人外魔境
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著者名:小栗虫太郎 

人外魔境有尾人(ホモ・コウダッス)小栗虫太郎大魔境「悪魔の尿溜(ムラムブウェジ)」 フランスの自動車会社シトロエンの探検隊――。これは、米国地理学協会ほどの大規模なものではないが、とにかく一営利会社としてはなかなかの仕事をしている。最初は、アフリカのサハラ沙漠を牽引車(トラクター)で突破し、続いて、ペルシア、中央アジアを経てペキンまで、無限軌道(キャタピラー)をうごかしていった大旅行隊(キャラヴァン)をさえだしている。 さて、その三回目の計画であるが、すでに選定もすみ雨期あけを待つばかりだそうである。それも、これまでのような自動車旅行ではなく、謎と臆測(おくそく)と暗黒のうちにうずもれている、前人未踏の神秘境を指しているのだ。 では、どこか? そんな土地がまだこの地球上にあるのかと、読者諸君は不審がるだろうが、あるとも大有りである。「未踏地帯(テラ・インコグニタ)」と、精密な地図にさえ白圏のままに残された個所が、まだ四、五か所はある。それらの土地は、なにか踏みいれば驚天動地的なものがあるだろうと、聴くだに探奇心をそそりたてる神秘境なのである。 そこでまず、選定会議にのぼった候補地をあげることにしよう。そうして、シトロエンの探検隊がこれからゆこうという場所が、いかにそれらさえも凌(しの)ぐ超絶的な地位にあるかということを、読者諸君にはっきりと知って貰(もら)おう。一、南米アマゾン河奥地の、“Rio Folls de Dios(リオ・フォルス・デ・ディオス)”の一帯。二、北極にちかい、グリーンランドの中央部八千尺の氷河地帯にあるといわれる、“Ser‐mik‐Suah(セルミク・シュアー)”の冥路(よみじ)の国。三、支那(しな)青海省の“Puspamada(プシパマーダ)”いわゆる金沙河ヒマラヤの巴顔喀喇(パイアンカラ)山脈中の理想郷。四、? 第一のアマゾン河奥地というのは「神々の狂人」と訳される。ここへは、米国コロンビア大学の薬学部長ラマビー博士一行が探検したが、ついに瘴癘湿熱(しょうれいしつねつ)の腐朽霧気(ガス)地帯から撃退されている。ただ、白骨をのせた巨蓮(ヴィクトリア・レギア)の食肉種が、河面(かわも)を覆うているのが望遠レンズに映ったそうである。 第二の神秘境は、エスキモー土人が狂気のように橇(そり)を駆ってゆくという、グリーンランドの中央部にある邪霊(シュアー)の棲所(すみか)である。そこは、極光(オーロラ)にかがやく八千尺の氷河の峰々。そこには、ピアリーやノルデンスキョルド男でさえもさすがゆきかねたというほどの――氷の奥からふしぎな力を感ずる場所だ。 第三は、梵語(ぼんご)で花酔境と訳される。そこは、遠くからみれば大乳海を呈し、はいれば、たちこめる花香のなかで生きながら涅槃(ねはん)に入るという、ラマ僧があこがれる理想郷(ユートピア)である。彼らは、そこを「蓮中の宝芯(マニ・バードメ)」と呼んで登攀(とうはん)をあせるけれど、まだ誰一人として行き着いたものはない。そのうえ、古くは山海経(せんがいきょう)でいう一臂人(いっぴじん)の棲所(すみか)。新しくは、映画の「失われた地平線」の素材の出所とにらむことのできる――まさに西北辺疆(へんきょう)支那の大秘境といえるのである。 しかし、以上の三未踏地でさえ足もとにも及ばぬという場所がいったい何処(どこ)にあってなにが隠れているのか、さぞ読者諸君はうずうずとなってくるにちがいない。それは赤道中央アフリカのコンゴ北東部にある。すなわち、コンゴ・バンツウ語でいう“M'lambuwezi(ムラムブウェジ)”訳して「悪魔の尿溜(にょうだめ)」といわれる地帯だ。そこには、まだ人類が一人として見たことのない、巨獣の終焉地(しゅうえんち)「知られざる森の墓場(セブルクルム・ルクジ)」が、あると伝えられている。 ではここで、この謎の地域がけっして私のような、伝奇作者のでたらめでないという証拠に、英航空専門誌“Flight(フライト)”に載った講演記事を抜粋してみよう。講演者は、ナイロビ、ムワンザ間のウイルスン航空会社(エアウェーズ)のファーギュスンという操縦士だ。 私も、悪魔の尿溜攻撃は、数回にわたって試みましたが、結局空からも征服は不可能という惨めな結論を得たばかりです。 飛行機万能の現代では、航空機の前に未踏地はなし――とまでいわれるのに、なぜ悪魔の尿溜(ムラムブウェジ)だけには敗退したか? 悪気流か? それも一因でしょう。 だいたい、悪魔の尿溜の北側は大絶壁になっております。そのうえがゼルズラと呼ばれる流沙地帯なのですが、そこは、上空の空気が非常に稀薄(きはく)で、よく沙漠地方におこる熱真空(ヒート・ヴァキューム)ができるのです。 そこへ来ると飛行機はもうよろよろと蹌踉(よろめ)きます。しかし、絶壁下にひろがる悪魔の尿溜の湿林は濃稠(のうちょう)な蒸気に覆われてまったく見通しが利きません。その靄(もや)か、沼気(しょうき)か、しらぬ灰色の海に、ときどき異様な斑点があらわれるのです。 私は思い切って、最後の飛行の時ぐっと下降してみました。ところが、いままで、濃霧(ガス)か沼気かと思っていたのが驚いたことに雲のように群れている微細な昆虫だったのです。横三十マイルにもひろがる悪魔の尿溜(ムラムブウェジ)の上空をぎっしりと埋めて、おそろしい蚊蚋(かぶゆ)の大群が群れているのです。マラリア、デング熱の病原蚊、睡眠病の蠅、毒蚋、ナイフのような吻(くち)の大馬蠅の Tufwao(チュファ) ああ、その大集雲! 悪魔の尿溜に、よしんば金鉱が隠されてあろうとダイヤモンドが転がっていようと、あるいは珍奇獣虫がいようと原人がいようとも、この永劫(えいごう)霽(は)れようとも思われない毒の羽虫の雲を除くには、恐らくガスマスクをつけ防虫完備の工兵が、優に一師団をもってしても数年はかかろうかと思われます。 これが飛行家の観察した悪魔の尿溜だが、つぎに、その奥にあるといわれる巨獣の墓場のことである。おそらく読者諸君も、ゴリラや黒猩々(チンパンジー)などの類人猿や、野象にかぎって死体をみせぬのをご承知であろう。してみると、どこか到底人間には行けぬ密林の奥にでも、彼らの死場所がなければならない。悪魔の尿溜(ムラムブウェジ)がこの条件にぴったりと嵌(はま)っているわけだが、これも作者の創作と思われては困るから、歴然としたパラッフィン・ヤング卿の赤道アフリカ紀行、「コンゴからナイル河水源(カブト・ニリ)へ」のなかの一記事を引用しよう。 晴天だと、ルウエンゾリ山が好箇の目標になるのだが……、降りだして雨霧(もや)に覆われてからは、ただ足にまかせて密林のなかを彷徨(さまよ)いはじめた。泥濘(ぬかるみ)は、荊棘(とげいばら)、蔦葛(つたかずら)とともに、次第に深くなり、絶えず踊るような足取りで蟻(あり)を避けながら、腰までももぐる野象の足跡に落ちこむ。 すると、前方約百ヤードほどのあたりに、ぴしぴし枝を折りながらドス赭(あか)いものが動いてゆく。ゴリラだ! 私はこのコンゴの奥ふかくにくるまで、ゴリラには一度も逢わなかったのだ。そこで、ほとんど衝動的に連発銃(ウィンチェスター)をとりあげようとした。すると、土人が一人飛びついて銃をおさえ、「旦那、あのゴリラ(ソコ)は恩人でがす。