伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

 此月下旬の江戸著の日も亦伊沢分家の文書中に見えない。
 頼氏では、山陽の長子で春水の後を襲いだ聿庵協(いつあんけふ)が江戸霞関の藩邸に来てゐた。山陽除夕の詩に、「故園鶴髪又加年、鴨水霞関並各天、三処相思汝尤遠、寒燈応独不成眠」と云つてゐる。梅□(ばいし)は広島にあつて将(まさ)に七十三の春を迎へんとし、山陽は京都、聿庵は江戸と、三人「三処」に分れてゐたのである。門田朴斎の集にも、此年「訪頼承緒霞関僑居路上」の詩がある。
 是年榛軒二十八、柏軒二十二、長十八になつた。蘭軒の姉正宗院は六十一であつた。榛軒の妻勇の年を知らない。
 天保三年は蘭軒歿後第三年である。三月六日に柏軒が始て松崎慊堂(かうだう)を見た。わたくしは上(かみ)に文政辛巳の条に、榛軒が慊堂、□斎に学び、柏軒が□斎に学んだ事を言つた。今柏軒は其師□斎に従つて、渋江抽斎と共に兄の師慊堂を羽沢(はねざは)に訪うたのである。わたくしは此に柏軒の日記を抄出する。日記は此月三日より十八日に至る十六日間の事を録したもので、良子刀自の蔵する所に係る。
「天保三年壬辰三月六日。随□斎先生。与抽斎兄同至羽根沢。見慊堂先生。其居在長谷寺之南十町許。下阜径田。又上高阜。而深林之中。即其隠居之処也。在前丘之上望之。与其居相対。茅茨七八椽。有小楼。上室者先生之斎。前園有方池。命于童子易水。下室者門生之塾。読誦之声朗々。□斎先生贈雁。信重贈酒。抽斎亦同。飲酒談笑数刻。告別而帰。帰路上前丘。後面大呼火。回看慊堂先生与両三童子同戯。焼園中之草。共哄笑。」
 これを読んでわたくしは石経(せきけい)山房当時の状を想像することを得た。塩谷宕陰(しほのやたういん)撰の行状に、「買山幕西羽沢村、※[#「弗+りっとう」、8巻-15-上-14]茅以家焉、所謂石経山房也」と云つてあるのが是である。
 わたくしは嘗て安井小太郎さんに石経山房の址が桑原某の居となつてゐることを聞いた。そして中村秀樹さんに請うて其詳(つまびらか)なるを知らむと欲した。中村氏の報ずる所に拠れば、其地は「下渋谷羽根沢二百四十九番地」で、現住者は海軍の医官桑原荘吉さんである。

     その二百

 西洋の屋(いへ)は甎石(せんせき)を以て築き起すから、縦(たと)ひ天災兵燹(へいせん)を閲(けみ)しても、崩壊して痕跡を留めざるに至ることは無い。それゆゑ碩学鴻儒の故居には往々銅□(どうばう)を嵌(かん)してこれを標する。我国の木屋(もくをく)は一炬(きよ)にして焚き尽され、唯空地を遺すのみである。頃日(このごろ)所々に木札を植(た)てて故跡を標示することが行はれてゐるが、松崎慊堂(かうだう)の宅址の如きは未だ其数に入らない。
 青山六丁目より電車道を東に折れて、六本木に至る道筋がある。蘭軒を葬つた長谷寺(ちやうこくじ)は此道筋の北にあつて、慊堂が石経山房の址は其南にある。長谷寺に往くには高樹町巡査派出所の角を北に入る。石経山房の址を訪ふには、其手前雕塑家(てうそか)菊池氏の家の辺より南に入る。そして赤十字病院正門の西南方に至れば、桑原氏の標札のある邸を見出すことが出来る。
 赤十字病院前を南に行つて西側に、雑貨商大久保増太郎と云ふ叟(をぢ)が住んでゐる。大久保氏は羽沢根生(はねざはねおひ)の人で、石経山房の址がいかなる変遷を閲したかを知つてゐる。松崎氏の後、文久中に佐倉藩士木村軍次郎と云ふものが、長崎から来て住んだ。隣人が「木村と云ふ人は裸馬に乗つて歩く人だ」と云つた。恐くは洋式の馬具を装つた馬に騎(の)つたのであらう。木村が去つた後には下渋谷の某寺の隠居が住んだ。其次は杉田勇右衛門と云ふもので、此に住んで土地の売買をした。杉田は薩摩の人ださうであつた。其次が今の桑原荘吉さんだと云ふ。桑原氏は明治十四五年の頃此に移り来つたのである。
 わたくしは柏軒の此年天保三年三月の日記に拠つて、狩谷□斎、渋江抽斎、柏軒の三人が石経山房を訪うた事を記した。按ずるに此日記は柏軒が慊堂を見て感奮し、其感奮の情が他をして筆を把つて数日間の記を作らしめたのである。それゆゑ自強して息(や)まざらむと欲する意が楮表(ちよへう)に溢れてゐる。下に其数条を続抄する。
 三月七日は慊堂を訪うた翌日である。「此日。痘科鍵之会。京先生看観世一代能。不在家。」京先生は池田京水(けいすゐ)で、其家に痘科鍵(とうくわけん)を講ずる会があつたと見える。
「八日。余甚嗜甘旨。甘旨不去側。今不食甚嗜之甘旨。而磨琢志意。研究経籍。」
「九日。雨。山崎宗運法眼開茶宴。君侯為賓。□庭先生為主接賓。以故休講傷寒論。大兄当直上邸。」多紀□庭(たきさいてい)が傷寒論を講じ、柏軒が聴者(ていしや)中にあつたことが此に由つて知られる。
「十日。大兄講外台。」榛軒は外台秘要(ぐわいたいひえう)を講じた。
「十一日。就浅草狩谷先生之居。写通藝録。」通藝録(つうげいろく)は「※[#「翕+欠」、8巻-17-上-2]程瑤田易疇著、嘉慶八年自刊本」の叢書で、収むる所二十余種に至つてゐる。柏軒の写したのは何の書か。
「十二日。煩悩。不会于池田。」亦痘科鍵を聴くべき日であつたのか。
「十五日。大兄講外台。」
「十六日。晴。大兄欲伴妹拝墓。有事不得行。故小人代行。谷村景□随。岡西徳瑛、成田竜玄嘗有約。先小人至。帰路訪溜池筑前侯邸中伯母正宗院。不在家。」蘭軒の三週年忌である。榛軒が事に阻げられて墓に詣(いた)らなかつたので、柏軒が代つて往つた。わたくしは前(さき)に景□の氏が不詳だと云つたが、此日記に谷村氏としてある。然らば蘭軒門人録の「谷村敬民、狩谷縁者、大須」と同人であらう。
「十七日。祭考。渋江抽斎、森、山田、有馬等来。」
「十八日。如羽根沢慊堂先生之家。□斎先生与慊堂先生読李如圭釈宮。渋江全善、信重在側聞之。」宋の李如圭(りじよけい)の儀礼釈宮(ぎれいしやくきう)一巻は経苑(けいゑん)、武英殿聚珍版書等に収められてゐる。柏軒の日記は此に終る。

