伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

 江戸には未亡人敬の帰り去つた後、猶亡(ばう)霞亭のために処理すべき事があつたと見える。茶山は蘭軒に、「北条事に付これはかくせよ、かれはいかがせよと被仰下たく候」と委嘱してゐる。霞亭の葬られた寺の事、北条氏の継嗣の事等であつただらう。巣鴨の真性寺に、頼山陽の銘を刻した墓碣(ぼけつ)の立てられたのは、此より後九年であつた。浜野知三郎さんの言(こと)に拠るに、「北条子譲墓碣銘」は山陽の作つた最後の金石文であらうと云ふことである。霞亭の家は養子退(たい)が襲いだ。山陽は「河村氏子退為嗣、即進之」と云ひ、「其子進之寓昌平学」と云つてゐる。所謂河村氏は嘗て文部省に仕へた河村重固(しげかた)と云ふ人の家で、重固の女(ぢよ)が今の帝国劇場の女優河村菊枝ださうである。
 霞亭の遺事は他日浜野氏が編述し、併て其遺稿をも刊行する筈ださうである。わたくしは上(かみ)に云つた如く、浜野氏に就いて既刊の霞亭の書二三種を借り得たから、読過の間にわたくしの目に留まつた事どもを此に插記しようとおもふ。人若しその道聴途説(だうていとせつ)の陋(ろう)を咎むることなくば幸である。
 山陽は霞亭の祖先を説いて、「其先出於早雲氏」と云つた。霞亭も亦自ら其家系を語つてゐる。渉筆に云く。「昔吾家宗瑞入道。嘗召一講師読七書。首聴三略主将之法務攬英雄之心句。断然曰。吾已領略。其他不欲聞之。英豪之気象。千載如生。而斯語也。実名言也。為将帥者不可不服膺。」軼事(いつじ)は今人の皆知る所である。わたくしの此に引いたのは、その霞亭の筆に上つたためである。
 次に山陽は「後仕内藤侯、侯国除」と云つてゐる。そして「志摩的屋人」の句は先祖を説くに先だつて下(くだ)してある。文が頗る解し難い。所謂「内藤侯」の何人(なにひと)なるかは、稍(やゝ)史に通ずるものと雖、容易に知ることが出来ぬであらう。わたくしは山陽が強て人の解することを求めなかつたのではないかと疑ふ。
 渉筆に西村維祺(ゐき)の文が載せてある。霞亭の曾祖父道益の弟僧了普(れうふ)の事を紀(き)したものである。了普の伝は僧真栄の伝と混淆して、二人の同異を辨じ難い。西村は「子譲初欲自書栄公事、顧命予其撰」と云つてゐる。西村維祺は或は驥□(きばう)日記の西村子賛(しさん)ではなからうか。此篇は霞亭の世系を説くこと、墓誌に比すれば稍(やゝ)詳である。わたくしはこれを読んで、始て内藤侯とは或は此人ではなからうかと云ふ、微(かすか)なる手がかりを得た。

     その百三十九

 西村維祺は北条霞亭の曾祖父道益の弟僧了普が事を紀(き)する文にかう云つてゐる。「予友北条子譲先。嘗事鳥羽内藤侯。及侯亡。提家隠于的屋。」此句の下(しも)に、「時北条省為北氏、或称喜多」と註してある。
 霞亭の遠祖の主家内藤某は鳥羽に封ぜられてゐた。内藤氏の城池のある鳥羽とは何処か。角利助(すみりすけ)さんの説くを聞くに、鳥羽は的屋より程遠からぬ志摩国鳥羽で、封を除かれた内藤氏は延宝八年六月二十七日に死を賜はつた内藤和泉守忠勝である。
 北条氏の的屋に住んだのは、内藤氏の亡びた後である。此時一旦北条を改めて北と云ひ、又喜多とも書した。山陽は「曾祖道益、祖道可、考道有、皆隠医本邑」と書してゐる。要するに曾祖以後は皆的屋の医であつた。道益の弟僧了普は三箇所村棲雲庵(せいうんあん)に住んで、寛保三年某月二十六日に寂した。然るに此了普と僧真栄との事蹟が混淆して辨じ難くなつてゐる。西村は「栄普二公、其跡迷離」と云つてゐる。唯真栄は享保七年九月七日に寂して、北岡に碑があり、了普は棲雲庵に碑がある。西村は「的是両人」と断じ、「或疑了普学書於真栄、以其善書、世亦直称無量寺也歟」と追記してゐる。越坂(をつさか)の無量寺は真栄終焉の地である。
 霞亭の父道有は適斎と号した。山陽は「娶中村氏、生六男四女」と云つてゐる。帰省詩嚢を見れば、適斎は文化十三年丙子に七十の寿宴を開いた。神辺(かんなべ)から帰つて宴に列つた霞亭は、「三弟及一妹、次第侍厳慈」と云つてゐる。寿を献じたものは長子霞亭以下の男子四人と女子一人とであつた。霞亭の弟の中維長立敬は適斎の継嗣である。山陽は「以次子立敬承家」と云つてゐる。
 霞亭は安永九年に生れた。適斎が三十四歳にしてまうけた嫡男である。
 霞亭は幼(いとけな)かつた時の家庭の一小事を記憶してゐて、後にこれを筆に上(のぼ)せた。それは天明八年に霞亭が九歳であつた時の事である。霞亭に、惟長でない今一人の弟があつて、名は彦(げん)、字(あざな)は子彦(しげん)、通称は内蔵太郎(くらたらう)と云つた。彦は天明四年生で、此年五歳であつた。霞亭が文化戊辰に著した文の渉筆中に収められたものはかうである。「記二十年前一冬多雪。予時髫□喜甚。乃与穉弟彦。就庭砌団雪塑一箇布袋和尚。坐之盆内。愛翫竟日。旋復移置寝処。褥臥視之。其翌起問布袋和尚所在。已消釈尽矣。弟涕泣求再塑之不已。而雪不可得。母氏慰諭而止。後十余年。彦罹疾没。爾来毎雪下。追憶当時之事。其声音笑貌。垂髦之□□。綵衣之斑爛。宛然在耳目。併感及平生之志行。未嘗不愴然悲苗而不秀矣。」
 霞亭が志を立てて郷を出でたのは、寛政九年十八歳の時であつたらしい。詩嚢に「跌蕩不量分、功業妄自期」と云ひ、「不事家人産、遠与膝下辞」と云つた時である。適斎は子を愛するがために廃嫡した。山陽は「以次子立敬承家、聴君遊学」と云つてゐる。此事が霞亭十八歳の時に於てせられた証は、渉筆に自ら「予年十八遊京師」と云ひ、又嵯峨樵歌(せうか)の首に載せてある五古に韓凹巷(かんあふこう)が、「発憤年十八、何必守弓箕、負笈不辞遠、就師欲孜々」と云ふに見て知られる。樵歌も亦わたくしの浜野氏に借りた書の一である。

