伊沢蘭軒
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:森鴎外 

 □斎の死は、津軽屋のためには尋常隠居の死として視るべきではなかつただらう。懐之は固より凡庸人でなかつたことが、慊堂の「風度気象能肖父」を以て証せられてゐる。しかし性頗る酒色を好んだ。家にあるに手杯(てさかづき)を釈(お)かず、客至れば直に前に陳(なら)べた下物(げぶつ)を撤せしめて、新に□核(かうかく)を命じた。そして吾家に冷羮残炙(れいかうざんしや)を供すべき賤客は無いと云つたさうである。又妻(さい)後藤氏に随つて来た侍女に姿色があつたので、遂に留めて妾(せふ)としたと言ふ。想ふに湯島の店は□斎の董督(とうとく)に待つあること鮮少(せんせう)でなかつただらう。

     その二百十四

 わたくしは狩谷懐之が、縦令(たとひ)多少書を読んでゐたとしても、必ずしも大商店を経営する力をば有せなかつたものと推する。父□斎は浅草に隠居した後も、屡(しば/\)湯島に往来して、懐之を庇※(ひいん)[#「广+陰」、8巻-40-上-11]することを怠らなかつたであらう。此年乙未の秋には、其□斎が歿したのである。
 わたくしは嘗て懐之が怙(こ)を喪つた後久しからずして下谷徒町(かちまち)に隠居し、湯島の店を養子三右衛門に譲り、三右衛門が離別せられた後、重て店主人(てんしゆじん)となつたことがあると聞いてゐる。此説は懐之に自知の明があつて、早きを趁(お)うて責任ある地位を遯(のが)れたものとも解せられる。わたくしは只その年月の遅速を詳(つまびらか)にしない。
 懐之の養子三右衛門は二人ある。離縁せられた初の三右衛門は造酒業豊島屋(としまや)の子であつた。離縁の理由としては、所謂天閹(てんえん)であつたらしく伝へられてゐる。其真偽は固より知ることが出来ない。後の三右衛門は即ち懐之の後を襲(つ)いだ矩之(くし)で、本(もと)斎藤氏である。
 わたくしは一の事実より推して、□斎歿後に懐之が続いて店主人たりし時代は甚だ短くはなかつたことを知る。それは柏軒の女(ぢよ)国(くに)が、初め豊島屋から来た三右衛門の配として迎へられ、その離縁せられた後、遂に斎藤氏から来た三右衛門矩之に嫁したと云ふ事実である。
 矩之は天保十四年生、国は弘化元年生である。懐之の歿した安政三年には、矩之が十四歳、国が十三歳であつた。矩之に先(さきだ)つて狩谷氏に来た豊島屋の子三右衛門は、縦(よ)しや矩之より長じてゐたとしても、既に国を配すべき少年であつたとすれば、其齢(よはひ)の懸隔は甚だ大くはなかつただらう。
 是に由つて観れば、懐之の退隠は安政の初年より早くはなかつただらう。此年乙未より安政紀元の甲寅に至る間は二十年である。是が懐之の店主人であつた筈の年数である。彼(かの)「怙を喪つて久からずして」退隠したと云ふ説は、斟酌して聞くべきである。わたくしは後に至つて又此問題に立ち帰るであらう。
 □斎の歿した時、其妻はどうしてゐたか。墓誌には唯「出為従祖弟狩谷保古嗣、配以第三女」の句があるのみである。わたくしは此に拠つて□斎の妻が狩谷保古(はうこ)の第三女であつたことを知る。しかし其生歿を明にすることを得ない。天竜寺には□斎の墓があつて、妻狩谷氏の墓は無い。
 わたくしは頃日(このごろ)料(はか)らずも□斎の妻の忌日を知ることを得たやうにおもふ。若し他に記録の徴すべきものが無いとすると、是も亦□斎伝を補ふべき重要なる材料の一であらう。

     その二百十五

 わたくしは此年天保乙未に狩谷□斎の歿した時、其妻はどうしてゐたかと問うた。既に屡(しば/\)云つた如くに、わたくしは□斎の詳伝の有無(いうむ)を知らない。しかし見聞(けんもん)の限を以てすれば、其妻であつた狩谷保古(はうこ)の第三女は生歿の年月が不詳であるらしい。
 然るにわたくしは頃日(このごろ)市(いち)に閲(けみ)して一小冊子を獲た。藍界(らんかい)の半紙二十六枚のマニユスクリイで、茶表紙の上に貼(てふ)した簽(せん)に「糾繩抄」の三字が題してある。内容は享和三年より天保九年に至るまでに歿した人の忌日で、聴くに随つて書き続いだものと覚しく、所々明に墨色の行毎に殊なるを認める。
 一友人は筆蹟が屋代弘賢(やしろひろかた)に似てゐるが故に、或は弘賢の自筆本ではなからうかと云ふ。弘賢は天保十二年に八十四歳で歿した。若し友の言(こと)の如くならば、輪池(りんち)が歿前三年即八十一歳に至るまで点簿したこととなるであらう。
 按ずるに標題の糾繩(きうじよう)は隋書に「若不糾繩、何以粛□」と云つてある如く、ただす義である。此を以て此書に名づけたのは不審である。わたくしは或は糾纏(きうてん)の誤ではなからうかと疑つた。しかし詩人等は屡糺繩を用ゐること糾纏のごとくにしてゐる。わたくしは題簽を熟視してゐるうちに、ふと紙下に墨影あるに心附いた。そして日に向つて透(すか)して視た。果して茶表紙に直(ぢき)に書いた別の三字があつた。此三字は「過去帳」であるらしい。推するに初め過去帳と題し、後忌(い)んで糾繩抄と改めたものであらう。
 此糾繩抄の文化七年庚午の下(もと)には七人の名がある。原文の儘に録すれば、下(しも)の如くである。「正月廿七日小野蘭山(八十二歳、二月発喪)細見権十郎(三月十六日、実は八月十四日、号秋月院道法日観居士)加藤定四郎(四月十九日朝)太田備後守殿(六月十七日於掛川死去、脚気腫之由)望之妻(六月十八日朝)吉川熊太郎(七月十四日病死)おのふ(八月。)」括弧内は細註の文である。
 わたくしは此「望之妻」は□斎の妻であらうと謂(おも)ふ。果して然らば、□斎の妻狩谷氏は文化七年庚午六月十八日の朝歿したこととなるであらう。
 □斎の墓誌には「育一男二女、男即懐之、(中略、)女一適高橋某、一適伊沢信重」と書してある。伊沢分家の口碑の伝ふる所に拠れば、初め狩谷保古は望之(ばうし)を養ふに当つて、其生父高橋高敏(かうびん)に約するに、望之の子をして高橋氏を嗣(つ)がしむることを以てした。それゆゑ□斎の長女たかのは高橋氏に養はるることとなつてゐた。然るにある日長女次女は相携へて浅草の観音に詣でた。家に帰つて、長女は病臥し、遂に起たなかつた。次女はたか、後の名は俊(しゆん)で、長じて後柏軒に嫁(か)した。誕生の順序は第一懐之、第二たかの、第三たかであつたと云ふのである。
 □斎の妻が文化七年に歿したとすれば、是は懐之七歳、たか一歳の時である。たかのは懐之より穉(をさな)く、たかより長じてゐたことを知るのみで、其生歿年を詳(つまびらか)にしない。当時□斎は三十六歳であつた。□斎の妻は夫に先つこと二十五年にして既に歿してゐた。

