小熊秀雄全集-07
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著者名:小熊秀雄 

 占つた支那人はロマンチックな人種だな

   四十六

――ひとつサクラ子ちやんの純真無垢の眼をもつて
 どつちのお星さんが光つてゐるか当てゝごらん
 しかしよさう、
 かういふ幼児に真実を言はせるといふ
 大人の押しつけは憎まれるべきだ
 我々大人が真実を言はなければならん
――おぢちやん、何をひとりでしやべつてゐるのよ、
 サクラ子眠くなつたの、おぢちやん何か歌つてよ、
 ママちやんはいつもおやすみのとき
 サクラ子に歌をうたつてくれたの
 かうやつてね、布団をたたいてくれたの
――サクラ子ちやん、
 それではおぢ[#底本の「じ」を訂正]ちやんが、朝鮮のお友達から
 教はつたアリランの歌といふのを歌つてあげよう
 そこで大西三津三は
 星を仰ぎながら小声で歌ひだした
 「アリラン
  アリラン
  アラリヨ
  アリラン峠を越えてゆく
  かくも蒼空に、星はあれど
  われらが胸は
  斯くもむなし」
 歌ひ終ると大西は寝ながらチヱ[#「ヱ」は小文字]ッと
 空にむかつて唾をとばし
 「斯くも蒼空に星はあれど
  我等が胸は斯くもむなし」かと
口の中で繰り返した、
サクラ子の肩を手で軽くたたきながら
もう眠つたらうと顔をのぞきこむと
サクラ子は冴えた眼をしてゐて
つづけて歌へとせがむ

   四十七

――ぢや、もう一つだけアリランの歌のつゞきを
 歌つてあげるから今度は温和しく眠るんだよ
大西は眺めるともなく空を視線で撫でまはしてゐると
視線は空の一角で一つの星が地上にむかつて
青白い光りの線と化して
流れ墜ちるのとぶつかつた
眼に強い刺戟をうけた
すると倦怠と脅えと疲労とが
彼を眠りの中に一気に引きこんだ
大西は睡魔と闘ひ、非常に努力しながら
とぎれとぎれにアリランの歌をうたひだした、
 「アリラン
  アリラン
  アラリヨ
  アリラン峠をこえてゆく
  富と貧しさは
  まはりかはるものなれば
  汝等、なげくなかれ
  いつかは君等にも来るものを」
歌ひ終つたとき全く眠りが彼をとらへてしまひ
どこか遠くの方でサクラ子の声をきいた、
サクラ子はじつと大西の歌をきいてゐたが
「おぢちやん、こんどはあたいが歌ふ番だわ
 おぢちやん、おぢちやん、
 ―坊やはよい子だ、ねんねしな
  坊やの、お守はどこへ行つた
 おぢちやん、おぢちやん、おや、ねんねしてしまつたの
 ―あの山こえて、里行つた、
  里のみやげに、何もらうた」
サクラ子は小さな手で大西の胸を
歌ひながら夢うつつで軽くたたきながら
サクラ子が育児係大西を寝せつけた
やがて大西は雷のやうな、いびきをかき始め
つづいてサクラ子も小鼻をピクピク動かしてゐたが、
まもなく二人とも深く寝入つてしまつた、
すると周囲の草が、吹き過ぎる風の
衝撃をうけて生きもののやうに動き始めた、
人々がこんこんと寝入るときに
自然が怒る時を得たかのやうに、

