伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

     その百七十二

 備後では此年文政八年の暮に、菅茶山が「歳杪雑詩」の五律三首を作り、又除夜に始て雪がふつたので「除夜雪」の五律を作つた。「今年未逢雪、此日始模糊。」
 菅氏には此年特に記すべき事が無い。強て求むれば十月既望頼山陽の訪問である。即ち事は頼氏に連(つらな)つてゐる。頼氏では三月に山陽の次男辰蔵が六歳にして夭した。「幻華一現暫娯目、造物戯人何獪哉。」しかし五月に至つて四男三木(みき)八が生れた。後の三樹三郎醇(みきさぶらうじゆん)である。山陽は母梅□(ばいし)に「辰のかはり」が出来たと報じた。山陽の子は三男復(ふく)と此醇とが人と成つた。九月には竹原にある叔父春風が歿した。辰の痘を病んで死する時、京都に来合せてゐたのが、叔姪(しゆくてつ)の別であつた。山陽は展墓のために竹原に往つて、帰途に廉塾を過(よぎ)つたのである。茶山は「南阮有喪雖可悼、北堂無恙亦堪歌」と云ひ、山陽は「吾曹更誰望、父執有君存」と云つてゐる。
 此年蘭軒は四十九歳であつた。家族は妻益四十三、子女榛軒二十二、柏軒十六、長十二であつた。
 文政九年の元日は江戸が雪の日であつた。蘭軒の詩に「丙戌元日作、此日雪」と題してある。「臘酒醺然猶未除。陽春白雪愛吾廬。銀鈴竹裏鏘鏘響。玉杖柳辺耀耀舒。風字硯奇貧亦買。羊毫筆美拙能書。正元尤喜逢豊兆。吟種今年定有余。」頷聯に「此日雪景頗奇、銀鈴玉杖並実際所見、非倣銀海玉楼之顰」の註、頸聯に「二物客歳所得、此日始試」の註がある。神辺は此日晴暄(せいけん)で雪が融(と)けかかつてゐた。「檐角有声晴已滴。池心不凍午成漣。」是が茶山の詩の三四である。其五六は「十千美酒酬三朔、八秩衰骸少一年」である。
 茶山が元日の詩に年歯を点出した如くに、九日の蘭軒の作に「日々只宜開口笑、生年五十未知非」の句がある。例の「豆日草堂集」の七絶の転結である。
 二月十三日に蘭軒は岸本由豆流(ゆづる)の向島の別荘に招かれた。其日は薄曇の日であつた。三絶句の其一に「不妨鳩語頻呼雨、恰是軽陰宜看梅」の句がある。蘭軒は途中百花園に立ち寄つて梅を看た。「白玉有瑕真可惜、俗人題句繋枝頭。」紙片を枝に繋ぐ習が当時盛に行はれたと見える。
 桜花の時節になつてから、蘭軒は七古の「芳桜歌」を作つた。前年斎藤某に乞ひ得た木が花を著けたのである。「二十四番花次第。今年待信異常年。時惟三月一旬来。暁雨初晴無点埃。早起南軒斟茗坐。樹梢先見花新開。」歌行(かかう)は進んで吉野桜の特色を称へてゐる。「此桜疎瓣且短鬚。仙姿潔素自高標。是為短鬚無雨宿。更因疎瓣免風撩。盛時之永勝凡品。応識英名冠国朝。」蘭軒は此より居る所を芳桜(はうあう)書院と曰つた。後其法諡を芳桜軒と曰つたのも、生前此花を愛好したためである。
 蘭軒は此花のために題詠を諸家に求めた。茶山の詩幅は今猶徳(めぐむ)さんの許にある。「伊沢仁友移芳野桜栽索詩。一遊芳野足誇人。況得移栽作席珍。半径幽香千嶺雪。一枝清影万株春。菅晋帥。」集には「移栽」を「花栽」に作つてある。起句に花木等の字面が無いので改めたのであらう。

     その百七十三

 これも亦此年文政九年三月の初であつただらう。蘭軒は井戸翁助の家に招かれて桜を看た。井戸は後蘭軒の女婿となるべき人である。
 井戸の家は寛永以来の幕臣であつた。「井戸翁助宅看桜。其先寛永中始仕大府。賜宅於此地。至君已六世。」詩は七絶二首である。其後者の後半に、「経年二百凌霜雪、春色異他妖艶叢」と云つてある。
 蘭軒が詩会を草堂より余所へ持ち出すことは前年に一たび歇(や)んでゐて、此三月に又旧に復した。「三月十三日篠池清香亭席上」の詩がある。題は「春陰」で、体は五律である。
 次で十六日に蘭軒は向島に遊んだ。「三月十六日与狩谷少卿、渋江子長、森立夫及児重、同遊墨水。途中遇雨。」少卿は□斎の子懐之(くわいし)である。子長(しちやう)は抽斎全善(かねよし)、立夫(りつふ)は枳園立之(きゑんりつし)、並に年少の門人である。重(ちよう)は三男柏軒である。五律の五六に「投老心雖懶、逢春興自繁」と云つてある。
 十七日に蘭軒は夏時韈(べつ)を着くることを乞うて、十日の後に允(ゆる)された。勤向覚書の文に曰く。「同年三月十七日左之願書付差出置候処、同月廿七日願之通勝手次第と平助殿被仰渡候。口上之覚。私儀足痛所御座候に付、不出来之節は夏中足袋相用申度奉願上候。右之趣宜敷被仰達可被下候以上。三月。伊沢辞安。但粘入半切上包半紙折懸上に名計。」是が覚書の最後の記載である。
 覚書の載(の)する所にして、此に至るまでわたくしの全く取らずに置いたのは、門人に関する事である。所謂内弟子の出入(でいり)は皆藩主の認可を経たものである。覚書には凡七人の名が見えてゐる。曰安西了益(あんざいれうえき)。父を外記(げき)と云ふ。豊前の人である。曰中野貞純(ていじゆん)。父養庵は井上筑後守正滝(まさたき)の医官である。井上は下総国高岡の城主である。門人録に純を「順」に作つてあるが、蘭軒は純と書してゐる。曰河村元監(げんかん)。父を意作(いさく)と云ふ。門人録に「藩」と註してあるから、阿部家の臣であらう。曰酒井安清(あんせい)。小川吉右衛門の甥である。小川は常陸国府中の城主松平播磨守頼説(よりのぶ)の臣である。曰小林玄端。出羽山形の人である。門人録に「後塩田楊庵、対州」と註してある。又端が「瑞」に作つてある。塩田氏の云ふを聞くに、父が玄端、子が玄瑞ださうである。然らば蘭軒の誤記であらう。曰多々良敬徳(けいとく)。父を玄達と云ふ。四谷の住人である。門人録に「後文達、江戸」と註してある。字(あざな)を辨夫(べんふ)と云つたのが此人であらう。曰天野道周(だうしう)。遠江国横須賀の城主西尾隠岐守忠善(たゞよし)の臣である。
 夏に入つて四月十三日の詩会が入谷村旭升亭に催された。宿題は「山中首夏」で、蘭軒は五絶五首を作つた。席上の詩は「夏日田園雑興」の七絶二首であつた。
 此月蘭軒は「呉刻中蔵経跋」を作つた。清舶(しんぱく)載せ来る所の中蔵経に、周錫□本(しうせきさんぼん)と孫星衍本(そんせいえんぼん)との二種がある。並に元人抄本に拠るもので僅に一巻を成してゐる。然るに宋代には別に扁鵲(へんじやく)中蔵経と云ふものがあつて、後人がこれを上(かみ)に云ふ所の中蔵経に併せ、分(わかつ)て八巻となした。呉勉学(ごべんがく)の刻する所の中蔵経が即是である。その宋時の古文を包容してゐることは、丁香散(ちやうかうさん)を載するを以て知られる。丁香散は朱肱(しゆこう)が活人書(くわつじんしよ)に、扁鵲中蔵経を引いて載せ、周孫等はこれを載せない。蘭軒が呉氏の八巻本に取ることある所以である。

