伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

 是に由て観るに、玄俊信郷は兄瑞仙善郷が寛政九年三月五日に幕府の医官となつた後、帯刀を允(ゆる)され、御池通車屋町の年寄役を辞し、東洞院なる兄の旧宅に移り、八月二日に死んだのである。
 玄俊の京都に客死したのは、兄瑞仙に別れた後である。しかしわたくしの推測する所を以てすれば、実子祐二改杏春は猶未だ京都を離れなかつたであらう。仮に杏春が江戸に至るに、養父瑞仙と同じ日子を費したものとする。瑞仙は正月二日に発程して十三日に入府した。其間十一日である。今杏春の江戸に至つた十一月四日より溯ること十一日なるときは、丁巳の十月は大なるが故に、十月二十三日となる。此日は、丁巳の八月は大、九月は小なるが故に、生父玄俊の死後八十日を過した時である。想ふに杏春は生父の病を瞻(み)、其葬(とぶらひ)を送り、故旧の援助を得て後事を営み、而る後京都を離れたことであらう。
 瑞仙は其書上に、養子杏春の妻沢より遅れた原因を杏春の病に帰してゐる。「悴杏春儀は其節病気に付快気次第と被仰付候。」穉(をさな)い杏春は果して病んでゐたか。或はその病んでゐたものは杏春にあらずして、生父玄俊であつたか。

     その二百三十一

 寛政九年に江戸に来て、冬に至るまでに家族を京都から呼び迎へた池田瑞仙は、初め暫く市中に住んで、次で居を駿河台に卜し、翌十年二月六日には奥詰医師に陞(のぼ)せられた。瑞仙の家は此の如く栄達の途を進んで行つて、余所目(よそめ)には平穏事なきが如くに見えてゐた。
 しかし其裏面には幾多の葛藤があつたものと看なくてはならない。わたくしは後(のち)よりして前を顧み、果(くわ)よりして因を推し、錦橋瑞仙の妻(さい)沢(さは)を信任することが稍過ぎてゐたのではないかと疑ふ。其家に出入(いでいり)する佐々木文仲と云ふものをして、余りに深く内事に干渉するに至らしめたのではないかと疑ふ。佐々木は恐くは洋人の所謂「家庭の友」に類した地位を占むるに至つたのであらう。そして佐々木と沢との関係は、遂に養子杏春をしてこれが犠牲たらしめたのであらう。
 わたくしは嘗て杏春即京水が、霧渓撰の錦橋行状に於ても、富士川氏の写した京水墓誌の一段に於ても、虚弱者としてとりあつかはれてをり、又文中読者をしてその無学無能を想はしめむとするが如き語気あるを見て、此間に或秘密が伏蔵してゐはせぬかと疑つた。今やわたくしは京水自筆の巻物を閲(けみ)することを得て、此間の消息を明にした。駿河台の池田氏には正に一の悲壮劇があつた。そして其主人公は京水即当時の杏春であつた。
 池田の家の床下に埋蔵せられてゐた火薬は終に爆発した。それは京水廃嫡一件である。
 三世瑞仙直温の先祖書にはかう云つてある。「病気に而末々御奉公可相勤体無御坐候に付、総領除奉願候処、享和三亥年八月十二日願之通被仰付候。」しかし今細(こまか)に検すれば、此一件は瑞仙が嫡子を廃したのではなく、杏春が継嗣を辞したのである。且此事のあつた年は、享和三年癸亥ではなく、享和元年辛酉である。按ずるに癸亥は事後に官裁を仰いだ年であらう。
 京水自筆の巻物中参正池田家譜善直(よしなほ)の条には、「享和元年病に依て嗣を辞するの後瑞英と改む」と書してある。嗣を辞したのと、杏春を瑞英と改めたのとは、辛酉の出来事である。当時養父錦橋六十六、養母沢三十七、杏春の瑞英十六であつた。
 此一件の詳なるは、京水瑞英の家に「生祠記」一巻があつて具(つぶさ)に載せてあつたさうである。京水は「辞嗣の始末は生祠記に詳也」と云ひ、又「行状別に生祠記一巻あり、門人等録する所なり、其言頗る過誉なりと雖も、未た必しも偽なし、故に子孫其書に就て余が始終を見るへき者なり」と云つてゐる。生祠記(せいしき)は惜むらくは佚した。少くも池田全安さんの家には存してゐない。
 生祠記は既に佚した。しかし京水は養父の幕府に呈した系図を写して、其後に数行の文を書した。わたくしは此書後に由つて生祠記の内容の一端を知ることを得た。京水の辞嗣は霧渓の受嗣と表裏をなしてゐて、其内情は下(しも)の如くである。
「右直郷(霧渓二世瑞仙晋)は初佐佐木文仲の弟子なり。文仲は於沢の方に愛せられて、遂に余を追て嗣とならむの志起り、種々謀計せしかど、余辞嗣の後にも養子の事(文仲自ら養子となる事)成らず、終に直郷に定りたり。其間山脇道作の男玄智、瑞貞と云、堀本一甫の男某、田中俊庵の男、瑞亮と云、皆一旦は養子となれども、何れも於沢の方と文仲に追出されたり。善直(京水瑞英)誌。」

     その二百三十二

 わたくしは池田京水、当時初代瑞仙の養嗣子杏春が宗家を継ぐことを辞した内情を語つた。杏春は養母沢に悪(にく)まれて家を出でた。沢は佐佐木文仲と云ふものと謀つて、杏春をして去らしめた。それは沢が文仲をして杏春に代らしめようとしたのである。佐佐木文仲の何人なるかは、わたくしは未だ考へない。しかし既に霧渓の師であつたと云へば、杏春より長じてゐたことは勿論であらう。又霧渓よりも長じてゐたであらう。霧渓は杏春より長ずること二歳であつた。
 杏春の去つた後、沢は夫に文仲を養はむことを勧めたであらう。しかし夫瑞仙は聴かずに、養子を他家に求めた。先づ山脇道作の子が来り、次に堀本一甫(ぽ)の子が来り、最後に田中俊庵の子が来つた。そして三人皆沢に斥(しりぞ)けられた。
 武鑑を検するに、山脇道作は「法眼、寄合御医師、五十人扶持、京住居」と云つてある。堀本一甫は「奥御医師、御口科、二百俵十人扶持、築地中町」と云つてある。独り田中俊庵と云ふものが当時の幕府医官中に見えぬが、わたくしは前二人が官医であるより推して、田中も亦官医であらうとおもふ。わたくしは是は田中俊川(しゆんせん)を謂つたものであらうとおもふ。田中俊川は武鑑に「表御番医師、百五十俵、芝田七丁目」と云つてある。「芝田」は芝の田町であらう。
 山脇、堀、田中三氏の子が相踵(あひつ)いで逐はれた後に、当時籍を瑞仙の門人中に列してゐた上野国上久方村(かみひさかたむら)医師村岡善左衛門常信(つねのぶ)倅善次郎が養子にせられた。即ち霧渓二代瑞仙直郷(なほさと)、又の名は晋(しん)である。
 霧渓はいかにして池田宗家に留まることを得たかと云ふに、是は沢が夫の到底文仲を養ふに意なきを見て、文仲を家に迎ふることを断念し、霧渓を養ふことを賛成したからである。霧渓は文仲の旧弟子であつた。天明四年生の霧渓は当時十八歳になつてゐた。その公(おほやけ)に稟(まう)して養嗣子とせられたのは、此より十五年の後、文化十三年三月である。瑞仙の死に先(さきだ)つこと六箇月である。霧渓は既に三十三歳になつてゐた。
 わたくしは此に杏春の生父玄俊の師の一人が京都の産科医賀川玄吾であつたことを回顧する。池田瑞仙が杏春去後(きよご)に霧渓をして家を継がしめたのは、玄吾の生父初代玄悦が玄吾去後に岡本玄迪(げんてき)をして家を継がしめたと、其迹が甚だ相類してゐる。玄吾と杏春との間には、実子と養子との別はあるが、その父の後妻に悪(にく)まれたことは同じである。又杏春が他年一家を樹立して宗家と相譲らざるに至つたことも、其生父の廃儲(はいちよ)であつた有斎玄吾と相似てゐる。
 わたくしは此より池田宗家を去つた後の杏春改(あらため)瑞英の事蹟を記述しようとおもふ。即ち未だ曾て公にせられたことのない京水実伝である。

