小熊秀雄全集-14
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著者名:小熊秀雄 

 いまでも雀の嘴(せ)のあたりの黒いのはこのとき墨の容物(いれもの)を投げた、墨が垂れてついたもので、羽にぽつ/\と、黒い斑点のあるのは、墨の散つてついたのだといふことです。
 母親はアマム・エチカッポの孝行に感じて
『お前は、一生のうち、アマム(米又は粟)[#底本の『米又は粟』から変更]を喰べて暮らしなさい。』と言ひました。
 そして親不孝のイソクソキには
『お前の不孝者には[#「お前のような不孝者は」か?]、一生涯腐つた木を突ついて、虫をお喰べなさい。』と言ひました。
 それからと言ふものは、雀は清浄(きれい)な米や粟を、啄木鳥は、腐れた木から虫を探して喰べるやうになりました。
 今でも愛奴(あいぬ)達は、余り家のちかくの樹に、イソクソキが来て、虫を探すことを喜びません、そして灰をまいてこの不浄な鳥のちかよつたことを、清める習慣があります。(大14・11愛国婦人)

珠を失くした牛
    一
 森の中の生活は、たいへん静かでおだやかでした。誰もむだ口をきいたり喧嘩をしたりするものがありませんでしたから、ながいあひだ平和な日がつづきました。
 すると或る日のことです。どこからか一匹の野牛(のうし)が、この森の中にやつてきました、そして誰にことはりもなく、どしりと大きな体を草の上に横にして草をなぎ倒し、かつてに棲家をつくつてしまつたのでした。
『ほつほホ、あなたは何処から、やつてきましたか』
 森の支配人をしてゐる、白い鳩は、かう優しく杉の木の枝の上から、この野牛にたづねかけますと、野牛は大きな首をふいにあげて
『なんだ、小癪なチビ鳩め、どこからやつて来てもいゝぢやないか。けふから俺様が森の支配人だ』
 とそれは雷のやうな、大きな声でどなりつけ、火のやうな鼻呼吸(はないき)を、ふーつと鳩にふきかけましたので、
『ほつほホ、これはたいへんなお客さんが森へやつてきたゾ、ほつほホ』
 かう驚ろいて、鳩は逃げてしまひました。
 ところが、この野牛はたいへんな、あばれ者で、二言めには、熱い/\鼻呼吸をふきかけて、とがつた角をふり廻しますので、森のけものや鳥や虫達は、怖ろしがつて、誰も交際をしないのでした。
 そのうへ、それはおしやべりで、あることないこと、を言ひふらしますので、誰もみなめいわくをいたしました。
 野牛は、みなの者が、自分を怖ろしがつてゐることを、よいことにして、毎日のやうに森の中をあばれまはりました。
 それで、森の者達は会議を開いて、この乱暴者を追ひだす方法を、いろいろと考へてみましたが、対手(あひて)の野牛は力も強く、角も刃物のやうに、とがつてゐるので、とうてい自分達の力の及ばないことがわかりました。
 そこでこの森でいちばん智恵者である人間のところにでかけて行き、色々と相談をいたしました。
 森の中に住む人間といふのは、親子の樵夫(きこり)でしたが、これをきいて、
『それは困つたことですね、あの強力者(がうりきもの)を、この森から追ひ出す方法はありませんよ、それでみんなが、あの野牛に対手にならなければ、しまひには、この森にもあきて、どこかに行つてしまふでせうから』
 と言ひました。

    二
 野牛は、大威張りで森を荒しまはりましたが、たつたひとつ野牛が、いまいましくて、たまらないことがありました。
 それは、けものや、鳥や、虫などはすつかり自分の家来にしてしまひましたが、樵夫の親子だけは、どうしても征服をしてしまふことができなかつたからでした。
 いつか折があつたら、この親子の人間も、自分の家来にしてやらうと考へてをりました。
 或る日、森の中の日あたりのよいところで、樵夫の父親が、二抱へもあるやうな、大きな杉の樹を、ごしり/\とひいてをりました。
 すると其処へ野牛がやつてきました、そしていかにも自慢さうに、ながながと自分の身の上話をはじめました。樵夫は、たいへん仕事の邪魔になつてこまりましたが、のこぎりを引く手を止めずに、ごしり/\と樹を伐りながらその話をきいて、すこしも対手になりませんでした。
 野牛は、なが/\としやべつてをりましたが、大きな杉の樹の根もとが、七分どほり伐つたころに、不意に力いつぱい、両方の角で押しましたので、あつと言ふまに、杉の大木は樵夫の方に倒れかかつて、かはいさうに、樵夫の父親は、ぺつちやんこに、樹の下になつてつぶれてしまひました。
『モーモー、この森は、おれの天下だ。おれは野牛大王だ』
 悪い野牛は、後肢(あとあし)で土(どろ)を蹴りながら、大喜びで逃げてしまひました。
 森の小鳥が、この出来事をさつそく山小屋に留守居をして居りました、樵夫の子供に知らせましたので、子供はびつくりして馳けつけました、子供はどんなに悲しんだことでせう。
 けだものや、鳥達も、みな寄り集つてかなしんでくれました、そして悪い野牛を憎まないものは、ありませんでした。
 その日、樵夫の子供は、かたばかりのお葬式(とむらい)をして、父親を、森の小高いところの土(どろ)を掘つて埋めました。
 この父親を埋めた土(どろ)のちかくに棲んでをりました一匹のこほろぎが、たいへん樵夫の子供に同情をして、きつと私が仇討(あだうち)をしてあげますからと親切になぐさめてくれたのです。
 その翌日(あくるひ)、森の中で盛大なお話の会がひらかれて、いちばんお話の上手なものを森の王様にしようといふ相談をしました、これをきいた野牛は、まつ赤になつて怒りながら、会場にかけつけて
『この俺を、のけ者にして相談をするとはけしからん、誰がなんと云つても俺は大王さまだ』
 と叫びました。
 支配人の白い鳩は、まあまあと野牛をなだめつけて、
『それでは、これからお話の競技会を始めます。』
 と一同の者に、開会の言葉を申しました。野牛は、けふこそ、得意のおしやべりで、みなのものを負かして、王さまの位についてやらうと考へました。

