小熊秀雄全集-15
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:小熊秀雄 

 粉おしろいの粉の中に隠されてあつたり、無造作に紙に包んで糸巻き代用にしてゐたりしたので、彼女の留守に家中を探したことがあつたが容易に発見されなかつた。
 以前にも増て殴ることに興味を覚えだした。
 ――しかし自重しなければならないぞ、一撃が五十銭を生むのだ。
 俺は殴ることを自重した、しかし彼女の貯へは長くつゞかなかつた。其後彼女は泣くばかりで遂に立ちあがらなかつた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
裸婦


    (一)

 或る雪の日の午後。
 街の角でばつたり、お麗さんらしい背をした女とすれちがつた。
 女は鼠色の角巻を目深に、すつと敏捷に身をかはしたので、その顔は見えなかつた。
 ――彼女だ、たしかにあの女にちがひない。
 私は断定した、同時にぎくりと何物かに胸をつかれた。
 彼女は雪路を千鳥に縫つて、小走りに姿を消してしまつた。
 ――あの女の素裸を見たことがあるのだ、勿論一物も纒はない、ほんとうの素裸さ。
 私は彼女の通り過ぎた後を振りかへつて、いひしれぬ優越感を覚えたのであつた。
 女達は実際美しい。
 着飾つた彼女達が、街をいりみだれて、配合のよい色彩の衣服をひるがへして往来してゐる姿は、まつたく天国だ。
 黒い雲がすつと走り、急に曇天となり、空の一角がピカリとひらめいたと思ふまに、何かゞくづれるやうな大音響がして、雲の中から大きな青い手が。
 爪の長い手が、ふいに現れ電光のやうに下界に流れた。
 そして手は、一時に彼女達の衣服を空に舞あげたとしたら、彼女達はどんなに狼狽することだらう。
 もぐらもちがお日様に眼を射られた時のやうに、あわてゝ下水溝の中へ悲鳴をあげて裸を隠すだらう。
 しかしそんな心配は不要だ。
 女達といふものは、実に油断のないものである。色情狂が電信柱の蔭から、彼女をおそつたとしても、彼女達は膝をすぼめて、べたりと地面にすわつてしまふだけの用意はいつでもできてゐるものである。
 ――彼女達は何故裸体をおそれるか。
 この問題は、色気のついた女達の口からは到底満足な答を得られない。
 そこで中には、質の悪い大人達が、この種類の質問を発して、子供達の口からたづねださうとする。これはよくあることだ。
 教育上よろしくないことだ。
 私の幼年時代、ある大人が
 ――××ちやんは、誰から生れたんだい、お母さんからだらう、お母さんの何処から産まれたの。
 私の顔を覗きこんだ、なんといふ卑怯な質問といふものだ。
 しかし私は、桃太郎が桃から生れたので
 ――坊も桃から生れたんだろ。
 とは答へなかつた。
 ――母ちやんの臍から産まれたんだ。
 小さい私は一言にかう答へて突放した。
 大人達は、私の口から満足な答を得られなかつたので、不服さうな顔をした。
 私はその当時、そんな問題に何の興味もなかつたのであつた。
 その問題よりも、
 ――どうしたらコマが長く廻つてゐることができるだらう。
 ――戦争ごつこの策戦。
 ――隠れん坊の誰も気づかない隠れ場所。
 かうしたことで小さな頭の中がいつぱいになつてゐた。
 私の答弁は、確に不満であつたらしい、しかし、子供達の答として上できとほめてやらねばなるまい。
 それに子供達は、妹や弟が生れる時にかぎつて、必ず追ひ出すやうに遊びにやられる。遊びからかへつて見ると、母親は、沢山積みかさねた布団の上に、鉢巻をしておきあがつてゐて、赤ん坊がやかましく綿にくるまつてないてゐた。
 だから、何処から生れるとたづねる方が無理であつたのだ、

    (二)

 彼女達が、何故に裸を怖れるかといふことを、知りたいものがあつたなら子供達に質ねた方がいゝ、子供達はきつと真実に近いことをしやべるであらう。
 ところが女達が裸を怖れなくなつたらどうだらう、けつして愉快なことではない。
 或る日、私は裸を怖れないものに脅かされた。
 私は朝湯の陽炎(かげろふ)のやうに立ちあがる湯気の中に、うつとりした気持で、ごし/″\手足を洗つてゐた。
 高い天井の彩色硝子に、たちのぼる湯気が凝つて、その玉が行列をつくつてゐた。
 玉はひとつづゝ間隔をゝき、ぽたり、/\落てきた。
 その落てくる冷たさを、額やら背やらでうけた。
 女湯は寂として、たつた一人の女が、ぴちや、/\、板の上を歩き廻る気配がした。
 私は足音に耳を傾けてゐた。すると不意に男湯の潜り戸があき、男湯に体の純白な女が、獣よりも身軽に躍り込んで来た。
『あつ』と驚いて、仰向いた私の体の上に、彼女の裸体が掩ひかぶさつてきた。
 ――しまつた。牛の化物に殺られた。
 瞬間、私はごつくりと、唾を嚥みこんで手近なところにあつた石鹸箱に手を掛けた。投つけようと思つたのであつた。
 ところが女は私を押倒したのではなく、飛越えて湯槽の向ふに行つたのだ。
 ――爺さん、流しませうか、こつち背中向けなされ。
 湯気の中から、ざら/″\とした触感の女の声がした。
 ――垢も無いやろ、ざつとでいゝぞえ。
 湯気の中の今度は男の低い声だ。
 男湯に、はいり込んできた女はまさしく牛の化物であつた。
 斑点のある生物(いきもの)であつた。
 実に痩こけた老婆であつたが、その皮膚は瀬戸物のやうに、真白に光沢があつた。
 俗にシラコといふ不気味な皮膚をしてゐた。
 二人の痩た老人夫婦は、おたがいの膚に触れあつて、たがひの背中を流し合つてゐる様子が、いまにも崩れ折れさうな枯れ木が、押あつてゐるやうであつた。
 婆さんは臆面もなく素裸であちこち歩き廻つた。
 ――ちよつと、御免なされや。
 かういつて、婆さんは俺の背中に、その人間離れをした白い皮膚の股(もゝ)を触れたりして、平気で湯を汲んだのであつた。
 歳をとると、羞恥心などは遠くに置き忘れてしまふのだ、私はしんみり考へながら慌てゝ湯槽に飛込んだ。
 老人の裸体ほど醜怪なものはない、下腹の皮が、唇のやうに垂れ下がつて、歩く度にぶら/″\と揺れた。
 それにくらべて、お麗さんの体はどんなであつたらう。
 モデル台の上に立(たつ)てはにかんだ彼女は。
 皮膚は張切つてゐて、筋肉はどこもこゝも今にも叫びさうに身構へてゐたのであつた。
 小さな街の画家連は急に裸婦を描きたくなつたのだ。
 冬は青いものがみんな雪の下に隠れてしまふので、情熱家達はその憂鬱な感情の捨場に苦るしんだ。
 ――研究会を開かう、モデル女をみつけようぢやないか。
 気の早い日本画家の蘭沢は、すぐ飛び出て、そして何処からかお麗さんを発見できた。

    (三)

