伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

     その百五十七

 わたくしは蘭軒の事蹟を叙して此年文政七年の秋に至り、八月十五日の夜、蘭軒が江戸に於て無月に遭ひ、菅茶山が神辺に於て良夜に会したことを言つた。茶山は良夜には会したけれども、歓(よろこび)を成すことを得なかつた。それは半月前に姪孫女を失つたからである。わたくしは系図と茶山の書牘とに由つて、此女児の誰なるかを検せようとした。
 わたくしは便宜上先づ茶山の書牘を挙げたい。しかし此書牘は月日(げつじつ)を闕いてゐて、只其内容より推して八月十七日後、少くも十数日を経て書いたものなることが知られるのである。それゆゑわたくしは此に先づ八月十七日前の事を略記して置いて、然る後に茶山の書牘に及ぶことゝする。
 八月十六日は蘭軒が何事をも記してゐない。茶山は二客と倶に酒を飲んだ。宵闇の後、明(あけ)近くなつて月を得た。「向暁門前笑語攅。喧言明月現雲端。」
 十七日は北条霞亭の一週年忌である。江戸では蘭軒が柴山某等と共に墓に詣でた。事はわたくしの将(まさ)に引かむとしてゐる茶山の書牘中にある。神辺では茶山が明月の下に詩を賦して哀(あい)を鳴らした。「十七夜当子譲忌日。去歳今宵正哭君。遠愁空望海東雲。備西城上仍円月。応照江都宿草墳。」
 さて月日不詳の茶山の柬牘は下(しも)の如くである。是も亦饗庭篁村さんの蔵する所に係る。
「御返事。」
「公作(こうのさく)御次韻(ごじゐん)御前へ出候由、大慶仕候。元来局束(きよくそく)にこまり候故、次韻は別而出来兼候。御覧にも入候而、御称(おんしよう)しも被下候由、難有仕合に奉存候。」
「拙集はよほど前に大坂飛脚に出し候。とく参候半(まゐりさふらはん)と被存候処、今以不参候よし、いよ/\不参候はば又之便に御申こし可被下候。吟味可仕候。」
「度々御前へ御出被成候よし委曲被仰下、於私(わたくしにおいて)も拍悦の御事に候。」
「妙々奇談珍敷奉存候。一覧直に宜山(ぎざん)へ遣し候。」
「御三男様御作吐舌(したをはき)申候。被仰候事を被仰下、辞気藹然(じきあいぜん)感じ申候。私方(わたくしかた)菅(くわん)三も十五になり候。詩少しつくらせ候へ共きこえ不申候。」
「鵬斎ながき事有之まじく候由気之毒に候。焚塩(やきしほ)すきと承(うけたまはり)、よき便あらばと存候へ共、さ候へば却而(かへつて)邪魔ものなるべし。」
「木駿卿(もくしゆんけい)前遊に逢不申、今以て残念に候。宜被仰可被下候。」
「此比霞亭一週忌柴山(しばやま)など墓参被成下候由、宜御礼御申可被下候。」
「中秋光景被仰下忝奉存候。備後の中秋有拙詩、うつさせ指上候。悪作御一笑可被下候。」
「扨おとらへよき物被下忝奉存候。然所流行痢疾(りしつ)にて八月三日相果候。(廿八日よりわづらひ付候は夜四つ時、死候は朝五つ時、其間三日計(ばかり)也。)お敬はじめ哀傷御憐察可被下候。」
「玄間学屈原候こといかなるわけに候哉。国に居候時も阿堵(あと)に不埒多きをのこ、定而(さだめて)其事なるべし。しかし何処へ行ても一あてはあてるをのこ、仙台か金沢へゆくもよかるべきに、可惜ことに候。」
「梧堂金輪時々おもひ出候。和尚に御逢被成候はば、宜御申可被下候、草々。晋帥拝白。」

     その百五十八

 わたくしの引いた所の菅茶山の書牘が、此年文政七年八月十七日の後少くも十数日を経て作られたと云ふことは、蘭軒等が北条霞亭の忌辰に当つて、其墓に詣でたのが、既に茶山に知られてゐるを以て証することが出来る。蘭軒と同じく墓を訪うた柴山(しばやま)は、嘗て蘭軒の集に見え、又狩谷□斎の元応音義(げんおうおんぎ)の跋に見えてゐる柴担人(さいたんじん)ではなからうか。蘭軒は又柴山謙斎と云ふものの家に往つて詩を賦したことがある。謙斎と担人とは同人か異人か。此には暫く疑を存して置く。
 わたくしは書牘の月日を推定せむがために、既に「霞亭一周忌」云々の段を挙げて、今直(たゞち)にこれに接するに新に亡くなつた女児の事を以てする。是は甲申中秋の月が照すに及ばなかつた黄葉村舎牀頭の小珠(せうじゆ)の何物なるかを究めむがためである。
 女児は名を「おとら」と云つたらしい。文中此仮名の三字は頗る読み難い。わたくしは字画をたどつて「おとら」と読んだ。しかし「おとう」とも「おこう」とも読まれぬことは無い。
 蘭軒はおとらに物を贈つた。然るに物の到つた時、おとらは既に死んでゐた。七月二十八日亥の刻に流行性痢疾の徴を見、八月三日辰の刻に死んだのである。甲申の七月は小であつたから、発病より死に至るまでは陰暦の五十一時間である。茶山は約して「其間三日許に候」と云つてゐる。
 おとらが死んでから第十三日が八月既望(きばう)である。「十五夜」の詩の註には「半月前喪姪孫女」と云つてある。牀頭の小珠が此おとらであることは固より疑を容れない。
 然らばおとらは誰の子か。姪孫女(てつそんぢよ)とは茶山の同胞の子の娘か、将(はた)茶山の同胞の孫の女(むすめ)か。わたくしは菅波高橋両家の系図を披(ひら)いて見た。茶山の弟汝□(じよへん)、晋宝(しんはう)、妹ちよ、まつには皆子があり、其子に女があり、中に夭折した女がある。わたくしは其中に就いて捜すこととした。何故と云ふに更に下ること一代となると、年月が合はなくなるからである。例之(たとへ)ば弟汝□の子万年(まんねん)の女類は夭折の年月或は契合すべく、更に下つて万年の子菅(くわん)三の女通(つう)となると、明に未生(みしやう)の人物となる。
 わたくしの捜索の範囲は茶山の書牘の一句に由つて頗る狭められた。それは「お敬はじめ哀傷御憐察可被下候」の語である。敬は亡くなつた女の母らしい。
 男系より見れば敬は茶山の弟汝□の子万年に嫁した婦(よめ)である。女系より見れば敬は茶山の妹ちよの井上正信に嫁して生んだ女である。
 しかし万年と敬との間には女子が無い。系図は敬の女(むすめ)を載せない。
 是に於てわたくしは、彼牀頭の小珠が北条霞亭の敬に生ませた女だらうと云ふことに想ひ到つた。おとらは山陽の「生二女、皆夭」と書した二女の一であるらしい。若しさうだとすると、未亡人敬の帰郷の旅は幼女を伴つた旅であつたこととなる。又蘭軒は前年見送つて江戸を立たせた孤(みなしご)に物を贈つたこととなる。

