伊沢蘭軒
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:森鴎外 

 蘭軒は此年文政十年四月に又岡田華陽のために「脈式」の序を作つた。華陽は典薬頭(てんやくのかみ)半井景雲(なからゐけいうん)の門人で、蕨駅(わらびえき)に住んでゐた。蘭軒は「為人沈退実著、愛間好学、不敢入城都」と云つて、著す所の書を列挙してゐる。書名中に「薬方分量考」がある。日本医学史の医書目録に「続薬方分量考、岡田静宅撰、一巻、文化十年」がある。未だ人と書との同異を詳にしない。脈式の序は末に「文政丁亥清和月伊沢信恬記」と署してある。
 五月十三日には詩会が上野仙駕亭に催された。蘭軒に宿題「送人遊玉函山」、「牧牛図」の七絶各一、席上課題「山荘茶宴」の七律一がある。「春尽前一日」の遊より此に至るまでの詩は、柏軒が浄書してゐる。狩谷□斎の箋註(せんちゆう)和名鈔は此月五日に脱稿した。
 六月十七日仙駕亭会の宿題は「望岳」、席上課題は「涼歩」であつた。蘭軒は五律各一を作つた。
 閏(じゆん)六月十三日同亭会の宿題は「蓮池避暑」で、蘭軒に五律一がある。
 十四日には蘭軒は家にあつて月を賞した。「閏六十四夜即事」の七絶一がある。題の下(しも)に「此立秋前一夕」と註してある。
 二十三日には暑を丸山長泉寺に避けた。「賦得夏日一何長」の五律がある。「夏日一何長」は小原鶯谷(こはらあうこく)の句である。鶯谷は曾て吉原に於て蘭軒と相識になり、後不忍池清宜亭の詩会に参した。「傾蓋楊巷曲。闘毫蓮□磯。」さて前年六月に歿したので、蘭軒は前(さき)に一たび此寺の遊を同うしたことを憶ひ起し、其詩句を以て題となした。此日別に「長泉寺避暑」の七絶一があつた。
 集に猶夏の詩にして未だ挙げざるもの一がある。それは「山中避暑図」の七絶である。
 七月十二日には集に「初秋十二夜偶成」の詩がある。「山海君恩不棄吾。身間休歎□無余。方是清風明月夕。漫対二児論古書。」作者の情懐に大に喜ぶべきものがある。これに次いで「題驟雨孤雀図」の五絶一、「偶作」の七律二、「夜坐」の五絶一がある。「偶作」中にも亦「樗材居世不如愁」、「伝家宝只有書蔵」等の句があつてわたくしの目を惹いた。
 八月十三日は仙駕亭例会の日であつた。宿題は「園中秋草花盛開」で、蘭軒は五絶の体を以て、紫苑、秋海棠、□児(こうじ)、鴨跖草(あふせきさう)、玉簪花(ぎよくさんくわ)、地楡(ちゆ)、沙参(さじん)、野菊(やきく)、秋葵(しうき)の諸花を詠じた。席上課題は「柬友人約中秋飲」で、蘭軒に七絶一があつた。安(いづく)んぞ知らむ、此日菅茶山は神辺(かんなべ)にあつて易簀(えきさく)したのであつた。「病□噎、自春及秋漸篤、終不起、実八月十三日也」と、行状に書してある。
 茶山は死に先つて「読旧詩巻」の五古を賦した。「老来歓娯少。長日消得難。偶憶強壮日。時把旧詩看。」さて生涯の記念を数へてかう云つた。「酔花墨川□。吟月椋湖船。叉手温生捷。露頂張旭顛。」其自註を検すれば、第一は犬塚印南(いんなん)、伊沢蘭軒、第二は蠣崎波響(かきざきはきやう)[#ルビの「かきざき」は底本では「かきさき」]、僧六如(によ)、第三は橋本※庵(とあん)[#「木/(虫+虫)」、7巻-352-下-5]、第四は倉成竜渚(くらなりりゆうしよ)である。「此等常在胸。其状更宛然。瑣事委遺忘。忽亦現目前。」
 蘭軒との交(まじはり)が茶山のために主要なる記念の一であつたことは、此に由つて知られる。

     その百八十

 わたくしは蘭軒の一生を叙して編日の記事をなさむことを努め、此年文政十年八月十三日に□(いた)つて、その師友として待つた所の菅茶山の死に撞著した。茶山集の最尾に「臨終訣妹姪」の詩がある。「身殲固信百無知。那有浮生一念遺。目下除非存妹姪。奈何歓笑永参差。」わたくしは始て読んで瞿然(くぜん)とした。前半は哲学者の口吻と謂はむよりは、寧(むしろ)万有学者の口吻と謂ふべきである。想ふに平生筆を行(や)ることの極めて自在なるより、期せずして道(い)ひ得たのであらう。妹姪(まいてつ)は未だその誰々たるかを知らない。しかし井上氏敬(きやう)が其中にあつたことは明である。
 頼山陽は茶山の病革(すみやか)なるを聞いて、京都より馳せ至つた。しかし葬儀にだに会ふことを得なかつた。「聞病趨千里。中途得訃音。不能同執※[#「糸+弗」、7巻-353-上-9]。顧悔晩揚鞭。」
 茶山の後は姪孫(てつそん)菅(くわん)三惟繩(ゐじよう)が継いだ。関藤々陰(せきとう/\いん)の「菅自牧斎先生墓碣銘」に「茶山先生以儒顕、本藩賜爵禄優待之、比歿、樗平君子孫独先生(自牧斎惟繩)在焉、以姪孫承其後、主郷校、藩給廩米五口、事在文政丁亥」と云つてある。
 九月十三日には上野仙駕亭の詩会が催された。「秋水網舫」、「秋蝶」は其宿題、「秋帆晴景」は其席上課題であつた。網舫(まうばう)の詩は七絶、蝶と晴景(せいけい)とは七律である。別に秋の詩の間に「詠史」七絶二がある。一は仁徳帝、一は漢の張良である。
 冬に入つて十一月に榛軒が女子を挙げたことは、次年戊子元日の詩の註に見えてゐる。歴世略伝を検するに榛軒の子は柏(かえ)、久利(くり)の二女を載するのみである。柏の生れたのは八年の後である。久利の生年は記載して無い。丁亥に生れた女子はその何人(なにひと)なるを詳(つまびらか)にしない。
 わたくしは特にこれを徳(めぐむ)さんに質(たゞ)した。そして久利の生れたのが十年の後なることを知つた。丁亥に生れた女子は名をれんと云つたさうである。然らば榛軒の女は長をれんと云ひ、次を柏と云ひ、季を久利と云つて、独り柏が人と成つたのである。
 十二月には元槧(げんざん)千金翼方(きんよくはう)の影写が功を竣(をは)つた。是も亦次年元日の詩の註に見えてゐる。原本は多紀氏聿脩堂(いつしうだう)の蔵する所である。蘭軒が其抄本に跋したのは十二月三日である。末に「文政十年□月三日、呵筆記於三養堂、時大雪始晴」と書してある。
 千金翼方は千金方と同じく孫思□(そんしばく)の撰と称せられてゐる。千金方には傷寒の治法を詳にしなかつたので、翼方を作つたと云ふのである。「孫氏撰千金方。其中風瘡※[#「癰−隹」、7巻-354-上-8]。可謂精至。而傷寒一門。(中略。)疑未得其詳矣。又著千金翼方。辨論方法。(中略。)為十六篇。分上下両巻。亦一時之新意。此於千金為輔翼之深者也。」
 此書の元槧本は所謂梅渓書院本である。「大徳丁未、梅渓書院梓行」と云つてある。丁未は元の世宗の大徳十一年である。初に孫奇(そんき)、林億(りんおく)等の校正表を載せ、末に後序を載せてある。皆後の刊本の刪除(さんぢよ)する所である。
 蘭軒がこれを影抄し畢(をは)つた時、躋寿館(せいじゆくわん)に又これを影刻する議が起つた。「近頃医官諸君。有醵金影刻此本之挙。正学之余恵被後代。可謂其徳浹渥。抑崇文盛化之所致。豈不欽仰邪。其如此則爾後善本之有刻。日多一日。余蔵多抄本。恐子孫以刻本易得。軽視家蔵。因仔細記之。」
 蘭軒は既に元槧千金方を有してゐたので、其影抄翼方に同一装釘を施して愛蔵した。「余蔵元板前方。今装釘一依其式様。以充聯璧。」
 当時世間に行はれてゐた千金翼方は、乾隆癸未重梓本(ちようしぼん)、王宇泰本(わううたいぼん)等である。

