伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

 酌源は班固(はんこ)の典引(てんいん)の「斟酌道徳之淵源、肴覈仁義之林藪」から出てゐる。三養は蘇軾(そしき)の「安分以養福、寛胃以養気、省費以養財」から出てゐる。芳桜書院の芳桜の事は後に別に記することとしよう。
 通称は辞安である。
 名字の説は此に止まる。已に云つた如くに、わたくしの富士川游さんに借りてゐる※[#「くさかんむり/姦」、7巻-43-上-8]斎詩集に、先づ見えてゐる干支は、此年享和紀元の辛酉である。わたくしは此詩暦を得て大いに心強さを覚える。わたくしは此より此詩暦を栞(しをり)とし路傍□(こう)として、ゆくての道をたどらうとおもふ。

     その二十二

 蘭軒は此年享和元年の元日に七律を作つた。※[#「くさかんむり/姦」、7巻-43-上-14]斎詩集の「辛酉元日口号」が是である。首句に分家伊沢の当時の居所が入つてゐるのが、先づわたくしの注意を惹く。「昌平橋北本江郷」と云つてある。本江(ほんごう)の郷(きやう)と訓(よ)ませる積であつたのだらう。
 次に蘭軒生涯の大厄たる脚疾が、早く此頃に萌してゐたらしい。詩集は前に云つた元日の作の後に、文化元年の作に至るまでの間、春季の詩六篇を載せてゐるのみである。わたくしは姑(しばら)く此詩中に云ふ所を此年の下(もと)に繋(か)ける。蘭軒は二月の頃に「野遊」に出た。「数試春衣二月天」の句がある。此野遊の題の下に、七絶二、七律一、五律一が録存してあつて、数試春衣(しば/\しゆんいをこゝろみる)二月天(ぐわつのてん)は七律の起句である。然るにこれに次ぐに「頓忘病脚自盤旋」の句を以てしたのを見れば、わたくしは酸鼻に堪へない。蘭軒は今僅に二十三歳にして既に幾分か其痼疾に悩まされてゐたのである。
 此年六月二十九日には蘭軒の師泉豊洲が、其師にして岳父たる細井平洲を喪つた。七十四歳を以て「外山邸舎」に歿したと云ふから、尾張中将斉朝(なりとも)の市谷門外の上屋敷が其易簀(えきさく)の所であらう。諸侯の国政を与(あづか)り聴いた平洲は平生「書牘来、読了多手火之」と云ふ習慣を有してゐた。「及其病革、書牘数十通、猶在篋笥、門人泉長達神保簡受遺言、尽返之各主。」長達は豊洲の名である。神保簡は恐くは続近世叢語の行簡(かうかん)、宇は子廉であらう。蘭室と号したのは此人か。蘭軒の師豊洲は時に年四十四であつた。
 此年には猶多紀氏で蘭軒の友柳□□庭(りうはんさいてい)の祖父藍渓が歿し、後に蘭軒の門人たる森枳園(きゑん)の祖父伏牛(ふくぎう)が歿してゐる。蘭軒の父信階は五十八歳になつた。
 享和二年には二月二十九日に蘭軒が向島へ花見に往つたらしい。蘭軒雑記にかう云つてある。「吉田仲禎(名祥、号長達(ちやうたつとがうす)、東都医官)、木村駿卿、狩野卿雲、此四人(たり)は余常汝爾之交(よつねにじよじのまじはり)を為す友也。享和之二二月廿九日仲禎君と素問合読(がふどく)なすとてゐたりしに、卿雲おもはずも訪(とぶら)ひき。(此時仲禎卿雲初見)余が今日は美日なれば、今より駿卿へいひやりて墨田の春色賞するは如何(いかに)と問ぬ。二人そもよかるべしと、三人(たり)して手紙認(したゝめ)し折から、駿卿来かかりぬ。まことにめづらしき会なりと、午(ひる)の飯(いひ)たうべなどして、上野の桜を見つつ、中田圃より待乳山にのぼりてしばしながめつ。山をおりなんとせし程に、卿雲のしたしき泉屋忠兵衛といへるくるわの茶屋に遇ひぬ。其男けふは余が家居に立ちより給へと云ふ。余等いなみてわかれぬ。それより隅田の渡わたりて、隅田村、寺島、牛島の辺(あたり)、縦に横に歩みぬ。さてつゝみより梅堀をすぎ、浅草の観音に詣で、中田圃より直(すぐ)なる道をゆきて家に帰りぬ。」此文は年月日の書きざまが異様で、疑はしい所がないでもないが、わたくしは且(しばら)く「享和之二二月」と読んで置く。
 秋に入つて七月十五日に、蘭軒は渡辺東河(とうか)、清水泊民(はくみん)、狩谷□斎、赤尾魚来(ぎよらい)の四人と、墨田川で舟遊をした。蘭軒に七絶四首があつたが、集に載せない。只其題が蘭軒雑記に見えてゐるのみである。東河、名は彭(はう)、字(あざな)は文平、一号は払石(ふつせき)である。書を源(げん)東江に学んだ。泊民名は逸、碩翁と号した。亦書を善くした。魚来は未だ考へない。
 享和三年には蘭軒が二月二日に吉田仲禎狩谷□斎と石浜村へ郊行した。仲禎、名は祥、通称は長達である。幕府の医官を勤めてゐた。次で十九日に又大久保五岳、島根近路、打越(うちごし)古琴と墨田川に遊んだ。五岳、名は忠宜(ちゆうぎ)、当時の菓子商主水(もんど)である。近路古琴の二人の事は未だ考へない。此二遊は蘭軒雑記に「享和閏(うるふ)正月」と記し、下(しも)三字を塗抹して「二月」と改めてある。享和中閏正月のあつたのは三年である。故に姑(しばら)く此に繋ける。墨田川の遊は、雑記に「甚俗興きはまれり」と註してある。
 此年七月二十八日に、蘭軒の父信階の養母大久保氏伊佐が歿した。戒名は寿山院湖月貞輝大姉である。「又分家」の先霊名録には寿山院が寿山室に作つてある。年は八十四であつた。
 蘭軒雑記に拠れば、所謂(いはゆる)浅草太郎稲荷の流行は此七月の頃始て盛になつたさうである。社の在る所は浅草田圃で、立花左近将監鑑寿(あきひさ)の中屋敷であつた。大田南畝が当時奥祐筆所詰を勤めてゐた屋代輪池を、神田明神下の宅に訪うて一聯を題し、「屋代太郎非太郎社、立花左近疑左近橘」と云つたのは此時である。

     その二十三

 此年享和三年十月七日に、蘭軒が渡辺東河を訪うて、始て伴粲堂(ばんさんだう)に会つたことが、蘭軒雑記に見えてゐる。粲堂、通称は平蔵である。煎茶を嗜(たし)み、篆刻(てんこく)を善くした。此日十月七日は西北に鳴動を聞き、夜灰が降つたと雑記に註してある。試に武江年表を閲(けみ)するに降灰(かうくわい)の事を載せない。
 蘭軒の結婚は家乗に其年月を載せぬが、遅くも此年でなくてはならない。それは翌年文化元年の八月には長男榛軒(しんけん)が生れたからである。蘭軒には榛軒に先(さきだ)つて生れた子があつたか否か、わたくしは知らない。しかし少くも男子は無かつたらしい。分家伊沢の人々の語る所に依れば、蘭軒には嫡出六人、庶出六人、計十二人の子があつたさうである。歴世略伝にある六人は、男子が榛軒常三郎柏軒、女子が天津(てつ)長(ちやう)順(じゆん)である。常三郎は榛軒に後るゝこと一年、柏軒は六年にして生れた。名録には猶一人庶子良吉があつて、文化十五年即ち文政元年正月二日に歿してゐるが、これも榛軒の兄ではなささうである。わたくしが少くも先つて生れた男子は無かつたらしいと云ふのは、これがためである。
 略伝の女子天津長順三人の中、分家の人々の言(こと)に従へば、只一人長育したと云ふ。即ち名録の井戸応助妻であらう。応助は※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-46-下-1]詩集に拠るに、翁助の誤らしい。翁助妻は名録に文化十一年に生れた第三女だとしてある。名録に又「芳桜軒第二女、生七日許終、時文化九年壬申正月八日」として、智貌童子の戒名が見えてゐる。童子は童女の誤であらう。しかし天津、長、順をいづれに配当して好いか、わからない。若し長女にして榛軒に先つて生れたとすると、蘭軒が妻を娶つた年は繰り上げられるかも知れない。
 上(かみ)に記した外、名録には尚庶出の女(ぢよ)二人がある。文政六年に歿した順、十一年に歿した万知(まち)である。然らば略伝は庶子中より独り順のみを挙げてゐるのであらう。
 蘭軒の娶つた妻は飯田休庵の二女である。初め蘭軒の父信階即井出門次郎の妹が休庵に嫁したが、此井出氏は早く歿して、水越氏民が継室となつた。休庵の二女は此水越氏の出(しゆつ)である。それゆゑ蘭軒の妻は小母婿(をばむこ)の子ではある。姑夫女(こふぢよ)ではある。しかし小母の女(むすめ)では無い。姑女では無い。
 蘭軒の妻は名を益と云つた。天明三年の生である。即ち明和七年に小母が死んでから、十三年目に纔(わづか)に生れたのである。蘭軒より少(わか)きこと六歳で、若し推定の如くに享和三年に婚嫁したとすると、夫蘭軒は二十七歳、妻益は二十一歳であつた。
 此年に蘭軒の友小島春庵尚質(なほかた)の父春庵根一(もとかず)が歿した。尚質は蘭軒と古書を愛する嗜好を同じうした小島宝素である。広島の頼山陽は此年十二月六日に囲から出されて、家にあつて謹慎することを命ぜられた。