殺すなんて、英人(レコア)の旦那らしくもねえでがすぞ」 土人は、ゴリラのことを“Soko(ソコ)”という愛称で呼んでいる。私は声を荒らげるよりも呆気(あっけ)にとられて、「なぜいかんのだ。ゴリラが獲(と)れるなんて千載に一遇ではないか」「それがです。旦那は、野象(ぞう)の穴へ落ちたとき、磁針(ほうみ)をお壊しなすったので、儂(わし)らは、どっちへどう出たらこの森を抜けられるか、いま途方に暮れているでがす。そこへ、あのゴリラ(ソコ)が教えてくれたでがすよ。つまり、おらが歩んでゆく先が北に当るぞちゅうて……」「そんなことが、お前にどうして分るね?」「あのゴリラ(ソコ)は、いま森の墓場へ死ににゆこうとしているのだ。それが、わしらにはゆけねえ悪魔の尿溜(ムラムブウェジ)にあるちゅうだ。ゴリラ(ソコ)はな、雨が降るとあんなには歩きましねえ。ぼんやりと、手を頭にのせてじっと蹲(しゃが)んでおりますだ。わしらは、幼(ちっ)けなときからゴリラ(ソコ)をみてるだが、雨んなかを、死神にひかれて歩かせられてゆくような、ゴリラ(ソコ)にかぎって北へゆかねえものはねえでがす」 私にはその悪魔の尿溜(ムラムブウェジ)の一言がぴいんと頭へきた。事によったら、いまいる我々の位置が途方もなく深いのではないか。そういえば、密林のはずれにあるマヌイエマの部落で、“Kungo(クンゴー)”といっている蚊蚋(かぶゆ)の大群が、まさに霧(クンゴー)のごとく濛々(もうもう)と立ちこめている。私は、そう分るとぞっと寒気だち、あのゴリラがいなければ死んだかもしれぬと思うと、いま頭に手を置いてのそりのそりと歩いてゆく、墓場への旅人に冥福(めいふく)の十字をきったのである。 ヤング卿はこうして倉皇(そうこう)と逃げかえって、危く一命を完了した。なまじ進めば、北は瞬時に人を呑(の)む危険な流沙地域。他の三方は、王蛇(ボア)でさえくぐれぬような気根寄生木(きこんやどりぎ)の密生、いわゆる「類人猿棲息地帯(ゴリラスツォーネ)」の大密林。だが、読者諸君、そこへ踏みいって無残にも死に、奇蹟的(きせきてき)にも大記録を残すことのできたわが日本人の医師がいるのだ。その踏破録を、シトロエン文化部の発表に先だって、これから物語風に書き綴(つづ)ろうとするのである。有尾人ドドの出現 葡(ポルトガル)領東アフリカの首都モザンビイクは、いま雨期のまっ盛りにある。 人が腐る、黒人(くろんぼ)の膚からは白髪のような菌がでる――そういう、雨期特有のおそろしい湿熱が、いまモザンビイクをむんむんと覆いつつんでいる。雨、きょうもこの島町は湯滝のような雨だ。 毒蠅のマブンガを避けて閉めきっている室のなか、座間の研究所の一室に、アッコルティ先生がいる。イタリア・メドナ大学の有名な動物学の、この先生はなにものを待っているのだろう?! 焦(じ)れきって顎髭(あごひげ)からはポタリポタリと汗をたらし、この※気(うんき)に犬のように喘(あえ)いでいる。「座間君、カークが僕になにを見せようというのだね。僕が、アッと魂消(たまげ)るようなものというから船を下りたんだが……」「秘中の秘です。なんとでも、先生のご想像にお任せしましょう」「じゃ、オカピか、ゴリラかね」「はっはっはっは、そんな月並みなものなら、お引き止めはしませんよ」 座間はただ、さも思わせぶったようににたりにたりと微笑(ほほえ)んでいる。彼は、三十をでたばかりの青年学徒、小柄で、巨(おお)きな顔で、やさしそうな目をしている。しかし、一目肌をみればそれと分るように、座間は純粋の日本人ではない。三分混血児(テルティオ)――アデンの雑貨商だった日本人の父、黒白混血のイタリア人を母とした三つの血が、医専を日本で終えても故国にはとどまらず、はるばる熱地性精神病研究にモザンビイクへきたのであった。 といるわいるわ、女には舞踏病の静止不能症(ラマーナヤーナ)、男には、マダガスカル特有の“Sarimbavy(サリムバヴィ)”や“Koro(コロ)”そこへ、モザンビイク一の富豪アマーロ・メンドーサの援助があり、ついに研究所をひらき土着の決心をした。そうして、座間は黒人の神となった。生涯を、熱地の狂人にささげ、藪草(やぶくさ)にうずもれようとも、あわれな憑依妄想(ひょういもうそう)から黒人を救いだそうとする――座間は人道主義(ヒューマニズム)の戦士だった。そうして、六年あまりもモザンビイクで暮すうちに、彼はカークという密猟者と親しくなった。次いで、よくカークをつれて奥地へゆく、アッコルティ先生とも知りあいになったわけである。しかしいま、ちょっと南阿(アフリカ)から寄港した先生を、なぜ座間が引きとめているのか。たしかに、なにかの驚くべきものをアッコルティ先生に、みせようとしているのは事実であるが、一体なんであろう?! 折からそこへ、扉があいて若い男が姿を現わした。一見、黒白混血児とわかる浅黒い肌、きりっとひき締った精悍(せいかん)そうな面(つら)がまえ、ことに、肢体(したい)の溌剌(はつらつ)さは羚羊(かもしか)のような感じがする。 ジョジアス・カーク――国籍(せき)は合衆国(アメリカ)だが有名なコンゴ荒し――禁獣を狩っては各地へ売る、白領コンゴのお尋ねものの一人だ。 カークはお待ち遠さまと微笑んで見せて、右手を扉のそとにだしたまま閾(しきい)から入ってこない。やがて、彼の手にひかれてこの室内へ、まったく予期以上とばかりアッコルティ先生が目をみはる、世にも不思議な生物がはいってきたのだ。まったく、そのときの先生の驚きようといったらなかった。一眼鏡(モノクル)の、目をあけたままポカンと口をあけ、やっと経(た)ってから正気がついたように、「おう、有尾人(ホモ・コウダッス)!」と唸(うな)るように呟(つぶや)いた。 それは、全身を覆う暗褐色の毛、丈は四フィートあるかなしかで子供のようであり、さらに一尺ほどの尾が薦骨(せんこつ)のあたりからでている。といって、骨格からみれば人間というほかはないのだ。しかし、頭の鉢が低く斜めに殺(そ)げ、さらに眉のある上眼窩弓(じょうがんかきゅう)がたかい。鼻は扁平で鼻孔は大、それに下顎骨(かがっこつ)が異常な発達をしている。仔細(しさい)に見るまでもなく男性なのである。 それはまあいいとして、この有尾人からは、山羊(やぎ)くさいといわれる黒人の臭(にお)いの、おそらく数倍かと思われるような堪(たま)らない体臭が、むんむん湿熱にむれて発散されてくる。アッコルティ先生は、ハンカチで鼻を覆いながらじっと目を据(す)えた。「ふむ、温和(おとな)しいらしい。ときに、君らには懐(なつ)いているかね」「ええ、そりゃよく」とカークが煙草の輪を吐きながら答えた。「すると、これを獲(と)ってから大分になるんだね」「いいえ、此処(ここ)へきてまだ七日ばかりですよ。第一ドドが、僕の手に落ちてから二週間とはなりません」「ドドとは……」「僕らがつけた、この紳士の名前です」「はっはっはっは、じゃ、有尾人ドド氏というわけだね」 とアッコルティ先生が笑っているなかにも、なにやら解(げ)せぬような色が瞳のなかにうごいている。野生のもの、しかも智能のたかい猿人的獣類が、わずか十日か二週間でこうも懐(なつ)くはずがあるだろうか。「ときに、君はこのドド氏をどこで獲ったのだね」「場所ですか」とカークは思わせぶったようにすぐには答えず、まず、ドドを捕まえるにいたった一仍(いちぶ)始終を語りはじめた。