味瓜畑
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著者名:小熊秀雄 

『女が南瓜や味瓜をたべるのはよくないのです、血が荒れるといふ話ですよ、ざくざくになつてしまうんでせう』
『血が荒れたつてざく/″\になつても喰べて見たい、こんなに美味しさうにふくれてゐるんですもの、妾(わたし)なんかとつくに荒れてしまつてゝよ、かまふものですか』
『そんなことはありません、娘さんちよつとお手を拝見しませう』
 からだをゆすぶつてゐる、娘さんの手を男はそつと握つた、自分の掌の上に娘さんの重たい掌をのせてみると、どつしりとした厚ぽつたく動かない魚のやうに、またいかにも金目のなにかの貴金属でものせてゐるやうにも思はれた。

    (六)

『味瓜は後から悠つくりとおあがりなさい、私もいつしよに喰べます、後からですよ、ふたりで仲善く、こんなに冷たいものをあなたに今喰べらせる位でしたら、私は最初からあなたと散歩なんかしません』
 男はぷんとふくれて、切ない言葉を女の白い顔にふきかけると女はいかにも火のやうな呼吸(いき)をかけられたかのやうに、ちよつと顔をそむけた。
 街にはこの娘さんと同じやうな娘さんがきれいに彩色された着物をきて歩いてゐる、ことに夏の夜のむし暑い頃になれば、こゝの河原や公園地の池の畔を、とかげの花嫁のやうにぞろぞろと散歩をしてゐる、こゝにゐるものもその一匹であつて、どこかの遠い背よりもたかい草原の中にも、きつと同じやうな幾組もの動物が死んだやうに動かないでゐるだらう、もつとも哀しいひとりぼつちの娘さんよ、(一字欠字)が散歩をするといふことは、その情熱を風に冷やすためにすることです、水々しい果実のやうな白い二本の脚は、性慾の凝結してゐるかのやうに、はちきれるほど肥えてゐる毒々しくあぶらこい。
 彼女達がしづと坐つてゐたり横になつてゐたり、立ちどまつてゐたりすると、彼女自身の猛烈な性慾の醗酵でトマトのやうに溶けてしまふ、川岸を歩いたりボートに乗りたがつたり、林檎や味瓜などの冷たいものを喰べることも彼女達の心臓に氷袋をあてゝやるやうなものだ、男はこんないろいろのことを想ひながら、いつこくも早くこんな冷たい川風の吹く崖の近くや、味瓜畑から娘さんを誘(おび)きだして、土室のやうな黄色く重くるしいどこかの土手の窪みか、柔らかい青草の林の中に連れこまなければならないとあせりだした。
『お止しなさいよ、退(の)いて下さいつたら、だまつて味瓜をおあがんなさい、温和しく』
 娘さんは男の手をはらひのけたので、男は猫のやうに眼をつむつて両手を前にさしだした。
『娘さん、私を悪者と憎んで下さい、わたしはあなたを誘惑したのです、どうか今度は想ひきつてあなたの白い歯で私の舌を噛みきつて殺して下さい』
『さうぢやなくつてよ、わたしを誘惑したのはあなたぢやない、こゝに味瓜畑のあることは、妾(わたし)ちやんと知つてゐたんですもの』
『そんな事を云はないで下さい、わたしは寂しくなる、どんなに此処まであなたを連れてくるのに苦心をしたかを、あなたは察してくださらない』
『こゝの畠は妾の部屋の窓からよく見えますの』
『やつぱりわたしは悪者に違ひない、あなたは弱々しい娘さんですものそしてあなたも素直に、わたしに、こんな処へ誘惑されて、口惜しいつて、女らしく処女らしい身振をしてさめざめと泣いて下さいよ』

    (七)