     その百八十一

 蘭軒は此年文政十年十二月三日に影抄元板千金翼方に跋して、偶(たま/\)書の銓択(せんたく)に論及した。其言(こと)頗(すこぶる)傾聴するに堪へたるものがある。
 蘭軒の曰く。「蔵書宜務銓択。始為有識見也。而銓択有二派。好逸書。愛奇文。世所絶少者。雖兎園稗史。必捜得之。是好事蔵家所銓択也。其所蔵不過緊要必読之書。然皆古刻旧鈔。審定真本而蔵之。是正学蔵家所銓択也。要之雖有醇□之別。非有識見。則不能為銓択矣。」
 蘭軒は八十九年前に於て此言(こと)をなした。然るに今の蔵家を観るに二派は猶劃然として分れてゐる。
 方今校刻の業盛に興つて、某会某社と称するもの指※(かゞな)[#「てへん+婁」、7巻-355-上-8]ふるに遑(いとま)あらざる程である。若し貲(し)を投じ盟に加はつてゐたら、立どころに希覯(きこう)の書万巻を致さむことも、或は難きことを必(ひつ)とせぬであらう。
 独り奈何(いかん)せむ、彼諸会社は皆正学と好事との二派を一網打尽せむと欲してゐる。世間好事者の多いことは、到底正学者の比ではない。それ故に会社が校刻書目を銓択するときに、好事者の好に投ずるものが十の八九に居る。その甚しきに至つては初め正学者の用をなすもの一二部を出して、後全く継刊せざるにさへ至る。洵(まこと)に惜むべきことの甚だしきである。
 わたくしの如きは戯曲小説の善本を相応に尊重するものである。多少の好事趣味をも解するものである。しかし書を求むるには自ら緩急がある。限ある財を以て限なき書を買ふことは出来ない。矧(いはむ)や月ごとに数十金を捐(す)てて無用の淫書を買ふは、わたくしの能く耐ふる所でない。
 且啻(たゞ)に兎園稗史(とゑんはいし)を排すべしとなすのみでは無い。史伝を集刊すると称して、絵入軍記を収め、地誌を彙刻すると称して名所図絵を収むるが如きも、わたくしは其意の在る所を解するに苦む。書を買つて研鑽の用に供せむと欲する少数者は、遂に書を買つて娯楽の具となさむと欲する多数者の凌虐(りようぎやく)に遭ふことを免れぬのであらうか。
 設(も)し此に一会社の興るあつて、正学一派のために校刻の業に従事し、毫も好事派を目中に置かなかつたら、崇文盛化(そうぶんせいくわ)の余沢(よたく)は方(まさ)に纔(わづか)に社会に被及(ひきふ)するであらう。
 仄に聞けば、頃日(このごろ)暴富の人があつて、一博士の書を刊せむがために数万金を捐(す)てたさうである。わたくしは其書の善悪を知らぬが、要するに一家言である。これに反して経史子集の当(まさ)に刻すべくして未だ刻せられざるものは、その幾何(いくばく)なるを知らない。世に伝ふる所の松崎慊堂(かうだう)天保十三年の上書(じやうしよ)がある。安井息軒のこれに跋するを見れば、当時徳川家斉の美挙は俗吏賈豎(こじゆ)の誤る所となつたらしい。「潜聴於四方、所刻率誤本俗籍。所謂盛典。半為賈豎射利之挙。」そして慊堂の刻せむと欲した五経、三史、李善註文選(りぜんちゆうもんぜん)、杜氏通典(としつうてん)だに、今に□(いた)つて未だ善本の刻せらるるを見ぬのである。「今此十余種者。半蔵於秘府。固非人間所得窺。而其存於侯国及人家僧院者。地有遠近。人有繁間。苟不梓而広之。其目覩之者能幾人。則雖存猶亡爾。」世遷(うつ)り時易(かは)つて、楓山(もみぢやま)文庫は内閣文庫となり、政府と自治体と競つて図書館を起しても、市に善本なきことは今猶古のごとくである。

     その百八十二

 ※[#「くさかんむり/姦」、7巻-356-下-4]斎詩集には此年文政十年の冬唯七絶二首があるのみである。一は「篠池冬晴」、一は「観猟」で、恐くは皆課題の作であらう。
 此年蘭軒五十一歳、妻益四十五、榛軒二十四、常三郎二十三、柏軒十八、長十四であつた。榛軒の妻勇は其齢(よはひ)を詳にしない。勇の所生(しよせい)の幼女れんは当歳である。
 文政十一年の蘭軒歳首の詩は、前年丁亥の事を叙せむがために、上(かみ)に其註を引いたが、今此に全篇を録する。「戊子元日作。満城晴雪映朝暾。恰是豊祥属正元。笑語熈々春自返。風烟軟々意先暄。家貧猶愛新増帙。身老尤忻初挙孫。別有間遊宜早計。梅花香発遍林園。第五註、客歳十二月元彫千金翼方影鈔卒業、第六註、十一月児厚挙女子、第七八註、臘前梅花半開、信頗異於常年。」
 正月九日の草堂集は例の如くであつた。「山荘春色雪初融。軽暖軽寒梅下風。何識佳賓来満坐。新年勝事属衰翁。」
 わたくしは蘭軒の三男柏軒立志の事を松田道夫さんに聞いた。道夫さんは曾て医を柏軒に学んだ人である。そしてわたくしは聞く所の事の是正月の下(もと)に繋(か)くべきものなるを謂(おも)ふ。此に先づ聞く所を叙することとする。
 某(それ)の歳多紀□庭(たきさいてい)の発会の日に、蘭軒の嫡子榛軒は酒を被(かうむ)つて人と争つた。柏軒はこれを聞いて、霊枢(れいすう)一巻を手にして兄の前に進み、諫めて云つた。人には気血動くの年がある。霊枢年忌の論は恰も我俗に所謂厄年と符してゐる。兄上は今年其時に当つてをられる。聞けば矢の倉の発会に酔(ゑひ)に乗じて争論せられたさうである。是は気血動くの致す所である。願はくは深く自ら□(いまし)めて過を弐(ふたゝ)びせられぬやうにと云つた。そして霊枢を開いて「陰陽二十五人篇」を読んだ。
 榛軒は弟の面を凝視すること良(やゝ)久しく、言はむと欲する所を知らざるものの如くであつた。それは柏軒にして此言(こと)をなすことを予期せなんだからである。
 柏軒は幼時好学を以て称せられてゐた。然るに漸く長じて放縦になり、学業を荒棄し、父兄の戒飭(かいちよく)を受けて改めなかつた。榛軒が柏軒に諫めらるることを予期せなんだ所以である。
 既にして榛軒は思ふ所あるが如くにして云つた。弟、善く言つてくれた。己は言ふ所の事の是非を思つて、これを言ふことの不可なるには思ひ到らなかつた。その持つて来た霊枢を己に譲つてくれい。是は永く忠言を記して忘れぬためだ。己は又お前に此霊枢を贈つて報とする。
 言ひ畢(をは)つて架上の書を取つて柏軒に与へた。同じく是れ霊枢の一書であるが、父蘭軒の手校本である。
 柏軒の退いた後、榛軒は折簡して諸友を招いた。書中には、僕の家に慶事あり、諸君と喜を同じうせむと欲す云云の語があつた。