     その二百三十三

 駿河台の池田瑞仙の邸を辞し去つた京水瑞英には帰るべき家が無かつた。其自記に拠るに、瑞英は「神田明神下金沢町の裏店に僑居」した。前後の状況より推すに、瑞英は町医者として此に開業したらしい。其人は十六歳の青年である。其家は裏店(うらだな)である。わたくしはその自信の厚かつたに驚かざることを得ない。
 翌享和二年に「弟子始て従ひ、始て本庄近江守殿男子を診」した。瑞英の業は約一年にして緒に就いた。是が「病弱不能継業」と云はれた人である。弟子は其学識を信じて来附し、病家は其技術を信じて請待した。驚かざらむと欲しても得られぬのである。武鑑を検するに本庄近江守は「御詰並、一万石、小川町」と云つてある。時に瑞英は十七歳であつた。
「同三年阿部主計頭殿、後備中守嫡子運之助殿を診ひ、主計頭に謁す。此善直諸侯に見の始なり。」阿部主計頭(かぞへのかみ)は即ち棕軒侯正精(まさきよ)である。当時父伊勢守正倫(まさとも)が詰衆、正精は詰並(つめなみ)で、本庄とは同僚であつた。邸宅も亦同じ小川町にあつた。瑞英は本庄の子を治して功があつたので、棕軒も亦其子のためにこれを邀(むか)へたのではなからうか。運之助は寛政八年に真野竹亭が易の「純粋精也」より取つて正粋(まさたゞ)の名を献じた棕軒の嫡男である。正倫、正精、正粋の三人は相踵(あひつ)いで運之助と称した。京水の自記中「診」の字は「みまふ」と訓ませたのであらう。瑞英十八歳の時の事である。
「文化元年武州浦和伊勢屋清蔵の家に寓す。」是も亦技を售(う)らむがための旅であつただらう。瑞英此年十九歳であつた。
「同二年江戸に帰り、同八月甲州に入、弟子三十六人従ふ。」瑞英の声望は破竹の勢を以て長じた。此年二十歳であつた。
「同六年同国石和に於て同所小林総右衛門の女を妻とす。」甲斐国石和(いさわ)の小林氏の女(ぢよ)は名を常と云つた。当時瑞英二十四歳、常は寛政六年生で十六歳であつた。
「同七年長男雄太郎を生。」参正池田家譜に云く。「文化七年七月十六日、生於甲州石和小林総右衛門家。」又云く。「雄次と名を善郷より賜るを以て、行々雄を名と為ものなり。」錦橋瑞仙が名を雄次と命じ、後其雄の字を取つて雄太郎と云つたのであらう。是に由つて観れば、伯母沢は瑞英を悪んでも、伯父瑞仙は姪(てつ)瑞英との交を絶たずにゐて、名を従孫(じゆうそん)に命じたと見える。雄太郎は後の瑞長直頼(ずゐちやうなほより)である。此年瑞英二十五歳。
「同八年帰于江戸。再神田岩井町代地に僑居す。」瑞英は文化八年二十六歳にして、妻常と長男雄太郎とを率(ゐ)て江戸に還つた。此文の「再」の字の上には、或は「同九年」の三字を脱してゐるかも知れない。家を岩井町代地に移したのは、八年でなくて九年であつたかも知れない。何故と云ふに、自記には此下(しも)に直に「盤次郎生」と書してある。次男盤次郎の生れたのは文化九年で、此人は後斎藤氏を冒し、天保五年に二十三歳を以て終つた。「同九年」の三字は若し「再」の字の上に脱してゐぬならば、「僑居す」の下(しも)に脱してゐなくてはならぬのである。

     その二百三十四

 わたくしは京水池田瑞英の事蹟を、其自記に拠つて続抄する。文化九年には瑞英の次男盤次郎が神田岩井町代地の家に生れた。生日は「七月卅日」である。「盤次郎の名は杉本仲温の贈る所なり」と云つてある。是は錦橋初代瑞仙の墓表を撰んだ杉本である。杉本は霧渓二世瑞仙を識つてゐて、これがために錦橋の墓表を撰び、又瑞英を識つてゐて、其次男に命名した。瑞英は二世瑞仙と善くなかつた形迹があるが、杉本は其間に立つて、瑞英に好意を表してゐたらしい。
 わたくしは此関係を証するに足る一の奇なる事実を発見したやうにおもふ。杉本は既に云つた如く、霧渓撰の行状に本づいて錦橋の墓表を作つた。そして錦橋の事蹟には、行状と墓表との間に一も相殊なることが無い。独り文中瑞英善直(よしなほ)を出すに至つて、杉本は行状に無き所の一句を插入した。行状には「男曰善直、多病不能継業」と云つてある。墓表には「先生有子善直、才敏而好学、多病而不能継其業、以其門人直卿為嗣」と云つてある。杉本は己の意志よりして「才敏而好学」の句を添へたのである。わたくしは初め墓表を読んだ時、此句に躓いて歩を駐(とゞ)めた。そして霧渓の嘱を受けて撰文した杉本が、何故に此句を添へたかを疑つた。今にして思へば、瑞英と親善にして其子に命名する杉本は、此句を著けざることを得なかつたのであらう。杉本が既に此句を著けたとき、霧渓も此の公平なる回護に対して、敢て抗議をなさなかつたのであらう。
 盤次郎の生れた時、瑞英は二十七歳であつた。
「同(文化)十年居を浅草誓願寺門前町に移す。」是が瑞英二十八歳の時である。
「十一年三男桓三郎生。十月二日舅死するに依て、同八日甲州に至る。十月廿九日帰于江戸。」三男桓三郎の生れたのは、参正池田家譜に拠るに、「七月七日」である。十月二日には甲斐国石和(いさわ)に於て、瑞英の外舅(ぐわいきう)小林総右衛門が死んだ。瑞英は八日に石和へ往つて、二十九日に江戸に還つた。妻常は定て同行したことであらう。
 家譜桓三郎の下(もと)に「幼名宮村隆円の贈る所也」と云つてある。宮村の名は幕府の官医中に見えない。桓三郎は後一たび玄英と称し、終に祖父玄俊の称を襲いだ。
 三男桓三郎が生れ、外舅小林の歿したのが、瑞英二十九歳の時である。
 文化十二年八月に瑞英は家を下谷(したや)三枚橋(まいばし)「御先手組屋敷」に買つた。是は次年の記に、「去年八月、善直因戸田氏之恵、此三枚橋の家を得たり」と云つてある。「此三枚橋の家」と云つたのは、文政四年に三枚橋の家にあつて此記を作つたからである。「戸田氏」通称は勘介である。其詳(つまびらか)なることは未だ考へない。

