伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

 然るに墓誌を刻した嶺松寺中の石は、合墓(がふぼ)が巣鴨に立てられたと共に処分せられて、墓誌の文章は此に滅びた。又わたくしの望を繋いでゐた江戸黄檗禅刹記(わうばくぜんさつき)も京水の墓誌をば載せてゐない。
 幸に我客二世全安さんは、別に京水身上の疑を解くに足るべき文書を蔵してゐた。それは京水自筆の巻物である。
 此巻物は「文政四年冬十一月九日朝より夜の子の刻に至るの間調薬看病の暇に書、名※[#「大/淵」、8巻-52-上-1]、字河澄、号京水、一号酔醒、又号生酔道人、仏諡可用宗経」と云ふ奥書があつて、下(しも)に華押(くわあふ)がある。又他の箇所には「善直誌」と署してある。文政四年は京水三十六歳の時で、巻子中の記載に拠るに、京水は上野三枚橋の畔(ほとり)の家にあつて書したのである。しかし京水は此時全巻を書したのでは無い。彼「善直誌」と署した部分の如きは、これに先(さきだ)つて書したものと覚しく、又これに後れて追書(つゐしよ)した文字は天保六年七月二日に及んでゐる。即ち終焉に先つこと僅に一年である。
 此巻物の内容は極て豊富である。わたくしをして奈何に其梗概を読者に伝ふべきかに惑はしむる程豊富である。わたくしは此に内容の梗概に筆を著けむとするに臨んで、先づ読者に一事(じ)を告げて置きたい。それはわたくしの曾て懐いてゐた疑が、未だ全くは解けぬまでも、半(なかば)以上此に由つて解けたと云ふ事である。此巻物が略(ほゞ)わたくしを属□(ぞくえん)せしめたと云ふ事である。
 わたくしの筆を著くることを難んずるのは、此巻物の内容が啻(たゞ)に豊富なるのみではなく、又極て複雑してゐて、その入り乱れた糸の千筋を解きほぐすに、許多(きよた)の思慮を要するからである。此巻物は首に「参正池田家譜」と題してあつて、其体裁より言へば系図である。しかし単に系図として看ても、全巻には三種の系図を包容してゐる。
 第一は初代池田瑞仙が寛政十二年庚申四月に幕府に呈した系図である。わたくしは早く此にその頗る杜撰のものであつたことをことわつて置く。今便宜上これを錦橋本と名づける。第二は初代池田瑞仙の曾祖父嵩山正直(すうざんまさなほ)、初代瑞仙は誤つてこれを祖父とした。此嵩山正直の弟成俊(せいしゆん)の玄孫水津(すゐづ)氏某女の有してゐた所の系図である。是は体裁の整はぬものでありながら、書法真率にして牽強の痕がない。今これを水津本と名づける。第三は京水が水津本を用ゐて錦橋本を訂正した系図で、所謂参正(さんせい)池田家譜である。今これを京水本と名づける。
 わたくしは前(さき)に再び京水を説いた時、初代瑞仙の宗家を襲(つ)いだ霧渓晋(むけいしん)の姻家窪田氏所蔵の「池田氏系図」を引用した。今よりして看れば、是は前三本とは全く別で、錦橋本の本づく所である。初代瑞仙の曾祖父嵩山正直の妹が溝挾(みぞはさ)氏に嫁した。其裔溝挾瀬兵衛が此系図を有してゐた。初代瑞仙は系図を幕府に呈せむがために、これを借抄したのである。今これを溝挾本と名づける。

     その二百二十二

 池田京水自筆の巻物の事を叙して、わたくしは池田氏系図の三本が其中に収めてあると云つた。しかし巻物の内容中尊重すべきものは、独り系図のみではない。
 第一に初代瑞仙の伝がある。是は寛政庚申の書上(かきあげ)で、極て杜撰なものではあるが、京水の校註あるが故に尊い。第二に京水自家の履歴がある。苟(いやし)くも京水を知らむと欲するものは、此に由らざることを得ない。第三に系図錦橋本の書後(しよご)がある。是は数行の文ではあるが、一読人をして震慄せしむべきものがある。第四に系図水津本の序記がある。若し紙背に徹する眼光を以て読むときは、其中に一箇の薄命なる女子の生涯が髣髴として現れるであらう。此女子の運命は実に小説よりも奇である。
 わたくしは初め二世池田全安さんの手より此巻物を受けて披閲した時、京水の轗軻不遇の境界をおもひ遣つて、嗟歎すること良(やゝ)久しかつた。わたくしは借留数月にして、全文を手抄した。
 記事は此より巻物の梗概に入る。梗概は原本の次第に拘らずに、年月を逐うて記する。錦橋の祖先の事は努めて省略し、錦橋の事も亦これに準じ、京水の事に至つて稍(やゝ)詳叙する積である。
 系図は京水本に従へば生田頼宗から起つてゐる。天児屋根命(あめのこやねのみこと)二十二世の孫が藤原鎌足で、鎌足十四世の孫が忠実(たゞざね)である。忠実の子が悪左府頼長、頼長の子が兼長、兼長の子が生田頼宗である。
 頼宗は蒲冠者範頼(かばのくわんじやのりより)に仕へた。頼宗の女(ぢよ)は範頼の子頼信を生んだ。頼宗はこれを養つて嗣となした。嫡孫承祖である。錦橋本は此頼信より起つてゐる。此故に生田氏は京水本に従へば藤原氏となり、錦橋本に従へば清和源氏となるのである。しかし此遠祖の事は、わたくしはこれを批評の範囲外に置く。
 頼信十六世の孫が嵩山正直(すうざんまさなほ)である。此世数は京水本に従つて記し、復た諸本の異同を問はない。亦わたくしの評することを敢てせぬ所だからである。
 嵩山正直は始て池田氏を称した。明人(みんひと)戴笠(たいりつ)の痘科(とうくわ)を伝へたと称するものは此嵩山である。此授受の年月には疑がある。嵩山は戴笠が岩国に淹留してゐた時、其治法を伝へたと云ふ。然るに戴笠の岩国に来たのは、僧となつて独立(どくりふ)と号した後で、寛文中の事となるらしい。嵩山の歿年万治二年と云ふに契(かな)はない。戴笠は或は万治元年に江戸に来た前に、既に一たび岩国に往つたであらうか。京水は疑を存してゐる。
 嵩山正直の子は正俊(まさとし)、正俊の子は杏仙正明(きやうせんまさあき)、正明の子は即ち錦橋である。是は京水本に従つたもので、錦橋本は正俊を脱してゐる。

