人外魔境
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著者名:小栗虫太郎 

今宵にも、命がなくなるかもしれぬおそろしい危機が、いま次第に切迫しつつあるのを知ったのである。おそらく、これまでの探検隊に生還者がなかったのも、ここでバイエルタールに殺されたからにちがいない。かほどの、国の興廃にもかかわる大機密を明して、無事に帰すはずはない。カークをはじめ一人も声がなく、喪(ほう)けて死人のようになってしまった。 ところが、座間一人だけはさすが精神医だけに、ほかの人たちとは観察がちがっていた。バイエルタールの言葉を聞いていると、ときどき他のことを急にいいだすような、意想奔逸(ほんいつ)とみられるところが少なくない。これは精神病者特有の一徴候なのだ。 普通の人間でもこんな隔絶境に半月もいたら少々の嘘にも判別(みわけ)がつかなくなるだろう。それが、バイエルタールのは二十と数年――宣教師のでたらめをまことと信ずるのも無理はない。そのうえ、彼はインド大麻で頭脳を痺(しび)らせているのだ。 けれど今となっては、それがじぶんたちには狂人(きちがい)の刃物も同様。もう、どうあがこうにも……、彼の狂気の犠牲となるより他はなさそうに思われる。 防虫組織や飛行機などは、いかにも神秘境と背中合せの近代文明という感じだが、ナイルの閉塞、イタリア機の連絡とは、じつに華やかながら実体のない、狂人バイエルタールの極光(オーロラ)のような幻想だ。いやいま、この猿酒宮殿(シュシャア・パラスト)に倨然(きょぜん)といる彼は、そのじつ、悪魔のような牧師の舌上におどらされている、あわれなお人よしの痴愚者なんだと、座間だけはそう信じていたのである。 やがてドドをまじえた一行五人は小屋に押しこめられた。もっとも、番人もつけられず鍵もおろされない。武器も弾薬も依然として手にある。これはバイエルタールの手抜かりというわけではなく、四か所の石階(いしばし)に厳重な守りがあるからだ。 アフリカ奥地の夜、山地の冷気が絶望とともに濃くなってゆく。蟇(がま)と蟋蟀(こおろぎ)が鳴くもの憂いなかで、ときどき鬣狗(ハイエナ)がとおい森で吠(ほ)えている。その、森閑の夜がこの世の最後かと思うと、誰一人口をきくものもない。ときどき君が言いだしたばかりにこんな目に逢ったのだと、ヤンが座間を恨めしげに見るだけであった。 と時が経って暁がたがちかいころ、座間にとっては思いがけぬ事件が降って湧(わ)いた。一見大して奇もないようだったが、重大な意味があった。それはとつぜん、マヌエラが気懶(けだる)そうな声で、なにやら独(ひと)り言のようなものをドイツ語で言いはじめたのであった。「明日、牝(めす)をのぞいた残りを全部殺(や)るというんだ。人道的な方法というからには、アカスガの毒を使うだろう」 驚いたことに、男のような言葉だ。調子も、抑揚がなく朗読のようである。そして、これがなかでもいちばん奇怪なことだが、いまマヌエラが喋(しゃべ)っているドイツ語を、当の本人が少しも知らないのである。知らない外国語を流暢(りゅうちょう)に喋る――そんなことがと、一時は耳を疑いながらまえへ廻って、座間はマヌエラをじっと見つめはじめた。「マヌエラ、どうしたんだ、確(しっ)かりおし!」 しかしマヌエラの目は、狂わしげなものを映してぎょろりと据(すわ)っている。ひょっとすると心痛のあまり気が可怪(おか)しくなったのかもしれない。その間も、なおも譫言(うわごと)は続いてゆく。「逃げやしないかな」「大丈夫、武器は取りあげてないから、まさかと思っているだろう。第一、石階(いしばし)には番人がいるし……そこを逃げても、マコンデ方面は網目のようだからな」 こうした気味の悪い独語が杜絶えると、闇の鬼気が、死の刻がせまるなかでマヌエラだけをつつんでしまう。彼女は、ちょっと間を置くとまたはじめた。「水牛小屋の地下道は分りっこねえんだ。何時だ? 三時だとすりゃ、あと二時間だが」 一体マヌエラは誰の言葉を真似ているのだろう? 座間は微動だもせず冷静な目で、じっとマヌエラをながめていたが、思わず……この時首をふった。すると、おなじようにマヌエラも首を振る。ハッとした座間が今度は試みに唇をとがらした。とまた、マヌエラがおなじ動作を繰りかえす。とたんに、座間はわッとマヌエラを抱きしめた。やがて、むせび泣きとともに二人の頬の合せ目を、涙が小滝のようにながれてゆくのだった。「ああ君?!」 カークはじぶんとともに冷静だった座間が、近づく死の刻に取乱してしまったのだと思った。しかし座間はすこしも腕をゆるめずに、まるで恋情のありったけを吐きだしてしまうように、泣いたり笑ったりもう手のつけようもない狂乱振りだった。が、座間は狂ったのではなかった。彼は、悦びと悲しみの大渦巻きのなかで、こんなことを絶(き)れ絶(ぎ)れに叫んでいた。(“Latah(ラター)”だ。マヌエラにはマレー女の血がある“Latah(ラター)”は、マレー女特有の遺伝病、発作的神経病だ。ああ、いますべてが分ったぞ。あの夜の、ヤンとのあの狂態の因(もと)も……、いま、マヌエラの発作が偶然われわれを救ってくれることも……)“Latah(ラター)”は、さいしょ軽微な発作が生理的異状期におこる。そのときは、じぶんがなにをしているかが明白(はっきり)と分っていながら、どうにも目のまえの人間の言葉を真似たくなり、またその人の動作をそのまま繰りかえす――つまり、反響言語(エヒョーラリー)、返響運動(エヒョーキネジー)というのがおこる。