     その二百一

 わたくしは榛軒が初の妻横田氏勇(ゆう)を去つて、後の妻を納(い)れたのが、前年暮春より此年天保三年に至る間に於てせられたかと推する。榛軒は前年二月の末に福山より江戸に帰つた。その福山にあつた時、留守に勇がゐたことは、荏薇(じんび)問答に由つて証せられる。しかし柏軒に与ふる幾通かの書に、動(やゝ)もすれば勇を信ぜずして、弟にこれが監視を託するが如き口吻があつた。榛軒が入府後幾(いくばく)ならずして妻を去つたものと推する所以である。
 榛軒は既に前妻を去つた後、必ずや久しきを経ずして後妻を娶(めと)つたであらう。何故と云ふに、後妻は特に捜索して得たものでは無く、夙(はや)く父蘭軒が在世の日より、病家として相識つてゐた家の女(むすめ)であつたからである。榛軒再娶(さいしゆ)の時は此年より遅れぬものと推する所以である。
 榛軒の後妻とは誰ぞ。飯田氏、名は志保である。寛政十二年に生れて、此年既に三十三歳になつてゐた。志保は夫榛軒より長ずること四歳である。
 伊沢分家の伝ふる所を聞けば、志保の素性には一条の奇談がある。大坂の商賈某が信濃国諏訪の神職の女(ぢよ)を娶つて一女を生ませた。此女が長じて京都の典薬頭(てんやくのかみ)某の婢となつた。口碑には「朝廷のお薬あげ」と云ふことになつてゐる。わたくしはこれを典薬頭と解した。典薬頭某は先妻が歿して、継室を納れてゐた。そして嫡子は先妻の出(しゆつ)であつた。此嫡子が婢と通じて、婢は妊娠した。
 婢は大坂の商家に帰つて女(ぢよ)梅を生んだ。既にして婢の父は武蔵国川越の人中村太十の次男某を養つて子とし、梅の母を以てこれに配した。梅の母は更に二女を生んだ。るゐと云ひ、松と云ふ。当時此家は芝居茶屋を業としてゐた。
 後梅は継父、生母、異父妹二人と偕(とも)に江戸に来た。想ふに梅の外祖父母たる大坂の商賈夫妻は既に歿してゐたことであらう。
 梅の一家は江戸にあつて生計に窮し、梅は木挽町の藝妓となつた。
 後二年にして梅の母は歿した。梅の異父妹二人も亦身の振方が附いた。るゐは浅草永住町蓮光寺の住職に嫁し、松は川越在今市の中村某に養はれた。
 是に於て梅は妓を罷めて名を志保と改め、継父と偕に浅草新堀端善照寺隠居所に住んだ。
 一日(あるひ)志保は病んで治を伊沢氏に請うた。これが榛軒の志保を見た始であつた。そして榛軒は遂に志保を娶るに至つた。
 志保の飯田氏と称するは、其外祖母の氏である。其生父は京都の典薬頭某の嫡子であつた筈である。
 志保は生父の遺物として一の印籠を母の手より受けてゐた。印籠は梨地に定紋を散らしたもので、根附は一角(ウニコオル)、緒締は珊瑚の五分珠であつた。母は印籠を志保に交付して云つた。「是はお前の父上の記念(かたみ)の品だ。お前が男子であつたなら、これを持たせて京都のお邸へ還すべきであつた。女子であつたので、お前は日蔭者になつたのだ。」印籠は失はれて、定紋の何であつたかを知らない。
 志保は生父を知らむと欲する念が、長ずるに随つて漸く切になつた。榛軒に嫁した後年を経て、夫の友小島春庵が京都へ往つた。春庵は志保に何物を齎し帰るべきかを問うた。志保は春庵に二物を得むことを請うた。

     その二百二

 わたくしは此に蘭軒の嫡子榛軒の新婦飯田氏志保の素性に就て伊沢分家口碑の伝ふる所を書き続ぐ。
 小島春庵が将(まさ)に京都に往かむとする時、志保に何物を齎し帰るべきかを問うた。
 初め志保は思ふ所あるものの如く、輒(たやす)く口を開かなかつた。
 春庵は重て問うた。「そんなら京都にお出なさつた時、一番お好であつたものは何でしたか。」
「それはあの吹田(すゐた)から出まする慈姑(くわゐ)でございました。」
「宜しい。お安い御用です。そんなら吹田の慈姑は是非持つて帰ります。しかしそれだけでは、なんだか物足りないやうですね。も一つ何かお望なさつて下さい。」
 志保は容(かたち)を改めて云つた。「さう仰れば実はお頼申したい事がございます。しかしこれは余り御無理なお願かも知れませんから、お聴に入れました上で、出来ぬ事と思召しますなら、御遠慮なくお断下さいまし。」
 春庵は耳を欹てた。
 志保は生父の誰なるかを偵知せむことを春庵に託したのである。
 春庵は事の成否を危みつつも、志保の請を容れて別を告げた。
 春庵は年を踰(こ)ゆるに及ばずして京都より還つた。そして丸山の伊沢の家を訪うた。背後には大いなる水盤を舁(か)いた人夫が附いて来た。春庵は五十三駅を過ぐる間、特に若党一人をして慈姑を保護せしめ、昼は水を澆(そゝ)ぎ、夜は凍(こゞえ)を防いで、生ながら致すことを得たのである。しかし志保の生父の誰なるかは、遂に知ることが出来なかつた。
 分家伊沢口碑の伝ふる所は此の如くである。
 小島春庵の入京は事実の徴すべきものがある。わたくしは榛軒の前妻の伊沢氏にゐた間の最後の消息と、榛軒が志保を識つた時期とに本づいて、其再娶(さいしゆ)を此年天保三年の事と推定した。此推定にして誤らぬならば、後十年天保十三年に小島宝素は日光准后宮舜仁法親王に扈随して京都に往つたのである。宝素は秋九月三日に江戸を発し、十二月十八日に江戸へ還つた。
 宝素入京の事実は、初めこれを長井金風さんに聞き、「日本博物学年表」を閲して其年を知り、後に宝素の裔小島杲(かう)一さんに乞うて小島氏の由緒書を借抄することを得、終に其月日をも詳(つまびらか)にするに至つたのである。
 宝素が友人の妻のために、遠く摂州の慈姑を生致(せいち)したのは、伝ふべき佳話である。嶺南の茘枝(れいし)は帝王の驕奢を語り、摂州の慈姑は友朋の情誼を語る。
 志保の獲んと欲した所の二物は、其一が至つて、其二が至らなかつた。その至らなかつたものは志保が生父の名である。此志保の生父は抑(そも/\)誰であらうか。

     その二百三

 蘭軒の嫡子榛軒の妻志保の母は、京都の典薬頭の家に仕へてゐて、其嗣子の子を生んだと云ふことであつた。京都の典薬頭の家は唯一の錦小路家あるのみである。志保の生年を寛政十二年だとすると、わたくしは寛政十一年より十二年に至る間の錦小路家の家族を検せなくてはならない。
 わたくしは錦小路家の系譜を有せない。しかし諸家知譜拙記(しよけちふせつき)と年々の雲上明鑑(うんしやうめいかん)とに徴して其大概を知ることが出来る。
 寛政十一年の雲上明鑑には「丹家、錦小路三位頼理卿、三十三、同従三位(下闕)」と記してある。当主頼理(よりよし)は三十三歳で嫡子が無い。後に頼理の家を継ぐものは頼易(よりをさ)であるが、頼易は享和三年生で、此時は未だ生れてゐなかつたのである。
 わたくしは或は口碑が若主人を嫡子と錯(あやま)つたので、別に致仕の老主人があつたのではないかと疑つた。しかし知譜拙記に拠るに、頼理の父頼尚(よりひさ)は寛政九年十月八日に卒した。志保の母が妊娠した時には、頼理には父もなく子もなかつたのである。但(たゞ)頼尚の年齢には疑がある。知譜拙記には「寛政九、十、八薨、五十五」と記してあるが、明和、安永、天明より寛政の初年に至る雲上明鑑、雲上明覧等の書を閲(けみ)すれば、寛政九年五十五歳は少(わか)きに失してゐるらしい。右の諸書を参照すれば、頼尚は寛政九年六十三歳であつた筈である。頼尚の室は、拙記に拠るに、北小路光香(みつか)の女(ぢよ)、日野資枝(すけえだ)の養女で、即頼理の母である。口碑に先妻後妻云云の事があつたから、次(ついで)に附記して置く。
 要するに志保の生父を錦小路家に求むることは徒労なるが如くである。然らば去りて何れの処に向ふべきであらうか。わたくしは未だ其鍼路(しんろ)を尋ぬることを得ぬので、姑(しばら)く此研究を中止する。
 小島宝素は志保の生後四十三年に其地に就いて求めたのに、何の得る所も無かつた。今志保の生後百十余年にして、これを蠧冊(とさつ)の中に求めむは、その難かるべきこと固(もとより)である。
 榛軒の家には此年壬辰に、前記以外に事の記するに足るものが無い。試に榛軒詩存に就いて、年号干支あるものを求むるに只榛軒が此秋問津館(もんしんくわん)にあつて詩を賦したことを知るのみである。此「天保三壬辰秋日問津館集」の七律に「経験奇方嚢裏満、校讐古策案頭多」の聯がある。又結句の註に、「主人近日有城中卜居之挙」の語がある。是に由つて観れば、問津館の主人は蘭軒父子と同嗜なる医家で、壬辰の歳に江戸の城外より市中に移り住んだものと見える。
 此年市野氏で光徳が家督した。迷庵光彦(くわうげん)の後、光寿を経て光徳に至つたのだから、迷庵より第三世である。
 頼氏では九月二十三日に山陽が五十三歳で歿した。門田(もんでん)朴斎の「書駒夢応人乗鶴、附驥情孤歳在辰」に、壬辰の辰字が点出せられてゐる。山陽の事蹟は近時諸家の討窮して余蘊なき所である。惟(たゞ)其臨終の事に至つては、わたくしの敢て言はむと欲する所のもの一二がある。

