伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

     その一

 頼山陽は寛政十二年十一月三日に、安藝国広島国泰寺裏門前杉木小路(すぎのきこうぢ)の父春水の屋敷で、囲の中に入れられ、享和三年十二月六日まで屏禁せられて居り、文化二年五月九日に至つて、「門外も為仕度段(つかまつらせたきだん)、存寄之通可被仕候(つかまつらるべくそろ)」と云ふ浅野安藝守重晟(しげあきら)が月番の達しに依つて釈(ゆる)された。山陽が二十一歳から二十六歳に至る間の事である。疇昔(ちうせき)より山陽の伝を作るものは、皆此幽屏の前後に亘る情実を知るに困(くるし)んだ。森田思軒も亦明治二十六七年の交「頼山陽及其時代」を草した時、同一の難関に出逢つたのである。
 然るにこれに先(さきだ)つこと数年、思軒の友高橋太華が若干通の古手紙を買つた。それは菅茶山(くわんちやざん)が伊沢澹父(いさはたんふ)と云ふものに与へたものであつて、其中の一通は山陽幽屏問題に解決を与ふるに足る程有力なものであつた。
 思軒は此手紙に日附があつたか否かを言はない。しかし「手紙は山陽が方(まさ)に纔(わづか)に茶山の塾を去りて京都に帷(ゐ)を下(くだ)せる時書かれたる者」だと云つてあるに過ぎぬから、恐くは日附は無かつたのであらう。
 山陽は文化六年十二月二十七日に広島を立つて、二十九日に備後国安那郡(やすなごほり)神辺(かんなべ)の廉塾(れんじゆく)に著き、八年閏(うるふ)二月八日に神辺を去つて、十五日に大坂西区両国町の篠崎小竹方に著き、数日の後小竹の紹介状を得て大坂を立ち、二十日頃に小石元瑞(げんずゐ)を京都に訪ひ、元瑞の世話で新町に家塾を開いた。思軒は茶山の手紙を以て此頃に書かれたものと判断してゐたのである。
 茶山の此手紙を書いた目的をば、思軒が下(しも)の如くに解した。「其の言ふ所は、此たび杏坪(きやうへい)が江戸に上れる次(ついで)、君側の人に請うて山陽の事を執りなし、京都より帰りて再び之を茶山の塾に托せむと欲する計画ありとか伝聞し、山陽の旧過を列挙し、己れが山陽に倦みたる所以(ゆゑん)を陳じて以て澹父の杏坪の計画に反対せむことを望みたるなり」と云ふのである。計画とは山陽の父春水等の計画を謂ふ。春水等は山陽の叔父(しゆくふ)杏坪をして浅野家の執政に説かしめ、山陽の京都より広島に帰ることを許さしめむとしてゐる。さて広島に帰つた上は、山陽は再び廉塾に託せられるであらう。しかし茶山は既に山陽に倦んでゐて、澹父をして杏坪を阻(さまた)げしめむと欲するのだと云ふのである。
 此伊沢澹父とは何人(なにひと)であるか。思軒はかう云つた。「澹父の何人なるやは未だ考へずと雖も、書中の言によりて推量するに、蓋(けだし)備後辺の人の江戸に住みて、藝藩邸(げいはんてい)には至密の関係ありし者なるべし」と云つた。
 思軒の「頼山陽及其時代」が出てから十九年の後、大正二年に坂本箕山(きざん)の「頼山陽」が出た。箕山は同一の茶山の手紙を引いて、手紙の宛名の人を伊沢蘭軒だと云つてゐる。わたくしは太華が買つたと云ふ茶山の手紙の行方を知らない。推するに、此手紙はどこかに存在してゐて、箕山さんもこれを見ることを得たのではなからうか。
 わたくしは伊沢蘭軒の事蹟を書かうとするに当つて、最初に昔日(せきじつ)高橋太華の掘り出した古手紙の事を語つた。これは蘭軒の名が一時いかに深く埋没せられてゐたかを示さむがためである。

     その二

 わたくしの知る所を以てすれば、蘭軒の事蹟の今に至るまで記述を経たものは、坂本箕山さんの「藝備偉人伝」中の小伝と、頃日(このごろ)図書館雑誌に載せられた和田万吉さんの「集書家伊沢蘭軒翁略伝」との二つがあるのみである。
 しかし既に此等の記述があるのに、わたくしが遅れて出て、新に蘭軒の伝を書かうとするには、わたくしは先づ白己の態度を極めなくてはならない。わたくしが今蘭軒を伝ふることの難きは、前(さき)に渋江抽斎を伝ふることの難かりし比では無い。抽斎と雖、人名辞書がこれを載せ、陸羯南(くがかつなん)が一たびこれが伝を立てたことがあつた。只彼人名辞書の記載は海保漁村(かいほぎよそん)の墓誌の外に出でず、羯南の文も亦経籍訪古志の序跋を参酌したに過ぎぬに、わたくしは嗣子保さんの手から新に材料を得た。これに反して蘭軒の曾孫徳(めぐむ)さんと、其宗家の当主信平さんとの手より得べき主なる材料は、和田さんが既に用ゐ尽してゐる。就中(なかんづく)徳さんの輯録した所の材料には、「右蘭軒略伝一部帝国図書館依嘱に応じ謹写し納む。大正四年四月八日」と云ふ奥書がある。わたくしは和田さんが材を此納本に取つたことを疑はない。わたくしの新に伊沢氏に就いて、求め得べき材料は、此納本に漏れた選屑(えりくづ)に過ぎない。縦(よ)しや其選屑の中には、大正五年に八十二歳の齢を重ねて健存せる蘭軒の孫女(まごむすめ)おそのさんの談片の如き、金粉玉屑(きんふんぎよくせつ)があるにしても。
 蘭軒を伝ふることが抽斎を伝ふるより難いには、猶一の軽視すべからざる理由がある。それは渋江氏には「泰平千代鑑」と題するクロオニツクがあつて、帝室、幕府、津軽氏、渋江氏の四欄を分つた年表を形づくつてゐるのに、伊沢氏には編年の記載が少いと云ふ一事である。強ひて此欠陥を補ふべき材料を求むれば、蘭軒には文化七年二月より文政九年三月に至る「勤向(つとめむき)覚書」があり、其嗣子榛軒(しんけん)には嘉永五年十月二十一日より十一月十九日に至る終焉の記があるのみである。独り榛軒の養嗣子棠軒(たうけん)は、嘉永五年十一月四日より明治四年四月十一日に至る稍詳密なる「棠軒公私略」を遺し、僅に中間明治元年三月中旬より二年六月上旬に至る落丁があるに過ぎぬが、其文には取つて蘭軒榛軒二代の事跡を補ふべきものが殆無い。
 わたくしは自己の態度を極めたいと云つた。しかし熟(つく/″\)これを思へば、自己の態度を極めることが不可能ではないかと疑ふ。わたくしは少くもこれだけの事を自認する。若しわたくしが年月に繋(か)くるに事実を以てしようとしたならば、わたくしの稿本は空白の多きに堪へぬであらう。徳さんの作つた蘭軒略伝が既に編年の行状では無い。その蘭軒前後に亘つた「歴世略伝」も亦同じである。徳さんの記載に本づいたらしい和田さんの略伝も亦編年では無い。藝備偉人伝は、蘭軒を載せた下巻がわたくしの手許に無いが、同じ著者の「頼山陽」に引いた文を見れば、亦復(またまた)編年では無ささうである。おそのさんの談話の如きは、固(もと)より年月日を詳(つまびらか)にすべきものに乏しい。わたくしは奈何(いかに)して編年の記述をなすべきかを知らない。

     その三

 わたくしはかう云ふ態度に出づるより外無いと思ふ。先づ根本材料は伊沢徳(めぐむ)さんの蘭軒略伝乃至歴世略伝に拠るとする。これは已むことを得ない。和田さんと同じ源を酌まなくてはならない。しかし其材料の扱方に於て、素人歴史家たるわたくしは我儘勝手な道を行くことゝする。路に迷つても好い。若し進退維(こ)れ谷(きは)まつたら、わたくしはそこに筆を棄てよう。所謂(いはゆる)行当ばつたりである。これを無態度の態度と謂ふ。
 無態度の態度は、傍(かたはら)より看れば其道が険悪でもあり危殆(きたい)でもあらう。しかし素人歴史家は楽天家である。意に任せて縦に行き横に走る間に、いつか豁然として道が開けて、予期せざる広大なるペルスペクチイウが得られようかと、わたくしは想像する。そこでわたくしは蘇子の語を借り来つて、自ら前途を祝福する。曰く水到りて渠成ると。
 系譜を按ずるに、伊沢氏に四家がある。其一は旗本伊沢である。わたくしは姑(しばら)く「総宗家」と名づける。其二は総宗家四世正久(まさひさ)の庶子にして蘭軒の高祖父たる有信(ありのぶ)の立てた家で、今麻布鳥居坂町の信平さんが当主になつてゐる。徳さんの謂ふ「宗家」である。其三は宗家四世信階(のぶしな)が一旦宗家を継いだ後に分立したもので、蘭軒信恬(のぶさだ)は此信階の子である。徳さんの謂ふ「分家」で、今牛込市が谷富久町に住んでゐる徳さんが其当主である。其四は蘭軒の子柏軒信道(のぶみち)が分立した家で、徳さんの謂ふ「又分家」である。当主は赤坂氷川町の清水夏雲さん方に寓してゐる信治(のぶはる)さんである。
 総宗家の系図には、わたくしは手を触れようとはしない。其初世吉兵衛正重は遠く新羅三郎義光より出でてゐる。此に徳さんの補修を経た有形(ありかた)の儘に、単に歴代の名を数ふれば、義光より義清、清光、信義、信光、信政、信時、時綱、信家、信武、信成、信春、信満、信重、信守、信昌、信綱、信虎を経て晴信に至る。晴信は機山信玄である。晴信より信繁、信綱、信実、信俊、信雄、信忠を経て正重に至る。正重を旗本伊沢の初世とする。要するに旗本伊沢は武田氏の裔(すゑ)で、いさはの名は倭名抄に見えてゐる甲斐国石禾(いさわ)に本づいてゐるらしい。
 総宗家旗本伊沢より宗家伊沢が出でたのは、初世正重、二世正信、三世正岸(せいがん)を経て、四世正久に至つた後である。系図を閲(けみ)するに、伊沢氏は「幕之紋三菅笠(みつすげがさ)、家之紋蔦、替紋拍子木」と氏の下に註してある。初世吉兵衛正重は天文十年に参河国で生れ、慶長十二年二月二日に六十七歳で歿した。鉄砲組足軽四十人を預つて、千五百五十三石を食(は)んだ。二世隼人正(はいとのかみ)正信は東福門院附弓気多(ゆげた)摂津守昌吉の次男で、正重の女婿(ぢよせい)である。正信は文禄四年に生れ、寛文十年十二月二日に七十六歳で歿した。わたくしの所蔵の正保二年の江戸屋敷附に「伊沢隼人殿、本御鷹匠町(もとおんたかじやうまち)」と記してある。肩には役が記して無い。三世の名は闕けてゐる。只元和七年に生れ、延宝二年六月十六日に五十四歳で歿したとしてある。然るに徳川実記に拠れば、隼人正正信の子は主水正政成(もんどのかみまさしげ)である。延宝中の江戸鑑小姓組番頭中に「伊沢主水正、三千八百石、鼠穴(ねずみあな)、父主水正」がある。即ち此人であらう。
 系図に政成が闕けてゐて稍不明であるが、要するに旗本伊沢は正保中には鷹匠町、延宝以後には鼠穴に住んでゐて、千五百五十三石より三千八百石に至つた。

     その四

 蘭軒の高祖有信が旗本伊沢の家から分れて出た時の事は、蘭軒の姉幾勢(きせ)の話を、蘭軒の外舅(しうと)飯田休庵が聞いたものとして伝へられてゐる。それはかうである。有信は旗本伊沢の家に妾腹の子として生れた。然るに父の正室が妾を嫉(にく)んで、害を赤子(せきし)に加へようとした。有信の乳母(にゆうぼ)が懼(おそ)れて、幼い有信を抱いて麻布長谷寺(ちやうこくじ)に逃げ匿(かく)れた。当時長谷寺には乳母の叔父(しゆくふ)が住持をしてゐたのだと云ふ。乳母の戒名は妙輪院清芳光桂大姉である。
 有信の生れたのは天和元年だと伝へられてゐる。此時旗本伊沢の家は奈何(いか)なる状況の下にあつたか。
 当主は初代正重より四代目の吉兵衛正久であつた。江戸鑑を検するに、襲家の後寄合になつて、三千八百石を食み、鼠穴に住んでゐた。有信が鼠穴住寄合伊沢主水正の家に生れたことは確実である。
 有信が生れた時、父正久が何歳になつてゐたかと云ふことは、幸に系図に正久の生歿年が載せてあるから、推算することが出来る。正久は万治二年に生れ、寛保元年に八十三歳で歿したから、天和元年には二十三歳であつた。
 正久の正室は書院番頭三枝(さいぐさ)土佐守恵直(よしなほ)の女(ぢよ)である。これが庶子に害を加へようかと疑はれた夫人である。
 別に歴世略伝に有信の父と云ふものが載せてあるが、これは正久とは別人でなくてはならない。又有信の実父でありやうがない。其文はかうである。「初代有信、通称徳兵衛、父流芳院春応道円居士、元禄四年辛未五月十八日、二十二歳」と云ふのである。若し流芳院を正久だとすると、此年齢より推せば、寛文十年に生れ、天和元年に十二歳で有信を挙げたことゝなる。按ずるに流芳院は有信の実父ではあるまい。若し有信の実父だとすると、年月日若くは年齢に錯誤があるであらう。
 わたくしは長谷寺に潜んでゐる幼い有信の行末を問ふに先だつて、有信を逸した旗本伊沢、即総宗家のなりゆきを一瞥して置きたい。それは旗本伊沢の子孫が所謂宗家、分家、又分家の子孫とは絶て交渉せぬので、後に立ち戻つて語るべき機会が得難いからである。

     その五

 有信の父旗本伊沢四世吉兵衛正久は、武鑑を検するに、元禄二年より書院番組頭、十四年新番頭、十五年より小姓組番頭、宝永四年より書院番頭を勤め、叙爵せられて播磨守と云ひ、享保十七年には寄合になつてゐた。邸宅は鼠穴から永田馬場に移された。正久は系図に拠るに万治二年生で、寛保元年に八十三歳で歿した。
 五世吉兵衛方貞(はうてい)は系図に拠るに、享保元年生で、明和七年に五十五歳で歿した。宝暦十年の武鑑を検するに、方貞も亦父に同じく播磨守にせられ、書院番頭に進んでゐた。邸宅は旧に依つて永田馬場であつた。
 六世内記方守(ないきはうしゆ)は系図に拠るに、明和四年正月二十七日に生れた。又武鑑に拠るに、寛政六年十月より先手(さきて)鉄砲頭を勤めてゐた。文化の初の写本千石以上分限帳に、「伊沢内記、三千二百五十石、三川岱(みかはだい)」としてある。此後は維新前に至るまで、旗本伊沢は赤坂参河台に住んでゐた。
 七世主水は文化三年より火事場見廻り、文化九年より使番を勤めた。此役が十二年に至るまで続いてゐて、十三年には次の代の吉次郎が寄合に出てゐる。浅草新光明寺に「先祖代々之墓、伊沢主水源政武(もんどみなもとのまさたけ)」と彫(ゑ)つた墓石がある。此主水の建てたものではなからうか。
 八世吉次郎は文化十三年の武鑑に始めて見えてゐる。「伊沢吉次郎、父主水三千二百五十石、三川だい」と寄合の部に記してあるのが是である。此より後文政三年に至るまでの五年間は、武鑑の記載に変更が無い。文政四年には寄合の部の同じ所に、次の代の助三郎が見えてゐる。
 九世助三郎政義は文政四年の武鑑寄合の部に、「伊沢助三郎、父吉次郎、三千二百五十石、三川だい」と記してある。此役が天保二年に至るまで続いて、三年には中奥小姓になつてゐる。六年には叙爵せられて摂津守と称し、猶同じ職にゐる。九年には美作守(みまさかのかみ)に転じて小普請支配になつてゐる。尋(つい)で政義は十年三月に浦賀奉行になつて、役料千石を受けた。十三年三月に更に長崎奉行に遷(うつ)されて、役料四千四百二俵を受けた。そして弘化二年に至るまでは此職にゐた。弘化三年の武鑑が偶(たま/\)手元に闕(か)けてゐるが、四年より嘉永五年に至るまで、政義は寄合の中に入つてゐる。嘉永六年十二月に政義は再び浦賀奉行となり、安政二年八月に普請奉行となり、三年九月に大目附(おほめつけ)服忌令分限帳改(ぶくきりやうぶんげんちやうあらため)となり、四年十二月に江戸町奉行となり、五年十月に大目附宗門改となり、文久三年九月に留守居となり、元治元年七月十六日に此職を以て歿した。法諡(はふし)して徳源院譲誉礼仕政義居士と云ふ。墓は新光明寺にあつて、「明治三十五年七月建伊沢家施主八幡祐観(やはたいうくわん)」と彫(ゑ)つてある。
 徳さんは嘗て「正弘公懐旧紀事」を閲(けみ)して、安政元年に米使との談判に成つた条約の連署中に、伊沢美作守の名があるのを見たと云ふ。これは頃日(このごろ)公にせられた大日本古文書に見えてゐる米使アダムスとの交渉で、武鑑に政義の名を再び浦賀奉行として記してゐる間の事である。文書に拠れば、政義の職は下田奉行で、安政元年十二月十八日の談判中に、「美作守抔(など)は当春より取扱居、馴染之儀にも有之」云々と自ら語つてゐる。
 十世助三郎は慶応武鑑の寄合の部に、「伊沢力之助、父美作守、三千二百五十石、三河だい」と記してある。新光明寺に顕享院秀誉覚真政達居士の法諡を彫つた墓石があつて、建立の年月も施主の氏名も政義の墓と同じである。或は政達が即ち力之助の諱(いみな)ではなからうか。

     その六

 わたくしは或日旗本伊沢の墓を尋ねに、新光明寺へ往つた。浅草広徳寺前の電車道を南に折れて東側にある寺である。
 六十歳ばかりの寺男に問ふに、伊沢と云ふ檀家は知らぬと云つた。其言語(げんぎよ)には東北の訛がある。此爺(ぢゞ)を連れて本堂の北方にある墓地に入つて、街に近い西の端から捜しはじめた。西北隅は隣地面の人が何やら工事を起して、土を掘り上げてゐる最中である。爺が「こゝに伊の字があります」と云ふ。「どれ/\」と云つて、進み近づいて見れば、今掘つてゐる所に接して、一の大墓石が半ば傾(かたぶ)いて立つてゐる。台石は掘り上げた土に埋もれてゐる。
「これは伊奈熊蔵の墓だ、何代目だか知らぬが、これも二千石近く取つたお旗本だ」とわたくしが云つた。爺は「へえ」と云つて少し頭を傾けた。「誰も詣る人はないかい」と云ふと、「えゝ、一人もございません」と答へた。
 伊沢の墓はなか/\見附けることが出来なかつた。暫くしてから、独り東の方を捜してゐた爺が、「これではございませぬか」と呼んだ。往つて見れば前に云つた「先祖代々之墓、伊沢主水源政武」と彫つた墓である。政武は七世主水(もんど)であらうと前に云つたが、系譜一本に拠れば一旦永井氏に養はれたかとも思はれる。墓地の東南隅にあつたのだから、我々は丁度対角の方向から捜しはじめたのであつた。
 此大墓石の傍(かたはら)に小い墓が二基ある。戒名の院の下には殿(でん)の字を添へ、居士の上には大の字を添へた厳(いかめ)しさが、粗末な小さい石に調和せぬので、異様に感ぜられる。想ふに八幡某は旗本伊沢に旧誼のあるもので、維新後三十五年にしてこれを建てたのであらう。二基は即ち政義、政達二人の墓である。
 二人の中で伊沢政義は、下田奉行としてアダムスと談判した一人である。盛世にあつては此(かく)の如き衝に当るものは、容易に侯となり伯となる。当時と雖、芙蓉間詰五千石高の江戸城留守居は重職であつた。殊に政義が最後に勤めてゐた時は、同僚が四人あつて、其世禄は平賀勝足(かつたり)四百石、戸川安清五百石、佐野政美(まさよし)六百石、大沢康哲(やすさと)二千六百石であつたから、三千二百五十石の政義は筆頭であつた。其政義がこの戒名に調和せぬ小さい墓の主である。「此墓にも詣る人は無いか」と、わたくしは爺に問うた。
「いゝえ、これには詣る方があります。わたくしは何と云ふお名前だか知らなかつたのです。なんでも年に一度位はお比丘さんが来られます。それからどうかすると書生さんのやうな方で、参詣なさるのがあります。住持様は識つてゐなさるかも知れませんが、今日(こんにち)はお留守です。」
「さうかい。わたしは此墓に由縁(ゆかり)は無いが、少しわけがあつて詣つたのだ。どうぞ綫香(せんかう)と華とを上げておくれ。それから名札をお前に頼んで置くから、住持さんが内にゐなさる時見せて、此墓にまゐる人の名前と所とを葉書でわたしに知らせて下さるやうに、さう云つておくれ。」
 爺が苔を掃つて香華(かうげ)を供へるを待つて、わたくしは墓を拝した。そして爺に名刺を託して還つた。しかし新光明寺の住職は其後未だわたくしに音信(いんしん)を通じてくれない。

     その七

 麻布の長谷寺(ちやうこくじ)に匿(かく)れてゐた旗本伊沢の庶子は、徳兵衛と称し、人となつて有信と名告(なの)つた。有信は貨殖を志し、質店を深川に開いた。既にして家業漸く盛なるに至り、有信は附近の地所を買つた。後には其地が伊沢町と呼ばれた。永代橋を東へ渡り富吉町を経て又福島橋を渡り、南に折れて坂田橋に至る。此福島橋坂田橋間の西に面する河岸と、其中通とが即ち伊沢町であつたと云ふ。按ずるに後の中島町であらう。
 有信の妻は氏名を詳(つまびらか)にしない。法諡(はふし)は貞寿院瓊林晃珠(けいりんくわうじゆ)禅尼である。其出の一男子は早世した。浄智禅童子が是である。
 有信は遠江国の人小野田八左衛門の子を養つて嗣となした。此養子が良椿(りやうちん)信政である。惟(おも)ふに享保中の頃であらう。仮に享保元年とすると、有信が三十六歳、信政が四歳、又享保十八年とすると、有信が五十三歳、信政が二十一歳である。信政の父八左衛門は法諡を大音柏樹(だいおんはくじゆ)居士と云ひ、母は※相寿桂(どんさうじゆけい)[#「女+(而/大)」、7巻-16-下-14]大姉と云ふ。
 有信は此(かく)の如く志を遂げて、能く一家の基(もとゐ)を成したが、其「弟」に長左衛門と云ふものがあつた。遊惰にして財を糜(び)し、屡(しば/\)謀書謀判の科(とが)を犯し、兄有信をして賠償せしめた。総宗家の弟は有信が深川の家に来り寄るべきではないから、長左衛門は妻党(さいたう)の人で、正しく謂へば甥(せい)であらうか。
 有信は長左衛門のために産を傾(かたぶ)け、深川の地所を売つて、麻布鳥居坂に遷(うつ)つた。今伊沢信平さんの住んでゐる邸が是である。
 享保十八年十月十八日に有信は五十三歳で歿し、長谷寺(ちやうこくじ)に葬られた。即ち幼くして乳媼(にゆうをん)と共に匿(かく)れてゐた寺で、此寺が後々までも宗家以下の菩提所となるのである。有信は法諡を好信軒一道円了居士と云ふ。此人が即ち宗家伊沢の始祖である。
 二世良椿信政は二十一歳にして家を継いだ。信政は町医者であつた。伊沢氏が医家であり、又読書人を出すことは此人から始まつた。
 信政は幕府の菓子師大久保主水元苗(もんどもとたね)の女(むすめ)伊佐(いさ)を娶(めと)つた。菓子師大久保主水は徳川家の世臣(せいしん)大久保氏の支流である。しかし大久保氏の家世は諸書記載を異にしてゐて、今遽(にはか)に論定し難い。
 大久保系図に拠れば、粟田関白道兼(みちかね)十世の孫景綱より、泰宗、時綱、泰藤、常意、道意、道昌、常善、忠与を経て忠茂(ちゆうも)に至つてゐる。他書には道意を泰道とし、道昌を泰昌とし、常善を昌忠とし、忠与を忠興とし、忠茂を忠武(ちゆうぶ)としてゐる。此中には道号と名乗(なのり)との混同もあり、文字の錯誤もあるであらう。初め宇津宮氏であつたのに、道意若くは道昌に至つて宇津と称した。
 忠茂に五子があつた。長忠俊、二忠次、三忠員(たゞかず)、四忠久、以上四人の名は略(ほゞ)一定してゐるらしい。始て大久保と称したのは、忠茂若くは忠俊だと云ふ。世に謂ふ大久保彦左衛門忠教(たゞのり)は忠俊の子だとも云ひ、忠員の子だとも云ふ。忠茂の第五子に至つては、或は忠平に作り、或は忠行に作る。伝説の菓子師は此忠行を祖としてゐるのである。
 忠行が主水と称し、菓子師となつた来歴は、姑(しばら)く君臣略伝の記載に従ふに、下に説く所の如くである。

     その八

 大久保忠行は参河の一向宗一揆の時、上和田を守つて功があつたと云ふ。恐らくは永禄六七年の交の事であらう。徳川家康はこれに三百石を給してゐた。家康は平生餅菓子を食はなかつた。それは人の或は毒を置かむことを懼(おそ)れたからである。偶(たま/\)忠行は餅菓子を製することを善くしたので、或日その製する所を家康に献じた。家康は喜び□(くら)つて、此より時々(じゞ)忠行をして製せしめた。天正十八年八月に家康は江戸に入つて、用水の匱(とぼ)しきを憂へ、忠行に諮(はか)つた。忠行乃ち仁治中北条泰時の故智を襲いで、多摩川の水を引くことを策した。今の多摩川上水が是である。此時家康は忠行に主水の称を与へたと云ふことである。以上は君臣略伝の伝ふる所である。
 此より後主水忠行はどうなつたか、文献には所見が無い。然るに蘭軒の孫女(まごむすめ)の曾能(その)さんの聞く所に従へば、忠行が引水の策を献じた後十年、慶長五年に関が原の戦があつた。忠行は此役に参加して膝頭に鉄砲創を受け、廃人となつた。そこで事平(たひら)ぐ後家康の許を蒙つて菓子師となつたさうである。
 わたくしは此説を聞いて、さもあるべき事と思つた。素(もと)大久保氏には世(よゝ)経済の才があつた。大永四年に家康の祖父岡崎次郎三郎清康が、忠行の父忠茂の謀を用ゐて、松平弾正左衛門信貞入道昌安の兵を破り、昌安の女婿となつて岡崎城に入つた時、忠茂は岡崎市の小物成(こものなり)を申し受け、さて毫釐(がうりん)も徴求せずにゐた。これが岡崎の殷富を致した基だと云ふ。忠茂の血と倶に忠茂の経済思想を承けた忠行が、曾て引水の策を献じ、終(つひ)に商賈(しやうこ)となつたのは、□(よ)つて来る所があると謂つて好からう。
 忠行の子孫は、今川橋の南を東に折れた本白銀町(ほんしろかねちやう)四丁目に菓子店を開いてゐて、江戸城に菓子を調進した。今川橋の南より東へ延びてゐる河岸通に、主水河岸の称があるのは、此家あるがためである。後年武鑑に用達(ようたし)商人の名を載せはじめてより以来、山形の徽章の下に大久保主水の名は曾(かつ)て闕(か)けてゐたことが無い。
 宗家伊沢の二世信政の外舅(しうと)となつた主水元苗(もとたね)は、忠行より第幾世に当るか、わたくしは今これを詳(つまびらか)にしない。しかし既に真志屋西村、金沢屋増田の系譜を見ることを得た如くに、他日或は大久保主水の家世を知る機会を得るかも知れない。
 信政の妻大久保氏伊佐の腹に二子一女があつた。二子は信栄(のぶなが)と云ひ、金十郎と云ふ。一女の名は曾能(その)である。
 信政の嫡男信栄は年齢を詳にせぬが、前後の事情より推するに、信政は早く隠居して、家を信栄に譲つたらしい。仮に信政が五十歳で隠居したとすると、信栄の家督相続は宝暦十一年でなくてはならない。
 三世信栄は短命であつたらしい。明和五年八月二十八日に父信政に先(さきだ)つて歿し、長谷寺に葬られた。法諡(はふし)を万昌軒久山常栄信士と云ふ。信政は時に年五十七であつた。
 信栄は合智(がふち)氏を娶(めと)つて、二子を生ませた。長が信美(のぶよし)、字(あざな)は文誠、法名称仙軒、季(き)が鎌吉である。信栄の歿した時、信美は猶幼(いとけな)かつたので、信美の祖父信政は信栄の妹曾能に婿を取り、所謂(いはゆる)中継として信栄の後を承(う)けしめた。此女婿が信階(のぶしな)である。

     その九

 宗家伊沢の四世は信階である。字は大升、別号は隆升軒、小字(をさなな)は門次郎、長じて元安と称し、後長安と改めた。門次郎は近江国の人、武蔵国埼玉郡越谷住井出権蔵の子である。権蔵は法諡(はふし)を四時軒自性如春居士と云つて、天明四年正月十一日に歿した。其妻即信階の母は善室英証大姉と云つて、明和五年五月十三日に歿した。信栄(のぶなが)の死に先(さきだ)つこと僅に百零三日である。
 先代信栄の歿した時、嫡子信美(のぶよし)が幼(いとけな)かつたので、隠居信政は井出氏門次郎を養つて子とした。信政は門次郎に妻(めあは)するに信栄の妹曾能(その)を以てしようとして、心私(こゝろひそか)にこれを憚つた。曾能の容貌が美しくなかつたからである。偶(たま/\)識る所の家に美少女があつたので、信政は門次郎にこれを娶(めと)らむことを勧めた。門次郎は容(かたち)を改めて云つた。「わたくしを当家の御養子となされたのは伊沢の祀(まつり)を絶たぬやうにとの思召でござりませう。それにはせめて女子の血統なりとも続くやうに、お取計なさりたいと存じます。わたくしは美女を妻に迎へようとは存じも寄りませぬ」と云つた。此時信階は二十五歳、曾能は十九歳であつた。曾能は遂に信階の妻となつた。
 惟(おも)ふに信階は修養あり操持ある人物であつたらしい。伝ふる所に拠れば、信階は武于竜(ぶうりう)の門人であつたと云ふ。わたくしは武于竜と云ふ儒家を知らない。或は武梅竜(ぶばいりう)ではなからうか。
 武梅竜初の名は篠田維嶽(ゐがく)、美濃の人である。しかし其郷里の詳(つまびらか)なるを知らない。後藤松陰が「或云高須人、或云竹鼻人」と記してゐる。伊藤東涯の門人である。享保元年生の維嶽が二十一歳になつた元文元年に、東涯は歿した。そこで維嶽は宇野明霞の門に入り、名を亮(りやう)、字を士明と改めた。既にして亮が三十歳になつた延享二年に、又明霞が歿した。亮は後名を欽□(きんいう)、字を聖謨(せいぼ)と改めて自ら梅竜と号した。その武と云ふは祖先が武田氏であつたからである。梅竜は妙法院堯恭(たかやす)法親王の侍読にせられた。
 梅竜は仁斎学派より明霞の折衷学派に入り、同く明霞に学んだ赤松国鸞(こくらん)が、「不唯典刑之存、其言之似夫子、使人感喜交併」と云つた如く、其師の感化を受くること太(はなは)だ深かつたものと見える。明霞の生涯妻妾を置かなかつた気象が、梅竜を経て美妻を斥(しりぞ)けた信階に伝へられたとも考へられよう。
 梅竜は明和三年に五十一歳で歿した。信階は此時二十三歳で、中一年を隔てて伊沢氏の養子となつたのである。信階が武氏に学んだ時、同門に豊後国大野郡岡の城主中川修理大夫久貞の医師飯田休庵信方(のぶかた)がゐた。休庵は信階の同出(どうしゆつ)の姉井出氏を娶つたが、井出氏は明和七年七月三日に歿したので、水越氏民(たみ)を納(い)れて継室とした。休庵は後に蘭軒の外舅(しうと)になるのである。
 信階(のぶしな)の家督相続は猶摂主の如きものであつた。先代信栄(のぶなが)の子信美(のぶよし)が長ずるに及んで、信階はこれに家を譲つた。此更迭は何年であつたか記載を闕いでゐるが、安永六年前であつたことは明である。何故と云ふに、此年には信階の長子蘭軒が生れてゐる。そしてその生れた家は今の本郷真砂町であつたと云ふ。本郷真砂町は信階が宗家を信美に譲つた後に、分家して住んだ処だからである。仮に宗家の更迭と分家の創立との年を其前年、即安永五年だとすると、当時隠居信政は六十五歳、信階は三十三歳であつた。