 私達はアトリヱを探し求めた。
 何よりも光線の充分に室内に射しこむ家、そして彼女の肉体を、自由な距離から描くことの出来るやうな、大きな部屋を探し廻つた。
 そして室内は余り大きくなかつたが、明るい一室を、或る風呂屋の二階にみつけた。
 芸術家などゝいふものは、降神術の中の人物のやうなものだ、そのやることが人間離れがしてゐて動作に特色がある。
 一人の素裸の女を、数人の男達が取囲んで狂人眼(きちがいめ)をして彼女の肉体の各部分を、細大洩らさず絵に描きあげようなどゝいふ計画は、この画家仲間を離れては到底思ひももうけぬ欲望であるのだ。
 彼女の体を描くさまは烏が餌を突きまはすやうな現実的なものだらう。
 室は好都合にも総硝子になつてゐた。その硝子に紙張りをして芸術家以外の出歯亀が、外から覗かれないやうにした。
 室には二箇所に、ストーブを据つけ、煙筒も燃えてしまふほど石炭をしつきりなしに投(はう)り込んだ。
 室の一隅に桃色のカーテンを長く垂れて彼女がその中で衣服を脱いで現れてくるやうに設備をした。
 お麗さんは素人娘であつた。
 彼女は処女であると、蘭沢を始め、仲間は力説した。
 画家達は、彼女がまだ着物を脱ぎもしないうちから、もうすでに感激し興奮してゐた。
 ――芸術のために、我々の芸術のために彼女が裸体になつてくれるのだ。
 なんといふ彼女は大きな理解をもつてゐるのだらう。
 新らしい油絵具も買つてきた。
 新らしく画布も張つた。
 すべての準備はとゝのつた。画家達は、お麗さんの麗しい姿を、感謝の心で迎へるばかりとなつた。
 第一日目の日。
 彼女が最初のモデル台に立つ日。
 私の仲間が九人、研究室のストーブを破れる程に、石炭を燻べて室を温め、画架を林のやうに立て彼女の出来(しゆつらい)を待つてゐた。
 彼女はなか/\研究室に姿を見せなかつた。
 ――女は怖気がついたのさ。
 私がかういふと、仲間の一人は打消した。
 ――私は信じよう、お麗さんは芸術の理解者なんだ、待ちぼうけを喰はすやうなことはないよ。
 すると又一人がその尾について
 ――大丈夫来て呉れるよ。わざわざこの室まで借りて準備をすつかりしたことを知つてゐるんだし、あれほど堅い約束もあるから。
 しかし約束の時間から三十分も経つたが彼女の姿が見えなかつた。
 ――それ見ろ、お麗さん逃亡さ。
 私は冷やゝかに一同を嘲笑した。
 仲間は、不安な気持でがや/″\と話しながら彼女を待つてゐた。
 ――おい諸君。お麗さんは風呂に入つてゐたよ。
 頓狂を声をあげて、蘭沢が飛込んできた。
 仲間は小さな歓声をあげた。
 私はぎくりとした。彼女がそれほどに、芸術を愛してゐるとは信じてゐなかつたのに幸彼女が現れたからであつた。
 私はしかしお麗さんがモデル台に立つまではどうしても信ずることができなかつた。

    (四)

 お麗さんは私達を一時間もまたした。
 蘭沢が女湯を覗きに行つてみると、お麗さんが姿見の前で両肌をぬいで白粉をぬつてゐたといふ。
 ――困つたことが出来たよ。念入りに厚く塗つてゐるんではないか。モデルが白粉をぬるなんて、肉体の美感をだいなしにしてしまふ、お麗さんがきたら、この次から白粉をつけないやうに注意してくれ給へな、
 蘭沢は困つたといふ顔つきをした。
 間もなく女は現れた。
 ――遅くなつてすみませんでした。
 彼女は優しかつた。彼女の顔は果して美しく化粧されてゐた。
 私の思つてゐたやうに、彼女は果して裸体になることを怖れた。
 ――着物を着たまゝで、写生して下さいな。
 ――それは困ります実に困ります。
 私達は声を合し彼女に嘆願した。
 ――ぢや半身だけね、腰から上だけ脱ぎませう。妾(わたし)こんなことはじめてなんですもの。
 ――それは困ります実に困ります。
 私達は声を合し彼女に嘆願した。
 ――では思ひ切つてね、すつかり脱いでしまいませう、最初は後を向かして下さいな、わたし恥づかしいんですもの。
 ――それは困ります実に困ります。
 私達は声を合し彼女に嘆願した。
 彼女はカーテンの蔭で衣服をぬいだ。
 ――それストーブをどん/″\燃やせ。
 蘭沢は、大きな声で誰かに命令した、女が素つ裸で姿態(しな)をつくるのはなか/\難かしいものらしい、お麗さんは滑稽な感じに全身をくねらしてモデル台の上に現れた。
 第一日目は、彼女は裸体となつたが、私達にくるりと尻をむけて後向に立つた。
 私達は、ばり/″\絵筆の音をさせながらお麗さんを描いた。
 私達は何故に、彼女の尻を懸命に描かなければならないか、それは芸術のためであつた。
 彼女自身も何故に、自分の尻を男達に描いて貰はなければならないか、それも芸術のためであつた。
『芸術のために』『芸術のために』『芸術のために』この小さな室は、芸術のために暑苦しくストーブは燃えた。
 第二日目
 彼女はこゝろもち体を横に向けた、彼女が体中に厚く白粉をぬつてきたので人々は抗議した。
 第三日目
 彼女はポーズをより大胆に私達の方にむけることが出来た。
 第四日目
 彼女は三日目よりも、より前方に裸体を向けることができた。
 第五日目
 彼女はまつたく私達の前方に向くことができた。
 反対に男達は、彼女の尻に愛着を感じてゐるかのやうに、彼女の前に廻ることを恐れだし、彼女の背後に、背後にと画架を移動さした。
 私と『アーキペンコ』といふ綽名のある秋辺といふ男とだけが、お麗さんの前方を怖れなかつた。彼等は写実主義の画家であつたし私と秋辺とは未来派の画家であつたからだ。

    (五)

 私と秋辺とが、なぜに彼女の真実なものをこはがらなかつたか。
 私と秋辺とは、未来派の宣言書第九項
『吾れら、世界唯一の衛生なる戦争を、軍国主義を、無政府党の破壊的行動を、人を殺す所のうるはしき観念を、しかして婦人の軽蔑を讃美せんとす』
 といふ未来派の主将マリネッツイの『婦人軽蔑』を信じ、これを彼女に適用したのである。
 どうして私や秋辺が、女たちのもつとも軽蔑すべき箇所をおそれる理由があるだらう。
 私をいつか銭湯でおびやかしたシラコの婆さんの様に、私たちの一団のためにまつたくお麗さんも羞恥をうばはれてしまつた。
 女たちが裸をおそれる理由は、お麗さんが全身に濃く白粉をぬつてきてまで、現実的なものを最後まで偽り、掩ひかくさうとする虚栄的な目的にほかならない。
 私と秋辺とは、彼女の前方に、存分に彼女の羞恥をうばひそして最後に馬鹿々々しくなつてきた。
 そしてお麗さんの背後を描き出したころ、始めて羞恥を放り出した男たちが、をそる/\彼女の前方に廻つて描き出した。
 ――秋辺すばらしいものを発見した、婦人にこんな美事にかくれた意志があることを発見したよ。
 ――うむ鋼鉄艦の意志だ。
 秋辺も同感した、不意に女の背中を平手で、ぴしやり、ぴしやりたゝきつけて秋辺は感激しお麗さんを驚かしたのであつた。
 婦人の首筋から背中にかけての感じは、非常にすぐれたものであつた、腕と腕との間隔は広大で、ゆたかな線が盛りあがつてゐた。
 其後私は女たちの最も美しい箇所を、鋼鉄艦の意志をあらはした広い背であることを信じるやうになつた。

    (六)

