐くは錦橋の三人目の妻沢の仮親佐井圭斎の族であらう。自ら猶子(いうし)と称する仲元益(ちゆうげんえき)が「南都」と書してゐるを見れば、近藤玄之も亦奈良の人かと推せられる。
 吉永氏が弟と檗山に相見たのも奇とすべく、並河氏の書が弟の書と共に至つたのも奇とすべきである。

     その二百四十一

 わたくしは蘭軒歿後の事を叙して天保七年に至り、池田京水が此年に歿したと云つた。是は柏軒を始として、蘭門の渋江抽斎等が痘科を京水に学び、又後に至つて京水の七男全安が一たび榛軒に養はれて子となるが故である。
 わたくしは京水を説き、其父文孝堂玄俊、其伯父錦橋、錦橋の妻沢、錦橋の養嗣子霧渓等に及び、これがために多くの辞(ことば)を費した。是は曩(さき)に錦橋等の事を説いて、未解決の問題を貽(のこ)して置いたので、新に得た材料に由つてこれが解決を試ようとしたためである。
 今錦橋初代瑞仙の家を池田氏の宗家とすれば、京水の家は其分家である。分家は宗家の霧渓二世瑞仙が幕府に京水の「別宅願」を呈して聴許せられた日に成立した。しかし京水は京都に於て一たび絶えた文孝堂の後を襲(つ)いだものと看做すも亦可であらう。
 京水歿して、嫡子瑞長直頼が分家を継いだ。宗家三世瑞仙直温繕写の過去帖及二世全安儲蔵の過去帳に拠るに、此瑞長の後に猶一人の瑞長があつたらしく、法諡(はふし)用ゐる所の文字より推するに、初の瑞長は天渓と号し、後の瑞長は三矼(さんこう)と号したらしい。しかし此分家の存滅はわたくしの未だ考へぬ所である。
 わたくしの識る所の二世全安の家は此分家と別であるらしい。初代瑞長直頼の弟初代全安は、後に一たび伊沢氏に養はれて離縁せられ、此に始て家を成した。伊沢氏の例を以て言へば、即ち「又分家」である。
 是故にわたくしは竊(ひそか)に謂(おも)ふ。彼生祠記(せいしき)、本末記、遺言録の三書は、或は伝へて瑞長の家にあつたのではなからうか。初代全安がこれを二世全安に伝へなかつたのは、これがためではなからうか。
 此推測にして誤らぬならば、そこにかう云ふポツシビリテエが生ずる。即ち瑞長の裔は今猶何処(いづく)にか存続してゐて、三種の佚書もそこに埋伏してゐると云ふ場合である。わたくしは初に宗家の裔鑑三郎さんを尋ね得て、次に「又分家」の裔二世全安さんを尋ね得た。そして二家は曾て相識らなかつたのである。此より類推すれば、其中間なる分家の裔も亦、鑑三郎にも識られず、二世全安にも識られずして、何処にか現存してゐはすまいか。
 京水と其近戚遠族との事は一応此に終る。わたくしは此より下(しも)に伊沢氏に縁故ある家々に於ける、此年天保七年の出来事二三を記す。
 宝素小島春庵は前年天保六年に奥詰に進められ、此年の暮に法眼に叙せられた。是が其一である。
 阿部家では此年十二月二十五日に正寧(まさやす)が致仕し、正弘が十万石の福山藩主となつた。是が其二である。
 わたくしは此に天保丙申の記事を終らむとして、端(はし)なく近藤俊吾さんの書を獲た。そして榛軒の嘗て催した尚歯会が此年に於てせられたことを知つた。尚歯会の事は、わたくしも夙(はや)く知つてゐたが、未だその何れの年に繋くべきものなるかを知らなかつたのである。

     その二百四十二

 伊沢氏の尚歯会は蘭軒が曾て催さむと欲して果さずに歿したものである。既にして蘭軒の賓客中に加ふべかりし狩谷□斎も亦歿した。それゆゑ榛軒は此年天保丙申の九月十日に急にこれを催して亡父の志を遂げたのである。
 此日に丸山の榛軒の家に来り会した老人の誰々なるかは、今知ることが出来ない。初めわたくしは只松崎慊堂(かうだう)が客中にあつただらうと云ふことを推測してゐた。それは慊堂の会に赴くことを約した書が文淵堂の花天月地(くわてんげつち)中に収められてゐるからである。此慊堂の書は会に先つこと五日に裁したものである。想ふに慊堂は必ずや約を履(ふ)んで席に列したことであらう。
 既に云つた如く、此会の年月日は近藤氏の教ふる所である。そしてわたくしは啻(たゞ)に此に由つて会の年月日を知ることを得たのみではなく、又客中に館柳湾(たてりうわん)のあつたのを知ることを得た。
 近藤氏の抄して寄せたのは、「柳湾漁唱詩第三集」である。「伊沢朴甫宅尚歯会。故友伊沢蘭軒嘗擬招親交中高年者、設尚歯之宴、未果而歿、狩谷□斎在其数中、而亦尋物故矣、今茲天保丙申秋九月十日、賢嗣朴甫設宴召集、蓋終其先志也、余亦与之、座間賦一律、似朴甫及□斎後之少卿。雨晴楓葉菊花天。招集高堂開綺筵。尚歯漫誇頭似雪。延齢共酌酒如泉。新詩吟就徒為爾。旧事談来已惘然。不見当時盧与狄。衰顔慚対両青年。自註、延齢備州酒名、是日席上侑之、盧狄謂蘭軒□斎、二人皆少於余十数歳。」両青年は蘭軒の子信厚(しんこう)、□斎の子懐之で、懐之は主人信厚を助けて客をもてなしたことであらう。
 柳湾が蘭軒と往来したことは、此詩引を除いても尚証跡がある。某(それ)の年正月十六日に、柳湾は蘭軒等と雑司谷の十介園(かいゑん)と云ふ所に遊んで梅を看た。其時蘭軒は柳湾に謂つた。「宅の庭には雑木が多いが、あれを皆伐らせて梅を栽ゑようかとおもふ」と云つた。翌日雪中に柳湾は詩を賦して蘭軒に寄せた。徳(めぐむ)さんの蔵する詩箋は下(しも)の如きものである。「正月十六日、伊沢先生及諸子同遊雑谷十介園、園中野梅万余株、花盛開、鬮韻得八庚。十里城西試聴鶯。村園花満玉瑩々。共言今歳歓遊好。先卜梅郊爛縵晴。又得三肴。百樹梅花照暮郊。花間吟酔倒長匏。村翁也解留連意。折贈黄昏月一梢。翌日大雪、戯呈伊沢先生、又用前韻。料峭春寒歇囀鶯。満林飛雪鎖晶瑩。天公為掩仙遊跡。不使俗人躡嫩晴。昨日尋梅酔晴郊。今朝対雪酌寒匏。満園雑樹君休伐。留看瑤花綴万梢。(自註)先生謂余曰、欲悉伐家園雑樹、而植梅花。館機再拝具草、笑政。」引首印(いんしゆいん)は「石香斎」、名の下(しも)の二印は「館機」、「梅花深処」である。尚歯会に列した年、柳湾は七十五歳であつた。慊堂遺文の二序を閲(けみ)するに漁唱詩の初集二集は当時既に刊せられてゐた。
 わたくしは此より尚歯会の今一人の客松崎慊堂の事を言はうとおもふ。