     その二百十六

 此年乙未には蘭軒門人森枳園の家に冢子(ちようし)約之(やくし)が生れた。渋江抽斎の家では嫡子恒善(つねよし)が既に十歳になつてゐて、此年第二子優善(やすよし)が生れた。約之と優善とは榛軒の女(ぢよ)柏(かえ)と同庚で、若し大正丁巳までながらへてゐたら、今の曾能子(そのこ)刀自と倶に、八十三歳になつてゐる筈である。
 此年榛軒三十二、妻志保三十六、柏軒二十六、長二十二、志保の産んだ柏一歳であつた。
 天保七年には春の未だ闌(たけなは)ならぬうちに、柏軒が狩谷□斎の第二女たか、後の名俊(しゆん)を娶(めと)つたらしい。何故と云ふに、柏の初節句即丙申の三月三日には、たかが家にゐたと伝へられてゐるからである。
 柏軒たかの夫婦は同庚である。そして共に二十七歳で結婚したこととおもはれる。
 たかは善く書を読んだ。啻(たゞ)に国文を誦(じゆ)するのみではなく、支那の典籍にも通じてゐた。現に徳(めぐむ)さんの姉良子(よしこ)刀自は、たかが子に授けむがために自ら書した蒙求(まうぎう)を蔵してゐる。拇指大(ぼしだい)の楷書である。女文字に至つては当時善書の聞(きこえ)があつた。連綿草(れんめんさう)を交へた仮名の散らし書の消息数通、細字の文稿二三巻も亦良子刀自の許にある。蘭軒の姉正宗院と云ひ、此たかと云ひ、渋江抽斎の妻五百と云ひ、仮名文(ぶみ)の美しきことは歎賞すべきである。たかは折々父□斎に代つて歌を書いた。そして人はその孰(いづ)れか□斎にして孰れかたかなるを辨ずることを得なかつた。たかは歌を詠じ、文章を書いた。
 たかは夙(はや)く今少納言と称せられ、又単に少納言と呼ばれた。それゆゑ後に山内氏五百が才名を馳せた時、人が五百を新少納言と呼んだ。たかの少納言に対(むか)へて呼んだのである。たかは五百より長ずること七歳であつた。渋江保さんは両少納言の初て相見た時の事を母に聞いてゐる。これは大勢で川崎の大師に詣でた時で、二人を紹介したのは磯野勝五郎即後の石川貞白であつた。五百は後に「思つた程美しくはなかつた」と云つた。たかは背が低かつたさうである。
 たかは諸藝に通じてゐて、唯音楽を解せなかつた。塙検校(はなはけんぎやう)の類(たぐひ)であつたと見える。
 たかは処女時代に黒田家の奥に仕ふること三年であつた。正宗院の曾て仕へた家である。君侯のお手が附いたと云ふ虚説が伝へられたために、暇(いとま)を乞うたさうである。
 たかの柏軒に嫁したのは、自ら薦めたのださうである。「磐安(ばんあん)さんがわたしを女房(にようぼ)に持つてくれぬかしら」とは、たかの屡(しば/\)口にした所であつた。推するに橋わたしは石川であつたかも知れない。当時懐之(くわいし)の家は富裕であつた。然るにたかはみづから択んで一諸生たる柏軒に嫁(か)したのである。
 保さんは彼「失はれたるマニユスクリイ」抽斎日乗に、五六枚の記事のあつたことを記憶してゐる。それは諸友の柏軒たかの華燭を賀した詩歌であつた。中には狂歌狂句俗謡の類で、文字の稍(やゝ)褻(せつ)に亘つたものが夾雑してゐた。女のしかけた恋だと云ふ故であつたらしい。

     その二百十七

 わたくしは渋江抽斎の日乗に、柏軒と狩谷氏たかとの合※(がふきん)[#「丞/巳」、8巻-45-上-5]を祝する詩歌、俳諧、俗謡があつて、中には稍褻に亘つたものゝあつたことを語つた。そして是がたかの自ら薦めた故であつたらしいと云つた。しかしたかの此の如き揶揄を被(かうむ)つたには、猶別に原因があるらしい。
 たかの気質は男子に似てゐた。言語(げんぎよ)には尋常女子の敢て口にせざる詞(ことば)があり、挙措(きよそ)には尋常女子の敢て作さざる振舞があつた。たかは毎(つね)に磯野勝五郎、小野富穀(ふこく)の輩(ともがら)と酒を飲んで快談した。又男子の花信を伝ふるを聞いて、直に起つて同じく観むことを勧めたこともある。此等は後年柏軒の嗣子磐(いはほ)の聞き伝へてゐて、渋江保さんに語つた所である。是も亦祝賀の日に当つて、措辞の忌憚なきを致した一原因であらう。
 これを読むものは、たかの性行中より、彷彿として所謂新しき女の面影を認むるであらう。後に抽斎に嫁した山内氏五百も亦同じである。此二人は皆自ら夫を択んだ女である。わたくしは所謂新しき女は明治大正に至つて始て出でたのではなく、昔より有つたと謂(おも)ふ。そしてわたくしの用ゐる此称(となへ)には貶斥(へんせき)の意は含まれてをらぬのである。
 柏軒が家を中橋(なかばし)に構へたのも、恐くは此頃の事であらう。文書の上に於ては、わたくしは弘化四年の榛軒の湘陽紀行中に始て中橋の家の事を見出した。しかし柏軒が中橋に別居したのは、迎妻のためではなかつたかとおもふのである。そして此別居はやがて伊沢氏の「又分家」の成立となつたことであらう。
 わたくしは此より曾能子(そのこ)刀自の記憶に本づいて、此年三月三日の事を語らうとおもふ。幼い柏(かえ)の初節句である。
 榛軒の家には古くより持ち伝へた雛人形があつた。しかし志保は榛軒に請うて、別に新しきものを買ふこととした。さて柏軒と倶に内弟子某をしたがへて家を出た。
 留守は柏軒の妻たかであつた。忽ち柏が痙攣を起した。恐くは腸胃の不調和等に因る痙攣であつただらう。たかは驚いて家内の人々を呼び集(つど)へ、治療看護に手を尽した。
 柏が纔に常に復した時、志保等は還つた。たかは志保を玄関に出で迎へて、「あの、お留守にお柏さんが」と云ひさして泣き伏した。此女丈夫の心根にも優しい処はあつたものと見える。
「柏がどうかいたしましたか」と問うた志保は、心の裏(うち)に若しや死んだのではあるまいかと疑つて、甚だしく驚いた。そしてたかの語を継ぐを待つて、始て心を安んじたさうである。此事は後年志保が幾度となく柏に語つた。
 新なる雛人形のためには、新なる雛棚があつらへられた。榛軒は大工に命じて幅二間、高さ一間の階段を造らしめ、特にこれを堅牢にせむことを求めた。その出来て来たのを見れば、数人が践(ふ)んで升(のぼ)ることを得る程堅牢であつた。此雛段は久しく伊沢の家にあつて、茶番などの催さるゝ毎に、これに布を貼つて石段として用ゐられたさうである。
 此年冬榛軒は癰(よう)を病んだ。榛軒詩存に「天保七年丙申冬夜、病癰臥」の五律がある。「病夫苦長夜。一睡尚三更。風定林柯寂。月升烏鵲鳴。倦書背燈影。欹枕算鐘声。愁緒遣無地。通宵誦仏名。」

     その二百十八

 此年天保七年十一月十四日に池田京水(けいすゐ)が歿した。柏軒が京水の家に就いて痘科(とうくわ)を聴いたことは、上(かみ)に記したるが如くである。又蘭軒門人渋江抽斎が同じく京水に学んだことは曾て抽斎の事蹟を叙するに当つて言つて置いた。京水は後に一たび榛軒の女(ぢよ)柏(かえ)の夫となるべき全安(ぜんあん)の父である。
 わたくしは抽斎の事蹟を叙して、始て其師京水に言及した。次で此年丙申に先(さきだ)つこと二十年文化丙子に、京水の養父錦橋(きんけう)が歿した時、わたくしは再び其子京水の事を語つた。わたくしは此に養父と書した。錦橋が京水の実父なりや養父なりやは、曩(さき)にわたくしは決することを得ずに、疑問として残して置いた。しかもわたくしは実父説に重きを置いて、養父説をば一説として併せ存して置いた。是は錦橋が幕府に対して実子と申し立てゝゐたらしかつた故であつた。今わたくしは錦橋が確に寛政十二年の書上(かきあげ)に京水を以て実子となしてゐたことを知つてゐる。そして又それが虚構であつたことをも知つてゐる。
 わたくしは初に京水を語つた時と、再び京水を語つた時との間に、錦橋の宗家の後裔たる池田鑑三郎(かんざぶらう)さんと相見た。是が研究上稍(やゝ)大(だい)なる進歩であつたことは勿論である。
 しかしわたくしの主として知らむと欲したのは、父錦橋にあらずして子京水である。鑑三郎は嫡子京水善直(ぜんちよく)の廃せられた後、其父錦橋の門人中より出でて宗家を継いだ霧渓晋(むけいしん)の後裔である。鑑三郎に縁(よ)つて分家京水の事を知ることは困難であつた。
 わたくしは百方捜索して京水の後裔を識らむとした。しかし久しく何の得る所も無かつた。
 然るにわたくしは本伝に錦橋の死を記した後、今京水の死を記する前、即ち再び京水を説いた時と三たび京水を説く時との間に、図(はか)らずも京水の後裔と相見た。
 わたくしの錦橋の死を記した文が新聞に連載せられてゐた頃の事である。当時品川に住んでゐて、町役場に出入(いでいり)する一知人がわたくしに書を寄せた。「高著伊沢蘭軒新聞にて拝読致居候処、痘科池田京水と申者の事蹟に御不審の箇条有之候と相見え候。然るに貴説に右京水の一子と相成居候全安の名、当町役場の書類中に有之候。但し此池田全安は現存者にして或は時代相違ならむかとも被存、若し同名異人なるときは、無用の穿鑿に可有之候へ共、兎も角も左に宿所姓名抄出、御一報申上候。」此書の末に「南品川猟師町三十九番地池田全安」と低書(ていしよ)してあつた。わたくしは此に書を裁した知人の名を公(おほやけ)にする必要を認めない。わたくしは永く其人がわたくしの研究上頗る重大なる資料を得る媒(なかだち)をなしたことを忘れぬであらう。
 わたくしは直に池田全安と云ふ人を訪ふことに決意して、先づ書を贈つて先方の都合を問ひ合せた。然るに全安さんは書を以て答へずに、自らわたくしの家にたづねて来た。