     その百七十四

 蘭軒は此年丙戌の五月十三日に重て入谷村の旭升亭に会した。宿題は「夏菊」で、※[#「くさかんむり/姦」、7巻-341-下-9]斎詩集には七絶一首が載せてある。
 秋には集中僅に五律一首があるのみである。「九月二日集長泉寺」の作が是である。
 九月に蘭軒は「活人指掌方跋」を作つた。按ずるに活人指掌方(くわつじんししやうはう)とは熊宗立(ゆうそうりつ)の「活人書括指掌図論」である。此書は宋の李知先(りちせん)の「歌括証論」と元の呉恕(ごじよ)の「指掌図式」とを合併したもので、其著者を熊宗立と曰ふ。蘭軒は熊の為す所を喜ばなかつた。「李為宋乾道中人、呉為元至元中人、熊氏妄混体裁、恣換書名、遂使後学不能見其原、復何無忌憚」と云つてゐる。此書に別に「大乗居士校本」と云ふものがある。蘭軒はこれを悪(にく)むこと最甚だしく、此跋の末にかう云つてゐる。「世又有一種大乗居士校本。据熊氏本。間加以陶節菴論説。去旧弥遠。而乱糅極矣。不存而可。」
 冬の詩は集に二首ある。其一は蘭軒の祖父信政の妻(さい)の里方、菓子商大久保主水(もんど)が寿筵の詩である。「大久保五岳忠宜。今歳華甲。仲冬七日。開宴会客。諸彦祝以亀寿鶴齢之章。其詞金玉満堂。如余瓦礫之言。固不可混其間。然不能無言。聊賦一絶。述翁有松柏後彫之質云。」此詩引は諷刺の意が寓してあるのではないかと疑ふ。詩は略する。其二は「篠池千賀亭宿題」の詩で、「冬日朝起」を題として居る。千賀亭集は其日を詳(つまびらか)にしない。
 此年阿部家に代替(だいがはり)があつた。棕軒正精(そうけんまさきよ)は六月二十日に卒して、子正寧(まさやす)が家を継いだ。菅茶山の「除日」の詩に、「頑仙堪恥亦堪喜、及見今公行部時」と云つてある。是より先茶山は十二月二十二日に正寧に謁して物を賜はつた。次年に蘭軒に与へた書に、「君公御入国に而(て)一度めされ候時病気に而御断申上候、其のち又めされ御居間にて御酒頂戴、かへりには御盃、筆墨箋、たばこ入をいただき候、十二月廿二日也」と云つてある。詩集にも亦一絶が見えてゐる。「十二月廿二日始謁公、賜酒食及菓子諸文具等。熊車行部市朝歓。政見江山瑞気攅。敢謂荒村樵父伴。近攀綺席侍杯盤。」
 茶山の再び妻を喪(うしな)つたのも亦此年である。行状に「配内海氏早亡、継室門田氏有内助之方、先歿、年七十、無子」と云つてある。集に悼亡の詩三首があつて、中に「久托衰躬只一妻、奈何老鶴乍孤棲」の句がある。
 頼氏では山陽の妹十が此年に歿した。「忽得凶音読復疑。秋前猶有寄兄詞。」田能村竹田(たのむらちくでん)が杏坪(きやうへい)の老いて益壮(さかん)なる状を記したのは此年である。「先生今年年七十二、神明不衰、声容ますます壮なり。藝藩にて四郡の郡奉行となり、所管凡八万石許なり。其旁に藝州志の纂述を命ぜられ、毎暁寅の時に盥漱して端坐し、辰時迄に其日の公私の事務を計画し、其後に飯して、夫より終日出勤し、役務を取さばき、少しも倦事なし。且其ひまにも詩を作り歌を咏じ、亦一日十数首に下らずと云ふ。」
 此年三月に亀田鵬斎が七十五歳にして歿し、八月に市野迷庵が六十二歳にして歿した。二人皆中風である。
 蘭軒一家の此年の齢は主人五十、妻益四十四、榛軒二十三、常三郎二十二、柏軒十七、長十三であつた。

     その百七十五

 文政十年の元旦には、※[#「くさかんむり/姦」、7巻-343-下-1]斎詩集に七絶一首がある。「丁亥元日、客歳冬暖、園中梅柳、頗有春色、故詩中及之。梅已含香柳帯烟。杪冬猶是属蕭然。春風先自融人意。方道今朝草樹妍。」江戸は冬以来暖(あたゝか)であつたと見える。菅茶山は備後にあつて、此歳首に多く自己の身上に就いて語を著けてゐる。「馬歯今朝八十盈、回首志業一無成」と云ひ、又「臥痾恨欠拝新正、無奈衰躬負我情」と云つてゐる。皆人をして其衰況を想はしむる語である。
 九日の草堂集には蘭軒が七律一首を得た。題の下に「示社中諸子及二児」と註してある。
 後に引くべき生日後の尺牘断片に、茶山はかう云つてゐる。「正月十一日(阿部侯正寧(まさやす)の館(たち)に)罷出候。御手のし頂戴は相すみ、又御目通に出よとのこと、さむさはさむし、腹はつかへる、御断申帰候。」亦「無奈衰躬負我情」の句の註脚とすべきものである。
 二十五日に茶山は蘭軒に書を寄せた。書は文淵堂の花天月地(くわてんげつち)中にある。本文は代筆で、首尾両端と行間とに自筆の書入がある。本文。「新年の御慶重畳申収候。尊家愈御安祥御迎被成候覧奉恭賀候。私無事越年仕候乍憚御安意可被成下候。右年甫御祝辞申上度如此に御座候。恐惶謹言。正月廿五日。菅太仲晋帥。伊沢辞安様侍史。」此中「晋帥」の二字だけが茶山の自署である。此より自筆の書入を写し出すことゝする。「尚々私も追々と老耄、手もすこし宛(づゝ)かなはぬやうになり候故、本文代筆に候。真平御免可被下候。吾兄も年よればかくなり候を思召、とかく御保重(ほぢゆう)専一に候。必々耳をとめて御きき可被下候。令郎がた次第に御成立推量仕候。凡(すべて)令内様令郎二位へ宜奉願上候。直卿(ちよくけい)はなしにて聞けば、詩会連月打つづき、風流御境界之由羨敷奉存候。六右衛門古庵様折ふし見え候半(さふらはむ)と推察仕候。御次(おんついで)に宜奉願上候。市川はいかが、折ふし参られ候哉、近比杳然に候。宜奉願上候。年内つくり候一首、歳首二章汚電候(をでんしそろ)。御一笑可被下候。これは直卿参り候はば御見せ可被下候。見せよと申参候。石田町の内へ移居のよし、隠者もさびしきものと見え候。書状御届奉願上候。玄間兄弟へ宜奉願上候。一々書状遣候ても、多用の人を攪撩(かくれう)いたし候半と存さしひかへ申候。いはぬはいふにいやまさると申こと御つたへ可被下候。服部兄いかが、今は劇職のよし、たび/\見え申まじく候。参られ候はば宜奉願上候。かへす/″\も令郎様へ宜御申可被下候。月事(げつじ)の姫へも。」
 紙上自筆の文字を見るに、茶山は未だ必ずしも尺牘を作るに人を倩(やと)はなくてはならぬ程衰へてはゐなかつた。只新年を賀する書を作らうとおもひ立つアンピユルシイウな力に乏しかつたものと見える。さて人に書かせて見れば、それに満足することは出来なかつた。茶山は本文に数倍する細註を加へた。
 此書に添へた前年丙戌の詩はいづれの詩なることを知らない。歳首の二篇は集に「元日二首、丁亥」と題する作で、上(かみ)にわたくしの句を摘んだものと同じである。

