伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

 只憾(うら)むらくは、書を蔵することの少いわたくしは、説郛以下の叢書を見るに由なく、又性疎懶にして図書館の恩蔭を被ることが出来ない。そこで姑(しばら)く捜索の念を断つこととした。想ふに謝氏の演し成す所の話(わ)が僅に十数行であるから、蒙斎筆談の文は二三行に過ぎぬであらう。
 以上書き畢(をは)つた時、弟潤三郎が説郛を抄して寄示した。「頃有嘲好古者謬云。以市古物不計直破家。無以食。遂為丐。猶持所有顔子陋巷瓢。号於人曰。孰有太公九府銭。乞一文。吾得無似之耶。」吾とは著者自ら謂ふのである。説郛本は鄭景壁と署してあつて、「土」に从(したが)ふ「壁」に作つてある。
 蘭軒は此年文政六年に阿部正精(まさきよ)に代つて「刻弘安本孝経跋」を草した。原来伊沢の家では、父信階(のぶしな)の時より、毎旦(まいたん)孝経を誦(しよう)する例になつてゐたので、蘭軒は命を承けて大いに喜んだ。「今也公(正精)跋此書。儒臣不乏於其人。而命信恬草之。寵遇之渥。豈可不恐惶乎。」
 阿部侯の蔵する所の此孝経は弘安二年九月十三日の鈔写に係る巻子本で、「紙質精堅、筆蹟沈遒」である。侯はこれが刊行を企てて、蘭軒に跋文を草することを命じた。
 然らば此所謂弘安本とはいかなる本か。わたくしはこれを説明するには、孝経のワリアンテスの問題に足を踏み入れなくてはならない。そのわたくしのために難問題たることは、前(さき)に経音義を説明するに臨んで言つた如くである。その過誤は好意ある人の教を待つて訂正する外無い。
 孝経は著者不詳の書である。通途(つうづ)には孔子の門人の筆する所だとなつてゐる。此書の一本に「古文孝経孔氏伝」がある。孔氏(くし)とは孔安国(くあんごく)で、孔子十一世の孫である。此孔伝が果して孔安国の手に成つたか否かは、亦復(またまた)不詳である。孔伝は梁末に一たび亡びて、隋に至つて顕れたので、当時早く偽撰とせられたことがある。
 しかし隋唐の世には、此の如き異議あるにも拘らず、孔伝が鄭注(ちやうちゆう)と並び行はれた。鄭は鄭玄(ちやうげん)である。それゆゑ大宝元年の学令に、「凡教授正業、周易鄭玄王弼注、尚書孔安国鄭玄注、三礼毛詩鄭玄注、左伝服虔注、孝経孔安国鄭玄注、論語鄭玄何晏注」と云つてある。

     その百五十三

 わたくしは蘭軒が此年文政六年に阿部正精(まさきよ)に代つて弘安本孝経に跋した事を言つた。そして所謂弘安本の古文孝経孔伝であることに及んだ。
 孔伝(くでん)の我国に存してゐたものには数本がある。年代順に列記すれば、建保七年、弘安二年、正安四年(乾元元年)、元亨元年、元徳二年、文明五年、慶長五年の諸鈔本である。享保年間に此種の一本が清商の手にわたつて、鮑廷博(はうていはく)の有に帰し、彼土(かのど)に於て飜刻せられた。次で林述斎は弘安本を活字に附して、逸存(いつぞん)叢書の中に収めた。
 以上が阿部侯校刻前の孔伝の沿革である。然らば述斎の既に一たび刻したものを、棕軒侯は何故に再び刻したか。「林祭酒述斎先生。悲其正本遂堙滅。以弘安本活字刷印。収之於其所輯逸存叢書中。字画悉依旧。学者以□飫也。余閲其本。自有叢書辺格。故不得不換旧裁。亦不無遺憾焉。」阿部本は林本の旧裁を換へたのに慊(あきたら)ぬがために出でたのである。
 孔伝は安国(あんごく)に出でたと否とを問はず、兎も角も隋代の古本である。蘭軒はこれを尊重して、喜んで阿部侯に代つて序文を草した。しかし蘭軒は孝経を読むに孔伝を取らずして玄宗注を取つた。
 わたくしは上(かみ)に伊沢の家で毎旦孝経を誦(じゆ)するを例としてゐたことを言つた。此例は蘭軒の父信階より始つた。そして信階は古文孝経を用ゐてゐた。その玄宗注を用ゐるに至つたのは、蘭軒が敢て改めたのである。「先大人隆升翁生存之日。毎旦読此経。終身不廃。或鈔数十本。遺贈俚人令蔵。以為鎮家之符。其言曰。人読此経。苟存於心。雖身不能行。不至陥悪道矣。其厭殃迎祥。何術加之。梁皇侃性至孝。日限誦此経廿遍。以擬観音経。抑有以哉。吾輩豈不遵奉耶。翁所読本。即用古文本。信恬自有私見。而従玄宗注。」
 然らば此玄宗注とはいかなるものか。唐代の学者は古文孝経の偽撰たるを論じて、拠るべからざるものとしてゐたので、玄宗は自らこれを註するに至つたのである。事は開元十年六月にある。即ち我国大宝の学令に遅るること二十年余である。
 次で天宝二年五月に至つて、玄宗は重て孝経を注し、四年九月に石に大学に刻せしめた。所謂石台本(せきたいぼん)である。此重注石刻(ちようちゆうせきこく)は初の開元注に遅るること更に二十年余である。
 是に於て彼土に於ては初の開元注亡びて、後の石台本が行はれた。
 我国には猶開元注が存してゐた。逍遙院実隆(さねたか)の享禄辛卯(八年)の抄本が即是である。後寛政年間に屋代輪池(やしろりんち)の校刻した本は是を底本としてゐる。
 そこで狩谷□斎はかう云つた。既に玄宗注を取るからは、玄宗の重定(ちようてい)に従ふを当然とすべきであらう。「天宝四載九月。以重注本刻石於大学。則今日授業。理宜用天宝重定本。而世猶未有刻本。蒙窃憾焉。」幸に北宋天聖明道間の刊本があつて石刻の旧を伝へてゐる。□斎はこれを取つて校刻した。是が文政九年に成つた「狩谷望之審定宋本」の「御注孝経」である。阿部家の弘安本覆刻に後るること三年にして刊行せられたのである。