     その二十四

 此年享和三年に蘭軒の父信階(のぶしな)の仕へてゐる阿部家に代替があつた。伊勢守正倫(まさとも)が十月六日に病に依つて致仕し子主計頭正精(かぞへのかみまさきよ)が家を継いだのである。正倫は安永六年より天明七年に至るまで初め寺社奉行見習、後寺社奉行を勤め、天明七八年の両年間宿老に列してゐた。致仕後二年、文化二年に六十一歳で歿した。継嗣正精は学を好み詩を善くし、棕軒(そうけん)と号した。世子(せいし)たりし日より、蘭軒を遇すること友人の如くであつた。
 文化元年には蘭軒が「甲子元旦」の五律を作つた。其後半が分家伊沢の当時の生活状態を知るに宜しいから、此に全首を挙げる。「陽和新布令。懶性掃柴門。梅傍辛盤発。鳥求喬木飛。樽猶余臘酒。禄足製春衣。賀客来無迎。姓名題簿帰。」伊沢氏は俸銭□銭(しよせん)を併せたところで、手一ぱいのくらしであつただらう。所謂(いはゆる)不自由の無いせたいである。五六の一聯が善くこれを状してゐる。結二句は隆升軒父子の坦率(たんそつ)を見る。
 正月に新に封を襲いだ正精が菅茶山を江戸に召した。頼山陽の撰んだ行状に、「正月召之東」と書してある。茶山は江戸に著いて、微恙のために阿部家の小川町の上屋敷に困臥し、紙鳶(たこ)の上がるのを眺めてゐた。茶山の集に「江戸邸舎臥病」の二絶がある。「養痾邸舎未尋芳。聊買瓶花插臥床。遙想山陽春二月。手栽桃李満園香。閑窓日対薬炉烟。不那韶華病裡遷。都門楽事春多少。時見風箏泝半天。」「春二月」の三字にダアトが点出せられてゐる。蘭軒の集には又「春日郊行。途中菘菜花盛開。先是菅先生有養痾邸舎未尋芳之句、乃剪数茎奉贈、係以詩」と云ふ詩がある。「桃李雖然一様新。担頭売過市※[#「「纒のつくり+おおざと」、7巻-48-上-9]塵。贈君野菜花千朶。昨日携帰郊甸春。」菜の花に菘字(しゆうじ)を用ゐたのは、医家だけに本草綱目に拠つたのである。先生と云ひ、奉贈(ほうぞう)と云ふを見れば、茶山と蘭軒との年歯の懸隔が想はれる。茶山が神辺(かんなべ)の菅波久助の倅百助(ひやくすけ)であつたことは、行状にも見えてゐるが、頼の頼兼(よりかね)を知つた人も、往々菅の菅波を知らない。寛延元年の生で、此年五十七歳、蘭軒は二十八歳であつた。推するに蘭軒は殆ど師として茶山を待つてゐたのであらう。
 三月になつて茶山は病が□(い)えた。十九日に犬塚印南(いんなん)、今川槐庵、蘭軒の三人と一しよに、お茶の水から舟に乗つて、墨田川に遊んだ。狩谷□斎も同行の約があつたが、用事に阻げられて果さなかつた。舟中で四人が聯句をした。蘭軒雑記に「聯句別に記す」と云つてあるが、今知ることが出来ない。
 印南、名は遜(そん)、字(あざな)は退翁、通称は唯助、一号は木王園(もくわうゑん)である。寛延三年に播磨国姫路の城主酒井雅楽頭忠知(うたのかみたゞとも)の重臣犬塚純則の六男に生れ、同藩青木某の女婿となり、江戸に来て昌平黌の員長に推された。尋(つい)で本氏(ほんし)に復し、黌職(くわうしよく)を辞し、本郷に家塾を設けた。寛政の末だと云ふから、印南が五十前後の頃である。印南は汎交(はんかう)を避け、好んで書を読んだ。講書のために上野国高崎の城主松平右京亮輝延の屋敷と、輪王寺公澄法親王(こうちようはふしんのう)の座所とへ伺候する外、折々酒井雅楽頭忠道(たゞみち)の屋敷の宴席に招かれるのみであつた。印南は嘗て蘭軒に猪牙(ちよき)舟の対(たい)を求められて、直(たゞち)に蛇目傘と答へたと蘭軒雑記に見えてゐるから、必ずや詩をも善くしたことであらう。

     その二十五

 印南、茶山、蘭軒と倶に、墨田川に花見舟を泛(うか)べた今川槐庵は、名は※(こく)[#「穀」の「禾」に代えて「一/豕」、7巻-49-上-7]、字は剛侯(かうこう)である。わたくしは※[#「穀」の「禾」に代えて「一/豕」、7巻-49-上-7]は毅ではないかと疑ふが、
第(しばら)く※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-49-上-8]詩集の録する所に従つて置く。
 山陽の撰んだ茶山の行状は、「正月召之東」の句に接するに、「遂告暇遊常州」の句を以てしてある。茶山の著述目録の中に、常遊記(じやういうき)一巻とあるのが、恐くは此行を紀したものであらう。しかしわたくしは未だ其書を見ない。姑(しばら)く集中の詩に就て検するに、常遊雑詩十九首があつて、中に太田と註した一絶がある。其転結に「五月久慈川上路、女児相喚采紅藍」と云つてある。久慈川に近い太田は、久慈郡太田であらう。五月の二字から推せば、さみだれの頃の旅であつただらう。蘭軒の集には其頃梅天断梅(ばいてんだんばい)の絶句各(おの/\)二首がある。梅天の一に「山妻欲助梅□味、手摘紫蘇歩小園」の句があり、断梅の一に「也有閑中公事急、擬除軒下曝家書」の句がある。□(そ)は説文(せつもん)に「酢菜也」とある。梅□(ばいそ)も梅※(ばいせい)[#「「韲/凵」、7巻-49-下-8]も梅漬である。茶山が常陸巡をしてゐる間、蘭軒はお益(ます)さんが梅漬の料に菜圃の紫蘇を摘むのを見たり、蔵書の虫干をさせたりしてゐたと見える。頼氏の修史が山陽一代の業で無いと同じく、伊沢氏の集書も亦蘭軒一代の業では無いらしい。
 秋に入つてから七月九日に、茶山蘭軒等は又墨田川に舟を泛べて花火を観た。一行の先輩は茶山と印南との二人であつた。
 同行には源波響(げんはきやう)、木村文河(ぶんか)、釧雲泉(くしろうんせん)、今川槐庵があつた。
 源波響は蠣崎(かきざき)氏、名は広年(くわうねん)、字は世詁(せいこ)、一に名は世□(せいこ)、字は維年(ゐねん)に作る。通称は将監(しやうげん)である。画を紫石応挙の二家に学んだ。明和六年生だから、此年三十五歳であつた。釧雲泉、名は就(しう)、字は仲孚(ちゆうふ)、肥前国島原の人である。竹田(ちくでん)が称して吾国の黄大癡(くわうたいち)だと云つた。宝暦九年生だから、此年四十六歳であつた。五年の後に越後国出雲崎で歿した。其墓に銘したものは亀田鵬斎(ぼうさい)である。文河槐庵の事は上に見えてゐる。
 茶山の集には「同犬冢印南今川剛侯伊沢辞安、泛墨田川即事」として、七絶七律各(おの/\)一首がある。律の頷聯(がんれん)「杯来好境巡須速、句対名家成転遅」は印南に対する謙語であらう。蘭軒の集には「七夕後二日、陪印南茶山二先生、泛舟墨陀河、与源波響木文河釧雲泉川槐庵同賦」として七律二首がある。初首の七八「誰識女牛相会後、徳星復此競霊輝」は印南茶山に対する辞令であらう。後首の両聯に花火が点出してある。「千舫磨舷搶作響。万燈対岸爛争光。竹枝桃葉絃歌湧。星彩天花烟火揚。」わたくしは大胆な記実を喜ぶ。茶山は詩の卑俗に陥らむことを恐れたものか、一語も花火に及ばなかつた。蘭軒の題にダアトのあつたのもわたくしのためにはうれしかつた。