「とにかく、ドドが懐いたというのは、最初の出がよかったからですよ。僕は先生のお説の、ゴリラ定期鬱狂説を利用して、今度こそ六尺もある成獣を捕えてやろうと思って出かけたのです」 アッコルティ先生は、前年度の学会にゴリラ定期鬱狂説を発表して、斯界(しかい)に大センセーションをまき起した。 ゴリラには、憂鬱病(メランコリー)と恐怖症(ホビー)が周期的にきて、その時期がいちばん狂暴になりやすいという。そして苦悶(くもん)が募(つの)って来て堪(た)えられなくなると“Hyraceum(ヒラセウム)”を甜(な)めにきて緩和するというのだ。ヒラセウムとは、岩狸(ハイラックス)が尿所へする尿の水分が、蒸発した残りのねばねばした粘液で、カークはこのヒラセウムのある樹洞(ほら)のまえに、陥穽(わな)を仕掛けようとしたのであった。「僕は陥穽(わな)をにらんで四昼夜も頑張っていました。すると、五日目の昼になってとうとうやって来ました。それが、なん歳ぐらいのものか藪の密生で分りませんが、とにかく、ぴしぴし枝を折りながら樹洞(ほら)のほうへやってくる。やがて、えらい音がしてどっと土煙があがりました。しめた、生きたゴリラなら十万ドルもんだと、さっと土人と一緒に勢いよく飛びだすと……どうでしょう、たしかに落ちたはずのゴリラの真正面に向きあってしまったのです。しかし、すぐ相手は四足で逃げ出しましたがね」「ほほ、陥穽(わな)に落ちたのがそのゴリラでないとすると……ドドかね」「そうなんです、しかし、覗(のぞ)きこんだときはさすが驚きましたよ」「そうだろう。君みたいな……、コンゴ野獣の親戚(しんせき)でも、これには驚くだろう。しかし、最初のうちは抵抗しただろうが」「それがしないのです。じつに、ひどい苺果痘(フラムベジア)にかかっていたのです。僕は、なにより可愛想になってきて、さっそく皮膚に水銀膏(こう)をなすってやると、大分落ちついてきました。もう以前のように幹へからだを擦(こす)ったり、泥を手につけて掻(か)きむしるようなことはしません。ただ、目をほそめて僕の手にある、水銀膏の罐(かん)をものほしそうにながめているのです。それで僕はこいつは物になると思って、その罐を囮(おとり)に手近かの部落まで、とうとうドドをなにもせずにひっ張ってきたのです」「なるほど、さすがはジャングルの名人芸だね」 思わずアッコルティ先生は感嘆の声を洩(も)らした。「それから、ドドの苺果痘(フラムベジア)のほうは座間君の手ですっかり癒(なお)りました。ですから、僕と座間君にはむろんのこと、この研究所の出資者メンドーサ氏の令嬢、マヌエラさんにも非常に懐(なつ)いているんです」 ちょうどそこへ、扉がわずかに開いて、うつくしい顔がのぞいた。今も今とて噂(うわさ)したマヌエラ嬢だった。彼女は、真白な洗いたての敷布(シーツ)のようにどこからどこまで清潔な感じのする娘だ。座間とは婚約の仲、また人道愛の仕事の上でもかたく結びついている。「先生が、どういう風にドドを観察なさるか、伺いにあがりましたわ」 マヌエラの明るい声の調子が、アッコルティ先生の気分を爽(さわ)やかにしたとみえて、先生はさっそく観察の発表をはじめた。 はじめに尾をさして、いわゆる薦骨奇形の軟尾体(ワイシェ・シュワンツ)だといった。つぎに、全身を覆う密毛がしらべられ、その一本立ての三本くらいを、黒猩々(チンパンジー)特有の排列と説明する。さらに、ドドの後頭部が大部薄くなっているのが、「黒猩々的禿頭(アントロボビテークス・カルヴス)」そっくりながら……耳も、円形の黒猩々耳(チンパンジー・オーレン)。つぎに、眉がある部分の上眼窩弓がたかいのも、黒猩々特有のものだと先生はいう。そうなって、次第にドドは人間黒猩々間の、雑交児ということに証明されそうになってきた。 すると、先生が俄然(がぜん)言葉を改め、ドドの頭上に片手を置いていったのである。「これがね、いわゆる小頭(ミクロケファレン)というやつだ。つまり、頭骨の発達がなく脳量がない。したがって、智能の度が低いという原人骨同様だ」 原人という言葉にどっと部屋中が騒がしくなった。誰よりも、マヌエラがまっ先に質問をした。「じゃ、ドドが原人なんでございますね。とうに、数百万年もまえに死滅しているはずの……」「とにかく、人間黒猩々の雑交児という説に、これはむろん並行していえると思うね。いや、わしは断言しよう。古来、いかなる蛮人にもこれほど下等な頭骨はない――と」 生きている原人、血肉をもった原始人骨――まさに自然界の一大驚異といわなければならない。 では、ドドはどうして生まれ、どこから来……、また純粋の人間とすればどうして数百万年も、固有のかたちが変えられずに伝わったのだろうか。 でまず、ドドを人獣の児として考えてみよう。そうすると、なぜ群居をはなれて彷徨(さまよ)っていたのだろうか。捨てられたか……追放されたか……? あるいは、ずうっと幼少時から孤独でいたとすれば野獣や、王蛇(ボア)が横行する密林でぬけぬけ生きられるわけはない。また、故郷のジャングルをしたう郷愁といったものも、ドドには気振(けぶ)りにさえもみえないのだ。 郷愁を感じない、野生動物がどこにあるだろうか。つかまって、環境がちがったときはどんな生物でも、食物をとらなかったりして郷愁をあらわすものだが、それがドドには不思議にもないのだった。 すると、カークをふり向いてアッコルティ先生がいった。「まだ捕獲した場所を聴いてなかったね。いったい、このドドをどこで見つけたんだ?」「それが、ほぼ東経二十八度北緯四度のあたりです。英(イギリス)領スーダンと白(ベルギー)領コンゴの境、……イツーリの類人猿棲息地帯(ゴリラスツォーネ)から北東へ百キロ、『悪魔の尿溜(ムラムブウェジ)』の魔所へは三十マイル程度でしょう」 悪魔の尿溜(ムラムブウェジ)――それを聴くと同時に、一座はしいんとなってしまった。ただ、屋根をうつ大雨の音だけが轟(とどろ)いている。「そうか、悪魔の尿溜のそばか――」 アッコルティ先生もここまで来ると、あっさり断念(あきら)めたように投げやりな口調になった。ドドを、悪魔の尿溜と組合せることは、もう科学者の領域ではなかったからである。 それから先生は、ドドのために急遽(きゅうきょ)帰国する決意をし、あたふたと時計をみながら帰っていった。そのあと、座間とカークが疲れたような目で、ぼんやりと屋並みをながめている。 砂糖菓子のような回教寺院(モスク)の屋根も港の檣群(しょうぐん)も、ゆらゆら雨脚のむこうでいびつな鏡のようにゆれている。そのとき、仏マダガスカル航空(フレンチ・マダガスカルサービス)の郵便機が、雨靄(もや)をくぐりくぐり低空をとおってゆく気配。座間は、むっくり体をおこして言った。「君、あれなんだがね」「あれって? 飛行機がどうしたというんだね」「つまり、ドドのことなんだ。ドドは、飛行機をみてもけっして恐がらないのだぜ。かえって、嬉しそうな目付きで、奇声さえあげる。そうかといって、『悪魔の尿溜(ムラムブウェジ)』の近傍に航空路はないよ。英帝国航空(インペリアル・エアウェーズ)も、フランスの亜弗利加航空(エール・アフリカ)も、それぞれ地図のうえで半度以上も隔っている。奇怪だ。猿人、原人といわれるドドが飛行機に驚かない。