     その百五十四

 わたくしは以上記する所を以て、孝経のワリアンテスの問題に就いて、少くも其輪廓を画き得たものと信ずる。そして下(しも)の如くに思量する。蘭軒は主君に代つて、喜んで弘安本孔伝に跋した。それは隋代の古書の世に顕るることを喜んだためである。しかし蘭軒は孝経当体に就いては、玄宗注の所謂孔伝に優ることを思つた。「自有私見、而従玄宗注」と云つてゐる。按ずるに蘭軒と□斎とは見る所を同じうしてゐたのであらう。
 菅氏では此年文政六年に、茶山が大目附にせられ、俸禄も亦二十人扶持より三十人扶持に進められた。歳杪(さいせう)の五律は「喜吾垂八十、仍作楽郊民」を以て結んである。梁川星巌夫妻の黄葉夕陽村舎を訪うたのも亦此年である。
 頼氏では此年三子又二郎が生れた。復(ふく)、字(あざな)は士剛(しかう)、号は支峰である。里恵(りゑ)の生んだ所の男子で、始て人と成ることを得たのは此人である。
 其他森枳園が此年蘭軒の門に入つた。年は十七歳である。
 大田南畝は此年四月六日に歿した。茶山が書を蘭軒に与へて、老衰は同病だと云ひ、失礼ながら相憐むと云つてより、未だ幾(いくばく)ならずして歿したのである。茶山は南畝より長ずること僅に一歳で、此年七十六であつた。南畝は七十五歳にして終つた。
 此年蘭軒は四十七歳、妻益四十一歳、子女は榛軒二十、常三郎十九、柏軒十四、長十、順四つであつた。
 文政七年の元日は、棕軒正精が老中の劇職を辞して、前年春杪以来の病が痊(い)えたので、丸山の阿部邸には一種便安舒暢(べんあんじよちやう)の気象が満ちてゐたかとおもはれる。
 蘭軒には自家の「甲申元旦作」よりして外、別に「恭奉□元日即事瑤韻」の作があつた。初の一首に云く。「霞光旭影満東軒。臘酒初醒復椒尊。春意□々忘老至。懶身碌々任人論。烟軽山色青猶淡。節早梅花香已繁。尤喜吾公無疾病。聞鶯珠履渉林園。註云、客歳春夏之際、吾公嬰疾辞職、而至冬大痊、幕府下特恩之命、賜邸於小川街、而邸未竣重修之功、公来居丸山荘、荘園鉅大深邃、渓山之趣、為不乏矣、公日行渉為娯、故結末及之。」此詩には阿部侯の次韻があつて、福山の田中徳松さんが其書幅を蔵してゐる。「和伊沢信恬甲申元日韻。芙蓉積雪映西軒。恰是正元対椒尊。荏苒年光歓病瘉。尋常薬物任医論。一声青鳥啼方媚。幾点白梅花已繁。自値太平和楽日。間身依杖歩林園。」是は梅田覚太郎さんが写して贈つたのである。蘭軒原作の註は前(さき)に正精の請罷(せいひ)の事を言ふに当つて、已に一たび節録したが、今此に全文を挙げた。後の一首に云く。「標格高如千丈松。儼然相対玉芙蓉。歌兼白雪添堂潔。毫引瑞烟映桷□。竹色経寒猶勁直。梅花得雨自温恭。昇平方是宜游予。満囿春風供散□。」憾(うら)むらくはわたくしは未だ阿部侯の原唱を見ない。
 菅茶山の歳首の詩は、一家の私事の外に出でなかつた。「元日得頼千祺書、二日得漆谷老人詩。鳥語嚶々柳挂糸。春来両日已堪嬉。更忻此歳多佳事。昨得韓書今白詩。」千祺(き)が杏坪(きやうへい)の字なるは註することを須(もち)ゐぬであらう。漆谷(しつこく)は市河三陽、小野節二家の説を聞くに、後藤氏、名は苟簡(こうかん)、字は子易(しえき)、一字(じ)は田夫(でんふ)、又木斎と号した。北条霞亭の尺牘に拠るに、通称は弥之助である。讚岐の商家に生れ、屋号を油屋と云ふ。前年備後に来て、茶山と親善であつたことは、後者の癸未以後の詩に徴して知られる。
 茶山は此正月二日の詩に於て、単に家事のみを語つてゐるが、別に新年の五律があつて、「藩政俗差遷」と云ひ、又「救荒人忘旱」とも云つてゐる。前年は備後が凶歉(きようけん)であつた。

     その百五十五

 蘭軒は此年文政七年に春の詩四首を得た。前に載せた元日の二首の次には「早春偶成」と例の「豆日草堂集」とがある。わたくしは唯此に由つて蘭軒が甲申の正月元日にも又友を会して詩を賦したことを知るのみである。
 神辺(かんなべ)では菅茶山が人日(じんじつ)に藩士数人を集(つど)へて詩を賦した。「客迎英俊是人日、暦入春韶徒馬齢」の一聯がある。茶山の春初の詩は頗多い。前に出した阿部正精の辞職の詩に次韻した九首も其中にある。
 正月十九日に正精は丸山より小川町の本邸に徙(うつ)つた。蘭軒は旧に依つて丸山に留まつた。
 三月十六日には、勤向覚書に下(しも)の記事がある。「若殿様御額直御袖留為御祝儀、両殿様え組合目録を以て御肴一種づつ奉差上候。」若殿様は寛三郎正寧(まさやす)である。
 四月には「首夏近巷買宅、以代小墅」の詩がある。「巷東小築別開園。樹接隣叢緑影繁。半日清間纔領得。紅塵場裏亦桃源。」家計に些(ちと)の余裕があつたものか。宅を買ふと云ふより見れば、阿部邸の外の町家(まちや)であらう。
 蘭軒は此夏啻(たゞ)に別宅を設けたばかりでなく、避暑の旅をもしたらしい。その何(いづ)れの地に往つたかは、今考ふることが出来ぬが、「山館避暑」、「門外追涼」の二詩は蘭軒の某山中にあつたことを証する。「山館避暑。行追碧澗入山逕。垂柳門前有小橋。素練一条懸瀑水。緑天十畝植芭蕉。竹窓安硯池常沢。苔石煮茶鼎忽潮。即是羲皇人不遠。松風無復点塵飄。門外追涼。烟暮山光遠。月升樹影長。新涼身自快。迂路歩相忘。虫語莎叢寂。鷺驚荷沼香。時逢村女子。数隊踏歌行。」門外の山館門外なることは疑を容れない。わたくしの二詩を併せ録する所以(ゆゑん)である。
 わたくしは此より月日不詳の夏の詩の遺れるを拾はうとおもふ。しかし勤向覚書に、これに先(さきだ)つて書すべき一条がある。それは嫡子榛軒が父に賜はつた服を著ることを許された事である。「五月三日左之願書付、相触流玄順を以、大御目付稲生伝右衛門殿え差出候処、今日角右衛門殿差出され候処、御受取被置、同七日願之通勝手次第と被仰付候。口上之覚。私拝領仕候御紋付類、悴良安え著用為仕度奉願上候以上。五月三日。伊沢辞安。但糊入半切認、上包半紙折懸、上に名。」
 集中には夏の詩が凡(おほよそ)六首ある。其中別宅の事を言ふ一首と避暑の事を言ふ二首とは既に上(かみ)に見えてゐる。剰(あま)す所が猶三首ある。
「売冰図。堅冰六月浄□々。叫売歩過入軟塵。応是仙霊投砕玉。活来熱閙幾場人。」売冰は何(いづれ)の国の風俗であらうか。当時の江戸に冰(こほり)を売るものがあつたか、どうかは不詳である。明治年間幾多の詩人は識らずして此詩を踏襲した。
「松琴楼題長谷川雪旦画松魚。」松琴楼(しようきんろう)は料理店松金(まつきん)で、湯島天満宮境内、今の岩崎氏控邸(ひかへやしき)の辺にあつた。此楼に上つて雪旦の松魚(かつを)の画に詩を題したのであらう。詩は略する。
 夏の詩の最後の一首は松平露姫(つゆひめ)の事に繋(かゝ)る。露姫は松平縫殿頭定常(ぬひのかみさだつね)の女(むすめ)である。幼にして書画歌俳を善くした。二年前疱瘡に罹(かゝ)り、六歳にして夭した。蘭軒は其遺墨拓本を得て、これに詩を題したのである。

     その百五十六

 蘭軒の松平露姫の遺墨に題した詩には小引がある。「冠山老侯賜其令愛遺墨搨本。令愛齢僅六歳。吟意間雅。筆蹟婉美。頗驚人目。以文政壬午十一月廿七日夭。所謂梅花早発。不覩歳寒者哉。乃賦書中乾蝴蝶詩。謹書其末云。」書中乾蝴蝶(かんこてふ)の詩はかうである。
「□蝶風前舞不休。粉金飜翅縦春遊。芳魂忽入芸牋裏。尚帯花香傍架頭。」
 露姫の父冠山定常(くわんざんさだつね)は佐藤一斎の門人である。一斎の「愛日楼文」は冠山が稿本を借鈔し、小泉侯遜斎片桐貞信の抄する所の詩と与(とも)に合刊(がふかん)したものである。書中に「跋阿露君哀詞巻」の一篇がある。わたくしは此にその叙実の段を抄出する。「冠山老侯之季女阿露君。生而聡慧。四五歳時。既如成人。届文政壬午十一月。以痘殤。齢六歳也。検篋笥。得遺蹟。上父君諫飲書一通。訣生母蔵頭和歌一首。訣傅女乳人和歌一首。題自画俳詞三首。又得一小冊子。手記遺戒数十百言。及和歌若干首。理致精詣。似有所得者。至於遺戒。往々語及家国事。亦誠可驚矣。既而事稍々伝播。聞之者無不驚異。而弔詞哀章。陸続駢至。老侯追悼之余。□而軸之。徴坦為跋。」一斎は此段に接するに議論を以てしてゐる。そしてかう云ふ断案を下した。「或者宇宙間至霊鬼神。姑憑是躯以洩気機者。究之。与夫木石而能言者之不可思議奚以異。而尚可待以人而詰以理乎哉。」
 わたくしはこれを読んで、広瀬淡窓が神童を以て早熟の瓜(うり)となしたことを憶ひ出した。若し同一の論理を以て臨んだなら、露姫は温室の花であらう。これは常識の判断である。
 一斎はこれに反して露姫の夙慧(しゆくけい)を「有物憑焉」となした。わたくしはペダンチツクに一斎の迷信を責めようとはしない。しかし心にその可憐の女児(ぢよじ)を木石視したるを憾(うらみ)とする。若し文章に活殺の権があるとするなら、一斎の此文は箇(こ)の好題目を殺了したと云はざることを得ない。
 今わたくしの手許に「淡窓小品」が無いので、広瀬の文を引くことが出来ぬが、広瀬は禅家の口吻を以て常識を語つてゐた。然るに佐藤は道学者の語を以て怪を志(しる)してゐる。わたくしは此対照の奇に驚く。わたくしは早熟の瓜をも取らず、能言の木石をも取らない。わたくしは姑(しばら)く蘭軒の乾蝴蝶(かんこてふ)に与(くみ)して置かう。「芳魂忽入芸牋裏。尚帯花香傍架頭。」
 秋は※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-309-下-9]集に詩四首がある。「秋夕書事三首」と閏(じゆん)八月十五日に月を観た詩一首とである。後詩の引を見るに、江戸の中秋は無月であつた。菅茶山の集を閲(けみ)すれば、先づ十三夜には雨中に月が出た。「更深月出雨仍灑。照見銀糸垂半天。」十四夜は陰(くも)つてゐた。「秋郊醸雨気□蒸。来夜佳期雲幾層。」然るに幸に十五夜に至つて晴れた。「客逐秋期可共娯。況逢新霽片陰無。奈何天上団円影。不照牀頭一小珠。」末(すゑ)に「半月前喪姪孫女」と註してある。
 所謂「姪孫女」とは誰であらうか。わたくしの手許には福田禄太郎さんが黒瀬格一さんに請うて写し得た菅波高橋両家の系図がある。又此年甲申八月十七日後に茶山が蘭軒に寄せた尺牘がある。わたくしは此系図と尺牘とに就いて、姪孫女(てつそんぢよ)の誰なるかを究めて見ようとおもふ。原来姪孫女の称呼には誤解し易い処がある。しかし茶山の斥(さ)して言ふ所は「姪孫之女」ではなく、「姪之孫女」であるらしい。