     その二百四

 先づ江木鰐水(がくすゐ)撰の行状を読むに、頼山陽の死を叙して下(しも)の語を成してゐる。「天保元年庚寅。患胸痛。久而愈。三年壬辰六月十二日。忽発咳嗽喀血。(中略。)時方著日本政記。乃日夜勉強構稿。曰我必欲成之而入地。及秋疾益劇。(中略。)自始病禁酒不飲。而客至。為設筵。談笑自若。病既革。曰我死方逼矣。然猶著眼鏡。手政記。刪潤不止。忽顧左右曰。且勿喧。我将仮寐。乃閣筆。不脱眼鏡而瞑。就撫之。則已逝矣。」森田節斎は書を鰐水に与へて云つた。「聞之其内子小石氏及牧信侯。云晋戈所状。手政記。不脱眼鏡而逝。侍病牀。未嘗見此事。」鰐水は答へて云つた。「先師疾病。手政記。不脱眼鏡而逝。是石川君達。侍病牀所見。不可有誤。将質之君達。」
 山陽が庚寅より胸疾があつて、此年壬辰六月十二日より喀血したことには、誰も異議を挾(さしはさ)むことは出来ない。是は山陽が自ら語つてゐるからである。その小野泉蔵に与ふる壬辰八月十四日の書に曰く。「小子も六月十二日より発症咳血也。初は不咳候へども、去臘西方より上候時より、疫も痢も直れども咳嗽而已のこり、烟草など喉に行当候様に存候事、此春夏に及び、依然作輟、到底見此症候。如痰塊之血五六日ほど出、漸々に収り、十五六日目又一度、七月二十五日に大発、吐赤沫候。」又山陽が最後に手を政記に下したことも争はれない。同じ書に曰く。「彼国朝政記未落成だけが残念故、それに昼夜かゝり、生前に整頓いたし置度候。」
 剰す所は只「不脱眼鏡而瞑」の一条である。是は鰐水が始て言つた。節斎は小石(こいし)氏里恵(りゑ)と百峰牧善助とを証人に立てて此事なしと云つた。鰐水は石川君達(くんたつ)が見たと答へた。
 此争の児戯に類することは勿論である。何故と云ふに、原来(ぐわんらい)此の如き語は必ずしも字の如くに解せなくても好いのである。例之(たとへ)ば「手不釈巻」の語の如きは、常に見る所である。是は書を読んで倦まざるを謂ふに過ぎない。誰も絶待に手から書巻を放たぬ事とは解せぬのである。山陽が最後に手を政記に下して、「それに昼夜かゝり、生前に整頓」しようとした以上は、「猶著眼鏡、手政記、刪潤不止、(中略、)乃閣筆、不脱眼鏡而瞑」と書するも或は妨(さまたげ)なからう。その偶(たま/\)物議を生じたのは、文が臨終の事を記するものたるが故である。
 わたくしは山陽が絶息の刹那に、其面上に眼鏡を装つてゐたか否かを争ふことを欲せない。わたくしは惟(たゞ)正確なる山陽終焉の記を得むと欲する。そしてこれを得んと欲するがために、今一層当時のテモアン、オキユレエルたる里恵と石川牧の二生との観察を精査せむことを欲する。
 江木森田の争には、臨終の一問題に於て、江木が最後の語を保有した。その「不脱眼鏡而瞑」は、今日に迄(いた)るまで、動すべからざるものとなつてゐる。然るに江木も森田も目撃者では無い。目撃者たる里恵若くは石川若くは牧は、果して何事をも伝へてをらぬか。是がわたくしの当(まさ)に討究すべき所である。

     その二百五

 江木鰐水(がくすゐ)は頼山陽を状したが、山陽が歿した時傍(かたはら)にあつたものでは無い。それゆゑわたくしは傍にあつたものの言(こと)を聞かむことを欲する。就中(なかんづく)わたくしの以て傾聴すべしとなすものは小石氏里恵(りゑ)の言(こと)である。
 江木森田二生の辨難の文を閲(けみ)するに、森田節斎は里恵の言(こと)に拠つて江木の文中山陽の終焉を叙する一段を駁してゐる。森田にして錯(あやま)らざる限は、里恵は山陽が眼鏡を著けて政記を刪定し、筆を閣(さしお)き、眼鏡をば脱せずして逝いたと云ふことを否認してゐたやうである。
 然るに晩出の森田、わたくしの亡友思軒の文に一の錯誤がある。思軒はかう云つてゐる。「節斎の書には鰐水の不脱眼鏡而瞑を駁して、決して此事無しといへり。然れども鰐水は現に之を小石氏に聞きたりといへば、行状の言を信とせざるべからず。」鰐水は小石氏に聞いたとは云はない。石川君達(くんたつ)に聞いたと云つたのである。里恵は原告節斎に有利なる証言をなしたのに、思軒は誤つて被告鰐水に有利なる証言をなしたものとした。
 推するに是は思軒の記憶の誤、若くは筆写の誤であらう。わたくしは亡友の文疵(ぶんし)を扞(あば)くに意あるものではない。わたくしは今も猶思軒の文を愛好してゐる。わたくしは只里恵がいかに山陽の終焉を観察したかを明にせむと欲するが故に、已むことを得ずしてこれに言及したに過ぎない。
 里恵は行状中「不脱眼鏡而瞑」の段を否認したらしい。しかし其言(こと)は消極的で、しかも後人は間接に節斎の口よりこれを聞くのである。若し此に積極的言明があつて、直接に里恵に由つて発表せられてゐるとしたなら、その傾聴するに足ることは何人(なにひと)と雖も首肯すべきであらう。
 然るに此の如き里恵の言明は儼存してゐる。人の珍蔵する所の文書でもなく、又僻書でもない。田能村竹田の屠赤瑣々録(とせきさゝろく)中の里恵の書牘である。
 わたくしは前(さき)に里恵の山陽に嫁した年を言ふに当つて、既に一たびこれを引いた。そして今再びこれを引いて煩を憚らない。わたくしは敢て貴重なるものを平凡なるものの裏(うち)より索(もと)め出さうとするのである。
 書牘は此年壬辰閏十一月二十五日に作られたものである。即ち山陽歿後第九十一日である。里恵はこれを赤間関(あかまがせき)の秋水広江□(しうすゐひろえよう)と其妻とに寄せた。
 わたくしは今全文を此に引くことをなさない。何故と云ふに、屠赤瑣々録は広く世に行はれてゐる書で、何人も容易に検することが出来るからである。此には山陽終焉の記を抄するに止める。そして原文の誤字、仮名違の如きは、特に訂正して読み易きに従はしめる。是は文書の真形を伝へむがために写すのでなく、既に世に行はれてゐる文書の内容を検せむがために引くのだからである。

