伊沢蘭軒
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著者名:森鴎外 

     その一

 頼山陽は寛政十二年十一月三日に、安藝国広島国泰寺裏門前杉木小路(すぎのきこうぢ)の父春水の屋敷で、囲の中に入れられ、享和三年十二月六日まで屏禁せられて居り、文化二年五月九日に至つて、「門外も為仕度段(つかまつらせたきだん)、存寄之通可被仕候(つかまつらるべくそろ)」と云ふ浅野安藝守重晟(しげあきら)が月番の達しに依つて釈(ゆる)された。山陽が二十一歳から二十六歳に至る間の事である。疇昔(ちうせき)より山陽の伝を作るものは、皆此幽屏の前後に亘る情実を知るに困(くるし)んだ。森田思軒も亦明治二十六七年の交「頼山陽及其時代」を草した時、同一の難関に出逢つたのである。
 然るにこれに先(さきだ)つこと数年、思軒の友高橋太華が若干通の古手紙を買つた。それは菅茶山(くわんちやざん)が伊沢澹父(いさはたんふ)と云ふものに与へたものであつて、其中の一通は山陽幽屏問題に解決を与ふるに足る程有力なものであつた。
 思軒は此手紙に日附があつたか否かを言はない。しかし「手紙は山陽が方(まさ)に纔(わづか)に茶山の塾を去りて京都に帷(ゐ)を下(くだ)せる時書かれたる者」だと云つてあるに過ぎぬから、恐くは日附は無かつたのであらう。
 山陽は文化六年十二月二十七日に広島を立つて、二十九日に備後国安那郡(やすなごほり)神辺(かんなべ)の廉塾(れんじゆく)に著き、八年閏(うるふ)二月八日に神辺を去つて、十五日に大坂西区両国町の篠崎小竹方に著き、数日の後小竹の紹介状を得て大坂を立ち、二十日頃に小石元瑞(げんずゐ)を京都に訪ひ、元瑞の世話で新町に家塾を開いた。思軒は茶山の手紙を以て此頃に書かれたものと判断してゐたのである。
 茶山の此手紙を書いた目的をば、思軒が下(しも)の如くに解した。「其の言ふ所は、此たび杏坪(きやうへい)が江戸に上れる次(ついで)、君側の人に請うて山陽の事を執りなし、京都より帰りて再び之を茶山の塾に托せむと欲する計画ありとか伝聞し、山陽の旧過を列挙し、己れが山陽に倦みたる所以(ゆゑん)を陳じて以て澹父の杏坪の計画に反対せむことを望みたるなり」と云ふのである。計画とは山陽の父春水等の計画を謂ふ。春水等は山陽の叔父(しゆくふ)杏坪をして浅野家の執政に説かしめ、山陽の京都より広島に帰ることを許さしめむとしてゐる。さて広島に帰つた上は、山陽は再び廉塾に託せられるであらう。しかし茶山は既に山陽に倦んでゐて、澹父をして杏坪を阻(さまた)げしめむと欲するのだと云ふのである。
 此伊沢澹父とは何人(なにひと)であるか。思軒はかう云つた。「澹父の何人なるやは未だ考へずと雖も、書中の言によりて推量するに、蓋(けだし)備後辺の人の江戸に住みて、藝藩邸(げいはんてい)には至密の関係ありし者なるべし」と云つた。
 思軒の「頼山陽及其時代」が出てから十九年の後、大正二年に坂本箕山(きざん)の「頼山陽」が出た。箕山は同一の茶山の手紙を引いて、手紙の宛名の人を伊沢蘭軒だと云つてゐる。わたくしは太華が買つたと云ふ茶山の手紙の行方を知らない。推するに、此手紙はどこかに存在してゐて、箕山さんもこれを見ることを得たのではなからうか。
 わたくしは伊沢蘭軒の事蹟を書かうとするに当つて、最初に昔日(せきじつ)高橋太華の掘り出した古手紙の事を語つた。これは蘭軒の名が一時いかに深く埋没せられてゐたかを示さむがためである。

     その二

 わたくしの知る所を以てすれば、蘭軒の事蹟の今に至るまで記述を経たものは、坂本箕山さんの「藝備偉人伝」中の小伝と、頃日(このごろ)図書館雑誌に載せられた和田万吉さんの「集書家伊沢蘭軒翁略伝」との二つがあるのみである。
 しかし既に此等の記述があるのに、わたくしが遅れて出て、新に蘭軒の伝を書かうとするには、わたくしは先づ白己の態度を極めなくてはならない。わたくしが今蘭軒を伝ふることの難きは、前(さき)に渋江抽斎を伝ふることの難かりし比では無い。抽斎と雖、人名辞書がこれを載せ、陸羯南(くがかつなん)が一たびこれが伝を立てたことがあつた。只彼人名辞書の記載は海保漁村(かいほぎよそん)の墓誌の外に出でず、羯南の文も亦経籍訪古志の序跋を参酌したに過ぎぬに、わたくしは嗣子保さんの手から新に材料を得た。これに反して蘭軒の曾孫徳(めぐむ)さんと、其宗家の当主信平さんとの手より得べき主なる材料は、和田さんが既に用ゐ尽してゐる。就中(なかんづく)徳さんの輯録した所の材料には、「右蘭軒略伝一部帝国図書館依嘱に応じ謹写し納む。大正四年四月八日」と云ふ奥書がある。わたくしは和田さんが材を此納本に取つたことを疑はない。わたくしの新に伊沢氏に就いて、求め得べき材料は、此納本に漏れた選屑(えりくづ)に過ぎない。縦(よ)しや其選屑の中には、大正五年に八十二歳の齢を重ねて健存せる蘭軒の孫女(まごむすめ)おそのさんの談片の如き、金粉玉屑(きんふんぎよくせつ)があるにしても。
 蘭軒を伝ふることが抽斎を伝ふるより難いには、猶一の軽視すべからざる理由がある。それは渋江氏には「泰平千代鑑」と題するクロオニツクがあつて、帝室、幕府、津軽氏、渋江氏の四欄を分つた年表を形づくつてゐるのに、伊沢氏には編年の記載が少いと云ふ一事である。強ひて此欠陥を補ふべき材料を求むれば、蘭軒には文化七年二月より文政九年三月に至る「勤向(つとめむき)覚書」があり、其嗣子榛軒(しんけん)には嘉永五年十月二十一日より十一月十九日に至る終焉の記があるのみである。独り榛軒の養嗣子棠軒(たうけん)は、嘉永五年十一月四日より明治四年四月十一日に至る稍詳密なる「棠軒公私略」を遺し、僅に中間明治元年三月中旬より二年六月上旬に至る落丁があるに過ぎぬが、其文には取つて蘭軒榛軒二代の事跡を補ふべきものが殆無い。
 わたくしは自己の態度を極めたいと云つた。しかし熟(つく/″\)これを思へば、自己の態度を極めることが不可能ではないかと疑ふ。わたくしは少くもこれだけの事を自認する。若しわたくしが年月に繋(か)くるに事実を以てしようとしたならば、わたくしの稿本は空白の多きに堪へぬであらう。徳さんの作つた蘭軒略伝が既に編年の行状では無い。その蘭軒前後に亘つた「歴世略伝」も亦同じである。徳さんの記載に本づいたらしい和田さんの略伝も亦編年では無い。藝備偉人伝は、蘭軒を載せた下巻がわたくしの手許に無いが、同じ著者の「頼山陽」に引いた文を見れば、亦復(またまた)編年では無ささうである。おそのさんの談話の如きは、固(もと)より年月日を詳(つまびらか)にすべきものに乏しい。わたくしは奈何(いかに)して編年の記述をなすべきかを知らない。