     その百五十七

 わたくしは蘭軒の事蹟を叙して此年文政七年の秋に至り、八月十五日の夜、蘭軒が江戸に於て無月に遭ひ、菅茶山が神辺に於て良夜に会したことを言つた。茶山は良夜には会したけれども、歓(よろこび)を成すことを得なかつた。それは半月前に姪孫女を失つたからである。わたくしは系図と茶山の書牘とに由つて、此女児の誰なるかを検せようとした。
 わたくしは便宜上先づ茶山の書牘を挙げたい。しかし此書牘は月日(げつじつ)を闕いてゐて、只其内容より推して八月十七日後、少くも十数日を経て書いたものなることが知られるのである。それゆゑわたくしは此に先づ八月十七日前の事を略記して置いて、然る後に茶山の書牘に及ぶことゝする。
 八月十六日は蘭軒が何事をも記してゐない。茶山は二客と倶に酒を飲んだ。宵闇の後、明(あけ)近くなつて月を得た。「向暁門前笑語攅。喧言明月現雲端。」
 十七日は北条霞亭の一週年忌である。江戸では蘭軒が柴山某等と共に墓に詣でた。事はわたくしの将(まさ)に引かむとしてゐる茶山の書牘中にある。神辺では茶山が明月の下に詩を賦して哀(あい)を鳴らした。「十七夜当子譲忌日。去歳今宵正哭君。遠愁空望海東雲。備西城上仍円月。応照江都宿草墳。」
 さて月日不詳の茶山の柬牘は下(しも)の如くである。是も亦饗庭篁村さんの蔵する所に係る。
「御返事。」
「公作(こうのさく)御次韻(ごじゐん)御前へ出候由、大慶仕候。元来局束(きよくそく)にこまり候故、次韻は別而出来兼候。御覧にも入候而、御称(おんしよう)しも被下候由、難有仕合に奉存候。」
「拙集はよほど前に大坂飛脚に出し候。とく参候半(まゐりさふらはん)と被存候処、今以不参候よし、いよ/\不参候はば又之便に御申こし可被下候。吟味可仕候。」
「度々御前へ御出被成候よし委曲被仰下、於私(わたくしにおいて)も拍悦の御事に候。」
「妙々奇談珍敷奉存候。一覧直に宜山(ぎざん)へ遣し候。」
「御三男様御作吐舌(したをはき)申候。被仰候事を被仰下、辞気藹然(じきあいぜん)感じ申候。私方(わたくしかた)菅(くわん)三も十五になり候。詩少しつくらせ候へ共きこえ不申候。」
「鵬斎ながき事有之まじく候由気之毒に候。焚塩(やきしほ)すきと承(うけたまはり)、よき便あらばと存候へ共、さ候へば却而(かへつて)邪魔ものなるべし。」
「木駿卿(もくしゆんけい)前遊に逢不申、今以て残念に候。宜被仰可被下候。」
「此比霞亭一週忌柴山(しばやま)など墓参被成下候由、宜御礼御申可被下候。」
「中秋光景被仰下忝奉存候。備後の中秋有拙詩、うつさせ指上候。悪作御一笑可被下候。」
「扨おとらへよき物被下忝奉存候。然所流行痢疾(りしつ)にて八月三日相果候。(廿八日よりわづらひ付候は夜四つ時、死候は朝五つ時、其間三日計(ばかり)也。)お敬はじめ哀傷御憐察可被下候。」
「玄間学屈原候こといかなるわけに候哉。国に居候時も阿堵(あと)に不埒多きをのこ、定而(さだめて)其事なるべし。しかし何処へ行ても一あてはあてるをのこ、仙台か金沢へゆくもよかるべきに、可惜ことに候。」
「梧堂金輪時々おもひ出候。和尚に御逢被成候はば、宜御申可被下候、草々。晋帥拝白。」

     その百五十八

 わたくしの引いた所の菅茶山の書牘が、此年文政七年八月十七日の後少くも十数日を経て作られたと云ふことは、蘭軒等が北条霞亭の忌辰に当つて、其墓に詣でたのが、既に茶山に知られてゐるを以て証することが出来る。蘭軒と同じく墓を訪うた柴山(しばやま)は、嘗て蘭軒の集に見え、又狩谷□斎の元応音義(げんおうおんぎ)の跋に見えてゐる柴担人(さいたんじん)ではなからうか。蘭軒は又柴山謙斎と云ふものの家に往つて詩を賦したことがある。謙斎と担人とは同人か異人か。此には暫く疑を存して置く。
 わたくしは書牘の月日を推定せむがために、既に「霞亭一周忌」云々の段を挙げて、今直(たゞち)にこれに接するに新に亡くなつた女児の事を以てする。是は甲申中秋の月が照すに及ばなかつた黄葉村舎牀頭の小珠(せうじゆ)の何物なるかを究めむがためである。
 女児は名を「おとら」と云つたらしい。文中此仮名の三字は頗る読み難い。わたくしは字画をたどつて「おとら」と読んだ。しかし「おとう」とも「おこう」とも読まれぬことは無い。
 蘭軒はおとらに物を贈つた。然るに物の到つた時、おとらは既に死んでゐた。七月二十八日亥の刻に流行性痢疾の徴を見、八月三日辰の刻に死んだのである。甲申の七月は小であつたから、発病より死に至るまでは陰暦の五十一時間である。茶山は約して「其間三日許に候」と云つてゐる。
 おとらが死んでから第十三日が八月既望(きばう)である。「十五夜」の詩の註には「半月前喪姪孫女」と云つてある。牀頭の小珠が此おとらであることは固より疑を容れない。
 然らばおとらは誰の子か。姪孫女(てつそんぢよ)とは茶山の同胞の子の娘か、将(はた)茶山の同胞の孫の女(むすめ)か。わたくしは菅波高橋両家の系図を披(ひら)いて見た。茶山の弟汝□(じよへん)、晋宝(しんはう)、妹ちよ、まつには皆子があり、其子に女があり、中に夭折した女がある。わたくしは其中に就いて捜すこととした。何故と云ふに更に下ること一代となると、年月が合はなくなるからである。例之(たとへ)ば弟汝□の子万年(まんねん)の女類は夭折の年月或は契合すべく、更に下つて万年の子菅(くわん)三の女通(つう)となると、明に未生(みしやう)の人物となる。
 わたくしの捜索の範囲は茶山の書牘の一句に由つて頗る狭められた。それは「お敬はじめ哀傷御憐察可被下候」の語である。敬は亡くなつた女の母らしい。
 男系より見れば敬は茶山の弟汝□の子万年に嫁した婦(よめ)である。女系より見れば敬は茶山の妹ちよの井上正信に嫁して生んだ女である。
 しかし万年と敬との間には女子が無い。系図は敬の女(むすめ)を載せない。
 是に於てわたくしは、彼牀頭の小珠が北条霞亭の敬に生ませた女だらうと云ふことに想ひ到つた。おとらは山陽の「生二女、皆夭」と書した二女の一であるらしい。若しさうだとすると、未亡人敬の帰郷の旅は幼女を伴つた旅であつたこととなる。又蘭軒は前年見送つて江戸を立たせた孤(みなしご)に物を贈つたこととなる。

