小熊秀雄全集-15
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:小熊秀雄 

 なんべんとなくそんなことをやつてゐるうちに、とうとうその娘さんの注意を男はひくことが出来たし、その上この娘さんがけつして松の木に住んでゐる毛虫と同じやうに男を怖ろしがつてゐないこと、かへつて自分の手をふれることを嬉しく思つてそつと掌を動かしたことなどを知つたので男は非常に面白がつた。
 娘さんは赤い前垂をしめてゐて十七歳ぐらいであつた、そして羽織の上からその前垂の紐を強くしつかりと締てゐるといふことが、いかにも厳格な家庭に育つた一人娘で、こんな淫らな盆踊りなどを見物にこられないのを、勝手仕事のひまを盗んで駈けてきたといふ、しんなりと曲がつた風情をして樹にもたれてゐた。
 ことに男にとつて嬉しかつたのは娘さんの着物がすべすべとした絹物であつたことゝ、まだ肩揚げが羽織についてゐたといふことであつた。

    (二)

 男は娘さんの肩揚げを発見すると急になんといふこともなく元気づいて、それから二度踊つてから思ひきつて娘さんの肩のところに強く自分の肩をうちつけてみた。
 娘さんはきらりと夜(よ)の中の犬のやうに白眼を光らしたきりで、たいして男を怖ろしがる風も見えなかつたので安心をして、こんどは踊りの輪をすらりと魚のやうに脱(ぬ)けて娘さんの立つてゐる膝のところの暗さにふいにしやがんで平気な顔をしておどりの輪を見返した、それからそつと下から空を仰ぐやうに、娘さんのあごをしげしげと見物した。
 男はしやがんでゐる自分の足をながめて、けつして毛脛は男として恥べきものではない、と男の仲の善い或友人が言つた言葉をふと思ひ出して、ひとりでににや/\と笑みが連続的にこみあげてきたので、てれ隠しに頬冠の手拭ひをかむり直して鼻だけ出した。
 見あげてゐる娘さんが、いかにも完全無欠な、りつぱな肉体に見える、その足もとに、しよんぼりとやすんでゐる自分の姿がいかにも、みぢめに思はれたので、男はぐつとさかんに眼球をみはつたり動かしたりして秋空の一角に、きら/\と光つてゐるいくつかの星を見あげた、しかし豆絞りの頬冠をしてゐるといふことが、いちばん気がゝりになつて悲しくなつたが、さりとてその頬を風に晒すといふことが気恥かしく思はれたのでじつと何かを鉄砲で射撃をするときのやうに、眼を片つ方だけぐつとひきしめて、びく/″\頬をけいれんさした。
 男はたいへん慌てだした、いつまでもこんな状態でしやがんでゐることができないこともわかつてゐるし、また手拭ひをぱらりと木の葉のやうに、とり除いてその頬を娘さんに見せて了ふか、手拭ひをかむつたまゝで、この娘さんの手を思ひきつて眼をつむつてぐつと一思ひに握つて了はうか、ふたつにひとつより他に分別がなかつたからであつた。

    (三)

 そのうちに娘さんがすらりと撫で肩である割に肥えた肩をもつてゐるといふことが男の眼をたいへんしげきしたので、よりかゝるやうに胸を動かした、はずみに乗つて力いつぱい娘さんの厚ぼつたい肩を手で押しつけてしまつてからはつた(ママ)思つた。
 しかしそのとき踊りの太鼓がいちだんと高く『とんとん』と鳴りひびき、娘さんも平気な顔をして月をながめてゐたので、男はほつと吐息をして、それから娘さんの丸い腕に添つて動かして、とうとう無事に手を握つてしまつた。

 男と女とがならんで草原を散歩した。
 男は河岸に来たときに、水面の月の反射を怖れて頬かむりの顔を水からそむけたが、女はいたつて平気に、水の反射と月光を正面からうけてぎら/″\と頬を動かしながら、でも自分から足を暗がりの方にさつさと向けて河沿ひに歩きつゞけた。
 男が河岸の斜面を歩く、せきこんだ落ちこむやうな感情に上気していまゝでたんねんに用意深く考へ
『でも妾(わたし)が若しあなたを嫌ひであつたら……どうして』
 娘さんは小さな低い声で男の頭のてつぺんでかう言つた。
 乳房のところを頭でぐんぐん動かしてゐるうちに、きつと娘さんがだまり込んでしまふときが来ることを知つてゐたので、横着に額を機械のやうに動かしてゐた男であつたが、でも娘さんの言葉が気がかりになり初めたので、念のために、娘さんの胸から不意に二三歩とびすさつて、片手を内ふところに荒つぽく襟のあたりにいれてふところの中で大きな拳骨をつくつて見た、眼は白眼ばかりにしてゐなければならないので、暫らくの間は胸苦しい呼吸(いき)がして娘さんがどんな顔をしてゐるのかさつぱりわからなかつた。
『刃物でおどかしたつて、駄目よ嫌ひなものは、どこまでも嫌よ』
 あゝなんといふすばらしい肩揚げだらうと男は落胆をしながら、つく/″\と娘さんの肩揚げをながめしぶ/″\とふところから手を出して、てれ隠しに引つぱり出した皮製の万年筆いれを月にかざして見せた。

    (四)

 娘さんと男とは、声を揃へて黒い土の上で一度に笑つた。
『むかふに見える橋の処に行くまでに妾(わたし)が、あなたを好きになれたらね』
 娘さんは鼻で斜めに遠望される橋をゆびさした。
 夜(よ)の中の橋が遠くに見えて、橋の下のあたりにごう/″\、といふ水の流れる響きが聞えた、その橋までに七本の電信柱がつゞいて立つてゐて、そして一本おきに殆どどの電柱にも笠がなんにもなかつたり、笠があつても欠けてゐたりした電燈が、上のところにぴか/\と光つてゐた。
 笠のいたんであるのは、みな河原遊びの子供が石を投げつけたのであらう、そして明りの点つてゐる電柱のつぎ/\の電柱は、ぼんやりと照らしだされて背の高い幽霊のやうにたつてゐた。
 男はいろ/\の身振や、言葉使ひや、を殊更に注意をして歩きだした、こゝろもち男よりも足早に先にたつて歩いてゐる娘さんの肩のあたりの柔らかい曲線を見てゐると、それが様々の姿態をつくりだして、しまひには見てゐる男の眼がぐら/″\と日射病のやうに、黄色い眩惑にをちこんでしまつたやうに思はれた。
 娘さんの手や足や首や胴体これらの白いすべ/\とした肉体が離ればなれになり、着てゐる着物やら羽織やら、前垂やら、前垂の白い紐やら、半襟足袋、そして頭髪のゴムの櫛などまでが、いつぺんに散りぢりに離れて、これらの分れ分れの個体が非常な早さと勢ひこんでくる/\と回転をはじめ、これが青や赤や黄の美事に配色された唐草模様のやうになつてしまつたのかとさへ思はれた。
 ふいに躍りかゝつて、この唐草模様をそこの暗闇にねぢ倒してその上に馬乗りになつて了ひたい逆上した血が頭の上の方にぐん/″\とのぼり、ことに太くなつた血脈が両足の爪先から胸のあたりに弓のつるを鳴らしたときのやうに、強く大きく鳴りだした。
『あゝ、大変なことになりかゝつてきた、女はだん/″\と河原におりてゆく、女の足を夜風に冷やしたり、河の水のちかくを歩かせては、いまゝでの苦心がみなふいになつて了ふ、あの女の両足をこの辺の乾いた土の道路にひつ張りあげなければ駄目だ』
 男はかう考へたので女の肩に自分の肩をならべて、それで河風をさいぎつて、堤の上の乾いた土の道路の上に女を歩かせようと、すくなからずいら/\と努力しながら、肩を櫓皿のやうにぐり/″\と女の肩に動かした。
『娘さんよ、河のあまり近くに行つては危険ですよ、河原の石がころ/\してゐますからね、こつちへいらつしやいな、柔らかい地面を選んで坐りませうよ』
 と男が熱心に呼びかけると女はちよつとふり返つたなりで、ぐん/″\と男の先にたつて足早にあるくのが男を激しくいら/\させた、男は追ひすがるやうに女の丸い肩に両手をかけて、地べたにむかつて静かに押へつけたので女は白い二本の足をきちんと揃へて草の上に坐つてしまつた。

