オリンポスの果実
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著者名:田中英光 

オリンポスの果実田中英光     一 秋ちゃん。 と呼ぶのも、もう可笑(おか)しいようになりました。熊本秋子さん。あなたも、たしか、三十に間近い筈(はず)だ。ぼくも同じく、二十八歳。すでに女房(にょうぼう)を貰(もら)い、子供も一人できた。あなたは、九州で、女学校の体操教師をしていると、近頃(ちかごろ)風の便りにききました。 時間というのは、変なものです。十年近い歳月が、当時あれほど、あなたの事というと興奮して、こうした追憶(ついおく)をするのさえ、苦しかったぼくを、今では冷静におししずめ、ああした愛情は一体なんであったろうかと、考えてみるようにさせました。 恋(こい)というには、あまりに素朴(そぼく)な愛情、ろくろく話さえしなかった仲でしたから、あなたはもう忘れているかもしれない。しかし、ぼくは今日、ロスアンゼルスで買った記念の財布(さいふ)のなかから、あのとき大洋丸で、あなたに貰った、杏(あんず)の実を、とりだし、ここ京城(けいじょう)の陋屋(ろうおく)の陽(ひ)もささぬ裏庭に棄(す)てました。そのとき、急にこうしたものが書きたくなったのです。 これはむろん恋情(れんじょう)からではありません。ただ昔(むかし)の愛情の思い出と、あなたに、お聞きしたかったことが、聞けなかった心残りからです。 思わせぶりではありますがその言葉は、この手記の最後まで、とっておかして下さい。     二 あなたにとってはどうでしょうか、ぼくにとって、あのオリムピアヘの旅は、一種青春の酩酊(めいてい)のごときものがありました。あの前後を通じて、ぼくはひどい神経衰弱(すいじゃく)にかかっていたような気がします。 ぼくだけではなかったかも知れません。たとえば、すでに三十近かった、ぼく達のキャプテン整調の森さんでさえ、出発の二三日前、あるいかがわしい場処へ、デレゲェション・バッジを落してきたのです。 モオラン(Morning-run)と称する、朝の駆足(かけあし)をやって帰ってくると、森さんが、合宿傍(わき)の六地蔵の通りで背広を着て、俯(うつむ)いたまま、何かを探していました。 駆けているぼく達――といっても、舵(かじ)の清さんに、七番の坂本さん、二番の虎(とら)さん、それに、ぼくといった真面目(まじめ)な四五人だけでしたが――をみると、森さんは、真っ先に、ぼくをよんで、「オイ、大坂(ダイハン)、いっしょに探してくれ」と頼(たの)むのです。ぼくの姓は坂本ですが、七番の坂本さんと間違(まちが)え易(やす)いので、いつも身体(からだ)の大きいぼくは、侮蔑(ぶべつ)的な意味も含(ふく)めて、大坂(ダイハン)と呼ばれていました。 そのとき、バッジを悪所に落した事情をきくと、日頃いじめられているだけに、皆(みんな)が笑うと一緒(いっしょ)に、噴(ふ)き出したくなるのを、我慢(がまん)できなかったほど、好(い)い気味だ、とおもいましたが、それから、暫(しばら)くして、ぼくは、森さんより、もっとひどい失敗をやってしまったのです。 出発の前々夜、合宿引上げの酒宴(しゅえん)が、おわると、皆は三々五々、芸者買いに出かけてしまい、残ったのは、また、舵の清さん、七番の坂本さん、それと、ぼくだけになってしまいました。ぼくも、遊びに行こうとは思っておりましたが、ともあれ東京に実家があるので、一度は荷物を置きに、帰らねばなりません。 その夜は、いくら飲んでも、酔(よ)いが廻(まわ)らず、空(むな)しい興奮と、練習疲(づか)れからでしょう、頭はうつろ、瞳(ひとみ)はかすみ、瞼(まぶた)はおもく時々痙攣(けいれん)していました。なにしろ、それからの享楽(きょうらく)を妄想(もうそう)して、夢中(むちゅう)で、合宿を引き上げる荷物も、いい加減に縛(しば)りおわると、清さんが、「坂本さん、今夜は、家だろうね」とからかうのに、「勿論(もちろん)ですよ」こう照れた返事をしたまま、自動車をよびに、戸外に出ました。 そのとき学生服を着ていて、協会から、作って貰った、揃(そろ)いの背広は始めて纏(まと)う嬉(うれ)しさもあり、その夜、遊びに出るまで、着ないつもりで手をとおさないまま、蒲団(ふとん)の間に、つつんでおいた、それが悪かったんです。はじめから、着ていればよかった。 運転手と助手から、荷物を運び入れてもらったり、ぼくは、自動車の座席にふんぞりかえり、その夜の後の享楽ばかり思っていました。なにしろ、二十(はたち)のぼくが、餞別(せんべつ)だけで二百円ばかり、ポケットに入れていたんですから――。 その頃(ころ)、ぼくは、銀座のシャ・ノアルというカフェのN子という女給から、誘惑(ゆうわく)されていました。そして、それが、ぼくが好きだというより、ぼくの童貞(どうてい)だという点に、迷信(めいしん)じみた興味をもち、かつ、その色白で、瞳の清(すず)しい彼女(かのじょ)が、先輩Kさんの愛人である、とも、きかされていました。その晩、それを思い出すと、腹がたってたまらず、よし、俺(おれ)でも、大人並(なみ)の遊びをするぞと、覚悟(かくご)をきめていた訳です。が、さすがにこうやって働いている運転手さん達には、すまなく感じ、うちに着いてから、七十銭ぎめのところを一円やりました。 宅(うち)に入ると、助手が運んでくれた荷物は、ぐちゃぐちゃに壊(こわ)れている。が、最初のぼくの荷造りが、いい加減だったのですから、気にもとめず、玄関(げんかん)へ入り、その荷物を置いたうしろから顔をだした、皺(しわ)と雀斑(そばかす)だらけの母に、「ほら、背広まで貰ったんだよ」と手を突(つ)ッこんで、出してみせようとしたが手触(てざわ)りもありません。「おやッ」といぶかしく、運んでくれた助手に訊(たず)ねてみようと、表に出てみると、もう自動車は、白い烟(けむ)りが、かすかなほど遥(はる)かの角を曲るところでした。「可笑(おか)しいなア」とぼやきつつ、ふたたび玄関に入って、気づかう母に、「なんでもない。あるよ、あるよ」といいながら、包みの底の底までひっくり返してみましたが、ブレザァコオトはあっても、背広の影(かげ)も形もありません。なにしろ明後日、出発のこととて、外出用のユニホォムである背広がなくなったらコオチャアや監督(かんとく)に合せる顔もない、金を出して作り直すにも日時がないとおもうと根が小心者のぼくのことである。もう、顔色まで変ったのでしょう。はや、キンキン声で、「お前はだらしがないからねエ」と叱(しか)りつける母には、「あア、合宿に忘れてきたんだ。もう一度帰ってくる。大丈夫(だいじょうぶ)だよ」といいおき、また通りに出ると車をとめ、合宿まで帰りました。 艇庫(ていこ)には、もう、寝(ね)てしまった艇番夫婦(ふうふ)をのぞいては、誰(だれ)一人いなくなっています。二階にあがり、念の為(ため)、押入(おしい)れを捜(さが)してみましたが、もとより、あろう筈(はず)がありません。 もう、先程(さきほど)までの、享楽を想(おも)っての興奮はどこへやら、ただ血眼(ちまなこ)になってしまった、ぼくは、それでも、ひょッとしたら落ちてはいないかなアと、浅ましい恰好(かっこう)で、自動車の路(みち)すじを、どこからどこまで、這(は)うようにして探してみました。