伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

 此癖(へき)は既に引いた※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-374-下-1]詩集文政壬午の詩に就いて、其一端を窺ふことが出来る。「但於間事有遺恨。筅箒不能手掃園。」蘭軒は脚疾の猶軽微であつた時は、常に手に箒を把つて自ら園を掃(はら)つてゐた。僮僕をして掃はしむるに至つて、復(また)意の如くなること能はざるを憾んだのである。
 わたくしは更に細(こまか)に詩集を検して、箒を僮僕の手に委ぬることが、蘭軒のために奈何(いか)に苦しかつたかを想見した。文化己巳は蘭軒の猶起行することを得た年である。当時の詩中に「掃庭」の一絶がある。「手提筅箒歩庭隅。無那春深易緑蕪。刈掃畏鏖花草去。頃来不輙付園奴。」
 蘭軒は啻(たゞ)に庭園の潔(けつ)ならむを欲したのみではなかつた。口碑に拠るに又居室の潔ならむを欲した。そして決して奴婢をして居室を掃除せしめなかつた。毎日箒を手にして父の室に入るものは長子榛軒であつた。蘭軒は榛軒の性慎密(しんみつ)にして、一事をも苟(いやしく)もせざるを知つて、これに掃除を委ねたのである。
 偶(たま/\)榛軒が事あつて父の未だ起たざるに出で去ることがあると、蘭軒は甘んじて塵埃中に坐して、肯(あへ)て三子柏軒をして兄に代らしめなかつた。粗放なる柏軒をして案辺(あんへん)の物を飜攪(ほんかう)せしむるは、蘭軒の耐ふること能はざる所であつた。
 蘭軒は又潔を好むがために、榛軒をして手を食饌の事に下さしむることがあつた。例之(たとへ)ば蘭軒は酒を飲むに、数(しば/\)青魚□(かずのこ)を以て下物(げぶつ)とした。そして青魚□を洗ふには、必ず榛軒の手を煩した。
 次に口碑は蘭軒の花卉を愛したことを伝へてゐる。吉野桜の事、蘭草(ふぢばかま)の事は既に前に見えてゐる。其他人に花木を乞うて移し栽ゑたことは、その幾度なるを知らない。梅を栽ゑ、木犀を栽ゑ、竹を移し、芭蕉を移したことは、皆吟詠に見(あらは)れてゐる。又文政辛巳と丁亥とには、平生多く詠物の詩を作らぬのに、草花を詠ずること前後十六種に及んだ。
 就中(なかんづく)わたくしの目に留まつたのは、つゆ草の詩である。わたくしは児時夙(はや)く此草を愛した。吾郷人の所謂かめがらである。頃日(このごろ)「みゝずのたはこと」の一節が小学教科書に入つて、児童に此微物の愛すべきを教へてゐる。「何仙砕碧玉。化作小蛾児。貪露粘微草。不飛復不移。右鴨跖草。」わたくしの家の小園には長原止水さんの贈つた苗が、園丁の虐待を被りつゝも、今猶跡を絶たずにゐる。
 蘭軒は草花を詠じて、往々本草家の面目を露すことがある。たうぎばうしの詩の如きは是である。「玉簪化為草。漫向小園開。嬌媚休相近。毒根刮骨来。右玉簪花。」
 最後に口碑の伝ふる所の敗醤花(はいしやうくわ)の一笑話を挙げる。蘭軒は婢を上原全八郎の家に遣つて敗醤花を乞うた。口上は「お約束のをみなめしを頂きに参りました」と云ふのであつた。婢は新に田舎より来て、「めし」を「御膳」と呼ぶことを教へられてゐた。それゆゑ「をみなごぜん」と云つた。上原の妻は偶山梔子(くちなし)の飯を炊(かし)いでゐたので、それを重箱に盛つて持たせて帰した。

     その百九十三

 伊沢分家の口碑に蘭軒の平生を伝ふるものは、概ね上(かみ)に記するが如くである。わたくしは此に一二附記して置きたい。其一は蘭軒の筆蹟の事である。富士川氏所蔵の自筆本数種を見るに、細楷と行狎(ぎやうかふ)と皆遒美(いうび)である。塩田真(まさし)さんの談に、蘭軒は人に勧めて雲麾碑(うんきのひ)を臨せしめたと云ふ。平生書に心を用ゐたものとおもはれる。真さんは小字良三(せうじりやうさん)、楊庵の子である。
 わたくしは金石文の事を知らない。若し此に云ふ所に誤があつたら、人の教を得て正すであらう。雲麾将軍は李氏、名は秀、字は元秀、范陽の人で、唐の玄宗の開元四年に歿した。其碑は李□(りよう)が文を撰み自ら書した。然るに李□に両(ふたつ)の雲麾の碑がある。一は李思訓(りしくん)の碑にして一は此碑である。思訓と秀とは同姓同官である。此碑は良郷(りやうきやう)より宛平県に、宛平県より順天府に入つて、信国祠(しんこくし)の壁に甃(しう)せられてゐるさうである。其拓本の種類等はこれを審(つまびらか)にしない。
 其二は蘭軒が医の職を重んずるがために、病弱の弟子(ていし)を斥(しりぞ)けた事である。某(それがし)は蘭軒に請ふに、其子に医を教へむことを以てした。そして云つた。「生れつき虚弱な子でございます。武藝などははかばかしく出来さうもござりませぬ。お医者様になつて薬の事を心得てゐたら、自身のためにも便利だらうと存じます。」
 蘭軒はこれを聞いて眉を蹙(しか)めた。「それは悪いお思附だ。医は司命の職と云つて、人の死生の繋る所だから、其任は重い。医の学ぶべき事は極て広大で、これを窮むるには人に超えた力量がなくてはならない。御子息が御病身なら、何か医者でない、外の職業をおしこみなさるが好い。」
 某は慙謝(ざんしや)して退いたさうである。蘭軒の病弱は其形骸にあつて、其精神にはなかつた。蘭軒は身を終ふるまで学問のために努力して、毫も退転しなかつたのである。
 わたくしは此に蘭軒の事蹟を叙し畢(をは)つて、其歿後の記録に入らうとする。わたくしは境に臨んで※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-377-上-9]詩集の一書を回顧する。詩集はわたくしが富士川氏に借り得て、今に□(いた)るまで座右に置き、其編年の体例に拠つて、我文の骨格を構へ成した所のものである。
 わたくしは今詩集を富士川氏に返さうとする。そして今一たび其巻(まき)を繙閲する。巻は百零(れい)三頁(けつ)の半紙本で、頁数(けつすう)は森枳園(きゑん)の朱書する所である。首に「※[#「くさかんむり/姦」、7巻-377-上-15]斎詩集、伊沢信恬」と題してある。印が二つある。上(かみ)のものは「森氏」で枳園の印、下のものは「伊沢氏酌源堂図書記」で蘭軒の印、並に朱文篆字(しゆぶんてんじ)である。載(の)する所の詩は、五古一、七古一、五律六十七、七律百零三、五絶十九、七絶三百九十七、通計五百八十八首である。
 わたくしは此に「蘭軒文集」の事を附記する。此書は蘭軒の文稿を綴輯(てつしふ)したもので、完書の体を成さない。命題の如きも、巻首及小口書(こぐちがき)、題簽、巻尾、各(おの/\)相異つてゐる。「蘭軒文集」と云ひ、「蘭軒文草」と云ひ、「蘭軒遺稿」と云ふ、皆後人の命ずる所である。九十七頁(けつ)の半紙本で、首に「森氏」、「伊沢家書」の二印がある。並に篆字朱文である。載する所は序十四、跋二十九、書二、記二、考一、墓誌三、雑二で、その重出するものを除けば、序六、跋十八、書一、記一、考一、墓誌一、雑二となる。通計文三十篇である。わたくしは此書を伊沢信平さんに借りて、参照の用に供した。今詩集を富士川氏に返すに当つて、文集をも伊沢宗家に返し、二家に嘱するに此副本なき二書を愛護せむことを以てする。