     その二百六

「一筆申上為参候。(中略。)扨久太郎(ひさたらう)事此六月十二日よりふと大病に取あひ、誠にはじめは、ちも誠に少々にて候へども、新宮(しんぐう)にもけしからぬむづかしく申候。久太郎もかくごを致し、私どもにもつね/″\申して、ゆゐごんも其節より申おかれて候やうな事にて、かくても何分と申、くすりをすゝめ、先々天だう次第と自分も申ゐられ候。六月十三日より、かねて一両年心がけのちよじゆつども、いまださうかうまゝにて、夫(それ)を塾中にせき五郎子ゐられ、一人にまかせ候てかかせ、又自身がなほし候てうつさせ、日本せいきと申物に候、又なほし、其間に詩文又だいばつ、みなみなはんになり候やうに、さつぱりとしらべ申候。右せきも九月廿三日迄、ばつ文迄出来上り候。廿三日夕七つ前迄、五郎子かゝりうつし候、夫を又見申候て安心いたし、半時たゝぬ内ふし被申候所、私むねをさすり居候。うしろにゐるは五郎かと申、もはや夫きりにて候。くれ六つどきに候。」
 是が頼山陽の病初より死に至るまでの事実である。終始病牀に侍してゐた小石氏里恵は此の如くに観察したのである。
 山陽は此年壬辰六月十二日に始て喀血し、翌十三日より著述を整理することに著手し、関五郎をして専(もつぱら)これに任ぜしめ、九月二十三日申刻に至つて功を竣(を)へた。その主として力を費したものは日本政記で、旁(かたはら)詩文題跋に及んだ。関五郎は稿本を師の前に堆積した。山陽はこれを見て心を安んじ、未だ半時ならぬに横臥した。里恵は其胸を撫でてゐた。山陽は里恵に、「背後(うしろ)にゐるのは五郎か」と云つた。そして死んだ。時に酉刻であつた。
 試に江木鰐水の行状を出して再読するに、わたくしは二者の間に甚だしき牴牾(ていご)あるを見ない。鰐水の「且勿喧、我将仮寐」は里恵の「ふし被申候」と符合する。惟(たゞ)鰐水は「著眼鏡」と云ひ、「不脱眼鏡」と云ひ、又「閣筆」と云つて、多く具象的文字を用ゐた。里恵の聞いて実に非ずとなすものは、或は其間に存したのではなからうか。
 それは兎まれ角まれ、今根本史料たる価値を問ふときは、里恵の書牘は鰐水の行状の上にある。後の山陽の死を叙するものは、鰐水を捨てて里恵を取らなくてはならない。山陽の最後の語は「且勿喧、我将仮寐」ではなくて、「背後にゐるのは五郎か」であつた。
 わたくしの次に一言(げん)せんと欲するは、此五郎の事である。山陽が死に瀕して名を喚(よ)んだ此五郎の事である。鍔水は師の終焉を目撃した人として石川君達(くんたつ)を指斥(しせき)し、其リワルたる森田節斎は里恵と牧信侯(まきしんこう)とを指斥した。近時山陽のために伝を立てた諸家の云ふを聞くに、五郎は即石川君達で、石川君達は即後の関藤藤陰(せきとうとういん)ださうである。果して然らば、わたくしの未だ聞知せざる牧の観察奈何(いかん)は姑(しばら)く措き、鰐水は五郎の言(こと)を伝へたもので、鰐水自己は只修辞の責を負ふべきに過ぎない。
 わたくしの今問題とする所は此五郎である。

     その二百七

 頼山陽の病んで将(まさ)に死せむとする時、関五郎と云ふものがあつて其傍(かたはら)を離れず、山陽最後の著述日本政記の如きは、此人が専らこれが整理に任じたことは、未亡人小石氏里恵の書牘に詳(つまびらか)である。
 山陽が遂に此年壬辰九月二十三日夕酉刻に歿し、越えて二十五日に綾小路千本通西へ入南側の光林寺に葬られた時の行列には、棺の左脇が菅(すが)三郎、右脇が此関五郎であつた。菅は菅茶山の養嗣子菅(くわん)三維繩(ゐじよう)である。さて棺の背後を右継嗣又二郎復(ふく)、左其弟三木三郎醇(じゆん)が並んで歩いた。次が天野俊平、次が広島頼宗家の継嗣余(よ)一元協(げんけふ)代末森三輔であつた。光林寺に於ける焼香の順序は第一復、第二醇、第三元協代末森、第四お陽代菅三、第五未亡人里恵代関五郎であつた。其詳なるは木崎好尚さんの書に譲つて略する。
 山陽の歿後暫時の間、此関五郎は未亡人里恵と幼い嗣子復とに代つて一切の簡牘(かんどく)を作つた。曾て森田思軒の引いた十月十八日復の小野泉蔵、同寿太郎に与ふる書の如きは其一例である。文中里恵のために分疏して、「当方後室も泉蔵様始家内御一統へ宜申上候様被申付候、未大喪中同人よりは何方(いづかた)へも書状相控罷在候」と云つてある。
 然るに此関五郎の誰なるかは、久しく世に知られずにゐた。明治二十六年より二十七年に至る間に成つた思軒の書には、猶「関何人にして頼氏喪中の事を経紀する殷々此の如くなるぞ」と云つてある。当時山陽の事蹟に最も精(くは)しかつた思軒さへ、関五郎の誰なるかを知らなかつたのである。
 今は人皆関五郎の後の関藤藤陰(せきとうとういん)たることを知つてゐる。関五郎が日本政記の校訂者であつたのを思へば、その藤陰なるべきことには、殆ど疑を容るる地を存ぜぬのである。わたくしは小野節さんの口から親く関五郎の藤陰なることを聞いた。節は上(かみ)に引いた復に代る書を受けた泉蔵達(いたる)の裔で、継嗣順序より云へば其孫に当る人である。わたくしは又関藤国助さんの「関五郎は藤陰の事に候」と書した柬牘(かんどく)を目覩(もくと)した。国助さんは藤陰の女婿にして其継嗣なる成緒(せいちよ)の子である。
 既に此の如くなれば、関五郎の身上にはもはや問題とすべきものは存してをらぬ筈である。しかしわたくしは猶関五郎を以て問題としなくてはならない。
 先「関五郎」とは関氏にして通称五郎であるか。それとも関五郎と云ふ三字の通称であるか。諸山陽伝を閲するに、是だに未だ確定はしてゐない。諸書には大抵「通称関五郎」としてある。即ち三字の通称である。
 若し三字の通称であつたなら、山陽は何故に「五郎」と喚(よ)んだか。又復等に代る書に士人たる関五郎が何故に其氏を省いて、単に通称のみを署したか。後者の如きは、わたくしは殆ど有るべからざる事だと思惟する。且関五郎にして果して藤陰ならば、其兄鳧翁関藤立介政方(ふをうせきとうりふすけまさみち)の単姓関を称したのと、藤陰の関氏を称したのと同一の理由があつての事ではなからうか。是が疑の一つである。

     その二百八

 関藤藤陰(せきとうとういん)は備中国吉浜の社家関藤左京政信の第四子で、六歳の時医師石川順介直経に養はれ、石川氏を冒した。その本姓に復したのは維新後の事である。阪谷朗廬(さかたにらうろ)の集中「戊辰秋贈石川藤陰」の詩があつて、題の下(もと)に「石川今称関藤」と註してある。知るべし、藤陰は文化の昔より明治紀元の歳に至るまで石川氏を称してゐたことを。藤陰名は成章、字(あざな)は君達(くんたつ)であつた。
 以上の事実は朗廬全集、井上通泰(みちやす)さんの関鳧翁伝、藤陰舎遺稿を参酌したものである。
 遺稿の載(の)する所の詩文を細検するに、維新前の自署は皆「石川成章」若くは「石川章」である。頼山陽に従学した間も亦同じである。一として関藤氏又は関氏と称したものを見ない。
 さて藤陰の通称は何であつたか。朗廬の墓誌銘には「称淵蔵、中称和介、後称文兵衛」と云つてある。絶て五郎の称が無い。矧(まして)や関五郎と云ふ三字の称は見えない。
 わたくしは関五郎の文字を、未亡人小石氏里恵の広江秋水(ひろえしうすゐ)の妻に与へた書に於て見る。又関五郎と云ふ人の頼復(らいふく)に代つて作つた書の自署に於て見る。わたくしの見る所は此に止まる。
 虚心にして思へば、石川成章と関五郎との間には何等の交渉も存在せぬのである。
 強ひて二者を媒介するものを求めた後に、わたくしは始て日本政記の校訂と云ふことを見出す。里恵の書に拠るに、頼山陽が歿前に政記の校訂を託したのは関五郎であつた。そして政記は後に当時の石川成章の補訂を経て世に問はれた。関五郎と石川成章との間を媒介するものは只此のみである。
 わたくしは無用の辨をなすものでは無い。わたくしは問題なき処に故(ことさら)に問題を構へ成すものでは無い。しかしわたくしは一の証拠を得むことを欲する。関藤藤陰が石川氏を冒してゐた中間に、暫く関氏五郎若くは石川氏関五郎と名告(なの)つたと云ふ一の証拠を得むことを欲する。
 人はわたくしの此言(こと)を聞いて、或は近出の諸山陽伝を以てこれが証に充てようとするであらう。しかし諸伝に「通称淵蔵又関五郎、和介、後文兵衛」と云ひ、「通称を淵蔵、中ごろ和介又は関五郎と云ひ、後文兵衛と改む」と云ふ類は、朗廬の文中適宜の処に「関五郎」の三字を插入したるが如くに見える。若し是が插入であるならば、わたくしは何の拠るところがあつて插入せられたかを知らむことを欲する。若し又単に日本政記の校訂者が関五郎であつた、関藤藤陰が日本政記を補訂して世に問うたと云ふを以て插入せられたとすると、わたくしの問題は未解決の儘に存することとなるであらう。
 日本政記の校訂者が二人以上あつて、或は同時に、或は相踵(あひつ)いでこれに従事したと云ふことも、考へられぬことは無い。是が疑の二つである。

