小熊秀雄全集-06
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著者名:小熊秀雄 

所望とあれば
もつと持参致しませうかと、
いまにも駈けだしさうなので
大将まあまあ良いと
あきれて押しとどめるほど
この愚鈍な百姓雑兵は
いくさの度にいやいやで出掛け
首獲りの成績では陣中第一人者だ、
彼はいくさは性に合はなかつた、
林の中にもぐりこみ
昼の内はぐつすり草の中に眠つてゐる、
その日の戦も終末に近づき
敵味方陣に引きあげる頃
やをら彼は叢の中から現れ
林の暗い小路に仁王立ち、
折柄通りかゝる味方の武士を呼びとめる
――ちよつくら待つてくれろ、
 お前さま敵の首を獲つて来ただか、
武士は呼びとめられて
雑兵をじつと見すかしながら
――いかにも、首はとつて参つた
 群がる敵陣にうつていり
 当るを幸ひ切りまくり、
――当るを幸ひ切りまくり、
 いくつ獲つて来ただ、
――一つ獲つて参つた、
――それでは、その首おれにくんろ、
――何と申す、無礼者、
――首渡さねば、お前さまの
 首もちよつくらネヂ切るだに、
――これは無法な奴
 おのれが敵陣にかけこんで
 とつて参つたらよいに、
――そんな事、百も知つてるだ、
 そんなら殺生嫌なこつた、
 うぬら百姓の米喰つて腹減らして
 首とつて嬉しがつてる
 気がわからねいだ、
――こいつ、こいつ大胆不敵な奴、
――文句いはねいで首おいてゆけ、
武士は腹を立てゝ大刀抜き放し、
百姓雑兵に切りかゝると
雑兵は田舎仕込の太い腕で
松の木引つこぬいて
ぶんぶんふりまはして
武士を追ひつめ首を横取りしてしまふ、
こんな調子で味方の武士の
首を横取りしては済ました顔、
おのれの名誉のためにも
百姓雑兵に首を横取りされましたとも言へないので、
泣寝入りの武士が恨めしさうに
大将の前に雑兵の差出す首を
横眼でみてゐる、
いまでは陣中では
首の横取り百姓雑兵と
もつぱらの評判、
陣中では知らぬは大将ばかりなり、

百姓雑兵は、いつたい戦にかけて
強いのか弱いのか、
武士たちはいくら考へても判らない
百姓雑兵はいつものやうに
夢現つに銅鑼の声をきゝながら
次の戦にも林の叢で昼の間は寝てゐた、
そろそろ味方が首を獲つて帰る頃だと、
やをら立ちあがつて
辺りを見まはすと、
どうしたことだ、
戦場には味方の胴体ばかり
ごろごろ転がつてゐて、
その格好は
どれもあまり行儀がよくない、
味方は全滅
大将もとつくに首がない、
――いくさべイ終つただか、
 それだば大将さまも
 もう首いらねいだべ
 やれやれ、村にけいつて
 いもでも掘つくりかえすべいか、
と傍の馬にひらりとまたがつて
百姓雑兵はとつとつと村へ引あげてゆく。



飛ぶ橇  ――アイヌ民族の為めに――


    1

冬が襲つてきた、
他人に不意に平手で
激しく、頬を打たれたときのやうに、
しばらくは呆然と
自然も人間も佇んでゐた。
褐色の地肌は一晩のうちに
純白な雪をもつて、掩ひ隠くされ
鳥達はあわただしく空を往復し、
屋根の上の烏は赤い片脚で雪の上に
冷めたさうな身振りでとまつてゐた、
そして片足をせはしく
羽の間に、入れたり出したりしてゐる。
きのふまで樹の葉はしきりに散りつづけ、
寒い風は、海から這ひあがり、
二十数戸の小さな漁村の
隅から隅まで邪険な親切さで
――わしはもう明日から秋の風ではないよ
  わしは明日から冬の風だよ、
とふれ廻つた、
村の人々は風の声を聴いた、
街の祭日が終つて、
見世物小屋の大天幕を取り片づける時のやうに
華やかさの後に来る、寂寥さをもつて
めいめいが河岸へ降りてゆく
積まれた焚木の上に厚いムシロをかけたり、
村の背後の林の中から
細い丸太ん棒を引きずりだしてきたり、
自分の小屋の倒れかけた壁へ
その丸太をもつて倒れないやうに支へをつくる、
子供の習字の紙を小さく切つて、
部屋や、物置小屋の窓といふ窓へ目貼りをして
風と雪との侵入に備へた。