     その百四十

 北条霞亭は寛政九年に十八歳にして的屋を出で、先づ京都に往つた。わたくしの狭い見聞を以てするに、文学の師に皆川淇園があり、医学の師に広岡文台(ぶんたい)があつたことは明である。霞亭は「不事家人産」とは云つてゐるが、初猶伝家の医学を廃せずにゐたのである。
 淇園は人の皆知る所なれば姑(しばら)く置く。文台、名は元(げん)、字(あざな)は子長(しちやう)、伊賀の人である。渉筆に霞亭の自記と、韓凹巷(かんあふこう)の文とがあつて、此人の事が悉(つく)してある。霞亭は文台の平生を叙して、「受学赤松滄洲翁、蚤歳継先人之志、潜心長沙氏之書、日夜研究、手不釈巻、三十年如一日矣、終大有所発揮、為之註釈、家刻傷寒論是也」と云ひ、凹巷は「聞先生終身坎※[#「土へん+稟」、7巻-278-下-1]、数十年所読、唯一部傷寒論、其所発明、註成六巻、既梓行世」と云つてゐる。
 文台は霞亭の初て従遊した時四十三歳であつた。それは十八歳の霞亭が「長予二十五歳」と云つてゐるので知られる。霞亭の云く。「予年十八遊京師。初見先生。時時就質傷寒論之疑義。先生長予二十五歳。折輩行交予。遇我甚厚。毎語人曰。夫人雖少。志気不凡。必当有為。」霞亭のためには、文台は獲易からざる知音であつた。
 霞亭は京都に学んだ頃、心友韓凹巷を獲、又長孺(ちやうじゆ)、仲彜(ちゆうい)、遠恥(ゑんち)の三人と交つた。長孺は堀見克礼(こくれい)さんの言(こと)に従へば、清水氏、号は雷首(らいしゆ)、通称は平八ださうである。遠恥、名は恭(きよう)、号は小蓮(せうれん)、鈴木氏、修(しう)して木(ぼく)と云つた。所謂木芙蓉(ぼくふよう)の子である。仲彜は越後国茨曾根(いばらそね)の人関根氏であるらしい。長孺、仲彜の事は凹巷の五古に、「幸為同門友、一朝接清規、(中略、)有時過我廬、吟興黙支頤、(中略、)憶曾長孺宅、邀君奏□※[#「たけかんむり/「虎」の「儿」に代えて「几」」、7巻-279-上-2]、豪爽人倶逝、長孺及仲彜」と云つてある。遠恥の事は渉筆に、「弱冠負笈西遊、予時在京師、相見定交、同筆硯殆半年」と云つてある。若しその霞亭との交が、早く霞亭京遊の第一年に於てせられたとすると、正に十九歳になつてゐた。
 霞亭は京に上(のぼ)つた年の暮に一たび帰省した。渉筆に云く。「寛政丁巳十二月。予出京赴郷。会天陰風粛。比過山科村。微雪飄瞥。点綴翠竹碧松之梢。寒景蕭散可愛。須臾愁雲四合。雪大如拳。積素満径。幾欲没腰。顛倒踉蹌。走就鶴浜茶店。卸担踞竈。以燎湿衣。少焉風止雲朗。予推窓試観。則天台比良三上諸峰。如白玉削成。園城寺之仏観法塔。如瓊宇瑤台。涌出霄漢之間。湖面一帯。倒暎揺蕩。宛若銀竜矯矯盤旋。令人心胆澄徹。坐作登仙之想。真奇観也。至今一念其境。恍如身在其中。雖盛夏酷暑。煩悶之苦堪頓忘矣。」
 霞亭が京都に遊学してゐた第二年、寛政十年に霞亭の弟彦(げん)が的屋から出て来た。そして霞亭の友源□瑰(げんまいくわい)と云ふものに師事した。渉筆に彦の事を叙して、「寛政戊午遊学京師、師事友人□瑰源先生」と云つてある。わたくしは未だ北条氏の系譜を見ぬから、彦と惟長と孰(いづれか)長、孰幼なるを知らない。しかし霞亭は自ら彦を称して「予次弟」と云つてゐる。これは直(すぐ)次(つぎ)の弟と解すべきではなからうか。此見解は山陽が「考(適斎)以次子立敬承家」と書したのと或は合はぬかと疑はれる。但し山陽は後に既成の迹より見て筆を下(くだ)したかも知れない。霞亭が遊学したのと、適斎が霞亭の嫡(てき)を廃し、代ふるに惟長立敬を以てしたのとは、必ずしも同時ではないかも知れない。山陽は彦が既に早世してゐたので、其次の惟長を次子と称したかも知れない。源□瑰は未だ考へない。要するに彦は、歿年より推すに、十五歳にして京都に来り、十九歳の兄霞亭と同居したものとおもはれる。

     その百四十一

 北条霞亭が京都に遊学した第二年、寛政十年には猶霞亭の筆に上(のぼ)つた一条の軼事(いつじ)がある。それは皆川淇園が歿してから一年の後、文化五年戊辰十一月に記して、後渉筆中に収めたものである。「十年前。余在京師。一日従先師淇園先生遊東山。路由京極御門。過一縉紳家門。先生乃指示曰。此万里小路氏也。又指示其西北隅之門曰。建武中。中納言避世。遁北山。微服従此出。其家哀慕其人。不忍出入其門。関鑰不肯啓。雖第邸変徙。旧制尚存。即此。余聞之。恍爾想像当時之艱。吁嗟不能已。爾後毎過其側。未曾不粛爾起敬矣。按太平記。藤房既知諫之不可行。特詣内廷拝帝。比退朝。直赴北山。是或一伝也。」
 霞亭は藤房を以て我国宋儒の最初の一人として尊崇してゐた。通途(つうづ)の説に従へば、始て朱註の四書を講じたものは僧玄慧(げんゑ)で、花園、後醒醐両朝の時である。然るに霞亭は首唱の功を藤房の師垂水(たるみ)氏に帰してゐる。わたくしは垂水氏の事を詳(つまびらか)にせぬが、往古唐通詞の家であつたらしい。霞亭は「四書集註、初伝播我邦、垂水広信崇信読之、藤房従而受業、或云、玄慧法師始講之、藤房玄慧同時与交、則其授受固当相通」と云つてゐる。
 遁世後の藤房に就いては、霞亭は妙心寺六祖伝の僧宗弼(そうひつ)を以て藤房とする説を取つてゐない。即ち今の史家の説に合してゐる。霞亭は一家の想像説を立てて、藤房は北山より近江国三雲に往き、其後越前国鷹巣山に入り、其後土佐国に渡らむとして溺れたやうに以為(おも)つてゐる。其文はかうである。「今以臆推之。三雲之棲。当在出北山之初。何以知之。以地相近。且従者尚在也。鷹巣之事。在三雲之後。土佐之行。又在鷹巣之後。何以知之。以拾遺(吉野拾遺)所言也。」
 霞亭の二十歳になつた寛政十一年の夏、弟彦(げん)は京都より的屋に帰つて、其秋十六歳で早世した。渉筆に、「翌年(戊午翌年)夏、帰省在家、九月十九日没、年十六歳」と云つてある。
 霞亭は京都を去つて江戸に来た。わたくしは未だ其年月を知らない。山陽は此間の事を、「入京及江戸」の五字中に収めてゐる。或は「及江戸」の三字中と云つた方が当つてゐるだらう。凹巷(あふこう)も亦「飄忽君東去、去舟汎不維」と云つてゐるだけである。しかし京を去つた年は或は享和二年ではなからうか。後庚午の年に、再び広岡文台(ぶんたい)を訪うて其死に驚く紀事に、「凡経八年南帰」と云つてあるからである。
 霞亭の確に江戸にゐた年は、享和三年である。其二十四歳の時である。此年七月には或は既に入府してゐたやうにおもはれ、十二月には確に在府したことが、その自ら語る所に徴して知られる。
 七月は霞亭の友鈴木小蓮(せうれん)の歿した月である。渉筆に、「遠恥東帰、開業授徒、享和癸亥七月、病麻疹而没、年纔二十五、府下識与不識、莫不悼惜者、親友輯其遺稿若干篇上木、予亦跋其後、小蓮残香集是也」と云つてある。先づ「府下」の字を下(くだ)し、次で「親友」の字を下し、後に「予亦」の字を以て承(う)けてゐる。わたくしをしてその在府者の語たるを想はしむるのである。
 十二月には霞亭が舟を柳橋に倩(やと)うて、墨田川に遊んだ。同遊者には河崎敬軒があつた。又池隣哉(ちりんさい)と云ふものがあつた。河崎は十二年の後、菅茶山と共に西帰して、驥□(きばう)日記を著した人である。池は十三年の後、霞亭が廉塾から的屋に帰つた時家にあつて、霞亭と弟惟長とに訪はれた人である。

