光と風と夢
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著者名:中島敦 

俺の神経も、何と鈍く、頑強になったものだ!
 昨日、ラウペパ王を訪問す。低い、惨めな家。地方の寒村にだって此の位の家は幾らでもある。丁度向い側に、殆ど竣工(しゅんこう)の成った政務長官官邸が聳(そび)え、王は日毎に此の建物を仰いでおらねばならぬ。彼は白人官吏への気兼から、我々に会うことを余り望まぬようだ。乏しい会談。しかし、この老人のサモア語の発音――殊に、その重母音の発音は美しい。非常に。

十一月××日
「難破船引揚業者(レッカー)」漸(ようや)く完成。「サモア史脚註」も進行中。現代史を書くことのむずかしさ。殊に、登場人物が悉(ことごと)く自己の知人なる時、その困難は倍加す。
 先日のラウペパ王訪問は、果然、大騒を惹起(ひきおこ)す。新しい布告が出る。何人も領事の許可なくして、又、許されたる通訳者なしには、王と会見すべからず、と。聖なる傀儡(かいらい)。
 長官より会談の申込あり。懐柔せんとなるべし。断る。
 斯(か)くて余は公然独逸(ドイツ)帝国に対する敵となり終れるものの如し。何時もうちに遊びに来ていた独逸士官達も、出帆に際し挨拶に来られぬ旨を言いよこした。
 政府が街の白人達に不人気なのは面白い。徒(いたず)らに島民の感情を刺戟(しげき)して、白人の生命財産を危険に曝(さら)すからだ。白人は土人よりも税を納めない。
 インフルエンザ猖獗(しょうけつ)。街のダンス場も閉じた。ヴァイレレ農場では七十人の人夫が一時に斃(たお)れたと。

十二月××日
 一昨日の午前、ココアの種子千五百、続いて午後に七百、届く。一昨日の正午から昨日の夕刻迄うち中総出で、この植付にかかりっきり。みんな泥まみれになり、ヴェランダは愛蘭土(アイルランド)泥炭沼の如し。ココアは始めココア樹の葉で編んだ籠(かご)に蒔(ま)く。十人の土人が裏の森の小舎で此の籠を編む。四人の少年が土を掘って箱に入れヴェランダヘ運ぶ。ロイドとベル(イソベル)と私とが、石や粘土塊をふるって土を籠に入れる。オースティン少年と下婢(かひ)のファアウマとが其の籠をファニイの所へ持って行く。ファニイが一つの籠に一つの種子を埋め、それをヴェランダに並べる。一同綿の如くに疲れて了った。今朝もまだ疲れが抜けないが、郵船日も近いので、急いで「サモア史脚註」第五章を書上げる。之は芸術品ではない。唯、急いで書上げて急いで読んで貰うべきもの。さもなければ無意味だ。
 政務長官辞任の噂あり。あてにはならぬ。領事連との衝突が此の噂を生んだのだろう。

一八九二年一月×日
 雨。暴風の気味あり。戸をしめランプを点(つ)ける。感冒が中々抜けぬ。リュウマチも起って来た。或る老人の言葉を思出す。「あらゆるイズムの中で最悪なのは、リュウマティズムだ。」
 此の間から休養をとる意味で、曾祖父(そうそふ)の頃からのスティヴンスン家の歴史を書始めた。大変楽しい。曾祖父と、祖父と、其の三人の息子(私の父をも含めて)とが、相次いで、黙々と、霧深き北スコットランドの海に灯台を築き続けた其の貴い姿を思う時、今更ながら私は誇に充たされる。題は何としよう? 「スティヴンスン家の人々」「スコットランド人の家」「エンジニーアの一家」「北方の灯台」「家族史」「灯台技師の家」?
 祖父が、凡(およ)そ想像に絶する困難と闘ってベル・ロック暗礁岬の灯台を建てた時の詳しい記録が残っている。それを読んでいる中に、何だか自分が(或いは未生の我が)本当にそんな経験をしたかのような気がして来る。自分は自分が思っている程自分ではなく、今から八十五年前北海の風波や海霧(ガス)に苦しみながら、干潮の時だけ姿を見せる・此の魔の岬と、実際に戦ったことがあるのだ、と、確かにそう思えて来る。風の激しさ。水の冷たさ。艀(はしけ)の揺れ。海鳥の叫。そういうもの迄がありありと感じられるのだ。突然胸を灼(や)かれるような気がした。磽□(こうかく)たるスコットランドの山々、ヒースの茂み。湖。朝夕聞慣れたエディンバラ城の喇叭(らっぱ)。ペントランド、バラヘッド、カークウォール、ラス岬、嗚呼(ああ)!
 私の今いる所は、南緯十三度、西経百七十一度。スコットランドとは丁度地球の反対側なのだ。

   七

「灯台技師の家」の材料をいじっている中に、何時かスティヴンスンは、一万哩(マイル)彼方のエディンバラの美しい街を憶(おも)い出していた。朝夕の霧の中から浮び上る丘々や、その上に屹然(きつぜん)として聳える古城郭から、遥か聖ジャイルス教会の鐘楼へかけての崎嶇(きく)たるシルウェットが、ありありと眼の前に浮かんで来た。
 
 幼い頃からひどく気管の弱かった少年スティヴンスンは、冬の暁毎に何時も烈しい咳の発作に襲われて、寐(ね)ていられなかった。起上り、乳母のカミイに扶(たす)けられ、毛布にくるまって窓際の椅子に腰掛ける。カミイも少年と並んで掛け、咳の静まる迄、互いに黙って、じっと外を見ている。硝子(ガラス)戸(ど)越に見るヘリオット通り(ロウ)はまだ夜のままで、所々に街灯がぼうっと滲(にじ)んで見える。やがて車の軋(きし)る音がし、窓の前をすれすれに、市場行の野菜車の馬が、白い息を吐き吐き通って行く。…………之がスティヴンスンの記憶に残る最初の此の都の印象だった。
 エディンバラのスティヴンスン家は、代々灯台技師として聞えていた。小説家の曾祖父に当るトマス・スミス・スティヴンスンは北英灯台局の最初の技師長であり、その子ロバァトも亦其の職を継いで、有名なベル・ロックの灯台を建設した。ロバァトの三人の息子、アラン、デイヴィッド、トマス、もそれぞれ次々に此の職を襲った。小説家の父、トマスは、廻転灯、総光反射鏡の完成者として、当時、灯台光学の泰斗であった。彼は其の兄弟と協力して、スケリヴォア、チックンスを始め、幾つかの灯台を築き、多くの港湾を修理した。彼は、有能な実際的科学者で、忠実な大英国の技術官で、敬虔(けいけん)なスコットランド教会の信徒で、かの基督(キリスト)教のキケロといわれるラクタンティウスの愛読者で、又、骨董(こっとう)と向日葵(ひまわり)との愛好者だった。彼の息子の記す所によれば、トマス・スティヴンスンは、常に、自己の価値に就いて甚だしく否定的な考を抱き、ケルト的な憂鬱(ゆううつ)を以て、絶えず死を思い無常を観じていたという。
 高貴な古都と、其処に住む宗教的な人々(彼の家族をも含めて)とを、青年期のロバァト・ルゥイス・スティヴンスンは激しく嫌悪した。プレスビテリアンの中心たる此の都が、彼には悉く偽善の府と見えたのである。十八世紀の後半、此の都にディーコン・ブロディなる男がいた。昼間は指物師をやり市会議員を勤めていたが、夜になると一変して賭博者(とばくしゃ)となり、兇悪(きょうあく)な強盗となって活躍した。大分久しい後に漸(ようや)く顕(あらわ)れて処刑されたが、この男こそエディンバラ上流人士の象徴だと、二十歳のスティヴンスンは考えた。彼は、通い慣れた教会の代りに、下町の酒場へ通い出した。息子の文学者志望宣言(父は初め息子をもエンジニーアに仕立てようと考えていたのだが)は、どうにか之を認め得た父親も、その背教だけは許せなかった。父親の絶望と、母親の涙と、息子の憤激の中に、親子の衝突が屡々(しばしば)繰返された。自分が破滅の淵に陥っていることを悟れない程、未だ子供であり、しかも父の救の言葉を受付けようとしない程、成人(おとな)になっている息子を見て、父親は絶望した。此の絶望は、余りに内省的な彼の上に奇妙な形となって顕(あらわ)れた。幾回かの争の後、彼は最早息子を責めようとせず、ひたすらに我が身を責めた。彼は独り跪(ひざまず)き、泣いて祈り、己の至らざる故に倅(せがれ)を神の罪人としたことを自ら激しく責め、且つ神に詫(わ)びた。息子の方では、科学者たる父が何故こんな愚かしい所行を演ずるのか、どうしても理解できなかった。
 それに、彼は、父と争論したあとでは何時も、「どうして親の前に出ると斯(こ)んな子供っぽい議論しか出来なくなるのだろうか」と、自分でいやになって了うのである。友人と話合っている時ならば、颯爽(さっそう)とした(少くとも成人(おとな)の)議論の立派に出来る自分なのに、之は一体どうした訳だろう? 最も原始的なカテキズム、幼稚な奇蹟反駁論(はんばくろん)、最も子供欺(だま)しの拙劣な例を以て証明されねばならない無神論。自分の思想は斯んな幼稚なものである筈はないのに、と思うのだが、父親と向い合うと、何時も結局は、こんな事になって了う。父親の論法が優れていて此方が負ける、というのでは毛頭ない。教義に就いての細緻(さいち)な思索などをした事のない父親を論破するのは極めて容易だのに、その容易な事をやっている中に、何時の間にか、自分の態度が我ながら厭(いや)になる程、子供っぽいヒステリックな拗(す)ねたものとなり、議論の内容そのもの迄が、可嗤(リディキュラス)なものになっているのだ。父に対する甘えが未だ自分に残っており、(ということは、自分が未だ本当に成人(おとな)でなく)それが、「父が自分をまだ子供と視ていること」と相俟(あいま)って、こうした結果を齎(もたら)すのだろうか? それとも、自分の思想が元来くだらない未熟な借物であって、それが、父の素朴な信仰と対置されて其の末梢的(まっしょうてき)な装飾部分を剥(はぎ)去(さ)られる時、その本当の姿を現すのだろうか? 其の頃スティヴンスンは、父と衝突したあとで、何時も決って、この不快な疑問を有(も)たねばならなかった。