     その百九十四

 蘭軒が歿した後、嫡子榛軒信厚(しんけんのぶあつ)が伊沢分家を継いだ。榛軒は二十六歳を以て主人となつたのである。その家督を命ぜられた月日の如きは、記載の徴すべきものが無い。榛軒は其時に至るまで棠助(たうすけ)と称し、今祖父信階(のぶしな)の称を襲(つ)いで長安となつたのであらう。
 蘭軒の室(しつ)飯田氏益(ます)は夫に先(さきだ)つて歿したので、蘭軒歿後には只側室佐藤氏さよが残つただけである。榛軒は幾(いくばく)もあらぬに、これに貲(し)を与へて人に嫁せしめた。
 是に於て榛軒の新家庭には妻勇(ゆう)、弟柏軒、妹長(ちやう)の三人があつて、主人を併せて四人をなしてゐた筈である。勇の生んだ女(むすめ)れんは前年戊子十二月四日に死に、今年己丑に入つてより、二月二日に榛軒と柏軒との間の同胞常三郎、五日に此三子の母飯田氏益、三月十七日に父蘭軒が死んだのである。
 蘭軒の門人は多くは留まつて榛軒の教を受くることゝなつた。門人等は復(また)「若先生」と呼ばずして「先生」と呼ぶこととなつたのである。
 蘭軒の遺弟子(ゐていし)は所謂又分家の良子(よしこ)刀自所蔵の門人録に八十一人、所謂分家の徳(めぐむ)さん所著(しよちよ)の歴世略伝に二十一人が載せてあつて、二書には互に出入があり、氏名の疑似のために人物の同異を辨ずるに苦むものもある。今重複を除いて算するに、約八十二三人となる。しかし蘭軒自筆の勤向覚書に僅に門人七人の氏名が見えてゐて、その門人録及歴世略伝に載するもの四人、門人録に載せて、歴世略伝に載せざるもの二人、二書並に載せざるもの一人である。是に由つて観れば、門人録も歴世略伝も、猶脱漏あることを免れぬものと見える。今三書を湊合して、新に一の門人録を作ることは容易であるが、読者の厭悪(えんを)を奈何(いかん)ともし難い。
 わたくしは此に第(しばら)く当時の所謂「蘭門の五哲」を挙げる。即ち渋江抽斎、森枳園、岡西玄亭、清川玄道、山田椿庭(ちんてい)である。蘭軒の歿後に、榛軒は抽斎、玄亭、椿庭の詩箋、枳園の便面(べんめん)、玄道の短冊を一幅に装(よそほ)ひ成したことがある。此幅は近年に至るまで徳さんの所にあつたが、今其所在を知らない。
 それはとにかく、榛軒の世となつた後も、医を学ぶものが伊沢分家の門に輻湊したことは、当時の俗謡に徴して知ることが出来る。わたくしは此に其辞(ことば)の卑俚(ひり)を嫌はずして、榛軒の女(ぢよ)曾能子(そのこ)刀自の記憶する所のとつちりとん一□(き)を録する。「医者になるならどこよりも、流行る伊沢へ五六年、読書三年匙三月、薬□(きざ)みや丸薬や、頼まうどうれの取次や、それから諸家へ代脈に、往つて鍛ふが医者の腕、それを為遂(しと)げりや四枚肩(まいがた)。」榛軒が父の世の家声を墜さなかつたことは明である。
 此年文政十二年に、頼氏では山陽が五十になり、其母梅□(ばいし)が七十になつた。「五十児有七十母、此福人間得応難。」
 伊沢氏では此年榛軒が既に云つた如く二十六、弟柏軒が二十、妹長が十六になつてゐた。榛軒の妻勇は其歯(よはひ)を詳(つまびらか)にしない。蘭軒の姉正宗院幾勢(きせ)は五十九であつた。

     その百九十五

 文政十三年は天保と改元せられた年で、蘭軒歿後第一年である。榛軒詩存に「天保庚寅元日」の詩がある。「妍々旭日上疎櫺。影入屠蘇盃裏馨。梅自暖烟生処白。草追残雪□辺青。読方択薬宜精思。射利求名豈役形。唯宝儂家伝国璽。明堂鍼灸宋雕経。」註に曰く。「余家旧蔵北宋槧本明堂鍼灸経。是架中第一珍書。故及之。」
 蘭軒手沢(しゆたく)の書には古いものが頗(すこぶる)多かつたが、大抵鈔本であつた。それゆゑ当時最古の刊本として明堂鍼灸経(めいだうしんきうきやう)を推したのであらう。明堂鍼灸経とはいかなる書か。
 北宋太宗の太平興国七年に、尚薬奉御(しやうやくほうぎよ)王懐隠(わうくわいいん)等に詔(みことのり)して、太平聖恵方(たいへいせいけいはう)一百巻を撰ばしめた。其書は淳化三年に成つた。太宗は自らこれに叙して、「朕尊居億兆之上、常以百姓為心、念五気之或乖、恐一物之失所、不尽生理、朕甚憫焉、所以親閲方書、俾令撰集、溥天之下、各保遐年、同我生民、躋於寿域、今編勒成一百巻、命曰太平聖恵方、仍令彫刻印版、□施華弟、凡爾生霊、宜知朕意」と云つてゐる。即ち十世紀の書である。
 太平聖恵方の完本は、躋寿館(せいじゆくわん)に永正中の鈔本の覆写本があつた。其刊本は同館に七十三、七十四、七十九、八十、八十一の五巻を儲(たくは)へてゐたのみである。
 然るに此聖恵方の第一百巻に黄帝明堂鍼灸経が収めてあつた。是は素(もと)唐以前の書で、王等が採り用ゐたのである。既にして人あつて古版首行(しゆぎやう)の「太平聖恵方」の五字を削り去り、単行本として市(いち)に上(のぼ)せた。故に首行の上(かみ)に空白を存じてゐる。此の変改せられた北宋槧本(ざんほん)が躋寿館に一部、伊沢氏の酌源堂に一部あつた。彼は「長門光永寺」の墨印があり、此は「吉氏家蔵」の印があつた。経籍訪古志に「酌源堂亦蔵此本、紙墨頗精」と云つてあるのが即後者で、榛軒の詩中に斥(さ)す所である。今其所在を知らない。
 詩存には此春の詩が猶十八首あつて、就中(なかんづく)五首は阿部侯正寧(まさやす)に次韻したもの、五首は賜題の作である。榛軒が正寧に侍して詩を賦したのは、蘭軒が正精(まさきよ)に侍して詩を賦したと相似てゐる。
 此年十月に榛軒は正寧に扈随して福山に往くこととなつた。前年来江戸に来て、丸山邸に住んでゐる門田(もんでん)朴斎は「白蛇峰歌」を作つてこれを送つた。「白蛇峰上白雲多。峰前是我曾棲処。黍山最高只此峰。勧君吟屐穿雲去。北望雲州与伯州。独有角盤相対□。臨風絶叫称絶勝。未輸五岳名山遊。吾兄在彼諳山蹊。恰好前導攀丹梯。別後思君復思兄。白雲満山夢不迷。」朴斎は兄富卿(ふけい)を前導者として榛軒に推薦したのである。
 福山へ立つた兄榛軒と、江戸に留まつた弟柏軒との間に取り替された書牘は、集めて一巻となし、「荏薇問答」と題してある。荏土(えど)と黄薇(きび)との間に取り替されたからであらう。わたくしは此書を徳(めぐむ)さんに借りて、多少の価値ありと認むべき数条を抄出する。
 榛軒は十月十六日の暁に江戸を発した。同行した僚友は雨富良碩(あまとみりやうせき)、津山宗伯(そうはく)であつた。留守は柏軒で、塩田楊庵(やうあん)、当時の称小林玄瑞(げんずゐ)が嘱を受けて其相談相手になつた。
 榛軒が去つた直後に、留守宅に傷寒論輪講の発会があつた。来会者は各(おの/\)数行の文を書して榛軒に寄せた。合作の柬牘(かんどく)である。会日は十月二十日であつた。
 首(はじめ)に柏軒が書した。「磐安(はんあん)曰。集まりし人より伝言左の如し。尤(もつとも)各自筆なり。」
 次に渋江抽斎が書した。「道純敬啓。御出立の砌は参上、得拝眉、大慶不過之候。御清寧、御道中種々珍事可有之、奉恭羨候。廿日より傷寒論講釈相始候処、諸君奇講甚面白し。輪講の順は星順にて、長短に拘らず一条づつ各講ず。書余後便万々。不具。副啓。去(さんぬ)る十七日万笈堂主人頓死。」英(はなぶさ)平吉の死んだ日と、其死が頓死であつたこととが、此短文に由つて知られる。
 此合作柬牘は荏薇問答中最も興味ある文であるから、わたくしは下(しも)に続抄しようとおもふ。