     その百四十二

 北条霞亭が二十四歳の時、歳晩に舟を墨田川に泛べた記は渉筆に見えてゐる。「予嘗居江戸数年。享和癸亥歳晩。河良佐池隣哉来在府下。一日快雪初霽。予与二子。乗興出遊。遂到柳橋。命舟泛於墨水。両岸人家。白玉合成。銀閣瑤楼出其上。左右映帯。一棹悠々。挙酒賦詩。楽甚。隣哉出所齎香□炉。一縷烟出窓外。真如坐画図中舟。幽遠清澹之趣。□与塵凡隔。実一時之勝事也。」亨和中の諸生は香を懐にして舟に上(のぼ)つた。当時の支那文化は大正の西洋文化に優つてゐたやうである。
 霞亭は江戸にあつて学業成就した。そして某藩の聘を避けむがために、奥州に赴いた。偶(たま/\)韓凹巷(かんあふこう)が伊勢国から来て此行を偕(とも)にした。山陽は「学成、一藩侯欲聘致之、会聯玉来偕遊奥、以避之」と云つてゐる。
 此北遊の年月はわたくしの未だ知らざる所である。しかし或は文化元年甲子二十五歳の時ではなかつただらうか。凹巷はかう云つてゐる。「松島偶同遊。柳橋訂此期。独奈河良佐。客中臨路岐。迢々彼遠道。共指天之涯。下毛路向東。十月朔風吹。(中略。)帯月発荒駅。衝雨尋古碑。塩浦過群嶼。宛如局上棋。有楼収全境。眼中無蔽虧。富山又石港。探勝路逶□。」わたくしは先づ「柳橋訂此期」の句と、敬軒の別れ去つたことを叙する数句とに注目する。
 わたくしは此詩句を取つて、姑(しばら)く妄(みだり)に下(しも)の如くに解する。霞亭の学術は前年癸亥に略(ほゞ)成つた。歳晩の舟遊は、その新に卒業して気(き)揚(あが)り興(きよう)豪(がう)なる時に於てせられた。柳橋の船宿で艤(ふなよそほひ)を待つ間に、霞亭は敬軒と松島に遊ぶことを約した。即ち「柳橋訂此期」である。然るにかねて契つた敬軒は官事に覊(き)せられて別を告げ、偶(たま/\)来つた凹巷が郷人に代つて行を同じくした。即ち「松島偶同遊、柳橋訂此期、独奈河良佐、客中臨路岐」である。柳橋の約はその訂せられた日より、その果たされた日に至るまで、多少の遷延を蒙つた。甲子の春が過ぎ、夏秋が過ぎた。霞亭と凹巷とが江戸を離れて下野国(しもつけのくに)に入り、路を転じて東に向つたとき、十月の風が客衣を飜した。「下毛路向東。十月朔風吹。」その東に向つたのは、宇都宮附近よりしたことであらう。
 二人は奥州街道を北へ進んで、仙台附近より又東に折れ、多賀城の碑を観た。其日は途中から雨になつた。「帯月発荒駅。衝雨尋古碑。」此より塩釜に遊び、富山(とみやま)に上り、石の巻に出た。「塩浦過群嶼。宛如局上棋。(中略。)富山又石港。探勝路逶□。」
 壮遊の興は此に至つて未だ尽きなかつた。わたくしは凹巷の詩に就いて、二人の鞋痕(あいこん)を印した道を追尋(つゐじん)することとする。詩にはかう云つてある。「更登高館墟。長吁歎文治。(中略。)唯余中尊寺。遺構纔未□。北対琵琶城。衣川長渺瀰。吹雪一関風。風刀劈面皮。帰途海浜険。魂断足胼胝。」
 二人は北上川に沿うて北し、文治の故蹟を高館(たかだち)に訪うて判官義経を弔し、中尊寺に詣で、衣川(ころもがは)を隔てて琵琶の柵の址(あと)を尋ね、一の関に至つて方(まさ)に纔(わづか)に踵(くびす)を回(めぐら)した。琵琶の柵は泉の城の別名である。
 帰路は海に沿うて南し、常陸の潮来(いたこ)に遊んだ。服部南郭の昔俗謡を翻(ほん)した所で、当時猶狭斜の盛を見ることが出来たであらう。後安井息軒が東遊の日に至つてさへ、妓館屋牆(ぎくわんをくしやう)の麗が旧に依つて存してゐたと云ふからである。凹巷の詩には「絃※[#「鼓/兆」、7巻-283-下-11]潮来夕、弛棹水中□」と云つてある。
 江戸に還つてから、霞亭は雨中凹巷を品川に送つた。凹巷の詩に「最記対烟雨、品川泣別離、(中略、)一別茫如夢、爾来歳月移」と云つてある。

     その百四十三

 北条霞亭は北遊より江戸に還つて、韓凹巷(かんあふこう)の西帰を品川に送つたが、其後幾(いくばく)ならぬに江戸を去つて、相模に往き、房総に往つた。凹巷の詩にかう云つてある。「聞君去江戸。浪迹又何之。(中略)房山与相海。孤往愁可知。(中略)慨然懐往昔。寄我鴻台詩。」
 此等の小旅行の月日は、わたくしは今これを審(つまびらか)にせぬが、北遊の翌年、文化二年の歳の暮に、霞亭が今の上総国君津郡(きみつごほり)貞元村(さだもとむら)の湯江(ゆえ)にゐたことは明である。渉筆にかう云つてある。「文化乙丑十二月。予遊南総。寓湯江村法岸精舎十余日。予与主僧二人而已。幽僻荒涼。除読書外無一事。一日天寒雪飛。林岫皓然。予緩歩遶庭園。俄而主僧温濁酒一瓶。摘蔬為羹侑予。予喜而謝。細酌間吟。頗得風致焉。蓋主僧憐予岑寂。倩村童遠※[#「貝+(やね/示)」、7巻-284-上-15]得也。一枯禅山僧。能解人意如此。亦可嘉。」法岸寺(はふがんじ)と云ふ寺は今猶湯江にあるか、どうだか。
 相模房総の遊後に、霞亭は再び北して越後に入つた。山陽の墓誌には「又寓越後」の四字が下(くだ)してある。凹巷の詩にはかう云つてある。「去此客于越。章甫未必悲。越人虚席迎。敬待物如儀。(中略)游賞渉春夏。新潟洵所宜。(中略)山水待君顕。文章敵七奇。」
 霞亭の越後に寓したのが、某年の春夏であつたことは、此凹巷の語に由つて知られる。そして某年は必ず文化四年でなくてはならない。何を以て謂ふか。渉筆に載せてある戊辰の記に下の一段があるからである。「去年仲春。主茨曾根関根氏。一夕与主人飲于斎中。大杯満酌。頽然酔倒。不知主人起去。夜将半渇甚。起視則篝燈□々。寂無人声。啓戸窺庭。雪月争輝。満園之樹如爛銀。予不覚叫奇三声。惟恨無同賞心者。困憶子猷山陰之興。誦招隠詩数回。取雪水煮茶。兀坐達旦。其襟抱之清。不言可知。」茨曾根村(いばらそねむら)は中蒲原郡白根町(しろねまち)の南にある。丁卯三月に霞亭は茨曾根にゐた。此より後夏を新潟に過したのであらう。
 此北越の遊が文化四年であつたことは、上(かみ)の文を草し畢(をは)つてから、凹巷の北陸游稿を見てこれを確証することを得た。此書はわたくしの曾て一たび蔵して、後これを失ひ、今又一書估の齎し来るに会つて購(あがな)ひ求めたものである。游稿の序は亀田鵬斎が撰んでゐる。其文にかう云つてある。「友人志州北条子譲。丁卯歳先我游于信越之間。為北游摘稿数十篇。上梓以問世。」此に由つて観れば霞亭の游は啻(たゞ)に筆に上(のぼ)せられたのみならず、又梓(あづさ)にも上せられてゐるのである。
 記して此に至つて、わたくしは再び霞亭南帰の問題に撞著(たうちやく)する。霞亭は越後より南帰して、伊勢国度会郡(わたらひごほり)林崎に駐(とゞ)まつた。此間の事を叙するに、山陽の筆は唯空間を記して時間に及ばない。
 凹巷の詩には此事を叙してかう云つてある。「異郷雖可楽。故国有厳慈。学成勝衣錦。菽水想怡々。信中攀桟道。帰思日夜馳。別来已八年。訪我顧茅茨。(中略。)経過従此数。咫尺寓林崎。」わたくしは初め「別来已八年」の句を下の「訪我」に連(つら)ねて読んだ。しかし霞亭と凹巷とが奥州より帰つて品川で袂を分つた文化甲子の後八年は、霞亭が嵯峨幽棲の後となる。別来の句は上に連ねて読まなくてはならない。即ち厳慈(げんじ)に別れてより八年である。
 此八年と云ふことは、凹巷が他所に於ても亦云つてゐる。霞亭と其医学の師広岡文台(ぶんたい)とは、別後久しきを経て再会すべきであつたに、文台は期に先だつて歿した。凹巷の所謂「訪我顧茅茨」の日は、霞亭が此恨事(こんじ)を閲(けみ)する直前と直後とにあつた。そして此事のあつたのは、霞亭が外にあること八年にして南帰した時であつたと云ふのである。