     その二百十九

 一知人がわたくしに品川に池田全安と云ふ人のあることを報じた。それは池田京水の子と名を同じうしてゐるが故であつた。わたくしは其人を訪はむと欲して書を寄せた。そして其人の忽ち刺を通ずるに会つた。
 わたくしは伊沢分家の語る所を聞いて、全安が嘉永二年に二十余歳で婿入をしたことを知つてゐた。若し客が其人だとすると、九十歳前後になつてゐなくてはならない。此の如き長寿の人も固より絶無では無い。しかし容易に未知の人を訪問しはせぬであらう。
 又客が若し池田京水の族人でなかつたら、わたくしの書を得て、わたくしを見ようとはせぬであらう。
 推するに客は京水の子全安の名を襲(つ)いだものではなからうか。わたくしは咄嗟の間に此の如く思量した。そして客を引見した。
 座に入り来つたのは、洋服を著た偉丈夫である。躯幹(くかん)長大にして、筋骨が逞しい。打見るところは、僅に四十歳を踰(こ)えたかとおもはれる。
 わたくしは此方(こなた)より訪ふべき人に訪はれたのであるから、先づ其枉顧(わうこ)の好意を謝した。そして京水との親属関係を問うた。
「京水はわたくしの祖父でございます」と客は答へた。
「さやうでしたか。それではあなたは御尊父様のお名をお襲ぎなさいましたのですね。失礼ながら御実子でお出なさいますか。」
「いゝえ、わたくしは加賀の金沢のもので、池田家へ養子に参つたのです。」
「御尊父様は。」
「父は明治十四年に亡くなりました。」
 わたくしの推測は偶中した。客は京水の孫であつた。京水の子全安に養はれて、其名を襲いだものであつた。
 わたくしは客に池田京水に関する研究の経過を告げた。向島嶺松寺にあつた京水の墓は、曾て富士川游さんが往弔(わうてう)したのに、寺が廃せられて、他の池田氏の諸墓と共に踪跡(そうせき)を失した事、諸墓の中池田宗家に係る錦橋以下数人の墓石は、其末裔鑑三郎さんに由つて処分せられ、其法諡(はふし)は一石に併せ刻せられて、現に上野共同墓地に存する事、然るに分家の一なる京水の一族の墓は其なりゆきを知ることを得なかつた事等である。
 わたくしは江戸黄檗禅刹記(わうばくぜんさつき)の事をも客に告げた。禅刹記に嶺松寺を載せ、併て池田氏の墓に及んでゐることは、人あつてわたくしに教へた。その錦橋の墓誌を録してゐることは推知せられる。しかし京水の墓誌は有らうか無からうか。わたくしは前(さき)に再び池田氏の事を説いた時、疑を存して置いた。後渋江保さんは上野図書館を訪ふ序に、わたくしのために禅刹記を閲(けみ)してくれた。錦橋の墓誌は収められてゐて、京水のものは収められてゐなかつたのである。わたくしは客に此憾をも語つた。

     その二百二十

 わたくしは池田京水の孫全安さんを引見して、先づわたくしの京水の事蹟を探討した経過を語つた。わたくしの談は探墓談であつた。是はわたくしが京水墓誌の全文と其撰者とを知らむことを欲した故である。
 京水の孫全安即二世全安は、わたくしに向島嶺松寺にあつた池田分家の諸墓のなりゆきを告げた。わたくしは京水の子と孫とが同名なるを以て、以下彼を初代全安と書し、此を二世全安と書して識別し易からしむることとする。
 池田分家は宗家即錦橋の家にあつて廃嫡せられた京水に由つて創立せられた。京水の後は嫡男瑞長直頼(ずゐちやうちよくらい)が襲(つ)いだ。瑞長の弟初代全安は一たび伊沢分家に婿入して離縁せられ、後更に分立して一家を成した。伊沢氏の例に倣(なら)つて言へば、初代全安の家は「又分家」である。今二世全安のわたくしに告げた所の諸墓のなりゆきは、此分家と又分家との諸墓のなりゆきである。
 嶺松寺の廃せらるるに当つて、二世全安は祖父京水の卑属たる池田分家並に又分家の両家の諸墓を処分せしめ、一石を巣鴨共同墓地に立てゝ「池田家累世之墓」と題した。是は宗家の裔鑑三郎さんが錦橋霧渓一系の合墓(がふぼ)を上野共同墓地に立てたと同時の事である。嶺松寺池田氏の諸墓は此時二地に分ち徙(うつ)され、その宗家に係(か)かるものは鑑三郎に由つて上野へ遣られ、その分家と又分家とに係かるものは二世全安に由つて巣鴨へ遣られたのである。
 是に於てわたくしは向島弘福寺主の言ふ所の無根拠でなかつたことを知つた。寺主は巣鴨に移された墓の事を聞いて、上野に移された墓の事を聞かなかつたのである。
 然らばわたくしが巣鴨に尋ねて往つた時、毫も得る所なくして帰つたのは何故であつたか。墓地の管理をする家の女は、わたくしに墓には皆檀家あり、檀家に池田氏なきを以て答へたのであつた。そして女はわたくしを欺かなかつた。二世全安は嘗て一たび池田両分家の合墓を巣鴨に立て、後又これを雑司谷共同墓地に徙した。わたくしの巣鴨に往つたのは此遷徙(せんし)の後であつた。
 今は錦橋霧渓一系の合墓が上野にあり、京水瑞長系と京水全安系との両系の合墓が雑司谷にあるのである。
 そして京水の墓誌は永遠に湮滅(いんめつ)してしまつた。其全文を読み、其撰者の誰なるを知らむと欲するわたくしの望の糸は此に全く断ち切られたのである。