そのうち、ひょッとしたら、合宿の戸棚(とだな)のグリス鑵(かん)の後ろになかったかなアと、溝(みぞ)のなかをみつめている最中、ふとおもいつくと、直(す)ぐまた合宿の二階に駆けあがって、戸棚をあけ、鉄亜鈴(てつあれい)や、エキスパンダアをどけてやはり鑵の背後にないのをみると、否々(いやいや)、ひょッとしたら、あの道端(みちばた)の草叢(くさむら)のかげかもしれないぞと、また周章(あわて)て、駆けおりてゆくのでした。 捜せば、捜すだけ、なくなったということだけが、はっきりしてきます、頭のなかは、火が燃えているように熱く、空っぽでした。もう、駄目(だめ)だと諦(あきら)めかけているうち、ひょッとしたら、さっき家で、蒲団を全部、拡(ひろ)げてみなかったんじゃなかったか、という錯覚(さっかく)が、ふいに起りました。そうなると、また一も二もありません。一縷(いちる)の望みだけをつないで、また車をつかまえると「渋谷(しぶや)、七十銭」と前二回とも乗った値段をつけました。 と、その眼のぎょろっとした運転手は「八十銭やって下さいよ」とうそぶきます。場所が場所だけに、学生の遊里帰りとでも、間違えたのでしょう、ひどく反感をもった態度でしたが、こちらは何しろ気が顛倒(てんとう)しています。言い値どおりに乗りました。 ぼくは、車に揺(ゆ)られているうち、どうも、はじめの運転手に盗(と)られたんだ、という気がしてきました。(彼奴(あいつ)に一円もやった。泥棒(どろぼう)に追銭とはこのことだ)と思えば口惜(くや)しくてならない。たまりかねて、「ねエ、運転手君。……」と背広がなくなったいきさつを全部、この一癖(ひとくせ)ありげな、運転手に話してきかせました。 すると、彼は自信ありげな口調で、「そりやア、やられたにきまっているよ。こんな商売をしているのには、そんなのが多いからね」とうなずきます。ぼくは、「そうかねエ」と愚(ぐ)にもつかぬ嘆声(たんせい)を発したが、心はどうしよう、と口惜しく、張り裂(さ)けるばかりでした。が、その運転手は同情どころかい、といった小面憎(こづらにく)さで、黙りかえっています。 それでいて、家につくと、彼は突然(とつぜん)、ここは渋谷とはちがう、恵比寿(えびす)だから、十銭ましてくれ、ときりだしました。てッきり、嘗(な)められたと思いましたから、こちらも口汚(くちぎたな)く罵(ののし)りかえす。と、向うは金梃(レバー)をもち、扉(ドア)をあけ、飛びだしてきました。「喧嘩(けんか)か。ハ、面白(おもしろ)いや」と叫(さけ)び、ええ、やるか、と、ぼくも自棄(やけ)だったのですが、もし血をみるに到(いた)ればクルウの恥(はじ)、母校の恥、おまけにオリムピック行は、どうなるんだと、思いかえし、「オイ、それじゃア、交番に行こう」と強く言いました。「行くとも! さア行こう」たけりたった相手は、ぼくの肩(かた)を掴(つか)みます。振りきったぼくは、ええ面倒(めんどう)とばかり十銭払(はら)ってやりました。「ざまア見ろ」とか棄台詞(すてぜりふ)を残して車は行きました。ぼくは、前より余計しょんぼりとなって玄関の閾(しきい)をまたいだのです。 気の強い母は、ぼくの顔をみるなり、噛(か)みつくように、「あったかえ」と訊ねました。ぼくは無言で、荷物のところへ行くと、蒲団はすでに畳(たた)んで、風呂敷(ふろしき)が、上に載(の)っています。どうしていいか分らなくなったぼくは、空の風呂敷をつまんで、振って、捨てると、ただ、母の怒罵(どば)をさける為と、万一を心頼みにして、「やっぱり合宿かなア。もう一度、捜してくらア」と留める母をふりきり、家を出ました。勝気な母も、やっぱり女です、兄が夜業でまだ帰りませんし、「困ったねエ」を連発していました。 ぼくはまた、自動車で、渋谷から向島(むこうじま)まで行きました。熱が出たようにあつい額を押え、憤(いきどお)りと悔(く)いにギリギリしながら、艇庫につき、念を入れてもう一回、押入れなぞ改めてはみましたが夜も更(ふ)け、人気(ひとけ)のない二階はたださえ、がらんとして、いよいよ、もう駄目だ、という想いを強めるだけです。 ぼくは二階の廊下(ろうか)を歩き、屋上の露台(ろだい)のほうへ登って行きました。眼の下には、鋭(するど)い舳(バウ)をした滑席艇(スライデングシェル)がぎっしり横木につまっています。そのラッカア塗(ぬ)りの船腹が、仄暗(ほのぐら)い電燈に、丸味をおび、つやつやしく光っているのも、妙(みょう)に心ぼそい感じで、ベランダに出ました。遥か、浅草(あさくさ)の装飾燈(そうしょくとう)が赤く輝(かがや)いています。時折、言問橋(ことといばし)を自動車のヘッドライトが明滅(めいめつ)して、行き過ぎます。すでに一艘(そう)の船もいない隅田川(すみだがわ)がくろく、膨(ふく)らんで流れてゆく。チャップチャップ、船台を洗う波の音がきこえる、ぼくは小説(ロマンス)めいた気持でしょう、死にたくなりました。死んだ方が楽だと、感じたからです。 大体が、文学少年であったぼくが、ただ、身体の大きいために選ばれて、ボオト生活、約一箇年、「昨日も、今日も、ただ水の上に、陽が暮(く)れて行った」と日記に書く、気の弱いぼくが、それも一人だけの、新人(フレッシュマン)として、逞(たくま)しい先輩達に伍(ご)し、鍛(きた)えられていたのですから、ぼくにとっては肉体的の苦痛も、ですが、それよりも、精神的なへばりのほうが我慢できなかった。 ぼくは、ボオトのことばかりでなく、日常生活でも、することが一々無態(ぶざま)だというので、先輩達にずいぶん叱られた。叱られた上に馬鹿にされていました。ぼくみたいに、弱気な人間には、ひとから侮辱(ぶじょく)されて抵抗(ていこう)の手段がないと諦(あきら)め切る時ほど、悲しい事はありません。なにをいっても、大坂(ダイハン)は怒(おこ)らない、と先輩達は感心していましたが、怒ったら、ボオトを止(や)めるよりほかに手段がない。また、そうしてボオトを止めるのは、ぼくのひそかに傲慢(ごうまん)な痩意地(やせいじ)にとって、自殺にもひとしかった。 それで、背広を失くした苦痛に、加えて、こうした先輩達の罵声が、どんなに辛辣(しんらつ)であろうかと、思っただけでもたまりません。蔭口(かげぐち)や皮肉をとばす、整調森さんの意地悪さ、面とむかって「ぶちまわすぞ」と威(おど)かす五番松山さんの凄(すさ)まじさ、そうした予感が、堪(た)えがたいまでに、ちらつきます。またそうした先輩達の笞(むち)から、いつも庇(かば)ってくれるコオチャアやO・B達に対しても、ぼくの過失はなお済まない気がします。 悶(もだ)え悶え、ぼくは手摺(てすり)によりかかりました。其処(そこ)は三階、下はコンクリイトの土間です。飛び降りれば、それでお終(しま)い。思い切って、ぼくは、頭をまえに突き出しました。ちょうど手摺が腰(こし)の辺に、あたります。離(はな)れかかった足指には、力が一杯(いっぱい)、入っています。「神様!」ぼくは泣いていたかもしれません。しかし、その瞬間(しゅんかん)、ぼくが唾(つば)をすると、それは落ちてから水溜(みずたま)りでもあったのでしょう。ボチャンという、微(かす)かな音がしました。