     その百八十三

 わたくしは松田氏の云ふ所の柏軒立志の事を以て、此年文政十一年正月の下に繋(か)くべきものとした。わたくしは先づ柏軒が兄榛軒を諫めたことを語つた。榛軒が多紀□庭(たきさいてい)の家に於て、被酒(ひしゆ)して人と争つたのを聞き、霊枢年忌の文を引いて諫めたのである。榛軒は諫を納れ、弟の持ち来つた霊枢を乞ひ得て、弟に授くるに父蘭軒の手づから校する所の霊枢を以てした。
 尋で榛軒は諸友を招いて宴を開き、柏軒をして傍(かたはら)に侍せしめ、衆に告げて云つた。今日諸君の賁臨(ひりん)を煩はしたのは、弊堂に一の大いに喜ぶべき事があつて、諸君に其慶を分たむがためである。家弟信重(のぶしげ)は此両三年行に検束なく、学業共に廃してゐた。然るに今春わたくしが□庭先生の発会の日に当つて、飲酒量を踰(こ)え、無用の言説を弄した。信重は霊枢を引いてわたくしを諫めてくれた。わたくしは其切直の言を聞いて、始て信重が志操の疇昔に殊なるを知つた。之子(このし)の前途にはもはや憂慮すべきものが無い。わたくしは諸君と共に刮目して他年の成功を待たうとおもふ。
 柏軒はこれを聞いて、汗出でて背(そびら)に浹(とほ)つた。此日の燕集が何のために催されたかは、その毫も測り知らざる所であつた。柏軒は此より節を折つて書を読んだと云ふのである。
 柏軒は後屡(しば/″\)人に語つて、「己は少(わか)い時無頼漢であつた」と云つた。志気豪邁にして往々細節を顧みなかつたのださうである。然るに一朝擢(ぬきん)でられて幕府の医官となり、法眼に叙せられ、閣老阿部正弘の大患に罹るに及んでは、単身これが治療に任じ、外間謗議の衝に当つた。全く是れ榛軒が激□(げきれい)の賜であつた。
 此事は独り松田氏が聞き伝へてゐるのみではなく、渋江保さんの如きも母五百(いほ)に聞いて知つてゐる。しかしその何(いづ)れの年にあつたかを詳(つまびらか)にしない。或は蘭軒歿後の事だとも云ふ。わたくしは敢て其時を推窮して戊子の正月とした。按ずるに蘭軒の歿前一二年間の事は、口碑に往々伝へて歿後の事とせられてゐる。彼榛軒合※(がふきん)[#「丞/巳」、7巻-359-上-9]の時の如きもさうである。榛軒が弟を激□した時も亦此類ではなからうか。
 然らばわたくしが戊子とするのは何に拠るか。わたくしは霊枢の文に就いて考ふるのである。柏軒は兄を諫むるに霊枢の「陰陽二十五人篇」を引いた。二十五人とは金木水火土の五形を立し、其五色を別つて二十五人とする。木形に上角(しやうかく)、大角、左角、□角(ていかく)、判角あり、火形に上徴(しやうちよう)、質徴、少徴、右徴、質判(しつはん)あり、土形に上宮(しやうきゆう)、大宮、加宮、少宮、左宮あり、金形に上商(しやうしやう)、□商(ていしやう)、左商、大商、少商あり、水形に上羽(しやうう)、大羽、少羽、衆、桎(ちつ)がある。西洋の古い病理にタンペラマンを分つ類である。そして所謂年忌は形と色(しよく)との相応せざるより生ずる。「十六歳。二十五歳。三十四歳。四十三歳。五十二歳。六十一歳。皆人之太忌。不可不自守也。感則病行。失則憂矣。当此之時。無為姦事。是謂年忌。」試に榛軒の年歯を以てこれに配するに、其十六、二十五、三十四、四十三、五十二、六十一は文政己卯、戊子、天保丁酉、弘化丙午となる。そして安政乙卯の五十二は歿後四年、元治甲子の六十一は歿後十二年となる。按ずるに文政己卯は柏軒甫(はじめ)て十歳で、藩主の賞詞を蒙つた直前である。是は蚤(はや)きに失する。天保丁酉は柏軒が既に二十八歳になつてゐる。その学に志した時が二十前後であつたと云ふに契(かな)はない。是は晩(おそ)きに失する。柏軒が兄を諫め、榛軒が弟を奨(はげ)ました時は文政戊子ならざることを得ぬのである。
 榛軒詩存に「贈柏軒」の七絶がある。題下に「柏軒来諫過酒」と註してある。或は此時の作ではなからうか。詩存は富士川游さんの所蔵の写本である。惜むらくは編年でないので、「贈柏軒」の詩の如きも、何れの年に成つたかを知ることが出来ない。詩は思ふ所あつて略する。

     その百八十四

 此年文政十一年二月には、詩会が上野仙駕亭に催された。其日は十三日であつた。蘭軒は宿題「城門春望」、席上題「新闢小園」の七律各一首、「席上次森立夫韻」の七絶一首を獲た。わたくしは此に其絶句のみを録する。「世路風塵不耐多。池亭相値聴高歌。無端破得胸中悪。漫把□船巻酒波。」枳園立之(きゑんりつし)は此年二十二歳、稍(やゝ)頭角を露(あらは)した時であつただらう。
 蘭軒の門人等が「蘭軒医話」を著録したのは此比(ころ)の事であつたらしい。此書は其筆授者に従つて異同がある。山田椿町(ちんてい)の校本には「附録一巻」があつて、此二月十四日の識語がある。椿町は当時二十一歳、枳園より少(わか)きこと一歳であつた。椿町又椿庭に作る。名は業広(げふくわう)、通称は昌栄(しやうえい)である。
 詩集に二月の詩と三月の詩との間に「送金子正蔵帰省加賀」の七律がある。加賀の金子正蔵の事は他に所見が無い。「征馬驕春立柳辺。暫時此別不悵然。信山雲擁羊腸路。越海濤涵鵬翼天。帰装頼将裁錦巧。高堂兼作舞衣鮮。重来有約君休背。新著期成書廿篇。」末句の下に「生註荀子故及之]の註がある。題に帰省と云ひ、詩に第六句があるを見れば、金子は故郷に親があつた。
 三月の詩会は十九日に千駄木村植緑園(しよくりよくゑん)に催された。宿題は「題嵐山図」、席上題は「山村春晩」で、蘭軒は七絶各二を作つた。詩は略する。
 植緑園の詩会の次に、集は幕府医官岡某の宴を載せてゐる。引に云く。「清明前一日。岡医官台北別墅迎飲。余語医官命信恬陪侍。臥病不能従。岡君有詩。恭次芳韻奉呈。」岡某は上野の北に別荘があつて、宴はそこに開かれた。蘭軒は余語古庵の紹介に由つて招かれたが、病を以て辞した。そして主人の詩に次韻して贈つた。詩は五律である。今省く。
 武鑑を検するに、当時岡氏は父子共に西丸に勤めてゐた。父は「岡了節法眼、奥御医師三百五十石、本郷大根畑」、子は「岡了允法眼、父了節」と記してある。余語古庵の名は寄合医師中に見えてゐる。
 四月六日には蘭軒が杜鵑花(つつじ)を百々桜顛(とゞあうてん)の家に賞した。同遊者は榛軒、柏軒、山室士彦(やまむろしげん)、石坂白卿(はくけい)であつた。百々桜顛、名は篤(とく)、字(あざな)は敬甫(けいほ)、後年屡(しば/″\)榛軒、門田(もんでん)朴斎等と往来した形迹がある。海内偉帖(かいないゐてふ)に「福山藩中」と註してある。杜鵑花は其父の栽ゑた木であつた。山室は茶山集の詩に、「病中七夕山室子彦、河村士郁来」の七律があつて、其第四に「偶有台中二妙尋」と云つてある。若し士彦と子彦とを同じだとすると、此人は四年前に備後にゐたこととなる。石坂は未だ考へない。「四月六日、百々桜顛宅集、園有杜鵑花数株、其先人所栽、与山室士彦、石坂白卿及厚重二児賦。深園雨過緑陰重。更見杜鵑花稍□。都是君家遺愛樹。灌培不改旧時容。」
 十三日に蘭軒は詩会を横田雪耕園(よこたせつかうゑん)に催した。宿題は「題江島石壁」席上題は「卯飲」で、蘭軒の作は彼に七絶一、此に三がある。「卯飲」の一に「卯飲解酲有何物、売来蛤蜊過門渓」の句があつて、「売蛤漢自行徳浦来、毎在日未出時」と註してある。売蛤者(ばいかふしや)の行徳(ぎやうとく)より来ることは、今も猶昔のごとくなりや否や。