    三
 四十雀(しじゆうから)、蛙、カナリヤ、梟、山鳩、木鼠(もづ)、虻やら、甲虫、蚊など、どれも得意の話ぶりでしたが、おしやべり上手の野牛には、どうしてもかなひません。それで野牛はますます得意になつて、しやべりだしました。
 すると何処からともなく、
『さあ老ぼれ野牛、こんどは俺さまがお相手だ』
 とさんざん野牛にむかつて悪口を言ふものがありました。
 みるとこの悪口の主(ぬし)は、それはちいさな、一匹のこほろぎでありました。
 そのこほろぎは、野牛に殺された樵夫の父親が、杉の大木を半分伐りかけて、やめてしまつた、樹の切り口の奧の方にはひつて、さかんに野牛の悪口を言つてゐるのでした。野牛は烈火のやうに怒りました。
『ぢやあ、チビこほろぎから始めろ』
『よしきた、老ぼれ野牛、さあ俺さまから始めるぞ。昔々あるところに、お爺さんとお婆さんとが住んでゐたのだ。お爺さんがあるとき山へ柴刈りに行つた、どつさりと柴を刈つてさて山のてつぺんで、お昼のお弁当をひらいた。おばあさんの、心づくしの海苔巻(のりまき)の握り飯を、頬ばらうとすると、どうしたはずみか握り飯を手から落した。握り飯は、ころころと転げた、ころころころ/\ところげた、山のてつぺんからふもとをさして、いつさんに、ころころころころころころ/\ころころ』
『ころころころころ、ころころころ』
 さあその『ころころ、』の長いことがたいへんです、こほろぎは、それは美しい調子をつけて、いつまでも/\、『ころころ』と鳴きだした。
『おい/\こほろぎ奴(め)、まだその握飯がころげてゐるのかい』
『まだまだだ、握飯はいまやつと、丘を越えたばかりだ、お爺さんは、一生懸命その後を追ひかけてゐる、握飯はころころころころころころころころ』
 その日は、夜(よ)をとほして、こほろぎは、ころころと話し続けました。その翌日(あくるひ)も、その翌日も、いつになつたらその話を止(や)めるか、わかりませんでした。
 野牛は、とうとう腹をたててしまひました、こほろぎを、その角で、ただ一突きに突き殺してやらうと思ひましたが、樹の切り口の奧のところに、こほろぎがゐましたので、それもできませんでした。野牛はますます腹をたててこんどは、切り口に、長い舌をぺろりといれて、こほろぎを捕(つかま)へようといたしました。
 そのとき、傍にゐました、樵夫の子供は『占(しめ)た』と、切り口にさしいれてあつた楔を手早く抜きましたので、野牛は切口に舌をはさまれてしまつたのです。
 森のみんなは手を拍つて笑ひました。
 野牛のとがつた角は後(うしろ)の方にまがり爪がふたつに割れるほど、あばれてみましたが、舌はぬけませんでした、はては大きな声で泣きながら、
『モーモー、おしやべりをしませんから。モーモー悪いことをしませんから』
 とあやまりましたので、樵夫の子は野牛の口のなかから、おしやべりの珠をぬきとつて、とほくの草原になげてしまつてから野牛をゆるしてやりました。
 野牛は、泣く泣く森を逃げだしました。
 あの真珠のやうな、小さな言葉の珠を失くしてしまつてから、牛はもう言葉を忘れてしまひました。
『たしかこの辺だつたと思つたがなあ』
 牛は野原の草の間を、失くした珠を探して、さまよひました。
『モーモー、おしやべりをいたしません、モーモー』
 牛はそれから、こんきよく野原の青草を口にいれて、ていねいに噛みながら、失くした珠を探しました。(大15・2愛国婦人)

お月さまと馬賊
    一
 ある山奥の、岩窟(いはや)の中に、大勢の馬賊が住んでをりました。ある日、馬賊達は、山のふもとの町へ押しかけて、さんざん荒しまはつた揚句、さまざまの品物を、どつさり馬に積んで引揚げてまゐりました。
 馬賊達は、山塞(さんさい)でさつそく、お祝ひの酒盛りを夜更(よふ)けまで賑やかにやりました。歌つたり騒いだりして、馬賊達はすつかり酔つぱらつて、やがて部屋の中の、あつちにも、こつちにも、ごろりごろりと、魚のやうに転ろげてねむりました。馬賊の大将も、たいへんいゝ気持になりました、そしてあまりお酒を飲んだので、顔が火のやうにほてつて、苦しくてたまらなかつたので、冷めたい夜の風にでも冷やしたなら、きつと気持がよくなるだらう、と考へましたので、山塞の扉(と)をひらいて戸外(そと)にでてみました。
 戸外(そと)は、ひやひやとした風がふいてをりました、それにその夜(よ)は、それは美しいお盆のやうな銀のお月さまが、空にかかつてゐたものですから、地上が昼のやうにあかるかつたのです。
『なんといふ、きれいなお月さんだらうな』
 馬賊の大将は、お月さまの、すべすべとなめらかな顔と、自分の頤髯のもぢやもぢやと、蓬(よもぎ)のやうに生えた顔とをくらべて考へてみました。
 それから馬賊の大将は、裏手の厩(うまや)の中から大将の愛馬をひきだしてきて、それにまたがりました。そのへんは山の上でも、平らな青い草地になつてをりましたので、馬賊の大将は、どこといふあてもなしに、馬にのつたまま、ぶらり/\と散歩をしました。
『けふは、お前の勝手なところにでかけるよ。』
 大将はかういつて、馬の長い頸を優しく平手でたたきました。
 馬はいつもならば、荒々しく土煙をあげて、街中を狂気のやうに馳け廻らなければなりませんのですが、その夜(よ)は主人のおゆるしがでましたので、気ままに、柔らかい草のあるところばかりを選んで、足にまかせて歩るき廻りました。
 大将は草の上に夜露がたまつて、それが青いお月さまの光に、南京玉のやうに、きらきらとてらされてゐる、あたりの景色にすつかり感心をしてしまつて、どこといふあてもなしに歩るきまはりましたが、やがて飲んだお酒がだいぶ利いてまゐりますと、とろりとろりと馬の上で、ゐねむりを始めました。とうとう馬賊の大将は、鼻の穴から大きな提灯をぶらさげて馬の頸にしがみついたまま、すつかり寝込んでしまひました。

    二
 ふと大将が眼をさましてみますと、自分は馬の背から、いまにも落つこちさうになつて眠つてをりました、
『おやおや、月に浮かれて、とんだところまで散歩をしてしまつた。』
 かう言つて、大将はぐるぐるあたりを見廻しますとそこは、やはり広々とした青草の野原で、あひかはらずお月さまは、鏡のやうにまんまるく下界を照らしてをりました。
 しかし山塞と、だいぶ離れたところまで、きてをりましたので、馬の首をくるりと廻して帰らうといたしました、そして何心なく下をみると、そこは崖の上になつてゐて、つい眼したに街の灯がきらきらと美しく見えるではありませんか。
 すると馬賊の大将は、急に荒々しい気持に返つてしまつたのです。
 そして大胆にも自分ひとりで、この街を襲つてやらうと考へたのです、馬の手綱をぐい/\と引きますと、いままで呑気に草を喰べてゐた馬も、両眼を火のやうに、かつと輝やかして竿のやうに、二三度棒立ちになつてから、一気に夜更(よふ)けの寝静まつた街にむかつて、崖を馳けをりました。
 そして馬賊の大将は、街の一本路を、続けさまに馬上で二三十発鉄砲をうちながら、馳け廻りました。それはかうたくさんの鉄砲をうつていかにも、大勢の馬賊が押しかけてきたやうに街の人々に思はせるためでした。
 はたして街の人々は、大慌てに、そらまた馬賊が襲つてきたと、皆ふるへながら、押入れの中やら、地下室やらに逃げこんで小さくなつてをりました。
 大将は家来もつれず、たつた一人の襲撃ですから、あまり深入りをして失敗をしてはいけないと考へましたので、鉄砲をうつて、街の人々をおどかしてをいてから街の場末の二三十軒だけに押し入つて、いろいろの宝物を革の袋に三つだけ集めました。それを馬の鞍に二つ結びつけ、自分の腰に一つつけて、さつそく引き揚げようといたしました。
 ところが一番最後に押し入つた家(うち)は、一軒の酒場でありましたが、酒場の家の人達は、大将が押し入つてきましたので、驚ろいて奧の方に逃げこんでしまひました。
 馬賊の大将は、がらんとして誰もゐない酒場に、仁王だちになつて、髯を針金のやうにぴんぴん動かしながら
『さあ、みんなお金も宝物(はうもつ)も出してしまへ。』
 と叫びましたが、酒場の中はしーんとして返事をする者もありません。
 ふと棚の上をみますと、そこには、青や赤や紫や、さまざまの色の酒の甕がづらりとならんで、ぷん/\とそれはよい匂ひを大将の鼻の穴にをくつてきましたので、大将は『これはたまらん』と、この大好物を窓際のテイブルの上に、もちだして、ちびりちびり飲みながら、窓からお月さまをながめて、ひとやすみいたしました。