     その百四十四

 韓凹巷(かんあふこう)の記する所に拠るに、北条霞亭の南帰は、父適斎に別れてより後八年、其医学の師広岡文台(ぶんたい)に別れてより後十三年であつた。適斎は始終志摩国的屋にをり、文台は初め京都にをつて後伊賀に帰つてゐた。霞亭は寛政九年に京に入つて、享和二年に京を去つたらしい。京にある間は毎歳(まいさい)帰省するを例としてゐて、享和二年にも亦父を見て後に遠遊の途に上(のぼ)つたのであらう。享和二年の後八年は文化七年である。
 霞亭は寛政九年に京に入つて、直に文台に従学した。霞亭は「居無幾、先生帰伊州、予亦雲遊四方、数歳而帰郷、(中略)遂往訪則云、先生以本月朔病歿、今已六日、実文化七年三月也、夫知己相待之殷、以十三年□離之久、期一見於二百里外、豈意其人既亡、臨之後事、即俾予此行、纔在数日前、尚及其目未瞑也」と云つてゐる。文台は文化七年三月朔(ついたち)に五十六歳で歿したのである。此渉筆の文より推せば、所謂十三年前は寛政九年で、文台は霞亭と始て相識つた年に、早く既に京を去つたらしい。所謂「居無幾」は一載にだに満たぬ月日であつた。
 霞亭は文化七年三月六日に、伊賀の広岡の家を訪うた。そしてこれは郷里的屋に帰つて若干日(じやくかんじつ)を経た後であつた。上(かみ)に略した文に、「数歳而帰郷、爾来簡牘往来、比々不絶、先生数促予命駕、予亦佇望已久」と云つてある。霞亭は七年の春早く的屋に帰つたかとおもはれる。
 凹巷が文台の事を叙した文は下(しも)の如くである。其中には霞亭が郷を離れて後八年にして帰つたと云ふことと、師に別れて後十三年にして帰つたと云ふことと、両(ふた)つながら見えてゐる。「広岡文台先生伊州人也。嘗在京洛。以医為業。鬱々不得志。久之帰郷。吾友北条子譲寓都下之日。一見即為知己。其後子譲浪遊四方。凡経八年南帰。先生数寄書慰問。率無虚月。今茲庚午三月子譲往訪先生。視履交其門。以為延客宴集。既通姓名。出迎者愀然云。先生罹疾奄逝。今已六日矣。子譲初聞為妄為夢。終乃悲而慟。蓋相別十有三年。訪之不遠二百里。欲一把臂吐其胸臆。而幽明無由再見。豈不悲乎。子譲此行本期前月。余因事泥之。子譲亦遷延不発。卒致此死別。遺憾其謂之何。」
 以上引く所に従へば、霞亭南帰の時は略(ほゞ)推定することが出来るやうである。
 霞亭は文化七年三十一歳にして的屋に帰つた。その家に到り著いたのは、春未だ闌(たけなは)ならざる頃であつただらう。郷を離れてより八年の後であつた。
 次で霞亭は一たび凹巷を伊勢に訪ひ、留まること数日の後、医学の師広岡文台を伊賀国に訪うた。其日は三月六日で、文台は歿して已に六日であつた。別後十三年の事である。
 霞亭は伊賀より伊勢に往いて、又凹巷の家を訪うた。霞亭は自ら「恨歎弥日、帰来過山口聯玉家、説其故」と云ひ、凹巷は「悵然帰来、過予告故」と云つてゐる。「故」とは文台が旧弟子に再会するに及ばずして歿したことを謂ふのである。後者の詩に、「訪我顧茅茨」と云つてあるのは、初度の訪問を斥(さ)して言つたものであらう。
 霞亭は暫く伊勢に留まつた。そして林崎文庫の公吏となつたらしい。山陽は「為勢林崎院長」と書し、凹巷の詩には「経過従此数、咫尺寓林崎」と云つてある。

     その百四十五

 北条霞亭は文化七年庚午三月六日に、伊賀の広岡文台の家を訪うて其死を聞いた。次年八年辛未二月二十一日には嵯峨の竹里(ちくり)の家が出来た。霞亭の林崎生活は此間にあつた筈である。即ち晩春より次年仲春に至る一年の間である。
 然るに韓凹巷(かんあふこう)の詩の此間の事を叙するを見るに、少しく疑ふべき所がある。「経過従此数。咫尺寓林崎。(中略。)紅葉添秋興。翠嵐和晩炊。(中略。)中間又何楽。伴我游洛師。台嶽共登臨。淡雲湖色披。(中略。)朝尋西塔路。山靄帯軽※[#「雨かんむり/斯」、7巻-288-上-7]。下嶽過大原。奇縁遇浄尼。(中略。)采薇弔平后。題石悲侍姫。岩倉又訪花。林曙聴黄□。上舟航浪華。雨湿篷不推。勢南春尽帰。花謝緑陰滋。」林崎生活の中間に洛師の遊が介(はさ)まつてゐて、それが春游であつた。遊び畢(をは)つて伊勢に帰つたのが新緑の時であつた。此春は庚午の春でなくてはならない。辛未の春より初夏に至るまでは、霞亭が已に竹里にゐたからである。
 霞亭は庚午の三月六日に広岡の家で旧師の死を聞いて、後事を営んだ。此間に多少の日子を費したことは、「恨歎弥日」と書したのを見て推せられる。
 此より伊勢の山口の家に来たのだから、其時は早くても三月中旬であらう。そして此より初夏に入るまでに、霞亭は籍を林崎に置き、洛師の遊を作(な)した筈である。果して然らば「紅葉添秋興」の事は、詩に於ては中間の遊に先(さきだ)つて写してあつても、実は中間の遊に後れてゐなくてはならない。此秋は洛師遊後の秋でなくてはならない。
 想ふに林崎院長(りんきゐんちやう)は職に就いた直後に、凹巷を拉して京都に遊んだのであらう。此遊の顛末は、上(かみ)に引いた詩句を除いては、別に見る所が無い。わたくしは唯其中に見えてゐる一の人物を抽(ぬ)き出して、此に註して置く。即ち「奇縁遇浄尼」の句中の浄尼(じやうに)である。
 比丘尼、名は松珠(しようじゆ)、紀伊国人(きのくにびと)であつた。霞亭凹巷の二人が大原に遊んだ時、松珠は寂光院内の寂如軒(じやくによけん)に住んでゐた。そして二人を留めて軒中に宿せしめた。浜野知三郎さんのわたくしに借した書の中に、「芳野游藁」一巻がある。是は此遊に遅るること三年、癸酉の春、凹巷が河崎敬軒、佐藤子文及霞亭と偕(とも)に芳野に遊んだ時の詩巻である。凹巷等が当麻寺(たいまでら)に於て松珠に再会したことは載せて巻中にある。
 霞亭は庚午の夏より冬に至るまで、林崎(はやしざき)にあつて文庫の書を渉猟し、諸生を聚めて経を講じ、又述作に従事した。山陽は「院蔵書万巻、因益致深博」と云つてゐる。凹巷は「堂上散書帙、聚徒垂絳帷」と云つてゐる。渉筆の一書の如きも亦此間に成つた。首に題してかう云つてある。「予読書之次。異聞嘉話。苟有会於心。随即録之。間或附一二管見。(中略。)頃消暑之暇。省覧一過。因抄若干条其中。□為冊子。」末(すゑ)に「文化庚午夏日」と記してある。渉筆は秋に至つて刊行せられた。林崎書院(りんきしよゐん)の蔵板である。
 霞亭は文化八年二月に林崎を去つて嵯峨に入つた。嵯峨樵歌(せうか)は其隠遁生活の記録である。隠遁生活は霞亭の久しく願ふ所であつた。「勝地居新卜、此期吾自夙」と云ひ、「峨阜棲期自早齢、幽居先夢竹間□」と云つてゐる。わたくしは此より樵歌の叙する所に就いて、霞亭が幽棲の蹟(あと)を討(たづ)ねる。