してみると、いつかのあの夜も、と――座間には次々へと浮んでくるのだ。 あのとき……、ヤンが、あたしを愛してくれますか――と小声で言うと、ちょうど、それそっくりの言葉をマヌエラが繰りかえした。また、抱こうと腕をかけると彼女もおなじ動作をした。それから淑女らしくもない醜猥なひとり言も、思えば醜言症(コプロラリー)という症状の一つなのだ。ああ、マヌエラにはマレーの血があるのだ。おそらく、マレー人系統のマダガスカル人の血が、何代かまえに混入したのであろう。そしていま、それがいく代か経ってマヌエラにあらわれたのだ。 血の禍(わざわ)い、やはりマヌエラも純粋の白人ではない。しかし、いま一人もものを言わないこの小屋のなかで、どうして知りもせぬドイツ語で喋ったのだろう。それが、反響言語(エヒョーラリー)のじつに奇怪なところである。遠くて、普通の耳には聴えぬような音も、異常に鋭くなった発作時の、聴覚には響いてくるのである。 今しも、バイエルタールの部下二人が靴音(くつおと)立てて、小屋のまえを通り過ぎていったところを見ると、マヌエラは、彼らの会話を口真似したに違いない。それでは水牛小屋の地下道というのこそ、唯一のまぎれのない逃げ道だ。 こうして、マヌエラをめぐるあらゆる疑惑が解けた。まるでハイド氏のような二重人格も、怪奇をおもわせたドドの魅魍(みもう)も、さらに、いま五人のものが浮びあがろうとすることも、畢竟(ひっきょう)マヌエラに可憐な狂気があるからだった。座間は、息をふきかえした愛情のはげしさに泣きながら、もう一刻も猶予(ゆうよ)できないことに気がついた。「諸君、助かるかもしれん。とにかくすぐに水牛小屋へゆこう」 まず、醜言症を聴かせぬためマヌエラには猿轡(さるぐつわ)をし、ドドを連れて、そっと一同が小屋を忍びでたのである。そこには、地下からうねうねと上へのびて東方の絶壁上へでる、やっと這ってゆけるほどの地下道があった。一同はこうして、猿酒郷(シュシャア・タール)を命からがら抜けでたのである。 やがて樹海の線に暁がはじまったころ、おそらく追手のかかるマコンデとは反対に、いよいよ、悪魔の尿溜(ムラムブウェジ)へと近付く密林のなかへ、心ならずも逃げこんで行くのだった。雪崩(なだ)れる大地 密林はいよいよふかく暗くなって行った。大懶獣草(メガテリウム・グラス)の犢(こうし)ほどの葉や、スパイクのような棘(とげ)をつけた大蔦葛(つたかずら)の密生が、鬱蒼(うっそう)と天日をへだてる樹葉の辺りまで伸びている。また、その葉陰(はかげ)に倨然(きょぜん)とわだかまっている、大蛸(だこ)のような巨木の根。そのうえ、無数に垂れさがっている気根寄生木は、柵のようにからまり、瘤(こぶ)のように結ばれて、まさに自然界の驚異ともいう大障壁をなしているのだった。しかも、下はどろどろの沢地、脛(すね)までもぐるなかには角毒蛇(ホーンド・ヴァイパー)がいる。 蜈蚣(むかで)の、腕ほどもあるのがバサリと落ちて来たり、絶えず傘(かさ)にあたる雨のような音をたてて山蛭(ひる)が血を吸おうと襲ってくる。まったくバイエルタールの魔手をのがれたのは一時だけのことで、またあらたな絶望が一同を苦しめはじめた。「殺してよ、座間」 マヌエラが、しまいにはそんなことを言いだした。そして、虚(うつ)ろな、笑いをげらげらとやってみたり、ときどき嫌いなヤンへにッと流眄(ながしめ)を送ったりする。彼女もだんだん、正気を失いはじめてきたのだ。 さすがにカークだけは、絶えず斧(おの)をふるって道をひらいてゆく。しかし、蛮煙瘴雨(ばんえんしょうう)に馴れたこの自然児も、わずか十ヤードほどゆくのに二、三時間も死闘を続けるのでは、もうへとへとに疲れてしまった。一本の、馬蔓の根がとおい四、五町先にあって、切るとずうんずうんと密林がうめきだし、しばらくカサコソと何者かが追ってくるような無気味な音をたてている。カークも全精力がつき、ぐたりと樹にもたれた。「どうする? なにか、こうしたらというような見込みでもあるかね」「どうするって?! 一体どうなりゃいいんだ」ヤンが、ぎょろっと血ばしった目でふり向いた。「われわれは、いっそバイエルタールに殺されちまやよかったんだ」 とおく、一つ、鉛筆のような陽の縞(しま)が落ちている。そのほかは、闇にちかいこの密林のなかは、沢地の蒸気をうずめる塵雲(じんうん)のような昆虫だ。それを、蚊帳(かや)ヴェールで避ければ布目にたかってくる。もう、悪魔の尿溜(ムラムブウェジ)へはいくばくもないのだろう。 ところが、そういう筆舌につくせぬ難行のなかで、一人ドドだけは非常に元気だった。マヌエラを背負い、ときどき樹にのぼっては木の実をとってくる。いま密林に抱かれ大自然に囁(ささや)かれ、野性が沸然(ふつぜん)と蘇(よみがえ)って来たのである。それをヤンが見て嘲(あざけ)るようにいった。「こいつのためだ。こいつを、わざわざ故郷へ送りとどけるために、四人の人間がくたばろうとするんだ。おい獣、貴様、マヌエラさんというお嫁さんがいて嬉(うれ)しいだろうぜ」 こうしてどこという当てもなく彷徨(さまよ)い続けるうちに、やがて日も暮れて第一夜を迎えた。カークは、危険な地上を避けて手頃な樹を選ぼうと思い、ひょいと頭上をみると、枝を結(ゆ)いつけたのが目に入った。