 研究所は一ヶ月程つゞいた。それきりお麗さんはばつたり来なくなつた。
 それはお麗さんに、画家たちがモデル代を支払はなかつたからであつた。
 研究所は閉鎖しなければならなかつた。その後蘭沢の口から、私の『最後まで疑問にしてゐたこと』お麗さんが少しも裸体をおそれなかつた理由を聞きだすことができた。
 私は最初からの思惑通り彼女が芸術の理解者ではなくて、お麗さんの家は非常に貧困で、彼女が芸術のためにの口実に、両親や、姉妹のために米代をかせぐべくモデルとなつたことが判つた。
 勿論親たちが彼女の裸になつてゐることは知らなかつた。
 研究生がさつぱりあつまらず、それになにかにと経費を意外につかつてゐたので僅か三十円の金であつたがとうとう彼女へは支払へなかつた。
 蘭沢を始め人々は、彼女の裸を散々絵筆で突つき廻した揚句金を払はないなどゝいふ行為をこの上もなく罪悪と感じた。
 ――神よ我々を罰し地獄におとし給へ。
 仲間はかく内心にさけび、そして悲壮な顔をした。
 しかし私と秋辺とは彼女の羞恥心をうばつたことを、彼女への大きな報酬と信じてゐた。
 そして私は、そのお麗さんを描いたもの、その一枚の裸婦の画題を『未来派万歳』と命名したのであつた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
憂鬱な家
     この一篇をマルキストに捧ぐ


    (一)

 屋根の上の物音、禿鷹のやうに横着で、陰気な眼をした、あんまり飛び廻つて羽の擦りきれた鴉の群であつた。
 こ奴等は、私の家の上で絶えず仲間同志争つた。
 私はジット室の中に閉ぢこもつて、この屋根の上を駈け廻る物音を聞いた。不吉な鳥達が、黒いあしうらで跳ね廻つてゐることを知ると、私はたいへん不快な気持にとらはれた。
 そして今度は戸口の物音である。
 近所に住んでゐるらしい病気の犬こ奴の姿も私には気に喰はない。
 何時も腰を、ズルズル曳きづつて歩く、ちよつと見ては、坐つてゐるのか、立つてゐるのか判らない犬であつた、
 この犬が戸口に体を一生懸命にこすりつけて、枯れ草のやうな音をたてるのであつた。
 逃げてゆくその斑犬(まだらいぬ)の後姿を見ると、まるで赤ん坊のやうにすつかり毛がぬけてしまつてゐる。
 頸や肢は哀れに痩てゐるが、腹だけは何つも大きく瓶のやうにふくらんでゐた。
 私の郊外の家を、訪れる物音といつたら、まづこの不吉な鴉と、毛のぬけた犬位なものであつた。
 海のやうに展けた雪原には何日も何日も吹雪が続いた、殊にこの吹雪のやんだ翌日の静けさは、実に惨忍に静まり返つた。
 私の会社に出勤した後の、このぽつちりと雪の中に建つた私の家の中には、どんなに妻は退屈に留守をしてゐるか。
 彼女は、室中に縦横に麻繩を張り廻し、凡太郎のむつきを掛け、どんどんと石炭をストーブにくべて、この黒、白、黄、の斑点のあるしめつた旗を乾かしたり、室中をぐるりぐるり子供を背負つて、どうどう廻りをしたり、また流し元でたつた二つよりない飯茶碗を湯の中でコリ/\コリ/\いはせながら何つまでも撫廻してゐることであらう。
 凡太郎は部屋の真中にほうりなげられ、円を描いてくる/\廻りながら、手近なものを、なんでも口に頬ばる、畳の間から藁屑を摘み出して頬張つたり、乾からびた飯粒、石炭の小さい塊やら、新聞紙の切つ端や、蝋燭の屑、など片つ端から口にいれた、そして嚥み下されるものは嚥み、嚥みこめないものは吐き出てゐたが、看視人である母親は、鈍感であるので多くの場合知らなかつた。
 たまに母親はこれを発見するが落付いたものであつた。
 ――凡太郎、なんだい、今口へ入たものは、まあ驚いた、これは炭滓ぢやないの、なんといふ判らない児だらうね、お前は、口に入れることの出来るものは、なんでも喰べられるとでも思つてるのかい。
 母親は、まだ歩き出すことも出来ないやうな凡太郎に向つて、威猛高になつてかう叫ぶのであつた。
 その頃から凡太郎は、しきりに赤い唇を動かして
 ――あ、あ、あ、あ、あ、
 と意味の通じない、小さな叫びをあげるやうになりだした。
 ――凡太郎は、そろそろ、ものをいひ出すのでは、ないでせうか。
 かういつて母親は、すつかり嬉しがつてゐるのであつた。

    (二)

 私も、凡太郎の『最初の言葉』といふことに、非常に重大な興味と注意とを感じた。
 なにかしら凡太郎が、第一に叫びだす言葉によつて、凡太郎の運命の決まつてしまふやうな、その吉凶を占ふ父親の態度でそれを期待した。
 ――凡太郎の奴。突然新約全書の一章でも、ベラ/″\しやべりだしたら、俺はどんなに吃驚するだらう。
 すると凡太郎の相場は決まつてしまふ。
 親不孝の凡太郎
 父親が、ゲジ/″\よりも、大嫌ひな赤い帽子を冠つて、楽隊附で神様を売歩く西洋坊主。
 救世軍の士官に相場はきまるのだ。
 ――凡太郎。神様のお先棒にだけはなつて呉れるなよ。
 すると急に私の赤ん坊時代。清浄でなければならない第一の言葉が、最初に吐きだされた片言が、なにかしら『泥棒』とか『淫売婦』とか『ごろつき』とか『掏摸』とかいつた風な、世の中でいちばん忌み嫌はれてゐる言葉からでも、始たやうにも考へられ、私はそれを凡太郎に怖れて
『花』『太陽』『蝶々』『お星さま』などと、世の中で精々美しい品々を選んで覚えこませようと努力した。
 しかし凡太郎が最初に覚えこんだ言葉はなんであつたか。
 それは意外にも、私の郊外の家の二つの訪問者であつたのだ。
 ――かあ、かあ、かあ、かあ
 屋根の上の烏の鳴き声と、それから数日して
 ――わん、わん、わん、わん
 玄関口で、皮膚を鳴らす毛の脱けた病気の犬の鳴き声であつたのだ。
 私は落胆した。
 ――凡太郎に合図をしてゐるやうですね、嫌らしい烏。
 妻は天井を仰いだ。いまにも屋根を剥いて持つてゆきさうに荒々しく屋根を渡り歩き烏どもは鳴きたてた。すると妻のいつたやうにいかにも凡太郎はその尾について
 ――かあ、かあ、かあ、かあ
 とやり出すのである。そして不吉な烏と、病気の犬との真似をものゝ十日もつゞけたのであつた。
『唖ではないだらうか』こんな不安を抱き始た。然しそれからまもなく凡太郎は、またもや奇妙な叫びをあげはじめた。
 ――まふ、まふ、まふ、まふ。
 最初はその意味がどうしても私達には判断が出来なかつた。
 ――貴方判りましたよ。凡太郎は牛の真似をしてゐるらしんです。
 妻は、或る日凡太郎を抱きあげながら窓際に立つて戸外をながめてゐたが、突然かういつた。
 私の家の近くに牧場があつた。そしてその牧柵が、私達の家の窓の下までも伸びてつゞいてゐた。

    (三)