 スティヴンスンがファニイと結婚する意志を明かにした時、父子の間は再び嶮(けわ)しいものとなった。トマス・スティヴンスン氏にとっては、ファニィが米国人であり、子持であり、年上であることよりも、実際はどうあろうと兎に角彼女が戸籍の上で現在オスボーン夫人であることが第一の難点だったのである。我儘(わがまま)な一人息子は、年歯(とし)三十にして初めて自活――それもファニイとその子供迄養う決心をして、英国を飛出した。父子の間は音信不通となった。一年の後、何千哩(マイル)隔てた海と陸の彼方で、息子が五十仙(セント)の昼食にも事欠きながら病と闘っていることを人伝(ひとづて)に聞いたトマス・スティヴンスン氏は、流石(さすが)に堪えられなくなって、救の手を差しのべた。ファニイは米国から未見の舅(しゅうと)に自分の写真を送り、書添えて言った。「実物よりもずっと良く撮れております故、決して此の通りとお思い下さいませぬよう。」
 スティヴンスンは妻と義子とを連れて英国に帰って来た。意外なことに、トマス・スティヴンスン氏は倅の妻に大変満足した。元来、彼は倅の才能は明らかに認めながらも、何処か倅の中に、通俗的な意味で安心の出来ない所があるのを感じていた。此の不安は、倅が幾ら年齢を加えても決して消えなかった。それが、今、ファニイによって、(初めは反対した結婚ではあったが)息子の為に実務的な確実な支柱を得たような気がした。美しく・脆(もろ)い・花のような精神を支えるべき、生気に充ちた強靱(きょうじん)な支柱を。

 長い不和の後、一家――両親、妻、ロイドと揃ってブレイマの山荘に過した一八八一年の夏を、スティヴンスンは今でも快く思い起すことが出来る。それは、アバディーン地方特有の東北風が連日、雨と雹(ひょう)とを伴って吹荒(ふきすさ)む沈鬱(ちんうつ)な八月であった。スティヴンスンの身体は例によって悪かった。或日エドモンド・ゴスが訪ねて来た。スティヴンスンより一つ年上の・この博識温厚な青年は、父のスティヴンスン氏とも良く話が合った。毎朝ゴスは朝食を済ますと、二階の病室に上って行く。スティヴンスンは寝床の上に起上って待っている。将棋(チェス)をするのだ。「病人は午前中は、しゃべってはいけない」と医者に禁じられているので、無言の将棋である。その中に疲れて来ると、スティヴンスンが盤の縁を叩いて合図する。すると、ゴスなり、ファニイなりが彼を寐(ね)かせ、そして、何時でも書きたい時に寐たなりで書けるように、布団の位置を巧(うま)く、しつらえる。ディナーの時間迄ステイヴンスンは独りで寐たまま、休んでは書き、書いては休みする。ロイド少年の画いていた或る地図から思いついた海賊冒険譚(たん)を、彼は書続けていた。ディナーの時になると、ステイヴンスンは階下(した)に下りて来る。午前中の禁が解かれているので、今度は饒舌(じょうぜつ)である。夜になると、彼は其の日書溜(かきた)めた分を、みんなに読んで聞かせる。外では雨風の音が烈しく、隙間風に燭台(しょくだい)の灯がちらちらと揺れる。一同は思い思いの姿勢で、熱心に聞きとれている。読終ると、てんでに色々な註文や批評を持出す。一晩毎に興味を増して来て、父親までが、「ビリィ・ボーンズの箱の中の品目作製を受持とう」と言出した。ゴスはゴスで、又、別の事を考えながら、暗然たる気持で此の幸福そうな団欒(だんらん)を眺めていた。「此の華やかな俊才の蝕(むしば)まれた肉体は、果して何時迄もつだろうか? 今幸福そうに見える此の父親は、一人息子に先立たれる不幸を見ないで済むだろうか。」と。

 しかし、トマス・スティヴンスン氏は其の不幸を見ないで済んだ。息子が最後に英国を離れる三月前に、彼はエディンバラで死んだ。

   八

一八九二年四月×日
 思いがけなくラウペパ王が護衛を連れて訪ねて来た。うちで昼食。老人、今日は中々愛想がいい。何故自分を訪ねて呉れないんだ? などと云う。王との会見には領事連の諒解が必要だから、と私がいうと、そんな事は構わぬ、といい、また昼食を共にしたいから日時を指定せよと言う。この木曜に会食しようと約束する。
 王が帰ると間もなく、巡査の徽章(きしょう)のようなものを佩(つ)けた男が訪ねて来た。アピア市の巡査ではない。所謂(いわゆる)叛乱者側(マターファ側の者をアピア政府の官吏は、そう呼ぶ。)の者だ。マリエからずっと歩き通して来たのだという。マターファの手紙を持って来たのだ。私も今ではサモア語が読める。(話す方は駄目だが、)彼の自重を望んだ先日の私の書簡に対する返辞のようなもので、会い度いから来週の月曜にマリエヘ来て呉れという。土語の聖書を唯一の参考にして(「我誠に汝らに告ぐ」式の手紙だから、先方も驚くだろう。)承知の旨をたどたどしいサモア語でしたためる。一週間の中に、王と、其の対立者とに会う訳だ。斡旋(あっせん)の実が挙がれば良いと思う。