それでいて、王蛇(ボア)や豹をみるとひどく恐がる」「きっと『悪魔の尿溜』探検の飛行機でもみたんだろうよ。しかし、五度や六度で、馴れるとは思われないな」 太古以前の、原始生活をしていたはずのドドが飛行機に驚かない――これはまさに不思議以上だ。やはりこれはアッコルティ先生が一度疑ったように、ドドは一種の作りものではないのか。そう思ってながめると、とうてい想像もできないようなおそろしい秘密が、ドドの肉体に隠されているように思われて、しみじみそら恐しくさえなる。 暗くなってきた。すると、雨靄(もや)のむこうから、ボーッと汽笛がひびいてくる。E・D・S(エルダー・デムスター)の沿岸船ベンガジ丸が、いまモザンビイクにはいってきたのだ。しかしその船は、やがて悪魔の尿溜(ムラムブウェジ)へ一同を駆(か)りやろうとする、運命の使者を乗りこませていたのである。善玉悪玉嬢(ミス・ジキル・ハイド) ベンガジ丸には、ヤン・ベデーツというベルギー青年が乗りこんでいた。 これは、マヌエラの父の旧友の息子で、マヌエラとは筒井筒(つついづつ)の仲だが、うま[#「うま」に傍点]があわぬというのか、マヌエラは非常に彼を嫌っていた。それに、どこへいっても腰の落ちつかぬ男で、先ごろまで、エジプトのミスル航空会社で副操縦士(コ・パイロット)をしていたが、そこでも、喧嘩をしたらしくモザンビイクに帰ってきたのである。マヌエラの父が親代りで、ヤンの父の遺産を保管しているからだった。 ところがヤン・ベデーツがくると、研究所の空気がきゅうに乱れてきた。それはヤンが患者を汚ながったり虐待(ぎゃくたい)するばかりか、座間やカークには、この混血児めと蔑視的な態度を見せるからだった。「なにか、ありましたんでしょう?」 今日も今日とて案じ顔に、座間の胸のボタンをいじりながらマヌエラが、やさしい上目使いをして訊ねた。「さっき、ヤンがたいへんな目をして、ハアハアいいながら水を飲んでいましたよ。それからカークさんは、拳固のへんに辛子膏をなすっていらっしゃるんですの」「じゃ、やったんでしょう。カークは、いつかやってやると言ってましたからね。ジャングルの主が野牛を殴りとばすような勢いでやったんじゃ、ヤン君もさぞ痛かったでしょう。しかし、ヤン君の身にもなれば……」「え? なんのことですの」 マヌエラは聞き咎(とが)めた。「つまり、三年ぶりでここに帰ってくると、あなたには思いがけない僕という人間ができている。八つ当りしたくなるのも無理はないでしょうよ」 しかし、マヌエラはかなしそうな目をして、「あの人がじぶん勝手な僻(ひが)みでどういう考え方をしようと、それにあたしたちまでひき摺(ず)られるわけはありません。ねえ、ヤンはヤン、こっちはこっちですわ」 と、香りのいい髪を嗅(か)がすように、座間の胸のなかへ頬をうずめる。「あたしは、あなたの日本の血を尊敬してますわ」 まるで素直な子供のような言い方であった。座間には、それが弱い電気のように、快よく響いてくる。すると、マヌエラがふと話題を変え、「そうそう、この週の報告をしなきァなりませんわ。でも、ドドは相変らずですの」 と、引き受けたドド馴育(じゅんいく)の結果を話しだした。「火がわかったのが三週まえでしたね。手工はどうでしょう?」「まだ、そんなにお急(せ)きになったって……。でも、先生から言いつけられたことは、ちゃんちゃんとしてますわ。ちかごろは、いったいドドがどんな機嫌でいるか――つまり、ドドの感情表出も見ています」「はあ、それがわかりますかね」「ええ、第一ドドは笑われるのを嫌います。それに、色も知っているし記憶力もたしかです。また、相当な学習能力もあります。それで、いつもあたしが使っている水仙(すいせん)色の封筒ね、あれを、構内のポストに入れるのを昨日あたりから覚えましたの」「ほう、そりゃお手柄だ、それから、先生がいわれた餌料(じりょう)による実験は?」 それによって、ドドが原人か人獣児であるか、その点がはっきりと分るはずだった。 もちろん、これはアッコルティ先生の指図で、難しく言えば「皮膚色素の移行」の研究である。たとえば、果実を主食とする黒人にたいし、その量を減らすと皮膚の色が淡くなる。また淡黒色のホッテントットに常食の乳を減らすと、その色がしだいに濃くなってくる。ことに、その変化がはやいのが類人猿で、つまり、ドドがたべる生果の量を減らして、その効果をいち早くみようというのだった。 マヌエラは、餌料のことを聞くと、かるく口を尖(とが)らせて、「いけませんわ。ドドは人間ですわ。科学ってなんて残酷なんでしょう。やれ、ドドに蛋白(たんぱく)を与えろ、もし黒猩々(チンパンジー)の血があればてきめんに衰弱するとか、食べものを減らして皮膚の色をみろとか……、そんなこと、それは動物にすることだと思いますわ。ドドはあくまで人間で、あたくしの友だちです」 ふかい、同情の念とかたい信念とで、マヌエラがきっぱりと言い切った。彼女の、骨にまで浸みたカトリックの教育は、よくこうした場合、一歩も退かせないのだ。座間は浄(きよ)らかな百合(ゆり)の花をみるように、しばしマヌエラの顔を恍惚(こうこつ)とながめていた。 まったく、ドドはマヌエラのそばを一瞬の間もはなれようとしない。いないと、いまも聴えるように悲しそうな叫び声をたてる。 お嬢さん、いまに魅入られますよ――と、カークは冗談に言ったけれど、まったく二人の親密さにはそう言いたくなる。 ところが、その夜不思議な出来事がおこった。 夜になると、温度はいくぶん下がるけれど、その倦怠(けんたい)さと発汗の気味わるさ。湿気の暈(かさ)が電灯の灯をとりまいている。 こういう時には、ドドの唸(うな)り声さえもちがってくる。じつに、誰でも平常でなくなるような、蒸し暑い、いやな晩であった。 その夕、座間はヤンと激論を戦わした。それは、ドドを売れば十万やそこらにはなるだろうから、それにヤンの資産をくわえて研究所を拡張し、名実兼ねた総合病院にしようというのだった。つまり、座間がしている社会施設を、ヤンが営利化しようというのである。 しかし、これには、なによりマヌエラが真向から反対した。それでも、ヤンは嘲笑(せせらわら)って、なアにお父さんを説き伏せて晩にきますよと、洒々(しゃあしゃあ)と自信ありげに帰っていったのである。そうして、研究所に一つの危機がくることになった。 と、その夜、座間が寝つかれないので、書斎へゆこうとしたとき、ドドの部屋のまえをとおると、鍵がおりてない。そこへ、患者面会人がやすむ部屋のほうで、微かにごそりごそりと音がする。まさか、ドドが逃げるわけはないがと、そっとその部屋の扉をひらいたときだった。思わず、あッと叫びそうなのを辛(から)くも抑えたほど、座間ははげしい駭(おどろ)きにうたれた。 そこにいたのは……ドドではない。さっきの憎しみを忘れたように、ヤンとマヌエラが抱かんばかりに向き合っている。座間はまず、じぶんの目を疑った。続いて、耳までも疑わねばならぬような会話を聞いた。「あたしを愛してくれますか」 ちょっと、漁色にすさんだヤンでもふるえた声で言うと、「ええ、あたしも愛してくれますか」とマヌエラも切なそうに呼吸(いき)をする。 あのマヌエラ、昼間のマヌエラがなんという変りかた?! 丁度このとき、おおきな伸びをしながらカークが降りてきた。すると、ヤンはいきなりマヌエラを突きはなし、手をふりながら向うの扉から消えてしまった。