ゴリラの巣だ。しかしゴリラは、一日いるだけでまたほかへ巣を作る習性がある。してみるとこのうえもない宿である。 第二日――。 一行全部ひどい下痢と不眠のなかで明けていった。湿林の瘴気(しょうき)がコレラのような症状を起させ、一夜の衰弱で目はくぼみ、四人はひょろひょろと抜け殻のように歩いてゆく。 全身泥まみれで髭(ひげ)はのび、マヌエラまで噎(む)っとなるような異臭がする。そしてこの辺から、巨樹は死に絶え、寄生木(やどりぎ)だけの世界になってきた。これが、パナマ、スマトラと中央アフリカにしかない、ジャングルの大奇景なのである。 つまり、寄生木や無花果(いちじく)属の匍匐(ほふく)性のものが、巨樹にまつわりついて枯らしてしまうのだ。そのあとは、みかけは天を摩(ま)す巨木でありながら、まるで綿でもつめた蛇籠(じゃかご)のように軽く、押せば他愛もなくぐらぐらっと揺れるのである。森が揺れる。一本のうごきが蔦蔓(つたかずら)につたわって、やがて数百の幹がざわめくところは、くらい海底の真昆布の林のようである。四人とも、それには幻を見るような気持だった。 ちょうど正午ごろに、大きな野象らしい足跡にぶつかった。つぶれた棘茎(きょくけい)や葉が泥水に腐り、その池のような溜りが珈琲(コーヒー)色をしている。しかし、そこから先は倒木もあって、わずかながら道がひらけた。しかしそれは、ただ真西へと悪魔の尿溜のほうへ……まさに地獄への一本道である。 疲労と絶望とで、男たちはだんだん野獣のようになってきた。ヤンがマヌエラ共有を主張してカークに殴(なぐ)られた。しかしカークでさえ、妙にせまった呼吸(いき)をし、血ばしった眼でマヌエラをみる、顔は醜い限りだった。 第三日――。 ヤンが、その日から肺炎のような症状になった。漂徨(ひょうこう)と泥と瘴気(しょうき)とおそろしい疲労が、まずこの男のうえに死の手をのべてきたのだ。ひどい熱に浮かされながら、幹にすがり、座間の肩をかりて蹌踉(そうろう)とゆくうちに、あたりの風物がまた一変してしまった。 大きな哺乳類はまったく姿を消し、体重はあっても動きのしずかな、王蛇(ボア)や角喇蜴(イグアナ)などの爬虫(はちゅう)だけの世界になってきた。植物も樹相が全然ちがって、てんで見たこともない根を逆だてたような、気根が下へ垂れるのではなくて垂直に上へむかう、奇妙な巨木が多くなった。それに、絶えず微震でもあるのか足もとの地がゆれている。 してみると、土の性質が軟弱になったのか、それとも、地辷(すべ)りの危険でもあるのだろうか? この辺をさかいに巨獣が消えたのと思い合わせて、これがたんなる杞憂(きゆう)ではなさそうに考えられて来た。いまにも足もとの土がざあっと崩(くず)れるのではないか――踏む一足一足にも力を抜くようになる。しかしここで、悪魔の尿溜(ムラムブウェジ)の片影をとらえたようでも、森はいよいよ暗く涯(はて)もなく深いのだ。 すると熱の高下の谷のようなところで、ヤンがマヌエラをそっと葉陰に連れこんだ。「あなたは、モザンビイクに帰りたいとは思いませんか」 突然のことに、マヌエラはきょとんと目をみはった。蚊帳ヴェールを透いて、なんでこの期になって思いださせようとするのかと、涙さえ恨めしげにひかっている。「どうしました? なぜ、黙っているんです」「疲れたんですわ。あたし、なにか言おうにも、言い表せないんです」「いや、モザンビイクへ帰れる確実な方法が唯一つあるんです。それは、バイエルタールのところへまた引っ返すことだ。ねえ、あの男は白人の女を欲している」 そういって、ヤンは蜥蜴(とかげ)のような目をよせてくる。足がふらついて、病苦に痩(や)せさらばえた顔は生きながらの骸骨だ。マヌエラはぞっと気味わるくなってきた。おまけに、座間とカークは泥亀を獲りにいっていない。「僕とあなたがゆきァ、バイエルタールがなんで殺しましょう。そうして観念してあすこにいるうちにゃ、いつか抜けだす機会がきっとくると思うんです。ねえ、あなたの分別一つでモザンビイクへ帰れる。それとも、奴らに義理をたてて、ここで野垂死(のたれじ)にしますかね」「でもあたし、あなたのいう意味がすこしも分りませんけど」「それがいかん。あいつら二人は、僕が今夜のうちにきっと片付けてみせます。熱がさがったとき、不寝番になるはずですからね」 と言いながら、ヤンはじりじりマヌエラにせまってくる。しかしそれは、どうせ死ぬものなら行きがけの駄賃と、まるで泥で煮つめたような絶望の底の、不逞不逞(ふてぶて)しさとしかマヌエラには思われなかった。熱くさい呼吸、それを避けようともがけばぐらぐらっと地がゆれる。とその瞬間……、意外にもヤンがわっと悲鳴をあげたのである。 ドドだ。犬歯を牙のようにむきだして、もの凄い唸(うな)り声をたて、唇はヤンを噛(か)んだ血でまっ赤に染っている。憤怒のために、ドドは野性に立ち帰ったのである。切羽(せっぱ)つまったヤンが拳銃(ピストル)をだそうとすると、その手にまたパッと跳(と)びついた。それなり二人は、ひっ組んだまま地上を転がりはじめたのだ。 大柄な獣さえこない禁断の地響きに、とつぜん、足もとがごうと地鳴りを始めた。 と見る……ああ、なんという大凄観! とつぜん、目前一帯の地がずずっと陥(お)ちはじめたのである。マヌエラは足もとを掬(すく)われてずでんと倒れたが、夢中で蔦(つた)にすがりつきほっと上をみると、今しも森が沈んでゆくのだ。