四月×日
 身体の工合余り良からず。
 約束故、ムリヌウの、みすぼらしき王宮へ御馳走になりに行く。何時もながら、直ぐ向いの政務長官官邸が眼障りでならぬ。今日のラウペパの話は面白かった。五年前悲壮な決意を以て独逸(ドイツ)の陣営に身を投じ、軍艦に載せられて見知らぬ土地に連れ行かれた時の話である。素朴な表現が心を打った。
「…………昼はいけないが、夜だけは甲板に上ってもいいと言われた。長い航海の後、一つの港に着いた。上陸すると、恐ろしく暑い土地で、足首を二人ずつ鉄の鎖で繋(つな)がれた囚人等が働いていた。其処には浜の真砂(まさご)のように数多くの黒人がいた。…………それから又大分船に乗り、独逸も近いと言われた頃、不思議な海岸を見た。見渡す限り真白な崖が陽に輝いているのだ。三時間も経つと、それが天に消えて了ったので、更に驚いた。…………独逸に上陸してから、中に汽車というものの沢山はいっている硝子(ガラス)屋根の巨(おお)きな建物の中を歩いた。それから、家みたいに窓とデッキとのある馬車に乗り、五百も部屋のある家に泊った。…………独逸を離れて大分航海してから、川の様な狭い海を船がゆっくり進んだ。聖書の中で聞いていた紅海だと教えられ、欣(よろこ)ばしい好奇心で眺めた。それから、海の上を夕陽の色が眩(まぶ)しく赤々と流れる時刻に、別の軍艦に乗移らせられた。…………」
 古い、美しいサモア語の発音で、ゆっくりゆっくり語られる此の話は、大変面白かった。
 王は、私がマターファの名を口に出すことを懼(おそ)れているらしい。話好きな、人の善い老人だ。ただ、現在の自分の位置に就いての自覚が無いのである。明後日、又、是非訪ねて呉れという。マターファとの会見も迫っているし、身体の工合も良くないが、兎に角承知して置く。以後、通訳は、牧師のホイットミイ氏に頼もうと思う。同氏の宅で明後日、王と落合うことに決める。

四月×日
 早朝馬で街へ下り、八時頃ホイットミイ氏の家へ行く。王と約束の会見の為なり。十時迄待ったが、王は来らず。使が来て、王は今、政務長官と用談中にて来られぬとのこと。夜七時頃なら来られるという。一旦家に戻り、夕刻又ホイットミイ氏の家に来て、八時頃迄待ったが、竟(つい)に来ない。無駄骨折って疲労甚だし。長官の監視を逃れて、こっそりやって来ることさえ、弱気なラウペパには出来ないのだ。

五月×日
 午前五時半出発、ファニイ、ベル、同道。通訳兼漕手(こぎて)として、料理人のタロロを連れて行く。七時に礁湖を漕出す。気分未だすぐれず。マリエに着きマターファから大歓迎を受く。但し、ファニイ、ベル、共に余が妻と思われたらしい。タロロは通訳としては、まるで成っていない。マターファが長々としゃべるのに、此の通訳は、唯、「私は大いに驚いた。」としか訳せない。何を言っても「驚いた」一点張。余の言葉を先方に伝えることも同然らしい。用談進捗(しんちょく)せず。
 カヴァ酒を飲み、アロウ・ルウトの料理を喰う。食後、マターファと散歩。余の貧弱なるサモア語の許す範囲で語合った。婦人連の為に、家の前で舞踏が行われた。
 暮れてから帰途に就く。此のあたり、礁湖頗(すこぶ)る浅く、ボートの底が方々にぶっつかる。繊月光淡し。大分沖へ出た頃、サヴァイイから帰る数隻の捕鯨ボートに追越される。灯をつけた・十二丁(ちょう)櫓(ろ)・四十人乗の大型ボート。どの船でも皆漕ぎながら合唱していた。
 遅いのでうちへは帰れず。アピアのホテルに泊る。

五月××日
 朝、雨中を馬でアピアヘ。今日の通訳サレ・テーラーと待合せ、午後から、又マリエヘ行く。今日は陸路。七哩(マイル)の間ずっと土砂降。泥濘(ぬかるみ)。馬の頸(くび)に達する雑草。豚小舎の柵(さく)も八ヶ所程飛越す。マリエに着いた時は、既に薄暮。マリエの村には相当立派な民家がかなり在る。高いドーム型の茅屋根(かややね)をもち、床に小石を敷いた・四方の壁の明けっぱなしの建物だ。マターファの家も流石(さすが)に立派だ。家の中は既に暗く、椰子殻(やしがら)の灯が中央に灯(とも)っていた。四人の召使が出て来て、マターファは今、礼拝堂にいるという。其の方角から歌声が洩(も)れて来た。
 やがて、主人がはいって来、我々が濡れた着物を換えてから、正式の挨拶あり。カヴァ酒が出る。列座の諸酋長(しゅうちょう)に向って、マターファが余を紹介する。「アピア政府の反対を冒して、余(マターファ)を助けんが為に雨中を馳(は)せ来りし人物なれば、卿(きょう)等は以後ツシタラと親しみ、如何なる場合にも之に援助を惜しむべからず。」と。
 ディナー、政談、歓笑、カヴァ、――夜半迄続く。肉体的に堪えられなくなった余のために、家の一隅が囲われ、其処にベットが作られた。五十枚の極上のマットを並べた上で独り眠る。武装した護衛兵と、他に幾人かの夜警が、徹宵家の周囲に就いている。日没から日の出まで彼等は無交代である。
 暁方の四時頃、眼が覚めた。細々と、柔らかに、笛の音が外の闇から響いて来る。快い音色だ。和やかに、甘く、消入りそうな…………
 あとで聞くと、此の笛は、毎朝きまって此の時刻に吹かれることになっているのだそうだ。家の中に眠れる者に良き夢を送らんが為に。何たる優雅な贅沢(ぜいたく)! マターファの父は、「小鳥の王」といわれた位、小禽(ことり)共(ども)の声を愛していたそうだが、其の血が彼にも伝わっているのだ。
 朝食後テーラーと共に馬を走らせて帰途に就く。乗馬靴が濡れて穿(は)けないので跣足(はだし)。朝は美しく晴れたが、道は依然どろんこ。草のために腰まで濡れる。余り駈けさせたので、テーラーは豚柵の所で二度も馬から投出された。黒い沼。緑のマングロオヴ。赤い蟹(かに)、蟹、蟹。街に入ると、パテ(木の小太鼓)が響き、華やかな服を着けた土人の娘達が教会へはいって行く。今日は日曜だった。街で食事を摂ってから、帰宅。
 十六の柵を跳び越えて二十哩(マイル)の騎行(しかも其の前半は豪雨の中)。六時間の政論。スケリヴォアで、ビスケットの中の穀象虫の様にちぢかんでいた曾(かつ)ての私とは、何という相違だろう!
 マターファは美しい見事な老人だ。我々は昨夜、完全な感情の一致を見たと思う。

五月××日
 雨、雨、雨、前の雨季の不足を補うかのように降続く。ココアの芽も充分水を吸っていよう。雨の屋根を叩く音が止むと、急流の水音が聞えて来る。
「サモア史脚註」完成。勿論、文学ではないが、公正且つ明確なる記録たることを疑わず。
 アピアでは白人達が納税を拒んだ。政府の会計報告がはっきりしないからだ。委員会も彼等を召喚する能(あた)わず。
 最近、我が家の巨漢ラファエレが女房のファアウマに逃げられた。がっかりして、朋輩(ほうばい)の誰彼に一々共謀の疑をかけていたようだが、今はあきらめて新しい妻を見つけに掛かっている。
「サモア史」の完結で、愈々(いよいよ)、「デイヴィッド・バルフォア」に専念できる。「誘拐(キッドナップト)」の続篇だ。何度か書出しては、途中で放棄していたが、今度こそ最後迄続け得る見込がある。「難破船引揚業者(レッカー)」は余りに低調だった。(尤(もっと)も、割に良く読まれているというから不思議だが)「デイヴィッド・バルフォア」こそは「マァスタア・オヴ・バラントレエ」以来の作品となり得よう。デイヴィ青年に対する作者の愛情は、一寸他人には解るまい。

五月××日
 C・J(チーフ・ジャスティス)・ツェダルクランツが訪ねて来た。どうした風の吹廻しやら。うちの者と何気ない世間話をして帰って行った。彼は、最近のタイムズの私の公開状(その中で彼をこっぴどくやっつけた)を読んでいる筈。どういう量見で来たのだろう?