    (五)

 足を女の足のしろさとならべてつま先のところをじつと男がみつめてゐると幾分地面が傾斜になつてゐることに気がついた、そして背中にすく/\と暗の中に新鮮な青い樹木のやうなかたちが大きな掌をひろげて男をどんと突いたので、危くがつくりと前のめりに娘さんの膝の上に頭を落してしまふところであつた。
 それと殆ど同時に後のくらがりに『ぽきり』とすばらしい大きな響きがして、娘さんの白い腕が男の眼にいつぱいはまりこんで、長く伸びた太い白い線が重々しいまん丸い何かの物体を(ママ)男の膝の上に落ちてきたので、男はぎよつと気味悪く思ひながら、じつと自分の膝の上のその丸い品を見極めようとした。
 じつと遠くどこか未来のやうなところから娘さんの笑ふ声が聞えたと思ふうちに、こんどは耳のすぐ傍で破(わ)れるやうな大きな鉄線をたゝきつけるふるへた娘さんの笑ひが起つた。
『おあがりなさいな、こんな大きな味瓜が鈴のやうになつてます、後に手が届きますよ』
 娘さんはかう云つて続けさまにぽきん/\と味瓜の蔓を折る音をまぢかにさせた。
 ふり返つてみると、くらやみの中にことさらに黒味を帯びた、ちやうど谷間の深淵のよどみをたてかけたやうな深みが、じつとみつめてゐると見とをしができるやうに思はれて、そしてまた壁のやうな不透明な幾つにも切断されて盛りあげられた影がふたりの背後にならんでゐた。
 最初はその黒い影が、だん/″\と不安な冷たいものと変つてきてしまいには黒味に一点の白をさしその白が無数に殖へだし散らばつて見事に銀色のマリのやうにふくれだし、果てはあつちにもこつちにも、はつきりとした線をもつてまんまるい味瓜が描きだされた。
『味瓜を喰べてはいけませんよ、味瓜を喰べてはいけませんよ、味瓜は冷たい冷たい』
 男はなにかの歌でもうたふやうな調子で女の手から小さな二つの味瓜をひつたくつた、そしてたくさんの御追従笑ひをした。
『ね、なぜ喰べてはいけないのかしら、こんなに沢山あるのにね、盗んだのだから、口にいれるのがあなたは怖ろしい気がしてゐるのでせう、臆病ね』
『女が南瓜や味瓜をたべるのはよくないのです、血が荒れるといふ話ですよ、ざくざくになつてしまうんでせう』
『血が荒れたつてざく/″\になつても喰べて見たい、こんなに美味しさうにふくれてゐるんですもの、妾(わたし)なんかとつくに荒れてしまつてゝよ、かまふものですか』
『そんなことはありません、娘さんちよつとお手を拝見しませう』
 からだをゆすぶつてゐる、娘さんの手を男はそつと握つた、自分の掌の上に娘さんの重たい掌をのせてみると、どつしりとした厚ぽつたく動かない魚のやうに、またいかにも金目のなにかの貴金属でものせてゐるやうにも思はれた。

    (六)

『味瓜は後から悠つくりとおあがりなさい、私もいつしよに喰べます、後からですよ、ふたりで仲善く、こんなに冷たいものをあなたに今喰べらせる位でしたら、私は最初からあなたと散歩なんかしません』
 男はぷんとふくれて、切ない言葉を女の白い顔にふきかけると女はいかにも火のやうな呼吸(いき)をかけられたかのやうに、ちよつと顔をそむけた。
 街にはこの娘さんと同じやうな娘さんがきれいに彩色された着物をきて歩いてゐる、ことに夏の夜のむし暑い頃になれば、こゝの河原や公園地の池の畔を、とかげの花嫁のやうにぞろぞろと散歩をしてゐる、こゝにゐるものもその一匹であつて、どこかの遠い背よりもたかい草原の中にも、きつと同じやうな幾組もの動物が死んだやうに動かないでゐるだらう、もつとも哀しいひとりぼつちの娘さんよ、(一字欠字)が散歩をするといふことは、その情熱を風に冷やすためにすることです、水々しい果実のやうな白い二本の脚は、性慾の凝結してゐるかのやうに、はちきれるほど肥えてゐる毒々しくあぶらこい。
 彼女達がしづと坐つてゐたり横になつてゐたり、立ちどまつてゐたりすると、彼女自身の猛烈な性慾の醗酵でトマトのやうに溶けてしまふ、川岸を歩いたりボートに乗りたがつたり、林檎や味瓜などの冷たいものを喰べることも彼女達の心臓に氷袋をあてゝやるやうなものだ、男はこんないろいろのことを想ひながら、いつこくも早くこんな冷たい川風の吹く崖の近くや、味瓜畑から娘さんを誘(おび)きだして、土室のやうな黄色く重くるしいどこかの土手の窪みか、柔らかい青草の林の中に連れこまなければならないとあせりだした。
『お止しなさいよ、退(の)いて下さいつたら、だまつて味瓜をおあがんなさい、温和しく』
 娘さんは男の手をはらひのけたので、男は猫のやうに眼をつむつて両手を前にさしだした。
『娘さん、私を悪者と憎んで下さい、わたしはあなたを誘惑したのです、どうか今度は想ひきつてあなたの白い歯で私の舌を噛みきつて殺して下さい』
『さうぢやなくつてよ、わたしを誘惑したのはあなたぢやない、こゝに味瓜畑のあることは、妾(わたし)ちやんと知つてゐたんですもの』
『そんな事を云はないで下さい、わたしは寂しくなる、どんなに此処まであなたを連れてくるのに苦心をしたかを、あなたは察してくださらない』
『こゝの畠は妾の部屋の窓からよく見えますの』
『やつぱりわたしは悪者に違ひない、あなたは弱々しい娘さんですものそしてあなたも素直に、わたしに、こんな処へ誘惑されて、口惜しいつて、女らしく処女らしい身振をしてさめざめと泣いて下さいよ』

    (七)

 男はなんべんも女の顔を覗き込むやうにして、こゝろから恥いつたといふ表情をした、だが事実はこの男がもつとも、これまでに誇らしげに、そつと秘めておいた自分のそれは華やかな童貞をいま無造作に捨てるといふことについてそれは神経質に相手の娘さんの微細な動作にまで、真剣な注意の眼を働かせた。
 廻つてゐる火のやうな春が、これまでの季節に横たはつてゐたのであるが、男はじつと腰に両手を支へて、如何にも沈勇な歩調で、悠つくりと貞操な英雄のやうに通りすぎてきたことが奇跡的にも思はれた。
『あゝ、こんな夏になつてから、私は一人の娘さんを見つけました、あなたそれは貴女(あなた)なのですよ、肩揚のある、私の相手にふさはしい娘さんそうでせうね』
 娘さんは寂しさうな顔の半面を月の光りに照らしながら、まだ未練さうにどこかの味瓜に白眼をつかつてゐる様子であつた。
 どこからともなく、不意に男の胸に小さな、熱した風のやうなものが、そつとさはつてすぎた。
 いつたん男はぐる/″\と周囲を念入りに見廻してから、じつと後の青くねむつてゐる地べたを這ひ廻つてゐる味瓜の黒い影を見つめた。
 すると味瓜畑の両端が真白い娘さんの右と左の手をひろげたように、そして黒い影がだん/″\と青く燃えだし、白い手はしだいに前かゞみに男を抱きしめるやうに思はれた。
 男はハッとした、ひろげられた味瓜畑は、その娘さんの白い両手はいつの間にか男の茶色にたくましい指と変り、だん/″\と娘さんをそこの夜露のいつぱいしめつた草原に夢のやうにしめつけてゐた。