     その三

 わたくしはかう云ふ態度に出づるより外無いと思ふ。先づ根本材料は伊沢徳(めぐむ)さんの蘭軒略伝乃至歴世略伝に拠るとする。これは已むことを得ない。和田さんと同じ源を酌まなくてはならない。しかし其材料の扱方に於て、素人歴史家たるわたくしは我儘勝手な道を行くことゝする。路に迷つても好い。若し進退維(こ)れ谷(きは)まつたら、わたくしはそこに筆を棄てよう。所謂(いはゆる)行当ばつたりである。これを無態度の態度と謂ふ。
 無態度の態度は、傍(かたはら)より看れば其道が険悪でもあり危殆(きたい)でもあらう。しかし素人歴史家は楽天家である。意に任せて縦に行き横に走る間に、いつか豁然として道が開けて、予期せざる広大なるペルスペクチイウが得られようかと、わたくしは想像する。そこでわたくしは蘇子の語を借り来つて、自ら前途を祝福する。曰く水到りて渠成ると。
 系譜を按ずるに、伊沢氏に四家がある。其一は旗本伊沢である。わたくしは姑(しばら)く「総宗家」と名づける。其二は総宗家四世正久(まさひさ)の庶子にして蘭軒の高祖父たる有信(ありのぶ)の立てた家で、今麻布鳥居坂町の信平さんが当主になつてゐる。徳さんの謂ふ「宗家」である。其三は宗家四世信階(のぶしな)が一旦宗家を継いだ後に分立したもので、蘭軒信恬(のぶさだ)は此信階の子である。徳さんの謂ふ「分家」で、今牛込市が谷富久町に住んでゐる徳さんが其当主である。其四は蘭軒の子柏軒信道(のぶみち)が分立した家で、徳さんの謂ふ「又分家」である。当主は赤坂氷川町の清水夏雲さん方に寓してゐる信治(のぶはる)さんである。
 総宗家の系図には、わたくしは手を触れようとはしない。其初世吉兵衛正重は遠く新羅三郎義光より出でてゐる。此に徳さんの補修を経た有形(ありかた)の儘に、単に歴代の名を数ふれば、義光より義清、清光、信義、信光、信政、信時、時綱、信家、信武、信成、信春、信満、信重、信守、信昌、信綱、信虎を経て晴信に至る。晴信は機山信玄である。晴信より信繁、信綱、信実、信俊、信雄、信忠を経て正重に至る。正重を旗本伊沢の初世とする。要するに旗本伊沢は武田氏の裔(すゑ)で、いさはの名は倭名抄に見えてゐる甲斐国石禾(いさわ)に本づいてゐるらしい。
 総宗家旗本伊沢より宗家伊沢が出でたのは、初世正重、二世正信、三世正岸(せいがん)を経て、四世正久に至つた後である。系図を閲(けみ)するに、伊沢氏は「幕之紋三菅笠(みつすげがさ)、家之紋蔦、替紋拍子木」と氏の下に註してある。初世吉兵衛正重は天文十年に参河国で生れ、慶長十二年二月二日に六十七歳で歿した。鉄砲組足軽四十人を預つて、千五百五十三石を食(は)んだ。二世隼人正(はいとのかみ)正信は東福門院附弓気多(ゆげた)摂津守昌吉の次男で、正重の女婿(ぢよせい)である。正信は文禄四年に生れ、寛文十年十二月二日に七十六歳で歿した。わたくしの所蔵の正保二年の江戸屋敷附に「伊沢隼人殿、本御鷹匠町(もとおんたかじやうまち)」と記してある。肩には役が記して無い。三世の名は闕けてゐる。只元和七年に生れ、延宝二年六月十六日に五十四歳で歿したとしてある。然るに徳川実記に拠れば、隼人正正信の子は主水正政成(もんどのかみまさしげ)である。延宝中の江戸鑑小姓組番頭中に「伊沢主水正、三千八百石、鼠穴(ねずみあな)、父主水正」がある。即ち此人であらう。
 系図に政成が闕けてゐて稍不明であるが、要するに旗本伊沢は正保中には鷹匠町、延宝以後には鼠穴に住んでゐて、千五百五十三石より三千八百石に至つた。

     その四

 蘭軒の高祖有信が旗本伊沢の家から分れて出た時の事は、蘭軒の姉幾勢(きせ)の話を、蘭軒の外舅(しうと)飯田休庵が聞いたものとして伝へられてゐる。それはかうである。有信は旗本伊沢の家に妾腹の子として生れた。然るに父の正室が妾を嫉(にく)んで、害を赤子(せきし)に加へようとした。有信の乳母(にゆうぼ)が懼(おそ)れて、幼い有信を抱いて麻布長谷寺(ちやうこくじ)に逃げ匿(かく)れた。当時長谷寺には乳母の叔父(しゆくふ)が住持をしてゐたのだと云ふ。乳母の戒名は妙輪院清芳光桂大姉である。
 有信の生れたのは天和元年だと伝へられてゐる。此時旗本伊沢の家は奈何(いか)なる状況の下にあつたか。
 当主は初代正重より四代目の吉兵衛正久であつた。江戸鑑を検するに、襲家の後寄合になつて、三千八百石を食み、鼠穴に住んでゐた。有信が鼠穴住寄合伊沢主水正の家に生れたことは確実である。
 有信が生れた時、父正久が何歳になつてゐたかと云ふことは、幸に系図に正久の生歿年が載せてあるから、推算することが出来る。正久は万治二年に生れ、寛保元年に八十三歳で歿したから、天和元年には二十三歳であつた。
 正久の正室は書院番頭三枝(さいぐさ)土佐守恵直(よしなほ)の女(ぢよ)である。これが庶子に害を加へようかと疑はれた夫人である。
 別に歴世略伝に有信の父と云ふものが載せてあるが、これは正久とは別人でなくてはならない。又有信の実父でありやうがない。其文はかうである。「初代有信、通称徳兵衛、父流芳院春応道円居士、元禄四年辛未五月十八日、二十二歳」と云ふのである。若し流芳院を正久だとすると、此年齢より推せば、寛文十年に生れ、天和元年に十二歳で有信を挙げたことゝなる。按ずるに流芳院は有信の実父ではあるまい。若し有信の実父だとすると、年月日若くは年齢に錯誤があるであらう。
 わたくしは長谷寺に潜んでゐる幼い有信の行末を問ふに先だつて、有信を逸した旗本伊沢、即総宗家のなりゆきを一瞥して置きたい。それは旗本伊沢の子孫が所謂宗家、分家、又分家の子孫とは絶て交渉せぬので、後に立ち戻つて語るべき機会が得難いからである。

     その五

 有信の父旗本伊沢四世吉兵衛正久は、武鑑を検するに、元禄二年より書院番組頭、十四年新番頭、十五年より小姓組番頭、宝永四年より書院番頭を勤め、叙爵せられて播磨守と云ひ、享保十七年には寄合になつてゐた。邸宅は鼠穴から永田馬場に移された。正久は系図に拠るに万治二年生で、寛保元年に八十三歳で歿した。
 五世吉兵衛方貞(はうてい)は系図に拠るに、享保元年生で、明和七年に五十五歳で歿した。宝暦十年の武鑑を検するに、方貞も亦父に同じく播磨守にせられ、書院番頭に進んでゐた。邸宅は旧に依つて永田馬場であつた。
 六世内記方守(ないきはうしゆ)は系図に拠るに、明和四年正月二十七日に生れた。又武鑑に拠るに、寛政六年十月より先手(さきて)鉄砲頭を勤めてゐた。文化の初の写本千石以上分限帳に、「伊沢内記、三千二百五十石、三川岱(みかはだい)」としてある。此後は維新前に至るまで、旗本伊沢は赤坂参河台に住んでゐた。
 七世主水は文化三年より火事場見廻り、文化九年より使番を勤めた。此役が十二年に至るまで続いてゐて、十三年には次の代の吉次郎が寄合に出てゐる。浅草新光明寺に「先祖代々之墓、伊沢主水源政武(もんどみなもとのまさたけ)」と彫(ゑ)つた墓石がある。此主水の建てたものではなからうか。
 八世吉次郎は文化十三年の武鑑に始めて見えてゐる。「伊沢吉次郎、父主水三千二百五十石、三川だい」と寄合の部に記してあるのが是である。此より後文政三年に至るまでの五年間は、武鑑の記載に変更が無い。文政四年には寄合の部の同じ所に、次の代の助三郎が見えてゐる。
 九世助三郎政義は文政四年の武鑑寄合の部に、「伊沢助三郎、父吉次郎、三千二百五十石、三川だい」と記してある。此役が天保二年に至るまで続いて、三年には中奥小姓になつてゐる。六年には叙爵せられて摂津守と称し、猶同じ職にゐる。九年には美作守(みまさかのかみ)に転じて小普請支配になつてゐる。尋(つい)で政義は十年三月に浦賀奉行になつて、役料千石を受けた。十三年三月に更に長崎奉行に遷(うつ)されて、役料四千四百二俵を受けた。そして弘化二年に至るまでは此職にゐた。弘化三年の武鑑が偶(たま/\)手元に闕(か)けてゐるが、四年より嘉永五年に至るまで、政義は寄合の中に入つてゐる。嘉永六年十二月に政義は再び浦賀奉行となり、安政二年八月に普請奉行となり、三年九月に大目附(おほめつけ)服忌令分限帳改(ぶくきりやうぶんげんちやうあらため)となり、四年十二月に江戸町奉行となり、五年十月に大目附宗門改となり、文久三年九月に留守居となり、元治元年七月十六日に此職を以て歿した。法諡(はふし)して徳源院譲誉礼仕政義居士と云ふ。墓は新光明寺にあつて、「明治三十五年七月建伊沢家施主八幡祐観(やはたいうくわん)」と彫(ゑ)つてある。
 徳さんは嘗て「正弘公懐旧紀事」を閲(けみ)して、安政元年に米使との談判に成つた条約の連署中に、伊沢美作守の名があるのを見たと云ふ。これは頃日(このごろ)公にせられた大日本古文書に見えてゐる米使アダムスとの交渉で、武鑑に政義の名を再び浦賀奉行として記してゐる間の事である。文書に拠れば、政義の職は下田奉行で、安政元年十二月十八日の談判中に、「美作守抔(など)は当春より取扱居、馴染之儀にも有之」云々と自ら語つてゐる。
 十世助三郎は慶応武鑑の寄合の部に、「伊沢力之助、父美作守、三千二百五十石、三河だい」と記してある。新光明寺に顕享院秀誉覚真政達居士の法諡を彫つた墓石があつて、建立の年月も施主の氏名も政義の墓と同じである。或は政達が即ち力之助の諱(いみな)ではなからうか。