   四十八

翌る朝、原つぱの上に陽が
高くあがつてしまつても
二人は死んだやうに寝入つてゐた、
まもなくサクラ子が眼をさまし
寝入つてゐる大西の枕元に
行儀よく、きちんと坐つたまゝで
大西が起きるのを何時までも待つてゐた、
大西があわてゝとびをきて
面目なささうにあたりを見まはし、
それから二人は沈黙がちに歩るきだした、
とつぜん理由のわからぬ怒りがこみあげてきた、
「おれたちは野宿をしたのだ、
 誰がそんなことをさしたのだ
 母親をなくしてしまつた可哀さうなサクラ子、
 ぐうたら詩人尾山を父親にもつた可哀さうなサクラ子
 最初の人生を野原に寝て味はつた可愛[#[愛」に「ママ」の注記]さうなサクラ子
 この子をこれから誰が育てるのか、
 託児所をつくれ」
大西はカッと眼をみひらいて空を睨んだ
そのとき朝の太陽は
「そいつは俺の知つたことぢゃない、
 お門違ひだ、託児所のことは政府に頼め」
と太陽はゲラゲラ笑つたやうに思はれた、
「おぢちやん、何をそんな怖い顔をしてゐるのよ、
 サクラ子、お家に帰りたくなつたの」
「お家へ帰らう、そして厳重に抗議してやる
 第一にサクラ子ちやんの毛布を
 あの助平女流詩人から取りかへしてやる、
 それから育児係りの辞表を叩きつけてやる、
 尾山に父親の正統なる義務を果せと要求してやる」

   四十九

尾山の共同生活の家にたどりついた頃は
大西はすつかり元気を失つてゐた、
「あんた達はゆふべ何処へ泊つたのよ」
りん子が六畳間からかう声をかけた
「野宿をしたんだ」
「まあ」といふりん子の声につゞいて
尾山の声で「大西君それだけはしないでくれ給へ」
大西は答へた「教育上よくないかね」
部屋に上つてみると、また運命が変つてゐた、
昨日の古谷は失脚して尾山清之助が
りん子の傍に丹前を着て坐つてゐた、
「すると今度は俺が丹前を着る番だな」
大西は心にさう思ふと穏やかならぬものが
胸から背骨の間を馳けまはるものがあるやうに
思はずぶるると身ぶるひした、

   五十

その翌る朝がやつてきたが
大西は丹前を着る機会を失つてゐた、
しかも形勢は異状に展開し
依然として尾山清之助であつた、
その翌る朝もまたその次の日の朝も尾山は連勝し
古谷典吉、草刈真太は共同生活を去つてしまつた、
しかし大西三津三は育児係りの辞表を叩きつけ
りん子から毛布をとりかへす勇気もなく
サクラ子にせがまれると毎日散歩にでかけた、
きのふは新宿、けふは銀座、
銀座尾張町の時計店の前までやつてくると
サクラ子はとつぜん大西に向つて
「あたい踊りたくなつたわ」と
可憐な顔で訴へだした、
「踊つたらいゝさ」
「あたい踊るわ、おぢちやん何か歌つてね」
「よし来た、何がいゝだらうな
青い眼をしたお人形が、でゆくか」
銀座の昼の雑踏の真中で
大西は大きな声で「青い眼」を歌ひだした、
通行人はおどろいてその男の顔を眺めると
その男の足元に小さな女の児が
首を傾げたり、袂を口にくはひたり
手を上にかざしたりして踊つてゐるのを発見した。

   五十一

たちまち物見高い都会では
通行人が退屈を救ふいゝ見世物が
こつぜんと鋪道の上に出現したといはぬばかりに
大西とサクラ子を取り巻いて人垣をつくる
その円陣の真中に大西は最大の熱情と
深刻さを顔に出現しながら歌ひ
サクラ子は無心な喜びで
手足ものびのびと可愛らしく踊りつゞける
大西はそのとき突然何を思つたのか
かぶつてゐた帽子をぬいで手にもつて
「諸君」と群集にむかつて叫びかけた
「諸君」僕は母親をなくしたこの子供の育児係りであります、
この子の父親は助平女流詩人に惚れてゐて
この子を構はんのであります
しかもその女はこの子の毛布をうばひました
われわれは野宿をいたしました
諸君。母親の働いてゐる家庭のために
母親をなくした家庭のために
 託児所をつくれ!
 託児所をつくれ!」
かう怒鳴つて群集の輪を大スピードで
大西は帽子をまはし始めると
チャリン、チャリン、と金属の音が帽子の中にとびこんだ
大西は敏捷な動作で帽子を二三回まはし
集まつた金を数へもせず鷲掴みで
ズボンのポケットの中へ落しこみ
「サクラ子ちやん大成功だ、もう踊らなくてもいゝよ」
とさつさと群集の輪を突切つてその場を去つた、