     その百七十六

 菅茶山の丁亥歳首の書には、蘭軒の家族四人を除く外八人の名が見えてゐる。茶山は蘭軒の妻益、其子榛軒柏軒を筆に上(のぼ)せて、単に「宜奉顧上候」と云ふに過ぎぬが、其中榛柏二子の名をば三たびまで書して慇懃を極めてゐる。且其成長の状を想ふとも云つてゐる。最奇とすべきは書中に所謂「月事の姫」である。按ずるに是は蘭軒の女(ぢよ)長(ちやう)を斥(さ)して言つたものである。父蘭軒は前に書を茶山に寄せた時、何かの次(ついで)に長が身上に説き及んで、天癸(てんき)の新に至つたことを告げたのであらう。長は是年十四であつた。
 他の八人中先出でてゐるものは第一、牧黙庵(まきもくあん)の「直卿」である。黙庵は当時江戸にゐた。そして書を茶山に寄せて丙戌以後蘭軒が頻に詩会を催して少年子弟を誘掖することを告げた。茶山が「風流御境界之由羨敷奉存候」と云ふ所以である。
 次の「六右衛門」は市野三右衛門の迷庵と狩谷三右衛門の□斎とである。茶山は蘭軒が、時に此第二第三の人物と相見るや否やを問ひ、又特に迷庵の消息の絶えたことを言つてゐる。茶山のこれを書したのは、実に迷庵の死に先(さきだ)つこと半年である。松崎慊堂(かうだう)の碣銘(けつめい)に曰く。「又数年得風疾。漸不能言。最後余与狩谷卿雲往候之。君但黙坐。聴所談論。唖唖声涙倶下。未幾而没。」わたくしは今「慊堂日暦」を閲して、纔(わづか)に甲申の歳に至つてゐる。知る所の最後の訪問は甲申二月五日である。想ふに慊堂はその迷庵との最後の会見を録することを忘れぬであらう。茶山と迷庵との音信の絶えたのは、迷庵中風の後ではなからうか。
 書中第四の「古庵」は余語(よご)氏、第五の「石田」は梧堂、第六の「服部」は栗陰(りついん)であらう。第七第八の「玄間兄弟」は屈平(くつへい)を学んだ人の二子であらうか。伊沢徳(めぐむ)さんの語る所に拠るに、三沢氏は玄間の称を世襲したもので、徳の父棠軒の同僚にも一の洋医三沢玄間があつたさうである。
 わたくしは此正月に蘭軒の嫡男榛軒が新婦を迎へたものと推定する。これを直書(ちよくしよ)した文書は今一も存してゐない。わたくしの推定の本づく所は、此年四月頃の茶山の尺牘の断片と、次年戊子元旦の蘭軒の詩の註とである。
 前者尺牘断片は下(しも)に其全文を写し出して、その何故に此年四月の所作ならざるべからざるかを明にするであらう。蘭軒は此年三月二十二日に書を茶山に寄せ、茶山はこれに答へた。わたくしは其答書が偶(たま/\)断片を世間に留めたものと看るのである。文中「嫁御御祝儀に有合候宮島楊枝進申候、薄物(はくぶつ)に候、これは乗韋(じようゐ)と可被思召候」と云つてある。此語は先断片の三月二十二日江戸発の書に答へたものなることを承認した上で、其前に伊沢氏に婦を迎へたことがあると云ふ証に充(み)つべきものたるに過ぎない。断片は饗庭篁村(あへばくわうそん)さんの蔵する所である。
 後者「戊子元日作」の自註には「客歳十二月元彫千金翼方影鈔卒業」と云ひ、次に「十一月児厚挙女子」と云つてある。十一月の上(かみ)には前註の「客歳」を連ねて読むべきである。客歳は此年丁亥で、其十一月に榛軒信厚は長女をまうけた。榛軒の婚姻は少くも十一月の前十月に於てせられたものとしなくてはならない。
 わたくしは此の如くにして、榛軒の婦を迎へた時の、此年丁亥正月なるべきことを推定した。

     その百七十七

 わたくしは蘭軒の嫡子榛軒が此年文政十年正月中に婦を迎へたことを推定した。是は菅茶山の蘭軒に与へた手柬の断片と、※[#「くさかんむり/姦」、7巻-347-上-4]斎詩集の自註とに拠つたものである。
 榛軒の妻(さい)とは誰ぞ。伊沢分家の口碑に拠るに、榛軒は初め横田氏を娶(めと)り、後飯田氏を娶つた。彼は名を勇(ゆう)と云ひ、此は名を志保(しほ)と云つた。是に由つて観れば丁亥に来り嫁した新婦は横田氏勇であらう。
 此年二月二日は菅茶山の八十の誕辰であつた。寿筵は恐くは此日に開かれたことであらう。集に「八十諸友来寿」の三絶句がある。しかし日を記さない。行状には「賜章服及魚寿之」と云つてある。饗庭篁村さんの所蔵の月日を闕いた書牘の断片に下の文がある。「八十之賀には御垢附御羽折(おんあかつきおんはをり)雑魚(ざこ)数品拝領、其外近比(ちかごろ)八丈島二反御肴とも被下置候。殊遇特恩身にあまり難有奉存候。桑楡(さうゆ)之景もはや可然御奉公も出来かね、只々恐入奉存候。せめて時々御伺にも相出候へば宜候に、衰耄それも出来かね候而(そろて)、不可奈何(いかにもすべからず)候。扨々恐入候御事に御坐候。我兄迄感泣之万一を申上候。御憐察可被下候。晋帥。」此文は上(かみ)に引いた「君公御入国に而」云々の文の後半で、末に宛名が無い。しかし所謂「我兄」の蘭軒たることは疑を容れない。行状の書する所は阿部正寧(まさやす)の初度の賜(たまもの)で、「章服」は「御垢附御羽折」である。此賜は二月二日の生日に於てせられたこととおもふ。
 寿詞を贈つたものには讚岐の後藤漆谷(しつこく)、美作(みまさか)の茂誥大輔(もかうたいほ)、徳島の僧玉澗等があつたことが集に見えてゐる。
 二月十三日には蘭軒が不忍池の仙駕亭に会した。宿題「林鶯」の七絶、席上分韻「湖亭春望」の七律がある。
 三月十三日には再び仙駕亭に会した。宿題「花時遍遊諸村」の七絶がある。
 十五日には向島に月を観た。「三月既望墨水堤花下歩月」の七絶は後に考拠に資すべきものがあるから、此に採録する。「万頃春波漫夜烟。花薫々処月妍々。古人品得何廉価。今夕将増金一千。」
 わたくしは此月二十二日に蘭軒が書を茶山に寄せたことを知つてゐる。しかし其書は今存してゐない。存してゐるものは茶山のこれに答へた書の断片である。茶山のこれに答へたのは四月中の事であらう。此断片も亦饗庭氏の蔵儲に係る。「梅児冢(ばいじちよう)あたりへ之散行、さて/\羨しく候。ことに弱冠前後の俊髦(しゆんばう)を携たるをや。私は児なし。養子もとかく相応せず。才子過て傲慢、こまり申候。狂詩のごとしと被仰下候へども、中々おもしろく候。花月何論価高下、只※[#「貝+(やね/示)」、7巻-348-上-15]美酒斗十千と次かけ候へ共、上(かみ)の方出来かね候。かくうちには出来可申か。高滝子(たかたきし)と金輪(こんりん)へ参候由、総介とは誰か。唯介にてはなきか。梧堂と一つになり候半(さふらはむ)と存候。桜花□(あうくわせき)は性を存(そんじ)、色もあしからず候。わたくしがすれば花はかれて色あしくなり候。伝授心法はなきか。あらば御伝可被下候。嫁御御祝儀に有合候宮島楊枝進申候。薄物に候。これは乗韋と可被思召候。右は空海上人忌日□日(ゆうじつ)之書之御返事也。前二句は花堤夜色淡生烟。政是江波月弄妍などか。」
 僧空海は承和二年三月二十一日に寂した。其忌日は三月二十一日である。□日の「□」字の草体は頗読み難かつた。偶(たま/\)今関天彭(てんはう)さんが来て商書の「高宗□日」であらうと云つた。茶山は祭の明日を謂つたものであらう。そこでわたくしは二十二日と推定した。茶山は□日の旁(かたはら)に線を加へて「八島戦之後四日也」と註してゐる。しかし屋島の戦は二月であつた。然らば壇浦の戦は奈何(いかに)と云ふに、これは又三月二十二日より遅れてゐるやうである。恐くは茶山の違算であらう。蘭軒の書が丁亥の三月二十二日のものであつたことは、丁亥三月既望の詩を寄示したるに由つて知ることが出来る。