    三
 馬は窓際に立たしてをきました、それは、もしも大将を捕へようと、街の兵隊が押しよせてきたときには、大将はひらりと窓をのり越えて、馬の背にまたがつて、雲を霞と逃げてしまふ用意であつたのです。ところが酒場の人の知らせで街の馬に乗つた兵隊が百人ほど、一度にどつと酒場に押しよせてきたときには、大将はひらりと、得意の馬術で、逃げだすどころか、あまりお酒をのみすぎて、上機嫌で月をながめてゐましたので、それは苦もなく兵隊にしばられてしまひました。
 そして馬賊の大将は、首を切られてしまひました。
 一方馬賊の山塞では、いくら待つてゐても、大将が山塞に帰つてきませんので、家来達はたいへん心配をいたしました、さつそく四方八方へ手別(てわ)けをして、大将をさがしましたが、その行衛(ゆくゑ)がわかりませんでした。
 一人の大将の家来が、或る街の処刑場(しをきば)の獄門の下を通りかかるとおい/\と家来を呼び止(とめ)るものがありました。ふと獄門の上を見あげますと、獄門の横木の上に、行衛(ゆくゑ)不明の馬賊の大将の首がのつてゐるではありませんか。
『おや、これは大将、なんといふ高いところに、家来共は夜(よ)の眼も寝ずに、あなたさまの行衛(ゆくゑ)を探してを[#底本の「お」を「を」に変更]りましたのに。』かう言つて獄門の首を、家来は見あげました、すると大将の首は、たいへん不機嫌な顔をしながら『つくづくと、わしは馬賊の職業(しやうばい)がいやになつた。山塞に帰つて、みなの者に言つてくれ、大将は、たいへんたつしやで、毎日陽気に月見をしてゐるから、心配をしないでくれ。たまには人間らしい風流な気持になつて、この大将を見ならつて、酒でものんで月でもながめる気はないかとね。』
 大将は、獄門のうへで、二日酔のまつ赤な顔をしながら、かう言ひました、そして陽気に月をながめながら歌をうたひました。
 切られた大将の首は、酒場でたらふくお酒をのみましたので、なかなか酔がさめませんでした、そして毎日のやうに、月をながめながら歌をうたひました。
 すると或る日、獄門の横木の大将の首のつい隣りのところに、新らしく切られた首がひとつのつかりました、そして大将の首に話しかけるではありませんか。それは馬賊の家来の首であつたのです。
『わたしも、すつかり悪心を洗ひ清めて、月をながめるやうな、風流な男になりましたから』
 かういつて、ぺこりと家来の首はお低頭(じぎ)をいたしました。
 大将の首も、喜んで、そこで二人が合唱をやりました。
 するとまたその翌日新らしい馬賊の首が一つ獄門の横木にならびました、そして、それから十日と経たないうちに、山塞の馬賊の首がづらり[#底本「ずらり」を修正]とならんでしまつたのです。
 それは人を殺したり、お金を盗つたりする悪い心が、みなお月さんをながめるやうな、風流や優しい心になつたからです。そして一人一人山奥から街の酒場にやつてきては、お酒をのんで兵隊に首を切られたからでした。
 そこで大将の首は、家来の首のづらり[#底本「ずらり」を修正]とならんだ、まんなかで、長い頤髯をぴんぴんと動かして拍子をとつて、にぎやかに合唱をはじめました。
 どれもどれも、いずれ劣らぬお酒に酔つた、まつ赤な顔をして、大きな声を張りあげて、浮かれて歌をうたふものですから、その賑やかなことと言つたらたいへんでした。
 街の人達は、夜どほし馬賊の首達が合唱をいたしますので、やかましく眠ることができませんので、兵隊に、あの沢山の首をなんとか、始末をしてくれなければ困りますと申し出ました。
 そこで兵隊は、あまりたくさん獄門に首がならんで、後から切つた罪人の首の、のせ場もなくなつたものですから、処刑場(しをきば)の広場のまん中に、大きな穴を掘つて、その中に首を投りこんで、上からどつさり土をかけてしまひました。
 それからのち、馬賊の首達は、月見の宴(えん)をやることもできなくなり、酒の酔もだんだんとさめてきたので、たいへんさびしかつたといふことです。(大15・6愛国婦人)

三人の騎士
    一
 三人の若い騎士が、揃つて旅をいたしました。筋肉のたくましい、見るからに元気な騎士は黒い甲冑を着てをりました。背のひよろ/\と高い騎士は白い甲冑を、いちばん痩せこけて小さい騎士は青い甲冑を着てをりました。
 この三人の騎士は、目的地である王城のある街へ、せつせと旅をつゞけてをりましたが、三人の住んでゐた街から、王城までは、かなりの里程(みちのり)がありましたし、それに広々とした野を横切らなければなりませんでした。
 騎士達の住んでゐた街の、いたるところの街角に奇妙な木の札(ふだ)が建てられたのは、ついこの間のことでありました。
 それはこの国でいちばん勇ましい騎士に王様が、たつた一人よりない可愛い王女をくれるといふ、立字(たてじ)が書き綴られてあつたのです。
 もと/\この国の王様には、王子のないことを臣民は知つてをりました。
 それで若い騎士達は、争つて王城をさして押しかけました。美しい王女さまを貰つた上に、この国の王様の世継となつて、やがてはおびたゞしい土地と、人民を統御することを想つては、若い騎士達はじつとしてゐることができませんでした。
 そしてぞく/\と押しかけた騎士達は、王宮の前庭にたくさん集りました。
 たゞ騎士達は、この多数の自分達の仲間から、たつた一人の幸福な候補者を王様はどんな方法で、お選びになるかといふことが、だれにもわかりませんでした。
 王様の御前で、勇ましい真剣勝負をするのか、または闘牛の技競(うでくら)べをするのやら、馬術をおめにかけるのやら、さつぱりわかりませんでした。
 この三人の騎士達も、この思ひもかけない幸福にめぐり合ふとして旅をつゞけてゐる若者でありました。
 三人の騎士達が、野原のまん中までやつてきたときに、とつぷりと日が暮れてしまひました。
 黒い騎士は、こんなに日が暮れては路(みち)がわからないから野宿をしようと、二人の騎士にむかつて言ひました。
 ところが後の二人の白い騎士と、青い騎士とは、明るいうちは、それは強さうなことを言つてをりましたが、とつぷりと日がくれてしまつては、急に怖気(おぢけ)がついて一歩も馬の足をすゝめることができなくなりました。
 それにこんな野原のまんなかに野宿などをしては、さびしくて堪らないと考へましたので、黒い騎士に反対をしてとにかく、行けるところまで馬を進めようと言ひました。
 しかたなく黒い騎士は、二人の言ふ通りに、夜どほし歩くことにいたしました。
 白い騎士と、青い騎士は、頭上をとぶ名も知れない怪鳥の叫び声にも、しまひにはふるへる程の臆病の本性を現はしてしまひました。
 黒い騎士は、臆病な、二人を追ひ立てるやうにはげまし、はげまし路を急いでまゐりますと、ふいに三人の馬の鼻先で、それは大きな法螺の貝の響がいたしましたので、白い騎士と青い騎士とは、驚ろいてきやつと言ふなり棒立ちになつた馬から落つこちましたが、大胆な黒い騎士はさつそく、半弓をもの音のあたりに、ひやうと射放しました。しかし不思議な物音はそれきりきこえませんでした。
 二人の騎士はます/\怖気がついて、果ては一歩もあるくことができなくなりました。
 ところが、ちやうど幸ひなことには、はるか遠くに人家のあかりがひとつ見えましたので、三人はたいへん元気づいて馬をすゝめました。