座間は、この世界がまっ暗になったような気持で、ただその場に茫然(ぼうぜん)と立ち竦(すく)んでいた。 と、ヤンの姿が消えたと思ったとき、またも座間をあっと言わせるようなことが起った。 それは、清浄無垢(むく)なマヌエラとも思われない……、また淑女たらずとも普通の町家の女でも、よもや口にはしまいと思われるような醜猥(しゅうわい)な事柄を、まるでじぶん自身に言いきかすかのように、マヌエラがべらべらと喋(しゃべ)りはじめたからだ。 マヌエラ! 断じて幽霊ではない、真実のマヌエラだ。昼間の、灼かれようとも挫(くじ)けない人道主義(ヒューマニズム)の天使が、夜は、想像もされない別貌をしてあらわれたのだ。どっちだ? どっちが本当のマヌエラかと、座間は白痴のように頭を振り振り廊下へでていった。 と出会いがしらに、ドドの手を引いてカークがやってきた。「君、馴育(じゅんいく)掛りのお嬢さんへようくいわなきァ駄目だぜ。鍵を忘れたもんだから勝手にでちまって、それに、此奴(こいつ)までがえらく亢奮(こうふん)している」「どこにいたんだ?」「患者面会人室の廊下の羽目際だ。なにか、こいつが亢奮(こうふん)するようなことがあったらしい」 なるほど、これまでのドドには決してみられなかった、一種異様な激情のさまを呈している。犬歯を歯齦(はぐき)まで鉤(かぎ)のようにむきだして、瞳は充血で金色にひかっている。そして、ひくい唸り声を絶(き)れ絶(ぎ)れにたてながら、今にもかくれた野性がむんずと起きそうな、カークでさえハッと手をひくような有様だった。 それからドドをいれて扉に鍵をおろすと、座間はカークを促(うな)がしながら戸外へ出ていった。やがて本土とのあいだが二町ばかりにせまっている、有名なマラガシュの入江に出た。 湯のような雨……くらい潮が……ぽうっと燐光にひかる波頭をよせてくる。そして砂上の、ひいたあとは星月夜のようにうつくしい。だが座間は、どうしてカークとこんなところへ来たのかじぶんでも分らなかった。「どうしたい、いやに悄(しょ)んぼりして……。まさか、猫の死骸に念仏をいいにきたんじゃないだろうが」 カークは、いつもとちがって底気味悪さを湛(たた)えている座間を景気づけるように言った。すると、座間はいきなりふり向いて、「おい、僕にドドを売っちゃくれまいか」「えッ、ドドを売れって?!」カークも少からず驚いて、「なんのためだ。僕の手から買ってどうするつもりだ」 思わず見上げる座間の眉宇間(びうかん)には、サッと一閃の殺伐の気がかすめてゆく。殺してやる! マヌエラがあの魔性のものに魅込まれたのでなければ、ああも奇怪な二重人格をあらわすわけはない。と、知らず識らず、この入江の腐肉の気にさそわれてきた座間である。 カークは早くも、それを悟ったと見え改まったような調子で、「じゃ、その話を真剣にとるがね。すると、まず、売る売らないに先だって、決めておきたいことがある。それは、ドドが獣か人間かということだ。売っていい動物か、売ってはならない人か……サア座間君どっちだろう」 言われて、座間の咽喉(のど)がぐびっと鳴った。しかし、ちょっと顫(ふる)えただけでなにも言えなかった。「人身売買……奴隷売買を……いまこの現代に口にする奴があるかね。それとも、ドドを人獣の児として――その場合を君はどう考える? 混血だ、おなじことだよ。ドドが黒猩々(チンパンジー)と人のまざりなら僕は、半黒(ミュラート)、君は三分混血児(テルティオ)だ。僕らが白人以下のものとして蔑視されるのも、君が、半分の獣血をみとめて、ドドを売れというのも……」 そのカークの言葉を身に滲(し)むように聴きながら、座間はくらい海の滅入るような潮騒(しおさい)とともに、ひそかに咽(むせ)びはじめていたのだ。       * その一夜は寝床のなかで転々としながら、ついにまんじりともしなかった。マヌエラと、ドドの奇怪な行動を考えあぐめばあぐむほど、ますます頭が冴(さ)えて眠れるどころではなかった。 マヌエラのあれは、「ジキル博士とハイド氏」のように二重人格なのか――と、ますます糸のもつれが深まるなかで、座間は追及の鬼のようになっていた。それとも、ドドに同情を深めすぎた結果か? といって淑女を涜(けが)すような想像はしなかったが、もしやあるかも知れないドドの魔性が、恋情とともにマヌエラに絡(から)みついたのではなかろうか。 あのときドドは羽目を隔てていたが、それを透して、なかのマヌエラを遠くから動かす――そんなことは、土人の魔法医者(ウィッチ・ドクター)なら朝飯まえの仕事だ。まして、飛行機をみても驚かぬようなドドには、なにか底しれぬものがある。 マヌエラ自身の素質か、ドドの魔性かと、廻り燈籠のような疑問が考え疲れたあげくふと消えて、座間は思いがけもしなかった大きな穴が、じぶんの足下に口を開いているのに気がついた。ああ、二重人格でもなければ、ドドの魔性でもない。たんなるマヌエラの裏切りなのだ。ヤンがきてその純白の肌を見、振返って座間の黒々とした皮膚をみたとき、マヌエラは一途に座間が嫌いになったのだ。売女(ばいた)、売女め! とかきむしるような言葉を、寝床のなかで座間は咆(ほ)えたてていた。やがて夜があけた。雨が暁の微光に油のように光りはじめてきた。 その翌夜、カークを書斎に呼びいれて、座間は気負ったように話しはじめた。「君、僕は旅行しようと思う」「よかろう、君はきのうの晩ちょっと変だったが、きっと、過労のせいだと思う。どこへゆくね? スイスかウィーンかね」「いや、この大陸のずうっと内核(なか)へゆきたいんだ。コンゴのイツーリからずうっと北へ――僕は、未踏地帯(テラ・インコグニタ)にゆく」「え?」「ぼくは『悪魔の尿溜(ムラムブウェジ)』へゆくんだ!」ナイルの水源閉塞者 カークは唖然(あぜん)として座間を見詰めていたが、やがて、「よし、聴こう。しかし、命がけの観光なんてないからね。むろん、目的もあり見込みもあってのことだろう」「そうだ。ときにカーク、君はコンゴへいり込んで禁獣を狩る。それで、いちばん金になったときはどのくらいなもんだ」「マア、五万ドルかね。オカピを獲ったときは、そのくらいになったが」「ゴリラは?」「あれは獲れん。あいつは、遅鈍(のそ)ついているようだがそりゃ狡猾(こうかつ)で、おまけに残忍ときてるんだから始末がわるいよ。いっそ、猩々(オラン・ウータン)のような教授(プロフェッサー)然としたやつか、黒猩々(チンパンジー)みたいな社交家ならいいがね、どうも、厭世主義者(ペシミスト)とか懐疑主義者というやつは、猟師にはいちばん扱いにくいんだよ。しかし、射殺しただけでも二、三万にはなるだろう」「じゃ、そのゴリラが……、無数と、死体をならべている渓谷があったとしたら……。ざっと、世界の大学を六百とみて、それに、骨格一つずつ売ったにしても、千万長者にはなれる。だが、それは君の仕事だ。僕の目的は別のほうにある」「冗談いうな」カークはからからと嗤(わら)いはじめた。「本気で聴いてりゃいい気になって、そんなとこが、もしあるなら俺が逃すもんか」「あるとも」座間は自信気たっぷりにいう。「僕は、友情にかけ君の勇気を信じていう。ところで、君は、ヘロドトスという歴史家を知っているかね」「むろん、みたことはないが名だけは知っている。ギリシアに、昔いたという博識(ものしり)だろう」「そうだ。