     その二百四十三

 わたくしは此年天保丙申九月十日に榛軒の催した尚歯会の事を言つて、其客の一人たる館柳湾の詩を挙げた。当日の客は幾人であつたか知らぬが、わたくしの知る限を以てすれば、柳湾を除非して只一の松崎慊堂(かうだう)あるのみである。
 わたくしは未だ慊堂の此会に赴いた確証を得ない。わたくしは唯会に先つこと五日に、慊堂がこれに赴くことを約したのを知つてゐるのみである。そして慊堂が必ず此約を履(ふ)んだだらうと推するのである。
 わたくしは先づ慊堂の書を花天月地(くわてんげつち)中に得てこれを読み、後に近藤氏に由つて柳湾の詩を見た。会日の「重陽明日」即ち九月十日であるべきことは、慊堂が既に云つてゐる。しかしその丙申九月十日なることは、柳湾が独りこれを言つてゐるのである。啻(たゞ)に然るのみならず、厳密に言へば、九月十日を期した会が果して期の如くに行れたと云ふことも、又柳湾が独り伝へてゐるのである。
 慊堂の書に拠るに、初め榛軒は慊堂を請じ、慊堂は略(ほゞ)これを諾した。唯或は雨ふらむことを慮(おもんぱか)つて云々した。榛軒は肩輿(けんよ)を以て迎へようとした。是に於て慊堂は書を裁して肩輿を辞したのである。是がわたくしの目睹した唯一の慊堂の尺牘(せきどく)である。
「手教拝読。秋冷盈至之処、益御清穆起居奉賀候。然者(しかれば)兼而御話御坐候老人会、弥(いよ/\)重陽明日御催に付、拙子も罷出候様先日令弟御入之所、不在に付不得拝答。此間小島子来臨、因而(よつて)御答相頼、乍然(さりながら)雨天なれば老人には定而(さだめて)迷惑可仕と可有御坐心得に而(て)、雨天の事申上候。雨天に而皆々被参候事に御坐候得ば曾而(かつて)不苦、草鞋(さうあい)布韈(ふべつ)尤妙に御坐候。遠方竹輿など被下候には及不申、此儀は堅御断申上候。但止宿之事は此節奈何(いかゞ)可有御坐、此は臨時之事と奉存候。此段□□奉答仕候。頓首。九月端五。松崎慊堂、伊沢長安様。尚以竹輿之事はくれ/″\も御断申上候也。」
「令弟」は柏軒である。榛軒は初め慊堂を請ぜむがために、弟を羽沢(はねざは)へ遣つたのである。慊堂の初の答を榛軒に取り次いだ「小島子」は宝素か抱沖か。「老人には定而迷惑可仕と可有御坐心得」は稍解し難い。しかし末の「止宿之事は此節奈何可有御坐」と対照して其義を暁(さと)ることが出来る。老人は多分迷惑するだらうとおもふ懸念より云々したと謂ふのである。推するに此「可有御坐」は慊堂特有の語ではなからうか。
 慊堂の書は紅色の巻紙に写してある。字体勁にして潤である。絶て老人の作る所に似ない。
 尚歯会の年、慊堂は六十六歳であつた。
 わたくしは未だ慊堂日暦の丙申の部を閲することを得ない。伊沢氏尚歯会に来集した館松崎以外の老人の誰々なるかが、或は日暦中に見出されはせぬだらうか。わたくしはそこに一縷の望を繋いで置く。
 此年伊沢氏では榛軒三十三、妻志保三十七、長女柏(かえ)二つ、柏軒二十七、妻俊(しゆん)も同じく二十七、蘭軒の遺女長二十三、蘭軒の姉正宗院六十六であつた。

     その二百四十四

 天保八年は蘭軒歿後第八年である。此年の元旦は、阿部家に於ては、新主正弘の襲封初度の元旦であつた。正弘は江戸邸に於て家臣に謁を賜ふこと例の如くであつたが、其間に少しく例に異なるものがあつて、家臣の視聴を驚かした。
 先例は藩主出でて席に就き、前列の重臣等の面(おもて)を見わたし、「めでたう」と一声呼ぶのであつた。然るに正弘は眸(まなじり)を放つて末班まで見わたし、「いづれもめでたう」と呼んだ。新に添加せられたのは、唯「いづれも」の一語のみであつた。しかし事々皆先例に遵(したが)ふ当時にあつては、此一語は能く藩士をして驚き且喜ばしめたさうである。想ふに榛軒も亦此挨拶を受けた一人であらう。是は松田道夫さんの語る所で、渡辺修二郎さんの「阿部正弘事蹟」に見えぬが故に書いて置く。伊勢守正弘は此時十九歳であつた。
 伊沢氏には此年特に記すべき事が少い。已むことなくんば夏季榛軒等が両国に遊んだ話がある。是は昔の柏(かえ)、今の曾能子(そのこ)刀自が三歳の時の事として記憶してゐるのである。
 川開の夕であつた。榛軒は友人門弟等を率(ゐ)て往いて遊んだ。其時門弟の一人が柏を負うて従つた。一行は茶屋青柳(あをやぎ)に入つて藝者小房等を呼んで飲んだ。
 一行の中に石川貞白がゐた。貞白は本姓磯野、名は元亮(もとあきら)、俗称勝五郎である。石川は家に帰つて妓の宴に侍したことを秘してゐた。
 翌日伊沢の乳母が柏を伴つて石川に往つた。忽ち柏が云つた。「をぢさん、きのふは面白うございましたね。かつつあんの前だがおやそかね。」
 何さんの前だが、おや、そかねと歌ふのは、当時柳橋の流行であつた。石川は頭を掻いて笑つた。「どうも内証事は出来ないものだ。」是が記事の一である。
 榛軒の三女久利(くり)は此年に生れたが、其月日を詳(つまびらか)にしない。久利は後幾(いくばく)もなくして世を早うする女(むすめ)である。是が記事の二である。
 渋江氏では此年抽斎が小島成斎に急就篇(きふじゆへん)を書せしめて上木した。抽斎の跋は七月に成つた。前漢書藝文志に徴するに、古の小学の書には、史※篇(しちうへん)[#「竹かんむり/「擂」の「雨」に代えて「亞」から下の横棒を取り、縦棒二本は下までつなげたものをあてる」、「籀」の本字、8巻-91-上-7]、蒼頡(さうきつ)七章、爰歴(ゑんれき)、博学七章、蒼頡篇、凡将篇(はんしやうへん)、急就篇、元尚篇、訓纂篇等があつた。急就篇は「元帝(漢)時、黄門令史游作」と云つてある。抽斎は古抄本に拠つて定本を作つたのである。其詳なることは経籍訪古志に見えてゐる。成斎は又「急就篇文字考」をも著した。わたくしは嘗て渋江氏板成斎正楷の急就篇を寓目したが、今其書が手許に無いから、跋文を引くことを得ない。此年抽斎三十三歳、成斎四十二歳であつた。
 森氏では枳園が此年禄を失つて江戸を去つた。枳園は祖母、母、妻勝、三歳の子養真約之(やうしんやくし)の四人を率(ゐ)て相模国に赴いた。
 塩田氏では此年楊庵の子良三(りやうさん)が生れた。父楊庵は三十一歳であつた。
 此年榛軒三十四、妻志保三十八、女(ぢよ)柏三つ、女久利一つ、柏軒と妻俊とは二十八、蘭軒の女長二十四、蘭軒の姉正宗院六十七であつた。