六月×日
 マターファの大饗宴(だいきょうえん)に招かれているので、朝早く出発。同行者――母、ベル、タウイロ(うちの料理番の母で、近在の部落の酋長(しゅうちょう)夫人。母と私とベルと、三人を合せたより、もう一周り大きい・物凄い体躯(たいく)をもっている。)通訳の混血児サレ・テーラー、外、少年二人。
 カヌーとボートとに分乗。途中でボートの方が、遠浅の礁湖の中で動かなくなって了う。仕方がない。跣足(はだし)になって岸まで歩く。約一哩(マイル)、干潟(ひがた)の徒渉。上からはかんかん照付けるし、下は泥でぬるぬる滑る。シドニイから届いたばかりの私の服も、イソベルの・白い・縁とりのドレスも、さんざんの目に逢う。午過(ひるすぎ)、泥だらけになって、やっとマリエに着く。母達のカヌー組は既に着いていた。最早、戦闘舞踊は終り、我々は、食物献納式の途中から(といっても、たっぷり二時間はかかったが)見ることが出来ただけだった。
 家の前面の緑地の周囲に、椰子(やし)の葉や、荒布で囲われた仮小舎が並び、大きな矩形(くけい)の三方に土人達が部落別に集まっている。実にとりどりな色彩の服装だ。タパを纏(まと)った者、パッチ・ワークを纏った者、粉をふった白檀(びゃくだん)を頭につけた者、紫の花弁を頭一杯に飾った者…………
 中央の空地には、食物の山が次第に大きさを増して行く。(白人に立てられた傀儡(かいらい)ではない)彼等の心から推服する真の王者へと贈られた・大小酋長からの献上品だ。役人や人夫が列をなして歌を唱(うた)いながら贈物を次々に運び入れる。其等は一々高く振上げて衆に示され、接収役が鄭重(ていちょう)な儀礼的誇張を以て、品名と贈呈者とを呼び上げる。この役人は頑丈な体格の男で、全身に良く油が塗り込んであるらしく、てらてら光っている。豚の丸焼を頭上に振廻しながら、滝の様な汗を流して叫んでいる有様は、壮観である。我々の持参したビスケットの缶と共に、「アリイ・ツシタラ・オ・レ・アリイ・オ・マロ・テテレ」(物語作者酋長・大政府の酋長)と紹介される声を私は聞いた。
 我々の為に特に設けられた席の前に、一人の老いたる男が、緑の葉を頭に載せて坐っている。少し暗い・けんのある其の横顔は、ダンテにそっくりだ。彼は、此の島特有の職業的説話者の一人、しかも其の最高権威で、名をポポという。彼の傍には、息子や、同僚達が坐っている。我々の右手、かなり離れて、マターファが坐っており、時々彼の脣(くちびる)が動き、手頸(てくび)の数珠玉の揺れるのが見える。
 一同はカヴァを飲んだ。王が一口飲んだ時、全く驚かされたことに、ポポ父子(おやこ)がとてつもなく奇妙な吠声(ほえごえ)を立てて、之を祝福した。こんな不思議な声は、まだ聞いたことがない。狼の吠声の様だが、「ツイアツア万歳」の意味だそうだ。やがて食事になった。マターファが喰終ると、又しても奇怪な吠声が響いた。此の非公認の王の面上に、一瞬、若々しい誇と野心の色が生動し、直ぐに又消去るのを、私は見た。ラウペパとの分離以来、始めて、ポポ父子がマターファの許に来てツイアツアの名を讃えたからであろう。
 既に食物搬入は済んだ。贈物は順々に注意深く数えられ、記帳された。ふざけた説話者が、品名や数量を一々変な節廻しで呼上げては、聴衆を笑わせている。「タロ芋六千箇」「焼豚三百十九頭」「大海亀三匹」……
 それから、未だ見たこともない不思議な情景が現れた。突然、ポポ父子が立上り、長い棒を手に、食物の堆(うずたか)く積まれた庭に飛出して、奇妙な踊を始めた。父親は腕を伸ばし棒を廻しながら舞い、息子は地に蹲(かが)まり、其の儘(まま)何ともいえない恰好(かっこう)で飛び跳ね、此の踊の画く円は次第に大きくなって行った。彼等のとび越えただけのものは、彼等の所有(もの)になるのだ。中世のダンテが忽然(こつぜん)として怪しげな情ないものに変った。此の古式の(又、地方的な)儀礼は、流石(さすが)にサモア人の間にさえ笑声を呼起した。私の贈ったビスケットも、生きた一頭の犢(こうし)も、ポポにとび越えられて了った。が、大部分の食物は、一度己のものなることを宣した上で、再びマターファに献上された。
 さて、物語作者酋長(ル・アリイ・ツシタラ)の番が来た。彼は踊らなかったが、五羽の生きた□、油入瓢箪(ひょうたん)[#「瓢箪」は底本では「飄箪」]四箇、筵(むしろ)四枚、タロ芋百箇、焼豚二頭、鱶(ふか)一尾、及び大海亀一匹を贈られた。之は「王より大酋長への贈物」である。之等は、合図の下に、ラヴァラヴァを褌(ふんどし)ほども短く着けた数人の若者によって、食物群中から運び出される。彼等が食物の山の上に屈(かが)み込んだかと思うと、忽(たちま)ち、あやまり無き速さを以て、命ぜられた品と数量とを拾い上げ、サッと、それを又、別の離れた場所へ綺麗に積上げる。その巧みさ! 麦畑にあさる鳥の群を見る如し。
 突然、紫の腰布を着けた壮漢が九十人ばかり現れて、我々の前に立停った。と思うと、彼等の手から、それぞれ空中高く、生きた稚□(わかどり)が力一杯投上げられた。百羽に近い□が羽をばたつかせながら落ちて来ると、それを受取って、又、空へ投げ返す。それが、幾度も繰返される。騒音、歓声、□の悲鳴。振廻し、振上げられる逞(たくま)しい銅色の腕、腕、腕、…………観ものとしては如何にも面白いが、しかし一体何羽の□が死んだことだろう!
 家の中でマターファと用談を済ませてから、水辺へ下りて行くと、既に貰い物の食物は舟に積込まれてあった。乗ろうとすると、スコール襲来、再び家に戻り、半時間休んでから、五時出発、またボートとカヌーとに分乗。水の上に夜が落ち、岸の灯が美しい。みんな唱い出す。小山の如く厖大(ぼうだい)なタウイロ夫人が素晴らしく良い声なので一驚する。その途中、又スコール。母もベルもタウイロも私も海亀も豚もタロ芋も鱶も瓢箪も、みんなびしょ濡れ。ボートの底に溜(たま)った生ぬるい水に漬りながら、九時近く、やっとアピアに着く。ホテル泊まり。

六月××日
 召使達が、裏山の藪(やぶ)の中で骸骨を見付けたと言って騒ぐので、みんなを連れて行って見る。成程、骸骨には違いないが、大分、時の経ったものだ。此の島の成人(おとな)としては、どうも小さ過ぎるようだ。藪の・ずうっと奥の・薄暗く湿った辺なので、今迄人目に付かなかったのだろう。そこらを掻廻している中に、又、別の頭蓋骨(ずがいこつ)(今度は頭だけ)が見付かった。私の親指二本はいる位の弾丸の穴があいている。二つの頭蓋骨を並べた時、召使達は、一寸ロマンティックな説明を見付けた。此の気の毒な勇士は戦場で敵の首を取った(サモア戦士の最高の栄誉)のだが、自らも重傷を負うていたので、味方にそれを見せることが出来ず、此処迄這っては来たが、空しく敵の首を抱いたまま死んで了ったのだろうと。(とすれば、十五年前の・ラウペパとタラヴォウとの戦の時のことか?)ラファエレ達が直ぐに骨を埋めにかかった。