     その十

 伊沢信階が宗家を養父亡(ばう)信栄の実子信美に譲つた年を、わたくしは仮に安永五年とした。此時信階の創立した分家は今の本郷真砂町桜木天神附近の地を居所とし、信階はこの新しい家の鼻祖となつたのである。
 わたくしは例に依つて、信階去後(きよご)の伊沢宗家のなりゆきを、此に插叙して置きたい。信階は宗家四世の主であつた。五世信美は歯医者となり、信階の女、蘭軒の姉にして、豊前国福岡の城主松平筑前守治之(はるゆき)の夫人に仕へてゐた幾勢(きせ)に推薦せられて、黒田家に召し抱へられ、文政二年四月二十二日に歿した。法諡(はふし)を称仙軒徳山居士と云ふ。此より後宗家伊沢は世(よゝ)黒田家の歯医者であつた。六世信全(のぶかね)は桃酔軒と号した。天明三年に生れ、文久二年閏(うるふ)八月十八日に八十一歳で歿した。七世信崇(のぶたか)は巌松院道盛と号した。天保十一年に生れ、明治二十九年一月十三日に五十七歳で歿した。その生れたのは信全が五十八歳の時である。八世が今の信平さんである。
 分家伊沢の初世信階は本郷に徙(うつ)つた後、安永六年十一月十一日に一子辞安(じあん)を挙げた。即ち蘭軒である。蘭軒は信階の最初の子ではなかつた。蘭軒には姉幾勢があつて、既に七歳になつてゐた。推するに早く鳥居坂にあつた時に生れたのであらう。此子等の母は家附の女(むすめ)曾能(その)である。蘭軒の生れた時、父信階は年三十四、母曾能は二十八、家系上の曾祖父にして実は外祖父なる信政は年六十六であつた。
 安永七年に信階の長女幾勢は、八歳にして松平治之の夫人に仕ふることになつた。夫人名は亀子、後幸子(さちこ)と改む、越後国高田の城主榊原式部大輔政永の女(ぢよ)で、当時二十一歳であつた。治之は筑前守継高の養子で、明和六年十二月十日に家を継いだのである。
 天明二年に幾勢の仕へてゐる黒田家に二度まで代替(だいがはり)があつた。天明元年十一月二十一日に治之が歿し、此年二月二日に養子又八が家を継いで筑前守治高(はるたか)と名告(なの)り、十月二十四日に病んで卒し、十二月十九日に養子雅之助が又家を継いだのである。雅之助は後筑前守斉隆(なりたか)と云つた。
 幾勢の事蹟は、家乗の云ふ所が頗る明ならぬので、わたくしはこれがために黒田侯爵を驚かし、中島利一郎さんを労して此(かく)の如くに記した。中島さんの言に拠るに、墓に刻んである幾勢の俗名は世代(せよ)である。後に更めた名であらうか。又家乗が誤り伝へてゐるのであらうか。
 天明四年に信階は養祖父を喪つた。隠居信政が此年十月七日に七十三歳で歿したのである。法諡(はふし)を幽林院岱翁良椿(たいをうりやうちん)居士と云ふ。長谷寺の先塋(せんえい)に葬られた。新しい分家には四十一歳の養孫信階、三十五歳の其妻、八歳の蘭軒を遺した。又宗家に於ては孫信美が已に二歳の曾孫信全(のぶかね)を設けてゐた。
 信政の妻大久保氏伊佐(いさ)は又貞光(ていくわう)の名がある。按ずるに晩年剃髪した後の称であらう。伊佐は享和三年七月二十八日に歿した。法諡を寿山院湖月貞輝大姉と云ふ。伊佐の所生(しよせい)には親に先(さきだ)つた信栄、信階の妻曾能の外、猶一子金十郎があつた。
 信階は冢子(ちようし)蘭軒のために早く良師を求めた。蘭軒が幼時の師を榊原巵兮(しけい)と云つた。蘭軒の「訳女戒跋」に、「翁氏榊原、姓藤原、名忠寛、字子宥、為東都書院郎、致仕号巵兮云」と云つてある。跋は享和甲子即文化紀元の作で、「翁歿十有三年於茲」と云つてあるから、巵兮は寛政四年に歿したと見える。蘭軒は尋(つい)で経を泉豊洲に受けた。按ずるに彼は天明の初、此は天明の末から寛政に亘つての事であらう。
 泉豊洲、名は長達、字(あざな)は伯盈(はくえい)である。其家世(よゝ)江戸に住した。先手(さきて)与力泉斧太郎が此人の公辺に通つた称である。豊洲は宝暦八年三月二十六日に茅場町に生れ、文化六年五月七日に五十二歳で歿した。父は名が智高、通称が数馬、母は片山氏である。
 豊洲は中年にして与力の職を弟直道(なほみち)に譲り、帷(ゐ)を下(くだ)し徒(と)に授けたと云ふ。墓誌に徴するに、与力を勤むることゝなつてから本郷に住んだ。致仕の後には「下帷郷南授徒」と書してある。伊沢氏の家乗に森川宿とあるのは、恐くは与力斧太郎が家であらう。所謂(いはゆる)郷南(きやうなん)の何処(いづく)なるかは未だ考へない。天明寛政の間に豊洲は二十四歳より四十三歳に至つたのである。
 豊洲は南宮大湫(なんぐうたいしう)の門人である。二十一歳にして師大湫の喪に遭つて、此より細井平洲に従つて学び、終に平洲の女婿となつた。要するに所謂叢桂社の末流(ばつりう)である。

     その十一

 わたくしは単に蘭軒が豊洲を師としたと云ふよりして、わざ/\溯□(そくわい)して叢桂社に至り、特にこれを細説することの愚なるべきを思ふ。しかし蘭軒の初に入つた学統を明にせむがために、敢て此に人の記憶を呼び醒すに足るだけのエスキスを插(さしはさ)むこととする。
 参河国加茂郡挙母(ころも)に福尾荘右衛門と云ふものがあつた。其妻奥平氏が一子曾七郎を生んだ。荘右衛門が尾張中納言継友(つぐとも)に仕へて、芋生(いもふ)の竹腰志摩守の部下に属するに及んで、曾七郎は竹腰氏の家老中西曾兵衛の養子にせられた。中西氏は本氏(ほんし)秋元である。そこで中西曾七郎が元氏(げんし)、名は維寧、字(あざな)は文邦、淡淵と号すと云ふことになつた。淡淵が芋生にあつて徒に授けてゐた時、竹腰氏の家来井上勝(しよう)の孤(みなしご)弥六が教を受けた。時に元文五年で、師が三十二歳、弟子(ていし)が十三歳であつた。弥六は後京都にあつて南宮(なんぐう)氏と称し、名は岳(がく)、字は喬卿(けうけい)、号は大湫(たいしう)となつた。延享中に淡淵は年四十に垂(なんなん)として芋生から名古屋に遷つた。此時又一人の壮者(わかもの)が来て従学した。これは尾張国平洲(ひらしま)村の豪士細井甚十郎の次男甚三郎であつた。甚三郎は偶(たま/\)大湫と生年を同じうしてゐて、当時二十に近かつた。遠祖が紀長谷雄(きのはせを)であつたと云ふので、紀氏、名は徳民、字は世馨(せいけい)、号は平洲とした。後に一種の性行を養ひ得て、所謂(いはゆる)「廟堂之器」となつたのが此人である。
 寛延三年に淡淵が四十二歳を以て先づ江戸に入つた。その芝三島町に起した家塾が則ち叢桂社である。翌年は宝暦元年で、平洲が二十四歳を以て江戸に入り、同じく三島町に寓した。二年に淡淵が四十四歳で歿して、生徒は皆平洲に帰した。明和四年に大湫が四十歳を以て江戸に入り、榑正町(くれまさちやう)に寓した。大湫は未だ居を卜せざる時、平洲と同居した。「平洲為之称有疾、謝来客、息講業十余日、無朝無暮、語言一室、若引緒抽繭、縷々不尽」であつた。明和八年に八町堀牛草橋の晴雪楼が落せられた。大湫の家塾である。
 泉豊洲が晴雪楼に投じたのは、恐くは安永の初であらう。安永七年より以後、豊洲は転じて平洲に従遊し、平洲は女(ぢよ)を以てこれに妻(めあは)した。
 叢桂社の学は徳行を以て先となした。淡淵は「其講経不拘漢宋、而別新古、従人所求、或用漢唐伝疏、或用宋明註解」平洲の如きも、「講説経義、不拘拘于字句、据古註疏為解、不好参考宋元明清諸家」と云ふのである。要するに、折衷に満足して考証に沈潜しない。学問を学問として研窮せずに、其応用に重きを置く。即ち尋常為政者の喜ぶ所となるべき学風である。
 蘭軒が豊洲の手を経て、此学統より伝へ得た所は何物であらうか。窃(ひそか)に思ふに只蘭軒をして能く拘儒(くじゆ)たることを免れしめただけが、即ち此学統のせめてもの賚(たまもの)ではなかつただらうか。

     その十二

 蘭軒が泉豊洲の門下にあつた時、同窓の友には狩谷□斎(えきさい)、木村文河(ぶんか)、植村士明、下条寿仙(げでうじゆせん)、春泰の兄弟、横山辰弥等があつた。□斎の孫女(まごむすめ)は後に蘭軒の子柏軒に嫁し、柏軒の女(むすめ)が又□斎の養孫(やうそん)矩之(くし)に嫁して、伊沢狩谷の二氏は姻戚の関係を重ねた。
 木村文河、名は定良(さだよし)、字(あざな)は駿卿、通称は駿蔵、一に橿園(きやうゑん)と号した。身分は先手与力(さきてよりき)であつた。橘千蔭(ちかげ)、村田春海(はるみ)等と交り、草野和歌集を撰んだ人である。
 植村士明、名は貞皎、号を知らない。士明は字(あざな)である。江戸の人で、蘭軒と親しかつた。
 下条寿仙、名は成玉(せいぎよく)、字は叔琢(しゆくたく)である。信濃国筑摩郡松本の城主松平丹波守光行(みつゆき)の医官になつた。寿仙の弟春泰、名は世簡(せいかん)、字は季父(きふ)である。横山の事は未だ詳(つまびらか)にしない。
 蘭軒が医学の師は目黒道琢、武田叔安であつたと云ふ。目黒道琢、名は某、字は恕卿である。寛政の末の武鑑に目見医師の部に載せて、「日比谷御門内今大路一所(しよ)」と註してある。浅田栗園(りつゑん)の皇朝医史には此人のために伝が立ててあるさうであるが、今其書が手元に無い。
 武田叔安は天明中より武鑑寄合医師の部に載せて、「四百俵、愛宕下」と註してある。文化の末より法眼(はふげん)としてあつて、持高と住所とは旧に依つてゐる。武田氏は由緒ある家とおぼしく、家に後水尾天皇の宸翰二通、後小松天皇の宸翰一通を蔵してゐたさうである。
 蘭軒が本草(ほんざう)の師は太田大洲、赤荻由儀であつたと云ふ。太田大洲、名は澄元、字は子通である。又崇広堂の号がある。享保六年に生れ、寛政七年十月十二日に七十五歳で歿した。按ずるに蘭軒は其古稀以後の弟子(ていし)であらう。
 赤荻由儀はわたくしは其人を詳にしない。只富士川游さんの所蔵の蘭軒雑記に、「千屈菜(せんくつさい)、和名みそはぎ、六月晦日御祓(みそかみそぎ)の頃より咲初(さきそむ)る心ならむと余(わが)考也、赤荻先生にも問しかば、先生さもあらむと答られき」と記してあるだけである。手元にある諸書を一わたり捜索して、最後に白井光太郎さんの日本博物学年表を通覧したが、此人の名は遂に見出すことが出来なかつた。年表には動植の両索引と書名索引とがあつて、人名索引が無い。事の序(ついで)に白井さんに、改板の期に至つて、人名索引を附せられむことを望む。わたくしは又赤荻由儀に就いて見る所があつたら、一報を煩したいと云ふことを白井さんに頼んで置いた。
 蘭軒が師事した所の儒家医家は概(おほむ)ね此の如きに過ぎない。わたくしは蘭軒の師家より得た所のものには余り重きを置きたくない。蘭軒は恐くは主としてオオトヂダクトとして其学を成就したものではなからうか。
 蘭軒は後に詩を善くし書を善くした。しかし其師承を詳にしない。只詩は菅茶山(くわんちやざん)に就いて正を乞うたことを知るのみである。蘭軒が始て詩筒を寄せたのは、推するに福山侯阿部正倫(まさとも)が林述斎の言(こと)を聞いて、茶山に五人扶持を給した寛政四年より後の事であらう。

     その十三

 信階(のぶしな)は寛政六年十月二十八日に五十一歳で、備後国深津郡福山の城主阿部伊勢守正倫に召し抱へられて侍医となつた。菅茶山が見出された二年の後で、蘭軒が十八歳の時である。阿部家は宝永七年閏(うるふ)八月十五日に、正倫の曾祖父備中守正邦(まさくに)が下野国宇都宮より徙(うつ)されて、福山を領した。菅茶山集中に、「福山藩先主長生公、以宝永七年庚寅、自下毛移此」と書してあるのが是である。当主正倫は、父伊予守正右(まさすけ)が明和六年七月十二日宿老の職にゐて卒したので、八月二十九日に其後を襲(つ)いだ。伊沢氏の召し抱へられる二十五年前の事である。
 寛政七年には、十八年来、信階の女(ぢよ)幾勢(きせ)が仕へてゐる黒田家に又代替があつた。八月二十四日に筑前守斉隆(なりたか)が卒して、十月六日に嫡子官兵衛斉清(なりきよ)が襲封したのである。治之(はるゆき)夫人幸子が三十八歳、幾勢が二十五歳の時である。同じ十月の十二日に、蘭軒の本草の師太田大洲が七十五歳で歿した。時に蘭軒は十九歳であつた。
 寛政九年は伊沢の家に嘉客を迎へた年であるらしい。それは頼山陽である。
 世に伝ふる所を以てすれば、山陽が修行のために江戸に往くことを、浅野家に許されたのは、正月二十一日であつた。恰も好し叔父(しゆくふ)杏坪(きやうへい)が当主重晟(しげあきら)の嫡子斉賢(なりかた)の侍読となつて入府するので、山陽は附いて広島を立つた。山陽は正月以来広島城内二の屋敷にある学問所に寄宿してゐたが、江戸行の事が定まつてから、一旦杉木小路(すぎのきこうぢ)の屋敷に帰つて、そこから立つたのである。
 山陽が江戸に着いたのは四月十一日である。山陽の曾孫古梅(こばい)さんが枕屏風の下貼になつてゐたのを見出したと云ふ日記に、「十一日、自川崎入江戸、息大木戸、(中略)大人則至本邸、(中略)使襄随空轎而入西邸、(中略)須臾大人至堀子之邸舎」と書いてある。
 浅野家の屋敷は当時霞が関を上邸、永田馬場を中邸、赤阪青山及築地を下邸としてゐた。本邸は上邸、西邸とは中邸である。
 山陽が江戸に著いた時、杏坪は轎(かご)を下(くだ)つて霞が関へ往つた。山陽は空轎(からかご)に附いて永田馬場へ往つた。次で杏坪も上邸を退いて永田馬場へ来たのであらう。「堀子」とは年寄堀江典膳であらうか。
 これより後山陽は何処にゐたか。山陽は自ら「遊江戸、住尾藤博士塾」と書してゐる。二洲の官舎は初め聖堂の構内(かまへうち)にあつて、後に壱岐坂に邸を賜はつたと云ふ。山陽の寓したのは此官舎であらう。二洲は山陽の父春水の友で、妻猪川氏を喪つた時、春水が妻飯岡氏静の妹直(なほ)をして続絃(ぞくげん)せしめた。即ち二洲は山陽の従母夫(じゆうぼふ)である。
 山陽は二洲の家にゐた間に、誰の家を訪問したか。世に伝ふる所を以てすれば、山陽は柴野栗山を駿河台に訪うた。又古賀精里を小川町雉子橋(きじばし)の畔(ほとり)に訪うた。これは諸書の皆載(の)する所である。
 さて山陽は翌年寛政十年四月中に、杏坪と共に江戸を立つて、五月十三日に広島御多門にある杏坪の屋敷に著き、それより杉木小路の父の家に還つたと云ふ。世の伝ふる所を以てすれば、江戸に於ける山陽の動静は此(かく)の如きに過ぎない。
 然るに伊沢氏の口碑には一の異聞が伝へられてゐる。山陽は江戸にある間に伊沢氏に寓し、又狩谷□斎の家にも寓したと云ふのである。

     その十四

 伊沢氏の口碑の伝ふる所はかうである。蘭軒は頼春水とも菅茶山とも交はつた。就中(なかんづく)茶山は同じく阿部家の俸を食(は)む身の上であるので、其交(まじはり)が殊に深かつた。それゆゑ山陽は江戸に来たとき、本郷真砂町の伊沢の家で草鞋(わらぢ)を脱いだ。其頃伊沢では病源候論を写してゐたので、山陽は写字の手伝をした。さて暫くしてから、蘭軒は同窓の友なる狩谷□斎に山陽を紹介して、□斎の家に寓せしむることゝしたと云ふのである。
 此説は世の伝ふる所と太(はなは)だ逕庭(けいてい)がある。世の伝ふる所は一見いかにも自然らしく、これを前後の事情に照すに、しつくりと※合(ふんがふ)[#「月+(勿/口)」、7巻-29-下-5]する。叔父杏坪と共に出て来た山陽が、聖堂で学ばうとしてゐたことは勿論である。其聖堂には、六年前に幕府に召し出されて、伏見両替町から江戸へ引き越し、「以其足不良、特給官舎於昌平黌内」と云ふことになつた従母婿(じゆうぼせい)の二洲尾藤良佐(びとうりやうさ)が住んでゐた。山陽が此二洲の官舎に解装して、聖堂に学ぶのは好都合であつたであらう。尾藤博士の塾にあつたとは、山陽の自ら云ふ所である。又茶山の詩題にも「頼久太郎、寓尾藤博士塾二年」と書してある。二年とは所謂(いはゆる)足掛の算法に従つたものである。さて山陽は寛政九年の四月より十年の四月に至るまで江戸にゐて、それから杏坪等と共に、木曾路を南へ帰つた。此経過には何の疑の挾(さしはさ)みやうも無い。
 しかし口碑などと云ふものは、固(もと)より軽(かろがろ)しく信ずべきでは無いが、さればとて又妄(みだり)に疑ふべきでも無い。若し通途(つうづ)の説を以て動すべからざるものとなして、直(たゞち)に伊沢氏の伝ふる所を排し去つたなら、それは太早計(たいさうけい)ではなからうか。
 伊沢氏でお曾能(その)さんが生れた天保六年は、蘭軒の歿した六年の後である。又お曾能さんの父榛軒(しんけん)も山陽が江戸を去つてから六年の後、文化元年に生れた。しかし山陽が江戸にゐた時二十七八歳であつた蘭軒の姉幾勢(きせ)は、お曾能さんが十七歳になつた嘉永四年に至るまで生存してゐた。此家庭に於て、曾て山陽が寄寓せぬのに、強て山陽が寄寓したと云ふ無根の説を捏造したとは信ぜられない。且伊沢氏は又何を苦んでか此(かく)の如き説を憑空(ひようくう)構成しようぞ。
 徳(めぐむ)さんの言ふ所に拠れば、当時山陽が伊沢氏の家に留めた筆蹟が、近年に至るまで儲蔵せられてあつたさうである。惜むらくは伊沢氏は今これを失つた。
 わたくしは山陽が伊沢氏に寓したことを信ずる。そして下に云ふ如くに推測する。
 山陽が江戸にあつての生活は、恐くは世の伝ふる所の如く平穏ではなかつただらう。山陽がその自ら云ふ如くに、又茶山の云ふ如くに、二洲の塾にゐたことは確である。しかし後に神辺(かんなべ)の茶山が塾にあつて風波を起した山陽は、江戸の二洲が塾にあつても亦風波を起したものと見える。風波を起して塾を去つたものと見える。去つて何処へ往つたか。恐くは伊沢に往き、狩谷に往つたであらう。伊沢氏の口碑に草鞋(わらぢ)を脱いだと云ふのは、必ずしも字の如くに読むべきではなからう。

     その十五

 山陽は尾藤二洲の塾に入つた後、能く自ら検束してはゐなかつたらしい。山陽が尾藤の家の女中に戯れて譴責せられたのが、出奔の原因であつたと云ふ説は、森田思軒が早く挙げてゐる。唯思軒は山陽の奔(はし)つたのを、江戸を奔つたことゝ解してゐる。しかしこれは尾藤の家を去つたので、江戸を去つたのでは無かつたであらう。
 二洲が此(かく)の如き小疵瑕(せうしか)の故を以て山陽を逐つたのでないことは言を須(ま)たない。又縦(よ)しや二洲の怒が劇(はげし)かつたとしても、其妻直(なほ)は必ずや姉の愛児のために調停したことを疑はない。しかし山陽は「例の肝へき」を出して自ら奔つたのであらう。
 わたくしは此事のあつたのを何時だとも云ふことが出来ない。寛政九年四月より十年四月に至る満一箇年のうち、山陽がおとなしくして尾藤方にゐたのは幾月であつたか知らない。しかし推するに二洲の譴責は「物ごとにうたがひふかき」山陽の感情を害して、山陽は聖堂の尾藤が官舎を走り出て、湯島の通を北へ、本郷の伊沢へ駆け込んだのであらう。山陽が伊沢の門(かど)で脱いだのが、草鞋(わらぢ)でなくて草履であつたとしても、固より事に妨は無い。
 世の伝ふる所の寛政十年三月廿一日に山陽が江戸で書いて、広島の父春水に寄せた手紙がある。わたくしは此手紙が、或は山陽の江戸に於ける後半期の居所を以て、尾藤塾にあらずとする証拠になりはせぬかと思ふ。しかし文書を読むことは容易では無い。比較的に近き寛政中の文と雖亦然りである。文書を読むに慣れぬしろうとのわたくしであるから、錯(あやま)り読み錯り解するかも知れぬが、若しそんな事があつたら、識者の是正を仰ぎたい。
 手紙の原本はわたくしの曾(かつ)て見ぬ所である。わたくしの始て此手紙を読んだのは、木崎好尚(きざきかうしやう)さんがその著す所の「家庭の頼山陽」を贈つてくれた時である。此手紙の末(すゑ)に下(しも)の如き追記がある。「猶々昌平辺先生へも一日参上仕候而御暇乞等をも可申上存居申候、何分加藤先生御著の上も十日ほども可有之由に御坐候故、左様の儀も出来不申かと存候、以上」と云ふのである。加藤先生とは加藤定斎(ていさい)である。定斎は寛政十年三月廿二日に江戸に入る筈で、山陽は其前夜に此書を裁した。十日程もこれあるべしとは、山陽が猶江戸に淹留(えんりう)すべき期日であらう。寛政十年の三月は陰暦の大であつたから、山陽は四月三日頃に江戸を立つべき予定をしてゐたのである。山陽の発程は此予定より早くなつたか遅くなつたかわからない。山陽の江戸を発した日は記載せられてをらぬからである。
 わたくしのしろうと考を以てするに、先づ此追記には誤謬があるらしく見える。誤読か誤写か、乃至排印に当つての誤植か知らぬが、兎に角誤謬があるらしく見える。わたくしは此の如く思ふが故に、手紙の原本を見ざるを憾む。元来わたくしの所謂(いはゆる)誤謬は余りあからさまに露呈してゐて、人の心附かぬ筈は無い。然るに何故に人が疑を其間に挾(さしはさ)まぬであらうか。わたくしは頗るこれを怪む。そして却つて自己のしろうと考にヂスクレヂイを与へたくさへなるのである。

     その十六

 寛政十年三月二十一日の夜、山陽が父春水に寄せた書の追記は、口語体に訳するときはかうなる。「昌平辺の先生の所へも一度往つて暇乞を言はうと思つてゐる、何にせよ加藤先生が著いてからも十日程はあるだらうと云ふことだから、そんな事も出来ぬかと思ふ」となる。何と云ふ不合理な句であらう。暇がありさうだから往かれまいと云ふのは不合理ではなからうか。これはどうしても暇がありさうだから往かれようとなくてはならない。原文は「左様の義も出来可申かと存候」とあるべきではなからうか。只「不」を改めて「可」とすれば、文義は乃ち通ずるのである。
 わたくしの此手紙を読んだ始は「家庭の頼山陽」が出た時であつた。即ち明治三十八年であつた。それから八年の後、大正二年に箕山(きざん)さんの「頼山陽」が出た。同じ手紙が載せてあつて、旧に依つて「左様の義も出来不申かと存候」としてある。箕山さんは果して原本を見たのであらうか。若しさうだとすると、誤写も誤植もありやうがなくなる。原本の字体が不明で、誰が見ても誤り読むのであらうか。しかし此(かく)の如くに云ふのは、誤謬があると認めた上の事である。誤謬は初より無いかも知れない。そしてわたくしが誤解してゐるのかも知れない。
 追記の文意の合理不合理の問題は上(かみ)の如くである。しかしわたくしの此追記に就いて言はむと欲する所は別に有る。わたくしは試に問ひたい。追記に所謂「昌平辺先生」とは抑(そも/\)誰を斥(さ)して言つたものであらうかと問ひたい。
 姑(しばら)く前人の断定した如くに、山陽は江戸にある間、始終聖堂の尾藤の家にゐたとする。そして尾藤の家から広島へ立つたとする。さうすると此手紙も尾藤の家にあつて書いたものとしなくてはなるまい。そこで前人の意中を忖度(そんたく)するに、下(しも)の如くであらう。昌平辺先生とは昌平黌の祭酒博士を謂ふ。即ち林(りん)祭酒述斎を始として、柴野栗山、古賀精里等の諸博士である。その二洲でないことは明である。二洲の家にあるものが、ことさらに二洲を訪ふべきでは無いからである。前人の意中はかうであらう。
 独りわたくしの思索は敢て別路を行く。山陽が江戸にあつた時、初め二洲の家にゐたことは世の云ふ所の如くであらう。しかし後には二洲の家にはゐなかつたらしい。少くも此手紙は二洲の家にあつて書いたものではなささうである。「昌平辺」の三字は、昌平黌の構内にゐて書くには、いかにも似附かはしくない文字である。外にあつて昌平黌と云ふ所を斥(さ)すべき文字である。
 わたくしは敢てかう云ふ想像をさへして見る。「昌平辺先生」は、とりもなほさず二洲ではなからうかと云ふ想像である。二洲は瓜葛(くわかつ)の親とは、思軒以来の套語であるが、縦(よ)しや山陽は一時の不平のために其家を去つたとしても、全く母の妹の家と絶つたのでないことは言を須(ま)たない。しかし少くも山陽は些(ちと)のブウドリイを作(な)して不沙汰をしてゐたのではなからうか。すねて往かずにゐたのではなからうか。そして「江戸を立つまでには暇がありさうだから、例の昌平辺の先生の所へも往かれよう」と云つたのではなからうか。これは山陽が二洲の家を去つたことは、広島へも聞えずにゐなかつたものと仮定して言ふのである。

     その十七

 わたくしは寛政九年四月中旬以後に、月日は確に知ることが出来ぬが、山陽が伊沢の家に投じたものと見たい。蘭軒が頼氏の人々並に菅茶山と極て親しく交つたことは、後に挙ぐる如く確拠があるが、山陽の父春水と比べても、茶山と比べても、蘭軒はこれを友とするに余り年が少過(わかす)ぎる。寛政九年には春水五十二、茶山五十で、蘭軒は僅に二十一である。わたくしは初め春水、茶山等は蘭軒の父隆升軒信階(りゆうしようけんのぶしな)の友ではなからうかと疑つた。信階は此年五十四歳で、春水より長ずること二歳、茶山より長ずること四歳だからである。しかし信階が此人々と交つた形迹は絶無である。それゆゑ山陽の来り投じたのは、当主信階をたよつて来たのではなく、嫡子蘭軒をたよつて来たのだと見るより外無くなるのである。此年二十一歳の蘭軒は、十八歳の山陽に較べて、三つの年上である。
 わたくしは蘭軒が初め奈何(いかに)して頼菅二氏に交(まじはり)を納(い)れたかを詳(つまびらか)にすること能はざるを憾(うらみ)とする。わたくしは現に未整理の材料をも有してゐるが、今の知る所を以てすれば、蘭軒が春水と始て相見たのは、後に蘭軒が広島に往つた時である。又茶山と交通した最も古いダアトは、文化元年の春茶山が小川町の阿部邸に病臥してゐた時、蘭軒が菜の花を贈つた事である。わたくしは今これより古い事実を捜してゐる。若し幸にしてこれを獲たならば、山陽が来り投じた時の事情をも、稍(やゝ)細(こまか)に推測することが出来るであらう。
 山陽は伊沢に来て、病源候論を写す手伝をさせられたさうである。果して山陽の幾頁(いくけつ)をか手写した病源候論が、何処かに存在してゐるかも知れぬとすると、それは世の書籍を骨董視する人々の朶頤(だい)すべき珍羞(ちんしう)であらう。
 病源候論が伊沢氏で書写せられた顛末は明で無い。又其写本の行方も明で無い。素(もと)わたくしは支那の古医書の事には□(くら)いが、此に些(ちと)の註脚を加へて、遼豕(れうし)の誚(そしり)を甘受することとしよう。病源候論は隋の煬帝(やうだい)の大業六年の撰である。作者は或は巣元方(さうげんはう)だとも云ひ、或は呉景だとも云ふ。呉の名は一に景賢に作つてある。四庫全書総目に、此書は官撰であるから、巣も呉も其事に与(あづか)つたのだらうと云つてある。玉海に拠れば、宋の仁宗の天聖五年に此書が□印(もいん)頒行せられた。降つて南宋の世となつて、天聖本が重刻(ちようこく)せられた。伊沢の蔵本即酌源堂本は、此南宋版であつて、全部五十巻目録一巻の中、目録、一、二、十四、十五、十六、十七、十八、十九、計九巻が闕けてゐた。然るに別に同板のもの一部があつた。それは懐仙閣本である。此事は経籍訪古志に見えてゐるが、訪古志はわたくしのために馴染が猶浅い故、少しく疑はしい処がある。訪古志に懐仙楼蔵と記する諸本が、皆曲直瀬(まなせ)の所蔵であることは明である。然るに訪古志補遺には懐仙閣蔵の書が累見してゐる。わたくしは懐仙閣も亦曲直瀬かと推する。しかしその当れりや否やを知らない。さて懐仙閣本の病源候論も亦完璧ではなくて、四十、四十一、四十二、四十三、計四巻が闕けてゐた。両本は恰も好し有無(いうむ)相補ふのであつた。
 伊沢氏で寛政九年に病源候論を写したとすると、それは自蔵本の副本を作つたのか。それとも懐仙閣本を借りて補写したのか。恐くは此二者の外には出でぬであらう。そして山陽が手伝つたと謂ふのは、此謄写の業であらう。

     その十八

 山陽が寓してゐた時の伊沢氏の雰囲気は、病源候論を写してゐたと云ふを見て想像することが出来る。五十四歳の隆升軒信階(りゆうしようけんのぶしな)が膝下で、二十一歳の蘭軒は他年の考証家の気風を養はれてゐたであらう。蘭軒が歿した後に、山田椿庭(ちんてい)は其遺稿に題するに七古一篇を以てした。中に「平生不喜苟著述、二巻随筆身後伝」の語がある。これが蘭軒の面目である。
 そこへ闖入し来つた十八歳の山陽は何者であるか。三四年前に蘇子の論策を見て、「天地間有如此可喜者乎」と叫び、壁に貼つて日ごとに観た人である。又数年の後に云ふ所を聞けば、「凌雲冲霄」が其志である。「一度大処へ出で、当世の才俊と被呼(よばれ)候者共と勝負を決し申度」と云ひ、「四方を靡せ申度」と云つてゐる。そして山陽は能く初志を遂げ、文名身後に伝はり、天下其名を識らざるなきに至つた。これが山陽の面目である。
 少(わか)い彼蘭軒が少い此山陽をして、首(かうべ)を俯して筆耕を事とせしめたとすると、わたくしは運命のイロニイに詫異(たい)せざることを得ない。わたくしは当時の山陽の顔が見たくてならない。
 山陽は尋で伊沢氏から狩谷氏へ移つたさうである。尾藤から伊沢へ移つた月日が不明である如くに、伊沢から狩谷へ移つた月日も亦不明である。要するに伊沢にゐた間は短く、狩谷にゐた間は長かつたと伝へられてゐる。わたくしは此初遷再遷を、共に寛政九年中の事であつたかと推する。
 わたくしは伊沢の家の雰囲気を云々した。山陽は本郷の医者の家から、転じて湯島の商人の家に往つて、又同一の雰囲気中に身を□(お)いたことであらう。□斎は当時の称賢次郎であつた。年は二十三歳で、山陽には五つの兄であつた。そして蘭軒の長安信階に於けるが如く、□斎も亦養父三右衛門保古(はうこ)に事(つか)へてゐたことであらう。墓誌には□斎が生家高橋氏を去つて、狩谷氏を嗣(つ)いだのは、二十五歳の時だとしてある。即ち山陽を舎(やど)した二年の後である。わたくしは墓誌の記する所を以て家督相続をなし、三右衛門と称した日だとするのである。□斎の少時奈何(いか)に保古に遇せられたかは、わたくしの詳(つまびらか)にせざる所であるが、想ふに保古は□斎の学を好むのに掣肘を加へはしなかつたであらう。□斎は保古の下にあつて商業を見習ひつつも、早く已に校勘の業に染指(せんし)してゐたであらう。それゆゑにわたくしは、山陽が同一の雰囲気中に入つたものと見るのである。
 洋人の諺に「雨から霤(あまだれ)へ」と云ふことがある。山陽はどうしても古本の塵を蒙ることを免れなかつた。わたくしは山陽が又何かの宋槧本(そうざんぼん)を写させられはしなかつたかと猜する。そして運命の反復して人に戯るゝを可笑(をか)しくおもふ。