    二
 広い野原のまんなかに建つた、大きなお寺の、高い窓から、光がもれてくるのでありましたが、そのお寺は久しい間人が住んでゐなかつたと見え、壁は崩れかけて、いかにも古めかしい建物でありました。
 たどりついた三人の騎士は、とんとんと朽ちかけた扉をたゝきましたが、なかゝらは何の返事もありませんでした。
 短気な黒い騎士は、力いつぱい扉をひきましたが、扉はなんの戸締りもなかつたので、それは苦もなくやす/\とひらかれました。
 そこは天井の高い第一の部屋になつてをりましたが、そこの土間には、三つの秣桶(まぐさをけ)と三つの水桶と、三つの毛ブラシと、がちやんと置かれてありました。
 ちやうど、三人の騎手[#「手」に「ママ」の注]の乗つた三頭の馬がやつてくるために、用意をしてあるかのやうでありました。
 黒い騎士はたいへん喜んで、さつそく乗つてきた馬に、水桶の水をやり、秣をやり、ブラシで毛なみをきれいに撫でゝやりましたが、他の二人の騎士達は、あまりのうす気味の悪るさに、たゞ呆然と突立つてをりました。
 それよりも不思議なことには、次の第二の部屋には、一人の女がきちんと膝を組んで坐つてをりました。
 顔色は凄みを帯びたほどに白く、髪を長く後に垂れ、青い上着をきたこの女は、人形のやうに、唖のやうに、坐つてをりました。
『旅の三人の騎士です一夜のお宿をおねがひしたい。』
 かう黒い騎士は、女にむかつて言ひましたが、女は冷めたい大理石のやうに坐つたまゝ、一言の返事もいたしませんでした。青い騎士と白い騎士は、がた/\と震へだしました。

    三
 つゞいてまた不思議な事を発見されました、それは次の第三の部屋には、大きな丸テイブルが据ゑられて、その上には三人前の料理と、三本の葡萄酒とがのつてあり、それに三脚の腰掛の用意まで、ちやんとしてあるではありませんか、大胆な黒い騎士は、
『なんといふ気の利いたホテルだらう。』
 などと平気で無駄口をきゝながら、たらふく料理を喰べましたが、臆病な他の騎士は喰物が咽喉にはひるどころではありません、ます/\震へるばかりでありました。
 次にまた不思議なことには、第四の部屋には、三人分の寝台が用意されてあることでした。
 黒い騎士は平気で、この寝台のふつくらとした羽布団にくるまれてねむりましたが、白い騎士と青い騎士は、寝台の中に小さくなつてをりました。
 すると真夜中頃、とほくからだんだんと騎士の室の方に、ちかよつてくる足音が聞えましたが、やがて、ぱたりと室の前で足音はやみ、音もなく扉が開かれました。
 二人の騎士は怖々そつと頭をもたげて見ますと、それは第二の部屋に、石のやうに坐つてゐた女でありました。
 女は黒い騎士の寝台にちかよつて、小さな聞きとれないやうな声で
『もし/\、太陽の申し児のやうな、たくましい旅の若者。わたしが一生のお願ひがございます。もし/\。』
 かう言つて、なんべんも冷めたい手で黒い騎士の首筋を撫で廻してをりましたが、黒い騎士は昼の疲れで大鼾で眠つてゐるので、女はこんどは白い騎士と青い騎士の寝台のところに近よつてまゐりました。

    四
 夜が明けるのを待ちかねて、青い騎士と白い騎士は、黒い騎士をゆり起して、早々にこの怪しい古い寺院を出発いたしました。
 そして三人は旅を続けましたが、寺院から一里もきたと思ふころ二人の騎士は、前夜の出来事を始めて黒い騎士に物語りました。
 黒い騎士は、前夜の出来事を聞いてたいへん残念がりました、そしてこれから今一度引返して、奇怪な女の正体を見極めてくると、言ひ出しました。
 青い騎士と、白い騎士はそのことにたいへん反対いたしましたが、黒い騎士はどうしてもきゝいれませんでした。しかたなく二人の騎士は、そこで黒い騎士と別れて、一足先に王城にむかつて出発いたしました。
 大胆な黒い騎士は、その日の夕方、野の中の古い寺院に引返してまゐりました。
 扉はなんの苦もなく、ひらかれました。
 第一の部屋には、騎士がたつた一人で引返してくることを、ちやんと知つてゐるかのやうに、土間には、一つの秣桶と、一つの水桶と、が用意され、第二の部屋には、一人分の食事と、第三の部屋には、ものを言はぬ女が坐つてゐて、第四の部屋には一人分の寝台とが用意されてをりました。
 黒い騎士も、さすがに不思議に思ひながら寝床の中にもぐりこんで眠りました。
 果して真夜中頃遠くから足音がしてやがて、その足音は、騎士の室(へや)に忍びこみました。
 騎士は寝息を殺して、じつと様子をうかゞつてをりますと、前夜のやうに
『もし/\、太陽の申し児のやうな、たくましい旅の若者。わたしが、一生のお願ひがございます。』
 と女が小声で言ひました。
 騎士は、やにはに、がばと飛び起きて、しつかりと女の袖を、捕へました。しかし女は少しも逃げようとはせず、窓から戸外をながめながら遠くを指さします、そしていかにも案内をするやうに、自分が先にたつて歩るきだしましたので、騎士は狐につまゝれたやうに、その後について行きました。
 すると女は野原の暗がりを十丁程も先に立つて歩るきましたが、女の着いたところは小高い丘になつてゐました、そしてそこの草の茂みの中に二三十の石碑(せきひ)がならんでをりました。
 女と騎士は墓場にやつてきたのでした。女はその石碑のうちの小さいのを指さして、唖のやうに無言に、土を掘れと手似(てまね)をするので、大胆な黒い騎士は、度胸をきめて土を掘りました。
 なかゝらは、まだなま/\しい赤児の死骸が出てまゐりました。
 女はこれをながめて、にや/\と笑ひました。