     その百四十六

 北条霞亭の嵯峨生活は自ら三期に分れる。霞亭は初期は竹里(ちくり)に、中期は任有亭(にんいうてい)に、後期は梅陽軒(ばいやうけん)に居つた。僧月江撰の嵯峨樵歌の跋は此の三期を列記して頗(すこぶる)明晰である。「余近与霞亭北条君。結交於方外。君勢南人。性好山水。客歳携令弟立敬来嵯峨。初寓止竹里。中居任有亭。後又移梅陽軒。任有亭者吾院之所有。是以朝夕相見。交日以親焉。君深究経史。旁通群書。若詩若文。其所自適。信口命筆。自竹里之始。至梅陽之終。其間一朞年。所獲詩殆二百首。題曰嵯峨樵歌。」月江、名は承宣(しようせん)、所謂「吾院」は三秀院である。文は文化九年七月に草したもので、「客歳」は八年を謂ふ。
 霞亭は林崎院長を辞して、京都に入つた。韓凹巷(かんあふこう)は「依然旧書院、長謂君在茲、鸞鳳辞荊棘、烏鳶如有疑」と云つてゐる。山陽は「素愛嵐峡山水、就其最清絶処縛屋」と云つてゐる。
 その林崎を去つた時は文化八年二月である。樵歌に「辛未二月予将卜居峨阜、留別社友諸君」の詩がある。霞亭は林崎にあつて恒心社を結んでゐた。社友とは此恒心社の同人を謂ふ。発程の前には暫く宇清蔚(うせいうつ)の家に舎(やど)つてゐたらしい。「予将西発前日石田生過訪予於宇氏寓館」と云ふ語がある。発程の日には凹巷が送つて宮川の下流、大湊の辺まで来た。「卜居択其勝、相送宮水□、大淀松陰雨、霑衣分手遅」と云つてゐる。
 京に入るとき弟惟長(ゐちやう)が同行した。そして宇清蔚が来て新居を嵯峨に経営することを助けた。此間井達夫(せいたつふ)も来て泊つてゐた。惟長の事は、山陽も「挈弟」と云ひ、月江も「携令弟」と云つてゐる。移居当時の事は、樵歌に「予卜居峨阜、宇清蔚偕来助事、適井達夫在都、亦来訪、留宿三日、二月念一日、修営粗了」と云つてある。想ふに早く二月中旬の某日に行李を卸して、二十一日に屋舎を修繕し畢(をは)つたのであらう。
 霞亭の卜する所の宅は、所謂竹里の居で、西に竹林(ちくりん)を控へてゐた。林間の遺礎(いそ)は僧涌蓮(ゆれん)が故居の址である。樵歌に「宅西竹林、偶見有遺礎、問之土人、云是師(涌蓮)故居、廃已久矣」と云つてある。涌蓮、名は達空(たつくう)、伊勢国一身田(しんでん)の人である。嘗て江戸に住し、後嵯峨に隠れて、獅子巌集(ししがんしふ)を遺して終つた。
 霞亭の居る所の草堂を幽篁書屋(いうくわうしよをく)と云ふ。「脩竹掩幽籬」と云ひ、「隣寺暮春静」と云ふ、並に凹巷が詩中の句である。「竹裏成村纔両隣」と云ひ、「隣是樵家兼仏寺」と云ふ、皆霞亭が書屋雑詠中の句である。堂の一隅に前主人の遺す所の紙屏(しへい)一張がある。西依成斎(にしよりせいさい)が朱元晦(しゆげんくわい)の「酔下祝融峰作」を題したものである。「我来万里駕長風。絶壑層雲許盪胸。濁酒三杯豪気発。朗吟飛下祝融峰。」成斎、初の名は正固(せいこ)、後周行(しうかう)、字(あざな)は潭明(たんめい)、通称は儀平(ぎへい)、肥後の人で京都に居つた。樵歌(せうか)には「祝」が「※[#「示+「酋」の「酉」に代えて「允」」、7巻-291-上-6]」又「※[#「木+「酋」の「酉」に代えて「允」」、7巻-291-上-6]」に作つてある。字書に※(ぜい)[#「示+兌」、7巻-291-上-6]、□(せつ)の字はあるが、峰(ほう)の名は祝融(しゆくゆう)であらう。霞亭は朱子に次韻した。「勃々豪情欲起風。銀杯一掉灑書胸。胸中韜得乾坤大。何屑祝融千万峰。」
 堂に書幌(しよくわう)が垂れてある。恒心社同人の贈る所で、「冢不騫写大梅、韓君聯玉題詩其上」と云つてある。冢不騫(ちようふけん)、名は寿(じゆ)、大塚氏、不騫は其字(あざな)、信濃国奈賀郡(なかごほり)駒場駅(こまばえき)の人である。
 移居当時の客宇清蔚が辞し去つた時、霞亭は送つて京の客舎に至つた。「可想今宵君去後。不堪孤寂守青燈。」
 中の閏(じゆん)二月を隔てて、三月二十八日に凹巷が伊勢から来た。凹巷は「命駕我欲西、好侶況相追、君亦出都門、望々幾翹跂」と云つてゐる。霞亭は粟田口の茶屋まで出迎へたのである。「痴坐亭中晩未回。先虚一榻預陳杯。眼穿青樹林陰路。杖響時疑君出来。」
 所謂好侶は田伯養(でんはくやう)、孫孟綽(そんまうしやく)、河良佐(かりやうさ)、池希白(ちきはく)である。樵歌に云く。「韓聯玉曾有訪予幽篁書屋之約。田伯養、孫孟綽従其行。適河良佐、池希白役越後。抂程亦偕聯玉輩。一斉入京。」霞亭が此日の詩に、「壮遊人五傑、快意酒千鍾」の句がある。所謂五傑中、韓凹巷、河敬軒(かけいけん)の二人を除いて、他の三人はわたくしのためには未知の人である。只田の名は光和(くわうくわ)、孫の名は公裕(こうゆう)で、孫は自ら凹巷の内姪(ないてつ)と称してゐる。

     その百四十七

 北条霞亭の竹里(ちくり)の家に宿つた韓凹巷(かんあふこう)等五人の客は、翌日辛未三月二十九日に、主人と共に嵐山に遊んだ。樵歌(せうか)に「春尽与諸君遊嵐峡」の詩がある。辛未の三月は小であつたので、二十九日が春尽(しゆんじん)になつてゐた。
 四月三日に主客は嵯峨を出でて天橋立に遊んだ。五客の中河良佐(かりやうさ)と池希白(ちきはく)とは、途上角鹿津(つぬがのつ)に於て別れ去つた。霞亭、凹巷並に田伯養(でんはくやう)、孫孟綽(そんまうしやく)の四人が若狭より丹後に入り、天橋立を看、大江山を踰(こ)えて帰つた。竹里に還つたのは四月十七日であつただらう。「初夏三日、与諸君取道湖西、抵越前角鹿津、与河池二君別、余輩経若狭、入丹後、観天橋、踰大江山帰、往来十有五日」と、樵歌に記してある。伊勢の看松(かんしよう)が杖を霞亭に贈つて、凹巷はそれを持つて来たので、霞亭は携へて天橋立に遊んだ。所謂蘆竹杖(ろちくぢやう)である。諸友の句を題した中に、「昔游観物最難忘、想倚天橋松影碧」と云ふのがある。これは凹巷の七律の七八である。凹巷と田孫二人とが辞し去る時、霞亭はこれを勢田の橋に近い茶店(ちやてん)まで送つた。「長橋短橋多少恨。満湖風雨送君帰。」
 霞亭は六月に至るまで竹里に居つた。次で事があつて、京の街に住むこと二十余日にして、又嵯峨に帰つた。そして再び幽篁書屋(いうくわうしよをく)に入ることをなさずに、任有亭(にんいうてい)に寄寓した。嵯峨生活の中期は此に始まる。樵歌に「予因事徙居都下二旬余、不堪擾雑、復返西峨、寓任有亭、翌賦呈宣上人」の詩がある。宣上人(せんしやうにん)は僧月江である。後に「予在任有亭宛百日、初冬八日将移林東梅陽軒」と云ふを見れば、任有亭に入つたのは六月二十八日であらう。これは前後のわたましの日をも算入して百日となしたのである。
 任有亭は享保中僧似雲(じうん)の住んだ故跡である。霞亭に「任有亭漫詠十五首」があり、又「題任有亭」「題似雲師肖像」の作がある。「聯結得一庵。斗大劣容躬。(中略。)嵐山当戸□。堰水遶庭叢。(中略。)心跡何所似。人称今西公。(中略。)吾夙慕高概。隠迹行将同。何彼名利客。区々在樊籠。斯人今不見。目送冥々鴻。」これは「題任有亭」の五古中より意に任せて摘み来つた数句である。「人称今西公」とは当時の似雲を以て古(いにしへ)の西行に比したのである。
 任有亭にゐた間の霞亭の境遇には、特に記すべき事が少い。九月上旬には少しく疾(や)むだ。「九日有登七老山之期、臥病不果、口占。望山不得登。対酒不思嘗。枕辺如欠菊。何以過重陽。」十九日には亡弟彦(げん)の法要を営んだ。此時僧月江が「薦北条子彦君霊」の詩を作つた。わたくしは此詩の一句に由つて三兄弟の長幼順序を知ることを得た。三人の最長者の霞亭なることは勿論であるが、次が夭折した彦、又次が惟長(ゐちやう)であつた。月江は「阿兄阿弟我相知」と云つてゐる。死者の阿兄が霞亭で、其阿弟が惟長だと云ふことになるのである。わたくしは系譜を見ることを須(もち)ゐずしてこれを知ることを得た。十月四日には入江若水(いりえじやくすゐ)の墓を弔した。若水、名は兼通(けんつう)、字(あざな)は子徹(してつ)である。嘗て僧似雲が任有亭にゐた時、若水は櫟谷(いちだに)にゐた。「跡つけてとはぬも深き心とは、雪に人待つ人の知るらむ」は、雪の日に似雲の若水に贈つた歌である。此日は享保十四年に若水の歿した忌辰であつた。