 牛達はこれまでは、寒い気候なので、牧舎の中で飼はれてゐたが近頃になつて、晴た天気がつゞくので、牛達は雪の上に散歩にだされた。そして嬉し気に毎日
 ――もう、もう、もう、もう。と鳴いてゐた。
 凡太郎はその牛の鳴き声を覚えこんだものらしい。
 何時も片眼をつむつて考へことをしてゐる、底意地の悪さうな牛の鳴き声を凡太郎が覚えこんだことを知ると、私の理想主義が谷底に転げ落たやうな失望を感じた。
『花』『お日さま』『星』『蝶々』などといふ、麗しいものを覚えこまずに病気のごろつき犬や、不吉な鴉や尻に汚らしい糞を皿のやうに、くつゝけて済ました顔をしてゐる牛共の言葉を覚えこむとは何事だらう。
 ――しかし考へて見れば、無理もないことだらう。
 と私は思ひ返したのであつた。
 教へ込ませようとした『花』などは、冬の真中にゐて、到底子供の眼になど触れることが出来ないものであつた。
『太陽』は雪雲の中に、姿を隠してゐて、少しも顔を見せず、地を照してゐる明りは、太陽の光りではなかつた、雲の明りと雪の反射であつたし。
『蝶々』などの、ひら/\陽炎(かげろふ)の上を舞ふ春の季節には、まだ五ヶ月も経たなければならなかつたし。
 すべてがみな憂鬱な冬の姿の中の、静物のやうに、自分自身がもつてゐる光りで、僅かに自分の周囲の小さな部分を明るくして、生きていかなければならない、惨忍な季節であつたのだ。
 どうして幼い凡太郎が。
 生れてから、まだ一度も春にめぐり合つたことのない凡太郎が。『花』や『蝶々』や『星』の美しさを知る道理があるだらう。
 私の家の、唯一の訪問者である犬、鴉、牛、などの言葉を真似たことが、当然であつたのだ。
 ――色々の真似をするところを見ると、唖でもないやうですね。
 ――うむ。
 と私は妻に、うなづいて心の中で、
 ――今度は、きつと人間の言葉を覚えこむだらう。
 ことを期待してゐたのであつた。
 静かな日が何日も続いた。
 濃霧は、私達の家のめぐりを、とり囲んだ。
 この霧のたちこめた日は、私の感情をさま/″\に変へた。
 美しい夕方の薄い霧は、遠くの方を、幻のやうに見せて、なにか蜜のやうに、甘いものでもあるかのやうに、私をよろこばした。私は凡太郎を抱いて家の前に出て充分に凡太郎の小さい口に吸ひこました。
 すると凡太郎は、しまいには、しきりに嚔(くさめ)をするのであつた。
 怖ろしいのは夜更の濃い霧であつた、重い濡れた幕のやうに、小さな家の上に掩ひかぶさるやうな恐怖を感じた。
 その重いものは、はねのけてもはねのけても、匍つて来て屋根の上に白い獣のやうな腹を載つけた。
 硝子窓から、霧の戸外を覗いて見ると、一寸先も見えない。
 不意に霧の中に隠れてゐる何者かゞ、私達の家にむかつて、弾丸を撃ち込みはしないかといふ、不安に脅かされる日もあつた。
 私の家を訪ねるものは、獣や鴉の他に毎土曜日の、顔の黒ん坊のやうな、煙筒掃除人と、郵便配達の声位なものであつた。
 或る日、不意に二人のマルクスが私の家を訪ねて来た。

    (四)

 郊外になど住んでゐると、色々な物売が、女子供とみれば甘くみて、押つけがましく、恐喝らしく玄関先に品物を拡げ、買つてやらなければ何時までも立去らうとしないことが多い。
 殊に私を憤怒させるものは、神仏の押売をする人達であつた。
 性来神や仏といふものを嫌つてゐる私は、この神仏押売人の撃退策を、平素から妻に教へこんでゐた。
 ――妾(わたし)のところには神棚もお仏壇もありませんので、お札を頂戴してお粗末になつてはかへつて勿体ないと思ひますので。
 私はかう台詞を妻に教へこんであるのだ。
『天照皇太神宮』や『稲荷大明神』や『イヱスキリスト』などのお札売はチ※[#小書き片仮名ヱ、428-6]ッと忌ま/\しさうに舌打をして帰つてしまふのであつた。
 二人のマルクス(私達夫婦はこの二人の青年をマルクスと呼んでゐた)
 二人の青年が、私の家の玄関口を訪れたとき、妻は例の台詞でこのマルクスのお札売を追払つてしまはうとしたのであつたが、二人のマルクスは、一足飛に室の中に襲ひかゝつて来て、盛んにしやべり立たのであつた。
 一人のマルクスは瘠せこけてゐた。いま一人は肥えてゐた。
 肥えた方のマルクスの懐が妊婦のやうにふくらんでゐた。
 肥えたマルクスは、懐中からそのふくれたものを取出て
 ――ぢやらん、ぢやらん、ぢやらん。
 それはタンバリンであつたのだ。
 しきりに鈴を鳴らし始ると、いま一人は古ぼけた皮の鞄の中からポスターを取出て、私の室中にその毒々しい極彩色の絵や統計の描かれたものをべた/″\貼はじめた。
 ――なんといふ遠慮のない人達でせうね。
 さすがに妻は驚いた様子であつた。
 彼等が帰ると、私も議論に疲れそして彼等のいつてゐることが、いかにも真理のやうに考へられて、瞬間興奮を感じた。
 しかし彼等が、霰に頭を打たれて、暗いなかに立去つてしまふと何もかも馬鹿らしくなつてしまふのであつた。すべてが冷静に、憂鬱なもとの姿に還つてしまふ。
 その翌日も、その翌日も、二人のマルクスは私の家をつゞけさまに襲つた。
 そして火のように熱心な態度で私を説き伏せようとしたのであつた。
 鴉、犬、牛、そして二人のマルクス。
 私の静寂な家を訪ねるものはこれだけであつた。
 凡太郎は、いつの間にか二人のマルクスにすつかり馴れてしまひ、抱かれて笑顔をみせたり、ついにマルクスの膝の上に小便をひつかけたりした。
 ――我々の聖なる父、マルクスは。
 彼等は賑かに聖なる父の名を呼つゞけた。
 凡太郎は円い眼をして、この若い来客の、議論の口元の動くのをじつと凝視してゐた。
 足を踏み鳴らし、そして又もや霰に、頭を打たれながら、二人の客は、暗い中を帰つた。
 マルクス主義が、我々夫婦の実生活にどんな役割を演じようとするのか、それは我々家庭にとつて『摺鉢』や『大根おろし』よりも不用な物。愚にもつかない信仰であるのだ。
 私は不意に形容の出来ない笑ひがこみあげてきた、次に滑稽な不安が頭をもたげた。
 凡太郎の次の言葉。突然凡太郎が『マルクス』などゝ叫びだしたなら、私達夫婦はどんなに吃驚するであらう。といふことであつた。
 その時には、私は観念し、凡太郎を蜜柑箱に入て、河に流してやるばかりだ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
泥鰌


    (一)

 夏に入つてから、私の暮しを、たいへん憂鬱なものにしたのは、南瓜(かぼちや)畑であつた。
 その葉は重く、次第に押寄せ、拡げられて、遂に私の家の玄関口にまで肉迫してきた、さながら青い葉の氾濫のやうに。
 春の頃、見掛は、よぼ/″\としてゐる老人夫婦が、ひとつ、ひとつ、南瓜の種を、飛歩きをしながら捨るやうにして播いてゐた。
 数年前まで、塵(ごみ)捨場であつたその辺は、見渡すほど広い空地になつてゐて、その黒い腐つた、土塊は肥料いらずであつた。
 セルロイドの玩具や、硫酸の入つてゐた大きな壺や、ゴム長靴や肺病患者の敷用ひてゐたであらうと思はれる、さうたいして傷んでもゐない、茶色の覆ひ布の藁布団などに、老人夫婦は十日間程も熱心に鍬をいれてゐた。
 鍬が塵埃の中の瀬戸物にふれると、それは爽かな響をたてた。
 老人達の仕事を、書斎でじつと無心に眺めてゐる、私の感情をその瀬戸物にふれる音は、殊に朗かなものにした。
 種ををろしてから、三月と経たないうちに、老人夫婦は、私の書斎からの、展望をまつたく、縁[#「縁」は「緑」の誤植か]色の葉で、さいぎり、奪つた。
 夏の地球は、暖房装置の上にあるかのやうであつた、老人の播いた南瓜の種も、みごとに緑色の葉をしげらし、この執拗な植物は、赤味がゝつた黄色の花をひらいた。
 その花を、たくましい腕のやうな蔓がひつ提(さげ)て、あちこち気儘にはひ廻り、そして私達の住居を囲み、私達夫婦の『繊細な暮し』を脅かしはじめた。
 この南瓜畑に、取囲まれながら私達は、結婚後三年の夏を迎へた。