     その百五十九

 わたくしの上(かみ)に引いた菅茶山の此年文政七年旺秋後の書牘には、直接間接に十三人の事が見えてゐる。其中わたくしは既に第一故北条霞亭、第二霞亭の未亡人敬、第三其幼女とら、第四霞亭の墓に詣でた柴山某の四人に関する書中の二節を挙げて、これが解釈を試みた。
 第五は書の首(はじめ)に見えてゐる棕軒侯である。侯は茶山の次韻の詩を見て称讚した。「中歳抽簪為病痾」の七律とこれに附した八絶とである。茶山は「御覧にも入候而御称しも被下候由、難有仕合に奉存候」と云つてゐる。茶山は又蘭軒が侯に親近するを聞いて、友人のために喜んでゐる。「度々御前へ御出被成候よし、委曲被仰下、於私も拍悦之御事に候。」
 第六は侯の儒臣鈴木宜山(ぎざん)である。蘭軒は江戸に於て妙妙奇談の発刊せらるるに会ひ、一部を茶山に送致した。茶山は読み畢(をは)つて、これを宜山の許(もと)に遣つた。宜山は福山にあつて大目附を勤めてゐたのである。
 第七は侯の医官三沢玄間である。書に「学屈原候こといかなるわけに候哉」と云つてある。これはどうしたと云ふのであらうか。水に赴いて死したのであらうか。玄間は俗医にして処世の才饒(おほ)き人物であつたらしい。初め町医より召し出された時、茶山はこれを蘭軒に報じて、その人に傲(おご)る状を告げた。今其末路を聞くに及んで、「国に居候時も阿堵に不埒多きをのこ、定而其事なるべし」と云つてゐる。しかし茶山が哀矜(あいきよう)の情は、其論賛に仮借の余地あらしむることを得た。「しかし何処へ行ても一あてはあてるをのこ(中略)可惜ことに候。」
 第八は亀田鵬斎である。当時既に中風の諸証に悩されてゐた。「ながき事有之まじく候よし気之毒に候。」茶山は鵬斎の焼塩を嗜(たし)むことを知つてゐて、便(たより)を待つて送らうとおもつてゐた。しかし蘭軒の病状を報ずるに及んで躊躇した。「さ候へば却而邪魔ものなるべし。」
 想ふに茶山は鵬斎死期の近かるべきを聞いてゐて、妙々奇談中鵬斎を刺(そし)る段を読み、「気之毒」の情は一層の深きを加へたことであらう。譏刺(きし)は立言者(りつげんしや)の免れざる所である。死に瀕する日と雖も、これを免るることは出来ない。
 蘭軒の予後は重きに失した。鵬斎は余命を保つこと猶一年半許(きよ)にして、丙戌の暮春に終つた。此時七十三歳で、歿した時は七十五歳であつた。
 第九は木村定良(さだよし)、第十は石田梧堂、第十一は金輪寺混外(こんりんじこんげ)で、皆茶山が蘭軒をして語を致さしめた人々である。中に就いて木村は茶山が甲戌乙亥の遊に相見ることを得なかつたために、茶山は今に□(いた)るまで憾(うらみ)とすると云つてゐる。
 第十二第十三は蘭軒の三子柏軒と茶山の養嗣子菅(くわん)三惟繩(ゐじよう)とである。蘭軒は柏軒の詩を茶山に寄示(きし)した。茶山はこれを称(ほ)めて、菅三の詩の未だ工(たくみ)ならざることを言つた。書に「菅三も十五になり候」と云つてある。然らば惟繩は文化七年の生であらう。敬は霞亭に嫁する五六年前に、とらと其姉妹との異父兄惟繩を生んだのである。

     その百六十

 菅茶山の此年文政七年旺秋後の書牘中、わたくしの註せむと欲する所は概ね既に云つた如くである。しかし猶茶山の蘭軒に送つた詩集の事が遺つてゐる。「よほど前に大坂飛脚に出し候」と云ふ詩集が久しく蘭軒の許(もと)に届(いた)らなかつた。
 按ずるに是は「黄葉夕陽村舎詩後編」である。此書には「庚辰孟夏日」の武元君立(たけもとくんりつ)の書後、「辛巳十二月」の北条霞亭の序がある。辛巳は霞亭の江戸に入つた年である。わたくしは前に辛巳五月二十六日に茶山が霞亭に与へた書の断片を引いて、「先右序文いそぎ此事のみ申上候」とある序文は何の序文なるを詳(つまびらか)にせぬと云つたが、今にして思へば茶山が詩集後篇の序文を霞亭に求めたことは、復(また)疑ふことを須(もち)ゐない。既にして詩集後編は発行せられた。其奥附には「文政六年歳次癸未冬十一月刻成」と記してある。校閲は庚辰に終り、序文は辛巳に成り、剞□(きけつ)は癸未に終つた。その市に上つたのは恐くは甲申の春であらう。茶山は当時直(たゞち)に一部を蘭軒に寄せたのに、其書が久しく届かずにゐたのである。
 詩集の事よりして外、わたくしは今一つ此に附記して置きたい。それは茶山の病の事である。行状に拠るに茶山は「□噎」を病んで歿した。当時病牀に侍した人の記録は、一としてわたくしの目に触れぬから、わたくしは明確に茶山の病名を指定することは出来ない。しかし推するに茶山は食道癌若くは胃癌に罹つて歿したのであらう。
 わたくしの附記して置きたいのは、茶山の病が独り此消食管(せうしよくくわん)の壅塞(ようそく)即(すなはち)所謂(いはゆる)□噎(かくえつ)のみではなかつたと云ふことである。わたくしは上(かみ)の甲申旺秋後の茶山の書牘を引くに当つて、其全文を写し出した。しかし彼書牘には尚傍註の一句があつた。そしてそれが括弧内にも収め難いものであつた。茶山は病める鵬斎に焼塩を送らむと欲して、その病の篤きを聞いて躊躇した。「さ候へば却而邪魔ものなるべし。」此「而」の字の中の縦線二条が右辺(いうへん)に逸出(いつしゆつ)してゐる。茶山は「而」の字より横に一線を劃して一句を註した。「この而のか様になり候様に引つける也。」乃(すなは)ち知る、茶山は上肢に痙攣を起すことがあつたのである。是は恐くは消食管壅塞の病に聯繋した徴候ではなからう。恐くは別の病証であらう。専門臨床家の説が叩きたいものである。
 わたくしは上(かみ)に此年の北条霞亭一週忌の事を言つた。江戸に於ては蘭軒や柴山某等が巣鴨真性寺の墓に詣で、神辺に於ては茶山が月下に思を墓畔の宿草(しゆくさう)に馳せた。わたくしは既に甲戌に茶山の江戸に入つたことを言つて、其留守居の霞亭なりしことに及んだ。霞亭を説くこと一たびである。次に辛巳に霞亭の江戸に入つたことを言つた。霞亭を説くこと二たびである。次に癸未に霞亭の歿したことを言つた。霞亭を説くこと三たびである。今其一週忌に当つて、又霞亭の事を言ふ。即ちこれを説くこと四たびである。そして料(はか)らずも其一女の名を発見することを得た。
 しかし諸友はわたくしのために霞亭の遺事を捜索して未だ已まない。わたくしは読者に寛宥(くわんいう)を乞うて、下(しも)に少しく諸友の告ぐる所を追記しようとおもふ。

     その百六十一

 わたくしは此年文政七年の北条霞亭一週忌の事を言つた。そして新に得たる史料に拠つて、霞亭の遺事を其後に追記しようとおもふ。史料とは何であるか。その最も重要なるものは第一、「北条譲四郎由緒書」である。是は浜野知三郎さんが阿部家の記録に就いて抄写して示した。次は第二、「楝軒詩集」である。是は福田禄太郎さんが写して贈つた。最後に第三、嚢里(なうり)に関する故旧の談話である、是も亦浜野氏の教ふる所である。
 霞亭解褐(かいかつ)の年は、わたくしは岡本花亭の尺牘に本づいて辛巳となした。花亭は壬午九月四日に「去年福山侯の聘に応じ解褐候」と云つてゐる。
 しかし花亭の語は詳(つまびらか)でなかつた。由緒書に徴するに、「文政二卯四月十七日五人扶持被下置、折々弘道館へ出席致世話候様」と云つてある。山陽の「福山藩給俸五口、時召説書」と書したのが是である。花亭は解褐の年即東徙(とうし)の年となしてゐたが、実は解褐の東徙に先(さきだ)つこと二年であつた。霞亭は己卯四十歳にして既に阿部家の禄を食(は)んだ。
 次は霞亭東命の月日である。わたくしは菅茶山の辛巳五月二十六日の書柬に本づいて、霞亭が此年の春杪(しゆんせう)夏初(かしよ)に江戸に入つたものとした。
 此推測には大過は無かつた。由緒書に徴するに、「同(文政)四巳四月十三日御用出府、同年六月七日暫御差留、同日丸山学問所へ罷出、講釈其外書生取立、御儒者と申合候様、同月十三日三十人扶持被下置、大目附格御儒者被召出、同日奥詰出府之所在番」と云つてある。山陽の「尋特召之東邸、給三十口、准大監察」と書したのが是である。
 按ずるに四月十三日は藩の東役を命じた日であらう。そして六月七日の「暫御差留」が入府直後の処置ではなからうか。然らばわたくしの推定は大過は無かつたと云ふものの、猶詳なることを得なかつた。霞亭の入府は恐くは六月の初であつただらう。夏初ではなくて季夏(きか)の初であつただらう。
 霞亭は夏初には猶備後にゐたらしい。わたくしは楝軒(れんけん)詩集に拠つて此の如くに断ずる。楝軒は浅川氏、名は勝周(しようしう)、字(あざな)は士□(してい)、通称は登治右衛門(とぢゑもん)、茶山の集に累見せる「浅川」である。
 楝軒詩集は五巻ある。其巻(けんの)四辛巳の詩中に、「送霞亭北条先生応召赴東都」の七律がある。そして「特招元有光輝在、莫為啼鵑思故園」は其七八である。此詩の前には水晶花(すゐしやうくわ)の詩がある。水晶花は卯花(うのはな)であらう。卯花と云ひ、郭公(ほとゝぎす)と云ふは、皆夏の節物(せつぶつ)である。霞亭は夏に入つて猶福山にゐたのである。
 しかし此差は猶小い。わたくしは別に大いに誤つたことがある。それは霞亭が東に召された時初より孥(ど)を将(ひきゐ)て徙(うつ)つたとなした事である。実は霞亭は初め単身入府し、尋で一旦帰藩し、更に孥を将て東徙した。此事は夙(はや)く浜野氏が親くわたくしに語つた。若しわたくしが精(くは)しく山陽の文を読んだなら、此の如き誤をばなさなかつたであらう。山陽は「尋特召之東邸、給三十口、准大監察、将孥東徙、居丸山邸舎」と書してゐる。東に召すと東に徙るとは分明に二截(せつ)をなしてゐる。わたくしの読むことが精しくなかつたと謂はなくてはならない。
 由緒書に徴するに、「同年(文政四年辛巳)八月九日江戸引越」と云つてある。

