黒死館殺人事件
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著者名:小栗虫太郎 

「ところで、死体から栄光を放った例を御存じでしょうか」「僧正ウォーターとアレツオ、弁証派(アポロジスト)のマキシムス、アラゴニアの聖(セント)ラケル……もう四人ほどあったと思います。しかし、それ等は要するに、奇蹟売買人の悪業にすぎないことでしょう」と法水も冷たく云い返した。
「それでは、闡明(せんめい)なさるほどの御解釈はないのですね。それから、一八七二年十二月蘇古蘭(スコットランド)インヴァネスの牧師屍光事件は?」

(註)(西区アシリアム医事新誌)。ウォルカット牧師は妻アビゲイルと友人スティヴンを伴い、スティヴン所有煉瓦工場の附近なる氷蝕湖カトリンに遊ぶ。しかるに、スティヴンはその三日目に姿を消し、翌年一月十一日夜月明に乗じて湖上に赴きし牧師夫妻は、ついにその夜は帰らず、夜半四、五名の村民が、雨中月没後の湖上遙か栄光に輝ける牧師の死体を発見せるも、畏怖して薄明を待てり。牧師は他殺にて、致命傷は左側より頭蓋腔中に入れる銃創なるも、銃器は発見されず、死体は氷面の窪みの中にありて、その後は栄光の事なかりしも、妻はその夜限り失踪して、ついにスティヴンとともに踪跡を失いたり。

 法水は鎮子の嘲侮(ちょうぶ)に、やや語気を荒らげて答えた。
「あれはこう解釈しております――牧師は自殺で他の二人は牧師に殺されたのだと。で、それを順序どおり述べますと、最初牧師はスティヴンを殺して、その屍骸を温度の高い休業中の煉瓦炉の中に入れて腐敗を促進させたのです。そして、その間に細孔を無数に穿(うが)った軽量の船形棺を作って、その中に十分腐敗を見定めてから死体を収め、それに長い紐で錘(おもり)を附けて湖底に沈めました。無論数日ならずして腹中に腐敗瓦斯(ガス)が膨満するとともに、その船形棺は浮き上るものとみなければなりません。そこで牧師は、あの夜、錘の位置から場所を計って氷を砕き、水面に浮んでいる棺の細孔から死体の腹部を刺して瓦斯(ガス)を発散させ、それに火を点じました。御承知のとおり、腐敗瓦斯には沼気(メタン)のような熱の稀薄な可燃性のものが多量にあるのですから、その燐光が、月光で穴の縁に作られている陰影を消し、滑走中の妻を墜し込んだのです。恐らく水中では、頭上の船形棺をとり退けようと□(もが)き苦しんだでしょうが、ついに力尽きて妻は湖底深く沈んで行きました。そうして牧師は、自分の顳□(こめかみ)を射った拳銃を棺の上に落して、その上に自分も倒れたのですから、その燐光に包まれた死体を、村民達が栄光と誤信したのも無理ではありません。そのうち、瓦斯の減量につれて浮揚性を失った船形棺は、拳銃を載せたまま湖底に横たわっている妻アビゲイルの死体の上に沈んでいったのですが、一方牧師の身体(からだ)は、四肢が氷壁に支えられてそのまま氷上に残ってしまい、やがて雨中の水面には氷が張り詰められてゆきました。恐らく動機は妻とスティヴンとの密通でしょうが、愛人の死体で穴に蓋をしてしまうなんて、なんという悪魔的な復讐でしょう。しかしダンネベルグ夫人のは、そういった蕪雑(ぶざつ)な目撃現象ではありません」
 聴き終ると、鎮子は微かな驚異の色を泛(うか)べたが、別に顔色も変えず、懐中から二枚に折った巻紙形(がた)の上質紙を取り出した。
「御覧下さいまし。算哲博士のお描きになったこれが、黒死館の邪霊なのでございます。栄光は故(ゆえ)なくして放たれたのではございません」
 それには、折った右側の方に、一艘の埃及(エジプト)船が描かれ、左側には、六つの劃のどのなかにも、四角の光背をつけた博士自身が立っていて、側(かたわら)にある異様な死体を眺めている。そして、その下にグレーテ・ダンネベルグ夫人から易介までの六人の名が記されていて、裏面には、怖ろしい殺人方法を予言した次の章句が書かれてあった。(図表参照)

グレーテは栄光に輝きて殺さるべし。
オットカールは吊されて殺さるべし。
ガリバルダは逆さになりて殺さるべし。
オリガは眼を覆われて殺さるべし。
旗太郎は宙に浮びて殺さるべし。
易介は挾まれて殺さるべし。
「まったく怖ろしい黙示です」とさすがの法水も声を慄(ふる)わせて、「四角の光背は、確か生存者の象徴(シムボル)でしたね。そして、その船形のものは、古代埃及(エジプト)人が死後生活の中で夢想している、不思議な死者の船だと思いますが」と云うと、鎮子は沈痛な顔をして頷(うなず)いた。
「さようでございます。一人の水夫(かこ)もなく蓮湖(れんこ)の中に浮んでいて、死者がそれに乗ると、その命ずる意志のままに、種々(いろいろ)な舟の機具が独りでに動いて行くというのです。そうして、四角の光背と目前の死者との関係を、どういう意味でお考えになりますか? つまり、博士は永遠にこの館の中で生きているのです。そして、その意志によって独りでに動いて行く死者の船というのが、あのテレーズの人形なのでございます」
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  第二篇 ファウストの呪文
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    一、Undinus(ウンディヌス) sich(ジッヒ) winden(ヴィンデン)(水精(ウンディヌス)よ蜿(うね)くれ)

 久我鎮子(くがしずこ)が提示した六齣(こま)の黙示図は、凄惨冷酷な内容を蔵しながらも、外観はきわめて古拙な線で、しごく飄逸(ユーモラス)な形に描(か)かれていた。が、確かにこの事件において、それがあらゆる要素の根柢をなすものに相違なかった。おそらくこの時機に剔抉(てきけつ)を誤ったなら、この厚い壁は、数千度の訊問検討の後にも現われるであろう。そして、その場で進行を阻(はば)んでしまうことは明らかだった。それなので、鎮子が驚くべき解釈をくわえているうちにも、法水(のりみず)は顎(あご)を胸につけ、眠ったような形で黙考を凝らしていたが、おそらく内心の苦吟は、彼の経験を超絶したものだったろうとおもわれた。事実まったく犯人のいない殺人事件――埃及艀(エジプトぶね)と屍様図(しようず)を相関させたところの図読法は、とうてい否定し得べくもなかったのである。ところが意外なことに、やがて正視に復した彼の顔には、みるみる生気が漲(みなぎ)りゆき酷烈な表情が泛(うか)び上った。
「判りましたが……しかし久我さん、この図の原理には、けっしてそんなスウェーデンボルグ神学(「黙示録解釈」および「アルカナ・コイレスチア」において、スウェーデンボルグは出埃及記およびヨハネ黙示録の字義解釈に、牽強附会もはなはだしい数読法を用いて、その二つの経典が、後世における歴史的大事変の数々を預言せるものとなせり。)はないのですよ。狂ったようなところが、むしろ整然たる論理形式なんです。また、あらゆる現象に通ずるという空間構造の幾何学理論が、やはりこの中でも、絶対不変の単位となっているのです。ですから、この図を宇宙自然界の法則と対称することが出来るとすれば、当然、そこに抽象されるものがなけりゃならん訳でしょう」と法水が、突如前人未踏とでも云いたいところの、超経験的な推理領域に踏み込んでしまったのには、さすがの検事も唖然(あぜん)となってしまった。数学的論理はあらゆる法則の指導原理であると云うけれども、かの「僧正殺人事件(ビショップ・マーダーケース)」においてさえ、リーマン・クリストフェルのテンソルは、単なる犯罪概念を表わすものにすぎなかったではないか。それだのに法水は、それを犯罪分析の実際に応用して、空漠たる思惟抽象の世界に踏み入って行こうとする……。
「ああ私は……」と鎮子は露(む)き出して嘲(わら)った。「それで、ロレンツ収縮の講義を聴いて直線を歪めて書いたと云う、莫迦(ばか)な理学生の話を憶い出しましたわ。それでは、ミンコフスキーの四次元世界に第四容積(フォースディメンション)(立体積の中で、霊質のみが滲透的に存在し得るという空隙。)を加えたものを、一つ解析的に表わして頂きましょうか」
 その嗤(わら)いを法水は眦(めじり)で弾き、まず鎮子を嗜(たしな)めてから、「ところで、宇宙構造推論史の中で一番華やかな頁(ページ)と云えば、さしずめあの仮説決闘(セオリー・デュエル)――空間曲率に関して、アインシュタインとド・ジッターとの間に交された論争でしょうかな。その時ジッターは、空間固有の幾何学的性質によると主張したのでしたが、同時に、アインシュタインの反太陽説も反駁(はんばく)しているのです。ところが久我さん、その二つを対比してみると、そこへ、黙示図の本流が現われてくるのですよ」とさながら狂ったのではないかと思われるような言葉を吐きながら、次図を描いて説明を始めた。