     その百八十五

 此年文政十一年五月の詩会は酌源堂(しやくげんだう)に於て催された。宿題は「採薬」で、蘭軒は「倣薬名詩体」の五律を作つた。「採薬遇天晴。青籃掛杖行。途平蓬野濶。苔滑石橋横。林薄荷□入。池塘洗艸清。吾家間事業。不是学長生。」第一には天精(てんせい)がある。天精は地骨皮(ちこつひ)の別名である。晴は精と通ずる。第二には藍がある。籃藍は相通(さうつう)である。第三には萍(へい)がある。平は萍と通ずる。第四には滑石(くわつせき)がある。第五に薄荷(はくか)がある。第六に※草(せんさう)[#「くさかんむり/倩」、7巻-362-上-9]がある。洗※[#「くさかんむり/倩」、7巻-362-上-10]は相通である。第七に五加(ごか)がある。五加と吾家とは音通である。第八に長生がある。長生は□活(きやうくわつ)の別名である。
 五月と六月との詩会の間に、「竹酔日草堂小集」の作がある。題は「梅雨新晴」で、蘭軒は七律一を作つた。
 六月の詩会は仙歌亭に於て十三日に催された。仙歌亭は恐くは上野仙駕亭であらう。宿題は無い。席上題は「池亭観蓮」で、蘭軒に七絶一がある。其次に山室士彦を送る詩があつて、「与諸君同池亭看蓮、時山室兄将還郷、乃奉呈」と題してある。想ふに仙歌亭の宴が祖筵を兼ねてゐたのであらう。「荷花万頃競嬌□。筆硯杯盤香気飄。詞賦君裁雲錦色。携帰宜向故園驕。」
 六月と七月との詩の間に、「賜題」と註した二首の詩がある。題は「放螢」、「摘枇杷」で、阿部正寧(まさやす)の賜ふ所であらう。蘭軒は七絶各一を作つた。別に「侍筵賜題并韻」と註した一首がある。題は「池辺納涼」で、蘭軒は五絶一を作つた。此三首の次に尚「題坡仙赤壁図」の七絶一がある。
 七月十五日に「七月既望即事」の詩がある。「露蕉風竹影婆娑。又是良宵病裏過。江上泛舟看月客。詩思飲興百東坡。」
 七月と八月との詩の間に、「送山村士彦帰福山」、「恭次高韻、時駕将帰藩」の二詩がある。
 山村は恐くは山室の誤であらう。詩は一韻到底(ゐんたうてい)の五古で、其中に就いて士彦の身上の事二三を知ることが出来る。士彦の福山藩士なることは、独り題に「帰福山」と云ふより推すべきのみでは無い。「我藩士彦君。温性而雄志。」士彦は寛政十一年生で、戊子には三十歳であつた。「君劣卅平頭。少於吾廿二。」士彦は曾て菅茶山の塾にゐて、後に藤某(とうぼう)の門に入つた。その甲申の歳に神辺(かんなべ)にゐた子彦なることは復(また)疑を容れない。藤某は恐くは佐藤一斎であらう。「嘗居菅子家。詞藻摘花粋。近入藤翁門。道機披帳秘。」士彦が郷に帰るのは、父の病めるが故である。そして其発□(はつじん)は七月中であつた。「節惟当孟秋。忽爾説帰思。非是想※[#「くさかんむり/純」、7巻-363-上-13]鱸。昨逢郷信寄。家翁報抱痾。胸臆真憂悸。」蘭軒は士彦の父の病の□(い)ゆべきを説いてこれを慰め、その再び江戸に来て業を畢(を)へむことを勧めてゐる。「椿堂元健強。微恙愈容易。重作東来謀。偏期夙望遂。(中略。)登躋斯崑岡。幸増君腹笥。」
 後に浜野福田両氏に聞けば、山室子彦、名は俊(しゆん)、通称は武左衛門、汲古(きふこ)と号した。其父名は恭、箕陽(きやう)と号した。
 阿部正寧に次韻した詩は七絶である。正寧の帰藩の月日は、伯爵家の記録を検して知ることが容易であらう。「干旄孑孑上途程。千騎従行秋粛清。遙想仁風吹遍処。満疆草樹報歓声。」

     その百八十六

 此年文政十一年八月には、蘭軒に「中秋無月」の七絶がある。次に秋季の詩が五首ある。「秋日偶成、次茶山菅先生韻」三首、「園楓殊紅、和多田玄順所贈、云是立田種」一首、並に七絶である。茶山の集に就いて原唱を求むるに、文化丙子の「秋月雑詠十二首」が即是で、蘭軒は其第二、第三、第六、第八に次韻したのである。此に二家の最初の作を挙げる。茶山。「鳳仙頗美冶容多。鶏髻雖妍色帯奢。此意吾将問蝴蝶。不知尤愛在何花。」蘭軒。「我圃秋芳誇許多。更無一種渉驕奢。最堪愛処知何是。高格清香楚□花。」後者の詠ずる所は例の蘭草(らんさう)の藤袴(ふぢばかま)である。園楓(ゑんふう)は和多田玄順(わただげんじゆん)の貽(おく)る所の種(たね)だと云つてある。和多田の名は門人録に見えて、下に「岡崎」と註してある。
 十月に蘭軒は小旅行をしたらしい。集に「初冬山居」の七絶二、「冬日田園雑興」の七絶一があつて、就中(なかんづく)山居の一は題を設けて作つたものとは看做(みな)し難い。「近日山村奢作流。小春時節襲軽裘。約期争設開炉宴。菟道茶商来滞留。」当時茶の湯の盛に行はれた山村は何処であらうか。
 十一月十日に蘭軒の幼女万知(まち)が歿した。母は側室佐藤氏である。先霊名録に覚心禅童女の法諡(はふし)が載せてある。恐くは生後幾(いくばく)ならずして夭したのであらう。
 按ずるに蘭軒の女(ぢよ)は文化乙丑に長女天津(てつ)が夭し、壬申に二女智貌童女が夭し、文政癸未に四女順が夭し、今又五女万知が夭した。その僅に存するものは文化甲戊生の三女長(ちやう)一人である。
 蘭軒は平素身辺に大小種々の篋(はこ)を置いた。恐くは小什具(せうじふぐ)を貯へ、又書紙を蔵(をさ)むる用に供したのであらう。起居不自由なる蘭軒が篋□(けふひ)の便を藉ることの多かつたのは、固より異(あやし)むに足らない。世の口さがなきものは、その数(しば/\)女児を喪ふを見て、一の狂句を作つた。「箱好が過ぎて娘を箱に入れ。」
 十二月四日に榛軒の長女れんが夭した。法諡幻光禅童女である。
 此年戊子の除日は蘭軒がためには最終の除日であつた。「歳晩偶作。臘節都城閙。間窓足欠伸。堅晴梅蕋馥。奇暖鳥声春。老応居人後。楽何関屋貧。近来頻哭友。徒寿笑吾身。」蘭軒は二年前に棕軒侯を哭し、前年に茶山を哭した。落莫の感なきことを得なかつたであらう。「近来頻哭友。徒寿笑吾身。」
 集中此年の詩は大半柏軒の浄書する所である。六月後には蘭軒は一首をだに自書してゐない。
 此年市野氏では迷庵の子光寿が四十一歳になつてゐた。狩谷氏では隠居□斎が五十四歳、戸主懐之(くわいし)が二十五歳であつた。多紀氏では矢の倉の□庭(さいてい)が三十四歳、向柳原(むかうやなぎはら)の宗家は前年柳□(りうはん)が歿して、暁湖(げうこ)の世になつてゐた。蘭軒の門人中渋江抽斎は二十四、森枳園は二十二であつた。
 頼氏では山陽が此春水西荘に山紫水明処を造つた。「却向東南贅一室。要将三面看梅花。」
 是年蘭軒五十二、妻益四十六、榛軒二十五、常三郎二十四、柏軒十九、長十五であつた。榛軒の妻勇(ゆう)は年紀不詳である。