すると、ぼくには、不意と、なにか死ぬのが莫迦々々(ばかばか)しくなり、殊(こと)に、死ぬまでの痛さが身に沁(し)みておもわれ、いそいで、足をバタつかせ、圧迫されていた腸の辺(あた)りを、まえに戻(もど)しました。いま考えると、可笑しいのですが、そのときは満天の星、銀と輝く、美しい夜空のもとで、ほんとに困って死にたかった。 そんな簡単に、自殺をしようと考えるのには、多分、耽読(たんどく)した小説の悪影響(あくえいきょう)もあったのでしょう。ぼくは冷たい風が髪(かみ)をなぶるのに、やッと気がつきかけたが、もうなんとしても、背広は出てこないという点に、考えがぶつかると、やはり死の容易さに、惹(ひ)かれてゆきます。ぼくは、なにか、ほかの方法で死にたいと、思いました。身投げは泳げるし、鉄道自殺は汚い、ああ、もう、と目茶苦茶な気持に駆りたてられ、合宿横にある交番に、さしかかると、「オイ」と巡査(じゅんさ)に呼び咎(とが)められました。それ迄(まで)は、これから、向島の待合に行って、芸者と遊んだ末、無理心中でもしようかという虫の良い了見(りょうけん)も起しかけていたのですが、ハッと冷水をかけられた気が致(いた)しました。 こんな夜遅(おそ)く、学生がへんな恰好(かっこう)でうろついていたからでしょう。巡査は、ぼくの傍(そば)にきて、じっとみつめてから、なんだという顔になり、「ああ君はWの人じゃないか」といい、大学の艇庫ばかり並んでいる処(ところ)ですから、ボオト選手の日頃の行状を知っていて、「いいねエ、君等は、飲みすぎですか」と笑いかけます。ぼくの蒼(あお)ざめた顔を、酒の故(ゆえ)とでも思ったのでしょう。照れ臭(くさ)くなったぼくは、折から来かかった円タクを呼びとめ、また、渋谷へと命じました。 家に着いたぼくは、なにもいわず、ただ「ねかしてくれ」と頼んだそうですが、あまり顔色と眼付が変なのに、心配した母は、すぐ、叱りもせずに、床(とこ)をしいてくれました。翌朝、眼の覚めたときは、もう十時過ぎでしたろう。枕(まくら)もとの障子(しょうじ)一面に、赫々(あかあか)と陽がさしています。「ああ、気持よい」と手足をのばした途端(とたん)、襖(ふすま)ごしに、舵手(だしゅ)の清さんと、母の声がします。ぼくの胸は、直ぐ、一杯に塞(ふさ)がりました。 もう寝たふりをして置こうと、夜着をかぶり、聴(き)きたくもない話なので、耳を塞いでいると、そのうち、また眠(ねむ)ってしまったようです。あの頃は、よく眠りました。練習休みの日なぞ、家に帰って、食べるだけ食べると、あとは、丸一日、眠ったものです。それ程、心身共に、疲れ果てていたのでしょう。ところが、やがて、「やア、坊主(ぼうず)、ねてるな」という兄の親しい笑い声と、同時に、夜着をひッぱがれました。二十歳にもなっているぼくを、坊主なぞ呼ぶのは、可笑しいのですが、早くから、父を失い、いちばん末ッ子であったぼくは、家族中で、いつでも猫(ねこ)ッ可愛(かわい)がりに愛されていて、身体こそ、六尺、十九貫もありましたが、ベビイ・フェイスの、未(ま)だ、ほんとに子供でした。 ぼくの蒲団をまくった兄は、母から事情をきいたとみえ、叱言(こごと)一ついわず、「馬鹿、それ位のことでくよくよする奴(やつ)があるかい。さア、一緒に、洋服を作りに行ってやるから、起きろ、起きろ」とせかしたてるのです。ぼくは途端に、「ほんと」と飛び起きました。兄は会社関係から、日本毛織の販売所に、親しいひとがいて、特に、二日で間に合うように頼んでやる、というので、ぼくは大慌(おおあわ)てに、支度(したく)を始めました。 あとになって、判(わか)ったのですが、この朝、老いた母は、六時頃に起きて、合宿まで行ってくれ、また合宿では、清さんがひとり、明方に帰って来ていて、母から話をきくと、一緒に、家まで様子を見にきてくれたとのことでした。清さんは、ぼくを落着くまで、静かにほって置いたほうが好いだろう。背広のことは、コオチャアや監督に、よく話をしておきます。災難だから、仕方がない。明朝、出発のときは、ブレザァコオトをきて颯爽(さっそう)と出て来るように言って下さい。なアに、学生服で、あちらに行ったって、差支(さしつか)えないでしょう、と言い置いてくれた由(よし)。兄は、その頃、すでに、共産党のシンパサイザァだったらしいのですから、ぼくや母の杞憂(きゆう)は、てんで茶化していたようでしたが、さすがに、一人の弟の晴衣(はれぎ)とて心配してくれたとみえます。母といい、兄といい肉親の愛情のまえでは、ひとことの文句も言えません。 服は仮縫(かりぬ)いなしに、ユニホォムと同色同型のものを、出帆(しゅっぱん)の時刻までに、間に合してくれることになりましたが、やはり出来てきたのは少し違うので、ぼくはこの為、旅行中、背広に関しては、いつも顔を赤らめねばなりませんでした。     三 出発の朝、ぼくは向島(むこうじま)の古本屋で、啄木(たくぼく)歌集『悲しき玩具(がんぐ)』を買い、その扉紙(とびらがみ)に、『はろばろと海を渡(わた)りて、亜米利加(アメリカ)へ、ゆく朝。墨田(すみだ)の辺(あた)りにて求む』と書きました。 それから、合宿で、恒例(こうれい)のテキにカツを食い、一杯(いっぱい)の冷酒に征途(せいと)をことほいだ後、晴れのブレザァコオトも嬉(うれ)しく、ほてるような気持で、旅立ったのです。 あとは、御承知(ごしょうち)のようなコオスで、大洋丸まで辿(たど)りつきました。文字通りの熱狂(ねっきょう)的な歓送のなか、名も知られぬぼくなどに迄(まで)、サインを頼(たの)みにくるお嬢(じょう)さん、チョコレェトや花束(はなたば)などをくれる女学生達。旗と、人と、体臭(たいしゅう)と、汗(あせ)に、揉(もま)れ揉れているうち、ふと、ぼくは狂的な笑いの発作(ほっさ)を、我慢(がまん)している自分に気づきました。 勿論(もちろん)、こんなに盛大(せいだい)に見送って頂くことに感謝はしていたのです。ことに、京浜間に多い工場という工場の、窓から、柵(さく)から、或(ある)いは屋根にまで登って、日の丸の旗を振(ふ)ってくれていた職工さんや女工さんの、目白押(めじろお)しの純真な姿を、汽車の窓からみたときには、思わず涙(なみだ)がでそうになりました。 しかし、例の狂的な笑いの発作が、船に乗って、多勢の見送り人達に、身動きもならないほど囲まれると、また、我慢できぬほど猛烈(もうれつ)に、起ってきて、ぼくは教わったばかりの船室(ケビン)にもぐりこみ、思う存分、笑ってから、再びデッキに出たのです。 昔(むかし)、教えて頂いた中学、学院の諸先生、友人、後輩(こうはい)連も来ていてくれました。銅鑼(どら)が鳴ってから一件の背広を届けに、兄が、母の表現を借りると、スルスルと猿(ましら)のように、人波をかきわけ登ってきてくれました。これは帰朝してから、聞いたことですが、故郷鎌倉(かまくら)での幼馴染(おさななじみ)の少年少女も来ていてくれたそうです。なかでも、波止場(はとば)の人混(ひとご)みのなかで、押し潰(つぶ)されそうになりながら、手巾(ハンカチ)をふっている老母の姿をみたときは目頭(めがしら)が熱くなりました。周囲に、家の下宿人の親切な人が、二人来ていてくれたので安心しながら、ぼくは、兄が買ってくれたテエプを抛(ほう)りましたが、なかなか母にとどきません。 女学生の一群にとび込(こ)んだり、学校の友人達の手にはいったりしても、母にはとどかないのです。