黒死館殺人事件
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著者名:小栗虫太郎 

「いや、それはいずれまた聴くとして」と慌(あわ)てて検事は、似非(えせ)史家法水の長広舌(ちょうこうぜつ)を遮ったが、依然半信半疑の態(てい)で相手を瞶(みつ)めている。「なるほど、現象的には、それで説明がつくだろう。また、奥の屍室の中に、あるいは紋章のない石(クレストレッス・ストーン)の一端が、現われているかもしれん。しかし、仮令(たとえ)ばそれで、一人二役が解決するにしてもだ。どうしても僕には、隠さずにいい姿を隠した、レヴェズの心情が判らんのだよ。たぶんあの男は、自分の洒落(しゃれ)に陶酔しすぎて、真性を失ってしまったのだろう」
「オヤオヤ支倉君、君は津多子の故智を忘れたのかね。では試しに、屍室の扉(ドア)を開かずにおこうか。そうしたらきっとあの男は、僕等の帰った頃を見計って、横廊下に当る聖趾窓(ピイド・ウインドウ)から抜け出すだろう。そして、大洋琴(グランドピアノ)の中にでも潜り込んで、それから催眠剤を嚥(の)むに違いないのだよ。サア行こう。今度こそ、あの小仏小平(こぼとけこへい)の戸板を叩き破ってやるんだ」
 こうして、法水はついに凱歌を挙げ、やがて、中室の奥――聖パトリックの讃詩(ヒム)を刻んである屍室の扉(ドア)の前に立った。彼等三人には、すでにレヴェズを檻(おり)の中に発見したような心持がして、その残忍な反応を思う存分貪(むさぼ)り喰いたいのだった。ところが、恐らく内部から鎖されていて、武具室にある、破城槌(バッテリング・ラム)の力でも借りなければ――と信じられていたその扉(ドア)が、意外にも、熊城の掌(てのひら)を載せたまま、すうっと後退(あとずさ)りしたのだった。内部(なか)は、湿っぽい密閉された室(へや)特有の闇で、そこからは、濁りきっていて妙に埃っぽい、咽喉(のど)を擽(くすぐ)るような空気が流れ出てくるのだ。そして、懐中電燈の円い光の中には、はたせるかな、数条の新しい靴跡が現われ出たのだった。その瞬間、闇の彼方にレヴェズの烱々(けいけい)たる眼光が現われ、彼が喘(あえ)ぎ凝(こ)らす、野獣のような息吹が聴えてきた――と思われたのは、彼等の彩塵が描き出した幻だったのだ。その足跡は、奥の垂幕の蔭に消え、最奥の棺室(ひつぎしつ)に続いているのである。ところが、その折彼等が、思わず固唾(かたず)を嚥(の)んだと云うのは、垂幕の裾から床の隅々にまで、送った光の中には、わずか棺台(ひつぎだい)の脚が四本現われたのみで、そこには人影がないのだった。紋章のない石(クレストレッス・ストーン)――すでにレヴェズは、この室(へや)から姿を消してしまったのであろう。と、熊城が勢いよく垂幕を剥いだ時に、突然彼は、何者かに額を蹴られて床に倒れた。それと同時に、垂幕の鉄棒が軋(きし)む響が頭上に起って、検事の胸を目掛けて飛んだ固い物体があった。彼は思わずそれを握りしめた――靴。しかしその瞬間、法水の眼は頭上の一点に凍りついてしまった。見よ、そこには一本の裸足と、靴の脱げかかったもう一本――それが、鈍い大振子のように揺れているのだった。
 さながら、脳漿(のうしょう)の臭いを嗅(か)ぐ思いのする法水の推定が、ついに覆(くつがえ)されてしまった。レヴェズは発見されはしたものの、垂幕の鉄棒に革紐を吊って、縊死(いし)を遂げているのだった。閉幕――恐らく黒死館殺人事件は、このあっけない一幕を最後に終ったのであろう。しかし、この結論が、けっして法水を満足させるものでないにもせよ、それは不思議なくらいに、彼を狼狽(ろうばい)させた。熊城は、私服に下させた屍体の顔に、灯を向けて云った。
「やれやれ、これでファウスト様の事件は終ったらしいね。けっして喝采(かっさい)をうけるほどの終局じゃないけれども、まさかこの洪牙利(ハンガリー)の騎士が、犯人とは思いも寄らなかったよ」それ以前すでに、棺台の上が調査されていた。そして、そこに残されている靴跡から判断すると、その端に立ったレヴェズが両手を革紐にかけ、足を離しながら、首を紐の上に落したことは疑うべくもなかった。その――てっきり海獣を思わせるような屍体は、同じく宮廷楽師(カペルマイスター)の衣裳を附けていて、胸のあたりがわずかに吐瀉物で汚されている。なお、推定時刻は一時間前後で、ほぼクリヴォフの殺害と符合していたが、革紐は襟布(カラー)の上からそのなりに印されていて、それが頸筋(くびすじ)に、無残なほど深く喰い入っていた。勿論あらゆる点にわたって、縊死(いし)の形跡は歴然たるものだった。のみならず、それを一面にも立証しているのが、レヴェズの顔面表情だった。その黝(くろ)ずんだ紫色に変った顔には、眉の内端がへの字なりに吊り上り、下眼瞼(したまぶた)は重そうに垂れていて、口も両端が引き下っている。勿論それ等の特徴は、いわゆる落ちる(フォール)と呼ぶものであって、それにはとうてい打ち消しようもない、絶望と苦悩の色が漂っているのであった。しかしその間、検事は、頸筋の襟布(カラー)を指で摘み上げて、しきりと後頭部の生え際のあたりを瞶(みつ)めていた。が、そうしているうちに、その眼が不気味に据えられてきた。
「僕は、レヴェズに対するゴシップが、あまり酷評に過ぎやせんかと思うのだ。どうだろう法水君、この胡桃形(くるみがた)をした無残な烙印(やきいん)には、たしか索溝の形状(かたち)と、背馳(はいち)するものがあるように思われるんだが」とてっきり、胡桃(くるみ)の殻としか思われない結節の痕(あと)が、一つ生え際に止められているのを指し示して、
「なるほど、索状が上向きにつけられている。そうしたら、こんな結節の一つ二つなんぞは、恐らく瑣事にもすぎんだろう。しかし、古臭いフォン・ホフマンの『法医学教科書』の中にも、こういう例が一つあるじゃないか。それは――床に落ちた書類を拾おうとして、被害者が身体を踞(かが)めたところを、その一眼鏡(モノクル)の絹紐で、犯人が後様(うしろざま)に絞め上げたと云うのだ。勿論そうすれば、索溝が斜め上方につけられるので、後で犯人は、その上に紐を当がって屍体を吊したのだよ。ところが、頸筋にたった一つ結節が残されていて、とうとう終いには、それが、口をきいてしまった――と云うのだがね」そう云ってから、レヴェズの自殺を心理的に観察して、検事はこの局面で、最も痛い点に触れた。
「それに法水君、仮令(たとえ)ばレヴェズが本開閉器(メイン・スイッチ)を消し、それから僕等のしらない、秘密の通路を潜って、クリヴォフ夫人を刺したにしてもだ、だいたい、クニットリンゲンの魔法博士ファウストともあろうものが、何故最後の大見得を切らなかったのだろうか。あれほど芝居げたっぷりだった犯罪者の最後にしては、すべてがあまりにあっけないほど、サッパリしすぎているじゃないか」ととうてい解しきれないレヴェズの自殺心理が、検事をまったく昏迷の底に陥れてしまった。彼は狂わしげに法水を見て、「法水君、この自殺の奇異(ふしぎ)な点だけは、君が、十八番のストイック頌讃歌(パニジリック)からショーペンハウエルまで持ち出してきても、恐らく説明はつかんと思うね。何故なら、目下犯人の戦闘状態たるや、完全に僕等を圧しているんだ。そこへもってきて、あまりに唐突な終局なんだ。ああ、憐れむべき萎縮じゃないか。どうして、この男の想像力が、あのサルヴィニ(表情演技の誇大な伊太利俳優の典型)張りの大芝居だけで、尽きてしまったとは信じられんよ。時の選択を誤らないためにか、それとも、誇らしげに死ぬためか……。いやいや、けっしてそのどっちでもないはずだ」