     その百八十七

 文政十二年は蘭軒終焉の年である。「己丑元旦」の詩は榛軒(しんけん)が浄書してゐる。「三冬無雪梅花早。一夜生春人意寛。卜得酔郷今歳富。尊余臘酒緑漫々。」語に毫も衰残の気象を認めない。蘭軒は、脚疾を除く外、年初に猶身体の康寧(かうねい)を保つてゐたかとおもはれる。
 二月二日に蘭軒の次男常三郎が歿した。幼(いとけな)くして明(めい)を失し、心身共に虚弱であつたさうである。常三郎は父に先(さきだ)つこと四十五日にして歿したのである。文化乙丑に生れて、二十五歳になつてゐた。
 五日に蘭軒の妻益(ます)が歿した。其病(やまひ)を知らない。曾て除夜に琴を奏して慰めたと云ふ盲児(まうじ)常三郎に遅るること僅に三日、夫に先つこと四十二日にして歿したのである。益は天明三年に飯田休庵の女(ぢよ)として生れ、年を享くること四十七歳であつた。法諡(はふし)を和楽院潤壌貞温(わらくゐんじゆんじやうていをん)大姉と云ふ。
 十五日に蘭軒は友を会して詩を賦した。推するに未だ致死の病に襲はれてゐなかつたやうである。集に存ずる所の三絶句の一は、亡妻を悼(いた)んで作つたものらしい。「二月十五日夜呼韻。風恬淡靄籠春園。遠巷誰家笑語喧。零尽梅花枝上月。把杯漫欲復芳魂。」
 三月十七日に蘭軒は歿した。足疾は少壮の時よりあつて、蹇(あしなへ)となつてからも既に十七年を経てゐる。しかし此人の性命を奪つたのは何の病であらうか。口碑の伝ふる所のものもなく、記載の徴すべきものもない。三十二日前に夜友を会して詩を賦したことを思へば、死の転帰を見るべき病は、当時猶未だ其徴候を呈せなかつたであらう。推するに蘭軒の病は急劇の証であつたと見える。以上書き畢(をは)つた後、徳(めぐむ)さんの言(こと)を聞けば、蘭軒夫妻と常三郎とは同一の熱病に罹つたらしく、柏軒も亦これに侵されて頭髪が皆脱したさうである。此に由つて観れば、此病を免れたものは榛軒夫婦のみであつた。
 蘭軒は安永六年十一月十一日に生れたから、年を享くること五十三である。法諡を芳桜軒自安信恬(はうあうけんじあんしんてん)居士と云ふ。
 蘭軒の墓は麻布の長谷寺(ちやうこくじ)にある。笄坂上(かうがいざかうへ)を巡査派出所の傍(かたはら)より東に入つて、左折して衝き当れば、寺門がある。門内の右方(いうはう)には橋本箕山(きざん)の碑がある。東京の最大碑の一である。本堂前より左すれば、高く土を封じた松平正直の墓がある。其前の小径の一辺に、蘭軒夫妻の墓は、後に葬られた嗣子榛軒の墓と並んで立つてゐる。
 伊沢分家の口碑は蘭軒歿時の話柄(わへい)二三を伝へてゐる。蘭軒の姉正宗院(しやうそうゐん)は溜池より来て、弟の病牀に侍してゐた。尋(つい)で弟の絶息した後、来弔の客を引見した。蘭軒の門人某の父が来て痛惜の情を□(の)べた。正宗院は云つた。
「わたくしも惜しい事だと存じてをります。わたくしが代つて死なれるものなら死にたいと存じましたが、どうも致し方がございませんでした。」
「さやうでございます。それはあなたが先生の代にお死なさつたら、大勢の諸生がどの位喜んだか知れません。」これが門人の父の答であつた。
 正宗院は瞠目(だうもく)して言ふ所を知らなかつた。しかし客の去つた後、其淳樸を賞した。

     その百八十八

 蘭軒が此年文政十二年三月十七日に歿した時、今一つの話柄があつて、伊沢分家の口碑に遺つてゐる。それは歿後幾(いくばく)もなく初夏の季に入つて、誰やらが「大声の耳に残るや初鰹」の句を作つたと云ふことである。
 蘭軒は平生大声で談(はな)し、大声で笑つた。俗客の門(かど)に来るときは、諸生をして不在と道(い)はしめた。諸生が或は躊躇すると、蘭軒は奥より「留守だと道へ」と叫んだ。其声は往々客の耳にも入つたさうである。
 嘗て自ら笑仙(せうせん)と号したのも、交遊間に「蘭軒の高笑(たかわらひ)」の語が行はれてゐたからである。
 菅茶山は毎(つね)に「大声高笑(おほごゑたかわらひ)」の語を以て蘭軒に戯れた。此に茶山の書牘一通があつて、文中に此語が見えてゐる。書牘は文化丙寅六月十九日に茶山が蘭軒の父信階(のぶしな)に与へたもので、文淵堂の花天月地(くわてんげつち)中に収められてゐる。
 丙寅は蘭軒の長崎に往つた年である。茶山はこれを七日市(なぬかいち)へ迎へ、神辺に伴ひ帰つて饗応し、又尾道まで見送つた。書牘は此会見の状況を江戸にある蘭軒の父に報じたものである。わたくしは前(さき)に蘭軒の長崎行を叙した時、未だ花天月地を見なかつたので、此文を引くことが出来なかつた。文は下(しも)の如くである。
「時下大暑の候御坐候。弥御揃御安祥被成御坐候覧、奉恭賀候。」
「扨めづらしく辞安様御西遊、おもひかけなくゆる/\御めにかかり、大によろこび申候。大坂より御状下され、此たびのこと御申しこしなされ、おどろき申候。御とまりは七日市と申所、わたくし家神のべと申より東三里ばかり也。さつそく参候而(まゐりそろて)、一夕御はなしども承候、第一ことのほか御すくやかなる御様子、大ごゑたかわらひもへいぜいのとほり、すこしもたびの御つかれなく、めづらしき山川ここかしこ御なぐさみおほく候よし。御奉行様御おぼえもめでたく、あまりにしたしくなし下され、同行(どうぎやう)のてまへすこしきのどくなるくらゐに御坐候よし。さて六月十七日あさ、わたくし方へ御いでなされ候。御たびかけのこと、しな/″\御みやげ等下され、いたみ入かたじけなく奉存候。妻(さい)姪(てつ)どももまかり出、御めにかかり候。九つ時分御立なされ、御いとまごひ申候へども、とかく御名ごりをしく、尾道と申まで、西南六里、御あとより追かけ候而(て)、また一夜御はなし申候。御しよくじなどもよくなされ候。これは少々御ひかへなされと申候ほどのことに候。」
「右御様子申上度、且又御状一通御届申候ため、一筆啓上仕候。暑甚御坐候。御保護専一奉祈候。恐惶謹言。六月十九日、菅太中。伊沢長安様。」
「十七日一夜をのみちにて御はなし承、早朝御立にて御坐候。わたくしは其日すこし休息いたし帰宅仕候。十八日夜也。」
「尚々御次(おんついで)御内上(おんうちうへ)様、辞安様御内政(ごないせい)様へ宜奉願上候。」
「尚々千蔵こと辞安様大に御せわ被下、可也にとりつづきゐ申候よし、忝奉存候。さだめて時々参上、御せわになり可申候。宜奉願上候。」
 此書牘は茶山が蘭軒の旅況を蘭軒の父信階に報じたもので、此主なる三人を除く外、尚六個の人物が文中に見えてゐる。話題に上つてゐるものは通計九人である。わたくしは下(しも)に少しくこれを註して置かうとおもふ。

     その百八十九

 わたくしは蘭軒の大声高笑の事を言つて、菅茶山の書牘を引いた。蘭軒は文化丙寅に長崎に往く途次、神辺(かんなべ)を過(よぎ)つた。茶山がこれを江戸にある蘭軒の父信階(のぶしな)に報じた書は即是である。書を裁した茶山は五十九歳、書を得た信階は六十三歳、文中に見えてゐる蘭軒は平頭(へいとう)三十であつた。わたくしは是に由つて「伊沢長安様」と呼ばれた信階が、倅蘭軒ほど茶山に親しくはないまでも、折々は書信の往復をもしたと云ふことを知る。茶山の仮名文字を用ゐること常よりも稍(やゝ)多かつたのは、老人の読み易きやうにとの心しらひではなからうか。以上わたくしは第一茶山、第二信階、第三蘭軒の三人の事を註した。即ち発信者、受信者と書中の主人公とである。
 第四「御奉行様」は曲淵景露(まがりぶちけいろ)である。「あまりにしたしくなし下され、同行のてまへすこしきのどくなるくらゐに御坐候よし。」景露がいかに蘭軒を優遇したかゞ想見せられる。且茶山がこれを報じて、父信階をして心を安んぜしめようとしたのは、筆を下す用意が周到であつたと謂ふべきである。
 次に伊沢氏の人々にして茶山の問安を被つたものは、第五「御内上様」即信階の妻曾能五十七歳、第六「辞安様御内政様」即蘭軒の妻益二十四歳である。
 次に茶山は第七第八、吾家の「妻姪」をして蘭軒に見(まみ)えしめたことを報じてゐる。蘭軒の長崎紀行には、「茶山堂上酒肴を具、その妻及男養助歓待恰も一親族の家のごとし」と書してある。わたくしは前に紀行を抄して、妻は門田(もんでん)氏、男(だん)養助は万年と註して置いた。万年は茶山の弟汝□(じよへん)の子で、茶山の養嗣子である。それゆゑ蘭軒の男と書したのは戸籍上の身分、茶山の姪(てつ)と書したのは血統上の身分である。
 最後に第九、蘭軒の世話で「可也にとりつづきゐ申候よし」と云ふ「千蔵」がある。即ち初めわたくしがその何人(なにひと)たるを知るに苦んだ頼竹里(らいちくり)である。竹里は蘭軒の江戸を発するとき、遠くこれを板橋に送つた。わたくしは富士川游さんの言(こと)を引いて、頼は或は伊沢氏に寄寓してゐたのではなからうかと云つた。しかし是は錯(あやま)つてゐた。「さだめて時々参上御せわに成可申候」と云つてある。
 茶山が蘭軒を七日市(なぬかいち)に迎へ、神辺に伴ひ帰り、更に送つて尾道に至つたことは、長崎紀行の詳記する所である。茶山は丙寅六月十七日尾道油屋の夜宴の後、十八日には油屋で「すこし休息」した。その黄葉夕陽村舎(くわうえふせきやうそんしや)に帰つたのは「十八日夜也」と云つてある。蘭軒が「ぬた本郷駅、松下屋木曾右衛門の家に宿」した夜である。
 茶山は常に神辺を「神のべ」と書してゐる。此書牘も亦同じである。刊本「筆のすさび」の如きは、ことさらに「かんのべ」と傍註してある。按ずるに文化文政頃の備後人は此(かく)の如く称へてゐたのであらう。