     その二十六

 蘭軒が茶山を連れて不忍池(しのばずのいけ)へ往つて馳走をしたのも、此頃の事であらう。茶山の集に「都梁觴余蓮池」として一絶がある。「庭梅未落正辞家。半歳東都天一涯。此日秋風故人酒。小西湖上看荷花。」わたくしは転句に注目する。蓮は今少し早くも看られようが、秋風(しうふう)の字を下したのを見れば、七月であつただらう。又故人と云ふのを見れば、文化元年が茶山蘭軒の始て交つた年でないことが明である。
 蘭軒と□斎とは又今一人誰やらを誘(いざな)つて、不忍池へ往つて一日書を校し、画工に命じて画をかゝせ、茶山に題詩を求めた。集に「卿雲都梁及某、読書蓮池終日、命工作図、需余題詩」として一絶がある。「東山佳麗冠江都。最是芙蓉花拆初。誰信旗亭糸肉裏。三人聚首校生書。」結句は伊狩(いしう)二家の本領を道破し得て妙である。
 八月十六日に茶山は蘭軒を真砂町附近の家に訪うた。わたくしは此会合を説くに先(さきだ)つて一事の記すべきものがある。饗庭篁村(あへばくわうそん)さんは此稿の片端より公にせられるのを見て、わたくしに茶山の簡牘(かんどく)二十一通を貸してくれた。大半は蘭軒に与へたもので、中には第三者に与へて意を蘭軒に致さしめたものもある。第三者は其全文若くは截り取つた一節を蘭軒に寄示したのである。要するに簡牘は皆分家伊沢より出でたもので、彼の太華の手から思軒の手にわたつた一通も亦此コレクシヨンの片割であつただらう。今八月十六日の会合を説くには此簡牘の一通を引く必要がある。
 茶山の書は次年八月十三日に裁したもので、此に由つて此文化紀元八月中旬の四日間の連続した事実を知ることが出来る。其文はかうである。「今日は八月十三日也、去年今夜長屋へ鵜川携具来飲、明日平井黒沢来訪、十五日舟遊、十六日黄昏貴家へ参、備前人同道、夫より茗橋々下茶店にて待月、却而逢雨てかへり候」と云ふのである。鵜川名は某、字(あざな)は子醇(しじゆん)、その人となりを詳(つまびらか)にせぬが、十三日の夜酒肴を齎して茶山を小川町の阿部邸に訪うたと見える。平井は澹所(たんしよ)、黒沢は雪堂であらう。澹所は釧雲泉(くしろうんせん)と同庚(どうかう)で四十六歳、雪堂は一つ上の四十七歳、並に皆昌平黌の出身である。雪堂は猶校に留まつて番員長を勤めてゐた筈である。
 さて十六日の黄昏(たそがれ)に茶山は蘭軒の家に来た。二人が第三者を交へずに、差向で語つたことは、此より前にもあつたか知らぬが、ダアトの明白なのは是日である。初めわたくしは、六七年前に伊沢氏に来て舎(やど)つた山陽の事も、定めて此日の話頭に上つただらうと推測した。そして広島杉木小路(すぎのきこうぢ)の父の家に謹慎させられてゐた山陽は、此夕(ゆふべ)嚔(くさめ)を幾つかしただらうとさへ思つた。しかしわたくしは後に茶山の柬牘(かんどく)を読むこと漸く多きに至つて、その必ずしもさうでなかつたことを暁(さと)つた。後に伊沢信平さんの所蔵の書牘を見ると、茶山は神辺(かんなべ)に来り寓してゐる頼久太郎(ひさたらう)の事を蘭軒に報ずるに、恰も蘭軒未知の人を紹介するが如くである。或は想ふに、蘭軒は当時猶山陽を視て春水不肖の子となし、歯牙にだに上(のぼ)さずに罷(や)んだのではなからうか。

     その二十七

 蘭軒の家では、文化紀元八月十六日の晩に茶山がおとづれた時、蘭軒の父隆升軒信階(りゆうしようけんのぶしな)が猶(なほ)健(すこやか)であつたから、定て客と語を交へたことであらう。蘭軒の妻益は臨月の腹を抱へてゐたから、出でゝ客を拝したかどうだかわからない。或は座敷のなるべく暗い隅の方へゐざりでて、打側(うちそば)みて会釈したかも知れない。益は時に年二十二であつた。
 蘭軒は茶山を伴つて家を出た。そしてお茶の水に往つて月を看た。そこへ臼田才佐(うすださいさ)と云ふものが来掛かつたので、それをも誘(いざな)つて、三人で茶店(ちやてん)に入つて酒を命じた。三人が夜半(よなか)まで月を看てゐると、雨が降り出した。それから各(おの/\)別れて家に還つた。
 蘭軒はかう書いてゐる。「中秋後一夕、陪茶山先生、歩月茗渓、途値臼田才佐、遂同到礫川、賞咏至夜半」と云ふのである。
 臼田才佐は茶山書牘(しよどく)中の備前人である。備前人で臼田氏だとすると、畏斎(ゐさい)の子孫ではなからうか。当時畏斎が歿した百十五年の後であつた。茶店の在る所を、茶山は茗橋(めいけう)々下と書し、蘭軒は礫川(れきせん)と書してゐる。今はつきりどの辺だとも考へ定め難い。
 蘭軒の集に此夕(ゆふべ)の七律二首がある。初の作はお茶の水で月を看たことを言ひ、後の作は茶店で酒を飲んだことを言ふ。彼の七八に「手掃蒼苔踞石上、松陰徐下棹郎歌」と云つてある。当時のお茶の水には多少の野趣があつたらしい。此(これ)の頷聯(がんれん)に「旗亭敲戸携樽至、茶店臨川移榻来」と云つてある。料理屋で酒肴を買ひ調へて、川端の茶店に持つて往つて飲んだのではなからうか。
 蘭軒が茶山とお茶の水で月を看た後九日にして、八月二十五日に蘭軒の嫡子榛軒(しんけん)が生れた。小字(をさなゝ)は棠助(たうすけ)である。後良安、一安、長安と改めた。名は信厚(しんこう)、字(あざな)は朴甫(ぼくほ)となつた。
 分家伊沢の伝ふる所に従へば、榛軒は厚朴(こうぼく)を愛したので、名字号皆義を此木に取つたのだと云ふ。厚朴の木を榛と云ふことは本草別録に見え、又急就篇(きふしゆへん)顔師古(がんしこ)の註にもある。又門人の記する所に、「植厚朴、参川口善光寺、途看于花戸、其翌日持来植之」とも云つてある。しかしわたくしの考ふる所を以てすれば、蘭軒は子に名づくるに厚(こう)を以てし重(ちよう)を以てした。これは初め必ずしも木の名ではなかつたであらう。紀異録に「既懐厚朴之才、宜典従容之職」と云つてある。名字は或は此より出でたのではなからうか。さて木名に厚朴があるので、此木は愛木となり、又榛軒の号も出来たかも知れない。厚朴は植学名マグノリア和名ほほの木又ほほがしはで、その白い大輪の花は固より美しい。榛軒は父蘭軒が二十八歳、母飯田氏益が二十二歳の時の子である。
 茶山は其後九月中江戸にゐて、十月十三日に帰途に上つた。帰るに先(さきだ)つて諸家に招かれた中に古賀精里の新に賜つた屋敷へ、富士を見に往つたなどが、最も記念すべき佳会であつただらう。精里の此邸宅は今の麹町富士見町で、陸軍軍医学校のある処である。地名かへる原を取つて、精里は其楼を復原(ふくげん)と名づけた。茶山は江戸にゐた間、梅雨を中に挾んで、曇勝な日にのみ逢つてゐたので、此日に始て富士の全景を看た。「博士新賜宅。起楼向※[#「厂+垂」、7巻-54-上-6]※[#「厂+義」、7巻-54-上-6]。亦恨落成後。未逢雲雨披。忽爾飛折簡。置酒招朋儕。新晴無繊翳。秋空浄瑠璃。芙蓉立其中。勢欲入座来。(中略。)我留過半載。此観得已稀。」茶山の喜想ふべきである。
 十月十三日に茶山は阿部正精(まさきよ)に扈随(こずゐ)して江戸を発した。「朝従熊軾発城東。海旭添輝儀仗雄。十月牢晴春意早。懸知封管待和風。」これが「晨出都邸」の絶句である。十一月五日に備中国の境に入つて、「入境」の作がある。此篇と前後相呼応してゐる。「熊車露冕入郊関。児女扶携挾路看。兵衛一行千騎粛。和風満地万人歓。」

