小熊秀雄全集-20
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著者名:小熊秀雄 

 ▼かういふことに対して、作者自身も編輯者そのものも、神経を読者のために使ふ必要がないものかどうか、新聞編輯では、見出しの良き配列といふ点を編輯者が何よりも苦心する、俗に垢ぬけのした編輯ぶりといふのは読者に記事を押しつけるのでは決してない、読者の視覚を解放しながら、旁々本文を読ませるやうに誘引するのである。

 ▼作家の書く小説は新聞記事とはちがつて個人的制作物だからといつて、どんな形式を読者に押しつけてもよいとは言はれまい。小説形式の中から会話といふものを放逐してしまつて、見ただけでもウンザリするほど文字をベタ詰めにするといふ叙述形式は、これは単に読者心理の解放といふだけの問題にとどまつてだけはゐないだらう。

 ▼早晩その小説形式の本質問題は論ぜられなければならないし、殊に武田氏の西鶴ものの場合、形式の内部的矛盾は早くも現はれてゐる、散文の本質から彼が離れまいとすればするほど、散文とは縁遠い、講談口調と一種の雄弁術とが露骨になつてきてゐる、問題は小説の文字ヅラだけのやうであるが、決してさうではあるまい、作者といふものは作品を押しつけるばかりが能ではない、作者は読者を解放するとともに、適宜に自己も解放しなければいけないものだらう。



保護すべし 杉山のマルクス残党論


 ▼中央公論所載の杉山平助氏のマルクス主義の残党に与へる『地獄に生きる』の一文は近来の好読物である。杉山氏の近来のものは、往年の颯爽昧はないが、それにとつて変つて思想的な悪あがきは、壮観なものである。近来の彼の読者もまた往年のものではない。ジャナリズムに活躍してゐる彼の姿に対して、一種の快感をもつて見るといふところである。

 ▼ジタバタする杉山氏の姿を、良い気持で眺めてゐる読者を杉山氏は責めることはできない。何故なら、彼自身がさういふ風に読者を教育してしまつたのである。

 ▼マルクス主義の残党の亡霊に怯える杉山平助氏は、自己の中の亡霊を追ひ出す暇もないほど、他の亡霊を追ひ廻すのに忙がしいが、その杉山氏の状態をみると、亡霊の社交界を駈けまはる男のやうで、一本をきに歯のぬけた口をもつた紳士のやうである。彼の吐く理論的言語は未だ曾つてまとまつたことを一度も吐いたことがない。論理はスースーと歯の間からぬけるのである。甲の場所では肯定し乙の場所ではその同一のことを否定する、然もそれをなるべく素早い方法でやる、つまり手品と共通な方法で文章を書くのである。彼の口の中の歯が全く抜けてしまふまでにはまだ間があるだらう。今となつては彼にとつては抜け残つた歯が邪魔な位だ。彼の口にする処のマルクス主義の残党などは何処にもゐないので、ただ彼自身の口の中に引つかかつてゐる丈である。

 ▼さういふ意味で彼位曾つてのマルクス主義者に手ひどい惚れこみ方をした男はちよつと珍らしい。ジャナリズムは彼を保護するだらう。何故ならジャナリズムは彼より少し許り利巧だから、杉山氏のやうな時代的矛盾の全き反映として、立派な抽象的人物をジャナリズムが大切にしないわけはないから、有用なものはいつも利用されるだけである。杉山氏の書く文章が仮りに今後どれ程愚劣なものに化しても、客観的興味を失ふことは決してあるまいし、事実彼の今後の書くものには漸次さうしたサロン的色彩を帯びてくるだらう。



文学長期建設 作家には停戦なし


 ▼政治の物々しい行動に怯えたインテリゲンチャ作家が、少し許りの良心性を社会にひけらかす為に「日本的なもの」といふ抽象的な言葉を持ち廻つたのはつい最近であつた。そしてさつぱり具体的な日本解明に、足を踏み込むことも出来ず、その醜態のクライマックスを示してゐた時、今事変は本格化した。