     その百九十六

 榛軒の留守に会して傷寒論を講じた人々の合作柬牘には、渋江抽斎の次に岡西玄亭が書いてゐる。「玄亭謹啓。御道中御壮栄欣抃(きんべん)、吟哦(ぎんが)可想(おもふべし)。」
 次に森枳園(きゑん)が書いてゐる。「養竹啓。今日は駿河路と奉※[#「てへん+婁」、8巻-8-上-14]指候。定而(さだめて)不二は大きからうと奉存候。御上(おんかみ)益御きげん能奉恐悦候。大木斎兵衛歿す。木挽町先(まづ)は居なりの由、路考半分すけ也。吹屋(ふきや)は名代七枚に而(て)、秀桂秀調関三常世片市半四郎紫若也。中村屋は今迄之所へ久米三はひり候由、先評判也。いづれ其中正説可申上候。道中なんぞ冬枯ながら薬草は見当らずや、御心がけ奉願候。以上。立之再拝。」
 わたくしは始て抽斎枳園の柬牘を見た。抽斎は端人(たんじん)の語をなし、枳園は才子の語をなす。とり/″\に面白い。「定而不二は大きからうと奉存候。」一句枳園の面目を見る。忽にして好劇家、忽にして本草家、端倪すべからざるものがある。抽斎は英平吉の死を報じ、枳園は大木某の死を報じた。大木とは何人(なんぴと)であらうか。
 次は山田椿庭(ちんてい)である。「昌栄啓上。御道中無滞今に御着可相成奉拝賀候。明年御帰之節御迎楽居申候。並に大勢の踊の拝見仕度候。先は晩方、是迄に御坐候。」当時祝賀の宴には、例として客が踊り、客が茶番をしたらしい。
 次は小野富穀(ふこく)である。「道秀敬白。御道中弥無滞被遊御坐恐悦奉存候。扨御出立後火事沙汰等も無御坐第一之大悦に御坐候。乍憚御如才は御坐候間敷候得共、御道中切角御自愛専一奉存候。今日は駿河路の由不二の絶景奉遠察候。晩景は尚さらと奉存候。鳥渡(ちと)うかみ申候。いちめんに不二の裾野の小春哉。御一笑可被下候。頓首。」父令図(れいと)と倶に白水真人(はくすゐしんじん)を尊崇してゐた富穀が、「火事沙汰等も無御坐、第一之大悦に御坐候」と云つたのは妙である。
 次は塩田楊庵、当時の称小林玄瑞である。「先生御道中無御替奉大慶候。下拙儀番頭留守いたし候間、御案じ被成まじく候。」
 此次に有馬宗緩(そうくわん)、田村元長(げんちやう)、海津安純(あんじゆん)がある。次の景□(けいみん)全庵は其氏を詳(つまびらか)にしない。後の榛軒の書にも、「景□、善庵は勉学するや」と云つてある。
 次に石川良琢(りやうたく)が書いた。「良琢。御道中御きげんよく。朝夕さむく候。」柏軒の親友で、坦率な人であつたと見える。
 次に村片古□(むらかたこたう)が書いた。「相覧(あうみ)敬白。御道中御賢勝に御乗輿被成、珍重奉存候。扨御宿元日々早朝不相変御見舞申上候処、御番頭様朝起感心仕候。一昨日雑司谷へ参申候。」此下(しも)は冊子の綴目に隠れて読むことが出来なかつた。
「番頭」玄瑞は寄寓して留守をしたものと見える。雑司谷は何の謂(いひ)なるを知らない。「賢勝」は「健勝」であらう。按ずるに画師村片は日ごとに見舞に来たので、偶(たま/\)輪講の時に来合せてゐて書いたのであらう。村片は傷寒論を講ずべき人ではない。

     その百九十七

 此年天保元年十月二十一日は、福山へ立つた榛軒が始て留守に寄する書を作つた日である。宇津の山輿中(よちゆう)にあつて筆を把ると云つてある。
 榛軒は最も妻(さい)勇(ゆう)のために心を労してゐたらしく、柏軒に嘱して「勇の挙止に気を附けよ」と云つてゐる。又「勇をして叔母をいたはらしめよ」とも云つてゐる。「叔母」は蘭軒の妻(つま)益(ます)の姉で、飯田休庵の女(ぢよ)、杏庵の妻である。此人は榛軒の家に寄寓してゐたらしい。蘭軒の姉正宗院(しやうそうゐん)の事は、只「溜池に宜く伝へよ」と云つてある。
 二十二日より二十三日に至る間に作つた榛軒の書には、「お長の不快いかが」と問うてある。妹長が病んでゐたと見える。
 二十四日の榛軒の書は鳴海駅丁字屋吉蔵の家に投じた夜に作つたものである。江戸より伴ひ来つた僕弥助に暇(いとま)を遣つて帰省せしめたことが書いてある。又「□斎の風邪いかが」と云つてある。妹長と云ひ、狩谷□斎と云ひ、皆榛軒が江戸を発する前に病んでゐたのであらう。
 柏軒の書は多く存じてゐない。其一通は此月二十六日に□斎を訪うた事を報じたものである。□斎は病が新に□(い)えてゐた。柏軒は隋書を講ぜむことを□斎に請うた。
 二十九日には榛軒が既に大坂蔵屋敷に著いて書を発してゐる。再び妹長の病を問ふ語がある。
 此月に柏軒の兄に贈つた一紙の文がある。尋常の柬牘(かんどく)ではない。柏軒の人となりを知るに便なるものがあるから、此に全文を写す。「俗情険渉千層波。時事危登百尺竿。頼有西窓書一架。暖風晴日閉門看。右于革寄陳時応。前句は大兄の身、後句は小人の身に有之候。大兄の心配は身を安んずるに地なき程の事、察して言ふこと能はず候。其に引きかへ、小人暖衣飽食は勿論、外にあれば朋友親信し、内にあれば姉妹安和し、又願の通病人もなく、十分の清間を得、十分に読書し、又其暇に書房にて雪堂と小音(せうおん)にて浅間を語り、放言し、脚炉足を□(あぶ)り、床褥(しやうじよく)の上に在て茶菓を健啖し、誠に無上の歓楽、宇宙の内何の事か之に如(し)かむ、実に恐ろしき程の事、罰にても当らむかと、其のみ苦にし候。右に付小弟次第に譫語(せんご)す、宜しく妄聴し給はる可く候。先づ大兄は先大人(せんたいじん)の子と云所から、弱冠にして登庸せられ候。正大(せいだい)の直言をし、罪を被り帰されても宜しく候。しかし是は侍の事にて、帰されても外にも忠臣ある故、格別に事を闕かず、立派の忠臣也。私愚案の真の忠臣は、大兄の角力のやうに致したきものなり、何分にも打つてもはたいても、地震があらうが雷が落ちようが、粘り附き絡み附き放さず、縦令(たとひ)親父の名を汚す役に立ずと云はれても、なんでも詬(はぢ)を忍んで主君の玉体を見届けるが理(り)長(ちやう)ずるかと存じ候。即ち腹でする忠臣なり。かやうな事は千百年以前に御存知ゆゑ、言うても言はいでもの事を、はれ、やくたいもない。」大要謂ふ。士は員数多きが故に、偶(たま/\)自ら潔(いさぎよ)くするものあるを妨げない。医は替人(ていじん)なきが故に、必ず隠忍して其任を全うしなくてはならないと云ふのである。兄を諷して此言(こと)を作(な)すを見ても、柏軒の機智のあることが知られる。雪堂の誰なるかは未だ考へない。黒沢雪堂は六年前文政七年に六十八歳で歿してゐるから、その別人なること勿論である。或は清水浜臣(はまおみ)門の堀内雪堂ではなからうか。柏軒は国学者に交つて歌を詠んだ人である。