     その二十八

 文化二年には蘭軒の集に「乙丑元日」の七律がある。両聯は措いて問はない。起二句に「素琴黄巻未全貧、朝掃小斎迎早春」と云つてある。未だ全く貧ならずは正直な告白で、とにもかくにも平穏な新年を迎へ得たものと見られる。結二句には二十九歳になつた蘭軒が自己の齢(よはひ)を点出してゐる。「歓笑優遊期百歳、先過二十九年身」と云ふのである。
 七月十五日に蘭軒は木村文河(ぶんか)と倶に、お茶の水から舟に乗つて、小石川を溯つた。此等の河流も今の如きどぶでは無かつただらう。三絶句の一に、「墨水納涼人□有、礫川吾輩独能来」と云つてある。墨水の俗を避け、礫川(れきせん)の雅に就いたのである。
 茶山の事は蘭軒の懐に往来してゐたと見えて、「秋日寄懐菅先生」の七律がある。「去年深秋君未回。賞遊吾毎侍含杯。菅公祠畔随行野。羅漢寺中共上台。飛雁遙書雖易達。畳雲愁思奈難開。機中錦字若無惜。幸織満村黄葉来。」蘭軒は前年茶山の江戸にゐた間、始終附いて歩いて少酌の相手をしたと見える。詩は題して置かなかつたが、亀井戸の天満宮に詣でた。本所の五百羅漢をも訪うたのである。結では黄葉夕陽村舎の主人(あるじ)に手紙の催促がしてある。
 然るに蘭軒の催促するを須(ま)たず、茶山は丁度此頃手紙を書いた。即ち八月十三日の書で、前に引いた所のものが是である。「私も秋へなり、蠢々(しゆん/\)とうごき出候而状ども認候、御内上(おんうちうへ)様、おさよどのへ宜奉願上候、(中略)江戸は今年気候不順に御坐候よし、御病気いかゞ御案じ申候。」此に前年を追懐した数句があつて、末にかう云つてある。「今年(こんねん)は水辺(すゐへん)へ出可申心がけ候処、昨日より荊妻手足痛(てあしいたみ)(病気でなければよいと申候)小児菅(くわん)三狂出候而(くるひいでそろて)どこへもゆかれぬ様子也、うき世は困りたる物也、前書委(くはしく)候へば略し候、以上。」
 茶山がコムプリマンを託した御内上様が飯田氏益であることは明である。「おさよどの」の事は注目に値する。二十余通の茶山の書に一としておさよどのに宜しくを忘れたのは無い。後年の書には「おさよどのに申候、(中略)御すこやかに御せわなさるべく候」とも云つてある。
 さよは蘭軒の側室である。分家伊沢の家乗には、蘭軒に庶出の子女のあつたことが載せてあるのみで、側室の誰なるかは記して無い。只先霊名録の蘭軒庶子女(ぢよ)の下に母佐藤氏と註してあるだけである。武蔵国葛飾郡小松川村の医師佐藤氏の女が既に狩谷□斎の生父に嫁し、後又同家の女が蘭軒の二子柏軒の妾(せふ)となる。此蘭軒の妾も亦同じ家から出たのではなからうか。其名のさよをば、わたくしは茶山の簡牘(かんどく)中より始て見出した。要するに側室は佐藤氏さよと云つたのである。
 既に云つた如くに、茶山の蘭軒との交(まじはり)は、前年文化紀元よりは古さうであるが、さよを識つてゐたことも亦頗る古さうである。想ふに早く足疾ある蘭軒は介抱人がなくてはかなはなかつたのであらう。此年の如きも詩集に一病字をだに留めぬのに、茶山は病気みまひを言つてゐる。上(かみ)に引いた文の前に、猶「春以来御入湯いかゞ」の句もある。後年の自記に、阿部家に願つて、「湯島天神下薬湯(やくたう)へ三廻(めぐり)罷越(まかりこす)」と云ふことが度々ある。此入湯の習慣さへ既に此時よりあつたものと見える。介抱人がなくてはならなかつた所以(ゆゑん)であらう。
 書中の手足痛(しゆそくつう)に悩む「荊妻」は、茶山の継室門田(もんでん)氏、菅三は仲弟猶右衛門の子要助の子三郎維繩(ゐじよう)で、茶山の養嗣子である。

     その二十九

 此年文化二年十月二十四日に、蘭軒は孝経一部を手写した。二子常三郎の生れたのは此日である。孝経の末(すゑ)に下(しも)の文がある。「文化乙丑小春廿四日、据毛本鈔矣、斯日巳刻児生、其外祖父飯田翁(自註、名信方、字休庵)与名曰常三郎、恬。」常三郎は後父に先(さきだ)つこと四十五日にして早世する、不幸なる子である。
 頼家に於て山陽が謹慎を免され、門外に出ることゝなつたのは、此年五月九日である。
 此年蘭軒は二十九歳、妻益は二十三歳であつた。蘭軒の二親(ふたおや)六十二歳の信階、五十六歳の曾能(その)も猶倶に生存してゐたのである。
 文化三年は蘭軒が長崎へ往つた年である。蘭軒が能く此旅を思ひ立つたのを見れば、当時足疾は猶軽微であつたものと察せられる。※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-56-下-13]詩集に往路の作六十三首を載せてゐる外、集中に併せ収めてある「客崎詩稿」の詩三十六首がある。又別に「長崎紀行、伊沢信恬撰」と題した自筆本一巻がある。墨附三十四枚の大半紙写本で、「伊沢氏酌源堂図書記」「森氏」の二朱印がある。格内毎半葉十二行、行十八字乃至二十二字である。此書も亦、彼詩集と同じく、富士川游さんの儲蔵する所となつてゐる。
 蘭軒の長崎行は、長崎奉行の赴任する時に随行したのである。長崎奉行は千石高で、役料四千四百二俵を給せられた。寛永前は一人を置かれたが、後二人となり三人となり四人となり、文化頃には二人と定められてゐた。文化二年に職にゐたのは、肥田豊後守頼常(よりつね)、成瀬因幡守正定(いなばのかみまささだ)であつた。然るに肥田頼常が文化三年正月に小普請奉行に転じ、三月に曲淵和泉守景露(まがりぶちいづみのかみけいろ)がこれに代つた。蘭軒は此曲淵景露の随員となつて途に上つたのである。序に云ふが、徳川実記は初め諸奉行の更迭を書してゐたのに、経済雑誌社本の所謂(いはゆる)続徳川実記に至つては、幕府末造の編纂に係る未定稿であるから、記載極て粗にして、肥田曲淵の交代は全く闕けてゐる。今武鑑に従つて記することにした。
 蘭軒略伝には蘭軒は榊原主計頭(かぞへのかみ)に随つて長崎に往つたと云つてある。文化中の分限帳を閲(けみ)するに、「榊原主計、三百石、かがやしき」としてある。しかし文化三年の役人武鑑はこれを載せない。按ずるに榊原主計は当時無職の旗本であつたであらう。此榊原が曲淵の一行中に加はつてゐたかどうかは不明である。
 蘭軒は五月十九日に江戸を発した。紀行に曰く。
「文化丙寅五月十九日、長崎撫院(ぶゐん)和泉守曲淵公に従て東都を発す。巳時板橋に到て公小休(こやすみ)す。家大人(かたいじん)ここに来て謁見せり。余小茶店(せうちやてん)にあり。頼子善(らいしぜん)送て此に到る。午後駅を出て小豆沢(あづさは)村にいたる。小民(せうみん)勘左衛門の園中一根八竿の竹あり。高八尺許(きよ)、根囲(ねのめぐり)八寸許の新竹也。二里八丁蕨駅、一里八丁浦和駅、十一里十二丁大宮駅。亀松屋弥太郎の家に宿す。此日暑甚し。行程八里許。」
 蘭軒の父信階は板橋で曲淵を待ち受けて謁見したものと見える。
 頼子善、名は遷(せん)、竹里(ちくり)と号した。蘭軒を板橋迄見送つた。富士川さんは「子善は蘭軒の家に寓してゐたのではなからうか」と云ふ。或はさうかも知れない。此人の山陽の親戚であることは略(ほゞ)察せられるが、其詳なることは知れてゐない。
 わたくしはこれを頼家の事に明い人々に質(たゞ)した。木崎好尚(きざきかうしやう)さんは頼遷は即頼公遷であらうと云ふ。公遷号は養堂、通称は千蔵である。山陽の祖父又十郎惟清(これきよ)の弟伝五郎惟宣(これのぶ)の子である。坂本箕山(きざん)さんも亦、頼綱(らいかう)の族であらうと云ふ。綱、字は子常(しじやう)、号は立斎(りつさい)、通称は常太(つねた)で、公遷の子である。
 幸にしてわたくしの近隣には、山陽の二子支峰(しほう)の孫久一郎さんの姻戚熊谷兼行(かねゆき)さんが住んでゐるから、頼家に質して貰ふことにして置いたが、未だ其答に接せない。
 ※[#「くさかんむり/姦」、7巻-58-下-2]斎詩集には「到板橋駅作」がある。「生来未歴旅程遐。此日真堪向客誇。三百里余瓊浦道。従今不復井中蛙。」