 ▼当局に戦地見物でもさせて貰はねば「日本的とは何か」の持ち廻り作家たちは、全く救ひのない立場に立つところであつたらう。文士の労働奉仕である戦線従軍が、大量に行はれたが、日本的問題や、民族文学の問題はこれらの作家が帰つてきて、また形を変へてやかましく囀られることだらう。しかし従軍作家の顔ぶれを見ると、消費文学の作家丹羽文雄氏のやうな、又それと類型の作家が参加してゐるのは、自ら戦地お土産の如何なるものであるかといふことは大体想像がつく。

 ▼我々はさういふ意味で全幅的な期待をこれらの作家にかけるわけにはゆかない。従軍も肝腎だが文学に於ける国内的な状態などもこの際充分観察して、建設的な立場に立たなければならない。幸ひ最近の現象で単行本の刊行も盛なやうであるし、書き下し長篇も出てゐるし、この種のものの書き下し長篇も出てゐるし、此種のものゝより旺盛化こそ望まれる。理論活動などもこの際本腰を入れて仕事が行はれていゝ「長期建設」などといふ言葉そのものからは何等指導原理は引き出されないが、文学の世界にそれを適用するときは自ら別な働きが加へられて多分に建設性が必要となる。

 ▼文化的なものの内部に於て抵抗、排除、抗争、建設などの今こそ行はれる実践期ではないか、今に始まらぬが文化的な面に於ては停戦や休戦と呼ばれることなどはもともとなかつたのだ。社会現象は往々にして作家活動を粗雑なものにしてしまふ場合がある。農村小説などに喰ひ下る国内的な作家なども尊敬したいものだ



生死を越えず ペン部隊海軍班帰る


 ▼日支事変の現地視察に赴いた海軍班従軍ペン部隊の一行もどうやら無事に御帰還になつた。今回のペン部隊作家達の出発に先立つてこんな噂が流布された。「当局者の方では今度の作家のうちから二三人は死んでもらふつもりださうだ」と。勿論それはデマであるが、根拠のないこともあるまい。作家が厳格でなければならない筈の死に対する理解の態度が、作品の上では甚だルーズな態度で描写されてきた、その事実はこれまでも多い。殊に大衆作家はヱイ、ヤッといふ掛声だけで相手を斃してしまふといふ簡単さで済してきたものだ。

 ▼なるほど読者はそれでもすむしそれでも面白がつてゐる。しかし読者の心はさういふ作者の死の扱ひ方に対する不真実に抗議を保留してきた筈である。作家は只読者が面白がるといふ部分だけに喰ひ下り読者を釣つてきただけである。当局でなくても机上の文字で人間の生死感を簡単に片づける作家に向つて、戦場に出掛けて弾丸雨飛のもとで死んで見当[#「当」に「ママ」の注記]とまでは言はないが、毛脛を焦がす程度の戦争の迫真性でも味つてきてから作品を書けと言ひたくもなるのである。

 ▼当局が作家を戦地に招待するのも戦争に対する認識の是正を作家に求めたからであらう。当局も文化と民衆との接触がその作用の大きさに於て、見逃すことの出来ないことを認めてゐる今日、当局が今後文化人に対する奉仕の求め方も強くなつてくるものとみていい。

 ▼それはたいへん結構なことである。当局はいろいろの機会に作家を各方面に手きびしく引き廻して、第一に作家の感傷性の追ひ出しをしてもらひたい。全く作家の振り廻す国内的な感傷性位、これまでどれだけ読者を毒してゐるかわからないのであるから――。



文化宣伝の具 英語の国際性を知れ


 ▼国際文化振興会で現代目本の実相を外人に伝へる目的で、『日本文化叢書』を発刊したことは、時宜に適したやり方だが、事業が『国際性』に立つ場合に、いやでも『英語』に依るといふ事情はこゝでも動かすことが出来ない。曾つて英語排斥の声は高かつた。気の早い学校では英語科目を廃止したところさへあつた。日支事変で日英関係が悪化した事も原因であるが、大体日本人の国民性には、現象に左右されるといふ心理的動揺の幅がありすぎる。ちよつと許り日英間の情勢が変ると、坊主憎ければ袈裟式にすぐ英語を廃さうとするのである。

 ▼むしろ日英関係が悪化した場合には、大いに英語を学ぶべきで、相手国を理解し尽しそれを圧倒するには、相手国の言葉を知ることが何より先決問題だからである。然るに一部人士には、外国語使用を国辱なりとして排斥しようとする傾きがある。それでは悔は身近くにはないが、やがて遠いところに現はれることは明らかである。