ところが、そのヘロドトスが書いたなかに、ナイル河の水源についてこういうことがある」 ヘロドトスが、ナイルの水源について次のような話を、エジプトサイスの長官からミネルバで聴いたことがある。 ナイルの水源(カブト・ニリ)は、クロフィス及びメンフィスという、シェーネとエレファンティス間にある二つの山巓――呼んで半月の山脈(モンス・ルーヌラ)という渓谷の奥にある。その半月の山脈には“Colc(コルク)”という湖があり、バメティクス王が、綱を数千“ogye(オギエ)”も垂れたが底に届かずとある。つまり、ナイルの水源は、その奥にあるというのだ。 さらにそこには、「盤根の沼(パルス・ラディコスス)」「知られざる森の墓場(セブルクルム・ルクジ)」があり、矮人(ピクミエン)が棲み有尾人(ホモ・コウダッス)がいる。そしてそれが、場所というのが悪魔の尿溜(ムラムブウェジ)で、棲んでいる矮小有尾人がすなわちドドとなる――座間がこう結論したのである。「なるほど、しかしその、むずかしいラテン語を説明してもらおうじゃないか」「それはね、『盤根の沼(パルス・ラディコスス)』というのは、錯綜(さくそう)たる根の沼だ。沼が盤根錯綜たる、叢林のしたにあるという意味だ。それから『知られざる森の墓場(セブルクルム・ルクジ)』というのは、巨獣の終焉地(しゅうえんち)だ。死体をみせぬ象や類人猿がそこにきて眠るという。ねえカーク、どっちにしても、悪魔の尿溜(ムラムブウェジ)じゃないか。しかも、有尾人ドドの故郷だ」 そういえば、カークもそれに似たような土人の伝説を聴いたことがある。ヌグンベという、ドド発見地の近傍の部落だが、そこから悪魔の尿溜の方向にあたる北西かたの山腹に、“Leo(レオ)”という奥しれぬ洞窟があるのだ。――そこが、人類発祥の地だという。つまり、太古のとき動物とともに、彼らの祖先がその洞から出てきたというのだ。 まったく、そういえば数えきれぬほどあるではないか。こういう、無稽な伝説が探検によって裏書きされ、また、そういうものがしばしば因となって、探検欲をうごかし大発見をさせたことが! ここに……、いまその洞窟のかなたには悪魔の尿溜がある。しかもそこが、半獣児ドドの発生地に目されている。「どうだ君、悪魔の尿溜(ムラムブウェジ)なら何億年も処女でいられるよ。そこでは、動物も、植物も原始地球のままだ。獣交も、殺戮(さつりく)も自然律にすぎない。そこで僕は、アッコルティ先生の説をもう一歩すすめるよ。つまり……ドドは、そこにいる原始人と親和的な、黒猩々との雑交児だろうということだ。第一、親を有尾人とするのには、尾がある。それ以外は、外見、智能といいそっくりの黒猩々(チンパンジー)だ」 カークは、すっかり圧倒されてしょんぼりと瞬いている。座間の、ちがった人のような不思議な情熱を、どこに、こんな静かな男にこんなものがあったのだろうと……、相手の唇を呆然とながめていたのである。「それから」と座間はすべるように続けてゆく。「なぜドドが郷愁を感じないかということが、僕にはやっと分ったような気がするよ。それはね、苺果痘(フラムベジア)をわずらって死期を知ったのだ。そして、死ぬために森の墓場へいった。そうなると、もうじぶんは帰れない……、これから、知らない世界へゆかねばならぬということが、彼らには本能的にわかる。そこへ、ドドは道をちがえたのだ。そして、森の墓場へはゆけず、君の手に落ちた……。だから君にも抵抗をしない……。こんな人里へきても郷愁を感じない……。ねえカーク、僕はその墓場へ、悪魔の尿溜(ムラムブウェジ)へゆきたいんだよ」 原人、類人猿、象もそうだろう? 彼らが、死期をさとって森の墓場へゆこうとするときは、まったく本能的に帰郷の意志がなくなるという――座間の明快な推測であった。 しかし、そういう座間が、淋(さび)しそうに微笑んでいる。恋の空骸(むくろ)が、死をもとめるかわりに未踏地をえらんだのだろう。やがて、カークとのあいだにかたい盟約が成りたった。 ところが、そのことをマヌエラに話すと、意外にも彼女が一緒にゆこうと言いだしたのだ。犠牲が、ねがう幸福のほうに、マヌエラを向けようとするとき、意外にも、それを蹴って敢然とゆくという。座間はすっかり分らなくなってしまった。 間もなく、マヌエラのあとを蛇のように追う、ヤンを加えドドを連れて、まずさいしょの根拠地となるコンデロガへ発ったのである。「ちかごろ、七郎はどうしちまったのよ」 話があると、マスカの実が地上に垂れさがっている陰へ、マヌエラが座間を呼びこんだ。雨期あけの灼(い)りつけるような直射のしたは、影はすべてうす紫に、日向(ひなた)の赭土は絵具のように生々しい。それがコンデロガを発つ探検第一日の前日だった。 マヌエラは、胸に飛びこみたい衝動を抑えているように、ぱちぱちと伏目で瞬いている。「どうもしませんよ。僕は、相変らずの僕ですが」「いいえ、ちがっています。まえは、そんな冷ややかな七郎ではありませんでした。女は、そんな点にはいちばん敏感ですのよ。ねえ、なにか、お気に障(さわ)るようなことがあって?」 すると、座間がまた迷うのである。それまでは、ヤンとあの夜の狂態はなんだと、彼はマヌエラに瞋恚(しんい)の念を燃やしていた。それが、こうして見ている、初々しさ……たどたどしさ。なんだかじぶんのほうが思い過しのような、座間にはそんな感じさえしてくる。 あれ以後、ヤンとマヌエラのあいだは非常に外々(よそよそ)しいものだった。少なくとも、ああしたことは一度だけらしく、翌日は、ヤンが根城にしようとした総合病院化を、父にすがって一蹴してしまったのである。これにはヤンも座間と同様おどろいたことだろう。しかし、彼は一夜の甘味をけっして忘れるような男ではない。どんなに白眼視され相手にされなくても、またのチャンスを狙いながら探検隊をはなれなかったのである。 まったくマヌエラには、座間もヤンもおなじ考えにちがいない。不思議な女だ、二重人格かドドの所業かと……、ヤンが、鉄面皮を発揮して探検隊に加われば、座間はあれこれと非常に迷いながらも頑固な壁をマヌエラに立てつづけているのだった。 ところで、この探検の費用はマヌエラの父がだし、それも座間が疲労を癒(いや)す物見遊山としか考えていない。 カークも、大湿林の咆吼(ほうこう)をよぶ狂風を感じはするが……、死を賭(と)して、不侵地悪魔の尿溜をきわめようなどとは、夢にもさらさら思わないことだった。そしてまた、マヌエラも、おなじように考えていた。ただ、しばらく仕事から離れればと……、ちかごろ座間の様子がじつに変であるだけに、どうかこの旅行で静養してくれと、じっさい悪魔の尿溜のことなど最初から頭になかった。しかも、座間とてもおなじように変ってきている。 それは、さいしょカークと二人だけと思ったところへ、意外にもマヌエラが加わるし、ヤンが追ってくる。そうして、絶えずマヌエラの美しさをみていると、この探検は、じつに悪魔の尿溜(ムラムブウェジ)攻撃にあるのではなく、ヤンを除く、天与のまたとない機会のように思われてきた。密林、鰐(わに)のいる河、野獣、毒蛇。ここでは、下手人に代ってくれるあらゆるものが豊富だ。 と、その考えが、やはりヤンにもあるらしい。そうして、二人は胸に敵意をひめながら、どうやらさいしょの意図とはちがってしまった探検隊が、数日後はコンデロガを発ったのである。 