     その百七十八

「空海上人忌日□日」の蘭軒の書牘が、此年文政十年の三月二十二日に作られたことは、その菅茶山に寄示した「万頃春波漫夜烟」の詩に由つて知られる。そして既に此書が丁亥の書なるを知れば、榛軒の星期が丁亥の初にあつたことも亦自ら明になるのである。若し更に蘭軒の次年戊子元旦の詩註を取つて合せ看るときは、榛軒の妻勇(ゆう)が来嫁(らいか)の後未だ幾(いくばく)ならずして懐胎したことが知られるであらう。
 右の蘭軒の書に答ふる茶山の書の断片には、「花堤夜色淡生烟」云々の次韻の詩がある。茶山は蘭軒の此遊に二児の提挈(ていけつ)あるを羨んで云つた。「私は子なし。養子もとかく相応せず、才子過て傲慢、こまり申候。」此養子とは誰か。公(おほやけ)に養子と称せられたものには、初め万年があつた。万年の歿後には菅三がある。しかし此語は菅三を斥(さ)して言つたものではなささうである。然らば所謂中継か。今や北条霞亭は既に逝(ゆ)いた後である。或は門田朴斎(もんでんぼくさい)ではなからうか。わたくしの思ふには、縦令(たとひ)茶山が朴斎を傲慢なりとなしたとしても、此言(こと)は必ずしも朴斎を傷くるものでは無い。前に茶山と山陽との間に融和を欠いた如くに、後又茶山と朴斎との間に輯睦(しふぼく)を欠いたかも知れない。そして此恨事は偶(たま/\)以て朴斎の豪邁の資を証するに足るかも知れない。
 書中には猶高滝子(たかたきし)、総介二人の名が見えてゐる。そして茶山は総介の黙庵牧唯介(まきたゞすけ)にあらざるなきかを疑ひ、又総介が金輪寺へ往くと聞いて、「梧堂と一つになり候半」と推想してゐる。高滝氏は屡(しば/″\)朴斎集中に見えてゐて、名は常明(つねあき)であつたらしい。総介はわたくしは未だ考へない。
 三月二十三日には※[#「くさかんむり/姦」、7巻-350-上-2]斎詩集に「廿三日暁起」の七絶がある。蘭軒は残月の桜花の上に懸れるを賞したのである。
 二十九日に蘭軒は天野樵□(せうとん)、子柏軒の二人と共に郊外を歩し、僧混外(こんげ)を金輪寺に訪ひて逢はず、茶店(ちやてん)に憩うて鈴木玄仙に邂逅し、遂に鹿浜(しかはま)に到つて帰つた。
 集に「春尽前一日与天野樵□、児信重同遊近郊、遂到鹿浜而帰」の七絶七首がある。丁亥の三月は大なるが故に、「春尽前一日」が二十九日となる。二十八日の夜は雨がふつたのに、此朝は晴れてゐた。「宵半雨声□撲扉。方恐拾翠約空違。今朝天気開晴朗。促伴命輿神欲飛。」是が七首中の第一である。
 王子の金輪寺(こんりんじ)を敲けば、寺僧混外は出でて未だ還らなかつた。「将訪高僧掃世塵。出行何処現清身。」是が七首中の第七の前半である。去つて茶店に憩へば、偶(たま/\)鈴木玄仙の来るに会した。「籃輿渓畔空帰去。忽漫相逢旧社人。」是が第七の後半である。
 樵□は蘭軒門人録に「天野道周、横須賀」がある。恐くは其人であらう。玄仙は詩に「旧社人」と称してある。或は曾て門下にあつた人か。門人録中鈴木氏のものは、唯一の「鈴木杉渓」あるのみである。
 四月十三日には蘭軒が又上野仙駕亭の詩会を催した。その作る所には宿題「朝起掃園」五律一、「擬破戎凱歌」の七絶一、席上題「池亭雨望」の七律一がある。想ふに十三日は雨の日であつただらう。「十里池塘雨色濃。笠蓑探興滌心胸。」
 此月蘭軒に柳絮(りうじよ)の七絶五首がある。丸山の家には啻(たゞ)に桜を栽ゑたのみではなく、又柳を栽ゑた。柳は文政五年に栽ゑたのである。「小園栽柳六年過。未有飛綿今歳多。」又。「四月園林雪驟飄。驀然見□未曾消。」見□(けんてん)は詩の小雅より取つた語である。

     その百七十九

 蘭軒は此年文政十年四月に又岡田華陽のために「脈式」の序を作つた。華陽は典薬頭(てんやくのかみ)半井景雲(なからゐけいうん)の門人で、蕨駅(わらびえき)に住んでゐた。蘭軒は「為人沈退実著、愛間好学、不敢入城都」と云つて、著す所の書を列挙してゐる。書名中に「薬方分量考」がある。日本医学史の医書目録に「続薬方分量考、岡田静宅撰、一巻、文化十年」がある。未だ人と書との同異を詳にしない。脈式の序は末に「文政丁亥清和月伊沢信恬記」と署してある。
 五月十三日には詩会が上野仙駕亭に催された。蘭軒に宿題「送人遊玉函山」、「牧牛図」の七絶各一、席上課題「山荘茶宴」の七律一がある。「春尽前一日」の遊より此に至るまでの詩は、柏軒が浄書してゐる。狩谷□斎の箋註(せんちゆう)和名鈔は此月五日に脱稿した。
 六月十七日仙駕亭会の宿題は「望岳」、席上課題は「涼歩」であつた。蘭軒は五律各一を作つた。
 閏(じゆん)六月十三日同亭会の宿題は「蓮池避暑」で、蘭軒に五律一がある。
 十四日には蘭軒は家にあつて月を賞した。「閏六十四夜即事」の七絶一がある。題の下(しも)に「此立秋前一夕」と註してある。
 二十三日には暑を丸山長泉寺に避けた。「賦得夏日一何長」の五律がある。「夏日一何長」は小原鶯谷(こはらあうこく)の句である。鶯谷は曾て吉原に於て蘭軒と相識になり、後不忍池清宜亭の詩会に参した。「傾蓋楊巷曲。闘毫蓮□磯。」さて前年六月に歿したので、蘭軒は前(さき)に一たび此寺の遊を同うしたことを憶ひ起し、其詩句を以て題となした。此日別に「長泉寺避暑」の七絶一があつた。
 集に猶夏の詩にして未だ挙げざるもの一がある。それは「山中避暑図」の七絶である。
 七月十二日には集に「初秋十二夜偶成」の詩がある。「山海君恩不棄吾。身間休歎□無余。方是清風明月夕。漫対二児論古書。」作者の情懐に大に喜ぶべきものがある。これに次いで「題驟雨孤雀図」の五絶一、「偶作」の七律二、「夜坐」の五絶一がある。「偶作」中にも亦「樗材居世不如愁」、「伝家宝只有書蔵」等の句があつてわたくしの目を惹いた。
 八月十三日は仙駕亭例会の日であつた。宿題は「園中秋草花盛開」で、蘭軒は五絶の体を以て、紫苑、秋海棠、□児(こうじ)、鴨跖草(あふせきさう)、玉簪花(ぎよくさんくわ)、地楡(ちゆ)、沙参(さじん)、野菊(やきく)、秋葵(しうき)の諸花を詠じた。席上課題は「柬友人約中秋飲」で、蘭軒に七絶一があつた。安(いづく)んぞ知らむ、此日菅茶山は神辺(かんなべ)にあつて易簀(えきさく)したのであつた。「病□噎、自春及秋漸篤、終不起、実八月十三日也」と、行状に書してある。
 茶山は死に先つて「読旧詩巻」の五古を賦した。「老来歓娯少。長日消得難。偶憶強壮日。時把旧詩看。」さて生涯の記念を数へてかう云つた。「酔花墨川□。吟月椋湖船。叉手温生捷。露頂張旭顛。」其自註を検すれば、第一は犬塚印南(いんなん)、伊沢蘭軒、第二は蠣崎波響(かきざきはきやう)[#ルビの「かきざき」は底本では「かきさき」]、僧六如(によ)、第三は橋本※庵(とあん)[#「木/(虫+虫)」、7巻-352-下-5]、第四は倉成竜渚(くらなりりゆうしよ)である。「此等常在胸。其状更宛然。瑣事委遺忘。忽亦現目前。」
 蘭軒との交(まじはり)が茶山のために主要なる記念の一であつたことは、此に由つて知られる。