   五十二

それからガードの入口にもたれてゆつくりと
金を数へてみると、銀貨銅貨とりまぜ一円七十五銭
カフェーのマッチが一個に、キャラメル三粒、
意気揚々と省線電車に乗りこんだが
乗客が多くて電車は押すな押すな
見ると一個所大きく席があいてゐる
そこには酔つぱらひが吐いたヘドが
一間四方の放射状に散つてゐて
誰もその前に坐るものがゐない
エビフライの断片とウドンのまじつた嘔吐で
おそらくビールと泡盛と日本酒を
ちゃんぽんにのんだ悪酔がさせたわざであらう、
大西はサクラ子をつれて
そのヘドの前に十人分の坐席を
二人で占領してしやあしやあと
のびのびと悠々と済ました顔で乗つて帰る

   五十三

大西とサクラ子が家にたどりつくと
まだ明るいといふのに
不思議にも家中の雨戸がしまつてゐる
尾山とりん子が外出して留守かと思ふと
雨戸のすき間からチラホラと灯がもれ
人のゐる気配がする
怪しいぞと大西が足音を忍ばせ
雨戸のすき間から中を覗くと不思議な光景だ、
昼だといふのに雨戸をしめきつて
部屋の真中の瀬戸の大火鉢を
尾山とりん子が挾んで坐つてゐる
尾山が火箸を一本
りん子が火箸を一本
それぞれ一本づゝの火箸を手にして
無言劇のやうにだまりこくつてうなだれて
火鉢の中の灰をそれでひつかきまはしてゐる
かたはらのチャブ台の上には蝋燭の灯、
たがひに語ることも尽きてたゞ運命の倦怠、
尾山が灰の上に火箸でAと書けば
りん子が灰の上にBと書く
尾山が灰の上にZと書けば
りん子が灰の上に○を書いてしくしくと啜り泣く
大西は雨戸のすきまからじつとそれを覗く、

   五十四

大西はすべてのカタストロフ「終局」がやつてきたと思つた
あの女を叩きだしてしまふか、
サクラ子の毛布をうばひかへすか、
あの女と尾山と結婚させてしまふか、
育児係りの辞表を叩きつけてしまふか、
最後の勇気がいるときがやつてきたと考へた、
「君たちも変だよ、昼日中、雨戸をしめて
 睨めつくらをしてゐるなんて」
かういつてガラガラピシャンと雨戸をあけてしまひ、
ズボンのポケットから金をだして
ざらざらと畳の上に出す、
「サクラ子ちやんが、とつぜん踊るといひだしたんだ、
 所は銀座の真中で、
 そこで僕が歌ひサクラ子ちやんは踊つたよ、
 帽子をまはしたところが
 群集は僕の「託児所をつくれ」の
 名演説に感動してこんなに金を投りこんだよ」
すると尾山の顔にさつと暗い影が走つた、
「大西君、それだけはやめてくれ給へ!」
「教育上、よくないかね」
「さうはいはない、たゞ困るのだ」