     その二百二十一

 わたくしが池田京水墓誌の全文を読み又其撰者の誰なるを知らむと欲したのは、京水の身上に疑ふべき事があつて、わたくしはこれが解決を墓誌に求めたのである。
 然るに墓誌を刻した嶺松寺中の石は、合墓(がふぼ)が巣鴨に立てられたと共に処分せられて、墓誌の文章は此に滅びた。又わたくしの望を繋いでゐた江戸黄檗禅刹記(わうばくぜんさつき)も京水の墓誌をば載せてゐない。
 幸に我客二世全安さんは、別に京水身上の疑を解くに足るべき文書を蔵してゐた。それは京水自筆の巻物である。
 此巻物は「文政四年冬十一月九日朝より夜の子の刻に至るの間調薬看病の暇に書、名※[#「大/淵」、8巻-52-上-1]、字河澄、号京水、一号酔醒、又号生酔道人、仏諡可用宗経」と云ふ奥書があつて、下(しも)に華押(くわあふ)がある。又他の箇所には「善直誌」と署してある。文政四年は京水三十六歳の時で、巻子中の記載に拠るに、京水は上野三枚橋の畔(ほとり)の家にあつて書したのである。しかし京水は此時全巻を書したのでは無い。彼「善直誌」と署した部分の如きは、これに先(さきだ)つて書したものと覚しく、又これに後れて追書(つゐしよ)した文字は天保六年七月二日に及んでゐる。即ち終焉に先つこと僅に一年である。
 此巻物の内容は極て豊富である。わたくしをして奈何に其梗概を読者に伝ふべきかに惑はしむる程豊富である。わたくしは此に内容の梗概に筆を著けむとするに臨んで、先づ読者に一事(じ)を告げて置きたい。それはわたくしの曾て懐いてゐた疑が、未だ全くは解けぬまでも、半(なかば)以上此に由つて解けたと云ふ事である。此巻物が略(ほゞ)わたくしを属□(ぞくえん)せしめたと云ふ事である。
 わたくしの筆を著くることを難んずるのは、此巻物の内容が啻(たゞ)に豊富なるのみではなく、又極て複雑してゐて、その入り乱れた糸の千筋を解きほぐすに、許多(きよた)の思慮を要するからである。此巻物は首に「参正池田家譜」と題してあつて、其体裁より言へば系図である。しかし単に系図として看ても、全巻には三種の系図を包容してゐる。
 第一は初代池田瑞仙が寛政十二年庚申四月に幕府に呈した系図である。わたくしは早く此にその頗る杜撰のものであつたことをことわつて置く。今便宜上これを錦橋本と名づける。第二は初代池田瑞仙の曾祖父嵩山正直(すうざんまさなほ)、初代瑞仙は誤つてこれを祖父とした。此嵩山正直の弟成俊(せいしゆん)の玄孫水津(すゐづ)氏某女の有してゐた所の系図である。是は体裁の整はぬものでありながら、書法真率にして牽強の痕がない。今これを水津本と名づける。第三は京水が水津本を用ゐて錦橋本を訂正した系図で、所謂参正(さんせい)池田家譜である。今これを京水本と名づける。
 わたくしは前(さき)に再び京水を説いた時、初代瑞仙の宗家を襲(つ)いだ霧渓晋(むけいしん)の姻家窪田氏所蔵の「池田氏系図」を引用した。今よりして看れば、是は前三本とは全く別で、錦橋本の本づく所である。初代瑞仙の曾祖父嵩山正直の妹が溝挾(みぞはさ)氏に嫁した。其裔溝挾瀬兵衛が此系図を有してゐた。初代瑞仙は系図を幕府に呈せむがために、これを借抄したのである。今これを溝挾本と名づける。

     その二百二十二

 池田京水自筆の巻物の事を叙して、わたくしは池田氏系図の三本が其中に収めてあると云つた。しかし巻物の内容中尊重すべきものは、独り系図のみではない。
 第一に初代瑞仙の伝がある。是は寛政庚申の書上(かきあげ)で、極て杜撰なものではあるが、京水の校註あるが故に尊い。第二に京水自家の履歴がある。苟(いやし)くも京水を知らむと欲するものは、此に由らざることを得ない。第三に系図錦橋本の書後(しよご)がある。是は数行の文ではあるが、一読人をして震慄せしむべきものがある。第四に系図水津本の序記がある。若し紙背に徹する眼光を以て読むときは、其中に一箇の薄命なる女子の生涯が髣髴として現れるであらう。此女子の運命は実に小説よりも奇である。
 わたくしは初め二世池田全安さんの手より此巻物を受けて披閲した時、京水の轗軻不遇の境界をおもひ遣つて、嗟歎すること良(やゝ)久しかつた。わたくしは借留数月にして、全文を手抄した。
 記事は此より巻物の梗概に入る。梗概は原本の次第に拘らずに、年月を逐うて記する。錦橋の祖先の事は努めて省略し、錦橋の事も亦これに準じ、京水の事に至つて稍(やゝ)詳叙する積である。
 系図は京水本に従へば生田頼宗から起つてゐる。天児屋根命(あめのこやねのみこと)二十二世の孫が藤原鎌足で、鎌足十四世の孫が忠実(たゞざね)である。忠実の子が悪左府頼長、頼長の子が兼長、兼長の子が生田頼宗である。
 頼宗は蒲冠者範頼(かばのくわんじやのりより)に仕へた。頼宗の女(ぢよ)は範頼の子頼信を生んだ。頼宗はこれを養つて嗣となした。嫡孫承祖である。錦橋本は此頼信より起つてゐる。此故に生田氏は京水本に従へば藤原氏となり、錦橋本に従へば清和源氏となるのである。しかし此遠祖の事は、わたくしはこれを批評の範囲外に置く。
 頼信十六世の孫が嵩山正直(すうざんまさなほ)である。此世数は京水本に従つて記し、復た諸本の異同を問はない。亦わたくしの評することを敢てせぬ所だからである。
 嵩山正直は始て池田氏を称した。明人(みんひと)戴笠(たいりつ)の痘科(とうくわ)を伝へたと称するものは此嵩山である。此授受の年月には疑がある。嵩山は戴笠が岩国に淹留してゐた時、其治法を伝へたと云ふ。然るに戴笠の岩国に来たのは、僧となつて独立(どくりふ)と号した後で、寛文中の事となるらしい。嵩山の歿年万治二年と云ふに契(かな)はない。戴笠は或は万治元年に江戸に来た前に、既に一たび岩国に往つたであらうか。京水は疑を存してゐる。
 嵩山正直の子は正俊(まさとし)、正俊の子は杏仙正明(きやうせんまさあき)、正明の子は即ち錦橋である。是は京水本に従つたもので、錦橋本は正俊を脱してゐる。

     その二百二十三

 わたくしは池田京水の祖先を説いて鼻祖より京水の養父錦橋に至つた。其間に生じた所の旁系は一々挙ぐることを要せない。しかし彼系図水津(すゐづ)本と溝挾(みぞはさ)本との来歴を明にせむがために、此に水津溝挾両家の事を略記する。
 生田氏の始祖頼宗の子が頼信で、頼信の子が頼氏である。頼氏の弟に信吉と云ふものがあつて、水津重時の家を継(つ)いだ。生田氏の支流に水津氏あることは此に始まる。降つて嵩山正直の父信重は、実は信吉十二世の孫水津信道の子であつた。次に正直の弟を杏朴成俊(きやうぼくなりとし)と云ひ、これが信道五世の孫光(ひかる)の養子となつて水津氏に復(かへ)り、成俊の子に成豊(なりとよ)、正俊があつて、兄成豊は水津氏を継ぎ、弟正俊が又養はれて嵩山の子となつたのである。成豊の孫を水津官蔵と云ふ。系図水津本を有してゐたのは此官蔵の女(ぢよ)である。是が旁系水津氏である。
 次に溝挾氏は嵩山正直の妹、成俊の姉が往いて嫁した。是は京水本の記する所である。これに反して溝挾本に従へば、此女は正直の妹にあらずして成俊の子成豊の妹である。此女の所出が溝挾氏を嗣いでゐる。是は旁系溝挾氏である。
 わたくしは此より京水自筆の巻物に拠つて、初代瑞仙の事蹟を覆検する。しかし巻物の収むる所の錦橋瑞仙寛政庚申の書上(かきあげ)は、極て杜撰なる文書である。わたくしは曾て再び京水を語つた時、錦橋の養子二世瑞仙直卿(ちよくけい)の実子三世瑞仙直温(ちよくをん)の先祖書を引き、此先祖書中錦橋の条は錦橋自己の書上を用ゐたものであらうと云つた。わたくしの此推定は誤らなかつた。しかし錦橋書上と直温先祖書の錦橋の条とは、広略(くわうりやく)大に相異なつてゐる。そして錦橋書上は其文愈(いよ/\)長うして其矛盾の痕は愈著(いちじる)しい。直温は祖父書上の矛盾の大なるものを刪(けづ)り去つたと謂ふも可なる程である。然るに京水は別に養父錦橋の文を校訂すべき材料を有せなかつたと見えて、其矛盾の所はこれに評註を加へたに過ぎない。
 錦橋初代瑞仙は小字(せうじ)を幾之助と云つた。名は善郷(よしさと)、一の名は独美(どくび)、字(あざな)は善卿(ぜんけい)、錦橋は其号、瑞仙は其通称であつた。わたくしは前(さき)に錦橋が公文に字善卿を書したのを怪んだ。京水はこれを辨じてゐる。「善郷。或作善卿者。以字混名乗也。」
 錦橋の年齢は京水の記載を得て一層の紛糾を加へて来る。系図京水本の下(もと)に「実以元文元年生、一伝享保二十年生」と註してゐる。按ずるに所謂「一伝」は錦橋の養嗣子直卿撰の行状、嶺松寺の墓表等と符する。江戸黄檗禅刹記(わうばくぜんさつき)を閲(けみ)するに、墓表は「文政戊寅仲夏、江都侍医法眼杉本良仲温撰、孝子池田晋直卿謹書併建之」と署してあつて、全く直卿撰行状に依拠して草したものである。既に行状を読んだものは、墓表中より殆ど一の新事実をも発見することが出来ぬのである。

