小熊秀雄全集-08
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:小熊秀雄 

あなたの眼が愛の社会性をしつたとき
どんなに明るく輝くことでせう
その日を私は根気よく待つてゐる、


林の中で

私はあなたの表情から
新しい時代性を知りとる
仰向(あをむ)いてゐるときあなたは楽しさうだ、
俯向(うつむ)いてゐるときは悲しさうだ、
しかしあなたの表情は硬い、
私はあなたの皮膚に現れた
表情の硬さは認めたくない、
あなたの眼が潤沢に
うるほつて光つてゐるのを知つてゐるから、
眼には人間に対する激しい愛情が
沼の上をよぎつてゆく風のやうに
水面をいつも掻きみだしてゐるやうに見える、
沼はそして死んではゐない、
生きてゐること、動いてゐることを
眼はわたしに知らしてくれる、
あなたの眼よ、
燃える愛の珠体よ、
顔の皮膚は物怖じをしてゐるのです、
でも眼はいつも深い沼か湖のやうに
思索的に光つてゐます、
たたかひを経てきた女の美しさを、
いつのまにかあなたは身につけてゐるのです、
わたしもあなたを取り巻く
雑多な愚劣な男の群の一人に加へて下さい、
女を愛する時間が豊富にあつて
それより以外に時間のいらない男のひとりに、
せつかちな忙がしい私を加へて下さい、
わたしはひとつの試練のまつたゞ中で
愛とたたかひとが両立することを
かたく信じて疑はない男です、
あなたは幾分そのことを疑がつてゐるやうです、
ハイネもそのことで悩みました、
『時代の大きな戦争(たたかひ)に
 他人(ひと)が戦はなければならぬとき』と
前置きをしてから
おづおづと愛の歌をうたひはじめ
そしてだんだんと夢中に歌つてゐる
愛のやさしい鎖にかこまれて
闘志をうしなふおそれはある
愛の幸福の陶酔は
避けようとして、避けることのできないものだ、
私も詩人ハイネのやうに良心がある、
しかし前置を書くほど悠長ではない、
光つてうるほひのある湖の眼、
沈鬱で悲しい時代の表情よ、
あなたの美しい眼は
ついこないだまで捕はれてゐた、
重い苦しい時間の反覆のなかで
単調にじつと眼は考へこんでゐた、
いかにあなたを強く愛するものも
近づくことのできない刑務所の中で
あなたの眼はじつと一個所の窓を
ながめてくらした、
可愛らしい一羽の雀が
あなたの見えるところの木の枝に
きまつて同じ木の枝に
とまつて鳴きながら
さまざまに羽で姿態(しな)をつくつて
退屈なとらはれの心を楽しませてくれた、
わたしはあの雀のやうに
重いあなたの眼を柔らげる程の力がない、
わたしの沈鬱な
他人に語ることができない苦しみの眼が
あなたの幅広いがつちりとした胸に抱かれる
あなたは雀の胸毛の風にそよぐやうな柔らかさと
たたかひの疲労を投げかけても
慰さめてくれるものを私は感ずるのです
わたしにとつて切実な、
あなたにとつて突然な、
不用意な私の愛の表現を
あなたはどうぞ軽蔑して下さい、
林の中はしづかでした、
あなたとわたしは列んで
大きな樹の幹にもたれかゝつて足をのばした、
私は生れて始めて
あんなに静かな休息のまどろみを
経験したことはなかつた
私はこの上もなく動乱的な愛を好みます、
こゝでは極端に静かな
幸福な時間を感じました、
私のうとうととした眠りは
全く純粋でした、
たたかひの中で素晴らしい静穏があることを
知つて私は驚ろくだけです、
静けさは愛すべきでせう、
死ぬことの無意味とたたかひながら、
生きてゆくことの憤りを
生活の激動のさなかで
どういふ形で表現したらいゝか、
わたしたちはそれを知つてゐる、
そしてその仕事のために
休息はない、
蝶々がとんでゐるのを見て驚ろいたり、
小さな木の実の降る中で
愛しあつたりすることを
私は全く忘却してゐた、
なんて愛は敏感なものだらう、
忘れ、見落してゐたことをみんな思ひ起す、
愛はそして精神の休息であることを証拠立てる、
明日私は勇気をもつて
強い衝動をもつて
争ふべきものと争ふことを約束するだらう。