     その二百二十三

 わたくしは池田京水の祖先を説いて鼻祖より京水の養父錦橋に至つた。其間に生じた所の旁系は一々挙ぐることを要せない。しかし彼系図水津(すゐづ)本と溝挾(みぞはさ)本との来歴を明にせむがために、此に水津溝挾両家の事を略記する。
 生田氏の始祖頼宗の子が頼信で、頼信の子が頼氏である。頼氏の弟に信吉と云ふものがあつて、水津重時の家を継(つ)いだ。生田氏の支流に水津氏あることは此に始まる。降つて嵩山正直の父信重は、実は信吉十二世の孫水津信道の子であつた。次に正直の弟を杏朴成俊(きやうぼくなりとし)と云ひ、これが信道五世の孫光(ひかる)の養子となつて水津氏に復(かへ)り、成俊の子に成豊(なりとよ)、正俊があつて、兄成豊は水津氏を継ぎ、弟正俊が又養はれて嵩山の子となつたのである。成豊の孫を水津官蔵と云ふ。系図水津本を有してゐたのは此官蔵の女(ぢよ)である。是が旁系水津氏である。
 次に溝挾氏は嵩山正直の妹、成俊の姉が往いて嫁した。是は京水本の記する所である。これに反して溝挾本に従へば、此女は正直の妹にあらずして成俊の子成豊の妹である。此女の所出が溝挾氏を嗣いでゐる。是は旁系溝挾氏である。
 わたくしは此より京水自筆の巻物に拠つて、初代瑞仙の事蹟を覆検する。しかし巻物の収むる所の錦橋瑞仙寛政庚申の書上(かきあげ)は、極て杜撰なる文書である。わたくしは曾て再び京水を語つた時、錦橋の養子二世瑞仙直卿(ちよくけい)の実子三世瑞仙直温(ちよくをん)の先祖書を引き、此先祖書中錦橋の条は錦橋自己の書上を用ゐたものであらうと云つた。わたくしの此推定は誤らなかつた。しかし錦橋書上と直温先祖書の錦橋の条とは、広略(くわうりやく)大に相異なつてゐる。そして錦橋書上は其文愈(いよ/\)長うして其矛盾の痕は愈著(いちじる)しい。直温は祖父書上の矛盾の大なるものを刪(けづ)り去つたと謂ふも可なる程である。然るに京水は別に養父錦橋の文を校訂すべき材料を有せなかつたと見えて、其矛盾の所はこれに評註を加へたに過ぎない。
 錦橋初代瑞仙は小字(せうじ)を幾之助と云つた。名は善郷(よしさと)、一の名は独美(どくび)、字(あざな)は善卿(ぜんけい)、錦橋は其号、瑞仙は其通称であつた。わたくしは前(さき)に錦橋が公文に字善卿を書したのを怪んだ。京水はこれを辨じてゐる。「善郷。或作善卿者。以字混名乗也。」
 錦橋の年齢は京水の記載を得て一層の紛糾を加へて来る。系図京水本の下(もと)に「実以元文元年生、一伝享保二十年生」と註してゐる。按ずるに所謂「一伝」は錦橋の養嗣子直卿撰の行状、嶺松寺の墓表等と符する。江戸黄檗禅刹記(わうばくぜんさつき)を閲(けみ)するに、墓表は「文政戊寅仲夏、江都侍医法眼杉本良仲温撰、孝子池田晋直卿謹書併建之」と署してあつて、全く直卿撰行状に依拠して草したものである。既に行状を読んだものは、墓表中より殆ど一の新事実をも発見することが出来ぬのである。

     その二百二十四

 錦橋初代池田瑞仙は、系図諸本及書上(かきあげ)に拠るに、寛保二年壬戌に怙(ちゝ)を喪つた。書上は此を「八歳」の時だとしてゐる。実は七歳である。此より錦橋は槇本坊詮応(まきもとばうせんおう)に就いて痘科(とうくわ)を学んだ。書上に詮応を「叔父」と称してある。系図錦橋本に従へば、詮応は嵩山(すうざん)の孫である。京水本に従へば信重の女(ぢよ)、溝挾(みぞはさ)氏室に瀬兵衛某と信之(のぶゆき)との二子があり、信之に信吉(のぶよし)と詮応との二子があつた。即ち信重の曾孫、錦橋の従祖父である。
 錦橋は書上に拠るに、二十歳にして桑原玄仲に雑病の治術を受けた。二十歳は宝暦五年である。しかし前の「八歳」の誤を承(う)け来つたとすると、宝暦四年十九歳の時となるであらう。
 錦橋は書上に拠るに、二十八歳にして母と共に安藝国に往つた。行状に此を宝暦十二年壬午の事としてゐる。享保二十年生として推算したものである。前例に従つて訂正すれば、宝暦十二年二十七歳の時の事となる。
 錦橋は安藝より大坂に移つた。書上は此を「寛延三庚午年」としてゐる。非常なるアナクロニスムである。京水が「按此年善郷年十五なり、未郷里を離ざるの前にあり、恐くは年号書損あるべし」と註した。養子霧渓(むけい)は行状に「安永丁酉冬(中略)年四十」と書した。何の拠(よりどころ)あつての事か不詳である。安永六年丁酉に錦橋は、享保二十年生として四十三、正説元文元年生として四十二になつてゐた。わたくしは錦橋の大坂に往つたのは、安永三年より前でなくてはならぬと思ふが、其理由は下(しも)に挙げよう。
 錦橋は書上に「天明八戊午年人始て曼公の術ある事をしる」と云つた。大坂にあつて人に信ぜらるゝに至つたことを謂ふのである。「戊午」は戊申の誤であらう。正説元文生として五十三歳の時である。
 錦橋は書上に「寛政二辛亥京都痘瘡大に流行、予家治痘之術ある事を聞て請邀る者あり、因て暫く京都に寓」と云つてゐる。辛亥は寛政三年で、元文生として五十六歳の時である。霧渓は「寛政壬午(中略)年五十五」と改めた。その拠る所を知らない。寛政四年壬午は享保生として五十八、正説元文生として五十七である。
 錦橋は書上に拠るに、「寛政八丙辰十二月廿六日」に江戸の召命を受け、翌年入府した。行状には入府の時を「丁巳正月(中略)年六十四」としてゐる。享保生とすれば六十三、正説元文生とすれば六十二である。
 錦橋の歿日は京水が下(しも)の如くに書してゐる。「今按文化十三年丙子閏八月左之地面拝領仕度願出候処、同九月十九日柳原岩井町代地高坂茂助上り地七拾八坪余願之通被仰付候旨、植村駿河守殿御書附を以て被仰渡候。此実は先人御死去之後なり。実は同月六日死。」此文化丙子九月六日の歿日は霧渓も亦正しく書してゐる。しかし年「八十三」は誤である。享保生とすれば八十二、正説元文生とすれば八十一である。
 要するに錦橋書上の原文に従へば、年次と錦橋の年齢とは一も符合せぬのである。霧渓撰行状中その偶(たま/\)符合してゐるのは、享保乙卯生と云ふことと、宝暦壬午二十八歳と云ふこととの二である。そして此乙卯と壬午とは錦橋が書せずして、霧渓が始て書したものである。

     その二百二十五

 池田京水自筆の巻物はわたくしの新に獲た資料である。わたくしは此に由つて痘科池田氏累世の事蹟を覆検し、錦橋初代瑞仙の死に至つた。
 錦橋の妻の事は書上(かきあげ)に見えない。養嗣子霧渓撰の行状に至つて、始て「君在于京師時、娶佐井氏、而無子」と云つてある。霧渓の子直温(ちよくをん)の繕写(ぜんしや)した過去帖には「芳松院殿緑峰貞操大姉、同人(初代瑞仙)妻、佐井氏、実菱谷氏女、嘉永元戊申年十二月六日卒、葬于同寺(嶺松寺)」と書してある。名は後に引くべき京水の文に沢と書してある。
 錦橋の京都に入つた年を、寛政辛亥だとすると、当時菱谷沢(ひしたにさは)は二十七歳であつた。沢の錦橋に嫁した時、夫は六十に近かつた。沢は佐井某を仮親として嫁したのである。寛政丁巳に錦橋が江戸に入つた時、夫は六十二、妻は三十三であつた。錦橋が文化丙子に八十一歳で歿した時、妻沢は五十二になつてゐた。沢には子は無かつた。わたくしは後に京水の事を言ふに至つて、此婦人の事を一顧しなくてはならない。
 錦橋の家は何処であつたか。錦橋自己は何の記載をも遺してゐない。行状に拠るに、大坂では「西堀江隆平橋南涯」に住んだ。京都では「東洞院」に寓した。江戸の居処は墓誌に杉本仲温が書してゐる。仲温は自己と錦橋との交(まじはり)を叙するに当つて、霧渓の行状に拠らなかつた。是が墓誌に見えてゐる唯一の新事実だと云つても好からう。「其始来江都也。住市中。後厭其煩囂。卜居駿河台。屋後築小楼。楼下陳酒尊。楼上貯痘疹書。(中略。)常謂人曰。有酒盈尊。有書插架則足矣。其他無所求。」江戸に来て先づ行李を卸した家は「市中」と云つてある。恐くは下町であつただらう。次で駿河台に遷(うつ)つた。即ち年々武鑑に記された住所である。その地面を柳原岩井町(やなぎはらいはゐちやう)に拝領したのは瞑目した後であつた。
 錦橋は誰を識り誰に交つたか。その江戸に於る交際は書上と墓誌とに徴して知ることが出来る。書上に拠るに、錦橋は始て躋寿館(せいじゆくわん)に往つて逢つた人々を列記して、「多紀永寿院、同安長、吉田快庵、野間玄琢、千田玄知、山本楊庵、曲直瀬正隆等」と云つてゐる。武鑑を検するに、多紀永寿院(たきえいじゆゐん)は「法印、奥御医師、御役料二百俵、向柳原、」同安長(あんちやう)は「法眼、奥御医師、向柳原、父永寿院」と云つてある。永寿院は藍渓元徳(らんけいげんとく)、安長は桂山元簡(けいざんげんかん)である。錦橋がデビユウとして痘書を講じた時、其差図をしたのは藍渓であつた。其他の人々中吉田快庵「法眼、奥御医師、御役料二十人扶持、両国若松町、」千田玄知「表御医師、後寄合、二百俵、駿河台、」此二者は武鑑に見えてゐる。野間玄琢(げんたく)は「野間安節、寄合御医師、二百俵、呉服橋、」山本楊庵は「山本宗英、法眼、奥御医師、御役料二十人扶持、小川町、」曲直瀬正隆は「曲直瀬養安院、寄合御医師奥詰、千九百石、神田橋外」であらうか。しかし錦橋の親しく交つたのは前記の数人ではなくて、杉本仲温、渋江至公(しこう)である。杉本仲温は「表御番医師、後奥詰、下谷御成小路」と、武鑑に見えてゐる。渋江至公は必ずや武鑑の「渋江長伯、寄合御医師奥詰、後奥詰御医師、三百俵十人扶持、新道一番町」であらう。並に錦橋が奥詰医師となつた後の同僚である。仲温は「池田錦橋先生、蒙召自京師至焉、与余同僚于内班者十年矣」と云ひ、又「渋江至公及予、与先生交最深」と云つてゐる。