     その六

 わたくしは或日旗本伊沢の墓を尋ねに、新光明寺へ往つた。浅草広徳寺前の電車道を南に折れて東側にある寺である。
 六十歳ばかりの寺男に問ふに、伊沢と云ふ檀家は知らぬと云つた。其言語(げんぎよ)には東北の訛がある。此爺(ぢゞ)を連れて本堂の北方にある墓地に入つて、街に近い西の端から捜しはじめた。西北隅は隣地面の人が何やら工事を起して、土を掘り上げてゐる最中である。爺が「こゝに伊の字があります」と云ふ。「どれ/\」と云つて、進み近づいて見れば、今掘つてゐる所に接して、一の大墓石が半ば傾(かたぶ)いて立つてゐる。台石は掘り上げた土に埋もれてゐる。
「これは伊奈熊蔵の墓だ、何代目だか知らぬが、これも二千石近く取つたお旗本だ」とわたくしが云つた。爺は「へえ」と云つて少し頭を傾けた。「誰も詣る人はないかい」と云ふと、「えゝ、一人もございません」と答へた。
 伊沢の墓はなか/\見附けることが出来なかつた。暫くしてから、独り東の方を捜してゐた爺が、「これではございませぬか」と呼んだ。往つて見れば前に云つた「先祖代々之墓、伊沢主水源政武」と彫つた墓である。政武は七世主水(もんど)であらうと前に云つたが、系譜一本に拠れば一旦永井氏に養はれたかとも思はれる。墓地の東南隅にあつたのだから、我々は丁度対角の方向から捜しはじめたのであつた。
 此大墓石の傍(かたはら)に小い墓が二基ある。戒名の院の下には殿(でん)の字を添へ、居士の上には大の字を添へた厳(いかめ)しさが、粗末な小さい石に調和せぬので、異様に感ぜられる。想ふに八幡某は旗本伊沢に旧誼のあるもので、維新後三十五年にしてこれを建てたのであらう。二基は即ち政義、政達二人の墓である。
 二人の中で伊沢政義は、下田奉行としてアダムスと談判した一人である。盛世にあつては此(かく)の如き衝に当るものは、容易に侯となり伯となる。当時と雖、芙蓉間詰五千石高の江戸城留守居は重職であつた。殊に政義が最後に勤めてゐた時は、同僚が四人あつて、其世禄は平賀勝足(かつたり)四百石、戸川安清五百石、佐野政美(まさよし)六百石、大沢康哲(やすさと)二千六百石であつたから、三千二百五十石の政義は筆頭であつた。其政義がこの戒名に調和せぬ小さい墓の主である。「此墓にも詣る人は無いか」と、わたくしは爺に問うた。
「いゝえ、これには詣る方があります。わたくしは何と云ふお名前だか知らなかつたのです。なんでも年に一度位はお比丘さんが来られます。それからどうかすると書生さんのやうな方で、参詣なさるのがあります。住持様は識つてゐなさるかも知れませんが、今日(こんにち)はお留守です。」
「さうかい。わたしは此墓に由縁(ゆかり)は無いが、少しわけがあつて詣つたのだ。どうぞ綫香(せんかう)と華とを上げておくれ。それから名札をお前に頼んで置くから、住持さんが内にゐなさる時見せて、此墓にまゐる人の名前と所とを葉書でわたしに知らせて下さるやうに、さう云つておくれ。」
 爺が苔を掃つて香華(かうげ)を供へるを待つて、わたくしは墓を拝した。そして爺に名刺を託して還つた。しかし新光明寺の住職は其後未だわたくしに音信(いんしん)を通じてくれない。

     その七

 麻布の長谷寺(ちやうこくじ)に匿(かく)れてゐた旗本伊沢の庶子は、徳兵衛と称し、人となつて有信と名告(なの)つた。有信は貨殖を志し、質店を深川に開いた。既にして家業漸く盛なるに至り、有信は附近の地所を買つた。後には其地が伊沢町と呼ばれた。永代橋を東へ渡り富吉町を経て又福島橋を渡り、南に折れて坂田橋に至る。此福島橋坂田橋間の西に面する河岸と、其中通とが即ち伊沢町であつたと云ふ。按ずるに後の中島町であらう。
 有信の妻は氏名を詳(つまびらか)にしない。法諡(はふし)は貞寿院瓊林晃珠(けいりんくわうじゆ)禅尼である。其出の一男子は早世した。浄智禅童子が是である。
 有信は遠江国の人小野田八左衛門の子を養つて嗣となした。此養子が良椿(りやうちん)信政である。惟(おも)ふに享保中の頃であらう。仮に享保元年とすると、有信が三十六歳、信政が四歳、又享保十八年とすると、有信が五十三歳、信政が二十一歳である。信政の父八左衛門は法諡を大音柏樹(だいおんはくじゆ)居士と云ひ、母は※相寿桂(どんさうじゆけい)[#「女+(而/大)」、7巻-16-下-14]大姉と云ふ。
 有信は此(かく)の如く志を遂げて、能く一家の基(もとゐ)を成したが、其「弟」に長左衛門と云ふものがあつた。遊惰にして財を糜(び)し、屡(しば/\)謀書謀判の科(とが)を犯し、兄有信をして賠償せしめた。総宗家の弟は有信が深川の家に来り寄るべきではないから、長左衛門は妻党(さいたう)の人で、正しく謂へば甥(せい)であらうか。
 有信は長左衛門のために産を傾(かたぶ)け、深川の地所を売つて、麻布鳥居坂に遷(うつ)つた。今伊沢信平さんの住んでゐる邸が是である。
 享保十八年十月十八日に有信は五十三歳で歿し、長谷寺(ちやうこくじ)に葬られた。即ち幼くして乳媼(にゆうをん)と共に匿(かく)れてゐた寺で、此寺が後々までも宗家以下の菩提所となるのである。有信は法諡を好信軒一道円了居士と云ふ。此人が即ち宗家伊沢の始祖である。
 二世良椿信政は二十一歳にして家を継いだ。信政は町医者であつた。伊沢氏が医家であり、又読書人を出すことは此人から始まつた。
 信政は幕府の菓子師大久保主水元苗(もんどもとたね)の女(むすめ)伊佐(いさ)を娶(めと)つた。菓子師大久保主水は徳川家の世臣(せいしん)大久保氏の支流である。しかし大久保氏の家世は諸書記載を異にしてゐて、今遽(にはか)に論定し難い。
 大久保系図に拠れば、粟田関白道兼(みちかね)十世の孫景綱より、泰宗、時綱、泰藤、常意、道意、道昌、常善、忠与を経て忠茂(ちゆうも)に至つてゐる。他書には道意を泰道とし、道昌を泰昌とし、常善を昌忠とし、忠与を忠興とし、忠茂を忠武(ちゆうぶ)としてゐる。此中には道号と名乗(なのり)との混同もあり、文字の錯誤もあるであらう。初め宇津宮氏であつたのに、道意若くは道昌に至つて宇津と称した。
 忠茂に五子があつた。長忠俊、二忠次、三忠員(たゞかず)、四忠久、以上四人の名は略(ほゞ)一定してゐるらしい。始て大久保と称したのは、忠茂若くは忠俊だと云ふ。世に謂ふ大久保彦左衛門忠教(たゞのり)は忠俊の子だとも云ひ、忠員の子だとも云ふ。忠茂の第五子に至つては、或は忠平に作り、或は忠行に作る。伝説の菓子師は此忠行を祖としてゐるのである。
 忠行が主水と称し、菓子師となつた来歴は、姑(しばら)く君臣略伝の記載に従ふに、下に説く所の如くである。