     その百九十八

 荏薇(じんび)問答は此年天保元年十一月に入つて、先づ六日の榛軒の書を載せてゐる。阿部正寧(まさやす)の福山城に入る前日の書である。書中人の目を惹くものは唯二件あるのみである。其一は榛軒の妹長の病で、榛軒は「治療を清川に託せよ」と云つてゐる。長が荏苒(じんぜん)として愈(い)えなかつたことと、榛軒が清川玄道の技倆に信頼してゐたこととが知られる。其二は七世市川団十郎の評判で、榛軒は「三升の評判好きことを養竹に伝へよ」と云つてゐる。按ずるに所謂評判は団十郎去後の評判でなくてはならない。何故と云ふに庚寅の歳には、団十郎は早く大坂を立つて、京都、古市を経て、八月中に江戸に還つてゐたからである。しかし劇の沿革も亦わたくしの詳(つまびらか)にせざる所であるから、若し誤があつたら、其道に精(くは)しい人の教を乞ひたい。
 七日には正寧が福山城に入つた。此日の榛軒の書は親戚故旧の名を列記して、柏軒に「致声(ちせい)」を嘱したに過ぎない。
 十四日の榛軒の書には、書を作るに臨んで眼前の景を叙したと云ふ詩がある。「山城寂々五更初。愁緒千条不展舒。月苦風寒狐叫処。青燈火下写家書。」柏軒をして問安せしめた二十余人の中に、「小島学古(がくこ)」がある。
 十九日には江戸で柏軒が劇を看て、これを兄に報じた。「木挽町の芝居見物、三升の暫なり」と云つてある。同行者は「渋江夫婦、小野親子、多多羅、有馬、てる、なべ町娘(ちやうむすめ)」と記してある。渋江抽斎の挈(たづさ)へて往つた妻は比良野氏威能(ゐの)で、前年己丑に帰(とつ)いで、次年辛卯には死ぬる女である。小野親子は令図(れいと)富穀(ふこく)であらう。多多羅は辨夫(べんふ)、有馬は宗緩(そうくわん)であらう。二人の女の誰なるを知らない。
 二十四日には柏軒が兄に狩谷□斎の女(ぢよ)俊(しゆん)の病を、「容態宜からず」と報じてゐる。
 二十六日に榛軒が弟に与ふる書は、未だ俊の病を知らざるものゝ如く、却つて其兄の病を問うてゐる。「少卿不快如何。」榛軒と同庚なる懐之少卿(くわいしせうけい)が二十七歳、俊が二十一歳の時である。
 二十八日の柏軒の書は俊の「快方に赴」いたことを報じてゐる。
 十二月十日の榛軒の書には福山の人物評がある。中に学殖あるものは「鈴木宜山(ぎざん)、三箇角兵衛(さんがかくべゑ)を推す」と云つてある。宜山と並称せられた角兵衛とはいかなる人か。浜野氏に請うて看ることを得た由緒書に拠れば、角兵衛、初め津之助と称す、名は知雄(ともを)、頼雄(よりを)の孫、時朗(ときあきら)の子で、印西(いんせい)流弓術を以て阿部家に仕へ、此年六十九歳になつてゐた。只異とすべきは、角兵衛に文事があつたことが毫も聞えてゐぬのである。榛軒の書には又「周迪(しうてき)は学を以て勝れるものにあらず」と云つてある。周迪は馬屋原成美(まいばらせいび)である。当時宜山は儒者奥詰、角兵衛は使番格、周迪は奥医師であつた。書中に又「尾道に順迪(じゆんてき)の墓を□(らい)す」と云ふことがある。順迪とは誰であらうか。
 以上書し畢つた時、浜野氏の報に接した。福田氏所蔵の「福山風雅集稿本」の詩人姓名の部に、「三箇知雄、字子光、号箕洲、俗称角兵衛」と云つてある。此稿本は江木鰐水(えぎがくすゐ)の手より出でたものだと云ふ。
 二十三日の榛軒の書には「狩谷おたか大病の由いかが」と云つてある。前月二十八日の柏軒の書が未だ達せなかつたと見える。書中問安が門田(もんでん)朴斎に及んでゐる。
 頼氏では此春杏坪(きやうへい)が邑宰(いふさい)を辞して三次(みよし)を去つた。年は七十五である。「何同老萼黏枝死。好趁乳鳩呼子帰。」杏坪の子は采真舜□(さいしんしゆんたう)である。
 此年榛軒二十七歳、柏軒二十一歳、長十七歳であつた。蘭軒の姉正宗院は六十歳になつた。榛軒の妻勇の齢(よはひ)は不詳である。

     その百九十九

 天保二年は蘭軒歿後第二年である。榛軒は猶福山にあつて歳を迎へた。荏薇(じんび)問答に元旦に弟柏軒に与へた書がある。「狩谷お高快方之由大慶」の語がある。前年十一月二十八日の弟の書を得て、□斎の女(ぢよ)の病の□(い)えたことを知つたのである。榛軒は阿部正寧(まさやす)の参勤の日割を記してゐる。「二月六日福山発、二十五六日頃入府の予定」と云ふのである。
 次に十二日の榛軒の書がある。「岡西婚儀相済候趣欣賀す」の文がある。妻を迎へたのは岡西玄亭で、此女(をんな)が玄庵、養玄を生んだのであらう。養玄は後に伊沢氏梅を娶(めと)つて一女初を挙げ、梅を去つて再び後藤氏いつを娶り、今の俊太郎さんと風間篤次郎さんとを生ませた。養玄の後の称が即ち岡寛斎であつた。
 二月六日に榛軒が正寧の駕に扈従して福山を発したことは記載を闕いてゐる。十二日には既に大坂に著して書を作つてゐる。
 此月下旬の江戸著の日も亦伊沢分家の文書中に見えない。
 頼氏では、山陽の長子で春水の後を襲いだ聿庵協(いつあんけふ)が江戸霞関の藩邸に来てゐた。山陽除夕の詩に、「故園鶴髪又加年、鴨水霞関並各天、三処相思汝尤遠、寒燈応独不成眠」と云つてゐる。梅□(ばいし)は広島にあつて将(まさ)に七十三の春を迎へんとし、山陽は京都、聿庵は江戸と、三人「三処」に分れてゐたのである。門田朴斎の集にも、此年「訪頼承緒霞関僑居路上」の詩がある。
 是年榛軒二十八、柏軒二十二、長十八になつた。蘭軒の姉正宗院は六十一であつた。榛軒の妻勇の年を知らない。
 天保三年は蘭軒歿後第三年である。三月六日に柏軒が始て松崎慊堂(かうだう)を見た。わたくしは上(かみ)に文政辛巳の条に、榛軒が慊堂、□斎に学び、柏軒が□斎に学んだ事を言つた。今柏軒は其師□斎に従つて、渋江抽斎と共に兄の師慊堂を羽沢(はねざは)に訪うたのである。わたくしは此に柏軒の日記を抄出する。日記は此月三日より十八日に至る十六日間の事を録したもので、良子刀自の蔵する所に係る。
「天保三年壬辰三月六日。随□斎先生。与抽斎兄同至羽根沢。見慊堂先生。其居在長谷寺之南十町許。下阜径田。又上高阜。而深林之中。即其隠居之処也。在前丘之上望之。与其居相対。茅茨七八椽。有小楼。上室者先生之斎。前園有方池。命于童子易水。下室者門生之塾。読誦之声朗々。□斎先生贈雁。信重贈酒。抽斎亦同。飲酒談笑数刻。告別而帰。帰路上前丘。後面大呼火。回看慊堂先生与両三童子同戯。焼園中之草。共哄笑。」
 これを読んでわたくしは石経(せきけい)山房当時の状を想像することを得た。塩谷宕陰(しほのやたういん)撰の行状に、「買山幕西羽沢村、※[#「弗+りっとう」、8巻-15-上-14]茅以家焉、所謂石経山房也」と云つてあるのが是である。
 わたくしは嘗て安井小太郎さんに石経山房の址が桑原某の居となつてゐることを聞いた。そして中村秀樹さんに請うて其詳(つまびらか)なるを知らむと欲した。中村氏の報ずる所に拠れば、其地は「下渋谷羽根沢二百四十九番地」で、現住者は海軍の医官桑原荘吉さんである。