     その百六十二

 北条霞亭は辛巳の歳に東に召された時、初は単身入府し、後更に孥(ど)を将(ひきゐ)て徙(うつ)つた。前の江戸行は四月十三日に命ぜられて、六月の初に江戸に著したらしい。後の江戸行は由緒書に「八月九日江戸引越」と記してある。
 所謂江戸引越は霞亭が江戸に留つてゐて、妻孥を備後より迎へ取つたのでなく、霞亭は自ら往いて妻孥を迎へたのである。其明証は楝軒(れんけん)詩集にある。
 浅川楝軒は初め霞亭が召されて東に之(ゆ)く時、上(かみ)に引いた七律を作つて其行を送つた。尋で秋に入つてから、詩を霞亭に寄せた。即ち「奉寄北条先生」の七律で、其第二句に「秋気満庭虫乱鳴」と云つてある。霞亭が妻孥を迎へに備後に帰つた日、細(こまか)に言へば帰り著いた日は秋に入つた後でなくてはならない。
 さて霞亭が再び備後を発するに当つて、楝軒は詩二篇を賦した。一は七古で、「奉送霞亭北条先生携家赴東都邸」と題し、一は七絶で、「五日木犀舎席上別霞亭先生」と題してある。
 霞亭の自ら備後に往つて妻孥を迎へたことは、此二篇の存在が既にこれを証してゐる。しかし啻(たゞ)にそれのみではない。七古の中に「来携妻孥乍復東」の句がある。又次の年壬午の「春日書事、次霞亭先生丸山雑題韻五首」の七律第二首が「憶昔両回馬首東」を以て起(おこ)つてゐる。霞亭親迎(しんげい)の証拠は十分だと謂つて好からう。
 わたくしは進んで江戸引越の月日を明(あきらか)にしたい。由緒書に「八月九日引越」といふのは、何の日であらうか。楝軒の詩題に「五日木犀舎席上別霞亭先生」と云ふのは、何月五日であらうか。
 今仮に八月九日を以て、霞亭一家の江戸に著した日だとすると、木犀舎祖筵(そえん)の五日は辛巳七月五日でなくてはならない。そして彼楝軒が霞亭に寄せた「秋気満庭虫乱鳴」の詩は、七月朔より五日に至る間に成つて発送せられたものでなくてはならない。木犀舎は山岡氏の家で、今の阿部伯の家令岡田吉顕(よしあき)さんの姻家ださうである。
 只此に一の疑問がある。それは上(かみ)の「来携妻孥乍復東」の詩の題下に、「十月五日」の細註が下(くだ)してあることである。しかし上の仮定が誤らぬとすると、十月は霞亭の備後を去つた後となる。福田氏の抄本を見るに、「十月」の傍(かたはら)に「原書のまま」と註してある。按ずるに福田氏も亦此「十」字に疑を挾(さしはさ)んでゐるらしい。
 記(き)して此に至つた時、わたくしは的矢の北条氏所蔵の霞亭尺牘一篋(けふ)を借ることを得た。思ふにわたくしは今よりこれを検して、他日幾多の訂正をしなくてはなるまい。わたくしは此に先づ一の大いなる錯誤を匡(たゞ)して置く。それは偶(たま/\)篋中より抽(ぬ)き出した一通が、わたくしをして嚢里(なうり)新居の壬午の歳に成つたことを思はしむる一事である。霞亭は妻孥と共に一たび阿部邸の長屋に入り、居ること久しうして後、始て嚢里に移つたらしい。嚢里の詩中「移居入秋初」の句は此に由つて始て矛盾を免れる。そして八月九日は必ずしも霞亭一家の江戸に著いた日とはせられない。木犀舎祖筵の月は猶疑を存して置かなくてはならない。
 わたくしは姑(しばら)く此に嚢里のトポグラフイイを記して置く。浜野氏の故旧に聞く所に拠れば、霞亭が嚢里の家は今の本郷区駒込西片町十番地「ろ部、柳町の坂を上りたる所、中川謙次郎氏の居所の前辺(まへあたり)より左に入りたる」袋町(ふくろまち)であつたさうである。

     その百六十三

 此年文政七年の冬に入つてより、蘭軒は十月十三日に本草経竟宴(ほんざうきやう/\えん)の詩を賦した。竟宴には宿題があつて、蘭軒は□冬(くわんとう)を詠じた。其七絶は※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-321-上-5]詩集に見えてゐるが、此には省(はぶ)く。
 蘭軒が講じた本草経とはいかなる書か。是は頗るむづかしい問題である。支那の文献を論ずることが、特にわたくしの難(かた)んずる所なるは、既に数(しば/\)云つた如くであるが、此問題の難いのは独りわたくしの知識の足らざるがために難いばかりではない。
 本草経の所謂神農本草経であることは論を須(ま)たない。しかし当時此名の下に行はれてゐて信頼すべき書は存在してゐなかつた。是故(このゆゑ)に上(かみ)の問題を反復して、「蘭軒が講じた神農本草経とはいかなる本か」と云ふに至つて、わたくしの以て難しとする所は始て明になるのである。
 本草の書の始て成つたのは、その何(いづ)れの時なるを知らない。漢書は藝文志に本草を載せずして、只平帝紀(へいていのき)に其名が見えてゐる。前人は本草の著録は張華(ちやうくわ)華佗(くわだ)の輩の手に出でたであらうと云つてゐる。隋書以下の志が方(まさ)に纔(わづか)に本草経を載せてゐる。その神農の名を冠するは猶内経(ないけい)に黄帝の名を冠するがごとくである。
 神農本草経には三巻説と四巻説とがある。そして四巻説が正しいらしい。即ち上中下と序録一巻とがあつたと云ふのである。
 既にして後人が交(こも/″\)起つてこれを増益した。そして原文と諸家の文とが混淆した。多紀□庭(たきさいてい)は「爾後転輾附益非一、而旧経之文、竟併合于諸家書中、無復専本之能伝于後矣」と云つてゐる。即ち専本(せんほん)が亡びたのである。
 諸家の増益は端(たん)を梁の武帝の時に成つた陶隠居の集註に発(ひら)き、次で唐の高宗の顕慶中に蘇敬の新修本草が成つた。又唐本草とも云ふ。是は七世紀の書である。
 次に宋の宣宗の元祐中に唐慎微(たうしんび)の撰んだ証類本草(しようるゐほんざう)がある。是は十一世紀の書である。
 次に徽宗の大観二年に艾晟(かいせい)の序した大観本草がある。又大全本草とも云ふ。是が十二世紀の書である。
 次に南宋神宗の嘉泰中に成つた重修本草(ちようしうほんざう)がある。是が十三世紀の書である。
 且此等の書は一も原形を保存することを得ずして、唐の書は宋人に刪改(さんかい)せられ、北宋の書は南宋人に、南宋の書は金元明人に改刪せられた。
 明の万暦丙午に至つて李時珍(りじちん)の本草綱目が成つた。是が十七世紀の書である。
 凡そ此等の書の中には、初め古(いにしへ)の本草経が包含せられてゐた。しかし其一部分は妄(みだり)に刪(けづ)られて亡びた。唯他の一部分が□蘭(けいらん)の雑草中に存ずるが如くに存じてゐる。そして其前後の次第さへ転倒せられてゐる。
 此混淆糅雑(じうざつ)は固より歴代の学者が意識して敢て為したのでは無い。故に右の諸書には初め朱墨の文が分つてあり、後尚白墨の文が分つてあつた。惜むらくは其赤黒と白黒とが互に錯誤を来して、復辨ずべからざるに至つたのである。
 然るに唐以前の本草の旧を存ぜんと欲し、乃至唐以前の本草の旧に復せんと欲したものも亦絶無ではない。わたくしの談は此より古本草復活の問題に入るのである。