 はれやかな季節に生れでた児供のやうに、男と女は草原から軽快に立ちあがつた、でも男は女の気持をはかりかねて、どんなに心づかひをしたか知れなかつた。
『明日も、ゐらつしやらない? 味瓜を盗みにさ、をどりがすんだら妾毎晩来てよ』
『あゝ、来てもいゝな』
『でもわたし、明日からもうあなたとは遊ばないわ』
『あゝ、遊んで貰はなくてもよいよ、あすからはどんなに沢山味瓜を喰べたつて止(と)めやしないから』
 男は無造作にかう言つたが、どきんと激しく胸をつかれたやうな思ひがした、自分自身が少しも女に対してざんげをしなければならない、醜い過去を持つてゐないことを心強く思つた。
『僕だつてさうだよ、明日からあなたは処女ぢやないんだらう、だから、これまでよりも瞳に太陽がキラ/\としみるんだ』
『名前もなにも聞かないで、あなたは別れようとするんでせう』
『それは卑怯でもなんでもないよ、だから明日の晩もこゝに味瓜を喰べにきたらいゝんだと言つてるのだよ』
 男は急に幸福を感じた。

    (八)

 一人の処女と一人の童貞とを、石ころを投げ捨るやうに、畑の茂みの中にほうり投てきたといふことに、どんなに娘さんが浮気であつたとしても、をそらくは明日の朝までは、男の魂のなかにとけこんでゐる、男の独占の喜ばしい感激がいつぱい湧いてきた。
 あそこの味瓜畑の泥にまみれた二つのもぎとられた味瓜が、だん/″\と夜更の露に洗清められてゐるやうな情景が、ふつと眼に映つた。が次の瞬間童貞を捨たといふ荒ら/\しい悔恨が頭をもたげてきたので彼はげら/″\と笑らひながら不意に女を突き離した。
『娘さん、驚いちやいけないんだよ、さ驚いちや駄目だよ僕はね、だが私はあなたに謝まつてはゐない』
『ねえ、どうしたつて言ふの』
『私がどんな悪魔の正体をうちあけても吃驚(びつくり)してはいやだよ』
『言つちまつたらいゝわ』
 女はちよつと好奇心の眼を光らした。
『娘さんよ、貴女は私を童貞だと思つてをいでゞすか』
 男はしやべりながら、飛んでもないことを言ひ出す自分の悪魔的な感情に、ひとりでに微笑がしみじみと湧いて来た、なんといふ素晴らしい自分であらうかと思つた、この娘さんをあくまでも征服し背後の梢の頂上(てつぺん)に烏のやうに、とまつてゐて、自由自在にこの娘さんの、初心(うぶ)な感情を操つてゐたならば、どんなに愉快に安眠ができるかと言ふことを想像をし続けた。
 盆踊りのたつた一夜の友人、明日の朝は永久に離ればなれになつて了ふ二人、対手の名も処も知らぬままに袂別をしようとするふたり、そして淫な野合の対手たとへ彼女が清浄であつたとしても男としては自らの分身を、未知であるこの歩いて居る娘さんに、無造作に奪ひ去られるといふ不安が急にこみあげてきた。
『あなたが童貞でなくつても、なんでもないわ、男なんてみな信用ををけないのが当り前のことなんでせう』
『そりや、その点では女よりも男の方が自由でせう、だが私はもつと、もつと怖ろしい出来事なんです、しやべつたらきつと驚くことなんですよ』
『さあ、言つて御覧なさいよ』
 男は草のしげみに片足を踏み入れた。
『僕は猛烈な梅毒患者なんですよ』
 かう言つて眼をぎろ/″\光らして男は女の上唇のけいれんするのを今かいまかと待つてゐた、だが彼女は平気な顔をしながら空に頬を晒しながら歩きつゞけた。
『まあ、そんなことぢや、わたしも梅毒患者よ、だからお似合ね』
 女は少しも男の言葉に不安を感じないと言つた笑ひを含んだ蓮つ葉なものゝ言ひ方をしながら、せつせと歩きつゞけた。
 男は目算ががらりとはづれたので意外に思つた。男にしてみれば対手の女に、別れ際に梅毒の暗示を投げかけて、兎のやうに横路にそれて女と別れて了はふといふ計画であつたのが、案外な女のゆつたりとした態度に、かへつて逆捻(さかねぢ)を食つたやうな、抜きさしのならない破目に陥つてしまつたので、こんどはなにかしら女に引ずられてゐるやうな気持で女の足音のとほりに歩かなければならなくなつた。

    (九)

『さよなら』
 先にたつて歩いてゐた娘さんはふり返つて不意にかう優しく言ひくらがりの中にめがけて、とんとんと二三歩前にのめつた。
 その時男は歩くことも、また凝つとして立ちどまつてゐることもしやべることも、なにもかも苦痛になつてしまつてゐたので、陰気にうつむいて歩いてゐたのが、娘さんの『さよなら』の言葉をきいて、ぎくりと水を浴びたやうに飛びあがつた。
 しかし今更娘さんを引止めたりすることも、つまらないことであるし、それに室の窓からさつきの味瓜畑を見をろすことのできると言つた、娘さんの家にとう/\着いたのだなと、思つたので顔もあげずにあきらめて、うつむいて歩いた。
『さよなら』
 また娘さんは三間さきでかう言つた。娘さんの履物のひびきが小刻みになつたのでいらいらしだしたが、男はさいぜんの『梅毒患者の暗示』の失敗にむしやくしやしてゐたので、強情にして顔をあげなかつた。
 それよりも男の驚いたのは黒い影にゆきあたつたと思ふうちに、いままでの暗がりとはうつて変つた、まつかな光線が頭上や胸に□つてきた。
 ちやうど火焔の中に落こんだやうな周囲の赤さであつたので男は思はず顔をあげると、娘さんはその真赤な空気のなかに、なにかの水虫のやうな、すいすいと伸びた足取で、細長くなつて消えてしまつた。
 頭上の黒い丸太の門柱に赤い瓦斯燈がひかり、ほとんど門柱いつぱいと思はれる背の高い看板が流れてゐるかのやうに赤い光線の中に、とくべつ白く浮いてゐた。
 男は胸を締つけられた、両方に突立つてゐる門柱と門柱とに挾まれたのではないかと思はれるほど咽喉に圧迫をかんじ、ひとりでに涙が湧いてきた、うすぼんやりとした夜の路を、両足がちぐはぐにならうが、手拭が風に吹きとばされようが、娘さんに呼びかけられようが、いまは男の夢中な気持にはさらに感じない、新しい大きな世界から、古ぼけてせまくるしい小路に迷ひこみ、飛びこむやうな感情で眼にいつぱい涙を浮かべて走つた。
 夜(よ)のなかにどうどうといふ冷たいものゝ気配が静かな風鳴りとこんがらがつて遠くに聞こえた。
 男はその響きのするところまで駈けようとするのであつたが、いくらも走らないうちに呼吸(いき)がきれぎれになつてしまつた。

    (十)