     その八

 大久保忠行は参河の一向宗一揆の時、上和田を守つて功があつたと云ふ。恐らくは永禄六七年の交の事であらう。徳川家康はこれに三百石を給してゐた。家康は平生餅菓子を食はなかつた。それは人の或は毒を置かむことを懼(おそ)れたからである。偶(たま/\)忠行は餅菓子を製することを善くしたので、或日その製する所を家康に献じた。家康は喜び□(くら)つて、此より時々(じゞ)忠行をして製せしめた。天正十八年八月に家康は江戸に入つて、用水の匱(とぼ)しきを憂へ、忠行に諮(はか)つた。忠行乃ち仁治中北条泰時の故智を襲いで、多摩川の水を引くことを策した。今の多摩川上水が是である。此時家康は忠行に主水の称を与へたと云ふことである。以上は君臣略伝の伝ふる所である。
 此より後主水忠行はどうなつたか、文献には所見が無い。然るに蘭軒の孫女(まごむすめ)の曾能(その)さんの聞く所に従へば、忠行が引水の策を献じた後十年、慶長五年に関が原の戦があつた。忠行は此役に参加して膝頭に鉄砲創を受け、廃人となつた。そこで事平(たひら)ぐ後家康の許を蒙つて菓子師となつたさうである。
 わたくしは此説を聞いて、さもあるべき事と思つた。素(もと)大久保氏には世(よゝ)経済の才があつた。大永四年に家康の祖父岡崎次郎三郎清康が、忠行の父忠茂の謀を用ゐて、松平弾正左衛門信貞入道昌安の兵を破り、昌安の女婿となつて岡崎城に入つた時、忠茂は岡崎市の小物成(こものなり)を申し受け、さて毫釐(がうりん)も徴求せずにゐた。これが岡崎の殷富を致した基だと云ふ。忠茂の血と倶に忠茂の経済思想を承けた忠行が、曾て引水の策を献じ、終(つひ)に商賈(しやうこ)となつたのは、□(よ)つて来る所があると謂つて好からう。
 忠行の子孫は、今川橋の南を東に折れた本白銀町(ほんしろかねちやう)四丁目に菓子店を開いてゐて、江戸城に菓子を調進した。今川橋の南より東へ延びてゐる河岸通に、主水河岸の称があるのは、此家あるがためである。後年武鑑に用達(ようたし)商人の名を載せはじめてより以来、山形の徽章の下に大久保主水の名は曾(かつ)て闕(か)けてゐたことが無い。
 宗家伊沢の二世信政の外舅(しうと)となつた主水元苗(もとたね)は、忠行より第幾世に当るか、わたくしは今これを詳(つまびらか)にしない。しかし既に真志屋西村、金沢屋増田の系譜を見ることを得た如くに、他日或は大久保主水の家世を知る機会を得るかも知れない。
 信政の妻大久保氏伊佐の腹に二子一女があつた。二子は信栄(のぶなが)と云ひ、金十郎と云ふ。一女の名は曾能(その)である。
 信政の嫡男信栄は年齢を詳にせぬが、前後の事情より推するに、信政は早く隠居して、家を信栄に譲つたらしい。仮に信政が五十歳で隠居したとすると、信栄の家督相続は宝暦十一年でなくてはならない。
 三世信栄は短命であつたらしい。明和五年八月二十八日に父信政に先(さきだ)つて歿し、長谷寺に葬られた。法諡(はふし)を万昌軒久山常栄信士と云ふ。信政は時に年五十七であつた。
 信栄は合智(がふち)氏を娶(めと)つて、二子を生ませた。長が信美(のぶよし)、字(あざな)は文誠、法名称仙軒、季(き)が鎌吉である。信栄の歿した時、信美は猶幼(いとけな)かつたので、信美の祖父信政は信栄の妹曾能に婿を取り、所謂(いはゆる)中継として信栄の後を承(う)けしめた。此女婿が信階(のぶしな)である。

     その九

 宗家伊沢の四世は信階である。字は大升、別号は隆升軒、小字(をさなな)は門次郎、長じて元安と称し、後長安と改めた。門次郎は近江国の人、武蔵国埼玉郡越谷住井出権蔵の子である。権蔵は法諡(はふし)を四時軒自性如春居士と云つて、天明四年正月十一日に歿した。其妻即信階の母は善室英証大姉と云つて、明和五年五月十三日に歿した。信栄(のぶなが)の死に先(さきだ)つこと僅に百零三日である。
 先代信栄の歿した時、嫡子信美(のぶよし)が幼(いとけな)かつたので、隠居信政は井出氏門次郎を養つて子とした。信政は門次郎に妻(めあは)するに信栄の妹曾能(その)を以てしようとして、心私(こゝろひそか)にこれを憚つた。曾能の容貌が美しくなかつたからである。偶(たま/\)識る所の家に美少女があつたので、信政は門次郎にこれを娶(めと)らむことを勧めた。門次郎は容(かたち)を改めて云つた。「わたくしを当家の御養子となされたのは伊沢の祀(まつり)を絶たぬやうにとの思召でござりませう。それにはせめて女子の血統なりとも続くやうに、お取計なさりたいと存じます。わたくしは美女を妻に迎へようとは存じも寄りませぬ」と云つた。此時信階は二十五歳、曾能は十九歳であつた。曾能は遂に信階の妻となつた。
 惟(おも)ふに信階は修養あり操持ある人物であつたらしい。伝ふる所に拠れば、信階は武于竜(ぶうりう)の門人であつたと云ふ。わたくしは武于竜と云ふ儒家を知らない。或は武梅竜(ぶばいりう)ではなからうか。
 武梅竜初の名は篠田維嶽(ゐがく)、美濃の人である。しかし其郷里の詳(つまびらか)なるを知らない。後藤松陰が「或云高須人、或云竹鼻人」と記してゐる。伊藤東涯の門人である。享保元年生の維嶽が二十一歳になつた元文元年に、東涯は歿した。そこで維嶽は宇野明霞の門に入り、名を亮(りやう)、字を士明と改めた。既にして亮が三十歳になつた延享二年に、又明霞が歿した。亮は後名を欽□(きんいう)、字を聖謨(せいぼ)と改めて自ら梅竜と号した。その武と云ふは祖先が武田氏であつたからである。梅竜は妙法院堯恭(たかやす)法親王の侍読にせられた。
 梅竜は仁斎学派より明霞の折衷学派に入り、同く明霞に学んだ赤松国鸞(こくらん)が、「不唯典刑之存、其言之似夫子、使人感喜交併」と云つた如く、其師の感化を受くること太(はなは)だ深かつたものと見える。明霞の生涯妻妾を置かなかつた気象が、梅竜を経て美妻を斥(しりぞ)けた信階に伝へられたとも考へられよう。
 梅竜は明和三年に五十一歳で歿した。信階は此時二十三歳で、中一年を隔てて伊沢氏の養子となつたのである。信階が武氏に学んだ時、同門に豊後国大野郡岡の城主中川修理大夫久貞の医師飯田休庵信方(のぶかた)がゐた。休庵は信階の同出(どうしゆつ)の姉井出氏を娶つたが、井出氏は明和七年七月三日に歿したので、水越氏民(たみ)を納(い)れて継室とした。休庵は後に蘭軒の外舅(しうと)になるのである。
 信階(のぶしな)の家督相続は猶摂主の如きものであつた。先代信栄(のぶなが)の子信美(のぶよし)が長ずるに及んで、信階はこれに家を譲つた。此更迭は何年であつたか記載を闕いでゐるが、安永六年前であつたことは明である。何故と云ふに、此年には信階の長子蘭軒が生れてゐる。そしてその生れた家は今の本郷真砂町であつたと云ふ。本郷真砂町は信階が宗家を信美に譲つた後に、分家して住んだ処だからである。仮に宗家の更迭と分家の創立との年を其前年、即安永五年だとすると、当時隠居信政は六十五歳、信階は三十三歳であつた。