     その二百二十四

 錦橋初代池田瑞仙は、系図諸本及書上(かきあげ)に拠るに、寛保二年壬戌に怙(ちゝ)を喪つた。書上は此を「八歳」の時だとしてゐる。実は七歳である。此より錦橋は槇本坊詮応(まきもとばうせんおう)に就いて痘科(とうくわ)を学んだ。書上に詮応を「叔父」と称してある。系図錦橋本に従へば、詮応は嵩山(すうざん)の孫である。京水本に従へば信重の女(ぢよ)、溝挾(みぞはさ)氏室に瀬兵衛某と信之(のぶゆき)との二子があり、信之に信吉(のぶよし)と詮応との二子があつた。即ち信重の曾孫、錦橋の従祖父である。
 錦橋は書上に拠るに、二十歳にして桑原玄仲に雑病の治術を受けた。二十歳は宝暦五年である。しかし前の「八歳」の誤を承(う)け来つたとすると、宝暦四年十九歳の時となるであらう。
 錦橋は書上に拠るに、二十八歳にして母と共に安藝国に往つた。行状に此を宝暦十二年壬午の事としてゐる。享保二十年生として推算したものである。前例に従つて訂正すれば、宝暦十二年二十七歳の時の事となる。
 錦橋は安藝より大坂に移つた。書上は此を「寛延三庚午年」としてゐる。非常なるアナクロニスムである。京水が「按此年善郷年十五なり、未郷里を離ざるの前にあり、恐くは年号書損あるべし」と註した。養子霧渓(むけい)は行状に「安永丁酉冬(中略)年四十」と書した。何の拠(よりどころ)あつての事か不詳である。安永六年丁酉に錦橋は、享保二十年生として四十三、正説元文元年生として四十二になつてゐた。わたくしは錦橋の大坂に往つたのは、安永三年より前でなくてはならぬと思ふが、其理由は下(しも)に挙げよう。
 錦橋は書上に「天明八戊午年人始て曼公の術ある事をしる」と云つた。大坂にあつて人に信ぜらるゝに至つたことを謂ふのである。「戊午」は戊申の誤であらう。正説元文生として五十三歳の時である。
 錦橋は書上に「寛政二辛亥京都痘瘡大に流行、予家治痘之術ある事を聞て請邀る者あり、因て暫く京都に寓」と云つてゐる。辛亥は寛政三年で、元文生として五十六歳の時である。霧渓は「寛政壬午(中略)年五十五」と改めた。その拠る所を知らない。寛政四年壬午は享保生として五十八、正説元文生として五十七である。
 錦橋は書上に拠るに、「寛政八丙辰十二月廿六日」に江戸の召命を受け、翌年入府した。行状には入府の時を「丁巳正月(中略)年六十四」としてゐる。享保生とすれば六十三、正説元文生とすれば六十二である。
 錦橋の歿日は京水が下(しも)の如くに書してゐる。「今按文化十三年丙子閏八月左之地面拝領仕度願出候処、同九月十九日柳原岩井町代地高坂茂助上り地七拾八坪余願之通被仰付候旨、植村駿河守殿御書附を以て被仰渡候。此実は先人御死去之後なり。実は同月六日死。」此文化丙子九月六日の歿日は霧渓も亦正しく書してゐる。しかし年「八十三」は誤である。享保生とすれば八十二、正説元文生とすれば八十一である。
 要するに錦橋書上の原文に従へば、年次と錦橋の年齢とは一も符合せぬのである。霧渓撰行状中その偶(たま/\)符合してゐるのは、享保乙卯生と云ふことと、宝暦壬午二十八歳と云ふこととの二である。そして此乙卯と壬午とは錦橋が書せずして、霧渓が始て書したものである。

     その二百二十五

 池田京水自筆の巻物はわたくしの新に獲た資料である。わたくしは此に由つて痘科池田氏累世の事蹟を覆検し、錦橋初代瑞仙の死に至つた。
 錦橋の妻の事は書上(かきあげ)に見えない。養嗣子霧渓撰の行状に至つて、始て「君在于京師時、娶佐井氏、而無子」と云つてある。霧渓の子直温(ちよくをん)の繕写(ぜんしや)した過去帖には「芳松院殿緑峰貞操大姉、同人(初代瑞仙)妻、佐井氏、実菱谷氏女、嘉永元戊申年十二月六日卒、葬于同寺(嶺松寺)」と書してある。名は後に引くべき京水の文に沢と書してある。
 錦橋の京都に入つた年を、寛政辛亥だとすると、当時菱谷沢(ひしたにさは)は二十七歳であつた。沢の錦橋に嫁した時、夫は六十に近かつた。沢は佐井某を仮親として嫁したのである。寛政丁巳に錦橋が江戸に入つた時、夫は六十二、妻は三十三であつた。錦橋が文化丙子に八十一歳で歿した時、妻沢は五十二になつてゐた。沢には子は無かつた。わたくしは後に京水の事を言ふに至つて、此婦人の事を一顧しなくてはならない。
 錦橋の家は何処であつたか。錦橋自己は何の記載をも遺してゐない。行状に拠るに、大坂では「西堀江隆平橋南涯」に住んだ。京都では「東洞院」に寓した。江戸の居処は墓誌に杉本仲温が書してゐる。仲温は自己と錦橋との交(まじはり)を叙するに当つて、霧渓の行状に拠らなかつた。是が墓誌に見えてゐる唯一の新事実だと云つても好からう。「其始来江都也。住市中。後厭其煩囂。卜居駿河台。屋後築小楼。楼下陳酒尊。楼上貯痘疹書。(中略。)常謂人曰。有酒盈尊。有書插架則足矣。其他無所求。」江戸に来て先づ行李を卸した家は「市中」と云つてある。恐くは下町であつただらう。次で駿河台に遷(うつ)つた。即ち年々武鑑に記された住所である。その地面を柳原岩井町(やなぎはらいはゐちやう)に拝領したのは瞑目した後であつた。
 錦橋は誰を識り誰に交つたか。その江戸に於る交際は書上と墓誌とに徴して知ることが出来る。書上に拠るに、錦橋は始て躋寿館(せいじゆくわん)に往つて逢つた人々を列記して、「多紀永寿院、同安長、吉田快庵、野間玄琢、千田玄知、山本楊庵、曲直瀬正隆等」と云つてゐる。武鑑を検するに、多紀永寿院(たきえいじゆゐん)は「法印、奥御医師、御役料二百俵、向柳原、」同安長(あんちやう)は「法眼、奥御医師、向柳原、父永寿院」と云つてある。永寿院は藍渓元徳(らんけいげんとく)、安長は桂山元簡(けいざんげんかん)である。錦橋がデビユウとして痘書を講じた時、其差図をしたのは藍渓であつた。其他の人々中吉田快庵「法眼、奥御医師、御役料二十人扶持、両国若松町、」千田玄知「表御医師、後寄合、二百俵、駿河台、」此二者は武鑑に見えてゐる。野間玄琢(げんたく)は「野間安節、寄合御医師、二百俵、呉服橋、」山本楊庵は「山本宗英、法眼、奥御医師、御役料二十人扶持、小川町、」曲直瀬正隆は「曲直瀬養安院、寄合御医師奥詰、千九百石、神田橋外」であらうか。しかし錦橋の親しく交つたのは前記の数人ではなくて、杉本仲温、渋江至公(しこう)である。杉本仲温は「表御番医師、後奥詰、下谷御成小路」と、武鑑に見えてゐる。渋江至公は必ずや武鑑の「渋江長伯、寄合御医師奥詰、後奥詰御医師、三百俵十人扶持、新道一番町」であらう。並に錦橋が奥詰医師となつた後の同僚である。仲温は「池田錦橋先生、蒙召自京師至焉、与余同僚于内班者十年矣」と云ひ、又「渋江至公及予、与先生交最深」と云つてゐる。