「あるいは、そうかもしれんがね」と法水は莨(たばこ)で函(ケース)の蓋を叩きながら、妙に含むところのあるような、それでいて、検事の説を真底から肯定するようにも思われる――異様な頷(うなず)き方をしたが、「そうすると、さしずめ君には、ピデリットの『擬容と相貌学(ミミク・ウント・フィジオグノミーク)』でも読んでもらうことだね。この悲痛な表情は落ちる(フォール)と云って、とうてい自殺者以外には求められないものなんだよ」そう云ってから垂幕を強く引くと、頭上に鉄棒の唸(うな)りが起った。「ねえ支倉君、ああして聴えてくる響が、この結節を曲者(くせもの)に見せたのだったよ。何故なら、レヴェズの重量が突然加わったので、鉄棒に弾みがついてしないはじめたのだ。すると、その反動で、懸吊(つる)されている身体(からだ)が、独楽(こま)みたいに廻りはじめるだろう。勿論それによって、革紐がクルクル撚(よじ)れてゆく。そして、それが極限に達すると、今度は逆戻りしながら解(ほど)けてゆくのだ。つまり、その廻転が十数回となく繰り返されるので、自然撚り目の最極の所に結節が出来、それがレヴェズの頸筋(くびすじ)を、強く圧迫したからなんだよ」
 そうして、事象としては完全な説明がついたものの、なんとなく法水には、それが独り占いのように思えてならなかった。彼は依然暗い顔のままで、無暗(むやみ)と莨(たばこ)を烟(けむ)にしながら考えに耽(ふけ)っていた。――博士(ドクター)ファウスト別名(エーリアス)オットカール・レヴェズが、人生を煙のように去った。しかし、それは何故であるか。
 それから、一応ここで検屍を行うことになったが、まず前室の扉(ドア)の鍵が、衣袋(ポケット)の中から発見された。ところが、その直後――ひしゃげ潰(つぶ)れたレヴェズの襟布(カラー)をはずした時に、思いがけなく、その下から三人の眼を激しく射返したものがあった。ついに、レヴェズの死が論理的に明らかとなった。ちょうど軟骨の下――気管の両側の辺りに、二つの拇指の痕(あと)が、まざまざと印されていたのである。しかも、その部分に当る頸椎(けいつい)に脱臼が起っていて、疑いもなくレヴェズの死因は、その扼殺(やくさつ)によるもので……、恐らくそうしてから、絶命に刻々と迫ってゆく身体を、犯人は吊し上げたのであろう――と断ぜねばならなくなってしまった。すでに明白である――局面は再び鮮かな蜻蛉(とんぼ)返りを打った。しかし、それには右指の方にきわだった特徴があって、その方にのみ、爪の痕がいちじるしく印されている。そして、指頭の筋肉に当る部分が、薄っすらと落ち窪んでいて、それが何か腫物(はれもの)でも、切開した痕らしく思われるのだった。しかし、勿論それで、レヴェズの自殺心理に関する疑念だけは、一掃されたけれども、一方鍵の発見によって、疑問はさらに深められるに至った。
 すでにこの局面には、否定も肯定もいっせいに整理されていて、そこには幾つかの、とうてい越え難い障壁が証明されているのだった。恐らく犯人は、レヴェズを前室に引き込んで扼殺(やくさつ)し、その屍体を奥の屍室の中に担ぎ入れたのであろう。しかし、前室の鍵が、被害者の衣袋(ポケット)の中に蔵(しま)われているにもかかわらず、その扉を、いかにして犯人は閉じたのであろうか。また、屍室に残されている足跡にも、レヴェズ以外のものがないばかりでなく、顔面表情も自殺者特有のもので、それに恐怖驚愕と云うような、情緒が欠けているのは何故であろうか。もっとも、横廊下に開いている聖趾窓(ピイド・ウインドウ)には、その上段だけが透明な硝子になっているけれども、一面に厚い埃の層で覆われていて、それには脱出の方法を、想起し得る術(すべ)もないのだった。したがって、紋章のない石(クレストレッス・ストーン)――に、解答のすべてがかけられてしまったのも、是非ないことである。検事は屍体の髪を掴んで、その顔を法水に向けた。そして、彼がかつてレヴェズに対して採ったところの、酷烈きわまりない手段を非難するのだった。
「法水君、この局面の責任は、当然君の、道徳的感情の上に掛ってくるんだ。なるほど、あの際の心理分析から、君は地精(コボルト)の札の所在(ありか)を知ることが出来た。また、危く闇から闇に葬られるところだった――この男と、ダンネベルグ夫人との恋愛関係も、君の透視眼が剔抉(てっけつ)したのだ。けれども、レヴェズは君の詭弁に追い詰められて、自分の無辜(むこ)を証明しようとした結果、護衛を断ったんだぜ」
 それには、法水も真向から反駁(はんばく)することは出来なかった。敗北、落胆、失意――希望のすべてが彼から離れてしまったばかりでなく、さながら永世の重荷となるような暗影が、一つ心の一隅に止まってしまった。たぶんその幽霊は、法水に絶えずこう囁(ささや)くことだろう、――お前がファウスト博士をして、レヴェズを殺させたのだ――と。しかし、レヴェズの気管を強圧した二つの拇指痕(ぼしこん)は、この場合、熊城に雀躍(こおど)りさせたほどの獲物だった。それでさっそく、家族全部の指痕を蒐集することになったが、その時、一人の召使(バトラー)を伴った私服が入って来た。その召使(バトラー)というのは、以前易介事件の際にも、証言をしたことのある古賀庄十郎という男で、今度も休憩中に、レヴェズの不可解な挙動を目撃したと云うのだった。
「君が最後にレヴェズを見たと云うのは、何時頃だね」とさっそくに法水が切り出すと、
「はい、たしか八時十分頃だったろうと思いますが」と最初は屍体を見まいとするもののように顔を背けていたが、云いはじめると、その陳述はテキパキ要領を得ていた。「曲目の第一が終って休憩に入りましたので、レヴェズ様は礼拝堂からお出でになりました。その時私は広間(サロン)を抜けて、廊下をこの室の方に歩いてまいりましたが、その私の後を跟(つ)けて、レヴェズ様も同様歩んでお出でになるのでした。しかし、それなり私は、この室(へや)の前を過ぎて換衣室の方に曲ってしまいましたけども、その曲り角でふと後を振り向きますと、レヴェズ様はこの室の前に突っ立ったままで、私の方を凝然(じっ)と見ているのでございます。それはまるで、私の姿が消えるのを待っているかのようでございました」
 それによると、レヴェズが自分からこの室に入ったと云っても、それには寸分も、疑う余地がないのであった。法水は次の質問に入った。
「それから、その時他の三人はどうしていたね?」
「それは御各自(めいめい)に、一応はお室(へや)に引き上げられたようでございました。そして、曲目の次が始まるちょうど五分前頃に、三人の方はお連れ立ちになり、また伸子さんは、それから幾分遅れ気味にいらっしゃったよう、記憶しておりますが」
 それに、熊城が言葉を挾んで、「そうすると君は、その後に、この廊下を通らなかったのかい」