その内、漸(ようや)く、一つが、母の近くの、サラリイマン風の人に取られたのを、下宿人のHさんが話して、母に渡してくれました。少しヒステリイ気味のある母は、テエプを握(にぎ)り、しゃくり上げるように泣いていました。あまり泣くのをみている内、なにか、ホッとする気持になり、左右を見廻(みまわ)すと、大抵(たいてい)の選手達が、誰(だれ)でも一人は、若い女のひとに来て貰(もら)っている、花やかさに見えました。 ぼく達のクルウでも、豪傑(ごうけつ)風な五番の松山さん迄が、見知り越しのシャ・ノアルの女給とテエプを交(かわ)しています。殊(こと)に美男(ハンサム)な、六番の東海さんなんかは、テエプというテエプが綺麗(きれい)な女に握られていました。肉親と男友達の情愛に、見送られているぼくは幸福には違(ちが)いありません。が、母には勿体(もったい)ないが、娘(むすめ)さんがひとり交(まじ)っていて、欲(ほ)しかった。 その淋(さび)しい気持は出帆(しゅっぱん)してからも続きました。見送りの人達の影(かげ)も波止場も霞(かす)み、港も燈台も隔(へだ)たって、歓送船も帰ったあと、花束や、テエプの散らかった甲板(かんぱん)にひとり、島と、鴎(かもめ)と、波のうねりを、見詰(みつ)めていると、もはや旅愁(りょしゅう)といった感じがこみあげて来るのでした。 出発時の華(はな)やかな空気はそのまま、船を包んで――ぼく達のクルウにも残っていました。朝のデンマアク体操も、B甲板を廻るモオニング・ランも、午前と午後のバック台も棒引も、隅田川にいるときとは比べものにならないほど楽だったし、皆(みんな)も、向うに着くまではという気が、いくらかはあったのでしょう。東海さんや、補欠の有沢さんを中心とする惚(のろ)け話や、森さんや松山さんを囲んでの色(エロ)話も、盛(さか)んなものでした。 合宿の頃から、ずうッと一人ぼっちだったぼくは、多勢の他テイムのなかに雑(まざ)ると、余計さびしく、出帆してから二三日、練習以外の時間は、ただ甲板を散歩したり、船室で、啄木を読んだり、船室が、相部屋の松山さん、沢村さんに占領(せんりょう)されているときは、喫煙室(きつえんしつ)で、母へ手紙を書いたりしていました。 故国を離れてから三日目、ぼくは恥(はず)かしい白状をしなければなりません。無暗(むやみ)に淋しくなったぼくはスモオキング・ルウムの片隅(かたすみ)で、とても非常識な手紙を書こうとしていたのです。無論、書きかけただけで、実行はしませんでしたが、その前年の夏、鎌倉の海で、一寸(ちょっと)遊んだ、文化学院のお嬢さんに、ラブレタアを書いてやろうと思ったのです。返事は多分、向うに着いて貰えるだろうと思いましたが、その、円(つぶ)らな瞳(ひとみ)をした、お嬢さんには、すでに恋人(こいびと)があったかも知れないとおもうと、気恥かしくなって来て、止(や)めにしました。     四 やはり、あなたと初めてお逢(あ)いした晩のことは、はっきり憶(おぼ)えています。 例の、食事中にはネクタイをきちんと結べ、フォオクをがちゃつかすな、スウプを飲むのに音を立てるな、頭髪(とうはつ)に手を触(ふ)れるな、といった食卓作法(テエブルマナア)も、まだ出発して一週間にならない、あの頃(ころ)はよく守られていました。 そうした夕食後の一刻(ひととき)を、やはり新人(フレッシュマン)の為(ため)、仲間はずれになっている、KOのフォアァの補欠で、銀座ボオイの綽名(あだな)のある、村川と、一等船客専用のA甲板(かんぱん)を――Aデッキを練習以外には使うな、などという規則が守られていたのは、初めの二三日でした。――ぶらついていると、「オーイ、活動が一等の食堂にあるぞオ」と誰(だれ)かが叫(さけ)んで、四五人、駆(か)けて行きました。「行って見ようや」とぼくは村川を誘(さそ)い、KOの二番の柴山(しばやま)、補欠(サブ)の河堀とも一緒(いっしょ)になって、デッキを降り、食堂に入って行きますと、映画は始まっていて、代表選手の練習を集めた実写物らしく女子選手のダイビングが、空中に美しい弓なりの弧(こ)を描(えが)いているところでした。 ぼく達、ボオトの場景が最後(ラスト)を飾(かざ)り、観(み)ていれば、撮影(さつえい)された覚えもある荒川(あらかわ)放水路、蘆(あし)の茂(しげ)みも、川面(かわも)の漣(さざなみ)も、すべて強烈(きょうれつ)な斜陽(しゃよう)の逆光線に、輝(かがや)いているなかを、エイト・オアス・シェルの影画(シルエット)が、キラキラする水を鋭(するど)く切り、凄(すさ)まじい速さで、進んでゆくのでした。影画のようなオォルでも、上げれば、水泡(すいほう)と、飛沫(しぶき)が、同時に光ります。「いいなア」と誰かが溜息(ためいき)をついていました。漕(こ)いでいれば、あんなに辛(つら)いものでも、見ていれば綺麗(きれい)に違いありません。 映画が済んでから、またAデッキに出てみますと、太平洋は、けぶるような朧月夜(おぼろづきよ)でした。霧(きり)がすこしたれこめ、うねりもゆるやかな海面を、眺(なが)めながら、Bデッキヘの降り口にまで来たときです。甲板の反対側から、廻(まわ)ってきた、あなた達と、ぱったり一緒になってしまいました。雀(すずめ)のように喋(しゃべ)りあっているあなた達に、村川は、「どうぞお先に」とふざけて、言いました。女子ハアドルの内田さんが、先に進みでて、「おおきに」と澄(す)ましたお辞儀(じぎ)をしたので、あなた達は笑い崩(くず)れる。 そのとき、全く偶然(ぐうぜん)で、すぐ前にいたあなたに、ぼくが「活動みていたんですか」ときいた。あなたは驚(おどろ)いたように顔をあげて、ぼくをみた、真面目(まじめ)になった、あなたの顔が、月光に、青白く輝いていた。それは、童女の貌(かお)と、成熟した女の貌との混淆(こんこう)による奇妙(きみょう)な魅力(みりょく)でした。 みじんも化粧(けしょう)もせず、白粉(おしろい)のかわりに、健康がぷんぷん匂(にお)う清潔さで、あなたはぼくを惹(ひ)きつけた。あなたの言葉は田舎(いなか)の女学生丸出しだし、髪(かみ)はまるで、老嬢(ろうじょう)のような、ひっつめでしたが、それさえ、なにか微笑(ほほえ)ましい魅力でした。 あなたは、薄紫(うすむらさき)の浴衣(ゆかた)に、黄色い三尺をふッさりと結んでいた。そして、「ボオトはきれいねエ」と言いながら、袖(そで)をひるがえして漕(こ)ぐ真似(まね)をした。ぼくは別れるとき、「お名前は」とか、「なにをやって居られるんですか」とか、訊(き)きました。そしたら、あなたは、「うち、いややわ」と急に、袂(たもと)で、顔をかくし、笑い声をたてて、バタバタ駆けて行ってしまった。お友達のなかでいちばん背の高いあなたが、子供のように跳(は)ねてゆくところを、ぼくは、拍子抜(ひょうしぬ)けしたように、ぽかんと眺めていたのです。その癖(くせ)、心のなかには、潮(うしお)のように、温かいなにかが、ふツふツと沸(わ)き、荒(あ)れ狂(くる)ってくるのでした。 船室に帰ってから、ぼくは大急ぎで、選手名簿(めいぼ)を引き出し、女子選手の処(ところ)を、探してみました。すると、あなたの顔ではありますが、全然、さっきの魅力を失った、ただの田舎女学生の、薄汚(うすぎたな)く取り澄ました、肖像(しょうぞう)が発見されました。