 男はなんべんも女の顔を覗き込むやうにして、こゝろから恥いつたといふ表情をした、だが事実はこの男がもつとも、これまでに誇らしげに、そつと秘めておいた自分のそれは華やかな童貞をいま無造作に捨てるといふことについてそれは神経質に相手の娘さんの微細な動作にまで、真剣な注意の眼を働かせた。
 廻つてゐる火のやうな春が、これまでの季節に横たはつてゐたのであるが、男はじつと腰に両手を支へて、如何にも沈勇な歩調で、悠つくりと貞操な英雄のやうに通りすぎてきたことが奇跡的にも思はれた。
『あゝ、こんな夏になつてから、私は一人の娘さんを見つけました、あなたそれは貴女(あなた)なのですよ、肩揚のある、私の相手にふさはしい娘さんそうでせうね』
 娘さんは寂しさうな顔の半面を月の光りに照らしながら、まだ未練さうにどこかの味瓜に白眼をつかつてゐる様子であつた。
 どこからともなく、不意に男の胸に小さな、熱した風のやうなものが、そつとさはつてすぎた。
 いつたん男はぐる/″\と周囲を念入りに見廻してから、じつと後の青くねむつてゐる地べたを這ひ廻つてゐる味瓜の黒い影を見つめた。
 すると味瓜畑の両端が真白い娘さんの右と左の手をひろげたように、そして黒い影がだん/″\と青く燃えだし、白い手はしだいに前かゞみに男を抱きしめるやうに思はれた。
 男はハッとした、ひろげられた味瓜畑は、その娘さんの白い両手はいつの間にか男の茶色にたくましい指と変り、だん/″\と娘さんをそこの夜露のいつぱいしめつた草原に夢のやうにしめつけてゐた。

 はれやかな季節に生れでた児供のやうに、男と女は草原から軽快に立ちあがつた、でも男は女の気持をはかりかねて、どんなに心づかひをしたか知れなかつた。
『明日も、ゐらつしやらない? 味瓜を盗みにさ、をどりがすんだら妾毎晩来てよ』
『あゝ、来てもいゝな』
『でもわたし、明日からもうあなたとは遊ばないわ』
『あゝ、遊んで貰はなくてもよいよ、あすからはどんなに沢山味瓜を喰べたつて止(と)めやしないから』
 男は無造作にかう言つたが、どきんと激しく胸をつかれたやうな思ひがした、自分自身が少しも女に対してざんげをしなければならない、醜い過去を持つてゐないことを心強く思つた。
『僕だつてさうだよ、明日からあなたは処女ぢやないんだらう、だから、これまでよりも瞳に太陽がキラ/\としみるんだ』
『名前もなにも聞かないで、あなたは別れようとするんでせう』
『それは卑怯でもなんでもないよ、だから明日の晩もこゝに味瓜を喰べにきたらいゝんだと言つてるのだよ』
 男は急に幸福を感じた。

    (八)