     その十九

 寛政十年四月に山陽は江戸を去つた。其日時は不明である。山陽が三日頃に立つことを期してゐた証拠は、父に寄せた書に見えてゐる。又其発程が二十五日より前であつたことは、二洲が姨夫(いふ)春水に与へた書に徴して知ることが出来る。わたくしは山陽が淹留期(えんりうき)の後半を狩谷氏に寓して過したかとおもひ、又彼の父に寄する書を狩谷氏の許にあつて裁したかとおもふ。
 此年九月朔(ついたち)に吉田篁□(くわうとん)が歿した。其年歯には諸書に異同があるがわたくしは未だ考ふるに遑(いとま)がなかつた。わたくしが篁□の死を此に註するのは、考証家として蘭軒の先駆者であるからである。井上蘭台(らんたい)の門に井上金峨(きんが)を出し、金峨の門に此篁□を出した。蘭軒は師承の系統を殊にしてはゐるが、其学風は帰する所を同じうしてゐる。且亀田鵬斎(ぼうさい)の如く、篁□と偕(とも)に金峨の門に出で、蘭軒と親善に、又蘭軒の師友たる茶山と傾蓋故(ふる)きが如くであつた人もある。わたくしの今これに言及する所以(ゆゑん)である。蘭台は幕府の医官井上通翁の子である。金峨は笠間の医官井上観斎の子である。篁□は父祖以来医を以て水戸に仕へ、自己も亦一たび家業を継いで吉田林庵と称した。此の如く医にして儒なるものが、多く考証家となつたのは、恐くは偶然ではあるまい。
 此年の暮れむとする十二月二十五日に、広島では春水が御園(みその)道英の女(ぢよ)淳(じゆん)を子婦(よめ)に取ることを許された。不幸なる最初の山陽が妻である。
 此年蘭軒は二十二歳、其父信階は五十五歳であつた。
 寛政十一年に狩谷氏で□斎が家を嗣いだ。わたくしは既に云つたやうに、□斎は此より先に実家高橋氏を去つて保古(はうこ)が湯島の店津軽屋に来てをり、此時家督相続をして保古の称三右衛門を襲(つ)いだかとおもふ。
 □斎の家世には不明な事が頗る多い。□斎の生父高橋高敏(かうびん)は通称与総次(よそうじ)であつた。そして別号を麦雨(ばくう)と云つた。これは蘭軒の子で所謂(いはゆる)「又分家」の祖となつた柏軒の備忘録に見えてゐる。高敏の妻、□斎の生母佐藤氏は武蔵国葛飾郡小松川村の医師の女(むすめ)であつた。これも亦同じ備忘録に見えてゐる。
 高敏の家業は、曾孫三市(いち)さんの聞いてゐる所に従へば、古著屋であつたと云ふ。しかし伊沢宗家の伝ふる所を以てすれば小さい書肆であつたと云ふ。これは両説皆是(ぜ)であるかも知れない。古衣(ふるぎ)を売つたこともあり、書籍、事によつたら古本を売つたこともあるかも知れない。わたくしは高敏の事跡を知らむがために、曾て浅草源空寺に往つて、高橋氏の諸墓を歴訪した。手許には当時の記録があるが、姑(しばら)く書かずに置く。三市さんが今猶探窮して已まぬからである。
 □斎の保古に養はれたのは、女婿として養はれたのである。三市さんは□斎の妻は保古の三女であつたと聞いてゐる。柏軒の備忘録に此女の法号が蓮法院と記してある。
 此年二月二十二日に御園氏淳(じゆん)が山陽に嫁した。後一年ならずして離別せられた不幸なる妻である。十二月七日の春水の日記「久児夜帰太遅、戒禁足」の文が、家庭の頼山陽に引いてある。山陽が後真(まこと)に屏禁(へいきん)せられる一年前の事である。
 此年蘭軒は二十三歳、父信階は五十六歳であつた。

     その二十

 寛政十二年は信階父子の家にダアトを詳(つまびらか)にすべき事の無かつた年である。此年に山陽は屏禁せられた。わたくしは蘭軒を伝ふるに当つて、時に山陽を一顧せざることを得ない。現に伊沢氏の子孫も毎(つね)に曾(かつ)て山陽を舎(やど)したことを語り出でて、古い記念を喚び覚してゐる。譬へば逆旅(げきりよ)の主人が過客中の貴人を数ふるが如くである。これは晦(かく)れたる蘭軒の裔(すゑ)が顕れたる山陽に対する当然の情であらう。
 これに似て非なるは、わたくしが渋江抽斎のために長文を書いたのを見て、無用の人を伝したと云ひ、これを老人が骨董を掘り出すに比した学者である。此(かく)の如き人は蘭軒伝を見ても、只山陽茶山の側面観をのみ其中に求むるであらう。わたくしは敢て成心としてこれを斥(しりぞ)ける。わたくしの目中(もくちゆう)の抽斎や其師蘭軒は、必ずしも山陽茶山の下(しも)には居らぬのである。
 山陽が広島杉木小路の家を奔(はし)つたのは九月五日である。豊田郡竹原で山陽の祖父又十郎惟清(これきよ)の弟伝五郎惟宣(これのぶ)が歿したので、梅□(ばいし)は山陽をくやみに遣つた。山陽は従祖祖父(じゆうそそふ)の家へ往かずに途中から逃げたのである。竹原は山陽の高祖父総兵衛正茂の始て来り住した地である。素(もと)正茂は小早川隆景に仕へて備後国に居つた。そして隆景の歿後、御調郡(みつきごほり)三原の西なる頼兼村から隣郡安藝国豊田郡竹原に遷(うつ)つた。当時の正茂が職業を、春水は「造海舶、販運為業」と書してゐる。しかし長井金風さんの獲た春水の「万松院雅集贈梧屋道人」七絶の箋に裏書がある。文中「頼弥太郎、抑紺屋之産也」と云つてある。此語は金風さんが嘗て広島にあつて江木鰐水の門人河野某に聞いた所と符合する。河野は面(まのあた)り未亡人としての梅□をも見た人であつたさうである。これも亦彼の□斎が生家の職業と同じく或は二説皆是(ぜ)であるかも知れない。
 山陽は京都の福井新九郎が家から引き戻されて、十一月三日に広島の家に著き、屏禁せられた。時に年二十一であつた。
 此年蘭軒は二十四歳、父信階は五十七歳になつた。
 次の年は享和元年である。記して此に至れば、一事のわたくしのために喜ぶべきものがある。それは蘭軒の遺した所の※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-40-下-15]詩集が、年次を逐つて輯録せられてゐて、此年の干支辛酉(しんいう)が最初に書中に註せられてゐる事である。蘭軒の事蹟は、彼の文化七年後の勤向覚書を除く外、絶て編年の記載に上(のぼ)つてをらぬのに、此詩集が偶(たま/\)存してゐて、わたくしに暗中燈(ともしび)を得た念をなさしむるのである。
 詩集は蘭軒の自筆本で、半紙百零三頁(けつ)の一巻をなしてゐる。蠧蝕(としよく)は極て少い。蔵※者(ざうきよしや)[#「去/廾」、7巻-41-上-6]は富士川游さんである。
 巻首第一行に※[#「くさかんむり/姦」、7巻-41-上-8]斎詩集、伊沢信恬」と題してあつて、「伊沢氏酌源堂図書記」「森氏」の二朱印がある。森氏は枳園(きゑん)である。毎半葉十行、行二十二字である。
 集に批圏と欄外評とがある。欄外評は初頁(けつ)より二十七頁に至るまで、享和元年より後二年にして家を嗣いだ阿部侯椶軒正精(そうけんまさきよ)の朱書である。間(まゝ)菅茶山の評のあるものは、茶字を署して別つてある。二十八頁以下の欄外には往々「伊沢信重書」、「渋江全善書」、「森立夫書」等補写者の名が墨書してある。評語には「茶山曰」と書してある。

     その二十一

 わたくしは此に少しく蘭軒の名字(めいじ)に就いて插記することとする。それは引く所の詩集に※(かん)[#「くさかんむり/姦」、7巻-41-下-4]の僻字(へきじ)が題してあるために、わたくしは既に剞□氏(きけつし)を煩し、又読者を驚したからである。
 蘭軒は初め名は力信(りよくしん)字(あざな)は君悌(くんてい)、後名は信恬(しんてん)字は憺甫(たんほ)と云つた。信恬は「のぶさだ」と訓(よ)ませたのである。後の名字は素問上古天真論の「恬憺虚無、真気従之、精神内守、病従安来」より出でてゐる。椶軒(そうけん)阿部侯正精の此十六字を書した幅が分家伊沢に伝はつてゐる。
 憺甫の憺は心に従ふ。しかし又澹父にも作つたらしい。森田思軒の引いた菅茶山の柬牘(かんどく)には水(すゐ)に従ふ澹が書してあつたさうである。現にわたくしの饗庭篁村(あへばくわうそん)さんに借りてゐる茶山の柬牘にも、同じく澹に作つてある。啻(たゞ)に柬牘のみでは無い。わたくしの検した所を以てすれば、黄葉夕陽村舎詩に蘭軒に言及した処が凡そ十箇所あつて、其中澹父と書したものが四箇所、憺父と書したものが一箇所、蘭軒と書したものが二箇所、都梁と書したものが二箇所、辞安と書したものが一箇所ある。要するに澹父と書したものが最多い。坂本箕山(きざん)さんが其藝備偉人伝の下巻(かくわん)に引いてゐる「尾道贈伊沢澹父」の詩題は其一である。此書の下巻は未刊行のものださうで、頃日(このごろ)箕山さんは蘭軒の伝を稿本中より抄出してわたくしに寄示(きし)してくれたのである。
 別号は蘭軒を除く外、※斎(かんさい)[#「くさかんむり/間」、7巻-42-上-11]と云ひ、都梁と云ひ、笑僊(せうせん)と云ひ、又藐姑射(はこや)山人と云つた。※[#「くさかんむり/間」、7巻-42-上-12]一に※[#「くさかんむり/姦」、7巻-42-上-12]に作つてある。詩集の名の如きが即是である。又※[#「くさかんむり/姦」、7巻-42-上-13]斎の篆印(てんいん)もある。※(かん)[#「くさかんむり/閑」、7巻-42-上-14]に作つたものは、わたくしは未だ曾て見ない。
 ※[#「くさかんむり/間」、7巻-42-上-15]は詩の鄭風に「□与□、方渙渙兮、士与女、方秉※[#「くさかんむり/間」、7巻-42-上-15]兮」とあつて、伝に「※[#「くさかんむり/間」、7巻-42-上-16]蘭也」と云つてある。※[#「くさかんむり/姦」、7巻-42-上-16]は山海経に「呉林之山、其中多※[#「くさかんむり/姦」、7巻-42-下-1]草」とあつて、又※[#「くさかんむり/姦」、7巻-42-下-1]山※[#「くさかんむり/姦」、7巻-42-下-1]水の地名が見えてゐる。一切経音義に声類を引いて「※[#「くさかんむり/姦」、7巻-42-下-3]蘭也」と云ひ、又「※[#「くさかんむり/姦」、7巻-42-下-3]、字書与※[#「くさかんむり/間」、7巻-42-下-3]同」とも云つてある。説文(せつもん)校録にも亦「鄭風秉※[#「くさかんむり/間」、7巻-42-下-4]、字当同※[#「くさかんむり/姦」、7巻-42-下-4]、左氏昭二十二年大蒐於昌間、公羊作昌姦、此※[#「くさかんむり/姦」、7巻-42-下-5]与※[#「くさかんむり/間」、7巻-42-下-5]同之証」と云つてある。説文に※[#「くさかんむり/姦」、7巻-42-下-6]を載せて※[#「くさかんむり/間」、7巻-42-下-6]を載せぬのは許慎(きよしん)が※[#「くさかんむり/姦」、7巻-42-下-7]を正字としたためであらう。※[#「くさかんむり/閑」、7巻-42-下-7]は字彙正字通並に※[#「くさかんむり/間」、7巻-42-下-8]の俗字だとしてゐる。字典は広韻を引いて「与※[#「くさかんむり/姦」、7巻-42-下-8]同」としてゐる。説文義証には「広韻、※[#「くさかんむり/姦」、7巻-42-下-9]与※[#「くさかんむり/閑」、7巻-42-下-9]同、※[#「くさかんむり/閑」、7巻-42-下-9]当作※[#「くさかんむり/間」、7巻-42-下-10]」と云つてある。※[#「くさかんむり/姦」、7巻-42-下-10]※[#「くさかんむり/間」、7巻-42-下-10]※[#「くさかんむり/閑」、7巻-42-下-10]三字の考証は池田四郎次郎さんを煩はした。都梁は荊州記に「都梁県有山、山下有水清□、其中多蘭草、名都梁香」とある。蘭軒の蘭字の事は後に別に記することとしよう。笑僊は笑癖あるがために自ら調したものであらう。藐姑射山人は荘子から出てゐること論を待たない。
 居る所を酌源堂と云ひ、三養堂と云ひ、芳桜(はうあう)書院と云ふ。
 酌源は班固(はんこ)の典引(てんいん)の「斟酌道徳之淵源、肴覈仁義之林藪」から出てゐる。三養は蘇軾(そしき)の「安分以養福、寛胃以養気、省費以養財」から出てゐる。芳桜書院の芳桜の事は後に別に記することとしよう。
 通称は辞安である。
 名字の説は此に止まる。已に云つた如くに、わたくしの富士川游さんに借りてゐる※[#「くさかんむり/姦」、7巻-43-上-8]斎詩集に、先づ見えてゐる干支は、此年享和紀元の辛酉である。わたくしは此詩暦を得て大いに心強さを覚える。わたくしは此より此詩暦を栞(しをり)とし路傍□(こう)として、ゆくての道をたどらうとおもふ。

     その二十二

 蘭軒は此年享和元年の元日に七律を作つた。※[#「くさかんむり/姦」、7巻-43-上-14]斎詩集の「辛酉元日口号」が是である。首句に分家伊沢の当時の居所が入つてゐるのが、先づわたくしの注意を惹く。「昌平橋北本江郷」と云つてある。本江(ほんごう)の郷(きやう)と訓(よ)ませる積であつたのだらう。
 次に蘭軒生涯の大厄たる脚疾が、早く此頃に萌してゐたらしい。詩集は前に云つた元日の作の後に、文化元年の作に至るまでの間、春季の詩六篇を載せてゐるのみである。わたくしは姑(しばら)く此詩中に云ふ所を此年の下(もと)に繋(か)ける。蘭軒は二月の頃に「野遊」に出た。「数試春衣二月天」の句がある。此野遊の題の下に、七絶二、七律一、五律一が録存してあつて、数試春衣(しば/\しゆんいをこゝろみる)二月天(ぐわつのてん)は七律の起句である。然るにこれに次ぐに「頓忘病脚自盤旋」の句を以てしたのを見れば、わたくしは酸鼻に堪へない。蘭軒は今僅に二十三歳にして既に幾分か其痼疾に悩まされてゐたのである。
 此年六月二十九日には蘭軒の師泉豊洲が、其師にして岳父たる細井平洲を喪つた。七十四歳を以て「外山邸舎」に歿したと云ふから、尾張中将斉朝(なりとも)の市谷門外の上屋敷が其易簀(えきさく)の所であらう。諸侯の国政を与(あづか)り聴いた平洲は平生「書牘来、読了多手火之」と云ふ習慣を有してゐた。「及其病革、書牘数十通、猶在篋笥、門人泉長達神保簡受遺言、尽返之各主。」長達は豊洲の名である。神保簡は恐くは続近世叢語の行簡(かうかん)、宇は子廉であらう。蘭室と号したのは此人か。蘭軒の師豊洲は時に年四十四であつた。
 此年には猶多紀氏で蘭軒の友柳□□庭(りうはんさいてい)の祖父藍渓が歿し、後に蘭軒の門人たる森枳園(きゑん)の祖父伏牛(ふくぎう)が歿してゐる。蘭軒の父信階は五十八歳になつた。
 享和二年には二月二十九日に蘭軒が向島へ花見に往つたらしい。蘭軒雑記にかう云つてある。「吉田仲禎(名祥、号長達(ちやうたつとがうす)、東都医官)、木村駿卿、狩野卿雲、此四人(たり)は余常汝爾之交(よつねにじよじのまじはり)を為す友也。享和之二二月廿九日仲禎君と素問合読(がふどく)なすとてゐたりしに、卿雲おもはずも訪(とぶら)ひき。(此時仲禎卿雲初見)余が今日は美日なれば、今より駿卿へいひやりて墨田の春色賞するは如何(いかに)と問ぬ。二人そもよかるべしと、三人(たり)して手紙認(したゝめ)し折から、駿卿来かかりぬ。まことにめづらしき会なりと、午(ひる)の飯(いひ)たうべなどして、上野の桜を見つつ、中田圃より待乳山にのぼりてしばしながめつ。山をおりなんとせし程に、卿雲のしたしき泉屋忠兵衛といへるくるわの茶屋に遇ひぬ。其男けふは余が家居に立ちより給へと云ふ。余等いなみてわかれぬ。それより隅田の渡わたりて、隅田村、寺島、牛島の辺(あたり)、縦に横に歩みぬ。さてつゝみより梅堀をすぎ、浅草の観音に詣で、中田圃より直(すぐ)なる道をゆきて家に帰りぬ。」此文は年月日の書きざまが異様で、疑はしい所がないでもないが、わたくしは且(しばら)く「享和之二二月」と読んで置く。
 秋に入つて七月十五日に、蘭軒は渡辺東河(とうか)、清水泊民(はくみん)、狩谷□斎、赤尾魚来(ぎよらい)の四人と、墨田川で舟遊をした。蘭軒に七絶四首があつたが、集に載せない。只其題が蘭軒雑記に見えてゐるのみである。東河、名は彭(はう)、字(あざな)は文平、一号は払石(ふつせき)である。書を源(げん)東江に学んだ。泊民名は逸、碩翁と号した。亦書を善くした。魚来は未だ考へない。
 享和三年には蘭軒が二月二日に吉田仲禎狩谷□斎と石浜村へ郊行した。仲禎、名は祥、通称は長達である。幕府の医官を勤めてゐた。次で十九日に又大久保五岳、島根近路、打越(うちごし)古琴と墨田川に遊んだ。五岳、名は忠宜(ちゆうぎ)、当時の菓子商主水(もんど)である。近路古琴の二人の事は未だ考へない。此二遊は蘭軒雑記に「享和閏(うるふ)正月」と記し、下(しも)三字を塗抹して「二月」と改めてある。享和中閏正月のあつたのは三年である。故に姑(しばら)く此に繋ける。墨田川の遊は、雑記に「甚俗興きはまれり」と註してある。
 此年七月二十八日に、蘭軒の父信階の養母大久保氏伊佐が歿した。戒名は寿山院湖月貞輝大姉である。「又分家」の先霊名録には寿山院が寿山室に作つてある。年は八十四であつた。
 蘭軒雑記に拠れば、所謂(いはゆる)浅草太郎稲荷の流行は此七月の頃始て盛になつたさうである。社の在る所は浅草田圃で、立花左近将監鑑寿(あきひさ)の中屋敷であつた。大田南畝が当時奥祐筆所詰を勤めてゐた屋代輪池を、神田明神下の宅に訪うて一聯を題し、「屋代太郎非太郎社、立花左近疑左近橘」と云つたのは此時である。

     その二十三

 此年享和三年十月七日に、蘭軒が渡辺東河を訪うて、始て伴粲堂(ばんさんだう)に会つたことが、蘭軒雑記に見えてゐる。粲堂、通称は平蔵である。煎茶を嗜(たし)み、篆刻(てんこく)を善くした。此日十月七日は西北に鳴動を聞き、夜灰が降つたと雑記に註してある。試に武江年表を閲(けみ)するに降灰(かうくわい)の事を載せない。
 蘭軒の結婚は家乗に其年月を載せぬが、遅くも此年でなくてはならない。それは翌年文化元年の八月には長男榛軒(しんけん)が生れたからである。蘭軒には榛軒に先(さきだ)つて生れた子があつたか否か、わたくしは知らない。しかし少くも男子は無かつたらしい。分家伊沢の人々の語る所に依れば、蘭軒には嫡出六人、庶出六人、計十二人の子があつたさうである。歴世略伝にある六人は、男子が榛軒常三郎柏軒、女子が天津(てつ)長(ちやう)順(じゆん)である。常三郎は榛軒に後るゝこと一年、柏軒は六年にして生れた。名録には猶一人庶子良吉があつて、文化十五年即ち文政元年正月二日に歿してゐるが、これも榛軒の兄ではなささうである。わたくしが少くも先つて生れた男子は無かつたらしいと云ふのは、これがためである。
 略伝の女子天津長順三人の中、分家の人々の言(こと)に従へば、只一人長育したと云ふ。即ち名録の井戸応助妻であらう。応助は※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-46-下-1]詩集に拠るに、翁助の誤らしい。翁助妻は名録に文化十一年に生れた第三女だとしてある。名録に又「芳桜軒第二女、生七日許終、時文化九年壬申正月八日」として、智貌童子の戒名が見えてゐる。童子は童女の誤であらう。しかし天津、長、順をいづれに配当して好いか、わからない。若し長女にして榛軒に先つて生れたとすると、蘭軒が妻を娶つた年は繰り上げられるかも知れない。
 上(かみ)に記した外、名録には尚庶出の女(ぢよ)二人がある。文政六年に歿した順、十一年に歿した万知(まち)である。然らば略伝は庶子中より独り順のみを挙げてゐるのであらう。
 蘭軒の娶つた妻は飯田休庵の二女である。初め蘭軒の父信階即井出門次郎の妹が休庵に嫁したが、此井出氏は早く歿して、水越氏民が継室となつた。休庵の二女は此水越氏の出(しゆつ)である。それゆゑ蘭軒の妻は小母婿(をばむこ)の子ではある。姑夫女(こふぢよ)ではある。しかし小母の女(むすめ)では無い。姑女では無い。
 蘭軒の妻は名を益と云つた。天明三年の生である。即ち明和七年に小母が死んでから、十三年目に纔(わづか)に生れたのである。蘭軒より少(わか)きこと六歳で、若し推定の如くに享和三年に婚嫁したとすると、夫蘭軒は二十七歳、妻益は二十一歳であつた。
 此年に蘭軒の友小島春庵尚質(なほかた)の父春庵根一(もとかず)が歿した。尚質は蘭軒と古書を愛する嗜好を同じうした小島宝素である。広島の頼山陽は此年十二月六日に囲から出されて、家にあつて謹慎することを命ぜられた。

     その二十四

 此年享和三年に蘭軒の父信階(のぶしな)の仕へてゐる阿部家に代替があつた。伊勢守正倫(まさとも)が十月六日に病に依つて致仕し子主計頭正精(かぞへのかみまさきよ)が家を継いだのである。正倫は安永六年より天明七年に至るまで初め寺社奉行見習、後寺社奉行を勤め、天明七八年の両年間宿老に列してゐた。致仕後二年、文化二年に六十一歳で歿した。継嗣正精は学を好み詩を善くし、棕軒(そうけん)と号した。世子(せいし)たりし日より、蘭軒を遇すること友人の如くであつた。
 文化元年には蘭軒が「甲子元旦」の五律を作つた。其後半が分家伊沢の当時の生活状態を知るに宜しいから、此に全首を挙げる。「陽和新布令。懶性掃柴門。梅傍辛盤発。鳥求喬木飛。樽猶余臘酒。禄足製春衣。賀客来無迎。姓名題簿帰。」伊沢氏は俸銭□銭(しよせん)を併せたところで、手一ぱいのくらしであつただらう。所謂(いはゆる)不自由の無いせたいである。五六の一聯が善くこれを状してゐる。結二句は隆升軒父子の坦率(たんそつ)を見る。
 正月に新に封を襲いだ正精が菅茶山を江戸に召した。頼山陽の撰んだ行状に、「正月召之東」と書してある。茶山は江戸に著いて、微恙のために阿部家の小川町の上屋敷に困臥し、紙鳶(たこ)の上がるのを眺めてゐた。茶山の集に「江戸邸舎臥病」の二絶がある。「養痾邸舎未尋芳。聊買瓶花插臥床。遙想山陽春二月。手栽桃李満園香。閑窓日対薬炉烟。不那韶華病裡遷。都門楽事春多少。時見風箏泝半天。」「春二月」の三字にダアトが点出せられてゐる。蘭軒の集には又「春日郊行。途中菘菜花盛開。先是菅先生有養痾邸舎未尋芳之句、乃剪数茎奉贈、係以詩」と云ふ詩がある。「桃李雖然一様新。担頭売過市※[#「「纒のつくり+おおざと」、7巻-48-上-9]塵。贈君野菜花千朶。昨日携帰郊甸春。」菜の花に菘字(しゆうじ)を用ゐたのは、医家だけに本草綱目に拠つたのである。先生と云ひ、奉贈(ほうぞう)と云ふを見れば、茶山と蘭軒との年歯の懸隔が想はれる。茶山が神辺(かんなべ)の菅波久助の倅百助(ひやくすけ)であつたことは、行状にも見えてゐるが、頼の頼兼(よりかね)を知つた人も、往々菅の菅波を知らない。寛延元年の生で、此年五十七歳、蘭軒は二十八歳であつた。推するに蘭軒は殆ど師として茶山を待つてゐたのであらう。
 三月になつて茶山は病が□(い)えた。十九日に犬塚印南(いんなん)、今川槐庵、蘭軒の三人と一しよに、お茶の水から舟に乗つて、墨田川に遊んだ。狩谷□斎も同行の約があつたが、用事に阻げられて果さなかつた。舟中で四人が聯句をした。蘭軒雑記に「聯句別に記す」と云つてあるが、今知ることが出来ない。
 印南、名は遜(そん)、字(あざな)は退翁、通称は唯助、一号は木王園(もくわうゑん)である。寛延三年に播磨国姫路の城主酒井雅楽頭忠知(うたのかみたゞとも)の重臣犬塚純則の六男に生れ、同藩青木某の女婿となり、江戸に来て昌平黌の員長に推された。尋(つい)で本氏(ほんし)に復し、黌職(くわうしよく)を辞し、本郷に家塾を設けた。寛政の末だと云ふから、印南が五十前後の頃である。印南は汎交(はんかう)を避け、好んで書を読んだ。講書のために上野国高崎の城主松平右京亮輝延の屋敷と、輪王寺公澄法親王(こうちようはふしんのう)の座所とへ伺候する外、折々酒井雅楽頭忠道(たゞみち)の屋敷の宴席に招かれるのみであつた。印南は嘗て蘭軒に猪牙(ちよき)舟の対(たい)を求められて、直(たゞち)に蛇目傘と答へたと蘭軒雑記に見えてゐるから、必ずや詩をも善くしたことであらう。

     その二十五

 印南、茶山、蘭軒と倶に、墨田川に花見舟を泛(うか)べた今川槐庵は、名は※(こく)[#「穀」の「禾」に代えて「一/豕」、7巻-49-上-7]、字は剛侯(かうこう)である。わたくしは※[#「穀」の「禾」に代えて「一/豕」、7巻-49-上-7]は毅ではないかと疑ふが、
第(しばら)く※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-49-上-8]詩集の録する所に従つて置く。
 山陽の撰んだ茶山の行状は、「正月召之東」の句に接するに、「遂告暇遊常州」の句を以てしてある。茶山の著述目録の中に、常遊記(じやういうき)一巻とあるのが、恐くは此行を紀したものであらう。しかしわたくしは未だ其書を見ない。姑(しばら)く集中の詩に就て検するに、常遊雑詩十九首があつて、中に太田と註した一絶がある。其転結に「五月久慈川上路、女児相喚采紅藍」と云つてある。久慈川に近い太田は、久慈郡太田であらう。五月の二字から推せば、さみだれの頃の旅であつただらう。蘭軒の集には其頃梅天断梅(ばいてんだんばい)の絶句各(おの/\)二首がある。梅天の一に「山妻欲助梅□味、手摘紫蘇歩小園」の句があり、断梅の一に「也有閑中公事急、擬除軒下曝家書」の句がある。□(そ)は説文(せつもん)に「酢菜也」とある。梅□(ばいそ)も梅※(ばいせい)[#「「韲/凵」、7巻-49-下-8]も梅漬である。茶山が常陸巡をしてゐる間、蘭軒はお益(ます)さんが梅漬の料に菜圃の紫蘇を摘むのを見たり、蔵書の虫干をさせたりしてゐたと見える。頼氏の修史が山陽一代の業で無いと同じく、伊沢氏の集書も亦蘭軒一代の業では無いらしい。
 秋に入つてから七月九日に、茶山蘭軒等は又墨田川に舟を泛べて花火を観た。一行の先輩は茶山と印南との二人であつた。
 同行には源波響(げんはきやう)、木村文河(ぶんか)、釧雲泉(くしろうんせん)、今川槐庵があつた。
 源波響は蠣崎(かきざき)氏、名は広年(くわうねん)、字は世詁(せいこ)、一に名は世□(せいこ)、字は維年(ゐねん)に作る。通称は将監(しやうげん)である。画を紫石応挙の二家に学んだ。明和六年生だから、此年三十五歳であつた。釧雲泉、名は就(しう)、字は仲孚(ちゆうふ)、肥前国島原の人である。竹田(ちくでん)が称して吾国の黄大癡(くわうたいち)だと云つた。宝暦九年生だから、此年四十六歳であつた。五年の後に越後国出雲崎で歿した。其墓に銘したものは亀田鵬斎(ぼうさい)である。文河槐庵の事は上に見えてゐる。
 茶山の集には「同犬冢印南今川剛侯伊沢辞安、泛墨田川即事」として、七絶七律各(おの/\)一首がある。律の頷聯(がんれん)「杯来好境巡須速、句対名家成転遅」は印南に対する謙語であらう。蘭軒の集には「七夕後二日、陪印南茶山二先生、泛舟墨陀河、与源波響木文河釧雲泉川槐庵同賦」として七律二首がある。初首の七八「誰識女牛相会後、徳星復此競霊輝」は印南茶山に対する辞令であらう。後首の両聯に花火が点出してある。「千舫磨舷搶作響。万燈対岸爛争光。竹枝桃葉絃歌湧。星彩天花烟火揚。」わたくしは大胆な記実を喜ぶ。茶山は詩の卑俗に陥らむことを恐れたものか、一語も花火に及ばなかつた。蘭軒の題にダアトのあつたのもわたくしのためにはうれしかつた。

     その二十六

 蘭軒が茶山を連れて不忍池(しのばずのいけ)へ往つて馳走をしたのも、此頃の事であらう。茶山の集に「都梁觴余蓮池」として一絶がある。「庭梅未落正辞家。半歳東都天一涯。此日秋風故人酒。小西湖上看荷花。」わたくしは転句に注目する。蓮は今少し早くも看られようが、秋風(しうふう)の字を下したのを見れば、七月であつただらう。又故人と云ふのを見れば、文化元年が茶山蘭軒の始て交つた年でないことが明である。
 蘭軒と□斎とは又今一人誰やらを誘(いざな)つて、不忍池へ往つて一日書を校し、画工に命じて画をかゝせ、茶山に題詩を求めた。集に「卿雲都梁及某、読書蓮池終日、命工作図、需余題詩」として一絶がある。「東山佳麗冠江都。最是芙蓉花拆初。誰信旗亭糸肉裏。三人聚首校生書。」結句は伊狩(いしう)二家の本領を道破し得て妙である。
 八月十六日に茶山は蘭軒を真砂町附近の家に訪うた。わたくしは此会合を説くに先(さきだ)つて一事の記すべきものがある。饗庭篁村(あへばくわうそん)さんは此稿の片端より公にせられるのを見て、わたくしに茶山の簡牘(かんどく)二十一通を貸してくれた。大半は蘭軒に与へたもので、中には第三者に与へて意を蘭軒に致さしめたものもある。第三者は其全文若くは截り取つた一節を蘭軒に寄示したのである。要するに簡牘は皆分家伊沢より出でたもので、彼の太華の手から思軒の手にわたつた一通も亦此コレクシヨンの片割であつただらう。今八月十六日の会合を説くには此簡牘の一通を引く必要がある。
 茶山の書は次年八月十三日に裁したもので、此に由つて此文化紀元八月中旬の四日間の連続した事実を知ることが出来る。其文はかうである。「今日は八月十三日也、去年今夜長屋へ鵜川携具来飲、明日平井黒沢来訪、十五日舟遊、十六日黄昏貴家へ参、備前人同道、夫より茗橋々下茶店にて待月、却而逢雨てかへり候」と云ふのである。鵜川名は某、字(あざな)は子醇(しじゆん)、その人となりを詳(つまびらか)にせぬが、十三日の夜酒肴を齎して茶山を小川町の阿部邸に訪うたと見える。平井は澹所(たんしよ)、黒沢は雪堂であらう。澹所は釧雲泉(くしろうんせん)と同庚(どうかう)で四十六歳、雪堂は一つ上の四十七歳、並に皆昌平黌の出身である。雪堂は猶校に留まつて番員長を勤めてゐた筈である。
 さて十六日の黄昏(たそがれ)に茶山は蘭軒の家に来た。二人が第三者を交へずに、差向で語つたことは、此より前にもあつたか知らぬが、ダアトの明白なのは是日である。初めわたくしは、六七年前に伊沢氏に来て舎(やど)つた山陽の事も、定めて此日の話頭に上つただらうと推測した。そして広島杉木小路(すぎのきこうぢ)の父の家に謹慎させられてゐた山陽は、此夕(ゆふべ)嚔(くさめ)を幾つかしただらうとさへ思つた。しかしわたくしは後に茶山の柬牘(かんどく)を読むこと漸く多きに至つて、その必ずしもさうでなかつたことを暁(さと)つた。後に伊沢信平さんの所蔵の書牘を見ると、茶山は神辺(かんなべ)に来り寓してゐる頼久太郎(ひさたらう)の事を蘭軒に報ずるに、恰も蘭軒未知の人を紹介するが如くである。或は想ふに、蘭軒は当時猶山陽を視て春水不肖の子となし、歯牙にだに上(のぼ)さずに罷(や)んだのではなからうか。