     その二百四十五

 天保九年は蘭軒歿後第九年である。わたくしは先づ先霊名録に拠つて蘭軒の妻益(ます)の姉の死を記せなくてはならない。飯田休庵の女(ぢよ)、杏庵の妻で、荏薇(じんび)問答の榛軒書中に所謂「叔母」である。此女子は四月四日に六十五歳で歿した。
 次に偶然伝へられてゐる柏軒剃髪の日は、此年八月朔(さく)であつた。良子刀自所蔵の文書中に一枚の詠草があつて、端に「天保九年八月朔日、信重祝髪之時所詠之歌」と題してある。披(ひら)いて観るに、前に旋頭歌一首がある。「初落髪而作歌一首。努釈迦之教学□曾流仁波非黒髪者速須佐之男命習□(ゆめさかのをしへまなびてそるにはあらずくろかみははやすさのをのみことならひて)。」後に三十一字の歌三首がある。「尚方術而作歌三首。久之乃業唐之吉人之言真奈□其幸者須倍迦美爾能武(くしのわざからのえひとのことまなびそのさきはひはすべかみにのむ)。九度肱折□毛弥進阿波礼久須利師之上登奈良末久(こゝのたびひぢををりてもいやすゝみあはれくすりしのかみとならまく)。迦羅久邇之薬之業者習雖底日宇固加奴倭魂(からくにのくすりのわざはならへどもそこひうごかぬやまとだましひ)。」末に「伊沢磐安」と署してある。
 伊沢氏に於ては父兄皆詩を賦したのに、独り柏軒は歌を詠じた。そして其歌は倭魂を詠じ、皇国を漢土の上に置き、仏教を排した作である。是は後に説くべき此人の敬神と併せ考ふべきである。
 次に渡辺氏の阿部正弘事蹟中此年の下(もと)に榛軒の名が見えてゐる。「天保九年九月朔日、(正弘)奏者番を命ぜらる。是を就職の始とす。(中略。)此頃頭瘡を病み、家居して療養すること四十余日に至る。一日医師等其臥床を他室に移さんとし、誤りて其頭に触る。正弘覚えず嗚呼痛しと叫ぶ。医師等驚き怖れて謂ふ。平常寛仁大度の主公と雖も、今日は必ず憤怒を発せらるゝならむと。退きて罪を待つ。正弘医長伊沢長安を召し曰く。予今誤りて痛と叫びしも、実は痛みたるにあらず。顧ふに彼必ず憂心あるべし。汝能く告げて安意せしむべしと。既にして又独語して曰く。平生自ら戒めて斯る事なからしめむとす。今日は事意外に出づ。図らず此の如き語を発したりと。伊沢等其の他人の過失を咎めずして自ら反省したるを見て、転感涙に咽びたり。」是に由つて観るに、榛軒長安の地位は衆医の上にあつたらしい。
 森氏で枳園が祖母を浦賀に失つたのは此年の事かとおもはれる。其祖母の遺骨の事に関して一条の奇談がある。枳園は相模国に逃れた後、時々微行して江戸に入り、伊沢氏若くは渋江氏に舎(やど)つた。祖母の死んだ時は、遺骨を奉じて江戸に来り、榛軒を訪うて由を告げた。榛軒は金を貽(おく)つて□葬(れんさう)の資となした。枳園は急需あるがために其金を費し、又遺骨を奉じて浦賀に帰つた。
 月を踰(こ)えて枳園は再び遺骨を奉じて入府し、又榛軒の金を受け、又これを他の費途に充(あ)て、又遺骨を奉じて浦賀に帰つた。
 此の如くすること三たびに及んだので、榛軒一策を定め、自ら金を懐にして家を出で、枳園をして遺骨を奉じて随ひ行かしめた。そして遺骨を目白の寺に葬つたさうである。目白の寺とは恐くは音羽洞雲寺であらう。枳園の祖父伏牛親徳(ふくぎうしんとく)の墓も亦洞雲寺にあつたからである。洞雲寺は池袋丸山に徙されて現存してゐる。
 洞雲寺の森氏の塋域に、天保九年戊戌に歿した「清光院繁室貞昌大姉」の墓がある。わたくしは此が枳園の祖母であらうとおもふ。
 此年榛軒三十五、妻志保三十九、女柏四つ、同久利二つ、柏軒と妻俊とは二十九、蘭軒の女長二十五、蘭軒の姉正宗院六十八であつた。

     その二百四十六

 天保十年は蘭軒歿後第十年である。五月二十八日に、蘭軒の父にして榛軒の祖父なる信階(のぶしな)の三十三回忌が営まれたらしい。徳(めぐむ)さんの蔵する一枚の色紙がある。「伊沢ぬし祖父君の三十三年の忌に、あひしれる人々をつどへ給へるをりに、おのれもかずまへられければ。三世かけてむつびあふまでおいせずばむかしをしのぶけふにあはめや。こは祖父君よりしてかたみに心へだてぬ中なればなりけり。定良。」是は蘭軒の詩中に見えてゐる木村駿卿(しゆんけい)である。此人は弘化三年に歿したが、未だ其生年を詳(つまびらか)にしない。
 七月二十日に榛軒の次女久利が三歳にして歿した。法諡(はふし)示幻禅童女(しげんぜんどうによ)である。
 九月二十七日に蘭軒の門人山田椿町(ちんてい)が蘭軒医話を繕写してこれに序した。
 わたくしは前に塩田良三(りやうさん)の生れたことを記したから、此に柏軒門下にして共に現存してゐる松田道夫(だうふ)の此年に生れたことを併記して置く。後に叙すべき柏軒の事蹟は、二氏の談話に負ふ所のものが多い。
 此年榛軒三十六、妻四十、女柏五つ、柏軒と妻俊とが三十、蘭軒の女長二十六、蘭軒の姉正宗院六十九であつた。
 天保十一年は蘭軒歿後第十一年である。榛軒に「天保十一庚子元旦」の七絶がある。今其辞(ことば)を略する。
 三月に榛軒が古文孝経を伊勢の宮崎文庫に納めた。徳さんは其領券を蔵してゐる。「謹領古文孝経孔子伝一冊。右弘安二年古写本影□。阿部賢侯蔵板。賢侯跋而梓行。今茲献納大神宮文庫。伏惟。崇学尚古之余。施及斯挙。豈無洪休神明維享。書生等亦倶拝賜。不勝欣戴之至。遵例標録。以垂千祀矣。是為券。天保十一年庚子三月。豊宮崎文庫書生。伊沢長安雅伯。」
 わたくしは榛軒の妻志保が始て柏に仮名文字を授けたのは此頃であつたかと謂(おも)ふ。女中等は志保の子を教ふることの厳なるを見て、「お嬢様はおかはいさうだ」と云つたさうである。柏の最もうれしかつた事として後年に至るまで記憶してゐるのは、此頃大久保主水(もんど)の店から美しい菓子を贈られたことである。大久保氏は前に云つた如く蘭軒の祖父信政(のぶまさ)の妻の里方であつた。
 阿部家では此年五月十九日に正弘が寺社奉行見習にせられ、十一月八日に寺社奉行にせられた。
 市野氏では此年光寿が歿して光徳が後を襲いだ。又迷庵の弟光忠が歿したので、その創立した分家は光長の世となつた。
 小島成斎は此年貧困のために蔵書を売つた。「余今年四十五、貧窶尤甚、多年研究経籍、一旦沽却、以為養家之資、因賦一絶。研経精密計家疎。不解人生有与無。堪笑如今貧且窶。初知四十五年愚。」
 此年榛軒三十七、妻志保四十一、女柏六つ、柏軒と妻俊とは三十一、長二十七、正宗院七十であつた。
 天保十二年、蘭軒歿後第十二年である。此年には榛軒詩存中年号干支ある作が三首あつて、皆七絶である。其一。「天保十二辛丑小天台暁行口占。不知身在百花中。袖袂薫々一路風。柳処桜辺天欲曙。白模糊接碧濛朧。」其二と三とは「天保十二辛丑途上口占」と題してある。今これを略する。
 柏軒の長女洲(しう)は此年に生れた。是より先長男棠助(たうすけ)が生れたが、其年月を詳にしない。並に狩谷氏俊(しゆん)の出である。
 池田氏では此年八月八日に一女が歿した。二世全安さんの蔵する過去帳に、「真法童女、俗名於芳」と書してある。或は参正池田家譜の俶(よし)と同人ではなからうか。
 此年榛軒三十八、妻志保四十二、女柏七つ、柏軒と妻俊とは三十二、女洲一つ、蘭軒の女長二十八、蘭軒の姉正宗院七十一であつた。