     その三十

 旅行の第二日は文化三年五月二十日である。紀行に曰く。「廿日卯時に発す。二里八丁上尾駅、一里桶川駅、一里卅町鴻の巣駅。午時(うまのとき)吹上堤を過ぐ。左は林近く田野も甚ひろからず。荒川の流遠くより来る。右は山林遠く田野至て濶く、溝渠縦横忍城(をしじやう)樹間に隠顕して、遠黛(ゑんたい)城背に連続す。四里八丁熊谷駅。絹屋新平の家に投宿す。時正に申なり。蓮生山熊谷寺(れんしやうざんゆうこくじ)に詣(いた)り、什物(じふもつ)を看むことを乞ふ不許(ゆるさず)。碑図末に附す。此日炎暑昨日より甚し。行程九里許(きよ)。」吹上堤を過ぐの下(しも)に、「吹上堤一に熊谷堤ともいふ」と註してある。
 詩集に「熊谷堤」三首がある。其一。「熊谷長堤行且休。荒川遠出鬱林流。漁歌一曲蒹葭底。只見□尖不見舟。」其二。「十里青田平似筵。濃烟淡靄共蒼然。遠村尽処山城見。粉□樹間断又連。」其三。「無数連山映夕陽。如浪起来如黛長。轎夫顧我揚□指。西是秩峰北日光。」
 第三日は五月二十一日である。紀行に曰く。「廿一日卯時に発す。二里卅丁深谷駅。駅を出て普済寺に詣(いた)る。二里廿九町本荘駅なり。釧雲泉(くしろうんせん)を訪。前月信濃善光寺へ行き、遇はず。二里新町駅。これより上野(かうづけ)なり。神奈川を渡る。川広六七町なれども、砂石のみありて水なし。空(むなし)く□橋(いけう)を架(かせる)ところあり。又少く行烏川を渡る。川広一町余、あさし。砂石底を見るべし。時正に未後(びご)。西方の秩父山にはかに陰(くもり)て、暗雲蔽掩(へいえん)し疾電いるがごとし。しかれども北方日光の山辺は炎日赫々なり。川を渡て行こと半里許(きよ)、天増(ます/\)陰り、墨雲弥堅(びけん)迅雷驟雨ありて、廻風轎(かご)を揺(うごか)せり。倉野駅に到て漸く霽(は)る。乃(すなはち)日暮なり。林屋留八の家に宿す。行程九里許。」釧雲泉の家は当時今の児玉郡本荘町にあつたと見える。
 集に「渡烏川値雨」の詩がある。「溶々還濺々。方舟渡広河。村吏尋灘浅。棹郎訴石多。奇峰※[#「山/頽」、7巻-59-下-6]作雨。澄鏡暗揚波。蓑笠無遑著。漫趨数里坡。」
 第四日。「廿二日卯時に発す。一里十九丁高崎駅なり。郊に出て顧望するときは高崎城を見る。小嶺に拠て築けり。此郊甚(はなはだ)平坦にして、野川清浅、砂籠(さろう)岸を護し長堤村を繞(めぐ)る。或渠流を引いて水碓(すゐたい)を設く。幽事喜ぶべし。時正に巳。豊岡村を過ぐ。路傍の化僧一木偶(もくぐう)を案上に安んじて銭を乞ふ。閻王なりといふ。其状鎧を被(かうぶ)り□頭(ぼくとう)を冠(くわん)し手に笏(こつ)を持る、顔貌も甚厳(おごそか)ならず。造作の様頗る古色あり。豊岡八幡の社に詣(いた)る。境中狭けれども一茂林(もりん)なり。茅茨(ばうじ)の鐘楼あり。一里卅丁板鼻駅、二里十六丁松井田駅なり。時正に未。円山坂に到る。茶釜石といふ者あり。大さ三尺許り。形蓮花(れんくわ)のごとし。叩くときは声を発す。石理(せきり)及其声金磬石(きんけいせき)なり。碓氷関(うすひのせき)を経(ふ)。二里坂本駅。信濃屋新兵衛の家に宿す。暑不甚(はなはだしからず)。行程八里余。」
 詩が三首ある。「早発高崎過豊岡村。駅市連荒径。村駄犢雑駑。□車桑下舎。水碓澗辺途。遠岳朝雲隠。新秧昨雨蘇。未知行旅恨。探勝費工夫。経琵琶渓到碓冰関作。琵琶渓上路。曲々繞崔嵬。山破層雲起。水衝奇石□。拠高孤駅在。守険大関開。詩就叩岩額。金声忽発来。宿阪本駅聞杜鵑。五更雲裏杜鵑飛。遠近啼過幾翠微。此去探幽今作始。遮渠不道不如帰。」

     その三十一

 第五日は文化三年五月二十三日である。「廿三日卯時に発す。駅を出れば直に碓氷峠のはね石坂なり。上ること廿四丁、蟠廻(はんくわい)屈曲して山腹岩角を行く。石塊※※(ぐわん/\)[#「山/元」、7巻-60-下-2][#「山/元」、7巻-60-下-2]大さ牛のごとくなるもの幾百となく路に横り崖(がい)に欹(そばた)つ。時已(すでに)卯後、残月光曜し山気冷然として膚(はだへ)に透(とほ)れり。撫院をはじめ諸士歩行せし故、路険に労して背汗□□(しふ/\)たり。乃(すなはち)撫院衣(きぬ)一(ひとつ)ぬぎたり。忽ち岩頭に芭蕉の句碑あり。一つ脱で背中に負ぬ衣更(ころもかへ)といふ句なり。古人の実境を詠ずる百歳の後合する所あり。四軒茶屋あり。(此まで廿四丁也。)蕨粉(わらび)餅を売る、妙なり。又上ること一里許(きよ)、山少くおもむろに石も亦少し。路傍は草莽(さうもう)にて、巓(いたゞき)は禿(とく)せり。北(ほく)五味子(みし)(此地方言牛葡萄)砂参(しやじん)(鐘草(つりがねさう))升麻(しようま)(白花筆(はくくわひつ)様のもの)劉寄奴(りうきど)(おとぎりさう)蘭草(ふぢばかま、東都は秋中花盛なれども、此地は此節花盛なり、蘭の幽谷に生ずる語証とすべし、世人は幽蘭をもつて真蘭とす、幽蘭いかでかかくのごとき地に生ずべけん)の類至て多し。山中(やまなか)といふ所にいたる。経来(へきたり)し磴路(とうろ)崖谷(がいこく)みな眼下指頭にあり。東南の方(かた)ひらけて武蔵下野上野、筑波日光の諸山を望む。今春江戸の回禄せしときも火光を淡紅にあらはせりと、茶店(ちやてん)の老婦語れり。日本紀に倭武尊(やまとたけのみこと)あづまを望れし事あり。此所ならん。又山を紆□(うえい)して上る。大仁王の社(やしろ)にいたる。喬木数株あり。一坂こゆれば熊野社なり。社庭に正応五年の鐘あり。社前に石車輪(せきしやりん)一隻を造れり。径(わたり)一尺五六寸なり。往年此村長(むらのをさ)社前の石階を造りてなれり。名を後世にのこさんことを欲してこのものを造りおけり。乃(すなはち)其家の紋なりと社主かたる。門前に上野信濃国界の碑あり。半里下山して軽沢の駅にいたる。蕎麦店に入りて喫するに其清奇いふべからず。しかれども豆漿(とうしやう)渋苦惜むべし。一里五丁沓掛駅。浅間岳を間近く望む。此とき巓に雲掩翳(えんえい)して烟見えず。一里三丁追分駅。一里十丁小田井駅。一里七丁岩村田なり。駒形明神に詣(いた)る。駒形石全く鈴杜烏石(れいとうせき)の類なり。一里半塩灘駅。大黒屋義左衛門の家に宿す。主人少く学を好む。頃(このごろ)佐藤一斎の※(てつ)[#「にんべん+至」、7巻-61-下-1]佐藤梅坡(ばいは)といふもの此に来て教授す。天民大窪酔客も亦来遊すといふ。此日天赫々なれども、山間の駅ゆゑ瘴気冷然たり。行程八里許(きよ)。」碓氷峠の天産植物に言及してゐるのは、蘭軒の本色である。北五味子は南五味子のびなんかづらと区別する称である。砂参は鐘草とあるが、今はつりがねにんじんと云ふ。桔梗科である。つりがねさうは次の升麻と同じく毛□(まうこん)科に属して、くさぼたんとも云ふ。劉寄奴は今菊科のはんごんさうに当てられ、おとぎりさうは金糸桃科の小連翹に当てられてゐる。蘭軒は前者を斥してゐるのであらう。
 詩が二首ある。「碓氷嶺。碓氷危険復幽深。五月山嵐寒透襟。蘿掛額般途九折。雲生脚底谷千尋。顧看来路人如豆。仰望前巓樹似簪。欲訪赤松応不遠。群羊化石石成林。望浅間岳。信陽第一浅間山。劣与芙蓉伯仲間。岳勢肥豊不危険。焔烟日日上天※[#「門<環のつくり」、7巻-61-下-16]。」
 第六日。「廿四日卯時に発し、朝霧(てうむ)はれんとするとき、筑摩川の橋を渡る。此より浅間岳を望む。烟の升(のぼ)る焔々たり。此川大(おほい)なれども水至て浅し。礫砂至て多し。万葉新続古今雪玉集みなさゞれ石をよみたり。古来よりの礫川(れきせん)と覚ゆ。廿七町八幡駅。卅二町望月駅。城光院に詣(いた)る。一里八丁蘆田駅。一里半長窪駅也。下和田に至て若宮八幡の社(やしろ)あり。此社前に小渠ありて九尺許(きよ)の橋を架たり。其上に屋根をふき欄干をつけたり。世人和田義盛の墳なりといふ碑に天正十九年の字あり。実は大井信定の墓なり。上和田駅風越山信定寺(しんぢやうじ)といふ禅寺の守(まもる)ところにして、寺後に信定の城墟あり、石塁今に存といふ。二里上和田の駅。比野屋又右衛門の家に宿す。(信定のこと主人の話なり。寺は余行(ゆい)て見る。)此地蚊なし。□(かや)を設ず。暑亦不甚(はなはだしからず)。行程六里許。」信定は武石大和守信広の二男で、始て和田氏を称した。武石氏も和田氏も、皆所謂(いはゆる)大井党の支流であつた。和田氏は武田晴信に滅された。蘭軒は晴信の裔(すゑ)であつたので、特に信定の菩提所をも訪うたのであらう。