     その二百

 西洋の屋(いへ)は甎石(せんせき)を以て築き起すから、縦(たと)ひ天災兵燹(へいせん)を閲(けみ)しても、崩壊して痕跡を留めざるに至ることは無い。それゆゑ碩学鴻儒の故居には往々銅□(どうばう)を嵌(かん)してこれを標する。我国の木屋(もくをく)は一炬(きよ)にして焚き尽され、唯空地を遺すのみである。頃日(このごろ)所々に木札を植(た)てて故跡を標示することが行はれてゐるが、松崎慊堂(かうだう)の宅址の如きは未だ其数に入らない。
 青山六丁目より電車道を東に折れて、六本木に至る道筋がある。蘭軒を葬つた長谷寺(ちやうこくじ)は此道筋の北にあつて、慊堂が石経山房の址は其南にある。長谷寺に往くには高樹町巡査派出所の角を北に入る。石経山房の址を訪ふには、其手前雕塑家(てうそか)菊池氏の家の辺より南に入る。そして赤十字病院正門の西南方に至れば、桑原氏の標札のある邸を見出すことが出来る。
 赤十字病院前を南に行つて西側に、雑貨商大久保増太郎と云ふ叟(をぢ)が住んでゐる。大久保氏は羽沢根生(はねざはねおひ)の人で、石経山房の址がいかなる変遷を閲したかを知つてゐる。松崎氏の後、文久中に佐倉藩士木村軍次郎と云ふものが、長崎から来て住んだ。隣人が「木村と云ふ人は裸馬に乗つて歩く人だ」と云つた。恐くは洋式の馬具を装つた馬に騎(の)つたのであらう。木村が去つた後には下渋谷の某寺の隠居が住んだ。其次は杉田勇右衛門と云ふもので、此に住んで土地の売買をした。杉田は薩摩の人ださうであつた。其次が今の桑原荘吉さんだと云ふ。桑原氏は明治十四五年の頃此に移り来つたのである。
 わたくしは柏軒の此年天保三年三月の日記に拠つて、狩谷□斎、渋江抽斎、柏軒の三人が石経山房を訪うた事を記した。按ずるに此日記は柏軒が慊堂を見て感奮し、其感奮の情が他をして筆を把つて数日間の記を作らしめたのである。それゆゑ自強して息(や)まざらむと欲する意が楮表(ちよへう)に溢れてゐる。下に其数条を続抄する。
 三月七日は慊堂を訪うた翌日である。「此日。痘科鍵之会。京先生看観世一代能。不在家。」京先生は池田京水(けいすゐ)で、其家に痘科鍵(とうくわけん)を講ずる会があつたと見える。
「八日。余甚嗜甘旨。甘旨不去側。今不食甚嗜之甘旨。而磨琢志意。研究経籍。」
「九日。雨。山崎宗運法眼開茶宴。君侯為賓。□庭先生為主接賓。以故休講傷寒論。大兄当直上邸。」多紀□庭(たきさいてい)が傷寒論を講じ、柏軒が聴者(ていしや)中にあつたことが此に由つて知られる。
「十日。大兄講外台。」榛軒は外台秘要(ぐわいたいひえう)を講じた。
「十一日。就浅草狩谷先生之居。写通藝録。」通藝録(つうげいろく)は「※[#「翕+欠」、8巻-17-上-2]程瑤田易疇著、嘉慶八年自刊本」の叢書で、収むる所二十余種に至つてゐる。柏軒の写したのは何の書か。
「十二日。煩悩。不会于池田。」亦痘科鍵を聴くべき日であつたのか。
「十五日。大兄講外台。」
「十六日。晴。大兄欲伴妹拝墓。有事不得行。故小人代行。谷村景□随。岡西徳瑛、成田竜玄嘗有約。先小人至。帰路訪溜池筑前侯邸中伯母正宗院。不在家。」蘭軒の三週年忌である。榛軒が事に阻げられて墓に詣(いた)らなかつたので、柏軒が代つて往つた。わたくしは前(さき)に景□の氏が不詳だと云つたが、此日記に谷村氏としてある。然らば蘭軒門人録の「谷村敬民、狩谷縁者、大須」と同人であらう。
「十七日。祭考。渋江抽斎、森、山田、有馬等来。」
「十八日。如羽根沢慊堂先生之家。□斎先生与慊堂先生読李如圭釈宮。渋江全善、信重在側聞之。」宋の李如圭(りじよけい)の儀礼釈宮(ぎれいしやくきう)一巻は経苑(けいゑん)、武英殿聚珍版書等に収められてゐる。柏軒の日記は此に終る。

     その二百一

 わたくしは榛軒が初の妻横田氏勇(ゆう)を去つて、後の妻を納(い)れたのが、前年暮春より此年天保三年に至る間に於てせられたかと推する。榛軒は前年二月の末に福山より江戸に帰つた。その福山にあつた時、留守に勇がゐたことは、荏薇(じんび)問答に由つて証せられる。しかし柏軒に与ふる幾通かの書に、動(やゝ)もすれば勇を信ぜずして、弟にこれが監視を託するが如き口吻があつた。榛軒が入府後幾(いくばく)ならずして妻を去つたものと推する所以である。
 榛軒は既に前妻を去つた後、必ずや久しきを経ずして後妻を娶(めと)つたであらう。何故と云ふに、後妻は特に捜索して得たものでは無く、夙(はや)く父蘭軒が在世の日より、病家として相識つてゐた家の女(むすめ)であつたからである。榛軒再娶(さいしゆ)の時は此年より遅れぬものと推する所以である。
 榛軒の後妻とは誰ぞ。飯田氏、名は志保である。寛政十二年に生れて、此年既に三十三歳になつてゐた。志保は夫榛軒より長ずること四歳である。
 伊沢分家の伝ふる所を聞けば、志保の素性には一条の奇談がある。大坂の商賈某が信濃国諏訪の神職の女(ぢよ)を娶つて一女を生ませた。此女が長じて京都の典薬頭(てんやくのかみ)某の婢となつた。口碑には「朝廷のお薬あげ」と云ふことになつてゐる。わたくしはこれを典薬頭と解した。典薬頭某は先妻が歿して、継室を納れてゐた。そして嫡子は先妻の出(しゆつ)であつた。此嫡子が婢と通じて、婢は妊娠した。
 婢は大坂の商家に帰つて女(ぢよ)梅を生んだ。既にして婢の父は武蔵国川越の人中村太十の次男某を養つて子とし、梅の母を以てこれに配した。梅の母は更に二女を生んだ。るゐと云ひ、松と云ふ。当時此家は芝居茶屋を業としてゐた。
 後梅は継父、生母、異父妹二人と偕(とも)に江戸に来た。想ふに梅の外祖父母たる大坂の商賈夫妻は既に歿してゐたことであらう。
 梅の一家は江戸にあつて生計に窮し、梅は木挽町の藝妓となつた。
 後二年にして梅の母は歿した。梅の異父妹二人も亦身の振方が附いた。るゐは浅草永住町蓮光寺の住職に嫁し、松は川越在今市の中村某に養はれた。
 是に於て梅は妓を罷めて名を志保と改め、継父と偕に浅草新堀端善照寺隠居所に住んだ。
 一日(あるひ)志保は病んで治を伊沢氏に請うた。これが榛軒の志保を見た始であつた。そして榛軒は遂に志保を娶るに至つた。
 志保の飯田氏と称するは、其外祖母の氏である。其生父は京都の典薬頭某の嫡子であつた筈である。
 志保は生父の遺物として一の印籠を母の手より受けてゐた。印籠は梨地に定紋を散らしたもので、根附は一角(ウニコオル)、緒締は珊瑚の五分珠であつた。母は印籠を志保に交付して云つた。「是はお前の父上の記念(かたみ)の品だ。お前が男子であつたなら、これを持たせて京都のお邸へ還すべきであつた。女子であつたので、お前は日蔭者になつたのだ。」印籠は失はれて、定紋の何であつたかを知らない。
 志保は生父を知らむと欲する念が、長ずるに随つて漸く切になつた。榛軒に嫁した後年を経て、夫の友小島春庵が京都へ往つた。春庵は志保に何物を齎し帰るべきかを問うた。志保は春庵に二物を得むことを請うた。