     その百八十

 わたくしは蘭軒の一生を叙して編日の記事をなさむことを努め、此年文政十年八月十三日に□(いた)つて、その師友として待つた所の菅茶山の死に撞著した。茶山集の最尾に「臨終訣妹姪」の詩がある。「身殲固信百無知。那有浮生一念遺。目下除非存妹姪。奈何歓笑永参差。」わたくしは始て読んで瞿然(くぜん)とした。前半は哲学者の口吻と謂はむよりは、寧(むしろ)万有学者の口吻と謂ふべきである。想ふに平生筆を行(や)ることの極めて自在なるより、期せずして道(い)ひ得たのであらう。妹姪(まいてつ)は未だその誰々たるかを知らない。しかし井上氏敬(きやう)が其中にあつたことは明である。
 頼山陽は茶山の病革(すみやか)なるを聞いて、京都より馳せ至つた。しかし葬儀にだに会ふことを得なかつた。「聞病趨千里。中途得訃音。不能同執※[#「糸+弗」、7巻-353-上-9]。顧悔晩揚鞭。」
 茶山の後は姪孫(てつそん)菅(くわん)三惟繩(ゐじよう)が継いだ。関藤々陰(せきとう/\いん)の「菅自牧斎先生墓碣銘」に「茶山先生以儒顕、本藩賜爵禄優待之、比歿、樗平君子孫独先生(自牧斎惟繩)在焉、以姪孫承其後、主郷校、藩給廩米五口、事在文政丁亥」と云つてある。
 九月十三日には上野仙駕亭の詩会が催された。「秋水網舫」、「秋蝶」は其宿題、「秋帆晴景」は其席上課題であつた。網舫(まうばう)の詩は七絶、蝶と晴景(せいけい)とは七律である。別に秋の詩の間に「詠史」七絶二がある。一は仁徳帝、一は漢の張良である。
 冬に入つて十一月に榛軒が女子を挙げたことは、次年戊子元日の詩の註に見えてゐる。歴世略伝を検するに榛軒の子は柏(かえ)、久利(くり)の二女を載するのみである。柏の生れたのは八年の後である。久利の生年は記載して無い。丁亥に生れた女子はその何人(なにひと)なるを詳(つまびらか)にしない。
 わたくしは特にこれを徳(めぐむ)さんに質(たゞ)した。そして久利の生れたのが十年の後なることを知つた。丁亥に生れた女子は名をれんと云つたさうである。然らば榛軒の女は長をれんと云ひ、次を柏と云ひ、季を久利と云つて、独り柏が人と成つたのである。
 十二月には元槧(げんざん)千金翼方(きんよくはう)の影写が功を竣(をは)つた。是も亦次年元日の詩の註に見えてゐる。原本は多紀氏聿脩堂(いつしうだう)の蔵する所である。蘭軒が其抄本に跋したのは十二月三日である。末に「文政十年□月三日、呵筆記於三養堂、時大雪始晴」と書してある。
 千金翼方は千金方と同じく孫思□(そんしばく)の撰と称せられてゐる。千金方には傷寒の治法を詳にしなかつたので、翼方を作つたと云ふのである。「孫氏撰千金方。其中風瘡※[#「癰−隹」、7巻-354-上-8]。可謂精至。而傷寒一門。(中略。)疑未得其詳矣。又著千金翼方。辨論方法。(中略。)為十六篇。分上下両巻。亦一時之新意。此於千金為輔翼之深者也。」
 此書の元槧本は所謂梅渓書院本である。「大徳丁未、梅渓書院梓行」と云つてある。丁未は元の世宗の大徳十一年である。初に孫奇(そんき)、林億(りんおく)等の校正表を載せ、末に後序を載せてある。皆後の刊本の刪除(さんぢよ)する所である。
 蘭軒がこれを影抄し畢(をは)つた時、躋寿館(せいじゆくわん)に又これを影刻する議が起つた。「近頃医官諸君。有醵金影刻此本之挙。正学之余恵被後代。可謂其徳浹渥。抑崇文盛化之所致。豈不欽仰邪。其如此則爾後善本之有刻。日多一日。余蔵多抄本。恐子孫以刻本易得。軽視家蔵。因仔細記之。」
 蘭軒は既に元槧千金方を有してゐたので、其影抄翼方に同一装釘を施して愛蔵した。「余蔵元板前方。今装釘一依其式様。以充聯璧。」
 当時世間に行はれてゐた千金翼方は、乾隆癸未重梓本(ちようしぼん)、王宇泰本(わううたいぼん)等である。

     その百八十一

 蘭軒は此年文政十年十二月三日に影抄元板千金翼方に跋して、偶(たま/\)書の銓択(せんたく)に論及した。其言(こと)頗(すこぶる)傾聴するに堪へたるものがある。
 蘭軒の曰く。「蔵書宜務銓択。始為有識見也。而銓択有二派。好逸書。愛奇文。世所絶少者。雖兎園稗史。必捜得之。是好事蔵家所銓択也。其所蔵不過緊要必読之書。然皆古刻旧鈔。審定真本而蔵之。是正学蔵家所銓択也。要之雖有醇□之別。非有識見。則不能為銓択矣。」
 蘭軒は八十九年前に於て此言(こと)をなした。然るに今の蔵家を観るに二派は猶劃然として分れてゐる。
 方今校刻の業盛に興つて、某会某社と称するもの指※(かゞな)[#「てへん+婁」、7巻-355-上-8]ふるに遑(いとま)あらざる程である。若し貲(し)を投じ盟に加はつてゐたら、立どころに希覯(きこう)の書万巻を致さむことも、或は難きことを必(ひつ)とせぬであらう。
 独り奈何(いかん)せむ、彼諸会社は皆正学と好事との二派を一網打尽せむと欲してゐる。世間好事者の多いことは、到底正学者の比ではない。それ故に会社が校刻書目を銓択するときに、好事者の好に投ずるものが十の八九に居る。その甚しきに至つては初め正学者の用をなすもの一二部を出して、後全く継刊せざるにさへ至る。洵(まこと)に惜むべきことの甚だしきである。
 わたくしの如きは戯曲小説の善本を相応に尊重するものである。多少の好事趣味をも解するものである。しかし書を求むるには自ら緩急がある。限ある財を以て限なき書を買ふことは出来ない。矧(いはむ)や月ごとに数十金を捐(す)てて無用の淫書を買ふは、わたくしの能く耐ふる所でない。
 且啻(たゞ)に兎園稗史(とゑんはいし)を排すべしとなすのみでは無い。史伝を集刊すると称して、絵入軍記を収め、地誌を彙刻すると称して名所図絵を収むるが如きも、わたくしは其意の在る所を解するに苦む。書を買つて研鑽の用に供せむと欲する少数者は、遂に書を買つて娯楽の具となさむと欲する多数者の凌虐(りようぎやく)に遭ふことを免れぬのであらうか。
 設(も)し此に一会社の興るあつて、正学一派のために校刻の業に従事し、毫も好事派を目中に置かなかつたら、崇文盛化(そうぶんせいくわ)の余沢(よたく)は方(まさ)に纔(わづか)に社会に被及(ひきふ)するであらう。
 仄に聞けば、頃日(このごろ)暴富の人があつて、一博士の書を刊せむがために数万金を捐(す)てたさうである。わたくしは其書の善悪を知らぬが、要するに一家言である。これに反して経史子集の当(まさ)に刻すべくして未だ刻せられざるものは、その幾何(いくばく)なるを知らない。世に伝ふる所の松崎慊堂(かうだう)天保十三年の上書(じやうしよ)がある。安井息軒のこれに跋するを見れば、当時徳川家斉の美挙は俗吏賈豎(こじゆ)の誤る所となつたらしい。「潜聴於四方、所刻率誤本俗籍。所謂盛典。半為賈豎射利之挙。」そして慊堂の刻せむと欲した五経、三史、李善註文選(りぜんちゆうもんぜん)、杜氏通典(としつうてん)だに、今に□(いた)つて未だ善本の刻せらるるを見ぬのである。「今此十余種者。半蔵於秘府。固非人間所得窺。而其存於侯国及人家僧院者。地有遠近。人有繁間。苟不梓而広之。其目覩之者能幾人。則雖存猶亡爾。」世遷(うつ)り時易(かは)つて、楓山(もみぢやま)文庫は内閣文庫となり、政府と自治体と競つて図書館を起しても、市に善本なきことは今猶古のごとくである。