「はい、間もなく二番目が始まりましたので。御承知のとおり、この廊下には絨毯(じゅうたん)が敷いてございませんので、音が立ちますものですから、演奏中は表廊下を通ることになっておりますので」とレヴェズの不可解な行動を一つ残して、庄十郎の陳述はそれで終った。ところが、終りに彼は、ふと思い出したような云い方をして、「ああそうそう、本庁の外事課員と仰言(おっしゃ)る方が、広間(サロン)でお待ちかねのようでございますが」
 それから、殯室(モーチュアリー・ルーム)を出て広間に行くと、そこには、外事課員の一人が、熊城の部下と連れ立って待っていた。勿論その一つは、黒死館の建築技師――ディグスビイの生死いかんに関する報告だった。しかし、警視庁の依頼によって、蘭貢(ラングーン)の警察当局が、たぶん古い文書までも漁(あさ)ってくれたのであろう。その返電には、ディグスビイが投身した当時の顛末(てんまつ)が、かなり詳細にわたって記されてあった。それを概述すると、――一八八八年六月十七日払暁五時、波斯女帝号(エムプレス・オヴ・パーシャ)の甲板から投身した一人の船客があった。そして、たぶん首は、推進機に切断されたのであろうが、胴体のみはその三時間後に、同市を去る二マイルの海浜に漂着した。勿論、その屍体がディグスビイであるということは、着衣名刺その他の所持品によって、疑うべくもないのだった。
 次に熊城の部下は、久我鎮子(くがしずこ)の身分に関する報告をもたらした。それによると、彼女は医学博士八木沢節斎の長女で、有名な光蘚(ひかりごけ)の研究者久我錠二郎(じょうじろう)に嫁ぎ、夫とは大正二年六月に死別している。勿論鎮子をその調査にまで導いていったものは、いつぞや法水が彼女の心像を発(あば)いて、算哲の心臓異変を知ることの出来た心理分析にあったのだ。また鎮子がそればかりでなく、早期埋葬防止装置の所在までも算哲から明かされているとすれば、当然両者の関係に、主従の墻(かき)を越えた異様なものがあるように思われたからである。しかし、八木沢という旧姓に眼が触れると、突然法水は異様な呼吸を始め、惑乱したような表情になった。そして、その報告書を掴むや、物も云わずに広間を出て、その足でつかつか図書室の中に入って行った。
 図書室の中には、アカンサス形をした台のある燭台が、ポツリと一つ点(とも)されているのみで、その暗鬱な雰囲気は、著作をする時の鎮子の習慣であるらしかった。しかし彼女は、いっこう何の感覚もなさそうに、凝(じ)っと入って来た法水を瞶(みつ)めている。その凝視は、法水に切り出す機会を失わせたばかりでなく、検事と熊城には、一種の恐怖さえももたらせてきた。やがて、彼女の方から、切れぎれな、しかも威圧するような調子で云い出した。
「ああ、判りましたわ。貴方がこの室(へや)にお出でになったという理由が……。ねえ、たぶんあれなんでしょう。いつかの晩、私はダンネベルグ様のお側におりましたわね。またその後惨事が起るその都度にも、私は一度だって、この図書室から離れていたことはございませんでした。ねえ法水さん、いつかは貴方が、その逆説的効果に、お気づきなさらずにはいまいと考えておりましたわ」
 その間、法水の眼が一秒ごとに光を増して、相手の意識を刺し通すような気がした。彼は身体を捻(ね)じ向けて、ちょっと微笑みかけたが、それは中途で消えてしまった。
「いやけっして、そんな甘い插話(エピソード)ではないのです。僕は貴女(あなた)の所へ、これを最後と思って来たのですよ。ところで、八木沢さん……」と――八木沢という姓を法水が口にすると、それと同時に、鎮子の全身に名状すべからざる動揺が起った。法水は追及した。「たしか貴女のお父上八木沢医学博士は、明治二十一年に、頭蓋鱗様部及び顳□窩(せつじゅか)畸形者の犯罪素質遺伝説を唱えましたね。すると、それに、故人の算哲博士が駁論を挙げたでしょう。ところが、不審なことには、その論争が一年も続いて、まさしく高潮に達したと思われた矢先に、まるでそれが、黙契でも成り立ったかのように消え失せてしまいましたね。そこで、試しに僕は、過去黒死館に起った出来事を、年代順に排列して見ました。そうすると、次の明治二十三年には、あの四人の嬰児(えいじ)が、はるばる海を渡って来たではありませんか。ねえ八木沢さん、たぶんその間の推移に、貴女がこの館にお出でになった理由があると思うのですが」
「もう、何もかも申し上げましょう」と鎮子は沈鬱な眼を上げた。心の動揺がすっかり収まったと見えて、いったんは見分けもつかぬ深みへ、落ち込んでしまった顔の凹凸が、再び恐ろしい鋭さでもって影を擡(もた)げてきた。「私の父と算哲様があの論争を中止いたしましたのは、つまりその結論が、人間を栽培する実験遺伝学という極論に行き詰ってしまったからでございます。そう申し上げればあの四人が、たかが実験用の小動物にすぎないということはお判りでしょう。そこで、四人の真実の身分を申しますと、それぞれに紐育(ニューヨク)エルマイラ監獄で刑死を遂げた、猶太人(ジュウ)、伊太利人(ディエゴ)などの移住民(エミグラント)を父にしているのでございます。つまり、刑死体を解剖して、その頭蓋形体を具えた者がおりました際には、その都度その刑死人の子を、典獄ブロックウェーを通じて手に入れたのでした。そして、ついにその数が、国籍を異にするあの四人になって……ですから、『ハートフォード福音伝道者(エヴァンジェリスト)』誌の記事も、また、大使館公録のものも、みんな算哲様が、金に飽(あ)かした上での御処置だったのでございます」
「そうすると、この館にあの四人を入籍させて、動産の配分に紛糾を起させたというのも、つまりが、結論を見出さんがための筋書だったのですね」
「さようでございます。あの方の御父上も同様の頭蓋形体だったそうですが、それもございましたのでしょう、算哲様は御自分の説に、ほとんど狂的な偏執(へんしつ)を持っていらっしゃいました。しかし、あの方のような異常な性格な方には、我々の云う正規の思考などというものは問題ではございません。没頭――それが生命の全部であり、遺産や情愛や肉身などという瑣事(さじ)は、あの方の広大無辺な、知的意識の世界にとれば、わずかな塵にしかすぎないのでございます。そこで、私の父と算哲様は後年を約して、その成否を私が見届けることになりました。ところが、その際算哲様は、すこぶる陰険な策動をなさったのでございます。と申しますのは、クリヴォフ様についてでございますが、あの方が日本に到着すると間もなく、剖見の発表が取り違えられていたという通知がまいりました。そこで、算哲様は一計を案じて、四人の名を『グスタフス・アドルフス伝』[#「『グスタフス・アドルフス伝』」は底本では「『グスタフス・アドルフス伝』伝」]の中から採ったのでございます。つまり、その頭蓋による遺伝素質のないクリヴォフ様には、暗殺者の名を。他の三人には、暗殺者ブラーエの手に狙撃された、ワレンシュタイン軍の戦没者の名を附けたのでした。そして、この書庫の中から、グスタフス王の正伝をことごとく省いてしまって、それに『リシュリュウ機密閣(ブラック・キャビネット)史』を当てたのでしたけれども、恐らくその人名は、家族の者にも、また貴方がた捜査官にも、なんらかの使嗾(しそう)を起さずにいまいと考えられておりました。ですから法水さん、これで、いつぞや貴方に申し上げた、霊性(ガイスチヒカイト)という言葉の意味が――つまり、父から子に、人間の種子(たね)が必ず一度は彷徨(さまよ)わねばならぬ、あの荒野(ヴュステ)の意味がお判りでございましょう。そうして、今日クリヴォフ様が斃(たお)されたのですから、そうなると、当然算哲様の影が、あの疑心暗鬼の中から消えてしまうではございませんか。ああ、この事件はあらゆる犯罪の中で、道徳の最も頽廃(たいはい)した型式なのでございます。そして、その黝(くろ)ずんだ溝(どぶ)臭い溜水の中で、あの五人の方々が喘(あえ)ぎ競(せめ)いていたのでございますわ」