     その百五十九

 わたくしの上(かみ)に引いた菅茶山の此年文政七年旺秋後の書牘には、直接間接に十三人の事が見えてゐる。其中わたくしは既に第一故北条霞亭、第二霞亭の未亡人敬、第三其幼女とら、第四霞亭の墓に詣でた柴山某の四人に関する書中の二節を挙げて、これが解釈を試みた。
 第五は書の首(はじめ)に見えてゐる棕軒侯である。侯は茶山の次韻の詩を見て称讚した。「中歳抽簪為病痾」の七律とこれに附した八絶とである。茶山は「御覧にも入候而御称しも被下候由、難有仕合に奉存候」と云つてゐる。茶山は又蘭軒が侯に親近するを聞いて、友人のために喜んでゐる。「度々御前へ御出被成候よし、委曲被仰下、於私も拍悦之御事に候。」
 第六は侯の儒臣鈴木宜山(ぎざん)である。蘭軒は江戸に於て妙妙奇談の発刊せらるるに会ひ、一部を茶山に送致した。茶山は読み畢(をは)つて、これを宜山の許(もと)に遣つた。宜山は福山にあつて大目附を勤めてゐたのである。
 第七は侯の医官三沢玄間である。書に「学屈原候こといかなるわけに候哉」と云つてある。これはどうしたと云ふのであらうか。水に赴いて死したのであらうか。玄間は俗医にして処世の才饒(おほ)き人物であつたらしい。初め町医より召し出された時、茶山はこれを蘭軒に報じて、その人に傲(おご)る状を告げた。今其末路を聞くに及んで、「国に居候時も阿堵に不埒多きをのこ、定而其事なるべし」と云つてゐる。しかし茶山が哀矜(あいきよう)の情は、其論賛に仮借の余地あらしむることを得た。「しかし何処へ行ても一あてはあてるをのこ(中略)可惜ことに候。」
 第八は亀田鵬斎である。当時既に中風の諸証に悩されてゐた。「ながき事有之まじく候よし気之毒に候。」茶山は鵬斎の焼塩を嗜(たし)むことを知つてゐて、便(たより)を待つて送らうとおもつてゐた。しかし蘭軒の病状を報ずるに及んで躊躇した。「さ候へば却而邪魔ものなるべし。」
 想ふに茶山は鵬斎死期の近かるべきを聞いてゐて、妙々奇談中鵬斎を刺(そし)る段を読み、「気之毒」の情は一層の深きを加へたことであらう。譏刺(きし)は立言者(りつげんしや)の免れざる所である。死に瀕する日と雖も、これを免るることは出来ない。
 蘭軒の予後は重きに失した。鵬斎は余命を保つこと猶一年半許(きよ)にして、丙戌の暮春に終つた。此時七十三歳で、歿した時は七十五歳であつた。
 第九は木村定良(さだよし)、第十は石田梧堂、第十一は金輪寺混外(こんりんじこんげ)で、皆茶山が蘭軒をして語を致さしめた人々である。中に就いて木村は茶山が甲戌乙亥の遊に相見ることを得なかつたために、茶山は今に□(いた)るまで憾(うらみ)とすると云つてゐる。
 第十二第十三は蘭軒の三子柏軒と茶山の養嗣子菅(くわん)三惟繩(ゐじよう)とである。蘭軒は柏軒の詩を茶山に寄示(きし)した。茶山はこれを称(ほ)めて、菅三の詩の未だ工(たくみ)ならざることを言つた。書に「菅三も十五になり候」と云つてある。然らば惟繩は文化七年の生であらう。敬は霞亭に嫁する五六年前に、とらと其姉妹との異父兄惟繩を生んだのである。

     その百六十

 菅茶山の此年文政七年旺秋後の書牘中、わたくしの註せむと欲する所は概ね既に云つた如くである。しかし猶茶山の蘭軒に送つた詩集の事が遺つてゐる。「よほど前に大坂飛脚に出し候」と云ふ詩集が久しく蘭軒の許(もと)に届(いた)らなかつた。
 按ずるに是は「黄葉夕陽村舎詩後編」である。此書には「庚辰孟夏日」の武元君立(たけもとくんりつ)の書後、「辛巳十二月」の北条霞亭の序がある。辛巳は霞亭の江戸に入つた年である。わたくしは前に辛巳五月二十六日に茶山が霞亭に与へた書の断片を引いて、「先右序文いそぎ此事のみ申上候」とある序文は何の序文なるを詳(つまびらか)にせぬと云つたが、今にして思へば茶山が詩集後篇の序文を霞亭に求めたことは、復(また)疑ふことを須(もち)ゐない。既にして詩集後編は発行せられた。其奥附には「文政六年歳次癸未冬十一月刻成」と記してある。校閲は庚辰に終り、序文は辛巳に成り、剞□(きけつ)は癸未に終つた。その市に上つたのは恐くは甲申の春であらう。茶山は当時直(たゞち)に一部を蘭軒に寄せたのに、其書が久しく届かずにゐたのである。
 詩集の事よりして外、わたくしは今一つ此に附記して置きたい。それは茶山の病の事である。行状に拠るに茶山は「□噎」を病んで歿した。当時病牀に侍した人の記録は、一としてわたくしの目に触れぬから、わたくしは明確に茶山の病名を指定することは出来ない。しかし推するに茶山は食道癌若くは胃癌に罹つて歿したのであらう。
 わたくしの附記して置きたいのは、茶山の病が独り此消食管(せうしよくくわん)の壅塞(ようそく)即(すなはち)所謂(いはゆる)□噎(かくえつ)のみではなかつたと云ふことである。わたくしは上(かみ)の甲申旺秋後の茶山の書牘を引くに当つて、其全文を写し出した。しかし彼書牘には尚傍註の一句があつた。そしてそれが括弧内にも収め難いものであつた。茶山は病める鵬斎に焼塩を送らむと欲して、その病の篤きを聞いて躊躇した。「さ候へば却而邪魔ものなるべし。」此「而」の字の中の縦線二条が右辺(いうへん)に逸出(いつしゆつ)してゐる。茶山は「而」の字より横に一線を劃して一句を註した。「この而のか様になり候様に引つける也。」乃(すなは)ち知る、茶山は上肢に痙攣を起すことがあつたのである。是は恐くは消食管壅塞の病に聯繋した徴候ではなからう。恐くは別の病証であらう。専門臨床家の説が叩きたいものである。
 わたくしは上(かみ)に此年の北条霞亭一週忌の事を言つた。江戸に於ては蘭軒や柴山某等が巣鴨真性寺の墓に詣で、神辺に於ては茶山が月下に思を墓畔の宿草(しゆくさう)に馳せた。わたくしは既に甲戌に茶山の江戸に入つたことを言つて、其留守居の霞亭なりしことに及んだ。霞亭を説くこと一たびである。次に辛巳に霞亭の江戸に入つたことを言つた。霞亭を説くこと二たびである。次に癸未に霞亭の歿したことを言つた。霞亭を説くこと三たびである。今其一週忌に当つて、又霞亭の事を言ふ。即ちこれを説くこと四たびである。そして料(はか)らずも其一女の名を発見することを得た。
 しかし諸友はわたくしのために霞亭の遺事を捜索して未だ已まない。わたくしは読者に寛宥(くわんいう)を乞うて、下(しも)に少しく諸友の告ぐる所を追記しようとおもふ。