     その二百三十五

 わたくしは京水池田瑞英の事蹟を叙して文化十三年に至つた。四男藤四郎の生れた年である。家譜に「七月廿日生、同壬八月三日死」と書してある。法諡(はふし)は「奇藤童子」である。九月六日には前(さき)の養父たる伯父錦橋初代瑞仙が死んだ。瑞英に代つて錦橋の後を襲(つ)いだ霧渓二世瑞仙は此年正月二十六日に養子願を出し、三月十一日に願済となり、十二月二十七日に「跡式無相違被下置」と云ふこととなつた。瑞英は三十一歳、二世瑞仙は卅三歳の時である。初代の未亡人沢は五十二歳であつた。
 文政元年には瑞英の五男直吉(なほきち)が生れた。家譜に拠るに「六月廿五日」生で、「戸田勘介幼名を贈」と記してある。又自記に「同年次男斎藤氏え養子」と云つてある。斎藤氏は家譜に「松浦大和守殿医師斎藤民俊」と記してある。松浦大和守皓(ひかる)は平戸松浦氏の支封で一万石の諸侯である。次男盤次郎は此より斎藤俊英と称し、後又瑞節(ずゐせつ)と改めた。瑞英三十三歳の時である。
「同(文政)二年、病気全快之届を出す。」全快届は前に初代瑞仙の出した「総領除」の弥縫(びほう)である。二世瑞仙の手に由つて出されたことであらう。当時の事情を推測するに、京水瑞英の学術は漸く世間の認むる所となつて、官辺にもこれをして書を医学館に講ぜしめむとする議が起つたので、二世瑞仙は此届出をなさざることを得なかつたのであらう。京水の自記に、「全快届の始末は本末記一巻に詳なり」と云つてあるが、其書は今伝はらない。瑞英三十四歳の時である。
「同(文政)三年再医学館に出。」此自記の文はわたくしをして二つの事を推定せしむる。瑞英は享和元年十六歳で、猶杏春と称してゐた時、早く既に躋寿館(せいじゆくわん)に勤仕してゐたと云ふ事が其一である。躋寿館に於る当時の職は素読の師であつただらう。又今に□(いた)つて「医学館に出」と云ふは、講書のためであると云ふ事が其二である。
 三世瑞仙直温の親類書には、京水の総領除願済(そうりやうのぞきねがひずみ)の事を記した次に、「然る処年を経、追々丈夫に罷成、医業出精仕候に付、文政三(庚)辰年三月療治為修行別宅為致度段奉願候処、願之通被仰付」と云つてある。是は病気に依つて廃嫡せられた瑞英は、旧に依つて瑞仙の家にあるべき筈なるが故に、幕府に其現住所を公認せむことを請うたのであらう。又此公認は瑞英をして躋寿館に勤仕せしむるに必要であつたのであらう。親類書には前年の全快届をも載せず、此年の躋寿館勤仕の事をも載せない。或はおもふに、此別宅願は全快届に伴つたもので、事は前年にあつたのではなからうか。「文政三」は「文政二」の誤ではなからうか。しかし「辰」の字があるので、此に録して置く。
 家譜に拠るに、此年瑞英の六男末吉が生れた。「八月廿一日生」と云つてある。
 躋寿館再勤仕と六男の出生とは瑞英三十五歳の時の事である。
 次年は文政四年で、京水瑞英が自記の筆を把つた年である。此時二世瑞仙の家と瑞英の家との間に、板木問題と云ふ事が起つた。

     その二百三十六

 わたくしは文政四年京水池田瑞英が三十六歳になつた時に、瑞英の家と宗家たる霧渓二世瑞仙の家との間に、板木問題と云ふ事が起つたと云つた。京水自記の文にかう云つてある。「同(文政)四年、痘科辨要板木を、家元の弟子養子二世医官直郷、通称は先代の名を襲ひ、是家禄を保つ身にて、此板木を売物に出すに就て、善直方へ購取る一件は、余が遺言録一巻中に詳なり。」
 問題の大要は此文に由つて推知することが出来る。錦橋初代瑞仙は痘科辨要(とうくわべんえう)を著した。其書上には「同(文化)八(辛)未年八月十二日、痘科辨要十巻著述出板に付献上仕候」と云つてある。此板木は家に伝へてあつた。それを霧渓が売つた。瑞英は商賈の手よりこれを買ひ取つたと云ふのである。その詳細なる事情に至つては、京水の「遺言録」が佚亡したために、今知ることが出来ない。
 当時霧渓は養父錦橋の職禄を襲ぎ、駿河台より柳原岩井町の賜邸に遷り、名位を占め、恩栄を荷つてゐた。それが板木を売つて、技を售(う)り口を糊してゐる京水をして購(あがな)はしめた。京水憤慨の状は自記の数句の中にも見(あらは)れてゐる。
 わたくしは此に註して置きたい事がある。それは三種の書の佚亡である。第一は生祠記(せいしき)で、京水の門人が師の宗家の継嗣を辞した事を記したものである。第二は本末記で、京水が自ら全快届の事を記したものである。第三は此遺言録で、京水が自ら板木買戻の事を記したものである。わたくしの京水に関する研究は、其自筆の巻物を見ることを得、僅に右三種の書の名目を知るに至つて、早く既に著き進歩をなした。しかし若し三種の書が未だ全く湮滅(いんめつ)せずにゐて、他日一たび発見せられ、わたくしがこれを目睹することを得たならば、微顕闡幽(びけんせんいう)の真目的は此に始て達せられるであらう。
 此年十一月十九日は京水瑞英が往事を自記した日である。「朝より夜の子の刻に至るの間、調薬看病の暇に書」と云つてある。「看病」は恐くは病客を診する義で、家に病むものがあつて看護する義ではあるまい。此より下(しも)は巻物に年月を逐うた記事が無いから、京水の後日に家譜中に補記した所を拾ひ集めて、年月に従つてこれを次第する。
 文政六年には一女子が生れた。即ち瑞英の長女である。その名の記載を闕いてゐるのは、後三歳にして夭したためであらう。生日は「十月十一日」である。瑞英三十八歳の時である。
 文政八年には七男が生れた。「全吉、文政八(乙)酉九月七日出生、阿部侯長臣町野平介、初名多膳、幼名を贈」と記してある。此全吉が後に全安と改称した。榛軒の女(ぢよ)柏(かえ)の初の婿、わたくしの相識ることを得た二世全安の養父である。全安の名附親町野は恐くは福山侯正精(まさきよ)の臣であらう。しかし武鑑には見えない。
「霜月廿八日」に二年前に生れた長女が死んだ。法諡(はふし)「含章童女」である。全吉が生れ、含章(がんしやう)が死んだのは、瑞英四十歳の時である。

     その二百三十七

 わたくしは京水池田瑞英の事蹟を叙するに、文政四年に至る前半は其自記の文に拠ることを得た。しかし後半の資料はこれを参正池田家譜中所々に散見する細註に仰がざることを得ない。わたくしの続貂(ぞくてう)の文は既に八年に及んでゐた。
 文政九年には瑞英の長男が籍を躋寿館(せいじゆくわん)に置いたらしい。家譜に「文政壬戌入于医学館」と云つてある。壬戌は恐く丙戌の誤であらう。此年長男雄太郎は十八歳であつた。既に直頼(なほより)と名のり、瑞長と称してゐた筈である。父瑞英四十一歳の時である。
 十年には次女俶(よし)が生れた。家譜に「文政十丁亥八月十五朝出生、名俶、よし、小久原権九郎奥方幼名を贈らる」と云つてある。字書を検するに「俶」には昌六切(しやうりくのせつ)と他歴切(たれきのせつ)との二音があつて、彼には「又善也」と釈してある。小久原(をくはら)の何人なるかは未だ考へない。此年瑞英四十二歳であつた。
 十二年には八男剛(かう)十郎(らう)が生れた。家譜に「文政己丑十一月七日生、幼名浅岡益寿贈ところ」と云つてある。浅岡の何人なるかも亦未だ考へない。此年瑞英四十四歳であつた。
 天保元年には長男瑞長が妻を娶(めと)つた。家譜に「妻青木貞勝妹、文政庚寅八月嫁来」と云つてある。庚寅は改元の年であつた。又六男末吉の縁談があつて、成らずして罷んだ。「文政庚寅松浦肥前守殿医師嵐山某え縁談之処、同年破談致す、後改て程安と称」と云つてある。当時の肥前国平戸の城主松浦肥前守は朝散大夫熈(てうさんたいふひろし)であつた。瑞長の外舅(ぐわいきう)青木と、程安(ていあん)の養父たらむとして寝(や)んだ嵐山(あらしやま)との事は未だ考へない。此年瑞英四十五歳であつた。
 三年には八男剛十郎が四歳にして夭した。「天保壬辰十一月十七日卒、(中略)仏諡玄剛」と云つてある。此年瑞英四十六歳であつた。
 四年には瑞長の長男敬太郎直(ちよく)が生れた。「天保四癸巳四月二日誕生、母青木氏女」と云つてある。瑞英の初孫である。此年瑞英四十七歳であつた。
 五年には六月十三日に九男政之助が生れ、越て十五日に次男斎藤瑞節が死んだ。彼は「天保五甲午六月十三暁子誕生」と云ひ、此は「天保五甲午六月十五日卒、葬于本所法恩寺内善行寺、法名夏山院日周信士、年二十三」と云つてある。二世全安さんの家の過去帳には、「本所報恩寺中祥善寺」に作つてある。善行寺若くは祥善寺は養家斎藤氏の菩提所であらう。諸子中此人は嶺松寺に葬られざるが故に、わたくしは特に寺名を抄出した。此墓は或は今猶存してゐるかも知れない。此年瑞英四十八歳であつた。
 六年には六月二十二日に瑞長の長男敬太郎が死し、七月朔(さく)に其次男が生れ、二日に死した。彼は「天保六乙未六月廿二日卒、(中略)仏諡知幼」と云ひ、此は「天保乙未七月朔生、二日卒、仏諡泡影」と云つてある。泡影の死が京水自筆の巻物の最後の記載である。此年瑞英四十九歳であつた。
 七年十一月十四日に京水瑞英は五十歳で歿した。法諡(はふし)宗経軒京水瑞英居士である。文政四年の自記に「仏諡可用宗経」と云つてあつた。此諡(おくりな)には僧侶の撰んだ文字は一字も無い。跡には九子二女を生んだ四十三歳の妻常、二十七歳の嫡子瑞長、二十三歳の三男生田玄俊、十九歳の五男直吉、十七歳の六男程安、十二歳の七男全安、十歳の次女俶、三歳の九男政之助が遺つた筈である。三男玄俊は父京水が祖先の氏を襲(つ)がしめたものであらう。