     その二百二

 わたくしは此に蘭軒の嫡子榛軒の新婦飯田氏志保の素性に就て伊沢分家口碑の伝ふる所を書き続ぐ。
 小島春庵が将(まさ)に京都に往かむとする時、志保に何物を齎し帰るべきかを問うた。
 初め志保は思ふ所あるものの如く、輒(たやす)く口を開かなかつた。
 春庵は重て問うた。「そんなら京都にお出なさつた時、一番お好であつたものは何でしたか。」
「それはあの吹田(すゐた)から出まする慈姑(くわゐ)でございました。」
「宜しい。お安い御用です。そんなら吹田の慈姑は是非持つて帰ります。しかしそれだけでは、なんだか物足りないやうですね。も一つ何かお望なさつて下さい。」
 志保は容(かたち)を改めて云つた。「さう仰れば実はお頼申したい事がございます。しかしこれは余り御無理なお願かも知れませんから、お聴に入れました上で、出来ぬ事と思召しますなら、御遠慮なくお断下さいまし。」
 春庵は耳を欹てた。
 志保は生父の誰なるかを偵知せむことを春庵に託したのである。
 春庵は事の成否を危みつつも、志保の請を容れて別を告げた。
 春庵は年を踰(こ)ゆるに及ばずして京都より還つた。そして丸山の伊沢の家を訪うた。背後には大いなる水盤を舁(か)いた人夫が附いて来た。春庵は五十三駅を過ぐる間、特に若党一人をして慈姑を保護せしめ、昼は水を澆(そゝ)ぎ、夜は凍(こゞえ)を防いで、生ながら致すことを得たのである。しかし志保の生父の誰なるかは、遂に知ることが出来なかつた。
 分家伊沢口碑の伝ふる所は此の如くである。
 小島春庵の入京は事実の徴すべきものがある。わたくしは榛軒の前妻の伊沢氏にゐた間の最後の消息と、榛軒が志保を識つた時期とに本づいて、其再娶(さいしゆ)を此年天保三年の事と推定した。此推定にして誤らぬならば、後十年天保十三年に小島宝素は日光准后宮舜仁法親王に扈随して京都に往つたのである。宝素は秋九月三日に江戸を発し、十二月十八日に江戸へ還つた。
 宝素入京の事実は、初めこれを長井金風さんに聞き、「日本博物学年表」を閲して其年を知り、後に宝素の裔小島杲(かう)一さんに乞うて小島氏の由緒書を借抄することを得、終に其月日をも詳(つまびらか)にするに至つたのである。
 宝素が友人の妻のために、遠く摂州の慈姑を生致(せいち)したのは、伝ふべき佳話である。嶺南の茘枝(れいし)は帝王の驕奢を語り、摂州の慈姑は友朋の情誼を語る。
 志保の獲んと欲した所の二物は、其一が至つて、其二が至らなかつた。その至らなかつたものは志保が生父の名である。此志保の生父は抑(そも/\)誰であらうか。

     その二百三

 蘭軒の嫡子榛軒の妻志保の母は、京都の典薬頭の家に仕へてゐて、其嗣子の子を生んだと云ふことであつた。京都の典薬頭の家は唯一の錦小路家あるのみである。志保の生年を寛政十二年だとすると、わたくしは寛政十一年より十二年に至る間の錦小路家の家族を検せなくてはならない。
 わたくしは錦小路家の系譜を有せない。しかし諸家知譜拙記(しよけちふせつき)と年々の雲上明鑑(うんしやうめいかん)とに徴して其大概を知ることが出来る。
 寛政十一年の雲上明鑑には「丹家、錦小路三位頼理卿、三十三、同従三位(下闕)」と記してある。当主頼理(よりよし)は三十三歳で嫡子が無い。後に頼理の家を継ぐものは頼易(よりをさ)であるが、頼易は享和三年生で、此時は未だ生れてゐなかつたのである。
 わたくしは或は口碑が若主人を嫡子と錯(あやま)つたので、別に致仕の老主人があつたのではないかと疑つた。しかし知譜拙記に拠るに、頼理の父頼尚(よりひさ)は寛政九年十月八日に卒した。志保の母が妊娠した時には、頼理には父もなく子もなかつたのである。但(たゞ)頼尚の年齢には疑がある。知譜拙記には「寛政九、十、八薨、五十五」と記してあるが、明和、安永、天明より寛政の初年に至る雲上明鑑、雲上明覧等の書を閲(けみ)すれば、寛政九年五十五歳は少(わか)きに失してゐるらしい。右の諸書を参照すれば、頼尚は寛政九年六十三歳であつた筈である。頼尚の室は、拙記に拠るに、北小路光香(みつか)の女(ぢよ)、日野資枝(すけえだ)の養女で、即頼理の母である。口碑に先妻後妻云云の事があつたから、次(ついで)に附記して置く。
 要するに志保の生父を錦小路家に求むることは徒労なるが如くである。然らば去りて何れの処に向ふべきであらうか。わたくしは未だ其鍼路(しんろ)を尋ぬることを得ぬので、姑(しばら)く此研究を中止する。
 小島宝素は志保の生後四十三年に其地に就いて求めたのに、何の得る所も無かつた。今志保の生後百十余年にして、これを蠧冊(とさつ)の中に求めむは、その難かるべきこと固(もとより)である。
 榛軒の家には此年壬辰に、前記以外に事の記するに足るものが無い。試に榛軒詩存に就いて、年号干支あるものを求むるに只榛軒が此秋問津館(もんしんくわん)にあつて詩を賦したことを知るのみである。此「天保三壬辰秋日問津館集」の七律に「経験奇方嚢裏満、校讐古策案頭多」の聯がある。又結句の註に、「主人近日有城中卜居之挙」の語がある。是に由つて観れば、問津館の主人は蘭軒父子と同嗜なる医家で、壬辰の歳に江戸の城外より市中に移り住んだものと見える。
 此年市野氏で光徳が家督した。迷庵光彦(くわうげん)の後、光寿を経て光徳に至つたのだから、迷庵より第三世である。
 頼氏では九月二十三日に山陽が五十三歳で歿した。門田(もんでん)朴斎の「書駒夢応人乗鶴、附驥情孤歳在辰」に、壬辰の辰字が点出せられてゐる。山陽の事蹟は近時諸家の討窮して余蘊なき所である。惟(たゞ)其臨終の事に至つては、わたくしの敢て言はむと欲する所のもの一二がある。

     その二百四

 先づ江木鰐水(がくすゐ)撰の行状を読むに、頼山陽の死を叙して下(しも)の語を成してゐる。「天保元年庚寅。患胸痛。久而愈。三年壬辰六月十二日。忽発咳嗽喀血。(中略。)時方著日本政記。乃日夜勉強構稿。曰我必欲成之而入地。及秋疾益劇。(中略。)自始病禁酒不飲。而客至。為設筵。談笑自若。病既革。曰我死方逼矣。然猶著眼鏡。手政記。刪潤不止。忽顧左右曰。且勿喧。我将仮寐。乃閣筆。不脱眼鏡而瞑。就撫之。則已逝矣。」森田節斎は書を鰐水に与へて云つた。「聞之其内子小石氏及牧信侯。云晋戈所状。手政記。不脱眼鏡而逝。侍病牀。未嘗見此事。」鰐水は答へて云つた。「先師疾病。手政記。不脱眼鏡而逝。是石川君達。侍病牀所見。不可有誤。将質之君達。」
 山陽が庚寅より胸疾があつて、此年壬辰六月十二日より喀血したことには、誰も異議を挾(さしはさ)むことは出来ない。是は山陽が自ら語つてゐるからである。その小野泉蔵に与ふる壬辰八月十四日の書に曰く。「小子も六月十二日より発症咳血也。初は不咳候へども、去臘西方より上候時より、疫も痢も直れども咳嗽而已のこり、烟草など喉に行当候様に存候事、此春夏に及び、依然作輟、到底見此症候。如痰塊之血五六日ほど出、漸々に収り、十五六日目又一度、七月二十五日に大発、吐赤沫候。」又山陽が最後に手を政記に下したことも争はれない。同じ書に曰く。「彼国朝政記未落成だけが残念故、それに昼夜かゝり、生前に整頓いたし置度候。」
 剰す所は只「不脱眼鏡而瞑」の一条である。是は鰐水が始て言つた。節斎は小石(こいし)氏里恵(りゑ)と百峰牧善助とを証人に立てて此事なしと云つた。鰐水は石川君達(くんたつ)が見たと答へた。
 此争の児戯に類することは勿論である。何故と云ふに、原来(ぐわんらい)此の如き語は必ずしも字の如くに解せなくても好いのである。例之(たとへ)ば「手不釈巻」の語の如きは、常に見る所である。是は書を読んで倦まざるを謂ふに過ぎない。誰も絶待に手から書巻を放たぬ事とは解せぬのである。山陽が最後に手を政記に下して、「それに昼夜かゝり、生前に整頓」しようとした以上は、「猶著眼鏡、手政記、刪潤不止、(中略、)乃閣筆、不脱眼鏡而瞑」と書するも或は妨(さまたげ)なからう。その偶(たま/\)物議を生じたのは、文が臨終の事を記するものたるが故である。
 わたくしは山陽が絶息の刹那に、其面上に眼鏡を装つてゐたか否かを争ふことを欲せない。わたくしは惟(たゞ)正確なる山陽終焉の記を得むと欲する。そしてこれを得んと欲するがために、今一層当時のテモアン、オキユレエルたる里恵と石川牧の二生との観察を精査せむことを欲する。
 江木森田の争には、臨終の一問題に於て、江木が最後の語を保有した。その「不脱眼鏡而瞑」は、今日に迄(いた)るまで、動すべからざるものとなつてゐる。然るに江木も森田も目撃者では無い。目撃者たる里恵若くは石川若くは牧は、果して何事をも伝へてをらぬか。是がわたくしの当(まさ)に討究すべき所である。