 男は体操でもしてゐるかのやうに両手をかつきりとした角度に腰を押へつけ、くるりくるりと絶えず舞つてゐるかのやうに、足もとの石ころや、木の根につまづいて体を躍らしながら、冷たいものゝ方に向つて走つた。
 瀬の早いながれにかけられてゐる橋の上に男は立ち止まつてはぢめて後を振かへつて見た。
 娘さんのはひつて行つた黒い大きな洋館の壁にボッとあかるく四角な光りの窓ができあがつた、娘さんがきつといま室の電燈をともしたのであらう。
 髪の毛がはつきり三本ほどカーテンに映つたかのやうに思はれたがたちまち窓はまつくらになつた。
『娘さんよ、今更わたしは、私の童貞をとり戻して欲しいとは泣きごとは言ひたくはないけれども、せめて私があなたに捧げた真実だけをくみとつて下さいよ。
 その真実だけを、りつぱに着飾つた青春をね、あのとき梅毒患者だといつたことを信じないでくださいませ』
 橋板の上にたつて男はしみじみと空虚を感じた。
『ええ、どうにでもなつてしまへ畜生、肩揚のある騙(かたり)娘、畑の中であのとき何を出しやがつた、袂のなかから脱脂綿なんか出しやがつて』
 黒い四角な遠くの洋館に、眼をみはりながら男はなんべんも橋のてすりを慈しむやうに、手で撫でながら高い声の独語を繰返した、
『ね、娘さん私はなんとも思つちやゐませんから、どうかあの時の私を信じて下さい。どうぞどうぞ梅毒を患らつてゐたなどとは、こけおどかしで、出鱈目であつたといふことを、まさかに娘さんがあの赤い瓦斯燈のともつた、駆黴院のお客さんであるとは想像もしなかつたのですから』
 ふたゝび男は誰もゐない橋の上で遠くの娘さんに哀願をしたがふつと『△△駆黴院』の三等病室のまつ白い壁の中にねむつてゐる娘さんの顔を眼に浮べた。
 そしてその枕元にはきちんと丁寧に折畳まれた、肩揚のある大柄の羽織が見えたので、泣き笑ひに似た狂暴なうめきがよみがへつた。
『どうしようとするのだ、淫売奴首を縊る真似をして見せろとぬかすのだらう、そんな真似はたやすいんだよ、流行り歌もうたへないといふのか、そんなことも容易(たやす)いんだ』
 男は顔をまつ赤に上気させた。それは全身の力を下腹に集中させたからである、それから殆ど臍のあたりまで勢ひよく着物をめくりあげたので、猿股をはいてゐない素つ裸の股にひや/\とした河風がふいた。
 それから両足をできるだけ大きくひろげ、精いつぱい腹に力をこめた。
『騙娘の黴菌を水に流してしまふんだ』
 そよそよと河風は股をくぐる彼はそこでけんめいになつて、神様にでもお祈りでもしてゐるかのやうに白眼をして、高い橋の上から小便をした。
 いくつにも切断された小便の水面に落る賑やかなひびきをききながら、しわがれた呼吸(いき)づまつた咽喉を振り振り
『とてとて……とてと』
とやつとの思ひで喇叭節をこれだけ歌つた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
塩を撒く


    (一)

 彼は木製玩具の様に、何事も考へずに帰途に着いた。
 地面は光つてゐて、馬糞が転げて凍みついてゐた。
 いくつか街角をまがり、広い道路に出たり、狭い道路に出たりしてゐるうちに、彼の下宿豊明館の黒い低い塀が見えた。
 彼は不意にぎくりと咽喉を割かれたやうに感じた。
 ――ちえつ、俺の部屋の置物の位置が、少しでも動かされてゐたら承知が出来ないぞ。
 彼は山犬のやうな感情がこみあげてきて、部屋の方にむかつてワン/\と吠え、また後悔をした。
 彼の親友である水島と或る女とが恋仲となつた。
 二人の恋仲は、まるで綱引のやうな態度で、長い間かゝつても少しの進展もしなかつた、声援をしたり、野次つたり見物したりしてゐた彼は、まつたく退屈をしてしまつたのだ。
 ――そんな馬鹿な恋愛があるかい学生同志ぢやあるまいし、三十をすぎた、不良老年の癖に。
 水島が彼にむかつて、彼女とは現在でも、肉的な交際がないと誇りらしい表情で、打開けたとき、彼は鳶(とび)に不意に頭骸骨を空にさらはれたかのやうな、気抜けな有様で、穴のあくほど水島の顔を、暫らくは凝然(じつと)見てゐた。
 ――でも君、女は若いんだし可哀さうだからな、それに家庭的な事情が僕達の前に横たはつてゐる大きな難関なんだ、もし僕が女と関係をした後で、二人が結婚まで進まなかつたらどうだらう、
 ――女を疵物にしては、良心に恥ぢるといふ意味だね。
 ――さうだよ、それに違ないよ、女の籍は絶対に抜けないらしいんだ僕の婿入りそんなことは僕の方の家庭の事情でできないことだしな。
 水島は、ほつと吐息をついた、第三者の立場にある彼は、水島の恋愛事件に対しては、彼が横合から水島の女を奪はうとしない限り永久に第三者の立場にあつた、だから彼は、勝手なことを考へ、勝手な助言を水島にした。彼はもう見物にあきがきたのであつた。
 ――水島の女に、ちよつとちよつかいをかけてやらうかしら、あの女の手は美しい、そつと俺の手をのつけても、邪慳に振りはらふやうなことはしないだらう。
 退屈さに彼はこんなことを考へたりした、横合から割込んだらう、水島はきつと友達甲斐がないことを憤(いきどほ)り、狼のやうな血走つた眼となり、長い間の交友関係も粉砕され、牙を鳴らして襲ひかゝつて来るであらう。
 かうした策戦がまた案外効を奏して、お互に相離れまいと、この乱暴な侵入者を必死と拒み、女や水島の情熱はよみがへり、二人の恋愛は、その最後の土地まで、馬車を疾走させるのでないか、などと彼は友人の遅々とした遊びごとにいら/\と気を揉んでゐた。

    (二)

 水島が毎日のやうに、彼の下宿に訪ねてきては、嘆息をした。
 その姿は耕作もせず、ぼんやり鍬に頬杖をしてゐる農夫のやうなものであつた。
 ――収穫をどんなに夢想しても駄目だよ、君は鍬を動かしてゐないぢやないか。
 事実水島の態度は『雲の上の花園』をさまよふ園丁のやうなものであつた。
 夢を見続けて、実行といふことを侮蔑してゐた。
 ――恋愛といふものは、君等のやうに、長い間楽しめるものぢやないんだ、時日を要するといふことが既にもう失敗だね。それに女などといふものは、非常に敏感ですぐ冷静になりたがるものだ。だから何より女を絶えず興奮させてをくといふことが大切なことだ。
 と――彼は煽動した。
 水島も、内心あまりに遊びすぎたことを後悔した。そして結局女から何物をも得てゐないことを考へ、寂しがつた。殊に女をすつかり訓練してしまつたことが、既に救ひのないことだと観念した。
 ――随分愉快に楽しんだよ、このまゝ二人が別れたところで、僕としては充分に遊び尽したから悔ひはないよ。
 水島は眼を伏せてこんなこともいつた、然し舞台の上の俳優がふつと消えてしまつたのも、気づかずに、広い劇場の座席にたつた一人坐つてゐるやうな、馬鹿げた観客にはなりたくなかつたので、彼はせつせと水島をけしかけた。
 或る日、水島は朗かな顔をして下宿を訪ねてきた。
 その顔は何事かに感謝をしてゐるかのやうに。
 話題は、涯かな遠くの方から出発して、水島自身の恋愛事件に到達した。
 水島は前夜、活動常設館に女を誘つて出かけたといふ、二人は活動写真館の三階に陣取つた、この三階は屋根裏で、天井が低く暗かつたので、人眼をはゞかる二人にとつて屈強な坐席であつた。
 ――男は、女の膝を枕にして、仰向きに寝て足を長く伸ばした。(丁度酔つてゞもゐるやうに)
 暗い中では映像が、青い影をいりみだして明滅した。
 ちやつぷりんが高い屋根から舗道の上に墜落したが、ゴムまりのやうに跳ねあがり、折柄通かゝつた貨物自動車の屋根に顛落し、何処といふあてもなく運び去られた。
 観客はどつと声をあげて笑つた。女といふものは、笑ふときでも、泣くときでも、怒るときでも、体を大きくゆすぶるものである。