     その十

 伊沢信階が宗家を養父亡(ばう)信栄の実子信美に譲つた年を、わたくしは仮に安永五年とした。此時信階の創立した分家は今の本郷真砂町桜木天神附近の地を居所とし、信階はこの新しい家の鼻祖となつたのである。
 わたくしは例に依つて、信階去後(きよご)の伊沢宗家のなりゆきを、此に插叙して置きたい。信階は宗家四世の主であつた。五世信美は歯医者となり、信階の女、蘭軒の姉にして、豊前国福岡の城主松平筑前守治之(はるゆき)の夫人に仕へてゐた幾勢(きせ)に推薦せられて、黒田家に召し抱へられ、文政二年四月二十二日に歿した。法諡(はふし)を称仙軒徳山居士と云ふ。此より後宗家伊沢は世(よゝ)黒田家の歯医者であつた。六世信全(のぶかね)は桃酔軒と号した。天明三年に生れ、文久二年閏(うるふ)八月十八日に八十一歳で歿した。七世信崇(のぶたか)は巌松院道盛と号した。天保十一年に生れ、明治二十九年一月十三日に五十七歳で歿した。その生れたのは信全が五十八歳の時である。八世が今の信平さんである。
 分家伊沢の初世信階は本郷に徙(うつ)つた後、安永六年十一月十一日に一子辞安(じあん)を挙げた。即ち蘭軒である。蘭軒は信階の最初の子ではなかつた。蘭軒には姉幾勢があつて、既に七歳になつてゐた。推するに早く鳥居坂にあつた時に生れたのであらう。此子等の母は家附の女(むすめ)曾能(その)である。蘭軒の生れた時、父信階は年三十四、母曾能は二十八、家系上の曾祖父にして実は外祖父なる信政は年六十六であつた。
 安永七年に信階の長女幾勢は、八歳にして松平治之の夫人に仕ふることになつた。夫人名は亀子、後幸子(さちこ)と改む、越後国高田の城主榊原式部大輔政永の女(ぢよ)で、当時二十一歳であつた。治之は筑前守継高の養子で、明和六年十二月十日に家を継いだのである。
 天明二年に幾勢の仕へてゐる黒田家に二度まで代替(だいがはり)があつた。天明元年十一月二十一日に治之が歿し、此年二月二日に養子又八が家を継いで筑前守治高(はるたか)と名告(なの)り、十月二十四日に病んで卒し、十二月十九日に養子雅之助が又家を継いだのである。雅之助は後筑前守斉隆(なりたか)と云つた。
 幾勢の事蹟は、家乗の云ふ所が頗る明ならぬので、わたくしはこれがために黒田侯爵を驚かし、中島利一郎さんを労して此(かく)の如くに記した。中島さんの言に拠るに、墓に刻んである幾勢の俗名は世代(せよ)である。後に更めた名であらうか。又家乗が誤り伝へてゐるのであらうか。
 天明四年に信階は養祖父を喪つた。隠居信政が此年十月七日に七十三歳で歿したのである。法諡(はふし)を幽林院岱翁良椿(たいをうりやうちん)居士と云ふ。長谷寺の先塋(せんえい)に葬られた。新しい分家には四十一歳の養孫信階、三十五歳の其妻、八歳の蘭軒を遺した。又宗家に於ては孫信美が已に二歳の曾孫信全(のぶかね)を設けてゐた。
 信政の妻大久保氏伊佐(いさ)は又貞光(ていくわう)の名がある。按ずるに晩年剃髪した後の称であらう。伊佐は享和三年七月二十八日に歿した。法諡を寿山院湖月貞輝大姉と云ふ。伊佐の所生(しよせい)には親に先(さきだ)つた信栄、信階の妻曾能の外、猶一子金十郎があつた。
 信階は冢子(ちようし)蘭軒のために早く良師を求めた。蘭軒が幼時の師を榊原巵兮(しけい)と云つた。蘭軒の「訳女戒跋」に、「翁氏榊原、姓藤原、名忠寛、字子宥、為東都書院郎、致仕号巵兮云」と云つてある。跋は享和甲子即文化紀元の作で、「翁歿十有三年於茲」と云つてあるから、巵兮は寛政四年に歿したと見える。蘭軒は尋(つい)で経を泉豊洲に受けた。按ずるに彼は天明の初、此は天明の末から寛政に亘つての事であらう。
 泉豊洲、名は長達、字(あざな)は伯盈(はくえい)である。其家世(よゝ)江戸に住した。先手(さきて)与力泉斧太郎が此人の公辺に通つた称である。豊洲は宝暦八年三月二十六日に茅場町に生れ、文化六年五月七日に五十二歳で歿した。父は名が智高、通称が数馬、母は片山氏である。
 豊洲は中年にして与力の職を弟直道(なほみち)に譲り、帷(ゐ)を下(くだ)し徒(と)に授けたと云ふ。墓誌に徴するに、与力を勤むることゝなつてから本郷に住んだ。致仕の後には「下帷郷南授徒」と書してある。伊沢氏の家乗に森川宿とあるのは、恐くは与力斧太郎が家であらう。所謂(いはゆる)郷南(きやうなん)の何処(いづく)なるかは未だ考へない。天明寛政の間に豊洲は二十四歳より四十三歳に至つたのである。
 豊洲は南宮大湫(なんぐうたいしう)の門人である。二十一歳にして師大湫の喪に遭つて、此より細井平洲に従つて学び、終に平洲の女婿となつた。要するに所謂叢桂社の末流(ばつりう)である。

     その十一

 わたくしは単に蘭軒が豊洲を師としたと云ふよりして、わざ/\溯□(そくわい)して叢桂社に至り、特にこれを細説することの愚なるべきを思ふ。しかし蘭軒の初に入つた学統を明にせむがために、敢て此に人の記憶を呼び醒すに足るだけのエスキスを插(さしはさ)むこととする。
 参河国加茂郡挙母(ころも)に福尾荘右衛門と云ふものがあつた。其妻奥平氏が一子曾七郎を生んだ。荘右衛門が尾張中納言継友(つぐとも)に仕へて、芋生(いもふ)の竹腰志摩守の部下に属するに及んで、曾七郎は竹腰氏の家老中西曾兵衛の養子にせられた。中西氏は本氏(ほんし)秋元である。そこで中西曾七郎が元氏(げんし)、名は維寧、字(あざな)は文邦、淡淵と号すと云ふことになつた。淡淵が芋生にあつて徒に授けてゐた時、竹腰氏の家来井上勝(しよう)の孤(みなしご)弥六が教を受けた。時に元文五年で、師が三十二歳、弟子(ていし)が十三歳であつた。弥六は後京都にあつて南宮(なんぐう)氏と称し、名は岳(がく)、字は喬卿(けうけい)、号は大湫(たいしう)となつた。延享中に淡淵は年四十に垂(なんなん)として芋生から名古屋に遷つた。此時又一人の壮者(わかもの)が来て従学した。これは尾張国平洲(ひらしま)村の豪士細井甚十郎の次男甚三郎であつた。甚三郎は偶(たま/\)大湫と生年を同じうしてゐて、当時二十に近かつた。遠祖が紀長谷雄(きのはせを)であつたと云ふので、紀氏、名は徳民、字は世馨(せいけい)、号は平洲とした。後に一種の性行を養ひ得て、所謂(いはゆる)「廟堂之器」となつたのが此人である。
 寛延三年に淡淵が四十二歳を以て先づ江戸に入つた。その芝三島町に起した家塾が則ち叢桂社である。翌年は宝暦元年で、平洲が二十四歳を以て江戸に入り、同じく三島町に寓した。二年に淡淵が四十四歳で歿して、生徒は皆平洲に帰した。明和四年に大湫が四十歳を以て江戸に入り、榑正町(くれまさちやう)に寓した。大湫は未だ居を卜せざる時、平洲と同居した。「平洲為之称有疾、謝来客、息講業十余日、無朝無暮、語言一室、若引緒抽繭、縷々不尽」であつた。明和八年に八町堀牛草橋の晴雪楼が落せられた。大湫の家塾である。
 泉豊洲が晴雪楼に投じたのは、恐くは安永の初であらう。安永七年より以後、豊洲は転じて平洲に従遊し、平洲は女(ぢよ)を以てこれに妻(めあは)した。
 叢桂社の学は徳行を以て先となした。淡淵は「其講経不拘漢宋、而別新古、従人所求、或用漢唐伝疏、或用宋明註解」平洲の如きも、「講説経義、不拘拘于字句、据古註疏為解、不好参考宋元明清諸家」と云ふのである。要するに、折衷に満足して考証に沈潜しない。学問を学問として研窮せずに、其応用に重きを置く。即ち尋常為政者の喜ぶ所となるべき学風である。
 蘭軒が豊洲の手を経て、此学統より伝へ得た所は何物であらうか。窃(ひそか)に思ふに只蘭軒をして能く拘儒(くじゆ)たることを免れしめただけが、即ち此学統のせめてもの賚(たまもの)ではなかつただらうか。