梢(こずえ)が、一分一寸とじりじりと下るあいだから、まるで夢のなかのような褪(あ)せた鈍(にぶ)い外光が、ながい縞目(しまめ)をなしてさっと差しこんできたのである。森がしずむ! マヌエラは二人の格闘もわすれ、呆然とながめていた。 大地の亀裂が蜈蚣(むかで)のような罅(ひび)からだんだんに拡がるあいだから、吹きだした地下水がざあっと傾(かし)いだ方へながれてゆく。しかし、そうして崩(くず)れてゆく地層のうえにある樹々は、どうしたことか直立したままである。攀縁性の蔓(つる)植物の緊密なしばりで、おそらく倒れずにそのまま辷(すべ)るのだろう――と考えたが、それも瞬時に裏切られた。 水の噴出がみるみる土をあらって幹根があらわれる。やがて、数尺下の支根が露(む)きでても……、まるで根ごと地上に浮きでて昇ってゆくような、奇怪な錯覚さえ感じてくるのだ。なんという樹か。その地底までも届くようなおそろしい根を、マヌエラは怪物のようにながめていた。この時耳もとで座間の声がした。「おう、深井の根(プティ・ラディックス)!」 それが、旧根樹(ニティルダ・アンティクス)という絶滅種ではないのか。根を二十身長も地下に張るというこのアフリカ種は、とうに黒奴(こくど)時代の初期に滅びつつあったはずである。 と、見る見る視野がひらけた。 思いがけぬ崩壊が風をおこして、地上の濛気(もうき)が裂けたのである。とたんに、三人がはっと息を窒(つ)めた。それまで、濛気に遮(さえぎ)られてずっと続いていると思われた密林が、ここで陥没地に切り折れている。 悪魔の尿溜(ムラムブウェジ)――。 と三人は眩くような亢奮に我を忘れた。陥没と、大湿林の天険がいかなる探検隊もよせつけぬといわれる、この大秘境の墻(かき)の端まできたのだ。と思うと、眼下にひろがる大摺鉢地(クレーター)のなかを、なにか見えはせぬかと瞳を凝らしはじめる。 しかしそこは依然として、濛気と昆虫霧が渦まく灰色の海で、絶壁の数かぎりない罅(ひび)も中途で消えてしまい、いったいどこが果でどこが底か――この大秘境を測ることさえ許されない。ただ枯れた幹をおとした旧根樹(ニティルダ・アンティクス)の、錯綜(さくそう)の根がゆらぐ間にみえるのだ。強靱(きょうじん)な、ピラミッド型の根が幹を支えているうちに、幹は枯れ、地上に落ちたその残骸は、まるで谿(たに)いっぱいにもつれた蜘蛛(くも)糸をみるようであった。やがてその枯色も、鎖ざしはじめた昆虫霧にうっすらと霞んでしまったのである。――大秘境「悪魔の尿溜(ムラムブウェジ)」はちらりと裾(すそ)をみせ、それなり千古の神秘を人にみせることをしなかった。 三人はしばらく感慨ぶかげに立っていた。しかし気がつくと、その格闘のまま、ヤンとドドの姿が消えてしまっているのだ。たぶん、ひっ組んだまま陥没地に落ちたのだろうと、マヌエラは気もそぞろであったが、やがて紅い蔓花で花環を編んで、じぶんを救おうとして死んで故郷へもどったドドのために、接吻とともに底しれぬ墓へ投げこんだ。 そうして、歯がぬけたような淋しさが来たが、また陥没がはじまりそうなので此処を引きあげねばならなかった。しかし三人は、その日一日は酔ったような気持でいた。前人未踏の、この東端まできて悪魔の尿溜をのぞいたのは、おそらく有史以来この三人だけかと思うと、自然の尊位と威力を踏みにじった気にもなるが、なによりここを出て人里に帰ることが、いまのところいちばんの問題になっている。 といって、南へゆけばコンゴの「類人猿棲息地帯(ゴリラスツォーネ)」、そこではこの惨苦を繰りかえすにすぎない。してみると、北端にあたる大絶壁へ――いまアメリカ地学協会の探検があるはずだが……。 と、協議がまとまって進むことになったが……、これまでどおり、巨草荊棘(けいきょく)を切りひらいてゆくのではいく月かかるかも知れない。そのあいだ、この衰弱ではとうてい保つまいし、なによりこの二、三日来王蛇(ボア)に狙われどおしである。「ずいぶん、考えりゃ保つもんですわね」 マヌエラが、ボロボロの斧をながめてふうっと吐息をし、なにやら、座間に言えというような目配せをした。すると、座間が胸の迫ったような声で、「じつはカーク、いまマヌエラとも相談したことだがね。ここで、君一人に自由行動をとってもらいたいのだ」「なぜだ」 とカークはびっくりして目をみはって、「あんまり、唐突(だしぬけ)な話で訳がわからんが」「それは、こういう訳だ。君ならここを抜けだして人里へゆけるだろう。なまじ、僕ら二人という足手まといがあるばかりに、せっかく、ある命を君が失うことになる。お願いだ。明日、僕らにかまわずここを発(た)ってくれないか」「そうか」 としばらくカークは呆(あき)れたように相手をみていたが、「なるほど、君らを捨ててゆくのはいと容易(やす)いが、しかし、ここに残ってどうするつもりだ」「悪魔の尿溜へ、僕とマヌエラが踏みいるつもりなんだ」「なに」 と、カークもさすがに驚いて、「じゃ君らは、あの大陥没地(クレーター)へ身を投げるつもりか……」「そうだ、初志を貫く。だいたいこれが、僕の因循姑息(いんじゅんこそく)からはじまったことだから、むろん、じぶんが蒔(ま)いた種はじぶんで苅(か)るつもりだよ。マヌエラも、僕と一緒によろこんで死んでくれる。ただ、君だけは友情としても、どうにも僕らの巻添えにはしたくないんだ」 カークはマヌエラを振り向いた。