     その二百五

 江木鰐水(がくすゐ)は頼山陽を状したが、山陽が歿した時傍(かたはら)にあつたものでは無い。それゆゑわたくしは傍にあつたものの言(こと)を聞かむことを欲する。就中(なかんづく)わたくしの以て傾聴すべしとなすものは小石氏里恵(りゑ)の言(こと)である。
 江木森田二生の辨難の文を閲(けみ)するに、森田節斎は里恵の言(こと)に拠つて江木の文中山陽の終焉を叙する一段を駁してゐる。森田にして錯(あやま)らざる限は、里恵は山陽が眼鏡を著けて政記を刪定し、筆を閣(さしお)き、眼鏡をば脱せずして逝いたと云ふことを否認してゐたやうである。
 然るに晩出の森田、わたくしの亡友思軒の文に一の錯誤がある。思軒はかう云つてゐる。「節斎の書には鰐水の不脱眼鏡而瞑を駁して、決して此事無しといへり。然れども鰐水は現に之を小石氏に聞きたりといへば、行状の言を信とせざるべからず。」鰐水は小石氏に聞いたとは云はない。石川君達(くんたつ)に聞いたと云つたのである。里恵は原告節斎に有利なる証言をなしたのに、思軒は誤つて被告鰐水に有利なる証言をなしたものとした。
 推するに是は思軒の記憶の誤、若くは筆写の誤であらう。わたくしは亡友の文疵(ぶんし)を扞(あば)くに意あるものではない。わたくしは今も猶思軒の文を愛好してゐる。わたくしは只里恵がいかに山陽の終焉を観察したかを明にせむと欲するが故に、已むことを得ずしてこれに言及したに過ぎない。
 里恵は行状中「不脱眼鏡而瞑」の段を否認したらしい。しかし其言(こと)は消極的で、しかも後人は間接に節斎の口よりこれを聞くのである。若し此に積極的言明があつて、直接に里恵に由つて発表せられてゐるとしたなら、その傾聴するに足ることは何人(なにひと)と雖も首肯すべきであらう。
 然るに此の如き里恵の言明は儼存してゐる。人の珍蔵する所の文書でもなく、又僻書でもない。田能村竹田の屠赤瑣々録(とせきさゝろく)中の里恵の書牘である。
 わたくしは前(さき)に里恵の山陽に嫁した年を言ふに当つて、既に一たびこれを引いた。そして今再びこれを引いて煩を憚らない。わたくしは敢て貴重なるものを平凡なるものの裏(うち)より索(もと)め出さうとするのである。
 書牘は此年壬辰閏十一月二十五日に作られたものである。即ち山陽歿後第九十一日である。里恵はこれを赤間関(あかまがせき)の秋水広江□(しうすゐひろえよう)と其妻とに寄せた。
 わたくしは今全文を此に引くことをなさない。何故と云ふに、屠赤瑣々録は広く世に行はれてゐる書で、何人も容易に検することが出来るからである。此には山陽終焉の記を抄するに止める。そして原文の誤字、仮名違の如きは、特に訂正して読み易きに従はしめる。是は文書の真形を伝へむがために写すのでなく、既に世に行はれてゐる文書の内容を検せむがために引くのだからである。

     その二百六

「一筆申上為参候。(中略。)扨久太郎(ひさたらう)事此六月十二日よりふと大病に取あひ、誠にはじめは、ちも誠に少々にて候へども、新宮(しんぐう)にもけしからぬむづかしく申候。久太郎もかくごを致し、私どもにもつね/″\申して、ゆゐごんも其節より申おかれて候やうな事にて、かくても何分と申、くすりをすゝめ、先々天だう次第と自分も申ゐられ候。六月十三日より、かねて一両年心がけのちよじゆつども、いまださうかうまゝにて、夫(それ)を塾中にせき五郎子ゐられ、一人にまかせ候てかかせ、又自身がなほし候てうつさせ、日本せいきと申物に候、又なほし、其間に詩文又だいばつ、みなみなはんになり候やうに、さつぱりとしらべ申候。右せきも九月廿三日迄、ばつ文迄出来上り候。廿三日夕七つ前迄、五郎子かゝりうつし候、夫を又見申候て安心いたし、半時たゝぬ内ふし被申候所、私むねをさすり居候。うしろにゐるは五郎かと申、もはや夫きりにて候。くれ六つどきに候。」
 是が頼山陽の病初より死に至るまでの事実である。終始病牀に侍してゐた小石氏里恵は此の如くに観察したのである。
 山陽は此年壬辰六月十二日に始て喀血し、翌十三日より著述を整理することに著手し、関五郎をして専(もつぱら)これに任ぜしめ、九月二十三日申刻に至つて功を竣(を)へた。その主として力を費したものは日本政記で、旁(かたはら)詩文題跋に及んだ。関五郎は稿本を師の前に堆積した。山陽はこれを見て心を安んじ、未だ半時ならぬに横臥した。里恵は其胸を撫でてゐた。山陽は里恵に、「背後(うしろ)にゐるのは五郎か」と云つた。そして死んだ。時に酉刻であつた。
 試に江木鰐水の行状を出して再読するに、わたくしは二者の間に甚だしき牴牾(ていご)あるを見ない。鰐水の「且勿喧、我将仮寐」は里恵の「ふし被申候」と符合する。惟(たゞ)鰐水は「著眼鏡」と云ひ、「不脱眼鏡」と云ひ、又「閣筆」と云つて、多く具象的文字を用ゐた。里恵の聞いて実に非ずとなすものは、或は其間に存したのではなからうか。
 それは兎まれ角まれ、今根本史料たる価値を問ふときは、里恵の書牘は鰐水の行状の上にある。後の山陽の死を叙するものは、鰐水を捨てて里恵を取らなくてはならない。山陽の最後の語は「且勿喧、我将仮寐」ではなくて、「背後にゐるのは五郎か」であつた。
 わたくしの次に一言(げん)せんと欲するは、此五郎の事である。山陽が死に瀕して名を喚(よ)んだ此五郎の事である。鍔水は師の終焉を目撃した人として石川君達(くんたつ)を指斥(しせき)し、其リワルたる森田節斎は里恵と牧信侯(まきしんこう)とを指斥した。近時山陽のために伝を立てた諸家の云ふを聞くに、五郎は即石川君達で、石川君達は即後の関藤藤陰(せきとうとういん)ださうである。果して然らば、わたくしの未だ聞知せざる牧の観察奈何(いかん)は姑(しばら)く措き、鰐水は五郎の言(こと)を伝へたもので、鰐水自己は只修辞の責を負ふべきに過ぎない。
 わたくしの今問題とする所は此五郎である。