     その二百二十六

 わたくしは既に池田京水自筆の巻物に拠つて、錦橋初代瑞仙、其妻、其僚友の事を叙した。妻には子が無かつた。宗家を継いだ三世瑞仙直温(ちよくをん)の親類書錦橋の条には、末に「善卿総領、池田瑞英善直、母は家女」と記し、其廃嫡、其全快と別宅住ひとの事、其死が註してある。是が直温に由つて書かれた京水の事蹟である。錦橋は池田杏仙正明(きやうせんまさあき)の実子であつたに、「家女」に子を産ませたと云ふは、何の義なることを知らない。
 錦橋の養嗣子にして直温の生父なる霧渓(むけい)は、養父の行状にかう云つてゐる。「嘗游于藝華時。妾挙一男二女。男曰善直。多病不能継業。二女皆夭。」錦橋の子を問へば、其妾(せふ)を併せ問はざることを得ない。此には京水を生んだものが「家女」ではなくて妾だとしてある。そして此妾には猶二女があつたとしてある。
 直温の繕写(ぜんしや)した所の過去帖には、「憐山院粛徳玄俊居士、信卿、瑞仙弟、京水父、同(寛政)九丁巳八月二日、(中略)六十歳」と云ひ、「宗経軒京水瑞英居士、五十一歳、初代瑞仙長男、実玄俊信卿男、天保七丙申十一月十四日」と云つてある。此には京水が錦橋の弟玄俊信卿(しんけい)の実子、錦橋の養子だとしてある。錦橋が「家女」に産ませた子でもなく、妾に産ませた子でもない。
 わたくしは嘗て再び京水を説いた時、以上の諸説を並べ挙げて疑を存して置いた。しかし三説中妾の子とする霧渓の説に重きを置いたのは、父霧渓の行状を結撰したのが、子直温の過去帖を繕写したより古いからである。何ぞ料(はか)らむ、京水自筆の巻物に拠るに、直温の過去帖には一の虚構だになくして、其他の文書は皆虚構であらうとは。京水が池田玄俊の子で、玄俊が錦橋初代瑞仙の弟であつたことは、今や争ふべからざる事実となつた。
 わたくしは此より玄俊京水父子の伝に入ることとする。是は未だ曾て世に公(おほやけ)にせられざる事実である。
 周防国玖珂郡(くがごほり)通津村(つづむら)に住んでゐた池田杏仙正明に三男一女があつた。男子は幾之助、久之助、丹蔵の三人で、長は後の初代瑞仙、仲は玄俊である。季(き)は夭折した。長は元文元年に生れ、仲は中一年隔てて元文三年に生れた。
 久之助、名は信郷(のぶさと)、長じて玄俊と称した。号は文孝堂と云つた。
 玄俊は天明二年壬寅四十五歳にして故郷を離れ、八月二日に大坂に至り、二十一日に夜舟に乗り込んで、二十二日巳刻に伏見に著き、それより京都東洞院姉小路に住むこととなつた。
 玄俊の都に上つたのは医術を修めむがためであつた。故郷にある時夙(はや)く医業をなし、殊に家学の痘科には精通してゐたので、京都に来てからは本道と産科との師を求めた。本道の師は清水荘介と云つて、新町通丸太町下る西側に住んでゐた。此人は後名を祥助と改め、家も同じ町の東側に移つた。玄俊は此人に就いて、主に傷寒の治法を学んだ。産科の師は賀川玄吾(かがはげんご)で、四条通東洞院西へ入る所に住んでゐた。産論の著者玄悦の孫、産論翼(さんろんよく)の著者玄迪(げんてき)の子である。

     その二百二十七

 玄俊が京都に上るに先(さきだ)つて、其兄幾之助は大坂に来てゐた。それが何年であつたか不明であることは、既に云つた如くである。推するに明和安永の間の事であらう。幾之助は当時早く瑞仙と称してゐたのであらう。家は京水の記載に拠れば平野町であつた。霧渓は「西堀江隆平橋南涯」と記してゐるが、是は同一の家を指すものと見ることが出来よう。玄俊が京都に上つた時、大坂にゐた瑞仙は四十七歳、玄俊は四十五歳であつた。
 京都の玄俊は独身であつたが、大坂の瑞仙は妻があつて九歳になる女(むすめ)を一人連れてゐた。わたくしは池田宗家三世瑞仙直温の書いた過去帖の正確なことを、種々の方面より看て知つたから、今此に拠つて初代瑞仙の妻の事を記する。瑞仙は早く安永三年に妻があつて長女千代を生ませてゐる。安永二年若くは三年に大坂にゐて妻があつたことは明白である。此妻は正行寺(しやうぎやうじ)の女(むすめ)であつた。此妻は次で安永五年に次女を生んだ。そして八年に死んだ。過去帖の「釈妙仙信女」である。九年に次女が死んだ。過去帖の「智瑞童女」である。玄俊が京都に上つた時連れてゐたのは後妻で、千代のためには継母であつた。推するに霧渓二世瑞仙の所謂「嘗游于藝華時、妾挙一男二女、(中略)二女皆夭」の文中、妾(せふ)と一男とは虚で、二女は実であつた。
 玄俊は京都に来た翌年、天明三年に妻を娶(めと)つた。近江国栗太郡(くりもとごほり)草津の人宇野杢右衛門の姉秀(ひで)と云ふものであつた。婚姻をしたのは春の初であつただらう。此年の内に長男が生れた。
 天明四年に玄俊の長男は夭して、次男が生れた。翌五年に次男も亦死んだ。次で六年五月五日に三男が生れた。名は貞之介であつた。是が後の京水である。貞之介の母秀は此月二十六日に死んだ。恐くは産後の病であつただらう。法諡(はふし)は光岳林明信女、五条高倉の宗仙寺に葬られた。此法諡は正しく宗家三世瑞仙直温の書いた過去帖に載せてある。そして「三十六歳」と注してある。此に由つて観れば宇野氏秀は宝暦元年生で、三十三歳にして玄俊に嫁したのである。京水の貞之介は父五十一、母三十六の時の子である。
 貞之介は恃(はゝ)を失つた直後に、伯父瑞仙の養子にせられて大坂に往つた。自筆の巻物に「善郷養て兄弟二人を祐ると云意を用て祐二と改む」と云つてある。「兄弟二人を祐る」とは、玄俊は家に女子が無いので、赤子(せきし)を兄に託して祐けられ、兄瑞仙は男子が無いので、貞之介の祐二を獲て祐(たす)けられたと云ふ意であらう。瑞仙は後妻があり、先妻の生んだ長女千代も既に十四歳になつてゐたので、貞之介の世話をすることは容易であつただらう。