 夕方六時頃、馬で裏の丘を下りようとした時、前面の森の上に大きな雲を見た。それは、甲虫(かぶとむし)の如き額をした・鼻の長い男の横顔をはっきり現していた。顔の肉に当る部分は絶妙の桃色で、帽子(大きなカラマク人の帽子)、髭(ひげ)、眉毛は青がかった灰色。子供じみた此の図柄と、色の鮮明さと、そのスケールの大きさ(全く途方もない大きさ)とが、私を茫然(ぼうぜん)とさせた。見ている中に表情が変った。たしかに片眼を閉じ、顎(あご)を引く様子である。突然、鉛色の肩が前にせり出して、顔を消して了った。
 私は他の雲々を見た。はっと思わず息をのむばかりの・壮大な・明るい・雲の巨柱の林立。それ等の脚は水平線から立上り、其の頂きは天頂距離三十度以内にあった。何という崇高さだったろう! 下の方は氷河の陰翳(いんえい)の如く、上に行くにつれ、暗い藍(インディゴオ)から曇った乳白に至る迄の微妙な色彩変化のあらゆる段階を見せている。背後の空は、既に迫る夜のために豊かにされ又暗くされた青一色。その底に動く藍紫色の・なまめかしいばかりに深々とした艶と翳(かげ)。丘は、はや日没の影を漂わせているのに、巨大な雲の頂上は、白日の如き光に映え、火の如く・宝石の如き・最も華やかな柔かい明るさを以て、世界を明るくしている。それは、想像される如何なる高さよりも高い所にある。下界の夜から眺める・其の清浄無垢(むく)の華やかな荘厳さは、驚異以上である。
 雲に近く、細い上弦の月が上っている。月の西の尖(とが)りの直ぐ上に、月と殆ど同じ明るさに光る星を見た。黒み行く下界の森では、鳥共の疳高(かんだか)い夕べの合唱。

 八時頃見たら、月は先刻より大分明るく、星は今度は月の下に廻っていた。明るさは依然同じくらい。

七月××日
「デイヴィッド・バルフォア」漸(ようや)く快調。
 キューラソー号入港、艦長ギブソン氏と会食。
 巷間(こうかん)の噂によれば、R・L・S・は本島より追放さるべしと。英国領事がダウニング街に訓令を請いたる由。余の存在は島内の治安に害ありとや? 余も亦偉大なる政治的人物にあらずや。

八月××日
 昨日又、マターファの招により、マリエに赴く。通訳はヘンリ(シメレ)。会談中マターファが私をアフィオガと呼んで、ヘンリを仰天させた。今迄私はススガ(閣下に当ろうか?)と呼ばれていたのだが、アフィオガは王族の称呼である。マターファの家に一泊。
 今朝、朝食後、大灌奠式(ローヤル・カヴァ)を見る。王位を象徴する古い石塊にカヴァ酒を灌(そそ)ぐのだ。此の島に於てさえ半ば忘れられた楔形(くさびがた)文字的典礼。老人の白髯(はくぜん)を集めて作った兜(かぶと)の飾り毛を風に靡(なび)かせ、獣歯の頸掛(くびかけ)をつけた・身長六呎(フィート)五吋(インチ)の筋骨隆々たる赤銅色の戦士達の正装姿は、全く圧倒的である。

九月×日
 アピア市婦人会主催の舞踏会に出席。ファニイ、ベル、ロイド、及びハガァド(例のライダア・ハガァドの弟。快男児なり、)も同行。会半ばにして裁判所長(チーフ・ジャスティス)ツェダルクランツ現る。数ヶ月前不得要領な訪問を受けて以来の対面なり。小憩後、彼と組になってカドリルを踊る。珍妙にして恐るべきカドリルよ! ハガァド曰(いわ)く、「奔馬の跳躍にさも似たり」と。我等二人の公敵が、それぞれ、厖大(ぼうだい)にして尊敬すべき二人の婦人に抱きかかえられつつ、手を組み足を蹴上げて跳ね廻る時、大法官も大作家も共に、威厳を失墜すること夥(おびただ)し。
 一週間前、チーフ・ジャスティスは混血児の通訳をそそのかして、私に不利な証拠を掴(つか)ませようとあせっていたし、私は私で今朝も、此の男を猛烈に攻撃した第七回目の公開状をタイムズヘ書いていた。
 我々は、今微笑を交しつつ、奔馬の跳躍に余念がない!

九月××日
「デイヴィッド・バルフォア」漸く仕上。と同時に、作者もぐったりして了った。医者に診て貰うと、決って、此の熱帯の気候の「温帯人を傷める」性質に就いての説明を聞かされる。どうも信じられない。この一年間、煩わしい政治騒ぎの中で持続的にやって来た労作のようなものは、まさか、ノルウェーでは出来まいに。兎に角、身体は疲労の極に達している。「デイヴィッド・バルフォア」に就いては、大体満足。
 昨日の午後街へ使にやったアリック少年が、昨夜遅く繃帯(ほうたい)をし眼を輝かして帰って来た。マライタ部落の少年等と決闘、三・四人を傷つけて来たと。今朝、彼はうち中の英雄になっていた。彼は一本糸の胡弓(こきゅう)を作り、自ら勝利の唄を奏で、且つ踊った。興奮している時の彼は中々美少年である。ニュウ・ヘブリディスから来た当座は、うちの食事が旨(うま)いとて無闇に食過ぎ、腹が凄くふくらんで了って苦しんだことがあったが。

十月×日
 朝来、胃痛劇(はげ)し。阿片(あへん)丁幾(チンキ)十五滴服用。この二三日は仕事をせず。我が精神は所有者未定(アベイヤンス)の状態にあり。

 曾(かつ)て私は華やかな青年だったらしい。というのは其の頃、友人の誰もが、私の作品よりも私の性格と談話との絢爛(けんらん)さを買っていたようだったから。しかし、人は何時迄もエァリエルやパックばかりではいられない。「ヴァージニバス・ピュエリスク」の思想も文体も、今では最も厭(いと)わしいものになって了った。実際イエールでの喀血(かっけつ)後、凡(すべ)てのものに底が見えて来たように感じた。私は最早何事にも希望を抱かぬ。死蛙の如くに。私は、凡ての事に、落着いた絶望を以て這入って行く。宛(あたか)も、海へ行く場合、私が何時も溺(おぼ)れることを確信して行くのと同様に。ということは、何も、自暴自棄になっているのではない。それ所か、私は、死ぬ迄快活さを失わぬであろう。此の確信ある絶望は、一種の愉悦でさえある。それは、意識せる・勇気ある・楽しさを以て、以後の生を支えて行くに足るもの――信念に幾(ちか)いものだ。快楽も要らぬ。インスピレーションも要らぬ。義務感だけで充分やって行ける自信がある。蟻の心構を以て、蝉の唄を歌い続け得る自信が。