    五
 女は不意に、赤児の腕をぽきりと折つたと思ふ間に、むしや/\と喰べ始めました。
 さすがの黒い騎士も、からだに水を浴びたやうに、恐ろしく思ひました。
 しかしこゝで弱味を見せてはならないと心に思ひましたので、女が次の腕をもぎとつて喰べだしたとき、だまつて手を差しだしました。
 騎士は赤児の腕を喰べようとするのです。女はこれをみて声をあげて、笑ひました。そして赤児の頭をもぎとつて、騎士の手に渡しました。
 騎士はその赤児の頭をうけとると、眼をつむつて、夢中になつて噛りつきました。
 赤児の頭は案外柔らかく、そしてぼろ/\と乾いた餅のやうに欠け落ちるのです。その味はなんだか、蜜のやうに甘いやうに騎士には思はれました。
 騎士は頭を喰べおへると、また手を出して赤児の足をくれと女に言ひました。騎士は何が何やら、わけがわからなくなつてしまつたのでした。
 そして騎士は、まつ暗な墓場のなかで、赤児の死骸をぺろりと平らげてしまひました。
 そのとき何処(どこ)からともなく、法螺貝の音が聞えました、つゞいて人馬のひゞきが起りました。騎士は暗がりの中からあらはれた、たくさんの手のために、其場に押し倒され、頭からすつぽりと袋のやうなものをかぶされてしまひました。
 そして騎士は、馬の背にのせられて、どことも知らず運んでゆかれました。
     *
 なんといふ明るさでせう、騎士が馬から、おろされたところは、まつくらな墓場とは、似ても似つかない、昼のやうにあかるく七色の花提灯(はなちようちん)をつるされた、大理石の宮殿の中でありました。
 黒い騎士が旅の目的地であつた、王城の中に立つてゐたのでした。
 やがて正面の扉がひらかれて、白い長い髯を垂れた王さまが、にこ/\と笑ひながら出てまゐりました。
 それよりも驚ろいたことには、野原の中の古ぼけた寺院の怪しい女が、見ちがへるほどに美しい服装をして、これもにこ/\しながら現れました。
『旅の騎士、太陽の申し児のやうな勇ましい若者。あなたの不審はもつともです。』
 かう口をきつて王さまが物語るには王さまが国中でいちばん勇ましい王子を選むためにぜひ、騎士達の通らなければならない野原の寺院に、王女を住はせました。そして路には、家来の者を隠してをいて、いち/\通る騎士の数を、法螺の貝をふいて合図をして知らせました。
 王女はその合図によつて食事やら寝台やら秣桶、毛ブラシなどの用意をいたしました。
 そして王女はその夜泊つた騎士のうちから、いちばん勇ましい騎士を選んだのでした。
 ではあのまつ暗な墓地で喰べた赤児はどうしたのでせう。
 みなさん、その赤児といふのはほんとに馬鹿らしい程、お可笑なものです。それはお砂糖でこしらへた、赤児のお人形さんであつたのです。
 黒い騎士はその日、りつぱな式があつてめでたく王子の位についたのでした。(大15・9愛国婦人)

或る手品師の話
 老人の手品師が、河幅の広い流れのある街に、いりこんで来たのは、四五日程前でした。
 手品師は、連れもなくたつた一人で手品をやりました。
 ――はい、はい、坊ちやん。嬢ちやん。唯今この爺(ぢ)いが、眼球(めだま)を抜きとつて御覧にいれます。
 手品師は、両手で右の眼を押へて、痛い痛い、と言つて泣きました。
 それから手品師は、はつと気合をかけて、眼から手を離すと、驚いたことには、手品師の眼は抜きとられて、右の掌(てのひら)の上に、眼の球がぎらぎらと、お日さまに光つてゐました。
 ――やあ、眼球(めだま)だなあ。
 ――驚ろいたなあ、本当の眼球(めだま)だ。
 見物の子供達は、驚ろいてしまひました、ところが、手品師の掌の上の、眼球をだんだんとよく凝視(みつめ)てゐると、これはほんものの眼球ではなく、ラムネの玉ではありませんか、見物人が呆れてぽかんとしてゐると、老人の手品師は、
 ――あははは、みなさん左様なら。
 かう言つて、そのラムネの玉やら、赤い手拭やら、鬚の長い綿でつくつた人形やら、剣やら、様々の手品の種のはいつた、大きなヅックの袋を、やつこらさと背中に担いで、さつさと次の街角に行つて了ひました。
 手品師は、街角から、街角に、歩るき廻つて手品をやり、夕方疲れて宿に帰るときには、この街の街端(まちはづ)れを流れる河岸に、かならずやつて来ました。そしてこの河岸の草の上に、足を伸ばして、一日の疲れを河風に吹れました。
 手品師の宿といふのは、それは汚ならしい小さな家で、小さな室(へや)に、六人も七人ものお客さんがあつて、重なり合つて眠らなければならない始末ですから、それよりもかうした奇麗な水の流れを見て、涼しい河風に吹れて休んで居た方がいゝと思つたのでした。
     *
 ある日、この老人は、ごほん、ごほん、と続けさまに、たいへん咳が出て手品の口上も述べることも出来ないほどでした。
 それに体がだるくて、手足がみんなほごれてしまふのではないかと、思ふほどに疲れを感じましたので、手品を早くきりあげて、いつもの河岸の河風に吹かれたなら、少しは気分が治るであらうと、河岸にやつて来ました。
 そして、手品の種のはひつた袋を、枕にして寝ころび、青空をながめました。
 するとその日にかぎつて、ついぞ思ひ出しもしなかつた、友達の事やら、若いときに死に別れをした妻のことやら、天然痘で死んだ可愛い子供の事やら、これまで旅をしてきた数限りない街の景色の事やらが、つぎつぎと頭に浮んできました。
 ――わしの一生にやつてきたことをみんな思ひ出さうとするんぢやないかな。
 手品師は、急にさびしくなつてきたので、かう独語(ひとりごと)をしてむつくり起きあがりました。
 そのとき河の上流から、それは細長い格好のよい、青い青いペンキ塗りの船が一艘、静かにくだつて来ました。
 ――おーい、青い船待つてくれ、わしも乗せて行つてくれ、やーい。
 と呼びとめました。
 手品師は、急にこの街が嫌になつたのです、それで、この青い船にのつて河下の街に行つて見たくなつたのでした。
 青い船の船頭は、河岸に船をよせてくれましたので、手品師は船に乗りました。船には一人のお客さんもなく、がらんとしてゐました。
 ――船頭さん、わしはこの日あたりのよい、甲板(かんぱん)に居ることにするよ。
 かう手品師が言ふと船頭は
 ――お客さん、其処に坐つてゐては駄目だよ。いまにお客さんで満員になるんだから。
 とかう言ふので手品師は、鉄の梯子(はしご)を、とんとんと船底に下りて行きましたが、船底にも、一人のお客もありませんでした。
     *
 青い船が、下流の街について、手品師が船底から甲板にあがつて見ると、船頭の言つたやうに、なるほど甲板の上は、船客でいつぱいになつてをりました。
 この街は、手品師がかつて見たことのないやうな、美しいハイカラの建物の揃つた街でした。
 地面はみなコンクリートで固めてあつて、見あげるやうな、高い青塗りの建物が、不思議なことには、その建物には、窓も出入口もなんにもない家ばかりであるのに、街には人出で賑はつてゐました。
 手品師は、きよろきよろ街を見物しながら、街の中央ごろの、広い橋の上にやつてきて、そこの人通りの多いところで、職業(しやうばい)の手品にとりかかりました。
 ――さあ、さあ、皆さんお集(あつま)り下さい。運命の糸をたぐれば踊りだす。
  赤いシャッポの人形。
  旅にやつれた機械(からくり)人形。
 とかう歌つて、手品師がたくさんの人を集めて、さて手品にとりかからうとすると、手品師は、たいへんなことが出来あがつたと思ひました。それは大切(だいじ)な大切(だいじ)な、職業(しやうばい)道具のはひつた、手品の種の袋を船の中に置き忘れてきてしまつたのです。
 手品師は上陸するときには、青い船が岸を離れて、下流に辷つて行つたことを知つてゐます。
 手品師は、見物人の前でしばらく思案をいたしました。
 ――さあ、手品師、手際(てぎは)の鮮やかなところを見せておくれよ。
 ――へい、そんな事は容易(たやす)いことで、わたしは、子供の時からこの歳(とし)まで三十年間も、手品師で飯を喰つてまゐりました。
 ――それでは七面鳥に化てごらん。
 ――へい、そんな事は容易(たやす)いことで。
 ――手品師、蟇に化けてごらん。
 ――へい、そんなことは、尚更楽なことで。
 ――それでは、烏になつてごらん。
 ――へい、なほ楽なことですよ。
 手品師は、手品の種を無くして、途方にくれながらも、かう言ひながらしきりに思案をいたしました。
 ――手品師、お前は手品の種を、なくしたんだらう。
 かう見物人の一人が言ひましたので手品師は
 ――いかにも、みなさん、わたしは手品の種を失ひましたが、種なしでも上手にやつてのけませう。
 と言ひました。
 青い街の人々は、一度に声を合せて笑ひました。
 手品師は、そこでその橋の欄干の上に、立ちあがつて、水もなんにもない石畳の河底につくまでに、黒い大きな蝶々となつて舞ひあがり、もとの橋に戻つて見せようと、見物人に言ひ、そして橋の上から、ひらりと、眼もくらむやうな深さになる河底めがけてとびをりましたが、手品師は黒い蝶々にもなれずに、一直線に河底に墜ちてゆきました。
     *
 ――やあ、手品師が死んでる。
 青草の上に、冷めたくなつた手品師をとり囲んで、河岸で子供達がわいわい騒ぎました。
 手品師は、眠つたやうな穏やかな顔をして死んでゐました、手品の種のはひつた袋を枕にして、その袋からは、綿細工の鬚の長い人形が、お道化(どけ)た顔をはみだして、子供たちの顔を見てゐるやうでした。(大15・12愛国婦人)