     その二百三十八

 わたくしは池田京水自筆の巻物を得て、錦橋初代瑞仙の祖先、錦橋自己乃至其子孫の事蹟を覆検し、就中(なかんづく)錦橋の弟文孝堂玄俊と、其実子にして一たび伯父錦橋に養はれ、後廃せられて自立した京水瑞英との事蹟は、その未だ曾て世に公(おほやけ)にせられなかつた史実なるが故を以て、特にこれを細叙した。
 然るに彼巻物の内容にして、わたくしの此に補記せざるべからざるものが猶一つある。それは巻物の主要部分たる参正池田家譜の来歴である。初め京水は伯父錦橋の幕府に呈した系図即ち錦橋本系図を蔵してゐた。文化十三年、伯父錦橋の歿する年に至つて、京水は料(はか)らずも系図の一異本を観た。即水津本(すゐづぼん)系図である。京水は此水津本を用ゐて、錦橋本に訂正を加へ、新に参正池田家譜を編した。即京水本系図である。
 此故に参正池田家譜の来歴を語らむとするには、溯つて水津本の来歴を語らなくてはならない。
 既に云つた如く、池田氏は古く水津氏と聯繋してゐる。錦橋十八世の祖頼氏(よりうぢ)の弟信吉(のぶよし)は水津重時の家を継いだ。降つて錦橋の高祖父信重は、実は信吉十二世の孫水津信道の子であつた。信重の子嵩山正直(すうざんまさなほ)の弟杏朴成俊(きやうぼくなりとし)は、信道五世の孫光(ひかる)の養子となつて水津氏に復(かへ)り、成俊の子成豊は水津氏を継ぎ、其弟正俊が又養はれて嵩山の子となつた。即ち錦橋の祖父である。
 水津本に成豊の子が信成(のぶなり)、信成の子が官蔵となつてゐて、京水本はこれを襲用してゐる。
 然るに水津本の序に、京水は官蔵を「富小路殿御内斎藤平蔵悴也」と書してゐる。今再び水津本を検するに、水津光の弟政之助が今出川家の家人斎藤帯刀(たてはき)の養子となつて、子平蔵をまうけた。推するに此平蔵が富小路家に仕へて、子官蔵をまうけ、官蔵が信成の後に一たび絶えた水津氏を冒したのであらう。同じ序文にかう云つてある。「平蔵の実子なれども、斎藤氏を称へず、水津を称候は本家相続の心なるべし。」
 官蔵は同じ序に拠るに、名を「官大夫と改、武家奉公の望有て、相模国何某といふ剣術名誉之人をたより、弟子となつて兵法免許をも受たれども、不仕合にて可然奉公在付も無之、再度帰京して近衛公に奉公」した。
 官蔵の妻(さい)は序に、「今出川殿御奉公人にて、生国は大津成よし」と云つてある。此妻は一女を生んで歿した。「寛政九年死去、其月は不覚、法名は円浄、七日の忌日なり」と云つてある。「不覚」とは其女(ぢよ)が記憶してをらぬを謂ふ。
 官蔵の女(むすめ)は恃(はゝ)を失つた後十一年、「文化五甲子夏故ありて此江戸に来」た。然るに女が江戸に来た後三年、文化八年に官蔵は歿した。そして水津系図を女に譲つた。「形見とて此一軸を大事にせよと被申遺」と云つてある。推するに官蔵は京都にあつて、近衛家の家人として歿し、系図を江戸へ送つたのであらう。
 此女が京水に邂逅するのである。

     その二百三十九

 わたくしは京水本系図の来歴より泝(さかのぼ)つて水津本系図の来歴に及び、水津本が京都で歿した水津官蔵の手より、江戸にゐる女(むすめ)の手にわたつたことを言つた。
 京水が官蔵の女に遭つて水津本を借抄したのは文化十三年である。京水は水津本の序にかう云つてゐる。「文化十三年水津家系図を所持の女人に逢て、(中略、)其一軸を仔細申聞て仮受写畢。」
 京水は序に此女の末路を叙して云つた。「此女の身分世話をも致遣可申心底之処、元来風と所持の一軸の表書を見たるまゝに懇に申懸候迄にて、昨今の事なれば、猶折も可有之と思ひ居候処、女子不幸にして病死、其後右一軸の事申て看病之者等へ尋候へ共、一切分り不申候。但此女不幸にして遊女となり候て、終に死したり。」
 以上が京水の水津本に序して、斎藤平蔵、水津官蔵、水津氏某女の三世の事を記した文の梗概である。わたくしの文は京水の原文に比すれば、稍長きを加へた。或はわたくしは初より原文を写し出した方が好かつたかも知れない。しかしわたくしは京水の文の解し難きに苦んだ故に、読者をして同一の苦を嘗(な)めしむるに忍びなかつたのである。
 京水は水津本を重視し、これを藉り来つて錦橋本の愆(あやまり)を繩(たゞ)さうとした。水津本は記載素樸にして矯飾の痕が無い。京水の重視したのも尤である。しかし水津本と雖も、多少の疑ふべき所がないでもない。池田氏は信重より霧渓晋(むけいしん)若くは京水に至るまでが六世、水津氏の信重の兄信武より斎藤平蔵に至るまでも亦六世である。然るに後者の水津官蔵に至るまでは九世である。今その各世の寿命の脩短(しうたん)を細検せむとするに、歿年及年歯の記註不完全なるがために能はない。しかしわたくしは強ひて深く此等世系の問題に立ち入ることを欲せぬのである。
 わたくしは最後に水津官蔵の女(ぢよ)の薄命と、その京水との奇遇を一顧して置きたい。京水の文に由つて、覊旅の女の語つた所を窺ふに、女の父官蔵が早く既に舛命(せんめい)の苦を閲(けみ)し尽したらしい。そして其女に至つては実に言ふに忍びざる悲惨の境に沈淪したのである。仮に此女は母の死んだ年に生れたものとすると、その怙(ちゝ)[#ルビの「ちゝ」は底本では「ちち」]を失つたのが十五歳、覊旅に死したのが二十歳である。実は此より多少長じてゐたのであらう。女にして若し偶(たま/\)京水に邂逅しなかつたら、其祖先以来の事は全く闇黒の裏(うち)に葬り去られて、誰一人顧みるものもあるまい。知らず、水津本系図の一軸は何者が奪ひ去つたか。
 わたくしの京水自筆の巻物中より得た資料は概ね此に尽きた。わたくしは最後に此に附載するに黄檗山の錦橋が碑の事を以てしたい。