市場(いち)に 街頭(まち)に
私は太鼓をとどろと鳴らす
紅い上衣(コート)を着て私の行くところ
頭上にリボンは翩翻(へんぽん)と靡く。

新しい戦士を求めて
私は太鼓をとどろと鳴らす
わが伴侶(とも)に私は約束する
生きる希望と、死ぬ勇気とを。

   九

 満十五歳以後、書くことが彼の生活の中心であった。自分は作家となるべく生れついている、という信念は、何時、又、何処から生じたものか、自分でも解らなかったが、兎に角十五六歳頃になると、既に、それ以外の職業に従っている将来の自分を想像して見ることが不可能な迄になっていた。
 其の頃から、彼は外出の時いつも一冊のノートをポケットに持ち、路上で見るもの、聞くもの、考えついたことの凡てを、直ぐ其の場で文字に換えて見ることを練習した。其のノートには又彼の読んだ書物の中で「適切な表現」と思われたものが悉(ことごと)く書抜いてあった。諸家のスタイルを習得する稽古(けいこ)も熱心に行われた。一つの文章を読むと、それと同じ主題を種々違った作家の――或いはハズリットの、或いはラスキンの、或いはサア・トマス・ブラウンの――文体で以て幾通りにも作り直してみた。こうした習練は、少年時代の数年に亘って倦(う)まずに繰返された。少年期を纔(わず)かに脱した頃、未だ一つの小説をも、ものしない前に、彼は、将棋(チェス)の名人が将棋に於て有(も)つような自信を、表現術の上に有っていた。エンジニーアの血を享(う)けた彼は自己の途(みち)に於ても技術家としての誇を早くから抱いていた。
 彼は殆ど本能的に「自分は自分が思っている程、自分ではないこと」を知っていた。それから「頭は間違うことがあっても、血は間違わないものであること。仮令(たとえ)一見して間違ったように見えても、結局は、それが真の自己にとって最も忠実且つ賢明なコースをとらせているのであること。」「我々の中にある我々の知らないものは、我々以上に賢いのだということ」を知っていた。そうして、自らの生活の設計に際しては、其の唯一の道――我々より賢いものの導いて呉れる其の唯一の途を、最も忠実、勤勉に歩むことにのみ全力を払い、他の一切は之を棄てて顧みなかった。俗衆の嘲罵(ちょうば)や父母の悲嘆をよそに彼は此の生き方を、少年時代から死の瞬間に至るまで続けた。「うすっぺら」で、「不誠実」で、「好色漢」で、「自惚(うぬぼれ)や」で、「がりがりの利己主義者」で、「鼻持のならぬ気取りや」の彼が、この書くという一筋の道に於てのみは、終始一貫、修道僧の如き敬虔(けいけん)な精進を怠らなかった。彼は殆ど一日としてものを書かずには過ごせなかった。それは最早肉体的な習慣の一部だった。絶間なく二十年に亘って彼の肉体をさいなんだ肺結核、神経痛、胃痛も、此の習慣を改めさせることは出来なかった。肺炎と坐骨神経痛と風眼とが同時に起った時、彼は、眼に繃帯(ほうたい)を当て、絶対安静の仰臥(ぎょうが)のまま、囁(ささや)き声(ごえ)で「ダイナマイト党員」を口述して妻に筆記させた。
 彼は、死と余りに近い所に常に住んでいた。咳込んだ口を抑える手巾(ハンカチ)の中に紅いものを見出さないことは稀(まれ)だったのである。死に対する覚悟に就いてだけは、この未熟で気障(きざ)な青年も、大悟徹底した高僧と似通ったものを有(も)っていた。平生、彼は自分の墓碑銘とすべき詩句をポケットにしのばせていた。「星影繁き空の下、静かに我を眠らしめ。楽しく生きし我なれば、楽しく今は死に行かむ」云々(うんぬん)。彼は、自分の死よりも、友人の死の方を、寧(むし)ろ恐れた。自らの死に就いては、彼は之に馴れた。というよりも、一歩進んで、死と戯れ、死と賭(かけ)をするような気持を有(も)っていた。死の冷たい手が彼をとらえる前に、どれだけの美しい「空想と言葉との織物」を織成すことが出来るか? 之は大変豪奢(ごうしゃ)な賭のように思われた。出発時間の迫った旅人の様な気持に追立てられて、彼はひたすらに書いた。そうして、実際、幾つかの美しい「空想と言葉との織物」を残した。「オララ」の如き、「スロオン・ジャネット」の如き、「マァスタア・オヴ・バラントレエ」の如き。「成程、其等の作品は美しく、魅力に富んではいるが、要するに、深味のないお話だ。スティヴンスンなんて結局通俗作家さ。」と、多くの人がそう言う。しかし、スティヴンスンの愛読者は、決して、それに答える言葉に窮しはしない。「賢明なスティヴンスンの守護天使(ジーニアス)(その導きによって彼が、作家たる彼の運命を辿(たど)ったのだが)が、彼の寿命の短いであろうことを知って、(何人にとっても四十歳以前に其の傑作を生むことが恐らくは不可能であろう所の・)人間性剔抉(てっけつ)の近代小説道を捨てさせ、その代りに、此の上なく魅力に富んだ怪奇な物語の構成と、その巧みな話法との習練に(之ならば仮令早世しても、少くとも幾つかの良き美しきものは残せよう)向わせたのである」と。「そして、之こそ、一年の大部分が冬である北国の植物にも、極く短い春と夏の間に大急ぎで花を咲かせ実を結ばせる・あの自然の巧みな案排(あんばい)の一つなのだ」と。人、或いは云うであろう。ロシア及びフランスのそれぞれ最も卓(すぐ)れた最も深い短篇作家も、共に、スティヴンスンと同年、或いは、より若く死んでいるではないか、と。しかし彼等は、スティヴンスンがそうであった様に、絶えざる病苦によって短命の予覚に脅され通しではなかったのである。
 小説(ロマンス)とは circumstance の詩だと、彼は言った。事件(インシデント)よりも、それに依って生ずる幾つかの場面の効果を、彼は喜んだのである。ロマンス作家を以て任じていた彼は、(自ら意識すると、せぬとに拘(かか)わらず)自分の一生を以て、自己の作品中最大のロマンスたらしめようとしていた。(そして、実際、それは或る程度迄成功したかに見える。)従って其の主人公(ヒーロー)たる自己の住む雰囲気は、常に、彼の小説に於ける要求と同じく、詩をもったもの、ロマンス的効果に富んだものでなければならなかった。雰囲気描写の大家たる彼は、実生活に於て自分の行動する場面場面が、常に、彼の霊妙な描写の筆に値する程のものでなければ我慢がならなかったのである。傍人の眼に苦々しく映ったに違いない・彼の無用の気取(或いはダンディズム)の正体は、正しく此処にあった。何の為に酔狂にも驢馬(ろば)なんか連れて、南仏蘭西(フランス)の山の中をうろつかねばならぬか? 何の為に、良家の息子が、よれよれの襟飾(ネクタイ)をつけ、長い赤リボンのついた古帽子をかぶって放浪者気取をする必要があるか? 何だって又、歯の浮くような・やにさがった調子で「人形は美しい玩具だが、中味は鋸屑(おがくず)だ」などという婦人論を弁じなければ気が済まぬのか? 二十歳のスティヴンスンは、気障のかたまり、厭味(いやみ)な無頼漢(ならずもの)、エディンバラ上流人士の爪弾き者だった。厳しい宗教的雰囲気の中に育てられた白面病弱の坊ちゃんが、急に、自らの純潔を恥じ、半夜、父の邸(やしき)を抜け出して紅灯の巷(ちまた)をさまよい歩いた。ヴィヨンを気取り、カサノヴァを気取る此の軽薄児も、しかし、唯一筋の道を選んで、之に己の弱い身体と、短いであろう生命とを賭(か)ける以外に、救いのないことを、良く知っていた。緑酒と脂粉の席の間からも、其の道が、常に耿々(こうこう)と、ヤコブの砂漠で夢見た光の梯子(はしご)の様に高く星空迄届いているのを、彼は見た。

   十

一八九二年十一月××日
 郵船日とてベルとロイドとが昨日から街へ行って了ったあと、イオプは脚が痛くなり、ファアウマ(巨漢の妻は再びケロリとして夫の許に戻って来た。)は肩に腫物(はれもの)が出来、フアニイは皮膚に黄斑(おうはん)が出来始めた。ファアウマのは丹毒の懼(おそれ)があるから素人療法では駄目らしい。夕食後騎馬で医者の所へ行く。朧月夜(おぼろづきよ)。無風。山の方で雷鳴。森の中を急ぐと、例の茸(きのこ)の蒼い灯が地上に点々と光る。医者の所で明日の来診を頼んだ後、九時迄ビールを飲み、独逸(ドイツ)文学を談ず。
 昨日から新しい作品の構想を立て始める。時代は一八一二年頃。場所はラムマムーアのハーミストン附近及びエディンバラ。題は未定。「ブラックスフィールド」? 「ウィア・オヴ・ハーミストン」?