 こうして、四人の神秘楽人の正体が曝露されると同時に、過去における黒死館の暗流には、ただ一つ、二つの変死事件のみが残されてしまった。それから、いつも訊問室に当てている、ダンネベルグ夫人の室(へや)に戻ると、そこには旗太郎とセレナ夫人とが、四、五人の楽壇関係者らしいのを従えて待っていた。ところが、法水の顔を見ると、温雅な彼女にも似げない、命令的な語調で、セレナ夫人が云い出した。
「私どもは明瞭(はっきり)した証言をしにまいりました。実は、伸子を詰問して頂きたいのですが」
「なに紙谷伸子(かみたにのぶこ)を□」と法水は、ちょっと驚いたような素振を見せたけれども、その顔には、隠そうとしても隠し得ようのない、会心の笑(えみ)が浮んできた。
「そうすると、あの方が、貴女(あなた)がたを殺すとでも云いましたかな。いや、事実誰かれにも、とうてい打ち壊すことの出来ない障壁があるのですよ」
 それに、旗太郎が割って入った。そして、相変らずこの異常な早熟児は、妙に老成した大人のような、柔か味のある調子で云った。
「法水さん、その障壁と云うのが、今まで僕等には、心理的に築かれておりましてね。現に津多子さんが、最前列の端にいられたのを御存じでしょう。ところが、その障壁を、いまここにいられる方々が打ち壊してくれたのでした」
「私は、装飾灯(シャンデリヤ)が消えるとすぐに、竪琴(ハープ)の方から人の近づいて来る気配を感じました」とそう云いながら、たぶん評論家の鹿常充(しかつねみつる)と思われる――その額の抜け上った四十男は、左右を振り向いて周囲の同意を求めた。そして続けた。「サア、それは気動とでも云うのでしょうかな。それより、絹が摺れ合うと唸(うな)りが起りますから、たぶんそれではないかとも思うのです。しかしいずれにしても、その音はしだいに拡がりを増してまいりました。そして、それがパッタリ杜絶えたかと思うと、同時に壇上で、あの悲痛な呻(うめ)き声が発せられたのです」
「なるほど貴方の筆鋒(ペン)には、充分毒殺効果はあるでしょう」と法水は、むしろ皮肉な微笑を洩らして頷(うなず)いた。「ですが、こういうハックスレイを御存じですか。――証拠以上に出た断定は、誤謬(ごびゅう)と云うだけでは済まされない、むしろ犯罪(クライム)である――と。ハハハハハ、どうせ音楽の神(ミューズ)の絃(いと)の音までも聴けるのでしたら、そんな風に、鶏(とり)の声でイビュコスの死を告げると云うのはどうですかな。かえって僕は、アリオンを救った方が、音楽好きの海豚(いるか)の義務ではないかと思うのですよ」
「なに、音楽好きの海豚(いるか)ですって□」居並んでいる一人が憤激して叫んだ。その男は左端に近い旗太郎の直下にいた、大田原末雄というホルン奏者であった。「よろしい、アリオンは既(とう)に救われているんですぞ。しかし、僕の位置が位置だったので、鹿常君の云うその気配というのは聴えませんでした。けれども、かえってこのお二人に近かっただけに、完全な動静を握っていると云っても過言ではないのですよ。法水さん、僕もやはり異様な唸(うな)りを聴きました。それは、呻(うめ)き声が起ると同時に杜絶えましたが……、しかしその音は、旗太郎さんが左利(きき)で、セレナ夫人が右利(きき)である限り、弓(キュー)の絃(いと)が、斜めに擦れ合って起ったものに相違ないのですよ」
 その時セレナ夫人は、皮肉な諦(あきら)めの色を現わして法水を見た。
「とにかく、この対照の意味が非常に単純なだけに、かえって皮肉な貴方には、評価が困難なのでございましょう。けれども、御自分の慣性以外の神経で、もし判断して頂けるのでしたら、きっとあの賤民(チゴイネル)に、クラカウ(伝説におけるファウスト博士が、魔術修行の土地)の想い出が輝くに相違ございませんわ」
 そうして、一同が出て行ってしまうと、熊城は難色を現わして、法水に毒づいた。
「いやどうも呆れたことだ、むしろ与えられたものを素直に取る方が、君に適わしい高尚な精神だと思うんだがね。それより法水君、今の証言で、君が先刻(さっき)云った武具室の方程式を憶い出してもらいたいんだ。あの時君は、[#ここから横組み]2−1=クリヴォフ[#ここで横組み終わり]だと云ったね。しかし、その解答のクリヴォフが殺されたとしたら……」
「冗談じゃない。あんな賤民の娘(チゴイネル・ユングフラウ)が、どうして、この宮廷陰謀の立役者なもんか」と法水は力を罩(こ)めて云い返した。
「なるほど、伸子という女はすこぶる奇妙な存在で、ダンネベルグ事件と鐘鳴器(カリリヨン)室を除いた以外は、完全に情況証拠の網の中にあるのだ。しかし、あの標本的な人身御供(ひとみごくう)があるがために、ファウスト博士は陽気な御機嫌を続けていられるんだぜ。第一伸子には、動機も衝動もない。例えばどんな作虐性犯罪者(サディスト)でさえも、そういった病的心理を、引き出すに至る動因が、必ずあるものなんだよ。現に、いまもあの好楽の海豚ども(フィルハーモニック・ドルフィンズ)が……」
 と法水が何事かに触れようとした時、先刻調査を命じておいた拇指痕(ぼしこん)の報告がもたらされた。しかし、結果は徒労に終って、それに該当するものは、ついに現われ出て来なかった。法水は疲れたような眼をして、しばらく考えていたが、ふと何と思ったか、広間(サロン)の煖炉棚(マントルピース)に並んでいる、忘れな壺(ポッツ・オブ・メモリー)を持参するように命じた。それは総計二十あまりもあって、すでに故人となり、離れ去った人達のもあるけれど、この館に重要な関係を持った人達には、あまねく作らせて、回想を永遠に止めんがためのものであった。表面には、西班牙(スペイン)風の美麗な釉薬(ゆうやく)が施されていて、素人の手作りのせいか、どこか形に古拙(こせつ)なところがあった。法水はそれをずらりと卓上に並べて云った。
「あるいは、僕の神経が過敏すぎるのかもしれないがね。しかし、この館のような、精神病理的人物の多い所では、押捺(おうなつ)した指痕などというものに信頼を置くと、それがそもそもの間違いになるのだよ。何故なら、ときたま外見に現われない発作があるからね。その時強直なり羸痩(るいそう)なりが起った場合に、僕等はとんでもない錯誤を招かんけりゃならんのだ。しかし、この壺の内側には、必ず平静な状態の時、捺(お)された拇指痕(ぼしこん)があるに相違ない。熊城君、君は、ここにある壺を巧く割ってくれ給え」