     その二百九

 関五郎が石川成章ではなからうかとは、わたくしと雖も思つてゐる。石川は此年壬辰五月に頼山陽に従つて彦根に赴いた。そして又これに従つて京都に帰つた。是が山陽の最終の旅行であつた。石川は詩稿の末にかう云つてゐる。「既自彦根還。此稿乞正於山陽先生。会先生罹疾。不正一字而没。」次で山陽の歿した翌年癸巳の元旦にも、石川は水西荘にゐた。「元日水西荘賦呈先師霊前」と云ふ詩がある。是に由つて観れば、頼氏の送葬の時も、焼香の時も、記録上に関五郎の占めてゐる地位は、恰も是れ石川の当に占むべき地位である。
 然らばわたくしが関五郎と石川成章との同異の間に疑を挾むのは、或はスケプシスの過ぎたるものではなからうか。
 さりながら人が「石川成章は一に関氏五郎若くは石川氏関五郎と云つた」と云つて、万事解決せられてゐると以為(おも)ふのは、わたくしの肯(うけが)ひ難い所である。此裏(うち)に新なる発表を待つて方纔(はうざん)に解決せらるべき何等かの消息が包蔵せられてゐることは、わたくしの固く信ずる所である。わたくしは最後に敢て言つて置く。関五郎が三字の通称でないことだけは、恐くは殆ど動すべからざるものであらうと。
 山陽の歿後京都の頼氏には、三十六歳の里恵、十歳の復(ふく)、八歳の醇(じゆん)、三歳の陽(やう)が遺つてゐた。諸山陽伝には児玉旗山、牧百峰、宮原節庵が江戸にある宗家の当主聿庵元協(いつあんげんけふ)と、広島にある達堂鉉(たつだうげん)とに与へた書数通、関五郎が復に代つて小野氏に寄せた書数通、里恵が小野氏に寄せた書、里恵が安井氏に寄せた書、梅□(ばいし)が後藤松陰に与へた書等を引いて、当時の状況が記してある。しかしわたくしは里恵の広江夫妻に与へた書が前数者に較べて最重要であると信ずる。それゆゑ煩を厭はずして下(しも)に抄する。
「廿三日八つ比(ごろ)に、何かとあとの所もよくよく申、此方なくなり候ても、何もかはり候事はなく、とんと/\此儘にて、此所地(ぢ)かりゆゑ、家は此方家ゆゑ、ほそ/″\に取つゞき、二人の子ども、京にて頼二けん立て候やう、夫(それ)をたのしみ(に)致すべくと申、かつゑぬやうにいたし置、又二郎三木三郎、内に置候へばやくにたゝずになり候ゆゑ、はん料出し候ても、外へ遣し候やう申置候。子どもがく問いたし候間は、私は陽と申候三歳のむすめそだて候て、らう女つかひ候て、三本木(ぼんぎ)にほそ/″\とつゞけ申候。此方はかねて三本木にてくらし候へども、子どもらが代になり候へば、町にて家かり、町へ参候て、店出し候様申置候。(中略。)五十日たち、又二郎は牧の方へ遣し申候。三木三郎はかよひにて児玉へ遣しをり候へども、是もいまださびしくて内にをり候。せつかく此せつ遣し候(はむ)と存候。(中略。)国元に余一と申し候(は)主人一ばん子にて、是も子どもらのげんざいの兄にて、いつかう人がらよろしく候。猶さら安心にて(候。)書状参り、私を大事に申参候間、ちからづよく存候。国元母よりも、ちからおとしに候へども、まだ/\あきらめよろしきゆゑ、私にたしかに申参、安心致候。来春余一が下り候節、子ども一人は国元にて世話いたし度と申参候。私が三人(世話いたし候)は誠にたいぎにて、又又国元にてがく問世話になり候へば、大いにかたやすく候。何分来春余一見えられ候を、主人と存待入候。(中略。)まづ/\其内に三歳女子むづかしきはうさう、よほどあやふき事、やうやうととりとめ申候。かほはやくたいにて、夫(それ)ゆゑ御返事もいたし不申候。(中略。)大坂後藤春蔵、主人病中にも度々上京、見まひに見え候。大へんのせつも、同人も病気に候へども、おして見えくれ、ともいたし、其後もちよじゆつはんかう物たのみ、主人申置候ゆゑ、心にかけ世話にいたしくれ、かたじけなき事(に候。)牧善助、小石次女とえんぐみ、此方五十日たち候へばすぐにもらひ候。すでに霜月廿二日夜こん礼にて、小石むすめゆゑ、大さかんにて御座候。ことの外をりあひと承候。めで度事に候。小石安心に御座候。児玉三郎も、家内が五月にもらへ候。いづこ(も)にぎ/\しき事に候。どうぞ児玉もはんじやう候やうと存候。左様いたし候へば、久太郎もちかにて悦申し候(はむ)とせつかく存候。」

     その二百十

 わたくしは此年壬辰閏(じゆん)十一月二十五日に頼山陽の未亡人里恵が広江秋水夫妻に寄せた書の後半より尚々書(なほ/\がき)に亘る文を節略して上(かみ)に挙げた。括弧内の文字はわたくしの修正若くは補足したものである。其他譌字(ぎじ)仮名違等は直に改めた。若し其原形を知らむと欲する人があるなら、屠赤瑣々録(とせきさゝろく)に就て検してもらひたい。又わたくしは事実を討(もと)むるに急なるがために、翫味するに堪へたる抒情の語をも、惜しげなく刪(けづ)り去つた。例之(たとへ)ば「猶さら此せつは主人(の)すきなすゐせんの花どもさき、一しほ/\おもひ出し候て、いく度か/\かなしみ候」の類である。水西荘の水仙花は里恵をして感愴(かんさう)せしむること甚深であつたと見えて、その小野氏に寄せた一書にも、これに似た語がある。森田思軒が「人情の極至亦詩情の極至」と評した語である。小野氏に寄せた書は「閏月十日」の日附があつて、広江夫妻に寄するものに先(さきだ)つこと十五日である。前書を裁した時痘(とう)を病んでゐた陽が、後書を裁する時既に愈(い)えてゐる。
 広江夫妻に寄する書は事実を蔵すること極て富饒である。それゆゑにわたくしは此書に史料としての大なる価値を賦与する。それゆゑにわたくしは、諸山陽伝中山陽の終焉及其歿後の事を叙する段は、此書牘に拠つて改訂せらるべきものなることを信ずる。
 わたくしの上(かみ)に引いた文は山陽歿後の事に限られてゐる。然るに其中に見出さるる事実の多きことよ。
 山陽は九月二十三日未刻の比(ころ)に遺言をした。「水西荘の地は借地である。しかしそこに建ててある家は頼氏の所有である。里恵には費(つひえ)を節して此家に住み、専ら幼女陽の保育に任じてもらひたい。復醇の二男子は家にあつて安きに慣れしむべきでは無い。食費を給して人に託してもらひたい。里恵は老婢一人を役して、陽と与に水西荘に住み、二男児の長ずるを待ち、京都市中に移り住むが好い。」是が遺言の内容であつた。
 里恵は二子一女と倶に五十日の喪を過した。「五十日のあひ/\はか参二人つれにて、もふくにて参候。」わたくしは此辺の文を省いたが、「二人つれにて」は復醇の二子を挈(たづさ)へて往つたのである。わたくしは母子の「三人づれ」と解する。
 五十日の後、里恵は復を牧百峰に託した。そして醇をば児玉旗山の許に通学せしめた。是が十一月十四日に里恵が夫の遺言を履行した始である。旗山の家には五月以来新婦がゐた。百峰は復の寄寓した後九日にして妻(さい)小石氏を迎へた。
 閏十一月には陽が重い疱瘡を病んで僅に生きた。其直後に小野氏に寄せた書が、恐くは里恵の未亡人としての最初の筆蹟であらう。此時に至るまで頼氏の通信は渾(すべ)て関五郎が辨じてゐたのである。
 里恵の書中より見出すべき事実は未だ尽きない。わたくしは今少し下(しも)に解説を試みたい。