     その三十二

 第七日は文化三年五月二十五日である。「廿五日卯時に発す。和田峠を過ぐ。山気至て冷なり。水晶花(卯の花)紫繍毬(ししうきう)(あぢさゐ)蘭草花開たり。細辛(さいしん)(加茂葵)杜衡(とかう)(ひきのひたひ草)多して上品なり。就中(なかんづく)夏枯草(かこさう)(うつぼ草、全く漢種のごとし)萱草(くわんざう)(わすれ草、深黄色甚多し)最多し。満山に紫黄相雑(まじ)りて奇麗繁華限なし。喬木一株もなく亦鳥雀なし。(これよりまへ碓氷(うすひ)峠その外木曾路の山中鳥雀いたつてまれなり。王安石一鳥不鳴山更幽の句覚妙(めうをおぼゆ)。)谷おほくありて山形甚円く仮山(かざん)のごとし。下諏訪春宮(はるみや)に詣り、五里八丁下諏訪の駅に到る。温泉あり。綿の湯といふ。上中下(かみなかしも)を分(わかつ)ている。上の湯は清灑(せいしや)にして臭気なし。これを飲めば酸味あり。上の湯の流あまりを溜(たむ)るを中といひ、又それに次(つぐ)を下といふ。轎夫(けうふ)駄児(たじ)の類浴する故穢濁(くわいだく)なり。此湯疝ある人浴してよく治すといへり。〔此辺温泉おほし。小湯(こゆ)といふあり。小瘡(せうさう)によし。たんぐわの湯といふあり。性熱なり。小瘡を患(うれ)ふるもの小湯に入まさに治んとするとき此湯にいる。又上諏訪山中に渋の湯といふあり。はなはだ温ならず。しかれども硫黄(りうわう)の気強して性熱なり。一口のむときは忽(たちまち)瀉利(しやり)す。松本城下に浅間の湯といふあり。綿の湯と同じ。疝を治す。山辺の湯といふあり。疝癪の腹痛によし。至てぬるしといふ。〕下の諏訪秋宮に詣り、田間の狭路をすぐ。青稲(せいたう)脚を掩ひ鬱茂せり。石川(せきせん)あり。急流□々(さう/\)として湖(こ)に通ず。諏訪湖水面漾々たり。塩尻峠を越え、三里塩尻駅。堺屋彦兵衛の家に投宿す。下条(げでう)兄弟迎飲す。(兄名成玉(せいぎよく)、字叔琢(あざなはしゆくたく)、号寿仙(じゆせんとがうす)、弟名世簡(せいかん)、字季父(きふ)、号春泰(しゆんたいとがうす)、松本侯臣、兄弟共泉豊洲門人なり。)家居頗富。書楼薬庫山池泉石尤具す。薬方両三を伝。歓話夜半に及てかへる。此日暑甚。行程八里半許(きよ)。」細辛はアサルムの数種に通ずる名だから、此文はかもあふひの双葉細辛を斥してゐるのであらう。杜衡はかんあふひか。うつぼぐさは□州(ぢよしう)夏枯草か。
 詩。「和田嶺。一渓渓尽復巌阿。路自白雲深処過。薬艸如春花幾種。黄萱最是満山多。諏訪湖。琉璃鏡面漾新晴。粉□浮沈高島城。遙樹如薺波欲浸。低田接渚緑方平。漁船数点分烟影。駅馬一行争晩程。繚繞湖辺千万嶺。芙蓉雪色独崢□。宿塩尻駅下条兄弟迎飲。嘗結茗渓社。今来塩里廬。山泉宜煮薬。岩洞可蔵書。爽籟涼生処。旧遊談熟初。暑氛与客恨。酔倒一時虚。」
 第八日。「廿六日卯時に発す。一里三十丁、洗馬駅。三十丁本山駅なり。此駅前月火災ありて荒穢(くわうくわい)なり。これより木曾路にかかる。此辺に喬木おほし。ゆく先も同じ。崖路を経堺橋をすぎて二里熱川駅。一里半奈良井駅。午後鳥居峠にいたる。御嶽山近く見ゆ。白雪巓(いたゞき)を覆ふ。轎夫(けうふ)いふ。御嶽山上に塩ありと。所謂(いはゆる)崖塩なるべし。一里半藪原駅。二里宮越駅。若松屋善兵衛の家に宿(やどる)。此日暑甚し。三更のとき雨降。眠中しらず。行程九里許(きよ)。」