彼女の目は断念(あきら)めきったあとの澄んだ恍惚さを湛(たた)えて、にんまりと座間をみている。おそらく全人類中のたった二人として、悪魔の尿溜(ムラムブウェジ)の底を踏んだときの二人の目はあの、ペンも想像も絶するおどろくべき怪奇と、また、恋の墓場としてのうつくしい夢をみるだろう。カークは、言葉を絶ってしばらく考えていた。 密林は、死んだような黄昏(たそがれ)の闇のなかを、ときどき王蛇(ボア)がとおるゴウッという響きがする。と、とつぜん、カークがポンと膝(ひざ)をうって言った。「座間、名案があるぞ。僕にそんな莫迦気(ばかげ)たことを、いわないでもすむようになるぞ」「えっ、なにがあるんだ?」「それは、この蔦葛のうえを“Kintefwetefwe(キンテフェテフェ)”に利用するんだ」「…………」「つまり、コンゴの土語でいう『自然草の橋』という意味だ。ああ、これまでなぜ気がつかなかったんだろう」 リビングストーンのマヌイエマ探検の部に、その“Kintefwetefwe(キンテフェテフェ)”のことがくわしく記されてある。 ――マヌイエマ近傍では、川を覆うて生草の橋ができる場合がある。つまり、両岸からの蔓が緊密にからみ合って、それがひろい川だと河床ちかくまで垂れてくる。踏むとふかふかとした蒲団(ふとん)のような感じで、足を雪から出すように抜きあげながら進む。 それがここでは、人間の身長の倍以上のたかさで、蔦や大蔓が砦(とりで)のようにかためている。 その自然の架橋を、いよいよ生気を復した三人がゆくことになり、やがて、マヌエラを押しあげてそのうえに立ったのである。この大湿林を、まさか上方からながめようとは思わなかったが、さすがその大眺望にはしばらく足を停めたほどだ。地平線は、樹海ではじまり樹海でおわっている。一色のふかい緑は空より濃く、まさに目のゆくかぎりを遮るものも、またこの単色をやぶる一物さえもないのだ。そうしてついに、この大湿林を抜けることができたのである。 楽々と、それまできた十倍以上を踏破し、北側の傾斜からまわって、絶壁のうえへ出ることができた。 見おろすと、眼下の悪魔の尿溜はいちめんの灰色の海だ。その涯がうつくしい残陽に燃え、ルウェンゾリの、絶嶺が孤島のようにうかんでいる。しかし、瘴癘(しょうれい)の湿地からのがれてほっとしたかと思えば、ここは一草だにない焦熱の野である。 赤い、地獄のような土がぼろぼろに焼けて、たまに草地があると思えばおそろしい流沙であった。そしてそこから、雨期には川になる砂川(サンド・リヴァ)が現われ、絶壁のちかくで地中に消えている。「有難うカーク、どれほど君のために助かったことだろう」「ほんとうですわ」 座間とマヌエラが真底から感謝した。それは、きて以来一滴も口にしない、おそろしい飢渇(きかつ)から救われたからだ。カークが砂川(サンド・リヴァ)の下の粘土層のうえが、地下流だというのをやっと思いだしたからである。ほかにも、ここへくると大枝をもってきて、ささやかながら小屋も建てられた。そうして、熱射も避け、水も手に入れ、ときどき鳥をうっては腹をみたす。が、なにより困ったのは青果類の欠乏で、そろそろ壊血病の危険が気遣(きづか)われるようになってきた。 すると、ちょうど六日目の午後に、一台の飛行機が上空に飛んできた。待ちに待ったアメリカ地学協会のものらしい。三人が飛びだして上着をふっていると、その飛行機からすうっと通信筒が落ちて来た。駆けよって、ひらいてみると、明日午後に――と書いてある。ながい惨苦ののちにやっとモザンビイクに帰れる。マヌエラは、感きわまって子供のように泣きはじめた。 しかしそのとき、その衝撃(ショック)が因でまたラターがおこった。今度は、カークのまえなので隠すこともできず、座間はその晩ねむれるどころではなかった。(可哀そうな、かなしいマヌエラ。ここで、よしんば助かるにしろ、先々はどうなろう。治るまい、おそらく真の狂人(きちがい)に移ってゆくだろう) 暗中に、目を据えて焚火(たきび)を見つめながら、座間は痩(や)せ細るような思いだった。いまに、醜猥(しゅうわい)な言葉をわめき散らすようになれば、美しいマヌエラは死に、ただ見るものの好色をそそるだけになる。よしんば助かっても空骸がのこる。恥と醜汚のなかでマヌエラの肉体が生きるだけ……。 するとその時、座間の目のまえへ幻となって、一匹の野牛の顔があらわれた。 それは、コンデロガを発って間もなく、曠原(こうげん)の灌木帯で野牛を狩った時のこと、砂煙をたてて、牝の指揮者のもとに整然と行動する、その一群へ散弾をぶちこんだ。すると、腹をうたれたらしい一匹がもがいていると、他が危険をおかしてそれに躍(おど)りかかり、滅茶滅茶(めちゃめちゃ)に角で突いて殺してしまったのである。どうせ、駄目なものは苦しませぬようにと、野獣にも友愛の殺戮(さつりく)がある。医師にも、陰微な愛として安死術がある。 焚火のむこうで鬣狗(ハイエナ)が嗤(わら)うようにうずくまっている。とたんに、怪しい幽霊がじぶんをみているような気がした。やがて、夢も幻もないまっ暗な眠りがはじまったとき、座間は胸にかたい決意を秘めたのであった。 翌朝、もう数時間後にはここを去ろうというとき、マヌエラは絶壁の縁にたっていた。悪魔の尿溜(ムラムブウェジ)の大景観を紙にとどめようとして、彼女がしきりとスケッチをとっている。そこへ、座間が背後からしのび寄ってきた。陽炎(かげろう)が、まるで焔(ほのお)のようにマヌエラを包んでいる。