     その二十七

 蘭軒の家では、文化紀元八月十六日の晩に茶山がおとづれた時、蘭軒の父隆升軒信階(りゆうしようけんのぶしな)が猶(なほ)健(すこやか)であつたから、定て客と語を交へたことであらう。蘭軒の妻益は臨月の腹を抱へてゐたから、出でゝ客を拝したかどうだかわからない。或は座敷のなるべく暗い隅の方へゐざりでて、打側(うちそば)みて会釈したかも知れない。益は時に年二十二であつた。
 蘭軒は茶山を伴つて家を出た。そしてお茶の水に往つて月を看た。そこへ臼田才佐(うすださいさ)と云ふものが来掛かつたので、それをも誘(いざな)つて、三人で茶店(ちやてん)に入つて酒を命じた。三人が夜半(よなか)まで月を看てゐると、雨が降り出した。それから各(おの/\)別れて家に還つた。
 蘭軒はかう書いてゐる。「中秋後一夕、陪茶山先生、歩月茗渓、途値臼田才佐、遂同到礫川、賞咏至夜半」と云ふのである。
 臼田才佐は茶山書牘(しよどく)中の備前人である。備前人で臼田氏だとすると、畏斎(ゐさい)の子孫ではなからうか。当時畏斎が歿した百十五年の後であつた。茶店の在る所を、茶山は茗橋(めいけう)々下と書し、蘭軒は礫川(れきせん)と書してゐる。今はつきりどの辺だとも考へ定め難い。
 蘭軒の集に此夕(ゆふべ)の七律二首がある。初の作はお茶の水で月を看たことを言ひ、後の作は茶店で酒を飲んだことを言ふ。彼の七八に「手掃蒼苔踞石上、松陰徐下棹郎歌」と云つてある。当時のお茶の水には多少の野趣があつたらしい。此(これ)の頷聯(がんれん)に「旗亭敲戸携樽至、茶店臨川移榻来」と云つてある。料理屋で酒肴を買ひ調へて、川端の茶店に持つて往つて飲んだのではなからうか。
 蘭軒が茶山とお茶の水で月を看た後九日にして、八月二十五日に蘭軒の嫡子榛軒(しんけん)が生れた。小字(をさなゝ)は棠助(たうすけ)である。後良安、一安、長安と改めた。名は信厚(しんこう)、字(あざな)は朴甫(ぼくほ)となつた。
 分家伊沢の伝ふる所に従へば、榛軒は厚朴(こうぼく)を愛したので、名字号皆義を此木に取つたのだと云ふ。厚朴の木を榛と云ふことは本草別録に見え、又急就篇(きふしゆへん)顔師古(がんしこ)の註にもある。又門人の記する所に、「植厚朴、参川口善光寺、途看于花戸、其翌日持来植之」とも云つてある。しかしわたくしの考ふる所を以てすれば、蘭軒は子に名づくるに厚(こう)を以てし重(ちよう)を以てした。これは初め必ずしも木の名ではなかつたであらう。紀異録に「既懐厚朴之才、宜典従容之職」と云つてある。名字は或は此より出でたのではなからうか。さて木名に厚朴があるので、此木は愛木となり、又榛軒の号も出来たかも知れない。厚朴は植学名マグノリア和名ほほの木又ほほがしはで、その白い大輪の花は固より美しい。榛軒は父蘭軒が二十八歳、母飯田氏益が二十二歳の時の子である。
 茶山は其後九月中江戸にゐて、十月十三日に帰途に上つた。帰るに先(さきだ)つて諸家に招かれた中に古賀精里の新に賜つた屋敷へ、富士を見に往つたなどが、最も記念すべき佳会であつただらう。精里の此邸宅は今の麹町富士見町で、陸軍軍医学校のある処である。地名かへる原を取つて、精里は其楼を復原(ふくげん)と名づけた。茶山は江戸にゐた間、梅雨を中に挾んで、曇勝な日にのみ逢つてゐたので、此日に始て富士の全景を看た。「博士新賜宅。起楼向※[#「厂+垂」、7巻-54-上-6]※[#「厂+義」、7巻-54-上-6]。亦恨落成後。未逢雲雨披。忽爾飛折簡。置酒招朋儕。新晴無繊翳。秋空浄瑠璃。芙蓉立其中。勢欲入座来。(中略。)我留過半載。此観得已稀。」茶山の喜想ふべきである。
 十月十三日に茶山は阿部正精(まさきよ)に扈随(こずゐ)して江戸を発した。「朝従熊軾発城東。海旭添輝儀仗雄。十月牢晴春意早。懸知封管待和風。」これが「晨出都邸」の絶句である。十一月五日に備中国の境に入つて、「入境」の作がある。此篇と前後相呼応してゐる。「熊車露冕入郊関。児女扶携挾路看。兵衛一行千騎粛。和風満地万人歓。」

     その二十八

 文化二年には蘭軒の集に「乙丑元日」の七律がある。両聯は措いて問はない。起二句に「素琴黄巻未全貧、朝掃小斎迎早春」と云つてある。未だ全く貧ならずは正直な告白で、とにもかくにも平穏な新年を迎へ得たものと見られる。結二句には二十九歳になつた蘭軒が自己の齢(よはひ)を点出してゐる。「歓笑優遊期百歳、先過二十九年身」と云ふのである。
 七月十五日に蘭軒は木村文河(ぶんか)と倶に、お茶の水から舟に乗つて、小石川を溯つた。此等の河流も今の如きどぶでは無かつただらう。三絶句の一に、「墨水納涼人□有、礫川吾輩独能来」と云つてある。墨水の俗を避け、礫川(れきせん)の雅に就いたのである。
 茶山の事は蘭軒の懐に往来してゐたと見えて、「秋日寄懐菅先生」の七律がある。「去年深秋君未回。賞遊吾毎侍含杯。菅公祠畔随行野。羅漢寺中共上台。飛雁遙書雖易達。畳雲愁思奈難開。機中錦字若無惜。幸織満村黄葉来。」蘭軒は前年茶山の江戸にゐた間、始終附いて歩いて少酌の相手をしたと見える。詩は題して置かなかつたが、亀井戸の天満宮に詣でた。本所の五百羅漢をも訪うたのである。結では黄葉夕陽村舎の主人(あるじ)に手紙の催促がしてある。
 然るに蘭軒の催促するを須(ま)たず、茶山は丁度此頃手紙を書いた。即ち八月十三日の書で、前に引いた所のものが是である。「私も秋へなり、蠢々(しゆん/\)とうごき出候而状ども認候、御内上(おんうちうへ)様、おさよどのへ宜奉願上候、(中略)江戸は今年気候不順に御坐候よし、御病気いかゞ御案じ申候。」此に前年を追懐した数句があつて、末にかう云つてある。「今年(こんねん)は水辺(すゐへん)へ出可申心がけ候処、昨日より荊妻手足痛(てあしいたみ)(病気でなければよいと申候)小児菅(くわん)三狂出候而(くるひいでそろて)どこへもゆかれぬ様子也、うき世は困りたる物也、前書委(くはしく)候へば略し候、以上。」
 茶山がコムプリマンを託した御内上様が飯田氏益であることは明である。「おさよどの」の事は注目に値する。二十余通の茶山の書に一としておさよどのに宜しくを忘れたのは無い。後年の書には「おさよどのに申候、(中略)御すこやかに御せわなさるべく候」とも云つてある。
 さよは蘭軒の側室である。分家伊沢の家乗には、蘭軒に庶出の子女のあつたことが載せてあるのみで、側室の誰なるかは記して無い。只先霊名録の蘭軒庶子女(ぢよ)の下に母佐藤氏と註してあるだけである。武蔵国葛飾郡小松川村の医師佐藤氏の女が既に狩谷□斎の生父に嫁し、後又同家の女が蘭軒の二子柏軒の妾(せふ)となる。此蘭軒の妾も亦同じ家から出たのではなからうか。其名のさよをば、わたくしは茶山の簡牘(かんどく)中より始て見出した。要するに側室は佐藤氏さよと云つたのである。
 既に云つた如くに、茶山の蘭軒との交(まじはり)は、前年文化紀元よりは古さうであるが、さよを識つてゐたことも亦頗る古さうである。想ふに早く足疾ある蘭軒は介抱人がなくてはかなはなかつたのであらう。此年の如きも詩集に一病字をだに留めぬのに、茶山は病気みまひを言つてゐる。上(かみ)に引いた文の前に、猶「春以来御入湯いかゞ」の句もある。後年の自記に、阿部家に願つて、「湯島天神下薬湯(やくたう)へ三廻(めぐり)罷越(まかりこす)」と云ふことが度々ある。此入湯の習慣さへ既に此時よりあつたものと見える。介抱人がなくてはならなかつた所以(ゆゑん)であらう。
 書中の手足痛(しゆそくつう)に悩む「荊妻」は、茶山の継室門田(もんでん)氏、菅三は仲弟猶右衛門の子要助の子三郎維繩(ゐじよう)で、茶山の養嗣子である。

     その二十九

 此年文化二年十月二十四日に、蘭軒は孝経一部を手写した。二子常三郎の生れたのは此日である。孝経の末(すゑ)に下(しも)の文がある。「文化乙丑小春廿四日、据毛本鈔矣、斯日巳刻児生、其外祖父飯田翁(自註、名信方、字休庵)与名曰常三郎、恬。」常三郎は後父に先(さきだ)つこと四十五日にして早世する、不幸なる子である。
 頼家に於て山陽が謹慎を免され、門外に出ることゝなつたのは、此年五月九日である。
 此年蘭軒は二十九歳、妻益は二十三歳であつた。蘭軒の二親(ふたおや)六十二歳の信階、五十六歳の曾能(その)も猶倶に生存してゐたのである。
 文化三年は蘭軒が長崎へ往つた年である。蘭軒が能く此旅を思ひ立つたのを見れば、当時足疾は猶軽微であつたものと察せられる。※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-56-下-13]詩集に往路の作六十三首を載せてゐる外、集中に併せ収めてある「客崎詩稿」の詩三十六首がある。又別に「長崎紀行、伊沢信恬撰」と題した自筆本一巻がある。墨附三十四枚の大半紙写本で、「伊沢氏酌源堂図書記」「森氏」の二朱印がある。格内毎半葉十二行、行十八字乃至二十二字である。此書も亦、彼詩集と同じく、富士川游さんの儲蔵する所となつてゐる。
 蘭軒の長崎行は、長崎奉行の赴任する時に随行したのである。長崎奉行は千石高で、役料四千四百二俵を給せられた。寛永前は一人を置かれたが、後二人となり三人となり四人となり、文化頃には二人と定められてゐた。文化二年に職にゐたのは、肥田豊後守頼常(よりつね)、成瀬因幡守正定(いなばのかみまささだ)であつた。然るに肥田頼常が文化三年正月に小普請奉行に転じ、三月に曲淵和泉守景露(まがりぶちいづみのかみけいろ)がこれに代つた。蘭軒は此曲淵景露の随員となつて途に上つたのである。序に云ふが、徳川実記は初め諸奉行の更迭を書してゐたのに、経済雑誌社本の所謂(いはゆる)続徳川実記に至つては、幕府末造の編纂に係る未定稿であるから、記載極て粗にして、肥田曲淵の交代は全く闕けてゐる。今武鑑に従つて記することにした。
 蘭軒略伝には蘭軒は榊原主計頭(かぞへのかみ)に随つて長崎に往つたと云つてある。文化中の分限帳を閲(けみ)するに、「榊原主計、三百石、かがやしき」としてある。しかし文化三年の役人武鑑はこれを載せない。按ずるに榊原主計は当時無職の旗本であつたであらう。此榊原が曲淵の一行中に加はつてゐたかどうかは不明である。
 蘭軒は五月十九日に江戸を発した。紀行に曰く。
「文化丙寅五月十九日、長崎撫院(ぶゐん)和泉守曲淵公に従て東都を発す。巳時板橋に到て公小休(こやすみ)す。家大人(かたいじん)ここに来て謁見せり。余小茶店(せうちやてん)にあり。頼子善(らいしぜん)送て此に到る。午後駅を出て小豆沢(あづさは)村にいたる。小民(せうみん)勘左衛門の園中一根八竿の竹あり。高八尺許(きよ)、根囲(ねのめぐり)八寸許の新竹也。二里八丁蕨駅、一里八丁浦和駅、十一里十二丁大宮駅。亀松屋弥太郎の家に宿す。此日暑甚し。行程八里許。」
 蘭軒の父信階は板橋で曲淵を待ち受けて謁見したものと見える。
 頼子善、名は遷(せん)、竹里(ちくり)と号した。蘭軒を板橋迄見送つた。富士川さんは「子善は蘭軒の家に寓してゐたのではなからうか」と云ふ。或はさうかも知れない。此人の山陽の親戚であることは略(ほゞ)察せられるが、其詳なることは知れてゐない。
 わたくしはこれを頼家の事に明い人々に質(たゞ)した。木崎好尚(きざきかうしやう)さんは頼遷は即頼公遷であらうと云ふ。公遷号は養堂、通称は千蔵である。山陽の祖父又十郎惟清(これきよ)の弟伝五郎惟宣(これのぶ)の子である。坂本箕山(きざん)さんも亦、頼綱(らいかう)の族であらうと云ふ。綱、字は子常(しじやう)、号は立斎(りつさい)、通称は常太(つねた)で、公遷の子である。
 幸にしてわたくしの近隣には、山陽の二子支峰(しほう)の孫久一郎さんの姻戚熊谷兼行(かねゆき)さんが住んでゐるから、頼家に質して貰ふことにして置いたが、未だ其答に接せない。
 ※[#「くさかんむり/姦」、7巻-58-下-2]斎詩集には「到板橋駅作」がある。「生来未歴旅程遐。此日真堪向客誇。三百里余瓊浦道。従今不復井中蛙。」

     その三十

 旅行の第二日は文化三年五月二十日である。紀行に曰く。「廿日卯時に発す。二里八丁上尾駅、一里桶川駅、一里卅町鴻の巣駅。午時(うまのとき)吹上堤を過ぐ。左は林近く田野も甚ひろからず。荒川の流遠くより来る。右は山林遠く田野至て濶く、溝渠縦横忍城(をしじやう)樹間に隠顕して、遠黛(ゑんたい)城背に連続す。四里八丁熊谷駅。絹屋新平の家に投宿す。時正に申なり。蓮生山熊谷寺(れんしやうざんゆうこくじ)に詣(いた)り、什物(じふもつ)を看むことを乞ふ不許(ゆるさず)。碑図末に附す。此日炎暑昨日より甚し。行程九里許(きよ)。」吹上堤を過ぐの下(しも)に、「吹上堤一に熊谷堤ともいふ」と註してある。
 詩集に「熊谷堤」三首がある。其一。「熊谷長堤行且休。荒川遠出鬱林流。漁歌一曲蒹葭底。只見□尖不見舟。」其二。「十里青田平似筵。濃烟淡靄共蒼然。遠村尽処山城見。粉□樹間断又連。」其三。「無数連山映夕陽。如浪起来如黛長。轎夫顧我揚□指。西是秩峰北日光。」
 第三日は五月二十一日である。紀行に曰く。「廿一日卯時に発す。二里卅丁深谷駅。駅を出て普済寺に詣(いた)る。二里廿九町本荘駅なり。釧雲泉(くしろうんせん)を訪。前月信濃善光寺へ行き、遇はず。二里新町駅。これより上野(かうづけ)なり。神奈川を渡る。川広六七町なれども、砂石のみありて水なし。空(むなし)く□橋(いけう)を架(かせる)ところあり。又少く行烏川を渡る。川広一町余、あさし。砂石底を見るべし。時正に未後(びご)。西方の秩父山にはかに陰(くもり)て、暗雲蔽掩(へいえん)し疾電いるがごとし。しかれども北方日光の山辺は炎日赫々なり。川を渡て行こと半里許(きよ)、天増(ます/\)陰り、墨雲弥堅(びけん)迅雷驟雨ありて、廻風轎(かご)を揺(うごか)せり。倉野駅に到て漸く霽(は)る。乃(すなはち)日暮なり。林屋留八の家に宿す。行程九里許。」釧雲泉の家は当時今の児玉郡本荘町にあつたと見える。
 集に「渡烏川値雨」の詩がある。「溶々還濺々。方舟渡広河。村吏尋灘浅。棹郎訴石多。奇峰※[#「山/頽」、7巻-59-下-6]作雨。澄鏡暗揚波。蓑笠無遑著。漫趨数里坡。」
 第四日。「廿二日卯時に発す。一里十九丁高崎駅なり。郊に出て顧望するときは高崎城を見る。小嶺に拠て築けり。此郊甚(はなはだ)平坦にして、野川清浅、砂籠(さろう)岸を護し長堤村を繞(めぐ)る。或渠流を引いて水碓(すゐたい)を設く。幽事喜ぶべし。時正に巳。豊岡村を過ぐ。路傍の化僧一木偶(もくぐう)を案上に安んじて銭を乞ふ。閻王なりといふ。其状鎧を被(かうぶ)り□頭(ぼくとう)を冠(くわん)し手に笏(こつ)を持る、顔貌も甚厳(おごそか)ならず。造作の様頗る古色あり。豊岡八幡の社に詣(いた)る。境中狭けれども一茂林(もりん)なり。茅茨(ばうじ)の鐘楼あり。一里卅丁板鼻駅、二里十六丁松井田駅なり。時正に未。円山坂に到る。茶釜石といふ者あり。大さ三尺許り。形蓮花(れんくわ)のごとし。叩くときは声を発す。石理(せきり)及其声金磬石(きんけいせき)なり。碓氷関(うすひのせき)を経(ふ)。二里坂本駅。信濃屋新兵衛の家に宿す。暑不甚(はなはだしからず)。行程八里余。」
 詩が三首ある。「早発高崎過豊岡村。駅市連荒径。村駄犢雑駑。□車桑下舎。水碓澗辺途。遠岳朝雲隠。新秧昨雨蘇。未知行旅恨。探勝費工夫。経琵琶渓到碓冰関作。琵琶渓上路。曲々繞崔嵬。山破層雲起。水衝奇石□。拠高孤駅在。守険大関開。詩就叩岩額。金声忽発来。宿阪本駅聞杜鵑。五更雲裏杜鵑飛。遠近啼過幾翠微。此去探幽今作始。遮渠不道不如帰。」

     その三十一

 第五日は文化三年五月二十三日である。「廿三日卯時に発す。駅を出れば直に碓氷峠のはね石坂なり。上ること廿四丁、蟠廻(はんくわい)屈曲して山腹岩角を行く。石塊※※(ぐわん/\)[#「山/元」、7巻-60-下-2][#「山/元」、7巻-60-下-2]大さ牛のごとくなるもの幾百となく路に横り崖(がい)に欹(そばた)つ。時已(すでに)卯後、残月光曜し山気冷然として膚(はだへ)に透(とほ)れり。撫院をはじめ諸士歩行せし故、路険に労して背汗□□(しふ/\)たり。乃(すなはち)撫院衣(きぬ)一(ひとつ)ぬぎたり。忽ち岩頭に芭蕉の句碑あり。一つ脱で背中に負ぬ衣更(ころもかへ)といふ句なり。古人の実境を詠ずる百歳の後合する所あり。四軒茶屋あり。(此まで廿四丁也。)蕨粉(わらび)餅を売る、妙なり。又上ること一里許(きよ)、山少くおもむろに石も亦少し。路傍は草莽(さうもう)にて、巓(いたゞき)は禿(とく)せり。北(ほく)五味子(みし)(此地方言牛葡萄)砂参(しやじん)(鐘草(つりがねさう))升麻(しようま)(白花筆(はくくわひつ)様のもの)劉寄奴(りうきど)(おとぎりさう)蘭草(ふぢばかま、東都は秋中花盛なれども、此地は此節花盛なり、蘭の幽谷に生ずる語証とすべし、世人は幽蘭をもつて真蘭とす、幽蘭いかでかかくのごとき地に生ずべけん)の類至て多し。山中(やまなか)といふ所にいたる。経来(へきたり)し磴路(とうろ)崖谷(がいこく)みな眼下指頭にあり。東南の方(かた)ひらけて武蔵下野上野、筑波日光の諸山を望む。今春江戸の回禄せしときも火光を淡紅にあらはせりと、茶店(ちやてん)の老婦語れり。日本紀に倭武尊(やまとたけのみこと)あづまを望れし事あり。此所ならん。又山を紆□(うえい)して上る。大仁王の社(やしろ)にいたる。喬木数株あり。一坂こゆれば熊野社なり。社庭に正応五年の鐘あり。社前に石車輪(せきしやりん)一隻を造れり。径(わたり)一尺五六寸なり。往年此村長(むらのをさ)社前の石階を造りてなれり。名を後世にのこさんことを欲してこのものを造りおけり。乃(すなはち)其家の紋なりと社主かたる。門前に上野信濃国界の碑あり。半里下山して軽沢の駅にいたる。蕎麦店に入りて喫するに其清奇いふべからず。しかれども豆漿(とうしやう)渋苦惜むべし。一里五丁沓掛駅。浅間岳を間近く望む。此とき巓に雲掩翳(えんえい)して烟見えず。一里三丁追分駅。一里十丁小田井駅。一里七丁岩村田なり。駒形明神に詣(いた)る。駒形石全く鈴杜烏石(れいとうせき)の類なり。一里半塩灘駅。大黒屋義左衛門の家に宿す。主人少く学を好む。頃(このごろ)佐藤一斎の※(てつ)[#「にんべん+至」、7巻-61-下-1]佐藤梅坡(ばいは)といふもの此に来て教授す。天民大窪酔客も亦来遊すといふ。此日天赫々なれども、山間の駅ゆゑ瘴気冷然たり。行程八里許(きよ)。」碓氷峠の天産植物に言及してゐるのは、蘭軒の本色である。北五味子は南五味子のびなんかづらと区別する称である。砂参は鐘草とあるが、今はつりがねにんじんと云ふ。桔梗科である。つりがねさうは次の升麻と同じく毛□(まうこん)科に属して、くさぼたんとも云ふ。劉寄奴は今菊科のはんごんさうに当てられ、おとぎりさうは金糸桃科の小連翹に当てられてゐる。蘭軒は前者を斥してゐるのであらう。
 詩が二首ある。「碓氷嶺。碓氷危険復幽深。五月山嵐寒透襟。蘿掛額般途九折。雲生脚底谷千尋。顧看来路人如豆。仰望前巓樹似簪。欲訪赤松応不遠。群羊化石石成林。望浅間岳。信陽第一浅間山。劣与芙蓉伯仲間。岳勢肥豊不危険。焔烟日日上天※[#「門<環のつくり」、7巻-61-下-16]。」
 第六日。「廿四日卯時に発し、朝霧(てうむ)はれんとするとき、筑摩川の橋を渡る。此より浅間岳を望む。烟の升(のぼ)る焔々たり。此川大(おほい)なれども水至て浅し。礫砂至て多し。万葉新続古今雪玉集みなさゞれ石をよみたり。古来よりの礫川(れきせん)と覚ゆ。廿七町八幡駅。卅二町望月駅。城光院に詣(いた)る。一里八丁蘆田駅。一里半長窪駅也。下和田に至て若宮八幡の社(やしろ)あり。此社前に小渠ありて九尺許(きよ)の橋を架たり。其上に屋根をふき欄干をつけたり。世人和田義盛の墳なりといふ碑に天正十九年の字あり。実は大井信定の墓なり。上和田駅風越山信定寺(しんぢやうじ)といふ禅寺の守(まもる)ところにして、寺後に信定の城墟あり、石塁今に存といふ。二里上和田の駅。比野屋又右衛門の家に宿す。(信定のこと主人の話なり。寺は余行(ゆい)て見る。)此地蚊なし。□(かや)を設ず。暑亦不甚(はなはだしからず)。行程六里許。」信定は武石大和守信広の二男で、始て和田氏を称した。武石氏も和田氏も、皆所謂(いはゆる)大井党の支流であつた。和田氏は武田晴信に滅された。蘭軒は晴信の裔(すゑ)であつたので、特に信定の菩提所をも訪うたのであらう。

     その三十二

 第七日は文化三年五月二十五日である。「廿五日卯時に発す。和田峠を過ぐ。山気至て冷なり。水晶花(卯の花)紫繍毬(ししうきう)(あぢさゐ)蘭草花開たり。細辛(さいしん)(加茂葵)杜衡(とかう)(ひきのひたひ草)多して上品なり。就中(なかんづく)夏枯草(かこさう)(うつぼ草、全く漢種のごとし)萱草(くわんざう)(わすれ草、深黄色甚多し)最多し。満山に紫黄相雑(まじ)りて奇麗繁華限なし。喬木一株もなく亦鳥雀なし。(これよりまへ碓氷(うすひ)峠その外木曾路の山中鳥雀いたつてまれなり。王安石一鳥不鳴山更幽の句覚妙(めうをおぼゆ)。)谷おほくありて山形甚円く仮山(かざん)のごとし。下諏訪春宮(はるみや)に詣り、五里八丁下諏訪の駅に到る。温泉あり。綿の湯といふ。上中下(かみなかしも)を分(わかつ)ている。上の湯は清灑(せいしや)にして臭気なし。これを飲めば酸味あり。上の湯の流あまりを溜(たむ)るを中といひ、又それに次(つぐ)を下といふ。轎夫(けうふ)駄児(たじ)の類浴する故穢濁(くわいだく)なり。此湯疝ある人浴してよく治すといへり。〔此辺温泉おほし。小湯(こゆ)といふあり。小瘡(せうさう)によし。たんぐわの湯といふあり。性熱なり。小瘡を患(うれ)ふるもの小湯に入まさに治んとするとき此湯にいる。又上諏訪山中に渋の湯といふあり。はなはだ温ならず。しかれども硫黄(りうわう)の気強して性熱なり。一口のむときは忽(たちまち)瀉利(しやり)す。松本城下に浅間の湯といふあり。綿の湯と同じ。疝を治す。山辺の湯といふあり。疝癪の腹痛によし。至てぬるしといふ。〕下の諏訪秋宮に詣り、田間の狭路をすぐ。青稲(せいたう)脚を掩ひ鬱茂せり。石川(せきせん)あり。急流□々(さう/\)として湖(こ)に通ず。諏訪湖水面漾々たり。塩尻峠を越え、三里塩尻駅。堺屋彦兵衛の家に投宿す。下条(げでう)兄弟迎飲す。(兄名成玉(せいぎよく)、字叔琢(あざなはしゆくたく)、号寿仙(じゆせんとがうす)、弟名世簡(せいかん)、字季父(きふ)、号春泰(しゆんたいとがうす)、松本侯臣、兄弟共泉豊洲門人なり。)家居頗富。書楼薬庫山池泉石尤具す。薬方両三を伝。歓話夜半に及てかへる。此日暑甚。行程八里半許(きよ)。」細辛はアサルムの数種に通ずる名だから、此文はかもあふひの双葉細辛を斥してゐるのであらう。杜衡はかんあふひか。うつぼぐさは□州(ぢよしう)夏枯草か。
 詩。「和田嶺。一渓渓尽復巌阿。路自白雲深処過。薬艸如春花幾種。黄萱最是満山多。諏訪湖。琉璃鏡面漾新晴。粉□浮沈高島城。遙樹如薺波欲浸。低田接渚緑方平。漁船数点分烟影。駅馬一行争晩程。繚繞湖辺千万嶺。芙蓉雪色独崢□。宿塩尻駅下条兄弟迎飲。嘗結茗渓社。今来塩里廬。山泉宜煮薬。岩洞可蔵書。爽籟涼生処。旧遊談熟初。暑氛与客恨。酔倒一時虚。」
 第八日。「廿六日卯時に発す。一里三十丁、洗馬駅。三十丁本山駅なり。此駅前月火災ありて荒穢(くわうくわい)なり。これより木曾路にかかる。此辺に喬木おほし。ゆく先も同じ。崖路を経堺橋をすぎて二里熱川駅。一里半奈良井駅。午後鳥居峠にいたる。御嶽山近く見ゆ。白雪巓(いたゞき)を覆ふ。轎夫(けうふ)いふ。御嶽山上に塩ありと。所謂(いはゆる)崖塩なるべし。一里半藪原駅。二里宮越駅。若松屋善兵衛の家に宿(やどる)。此日暑甚し。三更のとき雨降。眠中しらず。行程九里許(きよ)。」

     その三十三

 第九日は文化三年五月二十七日である。「廿七日卯時に発す。朝霧(てうむ)深し。郊辺小沢といふ所茶店(ちやてん)(泉屋善助)の傍(かたはら)に小樹籬(せうじゆり)を囲て石作士幹(いしづくりしかん)の墓あり。墓表隷字にて駒石石(くせきせき)先生之墓と題す。碑文紀平洲撰せり。一里半福島駅にいたる。関庁荘厳なり。桟道の旧跡を経て新茶屋といふに到る。屋後に行きて初て厠籌(しちう)を見たり。竹箆にはあらず。広一寸弱長四五寸の片木なり。二里半上松(あげまつ)駅にいたる。臨川(りんせん)寺は駅路蕎麦店間(けうばくてんかん)より二丁許(きよ)の坂を下りている。此書院に古画幅を掛たり。広一尺一二寸長(たけ)三尺許装□もふるし。一人物巾(きん)を頂き裘(きう)を衣(き)たり。舟に坐して柳下に釣る。□なし。筆迹松花堂様の少く重きもの也。寺僧浦島子(うらしまがこ)の象(かた)なりといふ。全く厳子陵(げんしりよう)の図なり。庭上に碑あり。碑表は石牀先生之墓と題す。三村三益、字季□(あざなはきこん)といふ木曾人の碑なり。熊耳余承裕(ゆうじよしようゆう)撰するところなり。小野滝看(をのたきみ)の茶屋に小休(こやすみ)して三里九丁須原の駅。大島屋唯右衛門家に投宿す。時已未後なり。此辺酸棗木(さんさうぼく)(小なつめ)蔓生の黄耆(わうぎ)(やはら草)多し。民家に藜蘆(りろ)(棕櫚草)を栽(うう)るもの数軒を見る。凡(おほよそ)信濃路水車おほし。此辺尤多し。又一種水杵(すゐしよ)あり。岩下或は渓間に一小屋(せうおく)を構臼を安(お)き長柄杵(ながえぎね)(大坂踏杵(ふみきね)也)を設け、人のふむべき処に凹(くぼみ)をなして屋外に出す。泉落て凹処降る故、忽(たちまち)水こぼる。こぼれて空しければ杵頭(しよとう)降りて米穀※(つ)[#「てへん+舂」、7巻-64-下-15]ける也。常勝寺にいたる。義清奉納の大鼓あり。(図後に出す。)此日暑甚し。行程八里半許(きよ)。」
 小沢に葬られた石作駒石は名を貞、字を士幹と云ふ。通称は貞一郎である。尾張家の附庸(ふよう)山村氏に仕へた。山村氏は福島を領して所謂(いはゆる)木曾の番所の関守であつた。駒石は明和の初に、伊勢国桑名で南宮大湫(なんぐうたいしう)に従学した。即ち蘭軒の師泉豊洲のあにでしである。寛政八年正月十四日に五十七歳で歿した。時に大湫の歿後十八年で、豊洲は三十九歳になつてゐた。駒石は晩年山村氏のために邑政(いふせい)を掌(つかさど)つて、頗る治績があつた。その二宮尊徳に似た手段は先哲叢談続編に見えてゐる。序に云ふ。叢談に此人の字(あざな)を子幹に作つたために、世に誤が伝へられてゐた。蘭軒は平洲の墓誌銘を目睹して、士幹と書してゐる。士幹を正となすべきであらう。
 三村三益、名は璞(ぼく)、字は季□(きこん)、一に道益と称した。山脇東洋の門人にして山村氏の医官である。木曾の薬草は始て此人によつて採集せられた。宝暦十一年に六十二歳で歿した。三益は採薬に土民を役したから、藜蘆を植うる俗の如きも、或は此人の時に始つたのではなからうか。
 臨川寺の僧が厳子陵の図を浦島が子となしたのは、木曾の寝覚の床に浦島が子の釣台(てうたい)があると云ふ伝説に拠つて言つたのであらう。
 紀行の此辺より下(しも)には往々欄外書がある。中には狩谷□斎森枳園(きゑん)等の考証もある。惜むらくは製本のために行首一二字を截り去られた所がある。枳園の筆迹と覚しき水杵の考証の如きも其一である。纔(わづか)に読み得らるゝ所に従へば、水杵は中国の方言にそうづからうすと云ふ、西渓(せいけい)叢語の泉舂(せんしよう)の類だと云ふのである。
 村上義清が常勝寺に寄附したと云ふ大鼓は、図後に出すと註してあつて、其図は闕けてゐる。前の蓮生寺の碑以下皆さうである。これに反して水杵の図が格上に貼つてあつて、方言どつたりと記してある。
 詩。「早発宮腰駅到須原駅宿。其一。朝来旅服染青嵐。山似重螺水似藍。途莫敢経※[#「石+干」、7巻-66-上-2]犬谷。底何可測斬蛇潭。関門厳粛松千鎖。岳脊昂低雪一担。忽捨肩輿誇勝具。※[#「工+卩」、7巻-66-上-4]莱叱馭且休談。其二。険路絶将懸桟通。灘深滝急激声雄。臨川古寺僧迎客。看瀑孤亭嫗喚童。家畜猪熊郷自異。樹遮日月影将空。偶与帰樵行相語。自是葛天淳朴風。其三。小憩茅檐問里程。吹烟管歛竹筒行。蚕簾斉□横斜架。泉杵時聞伊軋声。碧蘚開花岩脚遍。黄蓍作蔓石頭生。晩陰投宿山中駅。蠅子為群□菜羹。」