     その百六十四

 此年文政七年十月十三日に蘭軒は本草経竟宴の詩を賦した。わたくしはその講ずる所の本草経のいかなる書なるかを究(きは)めむと欲して、先づ古(いにしへ)の本草経の復専本(またせんぽん)を存ぜざることを言つた。それは原文が後人補益の文と交錯して辨別し難きに至つたのである。
 専本は既に亡びた。しかし猶唐以前の旧を存ぜむと欲し、又唐以前の旧に復せむと欲するものは、往々にして有つた。
 先づ宋の太宗の太平興国八年に成つた太平御覧に本草経の文を引くものが頗(すこぶる)多い。是は十世紀の書で、蘇敬以後の文は此中に夾雑して居らぬのである。御覧には由来善悪本がある。曾て北宋槧本(ざんほん)に就いて本草経の文を抄出し、「神農本草経」と題したもの一巻がある。躋寿館医籍備考本草類(せいじゆくわんいせきびかうほんざうるゐ)の首に収めてあるものが是である。
 しかし此所謂神農本草経は完本では無い。引用文を補綴(ほてつ)したものに過ぎない。
 次に明の慮不遠(りよふゑん)が医種子中に収めた「神農本草経一巻」がある。此書は我邦(わがくに)に於ても、寛保三年と寛政十一年とに飜刻せられた。しかし慮は最晩出の李氏本草綱目中より白字を摘出したるに過ぎない。
 次に清の嘉慶中に孫伯衍(そんはくえん)及鳳卿の輯校する所の「神農本草経」がある。是は唐氏証類本草に溯つてゐる。しかし編次剪裁(せんさい)の杜撰(づさん)を免れない。
 凡そ古本草経に就いて存旧若くは復旧を試たものは以上数種の外に出でない。それ故わたくしは蘭軒が何(いづ)れの書を講じたかを究めむと欲して、大いに推定の困難を感ずる。蘭軒の講ずべき書を此中に求めむことは、殆ど不可得(ふかとく)である。
 わたくしは敢て此に大胆なる断案を下さうとおもふ。それはかうである。
 蘭軒の講じた神農本草経は既成の書では無い。諸友人諸門人と倶に北宋本太平御覧、我国伝ふる所の千金方、医心方等に就いて、その引く所の文を摘出し、自ら古本草経のルコンストリユクシヨンを試た。講ずる所の本草経は此未定稿本である。
 わたくしは当時の稿本のいかなるものであつたかを想像して、略(ほゞ)後に森枳園の著した「神農本草経」に似たものであつただらうとおもふ。是は枳園著作の功を狭(せば)めようとするのでは無い。宋本御覧や、千金方や、医心方や、其中に存ずる所の古本草経の遺文は学者の共有に属する。問題はいかにこれを編次して唐以前の体裁に近づかしむるかに存ずる。蘭軒は或は多く此に力を費さなかつたかも知れない。わたくしは嘉永七年に成つた枳園本の体裁が、全く枳園自家の労作に出でたと云ふことには、敢て恣(ほしいまゝ)に異議を挾(さしはさ)まうとはしない。
 わたくしは只※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-324-上-13]詩集に見えてゐる本草経が或は枳園の本草経に似た未定稿本であつたのではなからうかと云ふのみである。わたくしは蘭軒が慮氏孫氏等の本を取つて講じたとは信じ難いがために、推理の階級を歴(へ)て此断案に到著したのである。

     その百六十五

 此年文政七年の十二月には二つの記すべき事がある。一は蘭軒の主家に於て儲君阿部寛三郎正寧(まさやす)の叙位任官の慶(よろこび)があつたことである。事は次年歳首の詩の註に見えてゐる。阿部家に此慶のあつたことと、彼弘安本古文孝経の刻成せられたこととは、蘭軒の重要視する所であつたので、其詩にも入つたのであらう。詩註に云く。「客歳十二月十六日。世子叙従五位下。任朝散大夫。公旧蔵弘安鈔本古文孝経孔伝。客歳命工□刻。故詩中及之。」今一つは二十三日に蘭軒が医術申合会頭たる故を以て、例年の賞を受けたことである。勤向覚書の文は略する。
 ※[#「くさかんむり/姦」、7巻-324-下-14]斎詩集には此年の冬詩四首がある。其最初なるものが上(かみ)に云つた本草経竟宴の詩で、最後なるものが「歳晩書懐」の絶句である。「貧富人間何互嗤。不知畢竟属児嬉。春風一促紙鳶去。落地凌霄彼一時。」中間に「自笑」と題する一絶一律がある。並に皆貧に安んじ分を守つて、流俗の外(ほか)に超出すること、歳晩の詩と相類してゐる。わたくしは四十八歳の蘭軒の襟懐を示さむがために、此に両篇を採録する。七絶。「詩句未嘗得好音。□嚢常是絶微金。村醪独酌醺然後。嶽々亢顔論古今。」七律。「生来未歩是非関。身在世途如在山。心淡時随茶讌後。量微猶混酒徒間。緯紗冬夜談経坐。杜曲春風買笑還。誇道我元無特操。優游已到□毛斑。」
 菅氏では茶山が此年七十七歳になつた。頼山陽が母梅□(ばいし)を奉じて来り宿したのが十月十五日で、中の亥の日に当つてゐた。「□□祭亥市童喧。只祝郷隣産育繁。恰有潘郎陪母至。問来独樹老夫村。」茶山が山陽の父叔完疆柔(ふしゆくくわんきやうじう)の三人を品題したのも此年である。「兄弟三人並風流。二随鶯遷一鴎侶。春水春草扁各居。最留春事属誰所。衙前楊柳路傍花。寅入酉退奈厳何。興来行楽倦則睡。長留春風在君家。伯是儒宗叔循吏。所得終孰与仲多。」山陽が「他日有人為三翁立伝、当収先生此詩於賛中、以為断案」と云つてゐる。歳晩の茶山の詩には絶て衰憊(すゐはい)の態が無かつた。「迎春不必凋年感、且喜椒盤対俊髦。」
 蘭軒は上(かみ)に云つた如く此年四十八歳であつた。妻益四十二歳、子女は榛軒二十一歳、常三郎二十歳、柏軒十五歳、長十一歳である。
 文政八年「乙酉元日」は立春後十四日であつた。蘭軒の律詩には阿部家世子の慶事と孝経刻成の事とが頷聯に用ゐてある。「春入千門松竹青。尤忻麗日照窓櫺。儲君初拝顕官位。盛事新雕旧聖経。魚上氷時憑檻看。鳥遷喬処把觴聴。優游常在恩光裏。不歎徒添犬馬齢。」茶山には元日二日の五律各一首がある。備後は年の初が雪後(せつご)であつた。「午道氷消潦」の句があり、又「残雪水鳴矼」の句がある。
 九日の例年「草堂集」には、蘭軒が「偏喜青年人進学、休嗤白首自忘愚」の聯を作つた。自註に「近日同社少年輩学業頗進、故詩中及之」と云つてある。
 十九日は春社(しゆんしや)であつた。蘭軒の詩に「小吹今年新附一、童孫鳴得口琴児」の句がある。わたくしは初め榛軒が已に娶(めと)り已に子を挙げてゐたかを疑つたが、これは一家の事に与(あづか)らぬらしい。