「では、最初反太陽説の方から云うと、アインシュタインは、太陽から出た光線が球形宇宙の縁(へり)を廻って、再び旧(もと)の点に帰って来ると云うのです。そして、そのために、最初宇宙の極限に達した時、そこで第一の像を作り、それから、数百万年の旅を続けて球の外圏を廻ってから、今度は背後に当る対向点まで来ると、そこで第二の像を作ると云うのです。しかしその時には、すでに太陽は死滅していて一個の暗黒星にすぎないでしょう。つまり、その映像と対称する実体が、天体としての生存の世界にはないのです。どうでしょう久我さん、実体は死滅しているにもかかわらず過去の映像が現われる――その因果関係が、ちょうどこの場合算哲博士と六人の死者との関係に相似してやしませんか。なるほど、一方はÅ(オングストローム)(一耗の一千万分の一)であり、片方は百万兆哩(トリリオン・マイル)でしょうが、しかしその対照も、世界空間においては、たかが一微小線分の問題にすぎないのです。それからジッターは、その説をこう訂正しているのですよ。遠くなるほど、螺旋(らせん)状星雲のスペクトル線が赤の方へ移動して行くので、それにつれて、光線の振動週期が遅くなると推断しています。それがために、宇宙の極限に達する頃には光速が零(ゼロ)となり、そこで進行がピタリと止ってしまうというのですよ。ですから、宇宙の縁(へり)に映る像はただ一つで、恐らく実体とは異ならないはずです。そこで僕等は、その二つの理論の中から、黙示図の原理を択ばなければならなくなりました」
「ああ、まるで狂人(きちがい)になるような話じゃないか」熊城(くましろ)はボリボリふけを落しながら呟いた。「サア、そろそろ、天国の蓮台から降りてもらおうか」
 法水は熊城の好謔にたまらなく苦笑したが、続いて結論を云った。
「勿論太陽の心霊学から離れて、ジッターの説を人体生理の上に移してみるのです。すると、宇宙の半径を横切って長年月を経過していても、実体と映像が異ならない――その理法が、人間生理のうちで何事を意味しているでしょうか。たとえば、ここに病理的な潜在物があって、それが、発生から生命の終焉(しゅうえん)に至るまで、生育もしなければ減衰もせず、常に不変な形を保っているものと云えば……」
「と云うと」
「それが特異体質なんです」と法水は昂然と云い放った。「恐らくその中には、心筋質肥大のようなものや、あるいは、硬脳膜矢状縫合癒合がないとも限りません。けれども、それが対称的に抽象出来るというのは、つまり人体生理の中にも、自然界の法則が循環しているからなんです。現に体質液(ハーネマン)学派は、生理現象を熱力学の範囲に導入しようとしています。ですから、無機物にすぎない算哲博士に不思議な力を与えたり、人形に遠感的(テレパシック)な性能を想像させるようなものは、つまるところ、犯人の狡猾(こうかつ)な擾乱策(じょうらんさく)にすぎんのですよ。たぶんこの図の死者の船などにも、時間の進行という以外の意味はないでしょう」
 特異体質――。論争の綺(きら)びやかな火華にばかり魅せられていて、その蔭に、こうした陰惨な色の燧石(ひうちいし)があろうなどとは、事実夢にも思い及ばぬことだった熊城は神経的に掌(てのひら)の汗を拭きながら、
「なるほど、それなればこそだ――。家族以外にも易介を加えているのは」
「そうなんだ熊城君」と法水は満足気に頷(うなず)いて、「だから、謎は図形の本質にはなくて、むしろ、作画者の意志の方にある。しかし、どう見てもこの医学の幻想(ファンタジイ)は、片々たる良心的な警告文じゃあるまい」
「だが、すこぶる飄逸(ユーモラス)な形じゃないか」と検事は異議を唱えて、「それで露骨な暗示もすっかりおどけてしまってるぜ。犯罪を醸成するような空気は、微塵(みじん)もないと思うよ」と抗弁したが、法水は几帳面(きちょうめん)に自分の説を述べた。
「なるほど、飄逸(ユーモア)や戯喩(ジョーク)は、一種の生理的洗滌(せんでき)には違いないがね。しかし、感情の捌(は)け口のない人間にとると、それがまたとない危険なものになってしまうんだ。だいたい、一つの世界一つの観念――しかない人間というものは、興味を与えられると、それに向って偏執的に傾倒してしまって、ひたすら逆の形で感応を求めようとする。その倒錯心理だが――それにもしこの図の本質が映ったとしたら、それが最後となって、観察はたちどころに捻(ねじ)れてしまう。そして、様式から個人の経験の方に移ってしまうんだ。つまり、喜劇から悲劇へなんだよ。で、それからは、気違いみたいに自然淘汰の跡を追いはじめて、冷血的な怖ろしい狩猟の心理しかなくなってしまうのだ。だから支倉(はぜくら)君、僕はソーンダイクじゃないがね、マラリヤや黄熱病よりも、雷鳴や闇夜の方が怖ろしいと思うよ」
「マア、犯罪徴候学……」鎮子は相変らずの冷笑主義(シニシズム)を発揮して、
「だいたいそんなものは、ただ瞬間の直感にだけ必要なものとばかり思っていましたわ。ところで易介という話ですが、あれはほとんど家族の一員に等しいのですよ。まだ七年にしかならない私などとは違って、傭人(やといにん)とは云い条、幼い頃から四十四の今日(こんにち)まで、ずうっと算哲様の手許で育てられてまいったのですから。それに、この図は勿論索引には載っておりませず、絶対に人目に触れなかったことは断言いたします。算哲様の歿後誰一人触れたことのない、埃だらけな未整理図書の底に埋(うず)もれていて、この私でさえも、昨年の暮まではいっこうに知らなかったほどでございますものね。そうして、貴方の御説どおりに、犯人の計画がこの黙示図から出発しているものとしましたなら、犯人の算出は――いいえこの減算(ひきざん)は、大変簡単ではございませんこと」
 この不思議な老婦人は、突然解し難い露出的態度に出た。法水もちょっと面喰(めんくら)ったらしかったが、すぐに洒脱(しゃだつ)な調子に戻って、
「すると、その計算には、幾つ無限記号を附けたらよいのでしょうかな」と云った後で、驚くべき言葉を吐いた。「しかし、恐らく犯人でさえ、この図のみを必要とはしなかったろうと思うのです。貴女(あなた)は、もう半分の方は御存じないのですか」
「もう半分とは……誰がそんな妄想を信ずるもんですか□」と鎮子が思わずヒステリックな声で叫ぶと、始めて法水は彼の過敏な神経を明らかにした。法水の直観的な思惟の皺(しわ)から放出されてゆくものは、黙示図の図読といいこれといい、すでに人間の感覚的限界を越えていた。
「では、御存じなければ申し上げましょう。たぶん、奇抜な想像としかお考えにならないでしょうが、実はこの図と云うのが、二つに割った半葉にすぎないんですよ。六つの図形の表現を超絶したところに、それは深遠な内意があるのです」
 熊城は驚いてしまって、種々(いろいろ)と図の四縁(しえん)を折り曲げて合わせていたが、「法水君、洒落(しゃれ)はよしにし給え。幅広い刃形(やいばがた)はしているが、非常に正確な線だよ。いったいどこに、後から截(き)った跡があるのだ?」
「いや、そんなものはないさ」法水は無雑作に云い放って、全体がの形をしている黙示図を指し示した。「この形が、一種の記号語(パジグラフィ)なんだよ。元来死者の秘顕なんて陰険きわまるものなんだから、方法までも実に捻(ねじ)れきっている。で、この図も見たとおりだが、全体が刀子(とうし)(石器時代の滑石武器)の刃形みたいな形をしているだろう。ところが、その右肩(うけん)を斜めに截った所が、実に深遠な意味を含んでいるんだよ。無論算哲博士に、考古学の造詣(ぞうけい)がなけりゃ問題にはしないけれども、この形と符合するものが、ナルマー・メネス王朝あたりの金字塔(ピラミッド)前象形文字の中にある。第一、こんな窮屈な不自然きわまる形の中に、博士がなぜ描(か)かねばならなかったものか、考えてみ給え」
 そうして、黙示図の余白に、鉛筆での形を書いてから、
「熊城君、これが□を表わす上古埃及(コプチック)の分数数字だとしたら、僕の想像もまんざら妄覚ばかりじゃあるまいね」と簡勁(かんけい)に結んで、それから鎮子に云った。「勿論、死語に現われた寓意的な形などというものは、いつか訂正される機会がないとも限りません。けれども、ともかくそれまでは、この図から犯人を算出することだけは、避けたいと思うのです」