    2

これらの冬の準備は、北国の人々の敏感さで、
金のある者は有るやうに、
金のないものは又無いやうに、
それぞれの予算の中で
非常な素早さをもつて手順よく行はれた、
全く貯へのない家では
河岸から板切れを何枚も
拾ひ集め、ムシロを集め
いらだちながらそれらの物を手当り次第に
釘をもつて家の周囲に打ちまくり、
林の木の葉の
最後の一枚が散りきつたと思ふときに
空は急に低くなつたやうだ、
そして周囲は急にシンとしづまつた。
その静けさは、長い時で三日、或は一日つづいた、
短いときはほんの数秒間、
不意に咽喉をしめつけられたやうに
村の人々が呼吸をとめた、
そのしづけさに耳を傾けて聴き入つた、
村の人々は立つたり坐つたり
家の戸口に出たり入つたり落着かない、
馬車挽はそはそはと幾度も
馬小屋の馬を用もないのに覗きにゆく、
この天地の静けさが極度に達したと思ふと、
海から、周囲の山蔭から、
数千の生き物が、手に手に
木の杖をもつて、コツコツと土を突いてやつてくるやうな、
ざわざわといふ、ざわめきが遠くにきこえ、
近づいてきた、
この得体の知れない主が
村を一眼に見下ろすことのできる
山の頂に辿りつき
これらの生きもの達は、不意に叫びをあげ、
村の上にその重い大きな胸をもつて倒れかかつた、
人々はハッと思ふと、もうこれらの群の姿はない、
ただ山といはず、野といはず村といはず、
すべてを掩つて白い雪のマントを
拡げて立ち去つた、
人々は始めてホッと長い長い溜息して
たがひに顔を見合せる。


    3

雪が来ると、この最初の雪は愛撫の雪、
山峡の村は一時ポッと暖くなり、
寂しい秋を放逐してくれた新しい
冬の主人を迎へたやうに瞬間感謝の気持になる、
村の娘たちの頬ぺたに朱が加へられ、
毛糸の青い手袋で、こすればこする程
頬は林檎のやうに赤く可愛くなつた。
寒気がつのつてくると娘達の頬は
こんどは紫色にかはつてくる、
水仕事や、薪切りや、父親が山から炭を
手橇で村まで運びだす後押しをしたり、
娘たちはさまざまの生活の
ヒビ割れが手や頬にできる、
漁師たちは冬がくれば杣夫になり
春がくれば百姓が今度は漁師にかはる
漁師はとほく牧草刈に行つたり、
木材流しに雇はれたり、
樺太に住む人々は殖民地生活の
特長ある浮動性に
あるときは南端の鰊漁場から
北端のロシアとの国境の街まで生活を移してゆく、
――今度何々村に王子の製紙工場ができるとさ
――ぢや行くべ、こんな村さ、へばりついてても何にもならんでよ、
――そうだ、そだ、出かけべ、
  何か仕事あるべよ、
――あゝ、あるとも、角材出しでもなんでもな、
  うんと越年(をつねん)仕事に儲けてくるべ、
人々はすぐ共鳴してしまふ、
幾つかの行李を発動機船の胴の間に投りこみ、
幾家族かは北へ指して村を去つてしまふ、
――国境さ、兵隊さん越年するとさ、
――それだば、でかけて軍夫にでも雇はれべいか、
――さうするべ、
馬が立髪をふつて
嫌だと足をじたばた踏むのにお構ひなしに
小屋から橇を引き出して
馬の首の鈴をチャンリン、チャンリンと
鳴らしながら橇の一隊は
海伝ひに数十里の雪の路を
国境の街を指して行つてしまふ、