    (三)

 水島の恋人は、皆といつしよに声をあげて、笑ひ、大げさに体をゆすぶり、いかにもお可笑くてたまらないといつた風に、体を前に屈めて、素早く、膝の上の水島の顔に接吻をしてしまつたのであつた。
 そして続けさまに、続けさまに速射砲のやうに、ちやつぷりんが尻餅をついたといつては笑ひ、電車にはねとばされたといつては笑ひ、その度毎に彼女は水島に接吻の雨を降らした、喜劇は短かつた次には長い/\悲劇物が映写された。
 彼女はしく/\と泣きながら、そして今度は沈着いて悠つくり水島に長い/\接吻を与へることができた。

 水島と彼女との恋愛は、活動常設館での出来事以来、活気づいてきた。そして素晴らしい奇蹟が、すぐ眼の前に待ちもうけてゐるかのやうに、水島の眼はちかちかと忙しく光り、また隠れてゐた天才的なものが、いつぺんに顕はれてきたかのやうに、彼は調子づいた奇術師に等しい活動館での接吻がなによりそれを物語つてゐた。
 そして悪い友人は、それに油をそゝいだ。
 水島と女との奇蹟のために、彼は下宿の自分の六畳間を提供したのであつた。
 もつとも親愛なる友人の恋の成功のために――。
 彼は昼、会社の事務机にもたれて、二人の恋人の深刻な遊びが、自分の下宿の六畳間で行はれてゐるであらうことを想像した。
 ――水島、煮へきらないぞ、君の愚にもない人道主義を蹴飛ばしてしまへ、戦闘的であれだ。と彼が水島の背をぽんとたゝいたとき水島はにこ/\笑ひながら、ちらりと決意を見せた。
 其日、彼は会社の仕事の忙しさに追はれ、二人の恋の祝福のために自分の部屋を貸(かし)たことなどを、からりと忘れてしまつてゐたが、彼が小路をまがつて、下宿の黒い塀を発見したとき、ふつと思ひ出したのであつた。
 彼はあわてゝ靴を投るやうに脱いで、玄関にかけあがつた。
 ――お帰んなさい。
 遠くの方から、下宿の妻君の声が聞えた。
 ――水島がやつて来たかい。
 ――参りましたよ。例のとね。
 下宿の妻君は、意味ありげに笑ひながら、水島の恋人の、姿態をたくみに真似た道化た格好をし、仰山に手をひろげて、廊下に半身を現した。
 ――ちえつ。
 彼は舌打をした、何処かに隠れてゐた敵意に似たものが、ふつと舞あがつたのである。
 そして自分の部屋の前に立ち、その襖をあけようか、開けまいかと、長い間思案をした。
 部屋を思ひ切つてあけて見た、しかし何の異状もなかつた。
 室の中には、非常に寒い空気が充満してゐたきりで、彼が会社に出掛けた朝のまんまになつてゐた。
 机の上には、一日ぢゆうの埃が灰のやうに白くつもつてゐて、水島と彼女とが、きつと花弁のやうに寄りそつて坐つてゐたことであらう、あたりの位置にも何事も起つた様子がなかつた。しかし彼は焦々として室中を見廻し
 ――眼に見えない、いりみだれた指紋で、室中めちやめちやにしてしまつた。
 彼はかうぶつ/″\いつて部屋を出た、そして泥棒猫のやうに、がさ/″\下宿の戸棚を探してゐたがやがて一握りの塩を掴んでき、先づ一番神聖でなければならない机の上に、そして天井に壁に、四方八方に撒いた。
 お可笑さがこみあげてきたが、彼はどうしても笑ふことができないので苦しんだ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
殴る


    (一)

 俺はつくづくと考へる。世の中の奴らは、もちろん嘘で固まつてゐるといふ事実だ。
 情なくなるから、あんまり他人(ひと)さまのことはいふまい。手近なところで、俺の信じてゐる彼女の態度はどうだ、だんだん世間なみに嘘をおぼえこみ、なんにもないところから、鶏を飛び出させたりする手品師のやうな真似を始めだした。
 ――真個(ほんと)うにお可笑な方ね、お金が無くなれば、乞食のやうな惨めな気もちになつてしまふのね。
 彼女の観察は当つてゐた、しかし俺は決して不自然なことゝは思つてゐない。
 俺は社会主義運動を始めるのだとその抱負を語つても、彼女はてんで対手にしてくれない。
 ――貴方なんて、生まれつきのブルジョア思想よ、どうしてそんな荒つぽい運動が出来るものですか。
 副食物のこと、室内装飾のこと友人との交際のこと等色々のことに、贅沢三昧をいふことに彼女は腹を立てゝゐた。
 俺が無産階級の幸福のために、その第一線にたつて、彼らとゝもに、黒パンとか、またロシアのフセワロード、イワノフの『ポーラヤアラビア』の作中に現れてくる人々のやうに、煮込みの中に白樺の皮を交ぜたものや、馬の糞の中の燕麦の粒をひろつて食べたり、人間の肉や、鼠の肉などを、喰はなければならないやうな、食物的な試練に直面した場合にも、到底堪へることが出来ない男であると考へてゐるらしい。
 ――馬鹿野郎、真のプロレタリアは俺のやうに、金銭に敏感でなければならないんだ。
 彼女はだまつてしまつた。
 最近では、まつたく観念をしたものと見える、俺が金がはいると王者か騎士のやうに、街の酒場といふ酒場や、淫売屋の梯子飲みをして廻り、また財布の中に一銭の金も無くなると、乞食か墓穴掘のやうな、陰鬱な、気難かしい顔をして、ストーブの傍に立膝をしてゐる俺の姿を、彼女はひとめ見たゞけでぞつとするらしい。しかし彼女は蛇のやうにとぐろを巻いて罵つてゐる俺の仏頂面を見ることをすつかり最近では馴れつこになつてしまつた。
 或る日、彼女が我々無産階級に到底ありうべからざる陰謀を企てゝゐたのを、偶然の機会から発見した。
 彼女は、三日もつゞけさまに、朝の味噌汁にキャベツを使つて俺を苦しめたのである。
 それは何かの復讐であつたかも知れない。
 彼女は百姓の育ちであつたので青菜類をこのんだし、俺は海浜に育つたので魚類が好きであつた。
 魚であれば多少腐つてゐてもよろこんだ。
 それに彼女は、片意地な自我を毎朝三日もつゞけて、その椀の中にまざまざと青いものを漂はして俺を脅迫したのが、たいへん癪にさはつた。
 俺は激しく怒つて、男性的な一撃を彼女に喰らはした。
 膳の上には革命がひらかれた。茶椀を投げつけた。茶椀は半円を描いて室中を走り廻つた。
 女はかうした場合何時も無抵抗主義をとつた、寒い猫のやうに、自分の膝の中に頭を突込んで丸くなつた。
 その惨めなさまが、尚更俺の憤怒の火に油をそゝいだ。

    (二)