 妻は、シンガーミシンを踏むことが巧であつた、青丸(あをまる)には、いつもあたらしい布地に、美しい色糸でさ/″\ま[#「さ/″\ま」は「さま/″\」の誤植か]な図案の胸飾をした、涎掛を、つくつてゐる。
 妻の愚鈍さに、二年程前からつく/″\愛憎を尽かしてゐるのであつたが、このミシンの巧さが、妻にとつては唯一の取柄といつたものであつた。
 ――ミシンを踏む彼女。
 その時こそ、何時よりもまして聡明な場合の彼女であつた。
 ――おい、自分の指を感心に、縫はないな。
 調子のよい響をたてゝ、ミシン台にゐる妻にかういふと、
 ――それほどに、馬鹿ぢやないわ
 とチラリと軽くふり返つた。
 だがこの聡明な仕事も、南瓜の花の真盛りのころから、ばつたりと止してしまつた。
 炎天が幾日も、幾日もつゞいたその後に、今度は雨が幾日も、幾日もつゞくのであつた。
 すると妻は、急に私にむかつて口小言をいひはじめた。
 ――ほころびがあつたら、早くいつて下すつたら、いゝぢやありませんか、出掛にばかりいはないでね。
 ――男が、どこが破れてゐるの、ほころびてゐるのと、いち/\注意してゐられないよ。そんな仕事が女の仕事ぢやないか。
 妻は私の手から、着物をひつたくつて、その布地を歪ませながら針を運ばせ、不平さうな顔をするのであつた。
 ――まあ、こんな下駄の減らしやうて、ありませんわ、上手に減らすもんですよ。もつと平均にね、坂になつてるぢやありませんか。
 玄関口に女は下駄を揃へながらかういふ。
 私は内心、いま/\しく感じ、
 ――下駄を減らす男は純情さ。履物を気にして歩いてゐる男に、ろくな男がありはしないよ。
 私はベッと地に唾をして外出するのであつた。

    (二)

 何処の家庭でも、夫婦喧嘩の材料といつたものは、さう眼あたらしいものが次々と、湧いてくるものでもないやうに、二人にとつてもその種は尽きた。
 その種の尽きた時、どうしても争はねば、気が済まない場合には果ては食物の嗜好のことが、唯一の争ひの題材となつた。
 ――俺は酢の物は大嫌ひだと、あれ程いつもいつてゐるではないか。
 ――でも。
 ――何がでもだ。調味料として、我々の家庭には、酢は絶対に使つてはいかんよ。
 私はホテルの支配人のやうに、肩をいからして、この料理人にむかつて命令をしたのであつた。妻は一瞬その眼をほがらかにして、
 ――でも酢の物を喰べると、骨が柔かになるといひますわ、
 と答へるのであつた。そして妻は、支那人の曲芸をやる者は、酢を飲んでゐること、平素酸性の多い食物をとつてゐると、たしかに身体が柔かになり、したがつて女の容姿(すがた)がよくなること。婦人は身嗜みとして、平常から食物の上にもこの位の細心な注意が要すること。などゝ急に雄弁になつて、彼女一流の理屈を述べたてた。
 ――蛇のやうに、醜悪な姿態(しな)をつくつて、街を歩いてゐる女をよく見かけるが、あれなどは酢を飲みすぎた女だな。
 私は思はず苦笑して、妻の顔を見あげたのであつた。

 晩飯には、彼女は、ないことに変つた調理で私の舌を喜ばした。
 それは牛肉に胡椒を振かけたものであつたが、脂肪がすつかりぬけてしまつてゐて、サラ/\とした、淡白な味のものであつた。
 精一杯に、その肉の料理をほめそやすと、彼女は、得意さうにその調理法を語るのであつた。
 ――いかにも、お前らしい、ふざけた料理法ぢやないか。
 私は、呆れ果てゝ、その皿の上にのつた肉の数片を眺め見た。
 肉を何時間となく気永に脂肪のぬけきるまで、煮沸したものだといふ。
 精分の多い煮汁はみな捨てゝしまひ、肉の煮出し殻を皿に盛つたものだ、かうした些細な食膳の変化にも感激するほどに、妻の献立表は、毎日のやうに単調を極めてゐたのであつた。
 食後、私は何かしら彼女と青丸との心を浮き立たせなければ、申訳のないやうな気持になつた。
 晩酌の酔ひも手伝つて、私は着物をぬぎ捨て、猿股ひとつになつて、青丸の前に、ワンワンと犬のほえる真似をして、座敷中を四ツんばいになつて駈廻つた。
 ――さあ、今度は狼だ。
 うなり声をたて、坐つてゐる青丸の頭上を、幾度も跳躍した。
 青丸は上機嫌で、声を立てゝ可愛らしく笑つた。
 妻はたいして愉快でもないらしく、折々青丸に調子を合せて、苦笑するにすぎなかつた。
 ――今度はロシア舞踊だ、ニジンスキイもはだしの旋律舞踊だ。
 青丸にむかつて、かういつて踊りだしたが、小さい青丸は私の舞踊のよさは到底理解出来ないので、私は実は彼女にむかつての公開であつたのだ。
 踊りながら、猿股のひもを引くと、猿股は波を辷る漁船かなにかのやうに、冷たい触感で落(おち)、まつたくの素裸となつた。腹部のあたりに、白々とした寒い風がまとはりついた。
 三年前の彼女であれば、男の素裸を見て、驚死したかも知れないが、現在の彼女にとつては、大してその気持を引きたゝせることでもなかつた。
 妻はにこりともしなかつたので、私は羞恥に似たものを感じ、大いそぎで、猿股をはき、浴衣(ゆかた)を着てその物静かな舞踊をよした。

    (三)

 二人の生活には、弾力のないゴムのやうな、救ひのない一条の脈がつらぬかれてゐるやうに思はれた。
 女もまた、救ひのない脈を、内心深く感じ、これを怖れてゐるらしく、青丸のよだれかけに赤三角に黒い縁取りの衣匠を、念入りに縫ひ取つたものを作つてやつたり思ひがけない、かはつた美しい草花を、私の汚れた机の上の、花瓶に、不意に□してをいたり、電燈の球をふいて(彼女が球をふくなどゝいふことは、実に稀であつた)急に室内を明かるくしたりして二人の感情を朗らかに、更新させようとする、色々の苦心も、まざ/″\と感じられた。
 だが私は、外出から帰り、青丸の新調のよだれ掛けをほめる前に
 ――青丸の額の、禿あがり具合まで、俺にそつくりぢやないか。
 と、まずしひて、不機嫌に憂鬱な眼となつてから、青丸のよだれ掛けを賞めた。
 あやしい老人の精気の凝つた、南瓜畑は、日中の晴天のもとに、その翼のやうに、重い大きな葉をひろげた。
 ――若さの奪略のために、植た南瓜畑だ。
 と、この茂みのどこかで私にむかつて語つてゐるやうな、幻想にも陥つた。
 ――少し神経衰弱の気味ではないだらうか。
 私は心にかうつぶやき、白地の浴衣に着替へ、することもなしに机の前に、気むつかしい気持ちで坐つた、青丸と妻とを、その前にすゑて、理由のないことを、長々としやべりたてゝも見たい惨忍な気持ちになつた。