     その三十四

 第十日は文化三年五月二十八日である。「廿八日卯時発。一里三十丁野尻駅。木曾川石岩(せきがん)に映山紅(えいざんこう)盛に開く。矮蟠(あいはん)すること栽(うゝ)るがごとし。和合酒(わがふしゆ)を買ふ。(酒店和合屋木工右衛門(もくゑもん)と名(なづ)く。)二里半三富野(との)駅。一里半妻籠駅。二里馬籠駅。扇屋兵次郎家に宿す。苦熱たへがたし。行程七里半許(きよ)。」映山紅はやまつつじである。花木考に「山躑躅一名映山紅」と云つてある。
 詩。「野尻駅至三富野途中。谷裏孤村雲裏荘。僻郷却是似仙郷。□摶粉蕨甘兼滑。酒醸流泉清且香。板屋畏風多鎮石。桑園防獣為囲墻。詩吟未満奚嚢底。已厭山程数日長。雌雄瀑布。瀑泉遙下翠嵐中。迸勢争分雌与雄。誰是工裁長素練。十尋双掛石屏風。」
 第十一日。「廿九日卯時に発す。十曲(とまがり)峠をすぐ。美濃信濃の国境なり。一里五丁落合駅。与坂(よさか)の府関(ふくわん)ありて一里五丁中津川駅なり。此駅に一老翁の石をうるあり。白黒石英の類なり。其いづる所を問へば、此国苗木城西二里許(きよ)水晶が根といふ山よりとり来るといふ。二里半大井駅。十三峠をのぼる。此嶺(れい)はなはだ険ならず、渓(けい)なく谷(こく)あり。石も少して赤埴土(あかきはにつち)なり。木曾路のごとく山腹の崖路にあらず、山頭の道なり。松至て多く幽鬱の山なり。三里半大湫(おほくて)駅。小松屋善七の家に宿す。午後風あり涼し。雷(かみ)なる。雨ふらず。行程八里半余。」
 詩。「巻金村。離信已来濃。行行少峻峰。望原莎径坦。臨谷稲田重。五瀬雲辺嶺。七株山畔松。炊烟人語近。半睡聴村舂。」五瀬(らい)はいせである。「此地遠望勢州之諸山、翠黛於雲辺」と註してある。
 第十二日。「六月朔日(ついたち)卯発。琵琶嶺をすぎ山を下れば松林あり。右方に入海のさまにて水滔々たり。諸山の影うつる。海の名を轎夫(けうふ)に問へば谷間の朝霧なりと答ふ。はじめて此時仙台政宗の歌を解得(ときえ)たり。(仙台政宗の歌に、山あひの霧はさながら海に似て波かときけば松風の声。)一里三十丁細久手(ほそくて)駅。此近村に一呑(のみ)の清水といふあり。由縁(いうえん)詳(つまびらか)ならず。然ども鬼の窟(いはや)、鬼の首塚等の名あれば、好事者鬼といふより伊勢もの語にひきあてゝつけし名ならんか。三里御嶽駅。一里五丁伏見駅。太田川を渡り二里太田駅。芳野屋庄左衛門の家に宿す。熱甚。しかれども風あり。此駅に到て蠅大に少し。蚊は多し。此夜□(かや)を設く。行程七里許(きよ)。」
 第十三日。「二日卯発し駅をいづれば、渓水浅流の太田川にながれ入る所あり。方一尺許の石塊をならべてその浅流を渡る。直にのぼる山乃(すなはち)勝山なり。一山みな岩石也。斫(きり)て坂となし坦路となしゝものあり。窟の観音に詣る。佳境絶妙なり。河幅至てひろく、水心に岩石秀聳(しうしよう)し、蟠松矯樹(はんしようあいじゆ)ううるがごとく生ず。水勢の石に激する所あり。淵をなして蒼々然たる所あり。浅流底砂を見る所あり。美濃山中の勝地ならん。二里鵜沼駅にいたる。犬山の城見ゆる。四里八丁加納駅。一里半河渡駅。塗師(ぬし)屋久左衛門の家に宿す。気候前日のごとし。行程七里半余。」
 詩。「観音阪。観音山畔望。渓水濶且奇。源自東西会。瀬因深浅移。小航工避石。壊岸却成逵。只見宜玄対。愧余未忘詩。」

     その三十五

 第十四日は文化三年六月三日である。「三日、此日は南宮山に詣(いた)らんとして未明撫院に先(さきだ)つて発せり。一貫川を経て一里六丁美江寺(みえでら)駅に到る。呂久(ろく)川を渡り大垣堤を過(よぎ)るとき、旭日初て明に養老山望前に見ゆ。二里八丁赤坂の駅に到る。青野原の傍(かたはら)を経て垂井(たるゐ)駅なり。駅中に南宮一の鳥居あり。七八丁入り社人若山八兵衛といふものを導(みちびき)として境内を歴覧す。空也上人建るところの石塔みかげ石字なし。図巻末に出す。仏師春日の造る狛犬は随身門(ずゐじんもん)の後にあり。古色朴実にして猛勢怖るべきがごとし。左方の狛犬玉眼一隻破たり。本社の内にも狛犬あれども新造のものにして観るに足らず。全く春日の作を摸するものと思はる。鐘あり。銅緑を一面に生じて古色なり。銘なし。社旁(しやはう)に五重の石塔婆あり。高さ三尺七八寸苔蘚厚重して銘かつてよめず。(籬島(りたう)よくも見たり。)図後に出す。鉄塔あり。古色実に五百年前のもの也。銘よみうれども鉄衣あつき故摺得ず、やうやく年号のみすりたり。往年は屋前も作らずありしを中川飛騨守(勘定奉行たりしとき)検巡のとき命じて作らしむといふ。好古の意見つべし。銘は板に書し屋上に掲たり。此より山中奥の院は十八丁ありといふ故不行(ゆかず)して駅へ帰りければ撫院已に駅長の家に来れり。一里半関が原の駅にいたる。駅長の家に神祖陣営の図を蔵(をさ)む。駅長図を披(ひらい)て行行(ゆく/\)委細にとけり。駅中に土神八幡の祠あり。これは昔年よりありしを慶長の乱に西軍これを焼けり。後元和中越前侯忠直(たゞなほ)(一白(はく))再脩せり。此所神祖御榻(ぎよたふ)の迹なり。土人の説に此より北国道へ少し入りて松間なりといふ。旧図に不合(あはず)。当時石田の意は青野原にて決戦と謀しを、神祖不意に此処に出て三方の山に軍陣を列し、関が原へ西軍を包がごとく謀りし故西軍大に敗せりといふ。首塚二堆(たい)あり。数里にして不破関の迹なり。今に土中より麻皺(ましう)の古瓦(こぐわ)いづるといへり。江濃(こうのう)両国境を経一里柏原駅。一里半醒井(さめがゐ)駅。虎屋藤兵衛の家に宿す。暑尤甚し。行程九里許(きよ)」
 空也上人の建てた石塔も、五重の石塔婆も、後に図を出だすと云つてあるが、其図は佚亡してしまつた。中川勘三郎忠英(たゞひで)、叙爵して飛騨守と云ふ。寛政九年二月十二日に長崎奉行より転じて勘定奉行となり、国用方(こくようかた)を命ぜられた。曲淵(まがりぶち)甲斐守景漸(けいぜん)の後を襲(つ)いだのである。尋で六月六日に忠英は関東の郡代を兼ねた。此年正月に至つて、大目附指物帳鉄砲改に転じた。南宮山古鐘のために屋舎を作らしめたのは此忠英である。
 詩。「関原駅。村長披来御陣図。平原指点説須臾。転知黎庶帰明主。遂是奸雄成独夫。首馘千年※[#「隻+隻」、7巻-69-上-14]塚在。□氛万里一塵無。行行今拝山河去。酒店茶亭満駅途。不破関古址。関門陳迹旧藤河。此境先賢佳句多。林裏荒簷三両戸。昇平今不復誰何。江濃界。落日村墟涼似秋。農人相伴過青疇。帰家仍隔疎籬語。便是江濃分二州。」
 第十五日。「四日卯時に発し一里番場駅。蓮華寺に詣り、午後磨針嶺(すりばりれい)望湖堂に小休す。数日木曾山道の幽邃に厭(あき)し故此に来(きたり)湖面滔漫を遠望して胸中の鬱穢(うつくわい)一時消尽せり。時に天曇り月出崎(つきのでさき)竹生島模糊として雨色を見れども、雨足過行て比良山を陰翳し竹生島実に画様なり。(人ありいはく。琵琶湖は沢(たく)といふべし。湖(こ)にあらず。余按(あんずるに)震沢を太湖と称するときは湖といふも妨なし。)一里六丁鳥居本(とりゐもと)駅。此辺に床の山あり。(往年朝妻舟の賛に床の山を詠ぜしは所ちかき故入れしなり。此に到て初てしる。)一里半高宮駅。二里愛智川(えちかは)駅なり。松原あり。片山といふ山を望む。二里半武佐(むさ)駅。仙台屋平六の家に宿す。此日午前後晴。晩密雲不雨(あめふらず)。雷(かみ)なる。暑甚し。行程八里許。」
 此日の記事中深艸元政を引いた一節があつたが、□斎が其誤を指□してゐるから削つた。□斎は又蘭軒が蓮花寺弘安年間の古鐘を見なかつたのを憾(うらみ)としてゐる。
 詩。「磨針嶺。磨嶺旗亭巌壑阿。望湖堂上観尤多。漁村浦遠疑無路。洲寺市通還有坡。一掃雲従仙島起。暫時雨逐布帆飛。西行瓊浦逢清客。欲問洞庭囲幾何。」

     その三十六

 第十六日は文化三年六月五日である。「五日五更に発す。三里半守山駅。守山寺を尋ぬ。一里半草津駅。□母餅茶店(うばがもちちやてん)に小休す。勢田橋西茶店にて吉田大夫に逢ふ。三里半六丁大津駅。牧野屋熊吉の家に宿す。駅長の家にして淀侯の侍医留川周伯といふ者に逢ふ。森養竹の所識(しよしき)なりといふ。此日熱甚し。行程八里半許(きよ)。」
 詩。「粟津原。戦場陳迹望湖山。荒冢碑存田稲間。十里松原途曲直。柳箱布□旅人還。」松原と云ひ、柳箱と云ふ、用ゐ来つて必ずしも眼を礙(がい)せず。
 第十七日。「六日寅時に発し四の宮川橋十禅寺橋を経過す。みな小橋なり。十禅寺門前を過ぎ追分に到る。(柳緑花紅碑を尋(たづぬ)。夜いまだあけざる故尋不得。)矢弓茶店(奴茶屋といふ、片岡流射術の祖家なり)に小休す。数里行て夜正(まさに)あけたり。姥(うば)が懐(ふところ)より日の岡峠にいたる。崗(かう)高からず。□揚茶店(けあげちやや)に休す。白川橋三条大橋三条小橋を経て押小路柳馬場島本三郎九郎の家に至る。(長崎宿というて江戸の長崎屋源右衛門大阪の為川辰吉みな同じ。)日正辰時なり。撫院は朝(てう)せり。余は寺町御池下る町銭屋総四郎を訪ふ。(姓鷦鷯(ささき)、名春行(しゆんかう)、号竹苞楼(ちくはうろうとがうす)。)主人家に在て応対歓晤はなはだ□(かなへ)り。古物数種を出して観しむ。所蔵の大般若第五十三巻零本巻子なり。神亀五年の古鈔跋文中に長王の二字あり。又古鈔零本玉篇一本辺格上短下長、(延喜式図書令の度なり)その裏を装修せしも古鈔本の仏経なり。「治安元年八月廿八日 以石泉御本写之已了 康平六年七月 於平等院 奉受此経 仏子快算」とあり。右件(くだん)の年号にて玉篇の古鈔知べし。古鈔孝経七八種あり。みな古文なり。一部後宇多帝の花押あり。尤珍貴とすべし。又類編群書画一元亀丁部巻之二十一の古鈔零本金沢文庫の印あるものあり。唐代所著のものと見ゆ。又白氏文集巻子零本三巻会昌□年鈔僧慧萼(えがく)将来によりて書する本あり。亦金沢文庫の印あり。又太子伝全本「永万元年六月十九日書 借住円舜」とあり。又今出川内大臣晴季(はるすゑ)公(秀頼同代人)帯する所の木魚刀一あり。皆古香馥郁たるものなり。且語次にいふ所の書数種なり。新撰六旬集占病占夢の書なり。跋文に「斯依滋兵川人貞観十三年奉勅撰進爾甲撰進之」とあり。又三帰翁十巻といふものあり。其書ありといへども百味作字の一巻無(なき)ときは薬名考べからずといへり。又弘法大師将来の五嶽真形図あり。普通の図と異なり。又篁公書する所の仏書あり。無仏斎藤貞幹(とうていかん)の蔵するもの也。其古物珍貴しるべし。又日本国現在書目ありといふ。又医書一巻元亀の古鈔本にて末云(すゑにいはく)「耆婆宮内大輔施薬大医正五位上国撰」とあり。日已未時。さりて智恩院に行き祇園の茶店中村屋に至て休す。(豆腐味(あぢはひ)尤よし。他雑肴(ざつかう)箸を下(くだす)べからず。)樹陰清涼大に佳なり。此日祭神日の前一日なり。しかれども甚雑喧ならず。八坂に行(ゆき)塔下を経て三年坂を上る。坂側(はんそく)みな窯戸(えうこ)なり。烟影紛※(ふんでう)[#「褒」の「保」に代えて「馬」、7巻-71-下-10]せり。嫗堂(うばだう)経書堂の前をすぎ清水寺門前の町に至る。酒店多し。みな提燈に酒肴の名を書して竿上に掲ぐ。清水寺中を歴観し台上に休してかへる。蓮花王院方広寺に行く。大仏殿災後いまだ経営なし。只洪鐘のみ存ぜり。耳塚を経て寺門前茶店に至て撫院を待。正(まさに)申後なり。薄暮撫院来る。遂に従て行く。伏見街道に至れば已に夜なり。三峰稲荷藤杜(ふぢのもり)の前をすぎ墨染深草の里を経、初更後伏見布屋七兵衛の家に宿す。伏見の境は東都江戸橋四日市の地と家居地勢頗同じ。此日暑甚しからず。旅家女商来る。煩喧(はんけん)蠅のごとし。行程九里許。」

     その三十七

 是日に蘭軒は京(けい)に入り京を出でた。一行は敢て淹留(えんりう)することをなさなかつたのである。奴茶屋の条に、片岡流射術の祖と云つてあるのは、片岡平右衛門家次の一族を謂つたものであらうか。その詳(つまびらか)なることはわたくしの知らざる所である。
 蘭軒が京都銭屋総四郎の許で閲(けみ)した古書の中に、治安中の鈔本玉篇がある。蘭軒は其裏を装修するに古鈔仏経を以てしてあると云つた。然るに狩谷□斎が欄外に下の如くに書してゐる。「望之(ばうし)云。背面の仏経は玉篇の零本を料紙にして写したるものなり。巻子儒書の背に仏書あるもの皆これ也。仏書の故紙を以て装修せしにはあらず。」
 同じ銭屋の蔵本の中に又画一元亀の零本があつた。蘭軒はそれを「唐代所著のものと見ゆ」と云つた。□斎は此にも筆を加へて、「画一元亀は趙宋の書にして唐代のものにはあらず」と云つてゐる。画一元亀は多く舶載せられなかつた書である。徳川家康が嘗て僧某のこれを引いたのを聞いて林羅山に質(たゞ)した。羅山はそんな書は無いと云つたさうである。いかに博識でも、そんな書は無いなどと云ふことは、うかと云はれぬものである。
 今出川内大臣晴季は左大臣公彦(きんひこ)の子で、豊臣秀吉の密友になつた。秀吉をして関白を奏請せしめたのは此人である。永禄四年女婿秀次の事に坐して北国に謫(たく)せられ、慶長元年赦されて還り、元和三年七十九歳で薨じた。
 詩は七律一、五律二、七絶一が集に載せてある。今其七律を録する。「入京。家々櫛比且豊饒。千載皇京属聖朝。仙署客鳴珠履過。青雲路向紫宸遙。東西※[#「隻+隻」、7巻-73-上-3]寺金銀閣。上下長橋三五条。観得都人風化好。陌頭来往不相驕。」
 第十八日は文化三年六月七日である。「七日卯時伏見舟場より乗船、撫院に侍す。淀の小橋をすぐ。朝霧(てうむ)いまだはれず。水車の処に舟をよせて観たり。行々(ゆき/\)て右淀の大橋を見、左に桂川の落口を見て宮の渡の辺に到て、霧(きり)霽(はれ)日光あきらかに八幡の山平瀉(ひらかた)の民家一覧に入て画がけるがごとし。淀川十里の間あし茅(かや)の深き処、浅瀬の船底石に摩(す)る処、深淵の蒼みたるところ、堤に柳ありて直曲なる処、野渡(やと)のせばき処、遠き山見るところ、近き村ある処、彼此観望する間、未後大坂城を前に望て、遂に過所町(くわしよまち)の河岸に著く。撫院は為川辰吉の家に入る。余は伏見屋庄兵衛の楼上に寓す。此楼下は大河に臨み、舟に乗来し処、天満(てんま)橋天神橋難波橋より西は淀屋橋辺を望て、遊船商※(しやうくわう)[#「舟+皇」、7巻-73-下-2]日夜喧嘩なり。夜に入ば烟火戯光映照波絃歌相和。ことに涼風満楼蚊蠅(ぶんよう)絶てなし。数日旅程の暑炎鬱蒸盪瀉し尽せり。此日天晴。」
 詩。「暁下淀河。其一。舟舷置棹順流行。離岸茫々傷客情。数叫杜鵑何処去。暁雲深籠淀河城。其二。疎鐘渡水報清晨。山翠雲晴濃淡新。□犬声聞蘆荻外。先知村市近河浜。其三。波光泛日霧初消。次第行過大小橋。猶有篷舟泊洲渚。折来枯柳作薪焼。浪華。其一。豊公旧築浪華城。都会繁華勝帝京。民俗猶余雄壮気。路傍攘臂動相争。其二。縦横廛市夾河流。商舸来従数十州。大賈因能処奇貨。驕奢時有擬公侯。」
 第十九二十の両日は、蘭軒が大阪に留まつてゐた。「八日土佐堀の藩邸に到る。中根五右衛門を訪。帰路に心斎橋街に行き書肆を閲す。凡三四町書肆櫛比(しつぴ)す。塩屋平助、秋田屋太右衛門の店にて購数種書。伏見宇兵衛来て秋田屋に家居せり。両本願寺へ行き道頓堀を経過して日暮かへる。此日晴。」
「九日田沼玄仙雲林院玄仲を訪不遇。日薄暮玄仲来。年六十二。謙遜野ならず。此日暑甚し。」

     その三十八

 第二十一日は文化三年六月十日である。「十日辰後に客舎を発し、難波橋を渡り天満(てんま)の天神へ詣(いた)り、巳時十※(じふさう)[#「隻+隻」、7巻-74-上-9]村に到る。此地平遠にして青田広濶なり。隴畝(ろうほ)の中数処に桔槹井(けつかうせい)を施て灌漑の用をなす。十※[#「隻+隻」、7巻-74-上-10]川を渡り尼崎城下をすぐ。此地市街城をめぐり二十余町人家みな瓦屋(ぐわをく)にして商賈多く万器乏しき事なし。人喧都下の郭外に似たり。五里西宮駅。上田屋平兵衛の家に宿す。時いまだ未(ひつじ)ならず。西宮に到りて拝神(かみをはいす)。世人蛭児尊(ひるこのみこと)を称すれども祭神中央は天照太神宮にして左素盞嗚尊、右蛭児尊なり。拾玉集慈鎮の歌にて只蛭児を称するのみ。下馬碑あり。関東みな牌なり。此碑となす亦奇也。宝多山六湛寺を尋ぬ。康永中虎関禅師の開基なり。古鐘あり。銘曰。「摂津国西成郡舳淵荘盛福寺鐘文永十一年甲戌四月九日鋳。」いづれの頃此寺に移ししか寺僧に問ども不知。あまり大鐘にあらず。径(わたり)一尺八寸七分許(きよ)厚二寸許緑衣生ぜり。此日寺中書画を曝す日にて蔵画を見たり。大横幅著色寿老人一掛(くわい)寺僧兆殿司(てうでんす)の画(ゑがく)ところなりといへども新様にして疑ふべし。しかれども図式は頗奇異なり。全(まつたく)摸写のものならん。名識印章並になし。竪幅(じゆふく)二掛一対墨画十六羅漢明兆画とありて印なし。飛動気韻ありて且古香可掬(きくすべし)。殿司の真迹疑べからず。駅長の家烏山侯霞崖の書せる安穏二字を榜(ばう)す。此日暑甚し。行程五里許。」
 詩。「已発浪華将就山陽道到十※[#「隻+隻」、7巻-74-下-15]村作。其一。朝嵐欲霽半蒼茫。村市人声未散場。菜畝千※[#「勝」の「力」に代えて「土」、7巻-74-下-16]青似海。桔槹数十賽帆檣。其二。六月凌霄花政開。暑炎如燬起塵埃。行程未半西遊道。已是離郷廿日来。」
 第廿二日。「十一日卯時に発す。駅を離れて郊路なり。菟原(うはら)住吉祠に詣り海辺の田圃を経(ふ)る。村中醸家おほし。木筧(もくけん)曲直(きよくちよく)して水を引こと遠きよりす。一望の中武庫摩耶の諸山近し。生田祠に詣(いた)る。此日祠堂落成遷神(せんしん)す。社前の小流生田川と名く。(古今六帖に出。)荷花盛に開く。門を出桜の馬場の半より左曲す。坂本村田圃を過。楠公碑を拝し湊川をすぐ。水なし。五里兵庫駅。六軒屋定兵衛の家に休す。日正(まさに)午(ご)なり。尻池村をすぎ平知章墓(たひらのともあきらのはか)監物頼賢墓(けんもつよりかたのはか)平通盛墓を看る。苅藻(かるも)川の小流を経て東須磨に到る。いなば薬師に詣り西須磨をすぐ。西須磨の家毎軒竹簾を垂る。平家内裏を遷しし時の遺風なりといへり。此近村大手村、桂尾(けいび)山勝福寺といふ寺に文翰詞林三巻零本ありと鷦鷯春行(さゝきしゆんかう)かたりたり。此日尋ることを不得遺憾といふべし。須磨寺にいたる。上野山(しやうやさん)福祥寺といふ。此亦下馬碑あり。蔵物を観る。辨慶の書は、双鉤填墨(さうこうてんぼく)のものゝごとし。源空の書は東都屋代輪池蔵する選択集(せんぢやくしふ)の筆跡に似(にた)るがごとし。敦盛の像及甲冑古色可掬。大小二笛高麗笛古色なり。寺の後山一二三谷(のたに)をすぎ海浜に出て敦盛塔を看。(一説平軍戦死合墓なりといふ。)五輪石塔半(なかば)埋(うづもれ)たるなり。此海浜山上蔓荊子(まんけいし)多し。花盛にひらく。界川に到る。是摂播二国の界なり。垂水(たるみ)の神祠を拝し遊女冢をすぎ千壺岡(ちつぼのをか)に上つて看る。烏崎舞子浜山田をすぎ五里大蔵谷駅。樽屋四郎兵衛の家に宿す。此日暑尤も甚し。此夜月明にして一点の雲なし。兼松弥次と荒木一次とを拉して人麿祠の岡に上る。路に忠度墓(たゞのりのはか)あり。上(かみ)に一大松あり。田間の小路より上るときは大海千里如銀岡上の松間清月光を砕く。石階を下ること三四町にして数町の松堤あり。堤に上りて下れば即海辺の石砂平遠なり。都(すべ)て是赤石(あかし)の浦といふ。石上に坐するに都て土塵なし。波濤来りて人を追がごとし。海面一仮山のごときものは淡路島なり。夜帆往来して島陰より出るものは微火揺々たり。島前をすぐるは掌中に見るがごとし。数十日炎暑旅情風月に奪ひ去らる。夜半に及で帰る。行程十里許。」
 此日の詩には楠公墓の七律一、須磨の五律二、舞子の五律一、赤石の五律一がある。今須磨舞子赤石の五律各(おの/\)一を録する。「須磨浦。石磯迂曲路。行避怒濤涵。嶺続東西北。谷分一二三。古書尋寺看。往事向僧談。恃険知非策。平軍遂不戡。舞子浜。数里千松翠。奇枝歴幾年。雨過藍島霽。濤洗雪砂旋。□網張斜日。飛帆没遠天。不妨村酒苦。一酌即醺然。宿大蔵谷駅溽暑至夜猶甚納涼海磯乃赤石浦也。駅廬炎暑甚。乗月到長湾。銀界明天末。竜鱗動浪間。連檣遮漢影。一島犯星班。涼歩多舟子。斉歌欸乃還。」

     その三十九

 第二十三日は文化三年六月十二日である。「十二日卯時に発す。赤石(あかし)総門を出て赤石川を渡り皇子(くわうじ)村を経て一里半大久保駅、三里半加古川駅にいたる。一商家に小休す。駅吏中谷三助(名清(なはせい)字惟寅(あざなはゐいん)、号詠帰(えいきとがうす)、頼春水の門人なり)来訪、頼杏坪(きやうへい)の書を達す。此駅□魚(いぎよ)味(あじはひ)美(び)なり。方言牛の舌といひ又略して舌といふ。加古川を渡り阿弥陀宿(あみだじゆく)村をすぎ六騎武者塚(里俗喧嘩塚)といふを経て三里御著(ごちやく)駅に至り一里姫路城下本町表屋九兵衛の家に宿す。庭中より城楼直起するがごとし。人(ひと)喧(かまびすしく)器用甚備。町数八十ありといふ。此日暑甚し。夜微風あり。行程九里許(きよ)。」所謂(いはゆる)□魚はリノプラグシアであらうか。
 第二十四日。「十三日早朝発す。斑鳩(いかるが)に到て休。斑鳩(はんきう)寺あり不尋。三里半正条。半里片島駅。藤城屋六兵衛の家に休。日正午也。鶴亀村をすぎ宇根川を渡り二里宇根駅、紙屋林蔵の家に宿す。此日暑甚からず。行程六里許。」
 第二十五日。「十四日卯時に発す。大山峠を経て三里三石(みついし)駅。中屋弥二郎兵衛の家に休す。是より備前なり。二里片上駅。京屋庄右衛門の家に宿し、夜兼松弥次助と海浜蛭子祠(ひるこのし)に納涼す。此地山廻て海入る。而(しかして)山みな草卉にして木なし。形円にして複重す。山際をすぎて洋に出れば三里ありといふ。真の入り海なり。都(すべ)てこれ仮山水のごとし。延袤(えんぼう)二里許あり。土人小舟にて竜鬚菜(りゆうしゆさい)をとるもの多し。又海船の来り泊するあり。忽舟に乗じて来るものあり。歌謡東都様なり。之をみれば山村九右衛門樋口小兵衛なり。因て四人同舟して山腹の日国寺に詣る。寺北斗を祭て□(う)す。燈火昼のごとし。村人群来す。雑喧不堪(たへず)また舟にのぼり逍遙漕してかへる。時正に二更後なり。此日苦熱不可忍。この納涼に因て除掃す。行程五里許。」
 詩。「宿片上駅買舟納涼。藻※[#「くさかんむり/俎」、7巻-77-下-2]魚羮侑杜□。買舟暫遶水村回。岡頭燈火人如市。道是星祠祈雨来。」
 第二十六日。「十五日卯時発す。長舟(をさふね)村を経吉井川を渡り四里藤井駅。豆腐屋又六の家に休す。いんべを経る。陶器をうる家あり。此辺みな瓶器破余(へいきはよ)をもつて石にかふ。或は堤を護す。二里岡山城下五里板倉駅。古手屋九兵衛の家に宿す。まさに此駅にいらんとして備前備中の国界碑あり。吉備神祠あり。此日暑尤甚し。行程八里半。」欄外に「陶器は伊部(いんべ)也、片上の少し西也、それより香登(かゞと)それより長船吉井川也」と註してある。
 第二十七日。「十六日卯時発す。三里川辺駅。三里矢掛駅。(三里の内七十二町一里、五十町一里ありといふ。)吉備寺あり。吉備公の墓あり。甲奴(かふど)屋兵右衛門の家に休す。時正に午後陰雲起て雷雨灑来(そゝぎきたり)数日にして乾渇を愈(いやす)がごとし。未後にいたりて霽(は)る。江原をすぐ。此地広遠にして見るところの山はなはだ不高。長堤数里砂川に傍(そ)ふ。牧童三人許り来て雨余の濁水を伺て魚を捕す。牛みな草を喰て遅々として水を渡り去る。牧童捕魚に耽て不知、忽然として大に驚き牛を尋ね去る。田野の一佳景といふべし。三里七日市。藤本作次郎の家に宿す。此家戸外に吉備宮(きびつみや)の神符を貼(てふ)す。符云。「寒言神尊利根陀見」と。熟察するに八卦なり。抱腹噴飯す。此日雨を得少しく涼し。夜尤清輝。初更菅茶山来訪歓晤徹暁して去る。行程九里許。」欄外に「七十二町の一里土人旅人の云ところなれども実はしからず」と註してある。
 詩。「江原。軽雷雨霽暑初微。数輩牧童行浅磯。昏暮捕魚猶未去。不知牛犢已先帰。宿七日市駅菅先生自神辺駅来訪有詩次韻賦呈。昔年自嘗賦分離。何料今宵有此期。尤喜詞壇一盟主。儼然不改旧霜髭。」次韻の絶句引首「訪」の字の傍に、茶山が「迎か要か」と註してゐる。茶山が境を越えて蘭軒を七日市に訪うたのは、蘭軒を神辺(かんなべ)の家に立ち寄らせようとして、案内のために来たのだといふことが、此推敲の跡に徴して知られる。当時茶山が蘭軒に贈つた原唱は集に載せない。

     その四十

 第二十八日は文化三年六月十七日で、蘭軒は此日に茶山を訪うた。「十七日卯時発す。一里十二町たかや駅。すでに備後なり。安那(やすな)郡に属す。(古昔(こせき)穴国(あなのくに)穴済(あなのわたり)穴海(あなのうみ)和武尊(やまとだけのみこと)悪神を殺戮するの地なり。日本紀景行紀によるに此辺みな海也。)一本榎上御領村下御領村平野村を経て一里廿七町神辺駅。菅茶山を訪。路(みちに)横井敬蔵に逢ひ駅長の家にして細井磯五郎に逢。みな撫院の応接にいづるとなり。茶山の廬駅に面して柴門あり。門に入て数歩流渠あり。□橋(いけう)を架て柳樹茂密その上を蔽ふ。茅屋瀟灑夕陽黄葉村舎の横額あり。堂上より望ときは駅を隔て黄葉山園中に来がごとし。園を渉(わたつ)て屋後の堤上に到れば茶臼山より西連山翠色淡濃村園寺観すべて一図画なり。堤下川あり。茶山春川釣魚の図に題する詩を天下の韻士にもとむ。即此川なり。屋傍に池あり。荷花盛に開く。渠を隔て塾あり。槐寮といふ。学生十数人案に対して書を読む。茶山堂上酒肴を具(そなふ)。その妻及男養助歓待恰も一親族の家のごとし。墨水詩巻対岳堂詩巻を展覧す。福山志を観る。三浦安藤岩野三大夫より酒肴を贈る。庄兵衛(茶山に従て東都にありし僕なり)来り見(まみ)ゆ。午前より来て未後にいたり大に撫院の駕に後る。辞してさる。横尾をすぐ。鶴橋あり。あした川の下流を渡り山手村かや村赤坂村神村をすぐ。此辺堤上より福山城を松山の間に望む。城楼は林標に突兀たり。四里今津駅なり。高洲をへて□示嶺(ばうしれい)にいたる。(一に坊寺(ばうじ)といひ一に牡牛といふ。)一本榎より此に至て我藩知に属す。土地清灑田野開闢溝渠相達して今年の旱(ひでり)に逢ふといへども田水乏きことなし。嶺を下て二里尾道駅なり。此駅海に浜して商賈富有諸州の船舸来て輻湊する地。人物家俗浪華の小なるもの也。今夜観音寺に詣拝するもの雑喧我本郷真光寺薬師詣拝の人のごとし。駅長の家は豊太閣薩摩をせむるとき留宿の家なりといふ。上段の画壁彩色金銀を用ふ綺麗にして古色なり。(細川幽斎九州道の記に備後の津公儀御座所に参上して十八日朝鞆(とも)までこし侍るとあり。すなはち此尾の道に太閣の留宿するをいふなるべし。)余升屋半兵衛の家に宿す。初更後茶山神辺より来り其門人油屋元助の家に迎へて歓飲す。家居頗大一豪富賈なり。主人名藉(なはせき)字(あざな)は元助(げんじよ)嘉樹堂といふ。好学(がくをこのみ)て雅致なり。品坐(ひんざ)劇談暁にいたりて二人に別る。此日甚暑(じんしよ)にあらず。行程九里許(きよ)。」
 此所にも亦欄外に三件の考証があるが、其一は文字を截り去られて読むべからざるに至つてゐる。余の二件は高屋駅と津との事に就いて誤を正したものである。本文には高屋駅を備後の地だとしてあるのに、欄外にはかう云つてある。「高屋駅は備中也。この西に一本榎あり。これ中後の界也。」本文には又備後の津の公儀御座所を豊公の宿だとしてあるのに、欄外にはかう云つてある。「備後の津公儀御座所といふは義昭将軍をいふ也。津といふは今の津の郷村也。」筆跡に依つて推するに、此考証は森枳園(きゑん)の手に出でたものらしい。
 穴海は景行紀二十七年十二月の条に出でてゐる。「到於熊襲国(中略)。既而従海路還倭。到吉備以渡穴海。」穴済(あなのわたり)は又其二十八年二月の条に出でてゐる。「日本武尊奏平熊襲之状曰。(中略)唯吉備穴済神及難波柏済神。(中略)並為禍害之藪。故悉殺其悪神。」穴国は国造本紀に「吉備穴国造」がある。亦景行帝の時置く所である。