十二月××日
 増築完成。
 本年度の year bill が廻って来る。約四千磅(ポンド)。今年はどうやら収支償えるかも知れぬ。
 夜、砲声を聞く。英艦入港せりと。街の噂では、私が近い中に逮捕護送されることになっているらしい。
 カッスル社から「壜(びん)の悪魔」と「ファレサの浜辺」とを合せ、「島の夜話」として出そうと言って来る。此の二つは余りに味が違い過ぎて、おかしくはないか? 「声の島」と「放浪の女」とを加えてはどうかと思う。

「放浪の女」を入れることには、ファニイが不服だという。

一八九三年一月×日
 引続いて微熱去らず。胃弱も酷(ひど)い。
「デイヴィッド・バルフォア」の校正刷、未だに送って来ない。どうした訳か? もう少くとも半分は出ていなければならない筈。
 天候はひどく悪い。雨。飛沫(しぶき)。霧。寒さ。
 払えると思っていた増築費、半分しか払えない。どうして、うちは斯んなに金がかかるのか? 格別贅沢(ぜいたく)をしているとも思えないのに。ロイドと毎月頭を絞るのだが、一つ穴を埋めれば、外に無理が出来てくる。やっと巧(うま)く行きそうな月には、決って英国軍艦が入港し士官等の招宴を張らねばならぬようになる。召使が多過ぎる、という人もある。傭(やと)ってある者は、そう大した人数ではないが、彼等の親類や友人が終始ごろごろしているので、正確な数は判らない。(それでも百人を多くは越さないだろう。)だが、之は仕方がない。私は族長だ、ヴァイリマ部落の酋長(しゅうちょう)なのだ。大酋長は、そんな小さな事にかれこれ云うべきではない。それに実際、土人が何程いても其の食費は知れたものなのだから。うちの女中達が島民の標準よりは幾らか顔立が良いとかで、ヴァイリマをサルタンの後宮に比べた莫迦(ばか)がいる。だから金がかかるだろうと。明らかに中傷の目的で言ったには違いないが、冗談も良い加減にするがいい。このサルタンは精力絶倫どころか、辛うじて生きながらえている痩男(やせおとこ)だ。ドン・キホーテに比べたり、ハルン・アル・ラシッドにしたり、色んな事をいう奴等だ。今に、聖パオロになったり、カリグラになったりするかも知れぬ。又、誕生日に百人以上の客を招(よ)ぶのは贅沢(ぜいたく)だという人もある。私は、そんなに沢山の客を招んだ覚えはない。向うで勝手に来るのだ。私に、(或いは、少くとも私のうちの食事に)好意をもって来て呉れる以上、之も仕方が無いではないか。祝宴等の際に土人をも招ぶからいけない、などと言うに至っては言語道断。白人を断っても彼等を招んでやり度い位だ。其等凡(すべ)ての費用を初めから計算に入れて、尚、結構やって行ける積りだったのだ。何しろ斯(こ)んな島のこととて、贅沢はしようにも出来ないのだから。兎に角、私は昨年中に四千磅(ポンド)以上は書捲(かきま)くった。それでなお足りないのだ。サー・ウォルター・スコットを思う。突然破産し・次いで妻を失い・絶えず債鬼に責められて機械的に駄作を書き飛ばさねばならなかった・晩年のスコットを。彼には、墓場のほかに休息は無かった。

 又も戦争の噂。実に煮え切らないポリネシア的な紛争だ。燃えそうでいて燃えず、消えかかっていて、猶(なお)、くすぶっている。今度も、ツツイラの西部で酋長等の間に小競合があったばかりだから、大した事はなかろう。

一月××日
 インフルエンザ流行。うち中殆どやられる。私の場合には余計な喀血(かっけつ)まで伴って。
 ヘンリ(シメレ)が実に良く働いて呉れる。元来サモア人は極く賤(いや)しい者でも汚物を運ぶことを嫌うのに、小酋長たるヘンリが毎晩敢然と汚物のバケツを提げては蚊帳(かや)をくぐって捨てに行っていた。みんなが大抵快(よ)くなった今、最後に彼に感染したらしく、熱を出している。近頃彼のことを戯れにデイヴィ(バルフォア)と呼ぶことにしている。
 病中、又新しい作品を始めた。ベルに書取らせる。英国に捕虜となった一仏蘭西(フランス)貴族の経験を書くのだ。主人公の名がアンヌ・ド・サント・イーヴ。それを英語読みにして「セント・アイヴス」と題しようと思う。ローランドソンの「文章法」と、一八一〇年代の仏蘭西及びスコットランドの風俗習慣、殊に監獄状態に就いての参考書を送って呉れるよう、バクスタアとコルヴィンとに頼んでやる。「ウィア・オヴ・ハーミストン」にも「セント・アイヴス」にも、両方に必要だから。図書館の無いこと。本屋との交渉に手間どること。此の二つには全く閉口する。記者に追いかけられる煩わしさの無いのは良いが。

 政務長官も、裁判所長(チーフ・ジャスティス)も辞職説を伝えられながら、アピア政府の無理な政策は依然変らない。彼等は、税を無理に取立てるために、軍隊を増強してマターファを追払おうとしているようだ。成功するにしても、しないにしても、白人の不人気、人心の不安、この島の経済的疲弊は加わる一方である。
 政治的な事に立入るのは煩わしい。此の方面に於ける成功は、人格毀損(きそん)以外の如何なる結果をも齎(もたら)さない、とさえ思う。…………私の政治的関心(この島に於ける)が減った訳ではない。ただ、長く病臥(びょうが)し喀血などすると、自然、創作に割く時間が制限されるので、此の上にも貴重な時間をとる政治問題が少々うるさくなることがあるのだ。しかし、気の毒なマターファのことを考えると、じっとしていられないような気がする。精神的援助しか与えることの出来ぬ腑甲斐なさ! だが、お前に政治的権力があるとすれば、一体どうしてやり度いのだ? マターファを王にする? 宜しい。そうなればサモアは立派に存続できると思っているのか? 哀れな文学者よ。お前は本当にそう信じているのか? それとも、近い将来に於けるサモアの衰亡を予想しながら、唯感傷的な同情をマターファに注いでいるに過ぎないのか? 最も白人的な同情を。
 コルヴィンからの手紙の中に、私の書信が余りに何時も「君の黒色人及び褐色人(ブラックス・アンド・チョコレーツ)」のことを書き過ぎる、と言って来ている。ブラックス・アンド・チョコレーツに対する関心が私の制作時間を奪い過ぎては困るという・彼の気持は解らぬことはない。しかし結局、彼(並びに他の在英の友人達)には、私が私のブラックス・アンド・チョコレーツに対して如何に親身な気持を有(も)っているかが本当には解っていないのだ。この事ばかりでなく、他の一般に就いても、四年間も会わないで全然違った環境に身を置いている中に、彼等と私との間に、越え難い溝が出来ているのではないか? 此の考は恐ろしい。親しい者が長く離れているのは良くないことだ。泣き度い程会いたく思いながら、会った途端に、案外、双方ともあじきなく此の溝を意識しなければならぬのではないか? 恐ろしいが、之は本当かも知れぬ。人は変る。刻々に。我々は何たる怪物であるか!