     その二百二十六

 わたくしは既に池田京水自筆の巻物に拠つて、錦橋初代瑞仙、其妻、其僚友の事を叙した。妻には子が無かつた。宗家を継いだ三世瑞仙直温(ちよくをん)の親類書錦橋の条には、末に「善卿総領、池田瑞英善直、母は家女」と記し、其廃嫡、其全快と別宅住ひとの事、其死が註してある。是が直温に由つて書かれた京水の事蹟である。錦橋は池田杏仙正明(きやうせんまさあき)の実子であつたに、「家女」に子を産ませたと云ふは、何の義なることを知らない。
 錦橋の養嗣子にして直温の生父なる霧渓(むけい)は、養父の行状にかう云つてゐる。「嘗游于藝華時。妾挙一男二女。男曰善直。多病不能継業。二女皆夭。」錦橋の子を問へば、其妾(せふ)を併せ問はざることを得ない。此には京水を生んだものが「家女」ではなくて妾だとしてある。そして此妾には猶二女があつたとしてある。
 直温の繕写(ぜんしや)した所の過去帖には、「憐山院粛徳玄俊居士、信卿、瑞仙弟、京水父、同(寛政)九丁巳八月二日、(中略)六十歳」と云ひ、「宗経軒京水瑞英居士、五十一歳、初代瑞仙長男、実玄俊信卿男、天保七丙申十一月十四日」と云つてある。此には京水が錦橋の弟玄俊信卿(しんけい)の実子、錦橋の養子だとしてある。錦橋が「家女」に産ませた子でもなく、妾に産ませた子でもない。
 わたくしは嘗て再び京水を説いた時、以上の諸説を並べ挙げて疑を存して置いた。しかし三説中妾の子とする霧渓の説に重きを置いたのは、父霧渓の行状を結撰したのが、子直温の過去帖を繕写したより古いからである。何ぞ料(はか)らむ、京水自筆の巻物に拠るに、直温の過去帖には一の虚構だになくして、其他の文書は皆虚構であらうとは。京水が池田玄俊の子で、玄俊が錦橋初代瑞仙の弟であつたことは、今や争ふべからざる事実となつた。
 わたくしは此より玄俊京水父子の伝に入ることとする。是は未だ曾て世に公(おほやけ)にせられざる事実である。
 周防国玖珂郡(くがごほり)通津村(つづむら)に住んでゐた池田杏仙正明に三男一女があつた。男子は幾之助、久之助、丹蔵の三人で、長は後の初代瑞仙、仲は玄俊である。季(き)は夭折した。長は元文元年に生れ、仲は中一年隔てて元文三年に生れた。
 久之助、名は信郷(のぶさと)、長じて玄俊と称した。号は文孝堂と云つた。
 玄俊は天明二年壬寅四十五歳にして故郷を離れ、八月二日に大坂に至り、二十一日に夜舟に乗り込んで、二十二日巳刻に伏見に著き、それより京都東洞院姉小路に住むこととなつた。
 玄俊の都に上つたのは医術を修めむがためであつた。故郷にある時夙(はや)く医業をなし、殊に家学の痘科には精通してゐたので、京都に来てからは本道と産科との師を求めた。本道の師は清水荘介と云つて、新町通丸太町下る西側に住んでゐた。此人は後名を祥助と改め、家も同じ町の東側に移つた。玄俊は此人に就いて、主に傷寒の治法を学んだ。産科の師は賀川玄吾(かがはげんご)で、四条通東洞院西へ入る所に住んでゐた。産論の著者玄悦の孫、産論翼(さんろんよく)の著者玄迪(げんてき)の子である。

     その二百二十七

 玄俊が京都に上るに先(さきだ)つて、其兄幾之助は大坂に来てゐた。それが何年であつたか不明であることは、既に云つた如くである。推するに明和安永の間の事であらう。幾之助は当時早く瑞仙と称してゐたのであらう。家は京水の記載に拠れば平野町であつた。霧渓は「西堀江隆平橋南涯」と記してゐるが、是は同一の家を指すものと見ることが出来よう。玄俊が京都に上つた時、大坂にゐた瑞仙は四十七歳、玄俊は四十五歳であつた。
 京都の玄俊は独身であつたが、大坂の瑞仙は妻があつて九歳になる女(むすめ)を一人連れてゐた。わたくしは池田宗家三世瑞仙直温の書いた過去帖の正確なことを、種々の方面より看て知つたから、今此に拠つて初代瑞仙の妻の事を記する。瑞仙は早く安永三年に妻があつて長女千代を生ませてゐる。安永二年若くは三年に大坂にゐて妻があつたことは明白である。此妻は正行寺(しやうぎやうじ)の女(むすめ)であつた。此妻は次で安永五年に次女を生んだ。そして八年に死んだ。過去帖の「釈妙仙信女」である。九年に次女が死んだ。過去帖の「智瑞童女」である。玄俊が京都に上つた時連れてゐたのは後妻で、千代のためには継母であつた。推するに霧渓二世瑞仙の所謂「嘗游于藝華時、妾挙一男二女、(中略)二女皆夭」の文中、妾(せふ)と一男とは虚で、二女は実であつた。
 玄俊は京都に来た翌年、天明三年に妻を娶(めと)つた。近江国栗太郡(くりもとごほり)草津の人宇野杢右衛門の姉秀(ひで)と云ふものであつた。婚姻をしたのは春の初であつただらう。此年の内に長男が生れた。
 天明四年に玄俊の長男は夭して、次男が生れた。翌五年に次男も亦死んだ。次で六年五月五日に三男が生れた。名は貞之介であつた。是が後の京水である。貞之介の母秀は此月二十六日に死んだ。恐くは産後の病であつただらう。法諡(はふし)は光岳林明信女、五条高倉の宗仙寺に葬られた。此法諡は正しく宗家三世瑞仙直温の書いた過去帖に載せてある。そして「三十六歳」と注してある。此に由つて観れば宇野氏秀は宝暦元年生で、三十三歳にして玄俊に嫁したのである。京水の貞之介は父五十一、母三十六の時の子である。
 貞之介は恃(はゝ)を失つた直後に、伯父瑞仙の養子にせられて大坂に往つた。自筆の巻物に「善郷養て兄弟二人を祐ると云意を用て祐二と改む」と云つてある。「兄弟二人を祐る」とは、玄俊は家に女子が無いので、赤子(せきし)を兄に託して祐けられ、兄瑞仙は男子が無いので、貞之介の祐二を獲て祐(たす)けられたと云ふ意であらう。瑞仙は後妻があり、先妻の生んだ長女千代も既に十四歳になつてゐたので、貞之介の世話をすることは容易であつただらう。