     その三十三

 第九日は文化三年五月二十七日である。「廿七日卯時に発す。朝霧(てうむ)深し。郊辺小沢といふ所茶店(ちやてん)(泉屋善助)の傍(かたはら)に小樹籬(せうじゆり)を囲て石作士幹(いしづくりしかん)の墓あり。墓表隷字にて駒石石(くせきせき)先生之墓と題す。碑文紀平洲撰せり。一里半福島駅にいたる。関庁荘厳なり。桟道の旧跡を経て新茶屋といふに到る。屋後に行きて初て厠籌(しちう)を見たり。竹箆にはあらず。広一寸弱長四五寸の片木なり。二里半上松(あげまつ)駅にいたる。臨川(りんせん)寺は駅路蕎麦店間(けうばくてんかん)より二丁許(きよ)の坂を下りている。此書院に古画幅を掛たり。広一尺一二寸長(たけ)三尺許装□もふるし。一人物巾(きん)を頂き裘(きう)を衣(き)たり。舟に坐して柳下に釣る。□なし。筆迹松花堂様の少く重きもの也。寺僧浦島子(うらしまがこ)の象(かた)なりといふ。全く厳子陵(げんしりよう)の図なり。庭上に碑あり。碑表は石牀先生之墓と題す。三村三益、字季□(あざなはきこん)といふ木曾人の碑なり。熊耳余承裕(ゆうじよしようゆう)撰するところなり。小野滝看(をのたきみ)の茶屋に小休(こやすみ)して三里九丁須原の駅。大島屋唯右衛門家に投宿す。時已未後なり。此辺酸棗木(さんさうぼく)(小なつめ)蔓生の黄耆(わうぎ)(やはら草)多し。民家に藜蘆(りろ)(棕櫚草)を栽(うう)るもの数軒を見る。凡(おほよそ)信濃路水車おほし。此辺尤多し。又一種水杵(すゐしよ)あり。岩下或は渓間に一小屋(せうおく)を構臼を安(お)き長柄杵(ながえぎね)(大坂踏杵(ふみきね)也)を設け、人のふむべき処に凹(くぼみ)をなして屋外に出す。泉落て凹処降る故、忽(たちまち)水こぼる。こぼれて空しければ杵頭(しよとう)降りて米穀※(つ)[#「てへん+舂」、7巻-64-下-15]ける也。常勝寺にいたる。義清奉納の大鼓あり。(図後に出す。)此日暑甚し。行程八里半許(きよ)。」
 小沢に葬られた石作駒石は名を貞、字を士幹と云ふ。通称は貞一郎である。尾張家の附庸(ふよう)山村氏に仕へた。山村氏は福島を領して所謂(いはゆる)木曾の番所の関守であつた。駒石は明和の初に、伊勢国桑名で南宮大湫(なんぐうたいしう)に従学した。即ち蘭軒の師泉豊洲のあにでしである。寛政八年正月十四日に五十七歳で歿した。時に大湫の歿後十八年で、豊洲は三十九歳になつてゐた。駒石は晩年山村氏のために邑政(いふせい)を掌(つかさど)つて、頗る治績があつた。その二宮尊徳に似た手段は先哲叢談続編に見えてゐる。序に云ふ。叢談に此人の字(あざな)を子幹に作つたために、世に誤が伝へられてゐた。蘭軒は平洲の墓誌銘を目睹して、士幹と書してゐる。士幹を正となすべきであらう。
 三村三益、名は璞(ぼく)、字は季□(きこん)、一に道益と称した。山脇東洋の門人にして山村氏の医官である。木曾の薬草は始て此人によつて採集せられた。宝暦十一年に六十二歳で歿した。三益は採薬に土民を役したから、藜蘆を植うる俗の如きも、或は此人の時に始つたのではなからうか。
 臨川寺の僧が厳子陵の図を浦島が子となしたのは、木曾の寝覚の床に浦島が子の釣台(てうたい)があると云ふ伝説に拠つて言つたのであらう。
 紀行の此辺より下(しも)には往々欄外書がある。中には狩谷□斎森枳園(きゑん)等の考証もある。惜むらくは製本のために行首一二字を截り去られた所がある。枳園の筆迹と覚しき水杵の考証の如きも其一である。纔(わづか)に読み得らるゝ所に従へば、水杵は中国の方言にそうづからうすと云ふ、西渓(せいけい)叢語の泉舂(せんしよう)の類だと云ふのである。
 村上義清が常勝寺に寄附したと云ふ大鼓は、図後に出すと註してあつて、其図は闕けてゐる。前の蓮生寺の碑以下皆さうである。これに反して水杵の図が格上に貼つてあつて、方言どつたりと記してある。
 詩。「早発宮腰駅到須原駅宿。其一。朝来旅服染青嵐。山似重螺水似藍。途莫敢経※[#「石+干」、7巻-66-上-2]犬谷。底何可測斬蛇潭。関門厳粛松千鎖。岳脊昂低雪一担。忽捨肩輿誇勝具。※[#「工+卩」、7巻-66-上-4]莱叱馭且休談。其二。険路絶将懸桟通。灘深滝急激声雄。臨川古寺僧迎客。看瀑孤亭嫗喚童。家畜猪熊郷自異。樹遮日月影将空。偶与帰樵行相語。自是葛天淳朴風。其三。小憩茅檐問里程。吹烟管歛竹筒行。蚕簾斉□横斜架。泉杵時聞伊軋声。碧蘚開花岩脚遍。黄蓍作蔓石頭生。晩陰投宿山中駅。蠅子為群□菜羹。」

     その三十四

 第十日は文化三年五月二十八日である。「廿八日卯時発。一里三十丁野尻駅。木曾川石岩(せきがん)に映山紅(えいざんこう)盛に開く。矮蟠(あいはん)すること栽(うゝ)るがごとし。和合酒(わがふしゆ)を買ふ。(酒店和合屋木工右衛門(もくゑもん)と名(なづ)く。)二里半三富野(との)駅。一里半妻籠駅。二里馬籠駅。扇屋兵次郎家に宿す。苦熱たへがたし。行程七里半許(きよ)。」映山紅はやまつつじである。花木考に「山躑躅一名映山紅」と云つてある。
 詩。「野尻駅至三富野途中。谷裏孤村雲裏荘。僻郷却是似仙郷。□摶粉蕨甘兼滑。酒醸流泉清且香。板屋畏風多鎮石。桑園防獣為囲墻。詩吟未満奚嚢底。已厭山程数日長。雌雄瀑布。瀑泉遙下翠嵐中。迸勢争分雌与雄。誰是工裁長素練。十尋双掛石屏風。」
 第十一日。「廿九日卯時に発す。十曲(とまがり)峠をすぐ。美濃信濃の国境なり。一里五丁落合駅。与坂(よさか)の府関(ふくわん)ありて一里五丁中津川駅なり。此駅に一老翁の石をうるあり。白黒石英の類なり。其いづる所を問へば、此国苗木城西二里許(きよ)水晶が根といふ山よりとり来るといふ。二里半大井駅。十三峠をのぼる。此嶺(れい)はなはだ険ならず、渓(けい)なく谷(こく)あり。石も少して赤埴土(あかきはにつち)なり。木曾路のごとく山腹の崖路にあらず、山頭の道なり。松至て多く幽鬱の山なり。三里半大湫(おほくて)駅。小松屋善七の家に宿す。午後風あり涼し。雷(かみ)なる。雨ふらず。行程八里半余。」
 詩。「巻金村。離信已来濃。行行少峻峰。望原莎径坦。臨谷稲田重。五瀬雲辺嶺。七株山畔松。炊烟人語近。半睡聴村舂。」五瀬(らい)はいせである。「此地遠望勢州之諸山、翠黛於雲辺」と註してある。
 第十二日。「六月朔日(ついたち)卯発。琵琶嶺をすぎ山を下れば松林あり。右方に入海のさまにて水滔々たり。諸山の影うつる。海の名を轎夫(けうふ)に問へば谷間の朝霧なりと答ふ。はじめて此時仙台政宗の歌を解得(ときえ)たり。(仙台政宗の歌に、山あひの霧はさながら海に似て波かときけば松風の声。)一里三十丁細久手(ほそくて)駅。此近村に一呑(のみ)の清水といふあり。由縁(いうえん)詳(つまびらか)ならず。然ども鬼の窟(いはや)、鬼の首塚等の名あれば、好事者鬼といふより伊勢もの語にひきあてゝつけし名ならんか。三里御嶽駅。一里五丁伏見駅。太田川を渡り二里太田駅。芳野屋庄左衛門の家に宿す。熱甚。しかれども風あり。此駅に到て蠅大に少し。蚊は多し。此夜□(かや)を設く。行程七里許(きよ)。」
 第十三日。「二日卯発し駅をいづれば、渓水浅流の太田川にながれ入る所あり。方一尺許の石塊をならべてその浅流を渡る。直にのぼる山乃(すなはち)勝山なり。一山みな岩石也。斫(きり)て坂となし坦路となしゝものあり。窟の観音に詣る。佳境絶妙なり。河幅至てひろく、水心に岩石秀聳(しうしよう)し、蟠松矯樹(はんしようあいじゆ)ううるがごとく生ず。水勢の石に激する所あり。淵をなして蒼々然たる所あり。浅流底砂を見る所あり。美濃山中の勝地ならん。二里鵜沼駅にいたる。犬山の城見ゆる。四里八丁加納駅。一里半河渡駅。塗師(ぬし)屋久左衛門の家に宿す。気候前日のごとし。行程七里半余。」
 詩。「観音阪。観音山畔望。渓水濶且奇。源自東西会。瀬因深浅移。小航工避石。壊岸却成逵。只見宜玄対。愧余未忘詩。」