 その間、鎮子は懶気(ものうげ)に宙を瞶(みつ)めていたが、彼女の眼には、真理を追求しようという激しい熱情が燃えさかっていた。そして、法水の澄みきった美しい思惟の世界とは異なって、物々しい陰影に富んだ質量的なものをぐいぐい積み重ねてゆき、実証的な深奥のものを闡明(せんめい)しようとした。
「なるほど独創は平凡じゃございませんわね」と独言(ひとりごと)のように呟(つぶや)いてから、再び旧(もと)どおり冷酷な表情に返って、法水を見た。「ですから、実体が仮象よりも華やかでないのは道理ですわ。しかし、そんなハム族の葬儀用記念物よりかも、もしその四角の光背と死者の船を、事実目撃した者があったとしたらどうなさいます?」
「それが貴女(あなた)なら、僕は支倉(はぜくら)に云って、起訴させましょう」と法水は動じなかった。
「いいえ、易介なんです」鎮子は静かに云い返した。「ダンネベルグ様が洋橙(オレンジ)を召し上る十五分ほど前でしたが、易介はその前後に十分ばかり室(へや)を空けました。それが、後で訊くとこうなんです。ちょうど神意審問の会が始まっている最中(さなか)だったそうですが、その時易介が裏玄関の石畳の上に立っていると、ふと二階の中央で彼の眼に映ったものがありました。それが、会が行われている室の右隣りの張出窓で、そこに誰やら居るらしい様子で、真黒な人影が薄気味悪く動いていたと云うのです。そして、その時地上に何やら落したらしい微かな音がしたそうですが、それが気になってたまらず、どうしても見に行かずにはいられなかったと申すのでした。ところが、易介が発見したものは、辺り一面に散在している硝子の破片にすぎなかったのです」
「では、易介がその場所へ達するまでの経路をお訊きでしたか」
「いいえ」と鎮子は頸(くび)を振って、「それに伸子さんは、ダンネベルグ様が卒倒なさるとすぐ、隣室から水を持ってまいったというほどですし、ほかにも誰一人として、座を動いた方はございませんでした。これだけ申せば、私がこの黙示図に莫迦(ばか)らしい執着を持っている理由がお判りでございましょう。勿論その人影というのは、吾々(われわれ)六人のうちにはないのです。と云って、傭人は犯人の圏内にはございません。ですから、この事件に何一つ残されていないと云うのも、しごく道理なんでございますわ」
 鎮子の陳述は再び凄風を招き寄せた。法水はしばらく莨(たばこ)の赤い尖端を瞶(みつ)めていたが、やがて意地悪げな微笑を泛(うか)べて、
「なるほど、しかし、ニコル教授のような間違いだらけな先生でも、これだけは巧いことを云いましたな。結核患者の血液の中には、脳に譫妄(せんもう)を起すものを含めり――って」
「ああ、いつまでも貴方は……」といったん鎮子は呆(あき)れて叫んだが、すぐに毅然(きぜん)となって、「それでは、これを……。この紙片が硝子の上に落ちていたとしましたなら、易介の言(ことば)には形がございましょう」と云って、懐中(ふところ)から取り出したものがあった。それは、雨水(あまみず)と泥で汚れた用箋の切端(きれはし)だったが、それには黒インクで、次のような独逸(ドイツ)文が認(したた)められてあった。
Undinus(ウンディヌス) sich(ジッヒ) winden(ヴィンデン)「これじゃとうてい筆蹟を窺(うかが)えようもない。まるで蟹(かに)みたいなゴソニック文字だ」といったん法水は失望したように呟(つぶや)いたが、その口の下から、両眼を輝かせて、「オヤ妙な転換があるぞ。元来この一句は、水精(ウンディネ)よ蜿(うね)くれ――なんですが、これには、女性の Undine(ウンディネ) に us をつけて、男性に変えてあるのです。しかし、これが何から引いたものであるか、御存じですか。それから、この館(やかた)の蔵書の中に、グリムの『古代独逸詩歌傑作に就(つ)いて』かファイストの『独逸語史料集』でも」
「遺憾(いかん)ながら、それは存じません。言語学の方は、のちほどお報せすることにいたします」と鎮子は案外率直に答えて、その章句の解釈が法水の口から出るのを待った。しかし、彼は紙片に眼を伏せたままで、容易に口を開こうとはしなかった。その沈黙の間を狙って熊城が云った。
「とにかく、易介がその場所へ行ったについては、もっと重大な意味がありますよ。サァ何もかも包まずに話して下さい。あの男はすでに馬脚を露わしているんですから」
「サァ、それ以外の事実と云えば、たぶんこれでしょう」と鎮子は相変らず皮肉な調子で、「その間私が、この室に一人ぼっちだったというだけの事ですわ。しかし、どうせ疑われるのなら、最初にされた方が……いいえ、たいていの場合が、後で何でもないことになりますからね。それに伸子さんとダンネベルグ様が、神意審問会の始まる二時間ほど前に争論をなさいましたけれども、それやこれやの事柄は、事件の本質とは何の関係もないのです。第一、易介が姿を消したことだって、先刻(さっき)のロレンツ収縮の話と同じことですわ。その理学生に似た倒錯心理を、貴方の恫□(どうかつ)訊問が作り出したのです」
「そうなりますかね」と懶気(ものうげ)に呟いて、法水は顔を上げたが、どこか、ある出来事の可能性を暗受しているような、陰鬱な影を漂わせていた。が、鎮子には、慇懃(いんぎん)な口調で云った。
「とにかく、種々(いろいろ)と材料をそろえて頂いたことは感謝しますが、しかし結論となると、はなはだ遺憾千万です。貴女の見事な類推論法でも、結局私には、いわゆる、如き観を呈するものとしか見られんのですからね。ですからたとい人形が眼前に現われて来たにしたところで、私は、それを幻覚としか見ないでしょう。第一そういう、非生物学的な、力の所在というのが判らないのです」
「それは段々とお判りになりますわ」と鎮子は最後の駄目を押すような語気で云った。「実は、算哲様の日課書の中に――それが自殺なされた前月昨年の三月十日の欄でしたが――そこにこういう記述があるのです。吾(われ)、隠されねばならぬ隠密の力を求めてそれを得たれば、この日魔法書を焚(た)けり――と。と申して、すでに無機物と化したあの方の遺骸には、一顧の価値(あたい)もございませんけれど、なんとなく私には、無機物を有機的に動かす、不思議な生体組織とでも云えるものが、この建物の中に隠されているような気がしてならないのです」
「それが、魔法書を焚いた理由ですよ」と法水は何事かを仄(ほの)めかしたが、「しかし、失われたものは再現するのみのことです。そうしてから改めて、貴女の数理哲学を伺うことにしましょう。それから、現在の財産関係と算哲博士が自殺した当時の状況ですが」とようやく黙示図の問題から離れて、次の質問に移ったが、その時鎮子は、法水を瞶(みつ)めたまま、腰を上げた。
「いいえ、それは執事の田郷さんの方が適任でございましょう。あの方はその際の発見者ですし、何より、この館ではリシュリュウ(ルイ十三世朝の僧正宰相)と申してよろしいのですから」そうして、扉の方へ二、三歩歩んだ所で立ち止り、屹然(きっ)と法水を振り向いて云った。
「法水さん、与えられたものをとることにも、高尚な精神が必要ですわ。ですから、それを忘れた者には、後日必ず悔ゆる時機がまいりましょう」
 鎮子の姿が扉の向うに消えてしまうと、論争一過後の室(しつ)は、ちょうど放電後の、真空といった空虚な感じで、再び黴(かび)臭い沈黙が漂いはじめ、樹林で啼(な)く鴉(からす)の声や、氷柱(つらら)が落ちる微かな音までも、聴き取れるほどの静けさだった。やがて、検事は頸(くび)の根を叩きながら、
「久我鎮子は実象のみを追い、君は抽象の世界に溺れている。だがしかしだ。前者は自然の理法を否定せんとし、後者はそれを法則的に、経験科学の範疇(カテゴリー)で律しようとしている――。法水君、この結論には、いったいどういう論法が必要なんだね。僕は鬼神学(デモノロジイ)だろうと思うんだが……」
「ところが支倉君、それが僕の夢想の華(はな)さ――あの黙示図に続いていて、未だ誰一人として見たことのない半葉がある――それなんだよ」と夢見るような言葉を、法水はほとんど無感動のうちに云った。「その内容が恐らく算哲の焚書を始めとして、この事件のあらゆる疑問に通じているだろうと思うのだ」
「なに、易介が見たという人影にもか」検事は驚いて叫んだ。
 と熊城も真剣に頷(うなず)いて、「ウン、あの女はけっして、嘘は吐かんよ。ただし問題は、その真相をどの程度の真実で、易介が伝えたかにあるんだ。だが、なんという不思議な女だろう」と露(あら)わに驚嘆の色を泛(うか)べて、「自分から好んで犯人の領域に近づきたがっているんだ」