 家根(やね)に巣をつくつてゐた、雀の子が、ある朝、天井裏に迷ひ落(おち)、チイ/\悲鳴をあげて、天井板をあるき廻つた、私はその逃げ場をつくつてやるために、天井板を一枚はづしてをいたが、雀の子は明かるみを発見して、果してそこからパッと室内に舞(まひ)をりた。
 ――すつかり、障子をしめきらなければ逃げてしまふぞ。
 ――茶箪笥のかげに入りましたね、こつちの方に顔を出しましたよ。
 この出来事のために、私達は騒ぎ立て、バタ/″\逃げまはる雀の子を室中をひ廻し、妻もまた近頃にない、朗かに晴れた顔をした。
 捕へた雀の子の足に、もみの布をゆはひつけて放してやつたが翌朝歯を磨いてゐた妻が、不意に頓狂な声をたてた。
 窓際の柵の上に、前日捕へた雀の子が、もみの布を、ぶら/″\さげてとまりしきりにあちこち見まはしてゐたからだ。
 ――あんなものを、足に着けてゐては窮屈だらうな。
 私もかういつて妻と声を合せその雀の様子がおかしいといつて笑つた。不意に私達の暮しの背後から、又は横合からでも、思ひがけない処から思ひがけない物が、飛び出してくると、必ず私達の生活が晴(はれ)々と、あかるくなるに違ひないことを私は確信した。私はこれを私達の『奇蹟』と名づけた。
 ぼんやりと、その奇蹟を待ちうける気持ちは、私達夫婦にとつては、ずいぶん久しいものであつた。だがその霧のやうな捕へどころのないものは、大股に、また小きざみに、私達の知らぬ間に住まゐの傍を通りすぎてゐるかのやうに思はれた。

    (四)

 隣家の妻君が朝飯の最中純白な西洋皿に、体裁よくならべた泥鰌の蒲焼を盛つたものを手にして裏口に現れた。
 ――奥様、今朝は面白うございましたよ。
 かういつて、隣家の妻君はその皿を意味ありげに差し出すのであつた。
 ――まあ、おいしさうな、これは御馳走さまです、始終いろ/\戴いてばかりをりまして。今朝なにか御座いましたのですか。
 ――それが騒ぎなんですよ。前の溝に泥鰌が押寄せてきましてね。近所ではザルをもちだしたりして。
 と隣家の妻君は語るのであつた。
 その朝にかぎつて日頃早起きの私達は寝坊をしたのであつた。
 そういはれゝば、私は夢うつゝの中に、人々の立ち騒ぐのを聴いた。チャブ/\と水を歩き廻る気配や、女の声や、子供のはしやぐ声を玄関先にきいた。然し二人の床を離れた頃には、これらの物音は消えて、ひつそりとした朝であつた。私の住居の前一間と隔てずに幅三尺程の流れがあつた。小川といふよりもいつも濁つてゐたので溝といつた方が適当と思はれた。この流れは水田の排水口につながれてゐるので、この溝は水がから/\に涸れたりいつぺんに増水して溢れたりした。前夜の豪雨に田の水があふれ一気に田の中の泥鰌をさらつてこの溝に押出してきたものらしい。隣家では、一家族総出で米揚げ笊を持ちだして二升位もとつたといふことであつた。
 隣家からの泥鰌の蒲焼を食卓のまん中に置いた。
 その香気のあるおいしさうな匂は私の鼻をかんばしく衝いた。
 ――お前は、ないことに今朝は寝坊をしたね。
 私の妻に対する言葉は表面穏かであつたが思ひがけない幸福をとり逃がしたやうな、腹の何処かに滑稽な悲しみに似たものがこみあげてくるのであつた。
 ――わたしも、今朝なにか騒がしいと思ひましたよ。
 ――思ひついたら起きて見たらよかつたぢやないか。
 青丸はしきりに、小さな手で食卓の上にはい上がらうと努力してゐたが急にむせびだして顔を火のやうに赤くしだし、喰べてゐた飯をテーブルいつぱいに噴きだし激しく続けさまに咳をしだした。
 いかにもその咳が苦しさうであつた。妻は慌てゝ強く青丸の背を平手で打つた。青丸は眼を赤く充血さして、ゼイ/″\と壊れた笛のやうに、のどをいはしながら、鶏のやうにのどをながく伸していつまでも咳をし続けた。
 ――貴郎(あなた)、青ちやんは、百日咳に取りつかれたんぢやなくつて。どうもさうらしいわ。
 妻は心配さうに青丸の様子を窺ひながら私にかう問ふのであつた。
 ――そんなことはお医者ぢやないから知るもんか。
 私はかう邪険に突離してをいて泥鰌の蒲焼のひとつを口にほうりこんだ。妙に乾燥した風味と、そして泥鰌の背の軽い骨とを歯に感じた。しかしその香気は風に散つてしまつたかのやうに何の味もないものとなつてゐた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
雨中記


 電車を降りて××橋から、雨の中を私と彼とは銀座の方面に向つて歩るきだした、私と彼とは一本の洋傘の中にぴつたりと身を寄せて、黒い太い洋傘の柄を二つの掌で握り合つてゐる。
 男同志(ママ)の相合傘といふものは、女とのそれよりも涯かにもつと親密な感じがするものである、殊に私は彼とこんな機会でなければ、おたがひにかう激しく肩を打ちつけ合ふことはあるまいと考へた。
 彼の肩は大きい、私の肩は瘠せて細い、彼の肩幅の広くて岩畳(ママ)な傍に添つてゐるだけでも何かしら安心ができる気がする、また彼の額は深く禿げあがつて赤味を帯びて光つてゐる、彼がのしのしと歩るいてゐるのに、私は気忙しい足取りで、それに調和しようと努力する、彼の醜怪なほど逞しい赤い額は、暗い雨雲も押しのけてしまひさうな頑健さだ。
 二人は雨の日に銀座の散歩に来たといふことを少しも後悔はして居ない。
「濡れるぞ、もつとこつちへ寄り給へ、情味は薄暮れの銀盤をゆくごとしだね」
 私はかう言つて彼の方に余計に洋傘をさしかけながら、雨の路面を見た。
 路面には少しの塵芥もなかつた、連日の降雨に奇麗に洗ひ流されたのだらう、数枚の広告ビラらしい小さな紙片が散らばつてゐたが。
 その紙片は実に雨にも流されないほどに執念深く、鋭どい爪をもつた羽のやうに舗石にへばりついてゐた。
 もし塵芥めいたものを、洗ひ流された路面に求めるならば、彼と私との惨めに歪んだ靴であらう、二人の靴は大きな黒い塵芥の凝固のやうにも見えたからである。
 私はその靴の先で、降雨の中の広告ビラの一枚を蹴つて見た。するとこの青味がかつた濡れた紙は、カマキリか小さな蜥蜴かなにかのやうに、カッと口を開いて、赤い舌をさへ見せて不意に私の靴先に噛みつく、
「なんて悪意に満ちた奴だ」
 私は舌打をして、憎々しくビラを微塵になれと強く踏みつける、私は同時にその紙片を二重に憎悪した、それは建物も低く少ない、田舎の街での出来事であつた。
 秋の風が街を幾度も吹きすぎる、私はその激しい風に向つてなんの持ち物もなく、行軍かなにかのやうに一生懸命になつて歩るいてゐる、砂塵がバラバラ頬を散弾のやうに打つ、私は何度も立ち止まつて休息し、風の凪ぎ間を見てまた歩るき出す、すると不意に私の眼と口とをふさいだ大きな掌があつたのだ。
 私はこの寂しい街で露西亜の強盗にでも逢つたやうに驚ろき慌てて、その巨大な掌をはらいのけた、私を窒息させようとした掌は、風に飛んできた活動写真のビラであつた。
 その時私は広告ビラを心から憎んだ、そしてまた人間の顔を掩ふほどの馬鹿気て大きなビラの注文主を憎み、風の日のそのビラの撒布者をも憎んだことがあつた、いままた都会の舗石道で、同じやうなビラで靴を噛まれたのであつた。
 憎悪すべきものや、親愛なものは、こんな愚にもつかない紙片にもある、私はかう感じた、すると憂鬱な気持がどこからともなく襲つてきて、彼と洋傘の柄を握り合つてゐるといふことがとても堪へられない事に思はれだした。
 私はじつと頭上の傘に雨の降つてゐるのを仰ぎ見た、それから彼の横顔を盗み見た、その時、私は二つの感情が一本の洋傘の柄を中にして、微細に働き合つてゐることに気がついた。
 二人は柄を押し合ひ、へし合ひしてゐるのであつた、一本の傘は絶えず一方の肩を濡らさなければ、一人が完全に雨を避けることができない程小さなものだ、そこで彼も私もおたがひに譲歩し合ひ、自分の体が雨にすこしも当らぬときは、必らず相手の肩を濡らしてゐることを考へなければならなかつた。
 その仕事はなかなか苦痛であつた、洋傘の柄を二人で握り合ふことの容易でないことを思つた、それに私は彼を自分よりも多く雨に濡らしてゐるのだ、その上に私は激しい欲望が湧いてきて、これらの非常に円満な謙譲や、生温かい友愛や、を憎みだし軽蔑しだした、動物的な本能は、彼からその傘を奪ひ去るか、彼にまつたく傘を与へて自分はズブ濡れで歩るくか、どつちかに決めなければ気が済まなかつた、私はジリジリと柄を手元に引き寄せる、あつけない程柔順にその柄は引き寄せられる、然しあるところまで来ると彼はその柄をピッタリと押へる、それから彼の利己心は、次第に私の手元から傘を引戻さうとするその彼の感情は醜いものではなくて、常識的すぎるほど世間なみなものだ。彼はそして私の傘の柄をもつことにさへも、このやうに激烈な気持をもたなければ気が済まない性格を不思議に思ひ、笑つてでもゐるかのやうであつた。
 雨の日の電車線路は、鈍重な刃物をおもはせた、ここの十字路を踏み切るときには、洋傘を彼に手渡し、私は彼にはお構へなしにどんどん駈けて向ふ側に渡り、商店の雨覆の中に入りこんで彼のやつて来るのを待つた。雨の日の轢死、私はそんな恐怖にとらはれてゐた、雨の日の轢死は私の血を跡形もなく流し去る、そして体は散々になつて、その附属物のかならず一品を失はふ、例へば舌とか足の親指とか、甚しい時には頭が夜更けの車庫まで運び込まれて、検車係りの安全燈に照しだされたりする、私はそんな目に逢ふのは嫌だと思つた、往来する電車は何時も見る電車よりも、少しく大型に脹れて見えた、乗客もみな鳥の翼のやうに、だらりと袖をさげてゐた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
諷刺短篇七種


