虎狩
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著者名:中島敦 

感覚とか感情ならば、うすれることはあっても混同することはないのだが、言葉や文字の記憶は正確なかわりに、どうかすると、とんでもない別の物に化けていることがある。彼の記憶の中の「燐寸」という言葉、もしくは文字は、何時の間にかそれと関係のある「煙草」という言葉、もしくは文字に置換えられて了っていたのだ。……彼はそう説明した。それが、此の発見がいかにも面白くて堪(たま)らないというような話ぶりで、おまけに最後に、こういう習慣はすべて概念ばかりで物を考えるようになっている知識人の通弊だ、という思い掛けない結論まで添えた。実をいうと、私は、その間、彼自身は非常に興味を感じているらしい此の問題の説明に、あまり耳を傾けてはいなかった。ただ、そのセカセカした早口なしゃべり方を聞きながら、確かに、これは(声こそ違え)私の記憶の何処かにある癖だ、と思い、しきりに、その誰であったかを思い出そうとしていた。が、丁度、極めてやさしい字が仲々思い出せない時のように、もうすっかり解って了ったような気がしながら、渦巻の外側を流れる芥(あくた)の如く、ぐるぐる問題のまわりを廻ってばかりいて、仲々その中心にとび込んで行けないのだ。
 その中に私達は本郷三丁目の停留所まで来た。彼がそこで立止ったので、私もそれに倣(なら)った。彼は電車に乗るつもりかも知れない。私達は並んで立ったまま、眺めるともなく、前の薬局の飾窓を眺めていた。彼はそこに何か見付けたらしく、大胯(おおまた)に其の窓の前に歩いて行った。私も彼について行って覗(のぞ)いて見た。それは新発売の性器具の広告で、見本らしいものが黒い布の上に並べられていた。彼はその前に立って、微笑を浮かべて暫く覗いていた。その彼を、私は横に立って眺めていた。と、その時、彼のそのニヤニヤした薄笑いを横あいから覗き込んだ時、突然、私はすっかり思い出した。今まで私の頭の中で、渦巻のまわりの塵のようにぐるぐる廻ってばかりいた私の記憶が、その時、忽ち渦巻の中心に飛び込んだのだ。皮肉げに脣を曲げたあの薄笑い。眼鏡を掛けてはいるが、その奥からのぞいている細い眼。お人良しと猜疑(さいぎ)とのまざりあった其の眼付。――おお、それが彼以外の誰だろうか。虎に殺され損った勢子(せこ)を足で蹴返していまいましげに見下した彼以外の誰の眼付だろうか。その瞬間、一時に私は、虎狩や熱帯魚や発火演習などをごたごたと思い浮かべながら、これが彼であるのを見出すのに、どうしてこんなに手間を取ったろうか、と自分ながら呆(あき)れてしまった。そうして私は今や心からの喜びを以て、後から彼の肩を打とうとした。所がその時、真砂町の方から来た一台の電車が停留所に停った。それを見た彼は、私の手がまだ彼の高い肩に達しない前に、そして、私の動作に一向気づきもしないで、あわただしく身を翻(ひるがえ)して、その電車の方へ走って行った。そして、ひらりと飛乗ると、車掌台から此方(こちら)を向いて右手を一寸挙げて私に会釈し、そのまま、長い身体を折るようにして車内にはいって了った。電車はすぐに動き出した。かくして私は、十何年ぶりかで逢った我が友、趙大煥を、――趙大煥としての一言(ひとこと)をも交さないで、再び、大東京の人混みの中に見失って了ったのだ。




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