 ▼日本が外国語を擯斥してゐる際に、逆に諸外国で日本語熱が昂まつてゐる。それだけで日本の国際的地歩の向上である――とお人好しに喜んでもをれない。むしろそのことに驚かなければならぬ。言語を知られるといふことは、その国民の心臓を知られるといふことであるからだ。

 ▼一部の日本人の外国語を嫌悪するといふ心理は『英語』と『英国』とを混同してゐるからであつて、国際語としての英語は、既に外国語と呼ばるべきではない。それほどにも英語は国際的な文化共有語として存在する。ただそこからの摂取能力の高い国のみが、そこから多くを学び多くを獲得するのである。

 ▼国際文化振興会で世界にむかつて二千部そこそこの日本文化宣伝をばらまいたところで大いしたこともあるまいが、これまで翻訳文化で育成してきた日本が、ここらで勇躍文化を翻訳して世界に向つて攻勢に出る必要があらう。



楽天主義か 知的動員の倦怠


 ▼漢口陥落を転機として、愈々国民的総力戦に移る。その一翼としての知的方面も、如何なる形で協力すべきかは、今後の興味ぶかい問題であらう。見渡すところ知的分野は、現実が深刻であるに拘はらず甚だ楽天的な態度である。好んで楽天的であるのか、そこまで追ひつめられたのか、何れにしても一種の倦怠状態である。

 ▼文芸批評家は、その指導的立場を全く放棄し、ひとり作品だけが、何を描かうが、いかなる創作上の過誤を犯さうが、お構ひなしの横行ぶりで、これまた文学の楽天時代だ。

 ▼報告文学は旺んだが、戦地にゆけば何かしら現実的な文章が書けるだらうといふ淡い目標から出かけるものも少くない。文学的な構成力を働かす力がなくなつた作家が、『事実の強さ』に捕はれるといふ消極的な現れだ。報告文学とはいへ、旅行記と何等変りがない。

 ▼材を満洲国や支那にとるといふ大陸小説は今後も盛んに続出するだらうが、これらの小説はその作者の創作心理の不緊密であることを、益々その作品によつて暴露してゆくだけで、大陸小説、民族小説の目的とは遥かに遠い。だらしのない落莫小説を産出する位が関の山だらう。

 ▼これらの作品は当面の強烈な現象に飛びついたといふ意味では国策的であるが、国内的な現実に眼を掩つてそこから逃げ出さうとする態度では、一種の越境小説と言へる。

 ▼日支事変は国民の精神に新らたなる試煉を与へた。同時にあらゆるものの価値の急激な修正が無意識のうちに行はれてゐる。作日の読者また今日の読者ではない。
 ▼殊に戦争とか事変とかいふ精神的ショックの後に来る国民精神の変化といふものは、ある決定的な姿をとつて現はれることは明らかで、それは国民の国内的な基本的な生活の変化としての必然的な姿である。国民の変貌、新しい読者の登場。然るに作家のみ徒に現象を追ひまはすといふ醜態は救ひ難いものがある。



単純な優等生 政治と文学のお茶の会


 ▼作家が政治家と、社会や文学の発展のために談合することは、結構なことである。有馬農相が農民文学者と、お茶をすすつて、政治と文学のために一夜を会談するといふことは、たしかにこれまでの政治家には珍らしい砕けたものがある。

 ▼土の文学のために、農林大臣が乗り出した。それでは商工大臣は何をしてゐるのか。日本の『店員文学』樹立のために出馬しないのか。そして逓信大臣は、逓信従業員のための文学に――それぞれ各大臣は作家を動員していゝ筈である。

 ▼しかし政治家と作家、この両者の斯うした関り合ひから、如何なるものが生れるかは疑問である。政治家はその政策の遂行の樋として文学を利用しようとしても、果して順調に水が流れるかどうか怪しい。また文学者は政治家の力を借りて、真の文学をつくらうなどといふ功利性はやめた方がいゝやうだ。

