小熊秀雄全集-06
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著者名:小熊秀雄 

そして兎はそこで右へか左へか、
大きく精一杯脇の方へ
横とびに跳躍してしまふ、
そこからまた雪に新しい足跡をつけて進んでゐる、


    15

林の中で山鳥達を呼集める笛を
かくれながらしきりに吹く
すると山鳥たちは騒々しく
方々から集つてきて
笛を吹いてゐる上の樹の枝に
まるで鈴なりにならんで
嘴で突つきあつたり、おしやべりをしたり、
ざつと数へても三十羽はゐる、
射撃の位置はよし、銃は上等だし、
獲物はまるで手が届くところにゐる、
山林官は狙ひをさだめてズドンと撃つ、
だがどうしたことだ、
たかだか一二羽落ちてきたり、
時には一羽も撃つことができない
みんな羽音をたて、
驚ろいて逃げてしまふ、
一二羽を撃つために
呼笛をふいて三十羽も
集める必要があらうか、
山林官はすつかり悲観してしまふと
権太郎は傍で腹を抱へて笑ひだす、
――旦那、山鳥はかうして撃つもんだてや、
アイヌは先に立つて場所を変へ
そして呼笛のねばりのある甘い、
澄んだ音響を林いつぱいにひびかせる、
すると山鳥は前のやうに
続々と二人の頭上へ集つてくる。


    16

権太郎は殆んど全身をむき出しにして
ズドン、ズドンと何時までも射撃してゐる
ばたり、ばたりと山鳥は
果実でも落ちるやうに
足元へ落ちてきて
地上で狂はしく羽を舞はしてゐる。
何としたことだ、
アイヌの銃声には
山鳥たちは驚かないのか、
そして最後の一羽まで
山鳥たちは撃たれるのを待つてゐるのだ。
アイヌは説明する、
狙ふもの、撃つもの、
射撃の目的は最後の一羽までにある、
いらいらとして無目的な射撃は
ただ標的を飛立たしてしまふだけだ――、
なんといふ貴重な教訓だらう、
アイヌは和人よりはるかに科学的である、
仕事は組織的だ、
狙ふものの、生活をよく理解し、
その習性を観察してゐる。
彼は集つてきた山鳥に
いかに肥えて美事な一羽がゐようと
高い梢に停まつてゐるものから
最初撃ち狙ふことをしない、
高いところのものを撃つ、
すると下の枝のものはみな
落下する仲間をみて
驚ろいて飛び立つてしまふからだ、
彼は一番自分の手近なところから、
それは標的として可能なところからだ、
下の枝にとまつてゐる鳥から順々に
次第に上の枝のものに移り射撃してゆく、
最後の高い梢にとまつた山鳥を
撃ちおとしたときはそれで全部だ、


    17

獲物を驚ろかすことは意味がない
銃は若い山林官の手に握られてゐる
ただそれだけである、
銃はアイヌの大きな手の中に握られてゐる、
鉄と木と、火薬と標尺とを
綜合されたものは鉄砲
アイヌにとつては肉体の一部のやうに
生きて使はれてゐる
山林官の銃は新式で
ケースは更に中味よりも立派であつた、
権太郎の銃はもう二十年から
使ひ古され旧式なものであつた、
山林官はアイヌ達から
さまざまのこと柄を学ぶことができた
いつも狩猟には権太郎を先達に頼み、
たがひに気のおけない冗談をいひながら、
山から山を渡りあるくことを好んだ、
いつものやうに彼は
権太郎の小屋を
銃を肩にしていま訪ねたのであつた、
犬の毛皮を幾枚も敷いたり、
巻いたり、掛けたりして、
炉の傍に彼はゴロ寝をした、
五分芯ランプの小さな火の下で
権太郎はだまりこみ足を投げだし
鋸の一端をその両足で挟み、
ヤスリで鋸の目を立ててゐた、


    18

雪の中の小屋はあくまで静かで、
アイヌの荒い呼吸と、
海の遠潮の音とが交互にきこえ、
彼は折々手を休め
獣の爪のやうな堅い爪をもつて
目立ての出来工合を知るために
鋸の一端を爪で弾いてみる、
するとはじかれた鋸が
チーンと時を報ずる時計のやうな
美しい澄音を小屋中にひゞかせる、
その時、犬小屋は急に騒がしくなり
奇妙な声をたてゝ
一匹が咆えだすと
全部の犬がそれに続く、
アイヌはフッと顔をあげて
なにか落つかぬ表情をする、
シッシッと犬を叱る声をたてながら
炉の燃えさしの木を足で押しやり、
傍の新しい焚木を加へる、
山林官の眠つてゐる弛緩した
顔の皮膚は見るからに
眠りは最大の平和であると語つてゐるやうに、
全く昼の猟の疲労で熟睡してゐる、
小屋の中の
人間の生活はこのやうであつた、
その時自然はどのやうであつたらう、


    19

月は何処にも現れてゐない、
然しどこからともなく光りが
いちめんに村落を照らし
雪の層の下で
アセチリン瓦斯を燃やしてゐるやうな
異様な青さをもつて
見渡す雪原は雪明りで輝やいてゐた。
そのとき村の背後の山の
頂きから斜面を
丁度馬の頭程ある一塊の雪が
辷りだした――といふよりも
軽快にふもとにむかつて駈けだした、
この雪奴はまるで生物のやうに、
しかも秘密を胸にしつかりと抱きこんだ、
密偵のやうなそぶりをもつて
あつちこつちにぶつかりながら
そのたびごとに塊は小さくなり、
最後の塊が
人間の拳骨ほどにも小さくなつて
コロコロと転げ村まで到着し、
馬小屋の破目板にぶつかつて
粉々に砕け散つてしまつたとき
――すべては良し――と
この雪奴は山の頂の
雪の同類にむかつて
合図をしたのではなかつただらうか、
山の頂では
――応(おう)
とこたへて雪の大軍が轟々と鳴りながら
濛々雪けむりをあげて
村をめがけて雪崩(なだれ)落ちてきた。