     その十二

 蘭軒が泉豊洲の門下にあつた時、同窓の友には狩谷□斎(えきさい)、木村文河(ぶんか)、植村士明、下条寿仙(げでうじゆせん)、春泰の兄弟、横山辰弥等があつた。□斎の孫女(まごむすめ)は後に蘭軒の子柏軒に嫁し、柏軒の女(むすめ)が又□斎の養孫(やうそん)矩之(くし)に嫁して、伊沢狩谷の二氏は姻戚の関係を重ねた。
 木村文河、名は定良(さだよし)、字(あざな)は駿卿、通称は駿蔵、一に橿園(きやうゑん)と号した。身分は先手与力(さきてよりき)であつた。橘千蔭(ちかげ)、村田春海(はるみ)等と交り、草野和歌集を撰んだ人である。
 植村士明、名は貞皎、号を知らない。士明は字(あざな)である。江戸の人で、蘭軒と親しかつた。
 下条寿仙、名は成玉(せいぎよく)、字は叔琢(しゆくたく)である。信濃国筑摩郡松本の城主松平丹波守光行(みつゆき)の医官になつた。寿仙の弟春泰、名は世簡(せいかん)、字は季父(きふ)である。横山の事は未だ詳(つまびらか)にしない。
 蘭軒が医学の師は目黒道琢、武田叔安であつたと云ふ。目黒道琢、名は某、字は恕卿である。寛政の末の武鑑に目見医師の部に載せて、「日比谷御門内今大路一所(しよ)」と註してある。浅田栗園(りつゑん)の皇朝医史には此人のために伝が立ててあるさうであるが、今其書が手元に無い。
 武田叔安は天明中より武鑑寄合医師の部に載せて、「四百俵、愛宕下」と註してある。文化の末より法眼(はふげん)としてあつて、持高と住所とは旧に依つてゐる。武田氏は由緒ある家とおぼしく、家に後水尾天皇の宸翰二通、後小松天皇の宸翰一通を蔵してゐたさうである。
 蘭軒が本草(ほんざう)の師は太田大洲、赤荻由儀であつたと云ふ。太田大洲、名は澄元、字は子通である。又崇広堂の号がある。享保六年に生れ、寛政七年十月十二日に七十五歳で歿した。按ずるに蘭軒は其古稀以後の弟子(ていし)であらう。
 赤荻由儀はわたくしは其人を詳にしない。只富士川游さんの所蔵の蘭軒雑記に、「千屈菜(せんくつさい)、和名みそはぎ、六月晦日御祓(みそかみそぎ)の頃より咲初(さきそむ)る心ならむと余(わが)考也、赤荻先生にも問しかば、先生さもあらむと答られき」と記してあるだけである。手元にある諸書を一わたり捜索して、最後に白井光太郎さんの日本博物学年表を通覧したが、此人の名は遂に見出すことが出来なかつた。年表には動植の両索引と書名索引とがあつて、人名索引が無い。事の序(ついで)に白井さんに、改板の期に至つて、人名索引を附せられむことを望む。わたくしは又赤荻由儀に就いて見る所があつたら、一報を煩したいと云ふことを白井さんに頼んで置いた。
 蘭軒が師事した所の儒家医家は概(おほむ)ね此の如きに過ぎない。わたくしは蘭軒の師家より得た所のものには余り重きを置きたくない。蘭軒は恐くは主としてオオトヂダクトとして其学を成就したものではなからうか。
 蘭軒は後に詩を善くし書を善くした。しかし其師承を詳にしない。只詩は菅茶山(くわんちやざん)に就いて正を乞うたことを知るのみである。蘭軒が始て詩筒を寄せたのは、推するに福山侯阿部正倫(まさとも)が林述斎の言(こと)を聞いて、茶山に五人扶持を給した寛政四年より後の事であらう。

     その十三

 信階(のぶしな)は寛政六年十月二十八日に五十一歳で、備後国深津郡福山の城主阿部伊勢守正倫に召し抱へられて侍医となつた。菅茶山が見出された二年の後で、蘭軒が十八歳の時である。阿部家は宝永七年閏(うるふ)八月十五日に、正倫の曾祖父備中守正邦(まさくに)が下野国宇都宮より徙(うつ)されて、福山を領した。菅茶山集中に、「福山藩先主長生公、以宝永七年庚寅、自下毛移此」と書してあるのが是である。当主正倫は、父伊予守正右(まさすけ)が明和六年七月十二日宿老の職にゐて卒したので、八月二十九日に其後を襲(つ)いだ。伊沢氏の召し抱へられる二十五年前の事である。
 寛政七年には、十八年来、信階の女(ぢよ)幾勢(きせ)が仕へてゐる黒田家に又代替があつた。八月二十四日に筑前守斉隆(なりたか)が卒して、十月六日に嫡子官兵衛斉清(なりきよ)が襲封したのである。治之(はるゆき)夫人幸子が三十八歳、幾勢が二十五歳の時である。同じ十月の十二日に、蘭軒の本草の師太田大洲が七十五歳で歿した。時に蘭軒は十九歳であつた。
 寛政九年は伊沢の家に嘉客を迎へた年であるらしい。それは頼山陽である。
 世に伝ふる所を以てすれば、山陽が修行のために江戸に往くことを、浅野家に許されたのは、正月二十一日であつた。恰も好し叔父(しゆくふ)杏坪(きやうへい)が当主重晟(しげあきら)の嫡子斉賢(なりかた)の侍読となつて入府するので、山陽は附いて広島を立つた。山陽は正月以来広島城内二の屋敷にある学問所に寄宿してゐたが、江戸行の事が定まつてから、一旦杉木小路(すぎのきこうぢ)の屋敷に帰つて、そこから立つたのである。
 山陽が江戸に着いたのは四月十一日である。山陽の曾孫古梅(こばい)さんが枕屏風の下貼になつてゐたのを見出したと云ふ日記に、「十一日、自川崎入江戸、息大木戸、(中略)大人則至本邸、(中略)使襄随空轎而入西邸、(中略)須臾大人至堀子之邸舎」と書いてある。
 浅野家の屋敷は当時霞が関を上邸、永田馬場を中邸、赤阪青山及築地を下邸としてゐた。本邸は上邸、西邸とは中邸である。
 山陽が江戸に著いた時、杏坪は轎(かご)を下(くだ)つて霞が関へ往つた。山陽は空轎(からかご)に附いて永田馬場へ往つた。次で杏坪も上邸を退いて永田馬場へ来たのであらう。「堀子」とは年寄堀江典膳であらうか。
 これより後山陽は何処にゐたか。山陽は自ら「遊江戸、住尾藤博士塾」と書してゐる。二洲の官舎は初め聖堂の構内(かまへうち)にあつて、後に壱岐坂に邸を賜はつたと云ふ。山陽の寓したのは此官舎であらう。二洲は山陽の父春水の友で、妻猪川氏を喪つた時、春水が妻飯岡氏静の妹直(なほ)をして続絃(ぞくげん)せしめた。即ち二洲は山陽の従母夫(じゆうぼふ)である。
 山陽は二洲の家にゐた間に、誰の家を訪問したか。世に伝ふる所を以てすれば、山陽は柴野栗山を駿河台に訪うた。又古賀精里を小川町雉子橋(きじばし)の畔(ほとり)に訪うた。これは諸書の皆載(の)する所である。
 さて山陽は翌年寛政十年四月中に、杏坪と共に江戸を立つて、五月十三日に広島御多門にある杏坪の屋敷に著き、それより杉木小路の父の家に還つたと云ふ。世の伝ふる所を以てすれば、江戸に於ける山陽の動静は此(かく)の如きに過ぎない。
 然るに伊沢氏の口碑には一の異聞が伝へられてゐる。山陽は江戸にある間に伊沢氏に寓し、又狩谷□斎の家にも寓したと云ふのである。