「いや、被作虐者(マゾヒイスト)かもしれんよ」と法水は半身(はんみ)になって、暢気(のんき)そうに廻転椅子をギシギシ鳴らせていたが、「だいたい、呵責(かしゃく)と云うものには、得も云われぬ魅力があるそうじゃないか。その証拠にはセヴィゴラのナッケという尼僧だが、その女は宗教裁判の苛酷な審問の後で、転宗よりも、還俗(げんぞく)を望んだというのだからね」と云ってクルリと向きを変え、再び正視の姿勢に戻って云った。
「勿論久我鎮子は博識無比さ。しかし、あれは索引(インデックス)みたいな女なんだ。記憶の凝(かたま)りが将棋盤の格みたいに、正確な配列をしているにすぎない。そうだ、まさに正確無類だよ。だから、独創も発展性も糞もない。第一、ああいう文学に感覚を持てない女に、どうして、非凡な犯罪を計画するような空想力が生れよう」
「いったい、文学がこの殺人事件とどんな関係があるかね?」と検事が聴き咎(とが)めた。
「それが、あの水精よ蜿くれ(ウンディヌス・ジッヒ ヴィンデン)――さ」と法水は、初めて問題の一句を闡明(せんめい)する態度に出た。「あの一句は、ゲーテの『ファウスト』の中で、尨犬(むくいぬ)に化けたメフィストの魔力を破ろうと、あの全能博士が唱える呪文の中にある、勿論その時代を風靡(ふうび)した加勒底亜(カルデア)五芒星術の一文で、火精(ザラマンダー)・水精(ウンディネ)・風精(ジルフェ)・地精(コボルト)の四妖に呼び掛けているんだ。ところで、それを鎮子が分らないのを不審に思わないかい。だいたいこういった古風な家で、書架に必ず姿を現わすものと云えば、まず思弁学でヴォルテール、文学ではゲーテだ。ところが、そういった古典文学が、あの女には些細な感興も起さないんだ。それからもう一つ、あの一句には薄気味悪い意思表示が含まれているのだよ」
「それは……」
「第一に、連続殺人の暗示なんだ。犯人は、すでに甲冑武者の位置を変えて、それで殺人を宣言しているが、この方はもっと具体的だ。殺される人間の数とその方法が明らかに語られている。ところで、ファウストの呪文に現われる妖精の数が判ると、それがグイと胸を衝き上げてくるだろう。何故なら、旗太郎をはじめ四人の外人の中で、その一人が犯人だとしたら、殺す数の最大限は、当然四人でなければなるまい。それから、これが殺人方法と関聯していると云うのは、最初に水精(ウンディネ)を提示しているからだよ。よもや君は、人形の足型を作って敷物の下から現われた、あの異様な水の跡を忘れやしまいね」
「だが、犯人が独逸(ドイツ)語を知っている圏内にあるのは、確かだろう。それにこの一句はたいして文献学的(フィロロジック)なものじゃない」と検事が云うのを、
「冗談じゃない。音楽は独逸の美術なり――と云うぜ。この館では、あの伸子という女さえ、竪琴(ハープ)を弾くそうなんだ」と法水は、さも驚いたような表情をして、「それに、不可解きわまる性別の転換もあるのだから、結局言語学の蔵書以外には、あの呪文を裁断するものはないと思うのだよ」
 熊城は組んだ腕をダラリと解いて、彼に似げない嘆声を発した。
「ああ、何から何まで嘲笑的じゃないか」
「そうだ、いかにも犯人は僕等の想像を超絶している。まさにツァラツストラ的な超人なんだ。この不思議な事件を、従来(これまで)のようなヒルベルト以前の論理学で説けるものじゃない。その一例があの水の跡なんだが、それを陳腐(ちんぷ)な残余法で解釈すると、水が人形の体内にある発音装置を無効にした――という結論になる。けれども、事実はけっしてそうじゃないんだ。まして、全体がすこぶる多元的に構成されている――。何も手掛りはない。曖昧朦朧(あいまいもうろう)とした中に薄気味悪い謎がウジャウジャと充満している。それに、死人が埋(うず)もれている地底の世界からも、絶えず紙礫(かみつぶて)のようなものが、ヒューヒューと打衝(ぶつか)って来るんだ。しかし、その中に、四つの要素が含まれていることだけは判るんだ。一つは、黙示図に現われている自然界の薄気味悪い姿で、その次は、未だに知られていない半葉を中心とする、死者の世界なんだ。それから三つ目が、既往の三度にわたる変死事件。そして最後が、ファウストの呪文を軸に発展しようとする、犯人の現実行動なんだよ」と、そこでしばらく言(ことば)を切っていたが、やがて法水の暗い調子に明るい色が差して、「そうだ支倉君、君にこの事件の覚書を作ってもらいたいのだが。だいたいグリーン殺人事件がそうじゃないか。終り頃になってヴァンスが覚書を作ると、さしもの難事件が、それと同時に奇蹟的な解決を遂げてしまっている。しかし、あれはけっして、作者の窮策じゃない。ヴァン・ダインは、いかに因数(ファクター)を決定することが、切実な問題であるかを教えているんだ。だからさ。何より差し当っての急務というのが、それだ。因数(ファクター)だ――さしずめその幾つかを、このモヤモヤした疑問の中から摘出するにあるんだよ」
 それから検事が覚書を作っている間に、法水は十五分ばかり室(へや)を出ていたが、間もなく、一人の私服と前後して戻って来た。その刑事は、館内の隅々までも捜索したにかかわらず、易介の発見がついに徒労に帰したという旨を報告した。法水は眉のあたりをビリビリ動かしながら、
「では、古代時計室と拱廊(そでろうか)を調べたかね」
「ところが、彼処(あすこ)は」と私服は頸(くび)を振って、「昨夜の八時に、執事が鍵を下したままなんですから。しかし、その鍵は紛失しておりません。それから拱廊(そでろうか)では、円廊の方の扉が、左側一枚開いているだけのことでした」
「フムそうか」といったん法水は頷(うなず)いたが、「ではもう打ち切ってもらおう。けっしてこの建物から外へは出てやしないのだから」と異様に矛盾した、二様の観察をしているかのような、口吻(こうふん)を洩らすと、熊城は驚いて、
「冗談じゃない。君はこの事件にけばけばしい装幀をしたいんだろうが、なんといっても、易介の口以外に解答があるもんか」と今にも館外からもたらせられるらしい、侏儒(こびと)の傴僂(せむし)の発見を期待するのだった。こうして、ついに易介の失踪は、熊城の思う壺どおりに確定されてしまったが、続いて法水は、問題の硝子の破片があるという附近(あたり)の調査と、さらに次の喚問者として、執事の田郷真斎(たごうしんさい)を呼ぶように命じた。
「法水君、君はまた拱廊(そでろうか)へ行ったのかね」私服が去ると、熊城はなかば揶揄(やゆ)気味に訊ねた。
「いや、この事件の幾何学量を確かめたんだよ。算哲博士が黙示図を描いたり、その知られてない半葉を暗示したについては、そこに何か、方向がなけりゃならん訳だろう」と法水はムスッとして答えたが、続いて驚くべき事実が彼の口を突いて出た。「それで、ダンネベルグ夫人を狂人(きちがい)みたいにさせた、怖ろしい暗流が判ったのだ。実は、電話でこの村の役場を調べたんだが、驚くじゃないか、あの四人の外人は去年の三月四日に帰化していて、降矢木(ふりやぎ)の籍に、算哲の養子養女となって入籍しているんだ。それにまだ遺産相続の手続がされていない。つまり、この館は未だもって、正統の継承者旗太郎の手中には落ちていないのだよ」
「こりゃ驚いた」検事はペンを抛り出して唖然となってしまったが、すぐに指を繰ってみて、「たぶん手続が遅れているのは、算哲の遺言書でもあるからだろうが、剰(あま)すところもう、法定期限は二ヶ月しかない。それが切れると、遺産は国庫の中に落ちてしまうんだ」
「そうなんだ。だから、そこにもし殺人動機があるものとすれば、ファウスト博士の隠れ蓑(みの)――あの五芒星(ペンタグラムマ)の円が判るよ。しかし、どのみち一つの角度(アングル)には相違ないけれども、なにしろ四人の帰化入籍というような、思いもつかぬものがあるほどだからね。その深さは並大抵のものじゃあるまい。いや、かえって僕は、それを迂闊(うかつ)に首肯してはならないものを握っているんだ」
「いったい何を?」
「先刻(さっき)君が質問した中の、(一)・(二)・(五)の箇条なんだよ。甲冑(かっちゅう)武者が階段廊の上へ飛び上っていて――、召使(バトラー)は聞えない音を聴いているし――、それから拱廊(そでろうか)では、ボードの法則が相変らず、海王星のみを証明出来ないのだがね」
 そういう驚くべき独断(ドグマ)を吐き捨てて、法水は検事が書き終った覚書を取り上げた。それには、私見を交えない事象の配列のみが、正確に記述されてあった。