     その二百十一

 此年壬辰閏(じゆん)十一月二十五日に頼山陽の未亡人里恵が広江秋水夫妻に寄せた書の中より、わたくしは尚下(しも)の事を見出す。
 山陽の歿後中陰の果の日までは、里恵は毫も家内の事を変更せずに、夫の位牌に仕へてゐた。さて五十日を過した後、遺言の履行に著手し、先づ二人の男児を人に託した。次で自ら簡牘(かんどく)をも作つた。しかし里恵が夫の位牌に仕ふることは猶旧に依つてゐた。「せめてと存、誠に大切に百箇日迄、ちゆういん中同やうにつとめ申候。日々かうぶつのしなをそなへ申候。」語は前に省(はぶ)いた中にある。
 山陽は九月二十三日に歿した。さて中陰四十九日は十一月十二日に果て、翌十三日を以て五十日が過ぎ去つた。嗣子復が牧氏に徙(うつ)り、其弟醇が児玉氏にかよひ始めた日を、十四日とする所以(ゆゑん)である。次に若し上(かみ)に云つた如く、里恵の始て自ら裁した書が小野氏に寄する書であつたとすると、里恵は夫の死してより第七十七日に筆を把つたのである。其時幼女陽は疱瘡の回復期であつた。「はうさう後虫が出」云々(しか/″\)と云つてある。次に里恵は書を広江氏に寄せた時、醇を児玉氏へ「せつかく此節遣候(はむ)と存候」と云つてゐる。是が夫の死してより第九十二日である。此後十二月三日に至つて、百箇日が始て終つた。
 百箇日の間夫の位牌に仕へた里恵の情は、上に引いた書にいかにも切実に描き出されてゐる。「誠に/\此せつも遠方へゆかれ留守中と存候て、日々(にち/\)つとめ申候。左様なくば、むねふさがり、やるせなく、御さつし可被下候。」わたくしは事実を録するを旨としたために、此語をも省いた。わたくしの判断を以てすれば、人情の極至は水仙花云云(うんぬん)の語に在らずして此語に在る。
 里恵は次年癸巳の春聿庵(いつあん)の江戸より来るのを待つてゐる。聿庵は二弟の中一人を安藝へ率(ゐ)て行く筈である。此事は啻(たゞ)に上に引いた書に見えてゐるのみでなく、蚤(はや)く里恵の小野氏に寄せた書にも見えてゐる。そして小野氏に寄せた書には、事が杏坪(きやうへい)の意に出でたやうに云つてある。「此方そばに置度と広島をぢよりせつかく申参候。」又広江氏に寄せた書には、語が杏坪に及んでゐない。余一より「書状参り」の下が、「来春余一が下り候節、子ども一人は国元にて世話いたし度と申参候」と承(う)けてある。推するに聿庵よりは直接に、杏坪よりは間接に言つておこせたのであらう。
 安藝へ率て行かれる二人の中の一人は、支峰復(しほうふく)になつたらしい。わたくしは支峰の事蹟を詳(つまびらか)にせぬが、幼時一たび安藝に往つてゐたさうである。聿庵の帰郷は少し遅れて夏に入つたらしい。梁川星巌の贐(はなむけ)の詩がある。「鵑啼催得発征車。留滞江城両歳余。曾擬承歓為徳逸。豈図泣血是皋魚。愁辺新樹客衣冷。望裏白雲親舎虚。行到琵琶湖水畔。知君弔影重欷歔。」詩は夷白庵集(いはくあんしふ)一に出でてゐる。

     その二百十二

 頼山陽歿後の里恵の操持(さうぢ)は久しきを経て渝(かは)らなかつた。後藤松陰撰の墓誌に、「君既寡、子皆幼、而持操屹然、凡事皆遵奉遺命、夙夜勤苦、教育二孤、終致其成立」と云つてある。弘化三年五月二十七日に、京都町奉行伊奈遠江守忠告(たゞのり)が里恵の「貞操奇特」を賞したことは、世の知る所である。是は里恵五十歳、復二十四歳、醇二十二歳の時であつた。
 水西荘は後に人手に落ちて、春処(しゆんしよ)と云ふ画家がこれに居り、次で医師安藤精軒の出張所となつた。支峰復(しほうふく)は安藤に譲渡(ゆづりわたし)を請うたが聴かなかつた。此時安藤が梅田雲浜(うんぴん)の門人であつたので、梅田の未亡人が其間に周旋した。以上の事は上野南城の話として森田思軒が記してゐる。此変遷の年月は不詳である。しかしわたくしは偶然水西荘が安藤の有に帰してゐた時の事を知つてゐる[#「知つてゐる」は底本では「知つつてゐる」]。わたくしの亡弟篤次郎の外舅(ぐわいきう)に長谷文(はせぶん)さんと云ふ人がある。此長谷氏は水西荘を安藤に借りて、これに居ること三年であつた。そして篤次郎の未亡人久子は水西荘に生れたさうである。是に由つて観れば明治丁丑前後には荘が猶安藤の手にあつた。其後のなりゆきは、わたくしは聞知しない。
 此年天保三年には榛軒二十九歳、妻志保三十三歳、柏軒二十三歳、長十九歳であつた。蘭軒の姉正宗院は六十二歳になつた。
 蘭軒歿後の第四年は天保四年である。榛軒の家には事の記すべきものが無い。わたくしは柏軒の雑記中に於て、柏軒が三月十六日に正宗院を溜池に訪うて逢はなかつたことを見出した。正宗院は猶溜池の比丘尼長屋に住んでゐたものと見える。
 蘭軒の門人森枳園が妻を娶(めと)つたのは此年である。妻は名を勝と云つて、鼈甲屋の娘であつたさうである。
 頼氏では石川藤陰(とういん)が元旦に水西荘にあつて詩を賦した。「三面遅梅未著花。春風吹動柳条斜。仙遊隔世君知否。迎歳吾猶在此家。」門田(もんでん)朴斎は江戸にあつて儲君阿部正弘の侍読をしてゐたが、遠く思を水西荘に馳せて、「遙思三面闢窓処、寂寞迎春梅影疎」と云つた。夏五月には田能村竹田(たのむらちくでん)が水西荘に来り宿した。「重叩柴門感曷勝。一声認得内人※[#「應」の「心」に代えて「言」、8巻-37-下-7]。」剥啄(はくたく)の声に応ずるものは、門生にあらず、婢僕(ひぼく)にあらず、未亡人里恵であつた。
 此年蘭軒子女の齢(よはひ)は榛軒三十、柏軒廿四、長二十であつた。推するに長は既に井戸応助に嫁(か)してゐたことであらう。榛軒の妻志保は三十四歳、正宗院は六十三歳になつた。
 天保五年は蘭軒歿後第五年である。他年榛軒の嗣となるべき棠軒淳良(たうけんじゆんりやう)が、四月十四日に因幡国(いなばのくに)鳥取の城主松平因幡守斉訓(なりみち)の医官田中淳昌(じゆんしやう)の子として生れた。通称は鏐造(りうざう)である。母の名は八百、杉田玄白の女(ぢよ)だと、歴世略伝に云つてある。玄白とは初代玄白翼(よく)であらうか。玄白は初め子がなかつたので、建部(たてべ)氏伯元勤(はくげんきん)を養つて嗣とした。其後一児を挙げたのが立卿予(りつけいよ)である。女(むすめ)の事は伝に見えない。勤(きん)と予(よ)との女(ぢよ)の事も亦同じである。杉田氏の系譜を識る人の教を乞ひたい。
 頼氏では此年五月朔(さく)に杏坪(きやうへい)が七十九歳で広島に歿した。わたくしは其集の末巻(まつくわん)を攤(ひら)いて見た。「黄葉村南人去後。毎逢花月独推敲。」此恨は蘭軒にあつては僅に一年余であつたが、杏坪にあつては七年の久しきに至つた。「旧歓杳渺多年夢。故友凄寥残夜星。」
 此年蘭軒の子女は榛軒三十一、柏軒二十五、長二十一であつた。蘭軒の姉は六十四、榛斬の継室は三十五になつた。