     その百六十六

 此年文政八年三月十三日に蘭軒は上野不忍池に詩会を催した。※[#「くさかんむり/姦」、7巻-326-上-12]斎詩集に此時に成つた七絶五首がある。其引はかうである。「三月十三日。与余語天錫、森立夫、岡西君瑤、高橋静覧、横田万年叔宗橘、酒井安清、多良辨夫、及二児厚重、同集篠池静宜亭。」詩は此に総叙の如き初の一首を取る。「阻風妨雨過芳辰。況復世紛纏此身。今日忽遭吟伴□。小西湖上問残春。」
 不忍池の詩会に列した人々は皆少年らしく思はれる。蘭軒は二児榛軒厚(こう)、柏軒重(ちよう)を除く外、悉(こと/″\)く字(あざな)を以て称してゐる。その人物の明白なるものは森立之(りつし)、字は立夫(りつふ)、岡西徳瑛(とくえい)、字は君瑤(くんえう)の二人に過ぎない。立之は通称養竹、徳瑛は通称玄亭で、皆門人録に見えてゐる。
 余語(よご)氏は此年甲申の武鑑に、「余語古庵、寄合御医師、五百石、本郷御弓町」の一人が見えてゐるのみである。此より後の武鑑には同名、同禄、同住所の人が奥詰医師となり、奥医師となつてゐる。わたくしは此家の系譜伝記を見ぬので、天錫(てんせき)の誰の字(あざな)なるを詳(つまびらか)にしない。
 弟潤三郎はこれを読んで、駒込竜光寺に余語氏の塋域のあることを報じてくれた。弟は第一「法眼古庵余語先生墓、元禄八乙亥年三月十九日卒、孝子元善建、」第二「現寿堂法眼瑞善先生余語君墓、享保二十年七月十五日卒、年七十二歳、」第三「天寧斎余語古庵先生墓、安永七年八月二十二日卒、七十歳、」第四「拙存斎、文化十一年四月四日卒去、六十二歳、」第五「蔵修斎前侍医瑞典法眼余語君墓、嘉永元戊申四月十日」の五墓を見た。そして天錫は或は瑞典かと云つてゐる。弟の書には竜光寺境内の図があつて、余語の塋域は群墓の中央にある。わたくしの曾て訪うた安井息軒の冢子(ちようし)朝隆(てうりう)と其妻との墓の辺である。程近い寺だから、直に往つて観た。余語氏の諸墓は果して安井夫妻の墓の隣にあつた。しかし今存してゐるものは第四第五の二石のみで、第四には「拙存斎余吾良仙瑞成先生墓」と題してある。第一第二第三の三石は既に除き去られたのであらう。天錫の事は姑(しばら)く弟の説に従つて置く。
 高橋静覧も亦不詳である。門人録に「高橋宗朔、宗春門人、岩城平」と「高橋玄貞、弘前」との二人がある。宗春は同書に「横田宗禎、宗春子」とあるより推すに、或は横田宗春であらうか。按ずるに静覧は宗朔若くは玄貞の字(あざな)ではなからうか。
「横田万年叔宗橘」の文は句読に疑がある。「万年之叔宗橘」一人か、又「万年及其叔宗橘」か決し難い。門人録には「横田宗橘、高通健、通渓早死に付跡目」とあり、又通渓は「高通渓、横田宗禎弟、亀山」とある。わたくしは此に門人録の原文を引くに止めて置く。此簡約の語に由つて一の断案を下さむことは、余に危険だからである。
 酒井安清(あんせい)は全く他書には見えない。門人録は一の酒井氏をも載せない。
 多良辨夫(たらべんふ)は或は敬徳の字(あざな)であらう。門人録に「多多良敬徳、後文達、江戸」と記してある。
 夏に入つて、四月十三日に蘭軒が再び静宜亭に詩会を催したらしい。「山斎牡丹、四月十三日静宜亭宿題」の七絶一首がある。其次に「夏意、席上分韻」の七律一首がある。席上とは四月十三日の席上であらう。
 五月十三日には三たび静宜亭に会したらしい。「栽竹、五月十三日静宜亭宿題」の五律二首、「関帝図、同上」の七絶一首、「晨起、席上分韻」の七絶二首がある。
 六月十三日には四たび静宜亭に会したらしい。「老婦歎鏡、六月十三日静宜亭宿題」「打魚、同上」「観蓮、同上」の七絶各一首がある。山斎牡丹(さんさいのぼたん)以下十首の詩は省(はぶ)く。
 十四日には程近き長泉寺に遊んだ。「六月十四日、長泉寺避暑、寺在丸山、往昔元禄中、隠士戸田茂睡、老居此地、園植梨数十株、今有梨坂。梨花坂北有松門。涼籟吹衣到祇園。清浄心他山翠色。安禅坐是石苔痕。幽禽境静猶親客。炎日樹喬不入軒。方識昔時高尚士。卜隣此地避塵喧。」
 晦(つごもり)には墨田川に遊んだ。「六月晦日墨水即事」の七絶がある。詩は省く。以上夏の詩十七首中、わたくしは二首を取つた。別に「即事」一、「題画」二の七絶があつて、並に製作の日を載せない。
 秋に入つて、蘭軒は七月七日に友を家に会した。「七夕小集」の七絶に「茅亭亦有諸彦会」の句がある。
 八月十三日に蘭軒は五たび静宜亭に会したらしい。「友人園中巌桂頗多、因乞一株、八月十三日静宜亭宿題、」「観濤、同上、」「村醸新熟、静宜亭席上」の七絶、七律、五律各一がある。詩は省く。

     その百六十七

 此年文政八年八月十五日に蘭軒は「中秋新晴」の詩を作つた。「連日関心風雨声。今宵忽漫報新晴。満園露気秋蕭灑。月自桂叢香裏生。」按ずるに桂とは巌桂(がんけい)を謂ふのであらう。二日前の静宜亭の会に、友人が多く巌桂を栽ゑてゐるので、其一株を乞うたと云ふ宿題が出でてゐた。わたくしは此詩を見て、彼題の蘭軒の出したものなるを知り、又彼会の蘭軒の主催に係ることを知る。来会者に蘭軒の門人多き所以である。巌桂は木犀である。蘭軒は此中秋に新に移植した木犀の木間(このま)の月を賞したのである。
 此中秋は備後も亦新晴(しんせい)であつた。菅茶山の五古の引はかうである。「乙酉中秋。霖後月殊佳。数日前湯正平至自江戸。説蠣崎公子在病蓐。因賦寄問。且告近況。兼呈花亭月堂二君。」湯正平(たうせいへい)は何人(なにひと)なるを知らぬが、新に神辺(かんなべ)に来て、蠣崎波響(かきざきはきやう)の江戸に病んでゐることを告げた。波響五十五歳の時である。茶山は波響と岡本花亭、田内月堂の二人とに寄示せむがために詩を作つたのである。
 八月の初に備後は淫雨であつた。「比来頻苦雨、不望半秋晴。」十四日にも雨が劇(はげ)しかつたが、午後に至つて忽ち晴れた。「昨朝勢逾猛。半日屋建※[#「令+瓦」、7巻-329-下-1]。秋鳩忽数語。返照射前楹。」其夜は北風が雲を駆つて奔(はし)らしめ、明月が雲の絶間に見えた。「昨夜風自北。月泝走雲行。時当雲断処。光彩一倍生。」かくて十五夜に至ると、天は全く晴れて、些(ちと)の翳(くもり)の月の面輪を掠むるものだに無かつたので、茶山は夜もすがら池を繞(めぐ)つて月を翫(もてあそ)んだ。「今夜無繊翳。不覩星漢横。興来繞池歩。月在水心停。」
 茶山は花亭月堂等が江戸にあつて同じ月を賞する状(さま)を思ひ遣つた。「不知東関外。得否此晶瑩。携酒誰家楼。泊舟何処汀。如見歓笑態。宛聞諷詠声。」そして病後の波響を憫んだ。「近伝張公子。臥病坐環屏。新起雖怯冷。或能倚窓櫺。憶昔椋湖泛。緇素会同盟。如今独君在。余子尽墳塋。孤尊斟砕璧。能不動旧情。」
 椋湖(りやうこ)は巨椋(おほくら)の池であらう。茶山が波響と小倉附近に遊んだのは、恐くは二人が始て京都に於て交(まじはり)を訂した寛政初年の秋であつただらう。同じく舟を椋湖に泛べた緇素(しそ)とは誰々か。わたくしは茶山集の初編を披(ひら)いて検した。寛政六年甲寅の中秋に、七絶三首があつて、引に「中秋与六如上人、蠣崎公子、伴蒿蹊、橘恵風、大原雲卿、同泛舟椋湖」と云つてある。前(さき)にわたくしは壬午「憶昔三章」の詩中「十一年後忽此歓」の句より推して、波響茶山の交を寛政五年に始まるとなしたが、実は六年であつた。甲子の再会は十一年後ではなくて、実は十年後であつた。
 同遊六人の僧俗中先づ死んだのは六如(りくによ)である。享和元年三月十日に寂したから、二十四年前である。次は所謂橘恵風(きつけいふう)である。宮川春暉(しゆんき)、字(あざな)は恵風、橘姓、南谿と号した。歿日文化二年四月十日は二十年前である。次は文化三年七月二十六日に歿した伴蒿蹊(ばんかうけい)で、十九年前である。次は同七年五月十八日に歿した大原呑響(どんきやう)で、十五年前である。「如今独君在、余子尽墳塋。」
 以上記し畢つた後、寛政甲寅の遊には猶二人の同行者があつたことを知り得た。即ち米子虎(べいしこ)、松孟執(しようまうしふ)である。事は文政戊寅の詩引及己卯の詩註に見えてゐる。是は上田芳一郎さんの示教に由つて覆検した。