 そうして糸底(いとぞこ)の姓名と対照して割ってゆくうちに、とうとう二つが残されてしまった。「クロード・ディグスビイ」……割られたが、しかし、あのウェールズ猶太(ジュウ)のものとは異なっていた。次に、降矢木算哲……熊城の持った木槌が軽く打ち下されて、胴体にジグザグの罅(ひび)が入った。そうして、それが二つに開かれた次の瞬間、三人は全く悪夢のようなものを掴まされてしまった。ちょうど縁(へり)から幾分下方に当る所に、疑うべくもない拇指痕が、レヴェズの咽喉(のど)に印されたのと同一の形で現われた。さすがに検事も熊城も、この衝撃には言葉を発する気力さえ失せてしまったらしい。そうしているうちに、熊城は眠りから醒めたような形で、慌(あわ)てて莨(たばこ)の灰を落したが、
「法水君、問題は、これで綺麗(きれい)さっぱり割り切れてしまったのだ。もう猶予(ゆうよ)するところはない。算哲の墓※(ぼこう)[#「穴かんむり/石」、428-1]を発掘するんだ」
「いや、僕はあくまで正統性(オーソドキシイ)を護ろう」と法水は異様な情熱を罩(こ)めて叫んだ。「あの疑心暗鬼に惑わされて、算哲の生存を信ずると云うのなら、君は勝手に降霊会でも開き給え。僕は紋章のない石(クレストレッス・ストーン)――を見つけて、人間様の殺人鬼と闘うんだ」
 それから壁炉(へきろ)の積石に刻まれている紋章の一つ一つを辿(たど)ってゆくと、はたして右側の積石の中に、それらしいものを発見した。そして、法水が試みにそれを押すと、奇妙なことには、その部分が指の行くがままに落ち窪んでゆく。すると、それと同時に、その一段の積石が音もなく後退(あとずさ)りを始めて、やがて、その跡の床に、パックリと四角の闇が開いた。坑道――ディグスビイの酷烈な呪詛(じゅそ)の意志を罩(こ)めたこの一道の闇は、壁間を縫(ぬ)い階層の間隙を歩いて、何処(いずこ)へ辿りつくのだろうか。鐘鳴器(カリルロン)室か礼拝堂かあるいは殯室(モーチュアリー・ルーム)の中にか、それとも四通八達の岐路に分れて……。

    二、伸子よ、運命の星の汝の胸に

 足許には小さな階段が一つあって、そこから漆(うるし)のような闇が覗(のぞ)いている。永年外気に触れたことのない陰湿な空気が、さながら屍温のようなぬくもりと、一種名状の出来ぬ黴(かび)臭さとを伴って、ドロリと流れ出てくる――文字どおりの鬼気だった。法水等三人は、さっそく懐中電燈を点して、肩を狭めながら階段を下りて行った。すると、そこは半畳敷ほどの板敷になっていて、そこまで来ると、今までは光線の加減で見えなかったスリッパの跡が、床に幾つとなく発見された。しかし、その中にはきわめて新しい一つがあって、それが一直線に階段の上まで続いているけれども、その小判形の痕(あと)には、たぶん静かに歩いたせいでもあろうか、前後の特徴さえも残っていないのである。したがって、はたしてそれが階段から下りて来たものか、それとも、奥の坑道から辿り来ったものか、勿論その識別は不可能なのであった。その時、周囲を照らしていた熊城がアッと叫んだ。見ると、右手の上方に、凄愴(せいそう)な生え際を見せた魔王バリ(印度ヴイシユヌ化身伝説に現われる悪魔の名)の木彫(きぼり)面が掛っていて、その左眼の瞳が、五分ばかり棒のような形で突き出ている。それを押すと、反対に右の方が持ち上ってきて、上から差し込む光線が狭められていった――積石が旧(もと)の位置に戻ったからである。それから法水は、そのスリッパの跡と歩幅の間隔とを計ってから、前方に切り開かれている短冊形の闇の中へ入って行った。実にそれからが、往昔羅馬(ローマ)皇帝トラヤヌスの時代に、執政官(コンスル)プリニウスが二人の女執事(デアコノ)を使って、カリストゥス地下聖廊を探らせた際の、光景を髣髴(ほうふつ)とするものであった。
 坑道の天井からは、永年の埃の堆積が鍾乳石のような形で垂れ下っていて、呼吸をするごとに細塵が飛散してきて、咽喉(のど)が擽(くすぐ)られるように咽(むせ)っぽかった。それでなくても、空気が新鮮でないために、妙に息苦しく、もしこの際松火(たいまつ)を使ったとしたら、それは、輝かずに燻(くす)ぶり消えるだろうと思われた。それに、館中の響がこの空間には異様に轟(とどろ)いてきて、時折岐路(えだみち)ではないかと思ったり、また、人声のようにも聴えたりして、胸を躍らすのもしばしばであった。しかし、スリッパの跡はどこまでも消えずに彼等を導いていった。その足許には、雪を踏みしだくような感じで埃の堆積が崩れ、それを透かして、□(かし)の冷たい感触が、頭の頂辺(てっぺん)まで滲み透るのだった。こうして、この隧道(タンネル)旅行は、かれこれ二十分あまりも続いた。坑道は右に左に、また、ある部分は坂をなし、ほとんど記憶できぬほど曲折の限りを尽して、最後に左に曲ると、そこは袋戸棚のような行き詰りになっていた。そして、そこにも魔王バリの面が発見された。ああ、その石壁一重の彼方は、館の何処(いずこ)であろうか。法水は固唾(かたず)を呑(の)んで面の片眼を押した。すると、その右の扉(ドア)は、熊城の肩を微かに掠(かす)って開かれたが、前方にも依然として闇は続いている。しかし、どこからとなく、寛(ゆるや)かな風が訪れてきて、そこが広い空間であるのを思わせるのだった。
 法水は前方の空間を目がけて、斜めに高く光を投げた。けれども、その光は、闇の中を空しく走ったのみで、何も映らなかった。それで、今度は一歩踏み込んで、頭上に向けると、そこには、醜い苦渋(くじゅう)な相貌をした三人の男の顔が現われた。法水はそれによって、いっさいを知ることが出来たのである。聖パウロ、殉教者イグナチウス、コルドバの老証道人(コンフェッサー)ホシウス……と壁面の彫像柱(アトランテス)を、三つまでは数えたが、その声に俄然顫(ふる)えが加わってきて、
「墓※(クリプト)[#「穴かんむり/石」、430-13]だよ、とうとう僕等は算哲の墓※(クリプト)[#「穴かんむり/石」、430-13]にやって来てしまったんだ」と狂わしげに叫んだ。
 その声と同時に、熊城は二、三歩進んでいって、円い灯で前方を一の字に掃いた。すると、その中に幾つか石棺の姿が明滅して、明らかにこの一劃が、算哲の墓※(クリプト)[#「穴かんむり/石」、430-15]に相違ないことが分った。三人は切れ切れに音高い呼吸を始めた。いつぞやレヴェズが法水に云った、地精よ、いそしめ(コボルト・ジッヒ・ミューエン)――の解釈が、今や幻から現実に移されようとしている。しかも、スリッパの跡は、中央にあってひときわ巨大な、算哲の棺台を目がけて、一文字に続いているのだ。その蓋には、軽鉄で作られた守護神聖(セント)ゲオルヒが横たわっていて、それは軽く擡(もた)げられた。恐らく、その時三人の心中には……算哲の棺台のみに脚がなくて、それが大理石の石積で作られていることから、たしか棺中にはファウスト博士の姿はなくて、そこからまた、地下に続く新しい坑道が設けられているように思われていた。
 ところが、蓋が擡(もた)げられて、円い光がサッと差し入れられた時――思わず三人は、慄然(りつぜん)としたものを感じて、跳び退(の)いた。見よその中には、異形(いぎょう)な骸骨が横たわっているではないか。静臥しているはずの膝が高く折り曲げられていて、両手は宙に浮き、指は何物かを掻(か)かんとするもののように、無残な曲げ方をしている。しかも、三人が跳び退いた機(はず)みに、それがカサコソと鳴って、おまけになお薄気味悪いことには、肋骨(ろっこつ)の端が一、二本ポロリと欠け落ちて、それも灰のようにひしゃ潰(つぶ)れてしまうのだった。しかし、左肋骨には創傷の跡が残っていて、明らかにそれは、算哲の遺骸に相違ないのだった。