    4

『偶然そこに住む事になつた土地土地の
 人間の風習に苦もなく染つてゆく
 露西亜人の風習』――と
ロシアの詩人は歌つた、
樺太の人々の風習もまたそれに似てゐた、
その性質の嘘のやうな柔軟性
その生活への素直な順応が
良いことか、悪いことか人々は気づかない
北国庁の役人や利権屋たちは
政治的激動の中心地
東京へしつきりなしにでかけてゆく
だが村へは日刊新聞を十日分づゝ
帯封にして月に三回だけ配達される、
植民地拓殖政策が
一束にして投じられる、
だが池の中心の波紋が
岸まで着かない間に消えてしまふやうに
中央政府の政策がどうであらうが、
雪に埋もれた伐木小屋の
人々にはなんの興味も湧かない、
政変があらうが人々は
ものゝ半日もその話題を続けない、
村の河へ鮭が卵を生みに
のぼつて来たことがもつと大切であつた、
しかし時代の反映は色々の形で現れる
北海道へ出稼ぎに行つたアイヌ人の
イクバシュイ日本名で『四辻権太郎』
村へ帰ると彼の様子が変つてゐた
彼は人々の前に突立ち
どこかに隠してゐたアイヌ人の
民族的な激情性をぶちまけて
――シャモ(和人)たち、
彼はさう叫んで節くれ立つた握り拳で
かなしげに鼻の頭を横なぐりにこすり、
――シャモ、おら社会民衆党さ入つたテ、
  アイヌ、アイヌて馬鹿にするな、
  アイヌも団結すれば強いテ、
人々はどつと声を合して笑つた
権太郎は人々の軽蔑の笑ひを聴くと
一層悲しげな声をし
両手をもつて幅広い胸を抱えるやうにし、
その胸を天にまで突きあげようとする
はげしい、だが空しい意志を示しながら
――シャモ、おら、社会民衆党さ入つたテ、
と同じことを何時までもくどくどと繰り返し
人々が全く笑はなくなると
権太郎はフイと小屋を立ち去つて行つた。


    5

人々はアイヌの後姿を見送つた、
滅びゆく民族の影は一つではなく
いくつも陰影が重なりあつてみえるやうに、
彼等の肩や骨格がたくましいのに
妙にその後姿がしよんぼりとしてみえる
権太郎は戸外にでゝ
雪の中をとぼとぼあるく
小屋が見えたとき彼はピュと口笛を吹いた、
すると小屋の板戸は激しく
バタンと音して開き
中から一団の生物の固まりがとびだし
疾風のやうに路をとんでくる、
十数匹の犬の群があつた、
彼等はなんと走ることが巧いのだらう、
それは走つてゐるのか踊つてゐるのか判らない、
それほど犬達は美しく身をくねらし、
かぎりない跳躍のさまざまな形をみせて、
権太郎へ近づくと
主人に甘えながらクンクンと叫び
犬たちは崖へ駈けのぼる時のやうなはげしさで
権太郎の足さきから一気に
胸まで駈けあがり主人の眼といはず
鼻といはずペロペロとなめる、
――こん畜生奴、やめろテイ
彼は身を横にふる、
だが彼の顔は笑つてゐる、
三つの生物の親密の度合が
雪の中に高まつてゆく、
そしてあらゆる静かな周囲の世界の中で
もつとも動的なものとして動いてゐる。


   6

犬達はふざけ合ひ巧みに
歩るいてゆく主人の周囲に円を描きながら
小屋へ近づくと権太郎はホウホウと、
大きな手をひろげ犬の群を追ふ
すると犬達は犬小屋へ去つてしまふ、
アイヌは重い小屋の戸に手をかけ
扉をひきちぎるやうに開く
戸の一端に縄で吊り下つてゐる
大きな鉄の分銅がガタンとあがり
権太郎が入つてしまふと分銅は
戸をしぜんに閉めてくれる
空が晴れてゐるのに強い風が吹いてきて
風が崖下の村へ雪を吹雪のやうに吹きつけ
海は轟々と鳴り岸の結氷は
ギシギシと音鳴り氷が着いたり離れたり
絶えまない氷の接触に
どうしても聞き分けることのできない
人間の声のやうに呟ぶやく、
鈍重な氷のうめきは断続し
時々積まれた空瓶が崩れるやうな
明るい音響をたてる、
その音響は空白な
衝動的な笑ひのそれに似てゐる、
そしてその物音は一層
周囲の陰鬱さを色濃くする。