   五十五

大西は興奮を始めた
「尾山君は、父親として自分の子供サクラ子ちやんと
 君の友人としての、この大西三津三を軽蔑してはいけない
 我々の行為が乞食の行為ででもあつたといふのか、
 サクラ子ちやんは踊りたいといふ純真の発露さ、
 僕は託児所の必要を痛感し
 帽子をまはして広く浄財を集めたゞけだ、
 働く母親をもつた労働者農民の家庭のためにも、
 君のやうなグータラ詩人の母親をなくした
 家庭のためにも
 託児所の建設は是非必要なんだ、
 僕は君の子供の育児係りとしてそれを痛感した
 僕は明日も銀座にでかけるよ、
 それが悪かつたら育児係りを辞職する」
「君の気持はわかつてゐる、
 僕もサクラ子の父親として恥じるものがある
 だが銀座にでかけることだけは勘弁してくれ」
「それでは僕は辞職する
 尾山君、サクラ子ちやんは
 至急母親が必要なんだよ
 君達の恋愛は結婚にすゝむべきだな、
 そしてりん子君は母親としての任務を果すべきだ」
そのとき女流詩人吉田りん子は不意に立ち上つた、
そして玄関の方に歩きながら
「大西さん、わたしは恋愛の自由は認めるけれどもね、
 女が母性の義務を負はなければならない
 そんな感情はもちあはさないの!」
すると大西三津三は瀬戸の火鉢を
平手ではげしく叩きながら
彼女の背後から「出て行け」と吐[#「吐」に「ママ」の注記]鳴りつけた、
「すべての女はみんな母親になれるんだ、この中性女の、子宮後屈奴」
吉田りん子は「さよなら」と
静かな声でいつて出て行つた
それから十分も経つて辞職した大西三津三も
玄関口で見送るサクラ子に
投げキッスをして何処となく去つて行つた、

   五十六

読者諸君、この詩はこゝで打切ることができるが、
詩が終つてもまだ十行程現実が残つてゐるから
しやべらしてくれ給へ
其後尾山と吉田りん子とは結婚して
都を落ちて田舎に帰つた
不運な詩をやめて尾山は家業をついだ、
医者の診断では彼女の内臓は完全無欠で
尾山との間に三人の子供を分娩して
サクラ子を加へて四人の立派な母親となつた
「すべての女はみんな母親になれるんだ」
と叫んだ大西三津三は
依然として独り者で詩をつくりながら
都会を転々としてアナキストにも
コンミニストにもファシストにもリベラリストにも
なりきれないでゐる
ときどき夜の都会の盛り場に姿を現はし
十銭スタンドの安ウヰスキーで酔つ払ひ
突[#底本の「空」を訂正]然、女給をとらへて
「すべての女はみんな母親になれるんだ」
と怒号すると女給たちは何ともいへない嫌な顔をする
ふらふらとバーの扉をあけて戸外にでゝ
夜のネオンサインの上に
ちらばり光る星をみると
「託児所をつくれ!」と絶叫し
かたはらの電信柱にもたれかゝつてゲーといふ。