そこに (熊本秋子、二十歳、K県出身、N体専に在学中種目ハイ・ジャムプ記録一米(メエトル)五七)と出ているのを、何度も読みかえしました。なかでも、高知県出身とある偶然さが、嬉(うれ)しかった。ぼくも高知県――といっても、本籍(ほんせき)があるだけで、行ったことはなかったのですが、それでも、この次、お逢いしたときの、話のきっかけが出来たと、ぼくには嬉しかった。     五 翌朝から、ぼくは、あなたを、先輩達に言わせれば、まるで犬の様につけまわし出しました。船の頂辺のボオト・デッキから、船底のCデッキまで、ぼくは閑(ひま)さえあると、くるくる廻り歩き、あなたの姿を追って、一目遠くからでも見れば、満足だったのです。 その晩、B甲板の船室の蔭(かげ)で、あなたが手摺(てすり)に凭(もた)れかかって、海を見ているところを、みつけました。腕(うで)をくんで背中をまるめている、あなたの緑色のスエタアのうえに、お下げにした黒髪(くろかみ)が、颯々(さつさつ)と、風になびき、折柄(おりから)の月光に、ひかっていました。勿論(もちろん)ぼくには、馴々(なれなれ)しく、傍(そば)によって、声をかける大胆(だいたん)さなどありません。只(ただ)、あなたの横にいた、柴山の肩(かた)を叩(たた)き、「なにを見てる」と尋(たず)ねました。それは、あなたに言った積りでした。柴山は、「海だよ」と答えてくれました。ぼくも船板(ふなばた)から、見下ろした。真したにはすこし風の強いため、舷側(げんそく)に砕(くだ)ける浪(なみ)が、まるで石鹸(シャボン)のように泡(あわ)だち、沸騰(ふっとう)して、飛んでいました。 次の晩、ぼくが、二等船室から喫煙室(きつえんしつ)のほうに、階段を昇(のぼ)って行くと、上り口の右側の部屋から、溌剌(はつらつ)としたピアノの音が、流れてきます。“春が来た、春が来た、野にも来た”と弾(ひ)いているようなので、そっとその部屋を覗(のぞ)くと、あなたが、ピアノの前にちんまりと腰をかけ、その傍に、内田さんが立っていました。 二人は、覗いているぼくに気づくと、顔を見合せ、花やかに、笑いだしました。その花やいだ笑いに、つりこまれるように、ぼくは、その部屋が男子禁制のレディスルウムであるのも忘れ、ふらふらと入り込(こ)んでしまいました。あなた達は、怪訝(けげん)な顔をして、ぼくを見ています。ぼくも入ったきり、なんとも出来ぬ、羞恥(しゅうち)にかられ、立ちすくんでしまった。 すると、あなた達はそそくさ、部屋を出て行きました。ぼくも、その後から、急いで逃(に)げだしたのです。 翌晩、船で、簡単な晩餐会(ばんさんかい)があって、その席上、選手全員の自己紹介が行われました。なにしろ元気一杯な連中ばかりですから、溌剌とした挨拶(あいさつ)が、食堂中に響(ひび)き渡(わた)ります。槍(やり)の丹智(タンチ)さんが女にしては、堂々たる声で、「槍の丹智で御座(ござ)います」とお辞儀(じぎ)をすると、TAをCHIと聴(き)き違(ちが)え易(やす)いものですから、男達は、どっと笑い出しました。ぼくには、大きな体の丹智さんが、呆気(あっけ)にとられ、坐(すわ)りもならず、立っているのが、その時には、ほんとうにお気の毒でした。いつもなら、無邪気(むじゃき)に笑えたでしょう。が、あなたの上に、すぐ考えて、それが如何(いか)にも、女性を穢(けが)す、許されない悪巫山戯(わるふざけ)に、思えたのです。 ぼくの番になったら、美辞麗句(れいく)を連ね、あなたに認められようと思っていたのに、恥(はず)かしがり屋のぼくは、口のなかで、もぐもぐ、姓(せい)と名前を言ったら、もうお終(しま)いでした。 あなたの番になると、あなたは、怖(お)じず臆(おく)せず明快に、「高飛びの熊本秋子です」と名乗って着席しました。ぼくには、その人怖じしない態度が好きだった。 それから何日、経(た)ったでしょう、ぼくはその間、どうしたらあなたと友達になれるかと、そればかりを考えていました。前にも言ったとおり、恥かしがりで孤独(こどく)なぼくには、なにかにつけ、目立った行為(こうい)はできなかった。 ある夜、船員達の素人芝居(しろうとしばい)があるというので、皆(みんな)一等食堂に行き、すっかりがらんとしたあとぼくがツウリスト・ケビンの間を歩いていますと、仄明(ほのあか)るい廊下(ろうか)の端(はず)れに、月光に輝いた、実に真(ま)ッ蒼(さお)な海がみえました。と、その間から、ひょいと、あなたの顔が、覗いてひっこんだのです。ぼくは我を忘れ駆けて行ってみました。すると、手摺に頬杖(ほおづえ)ついた、あなたが、一人で月を眺(なが)めていました。月は、横浜を発(た)ってから大きくなるばかりで、その夜はちょうど十六夜(いざよい)あたりでしたろうか。太平洋上の月の壮大(そうだい)さは、玉兎(ぎょくと)、銀波に映じ、といった古風な形容がぴったりする程(ほど)です。満々たる月、満々たる水といいましょうか。澄(す)みきった天心に、皎々(こうこう)たる銀盤(ぎんばん)が一つ、ぽかッと浮(うか)び、水波渺茫(すいはびょうぼう)と霞(かす)んでいる辺(あた)りから、すぐ眼の前までの一帯の海が、限りない縮緬皺(ちりめんじわ)をよせ、洋上一面に、金光が、ちろッちろッと走っているさまは、誠(まこと)に、もの凄(すさ)まじいばかりの景色でした。 ぼくは一瞬(いっしゅん)、度胆(どぎも)を抜(ぬ)かれましたが、こんな景色とて、これが、あの背広を失った晩に見たらどんなにつまらなく見えたでしょうか。いわばあなたとの最初の邂逅(かいこう)が、こんなにも、海を、月を、夜を、香(かぐ)わしくさせたとしか思われません。ぼくは胸を膨(ふく)らませ、あなたを見つめました。 その夜のあなたは、また、薄紫(うすむらさき)の浴衣(ゆかた)に、黄色い三尺帯を締(し)め、髪を左右に編んでお下げにしていました。化粧(けしょう)をしていない、小麦色の肌(はだ)が、ぼくにしっとりとした、落着きを与(あた)えてくれます。顔つき合せては、恥かしく、というより、何も彼にもが、しろがね色に光り輝く、この雰囲気(ふんいき)のなかでは、喋(しゃべ)るよりも黙(だま)って、あなたと、海をみているほうが、愉(たの)しかった。 随分(ずいぶん)、長い間、沈黙(ちんもく)が続いた後で、ぽつんとぼくが、「熊本さんも、高知ですか」と訊(たず)ねました。あなたは頷(うなず)いてから、「坂本さんは、高知の、どこでしたの」と言います。「いや、高知は両親の生れた所ですけれど、まだ知りません。ずっと東京です」「そう。高知は良い国よ。水が綺麗(きれい)だし、人が親切で」「ええ、聴(き)いています。母がよく、話してくれます。ほら、よさこい節ってあるんでしょう」「ええ、こんなんですわ」とあなたは、悪戯(いたずら)ッ児(こ)のように、くるくる動く黒眼勝(くろめがち)の、睫(まつげ)の長い瞳(ひとみ)を、輝かせ、靨(えくぼ)をよせて頬笑(ほほえ)むと、袂(たもと)を翻(ひるが)えし、かるく手拍子(てびょうし)を打って『土佐は良いとこ、南を受けて、薩摩颪(さつまおろし)がそよそよと』と小声で歌いながら、ゆっくり、踊(おど)りだしました。 