     その二百十三

 蘭軒歿後の第六年は天保六年である。榛軒の家には一男子が死して一女子が生れた。
 男子は誰であるか。先霊名録に曰く。「疎桐禅童子。信厚義子。実信重子。母藤田氏。天保六年乙未閏七月十七日歿。」子は法諡(はふし)を疎桐(そとう)と云つた。恐くは未だ小字(をさなな)を命ずるに及ばずして夭したのであらう。疎桐の生父は柏軒である。柏軒は後狩谷氏俊(しゆん)を娶(めと)つた。又一妾(せふ)佐藤氏春を畜(やしな)つてゐた。しかし疎桐の生れたのは狩谷氏の未だ来り嫁(か)せざる前である。又佐藤氏春の齢(よはひ)を推算するに、春は文政八年の生で、此年甫(はじめ)て十一歳であつた。わたくしは藤田氏の女(ぢよ)の何人(なにひと)なるを知らぬが、その産む所の疎桐が柏軒未娶前(みしゆぜん)の子なることは明である。それゆゑに兄榛軒は己の子として公(おほやけ)に稟(まう)したのであらう。
 女子は誰であるか。榛軒の継室飯田氏志保(しほ)の始て生む所で、初め名を柏(かえ)と命ぜられた。即ち大正丁巳に至つて八十三歳の寿を保つてゐる曾能子(そのこ)刀自である。若し榛軒の先妻勇(ゆう)の出(しゆつ)なるれんよりして順位を論ずれば、刀自は第二女である。わたくしの此より下(しも)に記する所は、刀自の記憶に負ふ所のものが極て多い。
 此年閏(じゆん)七月四日に狩谷□斎が六十一歳で歿した。松崎慊堂(かうだう)撰の墓誌に、「天保乙未、遽焉嬰病」と書してあるから、前年甲午に至るまでは尚健(すこやか)であつたと見える。他日慊堂日暦を閲(けみ)したらば、或はその何の病なるを知ることを得るかも知れない。□斎の歿したのは、浅草の常関書院に隠居してより第十九年の事である。津軽家用達として世に聞えてゐた湯島の店には、当主懐之(くわいし)が三十二歳になつてゐた筈である。懐之の妻は所謂呉服屋後藤の女(むすめ)で、名をふくと云つたさうである。
 湯島の津軽屋は大い店で、留蔵、音三郎、梅蔵三人の支配人即通番頭(かよひばんとう)が各(おの/\)年給百五十両であつた。渋江保さんの話に、渋江氏の若党柴田清助の身元引請人利兵衛は、本町四丁目の薬店(やくてん)大坂屋の通番頭で、年給二十両であつた。大坂屋では是が最高の給額で、利兵衛一人がこれを受け、傍輩に羨まれてゐた。渋江抽斎の妻(さい)五百の姉夫(あねむこ)塗物問屋(どひや)会津屋宗右衛門方の通番頭は首席を庄太郎と云つて、年給四十両であつた。五百の里親神田紺屋町の鉄物(かなもの)問屋日野屋忠兵衛方には、年給百両の通番頭二人があつて、善助、為助と云つた。此日野屋すら相応の大賈(たいこ)であつた。此等より推せば、通番頭三人に各年に百五十両を給した、津軽屋の大さが想見せられる。且津軽家は狩谷に千石の禄を与へた。次年五月は廩米(りんまい)中より糯米(じゆべい)三俵を取つて柏餅を製し、津軽藩士と親戚故旧とに貽(おく)るを例としてゐたさうである。
 □斎の死は、津軽屋のためには尋常隠居の死として視るべきではなかつただらう。懐之は固より凡庸人でなかつたことが、慊堂の「風度気象能肖父」を以て証せられてゐる。しかし性頗る酒色を好んだ。家にあるに手杯(てさかづき)を釈(お)かず、客至れば直に前に陳(なら)べた下物(げぶつ)を撤せしめて、新に□核(かうかく)を命じた。そして吾家に冷羮残炙(れいかうざんしや)を供すべき賤客は無いと云つたさうである。又妻(さい)後藤氏に随つて来た侍女に姿色があつたので、遂に留めて妾(せふ)としたと言ふ。想ふに湯島の店は□斎の董督(とうとく)に待つあること鮮少(せんせう)でなかつただらう。

     その二百十四

 わたくしは狩谷懐之が、縦令(たとひ)多少書を読んでゐたとしても、必ずしも大商店を経営する力をば有せなかつたものと推する。父□斎は浅草に隠居した後も、屡(しば/\)湯島に往来して、懐之を庇※(ひいん)[#「广+陰」、8巻-40-上-11]することを怠らなかつたであらう。此年乙未の秋には、其□斎が歿したのである。
 わたくしは嘗て懐之が怙(こ)を喪つた後久しからずして下谷徒町(かちまち)に隠居し、湯島の店を養子三右衛門に譲り、三右衛門が離別せられた後、重て店主人(てんしゆじん)となつたことがあると聞いてゐる。此説は懐之に自知の明があつて、早きを趁(お)うて責任ある地位を遯(のが)れたものとも解せられる。わたくしは只その年月の遅速を詳(つまびらか)にしない。
 懐之の養子三右衛門は二人ある。離縁せられた初の三右衛門は造酒業豊島屋(としまや)の子であつた。離縁の理由としては、所謂天閹(てんえん)であつたらしく伝へられてゐる。其真偽は固より知ることが出来ない。後の三右衛門は即ち懐之の後を襲(つ)いだ矩之(くし)で、本(もと)斎藤氏である。
 わたくしは一の事実より推して、□斎歿後に懐之が続いて店主人たりし時代は甚だ短くはなかつたことを知る。それは柏軒の女(ぢよ)国(くに)が、初め豊島屋から来た三右衛門の配として迎へられ、その離縁せられた後、遂に斎藤氏から来た三右衛門矩之に嫁したと云ふ事実である。
 矩之は天保十四年生、国は弘化元年生である。懐之の歿した安政三年には、矩之が十四歳、国が十三歳であつた。矩之に先(さきだ)つて狩谷氏に来た豊島屋の子三右衛門は、縦(よ)しや矩之より長じてゐたとしても、既に国を配すべき少年であつたとすれば、其齢(よはひ)の懸隔は甚だ大くはなかつただらう。
 是に由つて観れば、懐之の退隠は安政の初年より早くはなかつただらう。此年乙未より安政紀元の甲寅に至る間は二十年である。是が懐之の店主人であつた筈の年数である。彼(かの)「怙を喪つて久からずして」退隠したと云ふ説は、斟酌して聞くべきである。わたくしは後に至つて又此問題に立ち帰るであらう。
 □斎の歿した時、其妻はどうしてゐたか。墓誌には唯「出為従祖弟狩谷保古嗣、配以第三女」の句があるのみである。わたくしは此に拠つて□斎の妻が狩谷保古(はうこ)の第三女であつたことを知る。しかし其生歿を明にすることを得ない。天竜寺には□斎の墓があつて、妻狩谷氏の墓は無い。
 わたくしは頃日(このごろ)料(はか)らずも□斎の妻の忌日を知ることを得たやうにおもふ。若し他に記録の徴すべきものが無いとすると、是も亦□斎伝を補ふべき重要なる材料の一であらう。