     その十四

 伊沢氏の口碑の伝ふる所はかうである。蘭軒は頼春水とも菅茶山とも交はつた。就中(なかんづく)茶山は同じく阿部家の俸を食(は)む身の上であるので、其交(まじはり)が殊に深かつた。それゆゑ山陽は江戸に来たとき、本郷真砂町の伊沢の家で草鞋(わらぢ)を脱いだ。其頃伊沢では病源候論を写してゐたので、山陽は写字の手伝をした。さて暫くしてから、蘭軒は同窓の友なる狩谷□斎に山陽を紹介して、□斎の家に寓せしむることゝしたと云ふのである。
 此説は世の伝ふる所と太(はなは)だ逕庭(けいてい)がある。世の伝ふる所は一見いかにも自然らしく、これを前後の事情に照すに、しつくりと※合(ふんがふ)[#「月+(勿/口)」、7巻-29-下-5]する。叔父杏坪と共に出て来た山陽が、聖堂で学ばうとしてゐたことは勿論である。其聖堂には、六年前に幕府に召し出されて、伏見両替町から江戸へ引き越し、「以其足不良、特給官舎於昌平黌内」と云ふことになつた従母婿(じゆうぼせい)の二洲尾藤良佐(びとうりやうさ)が住んでゐた。山陽が此二洲の官舎に解装して、聖堂に学ぶのは好都合であつたであらう。尾藤博士の塾にあつたとは、山陽の自ら云ふ所である。又茶山の詩題にも「頼久太郎、寓尾藤博士塾二年」と書してある。二年とは所謂(いはゆる)足掛の算法に従つたものである。さて山陽は寛政九年の四月より十年の四月に至るまで江戸にゐて、それから杏坪等と共に、木曾路を南へ帰つた。此経過には何の疑の挾(さしはさ)みやうも無い。
 しかし口碑などと云ふものは、固(もと)より軽(かろがろ)しく信ずべきでは無いが、さればとて又妄(みだり)に疑ふべきでも無い。若し通途(つうづ)の説を以て動すべからざるものとなして、直(たゞち)に伊沢氏の伝ふる所を排し去つたなら、それは太早計(たいさうけい)ではなからうか。
 伊沢氏でお曾能(その)さんが生れた天保六年は、蘭軒の歿した六年の後である。又お曾能さんの父榛軒(しんけん)も山陽が江戸を去つてから六年の後、文化元年に生れた。しかし山陽が江戸にゐた時二十七八歳であつた蘭軒の姉幾勢(きせ)は、お曾能さんが十七歳になつた嘉永四年に至るまで生存してゐた。此家庭に於て、曾て山陽が寄寓せぬのに、強て山陽が寄寓したと云ふ無根の説を捏造したとは信ぜられない。且伊沢氏は又何を苦んでか此(かく)の如き説を憑空(ひようくう)構成しようぞ。
 徳(めぐむ)さんの言ふ所に拠れば、当時山陽が伊沢氏の家に留めた筆蹟が、近年に至るまで儲蔵せられてあつたさうである。惜むらくは伊沢氏は今これを失つた。
 わたくしは山陽が伊沢氏に寓したことを信ずる。そして下に云ふ如くに推測する。
 山陽が江戸にあつての生活は、恐くは世の伝ふる所の如く平穏ではなかつただらう。山陽がその自ら云ふ如くに、又茶山の云ふ如くに、二洲の塾にゐたことは確である。しかし後に神辺(かんなべ)の茶山が塾にあつて風波を起した山陽は、江戸の二洲が塾にあつても亦風波を起したものと見える。風波を起して塾を去つたものと見える。去つて何処へ往つたか。恐くは伊沢に往き、狩谷に往つたであらう。伊沢氏の口碑に草鞋(わらぢ)を脱いだと云ふのは、必ずしも字の如くに読むべきではなからう。

     その十五

 山陽は尾藤二洲の塾に入つた後、能く自ら検束してはゐなかつたらしい。山陽が尾藤の家の女中に戯れて譴責せられたのが、出奔の原因であつたと云ふ説は、森田思軒が早く挙げてゐる。唯思軒は山陽の奔(はし)つたのを、江戸を奔つたことゝ解してゐる。しかしこれは尾藤の家を去つたので、江戸を去つたのでは無かつたであらう。
 二洲が此(かく)の如き小疵瑕(せうしか)の故を以て山陽を逐つたのでないことは言を須(ま)たない。又縦(よ)しや二洲の怒が劇(はげし)かつたとしても、其妻直(なほ)は必ずや姉の愛児のために調停したことを疑はない。しかし山陽は「例の肝へき」を出して自ら奔つたのであらう。
 わたくしは此事のあつたのを何時だとも云ふことが出来ない。寛政九年四月より十年四月に至る満一箇年のうち、山陽がおとなしくして尾藤方にゐたのは幾月であつたか知らない。しかし推するに二洲の譴責は「物ごとにうたがひふかき」山陽の感情を害して、山陽は聖堂の尾藤が官舎を走り出て、湯島の通を北へ、本郷の伊沢へ駆け込んだのであらう。山陽が伊沢の門(かど)で脱いだのが、草鞋(わらぢ)でなくて草履であつたとしても、固より事に妨は無い。
 世の伝ふる所の寛政十年三月廿一日に山陽が江戸で書いて、広島の父春水に寄せた手紙がある。わたくしは此手紙が、或は山陽の江戸に於ける後半期の居所を以て、尾藤塾にあらずとする証拠になりはせぬかと思ふ。しかし文書を読むことは容易では無い。比較的に近き寛政中の文と雖亦然りである。文書を読むに慣れぬしろうとのわたくしであるから、錯(あやま)り読み錯り解するかも知れぬが、若しそんな事があつたら、識者の是正を仰ぎたい。
 手紙の原本はわたくしの曾(かつ)て見ぬ所である。わたくしの始て此手紙を読んだのは、木崎好尚(きざきかうしやう)さんがその著す所の「家庭の頼山陽」を贈つてくれた時である。此手紙の末(すゑ)に下(しも)の如き追記がある。「猶々昌平辺先生へも一日参上仕候而御暇乞等をも可申上存居申候、何分加藤先生御著の上も十日ほども可有之由に御坐候故、左様の儀も出来不申かと存候、以上」と云ふのである。加藤先生とは加藤定斎(ていさい)である。定斎は寛政十年三月廿二日に江戸に入る筈で、山陽は其前夜に此書を裁した。十日程もこれあるべしとは、山陽が猶江戸に淹留(えんりう)すべき期日であらう。寛政十年の三月は陰暦の大であつたから、山陽は四月三日頃に江戸を立つべき予定をしてゐたのである。山陽の発程は此予定より早くなつたか遅くなつたかわからない。山陽の江戸を発した日は記載せられてをらぬからである。
 わたくしのしろうと考を以てするに、先づ此追記には誤謬があるらしく見える。誤読か誤写か、乃至排印に当つての誤植か知らぬが、兎に角誤謬があるらしく見える。わたくしは此の如く思ふが故に、手紙の原本を見ざるを憾む。元来わたくしの所謂(いはゆる)誤謬は余りあからさまに露呈してゐて、人の心附かぬ筈は無い。然るに何故に人が疑を其間に挾(さしはさ)まぬであらうか。わたくしは頗るこれを怪む。そして却つて自己のしろうと考にヂスクレヂイを与へたくさへなるのである。