     その二百二十八

 京部東洞院姉小路に住んでゐる池田玄俊(げんしゆん)の三男祐二は、母宇野氏秀(ひで)が死んで、大坂平野町の伯父池田瑞仙に養はれた。時に天明六年で、玄俊は長男、次男が共に夭折して、祐二は其一人子であつたが、家に女の手がなかつたのである。これに反して瑞仙の家には後妻(こうさい)があり、又十四歳になる先妻の女(むすめ)千代がゐて、当歳の祐二の世話をする便(たつき)があつた。
 中一年置いて、天明八年に祐二は始て生父の許(もと)に来た。京水自筆の巻物に、「里帰の祝の為に入京」と書してある。是が正月二十九日であつたと推測せられる。何故と云ふに、其次に「大火に因て次の日再大坂に帰る」と書してあるからである。「大火」とは正月晦日(つごもり)の団栗辻(どんぐりのつじ)の火事なることが明である。三歳の祐二の此往復は、定(さだめ)て養母が連れて往き連れて復(かへ)つたことであらう。
 わたくしは玄俊の姉小路の家は必ず焼けたものと思ふ。そして次の移転の記事を以て、火後の新居を謂つたものとする。「其後信郷居を御池通車屋町西に入北側より二軒目に卜す。」鰥夫(くわんぷ)玄俊は恐くは此家に独居してゐたであらう。しかし土著の人の信任は厚かつたものと見える。「其町の年寄役を兼ぬ」と云つてあるからである。
 わたくしは此所(このところ)に瑞仙の書上(かきあげ)を参照しなくてはならない。「時天明八戊午年人始て曼公の術あることを知る」と云ふ文である。是に由つて観れば、周防国から出た池田氏兄弟は、兄は大坂にあつて技術を以てし、弟は京都にあつて徳望を以てし、同時に地方の信任する所となつたのである。此時兄は五十三、弟は五十一であつた。
 尋(つい)で改元の年を中に置いて、寛政二年に瑞仙の後妻が死んだ。此人も亦先妻と同じく名は伝はらぬが、諡(おくりな)が伝はつてゐる。三世瑞仙直温の書した過去帖に、「釈寿慶信女、同(瑞仙)後妻、寛政二庚戌十月廿四日」と云つてあるのが是である。瑞仙の家は主人五十五歳、長女千代十七歳、養子祐二五歳の三人世帯となつた。
 わたくしは瑞仙の後妻の死を此に插叙して置いて、さて京水の記に戻る。「時寛政二年善郷居を京に移すの志あるに因て、先づ善直を信郷が家に贈」と云ふ文である。瑞仙善郷(よしさと)は自ら京都に入らむと欲して、先づ養子祐二を弟玄俊信郷(のぶさと)の車屋町(くるまやまち)の家に遣つたのである。
 京水の記は次に「同(寛政)三年善郷女於千代を従え、共に信郷が家に寓すること半年を尽し、始て居を油小路の裏店に求」と云つてある。
 瑞仙が祐二を車屋町に遣つたのは、誰に託して遣つたか知らぬが、其時は後妻寿慶(じゆけい)の歿日より後であらう。十月二十四日より後であらう。瑞仙は二年の暮近くなつて、先づ祐二を京へ遣り、三年に入つて自分も千代を率(ゐ)て京に入り、弟の家に寄寓した。そして此より半年を過した後、即ち三年の秋の頃京都油小路の裏店(うらだな)に住むこととなつた。
 是が瑞仙の書上に「寛政二年辛亥(中略)請邀る者あり、因て暫く京都に寓」すと云ひ、二世瑞仙晋撰の行状に「後君厭浪華市井之囂塵、寛政壬子秋、游于京師」と云つてある事蹟の真相である。「辛亥」は二年にあらずして三年、「壬子」は四年である。

     その二百二十九

 わたくしは池田玄俊の事蹟を叙して、寛政三年に玄俊が京都車屋町に住んでゐた処へ、兄瑞仙が大坂から徙(うつ)つて来て、半年余の後油小路の裏店(うらだな)を□(か)りた事を言つた。翌四年には瑞仙が播磨国に遊歴した。留守は十八歳の長女千代と六歳の祐二とであつたから、玄俊が世話をしたことであらう。京水の記に、「明年(寛政四年)播州に遊び、大に弟子を得て帰る」と云つてある。
 五年には瑞仙の家に哀(かなし)むべき出来事があつた。過去帖に拠るに、瑞仙の長女千代は此年七月二十一日に歿したのである。「釈智秀信女、同(瑞仙)長女、同(寛政)五癸丑七月廿一日、二十歳」と記するものが是である。瑞仙は先妻妙仙に二女があつて皆早世し、後妻(こうさい)寿慶は子を産まずして死んだ。
 六年には瑞仙が家を移した。京水の記に、「間之町に僑居」すと云つてある。
 七年には瑞仙が又家を移した。同じ記に、「東洞院丸太町下る処に卜居」すと云つてある。入京以来第三の居宅である。霧渓は行状にかう書してゐる。「後君厭浪華市井之囂塵。寛政壬子秋。游于京師。愛其地之佳麗雄勝。遂寓居于東洞院。」実は瑞仙の東洞院に住んだのは、四年壬子の後三年の事である。
 八年は瑞仙が江戸の召命を受けた年である。痘科(とうくわ)を以て立たうと志した平生の望は此に遂げられた。時に年六十一であつた。書上(かきあげ)に拠るに、幕府の命は十二月二十六日に京都所司代に由つて伝へられたのである。初め池田氏の戴氏(たいし)に承けた痘科は、瑞仙も玄俊も共にこれを伝習してゐた。そして瑞仙が此に由つて立たうと志したがために、玄俊は痘科を棄てゝ顧みなかつたのださうである。京水の記にかう云つてある。「信郷大方科を業として、兼て痘科を修たれども、兄善郷専ら痘科を業とするに及て、自ら譲て偏に大方を修む。」
 九年は瑞仙入府の年である。書上に拠るに、瑞仙は正月三日に京都を発し、十三日に江戸に著した。その寄合医師を命ぜられ、高(たか)二百俵を受けたのは三月五日である。此時瑞仙が京都に留めて置いた家族は、独り養子祐二のみではなかつた。瑞仙には妻があつたらしい。
 此事は三世瑞仙の先祖書初代瑞仙の条に削り去られてゐて、京水の写し伝へた庚申書上に見えてゐる。「同年(寛政九年)五月廿一日、私儀新規被召出候に付、京都に罷在候家内之者共、此度呼下度候段奉願候処、早速願之通堀田摂津守殿被仰渡候。同八月六日当著仕候。悴杏春儀は其節病気に付、快気次第と被仰付候。同年十一月四日当著仕候。」所謂「家内之者共」とは名を斥(さ)さゞる人と杏春(きやうしゆん)とで、名を斥さゞる人は八月六日に先づ至り、杏春は十一月四日に後れて至つた。杏春は祐二である。京水は「善郷(中略)実子の届に言上するに及て杏春と称す」と自記してゐる。名を斥さゞる人は即ち佐井氏、実は菱谷氏(ひしたにうぢ)沢(さは)である。沢は瑞仙の三人目の妻である。「当著」は初めわたくしは当地著の脱文かと以為(おも)つたが、その重出するを見るに、到著の誤であらう。