     その四十一

 蘭軒が黄葉夕陽村舎を訪うた記事は、山陽の文と併せ読んで興味がある。「後就其家東北河堤竹林下築村塾。帯流種樹。対面之山名黄葉。因曰黄葉夕陽村舎。舎背隔野望連阜。有茶臼山。因自号茶山。」此対面の山は初めもみぢやまと呼ばれてゐたが、茶山に由つて世に聞え、今はくわうえふざんと音読せられてゐる。茶山が号の本づく所の茶臼山は、原(もと)の名秋円山(あきまるやま)である。道之上(みちのうへ)城址の在るところで、形より茶臼の称を得た。
 茶山が当時の身分は、前(さき)に江戸に客たりし時より俸禄が倍加せられてゐる。茶山は寛政四年に五人扶持を給せられ、享和元年に儒官に準ぜられ、文化二年に五人扶持を増して十人扶持にせられた。即ち蘭軒の来訪した前年である。これより後茶山は十人扶持づつの増俸を二度受けて三十人扶持になり、大目附に準ぜられて終つた。
 蘭軒を□待した家族は紀行に「その妻及男養助」と記してある。妻は継室門田(もんでん)氏であらう。養助は要助の誤で、茶山の弟猶右衛門汝□(じよへん)の子要助、名は万年(ばんねん)、字(あざな)は公寿(こうじゆ)である。汝□の□は司馬相如(しばしやうじよ)の賦に□南予章(へんなんよしやう)とあつて、南国香木の名である。
 酒肴を贈つて来た「三大夫」の中、三浦は当時の家老に平十郎、勘解由、軍記などがあつて、どの人とも定め難い。安藤は内蔵(くら)であらう。岩野は与三右衛門であらう。
 茶山は既に蘭軒を七日市に迎へたやうに、又蘭軒を尾の道に送つた。即ち油屋元助(もとすけ)方の徹宵の宴飲である。
 尾の道観音寺の参詣人を見て、蘭軒がこれを江戸の真光寺のにぎはひに比してゐるのが面白い。これは本郷桜木天神の傍(かたはら)に住んだ蘭軒でなくては想ひ到らぬ事である。真光寺の縁日は、寺門が電車の交叉点に向つて開いてゐる今日も、猶相応に賑しい。しかし既に昔日の雑□(ざつたふ)の面影をば留めない。明治の初年にわたくしは桜木天神の神楽殿に並んだ裏二階に下宿してゐたが、当時の薬師の縁日は猶頗殷盛であつた。わたくしは大蛇の見せもの、河童(かつぱ)の見せものを覗いて見たことを記憶してゐる。彼の三尺帯三本を竿に懸けて孔雀だと云つて見せた類で、極て原始的な詐偽であつた。そしてそれに銭を捨てて入るものが踵(くびす)を接したものである。
 ※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-81-下-9]詩集に神辺(かんなべ)で蘭軒が茶山に贈つた一絶がある。「過神辺駅、訪菅先生夕陽黄葉村舎、柴門茅屋、茂園清流、入其室則窓明軒爽、対山望田、甚瀟灑矣、先生有詩、次韻賦呈。田稲池蓮美且都。柳陰風柝架頭書。鳥啼山客猶眠熟。便是□川摩詰廬。」原作は茶山の集に載せない。蘭軒の詩の転句は頼千秋の書した黄葉夕陽村舎の襖の文字ださうである。
 茶山は尾の道の油屋で蘭軒に詩を贈つた。即ち集中の「尾道贈伊沢澹父」の七絶である。「松間明月故人杯。此会他年能幾回。記取牡牛関下駅。遙輿脚疾送君来。」転句の牡牛関(ぼぎうくわん)は即ち□示嶺(ばうしれい)であらう。結句の言ふ所は蘭軒の脚疾ではなくて、東道主人の脚疾である。蘭軒のこれに酬いた詩が其集にある。「宿尾道駅、菅先生追送至此、迎飲于其門人油元助家、先生有詩、次韻賦呈。擲了郷心不擲杯。七分□甲逓千回。謝君迎送能扶疾。昨夜今宵越境来。」

     その四十二

 蘭軒が旅行の第二十九日は文化三年六月十八日である。「十八日卯時発す。駅を離るれば海辺なり。磯はたの路にして海上島々連続せり。海のかたち大川のごとし。源貞世(みなもとのさだよ)豊臣勝俊の紀行にも地形を賞したる文見ゆ。海辺に八幡の社あり。松数株ありて此地第一の眺望なり。三原城も見ゆ。三里三原駅一商家に休す。青木屋新四郎を訪。主人讚州へ行て不在(あらず)。その弟吉衛に逢うて去る。備後安藝の国界は駅路の山上にあり。二里半ぬた本郷駅。松下屋木曾右衛門の家に宿す。駅長の屋後に山あり。雀が嶽といふ。小早川隆景の城址なり。今の三原城こゝより遷移すと土人いへり。此日暑甚しからず。曇る。行程五里半許(きよ)。」
 貞世の道ゆきぶり、厳島詣(いつくしままうで)の記、勝俊の九州道の記、いづれも原文が引いてあるが、詞多きを以て此に載せない。
 第三十日。「十九日卯時発。沼田川を渡り入野山中を経小野篁(たかむら)の郷(きやう)なり。辰後一里半田万里市(たまりいち)。堀内庄兵衛の家に休す。主人みづから扇箱(せんさう)と号す。常に広島城市に入て骨董器を売る。頼兄弟及竹里みな識ところなり。山中を出て松原あり。未前二里半西条駅。(一名西条四日市。)小竹屋庄兵衛の家に次(やど)る。此駅小吏余輩を迎ふるに小紙幟上姓名を書して持来轎前(けうぜん)に在て先導す。駅東三四町国分寺あり。行尋ぬ。当光山金岳寺といふ。真言宗なり。旧年災(わざはひ)にかかりて古物存するものなし。茅葺仁王門あり。金剛力士は雲慶の作といふ。松五本ありて五輪塔存す。これ聖武の陵(みさゝぎ)なりといふ。此日暑甚し。晩間霎雨(せふう)あり。暑少減ず。夜三更青木新四郎使を来らしむ。僕林助といふ。行程四里許。其二里は五十町一里也。」
 小野篁の郷の条に、蘭軒は又貞世の道ゆきぶりを引いてゐる。「此ところはむかし小野の篁の故郷とぞ、やがてたかむらともをのとも申侍るとかや」の語がある。
 第三十一日は蘭軒が広島の頼氏を訪うた日である。「廿日卯時発。半里許ゆきて大山峠なり。上下二里許なり。山中をなほ行こと二里許、瀬の尾といふ里ありて上中下に分る。(瀬の尾又瀬野といふ。)山中松樹老古にして渓辺に海金砂(かいきんさ)おほし。(海金砂方言三線葛(さみせんくず)。)平地漸く近して砂川緩流広四五間なり。此に至て山尽く。勝景。貞世紀行妙を得たり。八里半海田(かいた)駅。根石屋十五郎の家に休す。午後なり。駅を出ればすなはち海浜なり。坂を上下して田間の路に就く。青稲漠々として海面の蒼々たるに連る。行こと遠して海いよ/\隔遠す。岩鼻といふ所にいたる。北の山延続し此に至て尽るなり。岩石屹立して古松千尋天を衝く。攀縁して登ときは上(かみ)稍平なり。方丈許席のごとき石あり。其上に坐して望めば南海に至り西広島城下に連(つらなる)。万里蒼波一鬨烟家(こうのえんか)みな掌中にあり。又本途に就き遂に二里広島城下藤屋一郎兵衛の家に次(やど)る。市に入て猿猴橋(ゑんこうばし)京橋を過来る。繁喧は三都に次ぐ。此日朝涼、午時より甚暑不堪(じんしよにたへず)。夜風あり。頼春水の松雨山房を訪。(国泰寺の側(かたはら)なり。)春水在家(いへにあり)て歓晤。男子賛亦助談。子賛名襄(のぼる)、俗称久太郎(ひさたらう)なり。次子竹原へ行て不遇(あはず)。談笑夜半にすぐ。月升(のぼり)てかへる。(春水年五十九、子賛二十六。)行程十里許。」
 瀬の尾の条には又貞世の道ゆきぶりが引いてある。中に「もみぢばのあけのまがきにしるきかなおほやまひめのあきのみやゐは」の歌がある。
 蘭軒と春水とは此日広島で初対面をしたのである。

     その四十三

 所謂(いはゆる)松雨山房は春水が寛政元年に浅野家から賜つた杉木小路の邸宅である。是より先春水は浅野家の世子(せいし)侍読として屡(しば/\)江戸に往来した。寛政十一年八月に至つて、世子は江戸に於て襲封した。世子とは安藝守斉賢(なりかた)である。備後守重晟(しげあきら)が致仕して斉賢が嗣いだのである。十二年に春水は又召されて江戸に入り、享和元年に主侯と共に国に返つた。次で二年にも亦江戸に扈随し、三年に帰国した。然るに文化元年の冬病を獲、二年に治してからは広島に家居してゐる。山陽の撰ぶ所の行状に「甲子冬獲疾、明年漸復、自是不復有東命」と書してある。蘭軒は江戸に於て春水と会見する機会を得なかつたので、此日に始て往訪したのである。即ち春水の病の治した翌年である。
 春水は天明元年の冬重晟に召し出された。状に「天明元年辛丑冬、本藩有司伝命、擢為儒員、食俸三十口」と云つてあるのが即是である。其後天明八年戊申と寛政十一年己未とに列次を進め俸禄を加へられた。状に「戊申進班近士(奥詰)、己未更賜禄百五十石、班侍臣列(側詰)」と云つてある。蘭軒が往訪した時の春水の身分は、百五十石の側詰であつた。其後文化四年丁卯と十年癸酉とに春水は又待遇を改められた。状に「丁卯加禄卅石、十年癸酉進徒士将領(歩行頭)之列、職禄百二十石、并旧禄為三百石」と云つてある。春水は三百石の歩行頭(かちがしら)を以て終つたのである。
 山陽の事が紀行に「子賛」と書し又其齢が「子賛二十六」と書してある。山陽の字は子成であつた。或は少時子賛と云ひ、後子成と改めたのであらうか。二十六は二十七の誤又春水の五十九は六十一の誤である。
 会見の日、六十一歳の春水は三十歳の蘭軒を座に延(ひ)いて□待し、二十七歳の山陽が出でて談を助けた。
 ※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-85-上-6]詩集に「宿広島、訪春水頼先生松雨山房、歓飲至夜半」として一絶がある。「抽身□隊叩間扉。雨後園松翠湿衣。月下問奇宵已半。艸玄亭上酔忘帰。」
 わたくしは此会見が春水蘭軒の初対面だと云ふ。これは確拠があつて言ふのである。客崎(かくき)詩稿に蘭軒が春水の弟春風に逢つた詩があつて、其引首と自註とを抄すれば下(しも)の如くである。「安藝頼千齢(名惟疆)西遊来長崎、訪余居、(以下自註、)其兄春水、余去年訪其家而初謁、其弟杏坪旧相識于東都、千齢今日方始面云」と云ふのである。是に由つて観れば、春水春風杏坪(きやうへい)の三兄弟の中で、蘭軒が旧く江戸に於て相識つたのは杏坪だけである。只其時日が山陽の伊沢氏に来り投じたのと孰(いづれ)か先孰か後なるを詳(つまびらか)にすることが出来ない。次で蘭軒は文化三年に春水を広島の邸宅に往訪し、最後に四年に春風を長崎の客舎に引見したのである。春風の九州行は春水が「嗟吾志未死、同遊与夢謀、到処能報道、頼生已白頭」の句を贈つた旅である。
 しかしこれは蘭軒と頼氏長仲季(ちやうちゆうき)との会見の時日である。その書信を通じた前後遅速は未だ審(つまびらか)にすることが出来ない。
 松雨山房の夜飲の時、蘭軒の春水に於けるは初見であるが、山陽は再会でなくてはならない。わたくしは初め卒(にはか)に紀行の此段を読んで、又微(すこ)しく伊沢氏が曾て山陽を舎(やど)したと云ふ説を疑はうとした。それは「男子賛亦助談、子賛名襄、俗称久太郎なり」の数句が、故人を叙する語に似ぬやうに覚えたからである。しかし更に虚心に思へば、必ずしもさうではなからう。春水との初見も、特に初見として叙出しては無い。春水も山陽も、此紀行にあつては始て出づる人物である。父は已に顕れた人物だから名字を録することを須(もち)ゐない。子は猶暗い人物だから名字を録せざることを得ない。此の如くに思惟すれば、此疑は釈(と)け得るのである。
 且山陽の伊沢氏と狩谷氏とに寄つたのは、山陽の経歴中暗黒面に属する。品坐の主客は各(おの/\)心中に昔年の事を憶ひつつも、一人としてこれを口に出さずにしまつたと云ふことも、亦想像し得られぬことは無い。
 わたくしは既に述べた諸事実と、後に引くべき茶山の手柬(しゆかん)とに徴して思ふ。伊沢氏と頼菅二氏とは、縦(たと)ひいかに旧く音信を通じてゐたとしても、山陽が本郷の伊沢氏に投じたのは、春水兄弟や茶山に委託せられたのでは無からう。山陽自己がイニチアチイヴを把握したのであらう。そして身を伊狩(いしう)の二家に寄せた山陽の、寓公となり筆生となつた生活は、よしや数月の久しきに亘つたにしても、後年に至るまで関係者の間に一種の秘密として取り扱はれてゐたのであらう。
 蘭軒が春水を訪うた日に、偶(たま/\)竹原に往つてゐて坐に列せなかつた「次子」は、春水の養子権次郎元鼎(げんてい)である。

     その四十四

 蘭軒が旅行の第三十二日は文化三年六月二十一日である。「廿一日五更発す。城下市街をすぐるに数橋を経たり。みな砂川の大なるに架す。田路(たみち)に至て海浜に出づ。一小山あり。轎夫脚を愛して海中潮斥(てうせき)の処を行く。又松樹千株の海浜山上を経て二里廿日市。宇佐川文好の家に休す。主人痛風截瘧(せつぎやく)の二方を伝ふ。駅に山あり。屈曲盤回(はんくわい)して上る。海上宮島を望こと至て近がごとし。此山を桜尾と名く。又篠尾山と名く。菅神祠(くわんじんし)あり。山伏正覚院といふもの居住す。文好云。寿永年間桜尾周防守(周防国桜尾城主)近実(ちかざね)といふ者天神七代を此山に祀(まつる)。年歴久(ひさしう)して天満天神の祠となすのみ。時正巳なり。上村源太夫鈴木順平藤林藤吉石川五郎治及余五人舟にて宮島にいたる。海上二里間風なく波面席のごとし。午後宮島にいたる。祭事後故に市商甚盛なり。千畳敷二畳に上(のぼつ)て酒肴を喫。勝景、源貞世、近来水府長赤水(ちやうせきすゐ)説こと甚詳(つまびらか)なり。已未後。船に乗じて海上一里久波駅。醸家沢本屋吉兵衛の家に次(やど)る。主人池田瑞仙と知己なりといふ。駅長の園臥竜松長延十三四間なるあり。此日暑甚し。夜海中の塩火を見る。行程六里許(きよ)。」
 宮島の事は蘭軒自ら記せずして、貞世の道ゆきぶりと赤水の長崎紀行とを引いてゐる。道ゆきぶりの文にはあたとと云ふ地名の下に歌がある。「島守にいざこととはむ誰がためになにのあたとと名にしおひけむ。」
 長赤水は長久保氏、名は玄珠、字(あざな)は子玄、通称は源五兵衛である。著書中に長崎紀行と長崎行役日記とがある。長崎紀行に日本の三大市といふことがある。六月十七日安藝宮島の市、三月二十四日下の関阿弥陀寺の市、八月十五日豊後浜の市である。「中にも此宮島第一なりとぞ」と云つてある。又童謡が載せてある。「安藝の宮島めぐれば七里浦が七浦七えびす。」七浦は杉野、腰細、青海苔、山白、洲屋(すや)、御床(みとこ)、網である。七えびすは昔佐伯部の祀つた神ださうである。
 池田瑞仙は初代錦橋であらう。此年七十二歳であつた。
 詩。「厳島。棹子占風告艤船。張帆数里忽飛然。廻廊曲院蒼波浸。尖塔危楼翠樹連。華表一※[#「隻+隻」、7巻-87-下-12]離岸立。燈籠百八繞簷懸。治承姦相修斯宇。土俗于今却説賢。又。厳島延回七里強。浦居蜑戸市居商。豈知波浪無辺地。別有人烟如此郷。□鹿馴童眠石岸。吟猿送客下松岡。昔年帝裂蓬莱半。封得霊姫鎮一方。」
 第三十三日。「廿二日卯時発。駅を出る所昔の黒河なり。一山路をさけて潮斥の処を行く。漁家両三軒ありて山下海岸に倚る。海面朝靄蒼茫として宮島あたたしま壁島隠見す。小瀬川を渡る。周防の国界なり。国史に大竹川を分て周防国とすとあるは此川をいふ歟。川を渡るところ木柱一株をたつ。書して云。「自小瀬至赤間三十六里」と。此国毎里に程を記することかくのごとし。関戸の山路に入り三里関戸駅。(山中の村なり。)中屋重五郎の家に休す。一山をすぐれば多田といふ所あり。少く坦道を経て御庄川を渡る。里人に岩国山をとへば此川南の松山にして今城山といふ所なりと答ふ。柱野をすぎ入山の山路にいる。渓谷相分れて坂梯甚嶮なり。すべて雑樹なし。老松多して鬱葱たり。谷間の道甚長し。土人一に馬鹿谷(ばかだに)といふ。城主より撫院迎接の為に山上に茶亭を作る。皆松枝(まつがえ)青葉を束(つかね)て樊籬屋店(はんりをくてん)を作る。欽明寺坂を下りて四里久賀本郷駅なり。駅の南に嵯峨として聳たる嶺見ゆ。夫木(ふぼく)集中に詠ずる冰室(ひむろ)ならんか。土人冰室が嶽といふ。(夫木集に、周防氷室池詠人不知、こほりにし氷室の山を冬ながらこちふく風に解きやしぬらむ。)半里高森駅。愛宕屋与三郎の家に宿す。此日午後驟雨微涼。晩間暑はなはだし。夜尤甚し。行程七里半許。」
 黒河、小瀬川及岩国山の下に貞世(さだよ)の道ゆきぶりが引いてある。岩国山の歌が三首ある。「とまるべき宿だになきを駒なづむいはくに山にけふやくらさむ。たちかへり見る世もあらば人ならぬ岩国山を我友にせむ。たらちねのおやにつげばやあらしてふいは国山をけふはこえぬと。」小瀬川一名大竹川の所に所謂国史は続日本紀である。

     その四十五

 第三十四日は文化三年六月二十三日である。「廿三日卯時発す。二里今市駅。呼坂(よびざか)を経るに人家街衢をなす。撫院河内屋藤右衛門といふものの家に小休す。薬舗なり。蔵書数千巻を曝す。主人他に行故をもつて閲(けみ)することを不許(ゆるさず)。呼坂は蓋(けだ)し昔にいふところの海老坂なり。松山峠を経二里久保田駅(一名久保市)なり。二十八町花岡駅。山崎屋和兵衛の家に休す。主人手みづから比目魚(ひもくぎよ)を裁切して蓼葉酢(りくえふさく)に浸し食せしむ。味(あじはひ)最妙なり。山路を経るに田畝望尽(のぞみつき)て海漸く見(あらは)る。廿五町久米駅。廿四町遠石(とほいし)駅なり。右の岡上八幡の祠あり。又市中影向石(えいかういし)といふものあり。大石なり。上に馬蹄痕あり。土人の説に古昔宇佐八幡の神飛び来(きたつ)て此石上にとゞまるなりといへり。貞世紀行には此石海中にある文見ゆ。桑田碧海の歎おもふべし。人家の所尽て松原なり。青田瀰望また列松数千株めぐれり。松外は大海雲晴遠島飛帆その間に隠見す。半里野上駅。すなはち徳山城下なり。鶴屋新四郎の家に小休す。城此をはなるゝこと十町許(きよ)なり。浅井金蔵谷祐八(金蔵字(あざなは)子文祐八字子哲徳山の臣なり)のことを物色するに、みな安寧なりといへり。海面に佐島大山島を望。一里十二町富田駅にいたる。駅は山の半腹なり。山東南に面して海中に出るがごとし。海面は遠山延繚して中断し水天一色なり。海に傍(そ)ひたる坂をめぐりくだるとき、已夕陽紅を遠波にしきたり。やち川を渡り十九町福川駅。米屋七五郎の家に宿す。此駅より海面に島々見ゆる中に、せん島黒髪山島尤大なり。此日暑甚しけれども風あり。此日立秋なり。行程八里廿四町許。」
 貞世の道ゆきぶりを引くもの凡そ三箇所である。呼坂、遠石、富田が是である。呼坂は貞世が海老坂と書いてゐる。遠石の馬蹄を印した石は、貞世が過ぎた時まだ「浜の汐干のかた遙なる沖に」あつた。富田の浦から見える島々の中に、厳島といふ島もあつたと、貞世は記してゐる。
 詩。「宿福川駅、此日立秋。涼□水国早知秋。聒耳驚濤鳴枕頭。櫓響暗帰漁浦岸。燈光未寐酒家楼。短宵強半眠難熟。遠旅多般疾是憂。我已倦兮僕其※[#「やまいだれ+甫」、7巻-90-上-3]。経過十有二三州。」旅疲が詩の後半に見えてゐる。「疾是憂」とは云つても、猶幸に疾(や)むには至らなかつたらしい。
 第三十五日。「廿四日卯時発。一里矢地駅。一里半富海(とのみ)(一名戸(と)の海(み))駅なり。駅尽(つきて)山路にかかる。浮野嶢(うきのたうげ)といふ。すべる所、望む所、貞世紀行尽せり。山陽道中第一の勝景と覚ゆ。一里浮野駅。一里宮市駅。三倉屋甚兵衛の家に休す。佐南嶢(さなたうげ)といふ所をすぐ。山海園村の勝尤よし。富海山道に比するに路短しとす。金坂峠岩淵大とう村末村をへて四里半小郡(をごほり)駅。麻屋弥右衛門の家に宿す。居北に山を望南田畝平遠なり。庭前蓮池あり。荷葉傘(からかさ)のごとく花は径(わたり)八九寸許。白花多して玉のごとし。此日暑甚しからず。行程八里許。」
 浮野峠の下(もと)に又貞世の道ゆき振が引いてある。橘坂桑の山の歌各(おの/\)一首がある。「あら磯のみちよりもなほ足曳のやま立花の坂ぞくるしき。花すゝきますほの糸をみだすかな賤がかふこの桑の山風。」欄外に森枳園(きゑん)の筆と覚しき書入がある。「此あたりに佳境ありてむかしより詩歌にも人口にもあらはれざりしを、近比(ちかごろ)江戸人見出して絶景なりとし、はるかに大田南畝などに詩をつくらしむ。それより土人もしりて詩を諸方に乞ふ。此に引ところを見れば近世すでに賞せられしと見えたり。あるひは別に一嶺の佳処ありや。」此に引くところとは道ゆきぶりの語を謂ふのである。
 詩。「富海途中。天容海色望悠々。浮碧一桁豊後州。曲岸吾過東畔去。前人已在水西頭。小郡駅逆旅、池蓮盛開、花葉頗大、都下所未見、応主人需賦。芙※[#「くさかんむり/渠」、7巻-90-下-14]清沼遍。香気帯秋寒。葉是青羅傘。花為白玉盤。飜風声策々。経雨露溥々。剰有新肥藕。採来供晩餐。」

     その四十六

 第三十六日は文化三年六月二十五日である。「廿五日卯時発す。山路を経るに周防長門国界の碑あり。二里半山中駅なり。二又川を渡り二里半舟木駅。櫛屋太助の家に休す。売櫛家(くしをうるいへ)多し。土人説に上古此地に大なる樟木(くすのき)あり。神功皇后の三韓を征する時艨艟四十八艘を一木にて造れり。因て船木と名(なづ)く。其枝の延し所を涼木(すゞき)といひ(船木より四里)木末(こずゑ)の倒し所を木の末といふ。(船木より六里。)此近地より出る石炭は古樟の木片なるべし。木の末今は清末(きよすゑ)とあやまるといふ。船木川を渡り、くしめ坂を越え一里半浅市駅。福田より蓮台にいたる間美田長し。朝野弥太郎の千町田(ちまちだ)といふ。一里廿八町吉田駅。山城屋重兵衛の家に宿。此日暑不甚。行程八里許(きよ)。」船木の伝説は諸書に見えてゐる。宗祇の道の記にもある。
 第三十七日。「廿六日卯時発す。豊浦を経(豊浦は長府に神功皇后の廟ある故蓋(けだし)名くる也)海辺の松原をすぎ一里卯月駅なり。榎松原をすぐれば海上に干珠満珠島見ゆ。一里半長府。松屋養助の家に休す。蓮藕(れんぐう)を食せしむ。味(あぢはひ)尤妙なり。しかれども関東の柔滑と自異なり。神功皇后廟あり。頗荘麗なり。左に武内宿禰を祀り右に甲良玉垂神(かふらたまたれのかみ)を祀る。小祠甚多し。西に面し海を望て建つ。側に大樹松。囲(めぐり)三人抱余なり。皇后征韓の時手栽(てづからうゑ)て、もし凱陣ならば蒼栄すべし、しからずんば枯亡せよといへり。その松なりと土人の説なり。貞世の説と異なり。舞台もあり。(余童子のとき匠人金次といふもの長府侯江戸の邸第(ていてい)補修のとき長府二の宮舞台のはふのごとくなれと好のよし語れり。今目のあたり見ることを得たり。)此宮は長府の二の宮にて一の宮は此より一里北に住吉の神をまつると也。大内義隆(よしたか)造作の古宮(ふるみや)なりといへり。竜宮より奉る鐘ありといへり。又神功寺(真言宗)といふ寺二の宮の鳥居の側にあり。是亦義隆創立なりしが旧年火ありて今は一小寺なり。前田といへる山崖の海浜をすぐ。松樹万株連りて雑樹なし。図後に附す。壇の浦に至る。豊前の山々一眼にありて甚近がごとし。漁家千戸道路狭し。阿弥陀寺に詣(いた)る。寺僧先導して観しむ。安徳帝の陵上に廟を造て帝の木像を立。十年已前までは素質なるを近年彩色を加ふといふ。左右の障子に二位女公内侍より以下平戚(へいせき)の像を画く。古法眼元信の筆蹟なり。又廟廡金紙壁に平氏西敗の図あり。土佐光信の筆蹟なり。後山に入水平戚(じゆすゐへいせき)の塔あり。此寺古昔大内義隆の所造(つくるところ)なり。しかるを近年修補せり。寺を出て亀山八幡に詣る。一小岡にして海に臨(のぞみ)涼風灑(そゝぐ)がごとし。土人の説に聖武帝の貞観元年に宇佐より此地に移し祀といへり。是亦大内義隆の所造なり。舞台上より望ときは小倉内裏より長府の洋面に至まで一矚の中にあり。遂に二里下の関川崎屋久助の家に宿。地形は貞世の紀行尽せり。大坂より已来尾の道大輻湊の地なれども赤馬関は勝ること万々ならん。此日暑甚しからず。行程五里許。」
 神功皇后廟と馬関との下に又貞世の道ゆきぶりが引いてある。皇后手栽の松を記する本文に接して、「貞世の説と異なり」と云つてあるが、道ゆきぶりには松の事は言つて無い。貞世の文中皇后征韓の事に関するものは下(しも)の如くである。「壇のうらといふ事は皇后のひとの国うち給ひし御とき祈のために壇をたてさせ給ひたりけるよりかく名けけるとかや申也。其時の壇の石にて侍るとて御社(みやしろ)の前のみちの辺にしめ引まはしたる石あり。此御社はあなと豊浦の都の大内の跡にて侍とかや。」馬関の条(くだり)は貞世の文が長いから、此に省く。大要はかうである。昔馬関と門司が関との間には山があつて、其山に「潮の満干の道ばかり」の穴があつた。皇后が艤(ふなよそほひ)せさせ給うた後、一夜の程に山が裂けて速鞆(はやとも)のせととなつたと云ふのである。此伝説と穴門(あなと)の語とが後人の議論に上つたことは人の知る所である。
 詩。「赤馬関。瀕海商船会。既庶而且豊。寺存安徳廟。山古応神宮。蟹甲成奇鬼。硯材如紫銅。数家娼妓在。漫学浪華風。」

     その四十七

 第三十八日は文化三年六月二十七日である。「廿七日暁より雨大に降る。風亦甚し。因てなほ川崎屋にあり。一商人平家蟹を携て余にかはんことをすゝむ。乃(すなはち)□子亮蟹譜(ゆしりやうかいふ)に載する蟹殻如人面(じんめんのごと)きものありと称するものなり。午後風収(をさまり)雨霽(はる)。すなはち撫院の船に陪乗す。船大さ十四間幅五六間。柁工(たこう)三十余人。一堂に坐するごとし。少も動揺をおぼえず。撃鼓唱歌して船を出す。巌竜島を経て内裏の岸につき撫院舟より上(のぼつ)て公事あり。畢来(をはりきたつ)て船を出す。日久島をすぐ。石上に与次兵衛といふものの碑あり。豊臣太閤征韓のとき船此洲に膠(かう)して甚危かりし故船頭与次兵衛自殺せしとなり。北方は玄海灘渺々然として飛帆鳥のごとく後島(うしろのしま)はみな盃のごとし。壮雄限なし。日已申時。また大雨遽(にはかに)来り海面暗々たり。しかれども風なし。遂三里豊前小倉の三門(みかど)に著船す。余船主に乞て唱歌を書せしむ。黄帝といふ曲なり。小倉伊賀屋平兵衛の家に宿す。主人一書巻を展覧せしむ。黄檗(わうばく)福巌鉄文(ふくがんてつぶん)といふ元禄年中の僧の書なり。遒勁(いうけい)運動看るに足れり。此地亦一湊会なれども遠く赤馬関に不及。此日雨によりて涼し。海上三里許(きよ)。」
 註に所謂黄帝(くわうてい)の曲が載せてある。貨狄(くわてき)と云ふものが蜘蛛の木葉に乗るを見て舟を造り、黄帝に献じたと云ふ伝説を叙したものである。詞の初に三叉(みつまた)、駒形、待乳山の地名を挙げ、「見れば心もすみ田川流に浮ぶ一葉の舟の昔は」と云つて、舟の由来に入る。末に「此外に数曲ありといへり、撫院の云、文中に東都の地名あれば東都御舟歌ならんと、定て然らん」と云つてある。
 詩。「赤馬渡海、海雨驟至。長州絶海是豊州。撃鼓揚帆進鷁頭。玄海北連千万里。宝珠東現一※[#「隻+隻」、7巻-94-上-5]洲。風迎驟雨瀟々至。潮浸低雲闇々流。縦得呉児能踏浪。駆来許怒水神不。」※洲(さうしう)[#「隻+隻」、7巻-94-上-7]は干珠満珠の二島である。
 第三十九日。「廿八日卯時発す。豊筑の界及純素の城墟を経て海の入る処あり。くきの浦といふ。二里卅一丁黒崎駅。植松屋三郎兵衛の家に休す。二里卅四丁木屋(こや)の瀬。三輪屋久兵衛の家に宿す。此日午後風ありて小雨降。大に涼し。行程六里許。」純素の城墟は未だ考へない。
 第四十日。「廿九日卯時発す。能方(のうかた)川を渡り岩はな堤を経て小竹堤を行く。望ところ連山垣墻(ゑんしやう)のごとく東南に突兀(とつこつ)たる山あり。香春山(かはらやま)といふ。(春はらと訓(よむ)又同国に原田(はるた)といふ所あり、原をはると訓す、ゆゑ未詳(いまだつまびらかならず)。)一山みな黄楊(つげ)のみといへり。五里飯塚駅。伊勢屋藤次郎の家に休す。此駅天満宮及納祖八幡の祠あり。此日祇園祭事ありて大幟をたつ。「神道以祈祷為先、冥加以正直為本」の十四字を大書せり。亦一奇なり。未時雨大来。泥濘を衝て三里半内野駅。青山元貞(げんてい)の家に宿。此日涼し。行程八里許。」
 詩。「内野駅田家。茅茨半破竹扉斜。雨滴籬笆豌豆花。野犢随童過曲径。村□驚客去隣家。」