 一人の処女と一人の童貞とを、石ころを投げ捨るやうに、畑の茂みの中にほうり投てきたといふことに、どんなに娘さんが浮気であつたとしても、をそらくは明日の朝までは、男の魂のなかにとけこんでゐる、男の独占の喜ばしい感激がいつぱい湧いてきた。
 あそこの味瓜畑の泥にまみれた二つのもぎとられた味瓜が、だん/″\と夜更の露に洗清められてゐるやうな情景が、ふつと眼に映つた。が次の瞬間童貞を捨たといふ荒ら/\しい悔恨が頭をもたげてきたので彼はげら/″\と笑らひながら不意に女を突き離した。
『娘さん、驚いちやいけないんだよ、さ驚いちや駄目だよ僕はね、だが私はあなたに謝まつてはゐない』
『ねえ、どうしたつて言ふの』
『私がどんな悪魔の正体をうちあけても吃驚(びつくり)してはいやだよ』
『言つちまつたらいゝわ』
 女はちよつと好奇心の眼を光らした。
『娘さんよ、貴女は私を童貞だと思つてをいでゞすか』
 男はしやべりながら、飛んでもないことを言ひ出す自分の悪魔的な感情に、ひとりでに微笑がしみじみと湧いて来た、なんといふ素晴らしい自分であらうかと思つた、この娘さんをあくまでも征服し背後の梢の頂上(てつぺん)に烏のやうに、とまつてゐて、自由自在にこの娘さんの、初心(うぶ)な感情を操つてゐたならば、どんなに愉快に安眠ができるかと言ふことを想像をし続けた。
 盆踊りのたつた一夜の友人、明日の朝は永久に離ればなれになつて了ふ二人、対手の名も処も知らぬままに袂別をしようとするふたり、そして淫な野合の対手たとへ彼女が清浄であつたとしても男としては自らの分身を、未知であるこの歩いて居る娘さんに、無造作に奪ひ去られるといふ不安が急にこみあげてきた。
『あなたが童貞でなくつても、なんでもないわ、男なんてみな信用ををけないのが当り前のことなんでせう』
『そりや、その点では女よりも男の方が自由でせう、だが私はもつと、もつと怖ろしい出来事なんです、しやべつたらきつと驚くことなんですよ』
『さあ、言つて御覧なさいよ』
 男は草のしげみに片足を踏み入れた。
『僕は猛烈な梅毒患者なんですよ』
 かう言つて眼をぎろ/″\光らして男は女の上唇のけいれんするのを今かいまかと待つてゐた、だが彼女は平気な顔をしながら空に頬を晒しながら歩きつゞけた。
『まあ、そんなことぢや、わたしも梅毒患者よ、だからお似合ね』
 女は少しも男の言葉に不安を感じないと言つた笑ひを含んだ蓮つ葉なものゝ言ひ方をしながら、せつせと歩きつゞけた。
 男は目算ががらりとはづれたので意外に思つた。男にしてみれば対手の女に、別れ際に梅毒の暗示を投げかけて、兎のやうに横路にそれて女と別れて了はふといふ計画であつたのが、案外な女のゆつたりとした態度に、かへつて逆捻(さかねぢ)を食つたやうな、抜きさしのならない破目に陥つてしまつたので、こんどはなにかしら女に引ずられてゐるやうな気持で女の足音のとほりに歩かなければならなくなつた。

    (九)

『さよなら』
 先にたつて歩いてゐた娘さんはふり返つて不意にかう優しく言ひくらがりの中にめがけて、とんとんと二三歩前にのめつた。
 その時男は歩くことも、また凝つとして立ちどまつてゐることもしやべることも、なにもかも苦痛になつてしまつてゐたので、陰気にうつむいて歩いてゐたのが、娘さんの『さよなら』の言葉をきいて、ぎくりと水を浴びたやうに飛びあがつた。
 しかし今更娘さんを引止めたりすることも、つまらないことであるし、それに室の窓からさつきの味瓜畑を見をろすことのできると言つた、娘さんの家にとう/\着いたのだなと、思つたので顔もあげずにあきらめて、うつむいて歩いた。
『さよなら』
 また娘さんは三間さきでかう言つた。娘さんの履物のひびきが小刻みになつたのでいらいらしだしたが、男はさいぜんの『梅毒患者の暗示』の失敗にむしやくしやしてゐたので、強情にして顔をあげなかつた。
 それよりも男の驚いたのは黒い影にゆきあたつたと思ふうちに、いままでの暗がりとはうつて変つた、まつかな光線が頭上や胸に□つてきた。
 ちやうど火焔の中に落こんだやうな周囲の赤さであつたので男は思はず顔をあげると、娘さんはその真赤な空気のなかに、なにかの水虫のやうな、すいすいと伸びた足取で、細長くなつて消えてしまつた。
 頭上の黒い丸太の門柱に赤い瓦斯燈がひかり、ほとんど門柱いつぱいと思はれる背の高い看板が流れてゐるかのやうに赤い光線の中に、とくべつ白く浮いてゐた。
 男は胸を締つけられた、両方に突立つてゐる門柱と門柱とに挾まれたのではないかと思はれるほど咽喉に圧迫をかんじ、ひとりでに涙が湧いてきた、うすぼんやりとした夜の路を、両足がちぐはぐにならうが、手拭が風に吹きとばされようが、娘さんに呼びかけられようが、いまは男の夢中な気持にはさらに感じない、新しい大きな世界から、古ぼけてせまくるしい小路に迷ひこみ、飛びこむやうな感情で眼にいつぱい涙を浮かべて走つた。
 夜(よ)のなかにどうどうといふ冷たいものゝ気配が静かな風鳴りとこんがらがつて遠くに聞こえた。
 男はその響きのするところまで駈けようとするのであつたが、いくらも走らないうちに呼吸(いき)がきれぎれになつてしまつた。