或る夫婦牛(めをとうし)の話
 ……私の書斎に、遠くの村祭の、陽気な太鼓の音がきこえてきましたが、昨日からばつたりと、その音が鳴り止(や)んでしまひました。
 ……この破れた太鼓のお話をしようと思ひます。
     *
 ――爺さんや、わしは今夜はたいへん胸騒ぎがしてならないよ。急にお前さんと、引き離されてしまふやうな、気がしてならないな。
 ――ああ、婆(ばあ)さんや、わしも胸が、どきん、どきんするよ、きつと明日(あした)は、何か悪るい出来事があるに違ひないな。
 爺さん牛と、婆さん牛とは、小さな牛小舎の中に、こんなことを、しやべりあつてゐました、はては気の弱い婆さん牛は、声をあげて泣きだしました。
 爺さん牛も、婆さん牛が、泣くので、つい悲しくなつて、大きな声でいつしよに、泣きました。
 ――婆さんや、お前は何が悲しくて泣くんだい。
 ――爺さんよ、わしもわからないが、かなしくなるんだよ。
 婆さん牛は、小舎の乾藁(ほしわら)に、眼をすりつけて、わいわい言つて泣きました。
 すると小舎の戸があいて、飼主が手に蝋燭をもつて入つてきました、そして大きな声で――こん畜生奴、何を喧ましく、揃つて泣きやがるんだい、おれらは明日の仕事もあるんだから、静かにして寝ろよ。
 飼主は、かう言つてどなりました。
 牛達はそこで、自分達は、何か夜が明けると、悲しい出来事が、身に降りかかつて来るやうな気がして、ならないから泣くのです。と飼主に訴へますと、飼主も急に悲しさうな顔になつて
 ――お前達は、可哀さうだが、夜があけると屠殺場(とさつば)におくつてしまふのだ。
 と言ひました。そして特別に柔らかい草を、どつさり抱へてきて、夫婦牛(めをとうし)にやりましたが、牛はさつぱり嬉しくはありませんでした。
 ――御主人さま、屠殺場といふのはなにをする処でございませう。
 ――そこは、お前達を、殺(や)つつけてしまふ場所だよ。
 ――殺(や)つつけるといふことは、どんなことでございませう。
 ――殺(や)つつけるといふのは、お前達を殺(ころ)してしまふことだよ。
 ――殺すといふことは、どんなことでございませう。
 ――さうだな殺すといふことは、死んでしまふことだな。
 ――死ぬといふことは、どうなることでございませう。
 ――どうもわからないな、実はな、わしもよく、その死ぬといふことがわからないが、まだいつぺんも死んで見た事がないんでな。
 飼主も、かう言つて、小舎の横木に頬杖をして思案をしました。
 ――まあ、たとへばお前達を、その屠殺場といふ、街端(まちはづ)れの黒い建物の中にひつぱり込んで、額を金槌でぽかりと殴りつけるのだ、すると額からは、血といふ赤いものが流れだして。
 すると爺さん牛は、横合から頓狂な声をだして、
 ――旦那さま。すると旦那さまが、毎朝わし達を牧場に追ひだすときのやうに、鞭で尻つぺたを、殴りつける時のやうにして、
 ――あんな、生ぬるいもんぢやないよ、力まかせに、精一杯にな、殴りつけるんだ、お前たちが、大きな地響して、ひつくり返つてしまふほどに殴るのさ。
 ――あ、わかつた、死ぬといふのは、そのひつくり返る事だな。
 ――ああ、違ひない、そのひつくり返ることだよ。
 飼主は、かう言つて逃げるやうにしてどんどん行つてしまひました。
 ――爺さん、わしは妙に、そのひつくり返ることが嫌になつた、どんな具合に、ひつくり返るんだらう。
 ――婆さん、わからんな、これまでにも、わしは石につまづいて、なんべんも転んだことがあるんだが。
 ――こんどのは、あんなもんぢやないんだよきつと、すばらしく大きな音がするんだよ。
 爺さんと婆さんは、そこで牛小舎に、大きな音をたてて、かはるがはる、ひつくり返つて見ましたが、死ぬといふことが、わからないうちに、だんだん東の方が白(しら)んでまゐりました。
     *
 翌朝、早くから二頭の夫婦牛は、小舎から引き出されて、飼主に曳いてゆかれました。
 ――旦那さま、わし達は、その死ぬといふことが、嫌になりました。
 夫婦牛は、足をふんばつて、屠殺場へ行く途中、さんざん駄々をこねて、飼主をたいへん困らせましたが、飼主はいつもより、太い鞭を、ちやんと用意して来てゐて、ぴしぴし続けさまに、尻を打ちましたので、牛は泣く泣く屠殺場へ行かなければなりませんでした。
 ――かーん。と大きな響がして、その響が秋の空いつぱいに、拡がつたと思ふと、額を金槌で殴られた婆さん牛は、お日様の光をまぶしさうに、二三度頭を左右に振つたと思ふと、大きな地響をして、地面に倒れました。
 倒れた婆さん牛は、太い繩のついた、滑り車で吊りあげられましたが、
 ――やあ婆さん、綺麗な衣装を着たなあ。
 と遠くに見てゐた、爺さん牛が、思はず感嘆をしたほどに、婆さん牛の姿は変つてゐました。それは美しい真赤な着物を着てゐました。
 その赤い衣装は、ぽたぽたと音して、地面にしたたり、地面に吸はれました。
 屠殺場の男が、白い刃物を光らして、婆さん牛の、その赤い衣装をはぎだしましたが、ちやうど官女の十二単衣(ひとえ)のやうに、何枚も何枚も、赤い着物を重ねてゐました。
 ――婆さんは、いつの間に、赤い下着をあんなに多くさん着こんでゐたんだらう。
 爺さん牛は、これを見て急にお可笑くなつたので、腹を抱へて笑ひだしました。
     *
 次は爺さん牛の、ひつくり返る番がまゐりましたが、爺さん牛は、なにか知ら体中が急に寒気がしてきて、ひつくり返ることがたいへん嫌なことに思ひましたから、どんどんと逃げだしました。
 ――やあ、牛が逃げだした。
 飼主が、大変驚ろいて、叫びながら後を追ひかけてきましたが、爺さん牛は腹をたてて
 ――お前さんは、わしの婆さん牛の手足を、材木を片づけるやうにして、何処へ隠してしまつたかい。
 と爺さん牛は、飼主の背中を、ひとつ蹴飛しました、すると飼主は、『ぎやあ』と蛙の鳴くやうな声をだして、其の場にひつくり返つてしまひました。飼主は何時(いつ)までたつても、起きあがらうとせず、ぴくりとも身動きをしないので、爺さん牛は、これを見て、急にお可笑くなつたので、腹を抱へて笑ひ出しました。
     *
 ――なあ、婆さんや、お前はわしの右足の不自由なことを、百も承知のくせに、わしの身のまはりの世話もしてくれずに、どこを飛び廻つてゐたのかい、この浮気婆奴が。
 ――なあ、何処(どこ)まで、お前は出掛けたのさ、赤い綺麗な上着も、どこかに忘れてきて
 ――お前は、急に小さくなつたなあ、こんな吹きざらしの河原で、ひとり何を考へてゐたのさ。なあ婆さんや。
 爺さん牛は、かういひながら、くり返しくり返し、河原の石ころの上に、頭ばかりとなつて捨てられてあつた、婆さん牛にむかつて色々のことを質問をしましたが、婆さん牛は、だまりきつてゐて返事をしませんので、爺さん牛は、さびしく思ひました。
 爺さん牛は、お婆さん牛が、よほど遠方に旅行してきて、言葉も忘れてしまひ、手足もすりへつて、無くなつてしまつた程に、歩るき廻つてきたのだと思ひました。
 そして、その婆さんの、白い一塊(ひとかたまり)の石のやうになつた頭を、蹴つて見ますと
 ――カアーン。カアーン。
 とそれは澄みきつた音が、秋の空にひびきましたので、二三度続けさまに蹴つて見ますと、今度は急に吃驚(びつくり)する程、醜い不快な音をたてて、婆さん牛の頭は、粉々に砕けてしまひましたので、爺さん牛はお可笑くなつて笑ひだしました。
 遠くから、たくさんの人々が口々に、
 ――人殺し牛を発見(みつけ)た。捕まへろ。
 と叫んで爺さん牛の方に、走つてきました、中には鉄砲をもつた人も居りました。
 牛はさんざん暴れ廻つて、逃げようとしましたが、とうとう捕まつて、この爺さん牛も、婆さん牛と同じやうに、黒い屠殺場の建物の中で、額を力まかせに金槌で殴りつけられて、ひつくり返されてしまひました。
     *
 ――婆さんや、おや、婆さんや、お前はこんな処に居たのかい、わしはどれ程お前を、うらんでゐたかしれないよ。
 ――まあ、まあ、爺さん、わしもどれほど逢ひたかつたかしれないよ。
 爺さん牛と、婆さん牛は、思ひがけない、めぐりあひに、抱き合つて嬉しなきに泣きました。
 ――どどん、どん。
 ――どどんが、どんどん。
 赤いお祭り提灯が、ぶらぶら風にゆれ、紅白のだんだら幕の張り廻された杉の森の中では、いま村祭の賑はひの最中でした。
 爺さん牛、婆さん牛は、その祭の社殿に、それは大きな大きな太鼓となつて、張られてゐたのです。
 村の若衆が、いりかはり、たちかはりこの太鼓を、それは上手に敲きました。
 ――婆さん、わし達はこんな幸福に逢つたことはないなあ。
 ――わしは、あの丸い棒がからだに触れると急に陽気になつて、歌ひだしたくなる。
 ――お前とは、いつもかうして離れることがないし。
 ――あたりは賑やかだしなあ。わし達の若い時代が、いつぺんに戻つて来たやうだ。さあ婆さん、いつしよに歌つた、歌つた。
 ――どどん、どん。
 ――どどんが、どんどん。
 夫婦牛の太鼓は、七日の村祭に、それは幸福に鳴りつづきました。
 お祭りの最後の七日目の事でした。
 ひと雨降つて晴れたと思ふまに、凄まじい大きな、ちやうど獣の咆えるやうな、風鳴りがしました。
 すると森の木の葉がいつぺんに散つてしまつたのです。
 ――やあ、風船玉があがる。
 ――やあ、大風だ、大風だ。
 子供達が手をうつて空を仰ぎました。
 風船屋が、慌てて風船を捕まへようとしましたが、糸の切れた赤い数十のゴム風船は、ぐんぐんぐん空高く舞ひ上りました。
 陽気に鳴り響いてゐた、夫婦牛の太鼓が急に、大きな音をたてて、破れてしまひました。
 ――爺さん。わしは急に声が出なくなつた。
 ――うむ、わしも呼吸(いき)が苦しくなつてきた、ものも言へなくなつてきたよ。
 ――爺さん、またわし達の、ひつくり返るときが、きつとやつて来たのだよ。
 ――ああ、さうにちがひない、体が寒むくなつてきたな、婆さん。
 ――では、またわし達は、別れなければならないのかい。
 ――さうだよ、ひつくり返るのだよ、婆さんまた何処かで、逢へるだらうから、さうめそめそ泣きだすもんぢやないよ。
 一陣の寒い、冷たい風が、太鼓の破れを吹きすぎました。(昭2・3愛国婦人)