     その百六十一

 わたくしは此年文政七年の北条霞亭一週忌の事を言つた。そして新に得たる史料に拠つて、霞亭の遺事を其後に追記しようとおもふ。史料とは何であるか。その最も重要なるものは第一、「北条譲四郎由緒書」である。是は浜野知三郎さんが阿部家の記録に就いて抄写して示した。次は第二、「楝軒詩集」である。是は福田禄太郎さんが写して贈つた。最後に第三、嚢里(なうり)に関する故旧の談話である、是も亦浜野氏の教ふる所である。
 霞亭解褐(かいかつ)の年は、わたくしは岡本花亭の尺牘に本づいて辛巳となした。花亭は壬午九月四日に「去年福山侯の聘に応じ解褐候」と云つてゐる。
 しかし花亭の語は詳(つまびらか)でなかつた。由緒書に徴するに、「文政二卯四月十七日五人扶持被下置、折々弘道館へ出席致世話候様」と云つてある。山陽の「福山藩給俸五口、時召説書」と書したのが是である。花亭は解褐の年即東徙(とうし)の年となしてゐたが、実は解褐の東徙に先(さきだ)つこと二年であつた。霞亭は己卯四十歳にして既に阿部家の禄を食(は)んだ。
 次は霞亭東命の月日である。わたくしは菅茶山の辛巳五月二十六日の書柬に本づいて、霞亭が此年の春杪(しゆんせう)夏初(かしよ)に江戸に入つたものとした。
 此推測には大過は無かつた。由緒書に徴するに、「同(文政)四巳四月十三日御用出府、同年六月七日暫御差留、同日丸山学問所へ罷出、講釈其外書生取立、御儒者と申合候様、同月十三日三十人扶持被下置、大目附格御儒者被召出、同日奥詰出府之所在番」と云つてある。山陽の「尋特召之東邸、給三十口、准大監察」と書したのが是である。
 按ずるに四月十三日は藩の東役を命じた日であらう。そして六月七日の「暫御差留」が入府直後の処置ではなからうか。然らばわたくしの推定は大過は無かつたと云ふものの、猶詳なることを得なかつた。霞亭の入府は恐くは六月の初であつただらう。夏初ではなくて季夏(きか)の初であつただらう。
 霞亭は夏初には猶備後にゐたらしい。わたくしは楝軒(れんけん)詩集に拠つて此の如くに断ずる。楝軒は浅川氏、名は勝周(しようしう)、字(あざな)は士□(してい)、通称は登治右衛門(とぢゑもん)、茶山の集に累見せる「浅川」である。
 楝軒詩集は五巻ある。其巻(けんの)四辛巳の詩中に、「送霞亭北条先生応召赴東都」の七律がある。そして「特招元有光輝在、莫為啼鵑思故園」は其七八である。此詩の前には水晶花(すゐしやうくわ)の詩がある。水晶花は卯花(うのはな)であらう。卯花と云ひ、郭公(ほとゝぎす)と云ふは、皆夏の節物(せつぶつ)である。霞亭は夏に入つて猶福山にゐたのである。
 しかし此差は猶小い。わたくしは別に大いに誤つたことがある。それは霞亭が東に召された時初より孥(ど)を将(ひきゐ)て徙(うつ)つたとなした事である。実は霞亭は初め単身入府し、尋で一旦帰藩し、更に孥を将て東徙した。此事は夙(はや)く浜野氏が親くわたくしに語つた。若しわたくしが精(くは)しく山陽の文を読んだなら、此の如き誤をばなさなかつたであらう。山陽は「尋特召之東邸、給三十口、准大監察、将孥東徙、居丸山邸舎」と書してゐる。東に召すと東に徙るとは分明に二截(せつ)をなしてゐる。わたくしの読むことが精しくなかつたと謂はなくてはならない。
 由緒書に徴するに、「同年(文政四年辛巳)八月九日江戸引越」と云つてある。

     その百六十二

 北条霞亭は辛巳の歳に東に召された時、初は単身入府し、後更に孥(ど)を将(ひきゐ)て徙(うつ)つた。前の江戸行は四月十三日に命ぜられて、六月の初に江戸に著したらしい。後の江戸行は由緒書に「八月九日江戸引越」と記してある。
 所謂江戸引越は霞亭が江戸に留つてゐて、妻孥を備後より迎へ取つたのでなく、霞亭は自ら往いて妻孥を迎へたのである。其明証は楝軒(れんけん)詩集にある。
 浅川楝軒は初め霞亭が召されて東に之(ゆ)く時、上(かみ)に引いた七律を作つて其行を送つた。尋で秋に入つてから、詩を霞亭に寄せた。即ち「奉寄北条先生」の七律で、其第二句に「秋気満庭虫乱鳴」と云つてある。霞亭が妻孥を迎へに備後に帰つた日、細(こまか)に言へば帰り著いた日は秋に入つた後でなくてはならない。
 さて霞亭が再び備後を発するに当つて、楝軒は詩二篇を賦した。一は七古で、「奉送霞亭北条先生携家赴東都邸」と題し、一は七絶で、「五日木犀舎席上別霞亭先生」と題してある。
 霞亭の自ら備後に往つて妻孥を迎へたことは、此二篇の存在が既にこれを証してゐる。しかし啻(たゞ)にそれのみではない。七古の中に「来携妻孥乍復東」の句がある。又次の年壬午の「春日書事、次霞亭先生丸山雑題韻五首」の七律第二首が「憶昔両回馬首東」を以て起(おこ)つてゐる。霞亭親迎(しんげい)の証拠は十分だと謂つて好からう。
 わたくしは進んで江戸引越の月日を明(あきらか)にしたい。由緒書に「八月九日引越」といふのは、何の日であらうか。楝軒の詩題に「五日木犀舎席上別霞亭先生」と云ふのは、何月五日であらうか。
 今仮に八月九日を以て、霞亭一家の江戸に著した日だとすると、木犀舎祖筵(そえん)の五日は辛巳七月五日でなくてはならない。そして彼楝軒が霞亭に寄せた「秋気満庭虫乱鳴」の詩は、七月朔より五日に至る間に成つて発送せられたものでなくてはならない。木犀舎は山岡氏の家で、今の阿部伯の家令岡田吉顕(よしあき)さんの姻家ださうである。
 只此に一の疑問がある。それは上(かみ)の「来携妻孥乍復東」の詩の題下に、「十月五日」の細註が下(くだ)してあることである。しかし上の仮定が誤らぬとすると、十月は霞亭の備後を去つた後となる。福田氏の抄本を見るに、「十月」の傍(かたはら)に「原書のまま」と註してある。按ずるに福田氏も亦此「十」字に疑を挾(さしはさ)んでゐるらしい。
 記(き)して此に至つた時、わたくしは的矢の北条氏所蔵の霞亭尺牘一篋(けふ)を借ることを得た。思ふにわたくしは今よりこれを検して、他日幾多の訂正をしなくてはなるまい。わたくしは此に先づ一の大いなる錯誤を匡(たゞ)して置く。それは偶(たま/\)篋中より抽(ぬ)き出した一通が、わたくしをして嚢里(なうり)新居の壬午の歳に成つたことを思はしむる一事である。霞亭は妻孥と共に一たび阿部邸の長屋に入り、居ること久しうして後、始て嚢里に移つたらしい。嚢里の詩中「移居入秋初」の句は此に由つて始て矛盾を免れる。そして八月九日は必ずしも霞亭一家の江戸に著いた日とはせられない。木犀舎祖筵の月は猶疑を存して置かなくてはならない。
 わたくしは姑(しばら)く此に嚢里のトポグラフイイを記して置く。浜野氏の故旧に聞く所に拠れば、霞亭が嚢里の家は今の本郷区駒込西片町十番地「ろ部、柳町の坂を上りたる所、中川謙次郎氏の居所の前辺(まへあたり)より左に入りたる」袋町(ふくろまち)であつたさうである。