     その二百十五

 わたくしは此年天保乙未に狩谷□斎の歿した時、其妻はどうしてゐたかと問うた。既に屡(しば/\)云つた如くに、わたくしは□斎の詳伝の有無(いうむ)を知らない。しかし見聞(けんもん)の限を以てすれば、其妻であつた狩谷保古(はうこ)の第三女は生歿の年月が不詳であるらしい。
 然るにわたくしは頃日(このごろ)市(いち)に閲(けみ)して一小冊子を獲た。藍界(らんかい)の半紙二十六枚のマニユスクリイで、茶表紙の上に貼(てふ)した簽(せん)に「糾繩抄」の三字が題してある。内容は享和三年より天保九年に至るまでに歿した人の忌日で、聴くに随つて書き続いだものと覚しく、所々明に墨色の行毎に殊なるを認める。
 一友人は筆蹟が屋代弘賢(やしろひろかた)に似てゐるが故に、或は弘賢の自筆本ではなからうかと云ふ。弘賢は天保十二年に八十四歳で歿した。若し友の言(こと)の如くならば、輪池(りんち)が歿前三年即八十一歳に至るまで点簿したこととなるであらう。
 按ずるに標題の糾繩(きうじよう)は隋書に「若不糾繩、何以粛□」と云つてある如く、ただす義である。此を以て此書に名づけたのは不審である。わたくしは或は糾纏(きうてん)の誤ではなからうかと疑つた。しかし詩人等は屡糺繩を用ゐること糾纏のごとくにしてゐる。わたくしは題簽を熟視してゐるうちに、ふと紙下に墨影あるに心附いた。そして日に向つて透(すか)して視た。果して茶表紙に直(ぢき)に書いた別の三字があつた。此三字は「過去帳」であるらしい。推するに初め過去帳と題し、後忌(い)んで糾繩抄と改めたものであらう。
 此糾繩抄の文化七年庚午の下(もと)には七人の名がある。原文の儘に録すれば、下(しも)の如くである。「正月廿七日小野蘭山(八十二歳、二月発喪)細見権十郎(三月十六日、実は八月十四日、号秋月院道法日観居士)加藤定四郎(四月十九日朝)太田備後守殿(六月十七日於掛川死去、脚気腫之由)望之妻(六月十八日朝)吉川熊太郎(七月十四日病死)おのふ(八月。)」括弧内は細註の文である。
 わたくしは此「望之妻」は□斎の妻であらうと謂(おも)ふ。果して然らば、□斎の妻狩谷氏は文化七年庚午六月十八日の朝歿したこととなるであらう。
 □斎の墓誌には「育一男二女、男即懐之、(中略、)女一適高橋某、一適伊沢信重」と書してある。伊沢分家の口碑の伝ふる所に拠れば、初め狩谷保古は望之(ばうし)を養ふに当つて、其生父高橋高敏(かうびん)に約するに、望之の子をして高橋氏を嗣(つ)がしむることを以てした。それゆゑ□斎の長女たかのは高橋氏に養はるることとなつてゐた。然るにある日長女次女は相携へて浅草の観音に詣でた。家に帰つて、長女は病臥し、遂に起たなかつた。次女はたか、後の名は俊(しゆん)で、長じて後柏軒に嫁(か)した。誕生の順序は第一懐之、第二たかの、第三たかであつたと云ふのである。
 □斎の妻が文化七年に歿したとすれば、是は懐之七歳、たか一歳の時である。たかのは懐之より穉(をさな)く、たかより長じてゐたことを知るのみで、其生歿年を詳(つまびらか)にしない。当時□斎は三十六歳であつた。□斎の妻は夫に先つこと二十五年にして既に歿してゐた。

     その二百十六

 此年乙未には蘭軒門人森枳園の家に冢子(ちようし)約之(やくし)が生れた。渋江抽斎の家では嫡子恒善(つねよし)が既に十歳になつてゐて、此年第二子優善(やすよし)が生れた。約之と優善とは榛軒の女(ぢよ)柏(かえ)と同庚で、若し大正丁巳までながらへてゐたら、今の曾能子(そのこ)刀自と倶に、八十三歳になつてゐる筈である。
 此年榛軒三十二、妻志保三十六、柏軒二十六、長二十二、志保の産んだ柏一歳であつた。
 天保七年には春の未だ闌(たけなは)ならぬうちに、柏軒が狩谷□斎の第二女たか、後の名俊(しゆん)を娶(めと)つたらしい。何故と云ふに、柏の初節句即丙申の三月三日には、たかが家にゐたと伝へられてゐるからである。
 柏軒たかの夫婦は同庚である。そして共に二十七歳で結婚したこととおもはれる。
 たかは善く書を読んだ。啻(たゞ)に国文を誦(じゆ)するのみではなく、支那の典籍にも通じてゐた。現に徳(めぐむ)さんの姉良子(よしこ)刀自は、たかが子に授けむがために自ら書した蒙求(まうぎう)を蔵してゐる。拇指大(ぼしだい)の楷書である。女文字に至つては当時善書の聞(きこえ)があつた。連綿草(れんめんさう)を交へた仮名の散らし書の消息数通、細字の文稿二三巻も亦良子刀自の許にある。蘭軒の姉正宗院と云ひ、此たかと云ひ、渋江抽斎の妻五百と云ひ、仮名文(ぶみ)の美しきことは歎賞すべきである。たかは折々父□斎に代つて歌を書いた。そして人はその孰(いづ)れか□斎にして孰れかたかなるを辨ずることを得なかつた。たかは歌を詠じ、文章を書いた。
 たかは夙(はや)く今少納言と称せられ、又単に少納言と呼ばれた。それゆゑ後に山内氏五百が才名を馳せた時、人が五百を新少納言と呼んだ。たかの少納言に対(むか)へて呼んだのである。たかは五百より長ずること七歳であつた。渋江保さんは両少納言の初て相見た時の事を母に聞いてゐる。これは大勢で川崎の大師に詣でた時で、二人を紹介したのは磯野勝五郎即後の石川貞白であつた。五百は後に「思つた程美しくはなかつた」と云つた。たかは背が低かつたさうである。
 たかは諸藝に通じてゐて、唯音楽を解せなかつた。塙検校(はなはけんぎやう)の類(たぐひ)であつたと見える。
 たかは処女時代に黒田家の奥に仕ふること三年であつた。正宗院の曾て仕へた家である。君侯のお手が附いたと云ふ虚説が伝へられたために、暇(いとま)を乞うたさうである。
 たかの柏軒に嫁したのは、自ら薦めたのださうである。「磐安(ばんあん)さんがわたしを女房(にようぼ)に持つてくれぬかしら」とは、たかの屡(しば/\)口にした所であつた。推するに橋わたしは石川であつたかも知れない。当時懐之(くわいし)の家は富裕であつた。然るにたかはみづから択んで一諸生たる柏軒に嫁(か)したのである。
 保さんは彼「失はれたるマニユスクリイ」抽斎日乗に、五六枚の記事のあつたことを記憶してゐる。それは諸友の柏軒たかの華燭を賀した詩歌であつた。中には狂歌狂句俗謡の類で、文字の稍(やゝ)褻(せつ)に亘つたものが夾雑してゐた。女のしかけた恋だと云ふ故であつたらしい。

     その二百十七

 わたくしは渋江抽斎の日乗に、柏軒と狩谷氏たかとの合※(がふきん)[#「丞/巳」、8巻-45-上-5]を祝する詩歌、俳諧、俗謡があつて、中には稍褻に亘つたものゝあつたことを語つた。そして是がたかの自ら薦めた故であつたらしいと云つた。しかしたかの此の如き揶揄を被(かうむ)つたには、猶別に原因があるらしい。
 たかの気質は男子に似てゐた。言語(げんぎよ)には尋常女子の敢て口にせざる詞(ことば)があり、挙措(きよそ)には尋常女子の敢て作さざる振舞があつた。たかは毎(つね)に磯野勝五郎、小野富穀(ふこく)の輩(ともがら)と酒を飲んで快談した。又男子の花信を伝ふるを聞いて、直に起つて同じく観むことを勧めたこともある。此等は後年柏軒の嗣子磐(いはほ)の聞き伝へてゐて、渋江保さんに語つた所である。是も亦祝賀の日に当つて、措辞の忌憚なきを致した一原因であらう。
 これを読むものは、たかの性行中より、彷彿として所謂新しき女の面影を認むるであらう。後に抽斎に嫁した山内氏五百も亦同じである。此二人は皆自ら夫を択んだ女である。わたくしは所謂新しき女は明治大正に至つて始て出でたのではなく、昔より有つたと謂(おも)ふ。そしてわたくしの用ゐる此称(となへ)には貶斥(へんせき)の意は含まれてをらぬのである。
 柏軒が家を中橋(なかばし)に構へたのも、恐くは此頃の事であらう。
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