     その百八十二

 ※[#「くさかんむり/姦」、7巻-356-下-4]斎詩集には此年文政十年の冬唯七絶二首があるのみである。一は「篠池冬晴」、一は「観猟」で、恐くは皆課題の作であらう。
 此年蘭軒五十一歳、妻益四十五、榛軒二十四、常三郎二十三、柏軒十八、長十四であつた。榛軒の妻勇は其齢(よはひ)を詳にしない。勇の所生(しよせい)の幼女れんは当歳である。
 文政十一年の蘭軒歳首の詩は、前年丁亥の事を叙せむがために、上(かみ)に其註を引いたが、今此に全篇を録する。「戊子元日作。満城晴雪映朝暾。恰是豊祥属正元。笑語熈々春自返。風烟軟々意先暄。家貧猶愛新増帙。身老尤忻初挙孫。別有間遊宜早計。梅花香発遍林園。第五註、客歳十二月元彫千金翼方影鈔卒業、第六註、十一月児厚挙女子、第七八註、臘前梅花半開、信頗異於常年。」
 正月九日の草堂集は例の如くであつた。「山荘春色雪初融。軽暖軽寒梅下風。何識佳賓来満坐。新年勝事属衰翁。」
 わたくしは蘭軒の三男柏軒立志の事を松田道夫さんに聞いた。道夫さんは曾て医を柏軒に学んだ人である。そしてわたくしは聞く所の事の是正月の下(もと)に繋(か)くべきものなるを謂(おも)ふ。此に先づ聞く所を叙することとする。
 某(それ)の歳多紀□庭(たきさいてい)の発会の日に、蘭軒の嫡子榛軒は酒を被(かうむ)つて人と争つた。柏軒はこれを聞いて、霊枢(れいすう)一巻を手にして兄の前に進み、諫めて云つた。人には気血動くの年がある。霊枢年忌の論は恰も我俗に所謂厄年と符してゐる。兄上は今年其時に当つてをられる。聞けば矢の倉の発会に酔(ゑひ)に乗じて争論せられたさうである。是は気血動くの致す所である。願はくは深く自ら□(いまし)めて過を弐(ふたゝ)びせられぬやうにと云つた。そして霊枢を開いて「陰陽二十五人篇」を読んだ。
 榛軒は弟の面を凝視すること良(やゝ)久しく、言はむと欲する所を知らざるものの如くであつた。それは柏軒にして此言(こと)をなすことを予期せなんだからである。
 柏軒は幼時好学を以て称せられてゐた。然るに漸く長じて放縦になり、学業を荒棄し、父兄の戒飭(かいちよく)を受けて改めなかつた。榛軒が柏軒に諫めらるることを予期せなんだ所以である。
 既にして榛軒は思ふ所あるが如くにして云つた。弟、善く言つてくれた。己は言ふ所の事の是非を思つて、これを言ふことの不可なるには思ひ到らなかつた。その持つて来た霊枢を己に譲つてくれい。是は永く忠言を記して忘れぬためだ。己は又お前に此霊枢を贈つて報とする。
 言ひ畢(をは)つて架上の書を取つて柏軒に与へた。同じく是れ霊枢の一書であるが、父蘭軒の手校本である。
 柏軒の退いた後、榛軒は折簡して諸友を招いた。書中には、僕の家に慶事あり、諸君と喜を同じうせむと欲す云云の語があつた。

     その百八十三

 わたくしは松田氏の云ふ所の柏軒立志の事を以て、此年文政十一年正月の下に繋(か)くべきものとした。わたくしは先づ柏軒が兄榛軒を諫めたことを語つた。榛軒が多紀□庭(たきさいてい)の家に於て、被酒(ひしゆ)して人と争つたのを聞き、霊枢年忌の文を引いて諫めたのである。榛軒は諫を納れ、弟の持ち来つた霊枢を乞ひ得て、弟に授くるに父蘭軒の手づから校する所の霊枢を以てした。
 尋で榛軒は諸友を招いて宴を開き、柏軒をして傍(かたはら)に侍せしめ、衆に告げて云つた。今日諸君の賁臨(ひりん)を煩はしたのは、弊堂に一の大いに喜ぶべき事があつて、諸君に其慶を分たむがためである。家弟信重(のぶしげ)は此両三年行に検束なく、学業共に廃してゐた。然るに今春わたくしが□庭先生の発会の日に当つて、飲酒量を踰(こ)え、無用の言説を弄した。信重は霊枢を引いてわたくしを諫めてくれた。わたくしは其切直の言を聞いて、始て信重が志操の疇昔に殊なるを知つた。之子(このし)の前途にはもはや憂慮すべきものが無い。わたくしは諸君と共に刮目して他年の成功を待たうとおもふ。
 柏軒はこれを聞いて、汗出でて背(そびら)に浹(とほ)つた。此日の燕集が何のために催されたかは、その毫も測り知らざる所であつた。柏軒は此より節を折つて書を読んだと云ふのである。
 柏軒は後屡(しば/″\)人に語つて、「己は少(わか)い時無頼漢であつた」と云つた。志気豪邁にして往々細節を顧みなかつたのださうである。然るに一朝擢(ぬきん)でられて幕府の医官となり、法眼に叙せられ、閣老阿部正弘の大患に罹るに及んでは、単身これが治療に任じ、外間謗議の衝に当つた。全く是れ榛軒が激□(げきれい)の賜であつた。
 此事は独り松田氏が聞き伝へてゐるのみではなく、渋江保さんの如きも母五百(いほ)に聞いて知つてゐる。しかしその何(いづ)れの年にあつたかを詳(つまびらか)にしない。或は蘭軒歿後の事だとも云ふ。わたくしは敢て其時を推窮して戊子の正月とした。按ずるに蘭軒の歿前一二年間の事は、口碑に往々伝へて歿後の事とせられてゐる。彼榛軒合※(がふきん)[#「丞/巳」、7巻-359-上-9]の時の如きもさうである。榛軒が弟を激□した時も亦此類ではなからうか。
 然らばわたくしが戊子とするのは何に拠るか。わたくしは霊枢の文に就いて考ふるのである。柏軒は兄を諫むるに霊枢の「陰陽二十五人篇」を引いた。二十五人とは金木水火土の五形を立し、其五色を別つて二十五人とする。木形に上角(しやうかく)、大角、左角、□角(ていかく)、判角あり、火形に上徴(しやうちよう)、質徴、少徴、右徴、質判(しつはん)あり、土形に上宮(しやうきゆう)、大宮、加宮、少宮、左宮あり、金形に上商(しやうしやう)、□商(ていしやう)、左商、大商、少商あり、水形に上羽(しやうう)、大羽、少羽、衆、桎(ちつ)がある。西洋の古い病理にタンペラマンを分つ類である。そして所謂年忌は形と色(しよく)との相応せざるより生ずる。「十六歳。二十五歳。三十四歳。四十三歳。五十二歳。六十一歳。皆人之太忌。不可不自守也。感則病行。失則憂矣。当此之時。無為姦事。是謂年忌。」試に榛軒の年歯を以てこれに配するに、其十六、二十五、三十四、四十三、五十二、六十一は文政己卯、戊子、天保丁酉、弘化丙午となる。そして安政乙卯の五十二は歿後四年、元治甲子の六十一は歿後十二年となる。按ずるに文政己卯は柏軒甫(はじめ)て十歳で、藩主の賞詞を蒙つた直前である。是は蚤(はや)きに失する。天保丁酉は柏軒が既に二十八歳になつてゐる。その学に志した時が二十前後であつたと云ふに契(かな)はない。是は晩(おそ)きに失する。柏軒が兄を諫め、榛軒が弟を奨(はげ)ました時は文政戊子ならざることを得ぬのである。
 榛軒詩存に「贈柏軒」の七絶がある。題下に「柏軒来諫過酒」と註してある。或は此時の作ではなからうか。詩存は富士川游さんの所蔵の写本である。惜むらくは編年でないので、「贈柏軒」の詩の如きも、何れの年に成つたかを知ることが出来ない。詩は思ふ所あつて略する。

     その百八十四

 此年文政十一年二月には、詩会が上野仙駕亭に催された。其日は十三日であつた。蘭軒は宿題「城門春望」、席上題「新闢小園」の七律各一首、「席上次森立夫韻」の七絶一首を獲た。わたくしは此に其絶句のみを録する。「世路風塵不耐多。池亭相値聴高歌。無端破得胸中悪。漫把□船巻酒波。」枳園立之(きゑんりつし)は此年二十二歳、稍(やゝ)頭角を露(あらは)した時であつただらう。
 蘭軒の門人等が「蘭軒医話」を著録したのは此比(ころ)の事であつたらしい。此書は其筆授者に従つて異同がある。山田椿町(ちんてい)の校本には「附録一巻」があつて、此二月十四日の識語がある。椿町は当時二十一歳、枳園より少(わか)きこと一歳であつた。椿町又椿庭に作る。名は業広(げふくわう)、通称は昌栄(しやうえい)である。
 詩集に二月の詩と三月の詩との間に「送金子正蔵帰省加賀」の七律がある。加賀の金子正蔵の事は他に所見が無い。「征馬驕春立柳辺。暫時此別不悵然。信山雲擁羊腸路。越海濤涵鵬翼天。帰装頼将裁錦巧。高堂兼作舞衣鮮。重来有約君休背。新著期成書廿篇。」末句の下に「生註荀子故及之]の註がある。題に帰省と云ひ、詩に第六句があるを見れば、金子は故郷に親があつた。
 三月の詩会は十九日に千駄木村植緑園(しよくりよくゑん)に催された。宿題は「題嵐山図」、席上題は「山村春晩」で、蘭軒は七絶各二を作つた。詩は略する。
 植緑園の詩会の次に、集は幕府医官岡某の宴を載せてゐる。引に云く。「清明前一日。岡医官台北別墅迎飲。余語医官命信恬陪侍。臥病不能従。岡君有詩。恭次芳韻奉呈。」岡某は上野の北に別荘があつて、宴はそこに開かれた。蘭軒は余語古庵の紹介に由つて招かれたが、病を以て辞した。そして主人の詩に次韻して贈つた。詩は五律である。今省く。
 武鑑を検するに、当時岡氏は父子共に西丸に勤めてゐた。父は「岡了節法眼、奥御医師三百五十石、本郷大根畑」、子は「岡了允法眼、父了節」と記してある。余語古庵の名は寄合医師中に見えてゐる。
 四月六日には蘭軒が杜鵑花(つつじ)を百々桜顛(とゞあうてん)の家に賞した。同遊者は榛軒、柏軒、山室士彦(やまむろしげん)、石坂白卿(はくけい)であつた。百々桜顛、名は篤(とく)、字(あざな)は敬甫(けいほ)、後年屡(しば/″\)榛軒、門田(もんでん)朴斎等と往来した形迹がある。海内偉帖(かいないゐてふ)に「福山藩中」と註してある。杜鵑花は其父の栽ゑた木であつた。山室は茶山集の詩に、「病中七夕山室子彦、河村士郁来」の七律があつて、其第四に「偶有台中二妙尋」と云つてある。若し士彦と子彦とを同じだとすると、此人は四年前に備後にゐたこととなる。石坂は未だ考へない。「四月六日、百々桜顛宅集、園有杜鵑花数株、其先人所栽、与山室士彦、石坂白卿及厚重二児賦。深園雨過緑陰重。更見杜鵑花稍□。都是君家遺愛樹。灌培不改旧時容。」
 十三日に蘭軒は詩会を横田雪耕園(よこたせつかうゑん)に催した。宿題は「題江島石壁」席上題は「卯飲」で、蘭軒の作は彼に七絶一、此に三がある。「卯飲」の一に「卯飲解酲有何物、売来蛤蜊過門渓」の句があつて、「売蛤漢自行徳浦来、毎在日未出時」と註してある。売蛤者(ばいかふしや)の行徳(ぎやうとく)より来ることは、今も猶昔のごとくなりや否や。