ぼくが可笑(おか)しがって、吹出(ふきだ)すと、あなたも声を立てて、笑いながら、『土佐の高知の、播磨屋(はりまや)橋で、坊(ぼう)さん、簪(かんざし)、買うをみた』と裾(すそ)をひるがえし、活溌(かっぱつ)に、踊りだしました。文句の面白(おもしろ)さもあって、踊るひと、観(み)るひと共に、大笑い、天地も、為(ため)に笑った、と言いたいのですが、これは白光浄土(じょうど)とも呼びたいくらい、荘厳(そうごん)な月夜でした。 しかし、その月光の園(その)の一刻(ひととき)は、長かったようで、直(す)ぐ終ってしまいました。それは、あなたの友達の内田さんが、船室の蔭から、ひょッこり姿を、現わしたからです。内田さんも、あなたの様子にニコニコ笑って来るし、ぼく達も、笑って迎(むか)えましたが、ぼくにとっては月の光りも、一時に、色褪(いろあ)せた気持でした。     六 それから、三人揃(そろ)って、芝居(しばい)を見に行きました。なにをやっていたか、もう忘れています。多分、碌々(ろくろく)、見ていなかったのでしょう。ぼくは別れて、後ろの席から、あなたの、お下げ髪(がみ)と、内田さんの赤いベレエ帽(ぼう)が、時々、動くのを見ていたことだけ憶(おぼ)えています。 それからの日々が、いかに幸福であったことか。未(ま)だ、誰(だれ)にも気づかれず、ぼくはあなたへの愛情を育てていけた。ぼくはその頃(ころ)あなたと顔を合せるだけで、もう満ち足りた気持になってしまうのでした。朝の楽しい駆足(かけあし)、Aデッキを廻(まわ)りながら、あなた達が一層下のBデッキで、デンマアク体操をしているのが、みえる処(ところ)までくると、ぼくはすぐあなたを見付けます。 なかでも、長身なあなたが、若い鹿(しか)のように、嫋(しな)やかな、ひき緊(しま)った肉体を、リズミカルにゆさぶっているのが、次の一廻り中、眼にちらついています。今度、Bデッキの上を駆ける頃になると、あなたは、海風に髪を靡(なび)かせながら、いっぱいに腕を開き、張りきった胸をそらしている。その真剣(しんけん)な顔付が、また、次の一廻り中、眼の前にある。その次、Bデッキの上まで来るとあなたは腕をあげ脚(あし)を思い切り蹴上(けあ)げている、というように、以前は、嫌(きら)いだった駆足も、駆けている間中、あなたが見えるといった愉(たの)しさに変りました。 それからすっかり腹を空(す)かした朝の食事、オオトミイルに牛乳をなみなみと注いで、あなたを見ると、林檎(りんご)を丸噛(まるかじ)りに頬張(ほおば)っているところ、なにかふっと笑っては、自分に照れ、俯(うつむ)いてしまいます。(よく、食うなア)と、あなたに言った積りですが、案外、自分のことでしょう。 朝飯を食うと午前中の練習で、八時半から十一時頃まで、ボオト・デッキと体育室(ギムナジウムルウム)の前に置いてあるバック台を、まず、三百本以上は、定(き)まって引きました。大体、三番の梶(かじ)さんと、四番のぼくは並(なら)んで引くのが原則ですが、下手糞(へたくそ)な為(ため)、時々、五番の松山さんや整調の森さんとも引きます。ぼくは、胴(どう)が長くて、上体が重く、いつも起上り(レカバリー)[#「起上り」にルビ]が、おくれて、叱(しか)られるのですが、あの数日は、すばらしい好調でした。 いつもは隣(となり)のバック台に、合わそうとすればする程(ほど)合わないのが、その頃は合わそうとしないでも、いつの間にかチャッチャッとリズムが出てくるのです。身も心も浮々(うきうき)していて、普段(ふだん)は音痴(おんち)のぼくでも、ひどく音楽的になれたのでしょう。そのリズムに乗ってしまえばしめたもので、カタンと足で蹴り身体を倒(たお)した瞬間(しゅんかん)、もう上半身は起き上がり、スウッと身体は前に出てゆきます。手首をブラッと突(つ)きだし、全身が倒れた反動で、ひとりでに進むのをゆるくセエブしながら、みはるかす眼下ひろびろと、日に輝く太平洋が青畳(あおだたみ)のように凪(な)いでいるのを見るのは、まことに気持の好(よ)いものです。 そんな時、監督(かんとく)に廻って来た総監督の西博士が、コオチャアの黒井さんに、「みんな、坂本君位、身体があれば大したものだなア」と褒(ほ)めて下さるのを聞くと、いつもクルウの先輩(せんぱい)連からは、「大きな身体を、持てあましていやがって――」など言われているだけに、思わず、ハッとあがってしまい、又(また)、普段の地金が出るのではないかと固くなるのでした。 ある日、バック台を引いたあとで、腕組みをしながら、あとの人達のやるのを見ていて、ひょいと眼をあげると、あなたの汗(あせ)ばんだ顔が、体育室の円窓越しに、此方(こちら)を眺(なが)めていました。ぼくは直(す)ぐ、恥(はず)かしくなって、視線をそらせようとすると、あなたも、寂(さび)しいくらい白い歯をみせ、笑うと、窓硝子(ガラス)をトントン拳(こぶし)で叩(たた)く真似(まね)をしてから、身をひるがえし逃げてゆきました。 それからと云(い)うものは、ぼくは、バック台をひきながらも、背後の体育室のなかで、かすかに、モーターの廻り出す音でも、聞えると、あなたが来ているかなと、胸が昂(たか)まるのでした。 いつでしたか、いちばん後まで残り、バック台を蔵(しま)ってからも、皆、降りて行ってしまうまで海を眺めるふりをし、誰もいなくなってから、体育室に入ってみました。 すると、あなたと、内田さんが、木馬に乗って、ギッコンギッコンと凄(すさ)まじい速さで、上がったり下がったりしています。おまけに、あなた達はパンツ一枚なのですから、太股(ふともも)の紅潮した筋肉が張りきって、プリプリ律動するのがみえ、ぼくはすっかり駄目(だめ)になり、ほうほうの態(てい)で、退却(たいきゃく)したことがあります。 午後は、ぼく達の棒引が終ってから、あなたがたの練習をみるのが、また楽しみでした。 殊(こと)に、あなたのアマゾンヌの様な、トレエニング・パンツの姿が、A甲板の端から此方まで、風をきって疾走(しっそう)してくる。それも、ひどく真剣な顔が汗みどろになっているのが、一種異様な美しさでした。(視(み)よ、わが愛する者の姿みゆ。視よ、山をとび、丘(おか)を躍(おど)りこえ来る。わが愛する者は※(しか)のごとく、また小鹿のごとし) 紫紺(しこん)のセエタアの胸高いあたりに、紅(あか)く、Nippon と縫(ぬ)いとりし、踝(くるぶし)まで同じ色のパンツをはいて、足音をきこえぬくらいの速さで、ゴオルに躍りこむ。と、すこし離(はな)れている、ぼくにさえ聞えるほどの激(はげ)しい動悸(どうき)、粒々(つぶつぶ)の汗が、小麦色に陽焼(ひや)けした、豊かな頬(ほお)を滴(したた)り、黒いリボンで結んだ、髪の乱れが、頸(くび)すじに、汗に濡(ぬ)れ、纏(まつわ)りついているのを、無造作にかきあげる。 七番の坂本さんが、ぼくの肩(かた)を叩いて、「すごいなア」という。あなたの真剣さに、感動したのでしょう。「ええ」と領(うなず)きながら、ぼくはふいと目頭が熱くなったのに、自分で驚(おどろ)き、汗を拭(ぬぐ)うふりをすると、慌(あわ)てて船室に駆け降りました。 舷(ふなばた)では、槍(やり)の丹智さんが、大洋にむかって、紐(ひも)をつけた、槍を投げています。ブンと風をきり、五十米(メエトル)も海にむかって、突き刺さって行く槍の穂先(ほさ)きが、波に墜(お)ちるとき、キラキラッと陽に眩(くる)めくのが、素晴(すばら)しい。