諷刺大学生

ある夜一人の見も知らぬ学生が訪ねて来た、
洋服の袖口のところが破れてゐて
小さな穴から下着の縞模様をのぞかせてゐた、
学生は――諷刺文学万歳!と叫んで
そして私に握手を求めた
――曙ですよ、
  あなたのお仕事の性質は、
  日本に諷刺文学が
  とにかく真実に起つたといふことは
  決定的に我々の勝です、
彼はかう言つて沈黙した、
ところで我々はそれから、
ぺちやくちやしやべつた揚句は
――諷刺作家は
  芸術上の暗殺者で
  真に洗練された文学的技術者でなければならぬ、
といふ結論に二人は達した、
――ナロードニキ達は、
とまたしても学生は
破れた洋服の袖口をふりまはす、
何故この学生が古臭いナロードニキに
惚れこんでゐるか
それには理由がある
彼は来年大学を卒業する
彼の卒業論文は
『ナロードニキ主義の杜会史的研究』といふのだ、
あまり香ばしい論文の題材ではなかつた
あんな国に材料を求めるのは
教授会議では喜ばない筈だ。
   ×
こゝで読者諸君と無駄話をしよう、
――人生は永遠なり、といふ世間的な
解釈を僕は信じてゐるものだ、
僕の詩は、閑日月ありだ、
詩は短かいほど純粋なり――といふ
見解をもつた読者は、他の詩人の読者であつても、
僕のための読者ではない、
この種の読者は、日本の長つたらしい
糠味噌臭い小説は読む根気はもつてゐても、
詩人の詩の長さは否定する、
小説には気が永く、詩に対してはセッカチな読者、
この種の読者は、僕の詩をこの辺で放りなげて欲しいものだ、
僕は驢馬のやうに路草を喰ひたいし、
愚かなことを、ながながと語りたいだけだ、
詩の結論――勿論そんなものはない、
結論とは繩のことだ、
僕は諸君をしばる繩をつくりたくない、
僕は詩のリズムを考へない詩人のやうにも
考へちがひをしないでほしい、
ただ世の詩人のやうに
今時七五調のリズムで歌ふ勇気がないだけだ、
『月は糞尿色の雲に取りかこまれ
地へむかつてしたたり落ちる月の光りは
黄金色に稲穂をそめる、
風がやつてきて月の光りを払ひのけると
稲穂は色あせて、
百姓の子供のやうに白く痩せて立つてゐる』
この程度のリズムなら認めるし
かういふ美文が読者が嬉しいのならいくらでも書く、
僕は毛脛をぼりばり掻きながら詩を書いてゐる、
作者が緊張してゐないのに
読者が緊張して読んでゐてはおかしい、
しかも僕はうとうとと
居眠りさへもしてゐるのだ、
省線電車の中で
疲れた子供が体をぐにやぐにやに
柔らかにして眠つてしまふやうにだ、
そこで母親はあわてゝ『これ、これ』と揺りうごかす、
もし読者諸君に作者に対する愛があつたら、
――おい、君、どうした、起き給へ、
  そして詩のつづきを語り給へと
僕をゆり起してくれるだらう、
そこで僕は慌てゝ飛び起きる
突拍子もない高い声で話の続きをしやべりだす
ところで民衆の意志派達は
丘の上に立つて農民達に向つて
『われらの農民よ、
 自由のために立て――』
と叫んだとき、
燕麦の刈入れに忙がしい百姓達は
ちよつと手を休めて演説者を見上げた
『わしらの為めの旦那衆、
 立て、立て、言つても、立つて居られねいだ、
 かういふ中腰の恰好でなくちや
 燕麦ちゆものは刈れねいだから――』
ときよとんとして辻褄の合はない挨拶をした、
そのとき演説者は
なんて百姓とは判らず屋だらうと
すつかり感傷的になつて
天を仰いで大げさな身振でかういつた
――おゝ、メランコリイよ
  おれのロシヤよ、憂鬱な存在だ、
  お前の何処の隅に行つても
  牛の尻に糞がくつついてゐるやうに
  憂愁(トスカ)がくつついてゐるのだ
そこで彼はぶつぶつ呟やいた
解放された農民が
燕麦のことばつかりで
頭の中をいつぱいにしてゐるといふことがあるか、
立て、立て――と焦々と
インテリゲンチャ達は悲しげに喚きたてた、
当時のロシヤでは世の有様は
絶えいるやうな絶望が
地上の空気の一切を色濃くとぢこめてゐた、
ナロードニキ達はヒステリイ化した
彼等の理論家ミハイロフスキイの書く物は
理論のくせにお伽話よりも面白かつた
読者をゲラゲラ笑はせながら
啓蒙的であつたのだ、