   7

若い山林検査官が村に入る岬の
突端の細い路に現れた、
彼は人の良い微笑をもつて周囲をみまはしながら
旅行者らしく前屈みに歩るいてゐる、
腰には撃つた鳥を数羽ぶらさげ
歩るくたびにぶらりぶらりと
山林官の腰のあたりに
装飾品のやうに揺れてゐる、
雪の通路は堅い
その細い路を踏み外すと
片足は膝まで雪の中に埋まる、
彼は何べんもその路を踏み外し
苦心をして埋もれた片足を抜かねばならぬ、
そのたびことに彼は立ち止まり
根気よく馬鹿丁寧に雪に塗れた
足から雪を手で払つてゐる、
彼の動作は非常に静かで、
曾つて自分が失つた何物かを
地面に探し求めて
あるいてゐるやうに絶えずうつむき
顔をあげたとき彼は強く
呼吸を吐きだすやうであつた。


   8

村にたどりついたとき海は全く
夕闇の中にかくれようとして暗く
最後の白い一線が沖合に光つてみえ、
村は海より一層暗く、
三方の山は暗さをもつて
村を全く膝下に捉へこんでゐた、
犬は村への来訪者を知つて
はげしくどの家の犬小屋の中からも咆えた、
彼は凍結した硝子戸から洩れる
ランプの弱々しい光りを
いちいち覗きこみながら
訪ねる家を物色する風であつた、
間もなく山林官は
小さな一軒の小舎の前に立ち
――親父、居るか、
と高い声で呶鳴ると中からは
オーといふ太い声がきこえてきた、
――誰だあ、
――おれだよ、
――あゝ、山林の旦那かあ、入れや、よく来たテ、
山林官はのつたりと小舎に入る
中ではアイヌの権太郎が突立ちあがり
意味のない感動の声をあげ
しばらくはゲラゲラと笑つて客を歓迎した、


    9

この権太郎の親密な小さな村では
遠慮といふことは軽蔑され憎まれてゐたから
お客はづかづかと土間の炉に
濡れた足を突込んだ、
山林官は猜疑深いアイヌ人と
上手に話をすることを知つてゐた
それは『真実をもつて語る』といふ以外に
この異民族と語る方法が
ないことを彼はちやんと知つてゐた
斯うした真実に対してアイヌ人は
それに底しれない愛情と純情を現して応へ
アイヌ人は可憐な動作や言葉の節々にも
思はず涙がにじむほど愛すべきものであつた、
夏の頃山林官は権太郎と
村の谿谷に添つて奥へ猟に行つた、
激しい谿流に突きあたつた時
二人はそれを渡らなければならなかつた、
山林官は水の流れの激しさに
暫し躊躇してゐると
権太郎は肩幅の広い背をつきだして
おんぶすれといつてきかない
アイヌは獣よりも確かな敏捷な足どりをもつて
飛石伝ひに彼を対岸まで運んだ、
山林官はその時のことを覚えてゐる、
大人が大人を背負つてゐるといふことは
平凡で異常でない出来事とはいへない
こゝではたゞアイヌの愛情がそれをさせた。
山林官が追想の中から引きだせるものは
かつて子供の頃父親の背に
背負はれた記憶がよみがへつたことだ。


    10

若い山林官とアイヌとは炉を挟んで
さまざまな世間話を始める
権太郎の息子が町の酌婦と駈落ちをしてしまつた話
そして息子は女に捨てられて
北海道の或る都市の活動写真館の
楽手になつてラッパを吹いてゐるといふ話
話し終ると権太郎は
――ほんとに餓鬼は、旦那、アイヌの面汚しだて、とつけ加へる
――権太郎、まあ息子は楽手になつたんだから出世したと思へ
と云へば彼はうんとうなづく
アイヌの父は社民党の演説をきいて
ついフラフラと単純に加盟し、
息子は街へでゝ映写幕の前の
暗いボックスの中でクラリオネットをふく、
すべて和人なみになつたことは
二人にとつて出世であり誇りにちがひない。
ただアイヌの仲間が死に、村を去り、
住居を孤立させられ、******、
同時に山にはだんだんと熊の数が
少なくなつてくるといふことが
最大の彼等の悲しみであつた、
そしてアイヌ達は*******
山の奥へ奥へと、林の奥へ、奥へと、
撒きちらすために入つてゆく。