一、死体現象に関する疑問(略)
二、テレーズ人形が現場に残せる証跡について(略)
三、当日事件発生前の動静

一、早朝押鐘津多子の離館。二、午後七時より八時――。甲冑武者の位置が階段廊上に変り、和式具足の二つの兜が取り替えられている。三、午後七時頃、故算哲の秘書紙谷伸子が、ダンネベルグ夫人と争論せしと云う。四、午後九時――。神意審問会中にダンネベルグは卒倒し、その時刻と符合せし頃、易介はその隣室の張出縁に異様な人影を目撃せりと云う。五、午後十一時――。伸子と旗太郎がダンネベルグを見舞う。その折、旗太郎は壁のテレーズの額を取り去り、伸子はレモナーデを毒味せり。なお、青酸を注入せる洋橙(オレンジ)を載せたものと推察さるる果物皿を、易介が持参せるはその時なれども、肝腎の洋橙については、ついに証明されるものなし。六、午後十一時四十五分頃。易介は最前の人影が落せしものを見て、裏庭の窓際に行き、硝子の破片並びにファウスト中の一章を記せる紙片を拾う。その間室内には被害者と鎮子のみなり。七、同零時頃。被害者洋橙を喰す。 なお、鎮子、易介、伸子以外の四人の家族には、記述すべき動静なし。

四、黒死館既往変死事件について(略)
五、既往一年以来の動向

一、昨年三月四日 四人の異国人の帰化入籍。一、同 三月十日 算哲は日課書に不可解なる記述を残し、その日魔法書を焚くと云う。一、同 四月二十六日 算哲の自殺。 以来館内の家族は不安に怯(おび)え、ついに被害者は神意審問法により、その根元をなす者を究めんとす。

六、黙示図の考察(略)
七、動機の所在(略)