     その十六

 寛政十年三月二十一日の夜、山陽が父春水に寄せた書の追記は、口語体に訳するときはかうなる。「昌平辺の先生の所へも一度往つて暇乞を言はうと思つてゐる、何にせよ加藤先生が著いてからも十日程はあるだらうと云ふことだから、そんな事も出来ぬかと思ふ」となる。何と云ふ不合理な句であらう。暇がありさうだから往かれまいと云ふのは不合理ではなからうか。これはどうしても暇がありさうだから往かれようとなくてはならない。原文は「左様の義も出来可申かと存候」とあるべきではなからうか。只「不」を改めて「可」とすれば、文義は乃ち通ずるのである。
 わたくしの此手紙を読んだ始は「家庭の頼山陽」が出た時であつた。即ち明治三十八年であつた。それから八年の後、大正二年に箕山(きざん)さんの「頼山陽」が出た。同じ手紙が載せてあつて、旧に依つて「左様の義も出来不申かと存候」としてある。箕山さんは果して原本を見たのであらうか。若しさうだとすると、誤写も誤植もありやうがなくなる。原本の字体が不明で、誰が見ても誤り読むのであらうか。しかし此(かく)の如くに云ふのは、誤謬があると認めた上の事である。誤謬は初より無いかも知れない。そしてわたくしが誤解してゐるのかも知れない。
 追記の文意の合理不合理の問題は上(かみ)の如くである。しかしわたくしの此追記に就いて言はむと欲する所は別に有る。わたくしは試に問ひたい。追記に所謂「昌平辺先生」とは抑(そも/\)誰を斥(さ)して言つたものであらうかと問ひたい。
 姑(しばら)く前人の断定した如くに、山陽は江戸にある間、始終聖堂の尾藤の家にゐたとする。そして尾藤の家から広島へ立つたとする。さうすると此手紙も尾藤の家にあつて書いたものとしなくてはなるまい。そこで前人の意中を忖度(そんたく)するに、下(しも)の如くであらう。昌平辺先生とは昌平黌の祭酒博士を謂ふ。即ち林(りん)祭酒述斎を始として、柴野栗山、古賀精里等の諸博士である。その二洲でないことは明である。二洲の家にあるものが、ことさらに二洲を訪ふべきでは無いからである。前人の意中はかうであらう。
 独りわたくしの思索は敢て別路を行く。山陽が江戸にあつた時、初め二洲の家にゐたことは世の云ふ所の如くであらう。しかし後には二洲の家にはゐなかつたらしい。少くも此手紙は二洲の家にあつて書いたものではなささうである。「昌平辺」の三字は、昌平黌の構内にゐて書くには、いかにも似附かはしくない文字である。外にあつて昌平黌と云ふ所を斥(さ)すべき文字である。
 わたくしは敢てかう云ふ想像をさへして見る。「昌平辺先生」は、とりもなほさず二洲ではなからうかと云ふ想像である。二洲は瓜葛(くわかつ)の親とは、思軒以来の套語であるが、縦(よ)しや山陽は一時の不平のために其家を去つたとしても、全く母の妹の家と絶つたのでないことは言を須(ま)たない。しかし少くも山陽は些(ちと)のブウドリイを作(な)して不沙汰をしてゐたのではなからうか。すねて往かずにゐたのではなからうか。そして「江戸を立つまでには暇がありさうだから、例の昌平辺の先生の所へも往かれよう」と云つたのではなからうか。これは山陽が二洲の家を去つたことは、広島へも聞えずにゐなかつたものと仮定して言ふのである。

     その十七

 わたくしは寛政九年四月中旬以後に、月日は確に知ることが出来ぬが、山陽が伊沢の家に投じたものと見たい。蘭軒が頼氏の人々並に菅茶山と極て親しく交つたことは、後に挙ぐる如く確拠があるが、山陽の父春水と比べても、茶山と比べても、蘭軒はこれを友とするに余り年が少過(わかす)ぎる。寛政九年には春水五十二、茶山五十で、蘭軒は僅に二十一である。わたくしは初め春水、茶山等は蘭軒の父隆升軒信階(りゆうしようけんのぶしな)の友ではなからうかと疑つた。信階は此年五十四歳で、春水より長ずること二歳、茶山より長ずること四歳だからである。しかし信階が此人々と交つた形迹は絶無である。それゆゑ山陽の来り投じたのは、当主信階をたよつて来たのではなく、嫡子蘭軒をたよつて来たのだと見るより外無くなるのである。此年二十一歳の蘭軒は、十八歳の山陽に較べて、三つの年上である。
 わたくしは蘭軒が初め奈何(いかに)して頼菅二氏に交(まじはり)を納(い)れたかを詳(つまびらか)にすること能はざるを憾(うらみ)とする。わたくしは現に未整理の材料をも有してゐるが、今の知る所を以てすれば、蘭軒が春水と始て相見たのは、後に蘭軒が広島に往つた時である。又茶山と交通した最も古いダアトは、文化元年の春茶山が小川町の阿部邸に病臥してゐた時、蘭軒が菜の花を贈つた事である。わたくしは今これより古い事実を捜してゐる。若し幸にしてこれを獲たならば、山陽が来り投じた時の事情をも、稍(やゝ)細(こまか)に推測することが出来るであらう。
 山陽は伊沢に来て、病源候論を写す手伝をさせられたさうである。果して山陽の幾頁(いくけつ)をか手写した病源候論が、何処かに存在してゐるかも知れぬとすると、それは世の書籍を骨董視する人々の朶頤(だい)すべき珍羞(ちんしう)であらう。
 病源候論が伊沢氏で書写せられた顛末は明で無い。又其写本の行方も明で無い。素(もと)わたくしは支那の古医書の事には□(くら)いが、此に些(ちと)の註脚を加へて、遼豕(れうし)の誚(そしり)を甘受することとしよう。病源候論は隋の煬帝(やうだい)の大業六年の撰である。作者は或は巣元方(さうげんはう)だとも云ひ、或は呉景だとも云ふ。呉の名は一に景賢に作つてある。四庫全書総目に、此書は官撰であるから、巣も呉も其事に与(あづか)つたのだらうと云つてある。玉海に拠れば、宋の仁宗の天聖五年に此書が□印(もいん)頒行せられた。降つて南宋の世となつて、天聖本が重刻(ちようこく)せられた。伊沢の蔵本即酌源堂本は、此南宋版であつて、全部五十巻目録一巻の中、目録、一、二、十四、十五、十六、十七、十八、十九、計九巻が闕けてゐた。然るに別に同板のもの一部があつた。それは懐仙閣本である。此事は経籍訪古志に見えてゐるが、訪古志はわたくしのために馴染が猶浅い故、少しく疑はしい処がある。訪古志に懐仙楼蔵と記する諸本が、皆曲直瀬(まなせ)の所蔵であることは明である。然るに訪古志補遺には懐仙閣蔵の書が累見してゐる。わたくしは懐仙閣も亦曲直瀬かと推する。しかしその当れりや否やを知らない。さて懐仙閣本の病源候論も亦完璧ではなくて、四十、四十一、四十二、四十三、計四巻が闕けてゐた。両本は恰も好し有無(いうむ)相補ふのであつた。
 伊沢氏で寛政九年に病源候論を写したとすると、それは自蔵本の副本を作つたのか。それとも懐仙閣本を借りて補写したのか。恐くは此二者の外には出でぬであらう。そして山陽が手伝つたと謂ふのは、此謄写の業であらう。

     その十八

 山陽が寓してゐた時の伊沢氏の雰囲気は、病源候論を写してゐたと云ふを見て想像することが出来る。五十四歳の隆升軒信階(りゆうしようけんのぶしな)が膝下で、二十一歳の蘭軒は他年の考証家の気風を養はれてゐたであらう。蘭軒が歿した後に、山田椿庭(ちんてい)は其遺稿に題するに七古一篇を以てした。中に「平生不喜苟著述、二巻随筆身後伝」の語がある。これが蘭軒の面目である。
 そこへ闖入し来つた十八歳の山陽は何者であるか。三四年前に蘇子の論策を見て、「天地間有如此可喜者乎」と叫び、壁に貼つて日ごとに観た人である。又数年の後に云ふ所を聞けば、「凌雲冲霄」が其志である。
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