     その百九十

 わたくしは上(かみ)に伊沢分家の口碑の伝ふる所に係る蘭軒歿時の事二条を挙げた。此より蘭軒平生の事にして口碑に存ずるものに言及しようとおもふ。
 蘭軒は近視であつたさうである。そして蘭軒が一目(ひとつめ)小僧に遭つたと云ふ伝説がこれに伴つてゐる。事は未だ蹇(あしなへ)にならぬ前にあるから、文化癸酉三十七歳より前でなくてはならない。
 伝説に曰く。或日蘭軒は一病者を往診して、日が暮れてから還つた。雨の夜であつた。若党が提灯を手にして先に立つて行つた。蒟蒻閻魔(こんにやくえんま)の堂に近い某街(ぼうかい)を過ぐる時、※笠(たけのかはがさ)[#「竹かんむり/嫋のつくり」、7巻-371-上-5]を被つた童子(わらべ)が一人背後(うしろ)から走つて来て、蘭軒と並んで歩いた。
「小父さん。こはくはないかい。」遽(にはか)に童子が問うた。
 蘭軒は答へなかつた。
 童子は問を反覆した。
 若党が童子を顧みて、一声叫んで傘と提灯とを投げ出した。
「どうしたのだ」と蘭軒が問うた。
「今お側にゐた小僧は額の正中(まんなか)に大い目が一つしかありませんでした。ああ、気味が悪い。まだそこらにゐはしませんか。」若党の声は顫えてゐた。
「ばかな事を言ふな。一つ目小僧なんぞと云ふものがあるものか。お前が見損(みそこな)つたのだ。」
「いゝえ、河童が化けて出たのです。あの閻魔堂の前の川には河童がゐます。」
 蘭軒は高笑(たかわらひ)をした。「化物話を聞いてゐるうちに、目が闇に慣れて来た。思の外暗くは無い。まあ、提灯が燃えないで好かつた。早く提灯と傘とを拾つて一しよに来い。」
 若党は四辺(あたり)を見廻したが、見える限の処には人影が無かつた。童子もゐなかつた。
 以上が伝説である。伝説には解説が附いてゐる。河童が一つ目小僧に化けて出て蘭軒に戯れたが、伊沢氏には近視の遺伝があつて、蘭軒は童子の面(おもて)を見ることを得なかつた。伊沢氏の近視は瞳孔の太(はなは)だ小いためだと云ふのである。
 瞳孔の平均径は人毎に異つてゐる。しかし其広狭のために瞻視(せんし)を害することを聞かない。虹彩の瞻視を害することは、後天の変形には或は有るが、先天には恐くは有るまい。
 近視が往々遺伝することは固よりである。しかし是は虹彩や脈絡膜の病では無い。伊沢氏に近視の遺伝があつたと云ふこと、蘭軒が近視であつたと云ふことは、或は事実であらうか。
 河童が存在するか。又仮に存在するとして、それが化けるか。此等は評論すべき限で無い。額の正中(せいちゆう)に一目(もく)を開いてゐる畸形は胎生学上に有りやうがない。
 要するに一つ目小僧物語の評は当時の蘭軒の言(こと)に尽きてゐる。「お前が見損つたのだ。」
 次に鶏肋(けいろく)として存じて置きたい一話は、蘭軒が猫を愛したと云ふ事で、その蓄(か)つた所の桃花猫(とき)と呼ばれた猫の伝さへ口碑に遺つてゐる。これより伊沢氏桃花猫(たうくわべう)の伝に入る。

     その百九十一

 伊沢分家の口碑に伝ふる所の猫の事は、聴くがままに記すれば下(しも)の如くである。
 蘭軒の愛蓄する所の猫があつた。毛色が白に紅(くれなゐ)を帯びてゐた。所謂桃花鳥(とき)色である。それゆゑ名を桃花猫(とき)と命じた。
 或時蘭軒が病んで久しきに瀰(わた)つたので、諸家の寄する所の見舞物が枕頭に堆積せられた。蘭軒は褥中にあつて猫の頭(かうべ)を撫でつつ云つた。「余所(よそ)からはこんなにお見舞が来るに、ときは何もくれぬか。」
 少焉(しばらく)して猫は一尾の比目魚(かれひ)を銜(くは)へて来て、蘭軒の臥所(ふしど)の傍(かたはら)に置いた。
 忽ち厨(くりや)の方(かた)に人の罵り噪(さわ)ぐ声が聞えた。程近き街の魚屋(うをや)が猫に魚を偸(ぬす)まれて勝手口に来て女中に訴へてゐるのであつた。
 蘭軒は魚(うを)の価を償うた。そして猫に謂つた。「人の家の物を取つて来てはいけぬ。」
 次の日に猫は雉を捕へて来た。蘭軒の屋(いへ)の後には仮山(つきやま)があつて草木が茂つてゐた。雉はをり/\そこへ来ることがあつたのを、猫が覗つてゐて捕へたのである。
 魚を偸んだと雉を捕へたとの二つの事が相踵(あひつ)いで起つたので、家人は猫が人語を解すると以為(おも)つた。是より猫は家人の畏れ憚る所となつた。
 猫は蘭軒歿後にも榛軒に畜(か)はれてゐて、十三年の後に死んだ。榛軒の妻は蘭軒の旧門人塩田楊庵に猫を葬ることを託して、金二朱を裹(つゝ)んで寺に布施せしめた。
 楊庵は金と猫の屍とを持つて、本郷菊坂の長泉寺に往つた。長泉寺の当時の住職は楊庵の小父であつた。
 住職は不在であつた。楊庵は寺の僕に猫を□(うづ)むることを謀り、且布施金二朱を持つて来たことを告げた。
 楊庵は十七歳の時江戸に来て、此寺に寄宿し、名医を尋ねて師事しようとして、遂に蘭軒の門に入つたのである。僕は当時寺にゐたので、楊庵と親しかつた。僕は楊庵に謂つた。「そのお金は和上(をしやう)様に上げなくてはならないのでせうか。」
「さうさな」と楊庵は云つて、顔には横着らしい微笑(ほゝゑみ)が見えた。「小父さんは金を上げなくつても、回向をして下さるかも知れない。」
「それは大丈夫です」と、僕が受け合つた。
 僕は程近い天麩羅屋に天麩羅を誂へた。そして飯を炊いた。猫を□(うづ)め畢(をは)つた時、飯が熟し天麩羅が来た。二人は飽くまで食つた。楊庵は大食の癖があつて、酒を嗜(たし)まなかつた。僕はそれを知つてゐたのである。
 楊庵は榛軒の妻に復命した。「猫は長泉寺に葬りました。回向は小父がいたすやうに申して置きました。しかしわたくしは□を衝くことが嫌だから申しますが、あの二朱は穴を掘らせた男に天麩羅を買つて食はせて、わたくしは相伴をいたしました。」
 蘭軒歿後十三年は天保壬寅である。榛軒の妻は当時継室志保になつてゐた。塩田楊庵は出羽国山形の七日町(なぬかまち)から、文政癸未に江戸に出て長泉寺に寓し、尋で蘭軒の門に入つた。当時の名は小林玄瑞であつた。猫を葬つた壬寅の歳には神田松坂町の流行医塩田秀三(しうさん)の養子になつて、子良三(りやうさん)をもまうけてゐた。年は既に三十六歳、榛軒より少(わか)きこと三歳であつた。楊庵は肥胖漢(ひはんかん)で、其大食は師友を驚かしたものである。渋江抽斎は楊庵の来る毎に、例(いつ)も三百文の切山椒を饗した。三百文の切山椒は飯櫃の蓋(ふた)に盛り上げる程あつたさうである。