 読み終ると法水は云った。
「この箇条書のうちで、第一の死体現象に関する疑問は、第三条の中に尽されていると思う。外見は、いっこう何でもなさそうな時刻の羅列にすぎないよ。しかし、洋橙(オレンジ)が被害者の口の中に飛び込んだ経路だけにでも、きっとフィンスレル幾何の公式ほどのものが、ギュウギュウと詰っているに違いないんだ。それから、算哲の自殺が、四人の帰化入籍と焚書の直後に起っているのにも、注目する価値があると思う」
「いや、君の深奥な解析などはどうでもいいんだ」と熊城は吐き出すような語気で、「そんな事より、動機と人物の行動との間に、大変な矛盾があるぜ。伸子はダンネベルグ夫人と争論をしているし、易介は知ってのとおりだ。それにまた鎮子だっても、易介が室(へや)を出ていた間に、何をしたか判ったものじゃない。ところが、君の云うファウスト博士の円は、まさに残った四人を指摘しているんだ」
「すると、儂(わし)だけは安全圏内ですかな」
 その時背後で、異様な嗄(しゃが)れ声が起った。三人が吃驚(びっくり)して後を振り向くと、そこには、執事の田郷真斎がいつの間にか入(はい)り込んでいて、大風(おおふう)な微笑をたたえて見下(みおろ)している。しかし、真斎があたかも風のごとくに、音もなく三人の背後に現われ得たのも、道理であろう。下半身不随のこの老史学者は、ちょうど傷病兵でも使うような、護謨(ゴム)輪で滑かに走る手働四輪車の上に載っているからだった。真斎は相当著名な中世史家で、この館の執事を勤める傍(かたわら)に、数種の著述を発表しているので知られているが、もはや七十に垂(なんな)んとする老人だった。無髯(むぜん)で赭丹(しゃたん)色をした顔には、顴骨(かんこつ)突起と下顎骨が異常に発達している代りに、鼻翼の周囲が陥ち窪み、その相はいかにも醜怪で――と云うよりもむしろ脱俗的な、いわゆる胡面梵相(こめんぼんそう)とでも云いたい、まるで道釈画か十二神将の中にでもあるような、実に異風な顔貌だった。そして、頭に印度帽(テュルバン)を載せたところといい――そのすべてが、一語で魁異(グロテスケリ)と云えよう。しかし、どこか妥協を許さない頑迷固陋(がんめいころう)と云った感じで、全体の印象からは、甲羅のような外観(みかけ)がするけれども、そこには、鎮子のような深い思索や、複雑な性格の匂いは見出されなかった。なお、その手働四輪車は、前部の車輪は小さく、後部のものは自転車の原始時代に見るような素晴らしく大きなもので、それを、起動機と制動機とで操作するようになっていた。
「ところで、遺産の配分ですが」と熊城が、真斎の挨拶にも会釈を返さず、性急に口切り出すと、真斎は不遜(ふそん)な態度で嘯(うそぶ)いた。
「ホウ、四人の入籍を御存じですかな。いかにも事実じゃが、それは個人個人にお訊ねした方がよろしかろう。儂(わし)には、とんとそういう点は……」
「しかし、既(とっ)くに開封されているじゃありませんか。遺言書の内容だけは、話してしまった方がいいでしょう」熊城はさすがに老練な口穽(かま)を掛けたけれども、真斎はいっこうに動ずる気色(けしき)もなく、
「なに、遺言状……ホホウ、これは初耳じゃ」と軽く受け流して、早くも冒頭から、熊城との間に殺気立った黙闘が開始された。法水は最初真斎を一瞥(いちべつ)すると同時に、何やら黙想に耽(ふけ)るかの様子だったが、やがて収斂味(しゅうれんみ)の[#「収斂味(しゅうれんみ)の」は底本では「収歛味(しゅうれんみ)の」]かった瞳を投げて、
「ハハア、貴方は下半身不随(パラプレジア)ですね。なるほど、黒死館のすべてが内科的じゃない。ところで、貴方が算哲博士の死を発見されたそうですが、たぶんその下手人が、誰であるかも御存じのはずですがね」
 これには、真斎のみならず、検事も熊城もいっせいに唖然となってしまった。真斎は蟇(がま)みたいに両肱(ひじ)を立てて半身を乗り出し、哮(た)けるような声を出した。
「莫迦(ばか)な、自殺と決定されたものを……。貴方(あんた)は検屍調書を御覧になられたかな」
「だからこそです」と法水は追求した。「貴方は、その殺害方法までもたぶん御承知のはずだ。だいたい、太陽系の内惑星軌道半径が、どうしてあの老医学者を殺したのでしょう?」

    二、鐘鳴器(カリリヨン)の讃詠歌(アンセム)で……

「内惑星軌道半径□」このあまりに突飛(とっぴ)な一言に眩惑されて、真斎は咄嵯(とっさ)に答える術(すべ)を失ってしまった。法水は厳粛な調子で続けた。
「そうです。無論史家である貴方は、中世ウェールスを風靡(ふうび)したバルダス信経を御存じでしょう。あのドルイデ(九世紀レゲンスブルグの僧正魔法師)の流れを汲(く)んだ、呪法経典の信条は何でしたろうか(宇宙にはあらゆる象徴瀰漫す。しかして、その神秘的な法則と配列の妙義は、隠れたる事象を人に告げ、あるいは予め告げ知らしむ。)」
「しかし、それが」
「つまり、その分析綜合の理を云うのです。私はある憎むべき人物が、博士を殺した微妙な方法を知ると同時に、初めて、占星術(アストロロジイ)や錬金術(アルケミイ)の妙味を知ることが出来ました。確か博士は、室(へや)の中央で足を扉の方に向け、心臓に突き立てた短剣の束(つか)を固く握り締めて倒れていたのでしたね。しかし、入口の扉を中心にして、水星と金星の軌道半径を描くと、その中では、他殺のあらゆる証跡が消えてしまうのです」と法水は室の見取図に、別図のような二重の半円を描いてから、