 なに事についても彼女は大袈裟であつた彼女が鼻水を垂らして泣いてゐるのだけでも、もう沢山であるのに、それに涎まで加へてせいゝつぱい色気のない顔をして賑やかに泣きだした。
 ――殴るのも習慣になるもんですよ。
 彼女は真から迷惑さうに、俺の機嫌のよい時に、顔色を窺ひ[#「窺ひ」は底本では「窮ひ」]/\かういふのであつた。
 女といふものは、何程聡明であつても、何処かに愚鈍な半面をもつてゐるものである。
 ときにはこの愚鈍が『女らしさ』やら『情緒』やらに掩ひ隠されてゐる場合が多いが、それは彼女達が着飾つて路を歩いてゐるときの場合だけであつて、彼女達が家庭にはいると、愚鈍のまゝに、いたるところで醜く暴露されるのである。
 その時『ぽかり』と俺は一撃を彼女の頭上に――飛ばすのであるすると女はこの問題を直ぐに氷解してしまふ。
 噛んで含めるやうに、色々の方面から、解いてきかしても、どうしても理解しない場合、これは彼女達ばかりとはいへまい、男達の場合にも
『不意に襲ふもの』があれば、いつぺんに何もかも判つてしまふものらしい。
 ――不意に襲ふもの。
 俺自身も、その問題も判然としないものに悩み苦しんでゐる。
 しかし俺はすつかり安心をしてゐるのだ、俺の顔が、実に美しく蒼ざめた時、背後から『不意に襲ふもの』のある瞬間に、俺はすべてを解くことができるであらうと信じてゐるからである。

 俺は神様に感謝するといふことが、生れつき大嫌ひな人間だが、たつたひとつだけ、時折祈祷をしてやつて罰が当るまいと思はれることがある。
 それは彼女が健康だといふことであつた。
 皮膚は馬の皮のやうに、丈夫に出来てゐて、殴つても、蹴つても決して傷がつくといふことがなかつた。ところがこの詐欺師奴が、この健康をさへ、誤魔化さうとしたことがあつた。
 俺は真個(ほんと)うは健康な女が嫌ひであつた。そのひとつの理由として健康な女に限つて色が黒いといふことも挙げることができる。
 市街の一隅には、大日本赤十字病院といふ、海のやうに青い層をなした巨大な建物があつた。
 夏になるとこの病院の中庭には青や黄や赤の松葉牡丹がそれは美しく咲いた。
 そこにこそ俺の恋人にふさはしい、手の痩た女や、眼の大きい女達が数十人生活をしてゐた、硝子張の露台の中を恋人達は、水族館の魚のやうにひら/\静かに泳いでゐた。ばく/″\唇(くち)を動かした。
 彼女達は、鶏卵(たまご)の黄味を吸はうとするかのやうに、太陽を吸はうと与へられた日課をしてゐた。
 世間の人達は、彼女達を肺病患みと呼んで恐れてゐた。
 健康な人々の中に許り閉ぢこもつてゐるといふことは危険なことだ、彼等はその健康をもつて、ぐん/″\不合理をも、押倒し、引倒し、藪原の材木を曳く壮健な馬のやうに、人生を突き進む、これに反して、可憐で繊細な病人達は、絶えず人生の姿に脅へた。
 高い壁にゆきあたると彼等はじつとその前に坐つてゐて、何時までも待つてゐた。
 扉のしぜんに開かれるまで、退屈な人々は何事かを考へてゐなければならなかつた。

    (三)

 俺の馬のやうな彼女も、俺の処に転がり込んで来た当時は、細い首をして、青く透いてみえる顔をしてゐた。
 ――体の何処かに、疾患を持つてゐる方は、豚や牛のやうに、健康な人たちとはちがつた鋭敏な感覚と、叡智とをもつてゐるものですね。
『俺は今考へると腹が立つ程当時彼女に丁寧にものをいつてゐたのであつた』
 すると女はごほん/″\と咳をした。そして胸の辺をおさへ情趣に富んだ表情をした。
 ところが彼女の病気は、美しくなるどころか、日増しに悪化し、次第に顔が狐のやうに尖り、皮膚の色沢もなくなり額のところの毛が脱けてきた。
 或る日、飛んでもないことをいひ出した。
 ――貴方。妾(わたし)お寿司にサイダアをかけて喰べて見たいの。
 それ以来彼女の舌は天才的になり、味覚は敏感となつた。
 俺はフランスの美食家、プリヤサブアランのことをおもひだした。それは彼女もフランスの美食家に負(ひ)けをとらない、珍奇な喰べ物を探しだしたからであつた。
『鶉の油で、はうれん草を揚げたもの』や『極く新鮮なカキのあとに喰べるものは、串で焼いた腎臓と、トリュッフを附けたフォア、グラと、それからチーズとバタとを溶いた香料と桜酒で味をつけた』などゝ注文をいひだし兼ねなかつたが、幸彼女は飢ゑたやうにがつがつと歯を鳴らして、夏蜜柑に砂糖をかけたのを、一日に七ツも八ツも貪り喰ひ無性にうれしがつてゐた。
 俺は幸にも手籠を提てパリーの公設市場まで、買ひだしに行かなくてもよくて済んだのであつた。
 それから間もなく欺されてゐることを知つた。
 肺病などゝいふ上品な、はいからな病気でもなんでもなかつた。彼女は妊娠をしてゐたのであつた。
 精一杯な我儘を始めた。
 殴りつけようとすると、女は素早く拳骨の下に、腹を突きだした、かうすると俺が殴れないことを、ちやんと知つてゐた。
 当時俺たちは極度の貧乏をしてゐたのだが、彼女は不経済にも喰べた物を片つ端しから盛んに吐きだした、そして吐き気が二ヶ月もつゞいたのであつた。
 ――殴るなら殴つてご覧、吐くものがなんにも無いんだから、血を吐いて見せますから。
 事実血を吐かうとおもへば、吐けるらしかつた。
 女の感情は、毎日猫の瞳のやうに変つた。
 女などゝいふものは理由なしによく泣くものではあるが、この数ヶ月間は殊に理由なしに泣つゞけた。
 この妊娠の期間、俺は彼女に馬車馬のやうに虐使された。
 胎児と彼女の臍とは、長い管のやうなものでつながつてゐて、高いところに、彼女が手を挙げるやうなことがあると、ばちんと音がして、臍の緒が切断され、腹の中の赤ん坊は死んでしまふと、彼女は脅かしたのであつた。
 俺は仕かたなく棚から摺鉢や片口などの重いものを、をろしてやつたり、漬物石をとつてやつたりしなければならなかつた。
 重い物は男たちが持つてやらなければならないなどといふ家憲のある家庭もあるさうだが、俺はそんなことはきらひだ、殊に幸なことには彼女は俺より大力であつたから。
 しかし妊娠してから女は急に力が抜けてしまつたのだ。

    (四)