と、上の甲板からは、ダイビングの女子選手が、胴のまわりを、吊鐶(つりわ)で押(おさ)えたまま、空中に、さッと飛びこむ。アクロバットなどより真面目(まじめ)な美しさです。 と、また、男達のほうでも、ボクサアは、喰(く)いつきそうな形相で、サンドバッグを叩いていますし、レスラアは、筋肉の塊(かたま)りにみえる、すさまじさで、ブリッジの練習。体操の選手は選手で、贅肉(ぜいにく)のない浮彫(うきぼり)のような体を、平行棒に、海老(えび)上がりさせては、くるくる廻っています。おおかた上のプールでは、水泳選手の河童(かっぱ)連が、水沫(みずしぶき)をたてて、浮いたり沈(しず)んだり、ウォタアポロの、球を奪(うば)いあっているのでしょう。 それでありながら、古代ギリシャ、ロオマの巨匠(きょしょう)達が発見した、人間の文字通り具体的な、観念に憑(つ)かれぬという意味での美しさが、百花撩乱(りょうらん)と咲き乱れておりました。 しかしながら、その中に育った、ぼく達の愛情は、肉体の露(あら)わにみえる処に、あればあるほど肉体的でない、まるで童話(メルヘン)の恋(こい)物語めいた、静かさでありました。あなたと語り合うことは、恐(おそ)ろしく、眼を見交(みかわ)すことが、楽しく、黙(もく)して身近くあるよりも、ただ訳もなく一緒(いっしょ)に遊んでいるほうが、嬉(うれ)しかったのです。 夜の食事のときなど、メニュウが、手紙になったり、先の方に絵葉書がついていたりします。ぼくはその上に書く、あなたへの、愛の手紙など空想して、コオルドビイフでも噛(か)んでいるのです。メニュウには、殆(ほとん)ど錦絵(にしきえ)が描(えが)かれています。歌麿(うたまろ)なぞいやですが、広重(ひろしげ)の富士と海の色はすばらしい。その藍(あい)のなかに、とけこむ、ぼくの文章も青いまでに美しい。ところで、あなたはパセリなど銜(くわ)えながら、時々こちらに、ちらっと笑いかけてくれるのでした。 夜は、概(がい)して平安一路な航海、月や星の美しい甲板で、浴衣(ゆかた)がけや、スポオツドレスのあなたが、近くに仄白(ほのじろ)く浮いてみえるのを、意識しながら、照り輝く大海原(おおうなばら)を、眺めているのは、また幸福なものでした。 なかでも、わけて愉しかったのは、昼食から三時までの練習休みの時間、大抵(たいてい)のひとが暑さにかまけて、昼寝(ひるね)でもしているか、涼(すず)しい船室を選んで麻雀(マアジャン)でも闘(たたか)わしているのに、ぼくは炎熱(えんねつ)で溶(と)けるような甲板の上ででも、あなたや内田さんと、デッキ・ゴルフや、シャブルボオドをして遊んでいれば、暑さなど、想(おも)ってもみない、楽しさで充実(じゅうじつ)した時間でした。 飯を食うと、ぼくは直ぐAデッキに出て、コオチャア黒井さんが昼寝している横の、デッキ・チェアに腰(こし)を降し、瀝青(チャン)のように、たぎった海を見ています。暫(しばら)く経(た)ってから、黄色いブラウスに白いスカアトをはいた、あなたと、赤いベレエ帽に、紺の上衣(うわぎ)を着た内田さんとが、笑いながらやって来ます。内田さんは、ぼくに、「ぼんち、デッキ・ゴルフやろう」と言ってから、今度は黒井さんの手をひっぱって、無理に起します。黒井さんは、「ああァ」と大欠伸(おおあくび)をしてから、周囲をみまわし、「大坂(ダイハン)とか、よし、また、ひねってやろう」とゆっくり立ち上がるのでした。 そこで、あなたと内田さんの組と、ぼくと黒井さんの組が対抗してゲエムを始めます。ぼくにとって、勝負なぞ、初めは、どうでも好いのですが、やはり良い当りをみせて、あなたの持ち輪を圏外(けんがい)の溝(みぞ)のなかに、叩き落したときなぞ、思わず快心の笑(え)みがうかぶ、得意さでした。 ことに、ぼくをいつも庇護(ひご)してくれる黒井さんが、そういうとき、「うまい」と一言、褒(ほ)めてくれるのが、ふだんクルウの先輩達が、ぼくをまるで、運動神経の零(ゼロ)なように、コオチャアに言いつけているのを知っているだけ、とても嬉しかったのです。 勿論(もちろん)、あなた達のほうでも、ぼく達を負かしたときには、手を叩いて、嬉しがっていた。勝負の面白さが、純粋(じゅんすい)に勝負だけの面白さで、その時には、恋も、コオチャアも、女も、利害も、過去も未来もなかったのです。 後年、ぼくは、或(あ)る女達と、もっと恋愛(れんあい)らしい肉体的な交際を結びました。しかし、それが、所謂(いわゆる)恋愛らしい、形を採ればとるほど、ぼくは恋愛を装(よそお)って、実は、損得を計算している自分に気づくのでした。 おもうに、あのとき、燃える空と海に包まれ、そして、焼きつくような日光をあびた甲板に、勝っているときは嬉しく、負けたときは口惜(くや)しく、遊びの楽しさの他(ほか)には、なにもなかった。ぼくは、本当に、黄金の日々を過していたのでした。 もう、あの日当りでのデッキ・ゴルフの愉しさは、書くのを止(や)めましょう。もっと、純粋な愉しさがあって、書けば書くほど、嘘(うそ)になる気がします。 しかし、この黄金の書に、ものを書く時間は短かく、これと殆ど同時に、ぼくには、大きな不幸が忍(しの)びよって来ていました。それは、まず第一に、ほかの人間達が、ぼく等の友情のなかに、影(かげ)を落して来だしたことです。次には、ぼく達が、他の人達に注目されるほど、仲良くなって行ったことです。     七 ある日、写真機を持出した村川が、ぼくを呼んで、あなたと内田さんの写真をとるから誘(さそ)うてきてくれ、と言います。ぼくが「いやだ」と断ると、「なんでい、熊本は、お前のいう事なら、きくよ」と笑います。 結局、あなた達の写真を貰(もら)える嬉(うれ)しさもあり、白地に、紫(むらさき)の菖蒲(しょうぶ)を散らした浴衣(ゆかた)をきたあなたと、紅(あか)いレザアコオトをきた内田さんを、ボオト・デッキの蔭(かげ)に、ひっぱり出し、村川が、写真を撮(と)り、また、ぼくと村川の写真を、内田さんが撮りました。 二三日経(た)って、出来上がった写真を、交換(こうかん)し、サインもし合っていました。あなたの顔は、眼が円(まる)く、鼻がちんまりして、色が黒く、いかにも、漁師の娘(むすめ)さんといった風だし、内田さんの顔は、また、色っぽい美人の猫(ねこ)、といった感じに撮れていたので、皆(みんな)で、それを指摘し合っては、騒々(そうぞう)しく笑っていると、東海さんが通りかかり、ものも言わず、写真をとり上げ、一寸(ちょっと)見るなり、「フン」と鼻で笑って、抛(ほう)り出し、行ってしまった。 その晩でしたか、七番の坂本さんが、女子選手のブロマイドを買い、皆に見せながら、一々名前をきいていましたが、なかに分らないのがあって、誰か、名簿(めいぼ)を取りに立とうとすると、東海さんが、突然(とつぜん)、大声で、「大坂(ダイハン)に聞けよ。大坂は、女の選手のことなら、とても詳(くわ)しいんだ」といいます。昼間の写真のことだなと、ぼくは胸に応(こた)えました。すると、松山さんが、「ほう、大坂(ダイハン)はそんなに、女子選手の通(つう)なんか」といったので、皆、笑いだしたけれど、ぼくには、そのときの、誰彼(だれかれ)の皮肉な目付が、ぞっとするほど、厭(いや)だった。 