     その三十五

 第十四日は文化三年六月三日である。「三日、此日は南宮山に詣(いた)らんとして未明撫院に先(さきだ)つて発せり。一貫川を経て一里六丁美江寺(みえでら)駅に到る。呂久(ろく)川を渡り大垣堤を過(よぎ)るとき、旭日初て明に養老山望前に見ゆ。二里八丁赤坂の駅に到る。青野原の傍(かたはら)を経て垂井(たるゐ)駅なり。駅中に南宮一の鳥居あり。七八丁入り社人若山八兵衛といふものを導(みちびき)として境内を歴覧す。空也上人建るところの石塔みかげ石字なし。図巻末に出す。仏師春日の造る狛犬は随身門(ずゐじんもん)の後にあり。古色朴実にして猛勢怖るべきがごとし。左方の狛犬玉眼一隻破たり。本社の内にも狛犬あれども新造のものにして観るに足らず。全く春日の作を摸するものと思はる。鐘あり。銅緑を一面に生じて古色なり。銘なし。社旁(しやはう)に五重の石塔婆あり。高さ三尺七八寸苔蘚厚重して銘かつてよめず。(籬島(りたう)よくも見たり。)図後に出す。鉄塔あり。古色実に五百年前のもの也。銘よみうれども鉄衣あつき故摺得ず、やうやく年号のみすりたり。往年は屋前も作らずありしを中川飛騨守(勘定奉行たりしとき)検巡のとき命じて作らしむといふ。好古の意見つべし。銘は板に書し屋上に掲たり。此より山中奥の院は十八丁ありといふ故不行(ゆかず)して駅へ帰りければ撫院已に駅長の家に来れり。一里半関が原の駅にいたる。駅長の家に神祖陣営の図を蔵(をさ)む。駅長図を披(ひらい)て行行(ゆく/\)委細にとけり。駅中に土神八幡の祠あり。これは昔年よりありしを慶長の乱に西軍これを焼けり。後元和中越前侯忠直(たゞなほ)(一白(はく))再脩せり。此所神祖御榻(ぎよたふ)の迹なり。土人の説に此より北国道へ少し入りて松間なりといふ。旧図に不合(あはず)。当時石田の意は青野原にて決戦と謀しを、神祖不意に此処に出て三方の山に軍陣を列し、関が原へ西軍を包がごとく謀りし故西軍大に敗せりといふ。首塚二堆(たい)あり。数里にして不破関の迹なり。今に土中より麻皺(ましう)の古瓦(こぐわ)いづるといへり。江濃(こうのう)両国境を経一里柏原駅。一里半醒井(さめがゐ)駅。虎屋藤兵衛の家に宿す。暑尤甚し。行程九里許(きよ)」
 空也上人の建てた石塔も、五重の石塔婆も、後に図を出だすと云つてあるが、其図は佚亡してしまつた。中川勘三郎忠英(たゞひで)、叙爵して飛騨守と云ふ。寛政九年二月十二日に長崎奉行より転じて勘定奉行となり、国用方(こくようかた)を命ぜられた。曲淵(まがりぶち)甲斐守景漸(けいぜん)の後を襲(つ)いだのである。尋で六月六日に忠英は関東の郡代を兼ねた。此年正月に至つて、大目附指物帳鉄砲改に転じた。南宮山古鐘のために屋舎を作らしめたのは此忠英である。
 詩。「関原駅。村長披来御陣図。平原指点説須臾。転知黎庶帰明主。遂是奸雄成独夫。首馘千年※[#「隻+隻」、7巻-69-上-14]塚在。□氛万里一塵無。行行今拝山河去。酒店茶亭満駅途。不破関古址。関門陳迹旧藤河。此境先賢佳句多。林裏荒簷三両戸。昇平今不復誰何。江濃界。落日村墟涼似秋。農人相伴過青疇。帰家仍隔疎籬語。便是江濃分二州。」
 第十五日。「四日卯時に発し一里番場駅。蓮華寺に詣り、午後磨針嶺(すりばりれい)望湖堂に小休す。数日木曾山道の幽邃に厭(あき)し故此に来(きたり)湖面滔漫を遠望して胸中の鬱穢(うつくわい)一時消尽せり。時に天曇り月出崎(つきのでさき)竹生島模糊として雨色を見れども、雨足過行て比良山を陰翳し竹生島実に画様なり。(人ありいはく。琵琶湖は沢(たく)といふべし。湖(こ)にあらず。余按(あんずるに)震沢を太湖と称するときは湖といふも妨なし。)一里六丁鳥居本(とりゐもと)駅。此辺に床の山あり。(往年朝妻舟の賛に床の山を詠ぜしは所ちかき故入れしなり。此に到て初てしる。)一里半高宮駅。二里愛智川(えちかは)駅なり。松原あり。片山といふ山を望む。二里半武佐(むさ)駅。仙台屋平六の家に宿す。此日午前後晴。晩密雲不雨(あめふらず)。雷(かみ)なる。暑甚し。行程八里許。」
 此日の記事中深艸元政を引いた一節があつたが、□斎が其誤を指□してゐるから削つた。□斎は又蘭軒が蓮花寺弘安年間の古鐘を見なかつたのを憾(うらみ)としてゐる。
 詩。「磨針嶺。磨嶺旗亭巌壑阿。望湖堂上観尤多。漁村浦遠疑無路。洲寺市通還有坡。一掃雲従仙島起。暫時雨逐布帆飛。西行瓊浦逢清客。欲問洞庭囲幾何。」

     その三十六

 第十六日は文化三年六月五日である。「五日五更に発す。三里半守山駅。守山寺を尋ぬ。一里半草津駅。□母餅茶店(うばがもちちやてん)に小休す。勢田橋西茶店にて吉田大夫に逢ふ。三里半六丁大津駅。牧野屋熊吉の家に宿す。駅長の家にして淀侯の侍医留川周伯といふ者に逢ふ。森養竹の所識(しよしき)なりといふ。此日熱甚し。行程八里半許(きよ)。」
 詩。「粟津原。戦場陳迹望湖山。荒冢碑存田稲間。十里松原途曲直。柳箱布□旅人還。」松原と云ひ、柳箱と云ふ、用ゐ来つて必ずしも眼を礙(がい)せず。
 第十七日。「六日寅時に発し四の宮川橋十禅寺橋を経過す。みな小橋なり。十禅寺門前を過ぎ追分に到る。(柳緑花紅碑を尋(たづぬ)。夜いまだあけざる故尋不得。)矢弓茶店(奴茶屋といふ、片岡流射術の祖家なり)に小休す。数里行て夜正(まさに)あけたり。姥(うば)が懐(ふところ)より日の岡峠にいたる。崗(かう)高からず。□揚茶店(けあげちやや)に休す。白川橋三条大橋三条小橋を経て押小路柳馬場島本三郎九郎の家に至る。(長崎宿というて江戸の長崎屋源右衛門大阪の為川辰吉みな同じ。)日正辰時なり。撫院は朝(てう)せり。余は寺町御池下る町銭屋総四郎を訪ふ。(姓鷦鷯(ささき)、名春行(しゆんかう)、号竹苞楼(ちくはうろうとがうす)。)主人家に在て応対歓晤はなはだ□(かなへ)り。古物数種を出して観しむ。所蔵の大般若第五十三巻零本巻子なり。神亀五年の古鈔跋文中に長王の二字あり。又古鈔零本玉篇一本辺格上短下長、(延喜式図書令の度なり)その裏を装修せしも古鈔本の仏経なり。「治安元年八月廿八日 以石泉御本写之已了 康平六年七月 於平等院 奉受此経 仏子快算」とあり。右件(くだん)の年号にて玉篇の古鈔知べし。古鈔孝経七八種あり。みな古文なり。一部後宇多帝の花押あり。尤珍貴とすべし。又類編群書画一元亀丁部巻之二十一の古鈔零本金沢文庫の印あるものあり。唐代所著のものと見ゆ。又白氏文集巻子零本三巻会昌□年鈔僧慧萼(えがく)将来によりて書する本あり。亦金沢文庫の印あり。又太子伝全本「永万元年六月十九日書 借住円舜」とあり。又今出川内大臣晴季(はるすゑ)公(秀頼同代人)帯する所の木魚刀一あり。皆古香馥郁たるものなり。且語次にいふ所の書数種なり。新撰六旬集占病占夢の書なり。跋文に「斯依滋兵川人貞観十三年奉勅撰進爾甲撰進之」とあり。又三帰翁十巻といふものあり。其書ありといへども百味作字の一巻無(なき)ときは薬名考べからずといへり。又弘法大師将来の五嶽真形図あり。普通の図と異なり。又篁公書する所の仏書あり。無仏斎藤貞幹(とうていかん)の蔵するもの也。其古物珍貴しるべし。又日本国現在書目ありといふ。又医書一巻元亀の古鈔本にて末云(すゑにいはく)「耆婆宮内大輔施薬大医正五位上国撰」とあり。日已未時。さりて智恩院に行き祇園の茶店中村屋に至て休す。(豆腐味(あぢはひ)尤よし。他雑肴(ざつかう)箸を下(くだす)べからず。)樹陰清涼大に佳なり。此日祭神日の前一日なり。しかれども甚雑喧ならず。八坂に行(ゆき)塔下を経て三年坂を上る。坂側(はんそく)みな窯戸(えうこ)なり。烟影紛※(ふんでう)[#「褒」の「保」に代えて「馬」、7巻-71-下-10]せり。嫗堂(うばだう)経書堂の前をすぎ清水寺門前の町に至る。酒店多し。みな提燈に酒肴の名を書して竿上に掲ぐ。清水寺中を歴観し台上に休してかへる。蓮花王院方広寺に行く。大仏殿災後いまだ経営なし。只洪鐘のみ存ぜり。耳塚を経て寺門前茶店に至て撫院を待。
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