    (十)

 男は体操でもしてゐるかのやうに両手をかつきりとした角度に腰を押へつけ、くるりくるりと絶えず舞つてゐるかのやうに、足もとの石ころや、木の根につまづいて体を躍らしながら、冷たいものゝ方に向つて走つた。
 瀬の早いながれにかけられてゐる橋の上に男は立ち止まつてはぢめて後を振かへつて見た。
 娘さんのはひつて行つた黒い大きな洋館の壁にボッとあかるく四角な光りの窓ができあがつた、娘さんがきつといま室の電燈をともしたのであらう。
 髪の毛がはつきり三本ほどカーテンに映つたかのやうに思はれたがたちまち窓はまつくらになつた。
『娘さんよ、今更わたしは、私の童貞をとり戻して欲しいとは泣きごとは言ひたくはないけれども、せめて私があなたに捧げた真実だけをくみとつて下さいよ。
 その真実だけを、りつぱに着飾つた青春をね、あのとき梅毒患者だといつたことを信じないでくださいませ』
 橋板の上にたつて男はしみじみと空虚を感じた。
『ええ、どうにでもなつてしまへ畜生、肩揚のある騙(かたり)娘、畑の中であのとき何を出しやがつた、袂のなかから脱脂綿なんか出しやがつて』
 黒い四角な遠くの洋館に、眼をみはりながら男はなんべんも橋のてすりを慈しむやうに、手で撫でながら高い声の独語を繰返した、
『ね、娘さん私はなんとも思つちやゐませんから、どうかあの時の私を信じて下さい。どうぞどうぞ梅毒を患らつてゐたなどとは、こけおどかしで、出鱈目であつたといふことを、まさかに娘さんがあの赤い瓦斯燈のともつた、駆黴院のお客さんであるとは想像もしなかつたのですから』
 ふたゝび男は誰もゐない橋の上で遠くの娘さんに哀願をしたがふつと『△△駆黴院』の三等病室のまつ白い壁の中にねむつてゐる娘さんの顔を眼に浮べた。
 そしてその枕元にはきちんと丁寧に折畳まれた、肩揚のある大柄の羽織が見えたので、泣き笑ひに似た狂暴なうめきがよみがへつた。
『どうしようとするのだ、淫売奴首を縊る真似をして見せろとぬかすのだらう、そんな真似はたやすいんだよ、流行り歌もうたへないといふのか、そんなことも容易(たやす)いんだ』
 男は顔をまつ赤に上気させた。それは全身の力を下腹に集中させたからである、それから殆ど臍のあたりまで勢ひよく着物をめくりあげたので、猿股をはいてゐない素つ裸の股にひや/\とした河風がふいた。
 それから両足をできるだけ大きくひろげ、精いつぱい腹に力をこめた。
『騙娘の黴菌を水に流してしまふんだ』
 そよそよと河風は股をくぐる彼はそこでけんめいになつて、神様にでもお祈りでもしてゐるかのやうに白眼をして、高い橋の上から小便をした。
 いくつにも切断された小便の水面に落る賑やかなひびきをききながら、しわがれた呼吸(いき)づまつた咽喉を振り振り
『とてとて……とてと』
とやつとの思ひで喇叭節をこれだけ歌つた。




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