味瓜畑
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著者名:小熊秀雄 

 その時男は歩くことも、また凝つとして立ちどまつてゐることもしやべることも、なにもかも苦痛になつてしまつてゐたので、陰気にうつむいて歩いてゐたのが、娘さんの『さよなら』の言葉をきいて、ぎくりと水を浴びたやうに飛びあがつた。
 しかし今更娘さんを引止めたりすることも、つまらないことであるし、それに室の窓からさつきの味瓜畑を見をろすことのできると言つた、娘さんの家にとう/\着いたのだなと、思つたので顔もあげずにあきらめて、うつむいて歩いた。
『さよなら』
 また娘さんは三間さきでかう言つた。娘さんの履物のひびきが小刻みになつたのでいらいらしだしたが、男はさいぜんの『梅毒患者の暗示』の失敗にむしやくしやしてゐたので、強情にして顔をあげなかつた。
 それよりも男の驚いたのは黒い影にゆきあたつたと思ふうちに、いままでの暗がりとはうつて変つた、まつかな光線が頭上や胸に□つてきた。
 ちやうど火焔の中に落こんだやうな周囲の赤さであつたので男は思はず顔をあげると、娘さんはその真赤な空気のなかに、なにかの水虫のやうな、すいすいと伸びた足取で、細長くなつて消えてしまつた。
 頭上の黒い丸太の門柱に赤い瓦斯燈がひかり、ほとんど門柱いつぱいと思はれる背の高い看板が流れてゐるかのやうに赤い光線の中に、とくべつ白く浮いてゐた。
 男は胸を締つけられた、両方に突立つてゐる門柱と門柱とに挾まれたのではないかと思はれるほど咽喉に圧迫をかんじ、ひとりでに涙が湧いてきた、うすぼんやりとした夜の路を、両足がちぐはぐにならうが、手拭が風に吹きとばされようが、娘さんに呼びかけられようが、いまは男の夢中な気持にはさらに感じない、新しい大きな世界から、古ぼけてせまくるしい小路に迷ひこみ、飛びこむやうな感情で眼にいつぱい涙を浮かべて走つた。
 夜(よ)のなかにどうどうといふ冷たいものゝ気配が静かな風鳴りとこんがらがつて遠くに聞こえた。
 男はその響きのするところまで駈けようとするのであつたが、いくらも走らないうちに呼吸(いき)がきれぎれになつてしまつた。

    (十)

 男は体操でもしてゐるかのやうに両手をかつきりとした角度に腰を押へつけ、くるりくるりと絶えず舞つてゐるかのやうに、足もとの石ころや、木の根につまづいて体を躍らしながら、冷たいものゝ方に向つて走つた。
 瀬の早いながれにかけられてゐる橋の上に男は立ち止まつてはぢめて後を振かへつて見た。
 娘さんのはひつて行つた黒い大きな洋館の壁にボッとあかるく四角な光りの窓ができあがつた、娘さんがきつといま室の電燈をともしたのであらう。
 髪の毛がはつきり三本ほどカーテンに映つたかのやうに思はれたがたちまち窓はまつくらになつた。
『娘さんよ、今更わたしは、私の童貞をとり戻して欲しいとは泣きごとは言ひたくはないけれども、せめて私があなたに捧げた真実だけをくみとつて下さいよ。
 その真実だけを、りつぱに着飾つた青春をね、あのとき梅毒患者だといつたことを信じないでくださいませ』
 橋板の上にたつて男はしみじみと空虚を感じた。
『ええ、どうにでもなつてしまへ畜生、肩揚のある騙(かたり)娘、畑の中であのとき何を出しやがつた、袂のなかから脱脂綿なんか出しやがつて』
 黒い四角な遠くの洋館に、眼をみはりながら男はなんべんも橋のてすりを慈しむやうに、手で撫でながら高い声の独語を繰返した、
『ね、娘さん私はなんとも思つちやゐませんから、どうかあの時の私を信じて下さい。どうぞどうぞ梅毒を患らつてゐたなどとは、こけおどかしで、出鱈目であつたといふことを、まさかに娘さんがあの赤い瓦斯燈のともつた、駆黴院のお客さんであるとは想像もしなかつたのですから』
 ふたゝび男は誰もゐない橋の上で遠くの娘さんに哀願をしたがふつと『△△駆黴院』の三等病室のまつ白い壁の中にねむつてゐる娘さんの顔を眼に浮べた。
 そしてその枕元にはきちんと丁寧に折畳まれた、肩揚のある大柄の羽織が見えたので、泣き笑ひに似た狂暴なうめきがよみがへつた。
『どうしようとするのだ、淫売奴首を縊る真似をして見せろとぬかすのだらう、そんな真似はたやすいんだよ、流行り歌もうたへないといふのか、そんなことも容易(たやす)いんだ』
 男は顔をまつ赤に上気させた。それは全身の力を下腹に集中させたからである、それから殆ど臍のあたりまで勢ひよく着物をめくりあげたので、猿股をはいてゐない素つ裸の股にひや/\とした河風がふいた。
 それから両足をできるだけ大きくひろげ、精いつぱい腹に力をこめた。
『騙娘の黴菌を水に流してしまふんだ』
 そよそよと河風は股をくぐる彼はそこでけんめいになつて、神様にでもお祈りでもしてゐるかのやうに白眼をして、高い橋の上から小便をした。
 いくつにも切断された小便の水面に落る賑やかなひびきをききながら、しわがれた呼吸(いき)づまつた咽喉を振り振り
『とてとて……とてと』
とやつとの思ひで喇叭節をこれだけ歌つた。




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