     その二百二十八

 京部東洞院姉小路に住んでゐる池田玄俊(げんしゆん)の三男祐二は、母宇野氏秀(ひで)が死んで、大坂平野町の伯父池田瑞仙に養はれた。時に天明六年で、玄俊は長男、次男が共に夭折して、祐二は其一人子であつたが、家に女の手がなかつたのである。これに反して瑞仙の家には後妻(こうさい)があり、又十四歳になる先妻の女(むすめ)千代がゐて、当歳の祐二の世話をする便(たつき)があつた。
 中一年置いて、天明八年に祐二は始て生父の許(もと)に来た。京水自筆の巻物に、「里帰の祝の為に入京」と書してある。是が正月二十九日であつたと推測せられる。何故と云ふに、其次に「大火に因て次の日再大坂に帰る」と書してあるからである。「大火」とは正月晦日(つごもり)の団栗辻(どんぐりのつじ)の火事なることが明である。三歳の祐二の此往復は、定(さだめ)て養母が連れて往き連れて復(かへ)つたことであらう。
 わたくしは玄俊の姉小路の家は必ず焼けたものと思ふ。そして次の移転の記事を以て、火後の新居を謂つたものとする。「其後信郷居を御池通車屋町西に入北側より二軒目に卜す。」鰥夫(くわんぷ)玄俊は恐くは此家に独居してゐたであらう。しかし土著の人の信任は厚かつたものと見える。「其町の年寄役を兼ぬ」と云つてあるからである。
 わたくしは此所(このところ)に瑞仙の書上(かきあげ)を参照しなくてはならない。「時天明八戊午年人始て曼公の術あることを知る」と云ふ文である。是に由つて観れば、周防国から出た池田氏兄弟は、兄は大坂にあつて技術を以てし、弟は京都にあつて徳望を以てし、同時に地方の信任する所となつたのである。此時兄は五十三、弟は五十一であつた。
 尋(つい)で改元の年を中に置いて、寛政二年に瑞仙の後妻が死んだ。此人も亦先妻と同じく名は伝はらぬが、諡(おくりな)が伝はつてゐる。三世瑞仙直温の書した過去帖に、「釈寿慶信女、同(瑞仙)後妻、寛政二庚戌十月廿四日」と云つてあるのが是である。瑞仙の家は主人五十五歳、長女千代十七歳、養子祐二五歳の三人世帯となつた。
 わたくしは瑞仙の後妻の死を此に插叙して置いて、さて京水の記に戻る。「時寛政二年善郷居を京に移すの志あるに因て、先づ善直を信郷が家に贈」と云ふ文である。瑞仙善郷(よしさと)は自ら京都に入らむと欲して、先づ養子祐二を弟玄俊信郷(のぶさと)の車屋町(くるまやまち)の家に遣つたのである。
 京水の記は次に「同(寛政)三年善郷女於千代を従え、共に信郷が家に寓すること半年を尽し、始て居を油小路の裏店に求」と云つてある。
 瑞仙が祐二を車屋町に遣つたのは、誰に託して遣つたか知らぬが、其時は後妻寿慶(じゆけい)の歿日より後であらう。十月二十四日より後であらう。瑞仙は二年の暮近くなつて、先づ祐二を京へ遣り、三年に入つて自分も千代を率(ゐ)て京に入り、弟の家に寄寓した。そして此より半年を過した後、即ち三年の秋の頃京都油小路の裏店(うらだな)に住むこととなつた。
 是が瑞仙の書上に「寛政二年辛亥(中略)請邀る者あり、因て暫く京都に寓」すと云ひ、二世瑞仙晋撰の行状に「後君厭浪華市井之囂塵、寛政壬子秋、游于京師」と云つてある事蹟の真相である。「辛亥」は二年にあらずして三年、「壬子」は四年である。

     その二百二十九

 わたくしは池田玄俊の事蹟を叙して、寛政三年に玄俊が京都車屋町に住んでゐた処へ、兄瑞仙が大坂から徙(うつ)つて来て、半年余の後油小路の裏店(うらだな)を□(か)りた事を言つた。翌四年には瑞仙が播磨国に遊歴した。留守は十八歳の長女千代と六歳の祐二とであつたから、玄俊が世話をしたことであらう。京水の記に、「明年(寛政四年)播州に遊び、大に弟子を得て帰る」と云つてある。
 五年には瑞仙の家に哀(かなし)むべき出来事があつた。過去帖に拠るに、瑞仙の長女千代は此年七月二十一日に歿したのである。「釈智秀信女、同(瑞仙)長女、同(寛政)五癸丑七月廿一日、二十歳」と記するものが是である。瑞仙は先妻妙仙に二女があつて皆早世し、後妻(こうさい)寿慶は子を産まずして死んだ。
 六年には瑞仙が家を移した。京水の記に、「間之町に僑居」すと云つてある。
 七年には瑞仙が又家を移した。同じ記に、「東洞院丸太町下る処に卜居」すと云つてある。入京以来第三の居宅である。霧渓は行状にかう書してゐる。「後君厭浪華市井之囂塵。寛政壬子秋。游于京師。愛其地之佳麗雄勝。遂寓居于東洞院。」実は瑞仙の東洞院に住んだのは、四年壬子の後三年の事である。
 八年は瑞仙が江戸の召命を受けた年である。痘科(とうくわ)を以て立たうと志した平生の望は此に遂げられた。時に年六十一であつた。書上(かきあげ)に拠るに、幕府の命は十二月二十六日に京都所司代に由つて伝へられたのである。初め池田氏の戴氏(たいし)に承けた痘科は、瑞仙も玄俊も共にこれを伝習してゐた。そして瑞仙が此に由つて立たうと志したがために、玄俊は痘科を棄てゝ顧みなかつたのださうである。京水の記にかう云つてある。「信郷大方科を業として、兼て痘科を修たれども、兄善郷専ら痘科を業とするに及て、自ら譲て偏に大方を修む。」
 九年は瑞仙入府の年である。書上に拠るに、瑞仙は正月三日に京都を発し、十三日に江戸に著した。その寄合医師を命ぜられ、高(たか)二百俵を受けたのは三月五日である。此時瑞仙が京都に留めて置いた家族は、独り養子祐二のみではなかつた。瑞仙には妻があつたらしい。
 此事は三世瑞仙の先祖書初代瑞仙の条に削り去られてゐて、京水の写し伝へた庚申書上に見えてゐる。「同年(寛政九年)五月廿一日、私儀新規被召出候に付、京都に罷在候家内之者共、此度呼下度候段奉願候処、早速願之通堀田摂津守殿被仰渡候。同八月六日当著仕候。悴杏春儀は其節病気に付、快気次第と被仰付候。同年十一月四日当著仕候。」所謂「家内之者共」とは名を斥(さ)さゞる人と杏春(きやうしゆん)とで、名を斥さゞる人は八月六日に先づ至り、杏春は十一月四日に後れて至つた。杏春は祐二である。京水は「善郷(中略)実子の届に言上するに及て杏春と称す」と自記してゐる。名を斥さゞる人は即ち佐井氏、実は菱谷氏(ひしたにうぢ)沢(さは)である。沢は瑞仙の三人目の妻である。「当著」は初めわたくしは当地著の脱文かと以為(おも)つたが、その重出するを見るに、到著の誤であらう。

     その二百三十

 池田瑞仙は自己が寛政九年正月十三日に江戸に著き、妻沢が八月六日に、養子杏春が十一月四日に継(つ)いで至つた。
 瑞仙が三人目の妻沢を娶(めと)つたのは何時であつたか知らぬが、其二人目の妻寿慶が寛政二年に死んだ後、三年に大坂より京都に徙(うつ)つた時には、京水の記に「女於千代を従え」と云つてある如く、妻は無かつた。此より後九年に至る間に瑞仙は沢を娶つた。猶細に考へて見るに、此婚姻は油小路の家に於てせられたのでもなく、間之町(あひのまち)の家に於てせられたのでもなく、長女千代が死してより後時を経て、東洞院の家に於てせられたのではなからうか。
 又養子祐二の名が杏春と改められたのも、月日を明にせぬが、京水の自記に拠るに、父瑞仙が江戸に於て実子として届け出でた時であつたらしい。即ち入府後であつたらしい。
 此推定にして誤らぬならば、瑞仙の三人目の妻沢は寛政七年若くは八年に、養子祐二のゐる処へ迎へられたのである。沢は三十一歳若くは三十二歳で、祐二は十歳若くは十一歳であつた。次で瑞仙が召されて江戸に来り、沢と祐二改杏春とを迎へ取つた。是が瑞仙六十二、沢三十三、杏春十二の時である。
 瑞仙が六十二歳を以て江戸に召された時、弟玄俊は六十歳を以て京都に居残り、幾(いくばく)もあらぬに死んだ。京水の記にはかう云つてある。「寛政九年善郷江戸に至るの故を以て、帯刀免許の命を蒙り、町年寄を兼ることを辞して後、東洞院の善郷が居宅に移り、同年八月二日死、宗仙寺に葬る、法名隣山粛徳信士。」
 是に由て観るに、玄俊信郷は兄瑞仙善郷が寛政九年三月五日に幕府の医官となつた後、帯刀を允(ゆる)され、御池通車屋町の年寄役を辞し、東洞院なる兄の旧宅に移り、八月二日に死んだのである。
 玄俊の京都に客死したのは、兄瑞仙に別れた後である。しかしわたくしの推測する所を以てすれば、実子祐二改杏春は猶未だ京都を離れなかつたであらう。仮に杏春が江戸に至るに、養父瑞仙と同じ日子を費したものとする。瑞仙は正月二日に発程して十三日に入府した。其間十一日である。今杏春の江戸に至つた十一月四日より溯ること十一日なるときは、丁巳の十月は大なるが故に、十月二十三日となる。此日は、丁巳の八月は大、九月は小なるが故に、生父玄俊の死後八十日を過した時である。想ふに杏春は生父の病を瞻(み)、其葬(とぶらひ)を送り、故旧の援助を得て後事を営み、而る後京都を離れたことであらう。
 瑞仙は其書上に、養子杏春の妻沢より遅れた原因を杏春の病に帰してゐる。「悴杏春儀は其節病気に付快気次第と被仰付候。」穉(をさな)い杏春は果して病んでゐたか。或はその病んでゐたものは杏春にあらずして、生父玄俊であつたか。