    11

若い山林官もアイヌ達と一致するものをもつてゐる
それは意志の弱さの故に生活への
冒険を求めてゆく心理である、
大都会を遠く離れた北国の生活では
こゝでは良心的であればある程
村から離れて自然の中に
自由に隠れることができる、
だがこゝにも人間の狡猾さはあつた、
そして良心的なことは
これらの狡猾な人に便利がられ利用された、
山林官は鬱蒼とした林の路を
そして彼の耳に
はげしく盗伐の木の倒れる音を
聴きながして通つてゆく、
偶然山林官は村人が盗伐してゐる
場所に行き当ることがある、
すると百姓は鋸の手を休めて
木から離れ
――旦那、御苦労さんでがす
  まあ、一服つけて行かつしやれ、
彼はちらりとその百姓をみて
すべてを覚つてしまふ、
貧しい百姓が生活の糧や
小屋がけの材料や、冬の燃料のために、
おかみの所有物を盗んでゐるといふことを、
百姓の木を伐る手は、
泥棒をしてゐる、
だが*************、
一層悪いのは公然と
手も心も泥棒してゐる製材業者や
紙をつくる会社などであつた、


    12

これらの人々は林の木を乱伐し、
切り終へたころ『山火事注意』と
山林省でたてた林の中の立札の下へ
ポイと煙草の吸殻を捨てゝゆく、
火はトド松の根元から
猛然と一気に梢まで駈けあがり
バリバリといふ機関銃のやうな音をたてゝ
樹から樹へと燃え移る、
そして十里も二十里も幾昼夜も
夜の空を真赤にこがし延焼し、
そして山火事がしづまつたころは
樹の伐り口の鋸の跡はみんな
焼け焦げて判らなくなつてしまふ。
若い山林官はそのこともよつく知つてゐる
だがそのことを知つてゐることは怖いことである、
胸に畳みこんでをくことはつらい
若しそのことを*********
**************。
そして世間の人々は
――なんていふ****、
  樺太の事情を知らない、
  *****
ときまつていふ、
そしてその批評の後には必ず
――長いものには巻かれれといふことがある
と附け加へるだらう、
**************
************、
****客引き男の
長着物を着てもよく似合ふであらうし、
前垂をかければ商人にもよく似合ふ、
****をつければ若い**らしいだらう、
菜葉服を着れば職工にも、
白衣を着れば医者らしくもならう、
百姓のボロ着もよく似合ふ筈だ、
袖のあるものへ両手を通せば
その着たものに彼はピッタリする、
何故***************、


    13

彼自身その理由はよく判らなかつたが、
彼自身気づかぬ間に
彼の住む環境を北へ北へと
しぜんに移して樺太まで
やつて来てしまつたことを知つてゐる
そしてそこには彼にはかぎらない、
あらゆる人々が彼と
同じやうな経歴を持つてゐる、
世間では津軽海峡のことを
『塩つぱい河』といふ、
彼もまた人生のこの塩つぱい河を
とうとう渡つて殖民地の極北まで来てしまつた、
環境の独楽(コマ)はクルクルと
北へ移つて行つた
内地本土から追ひ立てられて
樺太の北緯五十度まで住居を押しつけられてしまつた、
アイヌ種族たちはその典型的な
生活の敗北者の群であつた、
こゝに住む一切の人々は
従つて生活の経験が異状であり
個性もまた異状であつた、
強い正義人たちがこれらの
人々の中に数多く混つて
大きな憤懣をいだきながら死んでゆく、
自然界の四季の変化が快楽であり
人間を嫌ふとき
山野には獣が彼等を歓迎した。
だが日本人たちは
この山野の獣たちにも
アイヌのやうに真に迎へられてはゐない、
日本人は狩猟が下手であつたし、
撃ちとつた獣の皮を剥いで
骨や死骸を平然と捨てさつたが、
アイヌたちは獣の骨を無数に
小屋の周囲に飾り立てた、