又(また)ある日、ぼくが、練習が済み、水を貰おうと、食堂へ降りて行くと、入口でぱったり、あなたと同じジャンパアの中村さんに、逢(あ)いました。と、十六歳(さい)のこの女学生は、突然、ぼくの顔を覗(のぞ)きこむように、「うちの写真、貰ってくれやはる」といいます。 驚(おどろ)いて、まじまじしているのに、「ここで待っててね」といいざま、子栗鼠(こりす)のような素早さで、とんで行き、ぼくが椅子(いす)に腰(こし)かける間もなく、ちいさい中村さんは、息をきり、ちんまりした鼻の頭に汗(あせ)を掻(か)き、駆(か)け戻(もど)って来ると、ぼくの掌(て)に、写真を渡(わた)し、また駆けて行ってしまいました。 あとでみた、写真には、ハアト形のなかに、お澄(すま)しな田舎(いなか)女学校の三年生がいて、おまけに稚拙(ちせつ)なサインがしてあるのが、いかにも可愛(かわい)く、ほほ笑んでしまった。 当時、すこし自惚(うぬぼ)れて、考え違(ちが)いしていましたが、これは多分、同室のあなた達が、ぼくや村川の写真を、中村さんにみせたので、少女らしい競争心を出し、まず、ぼくに写真をくれたのでしょう。 その後、暫(しばら)くしてから、「坂本さん、ボオトの写真、うち、欲(ほ)しいわ」と女学生服をきた彼女(かのじょ)から、兄貴にでもねだるようにして、せがまれました。「いやだ」というと、「熊本さんにはあげた癖(くせ)に――」と、口をとがらせ、イィをされたので、驚いたぼくは、バック台を引いている写真をやってしまいました。 こうした風に、段々、へんな噂(うわさ)がたつのに加えて、人の好(い)い村川が、無意識にふりまいた、デマゴオグも、また相当の反響(はんきょう)があったと思われます。 未(ま)だ、ませた中学生に過ぎなかった彼としては、自分が、いかに女の子と親しくしているかを、大いに、みせびらかしたかったのでしょう。それだけ、ぼくより、無邪気(むじゃき)だったとも、言えますが、ぼくにしてみれば、彼が、あなた達、女子選手をいかにも、中性の化物らしく批評(ひひょう)し、「熊本や、内田の奴等(やつら)がなア」 と二言目には、あなた達が、村川に交際を求めるような口吻(こうふん)を弄(ろう)し、やたらに、写真を撮らしたり、ぼく達四人の交友を、針小棒大(しんしょうぼうだい)に言い触(ふ)らすのをきいては、癪(しゃく)に触(さわ)るやら、心配やら、はらはらして居(お)りました。 しかし、これは、人間の本能的な弱さからだと、ぼくには許せる気になるのでしたが、同時に、誰でもが持っている岡焼(おかや)き根性とは、いっても、クルウの先輩連が、ぼくに浴(あ)びせる罵詈讒謗(ばりざんぼう)には、嫉妬(しっと)以上の悪意があって、当時、ぼくはこれを、気が変になるまで、憎(にく)んだのです。 その頃(ころ)、整調でもあり主将もしている、クルウでいちばん年長者の森さんは、ぼくをみると、すぐこんな皮肉をいうのでした。「大坂(ダイハン)は、熊本と、もう何回接吻(せっぷん)をした」 とか 「お尻(しり)にさわったか」とか、或(ある)いは、もっと悪どいことを嬉(うれ)しそうにいって、嘲笑(ちょうしょう)するのでした。 七番のおとなしい坂本さんまでが、「大坂(ダイハン)は秋ちゃんと仲が良いのう」とひやかし半分に、ぼくの肩(かた)を叩(たた)きます。六番の美男の東海さんは「螽※(きりぎりす)みたいな、あんな女のどこが好いのだ。おい」と、ぼくの面をしげしげとのぞいて尋(たず)ねます。五番の柔道(じゅうどう)三段の松山さんは、「腐(くさ)れ女の尻を、犬みたいに追いまわしやがって――」とすごい剣幕(けんまく)で睨(にら)みつけます。三番の、もとはぼくを正選手(レギュラア)に引張ってくれた、沢村さんまでが、「あんな女のどこが好いかのう。女が珍(めずら)しいのじゃろう。不思議だのう」と、みんなに訊(たず)ねるようにするのが癖(くせ)でした。二番の虎(とら)さんは、広い胸幅を揺(ゆす)りあげ、その話をするときは、ぼくを見ないようにして、「でれでれしやがって」と、忌々(いまいま)しそうに、痰(たん)を吐(は)きとばします。この態度が、むしろ、好きでした。 舳手(バウ)の梶さんは、ぼくの次に、新しい選手ですし、それに、七番の商科の坂本さん、二番の専門部の虎さんと共に、クルウの政経科で固めた中心勢力とは、派が合わぬだけ、別に何んともいわず、皆と一緒(いっしょ)にいるときは、軽蔑(けいべつ)した風をしていますが、ひとりで逢うと、時々、「おおいに、若いときの想(おも)い出(で)をつくれよ」とか、文科の学生らしく、煽動(せんどう)してくれました。こうして、好意とまでゆかないでも、気にしないでいてくれる、梶さん、清さんのような人達もありましたが、前述したような、クルウ大方の空気は、ひがんでいるぼくにとって、もはや、クルウのなかばかりでなく、船中の誰も彼もが、白眼視しているような気になり、切なくてたまらなかったのです。 例(たと)えば、船に、横浜解纜(かいらん)の際、中学の先生から紹介して貰った、Kさんという、中学で四年先輩のひとが、見習船員をしておりました。Kさんは、未だ高等商船を出たばかりで、学生気の抜(ぬ)けない明るい青年で、後輩のぼくの面倒(めんどう)をよくみてくれて、船の隅々迄(すみずみまで)、案内もしてくれるし、一緒に記念撮影(さつえい)などもしていました。 ところが、その頃、船の前端にある彼の部屋に、夜遊びに行ってみると、何かのきっかけで、Kさんが、「女子選手ッて、みんな、凄(すご)いのばかりだね」といいだしました。ビクッとしたのになおも、「あれで、男の選手へ、モオションをかけるのが、いるっていうじゃないか。アッハッハ……」と大口あいて笑うのです。 その時は、てッきり、ぼくにあてこすっているのか、忠告していると取り、早々に逃げ出したのですが、それからは、なるべく、Kさんにまで逢わないようにしていました。しかし、いま考えれば、これも、ぼくのひがみだったのです。     八 横浜を出てから一週間も経(た)った頃(ころ)、朝の練習が済むと、B甲板(かんぱん)に、全員集合を命ぜられました。役員のひとりで、豪放磊落(ごうほうらいらく)なG博士が肩幅(かたはば)の広い身体(からだ)をゆすりあげ、設けの席につくと、みんなをずっと見廻(みまわ)したのち、「諸君。ぼくはこんなことを、日本選手でもあり、立派な紳士(しんし)、淑女(しゅくじょ)でもある皆(みな)さんに、お話するのは、じつに残念であるが、止(や)むを得ん。とにかく、本日只今(ただいま)から、男子と女子の交際は、絶対にこれを禁止する。 遊ぶのは勿論(もちろん)ならんし、話をしても不可(いか)ん。今後、この規則を破るものがあったら、発見次第それぞれの所属チイムの責任者によって、処分して貰(もら)う。尚(なお)、その程度によっては、ホノルルなり、サンフランシスコなりに、船が着いたら、下船させてしまうぞ。スポオツマンとしての資格の欠けるものに、日本は選手として、出場して貰いたくないのだ」 日頃、太ッ腹な氏としては、珍(めずら)しく、話すのも汚(けが)らわしいといった激越(げきえつ)ぶりでした。
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