     その二百三十

 池田瑞仙は自己が寛政九年正月十三日に江戸に著き、妻沢が八月六日に、養子杏春が十一月四日に継(つ)いで至つた。
 瑞仙が三人目の妻沢を娶(めと)つたのは何時であつたか知らぬが、其二人目の妻寿慶が寛政二年に死んだ後、三年に大坂より京都に徙(うつ)つた時には、京水の記に「女於千代を従え」と云つてある如く、妻は無かつた。此より後九年に至る間に瑞仙は沢を娶つた。猶細に考へて見るに、此婚姻は油小路の家に於てせられたのでもなく、間之町(あひのまち)の家に於てせられたのでもなく、長女千代が死してより後時を経て、東洞院の家に於てせられたのではなからうか。
 又養子祐二の名が杏春と改められたのも、月日を明にせぬが、京水の自記に拠るに、父瑞仙が江戸に於て実子として届け出でた時であつたらしい。即ち入府後であつたらしい。
 此推定にして誤らぬならば、瑞仙の三人目の妻沢は寛政七年若くは八年に、養子祐二のゐる処へ迎へられたのである。沢は三十一歳若くは三十二歳で、祐二は十歳若くは十一歳であつた。次で瑞仙が召されて江戸に来り、沢と祐二改杏春とを迎へ取つた。是が瑞仙六十二、沢三十三、杏春十二の時である。
 瑞仙が六十二歳を以て江戸に召された時、弟玄俊は六十歳を以て京都に居残り、幾(いくばく)もあらぬに死んだ。京水の記にはかう云つてある。「寛政九年善郷江戸に至るの故を以て、帯刀免許の命を蒙り、町年寄を兼ることを辞して後、東洞院の善郷が居宅に移り、同年八月二日死、宗仙寺に葬る、法名隣山粛徳信士。」
 是に由て観るに、玄俊信郷は兄瑞仙善郷が寛政九年三月五日に幕府の医官となつた後、帯刀を允(ゆる)され、御池通車屋町の年寄役を辞し、東洞院なる兄の旧宅に移り、八月二日に死んだのである。
 玄俊の京都に客死したのは、兄瑞仙に別れた後である。しかしわたくしの推測する所を以てすれば、実子祐二改杏春は猶未だ京都を離れなかつたであらう。仮に杏春が江戸に至るに、養父瑞仙と同じ日子を費したものとする。瑞仙は正月二日に発程して十三日に入府した。其間十一日である。今杏春の江戸に至つた十一月四日より溯ること十一日なるときは、丁巳の十月は大なるが故に、十月二十三日となる。此日は、丁巳の八月は大、九月は小なるが故に、生父玄俊の死後八十日を過した時である。想ふに杏春は生父の病を瞻(み)、其葬(とぶらひ)を送り、故旧の援助を得て後事を営み、而る後京都を離れたことであらう。
 瑞仙は其書上に、養子杏春の妻沢より遅れた原因を杏春の病に帰してゐる。「悴杏春儀は其節病気に付快気次第と被仰付候。」穉(をさな)い杏春は果して病んでゐたか。或はその病んでゐたものは杏春にあらずして、生父玄俊であつたか。

     その二百三十一

 寛政九年に江戸に来て、冬に至るまでに家族を京都から呼び迎へた池田瑞仙は、初め暫く市中に住んで、次で居を駿河台に卜し、翌十年二月六日には奥詰医師に陞(のぼ)せられた。瑞仙の家は此の如く栄達の途を進んで行つて、余所目(よそめ)には平穏事なきが如くに見えてゐた。
 しかし其裏面には幾多の葛藤があつたものと看なくてはならない。わたくしは後(のち)よりして前を顧み、果(くわ)よりして因を推し、錦橋瑞仙の妻(さい)沢(さは)を信任することが稍過ぎてゐたのではないかと疑ふ。其家に出入(いでいり)する佐々木文仲と云ふものをして、余りに深く内事に干渉するに至らしめたのではないかと疑ふ。佐々木は恐くは洋人の所謂「家庭の友」に類した地位を占むるに至つたのであらう。そして佐々木と沢との関係は、遂に養子杏春をしてこれが犠牲たらしめたのであらう。
 わたくしは嘗て杏春即京水が、霧渓撰の錦橋行状に於ても、富士川氏の写した京水墓誌の一段に於ても、虚弱者としてとりあつかはれてをり、又文中読者をしてその無学無能を想はしめむとするが如き語気あるを見て、此間に或秘密が伏蔵してゐはせぬかと疑つた。今やわたくしは京水自筆の巻物を閲(けみ)することを得て、此間の消息を明にした。駿河台の池田氏には正に一の悲壮劇があつた。そして其主人公は京水即当時の杏春であつた。
 池田の家の床下に埋蔵せられてゐた火薬は終に爆発した。それは京水廃嫡一件である。
 三世瑞仙直温の先祖書にはかう云つてある。「病気に而末々御奉公可相勤体無御坐候に付、総領除奉願候処、享和三亥年八月十二日願之通被仰付候。」しかし今細(こまか)に検すれば、此一件は瑞仙が嫡子を廃したのではなく、杏春が継嗣を辞したのである。且此事のあつた年は、享和三年癸亥ではなく、享和元年辛酉である。按ずるに癸亥は事後に官裁を仰いだ年であらう。
 京水自筆の巻物中参正池田家譜善直(よしなほ)の条には、「享和元年病に依て嗣を辞するの後瑞英と改む」と書してある。嗣を辞したのと、杏春を瑞英と改めたのとは、辛酉の出来事である。当時養父錦橋六十六、養母沢三十七、杏春の瑞英十六であつた。
 此一件の詳なるは、京水瑞英の家に「生祠記」一巻があつて具(つぶさ)に載せてあつたさうである。京水は「辞嗣の始末は生祠記に詳也」と云ひ、又「行状別に生祠記一巻あり、門人等録する所なり、其言頗る過誉なりと雖も、未た必しも偽なし、故に子孫其書に就て余が始終を見るへき者なり」と云つてゐる。生祠記(せいしき)は惜むらくは佚した。少くも池田全安さんの家には存してゐない。
 生祠記は既に佚した。しかし京水は養父の幕府に呈した系図を写して、其後に数行の文を書した。わたくしは此書後に由つて生祠記の内容の一端を知ることを得た。京水の辞嗣は霧渓の受嗣と表裏をなしてゐて、其内情は下(しも)の如くである。
「右直郷(霧渓二世瑞仙晋)は初佐佐木文仲の弟子なり。文仲は於沢の方に愛せられて、遂に余を追て嗣とならむの志起り、種々謀計せしかど、余辞嗣の後にも養子の事(文仲自ら養子となる事)成らず、終に直郷に定りたり。其間山脇道作の男玄智、瑞貞と云、堀本一甫の男某、田中俊庵の男、瑞亮と云、皆一旦は養子となれども、何れも於沢の方と文仲に追出されたり。善直(京水瑞英)誌。」

     その二百三十二

 わたくしは池田京水、当時初代瑞仙の養嗣子杏春が宗家を継ぐことを辞した内情を語つた。杏春は養母沢に悪(にく)まれて家を出でた。沢は佐佐木文仲と云ふものと謀つて、杏春をして去らしめた。それは沢が文仲をして杏春に代らしめようとしたのである。佐佐木文仲の何人なるかは、わたくしは未だ考へない。しかし既に霧渓の師であつたと云へば、杏春より長じてゐたことは勿論であらう。又霧渓よりも長じてゐたであらう。霧渓は杏春より長ずること二歳であつた。
 杏春の去つた後、沢は夫に文仲を養はむことを勧めたであらう。しかし夫瑞仙は聴かずに、養子を他家に求めた。先づ山脇道作の子が来り、次に堀本一甫(ぽ)の子が来り、最後に田中俊庵の子が来つた。そして三人皆沢に斥(しりぞ)けられた。
 武鑑を検するに、山脇道作は「法眼、寄合御医師、五十人扶持、京住居」と云つてある。堀本一甫は「奥御医師、御口科、二百俵十人扶持、築地中町」と云つてある。独り田中俊庵と云ふものが当時の幕府医官中に見えぬが、わたくしは前二人が官医であるより推して、田中も亦官医であらうとおもふ。わたくしは是は田中俊川(しゆんせん)を謂つたものであらうとおもふ。田中俊川は武鑑に「表御番医師、百五十俵、芝田七丁目」と云つてある。「芝田」は芝の田町であらう。
 山脇、堀、田中三氏の子が相踵(あひつ)いで逐はれた後に、当時籍を瑞仙の門人中に列してゐた上野国上久方村(かみひさかたむら)医師村岡善左衛門常信(つねのぶ)倅善次郎が養子にせられた。即ち霧渓二代瑞仙直郷(なほさと)、又の名は晋(しん)である。
 霧渓はいかにして池田宗家に留まることを得たかと云ふに、是は沢が夫の到底文仲を養ふに意なきを見て、文仲を家に迎ふることを断念し、霧渓を養ふことを賛成したからである。霧渓は文仲の旧弟子であつた。天明四年生の霧渓は当時十八歳になつてゐた。その公(おほやけ)に稟(まう)して養嗣子とせられたのは、此より十五年の後、文化十三年三月である。瑞仙の死に先(さきだ)つこと六箇月である。霧渓は既に三十三歳になつてゐた。
 わたくしは此に杏春の生父玄俊の師の一人が京都の産科医賀川玄吾であつたことを回顧する。池田瑞仙が杏春去後(きよご)に霧渓をして家を継がしめたのは、玄吾の生父初代玄悦が玄吾去後に岡本玄迪(げんてき)をして家を継がしめたと、其迹が甚だ相類してゐる。玄吾と杏春との間には、実子と養子との別はあるが、その父の後妻に悪(にく)まれたことは同じである。又杏春が他年一家を樹立して宗家と相譲らざるに至つたことも、其生父の廃儲(はいちよ)であつた有斎玄吾と相似てゐる。
 わたくしは此より池田宗家を去つた後の杏春改(あらため)瑞英の事蹟を記述しようとおもふ。即ち未だ曾て公にせられたことのない京水実伝である。