夕星の歌

夜の空は黒に近い紺の色
地上の茂みは暗かつた、
空の下に私達は立つて
そして誰に遠慮もなく抱擁する
一瞬間の陶酔のなかにも
完全な幸福さがなければならぬ、
たたかひよし、言葉をかへれば
これは幸福の代名詞だ
星のまたたきも甘い、
その光りは凄惨なほどの美しさをもつてゐる、
何に見とれて私たちは夕星の下に
立つてゐるのか、
女よ、
私の体からそつと離れてくれ、
また近よつて抱擁もせよ、
くちづけの甘さを
永遠に我々は忘れない、
苦痛と、悔恨と、憤怒とを忘れないやうに、
幸福の根元を早く見究めよう、
生活の疲れ
生活になぶられてゐる肉体
翻弄されてゐる精神の敵がどこにあるかを見究めよう、
照れよ、
やさしい夕星よ、
すべて山の上に、
かすかな絶え難いほど細かい
繊弱な光が雨のやうにふつてゐる
わたしたちは抱擁のさなかに
いかに強くはげしく
その光りの本質的な強大さを知つただらう、
空の光りもののために
地上のすべての光りものである若者たちは、
武器を片手にして愛を語るほど強くなつてくれよ、
日本の若いコサック兵よ、
すべての自由の夕星の下にあつて愛を語らう


両性の上の貪慾者

男としての私の誇りは
女の感情のデリカシーを
どんな際涯までも追つてゆく求めてゆく力
沖へとほく去つてゆく
海鳥のやうに
女のデリカシーに答へることのできる
感情の所有者である
すべての男の女に対するやうな
コケオドカシの
四捨五入的態度を憎みつつ
女の真実を
発見することの喜び
その喜びは、なににもまさる、
わたしは女性讃美者である、
女の真実を求めることの
疲労と苦悩は大きい、
探訪者は
傷つくか、
倒れるか、
絶望することを知つてゐる、
男同志[#「志」に「ママ」の注記]の闘ひの苛酷な状態を避けて
女との愛のたたかひを
遂行してゐるのではない、
女と愛の上で争ひ、
さらに男同志[#「志」に「ママ」の注記]のたたかひへの加盟者である、
愛に関しては私は両性の上で貪慾者だ、
真理を求める世界で
強い胸は歌うたふのだ、
直面するものに
闘はずして敗北の歌を
うたふことを私はしない、


愛に休息があるか  ――或る女へ――

休息と平安を求めながら
一方にはげしく愛し合はうとする
愛とはあなたの考へるやうな休息ではない、
愛とは由来はげしいものだ、
さあ、お疲れなさい、
倒れてしまつたら良いのだ、
抱擁と接吻を拒む、
そのことでは永遠に疲れは休まらない、
素直でないことが、
どんなに私に光つた太陽を暗く見せるだらう、
正しく光るものと
正しく翳るものとの下
で愛は完全な正しい
太陽の光の下の表現であつてほしい、
からだと心をよじらせながら
どこまでも着かず離れず愛し合はうとする
あなたの気持が判らない、
わたしは別れてゆかう
あなたからのお土産である
心の混乱を抱へて――、
古い道徳愛の形式の洞穴(ほらあな)から
あなたは出ない
どんなに私を悲しませるか、
火遊びの相手として
私を焼き殺すのは
あまりに私が可哀さうでせう、
でなければ時間に休息がないやうに
あなたと私との愛にも休息がない
賭けるべきものは賭けるべきだ。


ゴシップに就いて

私の一挙手、一投足は晒されてしまつた、
いまさら容子ぶつて
テーブルスピーチも嫌なことだ、
好きなあなたは露出(むきだ)しに愛さう、
あなたとの散歩も怖れない、
あなたは少し怖れてゐるやうだ、
ゴシップの乱れとぶことを、
私は北海道の吹雪の荒れた中で
かつて私は雪の中に埋れた
木を焚ものにするためにひきだしてゐたとき
自然も人間も誰も私を愛してくれなかつた、
不幸な貧乏人の子せがれであつた、
今都会でいささかの詩をつくり
寵児らしくふるまつてゐる、
そしてあなたたちにも愛されてゐる、
そして私のゴシップを
探してゐる耳が沢山ゐる
なんの怖れることがあらう、
真直に立つてあるいてゐるとはいふものの
私はさかさはりつけのやうな
貧しい生活をやつてゐるのだ、
上からでも下からでも
私の行動を自由に観察してくれ給へ、
なんの怖れることがあらう、
ゴシップの傍杖を喰ふことが
怖ろしかつたら
愛人よ、
御自由に御引取り下さい、
私はさびしい北国の村で
海のどうどうといふ岸打つ波音に
楯ついて何年かすごしてきた、
世間の噂は自然のあの波音より
大きいやうなことも
永遠につづくやうなこともあるまい。



ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:20 KB

担当:undef