「算哲はやはり死んでいたのだ。すると、いったいあの指痕は、誰のものなんだろうか」と熊城を顧(かえり)みて、検事は唸(うな)るような声で呟(つぶや)いた。がその時、法水の眼に妖しい光が閃(ひらめ)いたかと思うと、顔を算哲の肋骨に押し付けて、動かなくなってしまった。実に意外千万にも、その胸骨には縦に刻まれている、異様な文字があったのである。
PATER(パテル)! HOMO(ホモ) SUM(スム)!「父よ、吾(われ)も人の子なり――」と法水は、その一行の羅甸(ラテン)文字を邦訳して口誦(くちずさ)んだが、異様な発見はなおも続けられた。と云うのは、その彫字の縁に、所々金色(こんじき)をした微粒が輝いているのと、もう一つは、欠け落ちた歯の隙に、たぶん小鳥らしいと思われる、骸骨が突っ込まれていることだった。法水はその微粒を手に取って、しばらく眺めすかしていたが、
「ああ、恐らくこれが、ファウスト博士の儀礼(パンチリオ)なんだろうがね。しかし熊城君、この文字は乾板で彫ってあるのだよ。父よ吾も人の子なり(パテル・ホモ・スム)――。それに、歯の間に突っ込まれている、小鳥の骸骨らしいのは、たぶん早期埋葬防止装置を[#「早期埋葬防止装置を」は底本では「早期埋装防止装置を」]妨げたという、山雀(やまがら)の死体に違いないのだ。ねえ怖ろしいことじゃないか。つまり、いったん算哲は棺中で蘇生したのだが、その時犯人は山雀の雛(ひな)を挾んで電鈴(ベル)の鳴るのを妨げたのだよ」
 法水の声のみが陰々と反響(こだま)しても、それがてんで耳に入らなかったほど、検事と熊城は、目前の戦慄(せんりつ)すべき情景に惹(ひ)きつけられてしまった。その姿体は、明白に棺中の苦悶であり、その結論は生体の埋葬に相違なかった。しかし、そうは云うものの、またファウスト博士にとれば、算哲が棺中で蘇生してから狂ったように合図の紐を引き、しかも救けは来ず、力もようやく尽きようとして、頭上の蓋を掻き毟(むし)っている有様と云うのが、恐らくまた、残虐な快感をもたらせたものだったかも知れないのである。そうして、犯人の冷酷な意志は、山雀(やまがら)の屍骸と父よ、吾も人の子なり(パテル・ホモ・スム)――の一文にとどめられるのであるから、当然、久我鎮子が、道徳の最も頽廃(たいはい)した形式と、叫んだのも無理ではないかもしれない。いわゆる黒死館殺人事件と呼ばれて、酷烈酸鼻(さんび)[#ルビの「さんび」は底本では「さんぴ」]をきわめた流血の歴史よりかも、すでにそれ以前行われていて、しかも眼(ま)のあたり、遺骸の形状(かたち)にもそれと頷(うなず)かれる恐怖悲劇の方が、胸を塞いでくる強い何物かを持っていたのは事実だった。それから、スリッパの跡の調査を始めたが、それは聖窟(クリプト)の階段を上りきった頭上の扉口(ドアぐち)――すなわち墓地の棺龕(カタファルコ)まで続いている。しかし、ここまで来ると、ようやくその前後が明らかになって、犯人がダンネベルグ夫人の室(へや)から坑道に入り、それから棺龕(カタファルコ)の蓋を開けて、裏庭の地上に出たのを知ることが出来た。またそれ以外にも、埃に埋もれかかった足跡らしいものが散在していて、既(とう)からあの明けずの間に、異様な潜入者のあったことは疑うべくもなかった。調査が終ると、三人は愴惶(そうこう)に石棺の蓋を閉じて、この圧し狂わさんばかりの、鬼気から遁(のが)れていった。そして、道々法水は、幾つかの発見を綜合整理して、それを、鎖の輪のように繋(つな)げていった。

 一、父よ、吾も人の子なり(パテル・ホモ・スム)の考察――。
すでにそれは、如何(いかん)とも否定し難い物云う表徴(テルテール・シムボル)である。しかし、算哲が自説の勝利に対する狂的な執着からして、四人の異国人を帰化入籍させたのみならず、常軌を逸した遺言書を作ったり、また屍様図を描き魔法典焚書(ふんしょ)を行ったりして、犯罪方法を暗示したり捜査の攪乱(かくらん)をあらかじめ企てたという事が、はたして、三人のうちのどの一人に衝動を与えたか――その決定は勿論疑問なのだった。と云うものの、その父(パテル)――の一語は、明白に旗太郎もしくは、セレナ夫人を指していて、あるいは旗太郎が、遺産に関する暴挙に復仇したものか、それともセレナ夫人が、なんらかの動機から、算哲の真意を知ることが出来て――それには、法水の狂的な幻影としか思われない、屍様図の半葉が暗示されてくるのであるが――もしそうだとすれば、夫人の矜恃(きょうじ)の中に動いている絶対の世界が、あるいは、世にもグロテスクな、この爆発を起させたかもしれないのである。そうして、その意志表示が、吾も人の子なり(ホモ・スム)――の一句に相違ないのだけれども、仮りにもしそれが偽作だとすれば、今度は押鐘津多子を、この狂文の作者に推定しなければならない。
 二、犯罪現象としての押鐘津多子に――。
すでに明白なのは、神意審問会の際張出縁に動いていた人影と、最初乾板を拾いに来た園芸倉庫からの靴跡、それに薬物室の闖入者(ちんにゅうしゃ)――と以上の三人が、算哲を斃(たお)し、あの夜ダンネベルグ夫人の室に侵入した人物と同一人だという事だった。そうすると、当然問題が、ダンネベルグ事件に一括されて、それには、否定すべからざる暗影を持つ押鐘津多子が、しかも、動機中の動機とも云うべきものを引っさげて、登場して来るのだった。勿論、確実な結論として律し得ない限りは、それ等の推測も、無の中の一突起にすぎないではあろうが。

 再び旧(もと)の室(へや)に戻って、椅子の上に落ち着くと、法水は憮然(ぶぜん)と顎(あご)を撫(な)でながら驚くべき言葉を吐いた。
「実は、算哲の屍骸の中に、二つの狂暴な意志表示が含まれているのだよ。一度はディグスビイの呪詛のために殺され、そうして蘇生したところを、今度はファウスト博士が止めを刺したのだ。つまり、あれは二重の殺人なんだよ」
「なに、二重の殺人□」と熊城が驚きのあまりに問い返すと、法水は大階段の裏(ビハインド・ステイアス)――を、実に三度転倒させて、いよいよ最終の帰結点を明らかにした。
「そうじゃないか熊城君、有名なランジイ(仏蘭西(フランス)の暗号解読家)の言葉に、秘密記法(クリプトメニツェ)の最終は同字整理(シラブル・アジャストメント)にあり――というのがあるからね。そこで、その同字整理(シラブル・アジャストメント)を紋章のない石(クレストレッス・ストーン)に試みて、sとs、reとle、stとstを除いてみた。すると、それが Cone(コーン)(松毬(まつかさ))という一字に、変ってしまったのだよ。ところが、その松毬(コーン)というのが、寝台の天蓋にある頂飾(たてばな)にあって、それがまた、薄気味悪い道化師(クラウン)なんだがね」とそれから帷幕(とばり)の中に入って、蒲団(マット)の上に、卓子(テーブル)や椅子を一つ一つ積み重ねていった。そうして、最後に立箪笥(キャビネット)が載せられたとき、検事と熊城はハッとして息を嚥(の)んだ。と云うのは、松毬(コーン)の形をしたその頂飾(たてばな)が口を開いて、そこからサラサラと、白い粉末が溢(こぼ)れ出たからであった。すると、法水の舌が、黒死館の過去を暗澹(あんたん)とさせたところの、三つの変死事件に触れていった。