     その二百三十三

 駿河台の池田瑞仙の邸を辞し去つた京水瑞英には帰るべき家が無かつた。其自記に拠るに、瑞英は「神田明神下金沢町の裏店に僑居」した。前後の状況より推すに、瑞英は町医者として此に開業したらしい。其人は十六歳の青年である。其家は裏店(うらだな)である。わたくしはその自信の厚かつたに驚かざることを得ない。
 翌享和二年に「弟子始て従ひ、始て本庄近江守殿男子を診」した。瑞英の業は約一年にして緒に就いた。是が「病弱不能継業」と云はれた人である。弟子は其学識を信じて来附し、病家は其技術を信じて請待した。驚かざらむと欲しても得られぬのである。武鑑を検するに本庄近江守は「御詰並、一万石、小川町」と云つてある。時に瑞英は十七歳であつた。
「同三年阿部主計頭殿、後備中守嫡子運之助殿を診ひ、主計頭に謁す。此善直諸侯に見の始なり。」阿部主計頭(かぞへのかみ)は即ち棕軒侯正精(まさきよ)である。当時父伊勢守正倫(まさとも)が詰衆、正精は詰並(つめなみ)で、本庄とは同僚であつた。邸宅も亦同じ小川町にあつた。瑞英は本庄の子を治して功があつたので、棕軒も亦其子のためにこれを邀(むか)へたのではなからうか。運之助は寛政八年に真野竹亭が易の「純粋精也」より取つて正粋(まさたゞ)の名を献じた棕軒の嫡男である。正倫、正精、正粋の三人は相踵(あひつ)いで運之助と称した。京水の自記中「診」の字は「みまふ」と訓ませたのであらう。瑞英十八歳の時の事である。
「文化元年武州浦和伊勢屋清蔵の家に寓す。」是も亦技を售(う)らむがための旅であつただらう。瑞英此年十九歳であつた。
「同二年江戸に帰り、同八月甲州に入、弟子三十六人従ふ。」瑞英の声望は破竹の勢を以て長じた。此年二十歳であつた。
「同六年同国石和に於て同所小林総右衛門の女を妻とす。」甲斐国石和(いさわ)の小林氏の女(ぢよ)は名を常と云つた。当時瑞英二十四歳、常は寛政六年生で十六歳であつた。
「同七年長男雄太郎を生。」参正池田家譜に云く。「文化七年七月十六日、生於甲州石和小林総右衛門家。」又云く。「雄次と名を善郷より賜るを以て、行々雄を名と為ものなり。」錦橋瑞仙が名を雄次と命じ、後其雄の字を取つて雄太郎と云つたのであらう。是に由つて観れば、伯母沢は瑞英を悪んでも、伯父瑞仙は姪(てつ)瑞英との交を絶たずにゐて、名を従孫(じゆうそん)に命じたと見える。雄太郎は後の瑞長直頼(ずゐちやうなほより)である。此年瑞英二十五歳。
「同八年帰于江戸。再神田岩井町代地に僑居す。」瑞英は文化八年二十六歳にして、妻常と長男雄太郎とを率(ゐ)て江戸に還つた。此文の「再」の字の上には、或は「同九年」の三字を脱してゐるかも知れない。家を岩井町代地に移したのは、八年でなくて九年であつたかも知れない。何故と云ふに、自記には此下(しも)に直に「盤次郎生」と書してある。次男盤次郎の生れたのは文化九年で、此人は後斎藤氏を冒し、天保五年に二十三歳を以て終つた。「同九年」の三字は若し「再」の字の上に脱してゐぬならば、「僑居す」の下(しも)に脱してゐなくてはならぬのである。

     その二百三十四

 わたくしは京水池田瑞英の事蹟を、其自記に拠つて続抄する。文化九年には瑞英の次男盤次郎が神田岩井町代地の家に生れた。生日は「七月卅日」である。「盤次郎の名は杉本仲温の贈る所なり」と云つてある。是は錦橋初代瑞仙の墓表を撰んだ杉本である。杉本は霧渓二世瑞仙を識つてゐて、これがために錦橋の墓表を撰び、又瑞英を識つてゐて、其次男に命名した。瑞英は二世瑞仙と善くなかつた形迹があるが、杉本は其間に立つて、瑞英に好意を表してゐたらしい。
 わたくしは此関係を証するに足る一の奇なる事実を発見したやうにおもふ。杉本は既に云つた如く、霧渓撰の行状に本づいて錦橋の墓表を作つた。そして錦橋の事蹟には、行状と墓表との間に一も相殊なることが無い。独り文中瑞英善直(よしなほ)を出すに至つて、杉本は行状に無き所の一句を插入した。行状には「男曰善直、多病不能継業」と云つてある。墓表には「先生有子善直、才敏而好学、多病而不能継其業、以其門人直卿為嗣」と云つてある。杉本は己の意志よりして「才敏而好学」の句を添へたのである。わたくしは初め墓表を読んだ時、此句に躓いて歩を駐(とゞ)めた。そして霧渓の嘱を受けて撰文した杉本が、何故に此句を添へたかを疑つた。今にして思へば、瑞英と親善にして其子に命名する杉本は、此句を著けざることを得なかつたのであらう。杉本が既に此句を著けたとき、霧渓も此の公平なる回護に対して、敢て抗議をなさなかつたのであらう。
 盤次郎の生れた時、瑞英は二十七歳であつた。
「同(文化)十年居を浅草誓願寺門前町に移す。」是が瑞英二十八歳の時である。
「十一年三男桓三郎生。十月二日舅死するに依て、同八日甲州に至る。十月廿九日帰于江戸。」三男桓三郎の生れたのは、参正池田家譜に拠るに、「七月七日」である。十月二日には甲斐国石和(いさわ)に於て、瑞英の外舅(ぐわいきう)小林総右衛門が死んだ。瑞英は八日に石和へ往つて、二十九日に江戸に還つた。妻常は定て同行したことであらう。
 家譜桓三郎の下(もと)に「幼名宮村隆円の贈る所也」と云つてある。宮村の名は幕府の官医中に見えない。桓三郎は後一たび玄英と称し、終に祖父玄俊の称を襲いだ。
 三男桓三郎が生れ、外舅小林の歿したのが、瑞英二十九歳の時である。
 文化十二年八月に瑞英は家を下谷(したや)三枚橋(まいばし)「御先手組屋敷」に買つた。是は次年の記に、「去年八月、善直因戸田氏之恵、此三枚橋の家を得たり」と云つてある。「此三枚橋の家」と云つたのは、文政四年に三枚橋の家にあつて此記を作つたからである。「戸田氏」通称は勘介である。其詳(つまびらか)なることは未だ考へない。