    14

彼等はこれを朝夕熱心に祈り、
獣の死の追憶を決して忘れようとしなかつた。
日本人は獣を祈ることさへできない
獣を撃つことは涯かに
アイヌ達より本能的であり、
************
平然として悔をしらなかつた、
山林官も最初火薬の炸裂する快感を味ひ
獣を追ふ本能から猟を始めた
たつた今兎が林の中を過ぎた
梅の花のやうな可憐な足跡は
雪の上にどこまでも続いてゐる
彼は何時でも発射できるやうに
銃を構へて熱心に足跡を辿つた
だが何としたことだ、
足跡は切れたやうにぱたりと停つてゐる、
天に駈けたか地に潜つたか、
皆目行き先が判らなくなつてしまつた、
彼は当惑し頭を掻きむしり残念がり、
そして連れの権太郎に救けを求める、
――シャモ、兎に
  馬鹿にされてるて、アハハ
とアイヌは腹を抱へて笑つてゐる、
そして権太郎は説明する、
かしこい兎は何時も追跡者のあることを
どんな場所でも予期してゐる、
プツリと足跡を切らしてしまふ、
兎は足跡を切るところで
数歩同じ足跡を逆戻りする
そして兎はそこで右へか左へか、
大きく精一杯脇の方へ
横とびに跳躍してしまふ、
そこからまた雪に新しい足跡をつけて進んでゐる、


    15

林の中で山鳥達を呼集める笛を
かくれながらしきりに吹く
すると山鳥たちは騒々しく
方々から集つてきて
笛を吹いてゐる上の樹の枝に
まるで鈴なりにならんで
嘴で突つきあつたり、おしやべりをしたり、
ざつと数へても三十羽はゐる、
射撃の位置はよし、銃は上等だし、
獲物はまるで手が届くところにゐる、
山林官は狙ひをさだめてズドンと撃つ、
だがどうしたことだ、
たかだか一二羽落ちてきたり、
時には一羽も撃つことができない
みんな羽音をたて、
驚ろいて逃げてしまふ、
一二羽を撃つために
呼笛をふいて三十羽も
集める必要があらうか、
山林官はすつかり悲観してしまふと
権太郎は傍で腹を抱へて笑ひだす、
――旦那、山鳥はかうして撃つもんだてや、
アイヌは先に立つて場所を変へ
そして呼笛のねばりのある甘い、
澄んだ音響を林いつぱいにひびかせる、
すると山鳥は前のやうに
続々と二人の頭上へ集つてくる。


    16

権太郎は殆んど全身をむき出しにして
ズドン、ズドンと何時までも射撃してゐる
ばたり、ばたりと山鳥は
果実でも落ちるやうに
足元へ落ちてきて
地上で狂はしく羽を舞はしてゐる。
何としたことだ、
アイヌの銃声には
山鳥たちは驚かないのか、
そして最後の一羽まで
山鳥たちは撃たれるのを待つてゐるのだ。
アイヌは説明する、
狙ふもの、撃つもの、
射撃の目的は最後の一羽までにある、
いらいらとして無目的な射撃は
ただ標的を飛立たしてしまふだけだ――、
なんといふ貴重な教訓だらう、
アイヌは和人よりはるかに科学的である、
仕事は組織的だ、
狙ふものの、生活をよく理解し、
その習性を観察してゐる。
彼は集つてきた山鳥に
いかに肥えて美事な一羽がゐようと
高い梢に停まつてゐるものから
最初撃ち狙ふことをしない、
高いところのものを撃つ、
すると下の枝のものはみな
落下する仲間をみて
驚ろいて飛び立つてしまふからだ、
彼は一番自分の手近なところから、
それは標的として可能なところからだ、
下の枝にとまつてゐる鳥から順々に
次第に上の枝のものに移り射撃してゆく、
最後の高い梢にとまつた山鳥を
撃ちおとしたときはそれで全部だ、