ところで曾つての日本のナロードニキ達の
評諭はどうであつたか、
現在残存するところのナロードニキ達はどうか、
ユーモアなものを股の間に
ぶら下げてゐる人間とは思へないほど
ユーモアといふものを解しない奴ばつかりだつた
木の皮だつて、この連中の書く
理論や小説よりも気の利いた味がする
啓蒙とは――つまり笑はせることだといふことを知らない、
真理を嗅ぎ出すトガリ鼻が
たくさん集まつて始めて
この国も文化的な国の資格がある
殿様、若様、坊ちやま、男妾に類した
ノッペリとした面付をした文学
もちまはつた肌ざはりの悪い散文精神、
その種の文学が幅を利かす、
そして我国には諷刺文学が生れる必然性がない――
などと合理化したり逃げを張つたり、
アゴのしやくれた文学、トガリ鼻の文学の
若い芽を摘むことばかり、強いヤキモチが、
それは文学上のヤキモチでなく
杜会的立場からのヤキモチを焼く、
芥川龍之介はさすがに偉らかつた、
彼は杜会的な風邪をひいて
鼻水をだらだら垂らしながら死んでいつたが、
目本の文学の残された仕事に就いて
遺言をのこして死んでいつたが
曰く『鼻の先だけで暮れのこる――』と、
   ×
『僕は学生なんです――』
とその時、学生は改まつた口調でしやべり出した、
そこで私は彼を押しとどめた
『まあ、さう学生を強調し給ふな』
教科書の頁を飛ばして読まうが、
飛ばして読むまいが
卒業後の就職には一苦労することは同じだ、
出来ることなら学生らしく頁を飛ばさないで、
また、在学中に、作家廻りなどの
悪い癖をつけないがいゝ、
『僕は就職はあきらめたんです
諷刺文学をやらうと思ふのです
よろしく御指導下さい――』
『それはよからう、ゴーゴリの小説に
出て来るやうな人物が
われわれの国には少なくない
人物はゐる、しかし作品が出てこないのだ
君もまた人物としては、諷刺的存在だ、
しかし君は自分の個性を圧倒するやうな
真理の上手な語り手になれるかね、
もし成りそこねたら、
他人が君をカルカチュアのしつ放しで
君は滑稽な人物として一生を終ることになる、
だから諷刺作家になるなら
諷刺負けをしないやうに
大いに諷刺で他人に攻勢に出るんだね、
それがなかなか難しいんだよ、
学生よ、
まあカユイところに手が届かないといつて
さういらいらするな
背中を出し給へ、僕が掻いてやらう、
もし僕が君の背中を掻いてやつて
それで君の気が楽になるのなら
諷刺作家志望などを取り下げて
工場の倉庫番にでも就職し給へ、
ほんとうに君が素裸になつて
自分で自分の背中を掻く力がでたら
また改めて僕の処に訪ねて来給へ、
馬だつて横木に背中をこすりつけて
ごりごりと掻く智慧をもつてゐるよ、
どうせ我々の背中は
千年待つても誰も掻いてくれる筈がないさ、
君はどうも背中が掻くなつて
僕の処にやつてきたらしい
学生よ、ちよつと顔をあげて見せ給へ、
立派な人相だ、
シャクレた頤、諷刺家の骨格を充分備へてゐる、
手の指の動作も、
何物かを掴まなければやまないといつた
美しい痙攣をしてゐる
鼻の利く奴、遠眼の利く奴、
速歩、跳躍的な奴、
お前、諷刺家を望む青年の
骨格上の惨忍性に光栄あれ――、
   ×
ネバ河の葦の生へた辺りを
うろうろしてゐた一人の男がゐた
彼はそこに立つてぶるぶるつと身ぶるひし
古モーニングを着た狼の恰好で
汚れた毛のぬけた外套の襟を掻き合せたものだ
奴は狼の良い習性を
全く身につけたやうな精桿な男であつた
ステッキをコツコツとついて黙想しながら
ロシヤの将来について考へながら
河岸を歩るいてゐる間に
ステッキの音によつて地の中に
ガラン洞な一個所のあることを発見した
――おや、これは美しい俺の運命がひらかれる時が来た
  こいつの穴に生命を投げこむのは
  俺の習性にピッタリしてゐるぞ――、
彼はそこで河岸の一枚の石をはねのけた
そこには何処かに通ずる
暗い横穴があつた
彼は石の上蓋をのけてその穴の入口から
地面の中に潜りこんでしまつた
   ×
ロシヤの霧隠才蔵はその時
ネバ河から通ずる
不思議な奥穴を這つてゐた
 全く偶然的に――そして予め設計師に