     その百四十八

 北条霞亭は辛未十月三日に任有亭(にんいうてい)から梅陽軒(ばいやうけん)に移つた。「一年為客四移蹤。来去自由無物従。」此より嵯峨生活の後期に入るのである。林崎より竹里(ちくり)へ、竹里より任有亭へ、任有亭より梅陽軒へ、以上三移である。四移と云ふは、竹里と任有亭との間に市中に住んだ二旬余があるからであらう。
 梅陽軒は空僧院(くうそうゐん)である。「幽寺無僧住。随縁暫寄身。」院は竹林(ちくりん)の中にある。「蘿纏留半壁。竹邃絶比隣。」そして門前をば大井川の支流芹川(せりかは)が流れ過ぎ、水を隔てて嵐山の櫟谷(いちだに)を望み見る。「櫟谷寒燈□々。芹渠暗水潺々。」前の四句は「初寓梅陽」の五律、後の二句は「梅陽雑興六言三首」より取つたのである。
 霞亭は梅陽軒にある間、伊勢の友三人に訪はれた。宇清蔚(うせいうつ)、冢不騫(ちようふけん)、尾間生(びかんせい)である。宇は大坂へ往くのに、往反ともに嵯峨に立ち寄つた。往路には霞亭が「楓葉為塵梅未開、非君誰肯顧蒿莱」と云つて迎へた。又反路(へんろ)には「雁断江天雪、梅開洛□春、客中傷歳暮、況別故郷人」と云つて送つた。冢尾の二人は筑前の亀井南溟の塾に往く途次におとづれた。「声名他日当如此、持贈清香梅一枝」は、霞亭が餞別の詩の末二句である。冢は前(さき)に霞亭がために梅を書幌(しよくわう)に画いた大塚寿(じゆ)である。
 霞亭は猶梅陽軒にあつて、「歳暮」を賦し、「壬申元旦」を賦した。三十三歳の春を迎へたのである。元旦の詩の後には応酬の作二首、梅を尋ぬる作一首があつて、最後に歳寒堂の詩が載せてある。歳寒堂の詩の引にはかう云つてある。「今茲壬申。因家君命。移居城中。予於嵯峨。已為一年之寄客。瞻恋不忍去。宣上人贈亀山松、堰汀梅、峨野竹。院屏有売茶翁松梅竹三字。併見恵寄。予栽三物於庭下。扁遺墨於堂上。命曰歳寒堂。(節録。)」想ふに霞亭は壬申の春の初に嵯峨を去つたのであらう。
 辛未二月より六月に至る、竹里に於る初期、六月より十月に至る、任有亭に於る中期、十月より壬申の春初に至る、梅陽軒に於る後期、霞亭の嵯峨生活は此三期を合して約一箇年に亘つた。
 此間の月日と日数とは、若し二三の前提を仮設することを嫌はぬならば、精細に算出することが出来るであらう。前提とは一、宇清蔚は霞亭と偕に竹里に来て、其「留宿三日」には二月二十一日をも含んでゐること、二、霞亭が竹里を去つて市中に住んだ「二旬余」を二十五日と算すること、三、壬申の正月猶梅陽軒に留まること一旬であつたとすることである。
 此前提を取るときは、嵯峨生活の三期は下の如くになる。霞亭は辛未二月十九日に竹里に来て、六月四日に去つた。其間百三十三日である。四日に市に入つて二十八日に出た。其間二十五日である。二十八日に任有亭に来て、十月八日に去つた。其間百日である。八日に梅陽軒に来て、壬申正月十日に去つた。其間九十二日である。嵯峨生活の日数は通計三百五十日となる。霞亭に由緒書等の文書があるべきことは既に云つた。又仄に聞けば、霞亭の書牘数百通も其処に現存してゐるさうである。此仮定に幾許(いくばく)の差誤(さご)があるか、これを検することを得る時も、他日或は到るかも知れない。

     その百四十九

 北条霞亭は文化九年三十三歳の春初の比、父適斎の命に因つて、京都の市中に移つた。此市中の家が歳寒堂である。
 歳寒堂は京都の何町にあつたか。わたくしは今これを知らない。しかし浜野氏のわたくしに借した書の中に、韓凹巷(かんあふこう)の「芳野游藁」がある。游藁の詩に、「知君昨自洛城西」の句がある。これは霞亭が、市に入つた次年の二月下旬に、関宿(せきじゆく)に往つて凹巷を待ち合せたことを言つたのである。霞亭が市中生活の末期には、歳寒堂は京都市街の西部にあつた。
 霞亭は九年壬申の歳をいかに暮したか。わたくしは特に記すべき事をも有せない。只嵯峨樵歌(せうか)の一巻は此年刊行せられた。菅茶山の序は「壬申孟夏」に成り、僧月江の跋は「壬申秋七月」に成つた。
 そして月江の跋がわたくしに、おぼろげながら市中生活の内容を教へる。適斎は何故に其子をして市中に移らしめたか。跋の云ふ所に従へば、霞亭は徒を聚(あつ)めて教授した。それが適斎の命であつた。適斎は嵯峨生活の徒食に慊(あきたら)なかつたらしい。其文に云く。「賢父母在堂。君(霞亭)因其命。今教授於京師。」
 跋が又わたくしに霞亭の母の事をも教へる。父適斎は四年の後七十の賀筵を開く人で、此年六十六歳であつた。しかし母の猶堂にあつたことは、此文に由つて知ることが出来た。
 此年十二月に霞亭は凹巷の書を得て、明年共に吉野に遊ばむことを約した。
 霞亭は文化十年二月二十三日に関宿に赴いた。凹巷を迎へて共に吉野に遊ばむがためである。これが三十四歳の春である。備後に往く年の春である。
 吉野の遊の成立(なりたち)を明にせむがために、わたくしは先づ游稿の文を節録する。「壬申臘月。河崎敬軒赴東府。帰期及花時。因約芳野之遊。時北条霞亭寓洛。余請明年二月会我于関駅。癸酉二月十九日。余拉佐藤子文発。枉路于北勢。廿二日到桑名駅。□時敬軒果至。廿三日発桑名。宿于亀山。廿四日到関駅。霞亭以前夕至。」凹巷は佐藤子文(しぶん)と二月十九日に伊勢を発し、二十二日に桑名に於て敬軒と会し、二十四日に関宿に於て霞亭と会した。一行は霞亭、凹巷、敬軒、子文の四人である。子文は茶山集、驥□(きばう)日記等にも見えてゐる人である。
 わたくしは此に凹巷の記に依つて、霞亭参加後の游蹤(いうしよう)を追尋する。但原文には中間に一日づつの誤算がある。わたくしはこれを正して下(しも)に註して置く。
 癸酉二月「廿四日発関駅。適雨至。宿于鹿伏兎。是夜雨甚。有叩門呼余(凹巷)名者。問之山内子亨也。」此より山内子亨(やまのうちしかう)が一行に加はつて五人になつた。
「廿五日宿于上野。」
「翌朝(二十六日)大雪。過青石嶺。宿于笠置。」
「廿七日登笠置山。下木津川。宿于郡山。」
「(二十八日)発郡山。到法隆寺。宿当麻寺前民家。」
「(二十九日)訪尼松珠于当麻寺中紫雲庵。登畝旁山。到岡寺。」
「廿九日(晦)発岡寺客舎。従桜井駅上談峰。大雨。投山店。」
「卅日(三月朔)宿于越部。」
「三月朔(二日)発越部。度芳野川下流。到賀名生。訪堀孫太郎宅。宿其家。」
「二日(三日)発賀名生。投芳野客舎。」
「翌日上巳(四日)値雨。遊桜本坊竹林院。」
「四日(五日)衝雨尋諸勝。晩観宮滝。」
「五日(六日)過蔵王堂。是日宿雨初晴。花開七分。」
「七日発六田。霞亭還洛。子亨従送之。」此より霞亭は山内子亨を伴つて京の歳寒堂に帰つたのである。凹巷等は此日赤埴(あかばね)に宿し、八日杉平(すぎたひら)に宿し、九日鶴宿(つるじゆく)に宿し、十日に凹巷の桜葉館(あうえふくわん)に著した。主人は河崎、佐藤の二人を座に延いた。「故園吾館迎還好。桜葉陰濃緑満扉。」