     その二百四十七

 天保十三年は蘭軒歿後第十三年である。此秋小島春庵宝素が京都に往つて、歳の暮に帰つて来た。榛軒の妻志保はこれに生父の誰なるかを討(たづ)ねむことを請うたが、此探討には何の効果も無かつた。事は上(かみ)に詳記してある。此年榛軒三十九、妻志保四十三、女柏八つ、柏軒と妻俊とが三十三、これにも既に棠助と洲との一男一女があつて、洲は二つであつた。長は二十九、正宗院は七十二であつた。
 天保十四年は蘭軒歿後第十四年である。秋冬の交(かう)に、主家阿部家と伊沢氏とに賀すべき事があつた。彼は閏(じゆん)九月十一日に正弘(まさひろ)が老中に列せられたことである。二十五歳の老中であつた。此は十月に榛軒が躋寿館の講師にせられたことである。館の講筵が公開せられて、陪臣医、町医の往いて聴くことを得るに至つた時に、此任命を見たのである。榛軒は四十歳であつた。
 十一月二十八日に、榛軒は祖父隆升軒信階(りうしようけんのぶしな)筮仕(ぜいし)の記念会を催した。信階が福山侯に仕へてより五十年になつてゐたのである。徳(めぐむ)さんの蔵する所の木村定良(さだよし)の文を此に録する。
「福山の君につかへたまへる伊沢ぬし、くすしのわざにたけたまへれば、こたび医学館にて、其すぢのふみを講説すべきよし、おほやけのおほせごとかゞふりたまへるは、いと/\めでたきことになむありける。さるはおほぢの君福山の殿にめされ給ひてより、五十年を経ぬと※[#変体仮名ぞ、8巻-96-下-1]。ことし十一月廿八日はその日とて、人々をつどへていにしへをしのび、はた今もかく其わざのさかえ行ことをよろこぼひて、さかほがひせる時、おのれも祖父君よりして、父君今のあるじまで、心へだてぬおもふどちなればとて、かずまへられたれば、たゝへまゐらするうた。家のかぜふきつたへつゝ三代までも世に名高かるわざぞくすしき。定良。」
 徳さんの蔵する文書に徴するに、信階筮仕の日は十一月二十八日ではなくて、十月二十八日であつたらしい。其一。「以手紙致啓上候。然者懸御目度義有之候間、明廿八日四時留守居役方え御出可被成候。以上。十月廿七日。阿部伊勢守内海塩庄兵衛、関平次右衛門。伊沢玄庵様。」其二。「覚。伊沢玄庵。右百三十石被下置、表御医師本科被召出候。但物成渡方之儀、年々御家中並之通被成下候。右之通被申渡候、以上。十月廿七日。」記念会は或は榛軒が講師を命ぜられてから発意(ほつい)して催したものなるが故に、一箇月を繰り下げたのではなからうか。
 榛軒詩存を検するに、「天保十四癸卯歳晩偶成」の七絶、「天保十四癸卯除夜」の七律各(おの/\)一がある。今除夜の七律を此に抄する。「老駭年光容易疾。把觴翦燭又迎春。三世垂箴睦親族。一生守拙養天真。方今才士無非譎。自古達人多是貧。依旧増加書酒債。先生漫触内君嗔。」
 頼氏では此年山陽の母梅□(ばいし)が八十四歳で歿した。山陽に遅るること十一年であつた。関藤藤陰(せきとうとういん)の石川文兵衛が福山藩に仕へたのも、亦此年十一月五日である。
 わたくしは前(さき)に藤陰の身上に関する問題を提起した。藤陰は本(もと)関藤氏であつた。その石川氏を冒したのは、文化九年六歳の時である。藤陰の石川氏を称することは此より後明治の初に至つた。その山陽門人たる時に草した詩文にも、亦石川成章の自署を留めてゐる。成章は藤陰の名である。然るに山陽病歿の前後に頼氏に寓してゐて、山陽の命を受けて其著述を校訂し、山陽の易簀(えきさく)するに及んで、後事を経営した関五郎と云ふものがある。藤陰と此関五郎とは同一人であるらしい。只その同一人たる確証が無い。且藤陰と関五郎とが果して同一人ならば、殆六十年の久しき間石川氏を称してゐた藤陰が、何故に其中間に於て忽ち関氏を称し、忽ち又石川氏に復したか。一説に関五郎は関氏五郎に非ずして、石川氏関五郎であると云ふ。しかし士人たる関五郎が何故に自署に其氏を省いたか。是が問題の大要である。
 わたくしは今藤陰解褐(かいかつ)の事を記するに当つて、此問題を再検しようとおもふ。それは藤陰の孫国助さんが頃日(このごろ)其蔵儲の秘を発(ひら)いてわたくしに示したからである。

     その二百四十八

 文化の初より明治の初に至るまで、石川氏を称してゐた藤陰成章(とういんせいしやう)と、頼山陽の易簀前後に水西荘に寓してゐた関五郎とが、同一人であると云ふことには、初より大なるプロバビリテエがある。しかし証拠が無い。矧(まし)てや確証とすべきものは無い。又試みに石川成章は何故に、何時より何時に至るまで関五郎と称したかと問はむに、何人もこれに答ふることが出来ない。
 此時に当つて藤陰の孫国助さんが所蔵の文書を写してわたくしに寄示したのは、実に感謝すべき事である。文書は書牘(しよどく)二通で、其他に封筒一枚と書籍一巻とがある。わたくしは左に逐次にこれを録することとする。
 第一の書牘の全文は下(しも)の如くである。「一昨夜者(は)大酔、久々にて散鬱候(うつをさんじそろ)。偖(さて)三木三郎君事、昼後は日々あとくり有之候様、公より御加鞭被下候様奉希候。後室よりは被申候ても不聞者に御坐候。此義乍御面倒奉煩候。不一。三郎。五郎様。」
 此書はいかに看るべきであらうか。単に謄本のみに就いて判断し得らるべきものを此に註する。三郎は児玉旗山(きざん)、五郎は関五郎で、書は旗山の関五郎に与へたものである。「あとくり」は復習である。旗山は醇(じゆん)の午後に復習せざるを憂へて、関五郎にこれを督励せむことを請うた。何故に午前の受業を説かずして、午後の復習を説いてゐるか。午前は旗山が自ら授読してゐるからである。
 書には月日が無い。しかし右の判断にして誤らぬ限は、旗山のこれを裁した月日は略(ほゞ)知ることが出来る。山陽が歿して五十日を経た後、未亡人里恵は醇を旗山の家に通学せしめた。書は此日より後に作られた。即ち天保三年十一月十四日より後に作られた。次で里恵は同年閏(じゆん)十一月二十五日に書を広江秋水夫妻に与へて、「せつかく此せつ(児玉方へ)遣候(はむ)と存候」と云つた。里恵にして期の如く醇を旗山の家に託したとすると、書は閏十一月の末より前に作られた。
 此書の関藤氏に伝はつてゐるのは、明に関五郎の藤陰たるべきプロバビリテエを加ふるものである。
 わたくしは又特に旗山が「三郎」と自署して、藤陰を呼ぶに「五郎」を以てしたのに注目する。五郎は既に山陽の口にする所にして、又旗山の筆にする所である。五郎は恐くは二字の通称であらう。関五郎は関氏五郎であらう。縦(たと)ひ師が弟子を呼ぶとしても、又朋友が相呼ぶとしても、何五郎の称を省いて五郎となすことはなささうである。
 第二の書牘は頼杏坪(らいきやうへい)の関五郎に与へたもので、其文は極て短く、口上書と称すべき際(きは)のものである。「何ぞ御贐(おんはなむけ)に差上度候へ共有合不申、此鄙著二冊致呈上候。御粲留(ごさんりう)被成可被下候。八月十一日。杏坪。関五郎様。」
 此書には国助さんの考証がある。「此手紙は天保四年頼塾を去り帰省、九月江戸昌平黌に遊学する前、広島に赴ける時の事と推定す」と云ふのである。仮に関五郎を以て藤陰とするときは、わたくしは此考証に異議を挾むべき所以を見ない。
 わたくしは此書の関藤氏に伝はつてゐるを見て、藤陰の関五郎たるプロバビリテエが更に加はること一層なるを思ふ。
 書は猶わたくしに一の新事実を教へる。それは関五郎が若し藤陰ならば、藤陰は京都を離れた後にも暫く此称を持続してゐたと云ふことである。