    17

獲物を驚ろかすことは意味がない
銃は若い山林官の手に握られてゐる
ただそれだけである、
銃はアイヌの大きな手の中に握られてゐる、
鉄と木と、火薬と標尺とを
綜合されたものは鉄砲
アイヌにとつては肉体の一部のやうに
生きて使はれてゐる
山林官の銃は新式で
ケースは更に中味よりも立派であつた、
権太郎の銃はもう二十年から
使ひ古され旧式なものであつた、
山林官はアイヌ達から
さまざまのこと柄を学ぶことができた
いつも狩猟には権太郎を先達に頼み、
たがひに気のおけない冗談をいひながら、
山から山を渡りあるくことを好んだ、
いつものやうに彼は
権太郎の小屋を
銃を肩にしていま訪ねたのであつた、
犬の毛皮を幾枚も敷いたり、
巻いたり、掛けたりして、
炉の傍に彼はゴロ寝をした、
五分芯ランプの小さな火の下で
権太郎はだまりこみ足を投げだし
鋸の一端をその両足で挟み、
ヤスリで鋸の目を立ててゐた、


    18

雪の中の小屋はあくまで静かで、
アイヌの荒い呼吸と、
海の遠潮の音とが交互にきこえ、
彼は折々手を休め
獣の爪のやうな堅い爪をもつて
目立ての出来工合を知るために
鋸の一端を爪で弾いてみる、
するとはじかれた鋸が
チーンと時を報ずる時計のやうな
美しい澄音を小屋中にひゞかせる、
その時、犬小屋は急に騒がしくなり
奇妙な声をたてゝ
一匹が咆えだすと
全部の犬がそれに続く、
アイヌはフッと顔をあげて
なにか落つかぬ表情をする、
シッシッと犬を叱る声をたてながら
炉の燃えさしの木を足で押しやり、
傍の新しい焚木を加へる、
山林官の眠つてゐる弛緩した
顔の皮膚は見るからに
眠りは最大の平和であると語つてゐるやうに、
全く昼の猟の疲労で熟睡してゐる、
小屋の中の
人間の生活はこのやうであつた、
その時自然はどのやうであつたらう、


    19

月は何処にも現れてゐない、
然しどこからともなく光りが
いちめんに村落を照らし
雪の層の下で
アセチリン瓦斯を燃やしてゐるやうな
異様な青さをもつて
見渡す雪原は雪明りで輝やいてゐた。
そのとき村の背後の山の
頂きから斜面を
丁度馬の頭程ある一塊の雪が
辷りだした――といふよりも
軽快にふもとにむかつて駈けだした、
この雪奴はまるで生物のやうに、
しかも秘密を胸にしつかりと抱きこんだ、
密偵のやうなそぶりをもつて
あつちこつちにぶつかりながら
そのたびごとに塊は小さくなり、
最後の塊が
人間の拳骨ほどにも小さくなつて
コロコロと転げ村まで到着し、
馬小屋の破目板にぶつかつて
粉々に砕け散つてしまつたとき
――すべては良し――と
この雪奴は山の頂の
雪の同類にむかつて
合図をしたのではなかつただらうか、
山の頂では
――応(おう)
とこたへて雪の大軍が轟々と鳴りながら
濛々雪けむりをあげて
村をめがけて雪崩(なだれ)落ちてきた。


    20

自然の移動をこれほどはつきりと
眼にみることは壮観であり美しい
ただこの大雪崩の下に
小さな村が埋没されてしまつたことは
不幸であつた、
――シャモ雪崩だでや、
権太郎は鋭く叫んで
立ちあがらうとして片膝をたてたとき
第二の雪崩は
権太郎の小屋をも押しつぶした、
権太郎は押し潰された暗黒の小屋の中で
しきりに山林官の
名を呼び手探りした
手にふれたものは山林官の
着衣の一部でありそこからは
にぶく瀕死のうめきが伝はつてきた。
――シャモ、しつかりしれや
アイヌは絶望的な声をあげ
出口を求めるために
雪明りのさす方ににじり出た、
そこに破壊された天窓を発見し
いつたん彼はそこからはひ出た。