     その二百三十五

 わたくしは京水池田瑞英の事蹟を叙して文化十三年に至つた。四男藤四郎の生れた年である。家譜に「七月廿日生、同壬八月三日死」と書してある。法諡(はふし)は「奇藤童子」である。九月六日には前(さき)の養父たる伯父錦橋初代瑞仙が死んだ。瑞英に代つて錦橋の後を襲(つ)いだ霧渓二世瑞仙は此年正月二十六日に養子願を出し、三月十一日に願済となり、十二月二十七日に「跡式無相違被下置」と云ふこととなつた。瑞英は三十一歳、二世瑞仙は卅三歳の時である。初代の未亡人沢は五十二歳であつた。
 文政元年には瑞英の五男直吉(なほきち)が生れた。家譜に拠るに「六月廿五日」生で、「戸田勘介幼名を贈」と記してある。又自記に「同年次男斎藤氏え養子」と云つてある。斎藤氏は家譜に「松浦大和守殿医師斎藤民俊」と記してある。松浦大和守皓(ひかる)は平戸松浦氏の支封で一万石の諸侯である。次男盤次郎は此より斎藤俊英と称し、後又瑞節(ずゐせつ)と改めた。瑞英三十三歳の時である。
「同(文政)二年、病気全快之届を出す。」全快届は前に初代瑞仙の出した「総領除」の弥縫(びほう)である。二世瑞仙の手に由つて出されたことであらう。当時の事情を推測するに、京水瑞英の学術は漸く世間の認むる所となつて、官辺にもこれをして書を医学館に講ぜしめむとする議が起つたので、二世瑞仙は此届出をなさざることを得なかつたのであらう。京水の自記に、「全快届の始末は本末記一巻に詳なり」と云つてあるが、其書は今伝はらない。瑞英三十四歳の時である。
「同(文政)三年再医学館に出。」此自記の文はわたくしをして二つの事を推定せしむる。瑞英は享和元年十六歳で、猶杏春と称してゐた時、早く既に躋寿館(せいじゆくわん)に勤仕してゐたと云ふ事が其一である。躋寿館に於る当時の職は素読の師であつただらう。又今に□(いた)つて「医学館に出」と云ふは、講書のためであると云ふ事が其二である。
 三世瑞仙直温の親類書には、京水の総領除願済(そうりやうのぞきねがひずみ)の事を記した次に、「然る処年を経、追々丈夫に罷成、医業出精仕候に付、文政三(庚)辰年三月療治為修行別宅為致度段奉願候処、願之通被仰付」と云つてある。是は病気に依つて廃嫡せられた瑞英は、旧に依つて瑞仙の家にあるべき筈なるが故に、幕府に其現住所を公認せむことを請うたのであらう。又此公認は瑞英をして躋寿館に勤仕せしむるに必要であつたのであらう。親類書には前年の全快届をも載せず、此年の躋寿館勤仕の事をも載せない。或はおもふに、此別宅願は全快届に伴つたもので、事は前年にあつたのではなからうか。「文政三」は「文政二」の誤ではなからうか。しかし「辰」の字があるので、此に録して置く。
 家譜に拠るに、此年瑞英の六男末吉が生れた。「八月廿一日生」と云つてある。
 躋寿館再勤仕と六男の出生とは瑞英三十五歳の時の事である。
 次年は文政四年で、京水瑞英が自記の筆を把つた年である。此時二世瑞仙の家と瑞英の家との間に、板木問題と云ふ事が起つた。

     その二百三十六

 わたくしは文政四年京水池田瑞英が三十六歳になつた時に、瑞英の家と宗家たる霧渓二世瑞仙の家との間に、板木問題と云ふ事が起つたと云つた。京水自記の文にかう云つてある。「同(文政)四年、痘科辨要板木を、家元の弟子養子二世医官直郷、通称は先代の名を襲ひ、是家禄を保つ身にて、此板木を売物に出すに就て、善直方へ購取る一件は、余が遺言録一巻中に詳なり。」
 問題の大要は此文に由つて推知することが出来る。錦橋初代瑞仙は痘科辨要(とうくわべんえう)を著した。其書上には「同(文化)八(辛)未年八月十二日、痘科辨要十巻著述出板に付献上仕候」と云つてある。此板木は家に伝へてあつた。それを霧渓が売つた。瑞英は商賈の手よりこれを買ひ取つたと云ふのである。その詳細なる事情に至つては、京水の「遺言録」が佚亡したために、今知ることが出来ない。
 当時霧渓は養父錦橋の職禄を襲ぎ、駿河台より柳原岩井町の賜邸に遷り、名位を占め、恩栄を荷つてゐた。それが板木を売つて、技を售(う)り口を糊してゐる京水をして購(あがな)はしめた。京水憤慨の状は自記の数句の中にも見(あらは)れてゐる。
 わたくしは此に註して置きたい事がある。それは三種の書の佚亡である。第一は生祠記(せいしき)で、京水の門人が師の宗家の継嗣を辞した事を記したものである。第二は本末記で、京水が自ら全快届の事を記したものである。第三は此遺言録で、京水が自ら板木買戻の事を記したものである。わたくしの京水に関する研究は、其自筆の巻物を見ることを得、僅に右三種の書の名目を知るに至つて、早く既に著き進歩をなした。しかし若し三種の書が未だ全く湮滅(いんめつ)せずにゐて、他日一たび発見せられ、わたくしがこれを目睹することを得たならば、微顕闡幽(びけんせんいう)の真目的は此に始て達せられるであらう。
 此年十一月十九日は京水瑞英が往事を自記した日である。「朝より夜の子の刻に至るの間、調薬看病の暇に書」と云つてある。「看病」は恐くは病客を診する義で、家に病むものがあつて看護する義ではあるまい。此より下(しも)は巻物に年月を逐うた記事が無いから、京水の後日に家譜中に補記した所を拾ひ集めて、年月に従つてこれを次第する。
 文政六年には一女子が生れた。即ち瑞英の長女である。その名の記載を闕いてゐるのは、後三歳にして夭したためであらう。生日は「十月十一日」である。瑞英三十八歳の時である。
 文政八年には七男が生れた。「全吉、文政八(乙)酉九月七日出生、阿部侯長臣町野平介、初名多膳、幼名を贈」と記してある。此全吉が後に全安と改称した。榛軒の女(ぢよ)柏(かえ)の初の婿、わたくしの相識ることを得た二世全安の養父である。全安の名附親町野は恐くは福山侯正精(まさきよ)の臣であらう。しかし武鑑には見えない。
「霜月廿八日」に二年前に生れた長女が死んだ。法諡(はふし)「含章童女」である。全吉が生れ、含章(がんしやう)が死んだのは、瑞英四十歳の時である。

     その二百三十七

 わたくしは京水池田瑞英の事蹟を叙するに、文政四年に至る前半は其自記の文に拠ることを得た。しかし後半の資料はこれを参正池田家譜中所々に散見する細註に仰がざることを得ない。わたくしの続貂(ぞくてう)の文は既に八年に及んでゐた。
 文政九年には瑞英の長男が籍を躋寿館(せいじゆくわん)に置いたらしい。家譜に「文政壬戌入于医学館」と云つてある。壬戌は恐く丙戌の誤であらう。此年長男雄太郎は十八歳であつた。既に直頼(なほより)と名のり、瑞長と称してゐた筈である。父瑞英四十一歳の時である。
 十年には次女俶(よし)が生れた。家譜に「文政十丁亥八月十五朝出生、名俶、よし、小久原権九郎奥方幼名を贈らる」と云つてある。字書を検するに「俶」には昌六切(しやうりくのせつ)と他歴切(たれきのせつ)との二音があつて、彼には「又善也」と釈してある。小久原(をくはら)の何人なるかは未だ考へない。此年瑞英四十二歳であつた。
 十二年には八男剛(かう)十郎(らう)が生れた。家譜に「文政己丑十一月七日生、幼名浅岡益寿贈ところ」と云つてある。浅岡の何人なるかも亦未だ考へない。此年瑞英四十四歳であつた。
 天保元年には長男瑞長が妻を娶(めと)つた。家譜に「妻青木貞勝妹、文政庚寅八月嫁来」と云つてある。庚寅は改元の年であつた。又六男末吉の縁談があつて、成らずして罷んだ。「文政庚寅松浦肥前守殿医師嵐山某え縁談之処、同年破談致す、後改て程安と称」と云つてある。当時の肥前国平戸の城主松浦肥前守は朝散大夫熈(てうさんたいふひろし)であつた。瑞長の外舅(ぐわいきう)青木と、程安(ていあん)の養父たらむとして寝(や)んだ嵐山(あらしやま)との事は未だ考へない。此年瑞英四十五歳であつた。
 三年には八男剛十郎が四歳にして夭した。「天保壬辰十一月十七日卒、(中略)仏諡玄剛」と云つてある。此年瑞英四十六歳であつた。
 四年には瑞長の長男敬太郎直(ちよく)が生れた。「天保四癸巳四月二日誕生、母青木氏女」と云つてある。瑞英の初孫である。此年瑞英四十七歳であつた。
 五年には六月十三日に九男政之助が生れ、越て十五日に次男斎藤瑞節が死んだ。彼は「天保五甲午六月十三暁子誕生」と云ひ、此は「天保五甲午六月十五日卒、葬于本所法恩寺内善行寺、法名夏山院日周信士、年二十三」と云つてある。二世全安さんの家の過去帳には、「本所報恩寺中祥善寺」に作つてある。善行寺若くは祥善寺は養家斎藤氏の菩提所であらう。諸子中此人は嶺松寺に葬られざるが故に、わたくしは特に寺名を抄出した。此墓は或は今猶存してゐるかも知れない。此年瑞英四十八歳であつた。
 六年には六月二十二日に瑞長の長男敬太郎が死し、七月朔(さく)に其次男が生れ、二日に死した。彼は「天保六乙未六月廿二日卒、(中略)仏諡知幼」と云ひ、此は「天保乙未七月朔生、二日卒、仏諡泡影」と云つてある。泡影の死が京水自筆の巻物の最後の記載である。此年瑞英四十九歳であつた。
 七年十一月十四日に京水瑞英は五十歳で歿した。法諡(はふし)宗経軒京水瑞英居士である。文政四年の自記に「仏諡可用宗経」と云つてあつた。此諡(おくりな)には僧侶の撰んだ文字は一字も無い。跡には九子二女を生んだ四十三歳の妻常、二十七歳の嫡子瑞長、二十三歳の三男生田玄俊、十九歳の五男直吉、十七歳の六男程安、十二歳の七男全安、十歳の次女俶、三歳の九男政之助が遺つた筈である。三男玄俊は父京水が祖先の氏を襲(つ)がしめたものであらう。