     その二百四十九

 わたくしは上(かみ)に関藤国助さんの所蔵の書牘二通を挙げた。それは児玉旗山と頼杏坪とが関五郎に与へたものであつた。そしてわたくしは此を以て関五郎の藤陰成章たるプロバビリテエの加はつたことを承認した。しかし此を以て関五郎の藤陰たる証拠とせむには、少しく物足らぬ心地がする。況や此を以て確証とすべきではあるまい。何故と云ふに、人の関五郎に与へた書が関藤氏の家に伝はつてゐると云ふだけの事実は明であるが、藤陰が同門の人の受けた簡牘を蔵してゐたと云ふことも考へられぬことは無いからである。わたくしは只関五郎が藤陰であるらしいと云ふプロバビリテエの、疇昔に比して分明に其大さを加へたことを認むるに過ぎない。
 わたくしは猶望を将来に属する。わたくしの求むる所の証拠は、縦(たと)ひ今藤陰の裔孫の手に無くとも、他日何処からか現れて来はすまいかと云ふのである。証拠とは奈何(いか)なるものであるか。関五郎の藤陰なることが、藤陰自己若くは其友人の口若くは筆に藉(よ)つて説かれてゐるものを謂ふ。わたくしは猶進んでかう云ふことが知りたい。当時の石川成章が何等かの故があつて、某(それ)の年某の月日に関氏を称し、又五郎と称し、次で某の年某の月日に元の石川氏に復したと云ふことが知りたい。
 国助さんのわたくしに示した所のものは猶二種ある。それは上の書牘二通に比すれば価値の少いものではあるが、わたくしはこれを下(しも)に記して置く。
 其一は一枚の空(くう)封筒である。「京寺町本能寺前大和や喜三郎様御内石川関五郎様。状ちん相済。秋山伊豆。」此秋山伊豆は藤陰に文章の添削を乞うたことのある人ださうである。
 わたくしは上(かみ)に児玉旗山の書を見て、重て関の氏にして、五郎の二字の通称なるべきことを言つた。今此封筒はこれが反証に充(あ)つべきが如くである。しかしわたくしは此の如き反証を認むることを得ない。わたくしはかう判断する。石川成章はある時忽ち関氏五郎と名告つた。秋山伊豆は相識の間ではあつたが、山陽旗山の如く親しくなかつたので、関の氏なるを知らず、錯つて「関五郎」と云ふ三字の通称となした。秋山は恐くは後に続出した三字通称説の元祖であらうと。
 今一つは頼山陽の「南北朝論」である。此書には篠崎小竹の跋があつて、「天保四年癸巳八月、小竹散人篠崎弼書」と署してある。そして此跋は愈(いよ/\)人をして藤陰の関五郎なるべきを想はしめる。「子成喀血。自知不起。昼夜※[#「てへん+參」、8巻-101-上-7]筆。綴記其政記十数巻。衆医沮不聴。君達侍奉。随綴随写。子成喜曰。此子助成吾業者矣。因授此稿。稿在君達。乃伝道之衣鉢。」此数句は、試に嘗て引いた山陽の未亡人里恵の書牘を取つて対比するに、殆ど人に迫つて成章君達(せいしやうくんたつ)の関五郎なるべきを認めざること能はざらしめむとする。里恵の書中に見えてゐる関五郎の所為と、小竹の跋文中に見えてゐる君達の所為とは、殆ど別人の事とは見做されぬのである。
 わたくしは前(さき)に云つた。政記校訂の事を以て関五郎と藤陰とを結び附くる糸とするは、余りに薄弱であると云つた。小竹の此跋は此糸をして太からしめ強からしむるもので、是も亦他の方面より関五郎が藤陰であるらしいと云ふプロバビリテエを加ふるものとせざることを得ない。其価値は固より彼空封筒の比では無い。
 以上記し畢(をは)つた時、浜野氏は江木鰐水(えぎがくすゐ)の日記を抄して寄示した。「天保四年客中日記。四月十六日、石川五郎伴頼三木三郎及高槻慶次郎来。午後余与五郎。訪後藤世張。不在。遂航遊天保山。及晩帰。又遊新町帰。」五郎は果して石川氏であつた、藤陰であつた。鰐水は此に新なる称と故(もと)の氏とを併せ用ゐたのである。わたくしは遂に一の証拠を得た。

     その二百五十

 わたくしは此年天保癸卯に関藤藤陰が解褐(かいかつ)したことを記して、藤陰と関五郎との同異の問題を覆検した。そして二人の同一人物なる証拠を江木鰐水の日記中に獲た。
 此年狩谷氏では懐之(くわいし)が四十歳になつて、後に其養嗣子となるべき三右衛門矩之(くし)が斎藤氏の家に生れた。
 此年榛軒は既に云つた如く四十歳になつた。歳晩偶成の絶句は「四十余年一場夢」を以て起つてゐるが、余の字は全く余つてゐる。妻志保は四十四、女(ぢよ)柏(かえ)は九つであつた。柏軒夫妻は共に三十四、女洲(しう)三つであつた。長は三十、正宗院は七十三になつた。
 弘化元年は蘭軒歿後十五年である。榛軒に「天保十五年甲辰元旦」の七律がある。「暁拝新年謁我公。帰来始見旭光紅。梅花千点玉皆琢。黄鳥一声簧未工。践事唯期伝世業。虚名却怕墜家風。坐賓尊酒両盈満。尽在君恩優渥中。」
 正月五日に榛軒兄弟は蘭門の人々と共に本庄村に遊んだ。榛軒詩存に五古一篇がある。「天保十五年甲辰正月五日、同渋江六柳、小野抱経、石川二陶曁家弟柏軒、遊本庄村、恒吉、道悦二童跟随焉、用靖節斜川韻。潜雨膏潤物。及晨俄爾休。幸有旧日約。相伴作春遊。童子疲遠道。買舟泝平流。風加堤上柳。水暖渚辺鴎。停棹拝関廟。散策歩草丘。傾尽瓢中酒。礼数罷献酬。酔歓良無極。山境亦同不。心交如我輩。四海皆良儔。縁是生太平。未知干戈憂。一生如此酔。名利又何求。」 本庄村とは何処か、又其地に関帝廟のありやなしやも、わたくしは未だ考へない。同遊者の渋江六柳(りくりう)は抽斎である。小野抱経(はうけい)は富穀(ふこく)である。抱経と号したには笑ふべき来歴があるが、事の褻(せつ)に亘るを忌んで此に記さない。石川二陶(たう)は貞白(ていはく)であらう。二童中恒吉は未詳であるが、道悦は富穀の子で、此時九歳であつた。陶淵明の遊斜川詩は「開歳□五日、吾生行帰休」云々を以て起る。晋安帝の隆安五年辛丑正月五日の作である。本荘村の遊が偶(たま/\)正月五日であつたので、榛軒は其韻を用ゐたのであらう。辛丑は淵明三十七歳の時であつた。
 九月十四日に榛軒は中川に遊んだ。「天保十五甲辰季秋十四日、与諸子同遊中川七首」の詩が詩存中にある。其体は七絶である。暖い小春日和であつた。「風光恰是小陽春。」お茶の水から舟に乗つて出た。「茗水渓頭買小船。」吾妻森(あづまのもり)で陸に上つて蓑笠を買つた。「吾妻祠畔境尤幽。出艇間行野塢頭。筍笠莎蓑村店買。先生将学釣魚流。」網を打たせ、獲(えもの)を□(さかな)にして飲んだ。「漁師撤網篁師割。」逆井(さかさゐ)で門人安分(あんふん)某の家に立ち寄つて、里芋の煮染を菜にして飯を食つた。恒吉等は庭の柿を取つて食つた。「過逆井安分生家」と註した一首に、「芋魁香飯当鶏黍」、「童子争把紅柿実」の句がある。以上わたくしは単に事実を徴すべき句を摘んだ。
 榛軒は此中川の遊に先つて、多摩川へ鮎漁に往つたらしい。又中川の遊の後に、病に臥したらしい。詩存に「病中偶成」の七古があつて、其初六句にかう云つてある。「玉川香魚中川鯉。罟風網雨得佳期。両日勝遊協素願。報酬併算酒千巵。如何天稟蒲柳質。風寒相襲似兵師。」推するに病は感冒であつただらう。
 此年柏軒の次女国(くに)が生れた。後に狩谷矩之に嫁する女(むすめ)である。
 池田氏では此年京水の五男直吉が歿した。二世全安さんの蔵する過去帳に「六月十一日、本源院真直居士、俗名直吉」と記してある。
 此年榛軒四十一、妻志保四十五、女柏十、柏軒及妻俊三十五、女洲四つ、国一つ、長三十一、正宗院七十四であつた。