ところで、悪魔の尿溜(ムラムブウェジ)攻撃の進路であるが、それは、西方、南方の境界部はコンゴの「類人猿棲息地帯(ゴリラスツォーネ)」、北は、危険な流沙地域である大絶壁にかこまれ、わずか東のほうに密林帯が横たわっている。ところが、これまでの数回の探検隊とも、そこへはいると同時に消息を絶ってしまうのだ。まったく、木乃伊(ミイラ)取りが木乃伊というあの言葉のように、あとからあとからと続いても一人の生還者もない。しかし一同は、ともかくその道をゆくことにした。 二百の荷担ぎ――それに、車や家畜をふくめた長蛇の列が、イギリス駐屯軍の軍用電線にそうて、蟻塚(ありづか)がならぶ広漠たる原野を横ぎってゆく。土の反射と、直射で灼(い)りつくような熱気には、騾(らば)の幌車(ほろぐるま)にいてもマヌエラは眠ってしまう。やがてゆくと、白蟻が草を噛(か)みきったあとがある。兵隊蟻の、襲撃を避けるため不毛の地にしてしまう。白蟻がちかければ沢がちかいのだ。気のせいか、草の丈がだんだんに伸びてゆく。間もなく、第一日の夜営地になる、うつくしい沢地があらわれたのだった。 水際には、蜀葵(たてあおい)やひるがお[#「ひるがお」に傍点]のあいだにアカシヤがたっている。水は、一面に瑠璃(るり)色の百合をうかべ肉色のペリカンが喧(やか)ましい声で群れている。マヌエラは、こんな楽園が荒野のなかにあるのかと、いそいそと水際を飛びあるきはじめた。そこへ、カークが記憶があるといいだした。「その沢から、あの藪地(ブッシュ)を越えて、ほぼ十マイルもいったところが、ドドの発見地なんだ。おいドド久しぶりで故郷(くに)へかえろうぜ」 しかしドドは、マヌエラのうごきを貪るように追っている。まっ白な脛(すね)、花を摘んで伸びたときのうつくしい均斉。 それを追いもとめる目には通じない意志に、悶(もだ)えるようなかなしそうな色がうかんでいる。 またドドは、ここへ来てから何ものかの呼び声をうけている。ときどき、段状にかさなってゆく中央山脈の、一染の、樹海と思われるあたりをおそろしい目でながめていたり、なにより、葉摺(ず)れの音にもびくっとなるし、あらゆる野性のものが呼び醒(さ)まされようとしている。それには、座間もカークもとっくから気がついていたのだ。「ドドは、森の墓場へゆき損って人の手に落ちた。しかし今に、そのとき失った野性が強くなるか、それともマヌエラに惹かれて人の世にとどまるか――いずれはどちらかになると思うよ。しかし、注意は充分しなきァならんね」 探検隊がドドを連れてきたには目的があったのである。それは、さいしょカークと逢ったその場所へゆけば、おそらく故郷を思いだして先頭にたつのではないか。そうして隊が、その跡に続けば人にはわからない、悪魔の尿溜への極秘の道をゆけるのではないか――と。しかし、その試みは失敗に終ってしまった。ドドは、はじめて覚えたマヌエラの魅力に、帰郷の意志などはとっくに失ってしまっている。 その夜、はじめて夜明けまえにライオンの咆吼(ほうこう)を聴いた。藪地のなかで、豹にやられるらしい小野豚(センズ)の声もした。やがて、危険な角蛇(ホーンド・ヴァイパー)のいる藪地を越えたとき、はや隊のうえにおそろしい不幸が舞い落ちてきた。 それは、抵抗のつよい騾(らば)をのぞくほか、いそいで河中に追いこんだ水牛六頭以外は、野牛も駱駝(らくだ)も馬も羊も、みな毒蠅のツェツェに斃(たお)されたのだ。それからが、文字どおりの難行であった。荷担ぎ(バガジス)は、荷が嵩(かさ)んだので値増しを騒ぎだし、土はあかく焼けて亀裂が這(は)い、まさに地の果か地獄のような気がする。灌木(かんぼく)も、その荒野にはところどころにしかない。たまに、喬木(きょうぼく)があっても枯れていて、わずか数発の弾でぼろりと倒れてしまうのである。 しかし、もうそこは山地にちかい。左には、連嶺をぬいて雪冠をいただいている、コンゴのルウェンゾリがみえる。そのしたの、風化した花崗石(グラナイト)のまっ赭(か)な絶壁。そこから、白雲と山陰に刻まれはるばるとひろがっているのが、悪魔の尿溜につづく大樹海なのである。 翌暁、赭(あか)い泥河(でいが)のそばで河馬(かば)の声を聴いた。その、楽器にあるテューバのような音に、マヌエラは里が恋しくなってしまった。 しかしまだ、ここは暗黒アフリカの戸端口(とばくち)にすぎない。きのう見た、藪地のおそろしい棘草(きょくそう)、その密生の間を縫う大毒蜘蛛(タランツラ・マグヌス)――。しかし今日は、いよいよ草は巨(おお)きく樹間はせまり、奥熱地の相が一歩ごとに濃くなってゆくのだ。そして、この三日の行程が四十マイル弱。最後の根拠地となるマコンデ部落にはいったのが、翌日の午(ひる)過ぎだった。 ここから、想定距離二十マイルの山陰に、悪魔の尿溜の東端をみるはずなのである。そしていよいよ、これまで経てきた平穏な旅はおわり、百年の道にも匹敵するその二十マイルへ、悪魔の尿溜攻撃がはじまるのだった。「とんでもねえ。荷担ぎ(バガジス)にゆきァ、死にに往(ゆ)くようなものさァ」 酋長がぐいぐい棕櫚酒(ポムピ)をあおったり印度大麻(ムトクワーネ)を喫ったり、すこぶる上機嫌のなかでもこれだけは聴かなかった。「マア、論より証拠というだで、ちょっと見てもらいますべえ」 外にでると、連嶺のしたは一面の樹海だ。樹海のはての遠いかなたに、ゆらゆら煙霧のようなものが揺ぎあがっているのがみえる。すると、そばの土人がおそろしそうな声でさけんだ。「ほうれ、煙が鳴るだよ」 気のせいか、その煙霧がブウンと鳴っているような気がする。やがて、陽が落ちかかると硫黄(いおう)色にかがやいて、すでにそのときは塊雲のように濃くなっていた。煙が鳴る――人煙皆無の大樹海のかなたに、毎日、日暮れちかくになるとこの霧が湧くという。そしてそれ以来、この部落を通過して悪魔の尿溜を衝こうとする、探検隊が一人も帰ってこないのだ。しかし、往(ゆ)けるところまでというとやっと承知して、あくる日、荷担ぎ(バガジス)とともに密林をわけはじめたのである。 そこは、虎でもくぐれそうもない蔦葛(つたかずら)の密生で、空気は、マラリヤをふくんでどろっと湿(し)っけている。大蟻、蠍(さそり)、土亀の襲撃を避け猿群を追いながら……、よくマヌエラがゆけたと思うほどの、難行五時間後にやっと視野がひらけた。 その地峡で、軍用電線が鍵の手にまがっている。すなわちその線を前方に伸ばせないものが、あらたに迫っている密林の向うにあるのだろう。案の定、荷担ぎどもは動かなくなってしまった。ゆけ、金をやるぞとあまり語気がつよいと、おう、お嬶ァ(ヤ・ムグリ・ワンゲ)――と、なかには泣きだすものが出てくる。 じっさい、ここで一同は戻ろうとしたのだった。探検の熱意は、もう誰にもなく、ただカークの指揮でここまで来ただけでも、一同にとれば大成功といえよう。すると、座間一人がなんと思ったのか、強くゆくことを主張したのである。 殺意が……、この静かな男の面上を覆(おお)い包んでいるのを、そのとき誰も気が付くものはなかった。この機会、最後の密林のなかでヤンを殺(や)ろう。と、身丈ほどもある気根寄生木の障壁、そのしたに溜っているどろりとした朽葉の水。それが、燈火へ飛びこむ蛾の運命となるのも知らず、ともかく、荷担ぎを待たして前方に足をすすめたのである。 そのとき、地峡をとおる蛇を追うために、カークが野火をはなった。