頭が熱し、瞼(まぶた)が焼けて、じぶんは地獄に墜(お)ちてもマヌエラを天に送ろうと、座間は目を瞑(つぶ)り絶叫に似た叫びをあげていた。 しかも、マヌエラをみるとまた決意が鈍ってくる。大きな愛だと心をはげまし近寄ってゆくうちに知らず知らず、座間は砂川(サンド・リヴァ)へはいってしまった。そこには殺すものが死に、殺されるものが生きる一つの偶然が潜んでいたのだ。彼は、水はなくとも砂が動くことは知らなかった。徐々に、彼のからだが前方にはこばれてゆき、やがて、あっという間もなく地上から消えてしまったのである。 それなり、座間の姿はけっして現われてこなかった。ただわずかな間に消えてしまったことが、まるで秘境「悪魔の尿溜」の呪(のろい)のように、マヌエラさえ思うよりほかになかった。遂に「悪魔の尿溜(ムラムブウェジ)」敗る 座間は死に、残る二人は助けられた。 マヌエラは、疲労と悲嘆のあげく床についてしまったが、それから一月後に一通の手紙が舞いこんできた。上封は、ヌヤングウェ駐在英軍測量部とあり、ひらくとなかにはもう一通の封書がある。それは、泥によごれ血にまみれてはいたが、目を疑うほどの驚きは、愛(いと)しいマヌエラへ、シチロウ、ザマより――とあるのだ。マヌエラは指先を震わせて封を切った。 マヌエラよ、天罰が私にくだった。あなたを、このうえ“Latah(ラター)”で苦しませるのは忍びぬと思いそっとあの断崖からつき落そうとしたとき……私は、砂流(サンド・リヴァ)に運ばれて地中に落ちこんだ。それは地中より湧(わ)きいで地中に消える暗黒河であった。 なん時間後か、なん日後か、とにかく私は闇のなかで目をさました。おそろしい冷気、冥路(よみじ)というのはこれかなと思ったほどだ。そしてどこかに、滝があるような水流の轟(とどろ)きがする。しかし、まだ私が死んでないということは、やがてからだを動かそうとしたときはっきりと分った。節々が灼けるように疼(うず)くのだ。私は、それでもやっと起きあがった。手さぐりで、からだを探ってみると雑嚢(ざつのう)がある。なかには、ライターもあり固形アルコールもある。――ああ、この、短い鉛筆でくわしくは書けない。 そこで、服地をすこし破いて固形アルコールで燃すと、ぐるりがぼんやり分ってきた。何処もかもが真白にみえる。目を疑った。すると、天井から雪のようなものが落ちてきた。甜(な)めて見ると唇につうんと辛味を感じた。それでやっと分った。私は砂川(サンド・リヴァ)から岩塩の層に落ちこんだのだ。地下水が岩塩を溶かしてつくる塩の洞窟だ。マヌエラ、あなたには想像もできまい。まるで月世界の山脈か砂丘のような起伏、石筍(せきじゅん)、天井からの無数の乳房、それが、光をうけるとパッと雪のようにかがやく。浄(きよ)らかな……まったくこんな中で死ねれば有難いと思った。 畝(うね)もある。なかには氷罅(クレヴァス)もある。ときどき、雹(ひょう)のようなのがばらばらっと降ったり、粉塩を小滝のように浴びることがある。と、ふとそばの壁をみたとき、思わず私ははっと呼吸(いき)をとめた。そこには巨(おお)きな粗毛だらけのまっ黒な手が、私を掴(つか)もうとするようにぬうっと突きでている。 マヌエラ、これが悪魔の尿溜の神秘「知られざる森の墓場(セブルクルム・ルクジ)」だ。 類人猿が、じぶんを埋葬にくる悲愁の終焉地(しゅうえんち)だと思うと、私はその壁を無性にかき崩(くず)した。すると、その響きにつれてどっと雪崩(なだ)れる。ああマヌエラ、塩を雪のようにかぶって起きあがったとき、一つ二つ、臨終そのままの姿であるいは立ち、あるいは蹲(うずく)まり、あるいは腕を曲げ、ゴリラや黒猩々が浮き彫りのように現われてくる。まったく絶えざる水蝕でかわるこの洞窟の中では、これが数百年あるいはなん千年まえのものか。ともかく、塩にうずまってすこしも腐らずに、今日まで原形を保ってきたのだ。ああ、私は悪魔の尿溜に入りこんで、最奥の神秘をみた全人類中のたった一人の男だ。 そうして、間もなく死ぬだろうじぶんさえも忘れ、ただ人間が自然に対してした最大の反逆を、歓喜のなかで溶けるように味わっていたのだ。 それから、滝は地底へと落ちている。それを知って、私は非常に落胆した。なぜなら、もしその地下水が絶壁へでていれば、そこから、悪魔の尿溜の大観を窺(うかが)うことができるし、また位置が低ければあるいは出ることもできよう。しかし駄目だ。私は底から盛りあがってくる暗黒の咆哮(ほうこう)に、いよいよ出口がなく、いま岩塩の壁で密閉されていることを悟った。事実も、絶えず洞窟の形が水蝕で変っているらしい。 すると私は、ここの低温度がひじょうに気になってきた。獣類ならともかく人間は、うかうかすると凍死する危険がある。まったく、アフリカ奥地の夏に凍え死ぬなんて、ここが地下数十尺の場所とはいえ皮肉なもんだと思った。 すると、そこへ一つの考えがうかんできた。それはいうのもじつに厭なことだが、いま暖をとるものといえばそれ以外にはない。私は、類人猿の死骸に目をつけた。 それからのことは、婦人であるあなたには詳述を避ける。とにかく、ここへ死にに来て相当の期間生きていたものには、体内にほとんど脂肪の層がない。ともあれ……やつらを燃やしてみることにした。 さいしょ、口腔(くち)に固形酒精(アルコール)をいれて、それに火をつけた。まもなく火が脳のほうへまわって眼球が燃えだした。