 ▼真に政策的に多忙な政治家なら文学者とものの一時間としやべつてゐる暇などあるまい。また文学者も同じことである。さうしたことに両者がエネルギーを消費してゐるとは驚ろくべきである。政治上のジレッタントと、文学上のジレッタントとの会談、多分にさうした性質を帯びてゐる。

 ▼文学者の最近の著しい傾向として、作家が逸早く国策に呼応するといふことである。しかし近衛さんの肝煎りでつくらうとする新党でさへ、その政治上の一元化の内容吟味で手間どる世の中である。ましてや複雑な人間心理を扱ふ作家が、政治や政策といへば、真先にハイッと手を挙げる優等生のやうな態度はお可笑しい位単純である。

 ▼政治家と作家との懇談や、作家の国策への転化、従軍作家の労役奉仕など、いづれも一寸見には体裁がいゝが、しかしこれは政治の秩序と、文学の秩序との単なる外観上の一致であつて、作家はこのところ、この世間態のつくろひ方に醜態にすぎるものがある。



杉山平助氏に 死ぬ覚悟の押売


 ▼婦人公論十二月号で杉山平助氏が、『漢口攻略従軍記』を『戦線より吾子に送る手紙』の形式で書いてゐる、この戦地通信は相当枚数の原稿紙を、雑誌社に手渡してゐるから、文章で飯を喰つてゐる人間が、量的に原稿を売る目的はまづ達成してゐるわけである。

 ▼さてその文章の内容にふれるが、杉山氏はそこでは、日本人の古来からの感傷性を美点だと主張し、それを高く買ふ論を一席弁じながら、巧みに己れの感傷的な文章を合理化してゐるのは心得たものだ、彼ぐらゐ自分の書いた文章の後先に、自己弁護をするジャアナリストはないだらう、また彼程自己を主張し、維持しようとすることにかけて本能的な人間も少なからう。

 ▼彼の書いたものは、そのときどきの社会情勢で猫の眼のやうにかはる、その文章は一見個性的にみえるが実はさうではない、個性などはもつてゐないのである、西洋の哲学者曰く『即ちひとが「白己」よりも「維持」の方を強調すれば、この維持は絶えず脅やかされてゐる――』と、杉山氏はその自己の方がないから「維持」の方を専門にやる、勢ひジャアナリズムに執念に喰ひ下らざるを得まい、したがつて絶えず何物かに脅やかされ、恐怖観念が彼に『死ぬ』『死ぬ』とセンチメンタルな文章を書かせてゐるのだ、しかも彼は自分は死ぬ広告文を書いて生きてゐて他人にだけ『死ぬ覚悟』を押しつけるのはどうかと思ふ。

 ▼『吾子に送る手紙』も彼の四歳と三歳の子供に、成人したらそれを読んで父親平助の覚悟の程を知つてくれと書き残すのはいゝとして、しかし何も文芸協会との従軍のイキサツまでも書き残す必要はあるまい、他人のことでも子供のことと言へば眼のない子煩悩な読者を当てこんだキョロキョロした書きぶりは嫌らしい、泣くな平助、しかも子供は他人のでも自分のでも、余り文章のダシに使ふなかれ。



作家移民団 本多顕彰氏に望む


 ▼本多顕彰氏は日本評論十二月号で『知識階級再建』を論じ『謂ふところの知識階級の中には――こゝに自発的に再出発し、知能の欠如の証明にすぎぬ消極性を清算する者が必ず続出するだらう』といつてゐる。

 ▼この論でいへば、革新十二月号の山田清三郎氏の『現地生活を志願するの書』などは政府の大陸政策への文化的義勇兵たらんとして、当局者に向つて移住の機会を与へてくれと懇請してゐるのだから、その熱意といひ、態度といひ、知識階級再建、知識人再出発の典型のやうなものだらう。

 ▼山田清三郎氏は、自分はこれまで左翼的文章と口舌とで生きてきたが、いまこゝに転向更生して新しい実践に移るのだと、その更生の目標を大陸建設にをいたわけだ。それはいゝとして、その『現地生活を志願するの書』なるものは、だらだらと書き流した一種の懺悔文であり、自己告白たつぷりなもので、所謂転向者気質にぴつたりとはまつたものだ。