設計させたもののやうに
おあつらひ向きにクレムリン城廓に通じてゐた
間道は次第に細くなり
四つん這の行進が終つたとき
こゝで人間的にウーンと
背伸びをして立ちあがつた
こゝで人間的な意志の強さを
発揮する番になつた
壁は五寸程のすき間よりない
左右の足の関節を巧みに動かして
クレムリン宮の外廊をまはりだすと
なんと運命は小癪な
喜びをもたらすものだらう、
ひよつこりと会議室の地下に出た、
そつと階段をあがつて
会議室の中をのぞくと
そこの大テーブルの上には
白い花に紅をさしたやうに
小さな簇生的な花は花瓶にさゝれ、
その花の名はわからない、
温室そだちの季節外れの花に違ひない
その花は円卓の上に
お尻をもたげたやうに盛花され
周囲の窓には
垂れ下つたグリーン色の
地厚のカーテンは重さうであつた、
そのとき会議室の一隅のドアは排され
大臣達は一人づゝそのドアの中から
現はれて座についた
そこでロシアの忍術使ひは
そつと階段を下りて地下室にもぐりこむ
そして彼は胸を叩く、踊れ心臓と、
脳のシワもアコオジョンの
蛇腹のやうに揺り動かし眼を輝やかす
私はつぶやいて――さあ、いそがしいぞ、と
水洟もすすらなければならないし
額にさがる髪も掻きあげねばならぬ、
自分の胸から、丸い鉄の心臓をとりだして
それを地下の適当な場所に据ゑねばならないし、
聴耳をたてたり、小唄をくちづさんだり、
ロシアの百姓達のことも考へたり、
嬉し涙をながしたり
なにもかにも一緒にやらねばならない、
おや、おや、頭上には
ロシアの現状についての
深刻ぶつた会議。
   ×
その真下では今にも彼の丸い心臓が
笑ひだしさうに
それから長い導線を引きだした
煙草嫌ひの心臓さん、
いまにマッチで一服
お前さんに吸はしてあげるよ、
充分煙でむせんだら
パッと火を吐きだしたらいゝ、
可愛い心臓よ、
お前をこゝにのこして
私はそろそろ後退するよ、
だが心配し給ふな
お前と私とは導線でつながつてゐるから
そこで急設の電話で連絡を致しませう、
かういひながら彼は自分の鉄の心臓を
会議室の真下にをいてから
そろりそろりと後退した。
   ×
僕の処に訪ねてきて[#「て」に「ママ」の注記]学生君よ、
この辺りで話を打切らうか――、
それともくすぐつたい許りで
笑はせてしまはないのが罪だといふなら
それからどうなつたかを話を続けよう、
どうせ僕は君の訪問のために
時間をあけてをいたのだから、
君も諷刺作家として
三つの呪文を唱へる仲間に入らうとしてゐるのだから、
第一に――、批判精神、
第二に――、諷刺性、
第三に――、物質的表現、
この三つの呪文が風の間を
飛びまはるやうにならなくては
日本の平民の生活が楽しくならない、
   ×
三つの呪文を忘れぬやうに
未来の諷刺作家よ、
クレムリンの住人共が、
万一の場合逃げ路のために
造つてをいた横穴を
逆にネバ河から入りこむ
型変りの戦術家が
殖えるほど人生は明朗だ、
僕はこないだセルロイド工場の火事を見たが、
ポンポンと夜空に打ちあがる
爆発的な笑ひは美しかつた
学生君よ、君の心臓も、あいつの心臓のやうに、
とほくに仕掛けてをいて
導線で密語を交すのだね、
連絡が切れたときは
君の心臓は
火の絨氈をかぶつて
天井まで飛びあがるだらう、
大臣たちはチ切れ飛んだ、
自分の手や足を
探しまはつてゐたさうだ。
   ×
さあ、三つの呪文を唱へて
学生君よ、
日本の霧隠才蔵である僕の弟子入りをし給へ、
まだ話の残りが気になるのかね、
もつともだ、
丁度、その時、美しく着飾つた
金の冠をかぶつた雄鶏は雌鶏を従へて、
会議の席にのぞんだが、
扉の処で驚ろいて蹴つまづいて
会議室の中へではなく
外へ転げたため、
火の絨氈はかぶらずに救かつた、
その頃、ネバ河の葦の中の
小鳥がチヱ[#「ヱ」は小文字]ッと鳴いた。

●表記について

本文中の※は、底本では次のような漢字(JIS外字)が使われている。

※(かしわ)
第3水準1-86-22


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