 腹の中の子供に、聖書を読んできかしたり、ベートーベンの交響楽を弾いてやつたりする、馬鹿気た教育法がある。
 これを胎教とかいふさうだ。
 神様の存在をも信じられないやうな俺が、どうしてこんな電信柱に説教をする様な愚にもつかない実験を信じることができ様か。
 それまではてんで鼻汁(はな)もひつかけなかつた、この教育法を、その頃から妙に真理の様にも考へさせられだした。
 ――ずいぶん、お飯(まんま)を喰ふぢやないか、
 彼女は楽隊にはやし立てられてゐるかの様に、調子に乗つて何杯も何杯も、お替りをして喰べた。
 ――でも赤ん坊と二人分喰べるんですもの。
 と嬉しさうに答へた。
 成程、彼女と胎児とは、同じ血脈に結びつけられ、同じ呼吸に生きてゐるものに相違ない、彼女が怒れば腹の子も怒り、悲しめば胎児もともに、悲しむものであるらしい。
 そこで俺は彼女を、興奮させる様なことのない様に心掛た。台所の雑巾がけをしたり、水汲みをしたり惨めな下僕となつた。
 決して彼女の機嫌を伺つたり、血を吐くと脅喝されたので、それを怖れたからではない、やがて出産するであらう『我等の仲間』のために敬意を表したのである。
 或る日、まつ青な顔になつて彼女は室中を歩き
 ――亀の子たはし、の様な刺の生へた球が、お腹の中を駈廻る、きつと子宮外妊娠に違ひないと思ふわ。
 と泣わめいた。
 しかしこれは嘘の皮であつた。何ごとかの前兆であつたのだ。
 その後数十日経ち彼女は『我等の仲間』を、ろく/\陣痛もせず馬よりも容易に分娩したのであつた。
 いまでは全く健康体となつた、皮膚は頑丈で、反撥力に富み何程殴つても傷つくことがない、赤児もすく/\と生長した。
 健康が恢復するとともに彼女は日増に嘘をいひだした。
 しかも彼女は、プロレタリア精神の欠けた、もつとも恥づべき大それた陰謀を企てゝゐた。
『料理と色彩』『料理と立体感』『料理と感覚』等の料理の絵画的方面を主題とした争ひ、のあつた日の出来ごとであつた。
 またキャベツの味噌汁を三日続けて喰はしたことに端を発し、二人は獣のやうに罵り合つた。
 俺は不意に彼女を襲つた。
 彼女は泣(なき)そしてすべてを理解した。
 ――食物の調理などを、そんなに単純に考へてゐるのか、我々の生活に重大なものを、よく考へて御覧、同じ大根でもこんな無態な切様があるか、豚だつてもつと食物に敏感さはあるよ。
 ――貴様はふたこと目には、金を掛ればといふが、金をかけて美味いものをつくりあげるのは誰でも出来るんだ。栄養価値の問題ぢやない、美の問題だ。
 彼女は実際口に入れることが出来るものは、何でも嚥み下すことが出来るもの位に単純に考へてゐるらしかつた、だまつてゐれば革帯でも切つてお汁の実に入れ兼ねない女であつた。
 そこで俺は味覚心理学を、約三十分間程も長講し、飯を炊くことの下手な女は愚鈍な女であるといふ結論で小言を結んだ。

    (五)

 彼女は恭しくひれ伏して謹聴した。俺はその場の不快な、焦々とした空気を一刻も早く脱れようとしたのであつた。
 ――泣面を見てゐられるか、カフェに行くんだ金をだせ。
 二人の生活には十日も以前から一銭の小遣ひ金もなくなつてゐた。で俺はその無理難題であることをちやんと知つてゐた。
 ――そんなことを仰言つても、四五日もお風呂に行かれないことを貴方も知つてゐる癖に。
 ――風呂位、一年行かなくても死ぬものか、文句をいふな、ぐづぐづして見ろ。
 勝ち誇つてゐたので、畳かけて惨忍な言葉を、頭上から浴びせかけ、またもや拳骨を喰らはしたのである。
 ところが俺が予期してゐないのに、すつくと立ちあがり、彼女は勝手元から踏み台を持ちだし、その踏み台を、石版刷りの西洋名画の額のある高い壁の下に据た。
 彼女は泣ながら、そしてごそごそいはしながら、額の後の手探りを始めた。
 ――なにを探してゐるんだ、汚いぢやないか。
 ぱつと埃が舞ひ上つた、彼女は隠してをいた品物を発見した。
 堅く丸いもので、白木綿で包まれたものだ、中からは新聞紙包みが出て来た。
 なんといふ念入りなことであらう、その新聞の中には、青い活動写真の広告紙があり、その紙の中から最後に、塵紙で包んだ五十銭銀貨が一枚飛びだした。
 ――貯金するなんて、汚い根性をだしたら承知しないぞ。
 俺は一喝して、五十銭玉を彼女の手からひつたくると、ぱつと戸外に出た。
 街には夕暮の沈んだ空気が漂つてゐた。俺は洋食店に飛び込んで大コップ五杯のビールを飲み充分に酔ふことができた。
 ――たとい五十銭銀貨一枚にしろ我々階級にとつて、貯蓄するとは大きな、陰謀でなくてなんであらう。
 ――私有財産を認めず。
 ――彼女は詐欺師、しかし偉いぞ俺は全く泥酔したり悪罵したりまた無性にうれしがつたりした。
 その後ある日、
 電燈の笠を拭いてをかなかつたことから俺は再び暴力をふるつた。
 ――泣面を見てゐられるか、カフェに行くんだ金、をだせ。
 すると彼女は、めそめそ泣ながら、押入れの上の段に泥棒犬のやうによつ這ひになつて入り込んだ。
 押入の天井板は、移転して来た当時、電燈の取り付けにきた電燈屋が、天井板をはづしつ放しにして帰つたが、この暗い所に手を突込んでゐたが、そこから小さな五十銭銀貨一枚を包んだ紙包を取りだした。
 まるでお伽話しではないか。
 その隠し場所の思ひつきのすぐれてゐることには、俺も彼女に敬意を表した。
 粉おしろいの粉の中に隠されてあつたり、無造作に紙に包んで糸巻き代用にしてゐたりしたので、彼女の留守に家中を探したことがあつたが容易に発見されなかつた。
 以前にも増て殴ることに興味を覚えだした。
 ――しかし自重しなければならないぞ、一撃が五十銭を生むのだ。
 俺は殴ることを自重した、しかし彼女の貯へは長くつゞかなかつた。其後彼女は泣くばかりで遂に立ちあがらなかつた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
裸婦


    (一)

 或る雪の日の午後。
 街の角でばつたり、お麗さんらしい背をした女とすれちがつた。
 女は鼠色の角巻を目深に、すつと敏捷に身をかはしたので、その顔は見えなかつた。
 ――彼女だ、たしかにあの女にちがひない。
 私は断定した、同時にぎくりと何物かに胸をつかれた。
 彼女は雪路を千鳥に縫つて、小走りに姿を消してしまつた。
 ――あの女の素裸を見たことがあるのだ、勿論一物も纒はない、ほんとうの素裸さ。
 私は彼女の通り過ぎた後を振りかへつて、いひしれぬ優越感を覚えたのであつた。
 女達は実際美しい。
 着飾つた彼女達が、街をいりみだれて、配合のよい色彩の衣服をひるがへして往来してゐる姿は、まつたく天国だ。
 黒い雲がすつと走り、急に曇天となり、空の一角がピカリとひらめいたと思ふまに、何かゞくづれるやうな大音響がして、雲の中から大きな青い手が。
 爪の長い手が、ふいに現れ電光のやうに下界に流れた。
 そして手は、一時に彼女達の衣服を空に舞あげたとしたら、彼女達はどんなに狼狽することだらう。
 もぐらもちがお日様に眼を射られた時のやうに、あわてゝ下水溝の中へ悲鳴をあげて裸を隠すだらう。
 しかしそんな心配は不要だ。
 女達といふものは、実に油断のないものである。色情狂が電信柱の蔭から、彼女をおそつたとしても、彼女達は膝をすぼめて、べたりと地面にすわつてしまふだけの用意はいつでもできてゐるものである。
 ――彼女達は何故裸体をおそれるか。
 この問題は、色気のついた女達の口からは到底満足な答を得られない。
 そこで中には、質の悪い大人達が、この種類の質問を発して、子供達の口からたづねださうとする。これはよくあることだ。
 教育上よろしくないことだ。
 私の幼年時代、ある大人が
 ――××ちやんは、誰から生れたんだい、お母さんからだらう、お母さんの何処から産まれたの。
 私の顔を覗きこんだ、なんといふ卑怯な質問といふものだ。
 しかし私は、桃太郎が桃から生れたので
 ――坊も桃から生れたんだろ。
 とは答へなかつた。
 ――母ちやんの臍から産まれたんだ。
 小さい私は一言にかう答へて突放した。
 大人達は、私の口から満足な答を得られなかつたので、不服さうな顔をした。
 私はその当時、そんな問題に何の興味もなかつたのであつた。
 その問題よりも、
 ――どうしたらコマが長く廻つてゐることができるだらう。
 ――戦争ごつこの策戦。
 ――隠れん坊の誰も気づかない隠れ場所。
 かうしたことで小さな頭の中がいつぱいになつてゐた。
 私の答弁は、確に不満であつたらしい、しかし、子供達の答として上できとほめてやらねばなるまい。
 それに子供達は、妹や弟が生れる時にかぎつて、必ず追ひ出すやうに遊びにやられる。遊びからかへつて見ると、母親は、沢山積みかさねた布団の上に、鉢巻をしておきあがつてゐて、赤ん坊がやかましく綿にくるまつてないてゐた。
 だから、何処から生れるとたづねる方が無理であつたのだ、