「これが、暗黒の神秘――黒死館の悪霊さ。それを修辞学的(レトリカル)に云えば、さしずめ中世異端の弄技物とでも云うところだろうがね。しかし、その装置の内容たるや、過去の三変死事件が、それぞれ同衾(どうきん)中に起ったのを考えれば判るだろう。つまり、二人以上の重量が法度(はっと)で、それが加わると、松毬(コーン)の頂飾が開いて、この粉末が溢れ出すのだよ。それも、以前マリア・アンナ朝時代では、媚薬などを入れたものだが、この寝台では桃花木(マホガニー)の貞操帯になっているのだ。と云うのは、この粉末が確かストラモニヒナス(註)――ほとんど稀集に等しい植物毒だろうと思うからだよ。それが鼻粘膜に触れると、狂暴な幻覚を起すのだから、最初明治二十九年に伝次郎事件、それから三十五年に筆子事件――と二つの他殺事件を起して、ついに最後の算哲を、人形を抱いたあの日に斃(たお)してしまったのだ。つまり、このディグスビイの呪詛(じゅそ)と云うのは、『死の舞踏(トーテン・タンツ)』に記されている、奢那教徒は地獄の底に横たわらん(ジャイニスツ・アンダーライ・ビロウ・インフェルノ)――の本体なんだよ」

(註)後日法水は、ストラモニヒナスがついに伝説以上のものだったのに、驚いたと云っている。それは、ゲオルヒ・バルティシュ(十六世紀ケーニヒスブルクの薬学者)の著述の中に記されているのみで、近世になってからは、一八九五年にフィッシュと云って、印度大麻の栽培を奨励した、独領東亜弗利加(アフリカ)会社の伝道医師のみ。そして、稀に印度大麻にストリヒナス属(矢毒クラーレの原植物)が寄生すると、その果実を土人が珍重して呪術に用ゆるけれども、恐らくそれではないか――という報告を一つもたらせたのみである。たぶん黒死館の薬物室にあった空瓶というのも、ディグスビイから、与えられるのを算哲が待っていたからであろう。

 この闡明(せんめい)を最後にして、黒死館を覆うていた、過去の暗影の全部が消えた。しかし検事は、昂奮の中に軽い失望を混えたような調子で、
「なるほど、君は喋(しゃべ)った――しかし、現在の事件については、何も判らなかったのだ。それより、この矛盾を、君はどう解釈するかね。扉(ドア)から室の中途までは、敷物(カーペット)の下に、人形の足型が水で印されていた。ところがいったん坑道の中に入ってしまうと、今度はそれが人間のものに化けてしまったんだ」
「ところが支倉君、それが+−(プラスマイナス)なんだよ。最初から人形の存在を信じていない僕には、それを口にする必要がなかったのだ。しかし、この一事だけは、とうてい偶然の暗合として、否定し去ることは出来まいと思うよ。何故なら、坑道にあるスリッパの跡を人形の足跡に比較すると、その歩幅と足型の全長とが等しく、またスリッパの跡が、人形の歩幅と符合するのだ。それが熊城君、実に面白い例題なんだよ」とそれから煖炉(ストーブ)の前で、法水は紅い□(おき)に手をかざしながら続けた。
「ところで、あの人形の足型というのは、元来僕が、敷物(カーペット)の下にある水滴の拡がりを測って出来たものなんだ。そして、上下両端の一番鮮かだった――つまり云い換えれば、水滴の量の最も多い部分を、基準としての話だったのだったからね。……そこで、僕が+−(プラスマイナス)と呼ぶ詭計(トリック)を再現できるんだよ。で、それはほかでもなく、スリッパの下にもう二つのスリッパを仰向けに附けて、またその二つのスリッパを、互い違いに組み合わせるのだ。そして、それに扉(ドア)を開いた水をタップリ含ませてから、最初に後の方の覆(カヴァ)を、強く踵(かかと)で踏む。すると、覆(カヴァ)の中央に、やや小さい円形の力が落ちることになるから、当然その圧し出された水が、上向き括弧(かっこ)())の形になるじゃないか。また、次に前のあの覆(カヴァ)を前踵部(つまさき)で踏むと、今度はそこの形が馬蹄形をしているので、中央より両端に近い方の水が強く飛び出して、それが下向き括弧(()の形になってしまうのだ。そして、その上下二様の括弧形をした水の跡を、左右交互(かわるがわる)に案配していったのだよ。つまり犯人は、あらかじめ常人の三倍もある、人形の足型を計っておいた。そうしてから、歩幅をそれに符合させていったので、当然その二つの括弧に挾まれた中間が、人形の足型を髣髴とする形に変ってしまったのだ。したがって、そのスリッパの全長が、ヨチヨチ歩く人形の歩幅に等しくなって、そこで、陽画と陰画のすべてが逆転してしまったという訳なんだよ」
 こうして、奇矯を絶した技巧が明らかにされて、人形の姿が消えてしまうと、当然屍光と創紋――といずれか二つのうちに、犯人がこの室(へや)に闖入(ちんにゅう)した目的があるのではないかと思われてきた。すでに、十一時三十分――。しかし、夜中になんとかして、解決まで押し切ろうとする法水には、いっこうに引き上げるような気配もなかった。そのうち検事が、嘆息ともつかぬような声を出して云った。
「ねえ法水君、この事件の、すべては、ファウストの呪文を基準にした、同意語(シノニム)の連続じゃないか。火と火、水と水、風と風……。だがしかしだ、あの乾板だけは、その取り合わせの意味がどうしても嚥(の)み込めんのだがね」
「なるほど、同意語(シノニム)□ そうすると君は、この悲劇を思惑(おもわく)に結び付けようとするのかね」と法水はやや皮肉を交えて呟(つぶや)いたが、いきなり、いきなり鋭くその言葉を中途で截(た)ち切って、「あッ、そうだ支倉君、同意語(シノニム)――乾板。ああなんだか僕に、あの創紋の生因が判ってくるような気がしてきたよ」と不意に飛び上って叫んだが、そのまま風のように室を出て行ってしまった。しかし、間もなく幾分上気したような顔で、戻って来た彼を見ると、その手に、前日開封された遺言書が握られていた。そして、上段の左右に二つ並んでいる、紋章の一つを、創紋の写真に合わせて電燈で透かし見ると、そのとたんに、思わず二人の口から呻(うめ)きの声が洩れた。実に、その二つが、寸分の狂いもなく符合したからである。法水は、召使(バトラー)が持参した紅茶を、グイとあおってから云い出した。