トロちやんと爪切鋏
 トロちやんは、可愛らしい嬢ちやんでした。でも、夜眠る前に、トロちやんのお家では、大きな盥(たらひ)を、お台所に持ち出して、子供達は手足をきれいに洗ふことになつて居りましたのに、トロちやんだけは、嫌やだ、嫌やだと言つて、どうしても手足を洗はせません。
 これだけは、トロちやんは、悪い子でした。
 そこで仕方なく、お母さんは、汚れたトロちやんの手足を、濡らした手拭で拭つてやりました。
 トロちやんは、或る日、お兄さん、お姉さんと一緒に、お母さんに連れられて、近くのお地蔵さまの縁日にでかけました。
 ずらりと列んだ夜店は、たいへん賑やかでした。
 トロちやんは、赤いゴム風船を、買つて貰ひましたが、あまり人混みでありましたので、人に押しつぶされて、パチンと破れてしまひました。
『お母さん、絹の靴下を、買つて頂戴よう。』
 トロちやんは、ベソを掻きながら、母さんの袖にぶらさがりました。
『トロちやんは、夜おねんねの時に、お手々を洗ひたがらないし、汚ない足で、絹の靴下など履いたつて駄目ですから。』
 かう言つて、お母さんは買つてくれませんでした。お母さんは、金槌やらお鍋やら、帽子掛けやら、たくさんの金物類をならべた、夜店の前に立ち止まりました。そして
『トロちやんには、これを買つてあげませう。』
 といつて、赤く塗つた、小さな爪切鋏を手にとりあげました。
『いやだあ、そんなもの、嫌よう。』
 トロちやんは頭をふりました。
 金物店の主人は、
『お嬢さん、さあさあ、これをお持ちなさい、その鋏はよく切れますよ、子供が爪を長くのばしてをくのは、よくありませんよ。』
 と言ひました。お母さんも、
『そうでせう、この子は爪を切りたがりませんから。』
 すると、夜店の金物屋さんは、眼を真丸(まんまる)くして、
『それは大変だ、悪魔は爪から出入りするもんですよ。』
 と言ひました。トロちやんは、これを聞いて吃驚(びつくり)しました。今まで爪から悪魔が出入りするなどゝは考へなかつたからです。
 そこでトロちやんは、その爪切鋏をお母さんに買つていたゞきました。
 夜店を歩るき廻つて、みんなはお家(うち)に帰りました。顔や手足は埃だらけになつてゐましたので、何時(いつ)ものやうにお母さんは台所に大きな盥を持ち出して、子供達の手足を洗つてくださいました。
 トロちやんは、何時もの通り、いやだ、いやだ、をしました。
 ふと、トロちやんは、夜店の金物屋さんが
『悪魔は爪から出入りをしますよ。』
 といつたことを思ひ出したのでさつそく、お母さんに爪切鋏できれいに、手足の長く伸びた爪を切つていただき、そして顔や手足を洗つて寝床に入りました。
 お母さんは喜んで
『トロちやんは、なかなかお姉さんになりましたね、御褒美に明日は、トロちやんと、ミケとに赤いお座布団をこしらへてあげませう。』
 と言ひました。ミケといふのは、トロちやんの大好きで仲善しの飼猫です。
 そこでその御褒美を楽しみに、眠りました。
 真夜中頃、トロちやんの枕元で、ごそごそと、誰やら歩るき廻るやうでした。ふと眼をさましました。見ると背が三寸位の小さな人間が、行列をつくつて、トロちやんの枕元を、わい/\騒ぎ廻つてゐました。
 尖つた帽子をかぶり、痩せた顔で、みなりつぱな長い八字髯を生やしてゐました。
 小人(こども)達は、トロちやんの指のあたりを走りながら
『親指にも扉(と)がしまつてる。』
『人さし指にも扉がしまつてる。』
『中指にも扉がしまつてる。』
『くすり指にも扉がしまつてる。』
 と歌つてゐました。トロちやんは、さては爪から出入りする悪魔達だな、と思ひました。
『しめたッ、小指の扉が開いてた。』
 突然、悪魔の一人が叫びました。悪魔たちは、わつと叫んで、先を争つてトロちやんの手にかけのぼり、いちばん肥つちよの悪魔が、まつ先に、トロちやんの小指の爪に頭を突込みましたが、体が肥えてゐるので、思ふやうに入りません。
 トロちやんは、たいへん驚きました。
 お母さんがきつと小指の爪を切つて下さるのを忘れたのに違ひない。
 かう思ひましたので、ぱつと寝床からとび起きて、絵本の上にのせておいた爪切鋏を、枕元からとつて、あわてゝ小指の爪をチョキンと切りました。
 肥つちよの悪魔は、爪を切られて、転げ落ちました。
『さあ、みな扉がしまつた、逃げろ、逃げろ。』
『爪切鋏は怖ろしいぞ。』
 悪魔はかう口々に云つて、散々ばらばらに、逃げました。
 その逃げる格好は、それは滑稽で、机の足に頭を打ちつけたり、壁に衝突したり、電燈の笠にかけあがつて、辷り落ちたり、それは、それはお可笑なあわてやうでありましたので、トロちやんはお腹を抱へて大笑ひをいたしました。
 夜が明けました、トロちやんは、お母さんに、その朝、昨夜(ゆうべ)の悪魔が、爪から入らうとして、トロちやんにチョキンと爪を切られて、逃げだした話をいひました。
 お母さんや、お兄さんや、お姉さんは、トロちやんの大まじめの顔での、お話をきいてみな大笑ひをして、トロちやんの勇気をほめてくれました。
『お母さんは、トロちやんの小指の爪を切るのを、忘れたかしら』
 かうお母さんが言つて調べてくれました。小指の爪だけ忘れてありました。
 お母さんは、そこで爪切鋏で切つてくださいました。そして前日の約束通り夜遅くまでかかり、ちやんと仕立ててあつたトロちやんと、小猫のミケの小さな花模様美しいお座布団を、御褒美にくれました。
 トロちやんと、ミケとはそれにならんで座りました。ミケも嬉しさうに、座布団の上に、立ちあがつて、両手両足をながながと伸ばし、トロちやんの顔を見ながら、背伸びをいたしました。
 トロちやんは、これを見て驚ろいて、
『ミケ爪を出したら悪魔が入るのよ。』
 と叱りつけました。
 ミケも驚ろいて、ニャーンと鳴いてくるりと小さく座つて、爪をみんな隠してしまひましたとさ。(昭3・11愛国婦人)