     その二百七

 頼山陽の病んで将(まさ)に死せむとする時、関五郎と云ふものがあつて其傍(かたはら)を離れず、山陽最後の著述日本政記の如きは、此人が専らこれが整理に任じたことは、未亡人小石氏里恵の書牘に詳(つまびらか)である。
 山陽が遂に此年壬辰九月二十三日夕酉刻に歿し、越えて二十五日に綾小路千本通西へ入南側の光林寺に葬られた時の行列には、棺の左脇が菅(すが)三郎、右脇が此関五郎であつた。菅は菅茶山の養嗣子菅(くわん)三維繩(ゐじよう)である。さて棺の背後を右継嗣又二郎復(ふく)、左其弟三木三郎醇(じゆん)が並んで歩いた。次が天野俊平、次が広島頼宗家の継嗣余(よ)一元協(げんけふ)代末森三輔であつた。光林寺に於ける焼香の順序は第一復、第二醇、第三元協代末森、第四お陽代菅三、第五未亡人里恵代関五郎であつた。其詳なるは木崎好尚さんの書に譲つて略する。
 山陽の歿後暫時の間、此関五郎は未亡人里恵と幼い嗣子復とに代つて一切の簡牘(かんどく)を作つた。曾て森田思軒の引いた十月十八日復の小野泉蔵、同寿太郎に与ふる書の如きは其一例である。文中里恵のために分疏して、「当方後室も泉蔵様始家内御一統へ宜申上候様被申付候、未大喪中同人よりは何方(いづかた)へも書状相控罷在候」と云つてある。
 然るに此関五郎の誰なるかは、久しく世に知られずにゐた。明治二十六年より二十七年に至る間に成つた思軒の書には、猶「関何人にして頼氏喪中の事を経紀する殷々此の如くなるぞ」と云つてある。当時山陽の事蹟に最も精(くは)しかつた思軒さへ、関五郎の誰なるかを知らなかつたのである。
 今は人皆関五郎の後の関藤藤陰(せきとうとういん)たることを知つてゐる。関五郎が日本政記の校訂者であつたのを思へば、その藤陰なるべきことには、殆ど疑を容るる地を存ぜぬのである。わたくしは小野節さんの口から親く関五郎の藤陰なることを聞いた。節は上(かみ)に引いた復に代る書を受けた泉蔵達(いたる)の裔で、継嗣順序より云へば其孫に当る人である。わたくしは又関藤国助さんの「関五郎は藤陰の事に候」と書した柬牘(かんどく)を目覩(もくと)した。国助さんは藤陰の女婿にして其継嗣なる成緒(せいちよ)の子である。
 既に此の如くなれば、関五郎の身上にはもはや問題とすべきものは存してをらぬ筈である。しかしわたくしは猶関五郎を以て問題としなくてはならない。
 先「関五郎」とは関氏にして通称五郎であるか。それとも関五郎と云ふ三字の通称であるか。諸山陽伝を閲するに、是だに未だ確定はしてゐない。諸書には大抵「通称関五郎」としてある。即ち三字の通称である。
 若し三字の通称であつたなら、山陽は何故に「五郎」と喚(よ)んだか。又復等に代る書に士人たる関五郎が何故に其氏を省いて、単に通称のみを署したか。後者の如きは、わたくしは殆ど有るべからざる事だと思惟する。且関五郎にして果して藤陰ならば、其兄鳧翁関藤立介政方(ふをうせきとうりふすけまさみち)の単姓関を称したのと、藤陰の関氏を称したのと同一の理由があつての事ではなからうか。是が疑の一つである。

     その二百八

 関藤藤陰(せきとうとういん)は備中国吉浜の社家関藤左京政信の第四子で、六歳の時医師石川順介直経に養はれ、石川氏を冒した。その本姓に復したのは維新後の事である。阪谷朗廬(さかたにらうろ)の集中「戊辰秋贈石川藤陰」の詩があつて、題の下(もと)に「石川今称関藤」と註してある。知るべし、藤陰は文化の昔より明治紀元の歳に至るまで石川氏を称してゐたことを。藤陰名は成章、字(あざな)は君達(くんたつ)であつた。
 以上の事実は朗廬全集、井上通泰(みちやす)さんの関鳧翁伝、藤陰舎遺稿を参酌したものである。
 遺稿の載(の)する所の詩文を細検するに、維新前の自署は皆「石川成章」若くは「石川章」である。頼山陽に従学した間も亦同じである。一として関藤氏又は関氏と称したものを見ない。
 さて藤陰の通称は何であつたか。朗廬の墓誌銘には「称淵蔵、中称和介、後称文兵衛」と云つてある。絶て五郎の称が無い。矧(まして)や関五郎と云ふ三字の称は見えない。
 わたくしは関五郎の文字を、未亡人小石氏里恵の広江秋水(ひろえしうすゐ)の妻に与へた書に於て見る。又関五郎と云ふ人の頼復(らいふく)に代つて作つた書の自署に於て見る。わたくしの見る所は此に止まる。
 虚心にして思へば、石川成章と関五郎との間には何等の交渉も存在せぬのである。
 強ひて二者を媒介するものを求めた後に、わたくしは始て日本政記の校訂と云ふことを見出す。里恵の書に拠るに、頼山陽が歿前に政記の校訂を託したのは関五郎であつた。そして政記は後に当時の石川成章の補訂を経て世に問はれた。関五郎と石川成章との間を媒介するものは只此のみである。
 わたくしは無用の辨をなすものでは無い。わたくしは問題なき処に故(ことさら)に問題を構へ成すものでは無い。しかしわたくしは一の証拠を得むことを欲する。関藤藤陰が石川氏を冒してゐた中間に、暫く関氏五郎若くは石川氏関五郎と名告(なの)つたと云ふ一の証拠を得むことを欲する。
 人はわたくしの此言(こと)を聞いて、或は近出の諸山陽伝を以てこれが証に充てようとするであらう。しかし諸伝に「通称淵蔵又関五郎、和介、後文兵衛」と云ひ、「通称を淵蔵、中ごろ和介又は関五郎と云ひ、後文兵衛と改む」と云ふ類は、朗廬の文中適宜の処に「関五郎」の三字を插入したるが如くに見える。若し是が插入であるならば、わたくしは何の拠るところがあつて插入せられたかを知らむことを欲する。若し又単に日本政記の校訂者が関五郎であつた、関藤藤陰が日本政記を補訂して世に問うたと云ふを以て插入せられたとすると、わたくしの問題は未解決の儘に存することとなるであらう。
 日本政記の校訂者が二人以上あつて、或は同時に、或は相踵(あひつ)いでこれに従事したと云ふことも、考へられぬことは無い。是が疑の二つである。

     その二百九

 関五郎が石川成章ではなからうかとは、わたくしと雖も思つてゐる。石川は此年壬辰五月に頼山陽に従つて彦根に赴いた。そして又これに従つて京都に帰つた。是が山陽の最終の旅行であつた。石川は詩稿の末にかう云つてゐる。「既自彦根還。此稿乞正於山陽先生。会先生罹疾。不正一字而没。」次で山陽の歿した翌年癸巳の元旦にも、石川は水西荘にゐた。「元日水西荘賦呈先師霊前」と云ふ詩がある。是に由つて観れば、頼氏の送葬の時も、焼香の時も、記録上に関五郎の占めてゐる地位は、恰も是れ石川の当に占むべき地位である。
 然らばわたくしが関五郎と石川成章との同異の間に疑を挾むのは、或はスケプシスの過ぎたるものではなからうか。
 さりながら人が「石川成章は一に関氏五郎若くは石川氏関五郎と云つた」と云つて、万事解決せられてゐると以為(おも)ふのは、わたくしの肯(うけが)ひ難い所である。此裏(うち)に新なる発表を待つて方纔(はうざん)に解決せらるべき何等かの消息が包蔵せられてゐることは、わたくしの固く信ずる所である。わたくしは最後に敢て言つて置く。関五郎が三字の通称でないことだけは、恐くは殆ど動すべからざるものであらうと。
 山陽の歿後京都の頼氏には、三十六歳の里恵、十歳の復(ふく)、八歳の醇(じゆん)、三歳の陽(やう)が遺つてゐた。諸山陽伝には児玉旗山、牧百峰、宮原節庵が江戸にある宗家の当主聿庵元協(いつあんげんけふ)と、広島にある達堂鉉(たつだうげん)とに与へた書数通、関五郎が復に代つて小野氏に寄せた書数通、里恵が小野氏に寄せた書、里恵が安井氏に寄せた書、梅□(ばいし)が後藤松陰に与へた書等を引いて、当時の状況が記してある。しかしわたくしは里恵の広江夫妻に与へた書が前数者に較べて最重要であると信ずる。それゆゑ煩を厭はずして下(しも)に抄する。
「廿三日八つ比(ごろ)に、何かとあとの所もよくよく申、此方なくなり候ても、何もかはり候事はなく、とんと/\此儘にて、此所地(ぢ)かりゆゑ、家は此方家ゆゑ、ほそ/″\に取つゞき、二人の子ども、京にて頼二けん立て候やう、夫(それ)をたのしみ(に)致すべくと申、かつゑぬやうにいたし置、又二郎三木三郎、内に置候へばやくにたゝずになり候ゆゑ、はん料出し候ても、外へ遣し候やう申置候。
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