     その二百三十八

 わたくしは池田京水自筆の巻物を得て、錦橋初代瑞仙の祖先、錦橋自己乃至其子孫の事蹟を覆検し、就中(なかんづく)錦橋の弟文孝堂玄俊と、其実子にして一たび伯父錦橋に養はれ、後廃せられて自立した京水瑞英との事蹟は、その未だ曾て世に公(おほやけ)にせられなかつた史実なるが故を以て、特にこれを細叙した。
 然るに彼巻物の内容にして、わたくしの此に補記せざるべからざるものが猶一つある。それは巻物の主要部分たる参正池田家譜の来歴である。初め京水は伯父錦橋の幕府に呈した系図即ち錦橋本系図を蔵してゐた。文化十三年、伯父錦橋の歿する年に至つて、京水は料(はか)らずも系図の一異本を観た。即水津本(すゐづぼん)系図である。京水は此水津本を用ゐて、錦橋本に訂正を加へ、新に参正池田家譜を編した。即京水本系図である。
 此故に参正池田家譜の来歴を語らむとするには、溯つて水津本の来歴を語らなくてはならない。
 既に云つた如く、池田氏は古く水津氏と聯繋してゐる。錦橋十八世の祖頼氏(よりうぢ)の弟信吉(のぶよし)は水津重時の家を継いだ。降つて錦橋の高祖父信重は、実は信吉十二世の孫水津信道の子であつた。信重の子嵩山正直(すうざんまさなほ)の弟杏朴成俊(きやうぼくなりとし)は、信道五世の孫光(ひかる)の養子となつて水津氏に復(かへ)り、成俊の子成豊は水津氏を継ぎ、其弟正俊が又養はれて嵩山の子となつた。即ち錦橋の祖父である。
 水津本に成豊の子が信成(のぶなり)、信成の子が官蔵となつてゐて、京水本はこれを襲用してゐる。
 然るに水津本の序に、京水は官蔵を「富小路殿御内斎藤平蔵悴也」と書してゐる。今再び水津本を検するに、水津光の弟政之助が今出川家の家人斎藤帯刀(たてはき)の養子となつて、子平蔵をまうけた。推するに此平蔵が富小路家に仕へて、子官蔵をまうけ、官蔵が信成の後に一たび絶えた水津氏を冒したのであらう。同じ序文にかう云つてある。「平蔵の実子なれども、斎藤氏を称へず、水津を称候は本家相続の心なるべし。」
 官蔵は同じ序に拠るに、名を「官大夫と改、武家奉公の望有て、相模国何某といふ剣術名誉之人をたより、弟子となつて兵法免許をも受たれども、不仕合にて可然奉公在付も無之、再度帰京して近衛公に奉公」した。
 官蔵の妻(さい)は序に、「今出川殿御奉公人にて、生国は大津成よし」と云つてある。此妻は一女を生んで歿した。「寛政九年死去、其月は不覚、法名は円浄、七日の忌日なり」と云つてある。「不覚」とは其女(ぢよ)が記憶してをらぬを謂ふ。
 官蔵の女(むすめ)は恃(はゝ)を失つた後十一年、「文化五甲子夏故ありて此江戸に来」た。然るに女が江戸に来た後三年、文化八年に官蔵は歿した。そして水津系図を女に譲つた。「形見とて此一軸を大事にせよと被申遺」と云つてある。推するに官蔵は京都にあつて、近衛家の家人として歿し、系図を江戸へ送つたのであらう。
 此女が京水に邂逅するのである。

     その二百三十九

 わたくしは京水本系図の来歴より泝(さかのぼ)つて水津本系図の来歴に及び、水津本が京都で歿した水津官蔵の手より、江戸にゐる女(むすめ)の手にわたつたことを言つた。
 京水が官蔵の女に遭つて水津本を借抄したのは文化十三年である。京水は水津本の序にかう云つてゐる。「文化十三年水津家系図を所持の女人に逢て、(中略、)其一軸を仔細申聞て仮受写畢。」
 京水は序に此女の末路を叙して云つた。「此女の身分世話をも致遣可申心底之処、元来風と所持の一軸の表書を見たるまゝに懇に申懸候迄にて、昨今の事なれば、猶折も可有之と思ひ居候処、女子不幸にして病死、其後右一軸の事申て看病之者等へ尋候へ共、一切分り不申候。但此女不幸にして遊女となり候て、終に死したり。」
 以上が京水の水津本に序して、斎藤平蔵、水津官蔵、水津氏某女の三世の事を記した文の梗概である。わたくしの文は京水の原文に比すれば、稍長きを加へた。或はわたくしは初より原文を写し出した方が好かつたかも知れない。しかしわたくしは京水の文の解し難きに苦んだ故に、読者をして同一の苦を嘗(な)めしむるに忍びなかつたのである。
 京水は水津本を重視し、これを藉り来つて錦橋本の愆(あやまり)を繩(たゞ)さうとした。水津本は記載素樸にして矯飾の痕が無い。京水の重視したのも尤である。しかし水津本と雖も、多少の疑ふべき所がないでもない。池田氏は信重より霧渓晋(むけいしん)若くは京水に至るまでが六世、水津氏の信重の兄信武より斎藤平蔵に至るまでも亦六世である。然るに後者の水津官蔵に至るまでは九世である。今その各世の寿命の脩短(しうたん)を細検せむとするに、歿年及年歯の記註不完全なるがために能はない。しかしわたくしは強ひて深く此等世系の問題に立ち入ることを欲せぬのである。
 わたくしは最後に水津官蔵の女(ぢよ)の薄命と、その京水との奇遇を一顧して置きたい。京水の文に由つて、覊旅の女の語つた所を窺ふに、女の父官蔵が早く既に舛命(せんめい)の苦を閲(けみ)し尽したらしい。そして其女に至つては実に言ふに忍びざる悲惨の境に沈淪したのである。仮に此女は母の死んだ年に生れたものとすると、その怙(ちゝ)[#ルビの「ちゝ」は底本では「ちち」]を失つたのが十五歳、覊旅に死したのが二十歳である。実は此より多少長じてゐたのであらう。女にして若し偶(たま/\)京水に邂逅しなかつたら、其祖先以来の事は全く闇黒の裏(うち)に葬り去られて、誰一人顧みるものもあるまい。知らず、水津本系図の一軸は何者が奪ひ去つたか。
 わたくしの京水自筆の巻物中より得た資料は概ね此に尽きた。わたくしは最後に此に附載するに黄檗山の錦橋が碑の事を以てしたい。

     その二百四十

 蘭軒歿後の叙事中、わたくしは天保七年池田京水の死を語つて、其養孫二世全安さんの蔵する京水自筆の巻物の事に及んだ。そして其末に黄檗山にある京水の伯父錦橋が碑の事を附することとする。
 錦橋は江戸駿河台の家に歿して向島嶺松寺に葬られた。
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