     その二百五十一

 弘化二年は蘭軒歿後第十六年である。榛軒に元旦の作があつて、詩存中に見えてゐる。「弘化二乙巳元旦偶成。随例今朝祭恵方。団欒尽酔幾巡觴。僕歓婢笑皆愚樸。此是儂家大吉祥。」
 三月十七日に蘭軒第十七回忌の法会が営まれた。真野陶後(まのたうご)の句がある。「蘭軒先生十七回忌。花の下に酔うて笑ふを手向哉。」陶後頼寛(よりひろ)は屡改称した人である。群蔵、仲介(なかすけ)、幸次郎、佐次兵衛と三たびまで改めたのである。其孫幸作さんの蔵する文書に徴するに、陶後は安永七年八月十三日に阿部伊勢守正倫(まさとも)の家臣竹亭頼恭(ちくていよりゆき)の嫡男として生れた。「寛政六年三月九日、非常之節御寄場に差出。七年二月九日、御供番不足之場に被召出、二人扶持被下置。九年十二月廿三日、御宛介十二石被成下。寛政十一年十二月十七日、御簾番下馬纏被仰付。享和元年六月廿八日、御広間番被仰付。文化元年七月十三日、罷出候而罷帰不申、行衛不相知。(以上正倫代。)文化六年八月十六日、帰住被差許。七年十月五日、御供番無足之場に御雇形被召出、二人扶持被成下。文化九年五月七日、佐竹右京大夫様御家来小倉亘妹縁談願之通被仰付。十年十二月十七日、十二石御直し被成下。十一年九月十三日、御簾番下馬纏兼被仰付。十四年四月十二日父群左衛門(頼恭)病死、六月五日、亡父跡式無相違被成下、御広間番被仰付。(以上正精代。)文政十年六月廿八日、大手勤番被仰付。七月十七日、大手御帳面調被仰付。(以上正寧代。)天保九年閏四月廿八日、大手勤番加番面番被仰付。六月十一日、大手勤番水之手被仰付。天保十三年六月廿七日、上下格大殿様(正寧)附奥勤被仰付。(以上正弘代。)」蘭軒第十七回忌の時は、陶後は六十八歳で、大殿(おほとの)正寧附上下格(まさやすづきかみしもかく)奥勤であつた。
 小島氏では此年十月十三日に、宝素の子春沂(しゆんき)が躋寿館の素読の師を命ぜられた。
 此年寿阿弥(じゆあみ)が七十七の寿宴を催した。蘭軒の歿後に、寿阿弥は毎月十七日に伊沢氏を訪うて読経した。それ故榛軒は寿宴の配物(くばりもの)として袱紗数百枚を寄附した。袱紗は村片相覧(むらかたあうみ)に亀を画かせ、寿阿弥をして歌を題せしめたものであつた。書画は白綸子に写させ、それに緋綸子の裏を著けた。
 頼氏では此年山陽の女(ぢよ)陽(やう)が十六歳で早世した。跡には復(ふく)と醇(じゆん)との二子が遺つたのである。
 此年榛軒四十二、妻志保四十六、女柏十一、柏軒及妻俊三十六、女洲五つ、国二つ、蘭軒の女長三十二、蘭軒の姉正宗院七十五であつた。
 弘化三年は蘭軒歿後第十七年である。此丙午の歳には伊沢氏に事の記すべきものが無い。只曾能子刀自がわたくしにかう云ふ事を語つた。「十一か十二になつた頃の事でございました。わたくしは丸山の宅の縁におもちやを出して遊んでゐて、どうかしてそれを置いたまゝ奥にはいりますと、跡へ内弟子の中の若い人達が出て来て、わたくしのおもちやを持つて遊びます。その賑やかな声を聞いて、わたくしが縁に出ますと、弟子達は皆逃げてしまひます。わたくしは本意(ほい)なく思つて、或時父に愬(うつた)へました。すると父はかう申しました。それは、お前、喜ばなくてはならない事だ、柏(かえ)ちやんのやうな小い子を、門人が師匠の子として敬つて、遠慮して引き下るのだ。お前はいつまでも今のやうに、門人に遠慮をさせて育たなくてはならないと申しました。」
 此年榛軒四十三、妻志保四十七、女柏十二、柏軒及妻俊三十七、女洲六つ、国三つ、其他長は三十三、正宗院は七十六であつた。

     その二百五十二

 弘化四年は蘭軒歿後第十八年である。榛軒詩存に「丁未早春途上詠所見」の七絶と、「丁未上元後一日、次豆日小集韻、兼似柏軒」の五律とがある。今其辞(ことば)を略す。
 六七月の交(かう)に榛軒は暇を賜つて函嶺(はこね)に遊んだ。徳(めぐむ)さんの蔵する所の「湘陽紀行」一巻がある。其書には年号もなく干支もないが、渋江保さんが此年の著だと云ふことを鑑定した。何故と云ふに、書中に須川隆白(すがはりうはく)の齢(よはひ)を二十歳としてある。須川は保の兄恒善(つねよし)よりは少(わか)きこと二歳であつた。其二十歳は丁未の歳となるのである。前(さき)にわたくしは蘭軒の長崎紀行の全文を載せたが、榛軒の此紀行は要を摘むに止める。彼は蘭軒の手定本であつたために割愛するに忍びなかつたが、此は草々筆を走らせて辞に詮次(せんじ)なく、且首尾全からぬために字句をいたはることを要せぬのである。
 六月「廿四日、晴、暑甚し。暁六時細君柏児(はくじ)を伴ひ、須川隆白二十歳、田中屋忠兵衛、僕吉蔵をしたがへ出立す。(中略。)中橋にて小憩し、(中略、)日野屋に立寄、(中略、)本芝にて肩輿を倩(やと)ひ、柏児と交互に乗る。(中略。)佐美津(さみづ)川崎屋にて昼食、酒旨魚鮮、風光朗敞、風涼最多。(中略。)鈴森(すゞがもり)にて少息す。炎熱可□(あぶるべし)。六郷を渡り、(中略、)生麦にて鮓を食し酒を飲む。家は左側(なり。)加奈川宿奈古屋に投宿す。妓四人来終夜喧噪す。婢徳の妓と同枕(せむこと)を抽斎に強ふる事(あり、)絶倒す。」括弧内の文字は読み易からしめむがために、わたくしが加へた。「中橋」は柏軒の家である。佐美津は鮫津である。曾能子刀自の言(こと)に従へば、奈古屋に舎(やど)つた此夜、妓を畏れて遁れ避けたものは、渋江抽斎、山田椿町(ちんてい)、須川隆白の三人であつた。此中須川は年甫(はじめ)て二十であつたから、羞恥のために独臥したのであらう。抽斎と椿庭とは平生謹厳を以て門人等に憚られてゐたのださうである。
「廿五日、陰晴相半(あひなかばす)。(中略。)柏軒、二陶、天宇(てんう)と別る。」弟柏軒、石川二陶、天宇の三人は送つて此に至り、始て別れ去つたのである。天宇は渋江保さんの言(こと)に拠るに、抽斎の別号ださうである。「程谷駅中より左に折れ、金沢道にかかる。肩輿二を倩ひ、三里半の山路屈曲高低を経歴す。左右瞿麦(なでしこ)百合の二花紅白粧点す。能見堂眺望不待言。樹陰涼爽可愛。立夫(りつふ)の教にて、町屋村入口にて初て柳を見る。相州中人家柳を栽るを忌む。自(おのづから)土地に少しと云ふ。」立夫は枳園の字(あざな)である。阿部家を逐はれて、当時尚相模国に住んでゐた。推するに微行して江戸に入り、榛軒の案内者として此に来てゐるのであらう。「瀬戸橋畔東屋(あづまや)酒楼にて飲す。(中略。)楼上風涼如水。微雨偶(たま/\)来り、風光頓(とんに)変り、水墨の画のごとし。隆白小柴の伯父を訪ふ。待つ間に一睡す。隆白帰。雨亦晴。又出て日荷(につか)上人を拝し、朝比奈切通の上にて憩ひ、崖間の清泉を掬し飲む。此辺野葛(のくず)多し。枝柄(えから)天神祠前を過ぐ。日欲暮、疲倦甚しく、(往いて詣ること能はざるが故に)遙拝す。雪下大沢専助旅店に投宿す。終夜濤声(たうせいあり)。不得眠。」一行は既に鎌倉に入つたのである。枝柄天神は荏柄天神に作るべきである。前日の記中よりわたくしの省略したのは、遠近種々の地まで送つて来た人名等であつたが、此日の記に至つては、駕籠賃がある。又酒店東屋の献立が頗る細かに書いてある。悉く写し出すことを欲せざる所以である。