「実際無比(ユニーク)だ。犯人の智的創造たるや、実に驚くべきものなんだ。この書簡箋は、既(とう)に一年もまえ、現在のものに変えられたというのだからね。勿論それ以前に――あの乾板は、事件の蔭に隠れている、狂人(きちがい)染みたものを映して取っていたのだよ。何故なら、それには、押鐘博士の陳述を憶い出してもらいたいのだ。それでなくても、現在これでも見るとおりに、算哲は遺言書を認(したた)め終ると、その上に、古風な軍令状用(オーディナンス・レター)の銅粉を撒(ま)いたのだった。ねえ熊城君、銅には、暗所で乾板に印像するという、自光性があるじゃないか。ああ、あの序幕(アインライツング)――この恐怖悲劇の序文(アインライツング)。さてこれから、その朗読をやることにするかな。あの夜算哲は、破り捨てた方の一枚を下にして、二枚の遺言書を金庫の抽斗(ひきだし)に蔵めた――ところが、それ以前に犯人は、あらかじめその暗黒(まっくら)な底に乾板を敷いておいたのだ。そうすると、翌朝になって算哲が金庫を開き、家族を列席させた面前で、その印像を取られた方の一枚を焼き捨ててから、さらに残りの一枚を、再び金庫に蔵めるまでの間に、何人(なんぴと)か、全文を映し取った乾板を、取り出した者がなけりゃならん訳だろう。実に、そのわずかな間隙が、ファウスト博士に、悪魔との契約(パクト)を結ばせたのだった。それを、直観と予兆とだけで判断しても、当然焼き捨てられた一葉が、僕の夢想している屍様図の半葉に当るのだし、またそれが坐標となって、あの幻想的(ファンタスチイク)な空間に、怖ろしい渦が捲き起されたのだったよ」
「なるほど、その乾板は無量の神秘だろう。しかし、当然結論は、その席上から誰が先に出たか――という事になるがね」と云ったが、熊城は両手をダラリと下げて、濃い失望の色を泛(うか)べた。「無論今となっては、その記憶も恐らくさだかではあるまい。では、あの創紋と乾板との関係は?」
「それが、ロージャー・ベーコン(一二一四――一二九二、英蘭土の僧。魔法錬金士の名が高いけれども、元来非凡な科学者で、火薬その他をすでに十三世紀において発明したと伝えられる)の故智さ」と法水は静かに云った。「ところで、アヴリノの『聖僧奇跡集』を見ると、ベーコンがギルフォードの会堂で、屍体の背に精密な十字架を表わしたという逸話が載っている。けれどもまた一方、発火鉛(酒石酸を熱して密閉したもの。空気に触れると、舌のような赤い閃光を発して燃える)を、硫黄と鉄粉とで包んだと云われる、ベーコンの投擲弾(とうてきだん)を考えると、そこに技巧呪術(アート・マジック)の本体が曝露されなければならない。と同時に、この事件にも、それが創紋の生因を明らかにしてくれたのだよ。熊城君、君は、心臓停止の直前になると、皮膚や爪に生体反応が現われなくなるのを知っているだろう。また、衝動(ショック)的な死に方をした場合には、全身の汗腺が急激に収縮する。そして、その部分の皮膚に閃光的な焔を当てると、そこには、解剖刀(メス)で切ったような創痕(きずあと)が残されるのだ。勿論犯人は、それをダンネベルグ夫人の断末魔に、乾板へ応用したのだったよ。で、その方法を云うと、まず二つの紋章を乾板から切り取って、その輪廓なりに、橄欖冠(かんらんかん)を酸で刻んでゆく。それから、その二つを筋なりに合わせて、その空洞の中で発火鉛を作ったのだ。だから、手早くそれを顳□(こめかみ)に当てさえすれば、発火鉛が閃光的に燃えて、溝なりにあの創紋が残るという道理じゃないか。どうだね熊城君、うんざりしたろう。勿論技巧呪術(アート・マジック)そのものは、幼稚な前期化学にすぎないさ。けれども、その神秘的精神たるや、しばらくのあいだ、化学記号を化して操人形(マリオネット)たらしめていたほどだからね」
 そうして、人形の存在が、夢の中の泡のごとくに消えてしまうと、当然その名を記したダンネベルグ夫人自署の紙片を、犯人が、メモや鉛筆とともに投げこんだ――と見なければならなくなった。しかし、あの特異な署名を、どうして犯人が奪ったものだろうか。また、乾板をあくまで追求してゆくと、是が非にも神意審問会まで遡(さかのぼ)って行き、出所をそこに求めねばならなかったのである。法水はしばらく黙考していたが、何と思ったか、夜中(やちゅう)にもかかわらず伸子を喚(よ)んだ。
「お喚びになったのは、たぶんこれだと思いますわ」と伸子の方から、椅子につくと切り出した。その態度には、相変らず、明るい親愛の情が溢(あふ)れていた。「昨日レヴェズ様が、私に公然結婚をお申し出になりました。そして、その諾否(だくひ)を、この二つで回答してくれと仰言(おっしゃ)って……」と彼女は語尾を萎(すぼ)めて、あまりにも慌(あわ)ただしい、人生の変転を悲しむごとくであった。が、やがて、懐中から取り出したものがあって、その時ならぬ豪奢な光輝が、思わず三人の眼を動かなくしてしまった。それは二本の王冠(クラウン)ピンだった。そして、その上に、一つには紅玉(ルビー)一つにはアレキサンドライトが、それぞれ白金(プラチナ)の台の上で、百二、三十カラットもあろうと思われる、マーキーズ形の凸刻面を輝かしていた。伸子は弱々しい嘆息をしてから、舌を重たげに動かしていった。
「つまり、親愛な黄色――アレキサンドライトの方が吉で、紅玉(ルビー)の血は勿論凶なのでございます。そして、この二つを諾否の表示(しるし)にして、どっちかを、演奏中私の髪飾りにしていてくれ――と、あの方は仰言(おっしゃ)いました」
「では、云い当てて見ましょうか」と狡猾(ずる)そうに眼を細めて云ったが、しかし、何故か法水は、胸を高く波打たせていて、
「いつぞや、貴女(あなた)はレヴェズを避けて、樹皮亭(ボルケンハウス)に遁(のが)れていましたっけね」
「いいえ、レヴェズ様の死に、私は道徳上責任を負う引け目はございません」と伸子は、息を荒ららげて叫んだ。「実は私、アレキサンドライトを付けました。それで、あの方と二人で、このハルツの山(妖魔どもが、いわゆるヴァルプルギス饗宴を行うという山)を降りるつもりだったのですわ」
 それから、法水の顔をしげしげ覗き込んで、哀願するように、「ねえ、真実(ほんとう)の事を仰言(おっしゃ)って下さいまし。もしや、あの方自殺なされたのでは、いいえけっして、私がアレキサンドライトを付けた以上……」
 その時法水の顔に、サッと暗いものが掃いて、みるみる悩ましげな表情が泛(うか)び上っていった。その暗影と云うのは――、たしかに彼の心中に一つの逆説(パラドックス)があって、それを今の伸子の言葉が、微塵と打ち砕いたに相違なかった。
「いや、正確に他殺です」と法水は沈痛な声で云ったが、
「しかし、ここへ貴女(あなた)をお呼びしたのは、ほかでもないのですが、昨年算哲が遺言書を発表した席上から、いったい誰が先に出たのでしょうね」
 すでに一年近くも経過しているので、勿論伸子は、一も二もなく頸(くび)を振るものと思われていた。ところが、そのいかにも意味ありげな一言が、伸子に何事かを覚らせたと見えた。いきなり、彼女の全身に異様な動揺が起った。
「それは……あの……あの方なのでございますが」と伸子は苦しげに顔を歪めて、云うまい云わせようの葛藤と凄烈に闘っている様子であったが、やがて、決意を定めたかのように毅然(きっ)と法水を見て、
「いま私の口からは、とうてい申し上げることは出来ません。けれども、のちほど――紙片でお伝えいたしますわ」
 法水は満足そうに頷(うなず)いて、伸子の訊問を打ち切った。熊城は、今日の事件において、最も不利な証言に包まれている伸子に対して、いささかも法水が、その点に触れようとしなかったのが不満らしかったが……しかし、乾板に隠れている深奥の秘密を探る最後の手段として、いよいよ神意審問会の光景を再現することになった。勿論それ以前に法水は、鎮子に私服を向けて、当時七人が占めていた位置について知ることが出来た。
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