     その百九十二

 伊沢分家の口碑は、次に蘭軒に潔癖があつたと伝へてゐる。
 此癖(へき)は既に引いた※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-374-下-1]詩集文政壬午の詩に就いて、其一端を窺ふことが出来る。「但於間事有遺恨。筅箒不能手掃園。」蘭軒は脚疾の猶軽微であつた時は、常に手に箒を把つて自ら園を掃(はら)つてゐた。僮僕をして掃はしむるに至つて、復(また)意の如くなること能はざるを憾んだのである。
 わたくしは更に細(こまか)に詩集を検して、箒を僮僕の手に委ぬることが、蘭軒のために奈何(いか)に苦しかつたかを想見した。文化己巳は蘭軒の猶起行することを得た年である。当時の詩中に「掃庭」の一絶がある。「手提筅箒歩庭隅。無那春深易緑蕪。刈掃畏鏖花草去。頃来不輙付園奴。」
 蘭軒は啻(たゞ)に庭園の潔(けつ)ならむを欲したのみではなかつた。口碑に拠るに又居室の潔ならむを欲した。そして決して奴婢をして居室を掃除せしめなかつた。毎日箒を手にして父の室に入るものは長子榛軒であつた。蘭軒は榛軒の性慎密(しんみつ)にして、一事をも苟(いやしく)もせざるを知つて、これに掃除を委ねたのである。
 偶(たま/\)榛軒が事あつて父の未だ起たざるに出で去ることがあると、蘭軒は甘んじて塵埃中に坐して、肯(あへ)て三子柏軒をして兄に代らしめなかつた。粗放なる柏軒をして案辺(あんへん)の物を飜攪(ほんかう)せしむるは、蘭軒の耐ふること能はざる所であつた。
 蘭軒は又潔を好むがために、榛軒をして手を食饌の事に下さしむることがあつた。例之(たとへ)ば蘭軒は酒を飲むに、数(しば/\)青魚□(かずのこ)を以て下物(げぶつ)とした。そして青魚□を洗ふには、必ず榛軒の手を煩した。
 次に口碑は蘭軒の花卉を愛したことを伝へてゐる。吉野桜の事、蘭草(ふぢばかま)の事は既に前に見えてゐる。其他人に花木を乞うて移し栽ゑたことは、その幾度なるを知らない。梅を栽ゑ、木犀を栽ゑ、竹を移し、芭蕉を移したことは、皆吟詠に見(あらは)れてゐる。又文政辛巳と丁亥とには、平生多く詠物の詩を作らぬのに、草花を詠ずること前後十六種に及んだ。
 就中(なかんづく)わたくしの目に留まつたのは、つゆ草の詩である。わたくしは児時夙(はや)く此草を愛した。吾郷人の所謂かめがらである。頃日(このごろ)「みゝずのたはこと」の一節が小学教科書に入つて、児童に此微物の愛すべきを教へてゐる。「何仙砕碧玉。化作小蛾児。貪露粘微草。不飛復不移。右鴨跖草。」わたくしの家の小園には長原止水さんの贈つた苗が、園丁の虐待を被りつゝも、今猶跡を絶たずにゐる。
 蘭軒は草花を詠じて、往々本草家の面目を露すことがある。たうぎばうしの詩の如きは是である。「玉簪化為草。漫向小園開。嬌媚休相近。毒根刮骨来。右玉簪花。」
 最後に口碑の伝ふる所の敗醤花(はいしやうくわ)の一笑話を挙げる。蘭軒は婢を上原全八郎の家に遣つて敗醤花を乞うた。口上は「お約束のをみなめしを頂きに参りました」と云ふのであつた。婢は新に田舎より来て、「めし」を「御膳」と呼ぶことを教へられてゐた。それゆゑ「をみなごぜん」と云つた。上原の妻は偶山梔子(くちなし)の飯を炊(かし)いでゐたので、それを重箱に盛つて持たせて帰した。

     その百九十三

 伊沢分家の口碑に蘭軒の平生を伝ふるものは、概ね上(かみ)に記するが如くである。わたくしは此に一二附記して置きたい。其一は蘭軒の筆蹟の事である。富士川氏所蔵の自筆本数種を見るに、細楷と行狎(ぎやうかふ)と皆遒美(いうび)である。塩田真(まさし)さんの談に、蘭軒は人に勧めて雲麾碑(うんきのひ)を臨せしめたと云ふ。平生書に心を用ゐたものとおもはれる。真さんは小字良三(せうじりやうさん)、楊庵の子である。
 わたくしは金石文の事を知らない。若し此に云ふ所に誤があつたら、人の教を得て正すであらう。雲麾将軍は李氏、名は秀、字は元秀、范陽の人で、唐の玄宗の開元四年に歿した。其碑は李□(りよう)が文を撰み自ら書した。然るに李□に両(ふたつ)の雲麾の碑がある。一は李思訓(りしくん)の碑にして一は此碑である。思訓と秀とは同姓同官である。此碑は良郷(りやうきやう)より宛平県に、宛平県より順天府に入つて、信国祠(しんこくし)の壁に甃(しう)せられてゐるさうである。其拓本の種類等はこれを審(つまびらか)にしない。
 其二は蘭軒が医の職を重んずるがために、病弱の弟子(ていし)を斥(しりぞ)けた事である。某(それがし)は蘭軒に請ふに、其子に医を教へむことを以てした。そして云つた。「生れつき虚弱な子でございます。武藝などははかばかしく出来さうもござりませぬ。お医者様になつて薬の事を心得てゐたら、自身のためにも便利だらうと存じます。」
 蘭軒はこれを聞いて眉を蹙(しか)めた。「それは悪いお思附だ。医は司命の職と云つて、人の死生の繋る所だから、其任は重い。医の学ぶべき事は極て広大で、これを窮むるには人に超えた力量がなくてはならない。御子息が御病身なら、何か医者でない、外の職業をおしこみなさるが好い。」
 某は慙謝(ざんしや)して退いたさうである。蘭軒の病弱は其形骸にあつて、其精神にはなかつた。蘭軒は身を終ふるまで学問のために努力して、毫も退転しなかつたのである。
 わたくしは此に蘭軒の事蹟を叙し畢(をは)つて、其歿後の記録に入らうとする。わたくしは境に臨んで※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-377-上-9]詩集の一書を回顧する。詩集はわたくしが富士川氏に借り得て、今に□(いた)るまで座右に置き、其編年の体例に拠つて、我文の骨格を構へ成した所のものである。
 わたくしは今詩集を富士川氏に返さうとする。そして今一たび其巻(まき)を繙閲する。巻は百零(れい)三頁(けつ)の半紙本で、頁数(けつすう)は森枳園(きゑん)の朱書する所である。首に「※[#「くさかんむり/姦」、7巻-377-上-15]斎詩集、伊沢信恬」と題してある。印が二つある。上(かみ)のものは「森氏」で枳園の印、下のものは「伊沢氏酌源堂図書記」で蘭軒の印、並に朱文篆字(しゆぶんてんじ)である。載(の)する所の詩は、五古一、七古一、五律六十七、七律百零三、五絶十九、七絶三百九十七、通計五百八十八首である。
 わたくしは此に「蘭軒文集」の事を附記する。此書は蘭軒の文稿を綴輯(てつしふ)したもので、完書の体を成さない。命題の如きも、巻首及小口書(こぐちがき)、題簽、巻尾、各(おの/\)相異つてゐる。「蘭軒文集」と云ひ、「蘭軒文草」と云ひ、「蘭軒遺稿」と云ふ、皆後人の命ずる所である。九十七頁(けつ)の半紙本で、首に「森氏」、「伊沢家書」の二印がある。並に篆字朱文である。載する所は序十四、跋二十九、書二、記二、考一、墓誌三、雑二で、その重出するものを除けば、序六、跋十八、書一、記一、考一、墓誌一、雑二となる。通計文三十篇である。わたくしは此書を伊沢信平さんに借りて、参照の用に供した。今詩集を富士川氏に返すに当つて、文集をも伊沢宗家に返し、二家に嘱するに此副本なき二書を愛護せむことを以てする。