     その二百五十三

 わたくしは弘化丁未の榛軒の旅を叙して、湘陽紀行六月二十五日の条に至つた。榛軒は此日鎌倉雪下に投宿したのであつた。
「廿六日、晴、風(かぜあり)、午時微過雨(びにくわうあり)。(中略)江島に到り、橘屋武兵衛酒店にて午餐を辨じ(中略)藤沢の宿に到る。」
「廿七日、晴。駅の出口にて立夫(りつふ)に別る。(中略。)小田原入口にて午餐す。(中略。)夕方宮下奈良屋に投宿す。」枳園は別れて僑居に帰つたのであらう。寿蔵碑に拠れば津久井県であらうか。函嶺の第一日である。
「廿八日、晴。塩(しほ)柏(かえ)を伴ひ、隆白吉蔵をしたがへ、木賀松坂屋寿平治寓宿の於久(おひさ)の病を診し、(中略、)一宿す。(中略。)隆白二僕は宮下に留守す。」榛軒は宮下に行李を置いて、木賀の病家を訪ひ、松坂屋に舎(やど)つた。函嶺の第二日である。
「廿九日、晴。午後木賀より帰る。」宮下に復(かへ)つたのである。函嶺の第三日である。
「晦日(つごもり)、晴。暑甚。隆白を伴ひ、底倉堂島(だうがしま)等遊行す。」函嶺の第四日である。
「七月朔日(ついたち)、晴。(中略。)蘆湯に行く。」函嶺の第五日である。
「二日、雨。(中略。)木賀古島久婦(こたうきうふ)の病を訪ふ。宿主松坂屋寿平治より蕎麦麪条(さうめん)を贈。」「宿主」と云ふより推すに、再び木賀に舎つたのであらう。「古島久婦」の四字は解し難い。前の「松坂屋寿平治寓宿の於久」と同じ人なることは明である。揣摩(しま)して言へば、画師村片相覧(むらかたあうみ)は古島と号した。其妻を久と云つた。久が病んで函嶺に来り浴してゐた。木賀の松坂屋は其旅寓である。しかし此推測の当れりや否やは、わたくしの能く保(はう)する限でない。函嶺の第六日である。
「三日、雨。(中略。)終日聴雨(あめをきく)、無聊頼(れうらいなし)。」木賀に留まつてゐたものか。函嶺の第七日である。
「四日、晴。山花(さんくわ)(山あぢさゐ)を折り、渓水にて茶を煮(霜の花)、墨形落雁(古□所贈(こたうのおくるところ))、並に香華燈燭を以て□翁を祭る。夕方盃を酌む。日野両老人、浦安二女、主人平治等也。」上(かみ)の両括弧は自註である。「霜の花」は茶の銘であらう。「古□」は、若し上(かみ)の推測の如くだとすると、病婦久の夫であらう。是日は□斎の第十三回忌であつた。浦と安とは二女の名である。初め江戸を発した日に、「日野屋に立寄る」の文があつた。「日野屋両老人、浦安二女」は江戸の尾張町の日野屋の家族であらう。「主人平治」は松坂屋寿平治である。その「主人」と云ふを見れば、榛軒の松坂屋に舎(やど)つてゐたことが知られる。函嶺の第八日である。
「五日、晴、残炎甚。(中略。)宮城野より明神嶽へ上り、最上寺(さいじやうじ)に参詣。上路屈曲、深谷危径、一人も逢ふ人なし。途中桃を里に運ぶ老人に逢ふ。数顆を買ひ、水漿(すゐしやう)に代て渇を医す。山上に小田原在の民馬を牽来り草を苅る。満山あせび、ぶな、うつ木にて大木はなし。最上寺下り口に石長生(せきちやうせい)多し。一丁程大石の挾路(みちをさしはさむ)所あり。右の方に聊の寒泉あり。氷寒沁骨(こつにしんす)。最上寺にて茶を乞、行厨(かうちゆう)を開く。近辺細辛(さいしん)多し。帰路山上にて冷酒一杯を飲む。(中略。)此日塩柏葦湯に行。木賀の辺にて逢伴帰。」わたくしは榛軒の父蘭軒と同じく本草に通じてゐたことを示さむがために、多く上文を刪(けづ)らなかつた。榛軒の妻子を伴ひ帰つた家は、木賀の松坂屋ではなくて、宮下の奈良屋である。函嶺の第九日である。

     その二百五十四

 わたくしの抄する所の弘化丁未の湘陽紀行は、既に七月五日榛軒が函嶺宮下奈良屋に舎(やど)つた日に至つてゐた。榛軒は山中にあること既に九日であつた。
「六日、晴。奈良屋出立。(中略。)湯元の福住九蔵の家に投宿す。」宮下より湯元に遷つたのが、函嶺の第十日であつた。
「七夕、晴。渓石を拾ひ、新筆墨にて五彩箋に書し、二星に供す。塩柏隆白忠兵衛を送り三枚橋に到り別る。(中略。)暮合(くれあひ)福住を出で、風祭(かざまつり)より松明(たいまつ)にて(道を照し、)小田原大清水家に投宿す。元小清水泊の所、指合(さしあひ)にて、隣家にて食事を辨じ、一宿す。」山中にあること十日の後、此日先づ妻子をして帰途に就かしめ、尋(つい)で山を下つて小田原に舎(やど)つたのである。榛軒詩存に「山水自画賛」の七絶がある。「分松寸石雲烟冷。政是山渓欲暁時。記来当日函関路。三枚橋辺別女児。」転結は此日の朝の事を用ゐたものである。
「八日、晴。松万(まつまん)と共に磯浜に行、鰺網を見る。(舟に乗らむとするに、)波高(して)はたさず。」松万は榛軒を福住に訪うた知人である。紀行は此に終る。わたくしは榛軒と其家族との江戸に還つた日を知らない。
 九月十六日に榛軒は菊を岡西氏に贈つた。詩存に「弘化四丁未九月十六日、贈菊花於岡西玄亭及次子貞次郎」の七絶がある。「分贈君家同癖童」の結句より推すに、貞次郎は玄亭の次男で、中ごろ岡西養玄と云ひ、後に岡寛斎と云つた人である。わたくしは此詩を読んで、始て寛斎の小字(をさなゝ)を貞次郎と云つたことを知つた。天保十年生の貞次郎は此時僅に九歳であつた。「同癖」の二字は人をして其夙慧を想見せしめる。
 詩存には尚此頃の作と覚しき七絶一首が載せてある。其題「途上口占」の下(しも)に「弘化四丁未」と註してある。「鎮在綿衾梧枕中。孤□試歩出城東。金剛寺畔幽渓路。頼有残楓一樹紅。」
 十月にも亦一絶がある。「同年(丁未)初冬偶成」が即是で、瓶(へい)に菊花を插して茶に烹(に)ると云つてある。
 十二月朔(ついたち)に榛軒は初て徳川家慶に謁した。伊沢氏では此時阿部正弘が家臣の恩を受けたのを謝するために、老中以下の諸職を歴訪したと伝へてゐる。此より後の武鑑には「御目見医師、本郷阿部内、伊沢長安」の名が載せられてゐる。
 尋で阿部家では榛軒を目附格に進め、禄卅石を加増した。従来百二十石であつたので、此より百五十石になつた。医官に禄を与ふることが多きに過ぎて、其技術の低下を見るは、当時武家の通患であつた。それゆゑ阿部家の如きは特に医官の禄を微にしてゐた。榛軒の百五十石は最高の給額であつたさうである。因(ちなみ)に云ふ。岡西玄亭の家は百石、森枳園の家は三十人扶持であつた。
 榛軒は既に目見医師の班に加はつたので、登城することとなつた。其供廻の費(つひえ)は阿部家が供給したさうである。
 榛軒詩存には尚此月に「丁未杪冬病中述懐」の七律がある。是は頗る榛軒当時の境界を窺ふに足る作で、此詩と曾能子(そのこ)刀自の記憶する一話とを対照するときは、人をして坐(そゞろ)に榛軒の畏敬すべきを覚えしむるのである。