 ▼世には一言の声明書も、『志願するの書』も書かずに、黙々として大陸に移住して行つた良民もある。山田氏にして真に大陸に住みたいのであつたら、長たらしい志願文を書くまでもなく、実践的に彼地に赴くべしである。でなければ遂に口舌の徒に終るだらう。山田氏あたりが先導で作家移民団を引率して出かけてはどうか。

 ▼たゞこゝに不思議な現象は、これらの政府の大陸政策に、関心をもつものや、積極的な参加者が、所謂知識人側では、山田氏を始め思想的転向者が多いといふ事実である。一般知識人は、その無関心の故に消極的であるといつて本多顕彰氏に責められていゝかどうか。見掛けだけの積極性も知能の欠如の証明といふことにならぬかどうか。本多氏よ、『思想転向者の積極性の本質』も序でに論じてもらひたい。



政治への媚態 島木健作氏へ一言


 ▼最近、農林大臣と農民作家との懇談を始めとして、これに類した作家と政治家との、文化工作的触れ合ひの機会が非常に多い、両者の協力がまだ試験済みでないといふ意味でも、世の批評家、評論家は、批評的協力といふ見地から、この問題をもつと盛んに採り上げていゝはずである。

 ▼ところが『国策に沿つてゐること』に対して語ることが罰でも当るかのやうに沈黙をまもつてゐる、我国の政界でも、まだ党派性が認められてゐて、批判の自由が保留されてゐるのに、最近の作家の畑では、政界の馴れ合以上に、お手々をつないだ超党派的な仲の善さである、国策が全体主義的な方向にむかひつゝある――といつただけで、作家は現実が全く全体主義化したかのやうにそれに対してポーズを示す。

 ▼島木健作氏などは最も逸早く、その全体主義的な意思表示をしたが、彼は農民文学者だけでは農民文学ができないから、農村問題に関心をもつ、すべての人々の協力の必要性を説き『そして関心の持ち所は共通だから、この協力は可能なのだ――』といつてゐる、どこから割り出して、農村問題に関心をもつてゐるすべてのものが共通だなどといふことができるのか、強ひてその共通のものを軍人、政治家、商人、作家等から、島木式に求めるとすれば、これらの個々の人々の、それぞれの中から、或る『均等に』含まれてゐるものに、共通性といふ名前をくつつけて、それと結びつく以外に方法はないのである。

 ▼農村問題の関心の持ち所などが、農民文学を生むのではない、農村の現実が農民文学を生むのである、本質的に言へば、農村問題に最も関心をもつてゐるものは農民以外にはないのだ、殊に共通性で結びつけられた、所謂農村問題の『取り巻き連』では農村の本質の解明は不可能である、わけても文学の場合にはその特質があり、作家がそれを見失ふときは、政治家との接触の限りで、文学者の媚態以外の何ものでもないであらう。



神話の擁護 高沖陽造氏へ一言


 ▼高沖陽造氏は新潮新年号で『神話の時代』を論じてゐる。二十世紀の神話は、たしかに現代的テーマではある。しかし高沖氏がこの問題をどんなに解答したところで、問題の出発そのものに一つの神秘化があるといふことを正しく認識してかからなければ無駄である。

 ▼高沖氏のやうに『神話』を論ずるにあたつて可能なものだけを引つぱり出してきて、可能なことをしやべるが、現実的なことを少しも証明しないといふ結論に陥る位なものだ。

 ▼『神話の時代がきたときに、世界観の時代が終つた』と高沖氏はいふが、氏のこゝで理解してゐる世界観なるものの解釈は頗る怪しいものである。氏は新しい神話の登場と擁護をもつて、従来の世界観の歴史的継続を、こゝのところで遮断し、否定しようとしてゐる。

 ▼何故高沖氏は、旧来の世界観にとつて代[#「代」は底本では「変」と誤記]るものが神話であつて、世界観でないなどと言はないで、神話と称する『新しい世界観』だと言ふことができないのか――、高沖氏の世界観否定の理由は『普遍的世界概念の成立しないところに世界を総体的に理解するところの「世界」観の成立しよう筈がない――』といふ。

 ▼『成立しないところ』とか『成立しようはずがない』などといふ決定的なものの言ひ方は、高沖氏が神話を理由づけるところのコジつけ以外の何物でもない。一方が一方を否定するといふ主観的状態だけで、一方が成立しないとか、成立しなくなつたとか、考へるのは独断といふものである。