     その百六十三

 此年文政七年の冬に入つてより、蘭軒は十月十三日に本草経竟宴(ほんざうきやう/\えん)の詩を賦した。竟宴には宿題があつて、蘭軒は□冬(くわんとう)を詠じた。其七絶は※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-321-上-5]詩集に見えてゐるが、此には省(はぶ)く。
 蘭軒が講じた本草経とはいかなる書か。是は頗るむづかしい問題である。支那の文献を論ずることが、特にわたくしの難(かた)んずる所なるは、既に数(しば/\)云つた如くであるが、此問題の難いのは独りわたくしの知識の足らざるがために難いばかりではない。
 本草経の所謂神農本草経であることは論を須(ま)たない。しかし当時此名の下に行はれてゐて信頼すべき書は存在してゐなかつた。是故(このゆゑ)に上(かみ)の問題を反復して、「蘭軒が講じた神農本草経とはいかなる本か」と云ふに至つて、わたくしの以て難しとする所は始て明になるのである。
 本草の書の始て成つたのは、その何(いづ)れの時なるを知らない。漢書は藝文志に本草を載せずして、只平帝紀(へいていのき)に其名が見えてゐる。前人は本草の著録は張華(ちやうくわ)華佗(くわだ)の輩の手に出でたであらうと云つてゐる。隋書以下の志が方(まさ)に纔(わづか)に本草経を載せてゐる。その神農の名を冠するは猶内経(ないけい)に黄帝の名を冠するがごとくである。
 神農本草経には三巻説と四巻説とがある。そして四巻説が正しいらしい。即ち上中下と序録一巻とがあつたと云ふのである。
 既にして後人が交(こも/″\)起つてこれを増益した。そして原文と諸家の文とが混淆した。多紀□庭(たきさいてい)は「爾後転輾附益非一、而旧経之文、竟併合于諸家書中、無復専本之能伝于後矣」と云つてゐる。即ち専本(せんほん)が亡びたのである。
 諸家の増益は端(たん)を梁の武帝の時に成つた陶隠居の集註に発(ひら)き、次で唐の高宗の顕慶中に蘇敬の新修本草が成つた。又唐本草とも云ふ。是は七世紀の書である。
 次に宋の宣宗の元祐中に唐慎微(たうしんび)の撰んだ証類本草(しようるゐほんざう)がある。是は十一世紀の書である。
 次に徽宗の大観二年に艾晟(かいせい)の序した大観本草がある。又大全本草とも云ふ。是が十二世紀の書である。
 次に南宋神宗の嘉泰中に成つた重修本草(ちようしうほんざう)がある。是が十三世紀の書である。
 且此等の書は一も原形を保存することを得ずして、唐の書は宋人に刪改(さんかい)せられ、北宋の書は南宋人に、南宋の書は金元明人に改刪せられた。
 明の万暦丙午に至つて李時珍(りじちん)の本草綱目が成つた。是が十七世紀の書である。
 凡そ此等の書の中には、初め古(いにしへ)の本草経が包含せられてゐた。しかし其一部分は妄(みだり)に刪(けづ)られて亡びた。唯他の一部分が□蘭(けいらん)の雑草中に存ずるが如くに存じてゐる。そして其前後の次第さへ転倒せられてゐる。
 此混淆糅雑(じうざつ)は固より歴代の学者が意識して敢て為したのでは無い。故に右の諸書には初め朱墨の文が分つてあり、後尚白墨の文が分つてあつた。惜むらくは其赤黒と白黒とが互に錯誤を来して、復辨ずべからざるに至つたのである。
 然るに唐以前の本草の旧を存ぜんと欲し、乃至唐以前の本草の旧に復せんと欲したものも亦絶無ではない。わたくしの談は此より古本草復活の問題に入るのである。

     その百六十四

 此年文政七年十月十三日に蘭軒は本草経竟宴の詩を賦した。わたくしはその講ずる所の本草経のいかなる書なるかを究(きは)めむと欲して、先づ古(いにしへ)の本草経の復専本(またせんぽん)を存ぜざることを言つた。それは原文が後人補益の文と交錯して辨別し難きに至つたのである。
 専本は既に亡びた。しかし猶唐以前の旧を存ぜむと欲し、又唐以前の旧に復せむと欲するものは、往々にして有つた。
 先づ宋の太宗の太平興国八年に成つた太平御覧に本草経の文を引くものが頗(すこぶる)多い。是は十世紀の書で、蘇敬以後の文は此中に夾雑して居らぬのである。御覧には由来善悪本がある。曾て北宋槧本(ざんほん)に就いて本草経の文を抄出し、「神農本草経」と題したもの一巻がある。躋寿館医籍備考本草類(せいじゆくわんいせきびかうほんざうるゐ)の首に収めてあるものが是である。
 しかし此所謂神農本草経は完本では無い。引用文を補綴(ほてつ)したものに過ぎない。
 次に明の慮不遠(りよふゑん)が医種子中に収めた「神農本草経一巻」がある。此書は我邦(わがくに)に於ても、寛保三年と寛政十一年とに飜刻せられた。しかし慮は最晩出の李氏本草綱目中より白字を摘出したるに過ぎない。
 次に清の嘉慶中に孫伯衍(そんはくえん)及鳳卿の輯校する所の「神農本草経」がある。是は唐氏証類本草に溯つてゐる。しかし編次剪裁(せんさい)の杜撰(づさん)を免れない。
 凡そ古本草経に就いて存旧若くは復旧を試たものは以上数種の外に出でない。それ故わたくしは蘭軒が何(いづ)れの書を講じたかを究めむと欲して、大いに推定の困難を感ずる。蘭軒の講ずべき書を此中に求めむことは、殆ど不可得(ふかとく)である。
 わたくしは敢て此に大胆なる断案を下さうとおもふ。それはかうである。
 蘭軒の講じた神農本草経は既成の書では無い。諸友人諸門人と倶に北宋本太平御覧、我国伝ふる所の千金方、医心方等に就いて、その引く所の文を摘出し、自ら古本草経のルコンストリユクシヨンを試た。講ずる所の本草経は此未定稿本である。
 わたくしは当時の稿本のいかなるものであつたかを想像して、略(ほゞ)後に森枳園の著した「神農本草経」に似たものであつただらうとおもふ。是は枳園著作の功を狭(せば)めようとするのでは無い。宋本御覧や、千金方や、医心方や、其中に存ずる所の古本草経の遺文は学者の共有に属する。問題はいかにこれを編次して唐以前の体裁に近づかしむるかに存ずる。蘭軒は或は多く此に力を費さなかつたかも知れない。わたくしは嘉永七年に成つた枳園本の体裁が、全く枳園自家の労作に出でたと云ふことには、敢て恣(ほしいまゝ)に異議を挾(さしはさ)まうとはしない。
 わたくしは只※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-324-上-13]詩集に見えてゐる本草経が或は枳園の本草経に似た未定稿本であつたのではなからうかと云ふのみである。わたくしは蘭軒が慮氏孫氏等の本を取つて講じたとは信じ難いがために、推理の階級を歴(へ)て此断案に到著したのである。

     その百六十五

 此年文政七年の十二月には二つの記すべき事がある。一は蘭軒の主家に於て儲君阿部寛三郎正寧(まさやす)の叙位任官の慶(よろこび)があつたことである。事は次年歳首の詩の註に見えてゐる。阿部家に此慶のあつたことと、彼弘安本古文孝経の刻成せられたこととは、蘭軒の重要視する所であつたので、其詩にも入つたのであらう。詩註に云く。「客歳十二月十六日。世子叙従五位下。任朝散大夫。公旧蔵弘安鈔本古文孝経孔伝。客歳命工□刻。故詩中及之。」今一つは二十三日に蘭軒が医術申合会頭たる故を以て、例年の賞を受けたことである。勤向覚書の文は略する。
 ※[#「くさかんむり/姦」、7巻-324-下-14]斎詩集には此年の冬詩四首がある。其最初なるものが上(かみ)に云つた本草経竟宴の詩で、最後なるものが「歳晩書懐」の絶句である。「貧富人間何互嗤。不知畢竟属児嬉。春風一促紙鳶去。落地凌霄彼一時。」中間に「自笑」と題する一絶一律がある。並に皆貧に安んじ分を守つて、流俗の外(ほか)に超出すること、歳晩の詩と相類してゐる。わたくしは四十八歳の蘭軒の襟懐を示さむがために、此に両篇を採録する。七絶。「詩句未嘗得好音。□嚢常是絶微金。村醪独酌醺然後。嶽々亢顔論古今。」七律。「生来未歩是非関。身在世途如在山。心淡時随茶讌後。量微猶混酒徒間。緯紗冬夜談経坐。杜曲春風買笑還。誇道我元無特操。優游已到□毛斑。」
 菅氏では茶山が此年七十七歳になつた。頼山陽が母梅□(ばいし)を奉じて来り宿したのが十月十五日で、中の亥の日に当つてゐた。「□□祭亥市童喧。只祝郷隣産育繁。恰有潘郎陪母至。問来独樹老夫村。」茶山が山陽の父叔完疆柔(ふしゆくくわんきやうじう)の三人を品題したのも此年である。「兄弟三人並風流。二随鶯遷一鴎侶。春水春草扁各居。最留春事属誰所。衙前楊柳路傍花。寅入酉退奈厳何。興来行楽倦則睡。長留春風在君家。伯是儒宗叔循吏。所得終孰与仲多。」山陽が「他日有人為三翁立伝、当収先生此詩於賛中、以為断案」と云つてゐる。歳晩の茶山の詩には絶て衰憊(すゐはい)の態が無かつた。「迎春不必凋年感、且喜椒盤対俊髦。」
 蘭軒は上(かみ)に云つた如く此年四十八歳であつた。妻益四十二歳、子女は榛軒二十一歳、常三郎二十歳、柏軒十五歳、長十一歳である。
 文政八年「乙酉元日」は立春後十四日であつた。蘭軒の律詩には阿部家世子の慶事と孝経刻成の事とが頷聯に用ゐてある。「春入千門松竹青。尤忻麗日照窓櫺。儲君初拝顕官位。盛事新雕旧聖経。魚上氷時憑檻看。鳥遷喬処把觴聴。優游常在恩光裏。不歎徒添犬馬齢。」茶山には元日二日の五律各一首がある。備後は年の初が雪後(せつご)であつた。「午道氷消潦」の句があり、又「残雪水鳴矼」の句がある。
 九日の例年「草堂集」には、蘭軒が「偏喜青年人進学、休嗤白首自忘愚」の聯を作つた。自註に「近日同社少年輩学業頗進、故詩中及之」と云つてある。
 十九日は春社(しゆんしや)であつた。蘭軒の詩に「小吹今年新附一、童孫鳴得口琴児」の句がある。わたくしは初め榛軒が已に娶(めと)り已に子を挙げてゐたかを疑つたが、これは一家の事に与(あづか)らぬらしい。