     その百九十四

 蘭軒が歿した後、嫡子榛軒信厚(しんけんのぶあつ)が伊沢分家を継いだ。榛軒は二十六歳を以て主人となつたのである。その家督を命ぜられた月日の如きは、記載の徴すべきものが無い。榛軒は其時に至るまで棠助(たうすけ)と称し、今祖父信階(のぶしな)の称を襲(つ)いで長安となつたのであらう。
 蘭軒の室(しつ)飯田氏益(ます)は夫に先(さきだ)つて歿したので、蘭軒歿後には只側室佐藤氏さよが残つただけである。榛軒は幾(いくばく)もあらぬに、これに貲(し)を与へて人に嫁せしめた。
 是に於て榛軒の新家庭には妻勇(ゆう)、弟柏軒、妹長(ちやう)の三人があつて、主人を併せて四人をなしてゐた筈である。勇の生んだ女(むすめ)れんは前年戊子十二月四日に死に、今年己丑に入つてより、二月二日に榛軒と柏軒との間の同胞常三郎、五日に此三子の母飯田氏益、三月十七日に父蘭軒が死んだのである。
 蘭軒の門人は多くは留まつて榛軒の教を受くることゝなつた。門人等は復(また)「若先生」と呼ばずして「先生」と呼ぶこととなつたのである。
 蘭軒の遺弟子(ゐていし)は所謂又分家の良子(よしこ)刀自所蔵の門人録に八十一人、所謂分家の徳(めぐむ)さん所著(しよちよ)の歴世略伝に二十一人が載せてあつて、二書には互に出入があり、氏名の疑似のために人物の同異を辨ずるに苦むものもある。今重複を除いて算するに、約八十二三人となる。しかし蘭軒自筆の勤向覚書に僅に門人七人の氏名が見えてゐて、その門人録及歴世略伝に載するもの四人、門人録に載せて、歴世略伝に載せざるもの二人、二書並に載せざるもの一人である。是に由つて観れば、門人録も歴世略伝も、猶脱漏あることを免れぬものと見える。今三書を湊合して、新に一の門人録を作ることは容易であるが、読者の厭悪(えんを)を奈何(いかん)ともし難い。
 わたくしは此に第(しばら)く当時の所謂「蘭門の五哲」を挙げる。即ち渋江抽斎、森枳園、岡西玄亭、清川玄道、山田椿庭(ちんてい)である。蘭軒の歿後に、榛軒は抽斎、玄亭、椿庭の詩箋、枳園の便面(べんめん)、玄道の短冊を一幅に装(よそほ)ひ成したことがある。此幅は近年に至るまで徳さんの所にあつたが、今其所在を知らない。
 それはとにかく、榛軒の世となつた後も、医を学ぶものが伊沢分家の門に輻湊したことは、当時の俗謡に徴して知ることが出来る。わたくしは此に其辞(ことば)の卑俚(ひり)を嫌はずして、榛軒の女(ぢよ)曾能子(そのこ)刀自の記憶する所のとつちりとん一□(き)を録する。「医者になるならどこよりも、流行る伊沢へ五六年、読書三年匙三月、薬□(きざ)みや丸薬や、頼まうどうれの取次や、それから諸家へ代脈に、往つて鍛ふが医者の腕、それを為遂(しと)げりや四枚肩(まいがた)。」榛軒が父の世の家声を墜さなかつたことは明である。
 此年文政十二年に、頼氏では山陽が五十になり、其母梅□(ばいし)が七十になつた。「五十児有七十母、此福人間得応難。」
 伊沢氏では此年榛軒が既に云つた如く二十六、弟柏軒が二十、妹長が十六になつてゐた。榛軒の妻勇は其歯(よはひ)を詳(つまびらか)にしない。蘭軒の姉正宗院幾勢(きせ)は五十九であつた。

     その百九十五

 文政十三年は天保と改元せられた年で、蘭軒歿後第一年である。榛軒詩存に「天保庚寅元日」の詩がある。「妍々旭日上疎櫺。影入屠蘇盃裏馨。梅自暖烟生処白。草追残雪□辺青。読方択薬宜精思。射利求名豈役形。唯宝儂家伝国璽。明堂鍼灸宋雕経。」註に曰く。「余家旧蔵北宋槧本明堂鍼灸経。是架中第一珍書。故及之。」
 蘭軒手沢(しゆたく)の書には古いものが頗(すこぶる)多かつたが、大抵鈔本であつた。それゆゑ当時最古の刊本として明堂鍼灸経(めいだうしんきうきやう)を推したのであらう。明堂鍼灸経とはいかなる書か。
 北宋太宗の太平興国七年に、尚薬奉御(しやうやくほうぎよ)王懐隠(わうくわいいん)等に詔(みことのり)して、太平聖恵方(たいへいせいけいはう)一百巻を撰ばしめた。其書は淳化三年に成つた。太宗は自らこれに叙して、「朕尊居億兆之上、常以百姓為心、念五気之或乖、恐一物之失所、不尽生理、朕甚憫焉、所以親閲方書、俾令撰集、溥天之下、各保遐年、同我生民、躋於寿域、今編勒成一百巻、命曰太平聖恵方、仍令彫刻印版、□施華弟、凡爾生霊、宜知朕意」と云つてゐる。即ち十世紀の書である。
 太平聖恵方の完本は、躋寿館(せいじゆくわん)に永正中の鈔本の覆写本があつた。其刊本は同館に七十三、七十四、七十九、八十、八十一の五巻を儲(たくは)へてゐたのみである。
 然るに此聖恵方の第一百巻に黄帝明堂鍼灸経が収めてあつた。是は素(もと)唐以前の書で、王等が採り用ゐたのである。既にして人あつて古版首行(しゆぎやう)の「太平聖恵方」の五字を削り去り、単行本として市(いち)に上(のぼ)せた。故に首行の上(かみ)に空白を存じてゐる。此の変改せられた北宋槧本(ざんほん)が躋寿館に一部、伊沢氏の酌源堂に一部あつた。彼は「長門光永寺」の墨印があり、此は「吉氏家蔵」の印があつた。経籍訪古志に「酌源堂亦蔵此本、紙墨頗精」と云つてあるのが即後者で、榛軒の詩中に斥(さ)す所である。今其所在を知らない。
 詩存には此春の詩が猶十八首あつて、就中(なかんづく)五首は阿部侯正寧(まさやす)に次韻したもの、五首は賜題の作である。榛軒が正寧に侍して詩を賦したのは、蘭軒が正精(まさきよ)に侍して詩を賦したと相似てゐる。
 此年十月に榛軒は正寧に扈随して福山に往くこととなつた。前年来江戸に来て、丸山邸に住んでゐる門田(もんでん)朴斎は「白蛇峰歌」を作つてこれを送つた。「白蛇峰上白雲多。峰前是我曾棲処。黍山最高只此峰。勧君吟屐穿雲去。北望雲州与伯州。独有角盤相対□。臨風絶叫称絶勝。未輸五岳名山遊。吾兄在彼諳山蹊。恰好前導攀丹梯。別後思君復思兄。白雲満山夢不迷。」朴斎は兄富卿(ふけい)を前導者として榛軒に推薦したのである。
 福山へ立つた兄榛軒と、江戸に留まつた弟柏軒との間に取り替された書牘は、集めて一巻となし、「荏薇問答」と題してある。荏土(えど)と黄薇(きび)との間に取り替されたからであらう。わたくしは此書を徳(めぐむ)さんに借りて、多少の価値ありと認むべき数条を抄出する。
 榛軒は十月十六日の暁に江戸を発した。同行した僚友は雨富良碩(あまとみりやうせき)、津山宗伯(そうはく)であつた。留守は柏軒で、塩田楊庵(やうあん)、当時の称小林玄瑞(げんずゐ)が嘱を受けて其相談相手になつた。
 榛軒が去つた直後に、留守宅に傷寒論輪講の発会があつた。来会者は各(おの/\)数行の文を書して榛軒に寄せた。合作の柬牘(かんどく)である。会日は十月二十日であつた。
 首(はじめ)に柏軒が書した。「磐安(はんあん)曰。集まりし人より伝言左の如し。尤(もつとも)各自筆なり。」
 次に渋江抽斎が書した。「道純敬啓。御出立の砌は参上、得拝眉、大慶不過之候。御清寧、御道中種々珍事可有之、奉恭羨候。廿日より傷寒論講釈相始候処、諸君奇講甚面白し。輪講の順は星順にて、長短に拘らず一条づつ各講ず。書余後便万々。不具。副啓。去(さんぬ)る十七日万笈堂主人頓死。
次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:1078 KB

担当:undef