     その二百四十

 蘭軒歿後の叙事中、わたくしは天保七年池田京水の死を語つて、其養孫二世全安さんの蔵する京水自筆の巻物の事に及んだ。そして其末に黄檗山にある京水の伯父錦橋が碑の事を附することとする。
 錦橋は江戸駿河台の家に歿して向島嶺松寺に葬られた。然るに嶺松寺の廃絶した時、錦橋の墓はこれに雕(ゑ)つてあつた杉本仲温撰の墓表と共に湮滅(いんめつ)し、錦橋は惟(たゞ)法諡(はふし)を谷中共同墓地にある一基の合墓上に留め、杉本の文は偶(たま/\)江戸黄檗禅刹記中に存してゐること、既に云つた如くである。
 しかし錦橋のために立てられた石は、独り嶺松寺の墓碣(ぼけつ)のみではなかつた。わたくしは黄檗山に別に錦橋の碑のあることを聞いた。そして其石面に何事が刻してあるかを知らむと欲した。
 一日(あるひ)京都より一枚の葉書と一封の書状とが来た。先づ葉書を読めば、並河(なみかは)総次郎さんがわたくしに黄檗の錦橋碑の事を報ずる文であつた。「先日檗山に参り候節、錦橋先生の墓にも詣候。墓は檗山竜興院の墓地、独立(どくりふ)の墓の側(かたはら)に立居候。前面には錦橋池田先生墓、(此一字不明)弟子近藤玄之、佐井聞庵、竹中文輔奉祀、右側には文化十三年丙子九月六日と有之候。其他何も刻し無之候。竜興院には位牌も有之候へども、何事も承知不致居候。同院主は拙家続合(つゞきあひ)にて、錦橋先生の伝記等一見致度様申居候。」
 次にわたくしは封書を披いた。是は弟潤三郎が同じ錦橋碑の事を報じた書であつた。「好天気にて休館(京都図書館の休業)なるを幸(さいはひ)十時頃より黄檗なる錦橋の墓を探りに出掛候。若し碑文にてもあらば、手拓して御送申度、其用意も致候。先づ寺務所を訪ひ、墓の所在を問はむと、刺を通じ候処、僧俗二人玄関に出候。僧は名を聞きしことある学僧にて、倉光治文(くらみつちぶん)師に候。俗の方は昔日兄上に江戸黄檗禅刹記の事を報ぜし吉永卯三郎君に候。吉永は恰も好し昨日門司より来りたる由にて、奇遇を喜候。さて二人に案内を請ひて墓の所に至るに、墓は尋常の棹石(さをいし)にて、高さ二尺七寸、横一尺、趺(ふ)は二重に候。」弟は此に刻文を写してゐるが、上(かみ)の並河氏の報ずる所と同じ事故略する。年月日を刻してある右側は「向つて右」ださうである。「墓前に幅一尺二寸、高さ七寸の水盤を安んじ、其前面には横に「錦橋先生墓前置」と刻し、左側面に「玄之猶子南都仲元益拝」と刻し有之候。誌銘なきに失望致候へども、墓の模様大概記して差上候。寺務所に帰りて暫く談話し、吉永君には兄上の研究を援助せられ候様頼置候。」
 黄檗山の錦橋碑の事は、此並河氏と弟との報に由つて詳にすることを得た。墓碣と水盤とに名を列してゐる四人の弟子は、皆京都奈良等の人で、中にも佐井聞庵は恐くは錦橋の三人目の妻沢の仮親佐井圭斎の族であらう。自ら猶子(いうし)と称する仲元益(ちゆうげんえき)が「南都」と書してゐるを見れば、近藤玄之も亦奈良の人かと推せられる。
 吉永氏が弟と檗山に相見たのも奇とすべく、並河氏の書が弟の書と共に至つたのも奇とすべきである。

     その二百四十一

 わたくしは蘭軒歿後の事を叙して天保七年に至り、池田京水が此年に歿したと云つた。是は柏軒を始として、蘭門の渋江抽斎等が痘科を京水に学び、又後に至つて京水の七男全安が一たび榛軒に養はれて子となるが故である。
 わたくしは京水を説き、其父文孝堂玄俊、其伯父錦橋、錦橋の妻沢、錦橋の養嗣子霧渓等に及び、これがために多くの辞(ことば)を費した。是は曩(さき)に錦橋等の事を説いて、未解決の問題を貽(のこ)して置いたので、新に得た材料に由つてこれが解決を試ようとしたためである。
 今錦橋初代瑞仙の家を池田氏の宗家とすれば、京水の家は其分家である。分家は宗家の霧渓二世瑞仙が幕府に京水の「別宅願」を呈して聴許せられた日に成立した。しかし京水は京都に於て一たび絶えた文孝堂の後を襲(つ)いだものと看做すも亦可であらう。
 京水歿して、嫡子瑞長直頼が分家を継いだ。宗家三世瑞仙直温繕写の過去帖及二世全安儲蔵の過去帳に拠るに、此瑞長の後に猶一人の瑞長があつたらしく、法諡(はふし)用ゐる所の文字より推するに、初の瑞長は天渓と号し、後の瑞長は三矼(さんこう)と号したらしい。しかし此分家の存滅はわたくしの未だ考へぬ所である。
 わたくしの識る所の二世全安の家は此分家と別であるらしい。初代瑞長直頼の弟初代全安は、後に一たび伊沢氏に養はれて離縁せられ、此に始て家を成した。伊沢氏の例を以て言へば、即ち「又分家」である。
 是故にわたくしは竊(ひそか)に謂(おも)ふ。彼生祠記(せいしき)、本末記、遺言録の三書は、或は伝へて瑞長の家にあつたのではなからうか。初代全安がこれを二世全安に伝へなかつたのは、これがためではなからうか。
 此推測にして誤らぬならば、そこにかう云ふポツシビリテエが生ずる。即ち瑞長の裔は今猶何処(いづく)にか存続してゐて、三種の佚書もそこに埋伏してゐると云ふ場合である。わたくしは初に宗家の裔鑑三郎さんを尋ね得て、次に「又分家」の裔二世全安さんを尋ね得た。そして二家は曾て相識らなかつたのである。此より類推すれば、其中間なる分家の裔も亦、鑑三郎にも識られず、二世全安にも識られずして、何処にか現存してゐはすまいか。
 京水と其近戚遠族との事は一応此に終る。わたくしは此より下(しも)に伊沢氏に縁故ある家々に於ける、此年天保七年の出来事二三を記す。
 宝素小島春庵は前年天保六年に奥詰に進められ、此年の暮に法眼に叙せられた。是が其一である。
 阿部家では此年十二月二十五日に正寧(まさやす)が致仕し、正弘が十万石の福山藩主となつた。是が其二である。
 わたくしは此に天保丙申の記事を終らむとして、端(はし)なく近藤俊吾さんの書を獲た。そして榛軒の嘗て催した尚歯会が此年に於てせられたことを知つた。尚歯会の事は、わたくしも夙(はや)く知つてゐたが、未だその何れの年に繋くべきものなるかを知らなかつたのである。

     その二百四十二

 伊沢氏の尚歯会は蘭軒が曾て催さむと欲して果さずに歿したものである。既にして蘭軒の賓客中に加ふべかりし狩谷□斎も亦歿した。それゆゑ榛軒は此年天保丙申の九月十日に急にこれを催して亡父の志を遂げたのである。
 此日に丸山の榛軒の家に来り会した老人の誰々なるかは、今知ることが出来ない。初めわたくしは只松崎慊堂(かうだう)が客中にあつただらうと云ふことを推測してゐた。それは慊堂の会に赴くことを約した書が文淵堂の花天月地(くわてんげつち)中に収められてゐるからである。此慊堂の書は会に先つこと五日に裁したものである。想ふに慊堂は必ずや約を履(ふ)んで席に列したことであらう。
 既に云つた如く、此会の年月日は近藤氏の教ふる所である。そしてわたくしは啻(たゞ)に此に由つて会の年月日を知ることを得たのみではなく、又客中に館柳湾(たてりうわん)のあつたのを知ることを得た。
 近藤氏の抄して寄せたのは、「柳湾漁唱詩第三集」である。「伊沢朴甫宅尚歯会。故友伊沢蘭軒嘗擬招親交中高年者、設尚歯之宴、未果而歿、狩谷□斎在其数中、而亦尋物故矣、今茲天保丙申秋九月十日、賢嗣朴甫設宴召集、蓋終其先志也、余亦与之、座間賦一律、似朴甫及□斎後之少卿。雨晴楓葉菊花天。招集高堂開綺筵。尚歯漫誇頭似雪。延齢共酌酒如泉。新詩吟就徒為爾。旧事談来已惘然。不見当時盧与狄。衰顔慚対両青年。自註、延齢備州酒名、是日席上侑之、盧狄謂蘭軒□斎、二人皆少於余十数歳。」両青年は蘭軒の子信厚(しんこう)、□斎の子懐之で、懐之は主人信厚を助けて客をもてなしたことであらう。
 柳湾が蘭軒と往来したことは、此詩引を除いても尚証跡がある。某(それ)の年正月十六日に、柳湾は蘭軒等と雑司谷の十介園(かいゑん)と云ふ所に遊んで梅を看た。其時蘭軒は柳湾に謂つた。「宅の庭には雑木が多いが、あれを皆伐らせて梅を栽ゑようかとおもふ」と云つた。翌日雪中に柳湾は詩を賦して蘭軒に寄せた。徳(めぐむ)さんの蔵する詩箋は下(しも)の如きものである。「正月十六日、伊沢先生及諸子同遊雑谷十介園、園中野梅万余株、花盛開、鬮韻得八庚。十里城西試聴鶯。村園花満玉瑩々。共言今歳歓遊好。先卜梅郊爛縵晴。又得三肴。百樹梅花照暮郊。花間吟酔倒長匏。村翁也解留連意。折贈黄昏月一梢。翌日大雪、戯呈伊沢先生、又用前韻。料峭春寒歇囀鶯。満林飛雪鎖晶瑩。天公為掩仙遊跡。不使俗人躡嫩晴。昨日尋梅酔晴郊。今朝対雪酌寒匏。満園雑樹君休伐。留看瑤花綴万梢。(自註)先生謂余曰、欲悉伐家園雑樹、而植梅花。館機再拝具草、笑政。」引首印(いんしゆいん)は「石香斎」、名の下(しも)の二印は「館機」、「梅花深処」である。尚歯会に列した年、柳湾は七十五歳であつた。慊堂遺文の二序を閲(けみ)するに漁唱詩の初集二集は当時既に刊せられてゐた。
 わたくしは此より尚歯会の今一人の客松崎慊堂の事を言はうとおもふ。