     その百六十八

 此年乙酉の八月十三日上野不忍池の上(ほとり)なる静宜亭に催された例会の席上の作と、中秋の作との中間に、※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-330-下-7]詩集は「送森島敦卿還福山」の七絶一首を載せてゐる。敦卿(とんけい)の下(しも)に樸忠(ぼくちゆう)と註してある。森島樸忠、字は敦卿である。
 わたくしは浜野知三郎さんに質(たゞ)して、略(ほゞ)此人の事を詳(つまびらか)にすることを得た。森島氏は樸忠五世の祖忠上(ちゆうしやう)の時阿部正次に仕へた。忠上は延宝八年に歿した。高祖を忠久と曰ふ。元禄十七年に歿した。曾祖を忠好と曰ふ。享保八年に歿した。祖父を忠州と曰ふ。明和五年に致仕した。父を忠寛と曰ふ。寛政七年に致仕した。樸忠は忠寛の二子にして立嫡(りつてき)の命を受けた。時に寛政三年十一月二十七日であつた。以上は由緒書に拠る。
 樸忠の年齢には疑がある。樸忠の孫鶴岡耕雨さんの記する所を検するに、歿日を「弘化二午歳七月十日」と云つてある。弘化二年乙巳とすべきか、弘化三年丙午とすべきかに惑ふ。姑(しばら)く丙午を正しいとする。さて歿する時樸忠は年七十一であつたと云ふ。
 此前提より由緒書を看るときは、下(しも)の樸忠の履歴が成り立つ。樸忠、字は敦卿、通称は金十郎である。安永五年に生れ、寛政三年十六歳にして父忠寛の嫡子にせられ、七年に二十歳にして「跡式二百三十石広間番」を拝した。此より後樸忠は下の諸職を命ぜられた。「享保元年使番。三年兼火事場目附。文化二年大目附箱掛。五年仕置定式掛。普請掛、除銀納方掛。七年韓使来聘時公儀役人通行用掛。八年者頭席。九年宮造営掛。十年郡奉行、兼寺社奉行、兼大目附、兼収納方吟味掛、兼宮用掛、兼箱掛。十一年郡中大割吟味掛、兼町奉行。十三年免大目附。文政元年番頭。五年用人格、用人。」
 樸忠は用人として文政七年七月二十七日に「江戸在番」を仰附けられ、十月五日に「当暮若殿様御叙爵に付御用掛」にせられた。若殿は寛三郎正寧(まさやす)である。十二月廿二日「右御用掛無滞相勤候に付銀二枚御酒御吸物被下置、」同日「若殿様へ干鯛一折奉指上、」東役の任務が畢(をは)つた。そこで八年乙酉中秋前後に、蘭軒は将(まさ)に福山に還らむとする樸忠がために詩を賦したのである。
 蘭軒の詩に云く。「金言為贈非吾事。彩筆壮行別有人。偏想君経榛海路。荻花楓葉月明新。」此時樸忠は正に四十歳であつた。
 八月二十七日の由緒書の文に、「帰郷之御目見御意拝領物」と云つてある。樸忠は秋のうちに福山に帰つたことであらう。
 福山に帰つた後、樸忠は「城番席」を勤めてゐて、天保八年十月十三日に六十二歳にして致仕し、新五郎忠同が家を継いだ。しかし忠同は十年三月廿九日に父に先(さきだ)つて歿した。鶴岡氏の記する所に従へば、樸忠は我郷(わがきやう)の大国隆正、福羽美静(よししづ)と相識つてゐたと云ふ。
 ※[#「くさかんむり/姦」、7巻-332-上-8]斎詩集の此秋の詩は凡(すべ)て十一首ある。七夕一、八月十三日静宜亭集宿題巌桂、観濤二、同席上村醸新熟(そんぢやうしんじゆく)一、中秋一、送敦卿一、以上六首の末に、「遊仙曲」一首、九月二十三日静宜亭集の詩四首がある。此四首は宿題「塞下曲」一、「貴人郊荘菊叢盛開、就偸一賞」二、席上「鳴鹿」一である。静宜亭の詩会は此年四月に始まつて九月に終つた。

     その百六十九

 此年文政八年の秋には、蘭軒の家に猶一事(じ)の記念すべきものがあつた。それは吉野山の桜を園内に移し植ゑたことである。蘭軒の識る人に斎藤某と云ふものがあつた。桜は本此斎藤氏の園中の木であつた。蘭軒はそれを乞ひ得て移し植ゑたのである。事は次年に作つた長古「芳桜歌」と其小引とに載せてある。惜むらくは其移植の月日が記してない。
 初め小さい桜の木の苗を吉野山から齎し帰つて、これを江戸の邸宅の園内に植ゑたのは、斎藤氏の家の旧主人である。丙戌より五十年前だと云へば、安永中の事でなくてはならない。「斎藤氏園。有一桜樹。云旧主人得寸株於芳野而所栽。五十年於茲。殆已合抱。去秋余懇切乞之。遂移園中。」是が引の云ふ所である。
 五十年の星霜を閲した「合抱」の木であつたから、これを移すのは容易な事ではなかつただらう。蘭軒の懇望のいかに切なりしかは、歌に「蜀望荊州方可想、秦求趙璧亦斯情」と云ふを以て知られる。蘭軒は初め言ふことを憚つたが、遂に意を決して乞うた。「言偏思巧未開口。策已将運猶畜胸。忽把破瓶迸水勢。断然切乞意方剛。」斎藤某は蘭軒の脚疾あるを憐んでこれを許した。「主人清淡且仁慈。莞笑頷之不敢辞。徐説愛花吾似子。但吾健歩子其痿。満城花柳春如錦。子欲行遊何得為。割愛自今付与子。灌培莫懈期花時。」
 わたくしは苗木を吉野より齎し帰つた風流の旧主人の其氏をだに伝へず、又已に長じた木を蘭軒に贈つた「清淡且仁慈」なる斎藤氏の其名字を留めざるを憾(うら)む。浜野氏の故老に聞く所に拠れば、蘭軒の家の東隣は斎藤貞兵衛と云ふ士の住ひであつたと云ふ。或は其人ではなからうか。按ずるに伊沢氏の園内には初より桜が多かつた。此吉野桜は其中に植ゑ添へられたのである。「園樹従前桜最多」の句が歌中にある。
 冬に入つて十月十三日に蘭軒は詩会を家に催した。此より静宜亭集に代ふるに草堂集を以てしたらしい。推するに病める蘭軒は数(しば/\)駕を命ずることの煩はしきに堪へなかつたのであらう。十月の詩は「蘆花、十月十三日草堂宿題」一、「侠客行、同上」一、「池亭冬晴、同日席上」一である。
 十一月の草堂集は十六日に催された。「賦得人跡板橋霜、次犬冢印南先生遺稿之韻、十一月十六日草堂宿題」の七絶があつて、次に「書懐、印南先生卒後十三年於此矣、十一月十六日草堂小集、因賦此詩」の七律がある。印南は文化十年十一月十二日に歿したのである。わたくしは此に其伝記を補ふべき後の一首を録する。
「木王園裏老先生。一去英魂托両楹。享保変音詩始密。昌平督学誌新成。嘗従蓮社観秋水。更附仙舟尋晩桜。十載休為離索歎。旧游聊此不寒盟。」第一の下(しも)に「先生園有梓、因名」と註してある。木王園(もくわうゑん)の木王は梓(あづさ)であつた。□雅(ひが)に所謂「梓為百木長、故呼梓為木王」であつた。第三の下に「近来詩風盛宗宋人、先生実為嚆矢」と註し、第四の下に「先生壮年在昌平学、為都講、因撰昌平志廿巻献之、幕府大有恩賜云」と註し、第五の下に「一日信恬従先生避暑於墨水東江寺」と註し、第六の下に「又首夏陪先生及菅茶山、墨水泛舟」と註してある。東江寺の遊は、蘭軒に詩が無かつたので、その何(いづ)れの時なるを知ることが出来ない。