     その百八十五

 此年文政十一年五月の詩会は酌源堂(しやくげんだう)に於て催された。宿題は「採薬」で、蘭軒は「倣薬名詩体」の五律を作つた。「採薬遇天晴。青籃掛杖行。途平蓬野濶。苔滑石橋横。林薄荷□入。池塘洗艸清。吾家間事業。不是学長生。」第一には天精(てんせい)がある。天精は地骨皮(ちこつひ)の別名である。晴は精と通ずる。第二には藍がある。籃藍は相通(さうつう)である。第三には萍(へい)がある。平は萍と通ずる。第四には滑石(くわつせき)がある。第五に薄荷(はくか)がある。第六に※草(せんさう)[#「くさかんむり/倩」、7巻-362-上-9]がある。洗※[#「くさかんむり/倩」、7巻-362-上-10]は相通である。第七に五加(ごか)がある。五加と吾家とは音通である。第八に長生がある。長生は□活(きやうくわつ)の別名である。
 五月と六月との詩会の間に、「竹酔日草堂小集」の作がある。題は「梅雨新晴」で、蘭軒は七律一を作つた。
 六月の詩会は仙歌亭に於て十三日に催された。仙歌亭は恐くは上野仙駕亭であらう。宿題は無い。席上題は「池亭観蓮」で、蘭軒に七絶一がある。其次に山室士彦を送る詩があつて、「与諸君同池亭看蓮、時山室兄将還郷、乃奉呈」と題してある。想ふに仙歌亭の宴が祖筵を兼ねてゐたのであらう。「荷花万頃競嬌□。筆硯杯盤香気飄。詞賦君裁雲錦色。携帰宜向故園驕。」
 六月と七月との詩の間に、「賜題」と註した二首の詩がある。題は「放螢」、「摘枇杷」で、阿部正寧(まさやす)の賜ふ所であらう。蘭軒は七絶各一を作つた。別に「侍筵賜題并韻」と註した一首がある。題は「池辺納涼」で、蘭軒は五絶一を作つた。此三首の次に尚「題坡仙赤壁図」の七絶一がある。
 七月十五日に「七月既望即事」の詩がある。「露蕉風竹影婆娑。又是良宵病裏過。江上泛舟看月客。詩思飲興百東坡。」
 七月と八月との詩の間に、「送山村士彦帰福山」、「恭次高韻、時駕将帰藩」の二詩がある。
 山村は恐くは山室の誤であらう。詩は一韻到底(ゐんたうてい)の五古で、其中に就いて士彦の身上の事二三を知ることが出来る。士彦の福山藩士なることは、独り題に「帰福山」と云ふより推すべきのみでは無い。「我藩士彦君。温性而雄志。」士彦は寛政十一年生で、戊子には三十歳であつた。「君劣卅平頭。少於吾廿二。」士彦は曾て菅茶山の塾にゐて、後に藤某(とうぼう)の門に入つた。その甲申の歳に神辺(かんなべ)にゐた子彦なることは復(また)疑を容れない。藤某は恐くは佐藤一斎であらう。「嘗居菅子家。詞藻摘花粋。近入藤翁門。道機披帳秘。」士彦が郷に帰るのは、父の病めるが故である。そして其発□(はつじん)は七月中であつた。「節惟当孟秋。忽爾説帰思。非是想※[#「くさかんむり/純」、7巻-363-上-13]鱸。昨逢郷信寄。家翁報抱痾。胸臆真憂悸。」蘭軒は士彦の父の病の□(い)ゆべきを説いてこれを慰め、その再び江戸に来て業を畢(を)へむことを勧めてゐる。「椿堂元健強。微恙愈容易。重作東来謀。偏期夙望遂。(中略。)登躋斯崑岡。幸増君腹笥。」
 後に浜野福田両氏に聞けば、山室子彦、名は俊(しゆん)、通称は武左衛門、汲古(きふこ)と号した。其父名は恭、箕陽(きやう)と号した。
 阿部正寧に次韻した詩は七絶である。正寧の帰藩の月日は、伯爵家の記録を検して知ることが容易であらう。「干旄孑孑上途程。千騎従行秋粛清。遙想仁風吹遍処。満疆草樹報歓声。」

     その百八十六

 此年文政十一年八月には、蘭軒に「中秋無月」の七絶がある。次に秋季の詩が五首ある。「秋日偶成、次茶山菅先生韻」三首、「園楓殊紅、和多田玄順所贈、云是立田種」一首、並に七絶である。茶山の集に就いて原唱を求むるに、文化丙子の「秋月雑詠十二首」が即是で、蘭軒は其第二、第三、第六、第八に次韻したのである。此に二家の最初の作を挙げる。茶山。「鳳仙頗美冶容多。鶏髻雖妍色帯奢。此意吾将問蝴蝶。不知尤愛在何花。」蘭軒。「我圃秋芳誇許多。更無一種渉驕奢。最堪愛処知何是。高格清香楚□花。」後者の詠ずる所は例の蘭草(らんさう)の藤袴(ふぢばかま)である。園楓(ゑんふう)は和多田玄順(わただげんじゆん)の貽(おく)る所の種(たね)だと云つてある。和多田の名は門人録に見えて、下に「岡崎」と註してある。
 十月に蘭軒は小旅行をしたらしい。集に「初冬山居」の七絶二、「冬日田園雑興」の七絶一があつて、就中(なかんづく)山居の一は題を設けて作つたものとは看做(みな)し難い。「近日山村奢作流。小春時節襲軽裘。約期争設開炉宴。菟道茶商来滞留。」当時茶の湯の盛に行はれた山村は何処であらうか。
 十一月十日に蘭軒の幼女万知(まち)が歿した。母は側室佐藤氏である。先霊名録に覚心禅童女の法諡(はふし)が載せてある。恐くは生後幾(いくばく)ならずして夭したのであらう。
 按ずるに蘭軒の女(ぢよ)は文化乙丑に長女天津(てつ)が夭し、壬申に二女智貌童女が夭し、文政癸未に四女順が夭し、今又五女万知が夭した。その僅に存するものは文化甲戊生の三女長(ちやう)一人である。
 蘭軒は平素身辺に大小種々の篋(はこ)を置いた。恐くは小什具(せうじふぐ)を貯へ、又書紙を蔵(をさ)むる用に供したのであらう。起居不自由なる蘭軒が篋□(けふひ)の便を藉ることの多かつたのは、固より異(あやし)むに足らない。世の口さがなきものは、その数(しば/\)女児を喪ふを見て、一の狂句を作つた。「箱好が過ぎて娘を箱に入れ。」
 十二月四日に榛軒の長女れんが夭した。法諡幻光禅童女である。
 此年戊子の除日は蘭軒がためには最終の除日であつた。「歳晩偶作。臘節都城閙。間窓足欠伸。堅晴梅蕋馥。奇暖鳥声春。老応居人後。楽何関屋貧。近来頻哭友。徒寿笑吾身。」蘭軒は二年前に棕軒侯を哭し、前年に茶山を哭した。落莫の感なきことを得なかつたであらう。「近来頻哭友。徒寿笑吾身。」
 集中此年の詩は大半柏軒の浄書する所である。六月後には蘭軒は一首をだに自書してゐない。
 此年市野氏では迷庵の子光寿が四十一歳になつてゐた。狩谷氏では隠居□斎が五十四歳、戸主懐之(くわいし)が二十五歳であつた。多紀氏では矢の倉の□庭(さいてい)が三十四歳、向柳原(むかうやなぎはら)の宗家は前年柳□(りうはん)が歿して、暁湖(げうこ)の世になつてゐた。蘭軒の門人中渋江抽斎は二十四、森枳園は二十二であつた。
 頼氏では山陽が此春水西荘に山紫水明処を造つた。「却向東南贅一室。要将三面看梅花。」
 是年蘭軒五十二、妻益四十六、榛軒二十五、常三郎二十四、柏軒十九、長十五であつた。榛軒の妻勇(ゆう)は年紀不詳である。