     その二百四十三

 わたくしは此年天保丙申九月十日に榛軒の催した尚歯会の事を言つて、其客の一人たる館柳湾の詩を挙げた。当日の客は幾人であつたか知らぬが、わたくしの知る限を以てすれば、柳湾を除非して只一の松崎慊堂(かうだう)あるのみである。
 わたくしは未だ慊堂の此会に赴いた確証を得ない。わたくしは唯会に先つこと五日に、慊堂がこれに赴くことを約したのを知つてゐるのみである。そして慊堂が必ず此約を履(ふ)んだだらうと推するのである。
 わたくしは先づ慊堂の書を花天月地(くわてんげつち)中に得てこれを読み、後に近藤氏に由つて柳湾の詩を見た。会日の「重陽明日」即ち九月十日であるべきことは、慊堂が既に云つてゐる。しかしその丙申九月十日なることは、柳湾が独りこれを言つてゐるのである。啻(たゞ)に然るのみならず、厳密に言へば、九月十日を期した会が果して期の如くに行れたと云ふことも、又柳湾が独り伝へてゐるのである。
 慊堂の書に拠るに、初め榛軒は慊堂を請じ、慊堂は略(ほゞ)これを諾した。唯或は雨ふらむことを慮(おもんぱか)つて云々した。榛軒は肩輿(けんよ)を以て迎へようとした。是に於て慊堂は書を裁して肩輿を辞したのである。是がわたくしの目睹した唯一の慊堂の尺牘(せきどく)である。
「手教拝読。秋冷盈至之処、益御清穆起居奉賀候。然者(しかれば)兼而御話御坐候老人会、弥(いよ/\)重陽明日御催に付、拙子も罷出候様先日令弟御入之所、不在に付不得拝答。此間小島子来臨、因而(よつて)御答相頼、乍然(さりながら)雨天なれば老人には定而(さだめて)迷惑可仕と可有御坐心得に而(て)、雨天の事申上候。雨天に而皆々被参候事に御坐候得ば曾而(かつて)不苦、草鞋(さうあい)布韈(ふべつ)尤妙に御坐候。遠方竹輿など被下候には及不申、此儀は堅御断申上候。但止宿之事は此節奈何(いかゞ)可有御坐、此は臨時之事と奉存候。此段□□奉答仕候。頓首。九月端五。松崎慊堂、伊沢長安様。尚以竹輿之事はくれ/″\も御断申上候也。」
「令弟」は柏軒である。榛軒は初め慊堂を請ぜむがために、弟を羽沢(はねざは)へ遣つたのである。慊堂の初の答を榛軒に取り次いだ「小島子」は宝素か抱沖か。「老人には定而迷惑可仕と可有御坐心得」は稍解し難い。しかし末の「止宿之事は此節奈何可有御坐」と対照して其義を暁(さと)ることが出来る。老人は多分迷惑するだらうとおもふ懸念より云々したと謂ふのである。推するに此「可有御坐」は慊堂特有の語ではなからうか。
 慊堂の書は紅色の巻紙に写してある。字体勁にして潤である。絶て老人の作る所に似ない。
 尚歯会の年、慊堂は六十六歳であつた。
 わたくしは未だ慊堂日暦の丙申の部を閲することを得ない。伊沢氏尚歯会に来集した館松崎以外の老人の誰々なるかが、或は日暦中に見出されはせぬだらうか。わたくしはそこに一縷の望を繋いで置く。
 此年伊沢氏では榛軒三十三、妻志保三十七、長女柏(かえ)二つ、柏軒二十七、妻俊(しゆん)も同じく二十七、蘭軒の遺女長二十三、蘭軒の姉正宗院六十六であつた。

     その二百四十四

 天保八年は蘭軒歿後第八年である。此年の元旦は、阿部家に於ては、新主正弘の襲封初度の元旦であつた。正弘は江戸邸に於て家臣に謁を賜ふこと例の如くであつたが、其間に少しく例に異なるものがあつて、家臣の視聴を驚かした。
 先例は藩主出でて席に就き、前列の重臣等の面(おもて)を見わたし、「めでたう」と一声呼ぶのであつた。然るに正弘は眸(まなじり)を放つて末班まで見わたし、「いづれもめでたう」と呼んだ。新に添加せられたのは、唯「いづれも」の一語のみであつた。しかし事々皆先例に遵(したが)ふ当時にあつては、此一語は能く藩士をして驚き且喜ばしめたさうである。想ふに榛軒も亦此挨拶を受けた一人であらう。是は松田道夫さんの語る所で、渡辺修二郎さんの「阿部正弘事蹟」に見えぬが故に書いて置く。伊勢守正弘は此時十九歳であつた。
 伊沢氏には此年特に記すべき事が少い。已むことなくんば夏季榛軒等が両国に遊んだ話がある。是は昔の柏(かえ)、今の曾能子(そのこ)刀自が三歳の時の事として記憶してゐるのである。
 川開の夕であつた。榛軒は友人門弟等を率(ゐ)て往いて遊んだ。其時門弟の一人が柏を負うて従つた。一行は茶屋青柳(あをやぎ)に入つて藝者小房等を呼んで飲んだ。
 一行の中に石川貞白がゐた。貞白は本姓磯野、名は元亮(もとあきら)、俗称勝五郎である。石川は家に帰つて妓の宴に侍したことを秘してゐた。
 翌日伊沢の乳母が柏を伴つて石川に往つた。忽ち柏が云つた。「をぢさん、きのふは面白うございましたね。かつつあんの前だがおやそかね。」
 何さんの前だが、おや、そかねと歌ふのは、当時柳橋の流行であつた。石川は頭を掻いて笑つた。「どうも内証事は出来ないものだ。」是が記事の一である。
 榛軒の三女久利(くり)は此年に生れたが、其月日を詳(つまびらか)にしない。久利は後幾(いくばく)もなくして世を早うする女(むすめ)である。是が記事の二である。
 渋江氏では此年抽斎が小島成斎に急就篇(きふじゆへん)を書せしめて上木した。抽斎の跋は七月に成つた。前漢書藝文志に徴するに、古の小学の書には、史※篇(しちうへん)[#「竹かんむり/「擂」の「雨」に代えて「亞」から下の横棒を取り、縦棒二本は下までつなげたものをあてる」、「籀」の本字、8巻-91-上-7]、蒼頡(さうきつ)七章、爰歴(ゑんれき)、博学七章、蒼頡篇、凡将篇(はんしやうへん)、急就篇、元尚篇、訓纂篇等があつた。急就篇は「元帝(漢)時、黄門令史游作」と云つてある。抽斎は古抄本に拠つて定本を作つたのである。其詳なることは経籍訪古志に見えてゐる。成斎は又「急就篇文字考」をも著した。わたくしは嘗て渋江氏板成斎正楷の急就篇を寓目したが、今其書が手許に無いから、跋文を引くことを得ない。此年抽斎三十三歳、成斎四十二歳であつた。
 森氏では枳園が此年禄を失つて江戸を去つた。枳園は祖母、母、妻勝、三歳の子養真約之(やうしんやくし)の四人を率(ゐ)て相模国に赴いた。
 塩田氏では此年楊庵の子良三(りやうさん)が生れた。父楊庵は三十一歳であつた。
 此年榛軒三十四、妻志保三十八、女(ぢよ)柏三つ、女久利一つ、柏軒と妻俊とは二十八、蘭軒の女長二十四、蘭軒の姉正宗院六十七であつた。