ごうっと、二つの窩(あな)がオレンジ色の火を吹きはじめた。洞内が、なんともいえない美しさに染(にじ)んでゆくのだ。裂け目や条痕の影が一時に浮きあがり、そこに氷河裂罅(クレヴァス)のような微妙な青い色がよどんでいる。淡紅色(ときいろ)の胎内……、そこを這(は)いずる無数の青蚯蚓(みみず)。しかし、死骸は枯れきっていてなんの腥(なまぐさ)さもない。 私は、そうして暖まり、肉も喰った。しかし肉は、枯痩(こそう)のせいか革を噛むように不味(まず)かった。マヌエラ、私がなにをしようと許してくれるだろうね。 ところが、三つほど燃やして四つ目をひきだそうとしたとき、ふいに天井が岩盤のように墜落した。雪崩れが、洞内の各所におこって濛(ぼう)っと暗くなった。それが薄らぐと崩壊場所の奥のほうがぼうっと明るんでいる――穴だ。それから、紆余曲折(うよきょくせつ)をたどって入口のへんにまで出た。そこには、最近のものらしい四、五匹が死んでいる。マヌエラ、私は洞をでてはじめて外の空気を吸った。いよいよ私は悪魔の尿溜(ムラムブウェジ)のなかにでたのだ。 夜だった。空には、濛気(もうき)の濃い層をとおして赭(あか)色にみえる月が、すばらしく、大きな暈(かさ)をつけてどんよりとかかっている。私はいまだに、これほど超自然な不思議な光輝をみたことはない。中天にぼやっとした散光をにじませ、その光はあっても地上はまっ暗なのだ。 すると、この森閑とした死の境域へ、どこか遠くでしている咆哮(ほうこう)が聴えてきた。それが、近くもならず遠くもならず、じつにもの悲しげにいつまでも続いている。と、それから間もなくのこと、ようやく、暁ちかい光がはじまろうとするところ、ふいに私の目のまえにまっ黒なものが現われた。ぎょっとして、それを見つめながら、じりじりと後退(あとじさ)っていった。 マヌエラ、なんだと思うね。カークほどの身の丈で、お父さんより肥っていて、片手を頭にのせてずしりずしりと歩いてくる。時には、両肢(りょうあし)をかがめその長い手で、地上を掃(は)きながら疾風のようにはしる――ゴリラだ。私は、それと分るとぞっと寒気がし、顎(あご)ががくがくとなり、膝がくずれそうになった。私は懸命に洞の中へ飛びこみ、最前の穴らしい窪みをみつけて隠れた。が、その洞穴(ほらあな)は、浅くゆき詰っている。なお悪いことに、そのゴリラが穴のまえで蹲(うずくま)ったのだ。やがて、夜が明けたとき、視線が打衝(ぶつか)った。私は、あの傀偉(かいい)な手の一撃でつぶされただろうか。 マヌエラ、私は暫(しばら)くしてから嗤(わら)いはじめたのだよ。じぶんながら、なんという迂闊(うかつ)ものだろうと思った。なんのために、そのゴリラが森の墓場へきたか忘れていたのだ。ゴリラはさいしょ、私をみたとき低く唸ったが、ただ見るだけで、なんの手だしもしない。 七尺あまり、頭はほとんど白髪でよほどの齢らしい。つまり、老衰で森の墓場へきたのだと、私はやっとそう思った。野獣がここへくるときは闘争心は失せ、なにより彼らを狂暴にする恐怖心を感じぬらしい。そして食物もとらず餓えながら、静かに死の道にむかってゆくのだ。マヌエラ、ここで私は冥路(よみじ)の友を得たのだ。 Soko(ソコ)――と、やがてそのゴリラをそっと呼んでみた。この“Soko(ソコ)”というのはコンゴの土語で、むしろ彼らにたいする愛称だ。それから、Wakhe(ワケ),Wakhe(ワケ)――と、檻(おり)のゴリラへする呼声をいっても、その老獣はふり向きもしなかった。 ただ遠くで、家族らしい悲しげな咆哮が聴えると――ほとんどそれが、四昼夜もひっきりなく続いたのだが――そのときは惹(ひ)かれたようにちょっと耳をたて、しかもそれも、ただ所作だけでなんの表情にもならない。そうして、私とゴリラと二人の生活が、十数日間にわたって無言のまま続いた。私は、同棲者になんの関心も示さない、こんな素っ気ない男をいまだにみたことはない。 さて、もう鉛筆もほとんど尽きようとしている。あとは、簡略にして終りまで書こうと思う。 それから、私は精神医としていかにゴリラを観察したか、特にアッコルティ先生に伝えて欲しいと思う。それからも、毎日ゴリラはその場所を動かず、ただ懶(だる)そうに私をみるだけだった。衰弱のために、もう動くのさえどうにもならぬらしい。私が脈を見てもぼんやりと委せているだけだ。しかし、これは森の墓場へきたという本能だけではなく、先天的にゴリラというやつは体質性の憂鬱症(メランコリア)なのである。つまり、「沈鬱になり易い異常的傾向(アブノルメ・テンデンツ・デプレショネン)」がある。ああ、また鉛筆の芯(しん)が折れた。もう私は、これを書いてはいられない。 ここで早く、あなたへの愛とカークへの友情と、やがて私が死ぬだろうということを書かねばならない。私は、ながらく肉食ばかりしたため壊血病にかかった。いまは、歯齦(はぐき)の出血が、日増しにひどくなってゆく。そうだ! 病の因となった青果類はむろんのこと、この悪魔の尿溜(ムラムブウェジ)には一点の緑すらもないのだ。昆虫霧で、日中さえ薄暮のように暗い。その下は、ただ鹹沢(しおざわ)の結晶が瘡(かさ)のようにみえるだけで、旧根樹(ニティルダ・アンティクス)の枯根がぼうぼうと覆うている。 その根をゴリラのように伝わることが出来ればいいが、人間で、おまけに今の私にはそんな体力はない。まったくのところ、どこかの一隅に有尾人がいるかもしれない。