「ところで、その前にぜひ知っておかねばならないのは、惑星の記号が或る化学記号に相当するという事なんです。Venus(ヴィナス) が金星であることは御承知でしょうが、その傍ら銅を表わしています。また、Mercury(マーキュリー) は、水星であると同時に、水銀の名にもなっているのです。しかし、古代の鏡は、青銅(ヴィナス)の薄膜の裏に水銀(マーキュリー)を塗って作られていたのですよ。そうすると、その鏡面に――つまり、この図では金星の後方に当るのですが、それには当然、帷幕(とばり)の後方から進んで来る犯人の顔が映ることになりましょう。何故なら、金星の半径を水星の位置にまで縮めるということは、素晴らしい殺人技巧であったと同時に、犯行が行われてゆく方向も、また博士と犯人の動きさえも同時に表わしているからなんです。そして、しだいに犯人は、それを中央の太陽の位置にまで縮めてゆきました。太陽は、当時算哲博士が終焉(しゅうえん)を遂げた位置だったのです。しかし、背面の水銀(マーキュリー)が太陽と交わった際にいったい何が起ったと思いますか?」
 ああ、内惑星軌道半径縮小を比喩にして、法水は何を語ろうとするのであろうか。検事も熊城も、近代科学の精を尽した法水の推理の中へ、まさかに錬金道士の蒼暗たる世界が、前期化学(スパルジリー)特有の類似律の原理とともに、現われ出ようとは思わなかった。
「ところで田郷さん、S一字でどういうものが表わされているでしょうか」と法水は、調子を弛(ゆる)めずに続けた。「第一に太陽、それから硫黄(いおう)ですよ。ところが、水銀と硫黄との化合物は、朱ではありませんか。朱は太陽であり、また血の色です。つまり、扉の際(きわ)で算哲の心臓が綻(ほころ)びたのです」
「なに、扉の際で……。これは滑稽な放言じゃ」と真斎は狂ったように、肱掛を叩き立てて、「貴方(あんた)は夢を見ておる。まさに実状を顛倒した話じゃ。あの時血は、博士が倒れている周囲にしか流れておらなかったのです」
「それは、いったん縮めた半径を、犯人がすぐ旧(もと)どおりの位置に戻したからですよ。それから、もう一度Sの字を見るのです。まだあるでしょう。悪魔会議日(サバスデー)、立法者(スクライブ)……。そうです、まさしく立法者なんです。犯人はあの像のように……」と法水は、そこでいったん唇を閉じ、じいっと真斎を瞶(みつ)めながら、次に吐く言葉との間の時間を、胸の中で秘かに計測しているかの様子だった。ところが、突然(いきなり)頃合を計って、
「あのように、立って歩くことの出来ない人間――それが犯人なんです」と鋭い声で云うと、不思議な事には、それとともに――解(げ)し難い異状が、真斎に起った。
 それが、始め上体に衝動が起ったと見る間に、両眼を□(みひら)き口を喇叭(ラッパ)形に開いて、ちょうどムンクの老婆に見るような無残な形となった。そして、絶えず唾を嚥(の)み下そうとするもののような苦悶の状を続けていたが、そのうちようやく、
「おお、儂(わし)の身体を見るがいい。こんな不具者がどうして……」と辛(から)くも嗄(しゃが)れ声を絞り出した。が、真斎には確か咽喉部に何か異常が起ったとみえて、その後も引き続き呼吸の困難に悩み、異様な吃音(きつおん)とともに激しい苦悶が現われるのだった。その有様を、法水は異常な冷やかさで見やりながら云い続けたが、その態度には、相変らず計測的なものが現われていて、彼は自分の言(ことば)の速度(テンポ)に、周到な注意を払っているらしい。
「いや、その不具な部分を俟(ま)ってこそ、殺人を犯すことが出来たのですよ。僕は貴方の肉体でなく、その手働四輪車と敷物(カーペット)だけを見ているのです。たぶんヴェンヴェヌート・チェリニ(文芸復興期の大金工で驚くべき殺人者)が、カルドナツォ家のパルミエリ(ロムバルジヤ第一の大剣客)を斃(たお)したという事蹟を御存じでしょうが、腕で劣ったチェリニは、最初敷物(カーペット)を弛ませて置いて、中途でそれをピインと張らせ、パルミエリが足許を奪われて蹌踉(よろめ)くところを刺殺したのでした。しかし、算哲を斃すためには、その敷物を応用した文芸復興期(ルネサンス)の剣技が、けっして一場の伝奇(ロマーン)ではなかったのです。つまり、内惑星軌道半径の縮伸というのは、要するに貴方が行(おこな)った、敷物(カーペット)のそれにすぎなかったのですよ。さて、犯行の実際を説明しますかな」と云ってから、法水は検事と熊城に詰責(きっせき)気味な視線を向けた。「だいたい何故扉の浮彫を見ても、君達は、傴僂(せむし)の眼が窪んでいるのに気がつかなかったのだね」
「なるほど、楕円形に凹んでいる」熊城はすぐ立って行って扉を調べたが、はたして法水の云うとおりだった。法水はそれを聴くと、会心の笑(えみ)を真斎に向けて、
「ねえ田郷さん、その窪んでいる位置が、ちょうど博士の心臓の辺に当りはしませんか。それが、楕円形をしているのですから、護符刀の束頭(つかがしら)であることは一目瞭然たるものです。そうなると、当然天寿を楽しむよりほかに自殺の動機など何一つなく、おまけにその日は、愛人の人形を抱いて若かった日の憶い出に耽(ふけ)ろうとしたほどの博士が、何故扉際(とぎわ)に押し付けられて、心臓を貫いていたのでしょう」
 真斎は声を発することはおろか、依然たる症状を続けて、気力がまさに尽きなんとしていた。蝋白色に変った顔面からは膏(あぶら)のような汗が滴り落ち、とうてい正視に耐えぬ惨めさだった。ところが、それにもかかわらず法水は、この残忍な追求をいっかな止めようとはしなかった。
「ところで、ここに奇妙な逆説(パラドックス)があるのです。その殺人が、かえって五体の完全な人間には不可能なんですよ。何故なら、ほとんど音の立たない、手働四輪車の機械力が必要だったからで、それがまず、敷物(カーペット)に波を作って縮め重ねてゆき、終いには、博士を扉に激突させたからでした。何分にも、当時室(へや)は闇に近い薄明りで、右側の帷幕(とばり)の蔭に貴方が隠れていたのも知らずに、博士は帷幕の左側を排して、召使が運び入れて置いた人形を寝台の上で見、それから、鍵を下しに扉の方へ向ったのでしょう。ところが、それを追うて、貴方の犯行が始まったのでしたね。まずそれ以前に、敷物の向う端を鋲(びょう)で止め、人形の着衣から護符刀(タリズマン)を抜いておく――そしていよいよ博士が背後を見せると、敷物(カーペット)の端をもたげて、縦にした部分を足台で押して速力を加えたので、敷物(カーペット)には皺(しわ)が作られ、勿論その波はしだいに高さを加えたのです。そして、背後から足台を、博士の膝膕窩(ひかがみ)に衝突させる。と、波が横から潰されて、ほとんど腋下に及ぶほどの高さになってしまう。と同時に、いわゆるイエンドラシック反射が起って、その部分に加えられた衝撃が、上膊筋に伝導して反射運動を起すのですから、当然博士は、無意識裡に両腕を水平に上げる。その両脇から博士を後様(うしろざま)に抱えて、右手に持った護符刀(タリズマン)を心臓の上に軽く突き立て、すぐにその手を離してしまう。と、博士は思わず反射的に短剣を握ろうとするので、間髪の間(あいだ)に二つの手が入れ代って、今度は博士が束(つか)を握ってしまう。そして、その瞬後扉に衝突して、自分が束を握った刃が心臓を貫く。つまり、高齢で歩行の遅(のろ)い博士に、敷物(カーペット)に波を作りながら音響を立てずして追い付ける速力と、その機械的な圧進力――。それから、束を握らせるために、両腕を自由にしておかねばならないので、何よりまず膝膕窩(ひかがみ)を刺戟して、イエンドラシック反射を起さねばならない――。そういうすべての要素を具備しているのが、この手働四輪車でして、その犯行は寸秒の間に、声を立てる間(ま)がなかったほど恐ろしい速度で行われたのでした。ですから、貴方の不具な部分をもってせずには、誰一人博士に、自殺の証跡を残して、息の根を止めることは不可能だったのですよ」
「すると、敷物(カーペット)の波は何のためだい」熊城が横合から訊ねた。
「それが、内惑星軌道半径の縮伸じゃないか。いったん点(ピリオド)にまで縮んだものを、今度は波の頂点に博士の頸(くび)を合わせて、敷物(カーペット)を旧(もと)どおりに伸ばしていったのだ。だから、束(つか)を握り締めたままで、博士の死体は室(へや)の中央に来てしまったのだよ。勿論、空室(あきべや)でも、鎖されていたのではないから、ほとんど跡は残らぬし、死後はけっして固く握れるものじゃない。けれども、だいたい検屍官なんてものが、秘密の不思議な魅力に、感受性を欠いているからなんだよ」