    (二)

 彼女達が、何故に裸を怖れるかといふことを、知りたいものがあつたなら子供達に質ねた方がいゝ、子供達はきつと真実に近いことをしやべるであらう。
 ところが女達が裸を怖れなくなつたらどうだらう、けつして愉快なことではない。
 或る日、私は裸を怖れないものに脅かされた。
 私は朝湯の陽炎(かげろふ)のやうに立ちあがる湯気の中に、うつとりした気持で、ごし/″\手足を洗つてゐた。
 高い天井の彩色硝子に、たちのぼる湯気が凝つて、その玉が行列をつくつてゐた。
 玉はひとつづゝ間隔をゝき、ぽたり、/\落てきた。
 その落てくる冷たさを、額やら背やらでうけた。
 女湯は寂として、たつた一人の女が、ぴちや、/\、板の上を歩き廻る気配がした。
 私は足音に耳を傾けてゐた。すると不意に男湯の潜り戸があき、男湯に体の純白な女が、獣よりも身軽に躍り込んで来た。
『あつ』と驚いて、仰向いた私の体の上に、彼女の裸体が掩ひかぶさつてきた。
 ――しまつた。牛の化物に殺られた。
 瞬間、私はごつくりと、唾を嚥みこんで手近なところにあつた石鹸箱に手を掛けた。投つけようと思つたのであつた。
 ところが女は私を押倒したのではなく、飛越えて湯槽の向ふに行つたのだ。
 ――爺さん、流しませうか、こつち背中向けなされ。
 湯気の中から、ざら/″\とした触感の女の声がした。
 ――垢も無いやろ、ざつとでいゝぞえ。
 湯気の中の今度は男の低い声だ。
 男湯に、はいり込んできた女はまさしく牛の化物であつた。
 斑点のある生物(いきもの)であつた。
 実に痩こけた老婆であつたが、その皮膚は瀬戸物のやうに、真白に光沢があつた。
 俗にシラコといふ不気味な皮膚をしてゐた。
 二人の痩た老人夫婦は、おたがいの膚に触れあつて、たがひの背中を流し合つてゐる様子が、いまにも崩れ折れさうな枯れ木が、押あつてゐるやうであつた。
 婆さんは臆面もなく素裸であちこち歩き廻つた。
 ――ちよつと、御免なされや。
 かういつて、婆さんは俺の背中に、その人間離れをした白い皮膚の股(もゝ)を触れたりして、平気で湯を汲んだのであつた。
 歳をとると、羞恥心などは遠くに置き忘れてしまふのだ、私はしんみり考へながら慌てゝ湯槽に飛込んだ。
 老人の裸体ほど醜怪なものはない、下腹の皮が、唇のやうに垂れ下がつて、歩く度にぶら/″\と揺れた。
 それにくらべて、お麗さんの体はどんなであつたらう。
 モデル台の上に立(たつ)てはにかんだ彼女は。
 皮膚は張切つてゐて、筋肉はどこもこゝも今にも叫びさうに身構へてゐたのであつた。
 小さな街の画家連は急に裸婦を描きたくなつたのだ。
 冬は青いものがみんな雪の下に隠れてしまふので、情熱家達はその憂鬱な感情の捨場に苦るしんだ。
 ――研究会を開かう、モデル女をみつけようぢやないか。
 気の早い日本画家の蘭沢は、すぐ飛び出て、そして何処からかお麗さんを発見できた。

    (三)

 私達はアトリヱを探し求めた。
 何よりも光線の充分に室内に射しこむ家、そして彼女の肉体を、自由な距離から描くことの出来るやうな、大きな部屋を探し廻つた。
 そして室内は余り大きくなかつたが、明るい一室を、或る風呂屋の二階にみつけた。
 芸術家などゝいふものは、降神術の中の人物のやうなものだ、そのやることが人間離れがしてゐて動作に特色がある。
 一人の素裸の女を、数人の男達が取囲んで狂人眼(きちがいめ)をして彼女の肉体の各部分を、細大洩らさず絵に描きあげようなどゝいふ計画は、この画家仲間を離れては到底思ひももうけぬ欲望であるのだ。
 彼女の体を描くさまは烏が餌を突きまはすやうな現実的なものだらう。
 室は好都合にも総硝子になつてゐた。その硝子に紙張りをして芸術家以外の出歯亀が、外から覗かれないやうにした。
 室には二箇所に、ストーブを据つけ、煙筒も燃えてしまふほど石炭をしつきりなしに投(はう)り込んだ。
 室の一隅に桃色のカーテンを長く垂れて彼女がその中で衣服を脱いで現れてくるやうに設備をした。
 お麗さんは素人娘であつた。
 彼女は処女であると、蘭沢を始め、仲間は力説した。
 画家達は、彼女がまだ着物を脱ぎもしないうちから、もうすでに感激し興奮してゐた。
 ――芸術のために、我々の芸術のために彼女が裸体になつてくれるのだ。
 なんといふ彼女は大きな理解をもつてゐるのだらう。
 新らしい油絵具も買つてきた。
 新らしく画布も張つた。
 すべての準備はとゝのつた。画家達は、お麗さんの麗しい姿を、感謝の心で迎へるばかりとなつた。
 第一日目の日。
 彼女が最初のモデル台に立つ日。
 私の仲間が九人、研究室のストーブを破れる程に、石炭を燻べて室を温め、画架を林のやうに立て彼女の出来(しゆつらい)を待つてゐた。
 彼女はなか/\研究室に姿を見せなかつた。
 ――女は怖気がついたのさ。
 私がかういふと、仲間の一人は打消した。
 ――私は信じよう、お麗さんは芸術の理解者なんだ、待ちぼうけを喰はすやうなことはないよ。
 すると又一人がその尾について
 ――大丈夫来て呉れるよ。わざわざこの室まで借りて準備をすつかりしたことを知つてゐるんだし、あれほど堅い約束もあるから。
 しかし約束の時間から三十分も経つたが彼女の姿が見えなかつた。
 ――それ見ろ、お麗さん逃亡さ。
 私は冷やゝかに一同を嘲笑した。
 仲間は、不安な気持でがや/″\と話しながら彼女を待つてゐた。
 ――おい諸君。お麗さんは風呂に入つてゐたよ。
 頓狂を声をあげて、蘭沢が飛込んできた。
 仲間は小さな歓声をあげた。
 私はぎくりとした。彼女がそれほどに、芸術を愛してゐるとは信じてゐなかつたのに幸彼女が現れたからであつた。
 私はしかしお麗さんがモデル台に立つまではどうしても信ずることができなかつた。

    (四)

 お麗さんは私達を一時間もまたした。
 蘭沢が女湯を覗きに行つてみると、お麗さんが姿見の前で両肌をぬいで白粉をぬつてゐたといふ。
 ――困つたことが出来たよ。念入りに厚く塗つてゐるんではないか。モデルが白粉をぬるなんて、肉体の美感をだいなしにしてしまふ、お麗さんがきたら、この次から白粉をつけないやうに注意してくれ給へな、
 蘭沢は困つたといふ顔つきをした。
 間もなく女は現れた。
 ――遅くなつてすみませんでした。
 彼女は優しかつた。彼女の顔は果して美しく化粧されてゐた。
 私の思つてゐたやうに、彼女は果して裸体になることを怖れた。
 ――着物を着たまゝで、写生して下さいな。

次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:185 KB

担当:undef