その煙りが、娑婆(しゃば)をうつすいちばん最後のものになったのが、隊のなかの誰と誰だろうか。そうして、最後の密林行がはじまったのである。 すると間もなく、樹間がきらきらと光りはじめてきた。森がつきる――とそのとき、どこに潜んでいたのか十四、五人のものが、一同をぐるりと取り囲んでしまった。見なれぬ土人だ。しかも、頭(かしら)だった一人は短いパンツをつけている。「やあ、今日は(ナマ・サンガ)」 カークが進みでて愛想よく挨拶をした。しかし、練達な彼がぐっとつかえ、語尾が消えるように嗄(かす)れてしまったのだ。拳銃が……無気味な銃口をむけている。やがて、顎(あご)でぐいぐい引かれて森をでると、したは、広漠(こうばく)たる盆地になっている。草葺(ぶ)きが、固まっているなかに、倉庫体のものさえある。「ここは、どこだね」 カークが一同を怯(おび)えさせまいとするように、言った。すると、その男の口から意外にも、未探地帯(ウンベカント・クライス)――とドイツ語が洩れた。アッと、顔をみると鼻筋(はなすじ)の正しい、色こそ熱射に焼けているが、まぎれもない白人だ。「驚いたろう。俺は、ここに二十年あまりもいる。万一有事のとき、ナイルの水源を閉塞(へいそく)するためにかくれている。俺はドイツ人でバイエルタールという男だ」 こうして、想像を絶する悪魔の尿溜(ムラムブウェジ)の怪奇のなかへと、運命の手が四人のものを招きよせてゆくのだった。「猿酒郷(シュシャア・タール)」の一夜 一行の導かれた盆地は谿谷の底といった感じで、赭(あか)い砂岩の絶壁をジグザグにきざみ、遥か下まで石階(いしばし)が続いている。それが、盆地の四方に一か所ずつあって、それ以外の場所は野猿にも登れそうもない。しかし、五人のものは、なんの危害もうけなかった。かえって、怪人バイエルタールは上々のご機嫌だった。「ここで、白人諸君に会おうとはまったく夢のようだ。どうだ、“Shushah(シュシャア)”という珍しいものを飲(や)らんかね」 といって、怪人は椰子(やし)の殻にどろりとしたものを注いで、「ねえ君らも、子供の時に猿酒の話を聴いたろう。それが、ここへきてみると、立派に『猿酒(アクワ・シミェ)』といえるものがあるんだよ。これは黒猩々がこっそり作っている。野葡萄(ぶどう)や、無花果(いちじく)の類を樹洞(ほら)で醗酵させ、それを飲るもんだからああいう浮かれ野郎になっちまうんだ、はっはっはっはっは、それでここを『猿酒郷(シュシャア・タール)』と名付けることにしたんだがね」 そういって尻ごみをする一同にはカッサバ澱粉のパンをすすめ、じぶんは「猿酒(シュシャア)」を呷(あお)り“Dagga(ダッガ)”という、インド大麻に似た麻酔性の葉を煙草代りに喫っている。その両方の酔いがもう大分まわったらしく、バイエルタールはだんだん懆(あや)しくなってきた。半白の髪の様子ではもう五十にちかいだろう。ただ剛気そうな目が、恍(うっと)りとした快酔中にもぎらついている。 やがて、問われるままに、ここへ来た話をしはじめた。「俺はもと、ドイツ領東アフリカ駐屯軍の一曹長だったが、一九一六年の三月にタンガンイカ湖で敗れた。そのとき俺たちの隊が退路にまよい、北へ北へといってヴィクトア・ニールにでた。それはもう話にならぬような悲惨な旅で、一人減り、二人減りで百人もいた隊が、しまいには六、七人になってしまった。みんな熱病にかかったり、毒蛇にやられてしまった。 それで、とうとうここまで逃げのびると、さすがにイギリス軍もやってこなくなった。きっと、悪魔の尿溜ちかくで斃(や)られちまったと、奴らは考えたにちがいない。しかし俺たちは生きのびていた。まるで、ロビンソン・クルーソーのような生活をして、大戦がいつ終ったかも知らないし、おまけに子まで出来た。はッはッはッは、むろんお袋は土人の女だがね」 こう言ってバイエルタールは、妙にぎらぎらする瞳でマヌエラを見据(す)えた。魔烟(まえん)のために、大分呂律(ろれつ)が怪しくなっているし、調子も、うきうきと薄気味悪いほどである。「ところで、つい一昨年のこと、ここへマコンデから宣教師がふらふらと迷い込んできた。みるとドイツ人なんだ。話がはずんだ。大戦が終ったということもそのとき聴いたし、故国(くに)も変ってしまってナチスという、反共の天下になった事も初めて知った。だが、外地へゆく宣教師には特別の使命がある。スパイもやれば宣伝もやる。彼はそういう種類の男だったのだ。それで、ともかく部落は全滅したということにして、あることないこと大嘘をこき混ぜて、マコンデの部落へいい触れさした。つまり、ここが行ってはならない危険な場所になったということを、帰りしなに触れさしたわけだよ。しかし、俺とその男のあいだには、かたい約束ができていた。いいか、俺はどんな蛮地にいようとも、立派なドイツ国民として行動して見せるのだ」 この今様ロビンソン・クルーソーがなにを言いだすのだろうと、一同は興味深く顔をのぞき込んだが、斉(ひと)しくのっぴきならぬ危険が起りそうな予感を覚えた。バイエルタールは、そしらぬ顔つきでお喋りを続ける。「それはね、万一事ある場合、たとえば英仏相手の戦いがおこった場合、まず青(ブルー)と黒(ブラック)ニールの水源をエチオピアでとめてしまう。それから、俺は白(ホワイト)ニールにでて上流を閉塞する。と、どうなる?! エジプトの心臓ナイル河の水が、底をみせて涸々(からから)に乾(ひ)あがるだろう。むろん灌漑水(かんがいすい)が不足して飢饉(ききん)がおこる。舟行が駄目になるから交通は杜絶する。そうなって、澎湃(ほうはい)とおこってくる反乱の勢いを、ミスルの財閥や英軍がどうふせぐだろうか」 折から天空低く爆音が聞えた。毎夕、悪魔の尿溜(ムラムブウェジ)からくる昆虫群をふせぐために、石鹸石(ソープストーン)、その他の粉霧を上空から撒(ま)くのだという。それがマコンデからみえる「鳴る霧」の正体だったのだ。ドドが飛行機をみても驚かぬわけは、おそらくここの近くにいたために、機影を知っていたせいであろうと察せられた。 それから、その飛行機のことをバイエルタールに訊(たず)ねると……英領ケニアの守備隊で同僚を殺し、偵察機一台をさらってここへ逃げこんできた英人飛行士で、その後、縦断鉄道測量隊をヤンブレで襲い、当分防虫剤やガソリンには不自由しないと、バイエルタールは鼻高々の説明だった。 その間も彼の目は、寝ているドドの背に置かれたマヌエラの手のうえを、まるで甜(な)め廻すように這(は)いずっているのだが、どうやらそれも、ただの酔いのせいではなさそうに思われてきた。と突然、彼は割れるような哄笑(こうしょう)をはじめた。「分ったろう、俺はナイルの閉塞者なんだ。はっはっはっはっは、君らは妙な顔をして、俺を島流しの狂人とでも思ってるだろうが、それもよかろう。しかし、ここには武器もあり爆薬もある! それに、月に一度は連絡機がくる。サヴォイア・マルケッティの大輸送機が、北アフリカ航空(ノルド・アフリカ・アヴィアチオーネ)の線から飛んでくる。倉庫もある、飛行場もあれば格納庫もある。全部、巧妙な迷彩で上空からわからんようになっている」 探検の一同は、聴いているまにだんだんと蒼(あお)ざめてきた。
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