またどこかに、象の腐屍がごろごろ転っていて、それを食う群虫がその昆虫霧かもしれない。しかし、この一局部にいてはなにも分らないのだ。ただ、ここが森の墓場であり、荒廃と天地万物が死を囁(ささや)いてくる、場所であることだけは知っている。 私はきょうめずらしく鵜※(がらんちょう)をつかまえた。よくあなたがドドを馴らして、木のポストに入れさせていた封筒のことを思い出したのだ。私はそれで、この手紙を書いてその封筒にいれ、鵜※(がらんちょう)に結びつけて放そうと思う。運よく……、そんな機会は万一にもあるまいが、もし、あなたの手に入ればそれは愛の力だ。 私は、この墓場に埋まる最初の人間として……悪魔の尿溜にいり込んだはじめての男として……また、ゴリラと親和した唯一の人として……ことに、あなたへの献身をいちばん誇りとする……。 いま、午後だが大雷雨になってきた。もう一日、この手紙を続けて、鵜※(がらんちょう)を放すのを延ばそう。 マヌエラ、この一日延ばしたことがたいへんな禍(わざわい)となった。といって、いま私が死のうとしているのではない。私が、いままで心を向けていたあらゆるものの価値が、まるで、どうしたことか感ぜられなくなってしまったのだ。あなたのことも、カークのこともこの悪魔の尿溜(ムラムブウェジ)征服も、いっさい過去のものが塵(ちり)のように些細(ささい)にみえてきた。 どうしたことだろう。じぶんでそうであってはならないと心を励ましても、その力がまるで咒縛(じゅばく)されているように、すうっと抜けてしまうのだ。きっとマヌエラ、これは魂を悪魔の尿溜(ムラムブウェジ)に奪われたのだろう。人間という動物であるものが森の墓場へきて、恋人をおもったり娑婆(しゃば)を恋しがったりすることが、そもそも悪魔の尿溜の神さまにはお気に召さないのかもしれない。戒律(タブー)だ。それを破った私は当然罰せられる。それで今日から、「知られざる森の墓場(セブルクルム・ルクジ)」の掟(おきて)に従うことになった。いや、おそろしい力に従わせられたのだ。 今朝、ゴリラがちょうど二週間目に死んだ。 私は、鹹沢(しおざわ)のへりにいて洞窟にいなかったが、そこへ妙な、聴きなれない音が絶(き)れ絶(ぎ)れにひびいてくる。それが、洞窟のほうなのでさっそく戻ると、ゴリラがまさに死のうとする手でじぶんの胸をうち、かたわらの石をうっては異様な拍子を奏でているのだ。私もゴリラに音楽があるという噂は聴いていたけれど、その音は、「いま遠い、遠いところへゆく」と叫んでいるようなもの悲しげなものだった。私は、とたんに哀憐の情にたまらなくなってきて、ゴリラの最期を見護(みと)ろうと膝に抱えたとき、意外な、軽さにすうっと抱きあげてしまった。 まったく、力のあまりというのが、その時のことだろう。ながい、絶食と塩分の枯痩(こそう)とで、そのゴリラは骨と皮になっていた。それにしても、この私とてもおなじように痩(や)せ、まして、壊血病になやみながらこの老巨獣を、抱きあげられたことはなんといっても不思議であった。私は、ここにいる間に森の人になったのではないか。痩せても二百ポンド以上のものを軽々とのせ、その両手をみたときは泥のような酔心地だった。 ゴリラを抱いた。と、すべて人間社会にあるものが微細にみえてきた。個人も功績も恋愛などというものも、すべて吹けば飛ぶ塵のようにしか考えられなくなった。マヌエラ、これが悪魔の尿溜の墓の掟なのだ。獣は野性をうしない、人は人性をわすれる――私も死にゆく巨獣となんのちがいがあろう。 こうして、私は、悪魔の尿溜(ムラムブウェジ)を征服し、そうして征服されたのだ。だがマヌエラ、まだ私はさようならだけはいえるよ。 座間の手記は、ここで終っていた。悪魔の尿溜(ムラムブウェジ)の妖気(ようき)に、森の掟に従わされ、よしんば生きていても遠い他界の人だ。不思議とマヌエラには一滴の涙もでなかった。 彼女はなかに、もう一通同封されている英軍測量部の手紙をとりあげた。 敬愛するお嬢さま――同封の書信を、お送りするについて、一奇譚(きたん)を申しあげねばなりません。それは、この発信地のヌヤングウェのポスト下には、同封の書信を握りしめた異様な骸骨が横たわっていたのです。それは、丈が四フィートばかりで、人間とも、類人猿ともつかぬ不思議なものでありました。当地は、おそろしい蟻の繁殖地で、朝の死体は夕には、肉はおろか骨の髄まで食われてしまうのです。ただ、その骸骨が不思議なものであっただけに、その旨を御興がてらに申し添えて置きます。 ドドだ! マヌエラは、大声でさけんだ。 ドドは、ヤンと一緒に陥没地へ落ちたが、やはり生きていたのだ。そうして、座間が放った鵜※(がらんちょう)をとらえ、肢に結びつけてある封筒をみたとき、急にあの訓練を思いだしてヌヤングウェのポストへいったのだ。そしてそのあいだの、百マイルの道に精も根もつき、やっと辿(たど)りついて昏倒(こんとう)したところを残忍な蟻どもに喰われたのだろう。 彼女は、草原の熱風に吹きさらされる骨を思い、座間の怪奇を絶した異常経験には、一滴も、流さなかった涙をすうと滴らした。 それから、ドドの血がついた封筒に唇をあて、人間よりも、高貴な純真なドドのために、心からの親しさでそっと十字を印したのである
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