    20

自然の移動をこれほどはつきりと
眼にみることは壮観であり美しい
ただこの大雪崩の下に
小さな村が埋没されてしまつたことは
不幸であつた、
――シャモ雪崩だでや、
権太郎は鋭く叫んで
立ちあがらうとして片膝をたてたとき
第二の雪崩は
権太郎の小屋をも押しつぶした、
権太郎は押し潰された暗黒の小屋の中で
しきりに山林官の
名を呼び手探りした
手にふれたものは山林官の
着衣の一部でありそこからは
にぶく瀕死のうめきが伝はつてきた。
――シャモ、しつかりしれや
アイヌは絶望的な声をあげ
出口を求めるために
雪明りのさす方ににじり出た、
そこに破壊された天窓を発見し
いつたん彼はそこからはひ出た。


    21

同時に小屋の破れから犬達が飛びだし
先に争つて遠くに逃げて行つてしまつた、
村は惨憺とした自然の暴威に屈服し
人々の黒い影が右往左往してゐたが、
権太郎は次の瞬間
小屋の中に山林官の救ひを求める声をきいた、
――フホホーイ、ホーイ、と
権太郎はアイヌ達が
危急の場合に仲間に
知せる奇妙な叫び声をあげ
炉火から燃え移つて
小屋が燃えだしたその煙をみたとき
彼はアイヌ族の英雄的な勇気が
勃然と心に湧いてきた
そしてふたたび小屋の煙の中に潜り込んで行つた。


    22

権太郎は心に第三の雪崩を予期し
けだものよりも敏捷な態度で
はげしく山林官の服をひつぱつてみたが
山林官はしつかりと
何かに咬へられてゐるやうに動かなかつた
倒れ落ちた屋根の梁は
山林官の左の手首をしつかりと押さへこみ、
雪の重みはその梁に加勢してゐた
到底彼の力で梁を持ち上げるなどは
思ひもよらない
そして火は仕事をいそげ
でなければ燃き殺してしまふぞ――と
威嚇的に燃えだした
武器をもつてゐなかつたアイヌが
熊に噛みつかれた瞬間
熊の舌を掴んで手離さなかつた
遂に武器なしに熊を倒した話がある。
真の勇気とは
何時も直截な手段を選ぶものだ、
権太郎は自分の帯をほどいて
山林官の腕をかたくしばりだした
傍の鋸をみつけると
梁を伐るのではなく
山林官の二の腕に鋸をびたりとあてた。
――シャモ、がまんしれよ、
――シャモ、がまんしれよ、
暗から聞えるのは
人間の骨を切るゴシゴシといふ梁の声
山林官の苦痛の悲鳴にもまして
『我慢すれよ』の権太郎の
繰りかへしの言葉は
悲鳴を帯びてゐた、
そして血に塗れた鋸と
山林官の腕を梁にのこして
山林官の体は地上に運びだされた。


    23

権太郎は雪の上に
山林官の体をよこたへ、
それから激しく続けさまに
口笛をふいた、
すると何処からともなくたくましい
耳のピンとたつた
黒い樺太犬がとびだしてきた、
権太郎の背にとびかゝつた
権太郎はおゝと叫んで
――太郎、みんな呼んでこい
  馬鹿野郎奴、
とその犬を吐鳴りつけると
犬は人間のやうに彼の言葉をききわけ
矢のやうに去つていつた、
間もなく続々と犬達は集つてきた、
集つてきたのではない、
太郎が狩り出してきたのであつた、
凶暴な眼をした
この先頭犬、太郎は
十三頭の犬を力強く牽制してゐた、
そして巧みに激しく仲間に咆え、
雪崩の恐怖から
遠く逃げようとする卑怯な
犬の脚を背後から噛み
これらの犬達を
先頭犬は一個所に集めてしまつた、
らんらんと輝く眼をした太郎は
これらの犬から数歩離れたところに身構へし
脱落者をいつでも噛み殺さうとする
気配を絶えず示し
――太郎、橇つけるんだ
  みんなならばせろテ、
と叫ぶと太郎は
犬達をいつたん散らばし
咆え、叫び、噛み、威嚇して、
十二頭の犬を二列にならばした。


    24

権太郎はその時倒れた犬小屋から
橇を曳きだしてきて
山林官の体をその上に横たへ、
犬たちの首輪を海豹製の
引綱にそれぞれつなぎ
すべての準備が終つたとき
先頭犬太郎を最後に綱につけ、
己れも橇にまたがつた。
皮の鞭をピューと空にふると
犬達は一斉にひきだした、
犬は矢のやうに
海岸に添つて走りだした、
トウ、トウ、トウ、トウと絶えず叫び
アイヌは橇の上で
犬達を適宜に激励し、勇気づけ、
橇は十里の路を隣り村まで
負傷者の手当と救援を求めるためにとんでゆく、
二度三度この軽快な橇は
雪の上に転覆した、
すると犬達はピタリと停まる、
先頭犬はたえず神経を昂揚させ
驚ろくべき神経の緻密さを示しながら
主人の意志を正しく
犬たちに伝へる、
アイヌは犬の訓練の
技術のありつたけを傾け
負傷者の苦悶の声をのせて
橇は海伝ひに雪明りの路を飛んでゆく。



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