     その百六十六

 此年文政八年三月十三日に蘭軒は上野不忍池に詩会を催した。※[#「くさかんむり/姦」、7巻-326-上-12]斎詩集に此時に成つた七絶五首がある。其引はかうである。「三月十三日。与余語天錫、森立夫、岡西君瑤、高橋静覧、横田万年叔宗橘、酒井安清、多良辨夫、及二児厚重、同集篠池静宜亭。」詩は此に総叙の如き初の一首を取る。「阻風妨雨過芳辰。況復世紛纏此身。今日忽遭吟伴□。小西湖上問残春。」
 不忍池の詩会に列した人々は皆少年らしく思はれる。蘭軒は二児榛軒厚(こう)、柏軒重(ちよう)を除く外、悉(こと/″\)く字(あざな)を以て称してゐる。その人物の明白なるものは森立之(りつし)、字は立夫(りつふ)、岡西徳瑛(とくえい)、字は君瑤(くんえう)の二人に過ぎない。立之は通称養竹、徳瑛は通称玄亭で、皆門人録に見えてゐる。
 余語(よご)氏は此年甲申の武鑑に、「余語古庵、寄合御医師、五百石、本郷御弓町」の一人が見えてゐるのみである。此より後の武鑑には同名、同禄、同住所の人が奥詰医師となり、奥医師となつてゐる。わたくしは此家の系譜伝記を見ぬので、天錫(てんせき)の誰の字(あざな)なるを詳(つまびらか)にしない。
 弟潤三郎はこれを読んで、駒込竜光寺に余語氏の塋域のあることを報じてくれた。弟は第一「法眼古庵余語先生墓、元禄八乙亥年三月十九日卒、孝子元善建、」第二「現寿堂法眼瑞善先生余語君墓、享保二十年七月十五日卒、年七十二歳、」第三「天寧斎余語古庵先生墓、安永七年八月二十二日卒、七十歳、」第四「拙存斎、文化十一年四月四日卒去、六十二歳、」第五「蔵修斎前侍医瑞典法眼余語君墓、嘉永元戊申四月十日」の五墓を見た。そして天錫は或は瑞典かと云つてゐる。弟の書には竜光寺境内の図があつて、余語の塋域は群墓の中央にある。わたくしの曾て訪うた安井息軒の冢子(ちようし)朝隆(てうりう)と其妻との墓の辺である。程近い寺だから、直に往つて観た。余語氏の諸墓は果して安井夫妻の墓の隣にあつた。しかし今存してゐるものは第四第五の二石のみで、第四には「拙存斎余吾良仙瑞成先生墓」と題してある。第一第二第三の三石は既に除き去られたのであらう。天錫の事は姑(しばら)く弟の説に従つて置く。
 高橋静覧も亦不詳である。門人録に「高橋宗朔、宗春門人、岩城平」と「高橋玄貞、弘前」との二人がある。宗春は同書に「横田宗禎、宗春子」とあるより推すに、或は横田宗春であらうか。按ずるに静覧は宗朔若くは玄貞の字(あざな)ではなからうか。
「横田万年叔宗橘」の文は句読に疑がある。「万年之叔宗橘」一人か、又「万年及其叔宗橘」か決し難い。門人録には「横田宗橘、高通健、通渓早死に付跡目」とあり、又通渓は「高通渓、横田宗禎弟、亀山」とある。わたくしは此に門人録の原文を引くに止めて置く。此簡約の語に由つて一の断案を下さむことは、余に危険だからである。
 酒井安清(あんせい)は全く他書には見えない。門人録は一の酒井氏をも載せない。
 多良辨夫(たらべんふ)は或は敬徳の字(あざな)であらう。門人録に「多多良敬徳、後文達、江戸」と記してある。
 夏に入つて、四月十三日に蘭軒が再び静宜亭に詩会を催したらしい。「山斎牡丹、四月十三日静宜亭宿題」の七絶一首がある。其次に「夏意、席上分韻」の七律一首がある。席上とは四月十三日の席上であらう。
 五月十三日には三たび静宜亭に会したらしい。「栽竹、五月十三日静宜亭宿題」の五律二首、「関帝図、同上」の七絶一首、「晨起、席上分韻」の七絶二首がある。
 六月十三日には四たび静宜亭に会したらしい。「老婦歎鏡、六月十三日静宜亭宿題」「打魚、同上」「観蓮、同上」の七絶各一首がある。山斎牡丹(さんさいのぼたん)以下十首の詩は省(はぶ)く。
 十四日には程近き長泉寺に遊んだ。「六月十四日、長泉寺避暑、寺在丸山、往昔元禄中、隠士戸田茂睡、老居此地、園植梨数十株、今有梨坂。梨花坂北有松門。涼籟吹衣到祇園。清浄心他山翠色。安禅坐是石苔痕。幽禽境静猶親客。炎日樹喬不入軒。方識昔時高尚士。卜隣此地避塵喧。」
 晦(つごもり)には墨田川に遊んだ。「六月晦日墨水即事」の七絶がある。詩は省く。以上夏の詩十七首中、わたくしは二首を取つた。別に「即事」一、「題画」二の七絶があつて、並に製作の日を載せない。
 秋に入つて、蘭軒は七月七日に友を家に会した。「七夕小集」の七絶に「茅亭亦有諸彦会」の句がある。
 八月十三日に蘭軒は五たび静宜亭に会したらしい。「友人園中巌桂頗多、因乞一株、八月十三日静宜亭宿題、」「観濤、同上、」「村醸新熟、静宜亭席上」の七絶、七律、五律各一がある。詩は省く。