    21

同時に小屋の破れから犬達が飛びだし
先に争つて遠くに逃げて行つてしまつた、
村は惨憺とした自然の暴威に屈服し
人々の黒い影が右往左往してゐたが、
権太郎は次の瞬間
小屋の中に山林官の救ひを求める声をきいた、
――フホホーイ、ホーイ、と
権太郎はアイヌ達が
危急の場合に仲間に
知せる奇妙な叫び声をあげ
炉火から燃え移つて
小屋が燃えだしたその煙をみたとき
彼はアイヌ族の英雄的な勇気が
勃然と心に湧いてきた
そしてふたたび小屋の煙の中に潜り込んで行つた。


    22

権太郎は心に第三の雪崩を予期し
けだものよりも敏捷な態度で
はげしく山林官の服をひつぱつてみたが
山林官はしつかりと
何かに咬へられてゐるやうに動かなかつた
倒れ落ちた屋根の梁は
山林官の左の手首をしつかりと押さへこみ、
雪の重みはその梁に加勢してゐた
到底彼の力で梁を持ち上げるなどは
思ひもよらない
そして火は仕事をいそげ
でなければ燃き殺してしまふぞ――と
威嚇的に燃えだした
武器をもつてゐなかつたアイヌが
熊に噛みつかれた瞬間
熊の舌を掴んで手離さなかつた
遂に武器なしに熊を倒した話がある。
真の勇気とは
何時も直截な手段を選ぶものだ、
権太郎は自分の帯をほどいて
山林官の腕をかたくしばりだした
傍の鋸をみつけると
梁を伐るのではなく
山林官の二の腕に鋸をびたりとあてた。
――シャモ、がまんしれよ、
――シャモ、がまんしれよ、
暗から聞えるのは
人間の骨を切るゴシゴシといふ梁の声
山林官の苦痛の悲鳴にもまして
『我慢すれよ』の権太郎の
繰りかへしの言葉は
悲鳴を帯びてゐた、
そして血に塗れた鋸と
山林官の腕を梁にのこして
山林官の体は地上に運びだされた。


    23

権太郎は雪の上に
山林官の体をよこたへ、
それから激しく続けさまに
口笛をふいた、
すると何処からともなくたくましい
耳のピンとたつた
黒い樺太犬がとびだしてきた、
権太郎の背にとびかゝつた
権太郎はおゝと叫んで
――太郎、みんな呼んでこい
  馬鹿野郎奴、
とその犬を吐鳴りつけると
犬は人間のやうに彼の言葉をききわけ
矢のやうに去つていつた、
間もなく続々と犬達は集つてきた、
集つてきたのではない、
太郎が狩り出してきたのであつた、
凶暴な眼をした
この先頭犬、太郎は
十三頭の犬を力強く牽制してゐた、
そして巧みに激しく仲間に咆え、
雪崩の恐怖から
遠く逃げようとする卑怯な
犬の脚を背後から噛み
これらの犬達を
先頭犬は一個所に集めてしまつた、
らんらんと輝く眼をした太郎は
これらの犬から数歩離れたところに身構へし
脱落者をいつでも噛み殺さうとする
気配を絶えず示し
――太郎、橇つけるんだ
  みんなならばせろテ、
と叫ぶと太郎は
犬達をいつたん散らばし
咆え、叫び、噛み、威嚇して、
十二頭の犬を二列にならばした。


    24

権太郎はその時倒れた犬小屋から
橇を曳きだしてきて
山林官の体をその上に横たへ、
犬たちの首輪を海豹製の
引綱にそれぞれつなぎ
すべての準備が終つたとき
先頭犬太郎を最後に綱につけ、
己れも橇にまたがつた。
皮の鞭をピューと空にふると
犬達は一斉にひきだした、
犬は矢のやうに
海岸に添つて走りだした、
トウ、トウ、トウ、トウと絶えず叫び
アイヌは橇の上で
犬達を適宜に激励し、勇気づけ、
橇は十里の路を隣り村まで
負傷者の手当と救援を求めるためにとんでゆく、
二度三度この軽快な橇は
雪の上に転覆した、
すると犬達はピタリと停まる、
先頭犬はたえず神経を昂揚させ
驚ろくべき神経の緻密さを示しながら
主人の意志を正しく
犬たちに伝へる、
アイヌは犬の訓練の
技術のありつたけを傾け
負傷者の苦悶の声をのせて
橇は海伝ひに雪明りの路を飛んでゆく。



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