     その四十八

 第四十一日は文化三年七月朔(ついたち)である。「七月朔日(ついたち)四更に発す。冷水(ひやみづ)峠を越るに風雨甚し。轎中唯脚夫の□(つゑ)を石道に鳴すを聞のみ。夜明て雨やむ。顧望(こばうする)に木曾の碓冰(うすひ)にも劣らぬ山形なり。六里山家(やまが)駅。一商家(米家五兵衛)に休。日午なり。駅中に石を刻して蛭子神(ひるこのかみ)を造りて街頭に立つるあり。(宰府辺にいたるまで往々有り。)駅を離れて六本松の捷径を取り小礫川(せうれきせん)に傍(そう)て行く。右の方に巍然たるものは法満山(はふまんざん)なり。古歌に詠ずる所筑前第一の高山なり。古名竈山(かまどやま)といふ。寺院廿五房ありともいへり。天正年間には高橋某城を築けり。細川幽斎の紀行に見ゆ。芝山の際(きは)の狭路をすぎて二里大宰府にいたる。染川をすぎて境内に入る。染川まことに小流なり。天正年間すらすでにしかり。況や今にいたりてをや。境内に入るときは石鳥居、石橋、二王門、別殿、東西法華堂、薬師堂、浮堂(うきだう)、中門、回廊、本社、神楽堂、鐘楼、文庫等及末社おほし。此祠は延喜五年八月十九日安行僧都(あんぎやうそうづ)に勅定ありて造営あり。数百年を経て兵火のために炎失す。今の神殿は天正年中小早川隆景(たかかげ)筑前国主たるとき境内東西五十三間南北百七十間に定め、本殿は長九間横七間にして南面せり。後年黒田長政此国主たるによりて中門回廊諸堂末社の廃絶を継興す。(信恬(のぶさだ)按ずるに兵火のために炎失せしは天正八年に当れり。)飛梅社前の右にあり。博多画瓢坊(ぐわへうばう)の説に、明応七年兵燹(へいせん)にかかりて枯しを社僧祠官等歌よみて奉りたれば再び栄生せりといへり。其後天正の兵燹にも焚(やけ)しこと幽斎紀行に見ゆ。左に一株の松あり。みな柵を以て囲む。池は心の字の形なり。雁(がん)鴨(かも)□※(けいせき)[#「勅+鳥」、7巻-95-下-7]群集し鯉鮒游泳して人の足声を聞て浮み出づ。島ありて雁の巣ありといふ。三橋を架す。社地は古の安楽寺の地なり。延寿王院(神宮寺といふ)に入りて菅公真蹟を拝観す。双竪幅(さうじゆふく)。「離家三四年。落涙百千行。万事皆如夢。得々仰彼蒼。」〔此詩は杜子美(としび)の詩にして、誤て文草に入れたる論林羅山文集に見えたり。此等は公の古人の詩をかかせ給へるを見て、後人しらずして編集せしなり。賈至(かし)の詩を山谷(さんこく)集に入れし類ならんか。〕毎幅二行字三四寸大にして遵勁瀟灑(いうけいせうしや)たる行書なり。又小楷普門品(せうかいふもんぼん)毎行十七字にして字大(じのおほきさ)五分許(ばかり)楷法厳正なり。日已未後にして寺を出で五里原田駅なり。筑肥界をすぎ二里田代駅。難波屋喜平次の家に宿す。夜已初更なり。駅吏竹秉炬(ちくへいきよ)を持て迎ること里余。俗尤野陋とす。此日午後快晴。大に秋風あり。行程十二里許(きよ)。」
 竈山の条(くだり)に清原元輔の連歌と細川幽斎の九州道の記とが引いてある。元輔連歌。「春はもえ秋はこがるゝかまど山霞も霧も烟とぞなる。」幽斎は此山の沿革を説いてゐる。初め山に竈門山宝重寺(さうもんざんはうぢゆうじ)と云ふ寺があつて、山伏が住んでゐた。そこへ高橋某が城を築いた。後島津氏が岩屋の城を陥れた時、高橋も城を棄てて去り、山伏が又帰り来つたと云ふのである。「立つづく雲を千里(ちさと)のけぶりにてにぎはふ民のかまど山かな。」
 染川の条には歌が四首引いてある。古歌。「染川を渡らむ人のいかでかは色になるてふことのなからむ。」又「染川に宿かる波の早ければなき名立つとも今は恨みじ。」家隆。「山風のおろすもみぢの紅をまたいくしほか染川の浪。」藤孝。「老の波むかしにかへれ染川や色になるてふ心ばかりも。」幽斎の記にも「思ひしにはかはりたる小河のあさき流なり」と云ひ、長嘯子の記にも「水さへかれはてて昔のあとといふばかりなり」と云つてあるを引いて、其末に蘭軒は記した。「信恬按ずるに、此両記幽斎紀行は天正十五年勝俊は天正末つ方也。」
 菅廟の条には蘭軒が幽斎の文を引いて炎上の年を考へてゐる。「幽斎九州紀行は天正十五年豊太閣島津義久を討伐せしときしたがひて九州に下りし紀行なり。其文中に宰府は天神の住給ひし所と聞及しまま見物のためまかりける。彼寺は七とせばかりさき炎上してかたばかりなる仮殿(かりとの)なりと書きたり。すなはち炎上は天正八年に当れり。」
 飛梅の条にも亦幽斎の文が引いてある。「幽斎九州道の記、飛梅も古木は焼てきりけるに若ばえの生出て有を見て、鶯のはねをやとひて飛梅のかごにはいかでのらで来にけむ。」
 詩。「太宰府菅廟。行々筑紫旧山河。更向菅公祠廟過。一樹飛梅遺愛古。数般享祭歴年多。官途事業兼編史。謫地風光入詠歌。天道是非無奈得。聖賢従昔易蹉□。」

     その四十九

 第四十二日は文化三年七月二日である。「二日五更発す。一里轟(とゞろき)駅。一里半中原(なかはる)駅。二里神崎駅。小淵清右衛門の家に休す。駅中櫛田大明神祠あり。頗大なり。一里堺原(さかひはら)駅にいたる。無量寿山浄覚寺といへる一向宗の境内に高麗烏(かうらいがらす)あり。常の烏より小にして羽翼端半白し。声鶉に似たり。一に徒烏(いたづらがらす)と名づく。此辺往々ありといへり。形状全く喜鵲(きじやく)と覚。一里半佐賀城下。古河(こが)新内の家に宿す。晩餐の肴にあげまきといふ貝を供す。長さ一寸五分許(きよ)横五六分。味(あぢはひ)烏賊魚(いか)に似たり。佐賀侯より金三方を賜ふ。此日暑不甚。行程六里半許。」わたくしは九州に居ること三年、又其前後に北支那に従征して、高麗烏の鵲(じやく)たること蘭軒の説の如くなるを知つた。
 第四十三日。「三日卯時発す。田間を過るに西南に多羅嶽(たらがたけ)、南に温泉嶽(又雲仙と書)東南に柳川の諸山、東に久留米の山、西南間川上山、北に阿弥嶽、筑前の千振山(ちふりやま)等四面に崔嵬繚繞(さいくわいれうぜう)して雲間に秀突せり。二里牛津駅。二里小田駅なり。駅中道北に巨大の樟木(くすのき)あり。活木(くわつぼく)なり。就て馬頭観音を彫刻せり。半幹(はんかん)也。堂を構て梢葉(せうえふ)その上を蔽庇す。堂の大さ二間余にして観音の像中に満るの大さなり。樹の大なることしるべし。二里成瀬駅。(五十丁一里。)二里塚崎駅。一商家に休す。駅長の家の温泉に浴す。清潔にして味(あぢはひ)淡し。脚気、疝気を愈(いやす)といへり。三里(五十丁一里)嬉野(うれしの)駅。茶屋正兵衛に宿す。此駅毎戸茶商なり。温泉あり。此日秋暑尤甚し。行程九里許。」
 詩。「嬉野。□輿何趨歩。駅程将晩時。山痩多見骨。松老尽蟠枝。芳茗連家売。温泉一洞奇。村人秉竹火。迎我立荒岐。」
 第四十四日。「四日卯時発す。三の瀬村の□(こう)に十囲許(ゐきよの)樟木あり。中空朽(くうきう)の処六七畳席を布(し)くべし。九州地方大樟(たいしやう)尤多しといへども此(かくの)ごときは未見(いまだみず)。江戸を発して已来道中第一の大木なり。三里薗木(そのき)駅(一に彼杵(そのき)と書)なり。駅に出んとする路甚勝景なり。図巻末に附。鶴屋又兵衛の家に休す。三里松原駅。海辺路を経て桜の馬場といふ処あり。桜樹三四丁の列樹なり。花時おもふべし。又松林平にして海を環る二里大村城下。荒物屋三郎兵衛の家に宿す。鏑木雲潭(かぶらきうんたん)(名祥胤、字三吉(あざなはさんきつ)、河西野(かせいや)の次子)大村侯の命によりて今春よりこゝに家居して此夜来訪す。歓晤及暁(あかつきにおよび)てかへる。此日暑甚し。行程八里許。」
 欄外に森枳園(きゑん)の樟の大木の考証がある。樟の木の最大なるものは伊予国越智郡大三島にあると云ふのである。「樟の大樹いよの大三島にあるもの大さ廿八人囲(めぐり)を第一とす。次は廿一人囲、次は十八人囲、この類は極て多し。第一のものは今枯たりと云。」薗木駅の図も例の如く闕けてゐる。
 鏑木雲潭、名字は本文自註に見えてゐる。「河西野の次子」と云つてある。
 河西野は市河寛斎で、其長子が米庵(べいあん)三亥(がい)、次子が雲潭祥胤である。出でて鏑木梅渓の養子となつた。梅渓、名は世胤(せいいん)、字は君冑(くんちう)である。長崎の人で江戸に居つた。梅渓は享和三年二月四日に五十五歳を以て終つた。当時雲潭を肥前国に召致してゐたのは大村上総介純昌(すみよし)である。
 詩。「大村駅舎逢鏑雲潭。松原連古駅。残日照汀洲。忽値同郷客。却添思国愁。図成真海嶽。趣合旧風流。何把東都酒。共談此遠遊。」

     その五十

 第四十五日は文化三年七月五日である。「五日卯時発す。三里諫早(いさはや)。四里矢上(やかみ)駅。一商家に宿す。海浜の駅にして蟹尤多し。家に入り席(むしろ)に上る。此辺より婦人老にいたるまで眉あり。此日暑甚し。晩雨あり。行程七里許。」
 欄外に女子の眉を剃らざる風俗の事が追記してある。「二十年前長崎の徳見某の妻京にゆくとて神辺(かんなべ)駅に宿す。四十許(ばかり)の婦人眉あるを見んとて、四五人其宿にゆき窓に穴して見たるに、眉はなくして他国の人にことならず。後にきけば上方にゆくものはしばらく剃おとすと云。」蘭軒が菅茶山などの話を思ひ出でて枳園(きゑん)に命じて記せしめたものか。
 蘭軒の長崎に著いた旅行の第四十六日は、即ち文化三年七月六日である。「六日卯時発。一里日見(ひみ)峠なり。険路にして天下の跋渉家九州の箱根と名(なづ)く。山を下るとき撫院を迎ふるもの満路、余が輩にいたりても名刺を通じて迎(むかふる)もの百有余人なり。無縁堂一の瀬八幡をすぎ長崎村桜の馬場新大工町馬町勝山町八百屋町を経て立山庁邸にいたり、午後寓舎に入る。此日暑甚し。行程三里許(きよ)。」
 長崎奉行の役所は初め本博多町の寺沢志摩守広高が勤番屋敷址にあつた。これを森崎に移したのが寛永十年である。寛文十一年に至つて、岩原郷(いははらがう)立山に地を賜はり、延宝元年に新庁が造られた。これより立山を東役所、森崎を西役所と云ふ。曲淵(まがりぶち)は此立山庁邸に入つたのである。東役所址は今の諏訪公園の南麓県立女子師範学校の辺に当る。
 長崎紀行は此に終る。末に伊沢蘭軒の自署と印二顆とがある。白文は伊沢信恬(のぶさだ)朱文は字澹父(あざなはたんふ)で、澹は水に従ふ字を用ゐてある。
 詩集には長崎に到つた時の作として、長崎二絶、港営(こうえい)、清商館(しんしやうくわん)、蘭商舘各一絶がある。長崎の一首と清商館の作とを此に録する。「長崎。隔歳分知両鎮台。満郷人戸有余財。繁華不減三都会。都頼年々舶商来。清商館。入門如到一殊郷。比屋通街居舶商。西土休誇文物美。逸書多在我東方。」鎮台は奉行である。逸書の七字は蘭軒の手に成つて殊に妙を覚える。
 此より以下客崎(かくき)詩稿中に就いて月日を明にすべきものを拾つて行くことゝする。
 八月十四日に江戸御茶の水の料理店で、大田南畝が月を看て詩を作り、蘭軒に寄せ示した。南畝は長崎の出役を命ぜられたのが二年前であるから、丁度蘭軒と交代したやうなものである。書中には定めて前年の所見を説いて、少(わか)い友人のために便宜を謀つたことであらう。蘭軒が長崎にあつてこれに和した詩は、「風露清涼秋半天」云々の七律である。当時南畝が五十八歳、蘭軒が三十歳であつた。
 十五日には蘭軒が「中秋思郷」の七絶を作つた。「各処歓歌風裏伝。雲収幽岫月皎然。一千里外家山遠。応照団欒内集筵。」
 十七日には月前に詩を賦して江戸の友人に寄せた。「八月十七夜、対月寄懐木駿卿柴担人、去年此夜与両生同遊皇子村、駿卿有秋風一路稲花香句。村店浦笛夜清涼。窓竹翻風月満房。去歳今宵君記否。酔帰郊路稲花香。」駿卿(しゆんけい)は木村定良(さだよし)で前にも見えてゐる。担人(たんじん)は未だ考へない。
 九月の初に蘭軒は病のために酒を断つてゐたらしい。「九日。病余休酒怯秋風。佳節登高興政空。想得萱堂抱穉子。買花乱插小瓶中。」蘭軒の想像した家庭では、五十七歳の母曾能(その)が二歳の常三郎を抱いて菊を活けてゐた。しかし曾能は或は既に病褥にあつたかも知れない。後二月にして客遊中の子を見ること能はずして歿したからである。

     その五十一

 蘭軒が長崎に来た文化三年の九月十三日は後の月が好かつた。「十三夜偶成。瓊浦山環海似盤。参差帆外月輪寒。半宵偏倚南軒柱。抛却許多郷思看。」郷思は容易に抛ち得て尽きなかつたらしい。
 十三夜の詩の次に石崎鳳嶺に次韻した作がある。鳳嶺は千秋亭観月の詩を扇に題して、持つて来て見せた。月日は詳(つまびらか)にすることが出来ぬが、後の月よりは更に後の事であつただらう。「石崎士整与諸子同千秋亭賞月、題詩扇面、携来見示、即次韻。黄□秋醸熟盈瓶。乗月諸賢叩野□。恰好清談親対朗。更教妙画酔通霊。曲渓泉響添幽趣。叢桂花開送遠馨。扇面写来良夜興。新詩標格自亭亭。」士整(しせい)の下に「名融思(なはゆうし)、号鳳嶺(ほうれいとがうす)、観画吏(くわんぐわのり)、善詩画(しぐわをよくす)」と註し、又観画吏の傍(かたはら)に唐画目利(たうゑめきゝ)と朱書してある。
 鳳嶺の事は田能村竹田(たのむらちくでん)の竹田荘師友画録及竹田荘詩話に見えてゐる。画録に云く。「石融思。鎮之老画師也。予相識最旧。与渡辺鶴洲。為書画目利職。掌検閲清舶所齎古今書画。辨真贋定価直事。又鎮台有絵事。則必与焉。如中川侯之清俗紀聞、遠山侯之全象活眼此也。旁善西洋画。其子融済。亦善画。不墜家声矣。」詩話には士整が「士斉」に作つてある。そして「詩非其所長、故不録」と云つてある。竹田は鳳嶺の画を取つて其詩を取らなかつたものと見える。しかし猶これを待つに読書家を以てするを吝(をし)まなかつたことは、「贈瓊浦石崎君」の作に徴して知られる。「聞君踪跡不尋常。杜絶柴門読老荘。三尺枯桐焦有韻。千年古柏朽生香。松花院静落鋪径。※[#「題」の「頁」に代えて「鳥」、7巻-102-上-1]□簾低声入堂。相思魚箋題句了。已看簷隙満蟾光。」
 画録に載(の)する所の鳳嶺が同僚渡辺鶴洲は本(もと)小原氏、京都より長崎に徙(うつ)つた小原慶山の後だと、同じ画録に見えてゐる。しかし屠赤瑣々録(とせきさゝろく)には慶山の子は勘八、其裔(すゑ)は書物目利役某で、鶴洲は只長照寺の慶山の墓を祭つてゐるのだと云つてある。前者は天保四年に成り、後者は早く文政二年に集録したものだと云ふから、晩出の画録に従ふべきであらう。しかし長崎の人の記載に、「小原慶山、又渓山に作る、字は霞光、丹波の人、元禄中長崎絵師兼唐絵目利に任官、其子小原勘八、名は克紹、巴山と号す、聖堂書記役なり」と云つてある。屠赤瑣々録の文も遽に排斥すべきでは無い。竹田は小原、大原と二様に書してゐるが、小原が正しいらしい。
 これも九月中の事であらう。蘭軒は長川正長(ながかはせいちやう)の菊の詩に次韻した。正長、字(あざな)は補仁(ほじん)、観書の吏である。「六月拾遺菊於街上。植之園中。培養得功。遂至季秋。著花黄白両種。香満籬笆。」正長は七絶三首を作り、蘭軒はこれに和したのである。詩は略する。
 十月三日に蘭軒は文筆峰(ぶんひつほう)に登つた。「十月三日登文筆峰、帰路過茂樹六松蓼原諸村」として七絶三首がある。今其一を録する。「登臨文筆最高巓。勝景来供岩壑前。鏡様蒼溟拳様島。卸帆□浙数州船。」茶山の集に「次韻伊沢澹父登文筆峰」として二絶が見えてゐる。「尋石聴禽到絶巓。忽驚大観落尊前。雲濤北擁三韓地。帆席西来百粤船。」「酔対空洋踞絶巓。風帆直欲到尊前。傍人相指還相問。底是呉船是越船。」
 十一月二十二日に江戸で蘭軒の母が歿した。隆升軒信階の妻伊沢氏曾能で、所謂(いはゆる)家附の女(むすめ)である。年は五十七歳であつた。法諡(はふし)を快楽院是参貞如(けらくゐんぜさんていによ)大姉と云ふ。先霊名録には快楽院が快楽室に作つてある。伊沢分家の古い法諡に、軒と云ひ室と云つて、ことさらに院字を避けたらしい形迹のあるのは、伊藤東涯の「本天子脱□之後、居于其院、故崩後仍称之、臣下貴者亦或称、今斗□之人、父母既歿、必称曰某院、尤不可也、蓋所謂窃礼之不中者也、有志者忍以此称其親也哉」と云つた如く俗を匡(たゞ)すに意があつたのではなからうか。
 曾能は歴世略伝に拠るに、一子二女を生んだ。蘭軒と幾勢(きせ)、安佐(あさ)の二女とである。幾勢は蘭軒の姉であるが、安佐は其序次を詳にすることが出来ない。只安佐の生れたのが幾勢より後れてゐたことだけは明である。先霊名録に「知遊童女、隆升軒末女安佐、安永八年己亥十一月」として十日の条に載せてある。安永八年には幾勢は九歳、蘭軒は三歳であつた。末女とあるから幾勢より穉(をさな)かつたことは知られるが、蘭軒と孰(いづれ)か長孰か幼なるを知ることが出来ない。
 曾能の臨終には、定て三十六歳の幾勢が黒田家に暇を請うて来り侍してゐたであらう。これに反して三十歳の蘭軒は三百里外にあつて、母の死を夢にだに知らずにゐた。

     その五十二

 文化四年の元旦は蘭軒が長崎の寓居で迎へた。此官舎は立山の邸内にあつて、井の水が長崎水品の第一と称せられてゐたと云ふことが、徳見□堂(とくみじんだう)を接待した時の詩の註に見えてゐる。
 此年の最初の出来事にして月日を明にすべきものは明倫堂の釈奠(さくてん)である。明倫堂と云ふ学校は金沢、名古屋、小諸、高鍋(たかなべ)等にもあるが、長崎にも此名の学校があつた。山口、倉敷の学校は同じく明倫と名けたが、堂と云はずして館と云つた。わたくしは※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-103-下-12]詩集に於て明倫堂の名を見て、萩野由之(はぎのよしゆき)さんに質(たゞ)し、始て諸国に同名の黌舎(くわうしや)があつたことを知つた。
 長崎の明倫堂は素(もと)立山にあつたが、正徳元年中島鋳銭座址(ちうせんざし)に移された。当時祭酒を向井元仲と云つて、此年に堂宇を重修(ちようしう)することになつてゐた。
 蘭軒は恰も好し春の釈奠の日に会して、向井祭酒を見、又高松南陵の講書を聴いた。
 蘭軒の釈奠の詩は二首あつて、丙寅の冬「聞雪」の作と、丁卯の春徳見□堂に訪はれた作との間に介(はさ)まつてゐる。そこでわたくしはこれを春の釈奠と定めた。釈奠は春二月と秋八月とに行ふもので、上丁(しやうてい)の日に於てする。萩野さんに質すに、朝廷の例が上丁であるゆゑ、武家はこれを避けて中丁とした。しかし往々上丁を以てしたこともあるさうである。わたくしは姑(しばら)く長崎明倫堂の丁卯春の釈奠は中丁を以てしたものと定める。
 さて暦を繰つて見れば、文化四年二月の丁日は五日、十五日、二十五日であつた。中丁は即ち二月十五日である。
 蘭軒は二月十五日に明倫堂に上つて釈奠の儀に列した。「明倫堂釈菜席上贈祭酒向井元仲。瓦屋石階祀聖堂。百年経歴鎮斯郷。遺言総是乾坤則。明徳長懸日月光。匏竹迎神声粛調。粢盛在器気馨香。更忻世業君能継。今歳重修数仞墻。」向井元仲の下に「名富(なはふ)、字大賚(あざなはたいらい)」と註し、又第八の下に「今年有堂宇重修之挙、故云」と註してある。
 向井元仲は霊蘭の裔(すゑ)である。霊蘭元升は肥前神崎郡酒村の人向井兼義の孫であつた。兼義の次男が由右衛門兼秀で、兼秀の次男が霊蘭であつた。霊蘭は薙髪(ちはつ)して医を業としてゐたが、万治元年に京都に徙(うつ)り、伊勢大神宮に詣でて髪を束ねた。霊蘭に五子四女があつた。長子仁焉子元端は一に雲軒と号し、医を以て朝に仕へ、益寿院と称した。長女春は早世した。二子義焉子元淵、名は兼時、小字(をさなな)は平二郎、後俳人落柿舎去来となつた。二女佐世は宇野氏に嫁した。三子礼焉子元成は一に魯町(ろてい)と号して儒となつた。通称は小源太であつた。四子智焉子利文、通称は七郎左衛門、出でて久米氏を嗣いだ。三女千代は清水氏に嫁した。田能村竹田の記に霊蘭の女千子(せんこ)が俳諧を善くしたと云ふのは此人か。五子信焉子兼之は通称城右衛門であつた。四女は八重と云つた。元成は延宝七年に長崎に還り、陸□軒(りくちんけん)南部草寿の後を襲いで、立山の学職に補せられた。元成より兼命元欽を経て兼般元仲に至り、元仲の後兼美、兼哲、兼通、兼雄を経て今の向井兼孝さんに至つたのださうである。
 蘭軒が元仲に贈つた詩の後に、又七律一首がある。「同前席上呈南陵高松先生、是日先生説書。久聞瓊浦旧儒宗。今日明倫堂上逢。霽月光風存徳望。霜鬚仙眼見奇容。詩書講義人函丈。音韻闡微誰比縦。桃李君門春定遍。此身覊絆奈難従。」南陵高松先生の下(しも)に「先生名文熈(なはぶんき)、字季績(あざなはきせき)、於音韻学尤精究、釈文雄(しやくぶんゆう)以来一人也」と註してある。
 竹田詩話に「余遊鎮、留僅一旬、所知唯四人、曰迂斎、東渓、南陵、石崎士斉、而南陵未及読其作」と云つてある。迂斎は吉村正隆、東渓は松浦陶である。南陵は此高松文熈であらうか。
 蘭軒は南陵を以て文雄以来の一人だとしてゐる。文雄の事は細説を須(ま)たぬであらう。磨光韻鏡等の著者で、京都の了蓮寺、大坂の伝光寺に住してゐた。字は豁然(くわつねん)、蓮社と号し、又了蓮寺が錦町にあつたので、尚絅堂(しやうけいだう)と号した。多く無相の名を以て行はれてゐる。

     その五十三

 此年文化四年に蘭軒は長崎にあつて底事(なにごと)を做(な)したか、わたくしはこれを詳(つまびらか)にすることが出来ない。※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-105-下-13]詩集を検するに、その交つた人々には徳見□堂(じんだう)があり、劉夢沢(りうむたく)があり、長川某がある。又春風頼惟疆(しゆんぷうらいゐきやう)の来り訪ふに会した。清人(しんひと)にして蘭軒と遊んだものには、先づ伊沢信平さんの所蔵の蘭軒文集に見えてゐる張秋琴(ちやうしうきん)がある。次に程赤城(ていせきじやう)があり、胡兆新(こてうしん)があると、歴世略伝に見えてゐる。又わたくしが嘗て伊沢良子刀自を訪うて検し得た文書の中に、陸秋実(りくしうじつ)といふものの蘭軒に次韻した詩があり、柏軒門の松田道夫(だうふ)さんの話には江芸閣(こううんかく)も亦蘭軒と交つたさうである。
 徳見□堂、名は昌(しやう)である。「長崎宿老」と註してある。「春日徳見□堂来訪、手携都籃煮茶、賦謝」として七絶一首が集に載せてある。蘭軒の寓舎の井水(せいすゐ)が長崎水品の第一だと云ふことは、此詩の註に見えてゐる。
 劉夢沢は長崎崇福寺の墓に山陽の撰んだ碑陰の記がある。「諱大基。字君美。号夢沢。通称仁左衛門。家系出於彭城之劉。因氏彭城。世為訳吏。君独棄宦。下帷授徒。多従学者。文政三年庚辰十月廿九日病歿。享年四十三。友人藝国頼襄惜其有志而無年也。為識其墓如此。」蘭軒の集には、「劉君美春夜酔後過丸山花街、忽見一園中花盛開、遂攀樹折花、誤墜園中、有嫖子数人来叱、看之即熟人也、君美謝罪而去云、詩以調之」として七絶が二首ある。其一に「謾被誰何君莫怪、仙□旧自識劉郎」の句がある。
 長川某との応酬には、「賦蘭、寿長川翁」の五律がある。上(かみ)に見えた長川正長(せいちやう)と同人か異人かを詳にしない。
 張秋琴には二月に面晤した。蘭軒がこれに与ふる書にかう云つてある。「今年二月詣館中也。訳司陳惟賢引僕見先生。僕層々喜可知。当日戯曲設場。観者群喧。故不得尽其辞。(中略。)夫説書之業。漢儒専於訓詁。宋儒長於論説。而晋唐者漢之末流。元明者宋之余波也。至貴朝。則一大信古考拠之学。涌然振起。注一古書。必讐異於数本。考証於群籍。以僕寡見。且猶所閲。有山海経新校正。爾雅正義。明道板国語札記。大戴礼補註。古列女伝考証。呂覧墨子晏子春秋等校注。是皆不以臆次刪定一字。而讐異考証。所至尽也。不似朱明澆薄之世。妄加殺青。古書日益疵瑕也。只怪未見古医書之有考証者。近年有楓橋周錫□所刻華氏中蔵経。全拠宋本。而其脱文処。由呉氏本補入。毎下一按字以別之。不敢混淆。雖未得考拠之備。蓋信古者也。其他似斯者。亦無見矣。謹問貴邦当時医家者流。於信古考証之学。其人其書。有何等者歟。」わたくしは張の奈何(いか)に答へたかを知らない。蘭軒を張に紹介した陳惟賢(ちんゐけん)も或は清客か。
 程霞生赤城、一字(じ)は相塘(しやうたう)である。屡(しば/\)長崎に来去して国語を解し諺文(げんぶん)を識つてゐた。「こりずまに書くや此仮名文字まじり人は笑へど書くや此仮名」とか云ふ歌をさへ作つた。程の筆迹は今猶存してゐて、往々見ることがあるさうである。
 胡振、字は兆新、号は星池である。医にして書を善くした。江戸の人秦星池(はたせいち)は胡の書法を伝へて名を成したのだと云ふ。「星池秦其馨、書法遒逸、名声日興、旧嘗遊崎陽、私淑呉人胡兆新、遂能伝其訣、独喜使羊毫筆」と五山堂詩話に見えてゐる。山陽と陸如金(りくじよきん)と云ふものとの筆話に胡に言及し、「施薬市上」と云つてある。
 陸秋実の詩箋は、わたくしは一読過して鈔写するに及ばなかつた。
 江稼圃(こうかほ)、芸閣の兄弟は清商中善詩善画を以て聞えてゐたと云ふ。松田道夫さんの話に、蘭軒が筆話の序に、国自慢の詩を書して示すと、程であつたか江であつたか、「江戸つ子ちゆうつ腹」と連呼したと云ふことである。恐くは彼「西土休誇文物美、逸書多在我東方」の一絶であらう。以上の数人の長崎に来去した年月は、必ずや記載を経てゐるであらう。願はくはそれを見て伝聞の確なりや否やを知りたいものである。
 頼春風は蘭軒を立山の寓舎に訪うた。「安藝頼千齢西遊来長崎、訪余客居、喜賦。遊跡遙経千万峰。尋余客舎暫停□。対君今日称奇遇。兄弟三人三処逢。」長春水惟完(ゐくわん)を広島に見、仲春風惟疆を長崎に見、季杏坪惟柔(ゐじう)を江戸に見たのである。
 蘭軒は此年何月に至るまで長崎に淹留(えんりう)したか、今これを知ることが出来ない。その長崎を去つた日も、江戸に還つた日も、並に皆不明である。しかしわたくしは此年八月十九日に蘭軒がまだ江戸にゐなかつたことを知つてゐる。それは後に云ふ所の留守中の出来事が、分明に八月十九日の事たるを徴すべきであるからである。
 既に蘭軒が八月十九日に未だ家に還らなかつたことを知れば、其父信階(のぶしな)が留守中に死んだことも亦疑を容れない。
 蘭軒の父隆升軒信階は此年五月二十八日を以て本郷の家に歿した。其妻に後るゝこと半年であつた。寿を得ること六十四、法諡(はふし)して隆升軒興安信階居士と云つた。蘭軒は足掛二年の旅の間に、怙恃(こじ)併せ喪つたのである。
 信階の肖像は阿部家の画師村片相覧(むらかたあうみ)の作る所で、今富士川游さんの手に帰してゐる。わたくしは良子刀自の蔵する所の摸本を見た。広い□(ひたひ)の隆起した、峻厳な面貌であつたやうである。村片は古□(こたう)と号して、狂歌狂句をも善くしたことが、伊沢分家所蔵の荏薇(じんび)贈答に見えてゐる。
 わたくしは此に上(かみ)に云つた八月十九日の出来事を記すこととする。分家伊沢の人々は下(しも)の如くに語り伝へてゐる。蘭軒の長崎へ往つた留守中に深川八幡宮の祭礼があつて、榛軒(しんけん)の乳母の夫が近在から参詣に来た。蘭軒の妻益は乳母に、榛軒を背に負うて夫と倶に深川に往くことを許した。然るに榛軒は何故か急に泣き出して、いかに慰めても罷めなかつた。乳母はこれがために参詣を思ひ留まり、夫も昼四時(よつどき)前に本郷を出ることを得なかつた。これが永代橋の墜ちた時の事だと云ふのである。

     その五十四

 此年文化四年の深川の八幡宮の祭は八月十五日と定められてゐた。隔年に行はるべき祭が氏子の争論のために十二年間中絶してゐたので、此年の前景気は非常に盛であつた。然るに予定の日から雨が降り出して、祭が十九日に延びた。当日は「至つて快晴」と明和誌に云つてある。江戸の住民はいふもさらなり、近在の人も競つて祭の練物(ねりもの)を看に出た。「昼四時霊巌島の出し練物永代橋の東詰まで来りし時、橋上の往来駢□(へんてん)群集の頃、真中より深川の方へよりたる所三間許(ばかり)を踏崩したり。次第に崩れて、跡より来るものもいかにともする事ならず、いやが上に重りて落掛り水に溺る。」伊沢氏の乳母と夫とは、穉(をさな)い榛軒(しんけん)が泣いたために、此難を免れたのである。当時伊沢氏の子供は榛軒の棠助(たうすけ)が四歳、常三郎が三歳であつた。益は棠助を乳母に託して、自ら常三郎を養育してゐたのであらうか。
 蘭軒は長崎から還つた。其日は八月二十日より後であつた。此時に当つて蘭軒を薦めて幕府の医官たらしめようとしたものがあつた。しかし蘭軒は阿部家を辞するに忍びぬと云つて応ぜなかつた。
 ※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-109-下-10]詩集には客崎(かくき)詩稿の次に、森枳園(きゑん)の手迹と覚しき文字で文化四年丁卯以後と朱書してある。此処に秋冬の詩が三首あつて、此より春の詩に移る。春の詩の中には戊辰の干支を記したものがある。わたくしは姑(しばら)く右の秋冬の詩を此年文化四年帰府後の作として視る。
 蘭軒は八九月の交に病んで、次で病の痊(い)ゆるに及んで、どこか田舎へ養生に往つてゐたかと思はれる。「山園雑興」の七律に、「病余只苦此涼秋」の句がある。
 季冬には蘭軒が全く本復してゐた。十二月十六日は立春で、友人の来たのを引き留めて酒を供した。「此日源士明、木駿卿、頼子善来話。昨来凝雪尚堆蹊。不惜故人踏作泥。□酒交濃忘味薄。瓶梅春早見花斉。欲添炭火呼家婢。更□菜羮問野妻。品定吾徒詩格罷。也評痴態没昂低。」
 源士明(げんしめい)は植村氏、名は貞皎(ていかう)、通称は彦一、江戸の人である。駿卿(しゆんけい)は木村定良(さだよし)、子善(しぜん)は頼遷(らいせん)で、並に前に出てゐる。
 蘭軒雑記に士明の名が見えてゐる。それは或俚諺(りげん)の来歴を語つてゐるのである。「源士明いはく。俗に藪の中香々(かう/\)といふ事あり。人熱田之事をひけどもさにあらず。傭中之佼々(ようちゆうのかう/\)といふ語の転音ならむ」と云ふのである。やぶのなかのこうのものと云ふ語は、古来随筆家聚訟(しうしよう)の資となつてゐる。わたくしは今ことさらにこれを是非することを欲せない。しかし士明の説の如きは、要するに彼徂徠の南留倍志(なるべし)系に属する。此系は今猶連綿として絶えない。最近松村任三さんの語源類解の如きも、亦此源委(げんゐ)の一線上に占位すべき著述である。
 頼家では此年春水が禄三十石を増されて百五十石取になつた。
 文化五年には先づ「春遊翌日贈狩谷卿雲」の二絶がある。想ふに同行翌日の応酬であらう。近郊の花を看て、帰途柳橋辺で飲んだものかと推せられる。但近郊が向島でなかつたことは後に其証がある。「籬落春風黄鳥声。淡烟含雨未酣晴。日長踏遍千花海。晩向垂楊深巷行。」「解語新花奪酔魂。翠裳紅袖映芳尊。朝来総似春宵夢。贏得軽袗飜酒痕。」
 三月中に蘭軒は居を移した。伊沢分家の口碑には、此遷移の事が伝へられてゐない。集に載(の)する二律に「戊辰季春移居巷西」と題してあり、又「巷西□地忽移家」の句もある。新居は旧居の西に当つてゐたが、相距(さ)ること遠からず、或は町名だに変らなかつた位の事であらう。敷地は借地であつた。「借地開園方十歩」の句がこれを証する。家は前より広くなつたが、随つて相応に費用もかかつた。「今歳掃空強半禄、書斎薬室得微寛」の句がこれを証する。