 ▼『神話と科学との対立も、全民族が『法則』を承認しさへするならば、神話のうちに科学が包摂することができる――』などといふに至つては、この理論家もまた『法則』の助け太刀で、うつらうつらと夢をみようといふわけでお伽話以上である。文学雑誌に掲載されたからいゝやうなものの、高沖氏よ、この神話の問題を科学者にどんな扱ひをされるか、一度科学雑誌にでも掲載して見給へ。



謙虚となれ 従軍作家達に望む


 ▼最近の従軍作家の言説をみると、すこし許りヒガミすぎてゐるやうだ、これらのヒガミの多くは、戦地に行つてきたからといつて、いま早急にすぐれた戦時文学が生れはしないといふ自己弁護が多い、同時にこの人々が引き合に出す言葉には、軍当局が従軍作家に傑作を書くことを強請[#「請」に「ママ」の注記]しなかつたといふことである。

 ▼軍当局が「従軍作家よ、まあ焦らずに悠つくりと先に行つてから傑作を書くさ――」と言つたとしても、それを早呑込してはいけない、従軍作家はどうも軍部の親心や、軍部の真意を解してゐないやうだ。

 ▼戦場とは、鉄砲を打ちあふところで、決して作家の書斎をもちこむところではない、それにも拘はらず、軍当局が、多忙な戦時勤務の中で、火野葦平に数々の戦争物を書かせ、それを発表させるといふ自由を与へてゐるといふ事情を考へてみても判ることだ、それは作家の動員といふ、急迫した現実を語るもので、よくよくのことだと思はれる、尻に火がついたやうに火野が書きまくつてゐるのに、一方には「傑作は後でもいゝ」といふクレヂット付の従軍作家がゐるのは少し贅沢ではないのか、軍部と従軍作家との間の事情は知らない、一般読者が従軍作家に求めるものは、戦争のある間にすぐれた戦争文学をみせてほしいことである。

 ▼細田源吉氏などは、「時局ものを書けば、キハモノだといつてその努力の何ものであるかさへ考へてみない不親切極まる寸評の横行は、これこそ時局身中の虫けらである――」といつてゐるが、それは少しヒガミ過ぎである、最近従軍作家が妙に「大所高所に立つてゐるのだ」とか「時局身中の虫けらだ」とか、第三者に向つて嵩[#「嵩」は底本では「笠」と誤記]にかゝつた言ひ方をするやうであるが、従軍作家がさういふ高飛車な態度でゐる間は寸評家の跡は絶えないだらう、時節柄作家は、特に従軍作家は、謙虚な態度であるべしだ、さうでなければ人間味の強い時局ものは書ける筈がないと思ふが如何――。



文壇の警官 阿部氏の頽廃取締役


 ▼改造新年号の『文化時評』で阿部知二氏が事変下に於ける国民の『頽廃、享楽面』を取締る政府のやり方に就いて意見を述べてゐる。阿部氏に言はせれば『人間の愉楽への本能を根絶し得ぬかぎり、長期に渉る根本的方法は、その愉楽の質を向上させる他になく――』といつてゐる。しかしかういふ言ひ方は、阿部氏が作家でなければ通用する言ひ方である。

 ▼『本能の根絶』とか『愉楽の質の向上』などといふものが、いつたい出来ることなのか、出来ないことなのか、阿部氏は文章ではことも無げに書いてはゐるが、阿部氏自身そのことを本気で考へてゐるのか、どうも疑はしいものがある。更に阿部氏はつづけて『それには取締形式の整備のみでなく、一般民衆の社会連帯の観念を高めることが必要とする』とおつしやる。御もつともさまである。しかし阿部氏は考へ違ひをしてゐるやうだ。政府のとつてゐる方法は、一般民衆の社会連帯の観念を高めるために――の取締形式の整備といふ方法なので、これは唯一の方法で、これ以外に何ものもないといふことに、氏は考へついてゐない。