  盗む男の才能に関する話

 痩せて背の高い男が、夜の縁日を歩るいてゐた、賑やかな人通りの群から、最も眼の穏やかな人間を選むとすれば彼だらう。眠つてゐるとも見える彼の眼は、糸を引いたやうにしか開かれてゐない。
 彼は群集にまぢつて、縁日の玩具にながめ入つてゐた、其処の金盥の水の上には、三艘のブリキ製の舟が、小蝋燭をもやすことで、物理的に走り廻つてゐた。
 彼は玩具を眺めながら、悲しさうな表情をした、実はこの玩具の考案は、この男がしたのであつた。
 彼は二度目の、窃盗、文書偽造の刑期を勤め上げる間に、刑務所の中での退屈な時間をこの玩具の考案に費したのであつた。出獄した彼はこの考案を金にしようとしたが、思ふやうにいかず、前科者の故で職もなく、再び生活に窮した彼は、癇癪を起し、彼にとつて最後的な生活方法である忍びの術に還つたのであつた。
 三犯目の年貢を収めて、彼はつい昨日刑務所を出た許りであつた、彼の刑期中に誰の手からともなく、彼の考案とそつくりのブリキの舟が縁日に売り出されてゐるのを、彼はいま発見したのである。
 盥の中の三艘の舟は忙がしさうに走り、折々船端を打ちつけ合つて、盥の岸に停つた、夜店の玩具売りの男は、一刻も安息をゆるさないといつたふうに、指で邪険に舟を岸から突き離した。
 彼もまた突き離されたやうに、夜店の人の群から離れて歩きだした。
 今度も刑期中に彼は三種の考案をしてきた、一つは『自動食器洗ひ』で他は『地引網の浮子(うき)の改良』と『魔法の折紙』と彼が名づけたものであつた。魔法の折紙とは、一つの基本的な折方から出発して、様々の形に三十七種まで麒麟やら、扇やら、機関車などに変化するもので、彼は獄中で差入れの塵紙を根気よく折り返して考案したのだ、発売したら子供達が喜びさうなものであつた。『自動食器洗ひ』は、ハンドルを廻すことで、沸騰した湯のいつぱいな円筒の中で食器は洗はれて飛び出す、すべての家庭婦人、殊に炊事の為に、荒蕪地のやうに荒れ、ヒビ割れた手をもつてゐる女中達が、彼の発明品が世に出ることで救はれることを、彼自身信じてゐた、然し彼は之等の有益無益の発明考案を、商品化することが出来なかつた。
 社会は――刑期が満ちて当人の罰が終つて仕舞へば、全然もう放うたらかして仕舞ふ、即ち、当人に対してその最高の義務の生じようといふその瞬間に、全然彼を見捨てて仕舞ふとオスカア・ワイルドが受刑者を哀れんだ言葉があるが、彼も一歩刑務所を出るや否や、社会の義務は彼を離れた。
 途端に彼の住所へ顔見知りの刑事が『おゝ居るか――』と訪れてきた、彼は更に新らしく監視されるといふ義務を負はなければならなかつた。
 彼はいま懐中から手帳を取出して、歩きながら書いてある事柄を調べ始めた、手帳には『お召羽織二十歳位花模様』『男帯綴織風のもの』『三十五六歳向ショール茶色』『上等ウヰスキイ三本贈答用』などと書かれてあつた。
 彼はこれらの品物を、デパートの各階から選択して盗むのである、彼の出獄を歓迎するものは、彼の盗品を喜んで引受け金に代へて呉れる怪しい家だけであつた。
 彼は発明品への投資者を求めながら、己れの才能に反する万引や窃盗をして歩るくのであつた。