     その二百四十五

 天保九年は蘭軒歿後第九年である。わたくしは先づ先霊名録に拠つて蘭軒の妻益(ます)の姉の死を記せなくてはならない。飯田休庵の女(ぢよ)、杏庵の妻で、荏薇(じんび)問答の榛軒書中に所謂「叔母」である。此女子は四月四日に六十五歳で歿した。
 次に偶然伝へられてゐる柏軒剃髪の日は、此年八月朔(さく)であつた。良子刀自所蔵の文書中に一枚の詠草があつて、端に「天保九年八月朔日、信重祝髪之時所詠之歌」と題してある。披(ひら)いて観るに、前に旋頭歌一首がある。「初落髪而作歌一首。努釈迦之教学□曾流仁波非黒髪者速須佐之男命習□(ゆめさかのをしへまなびてそるにはあらずくろかみははやすさのをのみことならひて)。」後に三十一字の歌三首がある。「尚方術而作歌三首。久之乃業唐之吉人之言真奈□其幸者須倍迦美爾能武(くしのわざからのえひとのことまなびそのさきはひはすべかみにのむ)。九度肱折□毛弥進阿波礼久須利師之上登奈良末久(こゝのたびひぢををりてもいやすゝみあはれくすりしのかみとならまく)。迦羅久邇之薬之業者習雖底日宇固加奴倭魂(からくにのくすりのわざはならへどもそこひうごかぬやまとだましひ)。」末に「伊沢磐安」と署してある。
 伊沢氏に於ては父兄皆詩を賦したのに、独り柏軒は歌を詠じた。そして其歌は倭魂を詠じ、皇国を漢土の上に置き、仏教を排した作である。是は後に説くべき此人の敬神と併せ考ふべきである。
 次に渡辺氏の阿部正弘事蹟中此年の下(もと)に榛軒の名が見えてゐる。「天保九年九月朔日、(正弘)奏者番を命ぜらる。是を就職の始とす。(中略。)此頃頭瘡を病み、家居して療養すること四十余日に至る。一日医師等其臥床を他室に移さんとし、誤りて其頭に触る。正弘覚えず嗚呼痛しと叫ぶ。医師等驚き怖れて謂ふ。平常寛仁大度の主公と雖も、今日は必ず憤怒を発せらるゝならむと。退きて罪を待つ。正弘医長伊沢長安を召し曰く。予今誤りて痛と叫びしも、実は痛みたるにあらず。顧ふに彼必ず憂心あるべし。汝能く告げて安意せしむべしと。既にして又独語して曰く。平生自ら戒めて斯る事なからしめむとす。今日は事意外に出づ。図らず此の如き語を発したりと。伊沢等其の他人の過失を咎めずして自ら反省したるを見て、転感涙に咽びたり。」是に由つて観るに、榛軒長安の地位は衆医の上にあつたらしい。
 森氏で枳園が祖母を浦賀に失つたのは此年の事かとおもはれる。其祖母の遺骨の事に関して一条の奇談がある。枳園は相模国に逃れた後、時々微行して江戸に入り、伊沢氏若くは渋江氏に舎(やど)つた。祖母の死んだ時は、遺骨を奉じて江戸に来り、榛軒を訪うて由を告げた。榛軒は金を貽(おく)つて□葬(れんさう)の資となした。枳園は急需あるがために其金を費し、又遺骨を奉じて浦賀に帰つた。
 月を踰(こ)えて枳園は再び遺骨を奉じて入府し、又榛軒の金を受け、又これを他の費途に充(あ)て、又遺骨を奉じて浦賀に帰つた。
 此の如くすること三たびに及んだので、榛軒一策を定め、自ら金を懐にして家を出で、枳園をして遺骨を奉じて随ひ行かしめた。そして遺骨を目白の寺に葬つたさうである。目白の寺とは恐くは音羽洞雲寺であらう。枳園の祖父伏牛親徳(ふくぎうしんとく)の墓も亦洞雲寺にあつたからである。洞雲寺は池袋丸山に徙されて現存してゐる。
 洞雲寺の森氏の塋域に、天保九年戊戌に歿した「清光院繁室貞昌大姉」の墓がある。わたくしは此が枳園の祖母であらうとおもふ。
 此年榛軒三十五、妻志保三十九、女柏四つ、同久利二つ、柏軒と妻俊とは二十九、蘭軒の女長二十五、蘭軒の姉正宗院六十八であつた。

     その二百四十六

 天保十年は蘭軒歿後第十年である。五月二十八日に、蘭軒の父にして榛軒の祖父なる信階(のぶしな)の三十三回忌が営まれたらしい。徳(めぐむ)さんの蔵する一枚の色紙がある。「伊沢ぬし祖父君の三十三年の忌に、あひしれる人々をつどへ給へるをりに、おのれもかずまへられければ。三世かけてむつびあふまでおいせずばむかしをしのぶけふにあはめや。こは祖父君よりしてかたみに心へだてぬ中なればなりけり。定良。」是は蘭軒の詩中に見えてゐる木村駿卿(しゆんけい)である。此人は弘化三年に歿したが、未だ其生年を詳(つまびらか)にしない。
 七月二十日に榛軒の次女久利が三歳にして歿した。法諡(はふし)示幻禅童女(しげんぜんどうによ)である。
 九月二十七日に蘭軒の門人山田椿町(ちんてい)が蘭軒医話を繕写してこれに序した。
 わたくしは前に塩田良三(りやうさん)の生れたことを記したから、此に柏軒門下にして共に現存してゐる松田道夫(だうふ)の此年に生れたことを併記して置く。後に叙すべき柏軒の事蹟は、二氏の談話に負ふ所のものが多い。
 此年榛軒三十六、妻四十、女柏五つ、柏軒と妻俊とが三十、蘭軒の女長二十六、蘭軒の姉正宗院六十九であつた。
 天保十一年は蘭軒歿後第十一年である。榛軒に「天保十一庚子元旦」の七絶がある。今其辞(ことば)を略する。
 三月に榛軒が古文孝経を伊勢の宮崎文庫に納めた。徳さんは其領券を蔵してゐる。「謹領古文孝経孔子伝一冊。右弘安二年古写本影□。阿部賢侯蔵板。賢侯跋而梓行。今茲献納大神宮文庫。伏惟。崇学尚古之余。施及斯挙。豈無洪休神明維享。書生等亦倶拝賜。不勝欣戴之至。遵例標録。以垂千祀矣。是為券。天保十一年庚子三月。豊宮崎文庫書生。伊沢長安雅伯。」
 わたくしは榛軒の妻志保が始て柏に仮名文字を授けたのは此頃であつたかと謂(おも)ふ。女中等は志保の子を教ふることの厳なるを見て、「お嬢様はおかはいさうだ」と云つたさうである。柏の最もうれしかつた事として後年に至るまで記憶してゐるのは、此頃大久保主水(もんど)の店から美しい菓子を贈られたことである。大久保氏は前に云つた如く蘭軒の祖父信政(のぶまさ)の妻の里方であつた。
 阿部家では此年五月十九日に正弘が寺社奉行見習にせられ、十一月八日に寺社奉行にせられた。
 市野氏では此年光寿が歿して光徳が後を襲いだ。又迷庵の弟光忠が歿したので、その創立した分家は光長の世となつた。
 小島成斎は此年貧困のために蔵書を売つた。「余今年四十五、貧窶尤甚、多年研究経籍、一旦沽却、以為養家之資、因賦一絶。研経精密計家疎。不解人生有与無。堪笑如今貧且窶。初知四十五年愚。」
 此年榛軒三十七、妻志保四十一、女柏六つ、柏軒と妻俊とは三十一、長二十七、正宗院七十であつた。
 天保十二年、蘭軒歿後第十二年である。此年には榛軒詩存中年号干支ある作が三首あつて、皆七絶である。其一。「天保十二辛丑小天台暁行口占。不知身在百花中。袖袂薫々一路風。柳処桜辺天欲曙。白模糊接碧濛朧。」其二と三とは「天保十二辛丑途上口占」と題してある。今これを略する。
 柏軒の長女洲(しう)は此年に生れた。是より先長男棠助(たうすけ)が生れたが、其年月を詳にしない。並に狩谷氏俊(しゆん)の出である。
 池田氏では此年八月八日に一女が歿した。二世全安さんの蔵する過去帳に、「真法童女、俗名於芳」と書してある。或は参正池田家譜の俶(よし)と同人ではなからうか。
 此年榛軒三十八、妻志保四十二、女柏七つ、柏軒と妻俊とは三十二、女洲一つ、蘭軒の女長二十八、蘭軒の姉正宗院七十一であつた。