 ▼巡査講習所を出たての、ホヤホヤのお巡さんでも、社会政策に対しては阿部氏よりも、もつと具体的な意見をもつてゐさうである。こゝに良い見本がある。所謂丹羽物といはれた頽廃もので売り出した丹羽文雄氏が、あだかも自分が女性主義者でないことを証明するかのやうに、甚だ男性的な『勇ましい小説』を書いてゐることである。我々がこれまでの丹羽に期待してゐたのは、人間心理の機構の崩壊してゆく過程を、生々しく描いてほしいことであつた。ここに丹羽は頽廃物から脱して所謂阿部氏の求めるところの『社会連帯の観念を高めるために』軍事物に転向したことは慶賀の至りだ。そして阿部氏そのものは文学に於ける頽廃、享楽面の取締りのために私設警官となつたわけである。



政変的作家 一つの幻滅悲哀か


 ▼最近『某々氏、農民文学懇話会の委嘱により××地方に旅行』といつた文芸消息が数々と現れる、『委嘱』に依りとか『嘱託』によりとかいふ、作家活動をさういふ形で報道されたことは我国文壇近来稀有の現象であらう。これが官報に掲載され、出張旅費稼ぎでもできれば申分なからう。

 ▼作家の生活行動を、その好むと、好まざるとに拘はらず、他からの制約によつて規定されるといふことに対して、作家はもつと敏感になつても良ささうなものである、政治と作家との関係を考へてみても、政治そのものが果す理性的役割といふものは、一部の作家達がわいわい言ふほど、大したものでないことは、世界の政治史が雄弁に語るものだ。

 ▼政治は機構であつて、全体的結論を問題とされなければならない、作家は自らそれと立場を異にするところに、作家の独自な立場があるので、委嘱に依つて農村を走りまはるのもいゝが、作家はもつと意志の表現の単位としての、個人の事業といふものに執着していゝ筈である。

 ▼見給へ、有馬賞の設定も、これを設けた有馬氏が政治的人物であればあるほど、氏が一夜の政変によつて、内閣から去つたことに依つて『有馬賞』なるものの本質また一夜にして変化したのである。従つて農民文学懇話会員作家諸君は、一般的意味に於ける農民小説を書くよりも、近く産組中央会々頭に就任すると噂される有馬氏のために産組小説を執筆する機縁を今後恵まれるだらう。

 ▼政治家の個人的な意志などは、政治のメカニズムの中で働すことが如何に微弱で頼りないかを政治家自身がよく御存知なのに、それを取巻く作家が、何かさういふものに頼らうとする、政治家にとつて最大の幻滅は『政変』だが、近来の作家の中には政変から政変の間をさまよふ陣笠的作家の現れるのも、これまた文壇の一つの幻滅悲哀であらう。



翻訳界の危機 原物歪曲の懺悔多し


 ▼翻訳家の良心を、近頃いちばん感じさせた文章は、中公作年十二月号の土井虎賀寿氏の『翻訳論覚書』だらう。この文章を読んで感じられることは、翻訳の世界にも、相当に心理主義、懐疑主義の影が濃くはいりこんできたといふことである。

 ▼原書を読めなくて、翻訳にだけ頼つてゐる読書人達が、もしこの文章を読んだとしたら、翻訳家の態度のアイマイさに、暗澹となる筋合のものだ。土井氏の考へ方では、原書を翻訳するといふことを『原物歪曲』といふ風に解してゐる。その馬鹿丁寧で、良心的な態度は悪くはないが、原書を『原物』とみるといふ考へ方そのものは、神社から借りてきた原物的御神体を、内証でそつと模造するやうな、神秘的懺悔で原書なるものに接してゐることで滑稽極りない。

 ▼その非科学的態度、心理的かさ[#「かさ」に傍点]かぶりの翻訳家に対しては、しつかりし給へと冷水の三斗も頭からかぶせて覚醒させてやりたいものである。

 ▼いま翻訳家達は、原書をそのまゝに伝へることの絶望に到達し、日本的歪曲を避ける為に苦しんでゐる一派と、それに対して出来るだけ日本的な原物を把握して、焦点方向線を世界文化に提供する義務があるとする一派と、二大別することができるだらう。そして両者共理窟はともかくとして、原書は原書のまゝ翻訳することはできないといふ、諦めの精神に立つてゐることは同じである。