二月××日 シドニイにて
 自分で自分に休暇を与え、五週間位の予定でオークランドからシドニイヘ遊びに来たのだが、同行のイソベルは歯痛、ファニイは感冒、自分は感冒から肋膜炎(ろくまくえん)。何のために来たのだか解らぬ。それでも当市では、プレスビテリアン教会総会と芸術倶楽部(クラブ)と、都合二回講演をした。写真を撮られ、像牌(メダリヨン)を作られ、街の通りを歩けば、人々が振返って私を指さし私の名をささやく。名声? 変なものだ。曾(かつ)て自分がそれに成上ることを卑しんだ名士に、何時しか成上っているのか? 滑稽(こっけい)な話だ。サモアでは、土人の眼からは、大邸宅に住む白人酋長。アピアの白人連にとっては、政策上の敵か味方か、いずれかだ。その方が遥かに健全な状態だ。此の温帯地の・色彩の褪(あ)せた幽霊然たる風景と比べる時、我がヴァイリマの森の、何という美しさ! 我が・風吹く家の、何たる輝かしさ!
 此の地に隠退している、ニュージーランドの父、サー・ジョージ・グレイに会った。政治家嫌いの私が彼に面会を求めたのは、彼が人間であることを――マオリ族に最も博大な人間愛を注いだ人間であることを信じたからだ。会って見ると、果して立派な老人だった。彼は実に良く土人を――その微妙な生活感情に至る迄、知っている。彼は真にマオリ人の身になって、彼等のことを考えてやった。植民地総督として全く異例のことだ。彼は、マオリ人に英人と同等の政治上の権力を与え、土人代議士の選出を認めた。そのため白人移民に欣(よろこ)ばれず、職を辞したのである。しかし、彼の斯うした努力のお蔭で、ニュージーランドは今最も理想的な植民地になっているのだ。私は彼に、サモアで自分のしたこと、しようと欲したこと、其の政治的自由に就いては自分の力の及ぶ所でないとするも兎に角、土人の将来の生活、その幸福の為に今後も尽くそうとしていること等を語った。老人は一々共鳴し、激励して呉れた。曰(いわ)く、「決して絶望するものではない。私は、如何なる場合にも絶望が無用であることを真に悟る迄長生した少数者の一人なのだ。」と。自分も大分元気になった。俗悪を知り尽くして、尚、高きものを失わない人間は、貴ばれねばならぬ。

 木の葉一枚をとって見ても、サモアの脂ぎった盛上るような強い緑色と違って、此処のは、まるで生気のない・薄れかかったような色に見える。肋膜(ろくまく)が治り次第、早く、あの・空中に何時も緑金の微粒子が光り震えているような・輝かしい島へ帰りたい。文明世界の大都市の中では窒息しそうだ。騒音の煩わしさ! 金属のぶつかり合う硬い機械の音の、いらだたしさ!

四月×日
 濠洲(ごうしゅう)行以来の私とファニイとの病気も漸(ようや)く治った。
 此の朝の快さ。空の色の美しさ、深さ、新しさ。今、大いなる沈黙は、ただ遠く太平洋の呟きによって破られるのみ。
 小旅行と引続いて病気をしている間に、島の政治情勢はひどく急迫して来ている。政府側のマターファ或いは叛乱者側に対する挑戦的態度が目立って来た。土人の所有せる武器を凡(すべ)て取上げることになるだろうという。今や政府側の軍備が充実したに違いない。一年前と比べて、情勢はマターファに著しく不利だ。役人達・酋長(しゅうちょう)達に会って見ても、戦争を避けようと真面目に考えている者がないのに驚かされる。白人官吏は之を利用して自分等の支配権の拡充を考えるだけだし、土人、殊にその青年共は戦争と聞いただけで、ただもう興奮して了う。マターファは案外落着いている。彼は形勢の不利を自覚していないのだ。彼も、彼の部下も、戦争を、自分等の意志を離れた一つの自然現象と考えているようだ。
 ラウペパ王は、彼とマターファとの間に立とうとする私の調停を斥(しりぞ)けた。面と向っている時は極めて愛想の良い男だのに、会わないでいると、直ぐ斯(こ)うだ。彼自身の意志でないことは明らかだが。
 ポリネシア式の優柔不断が戦争を容易に起させないであろうことを唯一の頼として、拱手(きょうしゅ)傍観している外はないのか? 権力を有(も)つのは善い事だ。もし、それが、それを濫用しない理性の下にある時は。

 ロイドに手伝わせながら「退潮(エッブ・タイド)」遅々として進行中。

五月×日
「退潮(エッブ・タイド)」に苦吟。三週間かかって、やっと二十四頁。それも全部に亘って、もう一度書直しを要するのだ。(スコットの恐るべき速さを考えると厭(いや)になる。)第一、これは作品としても下(くだ)らぬものだ。昔は、前日書いた分を読返して見るのが楽しかったのに。

 マターファ側の代表者が政府と交渉の為、毎日マリエからアピアヘ通(かよ)っていると聞いて、彼等をうちへ引取って、此処から通わせることにした。毎日往復十四哩(マイル)では大変だから。但し、この事によって、私は今や公然と叛乱者側の一員と認められるようになった。私への書簡は一々チーフ・ジャスティスの検閲を受けねばならぬ。
 夜、ルナンの「基督(キリスト)教の起原」を読む。素晴らしく面白い。

五月××日
 郵船日だというのに、やっと十五頁分(「退潮(エッブ・タイド)」)しか送れない。もう此の仕事は厭になった。スティヴンスン家の歴史でも又続けようか? それとも、「ウィア・オヴ・ハーミストン」? 「退潮(エッブ・タイド)」には全く不満だ。文章に就いて云っても、言葉のヴェイルがあり過ぎる。もっと裸の筆が欲しい。
 収税吏に新宅の税を督促さる。郵便局へ行き、「島の夜話」六部を受取る。挿絵を見て驚いた。挿絵画家は南洋を見たことがないのだ。

六月××日
 消化不良と喫煙過多と、金にならぬ過労とで、全く死にそうだ。「退潮(エッブ・タイド)」百一頁迄漸く辿(たど)りつく。一人の人物の性格がはっきり掴(つか)めない。それに近頃は文章に迄苦労するんだから、話にならぬ。一つの文句に半時間かかる。色々な類似の文句を無闇に並べて見ても、中々気に入るのが見付からない。斯んな莫迦(ばか)げた苦労は、何ものをも産みはせぬ。くだらぬ蒸溜(じょうりゅう)だ。
 今日は朝から西風、雨、飛沫(しぶき)、冷々した気温。ヴェランダに立っていたら、ふと、或る異常な(一見根拠のない)感情が私を通って流れた。私は文字通り、よろめいた。それから、やっと説明がついた。私は、スコットランド的な雰囲気とスコットランド的な精神や肉体の状態を見出したからだと悟った。平生のサモアとは似てもつかない・この冷々した・湿っぽい・鉛色の風景が、私を何時しか、そんな状態に変えていたのだ。ハイランドの小舎。泥炭の煙。濡れた着物。ウイスキイ。鱒の躍る渦巻く小川。今此処から聞えるヴァイトゥリンガの水音までが、ハイランドの急流のそれの様な気がして来る。自分は何の為に故郷を飛出して、こんな所迄流れて来たのか? 胸を締めつけられる様な思慕を以て遠くからそれを思出すために、か? ひょいと、何の関係もない・妙な疑念が湧いた。自分は今迄何か良き仕事を此の地上に残したか? と。之は怪しいものだ。何故又私は、そんな事を知りたいと望むのか? ほんの僅かの時が経てば、私も、英国も、英語も、わが子孫の骨も、みんな記憶から消えて了うだろうに。しかも――それでも人間は、ほんの暫しの間でも人々の心に自分の姿を留めて置きたいと考える。下らぬ慰みだ。…………
 こんな暗い気持にとりつかれるのも、過労と、「退潮(エッブ・タイド)」の苦しみとの結果だ。


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