     その百八十七

 文政十二年は蘭軒終焉の年である。「己丑元旦」の詩は榛軒(しんけん)が浄書してゐる。「三冬無雪梅花早。一夜生春人意寛。卜得酔郷今歳富。尊余臘酒緑漫々。」語に毫も衰残の気象を認めない。蘭軒は、脚疾を除く外、年初に猶身体の康寧(かうねい)を保つてゐたかとおもはれる。
 二月二日に蘭軒の次男常三郎が歿した。幼(いとけな)くして明(めい)を失し、心身共に虚弱であつたさうである。常三郎は父に先(さきだ)つこと四十五日にして歿したのである。文化乙丑に生れて、二十五歳になつてゐた。
 五日に蘭軒の妻益(ます)が歿した。其病(やまひ)を知らない。曾て除夜に琴を奏して慰めたと云ふ盲児(まうじ)常三郎に遅るること僅に三日、夫に先つこと四十二日にして歿したのである。益は天明三年に飯田休庵の女(ぢよ)として生れ、年を享くること四十七歳であつた。法諡(はふし)を和楽院潤壌貞温(わらくゐんじゆんじやうていをん)大姉と云ふ。
 十五日に蘭軒は友を会して詩を賦した。推するに未だ致死の病に襲はれてゐなかつたやうである。集に存ずる所の三絶句の一は、亡妻を悼(いた)んで作つたものらしい。「二月十五日夜呼韻。風恬淡靄籠春園。遠巷誰家笑語喧。零尽梅花枝上月。把杯漫欲復芳魂。」
 三月十七日に蘭軒は歿した。足疾は少壮の時よりあつて、蹇(あしなへ)となつてからも既に十七年を経てゐる。しかし此人の性命を奪つたのは何の病であらうか。口碑の伝ふる所のものもなく、記載の徴すべきものもない。三十二日前に夜友を会して詩を賦したことを思へば、死の転帰を見るべき病は、当時猶未だ其徴候を呈せなかつたであらう。推するに蘭軒の病は急劇の証であつたと見える。以上書き畢(をは)つた後、徳(めぐむ)さんの言(こと)を聞けば、蘭軒夫妻と常三郎とは同一の熱病に罹つたらしく、柏軒も亦これに侵されて頭髪が皆脱したさうである。此に由つて観れば、此病を免れたものは榛軒夫婦のみであつた。
 蘭軒は安永六年十一月十一日に生れたから、年を享くること五十三である。法諡を芳桜軒自安信恬(はうあうけんじあんしんてん)居士と云ふ。
 蘭軒の墓は麻布の長谷寺(ちやうこくじ)にある。笄坂上(かうがいざかうへ)を巡査派出所の傍(かたはら)より東に入つて、左折して衝き当れば、寺門がある。門内の右方(いうはう)には橋本箕山(きざん)の碑がある。東京の最大碑の一である。本堂前より左すれば、高く土を封じた松平正直の墓がある。其前の小径の一辺に、蘭軒夫妻の墓は、後に葬られた嗣子榛軒の墓と並んで立つてゐる。
 伊沢分家の口碑は蘭軒歿時の話柄(わへい)二三を伝へてゐる。蘭軒の姉正宗院(しやうそうゐん)は溜池より来て、弟の病牀に侍してゐた。尋(つい)で弟の絶息した後、来弔の客を引見した。蘭軒の門人某の父が来て痛惜の情を□(の)べた。正宗院は云つた。
「わたくしも惜しい事だと存じてをります。わたくしが代つて死なれるものなら死にたいと存じましたが、どうも致し方がございませんでした。」
「さやうでございます。それはあなたが先生の代にお死なさつたら、大勢の諸生がどの位喜んだか知れません。」これが門人の父の答であつた。
 正宗院は瞠目(だうもく)して言ふ所を知らなかつた。しかし客の去つた後、其淳樸を賞した。

     その百八十八

 蘭軒が此年文政十二年三月十七日に歿した時、今一つの話柄があつて、伊沢分家の口碑に遺つてゐる。それは歿後幾(いくばく)もなく初夏の季に入つて、誰やらが「大声の耳に残るや初鰹」の句を作つたと云ふことである。
 蘭軒は平生大声で談(はな)し、大声で笑つた。俗客の門(かど)に来るときは、諸生をして不在と道(い)はしめた。諸生が或は躊躇すると、蘭軒は奥より「留守だと道へ」と叫んだ。其声は往々客の耳にも入つたさうである。
 嘗て自ら笑仙(せうせん)と号したのも、交遊間に「蘭軒の高笑(たかわらひ)」の語が行はれてゐたからである。
 菅茶山は毎(つね)に「大声高笑(おほごゑたかわらひ)」の語を以て蘭軒に戯れた。此に茶山の書牘一通があつて、文中に此語が見えてゐる。書牘は文化丙寅六月十九日に茶山が蘭軒の父信階(のぶしな)に与へたもので、文淵堂の花天月地(くわてんげつち)中に収められてゐる。
 丙寅は蘭軒の長崎に往つた年である。茶山はこれを七日市(なぬかいち)へ迎へ、神辺に伴ひ帰つて饗応し、又尾道まで見送つた。書牘は此会見の状況を江戸にある蘭軒の父に報じたものである。わたくしは前(さき)に蘭軒の長崎行を叙した時、未だ花天月地を見なかつたので、此文を引くことが出来なかつた。文は下(しも)の如くである。
「時下大暑の候御坐候。弥御揃御安祥被成御坐候覧、奉恭賀候。」
「扨めづらしく辞安様御西遊、おもひかけなくゆる/\御めにかかり、大によろこび申候。大坂より御状下され、此たびのこと御申しこしなされ、おどろき申候。御とまりは七日市と申所、わたくし家神のべと申より東三里ばかり也。さつそく参候而(まゐりそろて)、一夕御はなしども承候、第一ことのほか御すくやかなる御様子、大ごゑたかわらひもへいぜいのとほり、すこしもたびの御つかれなく、めづらしき山川ここかしこ御なぐさみおほく候よし。御奉行様御おぼえもめでたく、あまりにしたしくなし下され、同行(どうぎやう)のてまへすこしきのどくなるくらゐに御坐候よし。さて六月十七日あさ、わたくし方へ御いでなされ候。御たびかけのこと、しな/″\御みやげ等下され、いたみ入かたじけなく奉存候。妻(さい)姪(てつ)どももまかり出、御めにかかり候。九つ時分御立なされ、御いとまごひ申候へども、とかく御名ごりをしく、尾道と申まで、西南六里、御あとより追かけ候而(て)、また一夜御はなし申候。御しよくじなどもよくなされ候。これは少々御ひかへなされと申候ほどのことに候。」
「右御様子申上度、且又御状一通御届申候ため、一筆啓上仕候。暑甚御坐候。御保護専一奉祈候。恐惶謹言。六月十九日、菅太中。伊沢長安様。」
「十七日一夜をのみちにて御はなし承、早朝御立にて御坐候。わたくしは其日すこし休息いたし帰宅仕候。十八日夜也。」
「尚々御次(おんついで)御内上(おんうちうへ)様、辞安様御内政(ごないせい)様へ宜奉願上候。
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