     その二百五十五

 わたくしは榛軒弘化丁未杪冬(せうとう)の詩と、曾能子刀自の記憶する一話とを此に併せ録する。詩に云く。「邇来量減病酲頻。孤枕小屏日相親。嚢物常無半文儲。盆梅頼報一分春。家中長短宜封口。世上嘲戯足省身。遠大思懐灰燼了。遂為売薬白頭人。」
 次に刀自の語る所はかうである。刀自が十三歳の時の事であつた。父榛軒は数日来感冒のために引き籠つてゐて、大晦(おほつごもり)を寝て暮した。そこへ石川貞白が訪ねて来たが、其云為(うんゐ)には周章の状(さま)が著かつた。そして榛軒に窮を救はむことを請うた。榛軒は輒(すなは)ち応へずして、貞白をして一組の歌がるたを書せしめた。貞白は已むことを得ずして筆を把つたが、此時上下(かみしも)の句二百枚を書くのは、言ふべからざる苦痛であつた。しかし書き畢(をは)つた比は、貞白が稍落著いた。榛軒は方纔篋(はうざんけふ)を探つて、金三十両を出してわたした。貞白は驚喜してこれを懐にして去つたと云ふのである。
 推するに榛軒は貞白の神(しん)定まるを候(ま)つて金を授けたのであらう。自ら「嚢物常無半文儲」を歎じつゝも、友を救ふがためには、三十金を投じて惜む色がなかつた。此三十金は必ずや事ある日のために蔵してゐて、敢て自家のために徒費しなかつたものであらう。榛軒の生涯は順境を以て終始したので、その人と為(なり)を知るべき事実が少い。わたくしが刀自の此一話に重きを置く所以である。
 此年猶榛軒詩存中に「賀関氏子」の七絶がある。関某の誰なるかは未詳であるが、榛軒は其子の「廟堂器」たらむことを期してゐる。
 北条霞亭の養嗣子進之(しんし)が始て仕籍に列し、舎を福山に賜つたのも亦此年である。会々(たま/\)進之の妻山路氏由嘉(ゆか)が病んで歿した。跡には十歳の子念祖(ねんそ)が遺つた。
 此年榛軒四十四、妻志保四十八、女柏十三、柏軒と妻俊とは三十八、女洲七つ、国四つであつた。蘭軒の女長は三十四、蘭軒の姉正宗院は七十七であつた。
 嘉永元年には榛軒詩存に、「弘化五戊申初春偶成」の七絶がある。「去歳漫蒙債鬼窘。嚢中払尽半文無。先生私有遊春料。柑子一双酒一壺。」丁未杪冬の頷聯(がんれん)と併せ読んで伊沢氏の清貧を想ふ。
 次に詩中月日の徴すべきものは、「嘉永元戊申十二月朔夜作」の七絶である。「畏縮去年今日栄。野人浪上玉京城。酔濃客散三更後。一枕水声睡味清。」詩は何(いづ)れの地にあつて作られたかを知らぬが、末句の水声には山中に宿したらしい趣がある。
 柏軒身上には此年種々の事があつたらしい。先づ事の重大にして蹟(あと)の明確なるものより言はむに、柏軒は十月十六日に「医学館医書彫刻取扱手伝」を命ぜられた。次にわたくしは側室佐藤氏春の柏軒に仕へたのが此年よりせられたであらうと推測する。次年己酉の四月には春が嗣子磐(いはほ)を生んでゐるからである。

     その二百五十六

 わたくしは柏軒が妾(せふ)佐藤氏春を納れたのが、此年戊申の事であらうと言つた。正妻狩谷氏俊は丙申に来り嫁してより、此に至るまで十三年を経てゐて、其間に長男棠助、長女洲、次女国、三女北の一子三女を生んだ。此四人の中能く長育したものは、只国一人のみなるが故に、余の三人の生歿は家乗に詳密なる記載を闕いてゐる。
 柏軒が春を納れたのは、俊の請(こひ)に従つたのだと伝へられてゐる。推するに女丈夫にして妬忌(とき)の念のなかつた俊は、四人の子を生んだ後、身の漸く疲□(ひすゐ)するを憂へて此請をなしたのであらう。
 春は明治六年に其子磐(いはほ)の公(おほやけ)に呈した書類に、「文政八年六月十九日生、東京府平民狩谷三右衛門叔母」と記してある。当時の三右衛門は矩之(くし)であるが、其親族関係の詳(つまびらか)なるを知らない。始て柏軒に事(つか)へた時の春の歯(よはひ)は二十四歳である。
 此年伊沢氏の親交ある人々の中、寿阿弥が死に、森枳園が阿部家に帰参することを許された。
 寿阿弥の入寂は八月二十九日であつた。其詳なることは別に著す所の「寿阿弥の手紙」に譲つて贅せない。わたくしは此に曾能子刀自の記憶一条を補記して置く。「寿阿弥さんは背の高い大坊主でございました。顔立は立派で、鼻が大そう高うございました。鼠木綿の著物を著て、お天気の日も雨の降る日も、足駄を穿いて歩きました。浅草で亡くなる前に、わたくしも病気見舞に連れて行かれました。」
 森枳園の阿部家に帰参したのは五月である。此帰参が主として伊沢氏の助を藉りて成就し、又渋江抽斎等も力を其間に尽したことは、既に抽斎伝に記した如くである。
 此年榛軒四十五、妻志保四十九、女柏十四、柏軒と妻俊とは三十九、女洲八つ、国五つ、蘭軒の女長三十五、蘭軒の姉正宗院七十八であつた。
 嘉永二年には榛軒に元旦の詩があるが、詩存中に載せられない。わたくしは良子刀自所蔵の掛幅(くわいふく)に於てこれを読むことを得た。「笑迎四十六年春。椒酒三杯気愈伸。弟有悌兮児有孝。奉斯懶病不材人。己酉元日口占。源信厚。」
 四月は丸山の榛軒が家にも、中橋の柏軒が家にも事のあつた月である。
 榛軒は十七日に女(ぢよ)柏(かえ)のために婿を迎へた。婿は池田京水の七男全安である。文政八年生の全安は二十五歳になつてゐた。渋江保さんが此時父抽斎の榛軒に物を贈つた書の下書を蔵してゐる。「一筆啓上仕候。今般全安様御事、伊沢家へ御養子御熟談相整重畳愛度奉存候。右御祝儀申納度、真綿一台進上仕候。聊表志之印迄に御座候。御祝受被下候ば、本懐之至奉存候。恐惶謹言。」
 柏軒の家では九日に妾(せふ)春が次男鉄三郎を生んだ。後徳安(とくあん)と改称し、立嫡(りつてき)せられて父の後を襲ぎ、磐安(ばんあん)と云ひ、維新の時に及んで磐(いはほ)と称した。
 穉(をさな)い鉄三郎は春を「春や」と呼び、春も亦鉄三郎を「若様」と呼んだが、維新後の磐は春を嫡母(てきぼ)として公に届け、これに孝養を尽した。

     その二百五十七

 榛軒詩存中に尚此年己酉四月の作と認べきものがある。それは「嘉永二己酉偶成、次高束子韻」の七絶三首である。わたくしは此にその四月の作たるを徴すべきもの一を節録する。「点滴声中送尽春。麦秋寒犯病酲身。矮屏孤枕昏昏臥。羨望多餐健歩人。」既に元日の詩に「懶病」と云ひ、今又此詩がある。榛軒は此頃心身の違和を覚えてゐたとおもはれる。
 五月には榛軒の女婿全安が離縁になつた。そして柏は不幸にして妊娠してゐた。全安の伊沢氏を去つたのは、医術分科の上に於て、養父榛軒と志す所を異にしたのだと伝へられてゐる。全安は此より自立して池田氏の「又分家」を成した。即ち宗家霧渓瑞仙晋(しん)、分家天渓瑞長、又分家全安である。

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