     その百五十

 わたくしは浜野氏の蔵書二三種を借り得て、其中に就いて北条霞亭の履歴を求め、年を逐うてこれを記し、遂に文化十年癸酉、霞亭三十四歳の時に至つた。霞亭は此年の三月七日に吉野の遊より帰つて六田(むた)に至り、伊勢の諸友と袂を分かつた。
 然るに此三月七日より後には、年の暮るゝに至るまで、一事の月日(げつじつ)を詳(つまびらか)にすべきものだに無い。霞亭が京都を去つて備後に赴いたのは、其生涯の大事である。そして此の如き大事が、わたくしのためには猶月日不詳の暗黒裏に埋没せられてゐるのである。わたくしは唯山陽の「歳癸酉、遊備後」の語を知つてゐる。強ひて時間を限劃(げんくわく)しようとしても、三月七日の後、十二月晦(みそか)の前には填(うづ)むべからざる空隙がある。
 わたくしは霞亭に関する記載の頗(すこぶる)不完全なるを自知しながら、忍んで此に筆を絶たなくてはならない。何故かと云ふに、癸酉以後の事蹟には、前(さき)に一巻の帰省詩嚢、一篇の嚢里移居詩(なうりいきよし)を借り来つて、菅茶山の書牘に註脚を加へた後、今に至るまで何の得る所も無いからである。わたくしは最後に「薇山三観」の事を補記して置く。これも亦浜野氏の借覧を許した書の一である。
 霞亭は黄薇(くわうび)に入つた後に、三原に梅を観、山南(さんな)に漁(すなどり)を観、竹田に螢を観た。これが所謂三観である。
 梅の詩は末に「右甲戌初春」と書してある。文化十一年正月で、備後に来てからの第二年である。
 漁は鯛網である。其詩の末には「右丙子初夏」と書してある。螢の詩の末には「右丙子仲夏」と書してある。備後に来てからの第四年、文化十三年四月及五月である。彼詩嚢を齎した帰省の「出門」を七月であつたとすると、的屋の遊は踵(くびす)を竹田の遊に接してゐる。
 わたくしが霞亭に関する以上の事を記したのは、蘭軒を伝して文政六年に至り、其年十一月二十三日に茶山の蘭軒に与へた書を引いたから起つたのである。当時霞亭は既に江戸嚢里(なうり)の家に歿してより九十五日を経てゐた。妻井上氏敬(きやう)は神辺(かんなべ)に帰る旅が殆ど果てて、「帰宅明日にあり」と云ふことになつてゐた。
 茶山の書牘には、敬とこれに随従してゐた足軽との外、猶二人の名が出てゐる。其一は鵜川某である。「鵜川段々世話いたしくれられ候由、此事御申伝尚御たのみ可被下奉願上候。」鵜川は子醇(しじゆん)であらう。事は北条氏の不幸に連繋してゐる。
 其二は牧唯助(まきたゞすけ)である。「むかしの臼杵直卿也」と註してある。五山堂詩話の牧古愚(こぐ)字(あざな)は直卿(ちよくけい)、号は黙庵が、茶山集の臼杵直卿(うすきちよくけい)と同人であつたことが、此文に由つて証せられる。茶山の言ふ所は霞亭一家の事には与(あづか)らない。
 牧は当時江戸にゐた。松平冠山が何事をか茶山に託したので、茶山はこれを牧に伝へた。然るに「うんともすんとも返事無之候」であつた。茶山は蘭軒をして牧に催促せしめようとしたのである。冠山は因幡国鳥取の城主松平氏の支封松平縫殿頭(ぬひのかみ)定常で、実は池田筑前守政重の弟である。その茶山に託したのは何事か、今考へることが出来ない。

     その百五十一

 已に云つた如くに、わたくしは蘭軒の事を叙して文政六年に至り、菅茶山の十一月二十三日の書牘を引いた。此十一月二十三日より後には、年の尽るに至るまで、蘭軒の身上に一も月日を明にすべき事が無い。
 ※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-299-上-15]詩集は、二月十三日に酌源堂(しやくげんだう)に詩会を催し、宿題看梅に就いて詩を闘はした後、僅に詩四首を載せてゐるのみである。そしてそれが皆季節に拘束せられぬ作である。
 最初に題画一首がある。わたくしはこれを擺去(はいきよ)する。次に「偶成」「自笑」の二絶がある。人間不平の事が多い。少壮にして反撥力の強いものは、これを鳴らすに激越の音を以てする。蘭軒は既に四十七歳である。且蹇(あしなへ)である。これに応ずるに忍辱(にんにく)を以てし、レジニアシヨンを以てするより外無い。偶成に云く。「金玉難常保満盈。鬼神猶是妬高明。要航人海風濤険。無若虚舟一葉軽。」しかしわたくし共の経験する所を以てすれば、虚舟(きよしう)と雖、触るれば必ずしも人の怒を免れない。自笑に云く。「愛酒等間任歳移。読書不復解時宜。検来四百四般病。最是難医我性痴。」一肚皮(とひ)は時宜に合はない。病は治すべくして、痴は治することが出来ない。これも亦レジニアシヨンの語である。
 最後にこんな詩がある。「近日児信重儲古銭数枚、朝夕翫撫、頗有似酒人独酔之楽、因賦一詩。漢唐貨幣貴於珠。千歳彰然証両銖。光潤方分潜水土。□斑更愛帯青朱。堪想求古※[#「勹<亡」、7巻-300-上-4]児癖。無受如兄俗客汚、自笑吾家痴子輩。亦生一種守銭奴。註云、乞児猶乞古銭、事見蒙斎筆談、謝在杭五雑組、演為一話、世多以為始自謝氏者陋矣。」
 蘭軒の三子柏軒が古銭を集めることを始めた。狩谷□斎の古泉癖(こせんへき)は世の知る所である。「歴代古泉貨幾百品。自幼之時愛玩之。或遇清間興適。攤列※[#「片+総のつくり」、7巻-300-上-10]間品評之。」其子懐之(くわいし)、其忘年の友渋江抽斎も亦古泉を翫(もてあそ)んだ。現に同嗜(どうし)の人津田繁二さんは「新校正孔方図鑑」と云ふ書を蔵してゐる。懐之の「文化十二年嘉平月二日」の識語があるさうである。当時懐之は年甫(はじめ)て十二であつた。按ずるに□斎は識語を作るに当つて名(めい)を其子に藉りたのであらう。しかし□斎が蚤(はや)く懐之に其古泉癖を伝へたことも、亦疑を容れない。此年十四歳の柏軒が古泉を愛するに至つたのは、恐くは懐之等が導誘したためであらう。懐之は柏軒より長ずること六歳であつた。
 わたくしは此詩に由つて蘭軒自己に古泉癖が無かつたものと推する。「自笑吾家痴子輩。亦生一種守銭奴。」柏軒の愛泉は伊沢氏に於ては未曾有の事であつたらしい。
 此詩の自註に、蘭軒は蒙斎筆談を引いて、「乞児猶乞古銭」と云ふ事の典拠を示してゐる。これは尋常人が五雑組(ござつそ)に出でてゐると謂(おも)ふべきを慮(おもんぱか)つて、其非なることを言つたものである。一事に逢ふ毎に考証の詳備(しやうび)を期するのは、固より蘭軒の本領である。
 わたくしはこれを読んで、乞児(こつじ)も猶古銭を乞ふとはいかなる事を謂ふかと云ふ好奇心を発(おこ)した。