豚と青大将
 田舎で豚飼をしてゐた男が、その豚飼に失敗して、何か仕事を見つけようと、都会にやつて参りました。
 この男は正直者でした。ただお酒を飲むとおしやべりになるといふ癖がありました。
 ところがお酒を飲まない平素(ふだん)は、たいへん話下手で、それに吃りました。
 お酒は、この男にとつて、油のきれた歯車に、油をそゝいだやうなものでした。
 都会にやつてきても、この男はお酒をたくさんにのみました。
 上機嫌になつて、酒場(バー)の中で、おしやべりを始めだしますと、同じ酒場(バー)のお客さんたちは、
『そろそろ、吃りの男に、油が乗つてきたぞ。』
 と、ぽつぽつと、一人去り、二人去つて、しまひには、お客は、豚飼の男たつた一人になつてしまふのでした。
 まつたく、その男の話といふのは、馬鹿々々しい、それは、それは退屈な話でありました。
 お客さんたちが、腹をたてるのも、無理がありません。或る日もこの男は自分が豚を飼つて失敗をした話を始めました。
 最初の間は、お客さんも、親切に、そして熱心に、この男のくどくどと長つたらしい、話をきいてくれました。しまひには、腹を立てました。酒場(バー)の亭主や、酒場(バー)の娘さんは、不機嫌な顔をいたしました。そして
『お酒をやめなければ、あなたは偉い人間にはなれませんよ。』
 といふのでした。
 さてその男の、馬鹿げた話といふのは、かうなのです。
     *
 男は、北海道の、それはそれは広い、草ばつかりの丘の上で豚飼をはじめたのでした。
 まず最初、三頭のりつぱな種豚(たねぶた)を買ひこみました。この三頭の親豚を資本(もとで)にして、四五年のうちに、五六十頭も子豚を、殖やさうといふのでした。
 豚は、玩具(おもちや)のやうな小さな貨物列車にのつて、やつてきました。男はその三頭の種豚を、駅まで出迎へにまゐりました。
 豚たちは、いづれも元気でした。長い旅行をしてきたのに、脚一本傷ついてゐなかつたのです。豚はぴんぴん跳ね、そのあたりの草原をころげまはりました。
 男もうれしくなつて、道の傍から、一本の棒切れを拾ひ、それで上手に、三頭の豚のお尻をかはるがはる殴りました。そして豚小屋の方に連れてゆきました。
 ところが、男は道をまちがへて、とんでもない、河のあるところへ出てしまつたのです。
 そこで男は、河の面(おもて)をながめながら、ちよいと小首をかたむけて、思案をしました。
『ちよいと、豚さん冷めたいよ』
 かういつて、豚飼の男は、三頭の豚のうちで、いちばん肉づきのよい、重い豚の首筋を押へつけて、河の中にいれました。
 その河へ押入れられた豚は
『いやだ、いやだ。』
 としきりに首を振りました、男は
『やつこらさ。』
 とその豚を手早くひつくり返してしまひました。そしてその豚をお舟にして、一頭を小脇に抱へ、一頭を背負ひ、男は豚のお舟にのりました。そして無事に、男と二頭の豚とは、向うの河岸(かし)に着くことができましたが、可哀さうに、お舟になつた豚は、たらふく水を飲んだので、岸につくといつしよに、ぶくぶく沈んでゆきました。
『これは大変なことが出来たぞ、これを死なしては大損だ。』
 男はうろたへて、その豚のお腹を、力まかせに、殴つてみたり、さすつて見たりいたしましたが、とうとう生き返りませんでした。

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