     その二百四十七

 天保十三年は蘭軒歿後第十三年である。此秋小島春庵宝素が京都に往つて、歳の暮に帰つて来た。榛軒の妻志保はこれに生父の誰なるかを討(たづ)ねむことを請うたが、此探討には何の効果も無かつた。事は上(かみ)に詳記してある。此年榛軒三十九、妻志保四十三、女柏八つ、柏軒と妻俊とが三十三、これにも既に棠助と洲との一男一女があつて、洲は二つであつた。長は二十九、正宗院は七十二であつた。
 天保十四年は蘭軒歿後第十四年である。秋冬の交(かう)に、主家阿部家と伊沢氏とに賀すべき事があつた。彼は閏(じゆん)九月十一日に正弘(まさひろ)が老中に列せられたことである。二十五歳の老中であつた。此は十月に榛軒が躋寿館の講師にせられたことである。館の講筵が公開せられて、陪臣医、町医の往いて聴くことを得るに至つた時に、此任命を見たのである。榛軒は四十歳であつた。
 十一月二十八日に、榛軒は祖父隆升軒信階(りうしようけんのぶしな)筮仕(ぜいし)の記念会を催した。信階が福山侯に仕へてより五十年になつてゐたのである。徳(めぐむ)さんの蔵する所の木村定良(さだよし)の文を此に録する。
「福山の君につかへたまへる伊沢ぬし、くすしのわざにたけたまへれば、こたび医学館にて、其すぢのふみを講説すべきよし、おほやけのおほせごとかゞふりたまへるは、いと/\めでたきことになむありける。さるはおほぢの君福山の殿にめされ給ひてより、五十年を経ぬと※[#変体仮名ぞ、8巻-96-下-1]。ことし十一月廿八日はその日とて、人々をつどへていにしへをしのび、はた今もかく其わざのさかえ行ことをよろこぼひて、さかほがひせる時、おのれも祖父君よりして、父君今のあるじまで、心へだてぬおもふどちなればとて、かずまへられたれば、たゝへまゐらするうた。家のかぜふきつたへつゝ三代までも世に名高かるわざぞくすしき。定良。」
 徳さんの蔵する文書に徴するに、信階筮仕の日は十一月二十八日ではなくて、十月二十八日であつたらしい。其一。「以手紙致啓上候。然者懸御目度義有之候間、明廿八日四時留守居役方え御出可被成候。以上。十月廿七日。阿部伊勢守内海塩庄兵衛、関平次右衛門。伊沢玄庵様。」其二。「覚。伊沢玄庵。右百三十石被下置、表御医師本科被召出候。但物成渡方之儀、年々御家中並之通被成下候。右之通被申渡候、以上。十月廿七日。」記念会は或は榛軒が講師を命ぜられてから発意(ほつい)して催したものなるが故に、一箇月を繰り下げたのではなからうか。
 榛軒詩存を検するに、「天保十四癸卯歳晩偶成」の七絶、「天保十四癸卯除夜」の七律各(おの/\)一がある。今除夜の七律を此に抄する。「老駭年光容易疾。把觴翦燭又迎春。三世垂箴睦親族。一生守拙養天真。方今才士無非譎。自古達人多是貧。依旧増加書酒債。先生漫触内君嗔。」
 頼氏では此年山陽の母梅□(ばいし)が八十四歳で歿した。山陽に遅るること十一年であつた。関藤藤陰(せきとうとういん)の石川文兵衛が福山藩に仕へたのも、亦此年十一月五日である。
 わたくしは前(さき)に藤陰の身上に関する問題を提起した。藤陰は本(もと)関藤氏であつた。その石川氏を冒したのは、文化九年六歳の時である。藤陰の石川氏を称することは此より後明治の初に至つた。その山陽門人たる時に草した詩文にも、亦石川成章の自署を留めてゐる。成章は藤陰の名である。然るに山陽病歿の前後に頼氏に寓してゐて、山陽の命を受けて其著述を校訂し、山陽の易簀(えきさく)するに及んで、後事を経営した関五郎と云ふものがある。藤陰と此関五郎とは同一人であるらしい。只その同一人たる確証が無い。且藤陰と関五郎とが果して同一人ならば、殆六十年の久しき間石川氏を称してゐた藤陰が、何故に其中間に於て忽ち関氏を称し、忽ち又石川氏に復したか。一説に関五郎は関氏五郎に非ずして、石川氏関五郎であると云ふ。しかし士人たる関五郎が何故に自署に其氏を省いたか。是が問題の大要である。
 わたくしは今藤陰解褐(かいかつ)の事を記するに当つて、此問題を再検しようとおもふ。それは藤陰の孫国助さんが頃日(このごろ)其蔵儲の秘を発(ひら)いてわたくしに示したからである。

     その二百四十八

 文化の初より明治の初に至るまで、石川氏を称してゐた藤陰成章(とういんせいしやう)と、頼山陽の易簀前後に水西荘に寓してゐた関五郎とが、同一人であると云ふことには、初より大なるプロバビリテエがある。しかし証拠が無い。矧(まし)てや確証とすべきものは無い。又試みに石川成章は何故に、何時より何時に至るまで関五郎と称したかと問はむに、何人もこれに答ふることが出来ない。
 此時に当つて藤陰の孫国助さんが所蔵の文書を写してわたくしに寄示したのは、実に感謝すべき事である。文書は書牘(しよどく)二通で、其他に封筒一枚と書籍一巻とがある。わたくしは左に逐次にこれを録することとする。
 第一の書牘の全文は下(しも)の如くである。「一昨夜者(は)大酔、久々にて散鬱候(うつをさんじそろ)。偖(さて)三木三郎君事、昼後は日々あとくり有之候様、公より御加鞭被下候様奉希候。後室よりは被申候ても不聞者に御坐候。此義乍御面倒奉煩候。不一。三郎。五郎様。」
 此書はいかに看るべきであらうか。単に謄本のみに就いて判断し得らるべきものを此に註する。三郎は児玉旗山(きざん)、五郎は関五郎で、書は旗山の関五郎に与へたものである。「あとくり」は復習である。旗山は醇(じゆん)の午後に復習せざるを憂へて、関五郎にこれを督励せむことを請うた。何故に午前の受業を説かずして、午後の復習を説いてゐるか。午前は旗山が自ら授読してゐるからである。
 書には月日が無い。しかし右の判断にして誤らぬ限は、旗山のこれを裁した月日は略(ほゞ)知ることが出来る。山陽が歿して五十日を経た後、未亡人里恵は醇を旗山の家に通学せしめた。書は此日より後に作られた。即ち天保三年十一月十四日より後に作られた。次で里恵は同年閏(じゆん)十一月二十五日に書を広江秋水夫妻に与へて、「せつかく此せつ(児玉方へ)遣候(はむ)と存候」と云つた。里恵にして期の如く醇を旗山の家に託したとすると、書は閏十一月の末より前に作られた。
 此書の関藤氏に伝はつてゐるのは、明に関五郎の藤陰たるべきプロバビリテエを加ふるものである。
 わたくしは又特に旗山が「三郎」と自署して、藤陰を呼ぶに「五郎」を以てしたのに注目する。五郎は既に山陽の口にする所にして、又旗山の筆にする所である。五郎は恐くは二字の通称であらう。関五郎は関氏五郎であらう。縦(たと)ひ師が弟子を呼ぶとしても、又朋友が相呼ぶとしても、何五郎の称を省いて五郎となすことはなささうである。
 第二の書牘は頼杏坪(らいきやうへい)の関五郎に与へたもので、其文は極て短く、口上書と称すべき際(きは)のものである。「何ぞ御贐(おんはなむけ)に差上度候へ共有合不申、此鄙著二冊致呈上候。御粲留(ごさんりう)被成可被下候。八月十一日。杏坪。関五郎様。」

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