     その百七十

 此年文政八年十二月十一日に菅茶山が書を蘭軒に与へた。此書の初の数行は、巻紙の継目より糊離がしてゐる。巻紙は黄と赤との紙を交互に継ぎ合せたものと覚しく、茶山が此頃此の如き紙を用ゐたことは、他の簡牘に徴しても知られる。此一通は伊沢信平さんの蔵する所である。
 書牘の最初の三行は所謂尚々書(なほ/\がき)である。第四行は即ち本文の第一行で、上半は後の黄紙(くわうし)に、下半は前の赤紙(せきし)に書かれてゐる。今接合して読んで見る。
「近報御状高作とも被下、御近状も審承(しんしよう)大慶仕候。近比は御酒よほどいけ候よし奉賀候。私は限をたて、一滴も過し不申候。とかく老耄にこまり申候て、詩歌等も出来不申、咄かけし事を中途にわすれ申候程の事に候。」
「今年は十一月迄は暖に候処、小寒入より祁寒(きかん)、雪もなくて只々さむく候。御地いかが。皆様御あたりも無之候哉。尊内、令郎様方、おさよどのへも宜奉願上候。」
「私宅老妻は無事、お敬(きやう)とかく煩(わずらひ)申候。夏も秋もさむく候。此比(このころ)楊皮(やうひ)(蕃名(ばんめい)キヤキヤとか申候)柴胡(さいこ)鼈甲等入候和解之剤たべゐ申候。堯佐妻(げうささい)もと無病人(むびやうじん)、寒邪に而(て)壮熱、其のち腹痛等にて打臥候。右之仕合、書状も不詳悉(しやうしつせず)候。御免可被下候。」
「令郎様方風気同上、足下之吉祥善事莫過之(これにすぐるはなく)候。」
「津軽翁いかが。西遊ももはや四五年になり候へば、長崎の行被思召立候様御すすめ可被下候。去年今年はよき唐人来泊、朱柳橋(しゆりうけう)はよほどの学者、沈綺泉(ちんきせん)は和語にも通じ候。其余十人許(ばかり)もよき人来候。江芸閣陸品(こううんかくりくひん)三などは底へ沈み候よし。しかし時により集り候こともあり、又一人も識字のものゐぬ時も候よし。都下へ通事一人めされ在番いたし候よし、訳司中之学者と承候。私方へも片時立より申候。いかなる処に居候哉。御逢も被成候哉。」
「種々可申上こと多候。凍筆病腕(とうひつびやうわん)これきりにやめ候。扨余りみじかく候。御保重御迎春可被成候。恐惶謹言。嘉平月十一日。菅太中晋帥。伊沢辞安様。」
「苦寒二首。」(これは書生の詩会の題にてふとつくりたる也。)「東嶺日方升。不聞凍雀声。門前過汲婦。屐歯響※[#「石+徑のつくり」、7巻-335-下-2]※[#「石+徑のつくり」、7巻-335-下-2]。」「無風雲尚行。窓紙明還晦。童子欲烹茶。渓冰敲不砕。」「御一笑可被下候。」
「古庵様はじめ奉り市野津軽へ宜御致声可被下候。」
「服部折ふし御見え候哉。これへも宜奉願上候。」
「尚々松崎は作家也。吐舌(したをはき)申候。私も一面識也。御会合の序(ついで)宜奉願上候。山名文よく出来候。これへも宜御致声可被下候。」
 此書牘中最も読み難い文字は五絶二首中前の詩の「雀」字の上の一字である。「手」に从ふ字の如くである。「凍」字はわたくしが姑(しばら)く填(うづ)めたに過ぎない。二首共に遺稿乙酉の詩中には見えない。
「風気」は往々文選中に見えてゐる語である。「同上」の「上」は上声(じやうしやう)に読むべきであらうか。字を識る人の教を乞ふ。

     その百七十一

 上(かみ)に引いた菅茶山の十二月十一日の書牘が、此年文政八年のものだと云ふことは、主に狩谷□斎の「西遊ももはや四五年」になつてゐると云ふより推定した。□斎の西遊は辛巳であつた。辛巳より算すれば此年乙酉は第五年、西遊の次年壬午より算すれば第四年である。
 書中には七十八歳の茶山が自ら衰況を語つてゐる。「咄かけし事を中途にわすれ申候程の事に候。」菅氏は此頃多事であつたので、手紙を書くことも怠り勝であつた。先づ茶山をして心を労せしむるのは姪女(てつぢよ)敬(きやう)の病であつた。敬は二年前に江戸に於て夫北条霞亭を喪ひ、幼女とらを率(ゐ)て神辺(かんなべ)に帰り、前年の秋に又其幼女をさへ喪つた。「とかく煩申候。夏も秋もさむく候。」敬の服する方剤の中に楊皮と云ふものがある。「蕃名キヤキヤとか申候」と註してある。是は今謂ふ規那皮(キナひ)であらう。本米国の土語キナキナは樹皮中の樹皮の義で、西班牙(スパニア)人が欧洲に伝へ、和蘭(オランダ)人が我国に伝へた。キヤキヤは当時の蘭名キンキナの転訛(てんくわ)であらう。敬の病は医家の規那煎(キナせん)を用ゐさうな病であつた。敬は書中に見えた人物の第一である。
 第二に「堯佐妻」が書中に見えてゐる。此女も病に臥してゐた。わたくしは門田(もんでん)氏の事を詳(つまびらか)にしない。浜野知三郎、福田禄太郎二家の言(こと)に拠るに、茶山の継室門田伝内政峰(でんないせいほう)の長女に妹があつて、備後国安那郡(やすなごほり)百谷(ももたに)村の山手(やまて)八右衛門重武に嫁した。此女は八右衛門の歿後に里方法成寺(ほじやうじ)村の門田氏に帰り、男子(なんし)一人は孤(みなしご)となつて門田政周(せいしう)に養はれ、其子儀右衛門政賚(せいらい)の弟にせられた。此男子が名は重隣(しげちか)、字(あざな)は堯佐(げうすけ)、号は朴斎、小字(せうじ)は小三郎又正三郎である。長ずるに及んで字を以て行はれた。朴斎は幼にして茶山の門に入り、既にして其養子にせられた。浜野氏所蔵の「朴斎詩鈔初編」に拠るに、朴斎は文政庚辰より丁亥に至る八年間、菅氏の養子になつてゐた。茶山は恐らくは朴斎をして菅三が長ずるまでの中継たらしめむとしたのであらう。これをして頼山陽、北条霞亭の後を襲(つ)がしめむとしたのであらう。朴斎は寛政九年二月十八日生だから、此年二十九歳になつてゐた筈である。わたくしは朴斎が妻と倶に茶山の許にゐたものと解する。妻は備中国成羽(なりは)の医岡伯庵の女(ぢよ)で、名を静と云つたと、田辺晋子(しんし)さんが語つた。
 第三の書中の人物は「津軽翁」即狩谷□斎である。茶山は蘭軒をして又□斎に長崎の遊を勧めしめようとした。茶山の言(こと)は長崎にある新旧の清客に及び、又舌人(ぜつじん)に及んだ。清客には第四江、第五陸、第六朱、第七沈の四人の名が出でてゐる。其名字等は津田繁二さんを煩はして、後に補入しようとおもふ。当時江戸にめされてゐた訳司中の学者はその何人(なんひと)なるを知らない。「長崎年表」にも此事は載せてない。
 書中の他の人物は、茶山が蘭軒に「致声」を托したに過ぎない。第八市野迷庵、第九余語古庵は斥(さ)す所が明白である。第十服都某は※[#「くさかんむり/姦」、7巻-337-下-5]斎集の栗陰(りついん)か。第十一松崎某は茶山が其詩を賞してゐる。恐くは慊堂(かうだう)であらう。第十二山名某は茶山がその文を善くすることを言つてゐる。此人は未詳である。
 十二月二十三日には蘭軒が医術申合会頭たる故を以て賞を受けた。勤向覚書の文は例に依つて省(はぶ)く。
 此年冬の蘭軒の詩は、既に十月十三日詩会の宿題二、席上一、十一月十六日の宿題一、同日作の懐印南一、以上五首あることを言つた。剰(あま)す所は「冬日過北堤」、「歳晩即事」の二首のみである。
 歳晩即事は蘭軒の履歴に略すべからざる詩である。それは阿部正精(まさきよ)が蘭軒にゴロフクレンの服を与へた事を紀するものだからである。「今歳寒威殊栗烈。病夫況復及衰躬、抃忻恩賜防冬服。奇暖賽春鎖幅絨。」註に「鎖幅絨西洋所齎、称我魯扶古連者」と云つてある。蘭語グロフ、グレンは粗駝毛絨(そだまうじゆう)の義ださうである。