     その百六十七

 此年文政八年八月十五日に蘭軒は「中秋新晴」の詩を作つた。「連日関心風雨声。今宵忽漫報新晴。満園露気秋蕭灑。月自桂叢香裏生。」按ずるに桂とは巌桂(がんけい)を謂ふのであらう。二日前の静宜亭の会に、友人が多く巌桂を栽ゑてゐるので、其一株を乞うたと云ふ宿題が出でてゐた。わたくしは此詩を見て、彼題の蘭軒の出したものなるを知り、又彼会の蘭軒の主催に係ることを知る。来会者に蘭軒の門人多き所以である。巌桂は木犀である。蘭軒は此中秋に新に移植した木犀の木間(このま)の月を賞したのである。
 此中秋は備後も亦新晴(しんせい)であつた。菅茶山の五古の引はかうである。「乙酉中秋。霖後月殊佳。数日前湯正平至自江戸。説蠣崎公子在病蓐。因賦寄問。且告近況。兼呈花亭月堂二君。」湯正平(たうせいへい)は何人(なにひと)なるを知らぬが、新に神辺(かんなべ)に来て、蠣崎波響(かきざきはきやう)の江戸に病んでゐることを告げた。波響五十五歳の時である。茶山は波響と岡本花亭、田内月堂の二人とに寄示せむがために詩を作つたのである。
 八月の初に備後は淫雨であつた。「比来頻苦雨、不望半秋晴。」十四日にも雨が劇(はげ)しかつたが、午後に至つて忽ち晴れた。「昨朝勢逾猛。半日屋建※[#「令+瓦」、7巻-329-下-1]。秋鳩忽数語。返照射前楹。」其夜は北風が雲を駆つて奔(はし)らしめ、明月が雲の絶間に見えた。「昨夜風自北。月泝走雲行。時当雲断処。光彩一倍生。」かくて十五夜に至ると、天は全く晴れて、些(ちと)の翳(くもり)の月の面輪を掠むるものだに無かつたので、茶山は夜もすがら池を繞(めぐ)つて月を翫(もてあそ)んだ。「今夜無繊翳。不覩星漢横。興来繞池歩。月在水心停。」
 茶山は花亭月堂等が江戸にあつて同じ月を賞する状(さま)を思ひ遣つた。「不知東関外。得否此晶瑩。携酒誰家楼。泊舟何処汀。如見歓笑態。宛聞諷詠声。」そして病後の波響を憫んだ。「近伝張公子。臥病坐環屏。新起雖怯冷。或能倚窓櫺。憶昔椋湖泛。緇素会同盟。如今独君在。余子尽墳塋。孤尊斟砕璧。能不動旧情。」
 椋湖(りやうこ)は巨椋(おほくら)の池であらう。茶山が波響と小倉附近に遊んだのは、恐くは二人が始て京都に於て交(まじはり)を訂した寛政初年の秋であつただらう。同じく舟を椋湖に泛べた緇素(しそ)とは誰々か。わたくしは茶山集の初編を披(ひら)いて検した。寛政六年甲寅の中秋に、七絶三首があつて、引に「中秋与六如上人、蠣崎公子、伴蒿蹊、橘恵風、大原雲卿、同泛舟椋湖」と云つてある。前(さき)にわたくしは壬午「憶昔三章」の詩中「十一年後忽此歓」の句より推して、波響茶山の交を寛政五年に始まるとなしたが、実は六年であつた。甲子の再会は十一年後ではなくて、実は十年後であつた。
 同遊六人の僧俗中先づ死んだのは六如(りくによ)である。享和元年三月十日に寂したから、二十四年前である。次は所謂橘恵風(きつけいふう)である。宮川春暉(しゆんき)、字(あざな)は恵風、橘姓、南谿と号した。歿日文化二年四月十日は二十年前である。次は文化三年七月二十六日に歿した伴蒿蹊(ばんかうけい)で、十九年前である。次は同七年五月十八日に歿した大原呑響(どんきやう)で、十五年前である。「如今独君在、余子尽墳塋。」
 以上記し畢つた後、寛政甲寅の遊には猶二人の同行者があつたことを知り得た。即ち米子虎(べいしこ)、松孟執(しようまうしふ)である。事は文政戊寅の詩引及己卯の詩註に見えてゐる。是は上田芳一郎さんの示教に由つて覆検した。

     その百六十八

 此年乙酉の八月十三日上野不忍池の上(ほとり)なる静宜亭に催された例会の席上の作と、中秋の作との中間に、※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-330-下-7]詩集は「送森島敦卿還福山」の七絶一首を載せてゐる。敦卿(とんけい)の下(しも)に樸忠(ぼくちゆう)と註してある。森島樸忠、字は敦卿である。
 わたくしは浜野知三郎さんに質(たゞ)して、略(ほゞ)此人の事を詳(つまびらか)にすることを得た。森島氏は樸忠五世の祖忠上(ちゆうしやう)の時阿部正次に仕へた。忠上は延宝八年に歿した。高祖を忠久と曰ふ。元禄十七年に歿した。曾祖を忠好と曰ふ。享保八年に歿した。祖父を忠州と曰ふ。明和五年に致仕した。父を忠寛と曰ふ。寛政七年に致仕した。樸忠は忠寛の二子にして立嫡(りつてき)の命を受けた。時に寛政三年十一月二十七日であつた。以上は由緒書に拠る。
 樸忠の年齢には疑がある。樸忠の孫鶴岡耕雨さんの記する所を検するに、歿日を「弘化二午歳七月十日」と云つてある。弘化二年乙巳とすべきか、弘化三年丙午とすべきかに惑ふ。姑(しばら)く丙午を正しいとする。さて歿する時樸忠は年七十一であつたと云ふ。
 此前提より由緒書を看るときは、下(しも)の樸忠の履歴が成り立つ。樸忠、字は敦卿、通称は金十郎である。安永五年に生れ、寛政三年十六歳にして父忠寛の嫡子にせられ、七年に二十歳にして「跡式二百三十石広間番」を拝した。此より後樸忠は下の諸職を命ぜられた。「享保元年使番。三年兼火事場目附。文化二年大目附箱掛。五年仕置定式掛。普請掛、除銀納方掛。七年韓使来聘時公儀役人通行用掛。八年者頭席。九年宮造営掛。十年郡奉行、兼寺社奉行、兼大目附、兼収納方吟味掛、兼宮用掛、兼箱掛。十一年郡中大割吟味掛、兼町奉行。十三年免大目附。文政元年番頭。五年用人格、用人。」
 樸忠は用人として文政七年七月二十七日に「江戸在番」を仰附けられ、十月五日に「当暮若殿様御叙爵に付御用掛」にせられた。若殿は寛三郎正寧(まさやす)である。十二月廿二日「右御用掛無滞相勤候に付銀二枚御酒御吸物被下置、」同日「若殿様へ干鯛一折奉指上、」東役の任務が畢(をは)つた。そこで八年乙酉中秋前後に、蘭軒は将(まさ)に福山に還らむとする樸忠がために詩を賦したのである。
 蘭軒の詩に云く。「金言為贈非吾事。彩筆壮行別有人。偏想君経榛海路。荻花楓葉月明新。」此時樸忠は正に四十歳であつた。
 八月二十七日の由緒書の文に、「帰郷之御目見御意拝領物」と云つてある。樸忠は秋のうちに福山に帰つたことであらう。
 福山に帰つた後、樸忠は「城番席」を勤めてゐて、天保八年十月十三日に六十二歳にして致仕し、新五郎忠同が家を継いだ。しかし忠同は十年三月廿九日に父に先(さきだ)つて歿した。鶴岡氏の記する所に従へば、樸忠は我郷(わがきやう)の大国隆正、福羽美静(よししづ)と相識つてゐたと云ふ。
 ※[#「くさかんむり/姦」、7巻-332-上-8]斎詩集の此秋の詩は凡(すべ)て十一首ある。七夕一、八月十三日静宜亭集宿題巌桂、観濤二、同席上村醸新熟(そんぢやうしんじゆく)一、中秋一、送敦卿一、以上六首の末に、「遊仙曲」一首、九月二十三日静宜亭集の詩四首がある。此四首は宿題「塞下曲」一、「貴人郊荘菊叢盛開、就偸一賞」二、席上「鳴鹿」一である。静宜亭の詩会は此年四月に始まつて九月に終つた。

     その百六十九

 此年文政八年の秋には、蘭軒の家に猶一事(じ)の記念すべきものがあつた。それは吉野山の桜を園内に移し植ゑたことである。蘭軒の識る人に斎藤某と云ふものがあつた。桜は本此斎藤氏の園中の木であつた。蘭軒はそれを乞ひ得て移し植ゑたのである。事は次年に作つた長古「芳桜歌」と其小引とに載せてある。惜むらくは其移植の月日が記してない。
 初め小さい桜の木の苗を吉野山から齎し帰つて、これを江戸の邸宅の園内に植ゑたのは、斎藤氏の家の旧主人である。丙戌より五十年前だと云へば、安永中の事でなくてはならない。「斎藤氏園。有一桜樹。云旧主人得寸株於芳野而所栽。五十年於茲。殆已合抱。去秋余懇切乞之。遂移園中。」是が引の云ふ所である。
 五十年の星霜を閲した「合抱」の木であつたから、これを移すのは容易な事ではなかつただらう。蘭軒の懇望のいかに切なりしかは、歌に「蜀望荊州方可想、秦求趙璧亦斯情」と云ふを以て知られる。蘭軒は初め言ふことを憚つたが、遂に意を決して乞うた。「言偏思巧未開口。策已将運猶畜胸。忽把破瓶迸水勢。断然切乞意方剛。」斎藤某は蘭軒の脚疾あるを憐んでこれを許した。「主人清淡且仁慈。莞笑頷之不敢辞。徐説愛花吾似子。但吾健歩子其痿。満城花柳春如錦。子欲行遊何得為。割愛自今付与子。灌培莫懈期花時。」

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