 ▼さうした翻訳界の危機に際して、『キュリー夫人伝』はこれまた朗らかな翻訳風景である。川口篤、河盛好蔵、杉捷夫、本田喜代治の共訳で、誰がどのやうな分担をしたのかさつぱり判らないが、たかだか六百数十頁の本を四人で突つき合ふといふ、共訳の意義が奈辺にあるか、これまたわからなくなる。



悩み果てなし 農民小説と徳永の作


 ▼農民小説と銘打たれてゐる作品の大部分が、その内容や表現の、泥臭さ、野暮臭さの点でだけは『農民もの』らしいが、さつぱり農民生活の本質にふれてゐないことは久しいものだ、何とか稀にはスッキリとした農民小説でも現はれて、読者を解放して欲しいものだと思ふが、それがない。

 ▼我々の見るところでは、農民作家と自称する連中の、勉強不足は眼立つものがある、農民の封建性と共に棲むといふことが農民作家だといふのであれば議論がないが、作家として高い客観性から、現在の日本の農民生活を、如実に描き得るといふ第一の資格は、その作家の政治的水準の高さ――それが是非とも必要なのである。

 ▼見渡したところ誰が、さうした政治的観点から、農民生活を描き、描かうとしてゐるか、農民作家の人材の乏しさは、目立つて心細いものがある。

 ▼農民小説や、戦争小説は、取つ付き易く、組み敷き難いものの最大なもので、これらをテーマに扱ふ作家は、幾多の難問題を控へて、よほどハッキリした頭の持主でなければ、所謂農民の家常茶飯事的物語りの作り手以外になることは不可能だらう。

 ▼徳永直の『先遣隊』(改造二月号)は、大陸物で、移民先で郷愁にかゝつた青年が退団して、郷里に帰り、周囲の白眼視の中にゐたが、相愛の女が渡満することになつたので、彼も再び渡満するといふ筋で、美事なハッピイ・ヱンドで結んでゐる、農民小説も、こゝに国策的な大陸移民ものが加はつて、悩みが新しく一枚加はつたわけだ、日本のインテリ映画ファンは、アメリカもののハッピイ・ヱンドを曾つて極度に軽蔑したものであつた、物語りの過程がいかにリアルであつても、終り楽しければ、そこの部分だけで、大きく相殺されるといふことを、徳永が多少野暮でない、明るい農民物で如実に示してゐると言ふべきだらう。



手遅れの感 本多顕彰氏の激憤


 ▼新潮四月号は『小説の政治性と芸術性の問題』の課題で、本多顕彰、富沢有為男、保田与重郎、伊藤整の四氏が評論をかいてゐる。

 ▼これらを読んで感ずることは、作家、評論家にも、いよいよお灸が利いてきたらしいといふことだ、これは四氏のみに当てはまる言葉ではないが、事変下の大方の作家、評論家は、情勢に応じて、作家行動も、かなりいい加減な合理化をやつて、心理生活の間に合せをやつてきたものが、こゝへ来ては、いよいよモグサの熱さから、肉体の熱さに移つてきて、その言説も、いやでも実感を帯びないわけにはいかなくなつたやうだ、新潮の評論四氏何れも甚だ実感的文章である。

 ▼なかでも本多顕彰氏は『も一つ前の問題』といふ題下に、近来の大激憤を洩してゐる、彼の論旨は、政治家に要望して『政治が文学に話しかける時、政治は己れの中のヒューマニズムを省みなくてはならない――』といふのである。

 ▼しかし考へても見よ、本多氏のいふ政治の中のヒューマニズムなどとは、いつたいどんな姿恰好をしたものを指していふのか、これまで政治が政治自身の中のヒューマニズムなどを、只の一度も論じたり検討したりした証しでもあるといふのか、一方文学者にしても文学自身のヒューマニズムを論じたことはあつたが、政治の中のヒューマニズムなどに、これまで関心をもつたり、論じたりしたこともあるまい。

 ▼情勢がこゝまで進んできて、政治家と文学者との接触の機縁を得た途端に、本多氏が『政治の中のヒューマニズム』なるものを大慌てに論じようとしても、それは単なる応急処置的なヒネリ出し理論にとゞまるだらう、政治と文学との連結に関しては、既に手遅れだといふことを本多氏はもつと痛感し、発表する文章が、満身創痍の伏字だらけの文章で書かないだけのこの際特に冷静さを必要とするだらう。



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