     その五十五

 此年文化五年の夏蘭軒は墨田川に納涼(すゞみ)舟を泛べた。「夏日墨水舟中。抽身忙裏恰逢晴。潮満長江舟脚軽。西土帰来猶健在。復尋鴎鷺旧時盟。又。回風小艇自横斜。夏月遊宜在水涯。蘆岸柳堤行欲尽。一村開遍合歓花。」自註に云く。「余在西崎二年。帰後已一年。此日始来此地。顧思前遊。有如隔世。故云。」蘭軒の長崎行は往つた時が記してあつて、反つた時が記してない。蘭軒は文化三年五月十九日に江戸を発し、七月六日に長崎に著いた。そしてその江戸に帰つたのは四年八月二十日後であつたらしい。さうして見れば蘭軒は十五箇月以上江戸を離れてゐた。十二箇月以上長崎に留まつてゐた。此期間が余り延びなかつたことは、帰府後の秋の詩があるのを見て知られる。今「在西崎二年」と云つてあるのは、所謂(いはゆる)足掛の算法である。又「帰後已一年」と云つてあるのも、十二箇月に満ちた一年とは看做(みな)されない。したがつて切角の自註が考拠上に大(おほい)なる用をばなさぬのである。只前(さき)に狩谷□斎に贈つた此年の春遊の詩が、向島の遊を謂ふのでなかつたことのみは、此に拠つて証せられる。
 夏の詩の後、秋の詩の前に、植村貞皎(ていかう)の大坂に之(ゆ)くを送る詩がある。「源士明将之浪華、臨別詩以為贈。瀕海浪華卑湿郷。為君将道避痾方。酒宜微飲魚無飽。食飼案頭不撤姜。」医家の手に成つた摂生の詩である。
 秋に詩が四首ある。「秋晴」の五律の自註を見るに、此秋は雨のために酒の舟が入らなかつた。「今歳夏秋之際、霖雨数月、酒舸不漕港、以故都下酒価頗貴」と云ふのである。武江年表を検するに、閏(うるふ)六月より八月に至るまで雨が多く、七月二十五日の下に「酒船入津絶えて市中酒なし」と書してある。
「秋園詠所見」の詩の中に藤袴(ふぢばかま)の一絶がある。「蘭草。世上栽蘭各自誇。蜂英菖葉映窓紗。要知楚□真香物。請看簇生浅紫花。」蘭軒は後文政四年に長子榛軒(しんけん)と倶に再び蘭草を詠じた。「蘭花。元是清高楚□芳。細花尖葉露□々。奈何幽致黄山谷。不賞真香賞贋香。」此詩の下(しも)に自註がある。「世以幽蘭。誤為真蘭。西土已然。真蘭俗名布知波加末者是也。白楽天詩。蘭衰花始白。孟蜀韓保昇云。生下湿地。葉似沢蘭。尖長有岐。花紅白色而香。即是合所謂布知波加末者。而山谷云。一幹一花為蘭。是今所謂幽蘭也。世人襲誤。真蘭遂晦。但朱子楚辞辨証云。古之香草。必花葉倶香。而燥湿不変。故可刈佩。今之蘭□。但花香。而葉乃無気。質弱易萎。不可刈佩。必非古人所指。陳間斎亦云。今人所種如麦門冬者。名幽蘭。非真蘭也。朱陳二説。可謂為真蘭禦侮矣。今余詩聊寓復古之意云。」蘭軒と同じく此復古を謀つたものには狩谷□斎がある。「楚辞にいふらには今云ふ藤ばかま今いふ蘭(らに)は何といふらむ」の三十一字は、その嘗て人に答へた作である。しかし此の如く古の蘭草のために冤を洗ふことは、蘭軒□斎等に始まつたのでは無い。単にわたくしの記憶する所を以てしても、貝原益軒の如きは夙(はや)く蘭の藤袴なることを言つてゐた。
 蘭軒は道号に蘭□等の字を用ゐたので、特に蘭草のために多く詞を費すことを厭はなかつたのである。村片相覧(むらかたあうみ)の作つた蘭軒の画像には、背後の磁瓶(じへい)にふぢばかまの花が插してある。村片は信階(のぶしな)信恬(のぶさだ)二世の像を作つた。蘭軒の像の事は重て後に言ふこととする。
 わたくしは※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-113-上-2]詩集に阿部侯棕軒(そうけん)の評語批圏のあることを言つたが、侯の閲を経た迹は此年の秋の詩に至るまで追尋することが出来る。是より以下には菅茶山の評点が多い。
 冬の詩は五首ある、十月には蘭軒が病に臥してゐた。「病中雑詠。空負看楓約。抱痾過小春。酒罌誰発蓋。薬鼎自吹薪。業是兼旬廃。家方一段貧。南窓炙背坐。独有野禽親。」業を廃し□(しよ)を失つたと云ふを見れば、病は稍重かつたであらう。
 蘭軒の病は十一月後に□(い)えてゐた。冬の詩の中には「雪中探梅」の作もある。
 此年蘭軒の家庭は主人三十二歳、妻益二十六歳、嫡子棠助(たうすけ)五歳、次子常三郎四歳の四人から成つてゐた。

     その五十六

 文化六年の春の初には、前年の暮に又病んでゐた蘭軒が回復したらしい。「早春登楼」の詩に「蘇暄身漸健、楼上試攀躋」と云つてある。蘭軒は此(かく)の如く忽ち病み忽ち□(い)ゆるを常としてゐたが、その病める間も大抵学業を廃せず往々公事をも執行してゐた。次年以下の勤向覚書を検すれば、此間の消息を知ることが出来る。
 二三月の交であらう。蘭軒の外舅(ぐわいきう)飯田休庵が七十の賀をした。「歌詠学成仙府調、薬丹伝得杏林方」は蘭軒が贈つた詩の頷聯である。わたくしは休庵が事迹の徴すべきものがあるために、故(ことさら)に此二句を録する。歌詠の句の下に蘭軒は「翁嘗学国歌于亜相冷泉公」と註してゐる。休庵信方(のぶかた)の師は恐くは冷泉為泰(れいぜいためやす)であらう。祝髪後等覚(しゆくはつごとうがく)と云つた人である。
 三月十三日に蘭軒は詩会を家に催した。「三月十三日草堂小集」の七律がある。「会者七人。犬塚印南、頼杏坪、石田梧堂、鈴木暘谷、諸葛某、木村文河、頼竹里也。」
 印南(いんなん)、杏坪(きやうへい)、文河(ぶんか)、竹里(ちくり)は既に上(かみ)に見えてゐる。文河は定良(さだよし)、竹里は遷(せん)である。
 石田梧堂、名は道(だう)、字(あざな)は士道と註してある。秋田の人であらう。茶山集甲子の詩に「題文晁画山為石子道」の七律、丁丑の詩に「次梧堂見寄詩韻兼呈混外上人」の七絶、庚辰の詩に「題石子道蔵松島図」の七古がある。家は不忍池の畔(ほとり)にあつたらしい。
 鈴木暘谷(やうこく)は名は文、字は良知と註してある。皇国名医伝には名は素行と云つてある。博学の人で、殊に本草に精しかつた。読書のために目疾を獲たと伝へられてゐる。
 諸葛(もろくず)某は或は琴台(きんたい)ではなからうか。手近にある二三の書を検するに、琴台の歿年は文化四年、七年、十年等と記してある。七年を正とすべきが如くである。果して然りとすると、此筵に列する後一年にして終つたのである。
 此春蘭軒が柴山謙斎の家の詩会に□(のぞ)んで作つた詩がある。謙斎は其人を詳(つまびらか)にしない。蘭軒の交る所に前に柴担人(さいたんじん)がある。人物の同異未詳である。
 夏の初と覚しき頃、蘭軒は又家を移した。しかし此わたましの事も亦伊沢分家の口碑には伝はつてゐない。「移家湖上。択勝構成湖上家。雨奇晴好向人誇。緑田々是新荷葉。白□々為嫩柳花。烟艇載歌帰遠浦。暮禽連影落平沙。童孫采得※[#「くさかんむり/純」、7巻-114-下-10]糸滑。菜品盤中一雋加。」時は蓮葉の開いて水面に浮び初むる比、所は其蓮の生ずる湖の辺(ほとり)である。或は此家は所謂「湯島天神下薬湯」の家かとも疑はれる。しかし蘭軒の語に分明に「移家」と云ひ、「構成湖上家」と云ふを見れば、どうも薬湯の家とは認め難い。わたくしは姑(しばら)く蘭軒が一時不忍の池の辺に移住したものと看做(みな)して置きたい。但蘭軒は久しく此に居らずに、又本郷に還つたらしい。
 五月七日に蘭軒の師泉豊洲が歿した。年は五十二歳、身分は幕府先手与力(さきてよりき)の隠居であつた。先妻紀(き)平洲の女(ぢよ)は夫に先(さきだ)つて歿し、跡には継室麻田氏が遺つた。紀氏は一男一女を生んで、男は夭し、麻田氏は子がなかつた。
 豊洲は浅草新光明寺に葬られた。伊沢総宗家の墓のある寺である。豊洲の墓は墓地の中央本堂に近い処にある。同門の友人樺島石梁(かばしませきりやう)がこれに銘し、阿部侯椶軒(そうけん)が其面に題した。碑陰に書したものは黒川敬之である。豊洲の墓は幸にして猶存じてゐるが、既に久しく無縁と看做されてゐる。久しく此寺に居る老僕の言ふ所によれば、従来豊洲の墓に香華(かうげ)を供したものはわたくし一人ださうである。
 樺島石梁、名は公礼、字(あざな)は世儀(せいぎ)、通称は勇七である。豊洲が墓には「友人久留米府学明善堂教授樺島公礼銘」と署してゐる。

     その五十七

 此夏、文化六年の夏、蘭軒は石坂白卿(はくけい)と石田士道との家に会して詩を賦した。士道は上(かみ)に見えた梧堂であるが、白卿は未だ考へない。梧堂の居る所は小西湖亭と名づけ、蘭軒の詩にも「門蹊欲転小天台、窓歛湖光三面開」と云つてあるから、不忍池の上(ほとり)であつただらう。若し蘭軒の新に移り来つた湖上の家が同じく不忍池の畔(ほとり)であつたなら、両家は相距(さ)ること遠くなかつたかも知れない。蘭軒が詩の一には「酔歩重来君許否、観蓮時節趁馨香」の句もある。梧堂は恐くは蘭軒と同嗜の人であつただらう。わたくしは「箇裏何唯佳景富、茶香酒美貯書堆」と云ふより此(かく)の如く推するのである。
 茶山の集には此秋に成つた「寄蘭軒」と題した作がある。「一輪明月万家楼。此夜誰辺作半秋。茗水茶山二千里。無人相看説曾遊。」
 秋冬の蘭軒が詩には立伝の資料に供すべきものが絶て無い。しかし次年二月に筆を起してある勤向覚書に徴するに、蘭軒は此年十二月下旬より痼疾の足痛を患(うれ)へて、医師谷村玄□(げんみん)の治療を受けた。谷村は伊予国大洲の城主加藤遠江守泰済(やすずみ)の家来であつた。或はおもふに谷村は蘭軒が名義上の主治医として願届に書した人名に過ぎぬかも知れない。
 頼菅二家に於て、山陽に神辺(かんなべ)の塾を襲がせようとする計画が、漸く萌し漸く熟したのは、此年の秋以来の事である。頼氏の願書が浅野家に呈せられたのが十二月八日、浅野家がこれを許可したのが二十一日、山陽が広島を立つたのが二十七日である。「回頭故国白雲下。寄跡夕陽黄葉村。」
 此年蘭軒は年三十三、妻益(ます)は二十七、嫡子榛軒信厚(しんけんのぶあつ)は六つ、次子常三郎は五つであつた。
 文化七年は蘭軒がために詩の収穫の乏しかつた年である。集に僅に七絶三首が載せてあつて、其二は春、其一は夏である。皆考拠に資するには物足らぬ作である。これに反して所謂(いはゆる)勤向覚書が此年の二月に起藁せられてゐて、蘭軒の公生涯を知るべきギイドとなる。
 正月十日に蘭軒の三男柏軒が生れた。母は嫡室(てきしつ)飯田氏益である。小字(をさなな)は鉄三郎と云つた。
 二月七日に蘭軒は湯島天神下薬湯へ湯治に往つた。「私儀去十二月下旬より足痛相煩引込罷在候而、加藤遠江守様御医師谷村玄□薬服用仕、段々快方には候得共、未聢と不仕、此上薬湯え罷越候はゞ可然旨玄□申聞候、依之月代仕、湯島天神下薬湯え三廻り罷越申度段奉願上候所、即刻願之通山岡衛士殿被仰渡候。」これが二月七日附の文書である。
 蘭軒は二十三日に至つて病愈(い)え事を視ることを得た。「私儀足痛全快仕候に付、薬湯中には御座候得共、明廿三日より出勤仕候段御達申上候。」これが二十二日附である。下(しも)に「翌廿三日出勤番入仕候」と書き足してある。今届と云ふ代に、当時達(たつし)と云つたものと見える。
 夏は蘭軒が健(すこやか)に過したことだけが知れてゐる。「夏日過両国橋。涼歩其如熱閙何。満川強半妓船多。関東第一絃歌海。吾亦昔年漫踏過。」素直に聞けば、余りに早く老いたのを怪みたくなる。しかし素直に聞かずには置きにくい詩である。三十四歳の蘭軒をして此語をなさしめたものは、恐くは其足疾であらうか。
 秋になつて八月の末に、菅茶山が蘭軒に長い手紙を寄せた。此簡牘(かんどく)は伊沢信平さんがわたくしに借してくれた二通の中の一つで、他の一つは此より後十四年、文政八年十二月十一日に裁せられたものである。わたくしは此二通を借り受けた時、些(ちと)の遅疑することもなく其年次を考ふることを得て、大いにこれを快とし、直に記して信平さんに報じて置いた。今先づ此年八月二十八日の書を下に写し出すこととしよう。

     その五十八

 茶山が文化七年八月二十八日に蘭軒に与へた書は下(しも)の如くである。
「御病気いかが。死なぬ病と承候故、念慮にも不掛(かけず)と申程に御座候ひき。今比は御全快奉察候。」
「中秋は十四日より雨ふり、十五日夜九つ過には雨やみ候へども、月の顔は見えず、十六日は快晴也。然るに中秋半夜の後松永尾道は清光無翳と申程に候よし。松永は纔(わづか)四里許の所也。さほどの違はいかなる事にや。蘇子由(そしいう)は中秋万里同陰晴など申候。むかしより試もいたさぬ物に候。此中秋(承候処周防長門清光)松永四里之処にては余り之違に御座候。(其後承候に半夜より清光には違なし。奇と云べし。)海東二千里定而(さだめて)又かはり候事と奉存候。御賞詠いかゞ、高作等承度候。」
「木王園(もくわうゑん)主人時々御陪遊被成候哉。石田巳之介蠣崎(かきざき)君などいかが、御出会被成候はば宜奉願上候。」
「特筆。」
「津軽屋如何(いかゞ)。春来は不快とやら承候。これも死なぬ疾(やまひ)にもや候覧(さふらふらむ)。何様宜奉願上候。市野翁いかが。」
「去年申上候塙書之事(はなはしよのこと)大事之事也。ねがはくは御帰城之便に二三巻宛(づゝ)四五人へ御託し被下候慥に届可申候。必々奉願上候。」
「長崎徳見茂四郎西湖之柳を約束いたし候。必々無間違贈候様、それよりも御声がかり奉願上候。」
「此辺なにもかはりなく候。あぶらや本介(もとすけ)も同様也。久しく逢不申候。福山辺(へんより)長崎へ参候輩も皆々無事也。其うち保平(やすへい)と申は悼亡のいたみ御座候。玄間は御医者になり威焔赫々。私方養介も二年煩ひ、去年漸(やうやく)起立、豊後へ入湯道中にて落馬、やうやく生て還候。かくては志も不遂(とげず)、医になると申候。」
「私方へ頼久太郎と申を、寺の後住(ごぢゆう)と申やうなるもの、養子にてもなしに引うけ候。文章は無※[#「隻+隻」、7巻-118-下-3]也。為人(ひととなり)は千蔵よく存ゐ申候。年すでに三十一、すこし流行におくれたをのこ、廿前後の人の様に候。はやく年よれかしと奉存候事に候。」
「庄兵衛も店を出し油かみなどうり候。妻をむかへ子も出来申候。此中(このちゆう)も逢候へば辞安様はいかがと申ゐ候。」
「詩を板にさせぬかと書物屋乞候故、亡※弟(ばうへいてい)[#「敝/犬」、7巻-118-下-10]が集一巻あまりあり、これをそへてほらばほらせんと申候所、いかにもそへてほらんと申候故、ほらせ候積に御座候。幽霊はくらがりにおかねばならぬもの、あかりへ出したらば醜態呈露一笑の資と存候。銭一文もいらず本仕立は望次第と申候故許し候。さても可申上こと多し。これにて書とどめ申候。恐惶謹言。八月廿八日菅太中晋帥(くわんたいちゆうしんすゐ)。伊沢辞安様。」
「まちまちし秋の半も杉の門(かど)をぐらきそらに山風ぞふく。これは旧作也。此比(ころ)の事ゆゑ書候。」
 以上が長さ三尺許(ばかり)の黄色を帯びた半紙の巻紙に書いた手紙の全文である。此手紙の内容は頗豊富である。そしてそれが種々の方面に光明を投射する。わたくしはその全文を公にすることの徒為(とゐ)にあらざるを信ずる。
 最初に茶山は地の相距(さ)ること遠からずして、気象の相殊なる例を挙げてゐる。此年の中秋には、神辺は初(はじめ)雨後陰であつた。松永尾の道は半夜後晴であつた。周防長門も晴であつた。松永は神辺を距ること四里に過ぎぬに、早く既に陰晴を殊にしてゐた。茶山は宋人(そうひと)の中秋の月四海陰晴を同じくすと云ふ説を反駁したのである。茶山は後六年文化十三年丙子に至つて、此庚午の観察を反復し、その得たる所を「筆のすさび」に記した。丙子の中秋は備中神辺は晴であつた。備前の中で尻海(しりうみ)は陰であつた。岡山は初晴後陰、北方は初陰後晴であつた。讃岐は陰、筑前は晴であつた。播磨は陰、摂津(須磨)は晴、山城(京都)は陰、大和(吉野)は大風、伊勢は風雨、参河(みかは)(岡崎)は雨であつた。観察の範囲は一層拡大せられて、旧説の妄は愈(いよ/\)明になつた。「常年もかかるべけれども、今年はじめて心づきてしるすなり」と、茶山は書してゐる。しかし茶山は丙子の年に始て心づいたのではない。五六年間心に掛けてゐて反復観察し、丙子の年に至つて始てこれを書に筆したのである。わたくしは少時井沢長秀の俗説辨(ぞくせつべん)を愛して、九州にゐた時其墓を訪うたことがある。茶山の此説の如きも、亦俗説辨を補ふべきものである。

     その五十九

 庚午旺秋(わうしう)の茶山の尺牘(せきどく)には種々の人の名が見えてゐる。皆蘭軒の識る所にして又茶山の識る所である。
 其一は木王園(もくわうゑん)主人である。上(かみ)に云つた犬塚印南(いんなん)で、此年六十一歳、蘭軒は長者として遇してゐた。茶山もこれを詳(つまびらか)にしてゐて、一陪字(ばいじ)を下してゐる。頃日(このごろ)市河三陽さんが印南の事は「雲室随筆」を参照するが好いと教へてくれた。
 釈雲室(しやくうんしつ)の記する所を見れば、印南がいかなる時に籍を昌平黌に置いたかと云ふことがわかる。祭酒林家は羅山より鵞峰、鳳岡(ほうかう)、快堂、鳳谷、竜潭、鳳潭の七世にして血脈が絶えた。八世錦峰信敬は富田能登守の二男で、始て林家へ養子にはいつた。市河寛斎は林家の旧学頭関松□(せきしようそう)の門人にして、又新祭酒錦峰の師であつたので、学頭に挙げられた。聖堂は寛斎、八代巣河岸(やよすがし)は松□を学頭とすることとなつたのである。印南は此時代に酒井雅楽頭忠以(うたのかみたゞざね)浪人結城唯助として入塾した。これが田沼主殿頭意知(とのものかみおきとも)執政の間の聖堂である。松□は意知に信任せられて聖堂の実権を握つてゐた。錦峰の実家富田氏は柳原松井町に住んでゐた七千石の旗下であつた。
 尋で田沼意知が死んで、楽翁公松平越中守定信の執政の世となつた。柴野栗山(りつざん)、岡田寒泉が擢用せられ、松□は免職離門の上虎の門外に住み、寛斎も亦罷官の上浅草に住んだ。聖堂は安原三吾、八代巣河岸は平沢旭山が預つた。然るに未だ幾(いくばく)ならずして祭酒錦峰が歿し、美濃国岩村の城主松平能登守乗保の子熊蔵が養子にせられた。所謂(いはゆる)蕉隠公子(せういんこうし)で、これが林家九世述斎乗衡(のりひら)となつた。安原平沢両学頭は罷められて、安原は向柳原の藤堂佐渡守高矗(たかのぶ)が屋敷に移り、平沢はお玉が池に移つた。聖堂は平井澹所と印南とに預けられ、八代巣河岸は鈴木作右衛門に預けられた。後聖堂八代巣河岸、皆学頭を置くことを廃められて新に簡抜せられた尾藤二洲、古賀精里が聖堂にあつて事を視たと云ふのである。
 安原三吾と鈴木作右衛門とは稍(やゝ)晦(くら)い人物である。市河三陽さんは寛斎漫稿の安原希曾(きそう)、安原省叔(せいしゆく)及上(かみ)に見えた三吾を同一人とすると、名は希曾、字(あざな)は省叔、通称は三吾となる筈だと云つてゐる。又同書の鈴木徳輔(とくほ)は或は即作右衛門ではなからうかと云つてゐる。鈴木が後に片瀬氏に更めたことは雲室随筆に註してある。
 此に由つて観れば印南は犬塚、青木、結城、犬塚と四たび其氏を更めたと見える。又昌平黌に於ける進退出処も略(ほゞ)窺ひ知ることが出来る。官を罷めた後の生活は前に云つたとほりである。
 其二は石田巳之助である。茶山蘭軒二家の集に石田道(だう)、字は士道、別号は梧堂と云つてあるのは、或は此人ではなからうか。
 其三は蠣崎(かきざき)氏で、所謂(いはゆる)源波響(げんはきやう)である。此年四十一歳であつた。
 其四の津軽屋は狩谷□斎である。「春来不快とやら」と云つてある。此年三十六歳であつた。
 其五の市野翁は迷庵である。此年四十六歳であつた。
 其六の塙(はなは)は保己(ほき)一である。此年六十五歳であつた。茶山は群書類従の配附を受けてゐたと見える。阿部侯「御帰城の便に二三巻宛四五人へ御託し被下候はば慥に届可申候」と云つてゐる。
 其七の徳見茂四郎は或は□堂(じんだう)若くは其族人ではなからうか。長崎にある津田繁二さんは徳見氏の塋域(えいゐき)二箇所を歴訪したが、名字号等を彫(ゑ)らず、皆単に宗淳、伝助等の称を彫つてあるので、これを詳にすることが出来なかつた。只天保十二年に歿した昌八郎光芳と云ふものがあつて、偶(たま/\)□堂の諱(いみな)を通称としてゐたのみである。徳見茂四郎は長崎から西湖の柳を茶山に送ることを約して置きながら、久しく約を果さなかつた。そこで蘭軒に、長崎へ文通するとき催促してくれいと頼んだのである。
 其八の「あぶらや本介」は即ち油元助(ゆげんじよ)である。其九其十の保平、玄間は未だ考へない。保平はことさらに「やすへい」と傍訓が施してある。妻などを喪つたものか。未だ其人を考へない。玄間は三沢氏で阿部家の医官であつた。「御医者」になつて息張(いば)ると云ふのは、町医から阿部家に召し抱へられたものか。
 其十一の「養介」は茶山の行状に所謂要助万年であらう。わたくしは蘭軒が紀行に養助と書したのを見て、誤であらうと云つた。しかし茶山も自ら養に作つてゐる。既に油屋の元助を本介に作つてゐる如く、拘せざるの致す所である。容易に是非を説くべきでは無い。果して伯父茶山の言ふ所の如くならば、万年の否運は笑止千万であつた。
 茶山の書牘(しよどく)は此より山陽の噂に入るのである。

     その六十

 菅茶山が蘭軒に与へた庚午の書には、人物の其十二として山陽が出てゐる。
 茶山は此書に於て神辺に来た山陽を説いてゐる。彼の神辺を去つた山陽を説いた同じ人の書は、嘗て森田思軒の引用する所となつて、今所在を知らぬのである。二書は皆蘭軒に向つて説いたものであるが、初の書は猶伊沢氏宗家の筐中に留まり、後の書は曾て高橋太華の手を経て一たび思軒の有に帰したのである。
 此書に於ける茶山の口気は、恰も蘭軒に未知の人を紹介するものゝ如くである。「頼久太郎と申を」の句は、人をして曾て山陽の名が茶山蘭軒二家の話頭に上らなかつたことを想はしむるのである。蘭軒は屡(しば/″\)茶山に逢ひながら、何故に一語の夙縁(しゆくえん)ある山陽に及ぶものが無かつただらうか。これは前にも云つた如く、蘭軒が未だ山陽に重きを置かなかつた故だとも考へられ、又江戸に於ける山陽の淪落的生活が、好意を以て隠蔽せられた故だとも考へられる。
 神辺に於ける山陽の資格は「寺の後住と申やうなるもの」と云つてある。茶山が春水に交渉した書には「閭塾(りよじゆく)附属」と云ひ、春水が浅野家に呈した覚書には「稽古場教授相譲申度趣」と云つてあるが、後住の語は当時數(しば/\)茶山の口にし筆にした所であつて、山陽自己も慥にこれを聞いてゐた。それは山陽が築山捧盈(つきやまほうえい)に与へた書に、「学統相続と申て寺の後住の様のものと申事」と云つてあるのに徴して知られる。
 又「養子にてもなしに」の句も等間看過すべからざる句である。前に云つた春水の覚書にも「尤先方家続養子に相成、他姓名乗様の儀には無之」とことわつてある。
 要するに家塾を譲ると云ふことと、菅氏を名乗らせて阿部家に仕へさせると云ふこととの間には、初より劃然とした差別(しやべつ)がしであつた。後に至つて山陽の「上菅茶山先生書」に見えたやうな問題の起つたのは、福山側の望蜀の念に本づく。
 茶山が山陽を如何に観てゐたかと云ふことは、事新しく言ふことを須(もち)ゐない。此書は既に提供せられた許多(きよた)の証の上に、更に一の証を添へたに過ぎない。「文章は無※[#「隻+隻」、7巻-123-下-6]也」の一句は茶山が傾倒の情を言ひ尽してゐる。傾倒の情愈(いよ/\)深くして、其疵病(しびやう)に慊(あきたら)ぬ感も愈切ならざるを得ない。「年すでに三十一、すこし流行におくれたるをのこ、廿前後の人の様に候、はやく年よれかしと奉存候事に候。」其才には牽引せられ、其迹には反撥せられてゐる茶山の心理状態が遺憾なく数句の中に籠められてゐて、人をして親しく老茶山の言(こと)を聴くが如き念を作(な)さしむるのである。
 わたくしは此書を細検して、疑問の人物頼遷が稍明に姿を現し来つたかと思ふ。それは「為人は千蔵よく存ゐ申候」の句を獲たるが故である。千蔵は山陽を熟知してゐる人でなくてはならず、又江戸にゐて蘭軒の問に応じ得る人でなくてはならない。わたくしは其人を求めて、直に遷に想ひ到つた。即ち※斎(かんさい)[#「くさかんむり/姦」、7巻-124-上-3]詩集及長崎紀行に所謂頼遷、字は子善、別号は竹里である。
 然るに載籍に考ふるに、千蔵は頼公遷の通称である。公遷、通称は千蔵別号は養堂として記載せられてゐる。
 是に於て遷即公遷であらうと云ふ木崎好尚さんの説の正しいことが、略(ほゞ)決定したやうに思惟せられる。わたくしは必ずしも頼氏の裔孫の答を待たなくても好ささうである。
 わたくしは姑(しばら)く下(しも)の如くに湊合して見る。「頼公遷、省いて遷とも云ふ、字(あざな)は子善、通称は千蔵、別号は竹里、又養堂。」

     その六十一

 菅茶山の書中には猶其十三庄兵衛と云ふ人物が出てゐる。庄兵衛は茶山の旧僕である。茶山の供をして江戸に往つて蘭軒に識られ、蘭軒が神辺に立ち寄つた日にも、主人に呼ばれて挨拶に出た。書牘(しよどく)は、殆ど作物語の瑣細な人物の落著をも忘れぬ如くに、此庄兵衛の家を成し業を営むに至つたさまをも記してゐる。
 其十四として茶山の言(こと)は所謂(いはゆる)「亡弊弟」に及んでゐる。即ち茶山の季弟恥庵晋宝信卿(ちあんしんぱうしんけい)、通称は圭二(けいじ)である。茶山の行状等には晋宝が「晋葆」に作つてある。
 茶山は書肆に詩を刻することを許すとき、恥庵の遺稿を附録とすることを条件とした。小原業夫(こはらげふふ)の序にも同じ事が言つてある。「先生曰。我欲刻亡弟信卿遺稿。因循未果。彼若成我之志。則我亦従彼之乞。書肆喜而諾。乃斯集遂上木。附以信卿遺稿。」大抵詩を刻するものは自ら貲(し)を投ずるを例とする。古今東西皆さうである。然るに茶山は条件を附けて刻せしめた。「銭一文もいらず、本仕立御望次第と申候故許し候」と云つてある。其喜は「京師書肆河南儀平損金刊余詩、戯贈」の詩にも見えてゐる。「曾聞書賈黠無比。怪見南翁特地痴。伝奇出像人争購。却損家貲刻悪詩。」小説の善く售(う)れるに比してあるのは妙である。小原も亦云つてゐる。「余嘗聞袁中郎自刻其集。幾売却柳湖荘。衒技求售。誰昔然矣。先生之撰則異之。不自欲而書肆乞之。乞之不已。則知世望斯集。不翅余輩。」誰昔然矣(すゐせきよりしかり)は陳風墓門(ちんぷうぼもん)の章からそつくり取つた句である。爾雅(じが)に「誰昔昔也」と云つてある。
 黄葉夕陽村舎詩が附録恥庵詩文草と共に刻成せられたのは文化九年三月である。此手紙は「ほらせ候積に御座候」と云つてあるとほり、上木(しやうぼく)に決意した当時書かれたもので、小原の序もまだ出来てはゐなかつたのである。
 狩谷氏では此年文化七年に□斎の女(ぢよ)俊(しゆん)が生れた。後に同齢の柏軒に嫁する女である。伊沢分家の人々は、此女(ぢよ)の名は初めたかと云つて、後しゆんと更めたと云つてゐる。俊は峻と相通ずる字で、初めたかと訓ませたが、人は音読するので、終に人の呼ぶに任せたのかも知れない。
 多紀氏では此年十二月二日に桂山が歿した。二子の中柳□(りうはん)は宗家を継ぎ、□庭(さいてい)は分家を創した。後に伊沢氏と親交あるに至つたのは此□庭である。
 此年蘭軒は年三十四、妻益は二十八、三子榛軒棠助(しんけんたうすけ)、常三郎、柏軒鉄三郎は長が七つ、仲が六つ、季が当歳であつた。
 文化八年は蘭軒にやすらかな春を齎した。「辛未早春。除却旧痾身健強。窓風軽暖送梅香。日長添得讐書課。亦奈尋紅拾翠忙。」斗柄(とへい)転じ風物改まつても、蘭軒は依然として校讐(かうしう)の業を続けてゐる。
 此年には※[#「くさかんむり/姦」、7巻-125-下-15]斎詩集に、前の早春の作を併せて、只二首の詩が存してゐるのみである。わたくしは余の一首の詩を見て、堀江允(いん)と云ふものが江戸から二本松へ赴任したことを知る。允、字は周輔で、蘭軒は餞するに七律一篇を以てした。頷聯に「駅馬行駄□布帙、書堂新下絳紗帷」と云ふより推せば、堀江は聘せられて学校に往つたのであらう。七八は「祖席詞章尽神品、一天竜雨灑途時」と云ふのである。茶山が「一結難解」と批してゐる。此句はわたくしにもよくは解せられぬが、雨は恐くは夏の雨であらうか。果して然らば堀江の江戸を発したのも夏であつただらう。
 わたくしは又詩集の文化十三年丙子の作を見て、蘭軒が釈混外(しやくこんげ)と交を訂したのは此年であらうと推する。丙子の作は始て混外を見た時の詩で、其引にかう云つてある。「余与混外上人相知五六年於茲。而以病脚在家。未嘗面謁。丙子秋与石田士道、成田成章、太田農人、皆川叔茂同詣寺。得初謁。乃賦一律。」此によつて逆算するに、若し二人が此年に相識つたとすると、辛未より丙子まで数へて、丙子は第六年となるのである。
 混外、名は宥欣(いうきん)、王子金輪寺の住職である。「上人詩素湛深、称今寥可」と、五山堂詩話に云つてある。

     その六十二

 頼氏では此年文化八年の春、山陽が三十二歳で神辺(かんなべ)の塾を逃げ、上方へ奔つた。閏(うるふ)二月十五日に大坂篠崎小竹の家に著き、其紹介状を貰つて小石元瑞を京都に訪うた。次で山陽は帷(ゐ)を新町に下して、京都に土著した。嘗て森田思軒の引いた菅茶山の蘭軒に与ふる書は、此比裁せられたものであらう。当時の状況を察すれば、書に怨□(ゑんたい)の語多きは怪むことを須(もち)ゐない。しかし山陽の諸友は逃亡の善後策を講じて、略(ほゞ)遺算なきことを得た。五月には叔父春風が京都の新居を見に往つた。
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■暇つぶし何某■

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