  暗黒中のインテリゲンチャ虫の趨光性に就いて

 暗黒中の『下等動物の趨光性学説に就いて』といふ興味ある林泉太郎博士の研究発表の講演は終つた。
 人々は講堂から控室へ通ずる細長い廊下へでた。廊下はさして暗いとはいへないが、しかし三時間もの長い講演の疲れと、学的興味で人々の頭はいつぱいになつてゐたし、また講演の性質上、廊下の暗さが人々を運命的な感傷にとらへたのであつた。
 当日の講演が如何に感動的であつたかといふことは、聴講の学者達がうす暗い廊下を満足に前進することができない程、興奮してゐることでもわかるのであつた。
 吉本博士は、たえず人さし指で廊下の壁にふれ、頭を垂れて、非常にゆつくり歩き、そしてじつと立止つて思索にふけつてゐる時間の方が長かつた。潮博士はふかく腕を組み、軽く靴を鳴らして、三歩前進しては、体をくるりと一廻転するのであつた。
 人々がみな去つてしまひ、がらんとした講堂の中に、野村長命博士が腑抜けのやうに、前方の黒板に、講演者がチョークで書きのこして去つた、直線や、電光形や、渦巻きやの白線を凝然とみつめてゐた。博士の洋服のやせた膝の上に、ぽとりと小さな滴が落ちた。滴りは博士のめくれた唇の端から粘液となつてだらしなく膝の上に落ちたものだ。しかし決してヨダレと速断することは出来ない、なぜといつて両眼から液体が二条の帯のやうに頬を光つて下り、鼻下の薄い髯の中にいつたん収容されてから、口に流れ込んでゐることを発見出来たから、膝の上に落ちた液体は涙でなく、又鼻水でなく、よだれでもなく、これらの三つのものが化合したものといへるだらう。
 野村博士は泣いた、それは無理もない、林泉太郎博士の今回の研究発表によつて、野村博士の従来の暗黒中の幼虫の光線に対する反応が、光度、感受性、内的傾向の三つよりなるとする三大原則は脆くも打破られたのであつた。
 野村博士は腰掛けを立ちあがつて黒板に近づき、講演者の描いた図式を、消したり、かき加へたり始めた。
 これまで実験に供してゐた下等動物は、梅毛虫、ヨトウムシ、モンクロシャチホコ等であつたが林泉太郎博士は新らたにインテリゲンチャ虫といふ新種を発見したのであつた。暗黒の箱の中に、これ等の下等動物を入れて、きまつた時間だけ這ひまはらす、之等の下等動物の行動は、箱の底に敷かれた科学的な媒紙に虫の歩いた足跡がそのまゝ白く記録される、暗黒中の梅毛虫は、ただぐるぐると円を描いてゐた。ある虫はイナヅマ型に光りを求めて足跡を媒紙の上に残してゐた。そして梅毛虫より、はるかに感受性の鈍な愚かしいヨトウムシ、こ奴は、平素地下又は植物の茎の中に潜入してゐるのだが、より下等なこの動物が、意外にもいかにも自信ありげに直線的にすすんでゐるのだ。
 暗黒中に今度は光線を一ヶ所、又は二ヶ所あるひは交互に点滅させてから、その光りを求める行動を実験するのだ。
 博士は黒板に倚りかかり、長い吐息をしてからほそぼそと呟いた。
『ところでどうぢや、わしの負けぢや、インテリゲンチャ虫は、光の中に開放されても光刺戟によつてかへつて行動が抑圧されて、同じ処をぐるぐるまひぢや、わしは敏感な知識人だ、だがどうぢや、わしの学説はぐるぐる舞をやつてゐる、光、希望、直線、暗黒、宿命、ぐるぐるまひ、あゝわしの人生はまさに後者ぢや』敗北者野村博士は突然激しく、白墨を持つた手を痙攣させた、何か博士の体に異状が起つたにちがひない、博士は遠くに、夢のやうに笑声をきいた、片足の膝頭は弾丸のやうな音をたてゝ床板にうちつけられ、博士のからだは脆く崩れた。

  深海に於ける蛸の神経衰弱症状

 有名な潜水鉄球に依る探海家であり、且つ医師であるロバトスン博士は、八百米の深海に助手と共に降りて行つた。
 前面硝子を通して、一尾の奇怪な軟体動物を発見した、博士は早速助手に命じて、鉄球内から照光器の光りを、この動物にむけ、照らし出させ、しきりにこの深海動物の動作を視察したのであつた。
 この動物は、一個の頭と四本の足とをもつてゐて、何か枕様の物体に、その頭をのせ呻吟してゐる風であつたが、博士はこの動物が蛸であるといふ見極めをつけるのに、かなり長い時間をかけなければならなかつた。
『博士、蛸にしては肢が四本よりありませんが――』
『××助手、彼奴には立派に八本の足があつたのさ、よく注意してごらん、ほら根元から千切れた痕が四ヶ所あるだらう』
『ぢやあ、何かに喰ひ千切られたわけですか』
『さうだよ、鱶か何か鋭利な歯をもつたものにねつまり深海に於ける階級闘争に負けたのだよ』
『ほう、そして何故あゝ身悶へして転んで許りゐるのでせう』
『つまり頭が大きすぎるのだよ、頭が自由主義だが、足の行動が伴はないといふわけさハハハハ』
『博士、アンコーの群が泳いできましたよ』
『み給へ、あいつらは蛸のやうな頭は持たないが、そのかはり自分の身の巡りを照らす発光器をもつて群集行動をしてあるける悧巧ものだ、ところで助手君はこの蛸の職業を知つてゐるかね』
『職業といひますと、深海に於ける蛸の社会的地位ですか、たとへば官吏であるか、商人であるかといつた――』
『さうだ、彼は私の観察では、小説家だと思ふね、ほらよく注意して、彼の足の一本に、特別大きなイボのあるのをみつけ給へ、つまり彼は平素これにペンのやうなものをはさんで、ものを書いてゐた職業にあつたのだ、つまりペンダコと認めたいね』
 そのとき海底に異常な出来事がおきた、博士は衝動的に、手をもつて助手を制し、それから蛸を驚ろかせないために、照光器の光りをうすくし、潜水鉄球の位置を移動し、蛸に接近し、じつと二人は眼を凝らすのであつた。
 蛸はそのとき何やら小さな棒状のものを、海底から拾つては、傍のおそろしく大きな学名マクロシスケス・ピリフヱラといはれてゐる海藻、一つの根で六百六十尺にも達するものその茎の一部へ蛸はしきりに、小さな棒を拾つては、忙がしさうに押してゐるのであつた。
『あッ、博士、彼は印刷活字でしきりに押してゐます、どうしてこんな処に活字の字母など』
 博士は微笑した。
『あわてることはないよ、彼は海の自由主義者である、しかし問題はどうしてかういふ深海に活字があるかといふ疑問だ、おそらく何処かの都市で事変でもあつて、新聞社の活字が大量に河に投げ込まれたのだらう、それが海流の関係でここまできた、彼がいまこゝで拾ひ集めて何か記録してゐるのだらう』
 博士と助手は固唾をのんで、傷ついた蛸がせはしげに海藻の茎に押してゐる文字を読みとらうとした、そこには斯う印刷されてあつた。
『あワレな自由しゆ義者の神経スイジャクをおたスけ下さい』

  芸妓聯隊の敵前渡河

 燈ともし頃、大森の料亭『資本』に、三人組の定連がやつて来た。
 読者諸君でもし料亭の名が『資本(しほん)』など、をかしいとお思ひになつたとすれば、それは諸君が野暮天であり、少くとも粋な御仁でない、玄関で下駄をぬぐのを中止して、もう一度表門へ引返し、軒燈の文字を見あげて欲しい、そこには『すけもと』と書かれてある筈だ、傍の門柱には、この家の主人の名が『資本主義(すけもとぬしよし)』とあることが判るであらう。
 着流し一人、洋服二人の、定連三人組の素性に就いては、今から三年前、この人々が始めて遊びに来た頃にさかのぼらなければならぬ。
『ちよいと、旦那、あなた○○さんでせう』と十六歳の半玉雛太(ひなた)に看破されてしまつた。
『うへつ、当つちよる、烱眼ぢやわい、どうして判つたか、言つて見い』
 と着流しの客は、素直に兜をぬいだ、半玉は誇らしさうに白眼づかひの微笑をもらした、無邪気な半玉は、○○の膝の上で、右手で客の首を抱へ込み、コンパクトの鏡を、客の鼻先に突きつけるのであつた。
『ほら、旦那のこゝに、白い条が額にあるでせう、皆さんも御覧よ、これが露満国境なの、髪の毛のある方は森でロシヤだわ、顔の方は満洲国でせう、耳の方が蒙古でせう』
 雛太は客の額を、可愛い指でつゝきまはした。
『もうよいよい、白状する、いかにもわしは露満国境から帰つてきた許りぢやでな、帽子の日焼がまだとれんで、すぐ○○と判りをるわいハハハハ―』
 客と芸妓達は笑ふのであつた。
『然らば小生の職業を当ててみい―』とその時一人の洋服の客はいふ。
『あら、旦那は、ブルジョアでせう』
『ブルヂョアはよかつたね、露骨な奴だなあ、いかにもさうだよ』
 雛太はチラと姉芸妓に眼をやつてから
『姉さんが教へてくれたのよ、洋服のチョッキの釦が掛らない位、肥へていらつしやるお客はブルヂョアだつてさ―』
 なるほど客はチョッキの下釦が三つもはずれてゐるのであつた。
『いかにも、わしは肥へてゐるでのう、近頃の女の子は眼が利くわい』

次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:185 KB

担当:undef