     その二百三十一

 寛政九年に江戸に来て、冬に至るまでに家族を京都から呼び迎へた池田瑞仙は、初め暫く市中に住んで、次で居を駿河台に卜し、翌十年二月六日には奥詰医師に陞(のぼ)せられた。瑞仙の家は此の如く栄達の途を進んで行つて、余所目(よそめ)には平穏事なきが如くに見えてゐた。
 しかし其裏面には幾多の葛藤があつたものと看なくてはならない。わたくしは後(のち)よりして前を顧み、果(くわ)よりして因を推し、錦橋瑞仙の妻(さい)沢(さは)を信任することが稍過ぎてゐたのではないかと疑ふ。其家に出入(いでいり)する佐々木文仲と云ふものをして、余りに深く内事に干渉するに至らしめたのではないかと疑ふ。佐々木は恐くは洋人の所謂「家庭の友」に類した地位を占むるに至つたのであらう。そして佐々木と沢との関係は、遂に養子杏春をしてこれが犠牲たらしめたのであらう。
 わたくしは嘗て杏春即京水が、霧渓撰の錦橋行状に於ても、富士川氏の写した京水墓誌の一段に於ても、虚弱者としてとりあつかはれてをり、又文中読者をしてその無学無能を想はしめむとするが如き語気あるを見て、此間に或秘密が伏蔵してゐはせぬかと疑つた。今やわたくしは京水自筆の巻物を閲(けみ)することを得て、此間の消息を明にした。駿河台の池田氏には正に一の悲壮劇があつた。そして其主人公は京水即当時の杏春であつた。
 池田の家の床下に埋蔵せられてゐた火薬は終に爆発した。それは京水廃嫡一件である。
 三世瑞仙直温の先祖書にはかう云つてある。「病気に而末々御奉公可相勤体無御坐候に付、総領除奉願候処、享和三亥年八月十二日願之通被仰付候。」しかし今細(こまか)に検すれば、此一件は瑞仙が嫡子を廃したのではなく、杏春が継嗣を辞したのである。且此事のあつた年は、享和三年癸亥ではなく、享和元年辛酉である。按ずるに癸亥は事後に官裁を仰いだ年であらう。
 京水自筆の巻物中参正池田家譜善直(よしなほ)の条には、「享和元年病に依て嗣を辞するの後瑞英と改む」と書してある。嗣を辞したのと、杏春を瑞英と改めたのとは、辛酉の出来事である。当時養父錦橋六十六、養母沢三十七、杏春の瑞英十六であつた。
 此一件の詳なるは、京水瑞英の家に「生祠記」一巻があつて具(つぶさ)に載せてあつたさうである。京水は「辞嗣の始末は生祠記に詳也」と云ひ、又「行状別に生祠記一巻あり、門人等録する所なり、其言頗る過誉なりと雖も、未た必しも偽なし、故に子孫其書に就て余が始終を見るへき者なり」と云つてゐる。生祠記(せいしき)は惜むらくは佚した。少くも池田全安さんの家には存してゐない。
 生祠記は既に佚した。しかし京水は養父の幕府に呈した系図を写して、其後に数行の文を書した。わたくしは此書後に由つて生祠記の内容の一端を知ることを得た。京水の辞嗣は霧渓の受嗣と表裏をなしてゐて、其内情は下(しも)の如くである。
「右直郷(霧渓二世瑞仙晋)は初佐佐木文仲の弟子なり。文仲は於沢の方に愛せられて、遂に余を追て嗣とならむの志起り、種々謀計せしかど、余辞嗣の後にも養子の事(文仲自ら養子となる事)成らず、終に直郷に定りたり。其間山脇道作の男玄智、瑞貞と云、堀本一甫の男某、田中俊庵の男、瑞亮と云、皆一旦は養子となれども、何れも於沢の方と文仲に追出されたり。善直(京水瑞英)誌。」

     その二百三十二

 わたくしは池田京水、当時初代瑞仙の養嗣子杏春が宗家を継ぐことを辞した内情を語つた。杏春は養母沢に悪(にく)まれて家を出でた。沢は佐佐木文仲と云ふものと謀つて、杏春をして去らしめた。それは沢が文仲をして杏春に代らしめようとしたのである。佐佐木文仲の何人なるかは、わたくしは未だ考へない。しかし既に霧渓の師であつたと云へば、杏春より長じてゐたことは勿論であらう。又霧渓よりも長じてゐたであらう。霧渓は杏春より長ずること二歳であつた。
 杏春の去つた後、沢は夫に文仲を養はむことを勧めたであらう。しかし夫瑞仙は聴かずに、養子を他家に求めた。先づ山脇道作の子が来り、次に堀本一甫(ぽ)の子が来り、最後に田中俊庵の子が来つた。そして三人皆沢に斥(しりぞ)けられた。
 武鑑を検するに、山脇道作は「法眼、寄合御医師、五十人扶持、京住居」と云つてある。堀本一甫は「奥御医師、御口科、二百俵十人扶持、築地中町」と云つてある。独り田中俊庵と云ふものが当時の幕府医官中に見えぬが、わたくしは前二人が官医であるより推して、田中も亦官医であらうとおもふ。わたくしは是は田中俊川(しゆんせん)を謂つたものであらうとおもふ。田中俊川は武鑑に「表御番医師、百五十俵、芝田七丁目」と云つてある。「芝田」は芝の田町であらう。
 山脇、堀、田中三氏の子が相踵(あひつ)いで逐はれた後に、当時籍を瑞仙の門人中に列してゐた上野国上久方村(かみひさかたむら)医師村岡善左衛門常信(つねのぶ)倅善次郎が養子にせられた。即ち霧渓二代瑞仙直郷(なほさと)、又の名は晋(しん)である。
 霧渓はいかにして池田宗家に留まることを得たかと云ふに、是は沢が夫の到底文仲を養ふに意なきを見て、文仲を家に迎ふることを断念し、霧渓を養ふことを賛成したからである。霧渓は文仲の旧弟子であつた。天明四年生の霧渓は当時十八歳になつてゐた。その公(おほやけ)に稟(まう)して養嗣子とせられたのは、此より十五年の後、文化十三年三月である。瑞仙の死に先(さきだ)つこと六箇月である。霧渓は既に三十三歳になつてゐた。
 わたくしは此に杏春の生父玄俊の師の一人が京都の産科医賀川玄吾であつたことを回顧する。池田瑞仙が杏春去後(きよご)に霧渓をして家を継がしめたのは、玄吾の生父初代玄悦が玄吾去後に岡本玄迪(げんてき)をして家を継がしめたと、其迹が甚だ相類してゐる。玄吾と杏春との間には、実子と養子との別はあるが、その父の後妻に悪(にく)まれたことは同じである。又杏春が他年一家を樹立して宗家と相譲らざるに至つたことも、其生父の廃儲(はいちよ)であつた有斎玄吾と相似てゐる。
 わたくしは此より池田宗家を去つた後の杏春改(あらため)瑞英の事蹟を記述しようとおもふ。即ち未だ曾て公にせられたことのない京水実伝である。

     その二百三十三


次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:1078 KB

担当:undef