     その百七十二

 備後では此年文政八年の暮に、菅茶山が「歳杪雑詩」の五律三首を作り、又除夜に始て雪がふつたので「除夜雪」の五律を作つた。「今年未逢雪、此日始模糊。」
 菅氏には此年特に記すべき事が無い。強て求むれば十月既望頼山陽の訪問である。即ち事は頼氏に連(つらな)つてゐる。頼氏では三月に山陽の次男辰蔵が六歳にして夭した。「幻華一現暫娯目、造物戯人何獪哉。」しかし五月に至つて四男三木(みき)八が生れた。後の三樹三郎醇(みきさぶらうじゆん)である。山陽は母梅□(ばいし)に「辰のかはり」が出来たと報じた。山陽の子は三男復(ふく)と此醇とが人と成つた。九月には竹原にある叔父春風が歿した。辰の痘を病んで死する時、京都に来合せてゐたのが、叔姪(しゆくてつ)の別であつた。山陽は展墓のために竹原に往つて、帰途に廉塾を過(よぎ)つたのである。茶山は「南阮有喪雖可悼、北堂無恙亦堪歌」と云ひ、山陽は「吾曹更誰望、父執有君存」と云つてゐる。
 此年蘭軒は四十九歳であつた。家族は妻益四十三、子女榛軒二十二、柏軒十六、長十二であつた。
 文政九年の元日は江戸が雪の日であつた。蘭軒の詩に「丙戌元日作、此日雪」と題してある。「臘酒醺然猶未除。陽春白雪愛吾廬。銀鈴竹裏鏘鏘響。玉杖柳辺耀耀舒。風字硯奇貧亦買。羊毫筆美拙能書。正元尤喜逢豊兆。吟種今年定有余。」頷聯に「此日雪景頗奇、銀鈴玉杖並実際所見、非倣銀海玉楼之顰」の註、頸聯に「二物客歳所得、此日始試」の註がある。神辺は此日晴暄(せいけん)で雪が融(と)けかかつてゐた。「檐角有声晴已滴。池心不凍午成漣。」是が茶山の詩の三四である。其五六は「十千美酒酬三朔、八秩衰骸少一年」である。
 茶山が元日の詩に年歯を点出した如くに、九日の蘭軒の作に「日々只宜開口笑、生年五十未知非」の句がある。例の「豆日草堂集」の七絶の転結である。
 二月十三日に蘭軒は岸本由豆流(ゆづる)の向島の別荘に招かれた。其日は薄曇の日であつた。三絶句の其一に「不妨鳩語頻呼雨、恰是軽陰宜看梅」の句がある。蘭軒は途中百花園に立ち寄つて梅を看た。「白玉有瑕真可惜、俗人題句繋枝頭。」紙片を枝に繋ぐ習が当時盛に行はれたと見える。
 桜花の時節になつてから、蘭軒は七古の「芳桜歌」を作つた。前年斎藤某に乞ひ得た木が花を著けたのである。「二十四番花次第。今年待信異常年。時惟三月一旬来。暁雨初晴無点埃。早起南軒斟茗坐。樹梢先見花新開。」歌行(かかう)は進んで吉野桜の特色を称へてゐる。「此桜疎瓣且短鬚。仙姿潔素自高標。是為短鬚無雨宿。更因疎瓣免風撩。盛時之永勝凡品。応識英名冠国朝。」蘭軒は此より居る所を芳桜(はうあう)書院と曰つた。後其法諡を芳桜軒と曰つたのも、生前此花を愛好したためである。
 蘭軒は此花のために題詠を諸家に求めた。茶山の詩幅は今猶徳(めぐむ)さんの許にある。「伊沢仁友移芳野桜栽索詩。一遊芳野足誇人。況得移栽作席珍。半径幽香千嶺雪。一枝清影万株春。菅晋帥。」集には「移栽」を「花栽」に作つてある。起句に花木等の字面が無いので改めたのであらう。

     その百七十三

 これも亦此年文政九年三月の初であつただらう。蘭軒は井戸翁助の家に招かれて桜を看た。井戸は後蘭軒の女婿となるべき人である。
 井戸の家は寛永以来の幕臣であつた。「井戸翁助宅看桜。其先寛永中始仕大府。賜宅於此地。至君已六世。」詩は七絶二首である。其後者の後半に、「経年二百凌霜雪、春色異他妖艶叢」と云つてある。
 蘭軒が詩会を草堂より余所へ持ち出すことは前年に一たび歇(や)んでゐて、此三月に又旧に復した。「三月十三日篠池清香亭席上」の詩がある。題は「春陰」で、体は五律である。
 次で十六日に蘭軒は向島に遊んだ。「三月十六日与狩谷少卿、渋江子長、森立夫及児重、同遊墨水。途中遇雨。」少卿は□斎の子懐之(くわいし)である。子長(しちやう)は抽斎全善(かねよし)、立夫(りつふ)は枳園立之(きゑんりつし)、並に年少の門人である。重(ちよう)は三男柏軒である。五律の五六に「投老心雖懶、逢春興自繁」と云つてある。
 十七日に蘭軒は夏時韈(べつ)を着くることを乞うて、十日の後に允(ゆる)された。勤向覚書の文に曰く。「同年三月十七日左之願書付差出置候処、同月廿七日願之通勝手次第と平助殿被仰渡候。口上之覚。私儀足痛所御座候に付、不出来之節は夏中足袋相用申度奉願上候。右之趣宜敷被仰達可被下候以上。三月。伊沢辞安。但粘入半切上包半紙折懸上に名計。」是が覚書の最後の記載である。
 覚書の載(の)する所にして、此に至るまでわたくしの全く取らずに置いたのは、門人に関する事である。所謂内弟子の出入(でいり)は皆藩主の認可を経たものである。覚書には凡七人の名が見えてゐる。曰安西了益(あんざいれうえき)。父を外記(げき)と云ふ。豊前の人である。曰中野貞純(ていじゆん)。父養庵は井上筑後守正滝(まさたき)の医官である。井上は下総国高岡の城主である。門人録に純を「順」に作つてあるが、蘭軒は純と書してゐる。曰河村元監(げんかん)。父を意作(いさく)と云ふ。門人録に「藩」と註してあるから、阿部家の臣であらう。曰酒井安清(あんせい)。小川吉右衛門の甥である。小川は常陸国府中の城主松平播磨守頼説(よりのぶ)の臣である。曰小林玄端。出羽山形の人である。門人録に「後塩田楊庵、対州」と註してある。又端が「瑞」に作つてある。塩田氏の云ふを聞くに、父が玄端、子が玄瑞ださうである。然らば蘭軒の誤記であらう。曰多々良敬徳(けいとく)。父を玄達と云ふ。四谷の住人である。門人録に「後文達、江戸」と註してある。字(あざな)を辨夫(べんふ)と云つたのが此人であらう。曰天野道周(だうしう)。遠江国横須賀の城主西尾隠岐守忠善(たゞよし)の臣である。
 夏に入つて四月十三日の詩会が入谷村旭升亭に催された。宿題は「山中首夏」で、蘭軒は五絶五首を作つた。席上の詩は「夏日田園雑興」の七絶二首であつた。
 此月蘭軒は「呉刻中蔵経跋」を作つた。清舶(しんぱく)載せ来る所の中蔵経に、周錫□本(しうせきさんぼん)と孫星衍本(そんせいえんぼん)との二種がある。並に元人抄本に拠るもので僅に一巻を成してゐる。然るに宋代には別に扁鵲(へんじやく)中蔵経と云ふものがあつて、後人がこれを上(かみ)に云ふ所の中蔵経に併せ、分(わかつ)て八巻となした。呉勉学(ごべんがく)の刻する所の中蔵経が即是である。
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