     その百五十二

 わたくしは蘭軒詩註の「乞児猶乞古銭」と云ふことを知らんと欲した。蘭軒の典拠として取らぬ五雑組は手近にあるので、わたくしは直にその所謂「演為一話」と云ふものを検した。
 秦の士に古物(こぶつ)を好むものがあつた。魯の哀公の席(むしろ)を買はむがために田を売り、太王※(ふん)[#「分+おおざと」、7巻-301-上-7]を去る時の策(さく)を買はむがために家資を傾け、舜の作る所の椀を買はむがために宅を売つた。「於是披哀公之席。持太王之杖。執舜所作之椀。行丐於市曰。那箇衣食父母。有太公九府銭。乞我一文。」これが謝在杭(しやさいかう)の演(えん)し成した一話(わ)であるらしい。
 然らば此話(わ)の本づく所は何であるか。わたくしは蒙斎筆談を見んと欲して頗る窮した。蒙斎筆談とはいかなる書か。試(こゝろみ)に書目を検すれば、説郛(せつふ)巻(けんの)二十九、古今説海の説略、学海類篇の集余(しふよの)四記述、稗海(はいかい)第三函(かん)等に収められてゐる。説郛と学海類篇とには、著者の名を宋鄭景璧(そうのていけいへき)としてあり、古今説海と稗海とには宋鄭景望(そうのていけいばう)としてある。恐くは同一の書で、璧(へき)と望(ばう)との名を殊にしてゐるのは、一は是にして一は非であらう。
 只憾(うら)むらくは、書を蔵することの少いわたくしは、説郛以下の叢書を見るに由なく、又性疎懶にして図書館の恩蔭を被ることが出来ない。そこで姑(しばら)く捜索の念を断つこととした。想ふに謝氏の演し成す所の話(わ)が僅に十数行であるから、蒙斎筆談の文は二三行に過ぎぬであらう。
 以上書き畢(をは)つた時、弟潤三郎が説郛を抄して寄示した。「頃有嘲好古者謬云。以市古物不計直破家。無以食。遂為丐。猶持所有顔子陋巷瓢。号於人曰。孰有太公九府銭。乞一文。吾得無似之耶。」吾とは著者自ら謂ふのである。説郛本は鄭景壁と署してあつて、「土」に从(したが)ふ「壁」に作つてある。
 蘭軒は此年文政六年に阿部正精(まさきよ)に代つて「刻弘安本孝経跋」を草した。原来伊沢の家では、父信階(のぶしな)の時より、毎旦(まいたん)孝経を誦(しよう)する例になつてゐたので、蘭軒は命を承けて大いに喜んだ。「今也公(正精)跋此書。儒臣不乏於其人。而命信恬草之。寵遇之渥。豈可不恐惶乎。」
 阿部侯の蔵する所の此孝経は弘安二年九月十三日の鈔写に係る巻子本で、「紙質精堅、筆蹟沈遒」である。侯はこれが刊行を企てて、蘭軒に跋文を草することを命じた。
 然らば此所謂弘安本とはいかなる本か。わたくしはこれを説明するには、孝経のワリアンテスの問題に足を踏み入れなくてはならない。そのわたくしのために難問題たることは、前(さき)に経音義を説明するに臨んで言つた如くである。その過誤は好意ある人の教を待つて訂正する外無い。
 孝経は著者不詳の書である。通途(つうづ)には孔子の門人の筆する所だとなつてゐる。此書の一本に「古文孝経孔氏伝」がある。孔氏(くし)とは孔安国(くあんごく)で、孔子十一世の孫である。此孔伝が果して孔安国の手に成つたか否かは、亦復(またまた)不詳である。孔伝は梁末に一たび亡びて、隋に至つて顕れたので、当時早く偽撰とせられたことがある。
 しかし隋唐の世には、此の如き異議あるにも拘らず、孔伝が鄭注(ちやうちゆう)と並び行はれた。鄭は鄭玄(ちやうげん)である。それゆゑ大宝元年の学令に、「凡教授正業、周易鄭玄王弼注、尚書孔安国鄭玄注、三礼毛詩鄭玄注、左伝服虔注、孝経孔安国鄭玄注、論語鄭玄何晏注」と云つてある。

     その百五十三

 わたくしは蘭軒が此年文政六年に阿部正精(まさきよ)に代つて弘安本孝経に跋した事を言つた。そして所謂弘安本の古文孝経孔伝であることに及んだ。
 孔伝(くでん)の我国に存してゐたものには数本がある。年代順に列記すれば、建保七年、弘安二年、正安四年(乾元元年)、元亨元年、元徳二年、文明五年、慶長五年の諸鈔本である。享保年間に此種の一本が清商の手にわたつて、鮑廷博(はうていはく)の有に帰し、彼土(かのど)に於て飜刻せられた。次で林述斎は弘安本を活字に附して、逸存(いつぞん)叢書の中に収めた。
 以上が阿部侯校刻前の孔伝の沿革である。然らば述斎の既に一たび刻したものを、棕軒侯は何故に再び刻したか。「林祭酒述斎先生。悲其正本遂堙滅。以弘安本活字刷印。収之於其所輯逸存叢書中。字画悉依旧。学者以□飫也。余閲其本。自有叢書辺格。故不得不換旧裁。亦不無遺憾焉。」阿部本は林本の旧裁を換へたのに慊(あきたら)ぬがために出でたのである。
 孔伝は安国(あんごく)に出でたと否とを問はず、兎も角も隋代の古本である。蘭軒はこれを尊重して、喜んで阿部侯に代つて序文を草した。しかし蘭軒は孝経を読むに孔伝を取らずして玄宗注を取つた。
 わたくしは上(かみ)に伊沢の家で毎旦孝経を誦(じゆ)するを例としてゐたことを言つた。此例は蘭軒の父信階より始つた。そして信階は古文孝経を用ゐてゐた。その玄宗注を用ゐるに至つたのは、蘭軒が敢て改めたのである。「先大人隆升翁生存之日。毎旦読此経。終身不廃。或鈔数十本。遺贈俚人令蔵。以為鎮家之符。其言曰。人読此経。苟存於心。雖身不能行。不至陥悪道矣。其厭殃迎祥。何術加之。梁皇侃性至孝。日限誦此経廿遍。以擬観音経。抑有以哉。吾輩豈不遵奉耶。翁所読本。即用古文本。信恬自有私見。而従玄宗注。」
 然らば此玄宗注とはいかなるものか。唐代の学者は古文孝経の偽撰たるを論じて、拠るべからざるものとしてゐたので、玄宗は自らこれを註するに至つたのである。事は開元十年六月にある。即ち我国大宝の学令に遅るること二十年余である。
 次で天宝二年五月に至つて、玄宗は重て孝経を注し、四年九月に石に大学に刻せしめた。所謂石台本(せきたいぼん)である。此重注石刻(ちようちゆうせきこく)は初の開元注に遅るること更に二十年余である。
 是に於て彼土に於ては初の開元注亡びて、後の石台本が行はれた。
 我国には猶開元注が存してゐた。逍遙院実隆(さねたか)の享禄辛卯(八年)の抄本が即是である。後寛政年間に屋代輪池(やしろりんち)の校刻した本は是を底本としてゐる。
 そこで狩谷□斎はかう云つた。既に玄宗注を取るからは、玄宗の重定(ちようてい)に従ふを当然とすべきであらう。「天宝四載九月。以重注本刻石於大学。則今日授業。理宜用天宝重定本。而世猶未有刻本。蒙窃憾焉。」幸に北宋天聖明道間の刊本があつて石刻の旧を伝へてゐる。□斎はこれを取つて校刻した。是が文政九年に成つた「狩谷望之審定宋本」の「御注孝経」である。阿部家の弘安本覆刻に後るること三年にして刊行せられたのである。

     その百五十四

 わたくしは以上記する所を以て、孝経のワリアンテスの問題に就いて、少くも其輪廓を画き得たものと信ずる。そして下(しも)の如くに思量する。蘭軒は主君に代つて、喜んで弘安本孔伝に跋した。それは隋代の古書の世に顕るることを喜んだためである。しかし蘭軒は孝経当体に就いては、玄宗注の所謂孔伝に優ることを思つた。「自有私見、而従玄宗注」と云つてゐる。按ずるに蘭軒と□斎とは見る所を同じうしてゐたのであらう。
 菅氏では此年文政六年に、茶山が大目附にせられ、俸禄も亦二十人扶持より三十人扶持に進められた。歳杪(さいせう)の五律は「喜吾垂八十、仍作楽郊民」を以て結んである。梁川星巌夫妻の黄葉夕陽村舎を訪うたのも亦此年である。
 頼氏では此年三子又二郎が生れた。復(ふく)、字(あざな)は士剛(しかう)、号は支峰である。里恵(りゑ)の生んだ所の男子で、始て人と成ることを得たのは此人である。
 其他森枳園が此年蘭軒の門に入つた。年は十七歳である。
 大田南畝は此年四月六日に歿した。茶山が書を蘭軒に与へて、老衰は同病だと云ひ、失礼ながら相憐むと云つてより、未だ幾(いくばく)ならずして歿したのである。茶山は南畝より長ずること僅に一歳で、此年七十六であつた。南畝は七十五歳にして終つた。
 此年蘭軒は四十七歳、妻益四十一歳、子女は榛軒二十、常三郎十九、柏軒十四、長十、順四つであつた。
 文政七年の元日は、棕軒正精が老中の劇職を辞して、前年春杪以来の病が痊(い)えたので、丸山の阿部邸には一種便安舒暢(べんあんじよちやう)の気象が満ちてゐたかとおもはれる。
 蘭軒には自家の「甲申元旦作」よりして外、別に「恭奉□元日即事瑤韻」の作があつた。初の一首に云く。「霞光旭影満東軒。臘酒初醒復椒尊。春意□々忘老至。懶身碌々任人論。烟軽山色青猶淡。節早梅花香已繁。尤喜吾公無疾病。聞鶯珠履渉林園。註云、客歳春夏之際、吾公嬰疾辞職、而至冬大痊、幕府下特恩之命、賜邸於小川街、而邸未竣重修之功、公来居丸山荘、荘園鉅大深邃、渓山之趣、為不乏矣、公日行渉為娯、故結末及之。」此詩には阿部侯の次韻があつて、福山の田中徳松さんが其書幅を蔵してゐる。「和伊沢信恬甲申元日韻。芙蓉積雪映西軒。恰是正元対椒尊。荏苒年光歓病瘉。尋常薬物任医論。一声青鳥啼方媚。幾点白梅花已繁。自値太平和楽日。間身依杖歩林園。
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