 その時、この殺気に充ちた陰気な室の空気を揺(ゆす)ぶって、古風な経文歌(モテット)を奏でる、侘(わび)しい鐘鳴器(カリリヨン)の音が響いてきた。法水は先刻(さっき)尖塔の中に錘舌鐘(ピール)(錘舌のある振り鐘)は見たけれども、鐘鳴器(カリリヨン)(鍵盤を押して音調の異なる鐘を叩きピアノ様の作用をするもの)の所在には気がつかなかった。しかし、その異様な対照に気を奪われている矢先だった。それまで肱掛に俯伏(うつぶ)していた真斎が必死の努力で、ほとんど杜絶(とぎ)れがちながらも、微かな声を絞り出した。
「嘘だ……算哲様はやはり室(へや)の中央で死んでいたのだ……。しかし、この光栄ある一族のために……儂(わし)は世間の耳目を怖れて、その現場から取り除いたものがあった……」
「何をです?」
「それが黒死館の悪霊、テレーズの人形でした……背後から負(おぶ)さったような形で死体の下になり、短剣を握った算哲様の右手の上に両掌を重ねていたので……それで、衣服を通した出血が少なかったことから……儂(わし)は易介に命じて」
 検事も熊城も、もう竦(すく)み上るような驚愕の色は現わさなかったけれども、すでに生存の世界にはないはずの不思議な力の所在が、一事象ごとに濃くなってゆくのを覚えた。しかし、法水は冷然と云い放った。
「これ以上はやむを得ません。僕もこの上進むことは不可能なんですから。博士の死体は既(とう)に泥のような無機物ですし、もう起訴を決定する理由と云えば、貴方の自白以外にないのですからね」
 そう法水が云い終った時だった。その時経文歌(モテット)の音(ね)が止んだかと思うと、突然思いもよらぬ美しい絃(いと)の音(ね)が耳膜を揺りはじめた。遠く幾つかの壁を隔てた彼方で、四つの絃楽器は、あるいは荘厳な全絃合奏(コーダ)となり、時としては囁(ささや)く小川のように、第一提琴(ファースト・ヴァイオリン)がサマリアの平和を唱ってゆくのだった。それを聴くと、熊城は腹立たしそうに云い放った。
「何だあれは、家族の一人が殺されたと云うのに」
「今日は、この館の設計者クロード・ディグスビイの忌斎日(きさいび)でして……」と真斎は苦し気な呼吸の下に答えた。「館の暦表の中に、帰国の船中蘭貢(ラングーン)で身を投げた、ディグスビイの追憶が含まれているのです」
「なるほど、声のない鎮魂楽(レキエム)ですね」と法水は恍惚(こうこつ)となって云った。「なんだかジョン・ステーナーの作風に似ているような気がする。支倉君、僕はこの事件であの四重奏団(クワルテット)の演奏が聴けようとは思わなかったよ。サア、礼拝堂へ行ってみよう」
 そうして、私服に真斎の手当を命じて、この室(へや)を去らしめると、
「君は何故(なぜ)、最後の一歩というところで追求を弛(ゆる)めたのだ?」と熊城はさっそくに詰(なじ)り掛ったが、意外にも、法水は爆笑を上げて、
「すると、あれを本気にしているのかい」
 検事も熊城も、途端に嘲笑されたことは覚ったけれども、あれほど整然たる条理に、とうていそのままを信ずることは出来なかった。法水は可笑(おか)しさを耐えるような顔で、続いて云った。
「実をいうと、あれは僕の一番厭な恫□(どうかつ)訊問なんだよ。真斎を見た瞬間に直感したものがあったので、応急に組み上げたのだったけれど、真実の目的と云えば、実はほかにあったのだ。ただ真斎よりも、精神的に優越な地位を占めたい――というそれだけの事なんだよ。この事件を解決するためには、まずあの頑迷な甲羅を砕く必要があるのだ」
「すると、扉の窪みは」
「二二が五さ。あれは、この扉の陰険な性質を剔抉(てっけつ)している。また、それと同時に水の跡も証明しているんだ」まさしく仰天に価する逆転だった。グワンと脳天をドヤされたかのように茫然となった二人に、法水はさっそく説明を始めた。「水で扉を開く。つまり、この扉を鍵なくして開くためには、水が欠くべからざるものだったのだ。ところで、最初それと類推させたものを話すことにしよう。マームズベリー卿が著(あら)わした『ジョン・デイ博士鬼説』という古書がある。それには、あの魔法博士デイの奇法の数々が記されているのだが、その中で、マームズベリー卿を驚嘆させた隠顕扉の記録が載っていて、それが僕に、水で扉を開(ひら)け――と教えてくれたのだ。勿論一種の信仰療法(クリスチャンサイエンス)なんだが、まずデイは、瘧(おこり)患者を附添いといっしょに一室へ入れ、鍵を附添いに与えて扉を鎖さしめる。そして、約一時間後に扉を開くと、鍵が下りているにもかかわらず、扉は化性のものでもあるかのように、スウッと開かれてしまう。そこでデイは結論する――憑神(つきがみ)の半山羊人(フォーン)は遁(のが)れたり――と。ところが、まさしく扉の附近には山羊の臭気がするので、それで患者は精神的に治癒されてしまうのだ。ねえ熊城君、その山羊の臭気というものの中に、デイの詐術が含まれているのだよ。ところで、君はたぶん、ランプレヒト湿度計(ハイグロメーター)にもあるとおりで、毛髪が湿度によって伸縮するばかりでなく、その度が長さに比例する事実も知っているだろう。そこで、試みに、その伸縮の理論を、落し金の微妙な動きに応用して見給え。知ってのとおり、弾条(ぜんまい)で使用する落し金というのは、元来、打附木材住宅(ハーフ・チムバア)(漆喰壁の上に規則的な木配りで荒削りの木材を打ち附ける英国十八世紀初頭の建築様式)特有のものと云われているのだが、大体が平たい真鍮桿(かん)の端に遊離しているもので、その桿の上下によって、支点に近い角体の二辺に沿い起倒する仕掛になっている。そして、支点に近づくほど起倒の内角が小さくなるということは、たぶん簡単な理法だから判っているだろう。そこで、落し金の支点に近い一点を結んで、その紐を、倒れた場合水平となるように張っておき、その線の中心とすれすれに、頭髪の束で結んだ重錘(おもり)を置いたと仮定しよう。そして、鍵穴から湯を注ぎ込む。すると、当然湿度が高くなるから、毛髪が伸長して、重錘(おもり)が紐の上に加わってゆき、勿論紐が弓状(ゆみなり)になってしまう。したがって、その力が落し金の最小内角に作用して、倒れたものが起きてしまうのだ。だから、デイの場合は、それが羊の尿(いばり)だったろうと思うのだがね。またこの扉では、傴僂(せむし)の眼の裏面が、たぶんその装置に必要な刳穴(こけつ)だったので、その薄い部分が、頻繁(ひんぱん)に繰り返される乾湿のために、凹陥を起したに違いないのだよ。つまり、その仕掛を作ったのが算哲で、それを利用して永い間出入りしていた人物と云うのが、犯人に想像されるんだ。どうだね支倉君、これで先刻(さっき)人形の室で、犯人が何故絲と人形の技巧(トリック)を遺して置いたのか判るだろう。外側からの技巧(トリック)ばかりを詮索していた日には、この事件は永遠に、扉一つが鎖してしまうのだ。それに、そろそろこの辺から、ウイチグス呪法の雰囲気が濃くなってゆくような気がするじゃないか」
「すると、人形はその時の溢(こぼ)れた水を踏んだという事になるね」と検事は、引きつれたような声を出した。「もう後は、あの鈴のような音(おと)だけなんだ。これで犯人を伴った人形の存在は、いよいよ確定されたとみて差支えない。しかし、君の神経が閃(ひらめ)くたびごとに、その結果が、君の意向とは反対の形で現われてしまう。それは、いったいどうしたってことなんだい」
「ウム、僕にもどうも解(げ)せないんだ。まるで、穽(わな)の中を歩いているような気がするよ」と法水にも錯乱した様子が見えると、
「僕はその点が両方に通じてやしないかと思うよ。いまの真斎の混乱はどうだ。あれはけっして看過しちゃならん」とこれぞとばかりに、熊城が云った。
「ところがねえ」と法水は苦笑して、「実は、僕の恫□(どうかつ)訊問には、妙な言(ことば)だが、一種の生理拷問(ごうもん)とでも云うものが伴っている。それがあったので、初めてあんな素晴らしい効果が生れたのだよ。
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